「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 臺村
○臺村〔駄伊牟良〕 山崎村より分れしと云、されど【北條役帳】にも此地名見えたれば、永祿巳前既に分折せしと知らる、小坂郷に屬せり、江戸より行程十二里、東西十七町餘、南北六町許〔東、山之内村、西、戸部川を隔て岡本村、北、小袋谷村、山崎村、艮、大船村、〕民戸六十一、藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず〔巾二間より四間に至る〕又戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り〔巾六尺〕村界にて前路に合す、貞享元年國領半兵衞重次檢地す〔右檢地は慶安以前成瀨五左衞門重治改し云〕當村古は松石齋の知行なりしを、松田助六郎・關彌次郎等買得せしこと【北條役帳】に見え〔曰、町田助六郎・買得六十貫三百六十文、臺之村、元松石齋知行、又曰、關彌次郎、買得六十貫三百六十文、臺之内元松石齋知行、〕今石野新左衞門・別所小三郎の知る所なり〔古は御料所、元祿十一年、石野・別所兩氏に頒ち賜ふと云ふ、〕
[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年。室町幕府将軍は第十三代足利義輝・足利義栄(よしひで)・足利義昭。
「十二里」約四十七キロメートル。
「東西十七町餘」東西凡そ二キロメートル。現在の鎌倉市台は北西の柏尾川右岸から南東の山ノ内との境まではまさに二キロメートルある。
「南北六町許」南北凡そ六百五十五メートル。試みに、現在の台の中央部に当たる「台」のバス停付近から山崎小学校裏手の山崎との境までを南北に計測すると六百メートル強ある。
「艮」東北。
「巾二間より四間」道幅三・七メートルから七・二七メートル。
「巾六尺」道幅一・八メートル。これが現行の鎌倉街道であるが、こちらは意外なことに異様に狭いことが判る。
「貞享元年」一六八四年。江戸幕府第五代徳川綱吉の治世。
「國領半兵衞重次」山崎村で既注。当時、藤沢宿代官。
「慶安」一六四八年から一六五一年。第三代将軍徳川家光と第四代家綱の頃。
「成瀨五左衞門重治」やはり山崎村で既注。藤沢宿代官。
「松石齋」不詳。
「松田助六郎」天正十八年は一五九〇年。既に述べた通り、「北條役帳」は「小田原衆所領役帳」のことと思われ、北条氏康が作らせた一族家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳で、後北条氏が永正一七(一五二〇)年から弘治元(一五五五)年にかけて領国内(ここ一帯も北条領であった)に於いて数度の検地を実施し、それに基づいて分限帳が作成されたものと考えられている。ブログ「歴探」の「天正十八北条氏直、松田助六郎に、討死した父右兵衛大夫の名跡を継がせる」に同姓同名の人物が出るが、天正十八年は一五九〇年で時代が合わないから違う。
「關彌次郎」不詳乍ら、本「新編相模国風土記稿」巻之四十六の「村里部 大住郡」の巻之五の「新土村」の項に、
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北條氏の頃は關彌次郎知行せり〔役帳曰、【役帳】曰、關彌次郎廿五貫四百文、中郡新土・今里此内十七貫百文、癸卯増分 按ずるに、癸卯は天文十二年なり〕
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と出、天文十二年は一五四三年であり、この人物と同一人かと思われる。
「石野新左衞門」不詳。
「別所小三郎」不詳。上記の石野ともに「今」とあるから、幕末の人間でなくてはならない。前者の名前は二件の幕末の古文書目録に見出せるが、同一人物かはどうかは不明。
「元祿十一年」一六九八年。]
○高札場二
〇小名 △市場〔毎月五日・十日、此所に市立て、諸物を交易す、右は紅花のみを鬻ぎしとなり、按ずるに、足柄下郡板橋村、舊家藤兵衞の家藏、天正十四年十二月、江雪の奉書に、市場新宿と見えしは、此地なるべし、この文書は、藍瓶役の税錢不納により、其村々に課する所にて、地名の次第、原宿、市場新宿粟船とあり共に近隣の地名なり、〕
[やぶちゃん注:「市場」「かまくら子ども風土記」(第十三版・平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会発行・鎌倉市教育センター編集)によれば、現在もこの「市場」という地名が残り、台の「市場公会堂」が建つ。そこは『「北鎌倉駅」から山ノ内通りを大船方面に向かって』七百メートルほど『行ったところで』、紅花以外にも『武将の使う優れた馬の市が立つこともあったといわれてい』るとある。因みに、この「かまくら子ども風土記」シリーズは何冊も持っているが、ジャリ版などと侮ってはいけない。「鎌倉市史」に書かれていない事柄が、より最新の知見で書かれているからである。古い版などは私の小学校時代の担任だった先生の名がずらりと並ぶ。
「右は」前に「諸物を交易す」とあるのと矛盾する。これは「古は」(いにしへは)の誤植ではあるまいか?
「紅花」は紅色の染料の原材料となるキク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ
Carthamus tinctorius である。
「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋地区。箱根登山鉄道「箱根板橋駅」周辺で、早川に面し、旧東海道も通る。
「天正十四年」一五八六年。
「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。「役」とは後の税金未納からは染色職人の元締め役を指すか。
「粟船」現在の大船の古称である。]
○戸ヶ崎山 隣村山崎村天神山に相對す〔登一町許〕
[やぶちゃん注:現在の「水道山」(台四の附近)のこと。この山の西斜面からは縄文中期から古墳時代後期に至る住居跡が発見されているが、現在は宅地化されてしまった。
「一町」一〇九メートル。]
○戸部川 西界を流る〔巾十二間〕橋を架す、戸部橋と唱ふ〔長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、〕東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ〔幅一間より三間に至る〕西方にて此川に注ぐ、
[やぶちゃん注:柏尾川の別称。既注。
「十二間」二十一・八メートル。氾濫原を含めた川幅であることが次の戸部橋の長さから判る。
「八間餘」十四・五メートル。
「東隣山之内村より來たる一流」鎌倉市山之内西瓜ケ谷附近の住宅地を水源とする小袋谷川(こぶくろやがわ)。戸部橋の直近で柏尾川に合流する。
「幅一間より三間」現在の北鎌倉駅付近で一・八メートル、柏尾川との合流地点で凡そ五・五メートルの謂いで、現在の小袋谷川とほぼ一致するように思われる。]
○稻荷社 山神・山王を合祀す、村持下同、
[やぶちゃん注:現在の台の南の、山崎との境界に近い山腹にある。現在は稲荷神のみを祀っている。]
〇八幡宮 神明・春日を合祀す、以上二社共に村の鎭神とす、
[やぶちゃん注:これは現在の神奈川県鎌倉市台二〇四四(台地区は横須賀線の東北側に張り出しているが、その線路を渡った向こう側の山ノ内との境にある通称を「小八幡さま」「小八神社」とする八幡神社である。神奈川神社庁公式サイト内のこちらによれば、『元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉、小坂郷台村を石野、別所両人に領ち賜う。別所氏の領地は藤沢、鎌倉間。及び戸塚、鎌倉間の要路に当れるを以て、毎月五、十日の両日に市を立て諸物を売買交易し漸時股賑を来たし、小名を市場と称するに至りき、ここに領主別所氏享保二〇年(一七三五)八月十一日を吉日と撰び、字亀井なる高地を神地と定め平素敦く尊信せし石清水八幡宮を勧請し鎮守とす。「相模風土記」に「稲荷社、八幡宮二社ともに村の鎮守とす。とあるは当八幡神社を言えるなり」とある。又「神明、春日を合祀す」とも記されている』。『社殿は関東大震災で全潰し、大正十五年十二月十日、再建し現在に至る』とある。前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、先の市場(直近にあった)の鎮守であったとある。]
○神明宮
[やぶちゃん注:現在の台四にある通称「台のお宮さん」「お伊勢さん」と呼ばれる神明神社。前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、戦国時代の元亀年間(一五七〇~一五七三年)に山ノ内で疫病が流行した際、村人が伊勢神宮にお参りして天照大神を移し、疫病退散を祈念したと伝え(別伝承もあり)、旧社殿は慶安元(一六四八)年に火災で焼失、その後承応三(一六四五)年に再建され、嘉永七(一八五四)年に改築されたものとある。]
○諏訪社
[やぶちゃん注:岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「神明神社」によれば、前の神明宮に合祀されたとある。]
○第六天社
[やぶちゃん注:同じく前注のサイト記事に、やはり前の神明宮に合祀されたとある。]
○東溪院 德藏山と號す、臨濟宗〔足柄下郡湯元村早雲寺末、〕彌陀を本尊とす、
[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、延宝八(一六八〇)年に豊後の岡藩第三代藩主中川久清(ひさきよ 慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)に娘の供養のために建てた位牌堂であったが、明治八(一六八〇)年に廃絶されたとある。現在の山ノ内にある光照寺(優れた板碑があり、近年は隠れたあじさい寺なんどとも呼ばれる)の山門はこの寺のそれを移して建てたとも伝えられ、この寺の本尊であった釈迦如来坐像も光照寺にあると記す。]
○觀音堂 正觀音を安ず、村持下同、
[やぶちゃん注:前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、先に出た「小八幡さま」に登る石段の左側崖下に聖観音を祀ったお堂があり、地蔵菩薩も安置されていたが、藁葺の古い建物で台地区の所有となっていたが、昭和四〇(一九五五)年頃に壊されたとある。]
○菴 龜井堂と呼ぶ、彌陀を置、
[やぶちゃん注:現存しない。「鎌倉廃寺事典」の「その他」に、ただ『亀井堂 台、村持。本尊阿弥陀』一行あるのみで、現在の例えばサイト「いざ鎌倉」の「鎌倉郡三十三箇所」にある「鎌倉三十三観音霊場」には第十三番に「亀井堂」とあるが、そこには所在地が「鎌倉市台(市場公会堂)」となっている。この「龜井堂」には観音菩薩像もあり、それが今、市場公会堂に安置されているということになるようだが、本当にそうだろうか? 寧ろ、前の「觀音堂」の観音像がここに置かれていると考えるのが自然だと思うのであるが?]
○地藏堂
[やぶちゃん注:恐らくはこれも現存しない。前掲の「かまくら子ども風土記」にある『台地蔵堂跡(台公会堂)』というのがそれであろう。『室町時代の作と見られる地蔵菩薩像が』二体あり、一体は高さ六十八センチメートル、今一体は約三十四センチメートルのもので『現在は鎌倉国宝館に保管されて』おり、現在、この場所は『台公会堂になってい』る(前に出た市場公会堂とは別で、横須賀線(市場公会堂直近)を挟んで南西四百二十メートルの位置にある)とある。]
○塚三 熊野塚〔東北陸田間にあり上に松樹生ず〕富士山〔西北山上にあり、〕平塚〔村西にあり、何れも小塚なり、〕と唱ふ
[やぶちゃん注:孰れも不詳で現存しないと思われる。この内、「熊野塚」なるものは「東北陸田間にあり」とあることから、台地区の形状から見て、所謂、現在の小袋谷踏切の東北に張り出す部分、今の「台亀井公園」周辺のどこかとは推理し得る。また「富士山」は「西北山上」とあるのが、現在の地名である「富士見町」と方向も合致するので、この附近のピークかとは推測出来る。或いは、土地の人々が本物の富士の見えるそこに、富士講でミニチュアを作ったものかも知れない。]
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