小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十四)
二四
自分がオコリ(瘧即ち間歇熱)、その輕い種類のは或る季節に或る地方に流行るが、そのオコリの原因に就いての異常な迷信を初めて耳にしたのは隱岐に居た時であつた。がこの妙な信仰は、出雲及び山陰道の多くの地方に、古くからある信仰だといふことを、後に知つた。これはあらゆる神祕を説明するのに佛教を用ひた、その用ひ方の珍らしい一例である。
オコリはガキボトケ即ち飢餓に苦しんで居る精靈が起こすのだと言はれて居る。嚴密に云へばガキボトケは印度佛教のプレタで、即ち永久の飢渇の苦界たる餓鬼道に止まるやう處罰された靈魂である。が、日本の佛教では、ガキといふ名は、生存者中にそのものを記憶して居る者が一人も無い、從つておきまりの食物や茶の供物をして呉れる者の無い靈魂にも與へられて居る。
さういふ靈魂は苦しいから、生者の體内へ入つて暖みと滋養とを得ようとする。ガキに這入られる人は、ガキは冷たいものだから、初め非常に寒く感じて震へる。が、その寒氣(さむけ)の次に餓鬼が暖くなると、烈しい熱を感ずる。自分では嫌に思つて居る、その宿主のお蔭で暖たまつで滋養を吸ひ取つてしまうとその餓鬼は出て行く。で、熱は一時(いつとき)歇む。だが別な日に、丁度同じ刻限に、餓鬼は歸つて來るので、その犧牲者はその取つ附く奴が暖くなつて、その餓を滿足してしまふ迄は震へたり燃えたりしなければならぬ。その患者へ毎日遣つて來る餓鬼もあり、一日置きに或はもつと間遠に遣つ來る餓鬼もある。筒單に言へば、如何なる種類の間歇熱も、その發作は餓鬼が居るからで、發作々々の間はそれが居ないからだと説明されて居るのである。
[やぶちゃん注:「オコリ(瘧即ち間歇熱)」「第十六章 日本の庭(一二)」で既注。
「ガキボトケ」「プレタ」「第八章 杵築――日本最古の社殿(二)」で既注。
「オコリはガキボトケ即ち飢餓に苦しんで居る精靈が起こす」これは例えば既に鎌倉時代の橘成季の「古今著聞集」(原型は建長六(一二五四)年に成立)の「卷第十七 変化」の日本古典文学大系通し番号の第「五九六」話の「水餓鬼、五宮の御室の許にあらはれたる事」にそれを永遠に喉の渇き続ける餓鬼の一種である水餓鬼(みずがき)自らが語っている(下線部)。新潮日本古典集成版を恣意的に正字化して示す。
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五宮の御室、しづかなる夕(ゆふべ)、ただいま御手水(てうづ)めして、ただ一所おはしましけるに、御簾をかゝげて、長(たけ)一尺七八寸ばかりなるものゝ、足一(ひと)つあるが、かほ・すがたさすが人のやうなりながら、かはほりのつらに似たる參りて、御前に候ひけるを、「あれはなにものゝ容態(ようだい)ぞ」と仰られければ、「をのれは餓鬼にて候ふなり。水にうゑたる事たへがたく候。世間に人のわづらひあひ候ふおこり心地と申し候ふ事は、おのれがいたす事に候。われと水を求め候へば、いかにも得がたく候ひて、人につきてそれが飮み候ふに飢ゑをやすめ候ふなり。しかあるをもろもろの人、君に申し候ひて、御手跡にても御念珠にてもをたまはり候ひて、身にふれ候ふものは、われにをかさるる事候はず。まして御加持など候ひぬれば、あたりへだにもよらず候。これにより候ひて水のほしう候ふ事たへしのぶべくも候はず。たすけさせおはしませ」と申ければ、いとをしくおぼしめして、「まことに聞くがごとくならば、不便なる事也。これより後こそ其心を得め」とて御盥(たらひ)にみづから水を入させ給ひてたまはせければ、うちうつぶきて、よによげにすばずばとみな飮みてけり。「なほほしきか」と問はせ給へば、「すべてあくときなく候」と申しければ、水生の印を結ばせ給ひて、御指を一口にさしあてさせ給へば、うれしげに思ひて、すいつき參らせけり。さるほどに、その御指より次第に御苦痛ありて御身までせきのぼれば、はらひすてさせ給て、火印をむすばせたまひければ、御心地もとのごとくならせ給にけり。
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この「五宮の御室」とは「ごみやのおむろ」と読み、平安後期の鳥羽天皇第五皇子で仁和寺第五世門跡となった覚性(かくしょう)入道親王(大治四(一一二九)年~嘉応元(一一六九)年)であるから、こうした瘧の餓鬼起因説は既にして平安の後記には一般的であったと考えてよかろう。「長一尺七八寸」背丈(但し、一本足)凡そ五十二~五十四・五センチメートルほど。「水生」(「すいしやう(すいしょう)」と読んでおく)及び「火印(くわいん)」は、真言密教に於いてそれぞれ水と火熱を自在に操る印形(いんぎょう)。ここに出る「水餓鬼」なる変化(へんげ)はしばしば説話集や怪奇談の中に出、驚くべき量の水を飲んで飽きることがないと記され、諺にも「餓鬼の目に水見えず」(餓鬼は常に咽喉が渇き過ぎていて判断力を喪失しており、逆に側に水があっても気づかないという伝承から、熱望する余り却って求めるものが身近にあることに気づかぬことの譬えとして用いられるように、永遠の咽喉の飢渇というのが極めて一般的な「餓鬼」全体の属性であることが判る。ウィキの「餓鬼」には「水餓鬼」の記載はないが、「正法念処経」に載る三十六種の餓鬼を挙げている中に、「食水(じきすい)」餓鬼がおり、『水で薄めた酒を売った者、酒に蛾やミミズを混ぜて無知な人を惑わした者がなる。水を求めても飲めない。水に入って上がってきた人から滴り落ちるしずく、または亡き父母に子が供えた水のわずかな部分だけを飲める』とあり「曠野(こうや)」餓鬼は、『旅行者の水飲み場であった湖や池を壊し、旅行者を苦しめた上に財物を奪った者がなる。猛暑の中、水を求めて野原を走り回る』とある。他にも「無食(むじき)」餓鬼と称し、『自分の権力を笠に着て、善人を牢につないで餓死させ、少しも悔いなかった者がなる。全身が飢渇の火に包まれて、どんなものも飲食できない。池や川に近づくと一瞬で干上がる、または鬼たちが見張っていて近づけない』という悩ましい餓鬼の具体な個別罪因とまたまた具体な処罰内容が記されている。実に面白い。お読みあれ。]
ⅩⅩⅣ.
It was in Oki that I first heard of an
extraordinary superstition about the cause of okori (ague, or intermittent
fever), mild forms of which prevail in certain districts at certain seasons;
but I have since learned that this quaint belief is an old one in Izumo and in
many parts of the San-indō. It is a curious example of the manner in which
Buddhism has been used to explain all mysteries.
Okori is said to be caused by the
Gaki-botoke, or hungry ghosts. Strictly speaking, the Gaki-botoke are the
Pretas of Indian Buddhism, spirits condemned to sojourn in the Gakidō, the
sphere of the penance of perpetual hunger and thirst. But in Japanese Buddhism,
the name Gaki is given also to those souls who have none among the living to
remember them, and to prepare for them the customary offerings of food and tea.
These suffer, and seek to obtain warmth and
nutriment by entering into the bodies of the living. The person into whom a
gaki enters at first feels intensely cold and shivers, because the gaki is
cold. But the chill is followed by a feeling of intense heat, as the gaki
becomes warm. Having warmed itself and absorbed some nourishment at the expense
of its unwilling host, the gaki goes away, and the fever ceases for a time. But
at exactly the same hour upon another day the gaki will return, and the victim
must shiver and burn until the haunter has become warm and has satisfied its
hunger. Some gaki visit their patients every day; others every alternate day,
or even less often. In brief: the paroxysms of any form of intermittent fever
are explained by the presence of the gaki, and the intervals between the paroxysms
by its absence.
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