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2015/12/17

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (五) / 第二十六章~了

――遂に私の「知られぬ日本の面影」電子化注は、残り一章のみとなった。

*  
 
       五

 

 私がこんな事を書いて居ると、或京都の一夜の事が幻のやうに浮んで來る。名は思出せないが、どこか不思議に人ごみのする、明るい道を亙つて居る間に、私は大層小さいお寺の入口の前の地藏を見にわきへ曲つた。その像は美はしいお寺の皺僧の形であつた、そしてその微笑は神々しい寫實の物であつた。私は眺めながら立つて居ると、多分十歳程幼い少年が私のわきへ走りよつて、その像の前に小さい手を合せ、頭を下げてしばらく默禱した。幾人かの朋友から離れて來たばかりで遊びの樂しさ面白さが未だ顏に殘つてゐた。その無意識の微笑は石の雛僧の微笑と不思議に似て居るので、その小兒は地藏と双生兒のやうに見えた、そこで私は考へた、『唐金や石の微笑はただの寫生ではない、それによつて佛師の象徴して居るものはこの種族の微笑の意味であるに相違ない』

 それは昔の事であつた、しかしその當時浮んだ考は今もやはり私には本當と思はれる。佛教美術の源は如何に日本の土地に親しみがなくとも、それでも日本人の微笑は菩薩の微笑と同じ思想、即ち、自己抑制と自己征服から生ずる幸福を表はして居る。『戰場に於て千々の敵に克つよりは獨り己に克つもの、彼こそ最上の戰勝者なれ』『天も魔王も梵天もこの常に己を御し自ら制する人の勝利を轉じて敗亡となすこと能はず』【註四】こんな佛教の文句は澤山ある、そしてこんな文句は日本人の性格の最高の美點である道德的傾向を創造したと假定する事はできぬが、たしかに表はして居る。そして日本人種の道德的理想主義は凡て鎌倉のあの驚くべき大佛の像になつて居るやうに思はれる、あの容貌は『深い靜かな水のやうに落ちついて』【註五】人間の手でできたどんな外の作品も表はす事のできぬやうに『寂滅に勝れる樂あるなし』【註六】と云ふ永久の眞理な表はして居る。東洋の向上心はその無限の平靜の方へ向つて居るのである、そして無上の自己征服の理想を自分の理想として居る。今日でも表面は、早晩根抵までも動かすに相違ない新影響のために動搖して居るが、日本人の心は西洋の思想と比べては驚くべき平靜を保つて居る。日本人は私共が最も氣にして居る究極の抽象的問題をたとへ念頭に置いて居るにしてもそれは極めて少い。なほ又私共が會得される事を望むやうに、日本人は私共のそれ等の問題に關する興味を會得しない。或日本の學者は一度私に云つた。『君が宗教的研究に無頓着で居られないのは、全く自然であるが、私共がそれに對して餘り心を勞しないのも同じく自然である。佛教の哲學は君達の西洋の神學よりも遙かにすぐれた深さをもつてゐて、私共はそれを研究して居る。私共は思想の深さを測つて、その深い底の下に測り知られない深さのある事を見出すばかりである。私共は思想の力で達し得べき最も遠い境まで航海したが、地平線が永久に退却する事を見出すばかりである。しかし、君達は、何千年以來、海を知らないで、いつも川の中で遊んで居る子供等のやうである。只君達は今私共の途と違つた途でその岸に達した、そしてその渺茫たる物は、君達にとつては新しい驚異である。そして君達は、人生の砂の上の無窮を見たから、無何有之郷へ航海するであらう』

 

    註四。Dhammapada. 法句經、
    
この譯文は國譯大藏經による。

    註五。Dammikkasutta. 法行經。

    註六。Dhammapada. 法句經。

 

 千年以上の昔、日本は支那の文明を消化して、しかも、特有の思想感情の法式を保存したやうに、西洋の文明を消化する事はできるであらうか。一つ著しく有望な事實がある。それは日本人の西洋の物質的優勝に對する讃嘆は西洋の道德までは決して及んでゐない事である。東洋の思想家は機械的の進歩と倫理上の進歩とを混同したり、私共の自慢の文明の道德的弱點を認めなかつたりするやうな重大な誤りはしない。或日本の記者は西洋の事物に關する判斷を、もとの讀者よりももつと廣い範圍の讀者に讀まれる價値があるやうな風に書いて居る、――

 

 『國民の秩序と不秩序とは空から下る物や地から出る物によるのではない。それはその人民の氣質によつて定まるのである。公衆の氣質が秩序と不秩序の方へ向ふその要は、他利的及ひ自利的動機の分れる點である。もし公衆が重に他利的の考慮によつて動かされる場合には、秩序は保たれるが、自利的であれば、亂雜は免れない。他利的考慮とは正しく義務を守る念を起させるやうな考慮を云ふ、それが行はれると家庭にあつても、社會にあつても、國家にあつても、平和と繁榮を來す。自利的考慮とは利己的な動機から出て來る考慮である。それが力を得ると、爭亂と紛擾は避け難い。家庭の一員としては、私共の義務はその家庭の善福を求むる事であり、國家の一員としては、國家のために働く事である。私共の家族に對してそのためになるやうにとの考を以て家族の事を考へる事、國家に對して、そのためになるやうにとの考を以て國家の事を考へる事、――これは適當に私共の義務を果し、公共的の念慮によつて導かれる事になる。それに反して、國家の事を自分の家庭の事のやうに考へる事、――これは自己的な動機に動かされて、義務の途から離れる事になる。……

 利己主義は生れつき誰にでもある、それに自由に耽る事は動物になる事である。それ故聖人は義務と中庸と正義と道德の道を説いて、利己の目的を抑へる事と公共の念を勵ます事を教へたのである。……私共は西洋文明について知つて居る所では、その文明は数百年の間亂雜な狀態で悶えながら進んで、最後に多少の秩序ある狀態に達したのであるが、この秋序と雖も君主と臣下、親と子の間の自然の不變の區別とそれに伴ふ權利義務の原理に基礎を置いてゐないから、人間的野心と目的の發達と共にたえざる變化に影響され易い。利己的野心によつてその人の行爲が支配されるやうな人には至極適當して居るので、日本に於て或種類の政治家が、この制度を採用しようと努めたのは當然である。淺薄な見方から云へば、西洋の社會の形は非常に好もしい、即ち昔から人問の欲望の發達の結果であるから、その社會の形は奢侈と贅澤の丁度極端を表はして居る。略言すれば、西洋で到達する事物の狀態は人類の利己に義を充分に發揮する事を基として居る、それでその性質を充分に發揚して始めて達せられる。社會の不穩は西洋では念頭に置かれない、しかも、それが直ちに現在の惡い社會狀態の證據であり、又要素でもある。……西洋事物を好む日本人は、同一の條件で日本の歷史を書きたいと主張するのであらうか。彼等は本氣でその國を西洋文明の實驗の新天地としようと考へて居るのであらうか。……

 『東洋では昔から、その國の政府は仁を基として、人民の安寧幸福をはかる事に心を使つた。如何なる政治上の信條を有する者も、野卑無學を利用するために智力を磨くべきだと考へた者はなかつた。……この帝國の住民の大多數は手の勞働で整形を營んで居る。如何に勤勉でも日々の缺乏を充たすだけの儲けは容易には得られない。彼等は平均一日に二十錢ばかりを儲ける。立派な着物を着よう、宏壯な家に住まう、と望む事は問題にならない。名譽評判の地位に達する事は望めない。これ等の貧しい人々は、さらに西洋文明の利益を享けられない事は如何なる罪を犯したためであらうか。……彼等に欲望があつて彼等を向上させる事にならないからだと云ふ臆説で彼等の境遇を説明する者がある。こんな想像は不道理である。彼等も欲望はある、しかしそれを滿足させる力に限りがある、人間としての彼等の義務はそれを制限する、そして肉體的に人間に可能な勞働の分量はそれを限つて居る。機會の許す限り彼等は澤山の物を仕上げる。彼等の勞働の最上最優の物は富める人々のために保留して、最劣最下の物は自らの使用として殘す。しかも人類社會に於て勞働のおかげで存在しない者はない。一人の贅澤な人の欲望を滿足させるためには千人の勞働を必要とする。勞働のおかげで、彼等の文明から思ひついた快樂を享けて居る人人はそのおかげを忘れて勞働者を同胞人類でないやうな取扱をする事は全く奇怪千萬である。しかし西洋の解釋によれば、文明はただ大きな欲望の人々を滿足させる事になるだけである。それは大多數の人々のためにならない、ただ野心家がその目的を果すために競爭する制度に過ぎない。……西洋の制度は國の平和や秩序をひどく亂す物である事は眼ある人に見え、耳ある人に聞える事である。こんな制度の下に日本を置く事は私共をして心配にたへざらしめる。倫理と宗教が人間の野心に副ふやうに作られる主義を基とした制度は當然利己的な人間の欲望と一致して居る。そして自由平等と云ふ近代の信條に含まれたやうな説は社會のきまつた關係を破壞し禮儀禮節を滅却する。……絶對の自由絶對の平等は得られないから、權利と義務で定めた制限を置くやうに考へられて居る。しかし銘々ができるだけ多くの權利を求めて、できるだけ少い義務を負擔しようとするから、その結果はたえざる諍論と法律上の爭になる。自由平等の主義は、社會階級の區別を覆へして凡ての人々を一つの名ばかりの水平線にもつて行く事で、國家の組織を變へる事に成功するかも知れない、しかし、その主義は決して富と財産の平分をする事はできない。アメリカを見れば分る。……人及びその身分の權利が、富の程度によるやうに作られて居る時には、多數の人々は貧しいから、その權利を確立する事はできない、しかるに富んだ少數の人々はその權利を主張して、社會の認可の下に、仁義道德の命を顧みないで貧しい人々に對して壓制的な義務を要求するであらう。日本に於てこの自由平等の主義を採用する事は善良平和な風俗を害し、人民一般の氣質を苛酷不人情ならしめ、結局大多數の人には不幸の源となるものであらう。……

 『利己的欲望を滿足させる事に實際適して居るから一見して西洋文明は好もしく見えるが、しかしその根本は、人間の願望は自然の法則であると云ふ臆説に基して居るから、結局失望と道德頽癈に終るに相違ない。……西洋の諸國民は、最も深刻な種類の爭亂と興敗を經て、今日の狀態となつて居る、そしてその爭鬪を續けるのがその運命である。丁度今彼等の動機となる要素は幾分平均を保つて居るので、社會狀態は多少秩序を保つて居る。しかし一旦この危い平均の亂れる事があれば、新しい爭鬪と苦惱の時期を經たのち、一時の平靜がもう一度得られるまで、もう一度混亂と變動に陷るであらう。現在の貧しい人々や無力な人々は將來の富んだ人々強い人々となつて、その反對の人々はその逆になるであらう。永久の動亂は彼等の運命である。平和な平等は滅亡した西洋諸國の廢墟と絶滅した西洋の人々の屍の間に建てられるまでは決して到達される事はない』【註七】

 

    註七。 これは鳥尾(小彌太、得庵)

    子爵の名高い保守的論文を、一八九

    〇(明治二十三年)十一月十九日、

    『ジヤパン・メイル』が飜譯しての

    せし物の抄であるが、全體の力と論

    理が充分に表はれてゐない。その論

    文は全部引用するには長すぎる、そ

    して、『メイル』の立派な飜譯をどう

    云ふ風に拔いての文章の色々な部分

    を結合しても、その拔いたために、

    その文章の色々な部分を結合して居

    る倫理的宗教的及び哲學的推埋の鎖

    が弱くなる。さらにこの論文は西洋

    思想に全然影響されない、日本の學

    者の發表した物として注目に値する。

    彼は新しい議會の開會以來日本に起

    つた社會上政治上の動亂を正しく豫

    言した。鳥尾子爵は又佛教哲學者と

    して名高い。日本陸軍では高い位地

    の人である。

 

 たしかに、このやうな知覺を以て、日本は自分を嚇かす社會的危險を幾分避けられるであらう。しかし日本に將に來らんとする變化は、道德的衰亡を來す事は避けられないやうに思はれる。その文明が愛他主義に基づいてゐない諸國民と、大きな産業上の競爭をせねばならなくなつたので、日本は、これまでそれが比較的少い事が全く日本生活の不思議なな美點となつてゐた凡ての惡德を、結局養成して行かねばならない。國民性はもう惡化しかけて來たが、引續き變化せねばならない。しかし古い日本は、物質的には十九世紀の日本よりも劣つてゐたが、道德的には餘程進んでゐた事を忘れてはならない。日本は道德を合理的にしたあとで、それを本能的にしてゐた。日本は私共の思想家が最も幸福な最も高尚な社會狀態と考へる物を色々、狹い範圍に於てであるが、實現してゐた。複雜な社會の凡ての階級を通じて、日本は公の及び私の義務を會得して實行する事を養成して來たが、その風は西洋ではその比を見出す事はできない。日本の道德的弱點でも、凡ての進んだ宗教が一致して美德と賞讃して居る物――即ち家族、團體、及び國家のために一身を犧牲にする事――が極端に進んだ結果であつた。それはパーシヴアル・ロウヱルが、その『極東の魂』【註八】――極東の多少の實際的智識がなければ、その完全な天才が充分に評價ができないその書物――に示してある弱點であつた。日本が社會道德の方面でなした進歩は、私共自身の進歩より大きいけれども、重に相互にたより合ふと云ふ方面であつた。それで日本の將來の義務は、その人の哲學を日本が賢くも採用したその偉大なる思想家【註九】の教を忘れない事である――その教は、『最も高い獨居は最も大きな相互依存と伴はれねばならない』と云ふ事、それから一見如何にも相反するやうに見える文句ではあるが、『進歩の法則は完全なる別居と同時に完全なる協同の方へ向ふ』と云ふ事である。

 

    註八。 この名著に對しては私は熱

    心なる賞讃を表はすけれども、その

    結論の多くの物殊に最終の物は、そ

    の同題に對する私自身も信ずる事と

    極端に反して居ゐる事を私は公言せ

    ねばならない。私は日本人は個性を

    もたないとは思はない。ただ日本人

    の個性は西洋人の個性程表面的に現

    はれない、又現はれ方も遙かに遲い。

    私は私共が西洋で『人格』及び『品

    性の力』と云つて居る物の多くは、

    多少修養で變裝された原始的な攻擊

    的傾向の殘存と承認を表はすに過ぎ

    ないと信じて居る。スペンサー氏の

    所謂最高の獨居は單に攻擊的目的に

    應用された力の異常な發達を含んで

    ゐない、しかし西洋の個性が最も普

    通に容易に表はれるのは、他の方法

    よりはむしろこの方法によりはむし

    ろこの方法によるのである。見たと

    ころ、日本の智力界の弱點と人に思

    はせる物は、自我、想像的思想、最

    高種類の認識力の比較的に缺乏して

    居る事である。恐らくさう見える缺

    點は人種的である、極東の人々は、

    歷史を通じて、創造的でなくて、感

    受的であつたらしい。とにかく私は

    佛教――元來マリヤン種族の信仰―

    ―はそれに對して責任があるとは證

    明されないと思ふ。普通教育から佛

    教の勢力を全然除外すゐ事は奨勵す

    べきではなかつたらう、古い佛教哲

    學者の方がやはり、帝國大學の普通

    の卒業者の才能よりも廣く考へる方

    の遙かに優れた才能を示して居る。

    實際私は佛教の智力的復活――近代

    科學の最良最高の教とその高い方の

    信仰とを調和した物――は日本に取

    つても最も重大な結果を及ぼすであ

    らうと信ずる。井上圓了氏と云ふ日

    本の學者は東京に、全くこの目的で

    哲學の專門學校哲學錄、現在の東

    洋大學の前身)を創立した、その學

    校は今のところ有力な學校となるら

    しい。

    註九。 ハーバート・スペンサー。

 

 日本の靑年は今輕蔑の風を示して居るその過去に對して、日本はいつかは必ず囘顧する事、丁度私共自身が古いギリシヤの文明を囘顧するやうであらう。簡易な樂しみに對する才能の忘れられた事、人生の鈍な喜びに對する感性のなくなつた事、自然との古い愛すべさ聖い親密な交際、それを反映して居る今はない驚くべき藝術、を惜むやうになるであらう。その當時世界が如何に遙かにもつと輝いて美しく見えたかを想ひ出すであらう。古風な忍耐と、犧牲、古い禮讓、古い信仰の深い人間の詩――日本は悔むべき物が澤山あらう。日本は多くの物を見て驚くであらうが、又殘念に思ふであらう。恐らく最も驚く物は昔の神々の顏であらう、何故なればその微笑は一度は自分の微笑であつたのだから。

 

[やぶちゃん注:「京都」ハーンが最初に京都を訪れたのは、熊本時代の、明治二五(一八九二)年八月と思われる。本篇の執筆時期の上限(本書刊行は明治二十七年九月)がここから推定出来るが、ここでハーンはこのエピソードを「それは昔の事であつた、しかしその當時浮んだ考は今もやはり私には本當と思はれる」と述べている点に注意されたい。刊行直前に執筆したとしても、たかだか二年前のことで、およそ「昔の事」ではない。仮にこれが実は京都ではなく、来日直後の横浜での体験であったとしても四年前である(無論、その間の鎌倉や松江での体験の可能性もある。多少とも日本を知る欧米人には「京都」をロケーションとした方が表面上のリップ・サーヴィスとなる気もする)。これは多分に文学的操作とも言えようが、この辺り、ハーンの欧米読者に対する、ある種の日本精神を知っているという優越感の肥大を垣間見ることが出来るようにも私には思われるのである。

「私は大層小さいお寺の入口の前の地藏を見にわきへ曲つた」底本の国立国会図書館蔵本は昔の不届きな閲覧者による書き込みが甚だしくあるが、その人物によってこの「に」には削除線が引かれて右に「て」と訂正がなされてある。しかし、そうだろうか? これは「に」でよい。その地蔵像を見つけて、その表情にぐっと引かれ、それを――とくと見るため「に脇へ曲つた」――のである。「見て」では、地蔵が単に曲がるための起点の意にも採れてしまい、以下の地蔵の描写とジョイントが逆に悪くなる。この図書館の本に書き込みをした不届き者の日本語のレベルの低さが良く分かるというのものだ。まさか、数十年も経た後に、このネット上で、この一介の野人たる私に、その書き込みと知的レベルの低さを指弾されるとは、彼は夢にも思っていないであろう。さても……この不届き者が今も生きていて、この私の注を読んだら……と思うと、これ、すこぶる愉快ではある。反論があるなら、それが「この書き込み」をした「あなた」なら、住所氏名及び人物を明かして私に手紙を寄越したまえ。それで「あなた」が書き込みをしたことが判明する。その時は速やかに国立国会図書館に書き込みをした「あなた」を不届き者として、それらの情報を総て通告しよう

「戰場に於て千々の敵に克つよりは獨り己に克つもの、彼こそ最上の戰勝者なれ」注に示されたように「法句經」(「ほつくぎやう(ほっくぎょう)」:パーリ語「ダンマパダ」(Dhammapada))。原始仏典の一つで釈迦の指針的な語録の形式を取った経典で標題は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味を持つ。原始仏典の最古層の基礎経典)の「述千品法句第十六十有六章」の中の(引用底本は「CBETA 漢文大藏經」の「大正新脩大藏經」の「第一巻」を用いたが、一部の漢字を変更した。以下同)、

   *

千千爲敵 一夫勝之 未若自勝 爲戰中上

   *

に基づく。平井呈一氏の訳を一部参考にしながら訓読すると、

   *

千千(せんせん)を敵と爲(な)し、一夫(いつぷ)にて之れに勝つも、未だ自(みづか)ら勝つの、戰中の上(じやう)たるに、若(し)かず

   *

である。因みに、青空文庫版荻原雲來訳註「法句經」(底本・昭和一〇(一九三五)年岩波文庫刊)には、「第八 千の部」「一〇三」に、

   *

戰場に於て千々の敵に克つよりも、一の己に克つ人こそ實に戰士中の最上と云ふべけれ。

   *

と訳されてある。

「天も魔王も梵天もこの常に己を御し自ら制する人の勝利を轉じて敗亡となすこと能はず」同じく「法句経」の前掲注の箇所に続いて、

   *

千千爲敵 一夫勝之 未若自勝 為戰中上

自勝最賢 故曰人雄 護意調身 自損至終

雖曰尊天 神魔梵釋 皆莫能勝 自勝之人

   *

と出る。同じく平井呈一氏の訳を一部参考にしながら当該箇所だけを訓読すると、

   *

尊天(そんてん)・神(じん)・魔(ま)・梵(ぼん)・釋(しやく)と曰ふと雖(いへど)も、皆(みな)能(よ)く、自勝(じしよう)の人に勝つ莫(な)し

   *

である。同前の青空文庫版荻原雲來訳註「法句經」では同「一〇五」として(漢字の一部を正字化した)、

   *

神も健闥婆も亦魔羅も及び梵も、斯かる人の勝利には反抗する能はず。

   *

と訳す(因みに、提示したその前の箇所「自勝最賢 故曰人雄 護意調身 自損至終」の部分は荻原は「一〇四」とし、『己に克つを勝れたりとす、他の諸人に克つに非ず、自己を從へ、所行常に節制ある人の勝利には』とこの後の句に続くように書かれてある)。

「深い靜かな水のやうに落ちついて」注に示された「法行經」とは|愛読する「松岡正剛の千夜千冊」の千四百三十六夜の「礪波護『隋唐の仏教と国家』」に、『西晋の王浮が著した『老子胡化経』に対して、仏教側が偽作したのは東晋時代の『清浄法行経』である。老子・孔子・顔回はそれぞれ菩薩の権現だったとするもので、これまたとんでもなくあやしい』それか? 当該経の本文を見出せないが、検索の結果、「現代語訳長阿含經」の「註解索引」のページに、「深淵澄靜清明vol. 2, p. 263, n. 59 DĀ 4, 闍尼沙經), 『月刊アーガマ』issue 65.という酷似の文字列があるのは見出せた。平井呈一氏の訳では『譬(たと)へば深淵(じんえん)の、澄浄心清明(ちょうじょうしょうみょう)なるが如(ごと)き』とある。

「寂滅に勝れる樂あるなし」平井氏の訳『此(これ)滅(めつ)するを楽(らく)となす』に從うなら、これはやはり先に出た「法句経」の冒頭、無常品第一二十有一章」の、

   *

無常品者 寤欲昏亂 榮命難保 唯道是真

睡眠解寤 宜歡喜思 聽我所

撰記佛言 所行非常 謂興衰法

夫生輙死 此滅爲樂 譬如陶家

埏埴作器 一切要壞 人命亦然

   *

と出る中の「此滅爲樂」(此れ滅するを樂と爲す)である。ただ、ハーンは「法句経」とするものの、これは「涅槃経」の知られた、

   *

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂

   *

の「諸行無常偈」の最後の句と言った方が通りがよいように思われる。

「無何有之郷」通常なら「むかうのさと」と読む。原文“Nowhere”(どこにもない場所/どこでもないところ)。訳語の方は「荘子」の「逍遙遊第一」に出る語で、道家の無為自然の理想郷(ユートピア)を指す。

「註四。Dhammapada. 法句經、この譯文は國譯大藏經による。」ここは「註四。Dhammapada. 法句經。(譯者註。この譯文は國譯大藏經による。)」でなくてはおかしい

「鳥尾(小彌太、得庵)子爵」鳥尾小弥太(とりおこやた 弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)は陸軍中将正二位勲一等子爵で政治家。以下、ウィキの「鳥尾小弥太」より引く。『号は得庵居士、不識道人など』。『萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれ』、安政五(一八五八)年に『父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ』。万延元(一八六〇)年に帰藩して家督を相続、文久三(一八六三)年にかの長州「奇兵隊」に入隊したが、あまりに乱暴者であったために『親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた』(後の「エピソード」に諸説が載る)。『長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している』。『維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍大輔、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任』したが、明治一三(一八八〇)年に『病気のために一切の職を辞し、君権と民権が互いに尊重しあう状態を理想とする『王法論』を執筆した』。『陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成』、明治一四(一八八一)年の『開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった』。明治一七(一八八四)年には『維新の功により子爵を授けられ』た。その後、欧州視察に出て、帰国後の明治二一(一八八八)年には東洋哲学会を、翌明治二二(一八八九)年には『山岡鉄舟や川合清丸、松平宗武らによる日本国教大道社、貴族院内における保守党中正派の結成』するなど、『国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた』。明治三一(一八九八)年には『大日本茶道学会の初代会長に就任』、明治三四(一九〇一)年に青少年教育を目的に「統一学」なるものを起こし、翌明治三五(一九〇二)年には施設教育機関「統一学舎」を設立した。『晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った』。以下、「政治姿勢」の項。『貴族院内においては、懇話会・月曜会に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。自由党と立憲改進党を論敵と見なし、政府の西欧化政策、キリスト教への批判を展開した。また佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して保守党中正派を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した』。『小弥太の政治論は儒教に由来し、易姓革命を容認するがそれが日本の国体(天皇制)と矛盾することを見逃している。彼は法律家や理論家ではなく、個人の心術のみを重んじ意見の当否を問題にしない、と鳥谷部春汀は評している』。以下、「エピソード」の項。『幕末の奇兵隊時代、変名として「鳥尾小弥太」を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。長州藩主・毛利敬親から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている』。『現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱』『が残っている』。『統一学舎を設立した鳥尾は、京都の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの高台寺内に同学舎による顕彰碑が建立されている』。『幕末期、当時奇兵隊少年隊の陣屋であった松林寺(山口県下関市吉田)に駐屯していた隊長の鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として激昂し、隊士を引き連れて法専寺(山口県下関市吉田)境内にあった』六体の『地蔵の首を切り落としている。(首切り地蔵)なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている』これは地蔵好きのハーンは知らなかったのであろう。知っていれば、彼の扱いは大分、変わった気がする。それとも……ハーンはそれを知っていたのであろうか?……そもそもが、本篇の冒頭は愛らしい「地蔵」のシチュエーションから始まっているのである……。明治六(一八七三)年の『第六局長時代、「東京湾海防策」を建議して同湾を囲繞する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に海堡の建設がなされた』。『日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される』。『明治期の教育者・下田歌子に禅学を教授している』。『旧幕臣の中根香亭とは書画骨董の趣味を同じくし、『香亭雅談』には好事家として言及されている』。『封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖』(吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒した、同じ旧長州藩士。維新後は宮内大丞・外務大書記となって岩倉使節団の一員として渡欧した)『による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある』。明治三三(一八九〇)年の帝国議会の際には、『司法大臣・山田顕義がフランス人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい』。『当時の日本人の外国における面白エピソード集』である「赤毛布(あかげっと)」(明治三十三年)には『「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾がパリにて季節はずれの苺を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている』。

『墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が参勤交代の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している』とある。

「名高い保守的論文」この全原文は現在、鳥尾の文集である「得庵全書」に「時事談」という標題で掲載されており、国立国会図書館近代デジタルライブラリーのこちらの画像で全文を読むことが出来る。平井氏はここの訳注で、その鳥尾の『諤々清直の文勢は、よく当時の思潮の動向を伝えるものと思われる』として、同論文のここでハーンが引いている最初の部分(原論文の第一節の途中にある)を引用しておられる。私も平井氏に準じて、同箇所を先のリンク先を底本として視認して引いておくことにする(平井氏のそれは新字カタカナ交りの文で、その底本は私の底本としたものよりもより元には近いものであろうが、以下とは微妙に違う)。

   *

一國の治亂は、天より降り來るにも非ず、地より湧き出づるにも非ず、全く一國の人心が、亂るれば亂となり。一國の人心が、治まれば治となる。其の人心治亂の機は、公心と私心との別れのみ。人々私心を主として働けば、亂るゝなり。人々公心を主として行へば、治まるなり。私とは、身欲身勝手の心を言ふ。此身欲身勝手の心、即ち私心は、家に居ては必らず家を亂る。郷に居ては、必らず郷を亂る。國に居ては、必らず國を亂ること請合なり。公心とは、義を取るの心をいふ。此の義を取るの心、即ち公心は、家に居ては家を利し、郷に居ては郷を利し、國に居ては國を利す。夫れ人、家をなす、其家を思ふの心あるは當然なり。夫れ人、國をなす、其國を思ふの心あるは當然なり。乃ち其家を思ふの心を以て家事に從ひ、其國を思ふの心を以て、國事に從ふは、是れ公義なり。是故に家事を以て、家事とするは、公心なり。其國事を以て家事とするに至ては、不義なり。私心なり。私心を以ての故に、國事を以て家を利せんとす。是れこれを義を棄つるといふ。況や一己自身の身欲身勝手の心を以て、國事を自在にせんと欲するものをや。當に知るべし、國に大亂の起る、悉く此の因緣に由來せざるは無きことを。

   *

「パーシヴアル・ロウヱル」アメリカ人天文学者にして日本研究者であったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」より引く。『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年の『Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』。三百枚に近い『図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』。『最大の業績は、最晩年の』一九一六年に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、一九三〇年に『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名』“Pluto”には、ローウェルのイニシャルである“P.L.”『の意味もこめられている』とある。一八八九年から一八九三年(明治二十二年から二十六年で、ハーンは明治二十三年に来日しているから、殆んどハーンと同時期の日本を体験している)にかけて、明治期の日本を五回も訪れ、通算約三年間、滞日したことになる。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』(下線やぶちゃん。以下同じ。因みに、私はモースの『日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』を電子化注しているが、フェノロサとビゲローはモースによって来日したと言ってもよい)。しかし、『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とあるものの、『日本語を解するバジル・ホール・チェンバレンはこの説に批判的であり、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったラフカディオ・ハーンもこの没個性論には否定的だった』と注にあって、ハーンの批判の核心が、頗るよく読める。

「極東の魂」ローウェルが一八八八 年に刊行した“The Soul of the Far East”。

「スペンサー」「ハーバート・スペンサー」既注

「マリヤン種族」原文“an Aryan race”。アーリア人のこと。広義のインド北西部を出自とした民族を指す。仏教の原型であるバラモン教を信仰した。

「井上圓了」(安政五(一八五八)年~大正八(一九一九)年)は仏教哲学者で教育家。ウィキの「井上円了」より引く。『多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた』。『越後長岡藩領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市、合併前は新潟県三島郡越路町)にある真宗大谷派の慈光寺に生まれ』、十六歳で『長岡洋学校に入学、洋学を学』び、明治一〇(一八七七)年に『京都・東本願寺の教師学校に入学。翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門入学。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ』。明治一八(一八八五)年、『同大学を卒業し、著述活動を開始する。また、哲学普及のため、哲学館(本郷区龍岡町、現在の文京区湯島にある麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)および哲学館の中等教育機関として京北中学校(第二次世界大戦後に東洋大学から独立、学校法人京北学園となり、現在は東洋大学の附属校)を設立』した。明治三八(一九〇五)年に『哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざか』り、『その後は、中野にみずからが建設した哲学堂(現・中野区立哲学堂公園)を拠点として、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動が井上による教育の場としてあり続けた』。『遊説先の満州・大連において、脳溢血のため』に『急死するまで、哲学や宗教についての知識をつたえるとともに、迷信の打破をめざして活動した』気骨ある学者であった。『円了は、あらゆる学問の基礎である哲学を学ぶことが日本の近代化にとって重要であるとの観点から、その教育に大きな力を注いだ。「諸学の基礎は哲学にあり」という教育理念のもと』、明治二〇(一八八七)年に『麟祥院にて哲学館を創立し、これは哲学館大学を経て東洋大学となった。円了が生涯をかけておこなった全国巡回講演は、哲学館に専門科を設け高等教育機関としていくための寄付を募る活動として始められたものでもあった』。なお、実は明治二四(一八九一)年五月三十日に井上円了は松江に来訪し、ハーンを訪ねており(西田千太郎同道)、顔見知りであった(「八雲会」の「松江時代の略年譜」に拠る)。

 『哲学者として著名な円了であるが、近代的な妖怪研究の創始者としても知られ、オカルティズムを廃した科学的見地から研究を行』い、『円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深め、当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った』。『こうした研究から、円了は「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれた。彼の後の体系的な妖怪研究は、江馬務、柳田國男の登場を待つこととな』るが、『いわゆる「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明したのも彼である』。円了によれば、「妖怪」は、

 「実怪」と「虚怪」

に分類され、「実怪」はさらに、

   「真怪」

   「仮怪(かかい)」

に、「虚怪」はさらに、

       「偽怪」

       「誤怪」

にそれぞれ分けられるとする。そして、

   「真怪」は「超理的妖怪」

であり、宇宙の万物で「妖怪」でないものは無く、水も小石も火も水も「妖怪」であるとし、

   「仮怪」は「自然的妖怪」

で、さらにそれが、

     「物理的妖怪」(人魂や狐火など)

     「心理的妖怪」(幽霊や憑霊など)

とに分かれるとする。一方、

       「偽怪」は「人為的妖怪」

であって、利欲その他のために人間が作り上げた妖怪と規定し、洒落のように、

       「誤怪」は「偶然的妖怪」

であるとする。これは現代のシミュラクラで、例えば、暗夜に見る石地蔵を「鬼」、枯尾花を「幽霊」とする類いの「妖怪」に相当するものとした。そうして、世間で称するところの妖怪は、

「偽怪」五割/「誤怪」三割/「仮怪」二割

であるとして、この三種、妖怪現象全体の八割は科学的に説明が出来るとし、残る二割の「真怪」の研究に依って宇宙絶対の秘密が悟得出来る、とした。

 なお、『哲学による文明開化を志向していた円了は、様々な理由で大学教育を受けられない「余資なく、優暇なき者」でも学べる場を作るべきであるという考え方から』明治二一(一八八八)年(年)に『館外員制度」を設け、「哲学館講義録」を発行していた。これは日本における大学通信教育の先駆けである。また、哲学館事件を経て、円了は西洋のように学校教育が終了した後も自由に学問を学ぶことが重要であるとの考え方から日本全国を行脚し、各地で哲学と妖怪学の講演会を行うようになった。これは生涯教育の提唱であり、波多野完治の提唱よりも早い段階での実践であった。円了の提唱した生涯教育は「哲学館講義録」と連携して、日本各地のみならず中国大陸などにも「館外員」を増やすこととなった』とある。ここでウィキの引用に止めおくのは、本当はオリジナルに書き出したら止まらないから。私は多分、あなたより妖怪学教授井上円了のファンだから、である。

「日本は悔むべき物が澤山あらう。日本は多くの物を見て驚くであらうが、又殘念に思ふであらう。恐らく最も驚く物は昔の神々の顏であらう、何故なればその微笑は一度は自分の微笑であつたのだから」……この言葉はまさに真実であったと私は痛感する。私たち日本人は自分の「微笑する笑顔」こそ忘れてしまったのである……

 

 

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   As I pen these lines, there returns to me the vision of a Kyōto night. While passing through some wonderfully thronged and illuminated street, of which I cannot remember the name, I had turned aside to look at a statue of Jizō, before the entrance of a very small temple. The figure was that of a kozō, an acolyte,— a beautiful boy; and its smile was a bit of divine realism. As I stood gazing, a young lad, perhaps ten years old, ran up beside me, joined his little hands before the image, bowed his head and prayed for a moment in silence. He had but just left some comrades, and the joy and glow of play were still upon his face; and his unconscious smile was so strangely like the smile of the child of stone that the boy seemed the twin brother of the god. And then I thought: 'The smile of bronze or stone is not a copy only; but that which the Buddhist sculptor symbolizes thereby must be the explanation of the smile of the race.'

   That was long ago; but the idea which then suggested itself still seems to me true. However foreign to Japanese soil the origin of Buddhist art, yet the smile of the people signifies the same conception as the smile of the Bosatsu,— the happiness that is born of self-control and self- suppression. 'If a man conquer in battle a thousand times a thousand and another conquer himself, he who conquers himself is the greatest of conquerors.' 'Not even a god can change into defeat the victory of the man who has vanquished himself.' [4] Such Buddhist texts as these — and they are many — assuredly express, though they cannot be assumed to have created, those moral tendencies which form the highest charm of the Japanese character. And the whole moral idealism of the race seems to me to have been imaged in that marvelous Buddha of Kamakura, whose countenance, 'calm like a deep, still water' [5] expresses, as perhaps no other work of human hands can have expressed, the eternal truth: 'There is no higher happiness than rest.' [6] It is toward that infinite calm that the aspirations of the Orient have been turned; and the ideal of the Supreme Self-Conquest it has made its own. Even now, though agitated at its surface by those new influences which must sooner or later move it even to its uttermost depths, the Japanese mind retains, as compared with the thought of the West, a wonderful placidity. It dwells but little, if at all, upon those ultimate abstract questions about which we most concern ourselves. Neither does it comprehend our interest in them as we desire to be comprehended. 'That you should not be indifferent to religious speculations,' a Japanese scholar once observed to me, 'is quite natural; but it is equally natural that we should never trouble ourselves about them. The philosophy of Buddhism has a profundity far exceeding that of your Western theology, and we have studied it. We have sounded the depths of speculation only to fluid that there are depths unfathomable below those depths; we have voyaged to the farthest limit that thought may sail, only to find that the horizon for ever recedes. And you, you have remained for many thousand years as children playing in a stream but ignorant of the sea. Only now you have reached its shore by another path than ours, and the vastness is for you a new wonder; and you would sail to Nowhere because you have seen the infinite over the sands of life.'

   Will Japan be able to assimilate Western civilization, as she did Chinese more than ten centuries ago, and nevertheless preserve her own peculiar modes of thought and feeling? One striking fact is hopeful: that the Japanese admiration for Western material superiority is by no means extended to Western morals. Oriental thinkers do not commit the serious blunder of confounding mechanical with ethical progress, nor have any failed to perceive the moral weaknesses of our boasted civilization. One Japanese writer has expressed his judgment of things Occidental after a fashion that deserves to be noticed by a larger circle of readers than that for which it was originally written:

 

   'Order or disorder in a nation does not depend upon some-thing that falls from the sky or rises from the earth. It is determined by the disposition of the people. The pivot on which the public disposition turns towards order or disorder is the point where public and private motives separate. If the people be influenced chiefly by public considerations, order is assured; if by private, disorder is inevitable. Public considerations are those that prompt the proper observance of duties; their prevalence signifies peace and prosperity in the case alike of families, communities, and nations. Private considerations are those suggested by selfish motives: when they prevail, disturbance and disorder are unavoidable. As members of a family, our duty is to look after the welfare of that family; as units of a nation, our duty is to work for the good of the nation. To regard our family affairs with all the interest due to our family and our national affairs with all the interest due to our nation,— this is to fitly discharge our duty, and to be guided by public considerations. On the other hand, to regard the affairs of the nation as if they were our own family affairs,— this is to be influenced by private motives and to stray from the path of duty. . . .

   'Selfishness is born in every man; to indulge it freely is to become a beast. Therefore it is that sages preach the principles of duty and propriety, justice and morality, providing restraints for private aims and encouragements for public spirit. . . . What we know of Western civilization is that it struggled on through long centuries in a confused condition and finally attained a state of some order; but that even this order, not being based upon such principles as those of the natural and immutable distinctions between sovereign and subject, parent and child, with all their corresponding rights and duties, is liable to constant change according to the growth of human ambitions and human aims. Admirably suited to persons whose actions are controlled by selfish ambition, the adoption of this system in Japan is naturally sought by a certain class of politicians. From a superficial point of view, the Occidental form of society is very attractive, inasmuch as, being the outcome of a free development of human desires from ancient times, it represents the very extreme of luxury and extravagance. Briefly speaking, the state of things obtaining in the West is based upon the free play of human selfishness, and can only be reached by giving full sway to that quality. Social disturbances are little heeded in the Occident; yet they are at once the evidences and the factors of the present evil state of affairs. . . . Do Japanese enamored of Western ways propose to have their nation's history written in similar terms? Do they seriously contemplate turning their country into a new field for experiments in Western civilization? . . .

   'In the Orient, from ancient times, national government has been based on benevolence, and directed to securing the welfare and happiness of the people. No political creed has ever held that intellectual strength should be cultivated for the purpose of exploiting inferiority and ignorance. . . . The inhabitants of this empire live, for the most part, by manual labor. Let them be never so industrious, they hardly earn enough to supply their daily wants. They earn on the average about twenty sen daily. There is no question with them of aspiring to wear fine clothes or to inhabit handsome houses. Neither can they hope to reach positions of fame and honor. What offence have these poor people committed that they, too, should not share the benefits of Western civilization? . . . By some, indeed, their condition is explained on the hypothesis that their desires do not prompt them to better themselves. There is no truth in such a supposition. They have desires, but nature has limited their capacity to satisfy them; their duty as men limits it, and the amount of labor physically possible to a human being limits it. They achieve as much as their opportunities permit. The best and finest products of their labor they reserve for the wealthy; the worst and roughest they keep for their own use. Yet there is nothing in human society that does not owe its existence to labor. Now, to satisfy the desires of one luxurious man, the toil of a thousand is needed. Surely it is monstrous that those who owe to labor the pleasures suggested by their civilization should forget what they owe to the laborer, and treat him as if he were not a fellow-being. But civilization, according to the interpretation of the Occident, serves only to satisfy men of large desires. It is of no benefit to the masses, but is simply a system under which ambitions compete to accomplish their aims. . . . That the Occidental system is gravely disturbing to. the order and peace of a country is seen by men who have eyes, and heard by men who have ears. The future of Japan under such a system fills us with anxiety. A system based on the principle that ethics and religion are made to serve human ambition naturally accords with the wishes of selfish individuals; and such theories as those embodied in the modem formula of liberty and equality annihilate the established relations of society, and outrage decorum and propriety. . . . Absolute equality and absolute liberty being unattainable, the limits prescribed by right and duty are supposed to be set. But as each person seeks to have as much right and to be burdened with as little duty as possible, the results are endless disputes and legal contentions. The principles of liberty and equality may succeed in changing the organization of nations, in overthrowing the lawful distinctions of social rank, in reducing all men to one nominal level; but they can never accomplish the equal distribution of wealth and property. Consider America. . . . It is plain that if the mutual rights of men and their status are made to depend on degrees of wealth, the majority of the people, being without wealth, must fail to establish their rights; whereas the minority who are wealthy will assert their rights, and, under society's sanction, will exact oppressive duties from the poor, neglecting the dictates of humanity and benevolence. The adoption of these principles of liberty and equality in Japan would vitiate the good and peaceful customs of our country, render the general disposition of the people harsh and unfeeling, and prove finally a source of calamity to the masses. . . .

   'Though at first sight Occidental civilization presents an attractive appearance, adapted as it is to the gratification of selfish desires, yet, since its basis is the hypothesis that men' 's wishes constitute natural laws, it must ultimately end in disappointment and demoralization. . . . Occidental nations have become what they are after passing through conflicts and vicissitudes of the most serious kind; and it is their fate to continue the struggle. Just now their motive elements are in partial equilibrium, and their social condition' is more or less ordered. But if this slight equilibrium happens to be disturbed, they will be thrown once more into confusion and change, until, after a period of renewed struggle and suffering, temporary stability is once more attained. The poor and powerless of the present may become the wealthy and strong of the future, and vice versa. Perpetual disturbance is their doom. Peaceful equality can never be attained until built up among the ruins of annihilated Western' states and the ashes of extinct Western peoples.'[7]

 

   Surely, with perceptions like these, Japan may hope to avert some of the social perils which menace her. Yet it appears inevitable that her approaching transformation must be coincident with a moral decline. Forced into the vast industrial competition of nation's whose civilizations were never based on altruism, she must eventually develop those qualities of which the comparative absence made all the wonderful charm of her life. The national character must continue to harden, as it has begun to harden already. But it should never be forgotten that Old Japan was quite as much in advance of the nineteenth century morally as she was behind it materially. She had made morality instinctive, after having made it rational. She had realized, though within restricted limits, several among those social conditions which our ablest thinkers regard as the happiest and the highest. Throughout all the grades of her complex society she had cultivated both the comprehension and the practice of public and private duties after a manner for which it were vain to seek any Western parallel. Even her moral weakness was the result of an excess of that which all civilized religions have united in proclaiming virtue,— the self-sacrifice of the individual for the sake of the family, of the community, and of the nation. It was the weakness indicated by Percival Lowell in his Soul of the Far East, a book of which the consummate genius cannot be justly estimated without some personal knowledge of the Far East. [8]

   The progress made by Japan in social morality, although greater than our own, was chiefly in the direction of mutual dependence. And it will be her coming duty to keep in view the teaching of that mighty thinker whose philosophy she has wisely accepted [9],— the teaching that 'the highest individuation must be joined with the greatest mutual dependence,' and that, however seemingly paradoxical the statement, 'the law of progress is at once toward complete separateness and complete union.

 

   Yet to that past which her younger generation now affect to despise Japan will certainly one day look back, even as we ourselves look back to the old Greek civilization. She will learn to regret the forgotten capacity for simple pleasures, the lost sense of the pure joy of life, the old loving divine intimacy with nature, the marvelous dead art which reflected it. She will remember how much more luminous and beautiful the world then seemed. She will mourn for many things,— the old-fashioned patience and self-sacrifice, the ancient courtesy, the deep human poetry of the ancient faith. She will wonder at many things; but she will regret. Perhaps she will wonder most of all at the faces of the ancient gods, because their smile was once the likeness of her own.

 

4 Dhammapada.

5 Dammikkasutta.

6 Dhammapada.

7 These extracts from a translation in the Japan Daily Mail, November 19, 20, 1890, of Viscount Torio's famous conservative essay do not give a fair idea of the force and logic of the whole. The essay is too long to quote entire; and any extracts from the Mail's admirable translation suffer by their isolation from the singular chains of ethical, religious, and philosophical reasoning which bind the Various parts of the composition together. The essay was furthermore remarkable as the production of a native scholar totally uninfluenced by Western thought. He correctly predicted those social and political disturbances which have occurred in Japan since the opening of the new parliament. Viscount Tōrio is also well known as a master of Buddhist philosophy. He holds a high rank in the Japanese army.

8 In expressing my earnest admiration of this wonderful book, I must, however, declare that several of its conclusions, and especially the final ones, represent the extreme reverse of my own beliefs on the subject. I do not think the Japanese without individuality; but their individuality is less superficially apparent, and reveals itself much less quickly, than that of Western people. I am also convinced that much of what we call 'personality' and 'force of character' in the West represents only the survival and recognition of primitive aggressive tendencies, more or less disguised by culture. What Mr. Spencer calls the highest individuation surely does not include extraordinary development of powers adapted to merely aggressive ends; and yet it is rather through these than through any others that Western individuality most commonly and readily manifests itself. Now there is, as yet, a remarkable scarcity in Japan, of domineering, brutal, aggressive, or morbid individuality. What does impress one as an apparent weakness in Japanese intellectual circles is the comparative absence of spontaneity, creative thought, original perceptivity of the highest order. Perhaps this seeming deficiency is racial: the peoples of the Far East seem to have been throughout their history receptive rather than creative. At all events I cannot believe Buddhism originally the faith of an Aryan race can be proven responsible. The total exclusion of Buddhist influence from public education would not seem to have been stimulating; for the masters of the old Buddhist philosophy still show a far higher capacity for thinking in relations than that of the average graduate of the Imperial University. Indeed, I am inclined to believe that an intellectual revival of Buddhism a harmonising of its loftier truths with the best and broadest teachings of modern science would have the most important results for Japan. A native scholar, Mr. Inouye Enryō, has actually founded at Tōkyō with this noble object in view, a college of philosophy which seems likely, at the present writing, to become an influential institution.

9 Herbert Spencer.

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