甲子夜話卷之一 47 森武藏守戰死のときの甲冑所在の事
47 森武藏守戰死のときの甲冑所在の事
予在勤のとき、森右兵衞佐〔赤穗城主〕と屢相會す。其時語たる中に、彼先の武藏守は、世に鬼武藏と稱たるにて、長久手に於て戰死す。其時着したる具足、今に家傳す。黑糸威の鎧なるが、小兵と覺えて、胴小くして某には合はずと。此右兵衞佐もさほど大兵にはなければ、彼鬼武藏と云しは、世の沙汰には似ず小兵と見えたり。又曰、其時着したりし兜は、家には傳らず。聞に永井の家に有りと語れり。
■やぶちゃんの呟き
「森武藏守」戦国から安土桃山期にかけての武将で大名の森長可(もりながよし 永禄元(一五五八)年~天正一二(一五八四)年)。長一と言い、武蔵守を称した。織田信長に仕えて武田攻略で功を立て、信濃川中島城主となって北信四郡を領した。本能寺の変後、豊臣秀吉に従う。天正一二(一五八四)年の秀吉と織田信雄及び徳川家康との小牧・長久手の戦いでは、舅(しゅうと)池田恒興(つねおき)とともに秀吉方についた。以下は具体性に優れたウィキの「森長可」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。三月十六日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は十五日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら五千人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、十七日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開』いた(羽黒の戦い)。『奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など三百人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した』。『後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第二陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った』。『しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第三陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が二陣と三陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となって』、『もはや決戦は不可避となり』、『池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成の家臣・水野太郎作清久の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した』。享年二十七の若さであった。なお、同ウィキの「逸話」の項には、『武蔵守の由来については次のような伝説がある。信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させた。長可が関所に差し掛かると関守に下馬して家名を名乗るように言われたが、長可は急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長は笑って、昔』、『五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという』とある。
「在勤」藩主江戸詰めの際に登城すること。
「森右兵衞佐」播磨赤穂藩第七代藩主で赤穂藩森家十三代の森忠賛(ただすけ 宝暦八(一七五八)年~天保八(一八三七)年)。但し、赤穂藩森家は森家主家の傍系である。静山より二歳年上であった。
「彼先の」「かの/せんの」。
「鬼武藏」ウィキの「森長可」の「人柄」の項に、父可成(よりなり)『と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い』とある。
「黑糸威」「くろいとをどし(くろいとおどし)」。
「小兵」「こひやう(こひょう)」。小柄。体つきが小さいこと。
「大兵」「だいひやう(だいひょう)」大柄。体つきが大きいこと。
「永井家」戦国から江戸初期に活躍した大名で上野小幡藩主・常陸笠間藩主・下総古河藩初代藩主であった永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)を宗家初代とする永井家か。但し、永井直勝は家康の家臣となって長久手の戦いでは当の森長可の舅である池田恒興を槍で討ち取った人物ではある。なおそれでも、文禄三(一五九四)年に、亡き恒興の次男であった池田輝政が家康の次女督姫を娶った際には、輝政の求めに応じ、長久手の戦いでその恒興を討ち取った際の事を語ってもいる(ここは主にウィキの「永井直勝」に拠った)。
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