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2015/12/24

小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注)

[やぶちゃん注:これは Lafcadio Hearn Glimpses of Unfamiliar Japanの全訳(落合貞三郎・大谷正信・田部隆次分担訳)の三氏による「あとがき」と奥附(画像)である。各「あとがき」には個別な標題はないで、分り易くするために間に「*   *   *」を入れた。底本は本文同様、大正一五(一九二六)年八月第一書房刊「小泉八雲全集 第三卷」(全篇が本作)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した(リンク先は「あとがき」本文冒頭)。踊り字「〱」は正字化した。注は各人の記載の後に附してある。] 

 

 あとがき 

 

 明治二十三年四月の或る晴れた朝、ヴァンクーバーから十餘日の波路を蹴つて、今しも橫濱へ着せんとする汽船の甲板上に立てる一人の外客は、遠く春の空にまだ雪を戴いた冨士を仰いで頻りにその麗容雄姿を歎賞し、近く船客が投ずるパン屑に群がる人馴れた海鷗に興じ、親子の水夫が腕も股も露はに櫓を漕いで過ぎ行く艀舟(サンパン)の中に、七輪に炭火を起して筒易な朝食の鍋がかけてあるのを眺めて珍しがつた。しかしこの外客は單なる觀光の客となつて、日光鎌倉京都の皮相的見物に終始して去り行くものとはならなかつた。

 彼は世界に知られぬ方面の日本を見た。彼は日本の心を見た。彼は歸化して小泉八雲となつた。

 

 この國に見る一切のものが、奇異で、また美はしく、呼吸する空氣も一種淸涼快爽の味を含み、蒼空の色さへ西洋のそれと異つて柔かな光を帶びて感ぜられ、下駄の音までも心地よく聞かれた。世界を放浪し來つたへルン先生は、ここに始めて東海の一隅に蓬萊の樂境を見出したのであつた。して、かかる氣分の橫溢せる日本渡來當時の先生の日本印象記が、本書である。

 本書の原名を Glimpses of Unfamiliar Japan といふ。上下二卷、收むる處、上卷十五章下卷十二章。一八九四年(明治二十七年)米國がボストン市にて出版された。橫濱を振出しに、鎌倉、江ノ島に遊び、中國山脈を越えて鳥取街道に出で、伯耆國下市に盆踊を見、松江を中心として、出雲の名所、杵築、美保の關、潜戶、日ノ御崎、八重垣神社を訪ねたる紀行の間に、日本の風景、歷史、美術、宗敎、迷信、風俗、殆ど日本についてのあらゆる方面に觸れざる處はない。

 松江は遂にこの流浪の客に安住の心境を與へ、四十歲にして始めてホームを作らしめた。高天原を去り、韓土にさすらひ、孤劍飄然出雲に來りし素尊が、稻田姬を娶つて詠まれた歌の「八雲」なる文字が、半生數奇の運を經て、遂に出雲で良緣を結ばれた先生の、日本人としての名であることは、いかにも適はしい。この神國出雲の土地に於て、いよいよ先生の日本內地の眞硏究は始まつた。橫濱時代は眞鍋晃といふ靑年佛敎學生が通譯であつたが、松江時代の輔助者としては小泉夫人、これに加ふるに、中學敎頭西田千太郞先生と學生大谷繞石君があつた。これから遂に最後の『神國日本』なる日本に關する卒業論文と稱すべき名著が書かれ、遺著『天河の緣起そのほか』の出版さるるまで、十四卷の勞作に對して、本書は序說または總論と見倣さるべきものである。先生の日本に關する著書を讀むには、日本禮讚の大殿堂の參道に立てるこの堂々たる鳥居を潜らねばならない。


落合貞三郎    

[やぶちゃん注:「明治二十三年」西暦一八九〇年。

「四月の或る晴れた朝」四月四日。

「艀舟(サンパン)」ウィキの「サンパンより引く。『サンパン(広東語:舢舨、英語:Sampan)は、中国南部や東南アジアで使用される、平底の木造船の一種』。『サンパンは、港や川岸から比較的低速・安全に人や少量の荷物を輸送するのに適した形状に作られた、全長』五メートル『程度の小型船である。現在は香港や広東省の漁村でよく目にし、湾内でいわゆる水上タクシーとして客を対岸・水上レストラン・釣り場などに輸送したり、湾内観光などに用いられている』。『ほかに、台湾の台南やマレーシア・インドネシア・ベトナムなど東南アジアの華僑・華人が多い漁港などでも使用されている』。『従来は、船尾に取り付けた』二~三メートルの『長さの艪を手で操って進ませ』るもので、『来はかまぼこ型の低い屋根を備えていたものが多かった』。『中国との交流が盛んであった明治時代の長崎県長崎市でも、小型の通船をサンパンと呼んでいた。黒船に似た屋形を供え、舳先は尖って中国船のように彩色されていた』とある。

「四十歲にして始めてホームを作らしめた」ハーンは一八五〇年六月二十七日生まれ(本邦では嘉永三年に相当する。因みに旧暦では五月十八日である)であるから、来日した年に四十歳になっている。小泉セツとの事実婚の関係は、セツが住み込み女中となった翌年の一月か二月以降と推定されるから、彼が「ホームを作」ったとする年齢は、すこぶる正確と言える。

「韓土」通常は朝鮮を指す語であるが、ここは「高天原」に対する異国としての地上、ひいては、大八州、原型の日本を指すようである。

「孤劍」ただ一振りの剣。他の武器を持たぬこと。

『素尊が、稻田姫を娶つて詠まれた歌の「八雲」なる文字』高天原を追放されて出雲国に降った須佐之男尊が八俣の大蛇から櫛名田姫を救って妻として迎えた際、須賀(すか)の地に新妻のための宮を建てたと「古事記」「日本書紀」に伝え、この時に詠んだ歌が、

 八雲立つ

 出雲八重垣

 妻籠(つまごみ)に

 八重垣作る

 その八重垣を

と伝えられる。「小泉八雲」の名の由来である。セツとの邂逅・結婚に見事に繋がるのが、素敵だ!

「眞鍋晃」複数既出既注。

「西田千太郞」複数既出既注。

「大谷繞石」本記事の最後に出る訳者大谷正信。複数既出既注。

「神國日本」“ Japan: An Attempt at Interpretation (日本:一つの解明)。没した明治三七(一九〇四)年九月十九日の翌十月刊。次は、この小泉八雲の寿命を縮めた労作であるこれの電子化注に取り掛かる予定である。

「天河の緣起そのほか」“ The Romance of the Milky Way and other studies and stories (「天の川」のロマンスそしてその他の物語及びその研究)。没年の翌明治三十八年刊。

「十四卷の勞作」前掲二作の他の来日後の主要刊行書は、

“ Out of the East (東方より:明治二八(一八九五)年刊)

“ Kokoro (心:明治二十八年)

“ Gleanings in Buddha-Fields (仏陀の畑の落穂:明治三十年)

“ Exotics and Retrospectives (異国情緒と回想:明治三十一年)

“ In Ghostly Japan (霊的なる日本にて:明治三十二年)

“ Shadowings (翳:明治三十三年)

“ A Japanese Miscellany (日本雑記:明治三十四年)

“ Kotto (骨董:明治三十五年)

“ Kwaidan (怪談:没年の明治三十七年)

が主要作だが、これでは前掲の二作を加えても、十一作にしかならない。他に長谷川武次郎が刊行した日本昔噺シリーズ“ Japanese Fairy Tale の中の五作品、

“ The boy who drew cats (猫を描いた少年:明治三十一年)

“ The goblin spider (化け蜘蛛:明治三十二年)

“ The old woman who lost her dumpling (自分の団子をなくしたお婆さん :明治三十五年)

“ Chin Chin Kobakama (ちんちん小袴:明治三十五年)

の四作を加えると、逆に十五作品になってしまう。但し、一般に、この四作品(後に“ The Fountain of Youth (若返りの泉)が大正一一(一九二二)年に加えられている)は刊行された明治三十五年の一冊で数えられているようであるから、それだと、やっぱり十二作にしかならない。この落合氏の「十四卷」という数字は上記十一作以外に何を三作と数えているのであろう? 識者の御教授を乞うものである。

「落合貞三郞」(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で郷里島根県の松江中学及び東京帝大に於いてラフカディオ・ハーン小泉八雲に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は岡山の第六高等学校、学習院教授を勤めた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

*   *   *

 

 『英語敎師の日記から』

 松江に赴任してからへルンの眼に映じた日本學生生活を敍した物である。『小泉八雲の著作について』と題する坪内逍遙博士の論文のうちに『出雲中學の敎師としての日記の如きを讀んでは誰しも愛敬の心を生ぜざるを得ない。如何に深切な優しい人柄が浮上つて見える、如何に心性を直覺することに秀でた人で、如何に觀察が穿細であるかが見える』とあるのは卽ちこの篇の事である。内容は殆んど全部へルンの直接の見聞に基づいて居るが、最後に學生の葬式追悼會等に關する記事はヘルンが熊本へ轉任の後に起つた事であるから全部聞きがきを基として多少の想像を加へて居る。ヘルンがこれ等學生中の二秀才、志田、橫木の死を悲しんだところ、殊に橫木が最後の思ひ出に學校を見に行く一章(二一)の如きは讀む度每に新しい淚を誘はれる。

 

 『日本海に沿うて』

 へルンは明治二十三年八月の末、松江に赴任のため眞鍋晃を通譯兼從者として、山陰道を通過した時の事と、翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事とを合せてこの記事を作つた。そのうちにある鳥取の蒲團の話、出雲の捨子の話は何れも夫人が始めてヘルンに話した怪談であつた。 

 

 『魂について』

 金十郞と云ふ名は熊本にゐた植木屋の名であつたが、この魂の話は夫人の養母(稻垣とみ子)がヘルンに話した物であつた。その始めに一つの挿話のやうに『世界の向ふ側に無數の魂を有せる』婦人を書いて居るが、これはヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。ヱリザベス女王は三千着の衣裳をもつてゐたと傳へられるが、へルンはこのヱリザベス、ビスランド女史の事を戲れのやうに『一萬の魂の淑女』卽ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた。 

 

 『幽靈と化け物について』

 祭りの夜、見せ物を見て𢌞つたのは熊本の町で、同行者は金十郞でなく夫人であつた。ただ最後にある二つの話は共に夫人の話した松江の物であつた。  

 

 『日本人の微笑』

 少し以前『太西洋評論』に出た時から喧傳された名高い論文であつた。ヘルンが純粹に日本人の心理硏究の論文を發表したのはこれが始めでであつた。ヘルンの日本人の微笑の解釋は當時の一般外人を非常に啓發した物であつたが、その後幾星霜を經て日本人の微笑も多少の變化を受けて居る、しかしヘルンがこの論文で啓發してくれた點は今なほ變らないと思はれる。 

 

     大正十五年七月


 田部隆次           

[やぶちゃん注:ここで語られている内容・人物等については、既にその当該章の中で注しているものが殆んどなので、そうしたものは、原則、注から外してある。各章の私の注をお読み戴きたい。

『「小泉八雲の著作について」と題する坪内逍遙博士の論文』逝去の年の明治三七(一九〇四)年十二月に発表された「故小泉八雲氏の著作につきて」が正しい。田部氏の引用は、ほぼ正確であるが、引用箇所を含む少し前から引用すると(底本は国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙「文藝瑣談」明治四〇(一九〇七)年春陽堂刊)の当該部を視認した。左ページの後ろから四行目下部からの「部分」である)、

   *

“ Glimpses ”を讀んだ時から、個人としての同氏が慕はしくなつた。それまで只名文家として愛讀してゐたに過ぎない。「グリムプセス」は日本にての著作中の最も古いものゝ一つだが、最初の感じが寫されてあるだけに一しほの味ひがある。かの出雲中學の敎師としての日記(ダイリイ)の如きを讀んでは、誰しも愛敬の心を生ぜざるを得ない。如何に深切な優しい人柄が浮上つて見える、如何に心性を直覺することに秀でた人で、如何に觀察が穿細であるかが見える。就中、「盆踊」の一升は絕妙です、近代の畫家などに話して畫にかゝせて見たい。

   *

「眞鍋晃」複数既出既注。

「山陰道を通過した時」明治二三(一八九〇)年八月下旬。松江着は八月三十日午後四時。

「翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時」明治二四(一八九一)年八月十四日から同月三十日までの十六日に及ぶもので、私が本電子テクストで最後までお世話になった「八雲会」の「松江時代の略年譜」によれば、これはセツとの新婚旅行であった(但し、事実婚の――である。同年十一月の熊本転任の際して学校側に提出した公文書には、妻は『無』と記していることは既に述べた)。

「太西洋評論」当該章の最終章に英文抄訳される、後に「時事談」となる初出論文の掲載された雑誌と思われるが、書誌不詳である。それともこれは、ハーンも多く投稿した『アトランティック・マンスリー』(The Atlantic Monthly:アメリカのボストンで一八五七年に創刊された文学・芸術・政治総合雑誌。現在も続くアメリカの雑誌で最古のものの一つ)のことで、それに英訳全文が載ったことを意味するのか? しかしThe Atlantic Monthlyを「太西洋評論」と邦訳するだろうか?(と疑問に思ったが、どうもそんな臭いはする) 識者の御教授を乞う。なお、次の大谷も同じ雑誌名を冒頭の『日本の庭』で示してもいる。

「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。] 

 

*   *   * 

 

 『日本の庭』(この篇は以前『太西洋評論』に出た)の冒頭に記してある『大橋川のほとりの自分の小さな二階家』は今は無い。末次本町の東西に通じて居る街路の中ほどに、南側に小さな路次がある。その路次を行詰まで行つて左へ折れると、四五步にしてまた右へ折れる。十步ばかりで狹い石段を下りると湖水に達せられる。其處は右側には家が無く、左側たゞ一軒あつた。それがこの家であつた。今、難波館といふ旅館のある處である。轉居された『今度の家は』北堀町字鹽見繩手の、祿高百石の根岸といふ『サムラヒ』の屋敷で、持主根岸干夫氏は當時郡長として郡部にゐたので、その家を借りて住まつてゐたのであつた。

 原文の未尾にある

    Verily, even plants and trees, rocks and stones, all shall enter into Nirvana. 

の後半は普通の『悉皆成佛』とせずに、原文どほり『皆入涅槃』と譯して置いた、かゝる庭園も亦無くなる、といふことを原著者は言はうとして居るのだから。

 

 『家の內の宮』の第二節の終に書かれて居る畠山勇子に就いては『東の國から』別に一文が掲げられて居る。 

[やぶちゃん注:「『東の國から』別に」は「『東の國から』に別に」の脱字であろう。

 

 『女の髮について』の起筆に「家の妹娘の髮は」とあるが、これは「自分の妻の髮は」とあつても差支無いもの、といふことは讀者も想像さる〻であらう。第五節の『老武士たる縣知事』は撃劍の好きなそして槍術の達人であつた籠手田安定といふ人であつた。 

 

 『伯耆から隱岐へ』は明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた。

 第三節に『境は島根縣の』とあるは『鳥取縣の』とあるべきであるが、原文の儘に譯して置いた。なほ一二譯者として述べて置いた方がよからうと思ふことは、譯文の途中に譯者註として書いて置いた。 

 

 『サヤウナラ』。松江出立は明治二十四年十一月十五日であつた。原著者が所謂『たゞ旅券を待つて居る』頃、譯者は氏を訪問したことがある。その時『先生はこれまでどういふことをして來られた方なのですか』と尋ねたものだ。『書いてあげよう、待つておいで』と言つて、次の室へ行つて、書簡用紙一枚に、表裏に、例の初は細かく後ほど太い字で、書いたのを吳れられた。序にこ〻ヘ紹介してもよからう。斯う書いてある。

[やぶちゃん注:以下、ハーンの英文及び大谷に訳文、底本では全体が日本文の二字相当の下げになっている。英文は字空けなどをなるべく底本通りに復元するように心掛けたつもりであるが、幾つかの箇所では、行送りが、おかしくなる部分があることから、補正してある)。読み易くするために、英文と訳文それぞれの前後を一行空けておいた。底本には、この行空けはない。]

 

   I was born in the town of Leucadia in Santa Maura, which is one of the Ionian Islands, in 1850. My mother was a Greek woman of the neighbouring island of Cerigo. My father was an army-doctor attached to the 76th English Regiment of the Line. The Ionian Islands were at that time under British rotection, ―― because the Turks had been killing all the Greeks there.

   My Parent took me to England when I was only five or six years old. I spoke Romaic ―― which is modern Greek and Italian; but no English. My father went to Russia some years after, and then to India.  Myself and brother were brought up by rich relations and educated at home. My father and his wife died in India of fever.

   When l was about 15 years of age, I was sent to France to learn French and spent several years there.  I was eighteen years of age, when my friends lost all their Property; and I was obliged to earn my own living.  I wont to America in ’69, and learned the Printing business.  After some there years more, I gave up printing to become a newspaper reporter.  I reported for several large papers in Ohio for eight years.  Then I went South to become literary editor or the chief paper of New Orleans;  and remained there ten years.  In the meantime I had begun to publish some books, ―― novels, translations,  and literary sketches. In l887,  I became
tired of writhing for newspapers,  and I wont to the French West Indies,  and to South America,  to write a book about the tropics.  I returned America two years later, and after publishing my books, resolved to go to Japan.

  And then I became a teacher.

 

〔自分は一八五〇年に、アイオニア群島の一つの、サンタ・モーラのリュウカディアの町で生れた。母はその近くのセリゴといふ島の希臘女であつた。父は英國步兵第七十六聯隊附の軍醫であつた。アイオニア諸島は――土耳古人が其處の希臘人を殺しつつあつたから――當時英國の保護の下に在つたのである。

 兩親は自分がやつと五つ六つの頃英國へ連れて行つた。自分は――近代の希臘語であり伊太利語である――ロマイツク語をしてゐて、英語は話さなかつた。父は數年後に露西亞へ行き、それから印度へ行つた。自分と弟とは富裕な親類に養育され本國で敎育を受けた。父とその妻とは熱病に罹つて印度で死んだ。

 自分は十五ばかりの時に、佛蘭西語を覺えに、佛蘭西へ送られ、其地に幾年かを送つた。十八歲の時、自分の友達はその財產全部を失くした。そこで自分は自分で食つて行かなければならぬことになつた。六九年に亞米利加へ行つて、印刷業を教はつた。それから三年ばかりして印刷を止めて新聞通信員になつた。八年間オハイオの夥多の大新聞に通信した。それからニユウ・オルリアンズの一番大きな新聞の文學記者になることになつて南部へ行つて、其地に十年居た。その間幾つか書物を――小說、飜譯並びに文學的スケツチを――出版しはじめたのであつた。一八八七年に新聞の爲めに文を書くことに飽いて、熱帶について書物一册書かうと、佛領西印度と南亞米利加とへ行つた。二年經つて亞米利加へ歸つて、書物を出版してから、日本へ行かうと決心した。

  そして敎師になつた。〕

 第五節の「西田」は『東の國から』の獻呈を受けて居るあの西田千太郞で、當時中學校の主席敎師として英語を擔任してゐた人である。現九州大學敎授工學博士西田精氏の令兄である。

 同船して宍道湖(しんじ)まで見送つたものは中學校長木村牧、中學校敎員中村鐡太郞、師範學校敎員中山彌一郞、及び譯者であつた。

 

     大正十五年七月

 

 大谷正信    

[やぶちゃん注:田部氏のケースと同様、ここで語られている内容・人物等については既にその当該章の中で注しているものが殆んどなのでそうしたものは、原則、注から外してある。各章の私の注をお読み戴きたい。

「難波館」現存しない模様である。

「根岸干夫」「ねぎしたてお」と読む。彼は簸川(ひかわ)郡長を務めており、八雲は彼の留守宅を借りていた。個人サイト「ぶらり重兵衛の歴史探訪」の「小泉八雲旧居(ヘルン旧居)」によれば、当時の屋敷は、この『根岸干夫の先代、根岸小石の手によって明治元年につくられたもので』、「第十六章 日本の庭」でハーンが細敍するように、『規模こそ小さいものの、この庭は枯山水の鑑賞式庭園としては水準を抜くものとして高い評価を受けて』いる。『八雲と根岸家との関わりは、家主干夫の長男磐井が松江中学、旧制五高、東京帝大で教わった師弟の関係でもあり』、『東大卒業後、磐井は日銀に就職し』たものの、『東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、八雲が愛した旧居の保存の為に』、大正二(一九一三)年に『松江に帰り、一部改築されていた家を元通りに復原し、記念館設立などにも力を尽くし』、『磐井の没後も、旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存され現在に至ってい』るとある。彼が郡長を勤めた簸川郡というのは、郡制の施行によって明治二九(一八九六)年四月一日附で旧の出雲郡・楯縫(たてぬい)郡・神門(かんど)郡を一行政区画として発足した新しい郡で、当時の郡域は現在の出雲市の大部分と大田市の一部、即ち、島根半島西三分の一と南西方域の相当する広域であった。郡役所は中央の今市町(現在の出雲市役所附近)に設置されたが、松江から今市は宍道湖の西と東で、直線でも二十九キロメートル強あり、鉄道のない当時はとても通える距離ではない。

「畠山勇子に就いては『東の國から』別に一文が掲げられて居る」“ Out of the East の最終章が丸ごと“ Yuko: A Reminiscence ”(勇子――一つの追憶)として彼女に捧げられている。平井呈一氏のそれを引きたいところだが、相応の量があり、引用で許容される分量ではないので諦める。“ Internet Archive ”こちらの原書画像で、原文ならば読むことが出来る。【2025年3月11日追記】後に「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保訳)」で電子化注してある。

「『伯耆から隱岐へ』は明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た」『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、この大谷の記載とは著しく日程が異なる。そこでは隠岐の滞在は明治二五(一八九二)八月十日から二十三日までの十三日間とし、境港へ二十四日に着き、翌八月二十五日には美保の関へ行っている、とある。

「一八五〇年」既に注したが、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)は一八五〇年六月二十七日木曜日生まれで、本邦では嘉永三年の旧暦五月十八日に相当する。ギリシャ正教の洗礼を受け、パトリキオス・レフカディオス・ヘルン(Patricios Lefcadios Hearn)が出生台帳の登録名であった。彼は次男であったが、長兄ジョージ・ロバート・ハーン(George Robert Hearn)はこの年に一歳で亡くなっている。

「アイオニア群島の一つの、サンタ・モーラのリュウカディアの町」ギリシャ西部のイオニア海にある「アイオニア群島」=イオニア諸島(Ionian Islands)の島の一つ、「リュウカディア」=レフカダ(レフカス)島(Lefkáda/英語:Lefkas/イタリア語:Leucade)のレフカダの町。ハーンの言う“Santa Maura”は、この島の中世にはギリシャ語で「アヤ・マウラ」島と呼ばれたが、この島は歴史上は永くヴェネツィア共和国やオスマン帝国がその統治を争い、イタリア人たちは「サンタ・マウラ」(イタリア語: Santa Maura)、トルコ人たちは「アヤマウラ」(トルコ語:Ayamavra)の名で呼んだことによる。なお、「ラフカディオ」の名はこの島の名“Lefkáda”から採られている。ウィキの「レフカダ島」によれば、イオニア諸島では四番目に大きな島で、『島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている』とあるので、島と市街を明確に区別して大谷に分かり易くしようと、「サンタ・モーラ」島「のリュウカディアの町」“the town of Leucadia in Santa Maura”と表現したものであろう。同ウィキによれば、希臘語の古語であるカサレヴサでは「レフカス島」と表記され、古名はレウカス島(Leukás)とし、『この地名は、ギリシャ語で「白」を意味する「レフコス」、あるいは「白い岩」を意味する「レフカタス」に由来する』とある。ハーンが白という色に独特の玄妙なものを感じ、独自の“ghost-white”という語を用いるのも、実は彼自身がギリシャの「白」という名を背負っていたからでもあろう。

「母」同じイオニア諸島にある「セリゴといふ島」=キティラ(ケリゴ)島(Kythira/英語: Cerigo/イタリア語:Cerigo)出身のギリシャ人の母ローザ・アントニウ・カシマティ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二三年~一八八二年)の旧家の娘であった(上田年譜ではマルタ島出身とも、『アラブの血がまじっているとも伝えられる』とある)。以下、ハーンの事蹟については諸資料を参照したが、今回は上田和夫氏の年譜(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)に加え、ハーンの曾孫であられる民俗学者小泉凡(ぼん 昭和三六(一九六一)年生)氏監修になる平井呈一訳「対訳 小泉八雲作品抄」(一九九八年恒文社刊)の年譜も参考にさせて戴いた。前者を「上田年譜」、後者を「小泉年譜」と略称する。

「父」アイルランド人(当時は英国籍)でギリシャ駐屯イギリス陸軍のノッティンガムシャー歩兵第四十五連隊附き軍医補であったCharles
Bush Hearn
(チャールズ・ブッシュ・ハーン 一八一八年~一八六六年)。

「土耳古人が其處の希臘人を殺しつつあつた」ハーンはかく、トルコ人が当地のギリシャ人島民を虐殺行為を働いていたのを監視するためにイギリス軍が駐屯していたと述べているのであるが、ウィキの「レフカダ島」によれば、一七九七年にナポレオン一世『によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった』。一七九九年には『ロシア海軍が諸島を占領』、一八〇〇年に『ロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった』ものの、一八〇七年の『ティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが』、一八〇九年以降は『イギリスの攻勢にさらされ』、レフカダ島は一八一〇年に『イギリスによって占領されている』とあり、一八一五年の『第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国』『が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とある。ハーンが後で述べるように、ハーン出生当時のレフカダ島は「當時英國の保護の下に在つた」わけである。ウィキの「イオニア諸島」でも記載似たり寄ったりで、一八〇九年十月に『英国艦隊がザキントス沖でフランス艦隊を破った。イギリスは同年のうちにケファロニア島・キティラ島・ザキントス島を』、翌一八一〇年には『レフカダ島を占領』、フランスは一八一四年に『ケルキラ島を放棄し』、イオニア諸島合衆国『がイギリスの保護国として樹立された。イオニア諸島合衆国では憲法の制定が認められ、住民からなる』定数四十の『議会が設けられるとともに、英国の高等弁務官に助言をおこなうことが認められた』とあって、ハーンの言うようなトルコの深刻な攻勢や殺戮は語られていない。その後もトルコ軍の小規模な侵犯がたびたびあったということあろうか? それともハーンの認識違いであろうか? 識者の御教授を乞う。因みに、一八六四年六月二日に『イオニア諸島はギリシャ王国に引き渡され』ている。

「兩親は自分がやつと五つ六つの頃英國へ連れて行つた」事実と異なる生まれた翌一八五一年年末、ハーン一歳の時、父の西インドへの転属に伴い、『母と通訳代りの女中にともなわれて、アイルランドの父の生家に向い、パリをへて、翌年』一八五二年の『八月、ダブリンに着』(上田年譜)いているから、これは一、二歳の頃である。日本の数えであるとしても合わない。

「近代の希臘語であり伊太利語である――ロマイツク語をしてゐて」「をしてゐて」は「を話してゐて」の謂いであろう。ここは現代のギリシアの現地語(現代ギリシャ語)である“Romaic”(ロメィイク語)とイタリア語を話したけれども、英語は分からなかったという謂いである。しかし、実年齢から考えると、ややおかしい気がする。

「父は數年後に露西亞へ行き、それから印度へ行つた」ハーンの父チャールズのクリミア戦役出征は一八五四年四月であるが、この前後――ハーンは、ここに記していないのであるが――前年に父チャールズが黄熱病に罹患して帰国後、『しだいに父母の中が冷却』し、母ローザはハーンの弟ダニエル(後述)出生後(推定)にハーンと乳飲み子のダニエルをおいて、独り、故郷のキティラ(ケリゴ)島に帰国してしまっているのである。未だハーンは三歳であった。また、チャールズがインドに赴いたのは、ハーン六歳の一八五六年のことであったが、ここでもハーンは、その前(小泉年譜では、これらを翌一九五七年の出来事とする)に父が、ローザとの結婚婿無効の申し立てをして父母が正式に離婚したこと、父チャールズは離婚後直ちにアルシア・ゴスリン・クロゥフォード(Alicia Goslin Crawford ?~一八七一年:こちらの資料による。他でもこの生没年データを採用した)なる女性と結婚したことを、述べていない

「自分と弟とは富裕な親類に養育され本國で敎育を受けた」「弟」ジェームズ・ダニエル・ハーン(James Daniel Hearn 一八五四年~一九三三年:小泉年譜に八月十二日誕生とする)と言い、上田年譜には『のちアメリカで農業を営んでいる』とある。母が失踪してしまった彼等は、小泉年譜では、一八五五年に『大叔母サラ・ブレナンのもとで生活をはじめる』とするが、上田年譜の表記はサリー・プレネーンで彼女に引き取られたのは一八五四年と読める。

「父とその妻とは熱病に罹つて印度で死んだ」この「妻」がハーンの母ではないことは、文脈から、大谷には分かったであろう。但し、これも調べた限りでは事実と異なる父チャールズは一八六六年、ハーン十六歳の十一月、インドからの帰国の途次、スエズで病死している(上田年譜)が、先に示したデータが正しければ、彼の後妻アルシアの没年は一八七一年であるからである。

「十五ばかりの時に、佛蘭西語を覺えに、佛蘭西へ送られ、其地に幾年かを送つた」上田年譜によれば、ハーンは一八六三年十三歳の時、『イギリス本土ダラム州アッショーにあるカトリック系聖カスパート校に入学』(ここ在学中、遊んでいる最中に誤って左目を失明している)したが、『大叔母の破産のため』に中退した(この中退した年は上田年譜では一八六六年とし、小泉年譜では一八六七~一八六八年とあり、ずれる)。その後、一八六七年にはフランスのイヴートにあるカトリック系神学校に入学するも、またもや一年余りで退学、『ハーン家の使用人一家を頼ってロンドンに渡』(小泉年譜)った。

「十八歲の時、自分の友達はその財產全部を失くした」十八は満なら一八六八年である。この「友達」とは、実は「大叔母」のことを指しているか。としても、やはり微妙に事実と遅滞的ズレがある(上田・小泉ともに、である)。

「六九年に亞米利加へ行つて、印刷業を敎はつた」一八六九(本邦は明治二年相当)年の上田年譜には、『大叔母から旅費をもらい、アメリカに渡り、ニューヨークをへて、オハイオ州シンシナティに向』い、『ホテルのボーイ』、『校正、広告取り、煙突掃除など、窮迫した生活をつづけながら、図書館で読書にふけ』ったが、『印刷業者ヘンリー・ワトキンスを知り、生涯の友となる』とある。小泉年譜も、『リヴァプールから移民船でニューヨークに渡り、さらに汽車でシンシナティへ向か』い、『そこで終生の父とも慕う印刷屋ヘンリー・ワトキンと出会う』とある。当時、ハーン、十九歳。

「それから三年ばかりして印刷を止めて新聞通信員になつた」小泉年譜によれば、一九六九年から三年後になる一八七二年の十一月、『シンシナティ・トレイド・リスト』誌の『創刊にあたり、編集者レオナード・バーニーの編集助手となる』一方、『シンシナティ・インクワイラー』紙の『有力な投稿者とな』ったとある。附言しておくと当時の、雑誌投稿者というのは今の有象無象の雑誌投稿なんどとはわけが違う。投稿記事や文章(エッセイや小説も含まれた)が当たれば、投稿者は即、現代の流行作家やエッセイスト、ジャーナリストと同等の地位に祭り上げられたからである。ハーンは一八七四年の秋(上田年譜)には遂に正式な『シンシナティ・インクワイラー』社の正社員となっている(三年後の一八七七年には同社を退職、シンシナティ・コマーシャル社に転職している)。そこでは『下層社会、ことに黒人の風俗を好んで書き、世評』が高まったという(上田年譜)。因みに、この年、ハーンは『下宿先の炊事婦、混血黒人のマッティー・フォリー』(上田年譜表記。以下は小泉年譜でダブらせてジョイントする)『アルシア・フォリー(マティー)と結婚式を挙げるが、白人と黒人の結婚を禁止する州法に反するため、さまざまな困難を招』き、三年後の一八七七年十月に『結婚生活が破綻し、マティーは町を出』た、とある。これは余り知られている事実とは思われないので、敢えて記しおくこととする。

「八年間オハイオの夥多の大新聞に通信した」「ニユウ・オルリアンズの一番大きな新聞の文學記者になることになつて南部へ行つて、其地に十年居た」ニューオリンズに向かったのは一八七七年で、シンシナティ(オハイオ州南西端)で記者になったのが、一八七二年であるから、足掛け五年程度であって、八年は、ちとドンブリである。数値に正確なハーンが、かく誤るとも思えず、やや自己肥大的なものを感じがしないでもない。ニューオリンズでは『ニューオリンズ・アイテム』社の副編集人から『タイムズ・デモクラット』社の文芸部長を勤め、そこを退職してニューヨークへ向かったのが一八八七年(本邦は明治二十年)であるから、「十年」は正確。

「その間幾つか書物を――小說、飜譯並びに文學的スケツチを――出版しはじめた」ハーンはこの間、一八八二年(三十二歳)にゴーチェの翻訳、

“ One of Cleopatra's Nights and Other Fantastic Romances (クレオパトラの一夜 その他 幻想的ロマンス集:五編からなる短編集)

一八八四年には『エジプト、エスキモー、インド、フィンランド、アラブ、ユダヤなどの民俗伝承に材をとった二十七編の短編からなる』(上田年譜)、

Stray Leaves From Strange Literature(異文学遺文集)

一八八五年に、

“ Historical Sketch Book and Guide to New Orleans (ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内)

クリオールの俚諺集である、

“ Gombo Zhèbes (ゴンボ・ゼーベス)

や、

“ La Cuisine Créole (クレオール料理法)

一八八七年二月には、

“ Some Chinese Ghosts (中国怪談集)

を出版している。

「一八八七年に新聞の爲めに文を書くことに飽いて、熱帶について書物一册書かうと、佛領西印度と南亞米利加とへ行つた」小泉年譜によれば、一八八七年(本邦の明治二十年)に『タイムズ・デモクラット社を退職してニューヨークへ移り、音楽研究家クレイビールの家に滞在』、『ハーバー社の編集長オールデンに面会し』て『西インド諸島紀行文執筆の取り決めをし、マルティニーク島へ向か』った(マルティニーク島は当時も現在もフランス領)。その後(一度、アメリカに短期の戻ってはいる)は上田年譜によれば、同年十月以降、『一年半、サン・ピエール』(西インド諸島のフランス領マルティニークにある村)『に住み、紀行、見聞記を「ハーバーズ・マンスリー」誌に発表するかたわら、『チタ』『ユーマ』などの小説を書き続け』た。

「二年經つて亞米利加へ歸つて、書物を出版してから、日本へ行かうと決心した」マルティニークを訪れて約二年弱の後の一八八九年の五月にサン・ピエールを発って、『ニューヨークを経て、フィラデルフィアの友人宅に落着き、執筆にはげむ。九月に『チタ――ラスト島物語』(ハーバー社)を出版』とある(以上は上田年譜)。小泉年譜によれば、この友人は『眼科医グールド』とある。上田年譜にはこの年の十月に『ニューヨークにもどち、級友クレービールの紹介で、「ハーバーズ・マンスリー」誌の美術主任パットンと』知り合い(しかし、実際には前記のように同誌にはハーンは馴染みであった)、『日本文学・美術について語り合い、挿絵画家ウェルドンに従って、二カ月の予定で日本に特派されることとな』った、とある。

「そして敎師になつた」上記のような特派員として、ハーンは明治二三(一八九〇)年四月四日に横浜に到着したが、『ウェルドン中心の契約に不満を抱き』、たった一ヶ月後の『五月、ハーバー社と絶縁』、この間に本書が捧げられているところの、在日アメリカ海軍主計監ミッチェル・マクドナルドの『紹介で知り合った東京帝国大学教授』で、やはり本書で献辞されているバジル・ホール。チェンバレン及び『文部省普通学務局長の地位にある服部一三の斡旋で、島根県立松江中学校の英語教師とな』ったのであった(上田年譜)。大事なことは、御雇外国人教師のように、懇請されて英語教師となったわけではなく、取り敢えず専ら口を凌ぐために「敎師になつた」のである。そこを押さえておく必要がある。この大谷へ送った自己事蹟は、ある意味――『あなた方が英語教師として私を尊敬して呉れることはとても有り難い。しかし、私は恥ずかしながら、そのような教育者としての覚悟や教化のために日本に来たのでないのです。私の天職は「作家」であり、「ジャーナリスト」なのです』と大谷に訴えている――ように私には読めるのである。

「現九州大學敎授工學博士西田精氏」「山陰ケーブルビジョン株式会社」公式サイト内のここに、『九州帝国大学教授で西田千太郎の弟である西田精は各地の上下水道の調査設計を手掛け、その権威としても知られ』、『松江市水道の拡張工事にも尽力し』たとある。名の読みは不詳。人名の読みらしきものとしては「あきら」「きよし」「くわし」「しげ」「すぐる」「ただし」「つとむ」「ひとし」「まこと」「まさし」など多数ある。

「中學校長木村牧」ママ。本篇最後の「第二十七章 サヤウナラ(五)で注したように、私が調べた限りでは、彼は「木村収」で、しかも「収」の異体字・正字は「收」であることから、私はこれは「木村收」の誤りではあるまいかと深く疑っている。識者の御教授を乞う。

「中學校敎員中村鐡太郞」ラフカディオ・ハーンの島根県私立教育会での講演録を訳した人物として名が出る(サイト「八雲会」の)から、英語教師の同僚であったものと思われる。

「師範學校教員中山彌一郞」既注。

「譯者」この後書の筆者である大谷正信。]

 

[やぶちゃん注:以下、奥付を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で示して終りとする。私は電子化する価値を認めないので画像のみで、悪しからず。一つ指摘しておくと、発行月日は、もと『八月拾日發行』となっていたものに、手書きで字を加えて『八月二拾五日』に訂してあることが判る。印刷後、十五日も遅れた理由は不明であるものの(この前後に特に社会的な重大事件は起きていない。帰化人とはいえ、外国人の著作であり、しかも国家神道に関わる箇所も散見されることから、内務省の内密の検閲が長引いた可能性は充分あり得そうな気はする)、何部印刷されたものかは知らないが、この狭い箇所への書入れは、これ、なかなかに大変で、作業する出版社の担当者の溜息が聴こえてくる。] 

 

Yakumozen3okuduke

 

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