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2015/12/13

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について (全)

[やぶちゃん注:本章は本「知られぬ日本の面影」の中で特異的に一章一篇構成で数字を附したパートに分かれていない(他にはこのような章はない)。しかも――松江時代に時計が巻き戻され(但し、後述するように事実は異なる)――ロケーションは、松江のハーンが愛した寓居の、かの愛した庭で――新しく登場する嘗て武士であった愛すべき金柑頭の植木職人金十郎の告白体――プロローグ・インターミッションのカメラの戻り・エピローグといったロケーションのマッチングの妙などなど――非常に優れた掌編小説ともいうべきものである。されば注は私にとって必要と考えた最小限に留め、当該各段落の後に附した。「チヱンバレン敎授の『日本事物』」「籠手田知事」「直政」といった既注のものの指示なども、ここでは総て省略した。禰宜がトランス状態に入って本心を語るというエピソードなども、小さな村落社会にあっては宗教者は最も内密の情報などでも簡単に得られぬものと考えられ、現実的な真相検証などもしたくなったのだが、ここは、ぐっと、こらえて本作鑑賞の邪魔にならぬ配慮をしたつもりであるが、ハーンの注箇所については、どうしても長い注を附さざるを得なかった。目障りとあらば、飛ばしてお読みあれ。なお、底本の本篇の訳者と推定される田部隆次(既にルビを振っているが、「田部」は「たべ」ではなく、「たなべ」と読む)氏の「あとがき」に、本作に就いては、『金十郞と云ふ名は熊本にゐた植木屋の名であつたが、この魂の話は夫人の養母(稻垣とみ子)がヘルンに話した物であつた』と真実を明かしている。以下、『その始めの一つの揷話のやうに『世界の向ふ側に無數の魂を有せる』婦人を書いて居るが、これはヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。ヱリザベス女王は三千着の衣裳をもつてゐたと傳へられるが、ヘルンはこのヱリザベス、ビスランド女史の事を戱れのやうに『一萬の魂の淑女』卽ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた』ともある(後者は私の注で再掲する)。しかも本篇には、それ以外にも、妖しい文学的虚構が施されてあるのである。私の最初の注は、それを幾分かは解き明かしたものとなっているはずである。] 

 

      第二十四章 魂について

 

 象牙の玉のやうに頭の光る老人の植木屋金十郞は、いつも彼のために置いてある火鉢で煙草を吸ひに私の書齋の外側の板の間の端にしばらく腰をかけた。そして煙草を吸つて居る間に手傳の小僧を叱らねばならなくなつた。小僧は何をしてゐたか私はよく分らなかつた。ただ私は金十郞がを一つ以上もつて居る人らしくなるやうにせよと云つて居るのを聞いた。それでその言葉が面白かつたので私は出て行つて金十郞の側に坐つた。

 『金十郎さん』私は云つた『私は自分では魂が一つあるかもつとあるか知らない。しかしあなたはいくつもつて居るのか聞かせて下さい』

 『私はやつと四つもつて居ります』と金十郞は動かす事のできない自身をもつて、答ヘた。

 『四つ』と私は分らなかつたやうな氣がして反響のやうに云つた。

 『四つです』彼はくりかへした。『しかしあの小僧は一つしかもてません。それ程辛抱が足りません』

 『そしてどうしてあなたは四つある事が分りましたか』私は尋ねた。

 『賢い人があります』小さい銀きせるから吸殼を落しながら彼は答へた「こんな事を知つて居る賢い人があります。それからそんな事を書いた古い本があります。人の年齡と生れた時と天の星とで魂の數が判じられます。しかしこれは昔の人の知つて居る事で、西洋の事を學んで居る今の若い人は信じません』

 『それから金十郞さん、あなたよりもつと澤山をもつて居る人は今ゐますか』

 『ゐますとも。五つもつて居る人も、六つの人も、七つの人も、八つの人もゐます。しかしどんな人でも九つ以上は神樣がお許しになりません』 

 

 〔ところでこれは、一般の事としては、私は信じられない。何にしろ世界の向う側にはを無數有して、それを皆使用する事を知つて居る婦人を記憶して居るから。外の女が着物を着るやうに、そして一日に幾度もそれを着換へるやうに、この婦人は自分の魂を取換へてゐた。そしてヱリザベス女王の簞笥の中の着物の數でもこの不思議な人の魂の數と比べては物の數でもない。その理由で彼女は二度と同じに見えた事はない、そして考や聲を魂と共に變へた。どうかすると南部の人となつて眼が茶色になつた、又再び北部の人になつて眼は灰色になつた。時として十三世紀の人になつたり、時として十八世紀の人になつたりした、それで人がこれを見て、皆自分の感覺を疑つた、そして皆彼女から寫眞を何枚か貰つてそれを比較して見て、眞相を發見しようとした。ところで寫眞師は、彼女が非常に綺麗なので喜んで寫眞をとつた。が、やがて彼女が二度と同じでない事を發見して、彼等も困つてしまつた。そこで彼女に最も感嘆してゐた人でも彼女を愛するなどと云ふ氣になれなくなつた。それは愚かな事だから。彼女は要するに魂は餘り多くあり過ぎた。それで私の書いたこの事を讀んだ方のうちでこれが本當である事を保證して下さる方があるだらう〕

[やぶちゃん注:昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、この近代の霊媒師について、幾つかの心霊関連の蔵書を調べて見たのだが、どうもこの内容にぴったりくる人物がいなかった。多数の過去現在の死者の霊を憑依させ、しかも虹彩の色まで変化する、写真を撮っても一枚として同じ人物に見えない(という女性霊媒師というのは如何にも魅力的であったから調べたことを告白しておく)というのは、この一八〇〇年代当時ならば、相当に有名な霊能者のはずだが、行き当たらなかった。ところが、今回、底本の田部隆次氏の後書きを読むに及んで、そこに本件に就いて、この婦人は『ヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。エリザベス女王』(エリザベス一世(一五三三年~一六〇三年)『は三千着の衣裳を持つてゐたと傳へられるが、ヘルンはこのエリザベス、ビスランド女史の事を戲れのやうに『一萬の魂の淑女』卽ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた』とあるのに「やられた!」と思わず叫んでしまった。エリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)は、ハーンの女友達であったアメリカのジャーナリスト・編集者である。以下、ウィキの「エリザベス・ビスランド」より引く。一八八九年から一八九〇年にかけて同じアメリカの女性記者ネリー・ブライ(Nellie Bly:但し、これはペンネームで、本名はエリザベス・ジェーン・コクラン(Elizabeth Jane Cochran 一八六四年~一九二二年)である。但し、後に姓を「コクレーン」(Cochrane)に変えている)と『争った世界一周レースで世界から注目を集めた。日本においては、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と親交を持ち、八雲の没後に英語による伝記を執筆したことで知られる』。『ビスランドはルイジアナ州セントメアリー郡のファイアファックス農場に』生まれたが、『南北戦争中、フォート・ビスランドの戦い』『に先立ち疎開している。家族が農場に戻ってからの生活は困難を極め、彼女が』十二歳の『時に、父が相続した実家のある同じルイジアナ州のナッチェズ』に転居している。ビスランドは十代で『その文筆家としての経歴をニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット(タイムズ=ピカユーンの前身の一つ)に「BLRDane」の筆名で詩を投稿することから始め』、『ひとたび執筆活動が家族や新聞の編集者に知られると稿料が支払われ、ほどなく彼女はニューオーリンズに赴いてニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットで働くようにな』ったが、『この新聞社にはラフカディオ・ハーンが在職しており、ハーンと親交を結んだ』。一八八七年頃、『ビスランドはニューヨークに移り』、雑誌『『ザ・サン』から現地での最初の仕事を得』、一八八九年まで彼女は『ニューヨーク・ワールド』を含む、多くの出版社で働い』たが、その後、『雑誌『COSMOPOLITAN』の編集者になり、その一方で』、『アトランティック』や『ノースアメリカン・レビュー』といった雑誌にも投稿していた。一八八九年十一月に『ニューヨーク・ワールド』社は、『ジュール・ヴェルヌの小説「八十日間世界一周」の主人公・フィリアス・フォッグ』による八十日間の『空想旅行を上回る試みとして、ネリー・ブライ記者を世界一周に派遣すると発表した。この耳目を集める宣伝を受け、創刊から』三年しか『経っていない雑誌『コスモポリタン』を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカー』は、対抗してビスランドを、急ぎ、旅行に派遣することに決め、実にビスランドは呼び出されて六時間後には『ニューヨークから西へと出発した。一方、ブライは蒸気船に乗って』一八八九年十一月十四日(ビスランドと同じ日か?)『に東向きに出発した。彼女たちの旅行は熱心に報じられたが、ブライは人気があったニューヨーク・ワールドでセンセーショナルに取り上げられる支援を受けた(ビスランドは同紙ではほとんど無視された)ことで、ビスランドおよび月刊誌に過ぎない上に上品な『コスモポリタン』よりも多くの注目を集めるようになった』。八十日間の『期限に挑んでいたブライは』、十二月二十五日に香港に到着するまで、実は『ライバルの存在を知らなかった。その地でオクシデンタル&オリエンタル汽船会社の社員が、ビスランドが』三日先に通ったのでブライは負けるだろうと告げた』ことで知ったとする。『しかし最終的にブライはビスランドに打ち勝った。イングランドでは、雑誌社が船会社に金品を贈って船の出発を遅らせたにもかかわらず、予定していたドイツの高速汽船「エムス」に乗り遅れてサウサンプトンに取り残されたと言われて(おそらくは信じられて)いた。彼女が故意に欺かれたのかどうかは不明である』。『ビスランドは速度の遅い「ボスニア」に乗ることを余儀なくされ』、一月十八日に『アイルランドのクイーンズランド(コーヴ)から出発したが』、この時既に『ブライは優位に立って』おり、『ブライはその間、特別仕立ての列車に乗ってアメリカ大陸を横断』、一八九〇年一月二十五日午後三時五十一分に『終着点のニュージャージー州に到着し』、七十二日と六時間十一分『(雑誌『ワールド』が彼女の到着時間を当てるコンテストを実施したため、正確な時間が測定された)で世界一周旅行を達成した。ビスランドの船は』一月三十日までに『ニューヨークに到達しなかった』ものの、結局七十六日半で『旅行を完遂し、フォッグによる架空の記録は上回った』。『ビスランドは『コスモポリタン』誌に旅行記を連載し』、これは後にハーンが来日した翌年に単行本“ In Seven Stages: A Flying Trip Around The World ”(一八九一年)として刊行されている。『ビスランドの文章は、世界一周レースへの参加という題材から受ける印象よりも、ずっと文学的な範疇のもの』でブライが旅行を綴った「七十二日間世界一周」の『勢いが先走ったスタイルとは明確な対照をなしていた』。実際、一九二九年に『ニューヨーク・タイムズ』が掲載したビスランドの『死亡記事には旅行すら言及がなく』、『「世界一周競争」後の彼女は執筆活動をよりまじめな題材に集中させた』。一九〇六年(ハーン小泉八雲の没年は明治二七(一九〇四)年)には“ The Life and Letters of Lafcadio Hearn ”(ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡)『を刊行して好評を得』ている。『ビスランドは法律家のチャールズ・ホイットマン・ウェットモアと』一八九一年に結婚したが、『旧姓で著作の出版を続けた』。ハーンより十一年下で、新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」の上田氏の年譜には、一八八二年(明治十五年)に『知友』として彼女の名が挙がり、来日に際しても、明治二三(一八九〇)年『四月四日、横浜到着。ただちにグランド・ホテルにビスランド嬢の紹介でミッチェル・マクドナルドを訪問』とある。しかし、どこにも、彼女が霊を憑依させ、虹彩の色を変え、姿形を千変万化するとはどこにも書いてない。これはハーンのお遊びなのであった。それに真面目に付き合ってこの驚くべき、ありもしない霊媒を探した若き日の私は、いい面の皮だったのであった。そういう目に、この電子テクストを読む方が遭わぬように、敢えて細かく注することとした。因みに、彼女が紹介した、米国海軍主計官で横浜海軍病院に勤務していたミッチェル・マグドナルド(Mitchell MacDonald 一八五三年~大正一二(一九二三)年)は、風呂鞏し)「八雲と震災との切れぬ縁、また一つ」(住吉神社発行の月刊『すみよし』所載)によれば、日本でのハーンの面倒を当初から見た人物で、『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理者として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)。

 最後に一言。「が、やがて彼女が二度と同じでない事を發見して、彼等も困つてしまつた。そこで彼女に最も感嘆してゐた人でも彼女を愛するなどと云ふ氣になれなくなつた。それは愚かな事だから。彼女は要するに魂は餘り多くあり過ぎた」と書くハーン、実は彼女エリザベス・ビスランドを愛していたのかも知れないと、あなたは、ちらっと、思われないだろうか? 私は、そう、思う。ぶっ飛びの烈女見たような新進気鋭の新時代の女性ジャーナリストは、確かに十一年上のハーンには、ちょっと無理――という気はする。しかし……因みに……エリザベス・ビスランドってチャーミング(リンク先は“Elizabeth Bisland’s Race Around the World _ The Public Domain Review”の画像附ページ)なんである(!)…… 

 

 『金十郎さん、この神國ではあなたの云ふ事は本當でせう。しかし、黃金でつくつた神樣しかない國が外にあります、そんな國では、物事がさうよく整つてゐません、それでそこの人々はの病で惱んでゐます。と云ふのは、半分しかがない人があつたり、全くのない人があつたりするかと思ふと、又それぞれ仕事、仕事も滋養も與へてやれない程澤山があり餘る程持ち込まれて居る人もあります。それでこんなやうなはその持主を殊の外苦しめます。つまり、これは西洋の魂ですが、しかし一つ二つでなく、もつと澤山の魂をもつてゐて何になるのですか、どうか、それを聞かせて下さい』

 『旦那、もし皆が同じ數や性質のをもつてゐたら、きつと皆が同じ心になるのでせう。しかし人は皆お互に違ふ事が分ります、それでその違ふのはの數や性質が違ふからです』

 『そしてを少しでなく、澤山もつて居る方がよいのですか』

 『い〻のです』

 『そしてたつた一つ魂をもつて居る人は不完全な人ですか』

 『大層不完全です』

 『それでも大層不完全な人で完全な先祖をもつて居る人もあるでせうね』

 『さうです』

 『それぢや今日たつた一つのをもつて居る人で九つのをもつた先祖から出て居る人もありませう』

 『はい』

 『それでは先祖にはあつたが子孫にはないと云ふ外の八つのはどうなつたでせう』

 『あ〻それは神樣の仕業です。神樣だけが私共銘々のために魂の數をきめて下さいます。えらい人々には澤山、つまらない人には少し』

 『それなら兩親からが傳はるわけぢやないね』

 『い〻え、大へん古いものです魂と云ふものは、その年數は數へられません』

 『そしてこんな事を承りたい、人はを分ける事ができますか。たとへば京都に一つ、東京に一つ、松江に一つ、皆同時にもつて居られますか』

 『できません、いつでも皆一緖です』

 『どうして。一つの中に又外のがある、丁度印籠のいくつもあるあの漆を塗つた小さい箱のやうにですか』

 『い〻え、それは神樣でなければ分りません』

 『そして魂は決して分れませんか』

 『時々分れる事もあります。しかし人のが分れたら、その人は狂人になります。狂人は魂を一つなくした人です』

 『しかし死んだらはどうなります』

 『やはり一緖になつてゐます。……人が死ぬとが家の屋根に上ります。そして四十九日の間屋根の上に停まつてゐます』

 『屋根のどこにです』

 『屋根の棟にがとまつてゐます』

 『見えますか』

 『い〻え、魂は空氣のやうです。小さい風のやうに屋根の棟の上をあちこち動きます』

 『何故四十九日でなく、五十日の間屋根にゐないのでせうか』

 『魂が去つてしまはねばならぬその前に七週間と云ふのが與へられた時間です、七週間で四十九日になります。しかし何故かうなるのだか私に分りません』

 私は死人の魂は家の屋根にしばらく停まつて居るものと云ふ昔の信仰を知らないではなかつた、それは多くの日本の芝居、殊に人を泣かせる加賀見山と云ふ芝居に充分明瞭に出て居るからである。しかし私は前に三重又は四重或はそれ以上のの事は聞いた事はなかつた、それで私は金十郞に彼の信仰の基づいて居る處を知らうと思つて聞いて見たが駄目であつた。祖先傳來の信仰、彼の知つて居る事はそれだけであつた。

[やぶちゃん注:「加賀見山」これは「草履打ち」で知られる歌舞伎「鏡山舊錦繪(かがみやまこきやうのにしきゑ)のことと思われる(歌舞伎版の作中時代は鎌倉初期。リンク先は、以下、それぞれのウィキ)。これは容楊黛(ようようたい)作の人形浄瑠璃「加々見山舊錦繪(かがみやまこきやうのにしきゑ)」(天明二(一七八二)年江戸外記(げき)座初演。本作は、この上演の四十年程前に加賀藩で起きた加賀騒動を素材とするが、時代は室町にずらされてある)の一部を歌舞伎に脚色したもの。現行では文楽と同じく「加賀見山舊錦繪」の外題で上演されることもある。通称「鏡山」であるが、ウィキの「鏡物」によれば、人形浄瑠璃初演の翌年、『江戸森田座において同名の外題で歌舞伎として上演され大当たりを取った。ただしこの時は原作の浄瑠璃の内容を増補改変して上演して』おり、その後の寛政二(一七九〇)年の春、江戸中村座に於いて「春錦伊達染曾我(はるのにしきだてぞめそが)」の三番目に『この鏡山物を出したが、これは初代桜田治助によって定例の曽我物の世界に脚色されたものであった』。『本来、「加々見山」(鏡山)とは加賀騒動をほのめかしたものだが、この』寛政二年の『上演以降、江戸の芝居では岩藤・尾上・お初の出る場面が原作の加賀騒動からは離れ、曽我物や隅田川物、また清玄桜姫物などとない交ぜにして上演されている。清玄桜姫物と同様、当時一日かけてする芝居の内容としてはこれだけでは足らなかったからである。従って鏡山物とは、加賀騒動物という意味ではない。繰り返し上演された鏡山物のなかで、特に注目すべきは上にあげた『春錦伊達染曽我』の三番目と』文化一一(一八一四)年三月に『市村座で初演された『隅田川花御所染』であり、原作の浄瑠璃にはない「竹刀打ち」という場面を加えるなど、これらの内容や演出が今に伝わる歌舞伎の『鏡山旧錦絵』の基本となった』とある。ただ、私は文楽好きではあるものの、「加々見山舊錦繪」は見たことがなく、床本も持ち合わせていない。しかも私は大の歌舞伎嫌いであるためにインスパイアされた「鏡物」には全く冥い。されば、ハーンが、ここで「死人の魂は家の屋根にしばらく停まつて居るものと云ふ昔の信仰」が「加賀見山と云ふ芝居に充分明瞭に出て居る」と言っている箇所が残念なことに全く判らない。識者の御教授を乞うものである。] 

 

    註一。あとで私にこの老人が、それ
    を充分證明するためには大き本にな
    るやうな或種類の信仰――支那の占
    星學に基づいて居るが佛敎や神道の
    說で附加修正されて居るらしい信仰
    をただ云つてゐた事が分つた。この
    複雜な魂の考は支那の十二宮と十の
    天體系の間の星學上の關係の豫備知
    識がなければ說明ができない。チヱ
    ンバレン敎授の『日本事物』と云ふ
    立派な、小さい本の『時』と云ふ不
    思議な文を讀めば多少會得ができよ
    う。この關係が分つたとして、支那
    の星學上の系統では每年は『五行』
    ――木、火、土、金、水、のどれか
    に支配を受ける。そして誕生の日と
    年によつて、人の氣質は天體的にき
    まる。記憶し易いやうしてある日本
    の歌に、五行の何れかに配すべき魂
    或は性質の數が詠み込んである、
    卽ち木に九つ、火に三つ、土に一つ、
    金に七つ、水に五つの魂がある、
    ―
    『きくからに、祕密の山に、土一つ、
    七つ金とぞ御推量あれ』
     銘々が『長』『幼』と分れるから、
    五
行が十の天體系となる、その影響
    が
十二支と混交して、――それが皆、
    時、所、生命、幸、不幸、等に關係
    して來る。しかしこんな事を云つて
    見ても、この問題は實際如何に非常
    に複雜して居るか分らない。
     老植木屋の云つた書物――歐洲の
    どの國にもある占の本のやうに日本
    で普く知られて居る本は三世相であ
    る。これは今でも求められる。しか
    し、かう云ふ事に通じて居る人の說
    では、金十郞の意見と反對で、魂を
    餘り澤山もつて居るのは餘り少いの
    と同じく惡いと云ふ事である。九つ
    の魂をもつて居るのは『氣がおほす
    ぎる』に事になつて――正しい目的
    がない事になる、一つしかないのは
    早い智惠が缺けて居る。支那の占星
    學によれば、『天性』『性格』と云
    ふ方、この場合『魂』と云ふ言葉よ
    りも或はもつと正確であらう。こん
    な信仰から生れ出た奇妙な想像が澤
    山
ある。數百のうちから一つ例を引
    け
ば、火の性の人は水の性の人と結
    婚
してはならない。それでどうして
    も
一度和合しない二人の事を『火と
    水
のやう』と云ふ俚言がある。

 

[やぶちゃん注:ここでハーンが説明しているのは古代中国を濫觴とする「九星」(きゅうせい)という民間信仰を指す(詳しくはウィキの「九星」を参照されたい)。私はその生れた年月日の九星と干支・五行を組合わせた占術の内容から、当初、「九星気学」(きゅうせいきがく)」のことと一人合点していたが、「九星気学」は、九星術を元に明治四二(一九〇九)年に園田真次郎が起こしたものであって、それは本篇時制時(明治二四(一八九一)年)の後であることが判ったことを附記しておく。但し、陰陽五行説も、十干十二支も、そして恐らくは七星も、中国の古代哲学に於いては、元来、純粋な記号であって、九星が九つの魂を意味するなどという意味は本来的にはないと私は思う。

「三世相」これは「さんぜさう(さんぜそう)」と読むが、「本」と言っても、書誌学上、こうした書名の唯一冊の書物が存在するわけではないので注意されたい。「三世相」自体が、生年月日の干支や人相などを仏教の因縁説、及び、陰陽五行説の相生相剋説などを援用合成して、個人の過去・現在・未来の因果・吉凶などを易断することを指し、またそれについて、庶民に分かるように平易に解説した書物群をも指すもので、ここは後者の謂いである。なお、この語には「人の吉凶禍福などが循環して定まらぬこと」の意もある。] 

 

 大槪の出雲人のやうに、金十郞は神道の信者であると共に佛敎の信者でもあつた。佛敎では禪宗、神道では出雲大社に屬してゐた。しかも彼の本質論はどちらの物でもないやうに思はれた。佛敎では、人のは複雜にいくつもあると云ふ說は敎へない。一般の人には分らない古い神道の書物がある、それには金十郞の說と甚だ隔りはあるが似寄つた說をのべてある、しかし金十郞はそれを見た事はない。その書物によれば人間には皆二つの魂がある、一つは執念深い荒魂(アラタマ)、一つは寬大なる和魂(ニギタマ)である。その上人間には大禍津日神(オホマガツビノカミ)の魂も、又それと反對の力ある大直昆神(オホナホビノカミ)の魂もついて居る。これは正しく金十郎の考ではない。しかし私は金十郞が魂の分れる事があると云つたので平田の書いた事を思ひ出した。平田の敎では人の靈魂はその肉體を離れ、その人の姿となつて、本人の知らないうちに憎んで居る敵を亡ぼす事があると云ふのである。そこで私はそれについて金十郞に尋ねた。金十郞は荒魂や和魂のことは聞いた事がないと云つた、しかし私にこんな事を告げた。

[やぶちゃん注:「その書物によれば人間には皆二つの魂がある、一つは執念深い荒魂(アラタマ)、一つは寬大なる和魂(ニギタマ)である。その上人間には大禍津日神(オホマガツビノカミ)の魂も、又それと反對の力ある大直昆神(オホナホビノカミ)の魂もついて居る」「・」で分割して注する(といっても私は国学院大学出身乍らm神道に滅法冥いので、ほぼウィキの引用である)。

・前半の「その書物」の最古のものは「日本書紀」で、「神功皇后攝政前紀」に新羅征討の際に神功皇后に「和魂(にぎみたま)は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったとする箇所であろうと思われる(ウィキの「一霊四魂(いちれいしこん)」に拠る)。

・「荒魂」「和魂」ウィキの「荒魂・和魂」によれば、『荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである』。『荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている』。『和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる』。『江戸時代以降、復古神道がさかんとなり、古神道の霊魂観として、神や人の心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と』四つの『魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようにな』った、とあるので、続けてウィキの「一霊四魂(いちれいしこん)」から引用する。『一霊四魂のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというもので』、『和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる』。但し『一般に、「一霊四魂」は古神道の霊魂観として説明されるが、実際には中世や近世になってから唱えられた概念であり、古典上の根拠は必ずしも十分ではな』く、古記録から『神には四魂があり、それらは別個に活動することがあるとまではいえるが、人にも四魂があるとまではしがたく、一霊四魂説は、神の魂を人にあてはめようとした、神学的な解釈から生み出されたとみることもできる』。なお、『本居宣長は、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」に、三輪山の神は大国主命の和魂だとあることなどを根拠に、四魂には大きく荒魂と和魂の』二種があり、『和魂にはさらに幸魂と奇魂の働きがあるとしており、四魂を並列的にみるようなことはしていない』。『近世になって復古神道がさかんになると、一霊四魂は古神道の霊魂観として重視され、本田親徳や出口王仁三郎らによって、構造や機能が詳述されていくこととなる』とある。ハーンの謂いはこの一霊四魂説に基づく謂いと考えてよかろう。

・「大禍津日神(オホマガツビノカミ)の魂」の「大禍津日神」とは神名で(以下、ウィキの「禍津日神」より引用。下線やぶちゃん)、『禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる』。『神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている』。『これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている』。『神話では、禍津日神が生まれた後、その禍を直すために直毘神(なおびのかみ)二柱と伊豆能売が生まれている』。『なお、『日本書紀』同段第十の一書ではイザナギが大綾津日神を吹き出したとして』おり、『これが穢れから生まれたとの記述はないが、大綾は大禍と同じ意味であり、大禍津日神と同一神格と考えられている』。『後に、この神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった』が、『この場合、直毘神が一緒に祀られていることが多い』。後の国学者『本居宣長は、禍津日神を悪神だと考え』、『禍津日神は人生における不合理さをもたらす原因だという』。『この世の中において、人の禍福は必ずしも合理的に人々にもたらされず、誠実に生きている人間が必ずしも幸福を享受し得ないのは、禍津日神の仕業だとし』、『「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」(『直毘霊』)と述べている』。『一方、平田篤胤は禍津日神を善神だとし』、『禍津日神は須佐之男命の荒魂であるという』。『全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂としている)の分霊を授かっているのだという』。『人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした』。『つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だと』言い、『またその怒りは直毘神の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした』とある。個人的には平田説を支持する。

・「大直昆神(オホナホビノカミ)の魂」「大直昆神」も神名。ウィキの「直毘神から引く(下線やぶちゃん)。『穢れを払い、禍(まが)を直す神とされる』。『日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。『古事記』では八十禍津日神・大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ)と伊豆能売』(いづのめ)『の三柱が成ったとしている。『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神が成った後に神直日神(かみなほひのかみ)大直日神(おほなほひのかみ)の二柱の神が成ったとしている。同段第十の一書では少し異なっており、イザナギが禊の際に大直日神を生み、その後に大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を生んだとしている』。『ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉であり、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。また、直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる』。

「金十郎が魂の分れる事があると云つたので平田の書いた事を思ひ出した。平田の敎では人の靈魂はその肉體を離れ、その人の姿となつて、本人の知らないうちに憎んで居る敵を亡ぼす事があると云ふのである」平田篤胤の当該記載箇所を捜し得ない。識者の御教授を乞う。]

 

 『旦那、人が妻に内證で他に愛して居るものがある事を妻にさとられると、その隱女は時々どんなお醫者でも直せない病氣になる事があります。そのわけはその人の妻の魂が一つ、餘程の腹立ちで、その女のからだにのりうつつてその女を殺さうとするのです。しかし妻の方でも魂が一つなくなつたから病氣になるか、或は暫く狂氣になります。

 『それから日本の私共には知られて居るが、西洋のあなた方がお聞きになつた事のないもつと不思議な事がもう一つあります。神樣の力で、正しい目的で時々魂がそのからだから暫く離れて、その最も祕密にして居る思ひを云ふやうになる事があります。しかしからだにはその時何の苦痛も起りません――そしてその不思議な事はこんな風に起ります――

 『或男が或女を愛してゐます、結婚する事も自由ですが、その女の方でも自分を愛してくれて居るかどうかは分りません。男は神社の神主に遇ふて、その疑を話し、神樣【註二】の力を借りてその疑を解かうと致します。そこで神主はその男の名は聞かないが、年齡と生れた年月日時刻分聞いて神樣に分るやうに記します、そして七日たつて又神社へもどつて來るやうに申します。

    註二。普通稻荷堂。大きな神社で
        はこんな事は行はれない。

 『そしてその七日の間に神主はその疑の解けるやうに神に祈りを致します、それから一人の神主は每朝冷い淸い水で沐浴して食事每に神の火で煮焚した物だけを喰べます。そして八日目にその男は神社へ歸つて來て、神主の迎へてくれる奧の一室へ入ります。

 『儀式が行はれて、何か御祈禱が始まります、それがすんで皆默つて待つてゐます。それから齋戒沐浴をしてゐた神主の全身が不意に烈しく震ひ出します、丁度大熱で震ひ出して居る人のやうです。ところでこれは神樣の力で、その愛して居るかどうか分らぬと云ふ女の魂が神主のからだへ、全くおづおづと入つたからです。女は知りません、その時どこにゐても、すつかり眠つてゐてどうしたつて起す事ができないのですから。しかしその女の魂は神主のからだへ呼び込まれてゐて、本當の事をしか云へないのです、そして思つて居る事を皆云ふやうになります。そして神主は自分の聲でなく、女の魂の聲で申します、そしてその魂になつて、少しも僞りなく『好きです』とか『嫌です』とか申します、それも女の言葉で。もし嫌ならばその嫌の理由を申します、しかし、もしその答が好きな方のなら、云ふ程の事はありません。そしてそこで神主の身ぶるひは終ります、それは魂が神主から去つたからです、そして死んだやうに俯向きになつて倒れて、長くそのままになつてゐます』 

 

 こんな不思議な話が皆すんだあとで私は尋ねた、『金十郞さん、あなたは神樣の力で魂が離れて、神主の心にのりうつつた事を知つて居るのなら、聞かせて下さい』

 『はい、私は自分で分つた事があります』

 私は默つて待つてゐた。老人はきせるをたたいて、火鉢の側へなげ出して、手を組んで、それから話す前にしばらく蓮の花を眺めた。それからにつこりして云つた――

 『旦那、私は大層若い時に結婚しました。長い間子供がありませんでした、それからお仕舞に妻が悴を一人產んで、そして佛になりました。しかし忰は死なないで大きくなつて立派に達者になりました、そして西南戰爭の時天子樣の軍隊に入りました、そして九州の南の方の大戰爭で男らしく討死致しました。私には可愛い忰でした、忰が天子樣のために討死ができたと聞いた時私は嬉し泣きに泣きました、さむらひの忰にとつてこれより立派な死に方はないのですから。そこであの立派な城のある、名高い都の熊本近くの或山の上に忰が葬られました。そこで私もその墓を綺麗にするために參りました。しかしここでも二の丸にある記念碑に忰の名はやはり彫つてあります、その記念碑【譯者註一】は天子樣のために忠義と名譽の戰爭に倒れた出雲の人々のために建ててあるのです。そして私は忰の名をそこで見ますと嬉しくなります、そして忰と話します、さうすると大きな松【譯者註二】の樹の下で忰が又私の側を歩いて居るやうな氣が致します……しかしそれは別の事です。

[やぶちゃん注:「西南戰爭」は、明治一〇(一八七七)年であるから、虚構の本作品内時間(明治二四(一八九一)年)からは十四年前となる。冒頭に注したように、これがセツの養母からの聴き書きとするならば、ストリー上での操作が全くないと仮定すると、それは恐らくもっと短い、ほんの数年前となることになる。金十郎の追懐の雰囲気は、確かにそんな気が私はするのである。]

 

 『私は妻のために悲しみました。一緖にゐた間、私共は何一つ厭な事を云ひ合つた事はありませ。そして妻が死んだ時、私はもう二度と結婚はしまいと思ひました。ところが二年たつてから兩親は家に娘が欲しくなりました、そしてその事を私に云つて、貧乏だが家柄のよい綺麗な娘の話を致しました、その家は私の親戚で、その娘が一人で一家を支ヘて居るのでした、娘は絹の着物、木綿の着物を織つて、それで極僅かの金を儲けてゐました。それでその娘が親孝行で美しいのとその家の運が惡いのとで、私の兩親はその娘を貰つてその家の人達を助けるやうに思つたのです、その頃は私共も少し米の收入もあつたものですから。それでいつも兩親の云ふ通りになつてゐましたから、私は兩親の一番よいと思ふ通りに任せました。そこで仲人を呼んで、婚禮の準備に取りかかりました。

 『娘の兩親の家で、私は二度娘を見る事ができました。そして始めて見た時には自分は幸福だと思ひました、娘は大層綺麗で若かつたからです。しかし二度目に娘が泣いて居るのと、その眼が私の眼を避けて居るのに氣がつきました。そこで私は力を落しました、それは、私は娘に嫌はれて居る、それから皆が娘を强いてこんな事にしたのだ、と思つたからです。そこで私は神樣に聞いて見ようと決心しました、そして婚禮を延ばして貰ふやうにして、材木町の柳の稻荷樣【譯者註三】へ參りました。

[やぶちゃん注:「材木町」現在の松江市末次本町附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。ハーンが最初に住まった旅館富田屋の北直近であった。]

 

 『そしてからだが震ひ出すと、神主に娘の魂がのりうつつて話し出して、私にかう白狀しました「私の心はあなたを嫌ひます、そして顏を見ても病氣になります、外に私の好きな人があるからです、そしてこの婚禮は私に强いられたのだからです。しかし私の心ではあなたは嫌でも、兩親は貧乏で年寄て、私獨りでは長く長く續いて兩親を養ふ事ができない程私の仕事が苦しいから、あなたと結婚しなければなりません。しかしどれ程私が忠實な妻にならうとしても、私のためにあなたのうちは少しも良い事はありません、それは私の心は中々執念深くあなたを嫌つて居るからです、そしてあなたの聲を聞いても胸が惡くなります、それから顏を見ると死にたくなります』

 『こんな風に眞相が分つて、私は兩親にそれを云ひました、そして私は娘に知らないで迷惑をかけた事を赦して貰ひたいと丁寧な手紙をやりました、そして世間の口に上らないで婚禮の破談になるやうに長い間假病を使ひました、そしてその家へ贈物を致しました、そして娘は喜びました。娘はその後愛して居る若い男と添ふ事ができたからです。兩親は再び妻帶を强いませんでした、兩親が亡くなつてから獨りでくらしてゐます……あゝ旦那、あの小僧の實にいけない事を御覽なさい』

 

 私共の話込んで居るのに乘じて、金十郞の若い助手は竹の棒と絲切れと卽成釣竿とし老人の煙草入れから盜んだ煙草を小さい玉にしてその絲の端につけて置いた。この餌で彼は蓮池で釣をしてゐた、そして一匹の蛙がそれを呑んで小石のずつと土に高くさがつてゐた。大の字になつてぐるぐる𢌞りながら癇癪と絕望の餘り狂亂の痙攣で蹴つてゐた。

 『梶』と植木屋は呼んだ。

 小僧は笑つて釣竿を落して、平氣な顏をして私共の處へ走つて來た、蛙の方は煙草を吐き出して蓮池の方へぶくぶくかへつた。たしかに梶は叱られる事を恐れてゐなかつた。

 『後生が惡い』老人は象牙頭をふりながら云つた。『おい、梶、お前の後生はよくないぞ、心配だ。蛙にやるための煙草ぢやないよ。旦那、この小僧は一つしかもちませんと申したのは本當でせう』

    譯者註一。二の丸、松江の舊城。こ
    の記念碑は故籠手田知事が以前島根
    縣官民に說き、十年戰爭の島根縣出
    身死者のため、銅を鑄て建てしもの、
    もと二の丸にありしが數年前天守閣
    の入口の邊へ遷した。
    譯者註二。記念碑の二の丸にありし
    時に、その附近に直政公手植松と稱
    する二本の亭々たゐ巨松ありしが、
    一本は今も老幹依然聳えて壯觀をな
    せども一本は枯れた。ここではこの
    松のことを云つて居る。
    譯者註三。この稻荷は數年前まで存
    在せしが、『新大橋』架設の際、道
    路
新設のためと小さい神社併合実施
    の
ためとで、今は鍛冶町の船玉稻荷
    と
併合された。松江の人は『柳稻荷』
    と
呼んでゐたのは社の背後に老柳あ
    り
しため。

[やぶちゃん注:「『新大橋』架設」初代新大橋の架設は大正三(一九一四)年で、本底本の刊行は大正一五(一九二六)年である。]

 

 

ⅩⅩⅣ

 

OF SOULS.

 

  KINJURŌ, the ancient gardener, whose head shines like an ivory ball, sat him down a moment on the edge of the ita-no-ma outside my study to smoke his pipe at the hibachi always left there for him. And as he smoked he found occasion to reprove the boy who assists him. What the boy had been doing I did not exactly know; but I heard Kinjurō bid him try to comport himself like a creature having more than one Soul. And because those words interested me I went out and sat down by Kinjurō.

   'O Kinjurō,' I said, 'whether I myself have one or more Souls I am not sure. But it would much please me to learn how many Souls have you.'

   'I-the-Selfish-One have only four Souls,' made answer Kinjurō, with conviction imperturbable.

   'Four? re-echoed I, feeling doubtful of having understood 'Four,' he repeated. 'But that boy I think can have only one Soul, so much is he wanting in patience.'

   'And in what manner,' I asked, 'came you to learn that you have four Souls?'

   'There are wise men,' made he answer, while knocking the ashes out of his little silver pipe, 'there are wise men who know these things. And there is an ancient book which discourses of them. According to the age of a man, and the time of his birth, and the stars of heaven, may the number of his Souls be divined. But this is the knowledge of old men: the young folk of these times who learn the things of the West do not believe.'

   'And tell me, O Kinjurō, do there now exist people having more Souls than you?'

   'Assuredly. Some have five, some six, some seven, some eight Souls. But no one is by the gods permitted to have more Souls than nine.'

 

    [Now this, as a universal statement, I could not believe, remembering a woman upon the other side of the world who possessed many generations of Souls, and knew how to use them all. She wore her Souls just as other women wear their dresses, and changed them several times a day; and the multitude of dresses in the wardrobe of Queen Elizabeth was as nothing to the multitude of this wonderful person's Souls. For which reason she never appeared the same upon two different
occasions; and she changed her thought and her voice with her Souls. Sometimes she was of the South, and her eyes were brown; and again she was of the North,
and her eyes were grey. Sometimes she was of the thirteenth, and sometimes of the eighteenth century; and people doubted their own senses when they saw these
things; and they tried to find out the truth by begging photographs of her, and then comparing them. Now the photographers rejoiced to photograph her because
she was more than fair; but presently they also were confounded by the discovery that she was never the same subject twice. So the men who most admired her could not presume to fall in love with her because that would have been absurd. She had altogether too many Souls. And some of you who read this I have written will bear witness to the verity thereof.]
 

 

   'Concerning this Country of the Gods, O Kinjurō, that which you say may be true. But there are other countries having only gods made of gold; and in those countries matters are not so well arranged; and the inhabitants thereof are plagued with a plague of Souls. For while some have but half a Soul, or no Soul at all, others have Souls in multitude thrust upon them, for which neither nutriment nor employ can be found. And Souls thus situated torment exceedingly their owners. . . . That is to say, Western Souls. . . . But tell me, I pray you, what is the use of having more than one or two Souls?'

   'Master, if all had the same number and quality of Souls, all would surely be of one mind. But that people are different from each other is apparent; and the differences among them are because of the differences in the quality and the number of their Souls.'

   'And it is better to have many Souls than a few?' 'It is better.'

   'And the man having but one Soul is a being imperfect?'

   'Very imperfect.'

   'Yet a man very imperfect might have had an ancestor perfect?'

   'That is true.'

   'So that a man of to-day possessing but one Soul may have had an ancestor with nine Souls?'

   'Yes.'

   'Then what has become of those other eight Souls which the ancestor possessed, but which the descendant is without?'

   'Ah! that is the work of the gods. The gods alone fix the number of Souls for each of us. To the worthy are many given; to the unworthy few.'

   'Not from the parents, then, do the Souls descend?'

   'Nay! Most ancient the Souls are: innumerable, the years of them.'

   'And this I desire to know: Can a man separate his Souls? Can he, for instance, have one Soul in Kyōto and one in Tōkyō and one in Matsue, all at the same time?'

   'He cannot; they remain always together.'

   'How? One within the other,— like the little lacquered boxes of an inrō?'

   'Nay: that none but the gods know.'

   'And the Souls are never separated?'

   'Sometimes they may be separated. But if the Souls of a man be separated, that man becomes mad. Mad people are those who have lost one of their Souls.'

   'But after death what becomes of the Souls?'

   'They remain still together. . . . When a man dies his Souls ascend to the roof of the house. And they stay upon the roof for the space of nine and forty days.'

   'On what part of the roof?'

   'On the yane-no-mune,— upon the Ridge of the Roof they stay.'

   'Can they be seen?'

   'Nay: they are like the air is. To and fro upon the Ridge of the Roof they move, like a little wind.'

   'Why do they not stay upon the roof for fifty days instead of forty- nine?'

   'Seven weeks is the time allotted them before they must depart: seven weeks make the measure of forty-nine days. But why this should be, I cannot tell.'

   I was not unaware of the ancient belief that the spirit of a dead man haunts for a time the roof of his dwelling, because it is referred to quite impressively in many Japanese dramas, among others in the play called Kagami-yama, which makes the people weep. But I had not before heard of triplex and quadruplex and other yet more highly complex Souls; and I questioned Kinjurō vainly in the hope of learning the authority for his beliefs. They were the beliefs of his fathers: that was all he knew. [1]

   Like most Izumo folk, Kinjurō was a Buddhist as well as a Shintōist. As the former he belonged to the Zen-shū, as the latter to the Izumo-Taisha. Yet his ontology seemed to me not of either. Buddhism does not teach the doctrine of compound-multiple Souls. There are old Shinto books inaccessible to the multitude which speak of a doctrine very remotely akin to Kinjurō's; but Kinjurō had never seen them. Those books say that each of us has two souls,— the Ara-tama or Rough Soul, which is vindictive; and the Nigi-tama, or Gentle Soul, which is all-forgiving. Furthermore, we are all possessed by the spirit of Oho-maga-tsu-hi-no- Kami, the 'Wondrous Deity of Exceeding Great Evils'; also by the spirit of Oho-naho-bi-no-Kami, the 'Wondrous Great Rectifying Deity,' a counteracting influence. These were not exactly the ideas of Kinjurō. But I remembered something Hirata wrote which reminded me of Kinjurō's words about a possible separation of souls. Hirata's teaching was that the ara-tama of a man may leave his body, assume his shape, and without his knowledge destroy a hated enemy. So I asked Kinjurō about it. He said he had never heard of a nigi-tama or an ara-tama; but he told me this:

   'Master, when a man has been discovered by his wife to be secretly enamoured of another, it sometimes happens that the guilty woman is seized with a sickness that no physician can cure. For one of the Souls of the wife, moved exceedingly by anger, passes into the body of that woman to destroy her. But the wife also sickens, or loses her mind awhile, because of the absence of her Soul.

   'And there is another and more wonderful thing known to us of Nippon, which you, being of the West, may never have heard. By the power of the gods, for a righteous purpose, sometimes a Soul may be withdrawn a little while from its body, and be made to utter its most secret thought. But no suffering to the body is then caused. And the wonder is wrought in this wise: 

   'A man loves a beautiful girl whom he is at liberty to marry; but he doubts whether he can hope to make her love him in return. He seeks the kannushi of a certain Shinto temple, [2] and tells of his doubt, and asks the aid of the gods to solve it. Then the priests demand, not his name, but his age and the year and day and hour of his birth, which they write down for the gods to know; and they bid the man return to the temple after the space of seven days.

   'And during those seven days the priests offer prayer to the gods that the doubt may be solved; and one of them each morning bathes all his body in cold, pure water, and at each repast eats only food prepared with holy fire. And on the eighth day the man returns to the temple, and enters an inner chamber where the priests receive him.

   'A ceremony is performed, and certain prayers are said, after which all wait in silence. And then, the priest who has performed the rites of purification suddenly begins to tremble violently in all his body, like one trembling with a great fever. And this is because, by the power of the gods, the Soul of the girl whose love is doubted has entered, all fearfully, into the body of that priest. She does not know; for at that time, wherever she may be, she is in a deep sleep from which nothing can arouse her. But her Soul, having been summoned into the body of the priest, can speak nothing save the truth; and It is made to tell all Its thought. And the priest speaks not with his own voice, but with the voice of the Soul; and he speaks in the person of the Soul, saying: "I love," or "I hate," according as the truth may be, and in the language of women. If there be hate, then the reason of the hate is spoken; but if the answer be of love, there is little to say. And then the trembling of the priest stops, for the Soul passes from him; and he falls forward upon his face like one dead, and long so—remains.

 

   'Tell me, Kinjurō,' I asked, after all these queer things had been related to me, 'have you yourself ever known of a Soul being removed by the power of the gods, and placed in the heart of a priest?'

   'Yes: I myself have known it.'

   I remained silent and waited. The old man emptied his little pipe, threw it down beside the hibachi, folded his hands, and looked at the lotus- flowers for some time before he spoke again. Then he smiled and said:

 

   'Master, I married when I was very young. For many years we had no children: then my wife at last gave me a son, and became a Buddha. But my son lived and grew up handsome and strong; and when the Revolution came, he joined the armies of the Son of Heaven; and he died the death of a man in the great war of the South, in Kyushu. I loved him; and I wept with joy when I heard that he had been able to die for our Sacred Emperor: since there is no more noble death for the son of a samurai. So they buried my boy far away from me in Kyūshū, upon a hill near Kumamoto, which is a famous city with a strong garrison; and I went there to make his tomb beautiful. But his name is here also, in Ninomaru, graven on the monument to the men of Izumo who fell in the good fight for loyalty and honour in our emperor's holy cause; and when I see his name there, my heart laughs, and I speak to him, and then it seems as if he were walking beside me again, under the great pines. . . . But all that is another matter.

   'I sorrowed for my wife. All the years we had dwelt together no unkind word had ever been uttered between us. And when she died, I thought never to marry again. But after two more years had passed, my father and mother desired a daughter in the house, and they told me of their wish, and of a girl who was beautiful and of good family, though poor. The family were of our kindred, and the girl was their only support: she wove garments of silk and garments of cotton, and for this she received but little money. And because she was filial and comely, and our kindred not fortunate, my parents desired that I should marry her and help her people; for in those days we had a small income of rice. Then, being accustomed to obey my parents, I suffered them to do what they thought best. So the nakodo was summoned, and the arrangements for the wedding began.

   'Twice I was able to see the girl in the house of her parents. And I thought myself fortunate the first time I looked upon her; for she was very comely and young. But the second time, I perceived she had been weeping, and that her eyes avoided mine. Then my heart sank; for I thought: She dislikes me; and they are forcing her to this thing. Then I resolved to question the gods; and I caused the marriage to be delayed; and I went to the temple of Yanagi-no-Inari-Sama, which is in the Street Zaimokuchō.

   'And when the trembling came upon him, the priest, speaking with the Soul of that maid, declared to me: "My heart hates you, and the sight of your face gives me sickness, because I love another, and because this marriage is forced upon me. Yet though my heart hates you, I must marry you because my parents are poor and old, and I alone cannot long continue to support them, for my work is killing me. But though I may strive to be a dutiful wife, there never will be gladness in your house because of me; for my heart hates you with a great and lasting hate; and the sound of your voice makes a sickness in my breast (koe kiite mo mune ga waruku naru); and only to see your face makes me wish that I were dead (kao miru to shinitaku naru)."

   'Thus knowing the truth, I told it to my parents; and I wrote a letter of kind words to the maid, praying pardon for the pain I had unknowingly caused her; and I feigned long illness, that the marriage might be broken off without gossip; and we made a gift to that family; and the maid was glad. For she was enabled at a later time to marry the young man she loved. My parents never pressed me again to take a wife; and since their death I have lived alone. . . . O Master, look upon the extreme wickedness of that boy!'

 

   Taking advantage of our conversation, Kinjurō's young assistant had improvised a rod and line with a bamboo stick and a bit of string; and had fastened to the end of the string a pellet of tobacco stolen from the old man's pouch. With this bait he had been fishing in the lotus pond; and a frog had swallowed it, and was now suspended high above the pebbles, sprawling in rotary motion, kicking in frantic spasms of disgust and despair. 'Kaji!' shouted the gardener.

   The boy dropped his rod with a laugh, and ran to us unabashed; while the frog, having disgorged the tobacco, plopped back into the lotus pond. Evidently Kaji was not afraid of scoldings.

   'Goshō ga warui!' declared the old man, shaking his ivory head. 'O Kaji, much I fear that your next birth will be bad! Do I buy tobacco for frogs? Master, said I not rightly this boy has but oneSoul?'

 

1
   Afterwards I found that the old man had expressed to me only one popular form of a belief which would require a large book to fully explain,
a belief
founded upon Chinese astrology, but possibly modified by Buddhist and by Shinto ideas. This notion of compound Souls cannot be explained at all without a prior knowledge of the astrological relation between the Chinese Zodiacal Signs and the Ten Celestial Stems. Some understanding of these may be obtained from the curious article 'Time,' in Professor Chamberlain's admirable little book, Things Japanese. The relation having been perceived, it is further necessary to know that under the Chinese astrological system each year is under the influence of one or other of the 'Five Elements'
Wood, Fire, Earth, Metal, Water; and according to the day and year of one's birth, one's temperament is celestially decided. A Japanese mnemonic verse tells us the number of souls or natures corresponding to each of the Five Elemental Influences, namely, nine souls for Wood, three for Fire, one for Earth, seven for Metal, five for Water:

                       Kiku karani

                       Himitsu no yama ni

                       Tsuchi hitotsu

                       Nanatsu kane to zo

                       Go suiryo are.

   Multiplied into ten by being each one divided into 'Elder' and 'Younger,' the Five Elements become the Ten Celestial Stems; and their influences are commingled with those of the Rat, Bull, Tiger, Hare, Dragon, Serpent, Horse, Goat, Ape, Cock, Dog, and Boar (the twelve Zodiacal Signs), all of which have relations to time, place, life, luck, misfortune, etc. But even these hints give no idea whatever how enormously complicated the subject really is.

   The book the old gardener referred to once as widely known in Japan as every fortune-telling book in any European country was the San-ze-sō, copies of which may still be picked up. Contrary to Kinjurō's opinion, however, it is held, by those learned in such Chinese matters, just as bad to have too many souls as to have too few. To have nine souls is to be too 'many-minded', without fixed purpose; to have only one soul is to lack quick intelligence. According to the
Chinese astrological ideas, the word 'natures' or 'characters' would perhaps be more accurate than the word 'souls' in this case. There is a world of curious fancies, born out of these beliefs. For one example of hundreds, a person having a Fire-nature must not marry one having a Water-nature. Hence the proverbial saying about two who cannot agree,
'They are like Fire and Water.'

2
   Usually an Inari temple. Such things are never done at the great Shintō shrines.

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