小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の献辞及び「序」(附やぶちゃん注)
[やぶちゃん注:これは Lafcadio Hearn の “Glimpses of Unfamiliar Japan” の全訳(落合貞三郎・大谷正信・田部隆次分担訳)の献辞と序である。底本は本文同様、大正一五(一九二六)年八月第一書房刊「小泉八雲全集 第三卷」(全篇が本作)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した。訳文の後に、“Project Gutenberg” の“Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”から、書名以降は総て当該箇所の原文を後に附した(私の注がある場合は、その後ろに)。但し、先の英文データには不審な箇所が多くあるので、“Internet Archive”の原本画像と校合し、字配及びフォントも原本に近いものした。
以下、献辞部分に到るまでの底本の体裁を、簡潔に示す。見開き(左)に、黒地の短冊様の中に、白抜き縦書で、
小泉八雲全集
次の扉に、左に、
小泉八雲全集
第三卷
とあって、ここに原書の扉にあるのと酷似した(但し、そちらでは黒地)鷺のデザインのマークが入り(画像補正をした)、
東京高輪
第一書房刊行
とある。但し、以上は、総てが、右から左への横書である。]
知られぬ日本の面影
GLIMPSES
OF
UNFAMILIAR JAPAN
BY
LAFCADIO HEARN
譯者
落合貞三郞
大谷 正信
田部 隆次
[やぶちゃん注:訳本のここと、ここ。「譯者」が「大谷」上部中央にあり、凡て縦書である。]
私の東洋に於ける滯留を、全くその厚意によりて、成さしめたる友人――
米國海軍主計監ミチエル・マクドナード君、竝に東京帝國大學名譽敎授
ベズル・ホール・チエムバリン君に、
愛情及び感謝の記念として、この二卷を捧ぐ。
[やぶちゃん注:中央やや上寄りに上記の字配りで配されてある献辞。ポイントは本文と同じ。
「米國海軍主計監ミチエル・マクドナード」ミッチェル・マグドナルド(Mitchell MacDonald 一八五三年~大正一二(一九二三)年)は横浜海軍病院に勤務していた米国海軍主計官。風呂鞏(ふろかたし)氏の「八雲と震災との切れぬ縁、また一つ」(住吉神社発行の月刊『すみよし』所載)によれば、日本でのハーンの面倒を当初から見た人物で、『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理者として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)。ハーンに彼を紹介したのは『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』新聞社記者時代の同僚で友人であったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)である。彼女については本「第二十四章 魂について」の私の冒頭注を参照されたい。
「東京帝國大學名譽敎授」「ベズル・ホール・チエムバリン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)。「第一章 私の極東に於ける第一日 序/(一)」の私の「英國人の教授」の注を参照されたい。本書刊行の明治二七(一八九四)年九月当時は東京帝国大学英語教師であった彼は明治四四(一九一一)年に離日したが、この時に東京帝大名誉教師となっているので、この肩書は後から書き換えたものか?
「二卷」“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”は二巻本で、原本では“ Vol. I ”、及び、“ Vol. II ”となっている。底本邦訳では「上卷」「下卷」と訳している。]
TO THE FRIENDS
WHOSE KINDNESS ALONE RENDERED POSSIBLE
MY SOJOURN IN THE ORIENT,―
TO
PAYMASTER MITCHELL McDONALD,
U.S.N.
AND
BASIL HALL CHAMBERLAIN, ESQ.
Emeritus
Professor of Philology and Japanese in the
Imperial
University of Tokyō
I DEDICATE THESE VOLUMES
IN TOKEN OF
AFFECTION AND GRATITUDE
序
一八七一年、ミツトフオード氏は、あの面白い『舊日本物語』の緒言に、つぎの如く書いた。『輓近日本に關して書かれた書籍は、單に官廰の記錄から編纂したものか、或は通り一遍の旅客の簡素なる印象を内容としたものに過ぎない。日本人の内的生活に就ては、世界一般は殆ど知つてゐない。日本人の宗敎、日本人の迷信、日本人の事物の考へ方、日本人の行爲の裏面に隱れたる動機――すべて是等は未だ神祕である』
ミツトフオード氏が說き及んで居る、この内的生活は、卽ち『世界にあまり知られぬ日本』であつて、それを私は幾らか覗き得たのである。讀者は私の瞥見したものの數の乏しいのに失望するかも知れない。それは、この國民の中に入つて――しかも國民の風俗習慣を採用しようと試みてさへ――四ケ年ほどの居住では、外人をしてこの奇異の別世界に於ては、そろそろ落着いた氣分を起させるにも足らぬからである。誰人も本書の成果のいかに貧弱にして、然かも殘れる事業のいかに多大なるかを、著者以上に痛感することは出來ない。
新日本の知識階級は、本書に述べたる俗間の佛敎思想――殊に佛敎より發したるもの――及び奇異なる迷信を殆ど有しない。一般抽象的思想、殊に哲學的思索に對して冷淡であるといふ特徴を除けば、今日の西洋化された日本人は、殆ど修養ある巴里人或はボストン人の智的平面上に立つてゐる。しかし彼は一切の超自然に關する觀念を過度に蔑視する傾向を有し、且つ現代の宗敎的大問題に對する態度は、全然無關心のそれである。大學に於ける近代哲學の修業が、彼に何等社會學的又は心理學的諸關係の獨立硏究を促がすことも稀である。彼に取つては迷信は單に迷信である。迷信と國民の情的性質の關係は、彼に何等の興味をも與へない。〔此冷淡に對して、顯著なる對象は、鳥尾子爵の堅固にして合理的、且つ遠大の見地に立てる保守主義である――一個の崇高なる例外。〕して、これは彼がよく國民を了解してゐるからのみでなく、また彼の屬する階級が、無理解にも――全く當然ではあるが――舊い信仰を恥辱と思つてゐるからである。現今不可知論者と自稱する我々の多數は、佛敎に比して遙かに不合理的なる信仰から新たに解放を得た時代に、我々がいかなる感情を以て祖先の陰慘なる神學を見返へしたかを覺えてゐるだらう。日本の知識階級は、僅々二三十年間に不可知論者となつた。して、この智的進展の急速が、佛敎に對する優秀階級の現今の態度の主要なる――全部でなくとも――原因を說明する。目下の處では、その態度は實に不寬容に近い。しかも、迷信と劃然區別せる宗敎に對する感情が、かやうである以上は、宗敎と區別せる迷信に對する感情は、更に甚しいものに相違ない。
しかし日本人の生活の稀有なる魅惑――一切諸他の國のとは非常に異つた――は、その歐化された範圍に見出さるべきではない。それはすべての國に於ける如く、日本に於て國民的美德を代表し、且つ今猶その樂しい舊習、華かな服裝、佛像、家庭の神棚、美はしく、また哀れにも殊勝な祖先崇拜を固守する大民衆の間に見出さるべきである。これこそ外國の觀察者が、もし、それに深入りするほどに幸運、且つ同情的であれば、決して倦むことの出來ぬ生活である――時としては、彼をしてその傲然得意になつてゐる西洋文明の進路は、果して精神的發達の方へ向つてゐるかを疑はしめる生活である。年經るにつれて、日每にこの生活の中に、ある奇異な、思ひもよらぬ美が、彼に顯はされてくるであらう。いづこも同じこと、ここにも暗黑方面はある。それでも西洋生活の暗黑方面と較べて見れば、これは寧ろ光明である。この生活も弱點、愚劣、惡德、殘酷を有つてゐる。が、此生活に接すること多きに隨つて、ますますその異常なる善良、奇蹟的の忍耐、いつも渝らぬ慇懃、單純素朴の情、直覺的の慈愛に驚嘆させられる。して、いかに東京に於ては輕蔑されてゐても、その最も普通の迷信さへ、西洋の一層博大なる見解に取つては、日本人の生活に於ける希望、恐怖、その善惡に對する經驗――幽界の謎に對する解決を見出さんとするその原始的努力――の書籍に載らぬ文學の斷片として、最も珍重すべき價値がある。いかばかり民衆の比較的輕快柔和なる迷信が、日本人の生活の美を增してゐるかは、長く內地に住んだ人によつてのみ理解される。稀に邪惡な信仰もある――例へば狐憑のやうな信仰で、それは一般の敎育によつて、急速に滅んで行つてゐる。しかし、大多數のものは、空想の美に於て、今日最高の詩人も猶ほその中に感激を發見する希臘神話とさへも比肩すべきものである。またその他、不幸の人々に對する同情、動物に對する親切を促がす幾多の信仰は、ただ道德的最好果を齎らすばかりである。家畜の可笑げな得意顏、幾多の野獸が人間の前で比較的平然と怖氣の無さ、喰べ屑の施しを當てに、入り船每に群がり寄る鷗の白雲、參詣者が撒き散らす米を拾ふため神社の檐端より舞ひ下る鳩の旋風、古い公園の人慣れた鶴、菓子と愛撫を待つ神社の鹿、人影水に映る時、神聖なる蓮池より顏を擡げる鯉――是等及びその他いろいろの美はしい光景は、たとひ迷信的と呼ばるる空想に起因するにせよ、それらの空想は、萬有生命の渾一といふ高尙なる眞理を、最も簡易の形式で懇切示敎してゐるのだ。して、是等のものほどに興味のない信仰――その奇怪さ加減、一笑を禁ぜざらしめるやうな迷信――を考察するに當つても、公平なる觀察者は宜しく史家レツキーの語を念頭に浮ぶべきである。
『多くの迷信は神に對する卑屈なる恐怖といふ希臘的觀念と一致するものに相違ない。して、述べ盡くせぬほど不幸な結果を人類に及ぼしたのもある。が、また異つた傾向の種類も頗る多い。迷信は吾人の恐怖に訴へると同じく、吾人の希望にも訴へる。それは屢〻心情最奧の憧憬に合致して、滿足を與へる。それは理性がただ出來さうなこと、有りさうなことを提供するに過ぎない場合に、確實を惠んで呉れる。それは想像の材料として玩ぶに好ましい想念を供給する。それは時としては、道德的眞理に新しい是認を與へることさへある。それによつてのみ滿足を得らるる要求を創造し、且つ、それのみが鎭め得る恐怖を起して、それは幸福の要素となること屢〻である。して、慰安が最も必要とせらるる倦怠或は煩悶の際、その慰安力の効驗は最も多く感ぜられる。吾人は吾人の知識に負ふ處よりも、吾人の幻覺に負ふ方が多い。思索の方面にては主として批評的、且つ破壞的なる理性よりも、全然建設的なる想像力こそ吾人の幸福に貢献する處、恐らくは多大であらう。危險又は困苦に臨んで、野蠻人が信賴して、しかと胸に抱きしめる粗末な守り札、賤が伏屋に神神しい保護の光明を注ぐと信ぜらるる聖畫は、人生の惱みの最も暗き際に於て、哲學の最も崇高なる學說によつて與へ得られるよりも、一層現實な慰安を與へることが出來る。……批判的精神が普及する時には、好ましい信仰がすべて殘つて、痛ましいもののみ滅びるだらうと想像するのは、これほど大きい間違いはない』
國民の質朴にして幸福なる信仰を破壞して、これに代ふるに、西洋では智的に夙に時世後れとなつた殘酷なる迷信――宥恕せぬ神と永遠の地獄といふ空想――を以てせんとする頑迷外人の努力に向つて、近代化された日本の批判的精神は、今や反抗よりも寧ろ間接の援助をなしつつあるのは、實に遺憾とせねばならぬ。百六拾年以上も昔に、ケンペルは日本人について、『道德の實行、生活の淸潔と信仰の儀禮に於て、彼等は遙かに歐州人に優つてゐる』と書いた。して、開港場に於ける如く、固有の風儀が外來の汚染を蒙つてゐる土地を除けば、この語は今昔の日本人に關しても實際である。私自身、竝に幾多公平にして、且つ一層經驗ある日本生活の觀察者の確信によれば、日本は基督敎に歸依することによつて、道德的にも、その他の點にも、何等得る處無く、却つて失ふ處が頗る多い。
本書上下二卷の内容二十七篇に就て、四篇はもと數個の新聞組合に買收されたのを、大いに改竄を加へて、ここに再錄せるもの。また、六篇はアトランチツク・マンスリー雜誌(一八九一―九三年)に發表されたるもの。その他、本書の大部分を成す諸篇は、新らたに書いたものである。
一八九四年五月 日本九州熊本にて
ラフカディオ・ヘルン
[やぶちゃん注:本序では、例外的に二行割注によって原注が本文に挟み込まれてある(本文はこうした形式は原則として、とっていない)。本テクストでは同ポイントとして、〔 〕で挟んだのがそれである。なお、末尾のクレジット行の「一八九四年五月 日本九州熊本にて」は底本では、実は「一八九四年五月日 本九州熊本にて」となっている。これはどう見てもおかしいので例外的に訂した。或いはしばしば日本では古えから見られるクレジット法式であるところの、日附部分を打たない「一八九四年五月日 日本九州熊本にて」のつもりかも知れないが、原文(“KUMAMOTO, KYŪSHŪ, JAPAN. May, 1894.”)に照らし、その可能性は皆無と断じ、かく改変した。
「一八七一年」明治四年相当。
「ミツトフオード氏」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、「昔の日本の物語」(次注)を執筆し、『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。
「舊日本物語」離日した翌年の「一八七一年」に刊行されたミットフォードの“ Tales of Old Japan”。前注の「昔の日本の物語」と同じい。“Internet archive”の原本を見ると、これは完全に同書本篇部分の冒頭箇所である(ページ“B”)。
「輓近」「ばんきん」で「近頃・最近・近年」の意。
「四ケ年ほどの居住」本書は一八九四年九月にアメリカのホートン・ミフリン社(Houghton, Mifflin and Company, Boston and New York)から刊行された。ハーンの来日は明治二三(一八九〇)年四月四日(横浜現着)である。先のミットフォードの“ Tales of Old Japan ”刊行の十九年後になる。
「巴里人」老婆心乍ら、「パリ人(じん)」である。無論、フランスのパリの市民である。
「鳥尾子爵」鳥尾小弥太(とりおこやた 弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)は陸軍中将正二位勲一等子爵で政治家。以下、ウィキの「鳥尾小弥太」より引く。『号は得庵居士、不識道人など』。『萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれ』、安政五(一八五八)年に『父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ』。万延元(一八六〇)年に帰藩して家督を相続、文久三(一八六三)年にかの長州「奇兵隊」に入隊したが、あまりに乱暴者であったために『親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた』(後の「エピソード」に諸説が載る)。『長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している』。『維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍大輔、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任』したが、明治一三(一八八〇)年に『病気のために一切の職を辞し、君権と民権が互いに尊重しあう状態を理想とする『王法論』を執筆した』。『陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成』、明治一四(一八八一)年の『開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった』。明治一七(一八八四)年には『維新の功により子爵を授けられ』た。その後、欧州視察に出て、帰国後の明治二一(一八八八)年には東洋哲学会を、翌明治二二(一八八九)年には『山岡鉄舟や川合清丸、松平宗武らによる日本国教大道社、貴族院内における保守党中正派の結成』するなど、『国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた』。明治三一(一八九八)年には『大日本茶道学会の初代会長に就任』、明治三四(一九〇一)年に青少年教育を目的に「統一学」なるものを起こし、翌明治三五(一九〇二)年には施設教育機関「統一学舎」を設立した。『晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った』。以下、「政治姿勢」の項。『貴族院内においては、懇話会・月曜会に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。自由党と立憲改進党を論敵と見なし、政府の西欧化政策、キリスト教への批判を展開した。また佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して保守党中正派を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した』。『小弥太の政治論は儒教に由来し、易姓革命を容認するがそれが日本の国体(天皇制)と矛盾することを見逃している。彼は法律家や理論家ではなく、個人の心術のみを重んじ意見の当否を問題にしない、と鳥谷部春汀は評している』。以下、「エピソード」の項。『幕末の奇兵隊時代、変名として「鳥尾小弥太」を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。長州藩主・毛利敬親から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている』。『現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱』『が残っている』。『統一学舎を設立した鳥尾は、京都の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの高台寺内に同学舎による顕彰碑が建立されている』。『幕末期、当時奇兵隊少年隊の陣屋であった松林寺(山口県下関市吉田)に駐屯していた隊長の鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として激昂し、隊士を引き連れて法専寺(山口県下関市吉田)境内にあった』六体の『地蔵の首を切り落としている。(首切り地蔵)なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている』(これは地蔵好きのハーンは知らなかったのであろう。知っていれば、彼の扱いは大分、変わった気がする。それとも……ハーンはそれを知っていたのであろうか?……そもそもが、本篇の冒頭は愛らしい「地蔵」のシチュエーションから始まっているのである……)。明治六(一八七三)年の『第六局長時代、「東京湾海防策」を建議して同湾を囲繞する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に海堡の建設がなされた』。『日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される』。『明治期の教育者・下田歌子に禅学を教授している』。『旧幕臣の中根香亭とは書画骨董の趣味を同じくし、『香亭雅談』には好事家として言及されている』。『封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖』(吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒した、同じ旧長州藩士。維新後は宮内大丞・外務大書記となって岩倉使節団の一員として渡欧した)『による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある』。明治三三(一八九〇)年の帝国議会の際には、『司法大臣・山田顕義がフランス人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい』。『当時の日本人の外国における面白エピソード集』である「赤毛布(あかげっと)」(明治三十三年)には『「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾がパリにて季節はずれの苺を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている』。『墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が参勤交代の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している』とある。ハーンは「第二十六章 日本人の微笑(五)」で彼の論文(英訳されたものの抄出)をかなり長く引いており、そこでハーンは彼の主張の核心の一部には賛同出来ないとしながらも、彼を非常に高く評価している。
「渝らぬ」「かはらぬ(かわらぬ)」と読む。「変わらぬ」である。
「擡げる」老婆心乍ら、「もたげる」と読む。
「渾一」老婆心乍ら、「こんいつ」と読む。多くのものが融け合って一つになること。但し、「渾身」の「渾」は「総て」の意であるが、この場合は第一原義の「混じる」の意味であるので注意されたい。
「示敎」「じけう(じきょう)/しけう(しょう)」で、具体的に示しながら教えること。「教示」に同じい。
「史家レツキー」アイルランドの歴史家ウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー(William Edward Hartpole Lecky 一八三八年~一九〇三年)のことであろう。ダブリン生まれでダブリンのトリニティ・カレッジに学び、アイルランド・イギリスさらにはヨーロッパに於ける宗教・道徳に関する研究を相次いで発表、科学や合理思想の発展を中世から辿った。以下の引用は文字列の検索によって、彼の一八六九年刊の“History of European morals from Augustus to Charlemagne”の第一巻からのものであることが判った。
「宥恕」老婆心乍ら、「いうじよ(ゆうじょ)」と読み、寛大な心で許すこと、見逃してやることを指す。
「百六拾年以上も昔に、ケンペルは日本人について、『道德の實行、生活の淸潔と信仰の儀禮に於て、彼等は遙かに歐州人に優つてゐる』と書いた」「ケムペル」はドイツ人医師で博物学者であったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer 一六五一年~一七一六年)のこと。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の著者として知られる。以下、ウィキの「エンゲルベルト・ケンペル」より引用する。北部ドイツの『レムゴーに牧師の息子として生まれた。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている』。この二つの『経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた』。一六八一年には『スウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王』カール十一世が『ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とサファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。彼の地球を半周する大旅行はここに始まる』。一六八三年十月二日、『使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年』十一月七日に『アストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてペルシアに入り、翌年』三月二十四日に『首都イスファハンに到着した。彼は使節団と共にイランで』二十ヶ月を『過ごし、さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録を残した』が、『その頃ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。彼はその機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして』一年ほど『オランダ東インド会社の船医として勤務した。その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡』った。元禄三(一六九〇)年に『オランダ商館付の医師として』約二年間も『出島に滞在した。元禄四年と五年には『連続して、江戸参府を経験し徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した』。この元禄五年に『離日してバタヴィアに戻り』、一六九五年に実に十二年振りで『ヨーロッパに帰還した。オランダのライデン大学で学んで優秀な成績を収め医学博士号を取得。故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛か』り、多大な困難を乗り越え、一七一二年に「廻国奇観」(Amoenitates Exoticae)『と題する本の出版にこぎつけた。この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもない。ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している。この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであった。『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」(Heutiges Japan)の執筆にも取り組んでいたが』、『ケンペルはその出版を見ることなく死去し』た。『彼の遺品の多くは遺族により』、三代に亙ってイギリス国王に『仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた』。一七二七年、『遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』(The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツの啓蒙思想家ドーム(Christian Wilhelm von Dohm)が甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ』、一七七七年から一七七九年に『ドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclestiastique de I'empire du Japon)が出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し』、これが十九世紀の『ジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること』約百四十年後に『日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している』。『ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語第二版(De Beschryving Van Japan)』(一七三三年)を底本として、志筑忠雄は享和元(一八〇一)年に『この付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した』とある。ハーンが引用しているのは、この一七二七年英訳版「日本誌」からのものであろう。
「四篇はもと數個の新聞組合に買收されたのを、大いに改竄を加へて、ここに再錄せるもの」推定であるが、これは、冒頭の四篇「第一章 私の極東に於ける第一日」・「第二章 弘法大師の書」・「第三章 お地藏さま」・「第四章 江ノ島巡禮」(邦題は総て本訳書のもの。次注も同じ)ではあるまいかと考えている。これは新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二三(一八九〇)年の来日直後の四月の箇所に、『鎌倉、江の島に遊び、紀行を送る』とあるのに基づく類推である。この時送った先は彼が特派員となっていたニューヨークの『ハーバーズ・マンスリー』誌一社のように読めるが、この直後に彼は同誌との契約に不満を持ち、翌五月には、同ハーバー社と絶縁しているから、それらが勝手に他の新聞などに転載買収された可能性は大いにあるように思われる。
「六篇はアトランチツク・マンスリー雜誌(一八九一―九三年)に發表されたるもの」“Atlantic Monthly”は一八五七年にアメリカのボストンでJ.R.ローエル編集で創刊された月刊誌で、誌名をつけた定期寄稿者O.W.ホームズのエッセー・シリーズ「朝食のテーブルの独裁者」その他が好評を博した。当初はニューイングランドを中心とした文芸雑誌の性格が強かったが,南北戦争の頃から政治・時事問題を扱い始め、戦後はオハイオ生れのW.D.ハウエルズが主筆(一八七一年~一八八一年在任)となり、文化的広がりを与えた。二十世紀に入ってからは文学的個性は少なくなり、時局ものに重きを置いている(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二四(一八九〇)年の条に、『秋、「アトランティック・マンスリー」誌に日本印象記を連載、好評を博する』とある。また同年の条のこの前の八月の箇所に、『杵築の出雲神社、日御崎神社、加賀浦、美保の関に遊ぶ。『知られぬ日本の面影』はこの頃書かれた』とはある(下線やぶちゃん。但し、全部ではない)。この時に同誌に連載されたのが、どの章かは不明である。順列通りならば、「第五章 盆市にて」・「第六章 盆踊」・「第七章 神國の首都――松江」・「第八章 杵築――日本最古の社殿」「第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど)」・「第十章 美保の關にて」となるが、この内、松江に着いてからの章には、やや疑問が残る。ただ、下巻部分の多くは、この明治二十四年秋以降から翌年にかけての体験(有体に言うと、熊本での体験を松江にすり替えた「改変物」が散見されるのである)に基づくものが実は多いことは事実である。
「一八九四年五月 日本九州熊本にて」彼が熊本第五高等学校(現在の熊本大学)に転任するために松江を去ったのは、明治二四(一八九一)年十一月十五日である(「八雲会」の「松江時代の略年譜」に拠る)。本書刊行は明治二七(一八九四)年九月であるから、この序文はその四ヶ月前に認められたものということになり、これが本篇決定稿執筆の下限となることが判る。]
PREFACE.
――
In the Introduction to his charming Tales of Old Japan, Mr. Mitford wrote in 1871:'The books which have been written of late years about Japan have either been compiled from official records, or have contained the sketchy impressions of passing travelers. Of the inner life of the Japanese the world at large knows but little: their religion, their superstitions, their ways of thought, the hidden springs by which they move,― all these are as yet mysteries.'
This invisible life referred to by Mr. Mitford is the Unfamiliar Japan of which I have been able to obtain a few glimpses. The reader may, perhaps, be
disappointed by their rarity; for a residence of little more than four years among the people ― even by one who tries to adopt their habits and customs ― carcely suffices to enable the foreigner to begin to feel at home in this world of strangeness. None can feel more than the author himself how little has been
accomplished in these volumes, and how much remains to do.
The popular religious ideas ― especially theideas derived from Buddhism ― and the curious superstitions touched upon in these sketches are little shared by the educated classes of New Japan. Except as regards his characteristic indifference toward abstract ideas in general and metaphysical speculation in particular, the Occidentalized Japanese of to-day stands almost on the intellectual plane of the cultivated Parisian or Bostonian. But he is inclined to treat with undue contempt all conceptions of the supernatural; and toward the great religious questions of the hour his attitude is one of perfect apathy. Rarely does his university training in modern philosophy impel him to attempt any independent study of relations, either sociological or psychological. For him, superstitions are simply
superstitions; their relation to the emotional nature of the people interests him not at all. [1] And this not only because he thoroughly understands that people, but because the class to which he belongs is still unreasoningly, though quite naturally, ashamed of its older beliefs. Most of us who now call ourselves agnostics can recollect the feelings with which, in the period of our fresh emancipation from a faith far more irrational than Buddhism, we looked back upon the gloomy theology of our fathers. Intellectual Japan has become agnostic within only a few decades; and the suddenness of this mental revolution sufficiently explains the principal, though not perhaps all the causes of the present attitude of the superior class toward Buddhism. For the time being it certainly borders upon intolerance; and while such is the feeling even to religion as distinguished from superstition, the feeling toward superstition as distinguished from religion must be something stronger still.
But the rare charm of Japanese life, so different from that of all other lands, is not to be found in its Europeanized circles. It is to be found among the great common people, who represent in Japan, as in all countries, the national virtues, and who still cling to their delightful old customs, their picturesque dresses, their Buddhist images, their household shrines, their beautiful and touching worship of ancestors. This is the life of which a foreign observer can never weary, if fortunate and sympathetic enough to enter into it,― the life that forces him sometimes to doubt whether the course of our boasted Western progress is really in the direction of moral development. Each day, while the years pass, there will be revealed to him some strange and unsuspected beauty in it. Like other life, it has its darker side; yet even this is brightness compared with the darker side of Western existence. It has its foibles, its follies, its vices, its cruelties; yet the more one sees of it, the more one marvels at its extraordinary goodness, its miraculous patience, its never-failing courtesy, its simplicity of heart, its intuitive
charity. And to our own larger Occidental comprehension, its commonest superstitions, however condemned at Tōkyō have rarest value as fragments of the
unwritten literature of its hopes, its fears, its experience with right and wrong,― its primitive efforts to find solutions for the riddle of the Unseen flow much the lighter and kindlier superstitions of the people add to the charm of Japanese life can, indeed, be understood only by one who has long resided in the interior. A few of their beliefs are sinister,― such as that in demon-foxes, which public education is rapidly dissipating; but a large number are comparable for beauty
of fancy even to those Greek myths in which our noblest poets of today still find inspiration; while many others, which encourage kindness to the unfortunate and kindness to animals, can never have produced any but the happiest moral results. The amusing presumption of domestic animals, and the comparative fearlessness of many wild creatures in the presence of man; the white clouds of gulls that hover about each incoming steamer in expectation of an alms of crumbs; the whirring of doves from temple- eaves to pick up the rice scattered for them by pilgrims; the familiar storks of ancient public gardens; the deer of holy shrines, awaiting cakes and caresses; the fish which raise their heads from sacred lotus- ponds when the stranger's shadow falls upon the water,― these and a hundred other pretty sights are due to fancies which, though called superstitious, inculcate in simplest form the sublime truth of the Unity of Life. And even when considering beliefs less attractive than these,― superstitions of which the grotesqueness may provoke a smile,― the impartial observer would do well to bear in mind the words of Lecky: ―
Many superstitions do undoubtedly answer to the Greek conception of slavish "fear of the Gods," and have been productive of unspeakable misery to
mankind; but there are very many others of a different tendency. Superstitions appeal to our hopes as well as our fears. They often meet and gratify the inmost longings of the heart. They offer certainties where reason can only afford possibilities or probabilities. They supply conceptions on which the imagination loves to dwell. They sometimes impart even a new sanction to moral truths. Creating wants which they alone can satisfy, and fears which they alone can quell, they often become essential elements of happiness; and their consoling efficacy is most felt in the languid or troubled hours when it is most needed. We owe more to our illusions than to our knowledge. The imagination, which is altogether constructive, probably contributes more to our happiness than the reason, which in the sphere of speculation is mainly critical and destructive. The rude charm which, in the hour of danger or distress, the savage clasps so confidently to his breast, the sacred picture which is believed to shed a hallowing and protecting influence over the poor man's cottage, can bestow a more real consolation in the darkest hour of human suffering than can be afforded by the grandest theories of philosophy. . . . No error can be more grave than to imagine that when a critical spirit is abroad the pleasant beliefs will all remain, and the painful ones alone will perish.'
That the critical spirit of modernized Japan is now indirectly aiding rather than opposing the efforts of foreign bigotry to destroy the simple, happy beliefs of the people, and substitute those cruel superstitions which the West has long intellectually outgrown,― the fancies of an unforgiving God and an everlasting hell,― is surely to be regretted. More than hundred and sixty years ago Kaempfer wrote of the Japanese 'In the practice of virtue, in purity of life and outward devotion they far outdo the Christians.' And except where native morals have suffered by foreign contamination, as in the open ports, these words are true of the Japanese to-day. My own conviction, and that of many impartial and more experienced observers of Japanese life, is that Japan has nothing whatever to gain by conversion to Christianity, either morally or otherwise, but very much to lose.
Of the twenty-seven sketches composing these volumes, four were originally purchased by various newspaper syndicates and reappear in a considerably altered form, and six were published in the Atlantic Monthly (1891-3). The remainder forming the bulk of the work, are new.
L.H.
KUMAMOTO, KYŪSHŪ, JAPAN. May, 1894.
1
In striking contrast to this indifference is the strong, rational, far-seeing conservatism of Viscount Tōrio — a noble exception.
[やぶちゃん注:以下、底本は総目次標題として「小泉八雲全集第三卷目次」とある。又目次の各項の下のリーダと頁数字(漢数字)は本電子化では意味がないので省略した。その代り、底本には明記されていない各章の担当訳者を、「後書」からの推定で【 】で各章の後に附した(新字体で)。あくまで推定であることに注意されたい。]
知られぬ日本の面影 上
第 一 章 私の極東に於ける第一日 【落合貞三郎】
第 二 章 弘法大師の書 【落合貞三郎】
第 三 章 お地藏さま 【落合貞三郎】
第 四 章 江ノ島巡禮 【落合貞三郎】
第 五 章 盆市にて 【落合貞三郎】
第 六 章 盆踊 【落合貞三郎】
第 七 章 神國の首都――松江 【落合貞三郎】
第 八 章 杵築――日本最古の社殿 【落合貞三郎】
第 九 章 子供の精靈の――潜戶(くけど) 【落合貞三郎】
第 十 章 美保の關にて 【落合貞三郎】
第 十一 章 杵築のことゞも 【落合貞三郎】
第 十二 章 日ノ御崎にて 【落合貞三郎】
第 十三 章 心中 【落合貞三郎】
第 十四 章 八重垣神社 【落合貞三郎】
第 十五 章 狐 【落合貞三郎】
知られぬ日本の面影 下
第 十六 章 日本の庭 【大谷正信】
第 十七 章 家の內の宮 【大谷正信】
第 十八 章 女の髮について 【大谷正信】
第 十九 章 英語敎師の日記から 【田部隆次】
第 二十 章 二つの珍しい祝日 【落合貞三郎】
第二十一章 日本海に沿うて 【田部隆次】
第二十二章 舞妓について 【落合貞三郎】
第二十三章 伯耆から隱岐へ 【大谷正信】
第二十四章 魂について 【田部隆次】
第二十五章 幽靈と化け物について 【田部隆次】
第二十六章 日本人の微笑 【田部隆次】
第二十七章 サヤウナラ 【大谷正信】
[やぶちゃん注:以下同様に、原本にある“VOLI.”の“CONTENTS.”のリーダとページ・ナンバーを省略し、別に“Vol. II”にある“CONTENTS.”を同じ処理をして後に繋げた。“Vol. II”の“CONTENTS.”の終りには“INDEX.”(「語句索引」)があるが、底本邦訳ではそれ自体が完全に省かれているのでカットした。字配とポイントはなるべく原書に近くなるように電子化した。]
CONTENTS.
―――
VOLI.
I. MY FIRST DAY IN THE ORIENT
II. THE WRITING OF KŌBŌDAISHI
III. JIZŌ
IV. A PILGRIMAGE TO ENOSHIMA
V. AT THE MARKET OF THE DEAD
VI. BON-ODORI
VII. THE CHIEF CITY OF THE PROVINCE OF THE GODS
VIII. KITZUKI: THE MOST ANCIENT SHRINE IN JAPAN
IX. IN THE CAVE OF THE CHILDREN'S GHOSTS
X. AT MIONOSEKI
XI. NOTES ON KITZUKI
XII. AT HINOMISAKI
XIII. SHINJU
XIV. YAEGAKI-JINJA
XV. KITSUNE
CONTENTS.
―――
Vol. II
XVI. IN A JAPANESE GARDEN
XVII. THE HOUSEHOLD SHRINE
XVIII. OF WOMEN'S HAIR
XIX. FROM THE DIARY OF AN ENGLISH TEACHER
XX. TWO STRANGE FESTIVALS
XXI. BY THE JAPANESE SEA
XXII. OF A DANCING-GIRL
XXIII. FROM HŌKI TO OKI
XXIV. OF SOULS
XXV. OF GHOSTS AND GOBLINS
XXVI. THE JAPANESE SMILE
XXVII. SAYŌNARA!
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