小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十六)
一六
日本のどの國にも特有の方言がある。隱岐の方言は、斯く孤立して居る邦では豫期し得らるゝ如くに、殊に際立つて居る。が然し西鄕では出雲の方言が廣く用ひられて居る。其處の町民は風俗も習慣も餘程出雲の田舍人に似て居る。出雲人が澤山交じつて居るし、大きな商賣は大抵他國人の手に依つて營まれて居るのである。女は出雲の女ほどに人目を惹くやうには思へなかつた。中々美くしい女を隨分と見かけたが、それは他國者であつた。
が然し、或る國民の肉體的特徴を正當に硏究の出來るのはたゞその內地に於てである。隱岐の島人の肉體的特徴は――その多くを自分は訪れた――漁村で一等能く認めることが出來る。到る處で立派な强壯な男と元氣な女とを見た。そしてその强健には氣候と不斷の運動とが拘つて力あるのであらうが、滋養になる食物が非常に豐富で低廉なことが同じく與つて力あるのだと自分は思つた。實際、隱岐で生活するのは非常に樂(らく)で、他の海岸の人で生活に困難を感ずる者は、働く機會を得さへすれば、報酬は前より少くても、隱岐へ移住して來るほどである。自分に面白かつた光景は、天氣が好いと、日沒二時間前にいつも海へ突進し始める漁船の盛んな行列であつた。筋骨逞しい漕ぎ手が――女が多い――その輕い船を推して行く驚く可き迅さは、數代の根氣强い經驗に依つて初めて得られた熟練を語つて居るのであつた。も一つ驚いた事は船の數であつた。或る晩、沖合に、自分は三百と五つの松明を視界に數へることが出來た。松明一つは一と乘組を示すのである。そして此處の海岸の四十五ケ村の殆んど何の村からでも同時にこれと同じ光景を見ることが出來ると知つた。人民の大部分は、實際、夏の夜は海で暮すのである。漁期中脚の迅い汽船で夜、出雲から濱田へ旅しても意外の光景に接する。百哩の間、地平線は松明で燃えて居る。一と海岸の勞役が、その偉大なイルミネエシヨンに示されて居るのである。
そこの人間はこの不毛な地にあつて、强壯さを減じたといふより寧ろ增したやうに思はれるけれども、此國の牛馬は退化したやうである。著しく小形である。出雲の小牛よりも大して大きからぬ牛や、山羊の大きな程の小牛を自分は見た。馬否、むしろ小馬は隱岐がむしろ自慢をして居る特別な品種のものであつて――至つて小さいが丈夫である。もつと大きな馬が居るとは聞いた。が、一匹も目にしなかつたし、またそれは輸入されたものかどうか分らなかつた。自分が隱岐の小馬を初めて見た時、佐々木高綱の軍馬が――クログルウの物語唄に見えるカイラツトといふ馬に劣らず日本の物語に有名な馬が――隱岐の產であつたとこの島人が明言するのが自分には奇妙に思ヘた。ところがその馬は嘗て隱岐から美保關まで泳いだといふ口碑がある。
[やぶちゃん注:「或る晩、沖合に、自分は三百と五つの松明を視界に數へることが出來た」ハーン先生! よくぞ数えられましたね!
「百哩」約百六十一キロメートル。試しに、出雲の大社町沖から海岸に近い場所を浜田まで計測してみたが、八十キロメートル弱であったが、境からで計ると、まさに百六十キロメートルぴったりあった。ハーン先生、漁火の数と同じく、驚くべき正確さでした!
「地平線」くどいが、「水平線」の謂い。
「牛」ハーンは不思議なことに、隠岐の「牛突き」については言及していない。配流となった後鳥羽上皇が小牛が角を突き合わせる姿を見て喜んだことから始まったとされるから、当時、廃されていたとは思えない。時期的に「牛突き」は見られないと思うが、「牛突き」用に養っている牛を見ることは出来たはずである(私も島後で見せてもらい、触らせても貰った。角の立派な巨体の黒牛であった)。但し、ハーンは「牛突き」を嫌悪しそうな気もしないではない。さてもまた、近年は幻の「隠岐牛」として高価に取引もされている。松坂牛なども実は、ここで育てた牛を松坂へ持って行くのだ、という話を土地の人から聴いたりした。但し、肉食牛の畜産は、牛肉食が本邦でも一般的になる、もっとずっと後になってからのことだろうとは推測するが、私は知夫里島で、放牧されている隠岐牛や野生馬を、沢山、見、そこの宿で、特注して隠岐牛も食した(文句なしに非常に美味かった)。少なくとも、ここでハーンが「此國の牛馬は退化したやうである」というのは誤認としか思われない(馬が小型の種であることは次の注を参照されたい)。これについては、当時の隠岐での畜産史が私には不明であるので、これ以上は語れない。識者の御教授を乞うものである。
「馬否、むしろ小馬は隱岐がむしろ自慢をして居る特別な品種のものであつて――至つて小さいが丈夫である」絶滅させられてしまった隠岐馬である。「島根大学汽水域研究センター」公式サイト内の「隠岐馬 骨格標本」によれば、『隠岐馬は、奇蹄目の日本馬の一種で、体高が低い隠岐在来の矮小馬である。足は細く、蹄が強いため蹄鉄を打たなくてもよく、首は太く、たてがみは直毛で弾力があり、毛色は鹿毛(茶褐色)や青色(純黒色)が多かった。また、神経質で性急にして怒りやすく、ややもすれば人を噛んだり、蹴ったりすることもあり、御しがたい性質の馬であった』。しかし、明治三九(一八九九)年と昭和一一(一九三六)年の二回にわたる『日本馬政局の馬政計画の実施により、隠岐馬の雄はすべて去勢され、絶滅し』てしまった。リンク先で見られる氏満大学教育学部蔵のそれは、『隠岐馬の骨格標本としては国内で唯一のもので』、明治二一(一八八八)年三月に『松江市にあった獣医学講習所において、家畜解剖学研究のため、獣医佐藤清明氏の手により解剖、組み立てられ、以来、島根師範学校、教育学部に受け継がれた』貴重なものである。十二才の『雄馬で、生体の毛色は青、丈は』一メートル十八センチメートルであったとある。是非、リンク先を見られたい。なんという、愚劣な仕儀かッツ!
「佐々木高綱の軍馬」「佐々木高綱」(永暦元(一一六〇)年~建保二(一二一四)年)は近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁佐々木秀義四男で、頓にこの名馬「生食」(いけづき/いけずき)との関わりで、「平家物語」の梶原景季との「宇治川の先陣争い」で美事に一番乗りを果たすエピソードとして知られる、源頼朝の石橋山合戦からの直参の御家人である。この生食(他に「生唼」「生咬」「池月」「生月」「生喰」などとも書く)は頼朝に献上された馬で、宇治川の戦いの際に頼朝から直々に佐々木高綱に与えられた。その奇体な漢字表記(生食・生唼・生咬・生喰)は生き物を咬み食らうほどの猛々しい馬の謂いとされる、池月は池に映る月に由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。生食の産地には東北から九州まで諸説あり、ウィキの「生食(ウマ)」によれば、『古くから下総台地(北総台地。下総国南東部地域。現在の行政区分では、おおよそ千葉県北西部の、船橋市、鎌ケ谷市、松戸市、柏市、白井市と周辺地域にあたる)は馬牧(馬の放牧)に適しており、軍馬の生産が行われて』おり、『平安末期に八幡神の使いと信じられるほどの名馬が下総国葛飾郡内の牧(江戸幕府直轄の小金牧の前身となる牧場。現・柏市市内)で生まれ、「生食」と呼ばれて信仰を集めていた』し、そこの産とする下総説、『源頼朝が再起の折、鎌倉へ向かう途中』、現在の『東京都大田区の千束八幡神社』の附近『に陣を張っていたところ、どこからか現れた野馬がおり、これを郎党が捕らえ』、『頼朝に献上した。身体に浮かぶ白い斑点が池に映る月影のようだったことから「池月」と名付け、自らの乗馬としたという』。千束八幡神社池月発祥説、そして、『山陰地方(いまの鳥取県や島根県)はかつて日本の代表的な馬産地の一つであり、各地に生食(池月)の生産地とする伝承があ』り、『鳥取市と岩美町の境にあたる駟馳山(しちやま)もその一つで、山裾にはその石碑がある。ここでの伝承によると、幼いころに母馬を失い、母を探して山野を駆けまわったことで鍛えられた池月が頼朝に献上されたというものである。山はもともと「七夜山」(しちやま)と書いたが、池月にちなんで馬編の漢字があてられて「駟馳山」となったという』という隠岐の近場である山陰説があるとする。ハーンの言うように、「その馬は嘗て隱岐から美保關まで泳いだといふ口碑がある」とすれば、実は――隠岐から亡き母を探して海を渡って駟馳山までやってきたのだ……――と浪漫的に考えるのも一興ではある。但し、私は生食は南部馬であったとする説を支持するものである。ここでそれを語り出すときりがないので、私の電子テクスト「北條九代記 將軍實朝民部大夫が家に渡御 付 行光馬を戲する歌」の「奥州二戶」の私の注と引用文を参照されたい。
「クログルウの物語唄に見えるカイラツトといふ馬」原文は“the horse Kyrat in the ballads of Kurroglou”。“the ballads of Kurroglou”はペルシャの民謡らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。
「隱岐の產であつたとこの島人が明言するのが自分には奇妙に思ヘた」いいや! ハーン先生! 鎌倉時代の馬はね、ポニーぐらい小さいんですぜ!]
ⅩⅥ.
Every province of Japan has its own peculiar dialect; and that of Oki, as might be expected in a country so isolated, is particularly distinct. In Saigo, however, the Izumo dialect is largely used. The townsfolk in their manners and customs much resemble Izumo country-folk; indeed, there are many Izumo people among them, most of the large businesses being in the hands of strangers. The women did not impress me as being so attractive as those of Izumo: I saw several very pretty girls, but these proved to be strangers.
However, it is only in the country that one can properly study the physical characteristics of a population. Those of the Oki islanders may best be noted at the fishing villages many of which I visited. Everywhere I saw fine strong men and vigorous women; and it struck me that the extraordinary plenty and cheapness of nutritive food had quite as much to do with this robustness as climate and constant exercise. So easy, indeed, is it to live in Oki, that men of other coasts, who find existence difficult, emigrate to Oki if they can get a chance to work there, even at less remuneration. An interesting spectacle to me were the vast processions of
fishing-vessels which always, weather permitting, began to shoot out to sea a couple of hours before sundown. The surprising swiftness with which those light
craft were impelled by their sinewy scullers — many of whom were women — told of a skill acquired only through the patient experience of generations. Another matter that amazed me was the number of boats. One night in the offing I was able to count three hundred and five torch-fires in sight, each one signifying a crew; and I knew that from almost any of the forty-five coast villages I might see the same spectacle at the same time. The main part of the population, in fact, spends its summer nights at sea. It is also a revelation to travel from Izumo to Hamada by night upon a swift steamer during the fishing season. The horizon for a hundred miles is alight with torch-fires; the toil of a whole coast is revealed in that vast illumination.
Although the human population appears to have gained rather than lost vigour upon this barren soil, the horses and cattle of the country seem to have degenerated. They are remarkably diminutive. I saw cows not much bigger than Izumo calves, with calves about the size of goats. The horses, or rather ponies, belong to a special breed of which Oki is rather proud,— very small, but hardy. I was told that there were larger horses, but I saw none, and could not learn whether they were imported. It seemed to me a curious thing, when I saw Oki ponies for the first time, that Sasaki Takatsuna's battle-steed — not less famous in Japanese story than the horse Kyrat in the ballads of Kurroglou — is declared by the islanders to have been a native of Oki. And they have a tradition that it once swam from Oki to Mionoseki.