梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (3)
翌日の昼、霧雨の中を谷山に着いた。壕(ごう)の中は湿気に満ち、空気は濁っていた。暗号室は、壕の一番奥にあった。霧雨を含んでしっとり重い略帽を手にさげ、梁(はり)で頭打たぬよう身体をかがめて入って行った。高温のため、眼鏡がふいてもふいても直ぐ曇った。
「今すぐ桜島に発(た)って呉れ。あそこには暗号の下士官がいないのだ」
「一人、居る筈ではないのですか」
「赤痢で、霧島病院に入院したんだ」
掌暗号長とこういう話をした。
「すぐ出発します」
暗号室を出て来ると、顔見知りの下士官や兵隊がいて、やあやあとあいさつした。此処はずっと雨で、二三日前は、居住区の方の壕の入口が壊れたという。砂岩質の、もろい土質であった。湿気のためか、壕内はいやな臭いがした。兵隊の顔色は皆蒼白(あおじろ)かった。
佐世保海兵団から、桜島に行くべき兵隊が六名、間違えて谷山に来ているから、それらを連れて行けと言うので、私迄入れて七人、壕の入口に整列し、当直将校にあいさつし、また霧雨の中を赤土の路を踏み、市電の停留場へ進んで行った。聞いてみると、六名は皆補充兵である。回天や震洋艇(しんようてい)の修理のため派遣されるのだと言う。
「桜島には、震洋がもう来ているのかね」
「判りませんです」
答えたのは一番年嵩の一等兵である。四十は既に越した風貌である。身体に合わない略服を着て、見すぼらしく見えた。衣囊(いのう)も小さい。佐世保海兵団で焼け出されたため、ごく僅かの衣類しか支給されなかったと言う。私の衣囊の重そうなのを見て、しきりに自分のものと交換してかつごうと言って聞かなかった。善良な型の人物のようであったけれども、軍隊の仕来(しきた)りに忠実であろうとするその愚直さが、私には何となく重苦しかった。
「俺の物は俺が持つ」
素気(そっけ)なく私はそう言い、あとは黙って路を歩んだ。停留場に着いた。小さな電車に乗って暫(しばら)く走ったと思うと、すぐ降された。爆撃された為、電車は此処迄しか通じないのだ。再び列をつくって、今度は舗装路を歩み出した。
鹿児島市は、半ば廃墟となっていた。鉄筋混凝土(コンクリート)の建物だけが、外郭だけその形を止め、あとは瓦礫(がれき)の散乱する巷(ちまた)であった。ところどころこわれた水道の栓が白く水をふき上げていた。電柱がたおれ、電線が低く舗道を這(は)っていた。灰を吹き散らしたような雨が、そこにも落ちていた。廃墟の果てるところに海があった。海の彼方(かなた)に、薄茶色に煙りながら、桜島岳が荒涼としてそそり立った。あの麓(ふもと)に行くのだと思った。皆、黙ってあるいた。衣囊が肩に重かった。
波止場(はとば)で船を待っているうちに、空が漸(ようや)く明り出した。雲が千切れながら、青い空を見せ始めた。船を待つ人は皆、痴呆に似た表情をし、あまり口を利(き)かなかった。切符売場の女の子達は、ふかした馬鈴薯を食べていた。それが変に私の食欲をそそった。私はそれから眼を外(そ)らし、衣囊に腰を掛け、無表情な群衆を眺めていた。昨夜の女のことを考えていたのだ。昨夜の情緒が、妙に執拗に私の身体に尾を引いているように思われた。何か甘いその感じが、逆に作用して、波止場にいる無感動な人々の表情に対する嫌悪をそそった。
(馬みたいに表情を失っている)
私は激しく舌打ちをした。兵隊たちは、女の子から馬鈴薯をわけて貰い、私の眼をはばかるようにしてそれを食べていた。じりじりするような時間が過ぎた。やがて白い波頭を立てながら、船が来た。私達は乗った。濁った水をわけながら、船は動き出した。
やがて着いた対岸の砂浜に板をおろし、ひとりひとり渡って飛び下りた。此処が桜島である。海沿いの道を約一里あるいて、袴腰(はかまごし)という処に部隊がある。眼をあげると、空は晴れ上って、朱を流したような夕焼であった。私の心もほっと明るくなるような感じであった。気軽く兵隊たちにも話しかけ、そして歩き出した。雨上りの、鮮烈な緑をたたえた樹々が道のくねりにしたがって次々につづいた。農家らしい家に立ち寄り、梨を沢山買った。
茶褐色の、かたい小さな梨であった。気が付くと、群れ立つ樹々の間に、此の野生の梨はあちこちに茶褐色の実を点じていた。
「昨夜の女が言った梨が、これか」
汁液の少ない、甘味に乏しい実を嚙んではき散らしながら、私はそう思った。
日が落ちた。満山に湧く蟬(せみ)の声も衰えた。薄明の中、私達は部隊に着いた。道から急角度にそそり立つ崖に、大きな洞窟を七つ八つも連ね、枯れた樹などで下手な擬装をしている。ドラム罐(かん)などが、壕の入口にいくつも転がっていた。そして兵隊が壕を出たり入ったりしている。皆、年取った兵ばかりであった。静かな濤(なみ)の音がした。
当直将校に会い、七名分の送り状をわたし、私はそこで六名と別れた。通信科の兵が来て、それと一緒に居住区に歩き出した。通信料の居住区は、丘の頂上近くにある。暗い歩き難い山道をのぼりながら、私は空をあおいだ。参差(しんし)する梢(こずえ)のために、星も見えなかった。
「まだ上の方かね」
「もうすぐです」
少し広い道に出て、梢が切れた。片側が崖になり、暗い海の展望があった。微(かす)かな風が私の瞼(まぶた)にあたる。海の向うにはくろぐろと鹿児島の市街があり、そのひとところが赤い焰をあげて燃えていた。疲労した私の眼に、その火の色は此の世のものならぬ不思議な色で、とろとろと静かに燃えていた。
「毎晩、ああやって燃えているのです」
変に感動しながら、私は兵のその言葉を聞いた。
狭い道に降り、そして居住区についた。崖下の洞窟より一回り小さい入口が、やはり竹や樹で小うるさく擬装してあって、電線が岩肌を何本も這って居た。壕はU字形をしているらしかった。身体をかがめて入って行った。
壕の一番奥は送信所になっていて、発電機とか送信機がごちゃごちゃ置いてある。そこで電信の先任下士官などに会い、あいさつをした。送信所に到る通路が、いわば居住区の形で、寝台や卓子(テーブル)が並んでいた。その一つの卓に瓶(びん)を置いて、準士官が一人酒を飲んでいた。骨組みは太そうだけれど、肉付きの薄い、通信科の軍人に特有の青白い皮膚をした顔の、こけた頰の上に赤く濁った眼がぎろりと私にそそがれた。陸戦の士官の持つような頑丈な軍刀に片手を支え、酒盃(しゅはい)に伸びた手の指が何か不自然なほど長かった。
「村上兵曹か」
私は敬礼をした。
「ここは、当直は辛(つら)いぞ。下士官だからといって、夜の当直を抜けることは、俺が絶対に許さん。他の基地のことは知らん。此処は少くとも第一線だ。毎日グラマンが飛んで来る。とうせ此処で、皆死ぬんだ。死ぬまで、人から嗤(わら)われたり後指をさされたりするようなことをするな」
老人のようにしゃがれた声であった。
「判っております」
「俺は、俺はな、吉良(きら)兵曹長」
投げつけるような口調(くちょう)でそう鋭く言ったと思うと、執拗なまで私の顔にそそいでいた視線をふいと外(そ)らし、再び私の方を見ようともしなかった。私のことをすっかり忘れ果てた様子で、視線をじっと中空に据え、長い指で盃(さかずき)を唇にはこんだ。
「帰ります」
敬礼をし、私は兵隊に導かれ、私に定められた寝台のところに行った。衣囊を寝台の下に押込み、湿った服を脱いだ。山の下から、微かに巡検ラッパの音が流れて来る。寝台は二段になっていて、二階の方に、下手糞(へたくそ)な字で、村上兵曹、と書いた新しい木札がかけてあった。梯子(はしご)を登り、私は毛布の上に横たわった。あおむけに寝た私の顔のすぐ上を、黒い電線や裸線が幾本も通り、壕内の乏しい電燈の光を吸うて微かに光った。天井からは絶えず細かい砂がはらはらと落ちて来るらしかった。私はそのまま目を閉じた。
(あの眼だ)
軍人以外の人間には絶対に見られない、あの不気味なまなざしは何だろう。奥底に、マニヤックな光をたたえている。常人の眼ではない。変質者の瞳だ。最初に視線が合ったとき、背筋を走りぬけた戦慄は、あれが私の脅(おび)えの最初の徴侯ではなかったか。私が思うこと、考えることを、だんだん知って来るに従って、吉良兵曹長は必ず私を憎むようになるに決っている。それは一年余りの私の軍隊生活で、学び取った貴重な私の直観だ。あの種類の眼の持主は、誤たず私の性格を見抜き、そして例外なく私を憎んだのだ。
「苦手!」
私はそう口に出して呟(つぶや)いた。此の桜島での生活が、何時まで続くか判らない。しかし死の瞬間までに到る此処での生活の間、彼を上官としていただかねばならぬこと、漠然たる不吉の予感がにがく私の胸をつつんだ。
昨夜の記憶が、遠い昔のことのように感じられた。それは遙かな、もはや帰って行けぬ世界であった。
そのうちに私は、うとうとと深い眠りに落ちて行ったらしかった――
[やぶちゃん注:一点だけ――底本にどうしても従いたくないことがある。それは「蟬」である。本篇では総て「蝉」である。「蟬」は本作の極めて重要なアイテムである。而して私は「蝉」という新字が生理的に頗る大嫌いである。――されば――ここ以降に出現する「蝉」という文字だけは――総て正字の「蟬」で表記させて頂く。なお、私の電子データをこっそり剽窃する際は、くれぐれも「蝉」と直して自分のオリジナルのようにすることを忘れないようにされたい。そういうミスを犯して私の膨大な電子データを自分が打ったかのように嘘をついているために、私から永遠にネット上で批判され続ける(事実、私は批判し続けている)愚劣なサイトが鎌倉関連サイトには、ある。私はともかくも――執念深い男――である。
「谷山」谷山にある海軍基地。薩摩半島東側の旧谷山市内(現在は新制の鹿児島市谷山地区で市南部に位置する)。
「略帽」は「略式制帽」とも呼ばれる制帽の一種で、ウィキの「制帽」によれば、『旧日本軍や自衛隊などで正帽』と呼ばれたものの略式の実務実戦向きのものである。『略帽は正規の儀礼でも用いられる格式を与えながらも、製造に掛かるコストや物資が儀礼帽や官帽よりも節約できるため、特に戦時体制下では略帽を大量生産して着用を奨励することで、結果的に正規制帽の官帽をほぼ被らなくなる事例も日本の歴史上では見られた』。『制服規程などで形状や意匠が略帽として定められた制帽は、厳密には全て略帽に含まれるため、制帽と同様に略帽という形の帽子はないが、近代史上の経緯から、日本で一般的に略帽として連想される帽子は大日本帝国陸軍や大日本帝国海軍で略帽として制定された戦斗帽(戦闘帽)と呼ばれる様式のものが多く、それがそのまま略帽と呼ばれる場合もある』とある。リンク先の写真の内、『士官略装(後の第三種軍装)の略帽を着用した海軍大佐(犬塚惟重)』とあるものを想起すればよいか。特攻志願の少年航空兵であった私の父もこんな形の帽子を被って出征した。
「霧島病院」現在の鹿児島県本土の中央に位置する霧島市内の病院と思われるが、不詳。
「掌暗号長」通信科内の暗号管理の実務エキスパートで、恐らくは兵曹長である。この上にさらに全体を統括する原則、海軍将校が就いた(前にも述べたが、狭義の「海軍将校」とは原則、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを指す。但し、この兵学校選修学生出身の特務士官〔海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても将校とはなれず将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった〕も特例として就けた)、暗号科内の最高責任者である「暗号長」の職務を補佐して全体を指揮監督する「暗号士」がいたものと想定される。ここは個人サイト「兵隊さん昔話」内の「海軍にのみ存在した特務士官を考える」などを参考にさせて戴いた。
「砂岩質の、もろい土質」シラス(白砂・白州)。主にウィキの「シラス(地質)」から引く。『九州南部一帯に厚い地層として分布する細粒の軽石や火山灰で』、『鮮新世から更新世にかけての火山活動による噴出物であるが、地質学においてはこのうち特に入戸火砕流』(「入戸」は「いと」或いは「いりと」と読む。約二万五千年前に現在の鹿児島湾と桜島を囲む巨大カルデラ姶良(あいら)カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流)『による堆積物を指す。古くは白い砂を意味する一般的な言葉であり、現代でも東北地方においてはこの意味で使われる』。『九州南部の平地を中心に分布しており、鹿児島湾北部を囲む地域において最も厚く、湾から遠ざかるに従って薄くなり熊本県人吉市や水俣市、宮崎県宮崎市にも分布している。鹿児島県内でおおむね』数十メートル程度、最大約百五十メートルもの『厚みがある。鹿児島市北西部から日置市にかけて広がる丘陵地や、鹿屋市を中心として広がる笠野原台地は、ほぼ全体がシラスで形成されている。また、霧島市付近に広がるテーブル状の丘陵群は別の地層の上にシラス層が重なるようにして形成されている。上面は平坦になっておりシラス台地と呼ばれる台地を構成している』とあり、ウィキの「シラス台地」によれば、鹿児島市の実に五十二%をシラス台地が占めるとある。実は、実感としてそれを知る私自身にはこんなインキ臭い注は本来は不要である。私の母の実家(現在は消失)は鹿児島の大隅半島の曽於(そお)市大隅町岩川であったからである。
「佐世保海兵団」佐世保鎮守府設置と同時に鎮守府用地内に設置された海兵団。海兵団とは『大日本帝国海軍において、軍港の警備防衛、下士官、新兵の補欠員の艦船部隊への補充、また海兵団教育と称するその教育訓練のために練習部を設け、海軍四等兵たる新兵、海軍特修兵たるべき下士官などに教育を施すために、鎮守府に設置されていた陸上部隊』のこと(以上はウィキの「海兵団」に拠る)。因みに、「鎮守府」とは『日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関』で『所轄海軍区の防備、所属艦艇の統率・補給・出動準備、兵員の徴募・訓練、施政の運営・監督にあたった。鎮守府司令長官(大・中将)は軍政に関しては海軍大臣の、作戦計画に関しては海軍軍令部長(軍令部総長)の指示を受けた』(ここはウィキの「鎮守府」よりの引用)。後で「佐鎮(さちん)」と出るので、佐世保鎮守府も先に注しておくと、長崎県佐世保市にあった日本海軍の鎮守府で、通称を「佐鎮」と称した。『九州を始めとする西日本地域一帯の防衛と朝鮮・中国等東アジアへの進出の根拠地として九州の西岸に海軍の軍港を置くことになった。本命は長崎だったが、市民から商港機能を阻害されると猛反対され、土地買収費用の問題もあり断念』、『海軍部内での検討の末、天然の良港であり、寒村ゆえ土地も安く手に入る佐世保村に軍港を開き鎮守府を置くことが決定し』、明治二二(一八八九)年に『正式に佐世保鎮守府が開庁した』(ここはウィキの「佐世保鎮守府」に拠った)。同ウィキによれば、本篇作品内時間の同鎮守府の最終所属部隊を見ると、第三特攻戦隊(大村)として川棚突撃隊・第三十一突撃隊(佐世保)・第三十四突撃隊(唐津)、第五特攻戦隊(鹿児島)として第三十二突撃隊(鹿児島)・第三十三突撃隊(油津)・第三十五突撃隊(細島)の特攻部隊の名が掲げられている。
「補充兵」徴兵検査で乙種合格と判定されながら、その年度の徴集定員を超えていたために軍隊に行かずに済んだ者は「補充兵役」に編入された。服役期間は十七年と四ヶ月で、その間、社会人としての生活をしながら、軍隊で「教育召集」という短期間の教育を受ける義務が課せられた。万一、この服役期間に戦争や事変が起こって召集兵を動員しても数が不足した場合には、この者たちに「臨時召集令状」によって召集がかけられ、この兵士らを「補充兵」と称した。昭和二(一九二七)年四月一日に公布された「兵役法」(日本国民男子に兵役の義務を課す旧法律。明治六(一八七三)年に陸軍省から発布された徴兵令を全面改正する形で同昭和二年十二月一日に施行された。この時に法令名を「徴兵令」から改題している。戦後、ポツダム命令によって昭和二〇(一九四五)年十一月十七日に廃止。ここはウィキの「兵役法」に拠った)に『第一補充兵ハ現役兵ニ欠員ヲ生ジタル之ガ補充ヲ爲シ又必要ニ應ジ之ヲ召集シテ所要ノ教育訓練ヲ施シ以テ戰時ノ要員ニ充ツルモノトス』と規定されていた。第二次世界大戦では戦争の泥沼化に従って、常備役・補充兵役のハードルが低くなり、「根こそぎ動員」という状態となった。補充兵役は第一補充兵・第二補充兵とに分類され、この他に「国民兵役」があり、これはまた、常備兵役と補充兵役とを終えた男子が服する「第一国民兵役」と、常備兵役・後備兵役・補充兵役および第一国民兵役に属さない、満十七歳以上四十五歳以下の男子が服する「第二国民兵役」とがあった。以上は消失可能性のあるネット上のQ&Aサイトの回答からの引用であるからリンクは張らないが、その最後に回答者は『当時の「日本国臣民」は何らかの形で軍隊にかかわらざるを得なかった』点に着目されたいと擱筆されておられる。
「回天」大日本帝国海軍が開発した最初の特攻兵器、通称、人間魚雷。以下、ウィキの「回天」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略・追加した。下線やぶちゃん)。『「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名した。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」という言葉を使っていた。秘密保持のため付けられた「〇六(マルロク)」や「的(てき)」という別称もある。『一九四四年七月に二機の試作機が完成し、十一月八日に初めて実戦に投入された。終戦までに四百二十基が生産された。兵器としての採用は一九四五年五月二十八日のことだった』。『回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を転用し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径六十一センチメートル、重量二・八トン、炸薬量七百八十キログラム、時速四十八ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長十四・七メートル、直径一メートル、排水量八トンの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を一・五トンとした場合、最高速度は時速五十五キロメートルで二十三キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった』。『操作方法は搭乗員の技量によるところが多かった。手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウオッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。当時の搭乗員は「操縦するのには六本の手と六つの目がいる」と話していたという』。『回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進二十基のうち撃沈二隻』(ミシシネワ及び歩兵揚陸艇一隻)、『撃破(損傷)三隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」』(魚雷二本を艦首に装備した小型特殊潜航艇。開発当初は洋上襲撃を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載して水中から発進、港湾・泊地内部に侵入、敵艦船を攻撃するよう戦術が転換された。ここはウィキの「甲標的」に拠る)『による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された』。『回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった』。『潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも八十メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦十六隻(のべ三十二回)のうち八隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊の球磨型軽巡洋艦三番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦(竹等)や一等輸送艦が改造された』。以下、「開発」の項。『人間魚雷の構想は、ガダルカナル島での敗北後に日本海軍内で上がっていた。竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部の井浦祥二郎中佐に対して送り、井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった』。昭和一八(一九四三)年『十二月、伊百六十五型潜水艦水雷長・入沢三輝大尉と航海長・近江誠中尉が、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を軍令部と連合艦隊に献策したが、全く受け入れられなかった』。『陸軍の工作機械設計者だった沢崎正恵は、人間魚雷を設計して持参したが、紹介状がなかったため軍務局長には面会ができず、嘆願書を受理してもらった。一九四四年二月、軍務局長から、それは海軍の管轄との返信があった』。昭和十八年『末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉は回天の原型に基づいて検討を行い、これを山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。一九四三年十二月二十八日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された』。『しかし、この後の上申は軍務局第一課長の山本善雄大佐を動かし、黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。しかし、戦局の悪化は著しく、マーシャル失陥やトラック空襲などで日本軍の治安は悪化する一方だったことから』、昭和一九(一九四四)年『二月二十六日、中央は海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。最初は乗員の海中放出が条件にあった』。同『年四月四日軍令部第二部長黒島亀人の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○六(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された』。同年『七月二十五日、試作機の試験が大入島発射場で行われたが、脱出装置が未完成のために装備されなかった。また、この試験を終えて兵器としての問題点が指摘された。指摘の主なものは「魚雷改造の艇のため後進ができない」「旋回半径が大きすぎる」「最大八十メートルしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を制限し、水中機動の妨げになる」などが挙げられたが、これらの問題点は改善されることなく、一九四四年八月一日に米内光政海軍大臣の決裁によってそのまま正式に兵器として採用された。試験で挙げられた三つの問題点は、終戦まで解決されなかった』。同年『八月十五日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。そして』昭和一九(一九四四)年『九月一日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月五日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。これが組織的な回天特攻の始まりである』。『一方、回天の生産は、八月末までに百基の「一型」を生産する計画が立てられたものの、実生産数は九月半ばまでに二十基、以後は日産三基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、一回の発射に地上で三日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は三日で二回のペースで調整するよう督促された』。『訓練初日の九月六日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった』。同『年九月下旬までに回天の整備が進み、「玄作戦」が立案される。それと関連し、九月二十七日に藤森は中澤佑軍令部第一部長に報告を行う。回天については「回天命中確度七十五%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」と述べた』。同年『十月からは、回天を搭載させるために改造した第十五潜水隊の三隻の潜水艦によって周防灘で最後の総合訓練を実施し、十月下旬には連合艦隊司令長官から回天による特別攻撃命令が発せられた。第六艦隊司令部で「玄作戦」と命名され、攻撃隊(残された主力潜水艦のほぼ総戦力による特別編成隊)は「菊水隊」と命名された。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦「ミシシネワ」(USS Mississinewa, AO-59)を撃沈して初戦果をあげた』。『最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった』。同年『十一月八日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜に各四基ずつ搭載)の十二基が回天特攻の初陣である。菊水隊の回天搭載潜水艦三隻のうち、伊三六潜と伊四七潜の二艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、伊三七潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した』。『回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が一九四四年十一月二十日決行された。二十日、伊四七潜から四基全て、伊三六潜からは四基中の一基の計五基の回天が、環礁内に停泊中の二百隻余りの艦艇を目指して発進した』が、『プグリュー島の南側で二基の回天が珊瑚礁に座礁して自爆』、『伊三六潜は、四時十五分発進予定地点のマーシュ島』附近に到着したものの、『三基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが四時五十四分に発進した。その後、これらの回天のうち、一基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没、残る二基が泊地進入に成功し、一基が五時四十七分にミシシネワへ命中(混載していたガソリンに引火して爆発・炎上、一時間後に沈没、戦死五十名)』、『その後、最後の一基は軽巡洋艦モービル(USS Mobile, CL-63)に向けて突入。潜望鏡によって二~四ノットの速力で直進してくる回天を発見したモービルが、五インチ砲と四〇ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、五インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ロールの爆雷攻撃によって六時五十三分に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)』。『伊三七潜はパラオ・コッソル水道に向かったがパラオ本島北方で発見され』、撃沈(推定)、『伊三七潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された』。『この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦三隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れず金剛隊が編成された。当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している。黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更されたのは、金剛隊による泊地攻撃の後であった』。同年『十一月八日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降一九四五年八月まで金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊の二十八隊(潜水艦三十二隻、回天百四十八基、途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が複数回の出撃を行ったり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが一回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄諸島にかけてである』。『以後は、次第にアメリカ軍の停泊地の警備が厳重となったため、洋上攻撃へ作戦変更を余儀なくされた。菊水隊以降は金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊と終戦の一週間前まで、計一四八基の回天が出撃した。すでに制海権も制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった』。昭和二〇(一九四五)年『三月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦(北上)や、松型駆逐艦、一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった』。『終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面、または事実と異なる説が強調された。特にハッチに関しては中から手動で開けられ、外からは工具を使用するものの開閉は可能だった。また、搭乗員は操縦の特異性から転用ができないため、全てが回天戦のために選抜されて訓練を受けた優秀な若い志願兵だった。ただし、戦時の日本において事実上、志願を拒否することは著しく困難で、戦果に関しては四十九基出撃の結果に対し撃沈四隻と乏しく、回天を輸送し発進させる潜水艦の損耗率も高かった』。『多門隊の回天は後に沖縄海域で故障艇一を除き全て出撃した』。以下、「戦果」の項。『回天の総合戦果は、判明している戦果は給油艦ミシシネワ、護衛駆逐艦アンダーヒルなど撃沈三、大破一、小破四』に過ぎなかった(具体的なそれはリンク先に示されてある)。『本来の目標であった米正規空母・戦艦に対する戦果はなかった。この期待はずれの結果に対し、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいた。吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、米軍による情報隠蔽の根拠としている。また全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているものということになり、これから新しい戦果及び戦闘状況が判明される可能性もある』。『当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から三十分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる一時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、さらに大戦果を挙げたい、大戦果を挙げたと信じたい戦場心理が作用していたため、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった』。『搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった』。搭乗員は『予備士官、予科練出身者は募集による志願』であったが、『作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者二千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に百名が選抜された』。昭和六三(一九八八)年二月に作成された『回天名簿によると、最終的には兵学校・機関学校百二十二名、予備士官二百四十四名、兵科下士官十名、予科練千五十名の、計千四百二十六名(うち転出五十一名)が着任し』ている。『終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、千三百七十五人であったが、実際に出撃戦死した者は八十七名(うち発進戦死四十九名)、訓練中に殉職した者は十五名、終戦により自決した者は二名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると百四十五人になった。訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多い。搭乗員は志願によって選抜され、戦死者の平均年齢は二十一・一歳だった』。『坂本雅俊(回天特攻要員)は「覚悟はしていたが見た時はぎょっとした」という。竹林博(回天特攻要員)は「戦争の再現は望まないし美化もしないし命も粗末に考えないが、日本のためどんなものでも行くという思いで殉じた若者がいたことを正しく歴史に刻みこんでほしい」と戦後語っている』(以下、「訓練基地」の項があるが中略する)。「基地回天隊」の項。『回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された』。『第一回天隊八基および搭乗員、整備員、基地員の全百二十七名は一九四五年三月に第十八号輸送艦で沖縄に向け進出したが、同十八日に沖縄南西の慶良間諸島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅(推定)した。第二回天隊八基は一九四五年五月に伊豆諸島の八丈島の二ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた』。『そのほか、第三・第五・第八・第九回天隊は宮崎県、第四・第六・第七回天隊は高知県、第十一回天隊は愛媛県、第十二回天隊は千葉県、第十六回天隊は和歌山県に配備され、いずれも敵の上陸予想地点を射程内に捕らえる場所にあった』とある。以下に回天の配置一覧があるが、鹿児島に配された部隊では「第十回天隊」(指揮官は佐賀正一)回天四基で鹿児島県内ノ浦とのみあり、桜島は出ないが、鹿児島県肝付(きもつき)町観光協会の公式サイト内に「人間魚雷跡」のページが同町の小串(こぐし)地区には『岩場を人工的に掘削した人間魚雷「回天」の発射基地があり』、三基の『発射場が残っています。当時は基体を送り出すレールも敷設されていたそうですが、戦後台風で無くなったと言われています』とあって、先に引いた「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」の記載その他などからも、桜島や坊津の海軍秘密基地に回天が配備されていた、或いは配備が予定されていた可能性は極めて高いと思われる(下線やぶちゃん)。
「震洋艇」大日本帝国海軍が開発した、搭乗員が乗り込んで操縦し、目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する海軍のモーター・ボート特攻兵器。ウィキの「震洋」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)。『一九四四年十月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に本特攻兵器の開発は始まっていた。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。マルレと合わせて「○ハ」とも呼ばれた』(『震洋と共に運用された陸軍の攻撃艇マルレ』(四式肉薄攻撃艇)もあった)。『二人乗りのタイプには機銃一~二丁が搭載され、指揮官艇として使用された。戦争末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために二発のロケット弾が搭載された』。昭和一八(一九四三)年、『黒島亀人連合艦隊主席参謀は、軍令部に対しモーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる方法はないかと語っていた』が、この後の昭和一九(一九四四)年四月四日、『黒島亀人軍令部二部部長は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題した提案の中で、装甲爆破艇(震洋)の開発を主張した。この発案は軍令部内で検討された後、海軍省へ各種緊急実験が要望された。艦政本部において○四兵器として他の特攻兵器とともに担当主務部を定め、特殊緊急実験が行われた』。『以上の経緯から、艦政本部第四部が主務となり設計を開始した。船体は量産を考慮し木製とし、エンジンにはトヨタの四トン積トラックの自動車エンジンを設計を強化した上で採用、速力は最低二〇ノット以上、三〇ノットを目指した。爆装については横須賀海軍工廠による実験の結果、三百キログラムの爆薬であれば水上爆発でも喫水線下に約三メートルの破口を生じ、商船クラスであれば撃沈できるとの結果が出たが、震洋の小型船体では三百キログラムの爆薬の搭載は無理であり、炸薬量を二百五十キログラムに減らした上で直ちに試作にかかった』。『試作艇は木造艇五隻と極薄鋼板艇二隻が作られ、船体は魚雷艇の船型を基礎とし、V型船底を持つものであった。これらは一九四四年五月二十七日の海軍記念日に完成し、直ちに試験が開始されたが耐波性が不足していることが判明、艇首を改良した。この他は所期の性能を発揮し、八月二十八日に正式採用された。「震洋」はこの際に与えられた名称で、またこの時点の艇が一型艇である。この直後、二人乗りの五型艇も開発され、生産された。さらにロケット推進式の六型艇(ベニヤ製)、七型艇(金属製)、魚雷二本装備の八型艇が開発されていたが、これらは実用に至らなかった。震洋は特攻艇として開発されたが、設計の初期から舵輪固定装置を搭載しており、搭乗員は航空救命胴衣を着て船外後方に脱出できるようにもなっていた。武装は一型艇で二百五十キログラムの爆薬の他、』十二糎(センチ)二八連装噴進砲(日本海軍の開発したロケットランチャー)『二基を搭載していた。また五型艇はこれに十三ミリ機銃一挺を追加し、更に一部に無線電話装置が装備された』。『設計時から量産を考慮して設計された為、製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産された。月間生産数は終戦までに百五十~七百隻、総生産数は終戦時までに各型合わせて六千百九十七隻である。設計主務部員班長を務めた牧野茂は、「震洋」は技術的に見て軽量高性能であり、満足できる設計だったと述べている』。同一九(一九四四)年『六月二十五日の時点ですでに震洋は量産を開始していた』。『大本営は捷号作戦に合わせて震洋隊の編成を急いだ。陸軍にも震洋と同種のマルレが存在したため密接な協調を取った。震洋とマルレは合わせて○ハと呼称されることになる。一九四四年八月八日までに、海軍と陸軍との間で○ハ運用に関する中央協定が結ばれた。大森仙太郎によれば、心配だったのは震洋搭乗員の志願者が集まるかという点であったが、思ったより多かったため安心したという』。『訓練においては、主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の二箇所で育成が行われた。一九四四年八月十六日、最初の搭乗員五十名が卒業した。八月末には三百名が卒業している。その後は毎月四百名が卒業した。八月十六日の検討会では草鹿龍之介中将と井上成美中将が生還の可能性も考えてほしいと意見するが、最終的にそういった措置が取られることはなかった。○四は一九四四年八月二十八日付で「震洋」として米内光政海軍大臣より認可、兵器として制式採用された』。『震洋部隊の戦時編成は行われず、海軍省は震洋を艦艇ではなく兵器扱いの形で部隊へ供給した』。『震洋は、陸軍海上挺進戦隊のマルレとともに、フィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備された。一九四五年にはフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍を迎撃し、幾ばくかの戦果を挙げてはいる。沖縄戦にも実戦投入された』が、『アメリカの資料によると、終戦まで連合国の艦船の損害は四隻だった』。『防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無・成否・戦果などが部隊ごとの記録となった。実戦では部隊ごと全滅してしまうことが多かったことから、特に実戦投入に関する実情は不明なところが多い。従って現行の文献では米軍の記録した水上特攻戦果に対し、震洋、マルレ共に配備された地域では日本軍側の戦果報告記録が無い場合(混乱の中で消失もしくは部隊ごと消滅した場合)「マルレもしくは震洋によるもの」とされることが非常に多い』。『日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られた。九州・川棚の訓練基地跡が残る』(川棚(かわたな)は長崎県東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)にある町で県の中央部に位置する)。終戦後の一九四五年八月十六日、高知県で第一二八震洋隊に出撃命令が下され、準備中に爆発事故が起こり百十一名が死亡し』ている。『震洋は国内及び海外拠点各地に海上輸送により配備されたが、海上輸送線の途絶に伴い、敵潜水艦、航空機による移動中の被害が多かった。また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるケースも多く、こうした部隊は予期した形で実戦に参加しないうちに支援要員も含めてほとんどが戦死した。終戦時には本土決戦に対する備えとして四千隻近くが実戦配備についていた。オーストラリアのシドニーの戦争記念博物館に一隻のみ保存されている』。『搭乗員は、他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか、学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心とした。彼らは機体が無いために余剰となった航空隊員だった。震洋の戦死者は二千五百人以上である』。作家島尾敏雄は『第十八震洋隊を率いて加計呂麻島に駐屯するも、出撃前に終戦。当時の状況は、駐屯中に知り合った大平ミホ(後の妻)との逢瀬を描く『島の果て』、特攻隊員として出撃を待つ『出発は遂に訪れず』等に詳しい』。以下、リンク先の部隊基地を見ると、鹿児島(島嶼部が多い)は全部で十八の「震洋隊」を認めるが、桜島はない。但し、陸繋島である桜島の大隅半島の陸側である垂水(たるみず)には「第六一震洋隊」及び「第六四震洋隊」が配置されており、本篇冒頭で村上兵曹が配属されていた坊津には「第一二三震洋隊」が、このシーンの谷山には「第六三震洋隊」が配置されており、前の引用で『震洋部隊の戦時編成は行われず、海軍省は震洋を艦艇ではなく兵器扱いの形で部隊へ供給した』とあるから、回天同様、先に引いた「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」の記載その他などからも、桜島島内の海軍秘密基地に震洋が配備されていた、或いは配備が予定されていた可能性は極めて高いと思われる。
「衣囊」海軍下士官兵が衣類を整理して入れておくキャンパス製の布袋。底のサイズは約四十センチメートル、長さは一メートル二十、三十センチメートルにも及び、重さは三十キロ以上あった。中には軍服・事業服・作業服・軍靴(ぐんか)に至る主要携帯品総てを納め、転勤などの移動の際に肩に担いで持ち運んだ。黒色の外嚢(がいのう)と白い内嚢(うちのう)があり、普段は内嚢を外嚢の中に格納しておく。ここは、ルビー氏のブログ「太平洋戦争史と死後の世界を考える」の『衣嚢(いのう)と制裁 「蜂の巣」』を参照させて貰った。
「一等兵」辞書類では旧陸軍の兵の階級で上等兵の下、二等兵の上の等級とし、ウィキの「一等兵」では『軍隊の階級の一。兵に区分され、上等兵の下、二等兵の上に位置する。一般に、軍人としての所作や小銃の運用技術等の基本的な訓練課程を終えると一等兵に昇任する』とあるので、やや不審思い(主人公の村上兵曹は海軍軍人。そもそも「兵曹」自体が旧海軍の下士官の称。上等・一等・二等兵曹の三階級があった)、特攻志願で陸軍の少年航空兵として一気に一等兵となった父に聴いたところ、『敗戦時の海軍では、最下級を「二等水兵」(陸軍は二等兵)、次は一等水兵(陸軍は一等兵)、次は三等水兵(陸軍は三等兵)、次は兵長(昔は四等兵だったらしい。陸軍は兵長)で、要するに陸・海の階級名称を統一したのだろう。元はイギリスか、ドイツの軍隊組織をコピーしたのだと思う』とのことであった。『姫路城下の焼け野原の駅前で警備に立っていたら、二等兵のおっさんに敬礼され、ドギマギした哀れな思い出があります』と語った。因みに当時の父は満十六歳だった。海軍内の通称では「水」を略して「一等兵」と呼称していたものであろう。
「袴腰(はかまごし)」現在の鹿児島県鹿児島市桜島横山町(よこやまちょう)。桜島山の手前に、台形のように見える高台部分を古くから「袴腰」と呼んだ。現在の桜島の玄関となっていて、桜島港は別名で袴腰港とも呼ぶ。
「蟬」分布域及び時期、それから作品の後半になってから有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera が重要な存在として登場してくることから、この蟬はセミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis ととっておく。後で「熊蟬が、あちらこちらにの樹に止って、ここを先途(せんど)と鳴いていた」とも出る。鳴き声はこちらで。
「道から急角度にそそり立つ崖に、大きな洞窟を七つ八つも連ね、枯れた樹などで下手な擬装をしている」「擬装」偽装に同じい。ここは軍事用語で、所謂、カムフラージュ(camouflage:第一次世界大戦で航空偵察が登場するようになった際、フランス語の「変装する」の意の“camoufler”(カムフレ)が英語化したもの)、軍事行動や軍事目標を敵から隠蔽する目的や敵の判断を誤らせるために用いる、周囲の物と似た色や形にして姿を見分け難くすること。迷彩彩色や擬装網である。「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」に、『桜島には洞窟陣地が待っていた。タリバンが隠れるような網の目状に全長2000メートルにおよんでいる洞窟である』とある。また、本作の場面展開上、ロケーションを確認しておくのがよいと思われるので、底本の本多秋五氏の「解説」にある、以下の部分を引用しておく。『部隊の本部は、崖下に大きな洞窟を七つ八つ掘り連らねたなかにあり、通信科は山の中腹以上に掘った洞窟にある。すなわち、頂上に近い洞窟に送信所と居住区があり、それから一段さがって、中腹の洞窟に受信所と暗号室がある。村上兵曹の直接の上官である吉良兵曹長は暗い洞窟のなかに居り、見張り兵は山頂の見晴らしのいい場所にいる』。
「参差(しんし)」互いに入り交るさま。また、高低・長短などがあって不揃いなさま。「参」は、長いさま・群がり立つさま・それらが不揃いなさまの謂いであり、「差」は等しくない・揃わないの謂いである。
「準士官」下士官出身者で士官に準じる待遇を受ける者の総称。階級名としては准尉・特務曹長・兵曹長などの語が当てられることが多い。大正九(一九二〇)年四月一日以降はそれまでの海軍上等兵曹などの官名を改め、海軍兵曹長又は海軍(機関・軍楽・船匠・看護・主計)兵曹長とすることとなり、海軍廃止時には海軍兵曹長のほか、飛行・整備・機関・工作・軍楽・衛生・主計・技術・法務の各兵曹長が置かれていた(ウィキの「准士官」に拠る)。
「村上兵曹か」作者梅崎春生も敗戦時、通信科二等兵曹であった。
「グラマン」通常、グラマン社が設計し、アメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機F6Fヘルキャット(Grumman F6F Hellcat)或いはF4Uコルセア(F4U Corsair)。ウィキの「F六F(航空機)」から引く(アラビア数字の一部を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。アメリカ海軍の本命は一九四〇年に初飛行したF4Uコルセアの方であったが、実際には開発時期が遅いこちらが艦上戦闘機の主力となった。『愛称のヘルキャットとは、直訳すると「地獄の猫」であるが、「性悪女」「意地の悪い女」という意味がある』。仕様は乗員一名で全長一〇・二四メートル/全幅一三・〇六メートル/全高四・一一メートル/運用重量五千七百十四 キログラム/最大離陸重量:六千九百九十キログラム/最高速度:時速六百十二キロメートル(高度七千百メートル時)/航続距離:千五百二十~二千五百キロメートル。武装は、ブローニングAN/M2 12.7mm機関銃六基で一銃あたり弾丸四百発(又はAN-M2 20mm機関砲二基で一銃あたり弾丸二百二十五発)、胴下搭載で九百七キロ爆弾一発又はMk13航空魚雷一発、翼下搭載で四百五十キロ爆弾二発又は二百二十七キロ爆弾四発又は一一〇キロ爆弾八発又は五インチHVARロケット弾六発又はティニー・ティム大型空対地ロケット弾二発を装備可能。『グラマン社によりアメリカ海軍の主力艦上戦闘機となったF4Fの後継機として開発された。開発は』一九三八年からで、『太平洋戦争の開戦に伴い、一九四二年一月七日には、試作機が完成していないにもかかわらず、千八十機の量産契約が結ばれ』ている。『F4Fがパイロットから頑丈さを評価されたことを確認し、F6Fも優美なものではなく、単純でありながら頑丈に作られた。機体の形も製造しやすいことを目的として、骨張った形状となった。後方にスライドして開くレイザーバック型のキャノピーを装備したため後方視界は決して良好ではなかったが、広いコクピットが優れた前方視界をパイロットに提供した』。『F4Fと違って主翼の位置が中翼配置ではなく低翼配置になり、脚部の構造にも影響した。F6Fは主脚を後方に引き込みながら、九十度回転させて主翼に収めた。F4Fではパイロットがクランクを使って手動で胴体に主脚を納めていたが、F6Fでは尾輪も含めて油圧で作動するようになった。これは、主脚の引き込みを面倒がっていたパイロットに歓迎された。初めてF6Fと交戦した零式艦上戦闘機のパイロットは、この低翼のためすぐにF4Fとは違う機体だと判別できたと述べている』。『防弾フロントガラスの他、九十六キログラムに及ぶ装甲がコクピットに張り巡らされた。同様の装甲が、燃料タンクとエンジンにも施された。胴体内には二百二十七リットルの燃料タンクがパイロットの座席下にあり、両翼にはそれぞれ三百三十一リットルの翼内燃料タンクを配した。これだけでF4Fの二倍に近い燃料積載量を確保できたが、さらに胴体下に容量五百六十八リットルの増槽を装備することもできた』。『全般的に言えば、野心的な新技術・新設計は盛り込まれず、F4Fの設計思想そのままの発展形であった。特に主脚を胴体に収容するためあえて太くされたF4Fまでの胴体設計主法が、主脚を主翼に収納する本機においても、そのまま踏襲されている。そのため斬新な設計により高性能を示しながら、種々の問題を抱え「航空母艦に搭載されるための機体設計をしなかった欠陥機」とさえ称されたF4Uと異なり、早期に艦上戦闘機として実戦化された』。『癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高めるパイロット背面の堅牢な装甲板、自動防漏タンクなどの装備に加え、見た目に反し日本軍搭乗員にも一目置かれるほどの良好な運動性能があり、格闘戦を得意とする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体で、折畳み式の主翼を備え、一隻の航空母艦に多数が搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。F4Fの経験を踏まえての、無難で堅実な設計が、期せずして対日本機に最適の性能を発揮する事になったのである』。『弱点は二千馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが、それでも零戦や隼など、日本の千馬力級戦闘機より明らかに優速であり、必要にして十分であった。限られた出力の発動機で最大限の性能を発揮するため極力まで軽量化された零戦に対し、大出力の発動機を得て余裕のある設計がなされたF6Fは全く正反対の性格の戦闘機であり、日米の戦闘機設計に対する思想の差を象徴しているとも言える』。『レーダーを搭載したタイプのF6Fは』アメリカ海軍主力雷撃機『TBFアベンジャーと組んで、対潜攻撃のハンター&キラー戦術におけるハンター(捜索担当)機としても活躍した。また単座艦上戦闘機でありながら、レーダー装備の艦上夜間戦闘機(F6F-5N)としても運用された。一部の空母が夜戦専用空母にさえなったという』。『前述の通り、あくまでF4Uの「保険機」であったため、基本性能に勝るF4Uが艦載機として太平洋戦争終盤に配備されるようになると徐々に第一線からは引き揚げられ、第二次大戦が終結すると急速に退役した。終戦の報を受け、搭載していたF6Fを海に投棄して帰投した護衛空母もいたことが当時の搭乗員のインタビューとして記録されている』とある。『米軍の公式記録によれば、太平洋戦争におけるF6Fと日本軍機(零戦並びにその後継機中心)のキルレシオ』(Kill Ratio:撃墜対被撃墜比率。空中戦を行った際に彼我に発生した損害比率を示す軍事用語)『は十九対一とされており、圧倒的な戦績を残している。海軍部隊が空中戦で撃墜した六千四百七十七機の敵機のうち、四千九百四十七機はF6Fによって撃墜されたものである。海兵隊が運用した陸上基地のヘルキャットを加えると、この数は五千百五十六機に達する』。『ただし、こうした空戦記録は、アメリカ海軍に限った話ではなく、自軍の戦果を過大に見積もる傾向がある。実際には撃墜していない敵機を、撃墜したと誤認する場合が多いためである。一九四五年三月十九日に生起したF6F・F4U・SB2C』(アメリカ海軍の主力爆撃機で愛称ヘルダイバー(Helldiver)『から編成された米艦上機百六十機と、第三四三海軍航空隊の紫電改五十八機との空戦では、米軍は撃墜五十、日本軍は撃墜五十八を主張した。実際の損害は、米軍十四機喪失、日本軍十五機喪失にすぎない』。「他機との比較」の「零戦」の項。『F6Fは大柄・大重量ながら二千馬力級のエンジンを搭載していたため、軽量ゆえに海面上昇率に優れる零戦と比較しても、ほぼ同じ海面上昇率であった。また、ズーム上昇は頑丈さゆえに急降下で速度を稼げるF6Fの方が零戦よりも優れていた。さらに、急降下性能、武装、防弾性能、横転性能、旋回性能も、時速四百キロメートル以下の速度域以外では零戦より優れていた』。『一方で、低速に陥る格闘戦では零戦に対して不利であったため、米軍は零戦との格闘戦を回避するよう戦闘マニュアルでパイロットに指示していた』。『また、零戦とF6Fが一対一の格闘戦を行い、双方弾薬を射ち尽くして引き分けた事例もある』。「コルセア」との比較。『コルセアの初飛行はF6Fよりも約二年早く、最高速度もF6Fに勝っていた。しかしながら着艦性能が悪く艦上戦闘機としての運用には難があり、F4Fの後継の座はF6Fに譲らざるを得なかった』。『なお、その後は改良によってF4Uも艦上戦闘機としての運用が可能になり、F6Fを置き換えて大戦末期から戦後にかけてのアメリカ海軍の主力戦闘機・戦闘爆撃機となるが、運動性が高いF6Fを「手強い相手」としていた日本機のパイロットからは、むしろF4Uは相対的には易しい相手であった』とあるから、この「グラマン」は「トムキャト」ではなく「コルセア」の可能性もあるが、ウィキの「F4U (航空機)」をリンクさせてこの注は終りとする。
「巡検ラッパ」大日本帝国海軍於ける日課の一つである巡検を知らせるラッパ。巡検は消灯前に海上にあっては副長・甲板士官・先任衛兵伍長が艦船内の点検を行うことを言う。初夜巡検とも称した。調べた限りでは、巡検時間は部隊や勤務地及び季節によって異なっていたらしい。ルビー氏のブログ「太平洋戦争史と死後の世界を考える」の「巡検」によれば、例えば夏季が二〇時三〇分であったら、冬季は三十分早く二〇時に開始された、とある。また、巡検喇叭はそれを事前に知らせるものであるから十五分前に鳴らされたとあるので、このルビー氏の例(あくまで例であるが)このシークエンスの時間を八時過ぎ辺りに比定することは出来ることになる。こちらで聴ける。]