「笈の小文」の旅シンクロニティ――薬吞ムさらでも霜の枕かな 芭蕉
本日 2015年12月28日
貞享4年11月24日
はグレゴリオ暦で
1687年12月28日
翁心地あしくて欄木起倒子へ藥の事い
ひ遣(つかは)すとて
薬吞ムさらでも霜の枕かな
「如行集」。「笈の小文」には載らない。欄木起倒子は「らんぼくきたうし(らんぼくきとうし)」と読み、名古屋星崎(現在の名古屋市南区星崎)の医師欄木三節の俳号。芭蕉は長逗留した知足亭を十一月二十一日に出て、熱田蕉門の林桐葉(はやしとうよう 林七左衛門)の邸宅へと移り、同月二十五日には名古屋の荷兮(かけい)亭へ赴いている。山本健吉氏は「芭蕉全発句」で、本句はこの二十一日から二十五日の閉区間の間で作句されたものとしており、さらに二十四日附寂照(知足)宛書簡から、
持病心氣(ごころき)ざし候處、又咳氣いたし藥給(たべ)申候
と引くことから、それに基づいて取り敢えずここに本句を配することとした。「熱田皺筥物語(あつたしわばこものがたり)」(東藤編・元禄八(一六九五)年跋)には、
一とせ此所にて例の積聚(しやくじゆ)
し出て、藥のこと醫師起倒子三節にいひ
つかはすとて
と前書する。「積聚」は所謂「差し込み」で胸部から腹部にかけての強い痛みを指す。山本氏二よれば「如行集」のこの句には脇句として「昔忘れぬ草枯の宿 起倒」が録されている、とある。この起倒子の名は二年前の貞享二年の、
其起倒子が許(もと)にて、盤齋(ば
んさい)老人のうしろむける自畫の像
に
團扇(うちは)もてあふがむ人のうしろつき
の句の前書に登場している、かねてよりの馴染みの医師でもあった(「盤齋」は摂津出身の僧で古典学者であった加藤盤斎。俳諧にも長じた。隠逸漂泊を好み、晩年は熱田に住んで延宝二年に五十四歳で没した文壇の著名人。この事蹟は田中空音氏の「芭蕉全句鑑賞」を参照した)。
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