日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(29) アイヌの民具その他
六百年にも近い、古い巻物で、ある寺院の立面図をパノラマ式に書いたものを見ると、食物をのせるための皿は、漆器である。これは古代、土陶工芸が、何故一向に進歩しなかったかの説明になる。この時代には、極めて貧困な人々だけが陶器を使用した。釉をかけぬ、旋盤(ろくろ)で廻した、あるいは手でこねた陶器は、埋葬場で供物用に用いられた。
[やぶちゃん注:この「六百年にも近い、古い巻物で、ある寺院の立面図をパノラマ式に書いたもの」はどこの寺院か不詳。明治一五(一八八二)年から単純逆算すると、一二八二年は元と高麗軍が対馬壱岐に来襲した弘安の役が起った鎌倉後期の弘安五年となる。識者の御教授を乞うものである。]
アイヌの布や衣類をさがしていたら、永代橋の向うにある、ある場所へ行くといいといわれた。長い時間をついやし、何度も路を聞いた上、その家を見出すと、人々は私にアイヌの前掛その他を見せてくれた。値段を聞くと、只でくれるといって聞かぬ。それ等はピーボディ博物館へ行くのだといっても、同じことである。更に彼等は、十二月十九日に来れば、別のアイヌの品も見せるといった。それで今日また行くと、彼等はアイヌの着物と、脛(すね)当てと、針箱と、もう一つの前掛とを出して見せた。が、又しても彼等は断じて売ろうとせず、それ等を私に、ピーボディ博物館への贈物としてくれた。私は彼等につまらぬ贈物をし、日曜日に彼等を大学の博物館へ招き、その後私の気楽な寓居でお茶と酒とを出すことにした。この人々を私はまるで知っていない。これによっても、日本人が如何に大まかであるかが知られる。
図―733
図―734
図―735
図―736
図―737
図―738
そこには、アイヌの錨の模型(図733)、本物の舟の水くみ(図734)、柄の長さが十五フィートの重くて不細工なアイヌのしやくい網(図735)、それからアイヌの漁船の模型(図736)があった。これ等はすべて上野公園の教育博物館へ行くものである。舟で奇妙なことは、各片を木造の釘でとめ合わせずに、紐でかがり合わせたことである。これは私が函館や小樽内で見たものと、大きに違っている。私の見たのは、日本の舟を真似てつくつたのだからである。図737は、アイヌが舟から荷造場まで魚を運んで行く籠を示す。これは簡単な籠を板に取りつけた丈のもので、この板をまた、漁夫の背中に結びつける。私は鮭の皮でつくったアイヌの靴(図738)を一足貰った。脚部が非常に大きいので、足部が非常に小さく見える。脚部にも足部にも藁をつめ、足をあたたかくするとのことである。これ等の靴は、石狩川でアイヌが使用する。
[やぶちゃん注:「十五フィート」四・五七メートル。
「しやくい網」杓取り網。
「小樽内」ウィキの「小樽市」には、『おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来する』。『しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではなく、現在の小樽市と札幌市の境界を流れる星置川の下流、小樽内川(現在の札幌市南区にある小樽内川とは別)を示していた。河口に松前藩によってオタルナイ場所(場所請負制を参照)が開かれたが、冬季に季節風をまともに受ける地勢ゆえに不便な点が多かったため、風を避けられ、船の係留に適当な西方のクッタルウシ(イタドリが生えるところ)に移転した。しかしオタルナイ場所の呼称は引き続き用いられ、クッタルウシと呼ばれていた現在の小樽市中心部が、オタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)と地名を変えることになる。現在の小樽市域にはこの他、於古発(オコバチ)川以西のタカシマ場所、塩谷以西のヲショロ場所も開かれていた。これら三場所は、後にそれぞれ小樽郡、高島郡、忍路郡となっている。また、これら三場所と渡島国や道外の間には北前船の航路も開かれていた』とあるが、モースの謂いは現在の小樽市中心部を指していると考えてよいであろう。]
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