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2015/12/31

柳田國男 蝸牛考 初版(14) 單純から複雜へ

       單純から複雜へ

 

 加太豆不利のもとカサツブラから轉靴したことが、かりに辯護の餘地なしと決しても、兎に角にそれが久しい期間、京都の唯一つの用語であつたことは事實である。然るに今日となつては前に示した如く、僅かに記錄と擬古文とに其痕跡を留むる外、全く邊隅に押し遣られて、後に出現した二通りの新語の外側に散點して殘るに過ぎぬといふことは、頗る自分などの主張せんとする方言周圈説を、裏書するに足ると思ふ。而うして此等新舊二名稱の交渉が、必ずしも爭鬪排他を以て終始しなかつたことは、既に澤山の實例があつたのである。即ち少なくとも領分の境堺近くだけでは、幾つかの異名は稍暫らくの間竝び行はれ、徐々に其中の一つが重きを爲す場合もあれば、或は又二つの語が程よく結合せられて、歌になつたり長たらしい語になつて殘らうとした。その目前の例はデンデンムシムシカタツムリもそれであり、又標準語のマイマイツブロも、一つの顯著なる複稱であつたことは、單獨にマイマイとのみ呼ばれる土地が、相應に弘いのを見てもわかる。さうすれば玆にツブロといふ一語が、既に其以前に實在し、それが又倭名鈔の加太豆不利よりも、今一段と古いものであつたことは、大よそ推定して差支へ無いわけである。カタツブリがマイマイ又はデエデエの新たなる波に押遣られて、外の波紋となつて遠く出たことが確かならば、そのツブロも亦同じやうに、どこかの一隅に行つて殘つて居てよいのであるが、果してどの程度にまで我々はその形跡を認めることが出來るだらうか。

[やぶちゃん注:「デエデエ」改訂版では「デェデェ」。]

 

 現在の方言分布に於ても、蝸牛を單にツブロと呼んで居る地方は、搜してみるとまだ決して希有ではない。宇都宮附近の或村にツーボロカイボロといふ童唄があるのは、越中下新川郡の海近くに、ツドロガエドロといふ名前があると同じく、あるいは口拍子の無意識なる變化とも見られるが、岐阜縣では武儀郡洲原村附近にツンブリといふ語が今もあり、その隣の山縣郡などでツンツンと謂つて居るのも、或は「つのつの」の歌がこれを誘ひ出したにしても、是と全く關係無しとは見られぬのである。丹波の福知山の如き京都に近い土地にも、やはりツンブリといふ蝸牛の異名がある。伊豫の吉田町はカタトの領域ではあるが、一種食用に供せられる蝸牛だけを、シマツブリと呼んで居たさうである。それから更に些少の變化を經た九州各地のツグラメ、及び是と同じであつたことが證明し得られる、奧州のクマグラなどを加算するならば、ツブラの領分はやゝ中央から遠いといふのみで、却つてその總面積に於てマイマイを凌駕するかとも思はれるのである。

[やぶちゃん注:「下新川郡」は富山県の郡で、当時は現在含まれている入善町(にゅうぜんまち)と朝日町(あさひまち)以外に、魚津市と黒部市を含んだ広域であった。

「武儀郡洲原村」「むぎぐんすはらむら」と読む。現在の岐阜県美濃市の北東部の長良川沿いにあった村。

「山縣郡」武儀郡(東西に分かれて飛び地状であった西側の板取(いたどり)村・洞戸(ほらど)村・武芸川町(むげがわちょう))の西に接していた。現在は岐阜県山県市。

「伊豫の吉田町」愛媛県の南予地方、宇和島の北方海岸域にあった町。現在は宇和島市の一部。

「一種食用に供せられる蝸牛」ウィキの「カタツムリ」によれば、『日本でもカタツムリを食べる文化は古くからある。例えば飛騨地方ではクチベニマイマイ』(腹足綱有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科マイマイ属クチベニマイマイ Euhadra amaliae:殻口が赤く、近畿地方・中部地方西部・伊豆諸島に分布する。参照したウィキの「クチベニマイマイ」によれば、『嘗て岐阜県飛騨地方の養蚕農家では、本種の殻を割り、肉に塩を振ってクワの葉に包み、囲炉裏に埋めて焼いたものを子供のおやつにしていた。また本種は湿度が上がると活動が活発になるため、クワの木に登っていると雨が近いとしてクワの葉の取り入れを行うなど天気予報にも活用していた』とある)『が子供のおやつとして焼いて食べられていた』。他にも『喉や喘息の薬になると信じられ、殻を割って生食することも昭和時代まで一部で行われていた(後述にもあるがカタツムリは寄生虫の宿主であることが多く、衛生的に養殖された物を除き生食する行為は危険である)。また殻ごと黒焼きにしたものも民間薬として使用され』、二十一世紀初頭でも『黒焼き専門店などで焼いたままのものや粉末にしたものなどが販売されている』。但し、『種類にもよるがカタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は広東住血線虫などの寄生虫を持っていることがままあり、触れた後にしっかり石鹸や洗剤で手や触れた部分を洗わなければ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部などの各粘膜及び傷口から感染する恐れがある。また、体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると、中枢神経系で生育しようとするために眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多いので、罹患者は死亡または重い障害が残るに至る可能性が大きい。これら線虫類をはじめ寄生虫の多くは乾燥にも脆弱なので、洗浄後は手や触れた部位の皮膚をしっかりと乾燥させることも確実な罹患予防に繋がる』とある。但し、ここに出る「シマツブリ」の種は同定出来なかった。非常に興味がある。識者の御教授を乞うものである。]

 

 しかし私はその詳細に入つて行く前に、今少しく蝸牛をツブロ又はツブリと謂ふことの、至つて自然であつたわけを述べて見たい。人が最初に此語によつて聯想するのは、圓といふ漢字を日本語のツブラに宛てたことで、なるほどあの蟲の貝も圓いからと、單簡に片付けてしまふ人もないとは言はれぬが、二者の因緣は決してそれだけには止まらぬのであつた。紡績具の錘を北國の田舍などでツンボリと謂ふのは、或は圓いといふ形容詞からこしらへた語とも考へられようが、全體から言つて圓さといふ通念が、個々の圓い物よりも早くから名を持つて居た筈は無い。さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例があるのである。最も有りふれて居るのは人間の頭をオツムリといふこと、元はあんまり上品な語とも認められなかつたかも知れぬが、それでもさう新しい變化では無かつたと見えて、沖繩の群島でも北は大島に始まり、南は八重山の端の島に至るまで、ほとんど一樣に頭をツブリ・チブル又はツブルと呼んでいる。歐羅巴の諸國にも例のあることだといふが、日本でもこれは瓢の名から出た一種の隱語若くは異名の如きものであつたらしい。南の島々でも八重山と道の島の兩端では、夕顏をツブルと謂ひ、また時としてはマツブルとも謂ふから、知りつゝこの二つの物に同じ名を付與して居た時代はあつたのである。

[やぶちゃん注:「錘」「つむ」。既出既注。

「さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例がある。」の最後の箇所は、改訂版では『実例があって、いずれも一定の約束をもつているのである。』(ここはそのまま引いた)という挿入句が入っている。

「大島」南西諸島の中北部に位置する奄美群島最北の奄美大島のこと。実際に単に「大島」とも呼ぶ。現在の鹿児島県奄美市及び大島郡の龍郷町(たつごうちょう)・大和村(やまとそん)・宇検村(うけんそん)・瀬戸内町(ちょう)の一部(同町は奄美大島最南西端地域の他に加計呂麻島(かけろま)・与路(よろ)島・請(うけ)島などの有人島を町域とするため)からなる。

「ツブリ・チブル又はツブル」ここは底本では実は「ツブル・チブル又はツブル」と「ツブル」が二度出てしまっている。改訂版は最初が「ツブリ」で問題がない。特異的に本文を改訂版で訂して示した。因みに、ウルトラセブン』の第九話「アンドロイド0(ゼロ)指令」に登場する頭でっかちの(というか頭しかない)宇宙人チブル星人の名前のルーツである。脚本の上原正三は沖繩出身である(私は特撮オタクである)。

「歐羅巴の諸國にも例のあることだといふ」これは如何なる具体なものなのかは不明。全くの相同例で、「頭」に相当する単語が「瓢簞(ひょうたん)」を語源とする例なのか(但し、調べてみたがそのような例は発見出来なかった)、別なケースの酷似した例(但し、その場合よっぽど似ているものでないと対照例にならない)というのか? 識者の御教授を乞う。因みに、調べている最中に見つけた、富士敬司郎氏のサイト「たまねぎ地獄」のスプーン Spoonは面白く読んだ。必読!

「瓢」老婆心乍ら、「ひさご」と読む。瓢簞のこと。

「八重山の端の島」「端の島」は単なる一般表現で島の固有名ではない。八重山列島の「端(はし)」となれば最西端の有人島となれば、与那国島(現在の沖縄県八重山郡与那国町)しかない。]

 

 瓢簞は又佐渡の島に於てもツブルであつた。昔の水を汲む器は主として是であつから、今日の所謂釣瓶のツルべを、ツブレと發音する者を嘲笑することは、恥をかくまいと思へばもう暫らくの間見合さなければならぬ。「へ」といふ言葉は大抵は竈に屬して居る。ツルベといふ名稱こそ實はよほど恠しいので、事によると是も一つの「ツブラなる物」であつたかも知れぬ。ヒヨウタンはとにかくに日本語では無かつた。奧州は今でも一般に之をツボケと謂つて居る。ケとカイとコとの區別異同は玆で論じないが、とにかくに三つながら物を容れる器の總名であつた。そうすると土でこしらえた器をツボ、及び土器の製作者を鹿兒島縣などでツボ屋といふのも、共にこの北日本のツボケといふ語と、何等かの聯絡のあつたことが察せられるのである。

[やぶちゃん注:『「へ」』底本には実は鍵括弧は附されていない。読みにくいので私は挿入した。

「竈」老婆心乍ら、「かまど」と読む。

「ツルベといふ名稱こそ實はよほど恠しいので」老婆心乍ら、「恠しい」は「あやしい」と読む。この箇所は改訂版では『ツルベに釣瓶の文字を宛てた知識こそ實はよほど恠しいので』となっている。

「ヨウタンはとにかくに日本語では無かつた」「瓢簞」は現代中国語では「葫芦」で“húlu” (hu2 lu)「フゥールゥー」で表記も音も異なる。しかし、「瓢」は中国でも「ひさご。ふくべ。ひょうたん」の意で、それで作った飲み物を入れるための器(椀或いは柄杓やスプーン様のもの)、「簞」は竹を編んで作った小さな箱や飯櫃・破(わ)り籠(ご)の謂いで、「瓢簞」とは粗末な食器やそれを用いるような質素な食生活或いは衣食住の環境を指す。個人ブログ「ぱちくんとひょうたん」の「ひょうたんの語源の由来は逆だった!?」に、『全日本愛瓢会の湯浅浩史相談役によると、ひょうたんの名は誤解から生まれたそうだ。孔子の愛弟子、顔回(がんかい)は清貧で一汁一菜のような生活を送っていた。そのため食器は汁を入れる瓢(ひょう)とごはんを入れる箪(薄く削った竹を編んだ器)しか持っていない。それを孔子は「一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん」と論語で述べている。後にそれが「箪瓢」になり、平安時代にいつの間にか逆に「瓢箪」と取り違えて解釈してしまったという』とある。これは「論語」の「雍也第六」に出る以下に基づく。

   *

子曰、「賢哉囘也。一簞食。一瓢飮。在陋巷。人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉囘也。

子曰く、「賢なるかな、囘(くわい)や。一簞(いつたん)の食(し)、一瓢(いつへう)の飮(いん)、陋巷(らうかう)に在り。人は其の憂ひに堪えず。囘や、其の樂しみを改めず。賢なるかな、囘や。」と。

   *]

 

 蓋し轆轤といふものゝ使用をまだ知らなかつた時代の人が、土器をツブラする術は渦卷より他には無かつた。即ちツブラといふのは單に蝸牛の貝の如く圓い物といふだけでは無く、同時にまた粘土の太い緒をぐるぐると卷き上げること、恰もかの蟲の貝の構造の如くにしなければならなかつたのである。ツボといふ語がもとツブラといふ語と一つであつたことは、現に地中から出て來る一片の壺のかけを、檢査して見たゞけでもわかることであるが、この上代の製作技術の、今日まで其儘に保存せられて居るのがツグラであつた。ツグラは東北などではイヅメと謂い、またイヅコと謂つて居る。東京では單にオハチイレなどと稱して、今はたゞ冬の日の飯を冷さぬ爲に使用するのみであるが、甲信野越の國々を始めとして、ほとんど日本の田舍の半分以上に於ては、米の飯よりも尚何層倍か大切なもの、即ち人間の幼兒を此中に入れて置いたのである。日本國民の最も強健朴直なるものは、いつの世からとも無く、皆このツグラの中に於て成長したのであつた。それを作るの法は至つて簡單で、何れも破壞以前の陶作りと同樣に、藁の太い繩を螺旋狀に卷き上げて、中うつろなる圓筒形を作るのが即ちツグラであつた。續群書類從に採輯せられ師説自見集には、

   山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば

     ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。五音歟

とも見えている。其ワラウダなるものの製法も略同じで、是も亦昔の日本人の家居生活に、缺くべからざるものであつた。一たび斯ういふ工作の順序を熟視した者ならば、我々の祖先が蝸牛をマイマイと呼び、又はカサパチと名けた以前に、之をツグラまたはツブラと名づけずに居られなかつた事情を、解するに苦しまなかつたことゝ思ふ。土器の工藝に大なる進歩があつて、忽ち是等の語は相互の脈絡を絶ち、個々獨立の符號の如くなつてしまつたけれども、幸ひに其痕跡だけはまだ方々に殘つて居る。たとへば東京などでは、藁のツグラをもう忘れてしまつた人々が、「蛇がトグロを卷く」といふ言葉だけは常に使つて居る。蛇の蟠まつて丸くなつて居ることを、肥前の平戸あたりではツグラ、佐渡の島でもツグラカクと謂つて居た。尾張の戸崎ではワヅクナルといふ。ワダカマルといふ動詞もウヅクマルといふ動詞も、中間にツクネル・ツクナルなどといふ俗言を置いて考へて見ると、やはり此のツグラに關係があつたのである。蛇のトグロを私たちの故郷では、普通には蛇のコシキと謂つて居り、壹岐の島ではコーラキと謂つて居る。豐前の小倉ではサラを卷くと謂ひ、越中でも富山近在ではサラになると謂ふ外に、一方頭の髮の旋毛もサラであつた。他の地方では河童だけにしかサラという語は使はなくなつたが、サラも元はやはり毛の渦を卷いた部分のことであつた。皿も甑も共にその製法が元は圓座などと同一であつたことが、此等の名稱の共通なる原因と見るの外は無いのである。淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ちこれをツブラと謂つて居るのである。

[やぶちゃん注:「轆轤」老婆心乍ら、「ろくろ」と読む。

「甲信野越」「こうしんやゑつ(こうしんやえつ)」で、甲信越は「甲斐」(山梨県)・「信濃」(長野県)・「越後」(新潟県)だから、「野」は「上野」(群馬県)・「下野」(栃木県)を含むということであろう。

「師説自見集」読みは「しせつじけんしふ(しせつじけんしゅう)」。南北朝から室町前期にかけての武将で歌学者今川了俊(正中三・嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年)。名は貞世。伊予守。遠江守護。足利義詮に仕えて幕府の引付頭人(ひきつけとうにん)を経、応安四(一三七一)年に九州探題となり、九州の南朝方を制圧したが、後に足利氏満との共謀の疑いをかけられて引退した。和歌・連歌に優れた。著作として知られるものに「難太平記」がある)の著した歌論と歌語の注解及び考証を中心とする歌学書。

「山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば/ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。」一首は作者不詳。「わらうだか」の「か」は疑問の終助詞で「わうらだ」は後注の「圓座」を参照。

「五音歟」改訂版のルビに「ごいんか」とある。不詳。もしかするとこれは「師説自見集」の項の「五」の「音歟」で、「歟」は疑問詞であり、前の歌の添書を見ると、語句(語音)の不審を並べたものを指すか。

「蟠まつて」老婆心乍ら、「わだかまつて(わだかまって)」と読む。

「私たちの故郷」前にも述べたが柳田の郷里は現在の兵庫県南西部の旧中播磨の神崎郡福崎町の生まれであった。

「コシキ」後で出る「甑」のことであろう。弥生時代以降に米・豆等を蒸すのに用いた道具で、底に数個の湯気を通す小穴を開けた深鉢形をした土製の調理具である。湯釜の上に載せて用い、奈良期になると木製のものも現れた。後には皆、円形や方形をした木製の蒸籠(せいろう)にとって代わられた。

「圓座」これは「わらふだ(わろうだ)」と読んでおく(改訂版も「わろうだ」とルビを振るからである)。「藁蓋」とも書き、この「藁蓋(わらふた)」の音が転訛したものである。藁・菅(すげ)・藺(い)などで紐を編んでそれを渦巻状に組んだ敷物。「ゑんざ(えんざ)」も同一のものを指しはする。

「淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ちこれをツブラと謂つて居るのである。」後ろの一文は「淵の渦卷をサラといふ例」としか読めないのであるが? 不審。改訂版でも全く変わっていない。大不審。]

 

 それから尚一つ、衣服の重なり合つて膨らかになつた部分を、フトコロと謂つて居るのも關係があるかと思はれる。九州でも平戸などでは、蛇のツグラに對して此方をフツクラと謂ふが、それから南の方の肥前肥後の各地では、單にツクラと謂へばそれは懷中のことである。但し此ツクラのクは常に澄んで居るやうだが、是も衣類をツブラに卷く故に、さういふ言葉ができたものと見なければ、ツグラの起りは解説のしやうは有るまい。それとよく似た例は昔の男の坐り方、現在の標準語でアグラカクといふ語の地方的變化である。是は後に出て來るタマグラの條下に、もう一度説かねばならぬから簡單に述べて置くが、大體に相近き三つの言ひ方が用ゐられて居る。西京の附近では大和から紀州にかけて、ウタグラ・オタグラカクなどといふのが多いから、或は歌座であらうと獨斷して居る者もあるらしいが、それは少しも理由の無い當て推量である。九州の北部では概してイタグラメ、近江の彦根邊ではイタビラカクと動詞に使ひ、關東ではやゝ弘くビタグラあるいはビツタラなどともいふから、是は「坐」を意味するヰルといふ語の名詞形に、タグラの附加したものと解せられる。豐前小倉ではアビタラクムと謂つて居るのは、更にその上へ脚の語を附けたものであらう。實際胡坐蹲居は足を以てツグラを作ることであつた。それ故に人が樂々と尻を据ゑて居ることを戲れにトグロを卷いて居るなどといふ者もあるので、東京で「どうかおたいらに」などゝいふ辭令も、近畿地方のオタグラといふ語と比べて見て、始めて元の意味が察せられるわけである。伊豆の賀茂郡で之をアヅクラと謂ふなどは、明白に箕坐が足のツグラなることを示して居る。遠江は各郡ともに之をアヅクミ、信州でも上伊那郡までは同じ語がある。所謂飯櫃入れのイヂメ・イヅミ等は、或は「飯詰め」の義であり、イヅコは即ちその東北風の變化の如く思つて居る人があるかも知れぬが、是も亦確かならぬ想像であつて、現に近江の神崎郡などにも、藁で製した此類の畚をイヂコとも謂へば亦ツンダメと謂ひ、信州の東筑摩郡などでは、同じ樣な藁製の容器でも、落葉などを入れる粗造のものをイヂツコと謂つて、嬰兒を入れる方のみをイヅミキと謂つて居た。即ち此方は餘程胡坐のアヅクミに近くなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「ウタグラ」小学館「日本国語大辞典」に「うたぐら」を見出しとして出して名詞で方言とし、「あぐら」とある。採集地は三重県南牟婁郡・奈良県・和歌山県南部とある。柳田の「大和から紀州にかけて」という分布と一致している。

「歌座」「うたぐら」と読ませるようであるが、これは本来は神楽歌、神に捧げる歌舞を歌い舞う神社などの神殿の舞殿の座の謂いであろう。それともただの歌会ということか。識者の御教授を乞う。

「ビツタラ」改訂版は『ビッタラ』(そのまま示した)。

「胡坐」老婆心乍ら、「あぐら」と読む。

「蹲居」蹲踞(そんきょ)に同じい。原義は「蹲(うずくま)ること」で、相撲や剣道に於いて爪先立ちで深く腰を下ろして膝を十分に開き、上体を正して重心を安定させる坐姿勢を、また、貴人の通行する際に両膝を折って蹲り頭を垂れて行なった礼式及び後に貴人の面前を通る折りに膝と手とを座につけ、会釈する礼をも指す。

「賀茂郡」現存するが、当時の広義の静岡県賀茂郡は伊豆半島先端から東伊豆の中部附近までを含んでいた。

「上伊那郡」「かみいなぐん」と読む。現存するが、当時は長野県南部東側の広域を指した。ウィキ上伊那郡によれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は』、現在の辰野町(たつのまち)・箕輪(みのわ)町・飯島町・南箕輪村・中川村・宮田(みやだ)村に『伊那市、駒ヶ根市および下伊那郡松川町の一部(上片桐)を加えた区域にあたる。現在でも「上伊那地域(地区)」と総称される場合、伊那市、駒ヶ根市を含むこともある』から、この広域で捉えるべきであろう。

「飯櫃入れ」「めしびついれ」。

「神崎郡」「かんざきぐん」と読む。かつて滋賀県にあった郡。当時は鈴鹿山脈から琵琶湖まで愛知川に沿って東西に細長い地域を占めていた。位置は参照したウィキ神崎郡滋賀県で確認されたい。

「畚」「もつこ(もっこ)」と読む。持籠(もちこ)の転訛。繩を網のように四角に編んで、その中央に石や土などを入れ、四隅を纏めるようにして担いで運ぶ道具。

「東筑摩郡」長野県の中央部にある郡。当時は既に現在の広域を占める松本市は離脱している。

「イヂツコ」改訂版は『イジッコ』(そのまま示した)。]

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