明恵上人夢記 51
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建保六年八月十一日、梅尾の舊居を出づ。先づ樋口、樋口より、同十三日、賀茂の宿所に遷り、其の後、圓覺山の地に曳く。其の夜、夢に云はく、一堂を起し立つ。其の名を果海殿(くわかいでん)と曰ふ。普賢菩薩(ふげんぼさつ)を安じ奉る。其の堂の中に女房七八人有りと云々。
[やぶちゃん注:「建保六年」一二一八年。
「梅尾」の「梅」字はママ。底本凡例に慣用表記はそのままとした、とある。
「樋口」底本注に、『五条通の南の小路。明恵の庇護者の一人覚厳法師』『が樋口の名を冠して呼ばれることがある。同人を指すか』とする。
「圓覺山の地」「ゑんがくざん」と読んでおく。底本注に、『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』とある。賀茂別雷神社は「かもわけいかづちじんじゃ」と読み、現在の京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称である。「塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊」というのは現存しないが、東昇氏の論文『「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子』(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、
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佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>
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と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のこちらのページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は他の論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。
「果海殿」この名を「渡海を果たす」と読む時は、明恵がこれまでに少なくとも二度決心し、断念せざるを得なかった(春日明神の神託と病いのためとされる)天竺(インド)渡海の切望の強烈な念が今も明恵の心底に凝結してあるようにも読めるし、逆に、「真理の海へと漕ぎ出ることを果たした」と読むなら、祀るのが普賢菩薩であることからも(老婆心乍ら言い添えておくと「菩薩」とは未だ修行者の謂いである)、まさに無限に満ちている仏菩薩の絶対智の大海原に漕ぎだした仏弟子たる明恵の爽快な心境を表わしているとも読める。後者の解釈はユング派好みではあろう。
「普賢菩薩」サンスクリット語「サマンタバドラ(Samantabhadra)」の漢訳。普(あまね)くあらゆる総ての時空間に現われ、絶対の理性による賢者として功徳を示し、修行者を守護し、仏の「律」を象徴する。仏の絶対「智」の象徴たる文殊菩薩とともに釈迦の脇侍として釈迦三尊の形で造形配置されることが多い。致命的におぞましく穢れた業火「ふげん」や「もんじゅ」とは大違いである。]
□やぶちゃん現代語訳
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建保六年八月十一日、栂尾(とがのお)の旧居を出た。
まず、樋口に向かいそこで二泊し、同十三日には、樋口より賀茂の宿所に遷(うつ)り、その後、円覚山(えんがくざん)の地に退いた。
その夜、こんな夢を見た。
「一堂を創建して竣工させた。その堂の名を「果海殿(かかいでん)」と名づけた。御本尊として普賢菩薩を安じ奉った。ふと見ると、その堂の中に、雅な女房らが、七、八人、いるのであった……。
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