墓に於ける古い人身御供といふ特別な事實、葬式の特徴、死者のあつた家の放棄――それ等はみなこの古い祖先禮拜の正しく原始的のものである事を證明するものである。その事はまた神道の方で死を不淨として特に恐れる事に依つても知られる、今日でも葬式に會同する事は――葬式が神道の式に依つて營まれるのでなければ――宗敎上の汚れなのである。上古の伊邪那岐命のその死んだ配偶(伊邪那美命)を尋ねて、下界へ降下した事は、嘗て抱かれて居た死者の上に力を有して居る魔力に關する恐るべき信仰を說明するに足るものである。腐蝕としての死に就いての恐怖と、亡靈に對する奉祭との間には何等の不調和もない、吾々は奉祭其事を以つて贖罪と解すべきである。此最古の神の道は恆久の恐れの宗敎であつた。されば普通の家が死者のあつた後には棄てられたのみならず、天皇すらも當初の幾世紀間は、先帝の死後はその首都をかへるのが常であつた。併し原始の葬式から徐に高等の祭祀が發達して來た。悲みの家則ち喪家は變つて、神道の社となり、今日でもそれは當初の小舍の形を保存して居る。それから支那の感化の下に祖先禮拜は、一家の内に於て堅く行はれるやうになり、後になつては佛敎が、この一家の禮拜をつづけさした。だんだんに家族のこの宗敎は、優しい情緖の宗敎であると共に、義務本分を主とする宗敎となり、死者に就いての人々の考を變へ、又和らげるやうになつた。遠く第八世紀に於て、すでに祖先禮拜は今日なほ保存して居るやうな三種の主なる形を發展さした、そして爾來家族の祭祀は、古いヨオロッパ文化の家族的宗敎に、いろいろの點に就いて、酷似して居る性質をもち始めたのである。
今現存のこの家族的祭祀の形に對し瞥見を與へて見よう――則ち日本に於ける一般の宗敎の形に對してである。日本の。各家庭には必らずそのために捧げられた神殿がある。若し其家庭が只だ神道の信仰を有するものとすれば、其神殿則ち御靈屋(みたまや)【註】(嚴かなる靈の住處)――神道の社を小さく型どつたもの――は何處か奧の方の部屋の壁によせてつくられた棚の上に置かれてあり、その高さは床から約六尺の處にある。この種の棚を呼んでみたまさんの棚則ち『尊い靈の棚』といふ。この神殿には白木の薄い板牌があり、それに一家の死んだ人の名が書かれてある。この板牌は靈の代理者(みたましろ)を示す名、若しくは恐らくそれよりも古い『靈の木』といふ事を示す名を以つて呼ばれて居る――またその家族が佛式を以つて祖先を禮拜するならば、死者の板牌か佛敎流の神殿則ち佛壇に置かれる、而してこの佛壇は奧の室の窪んだ個處の上部にある棚を占有して居るのである。佛敎のこの死者の板牌は(多少の例外はあるとして)これを呼んで位牌といふ――『心の記憶』を意味する文字である。それは漆塗り、金着せで、その臺に蓮の花が彫刻されてついて居る、そしてそれは大抵死者の實名でなくして、宗敎上の名若しくは死後の名を記すのである。
[やぶちゃん注:「約六尺」約一メートル八二センチメートル弱。原文は実際には“about six feet”で一メートル八三センチメートル弱とはなる。
「靈の代理者(みたましろ)」「みたましろ」はルビではなく本文である。しかしとすれば、ここは「『靈の代理者』(みたましろ)」と私は表記すべきところであると真面目に主張する。前を「六呎」とせずに安易に「六尺」とし、ここをこんな風にいい加減にやり過ごす翻訳は私は許せない。
「『靈の木』」原文は“"spirit-sticks."”であるが、これは私は「ひもろぎ」と訳すべきではないかと考えている。「ひもろぎ」(古くは清音「ひもろき」)は「神座」「神籬」「胙」「膰」などと書いたが、神道に於いて神事を執り行う際に臨時に神を招請するため、注連繩を張って神聖な結界を作った室内や庭に立てた依代(よりしろ)としての榊(さかき)の木を指す(古くは常磐木(ときわぎ)を植えて神座(かみくら)とした。]
以下の注は、底本では全体が四字下げポイント落ちである。前後を一行空けた。]
註 通例はそれを稱して宮、則ち嚴かなる家といふ――これは普通の神道の社にも與へられて居る名である。
さてここに重要な事はいづれの禮拜に於ても、この板牌則ち靈牌は事實形の小さい墓石を示すといふ一事である――これは進化の上に興味ある事實である、よしその進化なるものは日本のといふよりも、むしろ支那のものでありはするが。神道の墓場に於ける簡單な墓石は、その形が木製の亡靈の木若しくは靈の木と似て居るが、一方に古風な佛敎の墓地に於ける佛敎の記念碑は、位牌のやうな形になつて居る、凡そ位牌は男女の性と年齡とを示すために、その形がそれぞれ少し變つて居るが、墓石に於てもその通りで、少しづつその形が變つて居るのである。
一家の神殿に於ける靈牌の數は、通例五個若しくは六個を越えない――かくしてただ祖父母、父母、それから最近に死んだもののみが代表されて居るのである。併し遠い祖先の名は卷物に記され、それが佛壇若しくは御禮屋の内に置かれてある。
家族の禮拜の式如何に拘らず、祖先の靈牌の前には、日々祈禱が上げられ、供物がそなへられる。その供物の種類竝びに祈禱の性質に就いては、その家の宗敎如何に依るのであるが、祭祀の主要な義務に就いては、何れの家でも同樣である。この義務は如何なる事情があつても、これを閑却してはならないので、當時にあつては、その營みは、通例年長者若しくは一家の婦人達に委ねられてあつた。
その祈禱には長い式もなければ、何等命令的な規則もなく、また別に嚴肅な處もない、食物の供御は一家の料理から取り出されたものであり、口の内に囁く祈願は短く些かである。併しこの式はつまらぬ樣に見えはするが、その執行は決して輕々に見る事の出來ぬものである供御をしないといふ事は、恐らく夢想だもされない事で、家族の存在する限り行はれなければならないのである。
[やぶちゃん注:以下の注は底本では全体が五字下げでポイント落ちである。前後を一行空けた。]
註 但し公儀の折に於ては――年囘のため一家に親族の集まる時の如き際には、さうは行かなかった、かかる際には祭祀は一家の長に依つて營まれたのである。古い慣習――嘗ては日本の各家族に行はれ、なほ神道の家では守られて居る――則ち神々に料理の道具と食物とを捧げる慣習に就いて、サア・アアネスト・サトウ氏は恁う言つて居る、『これ等の神々を祭る儀式は、最初一家の長に依つて爲されたが、後になつてその務めは一族の婦人達に委託された』と。(『古日本の奉祀例』“Ancient Japanese Rituals”吾々は古い儀式に就いても亦同樣な任務の委任が極古い時代に、明らかな便宜上の理由から行はれた事と察する。この義務が一家の年長者――祖父母――の仕事となった時、供物の事を管理した人は通例祖母であった。ギリシヤ、ロオマの家々に於ても家族の儀式を行ふ事は、その家の長の責任であったらしい、併し婦人達がそれに參與して居た事も吾々の知つて居る處である)
[やぶちゃん注:「『古日本の奉祀例』“Ancient Japanese Rituals”」はErnest Mason Satow の祝詞(のりと)の英訳である“Ancient Japanese rituals and the revival of pure Shintō”(1878–1881)のことと思われる。]
家族のこの禮拝の式の詳細を叙述するには、多くの紙數を要する、――それが複雜であるがためではなく、西洋人の経驗した處とは甚だ異つて居り、一家の宗派如何に依つて異つて居るからである。併し細目に亙る事は必要でもあるまい、主要な點は宗敎如何を考ヘまた人の行爲と性格とに關してのその信仰を考察するに在る。只だこの家族の禮拜以上に誠實なる宗教もなく、またそれ以上に感動を與へる信仰もないといふ點は、深く記銘すべきである、蓋しこの禮拜は、死者を以つて、なほつづいて一家の一部を成すものであるとなし、從つてなほその子女近親の愛情竝びに尊敬を要するものとなすのである。愛情よりも恐怖が强烈であったその暗黑な時代――死者の亡靈を悅ばさうとする欲望が、主として死者の怒りを恐れる心から起こされた時代――に始まつたこの祭祀は、結局發達して愛情の宗敎となり、今日なほそのままに殘つて居るのである。死者が愛情を求め、死者を閑却するのは殘忍であり、死者の幸福は生者の義務如何に依るといふ信仰は、最初の死者の怒りを恐れたといふその恐怖心を殆ど放棄した信仰である。死者は死んだとしては考へられて居ないので、その人を愛して居た人々の間にはまだ存在して居るものと考へられて居るのである。人の目には見えないで、その死者はなほ家を守り、その住者の安寧ならん事を注意して居る、また夜每に神殿の燈明の光の内にさすらひ、その燈明の熖の動きは則ち死者の動きである。死者は大抵は文字を以つて書されたる靈牌の内に住み――時に依るとその靈牌に生命を具へ――それを人間の體質に變じ、生者を助けまた慰めを與へるために、さういふ身體を以つて現實の生活に戾つて來る。その神殿から死者はその家に起こる事件を見聞し、一家と喜憂を具にし、周圍の人々の聲を聞き、その溫情を得ては喜んで居る。彼等は愛情を欲するが、一家の朝夕の會釋は彼等を喜ばすに足りるのである。彼等は又食物を要するのであるが、それは食物の息だけで十分なのである。彼等は只だ日々會釋をする義務を果たして貰ふ事だけに就いて嚴格なのである。彼等は生命を與へ、富を與へるものであり、現在の創作者であり、敎師である、彼等はまた民族の過去と、そのすべての犧牲とを代表して居るもので――生者が現にもつて居るものは、みな彼等から來たものなのである。併しそれに對して彼等の求めるものは、誠に僅少である――一家の建立者として、保護者として、次の如き簡單なる言葉を以つて、謝意を表されるより以上には、殆ど出てない、則ち『尊き御靈よ、晝となく、夜となく、與へられたる御助けに對し、吾々の恭しき感謝を受けられよ』……と云つたやうなものに過ぎない。彼等を忘れ、閑却し、粗末に、冷淡に扱ふ事は、則ち惡心の證據である、また行に依つて彼等を辱しめ、惡事に依つて彼等の名を汚す事は、最大の罪惡である。彼等はこの民族の道德上の働きを代表するものであり、道德上の働きを否認するものは、また彼等を否認する事であり。かくの如きものは野獸の列に、若しくはそれ以下に墮落したものである。彼等死者は不文律、社會の傳統、人々に對する人々の本分を代表して居り、これ等の事を犯すものは、また死者に對して罪を犯した事になるのである。そして最後に彼等は目に見えざる神祕の世界を代表して居る、神道の信仰から言へば、少くとも彼等は神である。
[やぶちゃん注:「熖」は「ほのほ(ほのお)」で「焰(焔)」に同じい。]
勿論 gods に對する日本語の神といふ言葉は、古いラテン語のdii-manesと同樣、神性(divinity)といふ近代的の槪念と一致するやうな觀念を含んで居ない事は記億して置くベき處である。日本の神といふ文字は『上長』(the Superiors)『高貴な人々』(The Higher Ones)と云つたやうな言葉を。以つて表はした方が、もつと適切かも知れない、事實この文字は神々亡靈に對すると同樣、生きた統治者に對しても以前は用ひられたものである。併しそれは現身を脫却した靈といふ考よりも遙かに以上のものを含んで居る、何となれば古い神道の敎に從ふと、死者は世界の統治者となつたのであるからである。彼等死者はすべて自然界の事件の原因であつた、――風、雨、潮流、發芽、成熟、發育、衰滅、及び望ましい事、恐るべき事、其他一切の原因であつた。彼等は精妙なる一種の要素――祖先より傳はつたる精氣――を成し、宇宙に遍在し、たえる間なく働きを爲して居る。彼等の力は或る目的のために結合すると、抵抗する事の出來ないものとなる、そして國家の危機に際しては、敵に對しその助けを求め、彼等を全體としえそれに祈禱するのである……こんなわけで、信仰の眼から見れば、各家族の亡靈の背後には、無數の神の計量すべからざる影の力が蟠つて居るのである、ために祖先に對する義務の感は、世界を左右して居る力――目に見えざる廣大無邊の力に對する畏敬の念に依つて一層深くされる。原始的な神道の考に依ると、宇宙は亡靈を以つて充たされて居たのである――後年の神道の考に依ると、亡靈の存在は個々の靈の場合でも、場所や時間を以つて制限されては居ない。平田(篤胤)の書いた處に依ると『靈の居る處はその御靈屋の内にあるが、同時に靈はその祭られて居る處には何處にでも居る――神であるが故に、又在らざる處はないのである』と。
[やぶちゃん注:「dii-manes」(前章で以下のように既注しておいた)不詳。ラテン語の接頭辞「di-」ならば「dis-」で「分離された」の意であり、また関係があるかどうかは全く不明であるが、「Dis」は冥界の神の名(ギリシャ神話のプルートと同一視された)でもある。ただ、小堀馨子氏の論文「古代ローマの死者祭祀―レムリア(Lemuria)再考」(PDF)に『祖霊神(di manes)』の綴りを見い出せる。総体としての祖霊で、これであろう。
「神性(divinity)」「ディヴィニティ」は他に「神格」「神力」「神威」「神徳」の他、「異教の神」、また「神学」の意をも持つ。
「『上長』(the Superiors)」「上長」は「じやうちやう(じょうちょう)」で年齢や地位が上であることを指す。「シュピィリァ」はラテン語の「より上の」の意が語源で、「優れた人」「優越者」「上手」、「上官」「上役」「年長者」「先輩」の他、「修道院長」の意もある。
「『高貴な人々』(The Higher Ones)」“One”は可算名詞としての「人」の意、“Higher”は「より高い」「高等な」「高級な」の意。
『靈の居る處はその御靈屋の内にあるが、同時に靈はその祭られて居る處には何處にでも居る――神であるが故に、又在さざる處はないのである』一九七六年恒文社刊の平井呈一氏の訳「日本――一つの試論」の当該箇所には、訳者注と思われるこの箇所の平田篤胤の「玉襷」(全十巻。天保三(一八三二)年に刊行開始した、門人用の自選解説書で平田国学が広まる一因となったもの)の「十之卷」の当該箇所原文が附されてある。それを恣意的に正字化し(拗音を正字化した)、勝手な読みを独自に歴史的仮名遣で附したものを以下に示す(『(中略)』は底本のママ)。
*
御靈(みたま)は。目にこそ見え給はね。きつと其(その)祭屋(まつりや)におはし坐(ま)すこと故に。かく致すので厶(ござる)。(中略)其祭る狀を見るに。其處(そこ)にとむと。其ノ神の形を現(あら)はして。在(ま)すが如くが有(あつ)たと云(いふ)ことで。神宲(まこと)有(ある)なる事を知ては。斯(か)く有(ある)べき事で厶(ござる)。
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「宲」の字は「仕舞い込む・納める」の意。]
佛敎信者の死者は神とは呼ばれないで佛(ほとけ)と云はれる、――これは勿論信仰といふよりも、信心から來た希望を言ひあらはした言葉である。この信仰に依れば死者は、單により高い生命の狀態に進む途中にあるのである、それ故神道の神のやうに祭られもせず、また祈禱を捧げられもしないのである、則ち祈禱は死者のために上げられるので、通例(佛敎の奉祭の内にはこの敎に對する例外となるものもありはするが)死者に向つてするのではない。併し日本の佛敎信者の大多數は、また神道の憧憬者であつて、一見不合理のやうではあるが、この兩信仰は世人の考の内に長い間調和されて居たのである。それ故佛敎の敎理は思つたほど深く祖先の祭祀に伴なつた考に影響を與へては居ないのである。
[やぶちゃん注:この本来の仏教に反する驚くべき心性に気づいている日本人は恐らく現在でも非常に少ないと私は思う。あなたは仏壇で墓の前で菩提寺の本尊の前で、心の中で何を祈っているかを考えてみるがよい。そうしてそれがあなたの信心する仏教の教理と合致するかどうかに思い致すがよい。言っておくが、私は一種の原始的アミニストであり、現代のありとある面妖な有象無象の宗教宗派はこれ一切信心も信用もしていない。]
定まつた文化をもつたあらゆる族長政治の社會に於ては、祖先の禮拜から、孝道を尊ぶ宗敎が出て居る。祖先の祭祀をなす文化の民の間には、孝道が今日なほ再考の德となつて居る……。併し孝道と云つた處で、そのイギリスの言葉に依つて普通に傳へられて居る處――子供の兩親に對する尊敬と、それを解してはならない。孝といふ言葉をむしろその古い意味、昔のロオマ人の pietas(ピエタスは義務、愛情、感謝、愛國心、親族に對する忠實等の意を有す)の意に解すべきである。――詳しく言へば、一家の本分に就いての宗敎的意義に解すべきである。則ちこの文字の下に、死者に對する敬意、生者に對する義務の感、子女の兩親に對する愛情、兩親の子女に對する愛情、夫婦相互の義務、竝びに養子養女の一體としての家族に對する義務、僕婢の主人に對する義務、主人の寄食者に對する義務――すべてこれ等が包含されるのである。華族そのものが、宗敎であり、祖先傳來の家は、則ち社寺であつた。吾々は一族と家とが、今日に於てすら、そんな風である事を、日本に於て見るのである。孝道なるものは、日本に於ては、子女の父母竝びに祖父母に對する義務の意のみではない、それ以上に祖先に對する祭祀、死者に對する敬虔なる奉仕、過去に對する現在の感謝、全家に對する關係に於ける個人の行爲等をいふのである。故に平田はすべての德義が、祖先の禮拜から出て來て居ると云つて居る、サア・アアネスト・サトウ氏の飜譯した平田の言葉は特に注意に値すると思ふ、――
[やぶちゃん注:「pietas(ピエタスは義務、愛情、感謝、愛國心、親族に對する忠實等の意を有す)」ネィティヴのそれを聴くと「ピィーエタース」と延して聴こえる。私の所持する田中秀央編「羅和辭典」(昭和三八(一九六三)年研究社辞書部刊)には順に、「義務感」「責任感」/「敬虔」/「家族愛」「親子兄弟の情愛」「愛着」/「友情」「友人愛」/「祖國愛」「忠義」「愛國心」/「正義」/「寬大」「仁慈」とある。]
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。但し、同ポイントである。前後を一行空けた。]
親から祖先の僕であると考へ、其祖先の禮拜に精勵するは臣民たるものの本分である。養子女を迎へる風習は、供御を爲す人を得んとする自然の願から起つたもので、此願は決してこれを閉却して、棄て置くべきものではない。祖先の憶ひ出に一身を捧げるといふ事は、すべての德の源である、祖先に對する義務をよく果たすものは、神々に對し、またその生ける兩親に對し、決して不敬な事はない筈である。かくの如き人は王侯に對しては眞實に、友人に對しては忠實に、その妻子に對しては親切にまた優しいのである。何となればその一身を捧げるといふ事の本源は、實に孝の心であるからである。
[やぶちゃん注:前と同じく、一九七六年恒文社刊の平井呈一氏の訳「日本――一つの試論」の「十之卷」の当該箇所には訳者注と明記した、この箇所の平田篤胤の「玉襷」の原文が附されてある。それを恣意的に正字化し、読みを独自に歴史的仮名遣で附したものを以下に示す(一部の表記を濁音化した。『(中略)』は底本のママ)。
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其(その)先祖の御靈(みたま)を祭る本人は。取も直さず。先祖の神主で。且は先祖の御靈の。謂(いは)ゆる杖代(つゑしろ)。御(お)もりで。諸越(もろこし)に謂(いは)ゆる祭主で厶(ござる)。ジャに依(よつ)て。此樣(かやう)に心得むではならぬこと。世にも先祖の祭祀(まつり)を絶(たや)さぬやうな子がほしいの。又家が大事だのと云(いふ)て。人を見立て養子を爲(す)るのも。アレハ何の爲(ため)にする事ぞと。根(ね)をおして尋(たづ)ぬれば皆先祖の祭り。吾(わ)がなき跡の祭りをさせむとて。致す事で有(あり)ませむか。夫(それ)を子孫たる者が心得違へて。濟ませうか。人の道で有(あり)ませうか。(中略)扨(さて)まづ先祖をかやうに。大切にすべき謂(いはれ)を心得ては。況(まし)て天神地祇(てんしんちぎ)を。粗略に思ひ奉る人は。決して无(な)い筈(はず)のこと。又(また)現(げん)に今生(いき)ておはし坐(ます)親を。粗末にする人无(な)く。神と親を大切にする心得(こころえ)の人は。まづ道の本立(もとだち)の固(あた)き人故(ゆゑ)。その人必(かならず)君(くん)に仕(つか)へて忠義を盡し。朋友と交りては。信棠(まこと)があり。妻子に対しては。慈愛ある人と成(な)りなる事は。論は无(な)いだに依(よつ)て。先祖を大切にするが。人とある者の道の本(もと)だと云(いふ)ので厶(ござる)。其(その)先祖大切にする行(おこなひ)が。則(すなはち)いはゆる孝行で。孝行なる人に、不忠不義の行ひをする人は。決してなき物で厶(ござる)。
*]
社會學者の見地からすれば、平田の考は正當である、極東の倫理の全系統が家族の宗敎から出て居るといふ事は、疑もない事實である。その祭祀の助けに依り、生者竝びに死者に對するあらゆる義務の感が出て來たのである――畏敬の念、忠實の感、献身の精神、愛國精神の如きすべてが。孝道が宗敎上の力として如何なるものを示すかといふ事は、東洋に於ては、人の生命を購求する事が出來るといふ事實に依りて、尤もよく想像されよう。――生命がその市價を有するといふのである。かくの如き宗敎は支那竝びに其隣接の國々の宗敎であつて、支那では生命が賣り物になつて居る。支那の孝道があつたればこそ、パナマ鐡道の完成が出來たのである。パナマに於ては、土地を鑿つのは、死を解放して自由の働きを爲さしめる事であつた――地は幾千の労働者を喰ひつくして、終に白人黑人の勞働者間には、此業を完成するに十分なる其數が得られなくなつてしまつた。併しその勞役は支那から得られた――どれほどの數でも――生命といふ代價を以つて得られたのであつた。而してその生命といふ代價は拂はれたのであつた、則ち無數の人が東洋から來て勞役して死んだ、それはその人々の生命の價が、その家族の許に送られるやうにとのためであつた……。私は疑はない、かくの如き犧牲が命令的に要求されたならば、生命は日本に於ても直に購はれうるであらうと――よし恐らくはそんなに廉價ではないにしても。この宗敎の行はれて居る處、個人は、――その場合に至つてはいろいろあらうが、――家族のため、家庭のため、祖先のために、いつでも直にその生命を差し出すのである。かくの如き犧牲をなさしめる孝道は、これを押し進めると、主君のためには、家族をも犧牲にして惜まない忠義の感となる――若しくはさらにそれを押し進めると、楠正成の如く、主權者に捧げるために、七度も生まれかはる事を願ふ忠義の心となるのである。孝の心から國家を護るあらゆる道德上の力が發達した――專制主義が、世の安寧に取つて危險になつた際には、その官憲の專制主義に向つても、正當なる制限を加へる事を往々辭さない力ともなつたのである。
[やぶちゃん注:「パナマ鐡道」世界最短の大陸横断鉄道であるパナマ共和国のパナマ市とコロン市を結ぶ全長七十七キロメートルのパナマ地峡鉄道。ウィキの「パナマ地峡鉄道」によれば、『パナマ運河の開業前、大西洋から太平洋に出るには南アメリカのマゼラン海峡を航路で経由する遠回りを強いられたが、この鉄道が』一八五五年に『開業したことで、航路の間に鉄道を挟む形でショートカットが可能になった。特にゴールドラッシュの影響でアメリカ合衆国東海岸やヨーロッパからアメリカ西海岸へ向かうものが増えており、それらのものにとってはロッキー山脈の駅馬車越えルートと同様、花形と見なされていた。むしろ日数がかかり、道も不安定で治安の問題もある駅馬車ルートより、パナマ地峡鉄道経由の船舶ルートのほうが、費用は高いものの短時間かつ安全にいけるルートとされた』とあるが、一方、ウィキの「パナマの鉄道」には、十九世紀前半には『パナマ地峡を横断する旅は危険かつ困難なものであった。米墨戦争の結果、アメリカ合衆国がカリフォルニア州を獲得して以降、より確実な大洋間の連絡手段を求める声が強まっていった。大陸横断鉄道の建設は』一八五〇年に始まり、一八五五年一月二十八日、『両大洋岸を結ぶ最初の鉄道が開通した』が、この『鉄道建設によって工事労働者におそらく』一万二千人を『超える死者を出したとされている』とある(下線やぶちゃん)。
「楠正成の如く、主權者に捧げるために、七度も生まれかはる事を願ふ忠義の心」後醍醐天皇の忠臣楠木正成が、湊川の戦さで足利尊氏軍に敗れて自刃した際に誓ったという「七度、人として生まれ変わり、朝敵を誅して国(南朝)に報いん」という意で「七生報国」という四字熟語としても知られる。「ニコニコ大百科」の「七生報国とは」には、『皇国に報いるという意味から、または「七度生き延びて国に報いよ」と解釈されたことから、大東亜戦争(第二次大戦)期は「忠君愛国」「滅私奉公」とともに修身教育に採り入れられ、特に「七生報国」は武運長久にあやかってスローガンとしても多用された』が、実は『当の正成一族は「七度転生してでも人殺しがしたい」という意味にも取れるこの言葉を良いものとは考えていなかったようである』ともある。いいねぇ、こういう解説。]
蓋し古い西洋の、家族の神壇を中心として繞る孝道は、なほ極東にその力を揮つて居る孝道とあまり異つたものではなかつた。併し吾々は日本にアリヤン民族特有の爐邊なるもの、則ちたえざる火の置いてある家族の神壇を見ない。日本の家庭の宗敎は、ギリシヤ人、ロオマ人の間に、その有史時代にあつたものよりも、遙かに古い禮拜の時期にあつたものである。古日本の母屋なるものは、ギリシヤ或はロオマの家庭の如く、確定したる組織をもつたものではなかつた。家族の死者をその家族の所有地内に葬るといふ習慣は、一般には行はれて居なかつた、住居そのものがまだ確とした永續的の性質をもつては居なかつたのである。日本の武士に就いては、ロオマの武士に就いて言つたやうに pro aris et focis 『吾が神壇と爐邊とのため』といふ事は、その文字通りには當てはまらないのである。日本の家々には神壇、神聖なる火もなかった、それ等の代りに、夜每に新しく點す小さな燈火のある靈の棚若しくは神殿があつた、そして古い時代には、神々の影像は日本にはなかつたのである。レイリイス及びピイネイティス(Lares and Penates 下界にあつて家を守るロオマの神々)の代りに祖先の靈牌があるばかりで、また別に小さな板牌があつて、それには他の神々――守護神の名があるばかりであつた。さういふ弱々しい木製の品物のある事が、なほ家庭を爲すのである、それ故、勿論それ等は、何處にでも持ち運びが出來たのである。
[やぶちゃん注:「pro aris et focis 『吾が神壇と爐邊とのため』」ウィキの「祭壇と炉のために」に、『多くの一族や軍の連隊の標語として使用されたラテン語の成句である。「神と祖国のために」を意味するが、最も敬愛するものへの愛着を示すために古代の作家が用いた。より慣用的には「炉辺と家庭のために」と翻訳され、ラテン語の「aris」としては、一般的に家の精神の祭壇のどちらにも関係しており、しばしば家庭の提喩として用いられる。キケロは『神々の本性について』(3,40)の中で自分の主張の重要性を強調するためにこの成句を用いている』。『「祭壇と炉のために」(Pro Aris et Focis)は、スコットランドのウェイツ家のような多くの一族や、世界中の軍の連隊の標語である』とある。
「レイリイス及びピイネイティス(Lares and Penates 下界にあつて家を守るロオマの神々)」“Lares”は「ラレス」「ラレース「ラーレース」などと音写し、ローマ神話の家屋と家庭の守護神。単数形は“Lar”だが通例複数形(複数の子ら。以下参照)で用いられる。メルクリウス(Mercury)と妖精ラルンダ(Larunda)との二人の息子たちで、元来は下級神であったが、時代とともに力を与えられるようになり、国家や海などの守護神ともなっていった。古代ローマの家庭ではこの小さな人形を家の高いところに置いて崇めるのが習わしとなっていたという。“lares”とも表記する。また、“Penates”も同じローマ神話の神で、「ペナーテース」と音写し、先のラレス神とともに家の守護神であったが、後には国家の守護神ともなった。ペナーテースは、また、食料貯蔵庫の神でもあり、また先祖の霊を表すものでもあった。玄関にはベスタ(Vesta)神の社を作り、その中にペナーテース神の小さな像を入れるのが習わしであったという。正式には“Di Penates”と称する。(以上は孰れも辞書サイト「アルク」の検索に拠る)。]
一家の宗敎、生きたる信仰としての、祖先禮拜の十分なる意義を了解する事は、今や西洋の人々に取つて困難な事である。吾々は吾がアリヤン民族の祖先が、其死者に就いて如何に感じ、また考へたかを、ただ漠然と想像しうるのみである。併しながら日本の生きたる信仰の内に、吾々は古いギリシヤの敬神の念が、如何なるものであつたかを暗示する多くのものを認めるのである。男にしても、女にしても、一家の各員は、常に靈の監視の下にあると考へて居る。靈の眼は人の一々の行爲を注目し、靈の身はその言葉を聽いて居る。行爲と同樣思想も死者の監視の前には見えて來る、從つて靈の居る處に於ては心は至純でなければならず、精神も制抑を受けなればならぬ。恐らくかくの如き信仰の感化は、たえ間なく何十年間、人々の行爲の上に加へられ、其結果、日本人の性格の美しい方面を作り上げた事と思ふ。併しこの家庭の宗敎には今日何ら嚴酷な處もなく莊嚴な處もない、――フュステル・ド・クウランジュが、特にロオマの祭祀の特徴であつたと考へたやうな嚴格な不易な規律の如きものは少しかない。むしろそれは感謝感情の宗敎であり、死者は實際身體を有して一同の間にあるかのやうに、家族に依つて奉仕されて居るのである。私は思ふ、若しに吾々が何處かギリシヤの都會の過去の生活の内に、一時でも入り得たならば吾々はその家族内宗敎が、今日の日本の家族の祭祀と同樣、快活なものである事を認めるであらうと。また私は想像する、三千年前のギリシヤの子供は、今日の日本の子供のやうに、祖先の靈に供へられた何か甘いものを盜み取る機を覗つて居たに相違ない、そしてギリシヤの兩親は、日本の兩親が、明治の現代に於て、子供をたしなめるやうに――小言に交じへるに敎訓を以つてし、そんな事をすると氣味の惡るい事がある【註】と云つて、注意し、やはり優しくその子供をたしなめたに相違あるまいと。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げで、ポイント落ちである。一行空きを入れた。]
註 死者に俱へられた食物は、後で家の長者が喰べるか、又は順禮に施與された。併し若し子供がそれを喰べると、その子供は生長して記憶力が弱くなり、學者となる事が出來なくなるといふのである。
The Religion Of
The Home
THREE stages of ancestor-worship are to be distinguished in the general course of religious and social evolution; and each of these finds illustration in the history of Japanese society. The first stage is that which exists before the establishment of a settled civilization, when there is yet no national ruler, and when the
unit of society is the great patriarchal family, with its elders or war-chiefs for lords. Under these conditions, the spirits of the family-ancestors only are worshipped;— each family propitiating its own dead, and recognizing no other form of worship. As the patriarchal families, later on, become grouped into
tribal clans, there grows up the custom of tribal sacrifice to the spirits of the clan-rulers;— this cult being superadded to the family-cult, and marking the second stage of ancestor-worship. Finally, with the union of all the clans or tribes under one supreme head, there is developed the custom of propitiating the spirits of national, rulers. This third form of the cult becomes the obligatory religion of the country; but it does not replace either of the preceding cults: the three continue to exist together.
Though, in the present state of our knowledge, the evolution in Japan of these three stages of ancestor-worship is but faintly traceable, we can divine tolerably well, from various records, how the permanent forms of the cult were first developed out of the earlier funeral-rites. Between the ancient Japanese funeral customs and those of antique Europe, there was a vast difference,— a difference indicating, as regards Japan, a far more primitive social condition. In Greece and in Italy it was an early custom to bury the family dead within the limits of the family estate; and the Greek and Roman laws of property grew out of this practice.
Sometimes the dead were buried close to the house. The author of 'La Cite Antique' cites, among other ancient texts bearing upon the subject, an interesting invocation from the tragedy of Helen, by Euripides:— "All hail! my father's tomb! I buried thee, Proteus, at the place where men pass out, that I might often greet thee; and so, even as I go out and in, I, thy son Theoclymenus, call upon thee, father! . . ." But in ancient Japan, men fled from the neighbourhood of death. It was long the custom to abandon, either temporarily, or permanently, the house in which a death occurred; and we can scarcely suppose that, at any time, it was thought desirable to bury the dead close to the habitation of the surviving members of the household. Some Japanese authorities declare that in the very earliest ages there was no burial, and that corpses were merely conveyed to desolate places, and there abandoned to wild creatures. Be this as it may, we have documentary evidence, of an unmistakable sort, concerning the early funeral-rites as they existed when the custom of burying had become established,— rites weird and strange, and having nothing in common with the practices of settled civilization. There is reason to believe that the family-dwelling was at first permanently, not temporarily, abandoned to the dead; and in view of the fact that the dwelling was a wooden hut of very simple structure, there is nothing improbable in the supposition. At all events the corpse was left for a certain period, called the period of mourning, either in the abandoned house where the death occurred, or in a shelter especially built for the purpose; and, during the mourning period, offerings of food and drink were set before the dead, and ceremonies performed without the house. One of these ceremonies consisted in the recital of poems in praise of the dead,— which poems were called shinobigoto. There was music also of flutes and drums, and dancing; and at night a fire was kept burning before the house. After all this had been done for the fixed period of mourning — eight days, according to some authorities, fourteen according to others — the corpse was interred. It is probable that the deserted house may thereafter have become an ancestral temple, or ghost-house,— prototype of the Shintō miya.
At an early time,— though when we do not know,— it certainly became the custom to erect a moya, or "mourning-house" in the event of a death; and the rites were performed at the mourning-house prior to the interment. The manner of burial was very simple: there were yet no tombs in the literal meaning of the term, and no tombstones. Only a mound was thrown up over the grave; and the size of the mound varied according to the rank of the dead.
The custom of deserting the house in which a death took place would accord with the theory of a nomadic ancestry for the Japanese people: it was a practice totally incompatible with a settled civilization like that of the early Greeks and Romans, whose customs in regard to burial presuppose small landholdings in permanent occupation. But there may have been, even in early times, some exceptions to general custom — exceptions made by necessity. To-day, in various parts of the country, and perhaps more particularly in districts remote from temples, it is the custom for farmers to bury their dead upon their own lands.
—At regular intervals after burial, ceremonies were performed at the graves; and food and drink were then served to the spirits. When the spirit-tablet had been introduced from China, and a true domestic cult established, the practice of making offerings at the place of burial was not discontinued. It survives to the present time,— both in the Shintō and the Buddhist rite; and every spring an Imperial messenger presents at the tomb of the Emperor Jimmu, the same offerings of birds and fish and seaweed, rice and rice-wine, which were made to the spirit of the Founder of the Empire twenty-five hundred years ago. But before the period of Chinese influence the family would seem to have worshipped its dead only before the mortuary house, or at the grave; and the spirits were yet supposed to dwell especially in their tombs, with access to some mysterious subterranean world. They were supposed to need other things besides nourishment; and it was customary to place in the grave various articles for their ghostly use,— a sword, for example, in the case of a warrior; a mirror in the case of a woman,— together with certain objects, especially prized during life,— such as objects of precious metal, and polished stones or gems. . . . At this stage of ancestor-worship, when the spirits are supposed to require shadowy service of a sort corresponding to that exacted during their life-time in the body, we should expect to hear of human sacrifices as well as of animal sacrifices. At the funerals of great personages such sacrifices were common. Owing to beliefs of which all knowledge has been lost, these sacrifices assumed a character much more cruel than that of the immolations of the Greek Homeric epoch. The human victims* were buried up to the neck in a circle about the grave, and thus left to perish under the beaks of birds and the teeth of wild beasts. [*How the horses and other animals were sacrificed, does not clearly appear.] The term applied to this form of immolation,— hitogaki, or "human hedge,"— implies a considerable number of victims in each case. This custom was abolished, by the Emperor Suinin, about nineteen hundred years ago; and the Nihongi declares that it was then an ancient custom. Being grieved by the crying of the victims interred in the funeral mound erected over the grave of his brother, Yamato-hiko-no-mikoto, the Emperor is recorded to have said: "It is a very painful thing to force those whom one has loved in life to follow one in death. Though it be an ancient custom, why follow it, if it is bad? From this time forward take counsel to put a stop to the following of the dead." Nomi-no-Sukuné, a court-noble — now apotheosized as the patron of wrestlers — then suggested the substitution of earthen images of men and horses for the living victims; and his suggestion was approved. The hitogaki, was thus
abolished; but compulsory as well as voluntary following of the dead certainly continued for many hundred years after, since we find the Emperor Kōtoku
issuing an edict on the subject in the year 646 A.D.:—
"When a man dies, there have been cases of people sacrificing themselves by strangulation, or of strangling others by way of sacrifice, or of compelling the dead man's horse to be sacrificed, or of burying valuables in the grave in honour of the dead, or of cutting off the hair and stabbing the thighs and [in that condition] pronouncing a eulogy on the dead. Let all such old customs be entirely discontinued."— Nihongi; Aston's translation.
As regarded compulsory sacrifice and popular custom, this edict may have had the immediate effect desired; but voluntary human sacrifices were not definitively suppressed. With the rise of the military power there gradually came into existence another custom of junshi, or following one's lord in death,— suicide by the sword. It is said to have begun about 1333, when the last of the Hōjō regents, Takatoki, performed suicide, and a number of his retainers took their own lives by harakiri, in order to follow their master. It may be doubted whether this incident really established the practice. But by the sixteenth century junshi had certainly become an honoured custom among the samurai. Loyal retainers esteemed it a duty to kill themselves after the death of their lord, in order to attend upon him during his ghostly journey. A thousand years of Buddhist teaching had not therefore sufficed to eradicate all primitive notions' of sacrificial duty. The practice continued into the time of the Tokugawa shōgunate, when Iyéyasu made laws to check it. These laws were rigidly applied,— the entire family of the
suicide being held responsible for a case of junshi: yet the custom cannot be said to have become extinct until considerably after the beginning of the era of Meiji. Even during my own time there have been survivals,— some of a very touching kind: suicides performed in hope of being able to serve or aid the spirit of master or husband or parent in the invisible world. Perhaps the strangest case was that of a boy fourteen years old, who killed himself in order to wait upon the spirit of a child, his master's little son.
The peculiar character of the early human sacrifices at graves, the character of the funeral-rites, the abandonment of the house in which death had occurred.— all prove that the early ancestor-worship was of a decidedly primitive kind. This is suggested also by the peculiar Shintō horror of death as pollution: even at this day to attend a funeral,— unless the funeral be conducted after the Shintō rite,— is religious defilement. The ancient legend of Izanagi's descent to the nether world, in search of his lost spouse, illustrates the terrible beliefs that once existed as to goblin-powers presiding over decay. Between the horror of death as
corruption, and the apotheosis of the ghost, there is nothing incongruous: we must understand the apotheosis itself as a propitiation. This earliest Way of
the Gods was a religion of perpetual fear. Not ordinary homes only were deserted after a death: even the Emperors, during many centuries, were wont to
change their capital after the death of a predecessor. But, gradually, out of the primal funeral-rites, a higher cult was evolved. The mourning-house, or moya, became transformed into the Shintō temple, which still retains the shape of the primitive hut. Then under Chinese influence, the ancestral cult became established in the home; and Buddhism at a later day maintained this domestic cult. By degrees the household religion became a religion of tenderness as well as of duty, and changed and softened the thoughts of men about their dead. As early as the eighth century, ancestor-worship appears to have developed the three principal forms under which it still exists; and thereafter the family-cult began to assume a character which offers many resemblances to the domestic religion of the old
European civilizations.
Let us now glance at the existing forms of this domestic cult,— the universal religion of Japan. In every home there is a shrine devoted to it. If the family profess only the Shintō belief, this shrine, or mitamaya* ("august-spirit-dwelling"),— tiny model of a Shintō temple,— is placed upon a shelf fixed against the wall of some inner chamber, at a height of about six feet from the floor. Such a shelf is called Mitama-San-no-tana, or— "Shelf of the august spirits." [*It is more popularly termed miya, "august house,"— a name given to the ordinary Shintō temples.] In the shrine are placed thin tablets of white wood, inscribed with the names of the household dead. Such tablets are called by a name signifying "spirit-substitutes" (mitamashiro), or by a probably older name signifying "spirit-sticks.". . . If the family worships its ancestors according to the Buddhist rite, the mortuary tablets are placed in the Buddhist household-shrine, or Butsudan, which usually occupies the upper shelf of an alcove in one of the inner apartments. Buddhist mortuary-tablets (with some exceptions) are called ihai,—a term signifying "soul-commemoration." They are lacquered and gilded, usually having a carved lotos-flower as pedestal; and they do not, as a rule, bear the real, but only the religious and posthumous name of the dead.
Now it is important to observe that, in either cult, the mortuary tablet actually suggests a miniature tombstone — which is a fact of some evolutional interest, though the evolution itself should be Chinese rather than Japanese. The plain gravestones in Shintō cemeteries resemble in form the simple wooden ghost-sticks, or spirit-sticks; while the Buddhist monuments in the old-fashioned Buddhist graveyards are shaped like the ihai, of which the form is slightly
varied to indicate sex and age, which is also the case with the tombstone.
The number of mortuary tablets in a household shrine does not generally exceed five or six,— only grandparents and parents and the recently dead being thus represented; but the name of remoter ancestors are inscribed upon scrolls, which are kept in the Butsudan or the mitamaya.
Whatever be the family rite, prayers are repeated and offerings are placed before the ancestral tablets every day. The nature of the offerings and the character of the prayers depend upon the religion of the household; but the essential duties of the cult are everywhere the same. These duties are not to be neglected under any circumstances; their performance in these times is usually intrusted to the elders, or to the women of the household.*
[*Not, however, upon any public occasion,— such as a gathering of relatives at the home for a religious anniversary: at such times the rites are performed by the head of the household.]
Speaking of the ancient custom (once prevalent in every Japanese household, and still observed in Shintō homes) of making offerings to the deities of the cooking range and of food, Sir Ernest Satow observes: "The rites in honour of these gods were at first performed by the head of the household; but in after-times the duty came to he delegated to the women of the family" (Ancient Japanese Rituals). We may infer that in regard to the ancestral rites likewise, the same transfer of duties occurred at an early time, for obvious reasons of convenience. When the duty devolves upon the elders of the family — grandfather and grandmother — it is usually the grandmother who attends to the offerings. In the Greek and Roman household the performance of the domestic rites appears
to have been obligatory upon the head of the household; but we know that the women took part in them.
There is no long ceremony, no imperative rule about prayers, nothing solemn: the food-offerings are selected out of the family cooking; the murmured or
whispered invocations are short and few. But, trifling as the rites may seem, their performance must never be overlooked. Not to make the offerings is a possibility undreamed of: so long as the family exists they must be made.
To describe the details of the domestic rite would require much space,— not because they are complicated in themselves, but because they are of a sort unfamiliar to Western experience, and vary according to the sect of the family. But to consider the details will not be necessary: the important matter is to consider the religion and its beliefs in relation to conduct and character. It should be recognized that no religion is more sincere, no faith more touching than this domestic worship, which regards the dead as continuing to form a part of the household life, and needing still the affection and the respect of their children and kindred. Originating in those dim ages when fear was stronger than love,— when the wish to please the ghosts of the departed must have been chiefly inspired by dread of their anger,— the cult at last developed into a religion of affection; and this it yet remains. The belief that the dead need affection, that to neglect them is a cruelty, that their happiness depends upon duty, is a belief that has almost cast out the primitive fear of their displeasure. They are not thought of as dead: they
are believed to remain among those who loved them. Unseen they guard the home, and watch over the welfare of its inmates: they hover nightly in the glow of
the shrine-lamp; and the stirring of its flame is the motion of them. They dwell mostly within their lettered tablets;— sometimes they can animate a tablet,— change it into the substance of a human body, and return in that body to active life, in order to succour and console. From their shrine they observe and hear what happens in the house; they share the family joys and sorrows; they delight in the voices and the warmth of the life about them. They want affection; but the morning and the evening greetings of the family are enough to make them happy. They require nourishment; but the vapour of food contents them. They are exacting only as regards the daily fulfilment of duty. They were the givers of life, the givers of wealth, the makers and teachers of the present: they represent the past of the race, and all its sacrifices;— whatever the living possess is from them. Yet how little do they require in return! Scarcely more than to be thanked, as the founders and guardians of the home, in simple words like these:—"For aid received, by day and by night, accept, August Ones, our reverential gratitude.".
. . To forget or neglect them, to treat them with rude indifference, is the proof of an evil heart; to cause them shame by ill-conduct, to disgrace their name by bad actions, is the supreme crime. They represent the moral experience of the race: whosoever denies that experience denies them also, and falls to the level of the beast, or below it. They represent the unwritten law, the traditions of the commune, the duties of all to all: whosoever offends against these, sins against the dead. And, finally, they represent the mystery of the invisible: to Shintō belief, at least, they are gods.
It is to be remembered, of course, that the Japanese word for gods, Kami, does not imply, any more than did the old Latin term, dii-manes, ideas like those which have become associated with the modern notion of divinity. The Japanese term might be more closely rendered by some such expression as "the Superiors," "the Higher Ones"; and it was formerly applied to living rulers as well as to deities and ghosts. But it implies considerably more than the idea of a disembodied spirit; for, according to old Shintō teaching the dead became world-rulers. They were the cause of all natural events,— of winds, rains, and tides, of buddings and ripenings, of growth and decay, of everything desirable or dreadful. They formed a kind of subtler element,— an ancestral aether,— universally extending and unceasingly operating. Their powers, when united for any purpose, were resistless; and in time of national peril they were invoked en masse for aid against the foe. . . Thus, to the eyes of faith, behind each family ghost there extended the measureless shadowy power of countless Kami; and the sense of duty to the ancestor was deepened by dim awe of the forces controlling the world,— the whole invisible Vast. To primitive Shintō conception the universe was filled with ghosts;— to later Shintō conception the ghostly condition was not limited by place or time, even in the case of individual spirits. "Although," wrote Hirata, "the home of the spirits is in the Spirit-house, they are equally present wherever they are worshipped,— being gods, and therefore ubiquitous."
The Buddhist dead are not called gods, but Buddhas (Hotoké),— which term, of course, expresses a pious hope, rather than a faith. The belief is that they are only on their way to some higher state of existence; and they should not be invoked or worshipped after the manner of the Shintō gods: prayers should be said for them, not, as a rule, to them.* [*Certain Buddhist rituals prove exceptions to this teaching.] But the vast majority of Japanese Buddhists are also followers of Shintō; and the two faiths, though seemingly incongruous, have long been reconciled in the popular mind. The Buddhist doctrine has therefore modified the ideas attaching to the cult much less deeply than might be supposed.
In all patriarchal societies with a settled civilization, there is evolved, out of the worship of ancestors, a Religion of Filial Piety. Filial piety still remains the supreme virtue among civilized peoples possessing an ancestor-cult. . . . By filial piety must not be understood, however, what is commonly signified by the English term,— the devotion of children to parents. We must understand the word "piety" rather in its classic meaning, as the pietas of the early Romans,— that is to say, as the religious sense of household duty. Reverence for the dead, as well as the sentiment of duty towards the living; the affection of children to parents, and the affection of parents to children; the mutual duties of husband and wife; the duties likewise of sons-in-law and daughters-in-law to the family as a body; the duties of servant to master, and of master to dependent,— all these were included under the term. The family itself was a religion; the ancestral home a temple. And so we find the family and the home to be in Japan, even at the present day. Filial piety in Japan does not mean only the duty of children to parents and grandparents: it means still more, the cult of the ancestors, reverential service to the dead, the gratitude of the present to the past, and the conduct of the individual in relation to the entire household. Hirata therefore declared that all virtues derived from the worship of ancestors; and his words, as translated by Sir Ernest Satow, deserve particular attention:—
"It is the duty of a subject to be diligent in worshipping his ancestors, whose minister he should consider himself to be. The custom of adoption arose from the natural desire of having some one to perform sacrifices; and this desire ought not to be rendered of no avail by neglect. Devotion to the memory of ancestors is the mainspring of all virtues. No one who discharges his duty to them will ever be disrespectful to the gods or to his living parents. Such a man also will be faithful to his prince, loyal to his friends, and kind and gentle to his wife and children. For the essence of this devotion is indeed filial piety."
From the sociologist's point of view, Hirata is right: it is unquestionably true that the whole system of Far-Eastern ethics derives from the religion of the household. By aid of that cult have been evolved all ideas of duty to the living as well as to the dead,— the sentiment of reverence, the sentiment of loyalty, the spirit of self-sacrifice, and the spirit of patriotism. What filial piety signifies as a religious force can best be imagined from the fact that you can buy life in the East— that it has its price in the market. This religion is the religion of China, and of countries adjacent; and life is for sale in China. It was the filial piety of China that rendered possible the completion of the Panama railroad, where to strike the soil was to liberate death,—where the land devoured labourers by the thousand, until white and black labour could no more be procured in quantity sufficient for the work. But labour could be obtained from China—any amount of labour—at the cost of life; and the cost was paid; and multitudes of men came from the East to toil and die, in order that the price of their lives might be sent to
their families…. I have no doubt that, were the sacrifice imperatively demanded, life could be as readily bought in Japan,—though not, perhaps, so cheaply. Where this religion prevails, the individual is ready to give his life, in a majority of cases, for the family, the home, the ancestors. And the filial piety impelling such sacrifice becomes, by extension, the loyalty that will sacrifice even the family itself for the sake of the lord,—or, by yet further extension, the loyalty that prays, like Kusunoki Masashigé, for seven successive lives to lay down on behalf of the sovereign. Out of filial piety indeed has been developed the whole moral power that protects the state,—the power also that has seldom failed to impose the rightful restraints upon official despotism whenever that despotism grew dangerous to the common weal.
Probably the filial piety that centred about the domestic altars of the ancient West differed in little from that which yet rules the most eastern East. But we miss in Japan the Aryan hearth, the family altar with its perpetual fire. The Japanese home-religion represents, apparently, a much earlier stage of the cult than that which existed within historic time among the Greeks and Romans. The homestead in Old Japan was not a stable institution like the Greek or the Roman home; the custom of burying the family dead upon the family estate never became general; the dwelling itself never assumed a substantial and lasting character. It could not be literally said of the Japanese warrior, as of the Roman, that he fought pro aris et focis. There was neither altar nor sacred fire: the place of these was taken by the spirit-shelf or shrine, with its tiny lamp, kindled afresh each evening; and, in early times, there were no Japanese images of divinities. For Lares and Penates there were only the mortuary-tablets of the ancestors, and certain little tablets bearing names of other gods— tutelar gods. . . The presence of these frail wooden objects still makes the home; and they may be, of course, transported anywhere.
To apprehend the full meaning of ancestor-worship as a family religion, a living faith, is now difficult for the Western mind. We are able to imagine only in the vaguest way how our Aryan forefathers felt and thought about their dead. But in the living beliefs of Japan we find much to suggest the nature of the old Greek piety. Each member of the family supposes himself, or herself, under perpetual ghostly surveillance. Spirit-eyes are watching every act; spirit-ears are listening to every word. Thoughts too, not less than deeds, are visible to the gaze of the dead: the heart must be pure, the mind must be under control, within the presence of the spirits. Probably the influence of such beliefs, uninterruptedly exerted upon conduct during thousands of years, did much to form the charming side of
Japanese character. Yet there is nothing stern or solemn in this home-religion to-day,— nothing of that rigid and unvarying discipline supposed by Fustel de
Coulanges to have especially characterized the Roman cult. It is a religion rather of gratitude and tenderness; the dead being served by the household as if they were actually present in the body. . . . I fancy that if we were able to enter for a moment into the vanished life of some old Greek city, we should find the domestic religion there not less cheerful than the Japanese home-cult remains to-day. I imagine that Greek children, three thousand years ago, must have
watched, like the Japanese children of to-day, for a chance to steal some of the good things offered to the ghosts of the ancestors; and I fancy that Greek parents must have chidden quite as gently as Japanese parents chide in this era of Meiji,— mingling reproof with instruction, and hinting of weird possibilities.*
[*Food presented to the dead may afterwards be eaten by the elders of the household, or given to pilgrims; but it is said that if children eat of it, they will grow
with feeble memories, and incapable of becoming scholars.]