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2016/01/31

柳田國男 蝸牛考 初版(17) 東北と西南と(Ⅰ)

 

       東北と西南と

 

 從來の方言區域論に於ては、單に日本の中央部に近く、稍著しい一つの堺線のあることばかり注意せられて、それが他の一方の側ではどういふ結末を示して居るかといふことまで、考えて見ないのが普通であつたやうだが、言語の地方的異同が曙染などの如く、漸次に國の片端から浸潤して來たであらうといふ想像には、實は是認し難い幾つかの論理の跳躍があつた。第一にはこの二千年に餘る國内移動の趨向は、いつでも中央部の人多き地域から、四方の邊土へ出て行かうとして居たことを忘れて居る。九州現在の大姓の過半が、いずれもある時代の京人・東人の末であつたことを無視して居る。第二には東北方面の言語の特質を、何によつて解説すべきかの用意が無く時としては未だ確かめられざる異分子の作用を假りて、この變化の原因を究め得るかの如き、國語の統一と相容れざる豫想をさへ抱かしめて居る。九州の隅々には幾つかの古い言葉が、今も殘つて居ることは事實であるが、それが他の一方の端の方にも、殘つて居なかつたといふことは證明せられて居ない。神武天皇の御一行が、後に留めて置かれた言葉だけならばこそ、南九州以外の地には無いといふ道理もあらうが、大倭の御代以來の物言ひであつて、彼地の一端にしか傳はらぬといふものが有らう筈は無いのであつた。要するに是は「古さ」といふ語の不精確に基し、同時に又我々の言語が、次々に分化し增殖したといふ事實を、十分に承認し得なかつた結果に他ならぬと思ふ。

[やぶちゃん注:「曙染」「あけぼのぞめ」と訓ずる。ぼかし染色の一種で朧染(おぼろぞめ)とも呼ばれる。衣装に仕立てた際に曙の空のように紅や紫などで肩から裾に向って次第に色調が淡くなるように染め、最後に裾の部分十~十五センチメートルほどを白く染め残す手法を指す。そのグラデーションのような感じで言語上の異同が漸層的型に嵌めた如くに鮮やかに分かり易く変異することの比喩として頗る批判的に用いている点に注意されたい。]

 或は私の問題とする蝸牛といふ一小動物のみが、特にいろいろの新らしい語をさそひ出したゞけで、さういふ異例を以て國語全體の傾向を、測定しようとするのは惡いといふ人があるかも知れぬが、私は單にデンデン蟲の如く多數且つ複雜なる變化を持つもので無いと、滿足に其推移の跡を辿ることが出來ぬから、試みに是を例にとつて北と南との遙かなる一致を説くのであるが、若し必要ならばまだ幾らでも、似たる場合を列擧することが出來のである。方言は必ずしも中央との比較のみによつて、其意義乃至學問上の價値を、決定すべきもので無いことを論證することが出來るのである。但しこの説明は枝路である故に、今は及ぶ限簡略にして置かうと思ふ。是がもし一つの機緣となつて、將來この細長い島の一方に住む人が、進んで他の片端の生活を考へて見ようとする學問が榮へるならば幸ひのことである。最初に此問題に手を著け始めた人は、沖繩の學者宜野灣朝保氏、次には其志を承繼した伊波普猷君の日琉同祖論であつたが、其後この事業は停頓し、且つ是も亦京都以東には及ばなかつた。自分の試みは只其一部の補充である。東北と西南と、言語のよく似て居ることに何人でも氣の付くのは、ツグラ・タマグラ以外に先づざつと次のやうなものがある。

[やぶちゃん注:「宜野灣朝保」琉球王国末期の著名な政治家で歌人で、琉球の五偉人の一人とされる宜湾朝保(ぎわんちょうほ 尚灝(しょうこう)二〇(一八二三)年~尚泰(しょうたい)二九/明治九(一八七六)年)のこと。当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。小禄御殿の支流である向氏宜湾殿内(しょううじぎわんどぅんち:琉球王国の首里の大名)の十二世として首里に生まれた。唐名は向有恆で父の宜野湾(ぎのわん)親方朝昆(唐名は向廷楷)は尚育王時代の三司官(琉球王朝の宰相職)の一人であった。父が亡くなり、朝保は十三歳で家を嗣ぎ、宜野湾間切を領した。当初は「宜野湾」の家名を名乗っていたが、尚泰二八/明治八(一八七五)年に尚泰王次男尚寅(しょういん)が宜野湾間切(まぎり:行政単位集落の単位呼称)を賜り、宜野湾王子と称するようになったことから、「宜野湾」の称を避けて「宜湾」と称するようになった。参照したウィキの「宜湾朝保」によれば、『和漢洋の学問に通じ、英語をよくした。接貢船修甫奉行となり、その後、異国船御用係、学校奉行、系図奉行を経て三司官となった。当時は清、フランス、アメリカ、オランダと通商し、琉球は国事多端の時であったが、献身的に尚泰王を助け、信任を得た。ヤマトに派遣されること』六度、清に派遣されること二度に及んだ。また、『伊江王子の副使となって東京に行き、琉球藩を設け』、『尚泰を藩王とする命を拝したが、帰琉後、強い排斥を受け、隠退した』。『幕末は、鹿児島に使し、歌人の八田知紀に和歌を学び、帰琉して別業を営み、悠然亭と命じ、自分は松風斎と号し、歌を講じた。のち福崎季連と相携え、琉球歌壇の基礎を築いた』。明治五(一八七二)年の東京滞在中には、『吹上離宮の歌会に陪侍し、「水石契久 動きなき御世を心のいはかねにかけてたえせぬ滝の白糸」と詠み、天皇のお褒めを頂いた』という。

「伊波普猷」(いはふゆう 明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)は、沖繩県那覇市出身の民俗学者・言語学者で「沖繩学の父」とも呼ばれる。以下、ウィキの「伊波普猷」より引く。『琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる』。明治三六(一九〇三)年に第三高等学校(京都大学の前身)を卒業後、『東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した』。『帰郷後沖縄県立図書館の館長を務める傍ら、沖縄研究資料の収集に尽力した。歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。弟伊波月城は、沖縄毎日新聞の新聞記者として文明開化のために活動した』。『学問の領域は、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したゆえ、「沖縄学の父」とも称された』。「おもろさうし」(琉球王国第四代尚清王代の嘉靖一〇(一五三一)年から尚豊王代の天啓三(一六二三)年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「うむい(=思ひ)」で元は祭祀に於ける祝詞であったと考えられている)の研究『貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索』、「日琉同祖論」(後注参照)はその探究の一つであった。『しかし、例えば鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』において、伊波の「琉球研究の開拓者としての功績は大いに讃えられて然るべきである」と評する一方、その研究について「文献に偏重し、加うるに結論を出すに急であったために、幾多の論理的飛躍と誤謬とを犯したことも事実である」と指摘している』。『また、伊波の思想の欠点は、近代日本がうみだした沖縄差別への批判が弱かったことで、そのため、沖縄人としての生き方に誇りをみいだすことにおいて、一定の成果をあげたが、結果として天皇制国家に沖縄をくみこむための政策に利用されることになった、という評もある』。『民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。友人の東恩納寛惇は伊波について、浦添城跡の顕彰碑に「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻んだ』とある。

「日琉同祖論」「にちりゆう(りゅう)どうそろん」と読み、日本人と琉球(沖繩)人はその起源に於いて民族的には同一であるとする説のこと。ウィキの「日琉同祖論」より引く。日琉同祖論は歴史的には十六世紀の『京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発し、それが琉球へ伝わり』、十七世紀に琉球王国の尚質王及び尚貞王の摂政を務めた羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が編纂した琉球王国初の正史「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」に影響を与え、『明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された』。『近年の研究では、日琉同祖論の起源となる源為朝琉球渡来伝説は』、十六世紀前半には既に『日本において文献に現れていることが明らかになっている。現在確認されているその初出は、京都五山の臨済宗僧侶・月舟寿桂』(文明二(一四七〇)年~天文二(一五三三)年)の『「鶴翁字銘井序」においてである』。『そこで、月舟は信憑性は分からないがと断りながら、「日本には、源為朝が琉球へ渡って支配者(創業主)となったという伝説がある。そうであるなら、その子孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」という内容を記している』。つまり源為朝来琉説が十六世紀前半には既に『京都五山の僧侶の間である程度流布していた事実が確認できる』。『この源為朝来琉説が、日琉間の禅宗僧侶の交流を通じて琉球へもたらされ、それが後年羽地朝秀が『中山世鑑』を編纂する際に影響を与えた可能性が指摘されている。こうした源為朝来琉説や附庸国説は史実的根拠を欠いた伝説の域を出ないが、しかし、薩摩の琉球侵攻以後に、その支配を正当化するためにこれらの説が創作されたわけではないのは確かである』。羽地朝秀は一六五〇年(尚質三年/慶安三年)、『琉球最初の正史である『中山世鑑』を編纂した。この中で羽地は、琉球最初の王・舜天は源為朝の子であり、琉球は清和源氏の後裔によって開かれたと述べ源為朝来琉説を紹介している。舜天が実在の王か否かについては議論があるが、舜天の名自体は『中山世鑑』より百年以上前の尚真四六(一五二二)年に建てられた「国王頌徳碑」に刻まれている。碑文は、琉球の僧で円覚寺第六代住持・仙岩が撰んだもので、そこには「舜天、英祖、察度三代以後、其の世の主は遷化すと雖も同行を用いず……」とあり、舜天は』十六世紀『初頭には琉球最初の王であると見なされていたことが分かる』。また羽地朝秀は尚貞王の摂政就任後の尚貞五年(一六七三年三月の『仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている』。『なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民は、縄文人を基礎として成立し、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であり、同じ祖先を持つことが明らかになっている』。『高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為』、十世紀から十二世紀頃に『農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘『するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期』(十世紀前後)『に南下して定住したものが主体であると推測されている』。『こうした羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保(三司官)に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、万葉集などの上代日本語と琉球方言を比較して、両者に共通点があると説いた』。『日本における日琉同祖論は、室町時代の京都五山の僧侶以降では、江戸時代に新井白石がその著』「南島誌」(享保四(一七一九)年)の「総序」において、中国の幻想的地誌「山海経」に見える「北倭」「南倭」の「南倭」とは沖繩のこと『であると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している』。また、江戸中期の有職故実研究家であった藤貞幹(とう ていかん)は神代上代の研究書である「衝口発(しょうこうはつ)」の中で、『神武天皇は沖縄の「恵平也(いへや)島」(伊平屋島)に生誕しそこから東征したと述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、クマヤー洞窟)という洞窟があり、地元では天孫降臨説があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。本居宣長はこの説に激怒』、天明五(一七八五)年に成稿した著作「鉗狂人(けんきょうじん)」を以って『これに徹底的に論駁している』とある。]

[やぶちゃん注:以下の段落冒頭の標題(柱)である「アケズ」「ウロコ」「クラ」「ミザ」「ムゾイ、ムゾカ」「タンペ」「アクト」「サカズラ」「トゼンナ」「ネバシ・ナラシ」という文字の太字は底本のママであって、これは傍点ではないので注意されたい

アケヅ 上代のアキツムシ、即ち蜻蛉のことである。沖繩の諸島と種子島と東北六縣とのみに此語の通つて居るのが見出され、中央部はすべてトンボ又はドンブ等、九州にはへンボ・エンブ等あつて、各地非常なる音變化を以て、東京などのヤンマに續いて居る。奧羽も北の一隅だけにダブリ・ダンブリといふ語が交へ用ゐられ、それが又鹿兒島縣下のボウリといふ語と接近して居る。ボウリも恐らくはツブリの變化であつた。トンボの音は後には確かに「飛ぶ」といふ語と聯想せられて居るが、最初はダンブリ又は是と近い音であつたことは證據がある。芝居や小兒の遊戲でする飜筋斗、東京ではトンボガヘリといふ行爲を、上方ではドンブリカヘリといひ又サカドンブリとも謂つて居る。即ち古音が複合の形にのみ保存せられて居る例である。能の狂言のドブカッチリには丼礑の漢字を宛てゝあるが、井の字の中に點のある字を、今は普通にドンブリの語に用ゐて居る。集韻には丼、都感の切、物を井中に投ぐる聲とあり、靈異記の訓釋には「井投彼釜」の井の字に、ツハトと訓を附してあるが、「大和物語」には「ツブリと落ち入りぬ」とあり、宇治拾遺にも「ツブリと打かへりぬ」と用ゐて居るから(以上「俚言集覽」による)[やぶちゃん注:上記( )は底本ではポイント落ちで右寄り記載。]、トンボのダンブリも元はあの蟲の珍らしい擧動によつた名であつて、多分は童詞などの力によつて、弘く行はれたものであらう。ヘンボ・エンバがそれから出たか否かは別問題として、兎に角に此音の面白さが、次第にアキツを不用にして、國の外側へ押遣つたことだけは爭はれない。

[やぶちゃん注:「能の狂言のドブカッチリ」能狂言「丼礑(どぶかつちり(どぶかつちり))」は柳瀬祐樹氏のサイト「日本語であそぼ」の「丼礑」を参照されたい。但し、時代的限界性から視覚障碍者に対するかなりあからさまな差別的展開であるので注意されたい(当初、梗概をオリジナルに書いたが、あまりの内容にリンクに代えることとした)。渡渉をしようとする視覚障碍者の座頭が浅瀬に石を投げてそれが川底の石に直ぐ当たる擬音が「礑(かっちり)」(当該字の音は「タウ(トウ)」で、意味は「はた」「はたと」)、深ければ「丼(どぶ)」ということで後者はここでは「ど~んぶり!」のオノマトペイアの当て字のようには見える。但し、以下の「井投彼釜」の注を参照されたい。

「集韻」宋代の一〇三九年に丁度らによって書かれた勅撰の韻書。

「都感の切」反切(はんせつ)による音の表現。「都」の中国音「」「dōu」或いは日本語の音の「tu」の「d」或いは「t」と、「感」の「kán」或いは「kan」の「an」を接合して「dan」「tan」(ダン・タン)といった形で示すこと。「丼」の「ドン」と近似して聴こえはする。

「靈異記」「日本霊異(りょうい)記」。

「井投彼釜」同書下巻の「用寺物復將寫大般若建願以現得善惡報緣廿三」(寺の物を用ゐ、また大般若を寫さむと願を建て、以つて現(げん)に善惡の報ひを得る緣第二十三)の一節にある。「井(つば)と釜の彼(か)の釜に投(い)るれば」と読み(蘇生した主人公が語る、あの世で熱湯の釜に投げ入れられるシーンである)、これは擬音語の「ざんぶと」「ざぶんと」に相当する読みと思われる。

『「大和物語」には「ツブリと落ち入りぬ」とあり』第百四十七段の「生田川」の一節。二人の男に言い寄られた女が、結局、切羽詰って生田川に身を投げるという「生田川伝説」のシーンで、「つぶりと落ち入りぬ」とある。一見、オノマトペイアに読めるのであるが、小学館の「日本古典文学全集」の高橋正治氏の頭注によれば、これは一般に擬声語と言われるものの、『粒・つぶり(頭)・つぶら、などの「つぶ」で、物のまるく完全なようすを表わすので、体がすっかり水の中に見えなくなるのをいうのであろう。「づぶり」ではない』とある。まさに目から鱗ならぬ、「つぶら」な目から蝸牛である(下線はやぶちゃん)。

「宇治拾遺」「宇治拾遺物語」。

『「ツブリと打かへりぬ」と用ゐて居る』私の持つ「宇治拾遺物語」ではこの文字列では出ないが、「つぶり」は百三十三の「空入水したる僧事」に「つぶりとも入らで」とは出る。私の持つものとは違う伝本に拠るか。発見し次第、追加する。

「俚言集覽」「りげんししゆう(しゅう)らん」は十九世紀前期に成立した国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られている。全二十六巻。江戸後期の国文学者石川雅望の現わした「雅言集覧」に対して口語や方言を主として扱っており諺も挙げている。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(5) 家族の宗敎(Ⅱ) /家族の宗敎~了

 

 墓に於ける古い人身御供といふ特別な事實、葬式の特徴、死者のあつた家の放棄――それ等はみなこの古い祖先禮拜の正しく原始的のものである事を證明するものである。その事はまた神道の方で死を不淨として特に恐れる事に依つても知られる、今日でも葬式に會同する事は――葬式が神道の式に依つて營まれるのでなければ――宗敎上の汚れなのである。上古の伊邪那岐命のその死んだ配偶(伊邪那美命)を尋ねて、下界へ降下した事は、嘗て抱かれて居た死者の上に力を有して居る魔力に關する恐るべき信仰を說明するに足るものである。腐蝕としての死に就いての恐怖と、亡靈に對する奉祭との間には何等の不調和もない、吾々は奉祭其事を以つて贖罪と解すべきである。此最古の神の道は恆久の恐れの宗敎であつた。されば普通の家が死者のあつた後には棄てられたのみならず、天皇すらも當初の幾世紀間は、先帝の死後はその首都をかへるのが常であつた。併し原始の葬式から徐に高等の祭祀が發達して來た。悲みの家則ち喪家は變つて、神道の社となり、今日でもそれは當初の小舍の形を保存して居る。それから支那の感化の下に祖先禮拜は、一家の内に於て堅く行はれるやうになり、後になつては佛敎が、この一家の禮拜をつづけさした。だんだんに家族のこの宗敎は、優しい情緖の宗敎であると共に、義務本分を主とする宗敎となり、死者に就いての人々の考を變へ、又和らげるやうになつた。遠く第八世紀に於て、すでに祖先禮拜は今日なほ保存して居るやうな三種の主なる形を發展さした、そして爾來家族の祭祀は、古いヨオロッパ文化の家族的宗敎に、いろいろの點に就いて、酷似して居る性質をもち始めたのである。

 今現存のこの家族的祭祀の形に對し瞥見を與へて見よう――則ち日本に於ける一般の宗敎の形に對してである。日本の。各家庭には必らずそのために捧げられた神殿がある。若し其家庭が只だ神道の信仰を有するものとすれば、其神殿則ち御靈屋(みたまや)【註】(嚴かなる靈の住處)――神道の社を小さく型どつたもの――は何處か奧の方の部屋の壁によせてつくられた棚の上に置かれてあり、その高さは床から約六尺の處にある。この種の棚を呼んでみたまさんの棚則ち『尊い靈の棚』といふ。この神殿には白木の薄い板牌があり、それに一家の死んだ人の名が書かれてある。この板牌は靈の代理者(みたましろ)を示す名、若しくは恐らくそれよりも古い『靈の木』といふ事を示す名を以つて呼ばれて居る――またその家族が佛式を以つて祖先を禮拜するならば、死者の板牌か佛敎流の神殿則ち佛壇に置かれる、而してこの佛壇は奧の室の窪んだ個處の上部にある棚を占有して居るのである。佛敎のこの死者の板牌は(多少の例外はあるとして)これを呼んで位牌といふ――『心の記憶』を意味する文字である。それは漆塗り、金着せで、その臺に蓮の花が彫刻されてついて居る、そしてそれは大抵死者の實名でなくして、宗敎上の名若しくは死後の名を記すのである。

 

[やぶちゃん注:「約六尺」約一メートル八二センチメートル弱。原文は実際には“about six feet”で一メートル八三センチメートル弱とはなる。

「靈の代理者(みたましろ)」「みたましろ」はルビではなく本文である。しかしとすれば、ここは「『靈の代理者』(みたましろ)」と私は表記すべきところであると真面目に主張する。前を「六呎」とせずに安易に「六尺」とし、ここをこんな風にいい加減にやり過ごす翻訳は私は許せない。

「『靈の木』」原文は“"spirit-sticks."”であるが、これは私は「ひもろぎ」と訳すべきではないかと考えている。「ひもろぎ」(古くは清音「ひもろき」)は「神座」「神籬」「胙」「膰」などと書いたが、神道に於いて神事を執り行う際に臨時に神を招請するため、注連繩を張って神聖な結界を作った室内や庭に立てた依代(よりしろ)としての榊(さかき)の木を指す(古くは常磐木(ときわぎ)を植えて神座(かみくら)とした。]

 以下の注は、底本では全体が四字下げポイント落ちである。前後を一行空けた。] 

 

註 通例はそれを稱して宮、則ち嚴かなる家といふ――これは普通の神道の社にも與へられて居る名である。 

 

 さてここに重要な事はいづれの禮拜に於ても、この板牌則ち靈牌は事實形の小さい墓石を示すといふ一事である――これは進化の上に興味ある事實である、よしその進化なるものは日本のといふよりも、むしろ支那のものでありはするが。神道の墓場に於ける簡單な墓石は、その形が木製の亡靈の木若しくは靈の木と似て居るが、一方に古風な佛敎の墓地に於ける佛敎の記念碑は、位牌のやうな形になつて居る、凡そ位牌は男女の性と年齡とを示すために、その形がそれぞれ少し變つて居るが、墓石に於てもその通りで、少しづつその形が變つて居るのである。

 一家の神殿に於ける靈牌の數は、通例五個若しくは六個を越えない――かくしてただ祖父母、父母、それから最近に死んだもののみが代表されて居るのである。併し遠い祖先の名は卷物に記され、それが佛壇若しくは御禮屋の内に置かれてある。

 家族の禮拜の式如何に拘らず、祖先の靈牌の前には、日々祈禱が上げられ、供物がそなへられる。その供物の種類竝びに祈禱の性質に就いては、その家の宗敎如何に依るのであるが、祭祀の主要な義務に就いては、何れの家でも同樣である。この義務は如何なる事情があつても、これを閑却してはならないので、當時にあつては、その營みは、通例年長者若しくは一家の婦人達に委ねられてあつた。

 その祈禱には長い式もなければ、何等命令的な規則もなく、また別に嚴肅な處もない、食物の供御は一家の料理から取り出されたものであり、口の内に囁く祈願は短く些かである。併しこの式はつまらぬ樣に見えはするが、その執行は決して輕々に見る事の出來ぬものである供御をしないといふ事は、恐らく夢想だもされない事で、家族の存在する限り行はれなければならないのである。

[やぶちゃん注:以下の注は底本では全体が五字下げでポイント落ちである。前後を一行空けた。]

 

註 但し公儀の折に於ては――年囘のため一家に親族の集まる時の如き際には、さうは行かなかった、かかる際には祭祀は一家の長に依つて營まれたのである。古い慣習――嘗ては日本の各家族に行はれ、なほ神道の家では守られて居る――則ち神々に料理の道具と食物とを捧げる慣習に就いて、サア・アアネスト・サトウ氏は恁う言つて居る、『これ等の神々を祭る儀式は、最初一家の長に依つて爲されたが、後になつてその務めは一族の婦人達に委託された』と。(『古日本の奉祀例』“Ancient Japanese Rituals”吾々は古い儀式に就いても亦同樣な任務の委任が極古い時代に、明らかな便宜上の理由から行はれた事と察する。この義務が一家の年長者――祖父母――の仕事となった時、供物の事を管理した人は通例祖母であった。ギリシヤ、ロオマの家々に於ても家族の儀式を行ふ事は、その家の長の責任であったらしい、併し婦人達がそれに參與して居た事も吾々の知つて居る處である)

[やぶちゃん注:「『古日本の奉祀例』“Ancient Japanese Rituals”」はErnest Mason Satow の祝詞(のりと)の英訳である“Ancient Japanese rituals and the revival of pure Shintō”(1878–1881)のことと思われる。] 

 

 家族のこの禮拝の式の詳細を叙述するには、多くの紙數を要する、――それが複雜であるがためではなく、西洋人の経驗した處とは甚だ異つて居り、一家の宗派如何に依つて異つて居るからである。併し細目に亙る事は必要でもあるまい、主要な點は宗敎如何を考ヘまた人の行爲と性格とに關してのその信仰を考察するに在る。只だこの家族の禮拜以上に誠實なる宗教もなく、またそれ以上に感動を與へる信仰もないといふ點は、深く記銘すべきである、蓋しこの禮拜は、死者を以つて、なほつづいて一家の一部を成すものであるとなし、從つてなほその子女近親の愛情竝びに尊敬を要するものとなすのである。愛情よりも恐怖が强烈であったその暗黑な時代――死者の亡靈を悅ばさうとする欲望が、主として死者の怒りを恐れる心から起こされた時代――に始まつたこの祭祀は、結局發達して愛情の宗敎となり、今日なほそのままに殘つて居るのである。死者が愛情を求め、死者を閑却するのは殘忍であり、死者の幸福は生者の義務如何に依るといふ信仰は、最初の死者の怒りを恐れたといふその恐怖心を殆ど放棄した信仰である。死者は死んだとしては考へられて居ないので、その人を愛して居た人々の間にはまだ存在して居るものと考へられて居るのである。人の目には見えないで、その死者はなほ家を守り、その住者の安寧ならん事を注意して居る、また夜每に神殿の燈明の光の内にさすらひ、その燈明の熖の動きは則ち死者の動きである。死者は大抵は文字を以つて書されたる靈牌の内に住み――時に依るとその靈牌に生命を具へ――それを人間の體質に變じ、生者を助けまた慰めを與へるために、さういふ身體を以つて現實の生活に戾つて來る。その神殿から死者はその家に起こる事件を見聞し、一家と喜憂を具にし、周圍の人々の聲を聞き、その溫情を得ては喜んで居る。彼等は愛情を欲するが、一家の朝夕の會釋は彼等を喜ばすに足りるのである。彼等は又食物を要するのであるが、それは食物の息だけで十分なのである。彼等は只だ日々會釋をする義務を果たして貰ふ事だけに就いて嚴格なのである。彼等は生命を與へ、富を與へるものであり、現在の創作者であり、敎師である、彼等はまた民族の過去と、そのすべての犧牲とを代表して居るもので――生者が現にもつて居るものは、みな彼等から來たものなのである。併しそれに對して彼等の求めるものは、誠に僅少である――一家の建立者として、保護者として、次の如き簡單なる言葉を以つて、謝意を表されるより以上には、殆ど出てない、則ち『尊き御靈よ、晝となく、夜となく、與へられたる御助けに對し、吾々の恭しき感謝を受けられよ』……と云つたやうなものに過ぎない。彼等を忘れ、閑却し、粗末に、冷淡に扱ふ事は、則ち惡心の證據である、また行に依つて彼等を辱しめ、惡事に依つて彼等の名を汚す事は、最大の罪惡である。彼等はこの民族の道德上の働きを代表するものであり、道德上の働きを否認するものは、また彼等を否認する事であり。かくの如きものは野獸の列に、若しくはそれ以下に墮落したものである。彼等死者は不文律、社會の傳統、人々に對する人々の本分を代表して居り、これ等の事を犯すものは、また死者に對して罪を犯した事になるのである。そして最後に彼等は目に見えざる神祕の世界を代表して居る、神道の信仰から言へば、少くとも彼等は神である。

[やぶちゃん注:「熖」は「ほのほ(ほのお)」で「焰(焔)」に同じい。]

 

 勿論 gods に對する日本語の神といふ言葉は、古いラテン語のdii-manesと同樣、神性(divinity)といふ近代的の槪念と一致するやうな觀念を含んで居ない事は記億して置くベき處である。日本の神といふ文字は『上長』(the Superiors)『高貴な人々』(The Higher Ones)と云つたやうな言葉を。以つて表はした方が、もつと適切かも知れない、事實この文字は神々亡靈に對すると同樣、生きた統治者に對しても以前は用ひられたものである。併しそれは現身を脫却した靈といふ考よりも遙かに以上のものを含んで居る、何となれば古い神道の敎に從ふと、死者は世界の統治者となつたのであるからである。彼等死者はすべて自然界の事件の原因であつた、――風、雨、潮流、發芽、成熟、發育、衰滅、及び望ましい事、恐るべき事、其他一切の原因であつた。彼等は精妙なる一種の要素――祖先より傳はつたる精氣――を成し、宇宙に遍在し、たえる間なく働きを爲して居る。彼等の力は或る目的のために結合すると、抵抗する事の出來ないものとなる、そして國家の危機に際しては、敵に對しその助けを求め、彼等を全體としえそれに祈禱するのである……こんなわけで、信仰の眼から見れば、各家族の亡靈の背後には、無數の神の計量すべからざる影の力が蟠つて居るのである、ために祖先に對する義務の感は、世界を左右して居る力――目に見えざる廣大無邊の力に對する畏敬の念に依つて一層深くされる。原始的な神道の考に依ると、宇宙は亡靈を以つて充たされて居たのである――後年の神道の考に依ると、亡靈の存在は個々の靈の場合でも、場所や時間を以つて制限されては居ない。平田(篤胤)の書いた處に依ると『靈の居る處はその御靈屋の内にあるが、同時に靈はその祭られて居る處には何處にでも居る――神であるが故に、又在らざる處はないのである』と。

[やぶちゃん注:「dii-manes」(前章で以下のように既注しておいた)不詳。ラテン語の接頭辞「di-」ならば「dis-」で「分離された」の意であり、また関係があるかどうかは全く不明であるが、「Dis」は冥界の神の名(ギリシャ神話のプルートと同一視された)でもある。ただ、小堀馨子氏の論文「古代ローマの死者祭祀レムリア(Lemuria)再考」(PDF)に『祖霊神(di manes)』の綴りを見い出せる。総体としての祖霊で、これであろう。

「神性(divinity)」「ディヴィニティ」は他に「神格」「神力」「神威」「神徳」の他、「異教の神」、また「神学」の意をも持つ。

「『上長』(the Superiors)」「上長」は「じやうちやう(じょうちょう)」で年齢や地位が上であることを指す。「シュピィリァ」はラテン語の「より上の」の意が語源で、「優れた人」「優越者」「上手」、「上官」「上役」「年長者」「先輩」の他、「修道院長」の意もある。

「『高貴な人々』(The Higher Ones)」“One”は可算名詞としての「人」の意、“Higher”は「より高い」「高等な」「高級な」の意。

『靈の居る處はその御靈屋の内にあるが、同時に靈はその祭られて居る處には何處にでも居る――神であるが故に、又在さざる處はないのである』一九七六年恒文社刊の平井呈一氏の訳「日本――一つの試論」の当該箇所には、訳者注と思われるこの箇所の平田篤胤の「玉襷」(全十巻。天保三(一八三二)年に刊行開始した、門人用の自選解説書で平田国学が広まる一因となったもの)の「十之卷」の当該箇所原文が附されてある。それを恣意的に正字化し(拗音を正字化した)、勝手な読みを独自に歴史的仮名遣で附したものを以下に示す(『(中略)』は底本のママ)。

   *

御靈(みたま)は。目にこそ見え給はね。きつと其(その)祭屋(まつりや)におはし坐(ま)すこと故に。かく致すので厶(ござる)。(中略)其祭る狀を見るに。其處(そこ)にとむと。其ノ神の形を現(あら)はして。在(ま)すが如くが有(あつ)たと云(いふ)ことで。神宲(まこと)有(ある)なる事を知ては。斯(か)く有(ある)べき事で厶(ござる)。

   *

「宲」の字は「仕舞い込む・納める」の意。] 

 

 佛敎信者の死者は神とは呼ばれないで佛(ほとけ)と云はれる、――これは勿論信仰といふよりも、信心から來た希望を言ひあらはした言葉である。この信仰に依れば死者は、單により高い生命の狀態に進む途中にあるのである、それ故神道の神のやうに祭られもせず、また祈禱を捧げられもしないのである、則ち祈禱は死者のために上げられるので、通例(佛敎の奉祭の内にはこの敎に對する例外となるものもありはするが)死者に向つてするのではない。併し日本の佛敎信者の大多數は、また神道の憧憬者であつて、一見不合理のやうではあるが、この兩信仰は世人の考の内に長い間調和されて居たのである。それ故佛敎の敎理は思つたほど深く祖先の祭祀に伴なつた考に影響を與へては居ないのである。

[やぶちゃん注:この本来の仏教に反する驚くべき心性に気づいている日本人は恐らく現在でも非常に少ないと私は思う。あなたは仏壇で墓の前で菩提寺の本尊の前で、心の中で何を祈っているかを考えてみるがよい。そうしてそれがあなたの信心する仏教の教理と合致するかどうかに思い致すがよい。言っておくが、私は一種の原始的アミニストであり、現代のありとある面妖な有象無象の宗教宗派はこれ一切信心も信用もしていない。]

 

 定まつた文化をもつたあらゆる族長政治の社會に於ては、祖先の禮拜から、孝道を尊ぶ宗敎が出て居る。祖先の祭祀をなす文化の民の間には、孝道が今日なほ再考の德となつて居る……。併し孝道と云つた處で、そのイギリスの言葉に依つて普通に傳へられて居る處――子供の兩親に對する尊敬と、それを解してはならない。孝といふ言葉をむしろその古い意味、昔のロオマ人の pietas(ピエタスは義務、愛情、感謝、愛國心、親族に對する忠實等の意を有す)の意に解すべきである。――詳しく言へば、一家の本分に就いての宗敎的意義に解すべきである。則ちこの文字の下に、死者に對する敬意、生者に對する義務の感、子女の兩親に對する愛情、兩親の子女に對する愛情、夫婦相互の義務、竝びに養子養女の一體としての家族に對する義務、僕婢の主人に對する義務、主人の寄食者に對する義務――すべてこれ等が包含されるのである。華族そのものが、宗敎であり、祖先傳來の家は、則ち社寺であつた。吾々は一族と家とが、今日に於てすら、そんな風である事を、日本に於て見るのである。孝道なるものは、日本に於ては、子女の父母竝びに祖父母に對する義務の意のみではない、それ以上に祖先に對する祭祀、死者に對する敬虔なる奉仕、過去に對する現在の感謝、全家に對する關係に於ける個人の行爲等をいふのである。故に平田はすべての德義が、祖先の禮拜から出て來て居ると云つて居る、サア・アアネスト・サトウ氏の飜譯した平田の言葉は特に注意に値すると思ふ、――

[やぶちゃん注:「pietas(ピエタスは義務、愛情、感謝、愛國心、親族に對する忠實等の意を有す)」ネィティヴのそれを聴くと「ピィーエタース」と延して聴こえる。私の所持する田中秀央編「羅和辭典」(昭和三八(一九六三)年研究社辞書部刊)には順に、「義務感」「責任感」/「敬虔」/「家族愛」「親子兄弟の情愛」「愛着」/「友情」「友人愛」/「祖國愛」「忠義」「愛國心」/「正義」/「寬大」「仁慈」とある。]

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。但し、同ポイントである。前後を一行空けた。] 

 

 親から祖先の僕であると考へ、其祖先の禮拜に精勵するは臣民たるものの本分である。養子女を迎へる風習は、供御を爲す人を得んとする自然の願から起つたもので、此願は決してこれを閉却して、棄て置くべきものではない。祖先の憶ひ出に一身を捧げるといふ事は、すべての德の源である、祖先に對する義務をよく果たすものは、神々に對し、またその生ける兩親に對し、決して不敬な事はない筈である。かくの如き人は王侯に對しては眞實に、友人に對しては忠實に、その妻子に對しては親切にまた優しいのである。何となればその一身を捧げるといふ事の本源は、實に孝の心であるからである。

[やぶちゃん注:前と同じく、一九七六年恒文社刊の平井呈一氏の訳「日本――一つの試論」の「十之卷」の当該箇所には訳者注と明記した、この箇所の平田篤胤の「玉襷」の原文が附されてある。それを恣意的に正字化し、読みを独自に歴史的仮名遣で附したものを以下に示す(一部の表記を濁音化した。『(中略)』は底本のママ)。

   *

其(その)先祖の御靈(みたま)を祭る本人は。取も直さず。先祖の神主で。且は先祖の御靈の。謂(いは)ゆる杖代(つゑしろ)。御(お)もりで。諸越(もろこし)に謂(いは)ゆる祭主で厶(ござる)。ジャに依(よつ)て。此樣(かやう)に心得むではならぬこと。世にも先祖の祭祀(まつり)を絶(たや)さぬやうな子がほしいの。又家が大事だのと云(いふ)て。人を見立て養子を爲(す)るのも。アレハ何の爲(ため)にする事ぞと。根(ね)をおして尋(たづ)ぬれば皆先祖の祭り。吾(わ)がなき跡の祭りをさせむとて。致す事で有(あり)ませむか。夫(それ)を子孫たる者が心得違へて。濟ませうか。人の道で有(あり)ませうか。(中略)扨(さて)まづ先祖をかやうに。大切にすべき謂(いはれ)を心得ては。況(まし)て天神地祇(てんしんちぎ)を。粗略に思ひ奉る人は。決して无(な)い筈(はず)のこと。又(また)現(げん)に今生(いき)ておはし坐(ます)親を。粗末にする人无(な)く。神と親を大切にする心得(こころえ)の人は。まづ道の本立(もとだち)の固(あた)き人故(ゆゑ)。その人必(かならず)君(くん)に仕(つか)へて忠義を盡し。朋友と交りては。信棠(まこと)があり。妻子に対しては。慈愛ある人と成(な)りなる事は。論は无(な)いだに依(よつ)て。先祖を大切にするが。人とある者の道の本(もと)だと云(いふ)ので厶(ござる)。其(その)先祖大切にする行(おこなひ)が。則(すなはち)いはゆる孝行で。孝行なる人に、不忠不義の行ひをする人は。決してなき物で厶(ござる)。

   *] 

 

 社會學者の見地からすれば、平田の考は正當である、極東の倫理の全系統が家族の宗敎から出て居るといふ事は、疑もない事實である。その祭祀の助けに依り、生者竝びに死者に對するあらゆる義務の感が出て來たのである――畏敬の念、忠實の感、献身の精神、愛國精神の如きすべてが。孝道が宗敎上の力として如何なるものを示すかといふ事は、東洋に於ては、人の生命を購求する事が出來るといふ事實に依りて、尤もよく想像されよう。――生命がその市價を有するといふのである。かくの如き宗敎は支那竝びに其隣接の國々の宗敎であつて、支那では生命が賣り物になつて居る。支那の孝道があつたればこそ、パナマ鐡道の完成が出來たのである。パナマに於ては、土地を鑿つのは、死を解放して自由の働きを爲さしめる事であつた――地は幾千の労働者を喰ひつくして、終に白人黑人の勞働者間には、此業を完成するに十分なる其數が得られなくなつてしまつた。併しその勞役は支那から得られた――どれほどの數でも――生命といふ代價を以つて得られたのであつた。而してその生命といふ代價は拂はれたのであつた、則ち無數の人が東洋から來て勞役して死んだ、それはその人々の生命の價が、その家族の許に送られるやうにとのためであつた……。私は疑はない、かくの如き犧牲が命令的に要求されたならば、生命は日本に於ても直に購はれうるであらうと――よし恐らくはそんなに廉價ではないにしても。この宗敎の行はれて居る處、個人は、――その場合に至つてはいろいろあらうが、――家族のため、家庭のため、祖先のために、いつでも直にその生命を差し出すのである。かくの如き犧牲をなさしめる孝道は、これを押し進めると、主君のためには、家族をも犧牲にして惜まない忠義の感となる――若しくはさらにそれを押し進めると、楠正成の如く、主權者に捧げるために、七度も生まれかはる事を願ふ忠義の心となるのである。孝の心から國家を護るあらゆる道德上の力が發達した――專制主義が、世の安寧に取つて危險になつた際には、その官憲の專制主義に向つても、正當なる制限を加へる事を往々辭さない力ともなつたのである。

[やぶちゃん注:「パナマ鐡道」世界最短の大陸横断鉄道であるパナマ共和国のパナマ市とコロン市を結ぶ全長七十七キロメートルのパナマ地峡鉄道。ウィキパナマ地峡鉄道によれば、『パナマ運河の開業前、大西洋から太平洋に出るには南アメリカのマゼラン海峡を航路で経由する遠回りを強いられたが、この鉄道が』一八五五年に『開業したことで、航路の間に鉄道を挟む形でショートカットが可能になった。特にゴールドラッシュの影響でアメリカ合衆国東海岸やヨーロッパからアメリカ西海岸へ向かうものが増えており、それらのものにとってはロッキー山脈の駅馬車越えルートと同様、花形と見なされていた。むしろ日数がかかり、道も不安定で治安の問題もある駅馬車ルートより、パナマ地峡鉄道経由の船舶ルートのほうが、費用は高いものの短時間かつ安全にいけるルートとされた』とあるが、一方、ウィキパナマ鉄道には、十九世紀前半には『パナマ地峡を横断する旅は危険かつ困難なものであった。米墨戦争の結果、アメリカ合衆国がカリフォルニア州を獲得して以降、より確実な大洋間の連絡手段を求める声が強まっていった。大陸横断鉄道の建設は』一八五〇年に始まり、一八五五年一月二十八日、『両大洋岸を結ぶ最初の鉄道が開通した』が、この『鉄道建設によって工事労働者におそらく』一万二千人を『超える死者を出したとされている』とある(下線やぶちゃん)。

「楠正成の如く、主權者に捧げるために、七度も生まれかはる事を願ふ忠義の心」後醍醐天皇の忠臣楠木正成が、湊川の戦さで足利尊氏軍に敗れて自刃した際に誓ったという「七度、人として生まれ変わり、朝敵を誅して国(南朝)に報いん」という意で「七生報国」という四字熟語としても知られる。ニコニコ大百科の「七生報国とはには、『皇国に報いるという意味から、または「七度生き延びて国に報いよ」と解釈されたことから、大東亜戦争(第二次大戦)期は「忠君愛国」「滅私奉公」とともに修身教育に採り入れられ、特に「七生報国」は武運長久にあやかってスローガンとしても多用された』が、実は『当の正成一族は「七度転生してでも人殺しがしたい」という意味にも取れるこの言葉を良いものとは考えていなかったようである』ともある。いいねぇ、こういう解説。]

 

 蓋し古い西洋の、家族の神壇を中心として繞る孝道は、なほ極東にその力を揮つて居る孝道とあまり異つたものではなかつた。併し吾々は日本にアリヤン民族特有の爐邊なるもの、則ちたえざる火の置いてある家族の神壇を見ない。日本の家庭の宗敎は、ギリシヤ人、ロオマ人の間に、その有史時代にあつたものよりも、遙かに古い禮拜の時期にあつたものである。古日本の母屋なるものは、ギリシヤ或はロオマの家庭の如く、確定したる組織をもつたものではなかつた。家族の死者をその家族の所有地内に葬るといふ習慣は、一般には行はれて居なかつた、住居そのものがまだ確とした永續的の性質をもつては居なかつたのである。日本の武士に就いては、ロオマの武士に就いて言つたやうに pro aris et focis 『吾が神壇と爐邊とのため』といふ事は、その文字通りには當てはまらないのである。日本の家々には神壇、神聖なる火もなかった、それ等の代りに、夜每に新しく點す小さな燈火のある靈の棚若しくは神殿があつた、そして古い時代には、神々の影像は日本にはなかつたのである。レイリイス及びピイネイティス(Lares and Penates 下界にあつて家を守るロオマの神々)の代りに祖先の靈牌があるばかりで、また別に小さな板牌があつて、それには他の神々――守護神の名があるばかりであつた。さういふ弱々しい木製の品物のある事が、なほ家庭を爲すのである、それ故、勿論それ等は、何處にでも持ち運びが出來たのである。

[やぶちゃん注:「pro aris et focis 『吾が神壇と爐邊とのため』」ウィ「祭壇と炉のために」に、『多くの一族や軍の連隊の標語として使用されたラテン語の成句である。「神と祖国のために」を意味するが、最も敬愛するものへの愛着を示すために古代の作家が用いた。より慣用的には「炉辺と家庭のために」と翻訳され、ラテン語の「aris」としては、一般的に家の精神の祭壇のどちらにも関係しており、しばしば家庭の提喩として用いられる。キケロは『神々の本性について』(3,40)の中で自分の主張の重要性を強調するためにこの成句を用いている』。『「祭壇と炉のために」(Pro Aris et Focis)は、スコットランドのウェイツ家のような多くの一族や、世界中の軍の連隊の標語である』とある。

「レイリイス及びピイネイティス(Lares and Penates 下界にあつて家を守るロオマの神々)」“Lares”は「ラレス」「ラレース「ラーレース」などと音写し、ローマ神話の家屋と家庭の守護神。単数形は“Lar”だが通例複数形(複数の子ら。以下参照)で用いられる。メルクリウス(Mercury)と妖精ラルンダ(Larunda)との二人の息子たちで、元来は下級神であったが、時代とともに力を与えられるようになり、国家や海などの守護神ともなっていった。古代ローマの家庭ではこの小さな人形を家の高いところに置いて崇めるのが習わしとなっていたという。“lares”とも表記する。また、“Penates”も同じローマ神話の神で、「ペナーテース」と音写し、先のラレス神とともに家の守護神であったが、後には国家の守護神ともなった。ペナーテースは、また、食料貯蔵庫の神でもあり、また先祖の霊を表すものでもあった。玄関にはベスタ(Vesta)神の社を作り、その中にペナーテース神の小さな像を入れるのが習わしであったという。正式には“Di Penates”と称する。(以上は孰れも辞書サイト「アルク」の検索に拠る)。] 

 

 一家の宗敎、生きたる信仰としての、祖先禮拜の十分なる意義を了解する事は、今や西洋の人々に取つて困難な事である。吾々は吾がアリヤン民族の祖先が、其死者に就いて如何に感じ、また考へたかを、ただ漠然と想像しうるのみである。併しながら日本の生きたる信仰の内に、吾々は古いギリシヤの敬神の念が、如何なるものであつたかを暗示する多くのものを認めるのである。男にしても、女にしても、一家の各員は、常に靈の監視の下にあると考へて居る。靈の眼は人の一々の行爲を注目し、靈の身はその言葉を聽いて居る。行爲と同樣思想も死者の監視の前には見えて來る、從つて靈の居る處に於ては心は至純でなければならず、精神も制抑を受けなればならぬ。恐らくかくの如き信仰の感化は、たえ間なく何十年間、人々の行爲の上に加へられ、其結果、日本人の性格の美しい方面を作り上げた事と思ふ。併しこの家庭の宗敎には今日何ら嚴酷な處もなく莊嚴な處もない、――フュステル・ド・クウランジュが、特にロオマの祭祀の特徴であつたと考へたやうな嚴格な不易な規律の如きものは少しかない。むしろそれは感謝感情の宗敎であり、死者は實際身體を有して一同の間にあるかのやうに、家族に依つて奉仕されて居るのである。私は思ふ、若しに吾々が何處かギリシヤの都會の過去の生活の内に、一時でも入り得たならば吾々はその家族内宗敎が、今日の日本の家族の祭祀と同樣、快活なものである事を認めるであらうと。また私は想像する、三千年前のギリシヤの子供は、今日の日本の子供のやうに、祖先の靈に供へられた何か甘いものを盜み取る機を覗つて居たに相違ない、そしてギリシヤの兩親は、日本の兩親が、明治の現代に於て、子供をたしなめるやうに――小言に交じへるに敎訓を以つてし、そんな事をすると氣味の惡るい事がある【註】と云つて、注意し、やはり優しくその子供をたしなめたに相違あるまいと。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げで、ポイント落ちである。一行空きを入れた。] 

 

註 死者に俱へられた食物は、後で家の長者が喰べるか、又は順禮に施與された。併し若し子供がそれを喰べると、その子供は生長して記憶力が弱くなり、學者となる事が出來なくなるといふのである。

 

 

The Religion Of
The Home

 

 THREE stages of ancestor-worship are to be distinguished in the general course of religious and social evolution; and each of these finds illustration in the history of Japanese society. The first stage is that which exists before the establishment of a settled civilization, when there is yet no national ruler, and when the
unit of society is the great patriarchal family, with its elders or war-chiefs for lords. Under these conditions, the spirits of the family-ancestors only are worshipped;— each family propitiating its own dead, and recognizing no other form of worship. As the patriarchal families, later on, become grouped into
tribal clans, there grows up the custom of tribal sacrifice to the spirits of the clan-rulers;— this cult being superadded to the family-cult, and marking the second stage of ancestor-worship. Finally, with the union of all the clans or tribes under one supreme head, there is developed the custom of propitiating the spirits of national, rulers. This third form of the cult becomes the obligatory religion of the country; but it does not replace either of the preceding cults: the three continue to exist together.

   Though, in the present state of our knowledge, the evolution in Japan of these three stages of ancestor-worship is but faintly traceable, we can divine tolerably well, from various records, how the permanent forms of the cult were first developed out of the earlier funeral-rites. Between the ancient Japanese funeral customs and those of antique Europe, there was a vast difference,— a difference indicating, as regards Japan, a far more primitive social condition. In Greece and in Italy it was an early custom to bury the family dead within the limits of the family estate; and the Greek and Roman laws of property grew out of this practice. 
Sometimes the dead were buried close to the house. The author of 'La Cite Antique' cites, among other ancient texts bearing upon the subject, an interesting invocation from the tragedy of Helen, by Euripides:— "All hail! my father's tomb! I buried thee, Proteus, at the place where men pass out, that I might often greet thee; and so, even as I go out and in, I, thy son Theoclymenus, call upon thee, father! . . ." But in ancient Japan, men fled from the neighbourhood of death. It was long the custom to abandon, either temporarily, or permanently, the house in which a death occurred; and we can scarcely suppose that, at any time, it was thought desirable to bury the dead close to the habitation of the surviving members of the household. Some Japanese authorities declare that in the very earliest ages there was no burial, and that corpses were merely conveyed to desolate places, and there abandoned to wild creatures. Be this as it may, we have documentary evidence, of an unmistakable sort, concerning the early funeral-rites as they existed when the custom of burying had become established,— rites weird and strange, and having nothing in common with the practices of settled civilization. There is reason to believe that the family-dwelling was at first permanently, not temporarily, abandoned to the dead; and in view of the fact that the dwelling was a wooden hut of very simple structure, there is nothing improbable in the supposition. At all events the corpse was left for a certain period, called the period of mourning, either in the abandoned house where the death occurred, or in a shelter especially built for the purpose; and, during the mourning period, offerings of food and drink were set before the dead, and ceremonies performed without the house. One of these ceremonies consisted in the recital of poems in praise of the dead,— which poems were called shinobigoto. There was music also of flutes and drums, and dancing; and at night a fire was kept burning before the house. After all this had been done for the fixed period of mourning — eight days, according to some authorities, fourteen according to others — the corpse was interred. It is probable that the deserted house may thereafter have become an ancestral temple, or ghost-house,— prototype of the Shintō miya.

   At an early time,— though when we do not know,— it certainly became the custom to erect a moya, or "mourning-house" in the event of a death; and the rites were performed at the mourning-house prior to the interment. The manner of burial was very simple: there were yet no tombs in the literal meaning of the term, and no tombstones. Only a mound was thrown up over the grave; and the size of the mound varied according to the rank of the dead.

   The custom of deserting the house in which a death took place would accord with the theory of a nomadic ancestry for the Japanese people: it was a practice totally incompatible with a settled civilization like that of the early Greeks and Romans, whose customs in regard to burial presuppose small landholdings in permanent occupation. But there may have been, even in early times, some exceptions to general custom — exceptions made by necessity. To-day, in various parts of the country, and perhaps more particularly in districts remote from temples, it is the custom for farmers to bury their dead upon their own lands.

   —At regular intervals after burial, ceremonies were performed at the graves; and food and drink were then served to the spirits. When the spirit-tablet had been introduced from China, and a true domestic cult established, the practice of making offerings at the place of burial was not discontinued. It survives to the present time,— both in the Shintō and the Buddhist rite; and every spring an Imperial messenger presents at the tomb of the Emperor Jimmu, the same offerings of birds and fish and seaweed, rice and rice-wine, which were made to the spirit of the Founder of the Empire twenty-five hundred years ago. But before the period of Chinese influence the family would seem to have worshipped its dead only before the mortuary house, or at the grave; and the spirits were yet supposed to dwell especially in their tombs, with access to some mysterious subterranean world. They were supposed to need other things besides nourishment; and it was customary to place in the grave various articles for their ghostly use,— a sword, for example, in the case of a warrior; a mirror in the case of a woman,— together with certain objects, especially prized during life,— such as objects of precious metal, and polished stones or gems. . . .  At this stage of ancestor-worship, when the spirits are supposed to require shadowy service of a sort corresponding to that exacted during their life-time in the body, we should expect to hear of human sacrifices as well as of animal sacrifices. At the funerals of great personages such sacrifices were common. Owing to beliefs of which all knowledge has been lost, these sacrifices assumed a character much more cruel than that of the immolations of the Greek Homeric epoch. The human victims* were buried up to the neck in a circle about the grave, and thus left to perish under the beaks of birds and the teeth of wild beasts. [*How the horses and other animals were sacrificed, does not clearly appear.] The term applied to this form of immolation,— hitogaki, or "human hedge,"— implies a considerable number of victims in each case. This custom was abolished, by the Emperor Suinin, about nineteen hundred years ago; and the Nihongi declares that it was then an ancient custom. Being grieved by the crying of the victims interred in the funeral mound erected over the grave of his brother, Yamato-hiko-no-mikoto, the Emperor is recorded to have said: "It is a very painful thing to force those whom one has loved in life to follow one in death. Though it be an ancient custom, why follow it, if it is bad? From this time forward take counsel to put a stop to the following of the dead."  Nomi-no-Sukuné, a court-noble — now apotheosized as the patron of wrestlers — then suggested the substitution of earthen images of men and horses for the living victims; and his suggestion was approved. The hitogaki, was thus 
abolished; but compulsory as well as voluntary following of the dead certainly continued for many hundred years after, since we find the Emperor Kōtoku 
issuing an edict on the subject in the year 646
A.D.:—

   "When a man dies, there have been cases of people sacrificing themselves by strangulation, or of strangling others by way of sacrifice, or of compelling the dead man's horse to be sacrificed, or of burying valuables in the grave in honour of the dead, or of cutting off the hair and stabbing the thighs and [in that condition] pronouncing a eulogy on the dead. Let all such old customs be entirely discontinued."— Nihongi; Aston's translation.

   As regarded compulsory sacrifice and popular custom, this edict may have had the immediate effect desired; but voluntary human sacrifices were not definitively suppressed. With the rise of the military power there gradually came into existence another custom of junshi, or following one's lord in death,— suicide by the sword. It is said to have begun about 1333, when the last of the Hōjō regents, Takatoki, performed suicide, and a number of his retainers took their own lives by harakiri, in order to follow their master. It may be doubted whether this incident really established the practice. But by the sixteenth century junshi had certainly become an honoured custom among the samurai. Loyal retainers esteemed it a duty to kill themselves after the death of their lord, in order to attend upon him during his ghostly journey. A thousand years of Buddhist teaching had not therefore sufficed to eradicate all primitive notions' of sacrificial duty. The practice continued into the time of the Tokugawa shōgunate, when Iyéyasu made laws to check it. These laws were rigidly applied,—  the entire family of the 
suicide being held responsible for a case of junshi: yet the custom cannot be said to have become extinct until considerably after the beginning of the era of Meiji. Even during my own time there have been survivals,— some of a very touching kind: suicides performed in hope of being able to serve or aid the spirit of master or husband or parent in the invisible world. Perhaps the strangest case was that of a boy fourteen years old, who killed himself in order to wait upon the spirit of a child, his master's little son.

   The peculiar character of the early human sacrifices at graves, the character of the funeral-rites, the abandonment of the house in which death had occurred.— all prove that the early ancestor-worship was of a decidedly primitive kind. This is suggested also by the peculiar Shintō horror of death as pollution: even at this day to attend a funeral,— unless the funeral be conducted after the Shintō rite,— is religious defilement. The ancient legend of Izanagi's descent to the nether world, in search of his lost spouse, illustrates the terrible beliefs that once existed as to goblin-powers presiding over decay. Between the horror of death as 
corruption, and the apotheosis of the ghost, there is nothing incongruous: we must understand the apotheosis itself as a propitiation. This earliest Way of 
the Gods was a religion of perpetual fear. Not ordinary homes only were deserted after a death: even the Emperors, during many centuries, were wont to 
change their capital after the death of a predecessor. But, gradually, out of the primal funeral-rites, a higher cult was evolved. The mourning-house, or moya, became transformed into the Shintō temple, which still retains the shape of the primitive hut. Then under Chinese influence, the ancestral cult became established in the home; and Buddhism at a later day maintained this domestic cult. By degrees the household religion became a religion of tenderness as well as of duty, and changed and softened the thoughts of men about their dead. As early as the eighth century, ancestor-worship appears to have developed the three principal forms under which it still exists; and thereafter the family-cult began to assume a character which offers many resemblances to the domestic religion of the old 
European civilizations.

   Let us now glance at the existing forms of this domestic cult,— the universal religion of Japan. In every home there is a shrine devoted to it. If the family profess only the Shintō belief, this shrine,  or mitamaya* ("august-spirit-dwelling"),— tiny model of a Shintō temple,— is placed upon a shelf fixed against the wall of some inner chamber, at a height of about six feet from the floor. Such a shelf is called Mitama-San-no-tana, or— "Shelf of the august spirits."    [*It is more popularly termed miya, "august house,"— a name given to the ordinary Shintō temples.]    In the shrine are placed thin tablets of  white wood, inscribed with the names of the household dead. Such tablets are called by a name signifying "spirit-substitutes" (mitamashiro), or by a probably older name signifying "spirit-sticks.". . .  If the family worships its ancestors according to the Buddhist rite, the mortuary tablets are placed in the Buddhist household-shrine, or Butsudan, which usually occupies the upper shelf of an alcove in one of the inner apartments. Buddhist mortuary-tablets (with some exceptions) are called ihai,—a term signifying "soul-commemoration." They are lacquered and gilded, usually having a carved lotos-flower as pedestal; and they do not, as a rule, bear the real, but only the religious and posthumous name of the dead.

   Now it is important to observe that, in either cult, the mortuary tablet actually suggests a miniature tombstone — which is a fact of some evolutional interest, though the evolution itself should be Chinese rather than Japanese. The plain gravestones in Shintō cemeteries resemble in form the simple wooden ghost-sticks, or spirit-sticks; while the Buddhist monuments in the old-fashioned Buddhist graveyards are shaped like the ihai, of which the form is slightly 
varied to indicate sex and age, which is also the case with the tombstone.

   The number of mortuary tablets in a household shrine does not generally exceed five or six,— only grandparents and parents and the recently dead being thus represented; but the name of remoter ancestors are inscribed upon scrolls, which are kept in the Butsudan or the mitamaya.

   Whatever be the family rite, prayers are repeated and offerings are placed before the ancestral tablets every day. The nature of the offerings and the character of the prayers depend upon the religion of the household; but the essential duties of the cult are everywhere the same. These duties are not to be neglected under any circumstances; their performance in these times is usually intrusted to the elders, or to the women of the household.*

[*Not, however, upon any public occasion,— such as a gathering of relatives at the home for a religious anniversary: at such times the rites are performed by the head of the household.]

   Speaking of the ancient custom (once prevalent in every Japanese household, and still observed in Shintō homes) of making offerings to the deities of the cooking range and of food, Sir Ernest Satow observes: "The rites in honour of these gods were at first performed by the head of the household; but in after-times the duty came to he delegated to the women of the family" (Ancient Japanese Rituals). We may infer that in regard to the ancestral rites likewise, the same transfer of duties occurred at an early time, for obvious reasons of convenience. When the duty devolves upon the elders of the family — grandfather and grandmother — it is usually the grandmother who attends to the offerings. In the Greek and Roman household the performance of the domestic rites appears 
to have been obligatory upon the head of the household; but we know that the women took part in them.

   There is no long ceremony, no imperative rule about prayers, nothing solemn: the food-offerings are selected out of the family cooking; the murmured or 
whispered invocations are short and few. But, trifling as the rites may seem, their performance must never be overlooked. Not to make the offerings is a possibility undreamed of: so long as the family exists they must be made.

   To describe the details of the domestic rite would require much space,— not because they are complicated in themselves, but because they are of a sort unfamiliar to Western experience, and vary according to the sect of the family. But to consider the details will not be necessary: the important matter is to consider the religion and its beliefs in relation to conduct and character. It should be recognized that no religion is more sincere, no faith more touching than this domestic worship, which regards the dead as continuing to form a part of the household life, and needing still the affection and the respect of their children and kindred. Originating in those dim ages when fear was stronger than love,— when the wish to please the ghosts of the departed must have been chiefly inspired by dread of their anger,— the cult at last developed into a religion of affection; and this it yet remains. The belief that the dead need affection, that to neglect them is a cruelty, that their happiness depends upon duty, is a belief that has almost cast out the primitive fear of their displeasure. They are not thought of as dead: they 
are believed to remain among those who loved them. Unseen they guard the home, and watch over the welfare of its inmates: they hover nightly in the glow of 
the shrine-lamp; and the stirring of its flame is the motion of them. They dwell mostly within their lettered tablets;— sometimes they can animate a tablet,— change it into the substance of a human body, and return in that body to active life, in order to succour and console. From their shrine they observe and hear what happens in the house; they share the family joys and sorrows; they delight in the voices and the warmth of the life about them. They want affection; but the morning and the evening greetings of the family are enough to make them happy. They require nourishment; but the vapour of food contents them. They are exacting only as regards the daily fulfilment of duty. They were the givers of life, the givers of wealth, the makers and teachers of the present: they represent the past of the race, and all its sacrifices;— whatever the living possess is from them. Yet how little do they require in return! Scarcely more than to be thanked, as the founders and guardians of the home, in simple words like these:—"For aid received, by day and by night, accept, August Ones, our reverential gratitude.". 
. .  To forget or neglect them, to treat them with rude indifference, is the proof of an evil heart; to cause them shame by ill-conduct, to disgrace their name by bad actions, is the supreme crime. They represent the moral experience of the race: whosoever denies that experience denies them also, and falls to the level of the beast, or below it. They represent the unwritten law, the traditions of the commune, the duties of all to all: whosoever offends against these, sins against the dead. And, finally, they represent the mystery of the invisible: to Shintō belief, at least, they are gods.

   It is to be remembered, of course, that the Japanese word for gods, Kami, does not imply, any more than did the old Latin term, dii-manes, ideas like those which have become associated with the modern notion of divinity. The Japanese term might be more closely rendered by some such expression as "the Superiors," "the Higher Ones"; and it was formerly applied to living rulers as well as to deities and ghosts. But it implies considerably more than the idea of a disembodied spirit; for, according to old Shintō teaching the dead became world-rulers. They were the cause of all natural events,— of winds, rains, and tides, of buddings and ripenings, of growth and decay, of everything desirable or dreadful. They formed a kind of subtler element,— an ancestral aether,— universally extending and unceasingly operating. Their powers, when united for any purpose, were resistless; and in time of national peril they were invoked en masse for aid against the foe. . .   Thus, to the eyes of faith, behind each family ghost there extended the measureless shadowy power of countless Kami; and the sense of duty to the ancestor was deepened by dim awe of the forces controlling the world,— the whole invisible Vast. To primitive Shintō conception the universe was filled with ghosts;— to later Shintō conception the ghostly condition was not limited by place or time, even in the case of individual spirits. "Although," wrote Hirata, "the home of the spirits is in the Spirit-house, they are equally present wherever they are worshipped,— being gods, and therefore ubiquitous."

   The Buddhist dead are not called gods, but Buddhas (Hotoké),— which term, of course, expresses a pious hope, rather than a faith. The belief is that they are only on their way to some higher state of existence; and they should not be invoked or worshipped after the manner of the Shintō gods: prayers should be said for them, not, as a rule, to them.* [*Certain Buddhist rituals prove exceptions to this teaching.] But the vast majority of Japanese Buddhists are also followers of Shintō; and the two faiths, though seemingly incongruous, have long been reconciled in the popular mind. The Buddhist doctrine has therefore modified the ideas attaching to the cult much less deeply than might be supposed.

In all patriarchal societies with a settled civilization, there is evolved, out of the worship of ancestors, a Religion of Filial Piety. Filial piety still remains the supreme virtue among civilized peoples possessing an ancestor-cult. . . .  By filial piety must not be understood, however, what is commonly signified by the English term,— the devotion of children to parents. We must understand the word "piety" rather in its classic meaning, as the pietas of the early Romans,— that is to say, as the religious sense of household duty. Reverence for the dead, as well as the sentiment of duty towards the living; the affection of children to parents, and the affection of parents to children; the mutual duties of husband and wife; the duties likewise of sons-in-law and daughters-in-law to the family as a body; the duties of servant to master, and of master to dependent,— all these were included under the term. The family itself was a religion; the ancestral home a temple. And so we find the family and the home to be in Japan, even at the present day. Filial piety in Japan does not mean only the duty of children to parents and grandparents: it means still more, the cult of the ancestors, reverential service to the dead, the gratitude of the present to the past, and the conduct of the individual in relation to the entire household. Hirata therefore declared that all virtues derived from the worship of ancestors; and his words, as translated by Sir Ernest Satow, deserve particular attention:—

   "It is the duty of a subject to be diligent in worshipping his ancestors, whose minister he should consider himself to be. The custom of adoption arose from the natural desire of having some one to perform sacrifices; and this desire ought not to be rendered of no avail by neglect. Devotion to the memory of ancestors is the mainspring of all virtues. No one who discharges his duty to them will ever be disrespectful to the gods or to his living parents. Such a man also will be faithful to his prince, loyal to his friends, and kind and gentle to his wife and children. For the essence of this devotion is indeed filial piety."

   From the sociologist's point of view, Hirata is right: it is unquestionably true that the whole system of Far-Eastern ethics derives from the religion of the household. By aid of that cult have been evolved all ideas of duty to the living as well as to the dead,— the sentiment of reverence, the sentiment of loyalty, the spirit of self-sacrifice, and the spirit of patriotism. What filial piety signifies as a religious force can best be imagined from the fact that you can buy life in the East— that it has its price in the market. This religion is the religion of China, and of countries adjacent; and life is for sale in China. It was the filial piety of China that rendered possible the completion of the Panama railroad, where to strike the soil was to liberate death,—where the land devoured labourers by the thousand, until white and black labour could no more be procured in quantity sufficient for the work. But labour could be obtained from China—any amount of labour—at the cost of life; and the cost was paid; and multitudes of men came from the East to toil and die, in order that the price of their lives might be sent to 
their families…. I have no doubt that, were the sacrifice imperatively demanded, life could be as readily bought in Japan,—though not, perhaps, so cheaply. Where this religion prevails, the individual is ready to give his life, in a majority of cases, for the family, the home, the ancestors. And the filial piety impelling such sacrifice becomes, by extension, the loyalty that will sacrifice even the family itself for the sake of the lord,—or, by yet further extension, the loyalty that prays, like Kusunoki Masashigé, for seven successive lives to lay down on behalf of the sovereign. Out of filial piety indeed has been developed the whole moral power that protects the state,—the power also that has seldom failed to impose the rightful restraints upon official despotism whenever that despotism grew dangerous to the common weal.

   Probably the filial piety that centred about the domestic altars of the ancient West differed in little from that which yet rules the most eastern East. But we miss in Japan the Aryan hearth, the family altar with its perpetual fire. The Japanese home-religion represents, apparently, a much earlier stage of the cult than that which existed within historic time among the Greeks and Romans. The homestead in Old Japan was not a stable institution like the Greek or the Roman home; the custom of burying the family dead upon the family estate never became general; the dwelling itself never assumed a substantial and lasting character. It could not be literally said of the Japanese warrior, as of the Roman, that he fought pro aris et focis. There was neither altar nor sacred fire: the place of these was taken by the spirit-shelf or shrine, with its tiny lamp, kindled afresh each evening; and, in early times, there were no Japanese images of divinities. For Lares and Penates there were only the mortuary-tablets of the ancestors, and certain little tablets bearing names of other gods— tutelar gods. . .  The presence of these frail wooden objects still makes the home; and they may be, of course, transported anywhere.

   To apprehend the full meaning of ancestor-worship as a family religion, a living faith, is now difficult for the Western mind. We are able to imagine only in the vaguest way how our Aryan forefathers felt and thought about their dead. But in the living beliefs of Japan we find much to suggest the nature of the old Greek piety. Each member of the family supposes himself, or herself, under perpetual ghostly surveillance. Spirit-eyes are watching every act; spirit-ears are listening to every word. Thoughts too, not less than deeds, are visible to the gaze of the dead: the heart must be pure, the mind must be under control, within the presence of the spirits. Probably the influence of such beliefs, uninterruptedly exerted upon conduct during thousands of years, did much to form the charming side of 
Japanese character. Yet there is nothing stern or solemn in this home-religion to-day,— nothing of that rigid and unvarying discipline supposed by Fustel de 
Coulanges to have especially characterized the Roman cult. It is a religion rather of gratitude and tenderness; the dead being served by the household as if they were actually present in the body. . . .  I fancy that if we were able to enter for a moment into the vanished life of some old Greek city, we should find the domestic religion there not less cheerful than the Japanese home-cult remains to-day. I imagine that Greek children, three thousand years ago, must have 
watched, like the Japanese children of to-day, for a chance to steal some of the good things offered to the ghosts of the ancestors; and I fancy that Greek parents must have chidden quite as gently as Japanese parents chide in this era of Meiji,— mingling reproof with instruction, and hinting of weird possibilities.*

[*Food presented to the dead may afterwards be eaten by the elders of the household, or given to pilgrims; but it is said that if children eat of it, they will grow
with feeble memories, and incapable of becoming scholars.]
 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (30) 迷子札の図

M768

図―768

 

 東京(他の大都会でも同様であろうが)では子供に、その着物の下に、その子の名と、家の名と、住所とを書いた小さな木の札をまとわせる。巡査は単に迷子の襟に手を入れ、この札を引き出し、そして即座にその子を心配している母親のところに返す。図768はドクタア竹中が、子供であった時に身につけていた札を示す。

[やぶちゃん注:この迷子札の「第九番官生口」というのが住所らしい(竹中の幼名はこの裏の方に記されているものらしい)が、「官生口」というが分からぬ(当時の竹中兄弟の住んでいたのは根岸(現在の日暮里)と思われる)。「竹中周則」は竹中兄弟の父であるから、「女」は妻の謂いで、「竹中ひさ」が兄弟の実母と考えられる。

「ドクタア竹中」底本では「ドクタア〔?〕竹中」と石川氏の疑問注が入る。この竹中は多出する宮岡恒次郎の兄竹中成憲(竹中八太郎 元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)であるが、明治八(一八七五)年に慶応義塾に入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学して、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となっている。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めたことは既に注した。無論、この時はまだ医学部の学生ではあるが、英語も達者でモースも信頼しており、既に本書を書いている時点では医師(ドクター)となっているであるから、私はそれほどおかしいとは思わない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (29) 家内安全御守札の図

M767

図―787

 

 有名な寺院を訪れると、僧侶がお寺の名前とその他の字とを書いた紙片や、時としては木の札をくれる。これ等の符牒は、伝染病や悪い影響を避けるために、家の入口の横に取りつける。図787は男体山のお寺で出すこれ等の符牒の一つで、長さ五インチである。

[やぶちゃん注:このお守り、モースは寺と言っているが、これは日光二荒山(ふたらさん)神社の男体山山頂にある奥宮のそれではあるまいか?

 スケッチの字を翻刻すると(一部類推。□は判読不能)、中央に、

 

    明治□□年□□ □

 八大

男體山禅頂家内安全

 天□

    七月七日 大口源十郎

 

 「禅頂」は「ぜんちょう」で、禅宗とは関係ない(語源は或いは関係があるかも知れぬ)。「山の頂上」、特に「霊山の頂上」を指す語で、山岳信仰や修験道に於いて霊山で修行することを「禅定(ぜんじょう)」といい、ここ禅頂までの修行の道筋を「禅定道」とも称する。

 右の一行の上の部分は年号と年と干支のように見えるのであるが、一見、「二三年」に読めるものの、それでは時系列に合わず、それ以前の年号では当該しそうなものもない。因みに明治十三(一八八〇)年は庚辰(かのえたつ)、明治十四年なら辛巳(かのとみ)、この前年明治十五年なら壬午(みずのえうま)(私には数字の二字目は「三」よりも「五」に見えるのであるが)、この明治十六年なら癸未(みずのとひつじ)であるが、どの干支も残念ながら筆字には読めない。最後の離れた字は「符」のようには見える。

 左の氏名の名の部分は飽くまで推測ではある。以上、識者の御教授を乞うものである。

「五インチ」十二・七センチメートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (28) 書写練習用の紙

M766

図――766

 

 子供が石盤の代りに使用するものに就ては、すでに述べるところがあった。子供は大きな筆をその目的に使用して、漢字を書くことを習い始める。紙を閉じた本の、より大きいのもよくあるが、六インチに九インチの大きさのものが、石盤の代用品である。これ等の紙に大きな字を書き、それを何度も何度も上から書く。ここに書いた本には、三十二葉あるが、その紙の一面のみが使ってある。新しく書いた字は、前日の乾いた墨の上に、はっきりと見える。図766はこれ等の本の外見である。

[やぶちゃん注:冒頭の箇所は「第二十五章 東京に関する覚書(15)の『早い朝飯の後で、子供は学校へ行き、六、七冊の本に字を書かねばならぬ。一冊に四十頁、一頁に大きな字を四つ書く。これ等の頁には、何度も何度も書くのだが、乾いた墨の上に、濡れた墨が明瞭に見える』と云う箇所を指すか。他にもあったようにも思われる。後で発見し次第、追加する。

「六インチに九インチ」横十五・二四×縦二十二・八六センチメートル。どこの誰が、こんなものをスケッチに残そうとするだろう。誰が当時は高価な写真に撮ろうとするするだろう。だからこそこうして辛くもモースによって稀有のそれとしてここにあることを我々は感謝せねばならぬと私は思うのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (27) 矢立・墨壺

M765

――765

 

 矢立といわれる装置(図765)は、我国の万年筆の役目をつとめる。これは通常金属製で、筆を入れる筒があり、その上端にはそれと直角に、墨汁をひたした綿を入れる容器がついている。人は数個の字を書くに足る墨を、筆につける事が出来る。この様な品物で見受ける芸術的の細工は、刀の鍔その他の刀の金属的な装飾に比して、殆ど遜色が無い。意匠は数限り無くある。矢立は帯にさし込み、墨汁入が、それがすべり落ちることを防止する。大工は木造で、墨をひたした容器と、紐をまきつけた輪から成る道具を持っているが、紐はのばしたり、まき込んだりする時に、綿の中を通過するようになっている。紐の一端には錐がついていて、大工は紐を引き出し、錐を板にとめて、我国の大工が白墨の線を引くような場合、その紐をピンとはねて基線をつける。これははっきりした、黒い、継続性のある線をつけるから、我国の大工もこの道具を使用したら、よかろうと思う。

[やぶちゃん注:後半は墨壺の解説である。「錐」は原文“an awl”で突き錐(ぎり)・錐(きり)のことであるが、これは墨壺の糸の先に附いている「軽子(かるこ)」と呼ばれる木製の取っ手のついたピン状の固定器を指す。一応、「きり」と訓じておく。それにしてもモースにしてここにその墨壺のスケッチを配さないのは、あなた、如何にも残念だと思いますよね? はいはい! ちゃんと“Japanese Homes and Their Surroundings”の方に残しておますがな! をご覧あれ!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (26) 刀鍛冶・収集家・細工・筆記用具

M764

図―761

 

 図761は、東京にいる刀鍛冶を、ざっと写生したものである。これに関する覚書は無く、今になっては何も思い出すことが出来ぬ。助手の使用する鉄槌は、非常に変な形をしている。

 

 私はすでに日本人が蒐集を好むことを述べ、彼等が集める品物に就て簡単に書いた。それを書いた後、私は他の多くの蒐集を見たがそれ等は陶器、磁器、布地、刀剣、刀剣の柄や鞘についている細部品、署名、貨幣、石器玉、錦欄――これは切手蒐集に於るが如く、その小片を帳面にはりつける――、絵、画、書物、古い原稿、戸棚や僧侶の机のような古い家具、墨、硯屋根瓦、漆器、金属の装飾品等である。自然物を集める人は極めてすくない。もっとも昆虫、見殻、植物を蒐集する人も、数名、私はあってはいる。

[やぶちゃん注:「絵、画、」原文“pictures, drawings,”“picture”は彩色がを含め、筆を寝かせて塗った作品、“drawing”は単なる図面を含め、筆を立てて線画として描いた作品の違いであるようである。]

 

 日本の細工物を調べる外国人は、それが如何なる種類のものであっても、その表面のいたる所が、同じ様に完全に仕上げてあることに、直ちに印象づけられる。青銅の像でも、漆塗の常でも、印籠でも、根付でも、底部が目にふれる面と同様に、注意深く、そして正確に仕上げてある。また彫刻した昆虫の腹部や、動物の彫像の基部が、解剖学的な正確さで仕上げてあるのに、驚かされる。この、仕事に対する忠実さのいい例は、ある家族が、その家具を動かす時に見られる。勿論家具は多くはないが、而も簞笥や、低い机や、漆塗の戸棚や箱やその他が、積まれたのを見る人は、米国に於る同様な家具積み馬車との対照に気がつく。よしんば富豪の家のものであっても、かかる荷はかなり乱雑に見えるものであるが、日本では、貧乏人の家から出た荷でも、キチンとしている。

[やぶちゃん注:個人的にこの最後の引っ越し荷物の東西の違いは秀抜な観察と思う。この後には有意な空行がある。]

 

 

 日本の子供――これに関しては全国民がそうだが――は、鉛筆も、白墨も、クレヨンも、ペンも液体のインクも持っていず、固い墨の一片に水をつけて何等かの容器――普通石の硯――内にインクを自分でつくる丈である。漆器あるいは木造の書き物箱には、硯が一面入っており、その両側にはそれで物を書く筆や、紙切小刀や、墨や、水を入れる小さな容器やを置く、狭い場所がある。水入には二つの小さな穴があいていて、その一つを指でおさえ、もう一つの穴から流れ出る水を加減する。墨がすでに出来ていない時には、水の数滴を硯にたらし、充分黒くなるまで墨をこする。そこで初めて手紙を書くのだが、いう迄もなくこれは縦に、巻紙に書き、一行一行と書くに従って紙の巻きを戻して行くから、手紙の長さによっては五、六フィートにもなることがある。次にそれを引きさき、またまき、手をのばして平にし、最近使用されるようになった細長い封筒に入れる。非常に腹を立てて、すざまじい見幕で手紙を書こうとする人でも、いざ書き始めるという迄には、充分冷静になる丈の時間がある。

[やぶちゃん注:この最後のケースの観察も秀抜!

「五、六フィート」一・六~一・八メートル程。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (25) 謠の稽古(続)

 私はすでに数回謡の稽古をした。私の耳はかなり敏感なのであるが、いまだに継続する二つの調子を覚えることも、如何なる調子を思い出すことも出来ない。日本の音楽が、如何に我国の音楽と異っているかを知るのは、興味深いことであった。彼等の写本音楽には、楽譜もなければ、何事に関する指標もなく、只短い線を水平に引いたり、上を向けたり、下を向けたり、あるいは上下に波動させたりして、抑揚を示すものがある丈である。私の稽古は全然諳誦によるので、先生が先ず一行を歌い、私がそれに従って歌う。殆ど始るや否や、私は先生の歌いようが、そのたびごとに、すこしずつ違っていることに気がついた。時にある調子が嬰音にされ、時に同じところが半音下る。私の考では、謡は唱歌ではなく、ヨークシャの田舎者の会話に似た、抑揚のある朗誦である。数年前有名な生理学者の兄弟であるドクタア・フィリップ・ピー・カーペンタアは、彼がヨークシャの農民達の間で耳にした会話を、実際、楽譜にした。彼はそれを私に歌って聞かせ、私はそれをしよっ中覚えている。私が今習いつつある音楽は、短い線を、上へ向けたり、下へ向けたり、平にしたりして、書いたものである。私の先生は始める時、朗々たる声を出すためには、下腹部を拡げていなくてはならぬといった。これは絶間のない緊張で、中中どうして、容易なことではない。各種の日本の音楽――声楽でも器楽でも――を聞く外国人は、先ず面食い、次に大笑をする。古い音楽、それは日本人の目に涙を浮ばせるようなものが歌われる席に列し、そこで聴衆中の英国人が軽侮的な笑声を立てるのを聞いたりすると、誠に恐縮にたえぬ。東洋には、変った音楽がある。興味を刺戟する音楽もあれば、思わず足で拍子を取るような音楽もあるが、日本の音楽は、外国人にはまるで判らないのである。彼等の絵画芸術が、初めは我々には不可解であるが、それに親しみ、それを研究するに従って、追々その持つ抜んでた長所が見えて来ると同様に、日本の音楽も研究すれば、我々が夢にも見ぬ長所を持っているのだろうと、私は思う。この故に私は、日本の音楽の一つなる謡曲を学び、有名な先生の梅若氏についたのである。コーネル大学出身の矢田部教授は、外国からいろいろな事柄を取り入れることを心から賛成し、またそれ等が優秀であることを認めている一方、日本の音楽が我々のよりも優れていることを主張している。

[やぶちゃん注:「諳誦」「あんしょう」。暗誦に同じい。

「嬰音」半音上がること。シャープ(#)。

「半音下る」変音。フラット()。

「ヨークシャ」エミリー・ブロンテの「嵐が丘」で知られる、イングランド北部の田園風景で知られるヨークシャー(Yorkshire)。現行ではイースト・ライディング・オブ・ヨークシャー、ウェスト・ヨークシャー、ノース・ヨークシャー、サウス・ヨークシャーの四行政区画から成る。

「有名な生理学者の兄弟であるドクタア・フィリップ・ピー・カーペンタア」イギリスの貝類研究家で牧師であったフィリップ・ピアソール・カーペンター(Philip Pearsall Carpenter 一八一九年~一八七七年)。彼は実はモースの生涯を決定づけた重要な人物である。一九五九年五月八日の朝、既に貝類コレクターとして知られていた当時二十一歳の青年モースを故郷ポートランドに彼が訪問、その月の末二十六日にはカーペンターから思いがけない手紙が舞い込む。彼はモースにとって雲の上の存在であった博物学者ルイ・アガシー(Louis Agazzis 一八〇七年~一八七三年)にモースを推薦して呉れ、アガシーも逢いたがっている旨の内容だったからである(因みに一八三八年生まれ)。これによってモースはアガシーの助手となって、正規の博物学の道を歩むこととなったのである。フィリップ・ピアソール・カーペンターなくしてモースはなかったといってもよいし、モースが日本へ来ることもなかったとも言えるのである(出逢いの箇所は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」を参考にした)。なお、彼の「有名な生理学者の兄」というのはイギリスの生理学者ウィリアム・ベンジャミン・カーペンター(William Benjamin Carpenter 一八一三年~一八八五年)のことで、この兄ベンジャミンは当時のイギリスの心霊ブームの中で降霊によるとされた「テーブル・ターニング(table turning)」(本邦の「こっくりさん」の濫觴)を、単なる生理学現象に於ける「観念運動作用(ideo-motor action)」として喝破したことで知られる。

「コーネル大学出身の矢田部教授」既注のモースの東京大学での同僚の植物学者で、「新体詩抄」でも知られる詩人で理学博士の矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)は明治四(一八七一)年に渡米、一年後にコーネル大学に入って植物学を学び、モース初来日の明治一〇(一八七七)年に東京大学初代植物学教授となっている(以前にも注しているが、彼は満四十七で亡くなっているが、これは鎌倉の海での遊泳中の事故死(溺死)である)。]

2016/01/30

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(4) 家族の宗教(Ⅰ)

[やぶちゃん注:長いので、注は各段落の後に配した。英文は最後に纏めて置く。これは以下に続く章でも同様とする。 

 

  家庭の宗教 

 

 宗教上の發展、竝びに社會發展の、大體の徑路には、祖先禮拜の三期が劃され、その各期は一々日本社會の歷史の内に説明されて居る。第一期は一定の文化の成立前、まだ一國の統治者もなく、社會の單位は大きな族長を主とする一族であり、その長者若しくは戰爭の將軍を主君として居た時期である。かくの如き事情の下にあつては、一族の祖先の靈のみが祭られて居た――各一族はその一族の死者を奉祭し、その他の禮拜の形は一切認めなかつたのである。族長を主とする幾多の家族が一緒になつて、部族的氏族を作るに至ると、その氏族の統治者の靈に部族の供御をする習慣が出來て來る――この禮拜が家族の禮拜に加へられ、ここに祖先禮拜の第二期が劃される。最後になつて一人の最高の主長の下に、すべての氏族若しくは部族が統一されると、一國の統治者の靈を奉祭する習慣が出來てくる。この第三の禮拜の形式が、國の當然まもるべき宗教となる、併しこの形式も以前の二つの禮拜に取つて代はるといふのではない、三種の形式は一緒に存立して居るのである。

 吾々の現在の知識の狀態では、日本に於ける祖先禮拜の此三期の發展は、明らかにその跡を辿る事は出來ないが、色々の記錄に依つて、禮拜の永續的な形式が、先づ古い葬式から發達して來たものであるといふ事を、吾々はかなり十分に推斷する事が出來る。古い日本の葬式の習慣と、古いヨオロッパのそれとの間には、大變な相違がある――この相違は日本に關して、其遙かに原始的な社會狀態にあつた事を示すものである。ギリシヤに於ても、イタリヤに於ても、一族の死者は、これを其一族の所有地内に葬るといふのが古い習慣であつた、それで財産に關するギリシヤ、ロオマの法律も、此習慣から出來てきたのである。時には死者は家のすぐ近くに葬られた。『上古都市論』の著者は、此問題に關する古い記錄の中に、ユウリピディスの書いたへレンの悲劇の内から興味ある祈願を引用して居る『喜ばしき哉、吾が父の墳墓よ、吾は幾度も御身に接し得んが爲めに、御身プロテイウスを、人々の過ぎ行く處に葬れり、されば吾が出入する毎に御身の子なる吾セオクリメヌスは、父なる御身を訪るゝなり……』と。然るに古の日本に於では、人々は死の近傍から逃れ去つた即ち一時若しくは恆久的に死人のあつた家を棄てるといふのが永い間の習慣であつて、いづれの時代にあつても、死者を一家の生き殘つて居る人々の居住の近くに葬る事を以つて、好ましいと考へたとは殆ど想像し得られない。日本の或る信賴すべき説に依ると、極古い時代に於ては埋葬といふ事はなかつた、屍はただ寂寞の地に運び去られ、其處で鳥獸の爲すがままに放棄されて居たのだといふ。それは兎に角として、それには埋葬の風が成立して居た時代にあつた古い葬式――異樣にして不思議な、そして一定した文化の慣習とは、何等共通なる所のないその儀式に關する確實な文書上の證明がある。家族の住處は、最初一時的でなく、恆久に死者のものとし棄てられてしまつたと信ずべき理由がある、そして住處はその構造の極めて簡單な木造の小舍であつたといふ事實から考ヘると、以上の想像は必らずしも出來ない事ではない。兎に角屍は喪期と稱する一定の時期の間、その人の死んで今や棄てられて居る家か、若しくは特にその目的の爲めに建てられた小舍の内に置かれたのである、そしてその喪期の間、飮食物の供御が死者の前に置かれ、屋外で儀式が營まれたのである。その儀式の一は死者を讃美した詩の朗讀であつた、――その詩を誄(しのびごと)と呼んだ。笛、太鼓の音樂及び舞踊もあつた、夜になると家の前に篝火がたかれた。以上の事が一定の喪期の間――或る典據に依ると八日であるが、また十四日といふものもある――執り行はれた後、屍は葬られるのであつた。この棄てられた家は、それから以後祖先を祭る社、若しくは靈屋となるといふのもあり得る事である――則ち神道の宮の原型である。

[やぶちゃん注:「上古都市論」これは前章「古代の祭祀」に既出のフュステル・ド・クーランジュの『古代の都市』(前章の戸川の訳文のママ)を指す。同一訳書内で書名の訳を変えるのは翻訳家としては絶対にやってはなら禁則であろう。こういうことをすると、「戸川先生、実は一人で訳してないんじゃない?」といういらぬ憶測まで湧いてきてしまうからである。

「死者は家のすぐ近くに葬られた」本邦でもアイヌや繩文人は、夭折した子どもを葬るに、甕に逆さまに入れ、住居の入口に埋めたことが知られている。

「ユウリピディスの書いたへレン」既出既注のギリシャ悲劇詩人エウリピデスの「ヘレネ」。『トロイア戦争のきっかけとなったヘレネーが、実はトロイアではなくエジプトにおり、夫であるメネラーオスがトロイア戦争から帰国の途で合流し、共にスパルタへ帰るという物語が描かれる』(ウィキの「ヘレネ(エウリピデス)」より引用)。

「プロテイウス」ウィキの「プローテウス」によれば、『ギリシア神話の海神』として知られるが、『別の神話では、プローテウスはエジプト人の王としても登場する』とあり、『パリスがヘレネーを誘拐したとき、ゼウスの意を受けたヘルメースがヘレネーを奪い返してエジプトに連れて行き、エジプト人の王プローテウスに保護させた。パリスは雲で作られたヘレネーの似姿をヘレネーだと思い込んでイーリオスへ赴いた。トロイア戦争のあと、メネラーオスはプローテウスのもとでヘレネーを見いだすまで、奪還したヘレネーが雲の幻であることに気づかなかった』。『一方、ヘロドトスは『歴史』の中で、エジプト王プローテウスについて、ペロースから王位を継承したメンピス出身の王で、プローテウスの後を継いだのはランプシニストである、と述べている』(以下に出るセオクリメヌスではないということになる)とある。私は「ヘレネ」を読んだこともなく、ギリシャ神話にも疎いのでかく半可通の注しか附すことが出来ない、悪しからず。

「セオクリメヌス」テオクリュメノス。ギリシア神話の神として、「オデッセイ」の中でオデッセイウスの帰還とペネロペの求婚者の死を予言する同名の預言神がいるが、英文のウィキの「Theoclymenusを見ると、どうもそれとは関係がない(プローテウスが海神ではなくエジプトの王として出てくるように、である)ように読める。

「誄(しのびごと)」音は「ルイ」で、松原朗氏の論文「誄と哀辭と哀策――魏晉南朝における誄の分――(PDF)によれば(漢字は正字法であるが、一部表記出来ないものは現行の字体に代えた。注記号は省略した。傍点「ヽ」は太字とした)。

  《引用開始》

 誄は古い來歷を持つ文體であり、その現存する最古のものは魯の哀公が孔子に贈ったものまで遡るとされる。その誄とは何かについては、 次の『禮記・曾子問』の一節に附された鄭玄の注が要を得た 説明となっている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

賤不誄貴、幼不誄長、禮也。唯天子、稱天以誄之。諸侯相誄、非禮也。【鄭玄注】誄之爲言累也。累舉其平生實行。爲誄而定其諡、以稱之也。

鄭玄の注によれば、「誄の意味は、累積である。死者の生前の行いを累積して述べる。誄を作って、諡(おくりな)を定め、それによって故人を稱する」のである。

誄は葬禮において、遺奠(出棺葬禮)の際に讀み上げられるものであり、葬禮の行列では掲げられる旌(はた)に記され、埋葬では棺に被されるものだった。曹植の「武帝誄」に「敢揚聖德表之素旗。乃作誄曰」、また「文帝誄」に「何以述德、表之素旃。何以詠功、宣之管絃。乃作誄曰」、潘岳「楊荊州誄」に「敢託旒旗、爰作斯誄」等とあるのは、誄が旌に記されたことを物語るものである。また『文心雕龍』に「誄者累也。累其德行、旌之不朽也」とある「之を不朽に旌あらはすなり」とあるのは、やはり旌に誄を書き記したことを言うものである。

 誄は、後漢から魏晉にかけて、「詩賦碑誄」の稱があるように、數ある文體の中でも特に重要な地位を占めていた。

   《引用終了》

とその起源が説明されてある。本邦での「しのびごと」(上代は「しのひこと」と清音)は「偲(しの)ひ言(こと)」が原義であって、貴人が亡くなった際にその死者の前でその人の生前の功徳(こうとく)を讃え、哀悼の意を含めて奉斎する言辞、一種の和歌を指し、単に「誄(るい)」「誄詞(るいし)」とも呼んだ。後には天皇の大葬の礼や皇族の葬儀に用いられる雅楽の国風歌舞(くにぶりのうたまい)の一つの名ともなっている。

「一定の喪期の間――或る典據に依ると八日であるが、また十四日といふものもある――」「八日」というのは、例えば記紀に出る天稚彦(あめわかひこ)のために喪屋(もや:八雲も次の段で記すが、死者の近親らがある一定期間、遺骸とともにか、或いはそのすぐ近くに、蘇生や再生の可能性、屍体変相による死の事実の確認と認識、また、死の穢れを無関係な人々に感染させない目的のため、追悼追懐を含んで忌み籠りの生活をするために新たに設けられた建物を指す。貴人に対して行われた以下に出る「殯(もがり)」のための「殯宮(もがりのみや)」も同一である)を造って殯りし、父や妻が八日八夜に亙って嘆き悲しんだというのを指すのであろう。天稚彦は葦原中国平定に於いて天国津玉神(あまつくにたま)の子として登場する。ウィキの「アメノワカヒコ」によれば、『葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命(あめのほひ)が』三年経っても『戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた』。『しかし、アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで』八年経っても『高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに勧め、彼は遣わされた時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた』。『その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にしたタカミムスビは、「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、彼は死んでしまった』。『アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て殯をした。シタテルヒメの兄の味耜高彦根命も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見』(あいみ:現在の美濃市の南西部の長良川西岸地区)『の喪山だという』とある(下線やぶちゃん)。但し、服喪三年とか十三ヶ月とか五十日或いは四十九日とか一ヶ月というのは聴くが、「十四日間」というのは私は聴いたことがない。根拠も不詳である。識者の御教授を乞う。

「靈屋となるといふのもあり得る事である――則ち神道の宮の原型である」「靈屋」は「宮」(みや)「の原型である」という叙述と対応させるなら、「れいをく(れいおく)」ではなく「みたまや」(御霊屋)と訓ずるのがよい。「宮」は「御屋(みや)」を語源とすると思われるから、強ち、そう読んで音通させたからといって、私の恣意的な牽強付会とは言われぬように思う。因みに、平井呈一氏もここを『御霊屋(みたまや)』と訳しておられる。]

 古い時代に――何時といふ事は解らぬが――死者のあつた場合、喪屋(弔ひの家)を建てる風が起つて來、埋葬に先き立つてこの喪屋で奉祭が營まれた。埋葬の仕方は極めて筒單であつて、墳墓といふ文字の示すやうなものもなく、墓石もなかつた。只だ土饅頭が墓穴の上につくられ、その大いさは死者の身分に依つて大小を異にして居た。

[やぶちゃん注:「喪屋」は「もや」。前段の私の「一定の喪期の間――或る典據に依ると八日であるが、また十四日といふものもある――」の注の最初の下線部を参照されたい。]

 死者のあつた家を去るといふ風は日本民族の祖先の遊牧の民であつたといふ説と一致する、かくの如き風は、古いギリシヤ及びロオマの文化の如き固定した文化とは到底兩立しがたいもので、ギリシヤ及びロオマの埋葬に關する風俗は、少許の土地の恆久の占有を豫想せしめるものである。併し極古い時代にあつてすら、この一般の風に對する例外もあつたであらう――必要上から來た例外が。則ち今日でも日本の各所に恐らくは特に寺から遠く隔つて居る地に於ては、農家がその死者を自分の土地に葬る風もあるのである。

[やぶちゃん注:「日本民族の祖先の遊牧の民であつたといふ説」一時期流行った東北ユーラシア系騎馬民族が南朝鮮を支配してやがては日本列島に侵入して四世紀後半から五世紀にかけて大和地方の在来の王朝を支配乃至それと合作して大和朝廷を立てたとする騎馬民族征服王朝説のようなものであろう。主に戦後、東洋史学者江上波夫が提唱した仮説であるが、現在は殆んど顧みられることはない。詳しくは参照したウィキの「騎馬民族征服王朝説」を閲覧されたい。]

 ――埋葬後定まつた間隔を置いて、墓邊で儀式が營まれ、飮食物が靈のために捧げられた。位牌が支那から入つて來、眞實な家族の禮拜が成立するに至つても、埋葬の場所で供御を捧げる風はなくならなかつた。この風は今日に至るまで殘つて居る――神道の儀式にも佛教のにも、たとへば毎春帝室の使者は神武天皇の御陵に、鳥、魚、海草、米、酒、と云つたやうな昔からの同じ供物を捧げる、則ちこれは二千五百年前の帝國の建立者の靈に捧げられたものなのである。併し支那の感化を受けた時代以前にあつては、一族はその死者を禮拜するに、ただ喪屋若しくは墓邊に於てのみしたものと察せられる、そして靈は不思議な地下の世界に入り得たと同時に、特にその墳墓にのみ住んで居たと考へられて居たのである。靈はその食物以外に他のものをも必要としたと考へられた、さればその靈の用途のため種々な物品が佐たとへば武者の場合ならば劍、婦人の場合ならば鏡、と云つたものが――生前特に大事にして居た品物、貴金屬とか寶玉の如きものと一緒に墓場に置かれるといふ風であつた。靈がその存生中身體のために要したと同じ種類の奉仕を、影の中にあつても要求したと假定されて居る祖先禮拜のこの時期にあつては、動物の生贄と共に人間の生贄のあつた事も當然であると考へるべきである。顯著な人物の葬式にあつては、此種の生贄は普通の事であつた。或る種の信仰があつて、――それに關する一切の事はもう解らなくなつて居るが――そのために、この種の生贄は、ギリシヤのホオマア時代の犧牲よりも遙かに殘忍なものとなつて居た。生贄となる人々は(馬やその他の動物も犧牲になつたかどうかそれは明瞭でない)墓の周圍に環狀をなして頭まで土中に埋められ、鳥類の嘴、野獸の齒にかけられて朽ちるのであつた。この形の犧牲に用ひられた文字――人籬、則ち人間の垣――は一度に大勢の犧牲のあつた事を語るものである。この風習は約千九百年前垂仁天皇に依つて癈止されたが、それは上古の風習であつたと『日本紀』にも記されて居る。垂仁天皇の弟君なる大和彦命の墓の上につくられた土饅頭の内に埋められた犧牲者の泣く聲をあはれと思はれ、天皇は次のやうに宣はれたと記してある、『存生中に愛しんだ人々を強いて死んだものに従つて行かしめるのは、甚だあはれな事である。よしそれは古いならはしであるにせよ、若しそれが惡風であるならば、何の理由あつてそれに從ふべきであらう。今より後は死者に跟いて行く事は癈止するやう協議せよ』と。宮廷の貴紳であつた野見宿禰――相撲の恩人として奉祭されて居る――は、その當時生贄の代りに、土で造つた人や馬の形を以つてする事を申し上げ、その申し出は嘉納されたのであつた。人籬は則ち廢されたのであるが、併し任意的に竝びに強制的に死者に跟いて行つた事は正しく幾百年の後までもつづいて行つた、それは西曆紀元六百四十六年に、孝德天皇がこの問題に就いて勅令を出して居られるのでも解る、――

[やぶちゃん注:「毎春帝室の使者は神武天皇の御陵に、鳥、魚、海草、米、酒、と云つたやうな昔からの同じ供物を捧げる」現在も毎年四月三日に宮中及び幾つかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向して奉幣を行なっている、とウィキの「神武天皇」にはある。

「二千五百年前の帝國の建立者」本書は明治三七(一九〇四)年刊行であるが、同年は皇紀二五六四年。因みに正確な皇紀二千五百年は天保一一(一八四〇)年である(一九〇四年から「二千五百年前」は紀元前五九六年。神武天皇六十五年。紀元前六世紀初頭であるから実際には繩文時代晩期に相当する。以降、非科学的な上代以前の数値換算は行わない)。因みに「皇紀」は神武天皇即位の年を元年と定めた日本の紀元で皇紀元年を西暦紀元前六六〇年とするもので、明治五(一八七二)年に太陽暦の導入に伴い、太政官布告第三四二号によって制定された。正式には「神武天皇即位紀元」と称する。なお、この科学的根拠も文献学的立証も何もない皇紀が一般に多用されるようになったのは専ら昭和に入ってからで、しかも国威発揚を目的とした第二次世界大戦中の非常に短い期間でしかない。

「ギリシヤのホオマア時代の犧牲」ホメロスの時代かどうかは分からないが、ウィキの「人身御供」には、『古代のアテネでは』、二人の浮浪者を一年の間、『公費で養い、祭の日に他の市民の罪や穢れを』この二人に何らかの形で転移させ、『最後に街の外の崖の上から突き落として、市民全体の贖罪とするという習慣があった』とある(但し、これは出典が示されていないので要注意)。

――人籬、則ち人間の垣――」原文は“―hitogaki, or "human hedge,"—”「人籬」「人垣」は上代に於いて貴人の陵墓を囲むように多くの人を垣のように並べて生き埋めにし、殉死させたことを称する言葉である。ウィキの「殉死」によれば、『考古学的に見て具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている』とあり、また、五世紀には『古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている』。『中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の卑弥呼が死去し』、『塚を築いた際』には百余人の『奴婢が殉葬された』とあるとする。

「この風習は約千九百年前垂仁天皇に依つて癈止された」これは「日本書紀」(本文の『日本紀』のこと)の「垂仁(すいにん)紀」に基づく。「垂仁天皇の弟君なる大和彦命」倭彦命(やまとひこのみこと)は記紀等に伝わる第十代崇神天皇の皇子で第十一代垂仁天皇の同母(御間城姫(みまきひめ))弟とする。垂仁天皇二十八年十月五日に倭彦命が薨去、同十一月二日(高貴な人物の殯りは長い)に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られたが、「日本書紀」によれば、『その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出した』とし(引用はウィキの「倭彦命」に拠るものなので注意されたい)、同書垂仁天皇三十二年七月六日条には垂仁天皇の皇后であった日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去、『その葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになった』とある(ここはウィキの「日葉酢媛命」に拠るものなので注意されたい。「野見宿禰」は後注する)。

『存生中に愛しんだ人々を強いて死んだものに従つて行かしめるのは、甚だあはれな事である。よしそれは古いならはしであるにせよ、若しそれが惡風であるならば、何の理由あつてそれに從ふべきであらう。今より後は死者に跟いて行く事は癈止するやう協議せよ』「日本書紀」「卷第六 垂仁紀」には以下のように出る(複数の書籍及び電子データを総合して私が勝手に訓じた)。

   *

二十八年、冬十月丙寅(ひのえとら)朔庚午(かのえうま)、天皇母弟倭命(やまとひこのみこと)薨(かむさ)ります。
十一月丙申(ひのえさる)の朔(ついたち)丁酉(ひのととり)、倭彦命を身狹桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬(はふ)りまつる。是(こ)こに於いて近く習(つかへまつ)りし者を集(つど)へて、悉(ことごと)くに生(い)きながらにして陵(みさざき)の域(めぐ)りに埋(うづ)み立(た)つ。日(ひ)を數(へ)て死(し)なずして、晝に夜に泣き吟(いさ)つ。遂に死(まか)りて爛(く)ち臭(くさ)りぬ。犬・烏、聚(あつま)り噉(は)む。天皇(すめらみこと)、此の泣き吟(いや)つる聲を聞きたまひ、心に悲傷(かなしび)有(ま)します。群卿(まへつきみ)に詔(みことのり)して曰はく、
「夫れ。生(い)けるときに愛(うつく)しびし所を以ちて亡(すぎ)にし者に殉(したが)はしむるは、是れ、甚だ、傷(いたましきわざ)なり。其れ、古への風(のり)と雖も、良からずは、何ぞ從はむ。今より以後(のち)、議(はか)りて殉(したがひしぬること)を止やめよ。」
と。

   *

「野見宿禰――相撲の恩人として奉祭されて居る――」「のみのすくね」と読む。垂仁天皇の御世の廷臣。出雲出身。天皇の命によって当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとって投げ殺し、以後、朝廷に仕えた(これより相撲の神とされる)。埴輪代替案の進言により「土師臣(はじのおみ)」の姓を与えられたとされる。「日本書紀」には以下のように出る(前注に同じく複数のデータを総合して私が勝手に訓じた)。

   *

三十二年秋七月甲戌(きのえいぬ)の朔(つひたち)己卯(つちのとう)、皇后日葉酢媛命【一つ云はく、日葉酢根命(ひばすねのみこと)なり。】薨(かむさ)ります。臨葬(はぶりまつ)らむとして、日、有り、天皇(すめらみこと)、群卿(まへつきみ)に詔(みことのり)して曰く、
「死(しにひと)に從ふの道,前(さき)に可(よ)からずと知れり。今し、此の行(たび)の葬(もが)りに奈何(いか)にか爲(せ)む。」
と。是(ここ)に野見宿禰、進みて曰さく、
「夫れ、君王(きみ)の陵墓(みささぎ)に生きたる人を埋(うづ)み立つるは、是れ、良からず。豈(あ)に後葉(のちのよ)に傳ふること得む。願はくは、今し便りなる事を議(はか)りて奏さむ。」
と。則ち、使者(つかひ)を遣して、出雲國の土部(はにべ)壱佰人(ひとももひと)を喚(め)し上げ、自ら土部等(ら)を領(つか)ひ、埴(はにつち)を取り、人・馬と種々(くさぐさ)の物の形とに造作(つく)り、天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)りて曰(まお)さく、
「今より以後(のち)、是の土物(はに)を以つて生ける人に更易(か)へ、陵墓(みささぎ)に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ。」
と。天皇(すめらみこと)、是(ここ)に大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔(みことのり)して曰はく、
「汝(いまし)が便りなる議(はかりごと)、寔(まこと)に朕が心に洽(かな)へり。」
と。則ち、其の土物(はに)を、始めて日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓に立つ。仍(よ)りて、是の土物(はに)を號(なづ)けて埴輪(はにわ)と謂ふ。亦は立物(たてもの)と名(い)ふ。仍りて、令(のり)を下して曰はく、
「今より以後(のち)、陵墓(みささぎ)に必ず是の土物(はに)を樹(た)てよ。人をな傷(やぶ)りそ。」
と。天皇(すめらみこと)、厚く野見宿禰の功(いさをし)を賞めたまひ、亦、鍛地(かたしところ)を賜ふ。即ち、土部職(はじのつかさ)に任(つ)けたまふ。因りて本姓(もとのかばね)を改めて土部臣(はじのむらじ)と謂ふ。是れ、土部連(はじのむらじ)等(ら)、天皇(すめらみこと)の喪葬(みはぶり)を主(つかさど)る縁(ことのもと)なり。所謂(いはゆる)、野見宿禰は、是れ、土部連等が始祖(はじめのおや)なり。

   *

「嘉納」「かのふ(かのう)」と読み、目上の人が喜んで贈り物や進言などを受け入れることを指す。

「任意的」自発的。

「跟いて」「ついて」と訓ずる。

「西曆紀元六百四十六年に、孝德天皇がこの問題に就いて勅令を出して居られるのでも解る」「日本書紀」によれば、第三十六代孝徳天皇(推古天皇四(五九六)年~白雉五(六五四)年 在位:孝徳天皇元(六四五)年~白雉五年)は、大化の改新後の大化二(六四六)年三月二十二日、大化薄葬令を規定、王臣と庶民の墓制を定め、『前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止され』(ウィキの「殉死」より引用)、祓(はらえ:神道に於ける罪や穢れ・災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術を指す)に『まつわる諸々の愚俗を禁じ』(ウィキの「孝徳天皇」より引用)ていることを指す。]

[やぶちゃん注:以下の訳引用は底本では全体が三字下げで、ポイントも小さい。最後の「『日本記』、アストン飜譯」は底本では二行割注である。その後に訓点附原文が続くが、これは底本では五字下げである。なお、ここではまず白文を示し、その後に、〔 〕で底本の訓点に従って書き下したものを掲げた。更にその後に一部の読みを私が歴史的仮名遣で附し(一部を濁音化させた)、送り仮名の一部も訂したり加えたりして、句読点も変更、記号を増補して整序したものをも[ ]で再掲した。なお、「アストン」はイギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。彼の「日本書紀」(以下の「日本記」)の翻訳はNihongi:Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697(ロンドン・一八九六年刊)。

 『人の死ぬ時、人々が自らを絞殺し、若しくは犠牲にするために、他人を絞殺するか、或は死者の馬を強いて犧牲にし、或は死者をあがめて、貴重品を墓に埋め、若しくは髮をきり、股を刺し、(さういふ姿で)死者を讃稱するやうな事があつた。斯樣な舊習は全くやむべし』――『日本記』、アストン飜譯。

凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人。藏寶於墓。或爲亡人。斷髮刺股而誄。如此舊俗。一皆悉斷

〔凡人死亡(しぬ)るの時。若は經(はな)きて自(みづか)ら殉(したが)ひ。或は人を絞(はな)きて殉(したか)はしめ。及強(あなが)ちに亡(し)したる人の馬を殉かへ。或は亡人の爲に。寶ものを墓に藏(をさ)め。或は亡人爲に。髮を斷(き)り股を刺(さ)して誄(しのひこと)す。如此舊(ふる)き俗(しわさ)。一に皆悉に斷(や)めつ。〕

[凡(およ)そ、人、死亡(しぬ)るの時、若(も)しくは、經(はな)ぎて自(みづか)ら殉(したが)ひ、或いは人を絞(はな)ぎて殉(したが)はしめ、及び強(あなが)ちに亡(し)にたる人の馬を殉(した)がへ、或いは亡(し)にたる人の爲に、寶(たからもの)を墓に藏(をさ)め、或いは亡にたる人の爲に。髮を斷(き)り、股を刺(さ)して、「誄(しのびこと)」す。此(か)くのごとき舊(ふる)き俗(しわざ)は、一(い)つに皆、悉(ことごと)に斷(や)めよ。]

 強制的の犧牲及び世間の風習に關しては、此勅令はその望みの通りの直接の結果を得た事と思ふ、併し任意的の犧牲に就いては斷然と鎭壓されたものではなかつカ。武權の擡頭と共に、別の殉死といふ、死せる主君に從つて行く風習が起つて來た――刀を以つての自殺である。それは北條執權の最後の人なる高時が自殺をなし、その臣下の多數のものが、主人に從つて行くために腹切りなるものに依つて、生命を失つた時、則ち一三三三年頃に始つたのであつた。果たしてこの事件がさういふ風を實際に作り上げたものであるか、それは疑の餘地がある。併し十六世紀頃には殉死は侍の間に名譽と考へられた風習になつて居た。忠義な家臣は主君の死後、その靈界の旅中、伴をして行くために、己を殺す事を以つて自分の本分と心得て居た、それ故佛教の一千年間の教へも、此犧牲を以つて本分と心得る原始的の考へを拭ひ去る力はなかった。この慣習は德川將軍の時代までもつづいたので、家康はそれむやめさせる法律を制定した。この法律は勵行された――自殺者の全家族は、殉死の場合、その責任を負はされたのである、併しそれでもこの習慣は明治年代の初め以後、可なり經つまでは根絶されなかつた。私の居た時分ですらも、なほその名殘があつた――極めて感動的な種類のもので、主人、夫、兩親の、目に見えない世界に居るその靈に仕へ、その助けをする事の出來るやうにとの望みから、自殺をするのである。恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である。

[やぶちゃん注:「北條執權の最後の人なる高時が自殺をなし、その臣下の多數のものが、主人に從つて行くために腹切りなるものに依つて、生命を失つた時、則ち一三三三年頃に始つたのであつた。果たしてこの事件がさういふ風を實際に作り上げたものであるか、それは疑の餘地がある」やや言い方に問題がある。「北條」得宗家「最後の」「執權」であり、実質上の幕府の支配の権能を有していたという点では事実上の「北條執權の最後の人」とは言えるが、構造的には「北條執權の最後の人」ではない。北条高時は第十四代であったが、正中三(一三二六)年二月十三日に病気で辞任して出家したため、第十五代には北条貞顕(金沢流)が同年三月十六日に就任した。ところが彼は北条氏得宗家家督継承を巡る内管領の長崎氏と外戚安達氏の「嘉暦(かりゃく)の騒動」で生命の危機感を感じ、たった十日で辞任、同年四月二十四日、北条守時(赤橋流)が外れ籖を引くことになった「最後の人」として第十六代執権となっている。「北條最後の執權」と言った場合は厳密には名目上、この守時である。またこれは鎌倉幕府滅亡の元弘三年元弘五月二十二日(一三三三年七月四日(高時は享年三十一)の出来事で、幕府方は現在の宝戒寺の奥にあった東勝寺(現在は廃寺で遺跡は発掘後に保存のために土中に埋め戻されてある)での自決を指しているのであるが、これを切腹のルーツとする見解を私は鎌倉史研究の中で、明確に聴いた記憶がない。切腹自体はこれより以前に非定形的な止むを得ない緊急自裁方式としてはあったと思われるが、現在のような武士の名誉の覚悟を持ったもとして様式化固定化されるのは、これよりはずっと後のことである。ウィキの「切腹」にも、『日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝』(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年)『が最初に行ったと言われている。また藤原保輔(ふじわらのやすすけ)が』永延二(九八八)年に『事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのかは明確ではない』。『近世以前の事例を見ると、一部の例外を除いて、切腹は敵に捕縛され、斬首されることを避けるための自決に限られている。戦に敗れたから即自決というわけではなく、地下に潜り(逃亡し、本当の身分を伏せて生きること)再起を図ろうとする武士も大勢いた。また、壮絶な切腹は畏敬の念を持たれることもあるが、切腹自体は自決のひとつに過ぎず、特に名誉と見られることもなかった。武士への死刑執行も全て斬首刑で、身分ある武士といえども敵に捕縛されれば斬首刑か、監禁後に謀殺であった』とし、室町時代の明徳三(一三九二)年に『管領細川頼之に殉死した三島外記入道(『明徳記』)以来、平時に病死した主君に対して殉死を行う風習が始まった』。『戦国時代後期から徐々に切腹の概念が変わってきた。豊臣秀吉が高松城を攻め、講和条件として城主・清水宗治の命を要求した際に、宗治は潔く切腹して果てた。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まった』(但し、ここには要出典要請がかけられてある)。『その秀吉は、豊臣秀次』や『千利休らに対し、刑罰として切腹を命じている。また、関ヶ原の戦い、大坂の役での敗軍武将への死刑執行は全て斬首刑であるが、古田織部・細川興秋など豊臣方与力と見なされた者は切腹させられている』とある。

「家康はそれむやめさせる法律を制定した」これは八雲の何かの誤認と思われる。家康は個人的に殉死に批判的ではあったが(谷口論文佐賀藩の殉死にみる「御側仕え」の心性(PDF)に『徳川家康は慶長一二(一六〇七)年、尾張国清須城主松平忠吉に家臣三人が殉死したことを知って、制止しなかった秀忠を叱責したが、その二代将軍秀忠にも、また三代将軍家光にも殉死者はみられた。仙台藩では伊達政宗の死去に際して殉死した者が一五人、又殉死(殉死した者にその家来が殉死する行為)が五人いた。熊本藩では細川忠利に一九人が殉死した』とある)、法によって殉死を禁じてはない。同じくウィキの「切腹」に『江戸時代初期には松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した』、この流行は第三代将軍徳川家綱が「武家諸法度」(寛文令)を公布する際、寛文三(一六六三)年五月に『「天下殉死御禁断の旨」』を出して『殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが』、寛文八(一六六八)年、『奥平昌能が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で二万石を削られる処断を受け実効を持つことになった第五代将軍徳川綱吉が「武家諸法度」(天和令:天和三(一六八三)年)で初めて、殉死禁止の明文化を行っている(以上下線はやぶちゃん)。貞享元(一六八四)年に『成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる』。天保一一(一八四〇)年には『上州沼田藩士の工藤行広が『自刃録』を著す。徳川瓦解の』三十年前に当たり、『武士道が地に落ちていたことを嘆いて書いた切腹マニュアルであった』。その後、『死刑執行方法としての切腹は』、明治六(一八七三)年に『廃止され、以後、日本における死刑では絞首刑が用いられているが、切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人等の間に見られ、切腹を名誉ある自決とする思想は残った』とある。

「恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である」これは小泉八雲が明治三〇(一八九七)年九月に刊行した「仏陀の国の落穂」(Gleanings in Buddha-Fields)の中の「大阪」の「三」の末尾に記されている。引用の許容範囲内と判断し、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳「仏の畑の落穂」から引用させて戴く。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]あるいはまた、主人思いの丁稚の恩愛の情が、世にもめずらしく極度に発揮されたとか、そういった例がちょいちょいある。つい昨年なども珍しい事件があった。ある商人の一人息子(十二歳の少年)が、悪疫のはやった時に、コレラにかかって死んだ。そこの店の十四になる丁稚が、つねづね、その死んだ息子をかわいがっていたが、葬式の出たあとまもなく、その丁稚は汽車往生をしたのである。丁椎は一通の書置をのこしていた。それをできるだけ直訳してみると、次のようになる。原文には、自己代名詞がひとつも使ってない。――

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げである。]

 「ながながお世話に相成り、御高恩はことばにつくしがたく候。ただいまこれより相果て申すべきこと、なんとも不忠の至りに存じ候へども、かならず来世に生まれかはり、御恩報じ仕るべく候。ただ心にかかるは、妹おのとのことに御座候。なにとぞ同人にお目をおかけくだされたくひとへに願い入り奉り候。
                間野由松
   御主人様」
 
   《引用終了》

言わずもがなであるが、「汽車往生」は鉄道自殺である。]

2016/01/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (24) 大雪の景その他

 ここ一週間、私は助手と一緒に、蜷川の陶器に関する原稿のままの書物何冊かを、翻訳するのに多忙を極めた。彼の家族は、これが別に役に立つものとも思えぬのに、売ろうとしない。これ等の中には、いろいろと私に教える点が多く、そして蜷川が如何にたゆまず陶器を研究したかが、よく判る。

 

 上流の婦人にあっては、靨(えくぼ)は美しいものとされぬ。靨は笑に伴い、笑は上品でないからである。だが下女だと、靨のある、太った、ずっしりした身体つきが、好意を以て見られる。

 

 一八八三年二月二日には、数年来かつてなかったような大雪が降り、地上一フィート近く積った。私を大学まで曳いて行くのに、二人かかった。子供達は素足に下駄をはき、学校へ行って何か乾いた物をはく為、足袋を袂に入れて登校した。人力車夫その他の労働者が、雪と雪解水との中で、素足素脚でいるのは、奇妙に見える。第一回の降雪の直後に、第二回のが、激しい風を伴って襲来した。雪は深い吹きだまりをなし、メイン州にあっても、この暴風雪は「どえらいこと」と思われるであろう。とにかく二日間、往来を歩くことが出来なかったのだから。この嵐の後で気温が下ったので数日間、雪が大きな吹きだまりをなして残りつつある。

[やぶちゃん注:「一八八三年二月二日」金曜日。

「一フィート」三〇・四八センチメートル。

「メイン州」モースはメインMaine)州ポートランド(Portland生まれで、ポートランドは厳しい冬に代表される土地柄で降雪もある。]

 

 日本人の芸術趣味が、彼等が雪でつくるいろいろな物にあらわれているのは面白いことである。非常に一般的なのに達磨がある。これは仏陀の弟子でよく絵にあり、金属や陶器でつくられ、象牙できざまれる。また沢山の橋や弓形門がつくられ、提灯をつけたのもあった。私はまた、小径や東屋や石灯籠やその他のある、箱庭も見た。餅の大きな球をつくり、形の小さいのを順々に積み上げたものも、沢山ある。二つのとがった岩の頂上から頂上へ藁繩をかけ、これから藁がぶら下っている絵は、極めて普通に見るところであるが、それも雪で見事につくってあった。また波間の旭も出ていた。波は品よく刻み込み、太陽は洗い盥に雪を押し込んで、大きな乾酪に似た円盤にしたものである。これ等や、その他の多くの意匠が、往来を人力車にのって行く者の注意を引く。歩き廻る人々の多く、殊に女子供は、竹の杖を持って、ころばぬ用心をする。彼等はこのような深い雪にあうと、完全に手も足も出ぬらしく、また市当局も、除雪すべく、何等の努力をしないらしい。

[やぶちゃん注:「乾酪」チーズ。石川氏はルビを振っていないから、「かんらく」と読んでいる可能性も高い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (23) プエル・エテルヌス――永遠の少年――松浦佐用彦の墓を詣でる

M763

図―763

 

 今日私は上野の墓地を、松浦の墓をさがして歩き、それを見出した(図763)。私は私の書いた碑銘が、どんな風に刻まれたか、見たかったのである。それは頭文字で奇麗に刻んであった。墓石は黒ずんだ粘板岩であった。学生の一人が書いた日本語の碑銘は、考え深く、意味深長である【*】。

[やぶちゃん注:「上野の墓地」谷中霊園。

「松浦」モースの教え子のプエル・エテルヌス松浦佐用彦(まつうらさよひこ 安政四(一八五七)年~明治一一年(一八七八)年七月五日)。是非、第十一章 六ケ月後の東京 34 松浦佐用彦葬儀の私の渾身の注を見て戴きたい。現存する同墓碑の写真(上谷桜池氏のサイト「谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー」のソースフリー画像)も掲げてある。]

 

 

* ロウエル・インステイテュートで講演をしている間に私はこの碑銘を読んだ。すると、あの愛すべき人ウィリアム・ジェームスは大きに興味を持ち、私にそのうつしを一つくれといった。

[やぶちゃん注:「ロウエル・インステイテュート」原文“Lowell Institute”。ボストンにあったアメリカの実業家で慈善家ジョン・ローウェル(John Lowell, Jr. 一七九九年~一八三六年)記念研究所。当時、ここの公開講座は非常な人気を博し、モースの師ルイ·アガシや作家チャールズ・ディケンズやサッカレーなども講義している(英語版ウィキの“John Lowell, Jr. (philanthropist)”を参考にした)。

「ウィリアム・ジェームス」アメリカのプラグマティズムの哲学者で心理学者・生理学者としても知られるウィリアム・ジェームズ(William James 一八四二年~一九一〇年)。「意識の流れ」の理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」などにも影響を与え、西田幾多郎や夏目漱石・有島武郎といった本邦の近代思想家や文学者への影響も計り知れない。幻想小説の傑作「ねじの回転」で知られる小説家ヘンリー・ジェームズ(Henry James 一八四三年~一九一六年)は彼の実弟である。]

 

 

 「彼の姓は松浦で名は佐与彦。土佐の産である。若くして学校に入り生物学の研究に身をゆだねた。精励して大きに進むところがあった。明治九年七月五日、年二十二歳、熱病で死んだ。彼の性質は明敏で人と差別をつけず交ったので、すべての者から敬慕された。彼の友人達が拠金してこの碑を建て、銘としてこれを書く。

 

  胸に懐いていた望はまだ実現されず

  彼は悄れた花のように倒れた

  ああ自然の法則よ!

  これは正しいか、これは誤っているか?

 

 正五位日下部東作記。東京大学有志建。明治十二年七月八日。」

[やぶちゃん注:「明治九年」は西暦一八七六年であるが、お判りのように誤記で(これではモース来日前になってしまう)、佐用彦はモースがアメリカへの一時帰国から戻った二ヶ月半後の明治十一年七月五日にチフスのために亡くなった。モースは「熱病」とするが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に従う。なお、同書には松浦の『家は零落していて、母に死亡通知を送ったが、返事はなかったという』とある。

「年二十二歳」松浦の生年は嘉永六(一八五三)年で(磯野前掲書)、死亡時は数えで二十六であったが、理由は不明ながら(恐らくは級友らに年上と思われたくなかったためと思われる)、彼は年齢を詐称していた。

「悄れた」「しおれた」と読む。

「日下部東作」書家日下部鳴鶴(くさかべめいかく 天保九(一八三八)年~大正一一(一九二二)年)127日)。東作は本名。ウィキ日下部鳴鶴によれば、中林梧竹(なかばやしごちく)・巌谷一六(いわやいちろく)とともに「明治の三筆」と『呼ばれる近代書道の確立者の一人で』、『中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり』、『それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、現在でも彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある』。『鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は』三千人を『数えたと言われる。また揮毫した碑は』千基とも『言われ、全国に数多く見られる』とある。彦根藩士であった『田中惣右衛門の次男として生まれる。初名は八十八、のちに東作と改め』た。安政六(一八五九)年二十二歳の時、『同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる』。しかし安政七(一八六〇)年三月七日に『藩主の井伊直弼が桜田門外で暗殺されたため』に、禄は大幅に減って生活が困窮した。しかし、それでも上京し、『書道に専念する決意をしている』。『維新後、新政府が成立すると徴用され太政官に勤める。内閣大書記官となるが当時仕えていた大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺された』(明治一一(一八七八)年五月十四日)『ことを機に退官し』て『書道に専念』することとなった(青山霊園にある彼の筆になる大久保の神霊を祀るための勅命碑「大久保公神道碑」は鳴鶴の最高傑作とされる)。『特定の人物に師事してはいない。しかし』、二十代の頃には、『既に亡くなっていた貫名菘翁』(ぬきなすうおう 安永七(一七七八)年~文久三(一八六三)年):儒学者・書家・画家。江戸後期の文人画家の巨匠。特に書は「幕末の三筆」として称揚される)の書に傾倒しており、四十代の頃には、『来日していた金石学者楊守敬のもとで碑学、六朝書、篆隷の研究を行っている』。『その後は中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し多くの弟子を育てる。また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。その一方で碑文の揮毫や雑誌の刊行、名跡研究などに努めた』とある。

 ここまでの松浦墓参のパートは、私自身が松浦佐用彦に思い入れがあることから、原文を注も含めて総て以下に示しておく(最初のコーテション・マークの閉じる(”)は原本自体に存在しない)。

   *

 

   I went through the cemetery at Uyeno to-day and inquired for Matsura's grave and found it (fig. 763). I was curious to see how the cutting of the epitaph I wrote had been done. It was finely engraved in capital letters, the gravestone a dark slate. The Japanese epitaph, written by one of the students, is thoughtful and significant. 1

 His family name Matsura and given name Sayohiko. His native province Tosa. Early entering college he devoted himself to study of biology. By diligent labor he made considerable progress. On 5th day, 7th month, of Meiji 9th, aged 22, died of fever. His nature was actively keen; he treated men altogether without discrimination; hence he was lovingly sought by all. His friends subscribed to erect this monument and this is written for the inscription : —

 

 The cherished hope is not yet fulfilled,

             As the faded flower he fell,

             Alas, the law of Nature !

             Is it right, or is it wrong?

 

 Inscription by Shogoi Kusakabe Tosaku. Erected by those of Tokyo Daigaku interested, 8th day of 7th month, 12th year of Meiji.

 

 1 In my course of lectures in the Lowell Institute I read this epitaph, and that dear man, William James, expressed great interest in it and asked for a copy.

 

   *]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (22) 雪富士

M762

図―762

 

 最近富士は素晴しい外見を呈している。ここしばらく非常に寒く強い風が吹いていた。富士は麓まで雪で覆われ、ここ二晩、山の背後に沈む夕日は、山腹から雲のように吹き上げられる雪を照した。最も輝かしい黄金の辺を持ち、濃い薔薇色の後光との間に、影絵のように立つ濃鼠色の富士は、著しくも美しい景色であった。富士は東京から直線距離的四十マイルで、私は毎日、大学へ人力車を走らせる途中、その驚く可き景色を楽しむが、毎日、富士は変化する光線、影、雪の効果等で美しくある。図762の上は、富士と夕日に照らされる雪を示し、下は朝日に照らされ、雲の影のあるところを示す。先日の朝、富士は雲の影で黒く見え、影にならぬ場所はギラギラと白く輝いていた。

[やぶちゃん注:「四十マイル」六十四・三七キロメートル。これは過小表現。本郷からの実測では直線で百一キロメートルある。この数値で一致するのは東京都町田市の神奈川県との境である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (21) 右衛門だの左衛門だのという名前

 日本人の個人的名称には、すくなくとも私が名前を集めつつある陶工の間には、吉左衛門とか八左衛門とかいうように「左衛門」とか「右衛門」とかいうので終るのが多い。これ等の名前はそれぞれ「左を衛る門」と「右を衛る門」とを意味する。六兵衛に於るが如き「兵衛」は「兵士の護衛」の意味を持つ。彼等の名前の多くは、家族の先祖に武人があったことを示している。

[やぶちゃん注:「衛門」は律令制に於ける官司で内裏を警護する役目を担った衛門府に由来する。当初は一つであったものが改組・統合・廃止を経、弘仁三(八一一)年に復活配置された際に左衛門府と右衛門府の二つとなったが、ウィキ衛門によれば、『後に衛門府の職掌は検非違使・武家に奪われ、鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していった。しかし官職のなかでもこの衛門府などの武官官職は特に武家に好まれ、専ら武家に対して与えられるようになっていった。室町時代では概ね三管領家の一つである畠山氏の当主が左衛門督に代々任官したため、同家は「金吾家」とも称された。また安土桃山時代の大名である小早川秀秋は中納言の官職とともに左衛門督を兼帯したため、「金吾中納言」と称された。このほか戦国時代には各地に割拠した戦国大名が左衛門少尉を略した「左衛門尉」を受領名として家臣に与え始め(酒井氏で忠次を出した家系など)、江戸時代になると武家官位の制度が確立して、もはや朝廷とはなんの関係もなくこの「左衛門尉」が旗本や御家人などの中級武士に与えられるようになる。江戸町奉行として有名な遠山景元もこれにあたる』とある。即ち、元来は衛門府を退官した人がその事蹟の証しとして自身の名に「右衛門」や「左衛門」を入れて通称として名乗り始め、それが台頭し始めた武士階級の通称へと広汎に広がり、その親がさらに子の名に「衛門」を入れるのが流行、民間へも祖先を武士と誇大虚偽を含めて表明出来る効果もあればこそ夥しく広がった名と考えられる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (20) 子どもの手遊び

 先日二人の子供に版画を見せたが、その時の彼等の行為には興味を持った。彼等は、我国の子供が行うと同じく、順々に並んでいる物を見ると、その数を勘定し始めるのであった。事実、私は日本の子供を見れば見る程、彼等が米国の子供に似ていることを見出す。彼等の遊戯には著しい相違もあるが、而も遊戯の多くは全く同じで、例えば鞠を手で打って地面に打ちつけたり、お手玉を、石の代りに豆を入れた小さな袋を以て遊んだりすることが、それである。この最後の遊戯では、彼等は奇麗にまとめた頭髪を、振り乱しさえする。また子供達は、両手を打ち合わせ、それで膝を叩いて一種の変った音を立て、それを「貨幣」と呼ぶが、我国の子供達も同じことをする。彼等はまた睨み合って、誰が一番長く笑わずにいられるかを見る遊戯もする。高嶺の話によると、子供達は蜜柑を食う時、その皮の切片で浅い盃をつくり、その切片の一端を噛み切って汁の数滴を盃の内にしぼり込み、そして酒を飲む真似をして遊ぶそうである。子供達は、このような品を玩具として使用する、いろいろな方法を持っている。

[やぶちゃん注:『両手を打ち合わせ、それで膝を叩いて一種の変った音を立て、それを「貨幣」と呼ぶ』「おちゃらかほい」のことか? 「貨幣」は原文は“money”であるが、このような呼称は聴いたことがない。識者の御教授を乞う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (19) モース先生、謠を習う

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図―761

 

 今日の午後、私は日本の歌の最初の稽古をした。紹介状を持って私は――というより、私の人力車夫が――浅草南元町九番地に住んでいる、梅若氏の家にたどりついた。彼は能の歌と舞との有名な先生で、彼の家に接して、能の舞台がある。竹中が通弁としてついて来た。我々はお目通りをゆるされた。梅若氏は非常にもてなし振りがよく、外国人が謡を習うということを、よろこんだらしく見えた。竹中は、私がいろいろすることがあるので、すぐ稽古を始めねばならぬのだと説明した。梅若氏は私のために本を一冊持ち出し、私がこれから習う文句を、ゆっくり読んでくれ、私はそれを出来るだけそれに近く書き取った。私は日本風に、両脚を真下にして坐らねばならなかった。この坐り方は、外国人にとっては、初の間は、やり切れぬものであるが、今では私は一時間半、すこしも苦痛を覚えずに、坐っていることが出来る。彼は私の前に、小さな見台を据え、扇子をくれた。これを私は脚の上にのせて、持つのである。彼が一行歌うと私が彼を真似てそれを歌い、そこで彼が次の一行を歌うという風にして、この歌の十一行を歌った。それをこのようにして二度やってから、我々は一緒に歌った。私は彼の声が、如何にも豊富で朗々としていることを知った。また、彼の声は、すべて単一の音調子でありながら、高低や揚音で充ちているのに、私のは、如何につとめても平坦で、単調であるのに気がついた。私は私が行いつつある、莫迦気きった失敗を感じて、居心地悪くも面食い、一月の寒い日であるのに、盛に汗を流した。最後に死者狂になった私は、すべての遠慮をかなぐり棄て、何にしても彼の声音を真似てやろうと決心して、一生懸命でやり出した。私は下腹を力一杯ふくらませ、鼻から声を出し、必要な時には顫音発生装置をかけ、その結果数名の人々が、疑もなく絶望の念にかられて、襖の聞から、このような地獄的な呶鳴り声で、名誉ある場所を冒瀆しつつある外国人を、のぞき見することになった。何はとまれ、私の先生は初めて私の努力に対して賞賛するように頭を下げ、私が最初の稽古を終った時私をほめ、そして、多分はげます積りであったろうと思うが、私に一ケ月もすれば能の演技で歌うことが出来るだろうといった。図761は先生と生徒との態度を示す。私は茶の湯や謡の実際の稽古をして、日本人の見解から、多くの事を知ろうと思うのである。謡の方法は横隔膜を圧し下げ、腹壁を太鼓のようにつっぱらせ、それに共鳴器の作用をさせるにある。だが声を酷使することは甚しく、歌い手は屢々歌っている最中に咳をする位である。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一六(一八八三)年一月二十九日のことで、『この日を含めて五回梅若のもとへ通』ったとある(本文でも「数回」と後述される)。また、『モースは後々までこのとき習った謡を忘れなかったらしく、彼の最晩年に訪れた人々がそのことを記している』(アメリカのセーラムで老生物学者モース先生の謠の声が響いた!)とある。

「日本の歌」原文は“Japanese singing”。以下で“singing”をそう訳している通り、これは所謂、能楽の詞章に曲節をつけた「謠(うたい)」である。

「浅草南元町」現在の台東区蔵前及び桂町・三筋一丁目相当。

「梅若氏」観世流シテ方能楽師五十二世梅若六郎(文政一一(一八二八)年~明治四二(一九〇九)年)。明治五(一八七二)年以降は初世梅若実を名乗った。明治期の能楽復興の功労者で宝生流シテ方能楽師第十六世宝生九郎及び金春流シテ方能楽師桜間伴馬(さくらまばんま)とともに明治三名人と称された名人。モースが彼に入門したことは梅若実自身の日記(公刊本第三巻)に記されてある。

「彼の家に接して、能の舞台がある」梅若六郎はこの浅草南元町の家で生まれている。三浦裕子論文初代梅若実と近代能楽――時代を越えた能役者――(PDF)によれば、慶応元・元治二(一八六五)年四月(この四月七日に改元)、当時は子のなかった六郎(当年満三十七歳)が長女津留子の婿養子として観世銕之丞家四世観世清済の次男源次郎を迎える(後、実に二人の実子(後の初世梅若万三郎と二世梅若実)が生れたため、既に五十三世梅若六郎を相続襲名していた源次郎は観世家に戻って観世清之を名乗り、後の矢来観世家として分家した)『直前に初代実は自宅に稽古用舞台である敷舞台を建てている。この敷舞台のうち』、本舞台の部分は二間四方と定寸の三間より『かなり狭いものであった。正式の能楽を上演することは難しく、初代実はのちに「村芝居にも劣るような始末」』『と安普請を振り返っている』が、梅若家のその舞台は明治四(一八七一)年に『篠山藩旧藩主の青山家の能舞台の譲渡を受け、この敷舞台に取って替わ』ったとある。

「必要な時には顫音発生装置をかけ、」原文は“put the tremulo stop on when necessary,”であるが、この“tremulo”(ママ。原本確認)は“tremolo”であろうから、ここは、

――必要に応じて、(師匠の声を真似んとしてつい)トレモロがちになる声を意識して震えないようにし、――

という謂いではないか? 少なくともド素人の私でも「顫音発生装置」とは訳せない(というより、意味不明、というより、私の考えるのとは反対)ように思うのだが、如何? 大方の御叱正を俟つものではある。

「一ケ月もすれば能の演技で歌うことが出来るだろう」残念ながら、モースはこの十六日後の翌二月十四日に、三度目にして最後の日本を去っている。]

教え子の東京国立博物館のギャラリートーク

――今日が最後。私の教え子なれば是非ご参加あれ。東京国立博物館本館1階エントランス 15:30――

同像の写真は、例えば個人(と思われる)のブログ「TOHAKUMANIA」のこちらがよく撮れている。

僕は昨日聴かせて貰ったが、受験指導で高三の彼と一緒にいろいろな芸術作品を、制服を着て居ない生徒は入室禁止などというお達しのあったおぞましく辛気臭い職員室で痛快にトランスクリプションし合ったのを――懐かしく思い出した――

2016/01/28

プリンセス細胞を盗む夢

この今朝見た夢は……記述せずんば……なるまい。……僕は……誰も指弾してはいない。しかし、STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞 Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cells)なんどという阿呆臭い似非物は――ない――と確かに思う男である――



僕は何處かに忍び込んでゐるのである。
向かうに、蒼白い長方形の遮蔽グラスがあつてその中に何かが在る。

近づく。

圓筒形の輝くサンプルが確かに在る。

……その前には……銀のプレートに

―― Princess cells ――

とゐふ夜光蟲のやうに靑光りする表示が――ある。

しかし、だ――その右横には、かのヴィヴィアン・ウエストウッドの何かを仕込め得る圓盤狀の忌まはしい指輪が竝べてあつたのである。

さうして、その前には、

―― CYANID ――
 
とゐふキャプションの銀板があつた。……僕はサンプルを冷徹に盗みつつも……しかし……その「靑酸」といふ名を氣してゐ、忘れずにゐるのであつた…………

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (18) 名奉行板倉勝重の逸話

 高嶺が私に、第一代将軍の時代の有名な裁判官、板倉に関するよい話を聞かせてくれた。彼は証言を聞く時、衝立の後に坐り、同時に茶を挽いた。石白はまったく重く、茶を適宜にひくためにはそれをゆっくり廻さねばならぬ。彼は偏見を持つといけないので証人の顔を見ぬように衝立の後に坐り、また感情を抑制していなければならなかった。つまり、興奮して、石臼を余り速く廻せば、粉末茶を駄目にして了うからである。

[やぶちゃん注:「高嶺」何度も登場している高嶺秀夫。既注

「第一代将軍の時代の有名な裁判官、板倉」とは初期の江戸町奉行・京都町奉行として活躍した名奉行板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)のこと。ウィキ板倉勝重によれば、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』とある。『板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市小美町)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』永禄四(一五六一)年に『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し』、天正一四(一五八六)年には『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同一八(一五九〇)年には『家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』一千石を給され、『関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の』慶長六(一六〇一)年、三河国三郡に六千六百石を『与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募』、『春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八(一六〇三)年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同一四(一六〇九)年には『近江・山城に領地を加増され』て一万六千六百石余を知行、『大名に列している。同年の猪熊事件』(複数の朝廷の高官が絡んだスキャンダルで、公家の乱脈ぶりが暴露されただけでなく、直後にウィキに述べられているように、江戸幕府による宮廷制御の強化や後陽成天皇の退位の契機ともなった事件である)『では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年からの『大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件』(同年七月二十六日に家康が豊臣氏滅亡を狙って挑発した謀略。豊臣秀頼が家康の勧めで方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中「国家安康」の字句が家康の名を分割し、身を切断する象徴と見做して徳川氏を呪詛するものと指弾、「君臣豊楽」の文字は豊臣家の繁栄を祈願しているとして非難、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させた事件である)『では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった』。元和六(一六二〇)年、『長男の重宗に京都所司代の職を譲った』。『勝重と重宗は奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。その中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものもある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また『板倉政要』も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている』。但し、「板倉政要」の成立は元禄期とされ、『成立の経緯には、名奉行の存在を渇望する庶民の思いがあったと』され、『公明正大な奉行の存在を望む庶民達の渇望が、板倉勝重、重宗という優良な奉行に仮託して虚々実々を交えた様々な逸話を集約させ、板倉政要を完成させた』ものであるとある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (17) モースの茶器鑑定眼畏るべし!

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図―760

 

 先夜私は面白い会へ招かれた。茶の湯の先生の谷村氏が毎月、古い日本の陶器に興味を持つ人々の会をする。それはあてっこする会で、各人が鑑別に困難な品を持って来る。これ等に番号をつけ、あてごと競争をやらぬ一人によって、表に記録される。その方法は、ちょっと変っている。参会者は蠟燭を中心に円くなって坐り、各人、底に自分の名を書いた漆塗の盃を持つ。茶入、茶碗、香合といったような陶器の標本が廻されると、各人はそれを調べ、そこで筆と墨を用いて彼の推察を、漆塗の盃の内側に記し、それを伏せて畳の上に置く。参会者が一人のこらず、彼の推察、或は意見を記すと、主人役は各の名前と意見とを、帳簿に記入する。このようにして我々は沢山の茶入、茶碗その他の検査をした。私が最も多数の正しい鑑定をしたことは、興味があろう。また私の間違が、私一人だけの間違でないことを知つては、うれしく思った。私が高取だといった茶人を、審判官は膳所(ぜぜ)だといった。この名が、それの入っていた箱に書いてあったからである。だが、その箱のもとの内容が破損したり、失われたりした時、その常に丁度具合よく入る代用品を入れることは、非常にちょいちょい行われるから、これは不安全な証拠といわねばならぬ。だが高取と膳所とは非常によく似ている。別の品で高田だといわれたのは、確かにそうでない。私はこの陶器に関しては、かなりしっかりした知識を持っているのだから。このような気持のいい人々に会うことは、興味が深かった。一人は学生、一人は医者、一人は日刊新聞の主筆、一人は有閑階級の紳士、そして主人は陶界鑑定の達人である。私が常に私の漆塗の盃をまっさきに伏せるので、彼等は皆私の決定の早いのに驚きの意を表した。他の人々はかわるがわる品を見、彼等の感情を奇妙な音で示し、変だとか、面倒だとかいい、うーんと唸り、最後の瞬間にきめたことを書く。図760はこの会を急いで写生したものである。

[やぶちゃん注:モースの陶器の鑑定眼、畏るべし!

「茶の湯の先生の谷村氏」この「先生」はモースの師の謂いではなく、広義の茶道の師匠の意味である。先に注したように、モース個人の茶道の師匠は古筆了仲であった。

「高取」既注の福岡の高取焼。グーグル画像検索「高取焼をリンクしておく。

「膳所」膳所焼。現在の大津市膳所で産する陶器。開窯は慶長年間(一五九六年~一六一五年)頃かとされ、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に膳所城主石川忠総が命じて小堀遠州の指導の下に茶器生産が始まった。ウィキ膳所焼には、『茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている』とある。グーグル画像検索「膳所焼」をリンクしておく。素人の私でも確かに似ているように見える。

「高田」これは「こうだ」と読む。熊本県八代市で焼かれる高田焼のことで、八代焼(やつしろやき)とも称する(但し、この当時はこうは呼んでいないものと思う。後述参照)。ウィキ高田によれば、『焼き物には珍しい象嵌を施すところが特徴』で、『文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の』一人で『茶道に造詣の深い豊前小倉藩主・細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた』。寛永一〇(一六三三)年、『忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された』。本記載より後の明治二五(一八九二)年には『窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移した』とある。『初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている』。高田焼の特徴は白土象嵌(はくどぞうがん)にあり、『高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる』とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (16) 地震と凧揚げ

 昨日の朝四時頃、私は突発的で激しい地震に、目をさまさせられた。私の床は地上二フィートの所にあるのだが、而もこの衝動は、棚の陶器を大きにガラガラいわせた程激しかった。まったく、これでは家が潰れるに違いないと思う位であったが、私がはっきり周囲の状況に気がついた時にほ、すでに地震はやんでいた。ドクタア・ビゲロウは旅館の二階にいるが、きっと家が崩潰すると思ったそうである。

[やぶちゃん注:この地震は諸データでは確認出来ないので、大きな被災はなかったものと思われる。

「二フィート」六十一センチメートル弱。]

 

 一月十八日。まだ疾風はやまぬが、大人や子供は紙鳶をあげている。私は二人の男が、六フィート角以上の紙鳶につけた繩に、しがみついているのを見た。紙鳶は確かに我々のよりも強い。さもなくばこんな風で平気でいる訳が無い。日本人は我々以上に紙鳶あげをするので、大人も沢山あげている。
 
[やぶちゃん注:「六フィート角」訳一・八メートル四方。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (15) 好古家西川六兵衛

M758

図―758

 

 私は西川六兵衛という茶人で陶器にかけては中々食えぬ老人を訪問した。「花形装飾薩摩」が三百年も古いものだと思っているのは、この先生である。彼は蜷川、古筆その他あらゆる人の説を否認し、私がすべての証拠が彼とは反対のことを示しているといったら、図758のような顔をした。

[やぶちゃん注:「西川六兵衛」不詳。情報をお持ちの方、御教授下さるとありがたい。

「花形装飾薩摩」底本では直下に石川氏による『〔錦手?〕』という割注が入る。「錦手」は「にしきで」と読み、主に白釉(はくゆう)を施した磁器に不透明な赤釉を中心に緑・黄・紫・青などの透明釉で上絵をつけたもの。古伊万里などで知られるが、薩摩焼では「白薩摩」「白もん」と呼ばれる、現在の日置市の旧東市来町の美山にある苗代川(なえしろがわ)窯で焼かれていた陶器が有名。ここは藩主向けの御用窯で金・赤・緑・紫・黄などの華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手を主とした。元々は「苗代川焼」と呼ばれ、薩摩焼とは名称を異にしていた(後半部はウィキ薩摩焼に拠る)。「三百年も古いもの」とあるから、近代に出来た「京薩摩」ではない(但し、西川にとってはである)。因みに、明治一六(一八八三)年から単純計算で「三百年」前は天正一一(一五八三)年で、薩摩焼は文禄・慶長の役(一五二九年~一五九八年)で朝鮮出兵した薩摩藩十七代藩主島津義弘が八十人以上に及ぶ朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まるから、謂いとしてはおかしくはない。

「蜷川」既に多出している蜷川式胤(にながわのりたね)。但し、この時点で既に故人。]

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図―759

 

 私は西川氏と彼の陶器を見る約束をしたのであるが、家へ行って見ると、風が強いので蔵を封じて了い、それをあける気はしないから、僅かの品しか私に見せることが出来ぬといった。然し彼は戸棚から大きな籠に似た箱を引っ張り出し、その中から若干の陶器の標本を出した。この箱には人が背負うことが出来るように、紐帯がついていた(図759)。

[やぶちゃん注:「背負い箱」である。]

 

 ここ数日間、ひどい風が吹き続き、街頭いたる所で大火事に対する準備が行われつつある。商品は僅かしか陳列して無く、土蔵は半泥で封じられ、人々はいざ封じるという時の用意に、店の前の穴の中や、二階の窓の下のつき出た棚にのっている大きな甕の中の泥を、こねている。恐しい大火や、破壊的な地震のことを思えば、住宅建築があまり進歩しなかったのも無理ではない。一時的の小屋以上のものは、建てても無用である。

[やぶちゃん注:こういう「泥入れの甕」やそれを捏ねている様子、土蔵をそれで封じるさまなど、当時の当たり前の風俗は実は時代劇や明治期を舞台にした映画やドラマなどではまず描かれない。これが明治一六(一八八三)年の、それも異邦人であるモースによって記された眼前の帝都東京の当たり前の風景であることを我々は忸怩たる思いで読まねばならぬと私は思う。]

 

 私の持っている古い本には、古筆家の系図が出ている。十四代にわたって彼等は茶人であり、陶器の専門家であり、古い陶器、書いたもの、懸物の鑑定にかけては、権威者であると見られている。

[やぶちゃん注:「古筆家」先に出た好古家古筆了仲の家は代々の古文書鑑定家の家系で、江戸前期の古筆了佐を初祖とする。「了仲」は古筆別家の名跡。特に徳川中期の鑑定家であった第三世了仲(明歴二(一六五六)年~元文元(一七三六)年:名は守直、通称を務兵衛、初めは清水了因と称し、古筆了任の養子で古筆了伴の門人)は幕府古筆見となっている。個人サイト「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」の古筆家が同家系に詳しい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (14) 日本の門

 日本の門は弱そうに見えるのも多いが、殆ど全部絵画的である。だが、破損したのや、修繕の行き届かぬのを見ることは、稀である。それ等は決して塗って無く、縦の柱は太くて丈夫だが、軽くて薄い板で出来ている。奇妙な、ねじれた小枝の出ている変った形の古い板材を、最も繊細な網代や、美しいすかし彫のある羽目の枠組として使用する。時として、縦に割った竹が、ある種の羽目の中心を形づくる。これ等の構造に魅力を附加するのは、これ等の強いものと軽いもの、荒々しいものと繊細な物との対照である。都会では垣根、壁等に、鄙(ひな)びた効果が見られる。

[やぶちゃん注:以下にモースの“Japanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)の第五章の「門口(かどぐち)とエントランス」の「門口」の図七点を二〇〇二年八坂書房刊の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」から示しておく。図246・247は「都市の邸宅の門口」、図248は「東京近郊にある門口」、図249は「門口」、図250は「田舎の住居の門口」、図251は「田舎風の門口」というキャプションが附されてある(原本から私が訳した)。

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本文の「縦の柱は太くて丈夫だが、軽くて薄い板で出来ている」は、例えばこの引用した図の246・249・250及び248の前面中央部分で判り、「奇妙な、ねじれた小枝の出ている変った形の古い板材」というのは図248の左右の柱の節部分や249の冠木(かぶき:図ではアーチ状の部分)辺りから類出来、「最も繊細な網代や、美しいすかし彫のある羽目」は図246・247・249で判る。「縦に割った竹が、ある種の羽目の中心を形づくる」は、垣根ながらも図248・251で連想出来るし、「強いものと軽いもの、荒々しいものと繊細な物との対照」は図249の両側の葦垣とその冠木の驚くべき原木との組み合わせ方、図250の冠木(というか棟)の飾り(これは棟に何本も渡した竹の横木とその下の鞍状の樹皮を棕櫚繩で縛って屋根本体の固定させ、その繩の縛り目を捩って羽飾り風に棟上に突き上げた独特の「繊細な」手法である)などから読み取れるものと思う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (13) 黒田長溥及び大隈重信邸で会食

 ビゲロウ、フェノロサ、及び私の三人が、黒田侯の家へ食事に招れた。彼は以前、筑前の大名であり、有名な薩摩公の兄弟にあたる。彼は動物、殊に鳥類が非常に好きである。彼は私に、数年前私の蟻に関する講義を聞いてから、彼も蟻の習性を観察したといった。同侯は七十歳に近く、すこし弱っているが、科学的のことに、非常な興味を持っている。彼は大きな気持のいい部屋と、開いた炉とのある西洋館に住んでいる。我々は彼の高取陶器と懸物との蒐集を見て、三時間も同邸にいた。

[やぶちゃん注:「黒田侯」本章冒頭で既注。元筑前福岡藩第十一代藩主黒田長溥(ながひろ)。この叙述からも想像出来るように蘭癖大名として知られた。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この明治一六(一八八三)年一月十四日より数日間、『黒田長溥邸の文庫を閲覧』(『郵便報知新聞』明治十六年一月十七日号に拠る)とあり、しかも次の段では十六日に大隈重信邸に招かれているとあるから、もし、モースが時系列を正しく記しているとすれば、十四日か十五日のこととなる。

「高取陶器」高取焼(たかとりやき)のこと。現在も福岡県直方市・福岡市早良区などで継承されている陶器で、凡そ四百年の歴史を持つ県下有数の古窯。参照したウィキの「高取焼」によれば、『高取焼は元々、福岡県直方市にある鷹取山の麓にて焼かれており、朝鮮出兵の際に黒田長政が陶工、八山(日本名・八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。開窯は』慶長五(一六〇〇)年と『言われている。窯場には永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯があり、これらを「古高取」と呼んでいる』。『江戸時代には黒田藩の御用窯として繁栄、元和年間には唐津からの陶工を招き、技術を向上させている。そして寛永年間に入ると』、第二代藩主『黒田忠之は小堀政一(遠州)と交流を深め、遠州好みの茶器を多く焼かせた。それが縁で、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶産地として名を高めることとなった。この頃の中心は白旗山窯で、遠州好みの瀟洒な茶器は「遠州高取」と呼ばれた』。『その後、八山の孫の八郎が高取焼』第五窯として『小石原で小石原焼きを始め(小石原高取)、より繊細な作品が多く焼かれた。以後は、福岡の大鋸谷に移転(御庭高取)』、十八世紀には『「東皿山」と「西皿山」に分けられ、細分化されていった。今日では数カ所の窯元が至る所に残っており、廃窯した窯場にも再び火が灯ったりと、再興している』。『高取焼は時代によって、全く毛色が違っている。高取焼草創期の「古高取」の中でも、特に「内ケ磯窯」は豪放かつ大胆な織部好みの意匠で、ロクロによって成形された真円にヘラで歪みを加えており、今日の視点から見れば芸術性豊かで興趣をそそる志向があるが、その奥に隠された思想により御用窯廃絶の憂き目に遭遇する事になった。後の「遠州高取」になると器は端正になり、古高取とは対照的に瀟洒、風流人好みの作品が焼かれるようになった。「小石原高取」の頃になると技術は爛熟し、「遠州高取」より更に繊細な作風となっている。なお、小石原高取は民窯の小石原焼に多少の影響を与えている。今日の作風は小石原高取以後の技法で、使用する釉薬は多い。個性的な釉薬が多く、高取黄釉、春慶釉、高宮釉、道化釉、ふらし釉、真黒釉などがある』とある。]

 

 一月十六日、ドクタアと私とは大学に近い大隈氏の都会邸宅へ、食事に招かれた。家は外国風で非常に美しく、ドクタア・ビゲロウはその設備を完全であると評した。食堂の床は見事な板張で、戸や窓の上には複雑な木彫があった。庭園は純日本風であるが、円形の芝生だけは、確かに日本風ではない。盆にのせ、箸を副えた日本料理が、我々が椅子に坐って向っている卓の上で供された。

[やぶちゃん注:「大隈氏」既出の大隈重信。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは一月十六日で、先にモースが記した早稲田大学の前身『東京専門学校授業開始式での』「人類の起源」と題した『講演の御礼だったと思われる』と記しておられる。]

2016/01/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (12)謎の富士の刻印の茶器

 最近私は富士の記号のある茶碗を発見したが、これについては日本の専門家達が、大きに迷った。古筆はそれを二百年になる清水の仁清だというが、このような刻印は見たことが無く、柏木は古い大和の赤膚だと鑑定し、安藤は大和の萩だといい、増田は古薩摩といい、前田は摂津の浪華であるかも知れぬと思い、更に別の、名前を忘れたが、一専門家は、それは尾張の志野だといった。私はこの一事を、日本の鑑定家達の意見がかくも相違することを示し、判らぬ品を鑑定するという仕事が如何に困難であるかを示すために、ここに書くのである。

[やぶちゃん注:「古筆」多出の好古家古筆了仲。

「二百年になる清水の仁清」「仁清」は既注の江戸前期の陶工野々村仁清(ののむらにんせい 生没年不詳)。彼は明暦二(一六五六)年か翌三年頃より本格的な色絵陶器を焼造し始め、その典雅で純日本的な意匠と作風の色絵は粟田口・御菩薩池(みぞろがいけ)・音羽・清水・八坂・清閑寺などの東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし、後世の「古清水(こきよみず)」と総称される色絵陶器が量産されるようになった(その結果として京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたと平凡社「世界大百科事典」の「京焼」にはある。以上もそれを引いた)。単純計算で当時(明治一六(一八八三)年)から「二百年」前は天和三(一六八三)年となるが、ウィキの「京焼」を見ると、清水焼は寛永二〇(一六四三)年までには『存在が確認されている。これに続いて御室焼、御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、修学院焼なども作られ』、このような中で慶安三(一六五〇)年五月二十五日に『金森重近(宗和)が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を』十七世紀に『成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった』とある。仁清には「古清水色絵蓮華式香炉」(京都法金剛院蔵・京都国立博物館寄託)がある。

「柏木」既出既注の好古家柏木貨一郎。

「大和の赤膚」「赤膚」は赤膚焼(あかはだやき)のこと。ウィキ赤膚焼によれば、現在の奈良県奈良市・大和郡山市に窯場が点在する陶器で、『草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる』。『江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。小堀政一(遠州)が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている』。『文政年間には五条山に三窯あり「東の窯」「中の窯」「西の窯」と呼ばれていた』とある(明治以降のパートは省略した)。

「安藤」不詳。

「大和の萩」原文も“Ando said it was Hagi, Yamato;”であるが、不詳。これはもしや「長門(ながと)の萩焼」と安藤なる好古家が言ったのをモースが聞き違えたか、メモした“Nagato”から起こす際に誤読した結果かも知れない。因みにモースの悪筆は超有名である。

「増田」不詳。

「古薩摩」初期の薩摩焼で、江戸初期に朝鮮半島からの渡来人によって鹿児島の帖佐(ちょうさ)などの窯で焼かれたものを指す。

「前田」不詳。

「摂津の浪華」難波焼(なにわやき)。延宝年間(一六七三年~一六八一年)頃より大坂高津附近で産した陶器。初めは雑器を焼いたが、後に茶器をも産出した。「なんばやき」「高津焼」とも呼ぶ。

「尾張の志野」志野焼(しのやき)。美濃焼の一種で美濃(現在の岐阜県)で安土桃山時代に焼かれた白釉(はくゆう)を使った焼物。ウィキ志野によれば、『室町時代の茶人・志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ』、可児(かに)市久々利(くくり)から土岐市泉町久尻(いずみちょうくじり)にかけて『産出する、耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけ焼かれる。通常、釉肌には肌理(きめ)の細かい貫入や柚肌、また小さな孔が多くあり、釉のかかりの少ない釉際や口縁には、緋色の火色と呼ばれる赤みのある景色が出る』とある。]

破片 梅崎春生 (「三角帽子」「鏡」二篇構成/PDF縦書版)

梅崎春生の「破片」(「三角帽子」「鏡」二篇構成)のPDF縦書版を公開した。

破片   梅崎春生  (「三角帽子」「鏡」二篇構成)

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年一月号『文学界』に発表され、後の単行本「春日尾行」(昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊)に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。ブログ版では傍点「ヽ」は太字とした。

 本作は「三角帽子」と「鏡」の二篇構成ではあるが、両二者には、この三年前に発表されたかの三篇構成の輪唱」(リンク先は私のPDFファイル)のような顕在的連関性は認められない。寧ろ、創作ノートの中の、似たような感触の「破片」っぽい小品乍ら、棄て難く、しかもそれが或る種、同じ奇妙な体臭のする作品断片であったのを、一先ず、組み合わせてお見せしよう、という雰囲気があるように私は感ずる。

 なお、後者の「鏡」は、私が梅崎春生に耽溺した最初期から偏愛する一篇である。私は人が糸になろうが棒になろうが箱になろうが、或いは人が棺桶やら壁やら映写スクリーンの中やらから突如出現して来てもちっとも驚かぬし、つまらぬし、退屈な人間である。況や、それらが真正のシュールレアリスムだなんどとも、これ金輪際、全く思わない人種である。ところが、この「鏡」――これは今、読んでも実に新鮮にして凄い。――正直、このエンディングこそ――飴のように延びた平凡極まりない日常の現実の中に起り得るところの――恐るべき超現実(シュールレアリスム)の戦慄である――

 以下、簡単に語注しておく。まず、「三角帽子」のパートから。

・「筒袖」「つつそで」で、和服で袂(たもと)がない筒状の袖の室外用の作業衣。古くより漁師や職人や物売りが着用した。

・「たっつけ」とは、「裁付」「立付」などとも書き、山袴(やまばかま)の一種である裁着袴(たっつけばかま)のこと。ズボン状に股が割れており、膝から下が脚絆を縫い付けてぴったりとさせた活動し易い実用的な袴。膝下部分に脚絆(きゃはん)ある。下肢に反して腰回りはゆったりとしていて保温性がある。古くは主に武士が用いたが、実用性の高さから樵・猟師・職人・大道芸人・役者などが好んで用い、民間にも広まった。また、伊賀忍者が用いたので伊賀袴とも称する。現在でも相撲の呼出、獅子舞の舞子などが穿く。軽衫(かるさん)も同グループの下穿きである。以上、前の「筒袖」と合わせて概ね、主人公の姿は想起出来るものと思う。

・「一町」約百九メートル。

・「顱頂」は頭の天辺(てっぺん)、頭頂のこと。

・「胴乱」は「どうらん」で、我々は専ら、野外採集した昆虫や植物の類を持ち歩くために肩からさげる容器をいうが、ここは薬や印などを入れて腰に提げた四角の革や布製の長方形の袋のこと。江戸初期に鉄砲の弾丸を入れるために用いられたのが始まりで、当初は革や羅紗等の布で作られたが、明治初期には再び革製が流行し、手提げ胴乱や肩掛け胴乱も作られた。

・「顫動」は「せんどう」で、小刻みに震えること。細かく振動すること。

・「盗汗(ねあせ)」漢方では寝汗を盗汗(とうかん)と呼ぶ。

・「磅礴(ほうはく)」「旁礴」「旁魄」などとも書き、「ぼうはく」とも読む。混じり合って一つになること、或いは、広がり満ちること・満ちて塞がることであるが、ここは両義を含むと読んでよかろう。

・「優曇華(うどんげ)の花」昆虫綱有翅昆虫亜綱脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属する完全変態するクサカゲロウ類の卵塊。長く細いい卵柄(らんへい)を持ち、一個ずつ産み付けられる場合が多いが、種によっては卵柄を紙縒(こよ)り状に絡ませた卵塊として葉などに産み附けたりする。窓枠や屋内の電灯の笠などにも産卵することがあり、私が小さな頃はよく見た。古く日本に於いてはこれが植物と誤認され、しかもその不思議な形状から、三千年に一度だけ花が咲き、開花する時には如来がこの世に顕現するという「優曇華の花」と言い囃されたのであった。なお、クサカゲロウ類は真正のカゲロウ類(有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera に属する、ヒラタカゲロウ亜目 Schistonota  マダラカゲロウ亜目 Pannota に属し、不完全変態である)ではないので注意されたい。詳しくはこちらの、橋本多佳子の句「薄翅かげろふ墜ちて活字に透きとほり」の私の「薄翅かげろふ」の注を参照されたい。

 次に「鏡」のパート。

・「仁木寓」の「寓(ぐう)」は老婆心乍ら、これは彼の下の名前ではない。仮り住まいや寓居の謂いから、自分の住まい・住所を遜(へりくだ)っていう語で、名前を出さずに姓だけを表札にした「~宅」「~方(かた)」ほどの謂いである。

・「ちりけだった」聴き慣れず、私は使ったことのない語句であるが、「ちりけ」は「身柱」「天柱」と書き、灸を打つツボの名称で、襟首の下の両肩の中央、所謂、「ぼんのくぼ」を言うから、ここはそこから、首筋や襟首が総毛脱立つほどゾッとすることを指すと考えられる。江戸時代に「ちりけから水を掛ける」という、ぞっとする形容の慣用句がある。] 

 

 破片 

 

 三角帽子

 

 その帽子は、古道具屋のごたごたした飾棚に、刀架(か)けの鹿の角の先にかけられて、ぶらりとさがっていた。地は黒いビロードで、ぐるりに白い房がついている。三角形の帽子である。型も大きくて、子供が冠るものとは思えない。しかしどんな大人が、こんな帽子をかぶるのだろう。よほどふざけた気分でもなければ、これをかぶって人中は歩けないだろう。

 三郎は毎日その店先を、その帽子を横眼で見ながら通った。あの帽子はいくら位(くらい)するのだろう。あれは本当におれに似合うかしら、と思ったりする。するとその度に、何かへんに追っかけられるような気持になって、三郎はとっとっと足を早める。

 もう長いこと、三郎は学校に行っていなかった。籍だけは置いてあるのだが、どうも通う気持が湧いてこない。生活に追われているせいもあった。アルバイトとして始めたこの飴売りの商売も、いつしかたまった皮膚の垢(あか)のように、しつとりと身につき始めていた。戦場に引きずり出され、学生生活を中断されたので、三郎は二十九になっても、まだ大学生であった。そしてそろそろ、角帽が似合わない顔付になってきていた。だから飴売りに出かける時も、決して制服制帽は使用しない。使用するとかえって、贋(にせ)学生じみて見えるのである。筒袖の商売衣を着て、たっつけを穿いたりする時、いつも老書生の悲哀が、三郎の胸をほろにがくした。

 三郎の商売用の小鼓は、古ぼけてはげちょろけていたけれども、音だけはよく徹(とお)った。テンテンテン、テン、テンテンと打つと、一町も向うから、子供たちがばらばらと駈けてきた。その子供たちを箇所にあつめ、一席童話を聞かしてやり、そして飴を売る。春には春の陽が、秋には秋の陽が、その三郎の顱頂(ろちょう)をじかに照りつけた。まだ二十九だというのに、もう三郎の顱頂は、うっすらと禿(は)げ始めている。それが彼には少しかなしかった。

「帽子がひとつ欲しいな」

 童話をしゃべっている最中にも、そのことがふと三郎の心をかすめたりする。そして話がとぎれたりする。しゃべる童話のほとんどは三郎の自作で、その日の気分で、即席に筋を変えたりすることもあった。童話の筋は無限に思い浮んだ。それを口にしてしゃべるのは、何故ともなくたのしかった。話が終ると、子供の大部分は、ふたたびばらばらと散ってしまう。残った何人かの子供たちが、恩きせがましい顔付で、三郎から飴を買うのであった。三郎は金を受取ると、肩から提(さ)げた胴乱をひらき、飴をひとつずつ数えて手渡してやる。そして鼓をテンテンとたたきながら、また次の町へ歩いてゆく。じつはこの古鼓も、あの古道具屋から、買い入れたものであった。古道具屋の主人は、四角な眼をもった、ひどく無愛想な男である。あまり繁昌していそうにもない、貧寒な店のなりであった。飾棚のくもったガラス越しに、どこか磨滅したり風化したりしたような品々が、いつも同じ配列で、ひっそりとほこりをかぶっている。あのビロードの三角帽子も、いつでも同じ恰好(かっこう)や、鹿の角のさきにぶら下っていた。

「あんな帽子が一体、売り物になるのかしら?」

 あれは売り物ではなくて、鹿の角先を保護するために、かぶせてあるのかも知れない。そんな風(ふう)に三郎は考えてみたこともあった。しかし片方の角だけ保護するのもおかしいし、わざわざ帽子をかぶせるのも変な話だ。やはり飾棚にあるのだから、売り物でない訳がない。だとすれば、いったいどこの誰が、あんな帽子を買うのだろう。たとえばテンテン飴屋の自分のような者をのぞいた、どこの誰が?

「おれがあの帽子を買い、そしてかぶって歩けば――」

 道を歩いている時などに、ふと三角帽子のことを思い出すと、三郎はかんがえる。

「――その時は、おれは完全にアメ屋になってしまうだろう。アルバイトでも副業でもない、まぎれもない本職のテンテン飴屋に」

 黒い三角帽子をかぶり、たっつけを穿き、枯れた悠長な鼓音をひびかせながら、ひとり街中を歩いている自分の姿を、三郎は漠然と脳裡に組立てている。ぴったりと額縁にはまったように、その想像の風景はゆるがない。そのことが三郎に、ある焦りと畏れをもたらしてくる。その度に三郎は、何となく手をかざし、ついでに掌を顱頂にあててみたりする。薄くなった毛髪が、ぼやぼやと掌にふれてくる。そんな時彼は、ひとつの傾斜のようなものを、ぼんやりと足元に感じている。そのなめらかな傾斜面を、辷(すべ)り落ちようとする自分と、辷り落ちまいとしている自分とを。

「アメ屋になったって、いいんだけどな」

 三角帽子は売れないと見えて、相変らず飾棚の中にぶら下っていた。来る日も来る日も、同じ位置に、同じ恰好で、ぶらりと下っていた。その日の天気の具合で、それはへんにおびやかすような艶を帯びて、ねっとりと彼の眼に迫ってくることもあった。柔かそうな黒いビロード生地(きじ)である。眺めるだけで、頭にふれてくる感触が想像できるようであった。

「あの帽子を買って、もう学校は止めようか」

 そう思うとさすがに、気持の抵抗がないでもなかった。学問に未練があるというのではない。ひとつのところに自分が収まってしまうのが、すこし淋しいのであった。しかし自分がアメ屋になろうとなるまいと、この世にいささかの増減もない。また意見や文句を言う人もない。両親はすでに亡いし、兄が二人いる筈だが、それも戦争このかた、ずっと消息が絶えていて、どこにいるかも判らない。アルバイトにテンテン飴屋を選んだのも、初めは兄達とめぐり逢いたい願いからであったのだが、近頃はその気持もうすれてしまった。好きな童話を子供相手にしゃべり、それで生活の資を得る。ただそれだけであった。

「この二三年で、おれもずいぶん磨滅したもんだな」

 夜眠りに就くときなど、彼はときどきそんなことを考えたりする。そう考えてみるだけで、先には進まなかった。一日中歩いて疲れているから、思いにふけるより、眠る方がたのしいことであった。それに三郎は、寝つきはいい方であった。すり減った金具のように、身じろぎもせず彼は眠る。

 そのような夜々の眠りの間に、三郎はあの三角帽子のことを、時たま夢に見ることがあった。夢の中の三角帽子は、現実のそれとちがって、もっと妖(あや)しいなまなましさをたたえて、彼に迫ってくるようであった。それは黒い生地をひとりでにむくむくと顫動(せんどう)させていたり、彼を包みこむほど巨大な形をしていたり、生きた黒いかたまりとなって、ひとしきり彼を追っかけてきたりした。その時々の夢によって、その形相も異なっていた。いつもおびただしい盗汗(ねあせ)とともに、その次の瞬間、三郎は眼をさましている。帽子の夢は常に、彼にはひどく後味がわるかった。夢の中にただよっていた憎しみの感情が、そのまま寝覚めの意識に持ち越されているからであった。彼が帽子を憎んでいるのか、帽子が彼を憎んでいるのか。また別のものが別のものを憎んでいるのか。とにかくそうした磅礴(ほうはく)たる憎悪の感情が、夜半に醒めた三郎の奥歯を、いつもきりきりとかみ鳴らしてくる。

「あの店先から、あの三角帽子が、早く消えてなくならないかなあ」

 しかし三郎が買い求めない限りは、どうしてあの帽子が飾棚から、姿をかき消すことが出来るだろう。その思いは、ひとつの確実な予感のように、じわじわと三郎の肩にかぶさってくる。彼は貧しい自分の部屋の鴨居(かもい)を見上げる。そこには商売用の古鼓とならんで、ボール箱でつくった貯金箱がかかっている。毎日売上げの一部をかならず投げこむので、ある程度の金がそこにたまっている筈だ。しかしこれをかんたんに費消するという訳にはいかない。もうずっと前から、月謝滞納の催促を、彼は学校から受けている。学問をつづけようと思うのなら、この日掛け貯金をもって、滞納にあてねばならないのであった。

「まだ売れていない!」

 毎朝商売用正装をまとい、古道具屋の前を過ぎるとき、いつもきまって彼はそう思う。ぶらりと下った黒ビロードのかたまりを、するどく横眼で睨みながら、三郎はすたすたとその店先を通り抜ける。なにか放っておけないようないらだちが、しだいに彼の足を早めてくる。足裏をわざと地面にたたきつけるようにして、彼は急ぎ足になる。

「よし。明日まで売れなければ、このおれが買ってやる!」

 なにも思い惑うことはない。あの帽子にしても、鹿の角の先から、おれの頭に引越すだけの話だ。なにほどのことがあろう。そう思いながら三郎は鼓をとり直して、テンテン、テンとたたき始める。昨日も一昨日も、そうであった。その音を聞きつけて、露地の奥や塀(へい)のかげから、子供たちが仔猫のようにばらばらと走って集まってくる。

 空地に子供たちをあつめて、彼は帽子の話などをしている。「王様の帽子」「帽子のお化け」「タクラマカン沙漠の大帽子山」、話が終ると子供たちは、「よっちゃん」とか「まあちゃん」とか呼び交しながら、どこかにちりぢりに散って行ってしまう。残った四五人の子供たちが、お情けで買ってやるぞといった顔付で、てんでに金を三郎に突き出す。そのとき陽が照っていれば陽が照ったで、三郎の顱頂(ろちょう)の薄毛は、灰色にぼやぼやと輝いている。風が吹いておれば風が吹いたで、その薄毛はすすきの穂のように、ちりぢりに慄えながら、なびき動いている。それはどこか優曇華(うどんげ)の花にも似ている。 

 

  

 

 隣の家に、妙な男が引越してきた。

 引越してきたその夜、その男は次郎の家に、鋸(のこぎり)を借りにやってきた。いくらかおでこで、耳が狐みたいに切立っていて、撫で肩で、どことなく身のこなしに、へんに女性的な感じのする男であった。玄関の暗がりに立ち、小腰をかがめて、押しつけるような声で、

「如何でしょう。ひとつノコを、貸してやって頂けませんか」

 揉(も)み手さえしている様子である。次郎はだまって立ち上って、台所の棚に鋸をとりに行った。その間、男はしきりに首を伸ばして、次郎の家の内部を、じろじろとのぞいていたらしい。再び次郎が玄関に出てくると、はっと頸(くび)をちぢめるような動作をしながら、

「これは、これは。では、明日にでも、すぐお返しに参上つかまつります」

 男が鋸を持ってそそくさと帰ってゆくと、次郎はなんだか落着かない気分になって、土間に飛び降りると、玄関の扉をいつになく厳重に戸じまりをした。次郎の家は、四畳半と六畳の二間で、玄関から首を伸ばせば、家中が全部見渡せるのである。お粗末な借家造りで、二軒長屋の片側の家であった。男が引越してきた隣家というのは、つまり次郎の家と背中合わせになった、反対側の家なのである。家主が権利金をつり上げたのか、そこは長いこと空屋になっていた。

 それから一週間経っても、男は鋸を返しに来なかった。

 ある日曜日、次郎は急に鋸が要ることがあって、隣の家にそれを取り返しに出かけた。隣と言っても、背中合わせの形になっているので、その玄関まではぐるりと迂回(うかい)しなければならないのである。するとその玄関には「仁木寓」という新しい表札がかかっていた。仁木という姓なのだと思いながら、次郎はとにかく玄関の扉を引きあけた。この家を訪問するのは、これが次郎にははじめてであった。そのとたんに次郎は、なんだか奇妙な感じの空気が、全身にぶわぶわと押し寄せてくるのをかんじた。

 扉の音を聞きつけたと見えて、仁木が奥の部屋から飛び出してきた。女物と見まがうばかりの派手なハンテンを、ぞろりとまとっている。どうぞ、どうぞ、と切なく誘うものだから、次郎は下駄を脱いで、とことこと六畳の部屋に上った。さて座布団に坐って、仁木と相対して見ると、それでも座の空気は妙に落着かなく、ふしぎな違和感が次郎を膜のように包んでくるようであった。次郎は眼をきょろきょろさせて、しきりにあたりを見廻した。

「なにぶん、まだ一向に、かたづきませんで――」

 弁解するような口調で、仁木はそんなことを言ったりした。しかしその部屋は、割にきちんとかたづいていた。次郎に奇妙な違和感をあたえるのは、その部屋の形や調度の有様なのであった。それは次郎の家の内部と、そっくり裏返しになっていた。背中合わせの家だから、四畳半六畳台所という間取りも、そのまま逆になっていたし、仁木の乏しい家具や調度頼も、大体次郎の家をひっくりかえした位置に、きちんと配置してあった。そのことが次郎には、なんだか生理的に面白くない感じであった。やがて次郎は低声で催促した。

「じつはこの間お貸しした鋸を――」

「あ。すっかり忘れておりました」

 派手なハンテンの裾をひるがえして、仁木はひらりと台所の方に立って行った。のぞくともなしにそこをのぞいていると、仁木の台所にも、次郎の台所と同じような棚があって、次郎がいつも鋸をしまう場所から、今仁木が鋸をとり出そうとしているところであった。嘔(は)きたいような厭な戦慄が、その時かすかに次郎の咽喉(のど)をはしった。

 やがて鋸をもって自分の家に戻ってきても、次郎は何かへんに落着かなかった。自分の家でありながら、自分の家ではないような気がした。彼はしきりに家中を見廻して、眉根を寄せたり、また何かを考え込む顔付になった。そして立ち上って鋸を、六畳間の袋戸棚の奥深くしまい込んだ。

 それから四五日経った。扉をがたがたと引きあける音がして、仁木がまた玄関に入ってきた。

「へえ、こんにちは。どうかビールの栓(せん)抜きを、貸してやって貰えませんか。直ぐお返しにあがりますが」

 茶簞笥(ちゃだんす)の抽出しをごそごそ探している間中、次郎は背後に仁木の粘っこい視線をかんじていた。栓抜きぐらいは自分で買えばいいじゃないかと思ったり、また貸したくないような気持になったりして、なかなか栓抜きは見付からなかった。やっと抽出しの底から見付け出すと、次郎はむっとした表情で、それを仁木の掌に手渡した。仁木の掌は、女のそれのように小さく、柔かそうであった。その掌で栓抜きをにぎってぺこぺこ頭を下げながら、仁木はあたふたと戻って行った。そしてその栓抜きも、仁木は返しに来なかった。

 三日目になると、次郎はそれが要るという訳ではなかったが、何だか放って置けないような気分にかられて、杉の生籬(いけがき)をぐるりと迂回し、仁木の玄関にのりこんで行った。この前と同じように、仁木はハンテン姿で勢よく玄関に飛び出してきた。

「さあ。よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ。どうぞ」

 六畳間に上って、座布団に坐りこむと、次郎はこの前の妙な感覚が、身体によみがえってくるのを感じた。しかもその奇妙な感覚は、この前の時よりも、なぜだかずっと明瞭で、ずっと切実な感じであった。

「ああ、栓抜きでございましたね」

 仁木は横這(ば)いに部屋のすみに行ったと思うと、見るとそこには次郎の家のとそっくりの茶簞笥(ちゃだんす)が置かれていた。次郎は咽喉の奥がグッと鳴るような気がした。この前訪問したときは、この茶簞笥はなかったものである。あれ以後に買ったものに違いなかった。その同じ位置についた抽出しを、仁木の手がしきりに探っている。

「ええと、たしかにここに、しまって置いたんだがなあ」

 それから四五日すると、仁木はフライパンを借りに来た。それを取戻しにゆくと、今度は四畳半の部屋に、次郎の家のと同じ型の長火鉢が殖えていて、鉄瓶がシュッシュッと湯気を立てていた。その鉄瓶の把手(とって)の形も、次郎の家のとそっくりであった。

「なにしろ戦災でみんな焼かれてしまいまして――」

 仁木は揉み手をしながら、あやしい眼付でお世辞笑いをした。

「――それでも少しずつ、おかげさまで、道具がととのって参ります」

 それから四五日目ごとに、仁木は何かしら次郎の家に借りに来た。ある時はシャベルであったり、梯子であったり、針と木綿糸であったり、ある時は歳時記であったり、すり鉢であったり、昨日の夕刊であったり、またある時はピンセットであったり、灌腸器(かんちょうき)であったりした。とにかくよく考えつくと思うくらい、仁木はいろんなものを次々に、次郎の家に借りに来た。借りて行っても決して戻しには来ないので、その都度次郎は取戻しに行かねばならない。するとその度に、仁木の家には品物が殖えたり家具の位置が変ったりして、つまり細部にいたるまでしだいに、次郎の家の内部と全くそっくりになってくるのを、次郎は目撃し感知した。そっくりと言っても、正確に言えば、そっくり裏返した訳であった。たとえば長火鉢にしても、どこからどう探してきたのか、形や大きさは次郎の家のとそっくりのくせに、どういうものか抽出しだけが逆の位置についていた。壁のしみまでが、そっくり逆の形についている。背中合わせの共通の壁だから、あるいはそれが当然だとも言えるが、次郎はそれにも不気味な感じを押え切れなかった。

(あいつの家がそっくり、おれの家の裏返しになってしまえば、その時おれはどうしたらいいだろう?)

 自分の家の長火鉢の前に坐っていても、ふとそんなことを考えると、次郎はひどく不安な気分になり、居ても立ってもいられなくなって、おろおろと部屋の中を歩き廻る。仁木の家では近頃猫を飼い始めて、その猫がまた次郎の家のと、双生児みたいによく似た猫であった。ただ斑(ぶち)だけが逆になっていた。そんな猫を飼うのも、仁木の自由な筈であった。次郎はそれを阻止する権利も強制力もなかった。そのことが次郎の不安に拍車をかけた。

(どうしたらいいだろう。どうしたらいいだろう?)

 飯を食っている時でも、逆の形で飯を食っている仁木の姿を思い浮べると、次郎は急に食慾を喪失した。便所にしゃがんでいる時でも、同じことが頭にひらめくと、すぐに便意が消滅する。だから次郎はこの頃、永いこと便秘状態がつづいていた。そして四五日目毎に、仁木は相変らず玄関にあらわれて、丁寧な言葉使いで、何か道具器具の借用を申し入れる。その翌日になると、次郎は強迫観念のかたまりのようになって、じつとしておれなくなり、仁木の家に取戻しに行く。仁木の家を見ることは、恐いことである筈なのに、そうせずにはいられないのであった。その度に仁木の家の中は、次郎のにそっくり逆に近づいてくるのが判る。

 大晦日(おおみそか)に近い日であった。貸したパレットナイフを取戻しに、次郎は仁木の家を訪れた。そして自分の身体も裏返しになった感じで、仁木の部屋の座布団に坐りこんでいた。長火鉢の向うでは、派手なハンテンを着込んで、仁木の顔がにこにこ笑っている。近頃仁木はすこし肥ったようだ。

「はあ。パレットナイフでございますか。すぐにお返し申し上げます」

 次郎はもじもじしながら、落着かなくしきりに周囲を見廻していた。もうほとんど完全に、何から何までそっくりになっている。柱時計の位置から、本棚の位置や、本棚に並べられた書物の色まで、次郎の部屋とまったく同じであった。その時何かがチラと視野の端にひらめいて、次郎は思わずそちらに視線をずらした。茶簞笥の上の壁に、新しい見慣れない鏡がかけてある。次郎の家には鏡はなかった。ついに仁木の家の家具が、自分のそれの模写からはみ出してきた。と直覚した時、次郎の胸にやってきたのは、安堵という感情ではなくて、むしろするどい新しい不安であった。その異質の不安がいきなり、針のように次郎の胸を突刺してきた。やがて彼はかすれたような声を出した。

「か、かがみを、買いましたね」

「はあ。おかげさまで」

 仁木は次郎を見詰めながら、あわれむようににこにこ笑っている。次郎はあやつり人形のようにそのまま立ち上って、ふらふらと鏡の方に近づいた。鏡の中でも同じく次郎の姿が立ち上って、ふらふらと鏡面に近づいてくるのが見える。次郎は次郎の顔を見、次郎のうしろの調度や家具類を見た。そこには次郎の部屋があった。背後からしずかな声がした。

「昨晩、夜店で買い求めましたが、いい鏡でございましょう?」

 その声は、仁木の声のようでなかった。しかしどこか聞き覚えのある声であった。誰の声だったか思い出さないうちに次郎の背筋はぞっとちりけだった。

橋本多佳子全句集 附やぶちゃん注(PDF縦書β版)

「橋本多佳子全句集 附やぶちゃん注」(PDF縦書β版)を公開した。ルビ化とポイント調整で精一杯で、全文校訂する余裕がなく、本文内の注もリンクも機能しないβ版であるが、句を鑑賞されるにはよろしいかと存ずる。2・39MBあるが、ダウンロードしてお読みあれ。

2016/01/26

では

……よき夢を……

明朝「橋本多佳子全句集」PDF縦書β版(2・39MB)公開予定

明朝には「橋本多佳子全句集」PDF縦書β版(2・39MB)を公開出来る予定である。

2016/01/25

橋本多佳子全句集PDF縦書版作製プレ作業中

現在、橋本多佳子全句集の縦書PDF版のために原稿のルビ化とポイント修正を行っているが、やってもやってもなかなか進まぬ。今、暫く、お時間を下されよ――

今朝

十何年振りに我が家の水道管凍れり――

2016/01/24

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(3) 古代の祭祀

 

 古代の祭祀

 

 眞の日本の宗教、今日なほ全國民に依つて各種の形に於て行はれて居る宗教は、あらゆる文明國の宗教竝びにあらゆる文明社會の基礎をなして居る處の其祭祀(カルト)――祖先崇拜である。數千年の經過の内に、此始めの祭祀は、色々の變化を受け、色々の形をとる事となつた、併し日本國中、何處に於ても、其根本たる特質は變はらずに殘つて居る。佛教の祖先崇拜の色々な形は別として、純なる日本起原の奉祭には三つの區別があるが、それは爾來支那の影響と儀式とに依つて多少形を變へられたものである。かくの如き日本の祭祀の形は、すべて『神道』といふ名の下に纏められて居る、其意は則ち『神々の道』といふ事である。これは古い言葉ではない、最初外國から來た佛氏の教則ち佛の道なる佛道と、本國の宗教則ち『道』とを只だ區別するために用ひられたものである。神道の祖先崇拜の三つの形とは、一家の祭祀、村邑の祭祀及び國家の祭祀である、――言ひ換へれば家族の祖先の禮拜、氏族若しくは部族の祖先の禮拜、竝びに帝國の祖先の禮拜である。此第一は家庭の宗教であり、第二は一地方の神若しくは守護神の宗教であり、第三は國家の宗教である。神道の禮拜にはまだいろいろの形があるが、それは今考へる必要のないものである。

 

 上記の祖先崇拜の三形式に就いて云ふに、家族の禮拜は進化の順序上第一に居るもので、――其他は後に發達したものである。併し家族の禮拜を最古のものと云つた處で、それは今日見るが如き家庭の宗教を指すのではない――『家族(フアミリイ)』といふ言葉を以つて『一家(ハウスホオスト)』の意とするのでもない。古代に於ける日本の家族は遙かに『一家』以上のもので、百或は千の家を包有するかも知れないのである。それはギリシヤの γένος  若しくはロオマの gens に似たもので――最も廣い意味での族長的家族である。有史以前の日本に於ては一家の祖先の家族的禮拜といふものはなかつた――同族的奉祭は只だ埋葬の場に於てのみ行はれたらしく思はれる。併し後代の家族的禮拜は、原始的な同族的奉祭から發達して來たもので、間接に尤も古い宗教の形を表はすものである、從つてそれは日本の社會的進化の研究には先づ第一に考へなければならないものである。

[やぶちゃん注:「γένος」はギリシャ語で「ゲェーノシュ」(私のネット上での複数の聴き取りから)と発音し、古代ギリシアに於ける共通の家系・家柄に属する社会集団を意味する。現行では「種」「種類」「人種」の意。

gens」はラテン語で「ゲンス」、古代ローマ最古期に於ける「氏族集団」の意。一般には「種族」「一門」「子孫」「後裔」「種」「属」「系統」「人種」団体」「地方」、複数形で「外国」の意ともなる。前の「γένος」から派生し、現代英語の「遺伝子」や「種」の意の「gene」(ジーン)は、これらが大元の語源であろう。]

 

 

 祖先禮拜の進化的の歷史は、何處の國に於ても大抵同樣であつて、日本の禮拜の歷史も、宗教的發達の法に關するハァバァト・スペンサアの説を支持する著しい證明となるのである。併しこの一般の法則を了解せんとすれば、吾々は宗教的信仰の起原に遡らなければならない。社會學的見解から、記憶して置かなければならない事は、日本に現存する祖先の祭祀を以つて『原始的』と云ふのが、其當を得て居ないのは、ペリクリスの時代に於けるアゼンス人の家族的祭祀を以つて『原始的』と云ふの非なると同樣であるといふ事である。祖先禮拜の永續せるものは、いづれも原始的ではないのであつて、凡そ一定した家族祭祀は、多少一定の形を有せざる、また家族的ならざる同族の祭祀から發達したものであり、この同族の祭祀はまたさらに古い埋葬の奉祭から生じて來たものに相違ない。

[やぶちゃん注:「ハァバァト・スペンサア」イギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。参照したウィキの「ハーバート・スペンサー」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『一八八〇~九〇年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、一八六〇年の『教育論』は、尺振八の訳で一八八〇年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。しかし、スペンサーからみると、封建制をようやく脱した程度の当時の日本は、憲法を持つなど急速な近代化は背伸びのしすぎであると考え、森有礼のあっせんで、一八八三年に板垣退助と会見した時も、彼の自由民権的な発言を空理空論ととらえ、けんか別れをしたといわれる。 このようなことがあったにもかかわらず、一八八六年には浜野定四郎らの訳により『政法哲学』が出版されるほど、日本でスペンサーの考えは浸透していた』とある。以上の四名の内、ダーゥイン(死後九年)を除いて、本書が執筆された明治二四(一八九一)年の段階でまだ存命していた近代科学と思想を現に荷っていた人物である。また、一八五九年にダーウィンが提唱した進化論が本格的に日本に紹介されたのは明治 一〇(一八七七)年の東京大学でのエドワード・モースの講義が濫觴であり(私のE.S.モース石川欣一訳「日本その日その日」を参照されたい)、一般民衆の受容は明治三七(一九〇四)年の丘浅次郎の「進化論講話」によったと考えてよいから(私は丘先生の「生物學講話」も電子化注しているので参考にされたい。将来はまさにこの「進化論講話」も手掛けたいと考えている)、まさに「死せる」ダーウィンもまたアップ・トゥ・デイトな「生きた」西欧最新の近代科学思想家であったのである。平井呈一氏は恒文社版「日本――一つの試論」の後書きの「八雲と二本(その二)」で、小泉八雲の本書の文章は『雄渾端正、彼の師事したハーバート・スペンサー、遠くはかれの私淑したド・キンシーの格調高い勁直な文体を思わせるものがあ』ると評しておられる。「ド・キンシー」はConfessions of an English Opium-Eater(イギリス阿片服用者の告白:一八二二年)で知られるイギリスの評論家トマス・ド・クインシー(Thomas De Quincey  一七八五年~一八五九年)のこと。

「ペリクリスの時代に於けるアゼンス人」原文の“the Athenians in the time of Pericles”の単語を見れば判る通り、「アゼンス人」とは「アテナイ」(アテネ)人のことで、「ペリクリス」は古代アテナイの政治家でアテナイの最盛期を築き上げた政治家として知られるペリクレス(紀元前四九五年?~紀元前四二九年)のことである。]

 

 古代のヨオロッパ文化に就いて言へば、祖先禮拜に關する吾々の知識は、祭禮の原始的な形にまで及びうるとは言はれない。ギジシヤ人及びロオマ人の場合、この問題に就いての吾々の知識は、家族的宗教が成立してすでに久しく經つた時期から始まつて居るので、吾々はその宗教の性質に關して文書上の證跡を有つて居る。併し家庭の禮拜に先き立つてあつたに相違ない遙かに古い祭祀に就いては、あまり證據が殘つて居ない、それで吾々はまだ文化の狀態に達して居なかつた人民の間に於ける祖先禮拜の自然の發達の歷史を研究して、その性質を推斷するのみである。眞實の家族の祭祀は一定した文化と共に始まるのである。さて日本人種が最初日本に落ち着いた時には、まだ今云ふ一定した文化の種類をも、また何等十分に發達した祖先の祭祀をも、もつて來たとは思はれない。勿論禮拜は正にあつた、併しその儀式は漠然と只だ墓邊に於てのみ行はれて居たのみと思はれる。眞正の意味の家族の祭祀は、第八世紀則ち位牌が支那から入りて來たと考へられるその時代頃までは成立して居なかつたのであらう。最古の祖先祭祀はやがて詳説しようと思ふが、それに原始的な葬式竝びに故人の靈を慰める儀式から發達したのであつた。

[やぶちゃん注:「第八世紀則ち位牌が支那から入りて來たと考へられるその時代頃」「位牌」は原文“the spirit-tablet”であるが、ちょっとおかしい。現在、位牌の伝来は鎌倉時代の禅宗の作法とともに伝来し、鎌倉新仏教の民衆への急速な展開によって祭祀されるようになるから、これは概ね十三世紀初頭となる。仏教伝来は遡る六世紀中葉であるから、これも合わない。八世紀となると、聖武天皇の治世に各国に国分寺が建立され、東大寺が総国分寺となって盧舎那仏が建立され、七五四年には鑑真が来日しており、この辺りを国家が本腰で仏教化し、そこから派生的に氏族内での公的祖先祭祀も生じたと八雲は判断したものか。この時期にはしかし位牌は存在せず、あくまで本尊などを祀る須弥壇(しゅみだん)があったばかりだとは思うのだが。]

 それ故に現存の同族的宗教は、比較的近代の發達にかかる、併し少くともそれはこの國の眞の文化と、その古さを同じうして居り、正しく原始的である信仰と思想と、竝びにそれから出て來た思想と信仰とを保有して居る。それで祭祀そのものを説く前に、さういふ

古い信仰に就いて少しく考へる必要があると思ふ。

 

 最古の祖先崇拜――ハァバァト・スぺンサアの所謂、『一切の宗教の根元たる』――は恐らく亡靈(ゴオスト)に對する最古の明確なる信仰と存立を同じうしたものであつた。人間が影なる内部の自己、則ち二重の自己といふ考を抱きうるや、必らず靈魂に就いてのその慰藉的祭祀が始まるのである。併しこの最古の亡靈の禮拜は、人間が抽象的な考をつくり得るやうになつた精神的發達のその時期よりも餘程以前にあつたに相違ない。原始的な祖先の禮拜者達は、まだ最高の神といふ考をつくり得なかつた、そして彼等の崇拜の最初の形式如何に關しての、現存して居るすべての證據は、亡靈といふ考と神々といふ考との間に當初何等の相違もかつた事を示すやうである。從つて未來に於ける賞罰の狀態に就いての明瞭な信仰はなかつたのである――天國若しくは地獄といふ考はなかつたのである。暗い下界則ちヘィディスといふ考すら遙かに後代の發展である。最初死者はそのものの爲めに準備されて居た墳墓の内に住んで居るとのみ考へられて居た、――その墳墓から死者は時折り出て來て、自分等の以前の住所を訪ね、生きて居る人々の夢に出現すると考へられて居た。死者の眞の世界はその葬られた場所であつた――墳墓、塚であつた。その後になつて、下界こといふ考が不思議な方法で墓場と結びついて徐に發達して來た。この漠然たる想像上の下界なるものが、擴がり、亡靈の幸福を享ける天地と、不幸の天地とに分かたれるやになつたのは、遙かに後の事である……日本の神話がエリジウム(至福の世界)若しくはタァタラス(地獄の奧の暗黒世界)の考を生み出さず――天國と地獄との考を發展せなかつたのは注意に値する事實である。今日に於てすら神道の信仰は、超自然に關してホオマア以前の想像時代を表はして居るのである。

[やぶちゃん注:「ヘィディス」原文“Hades”。ハデス。新約聖書に十回登場する、死者が行く場所。地獄と同義。ギリシア神話の冥界の神ハーデース及び冥界の意からとった言葉とされている。

「エリジウム」原文“Elysium”。エリシュゥム。ギリシャ神話で善人が死後に住むとされる天の世界であるエリュシオン。所謂、理想郷(ユートピア)や仏教の極楽浄土も、これに換訳されたりする。

「タァタラス」原文“Tartarus”。タルタロス。ギリシャ神話に於いて、先の冥界ハーデース(地獄に相当)の更に下方に在るとする「奈落」などと呼称される世界。天と地の間の距離と同じ分だけ大地から下に位置するとされ、霧と烈風の吹き荒ぶ救い無き穢土である。

「ホオマア以前の想像時代」原文は“the pre-Homeric stage”“Homer”は言わずもがな、「イーリアス」「オデュッセイア」の作者とされる紀元前八世紀末の吟遊詩人ホメーロス(ラテン語:Homerus)の英語読み。]

 インドオ・ヨオロッパ民族の間にあつては、最初は神々と亡靈との間には何等の區別もなく、神々の大小といふ位置もなかつたらしい。この種の區別は徐に發達したものであつた。『死者の靈は原始民族の間にあつては理想的の集團をなし、殆ど甲乙の差別もなかつたが、だんだんにその差別が生じ來り――社會が進むにつれ、また局部的な竝びに一般的な傳統が集積し、錯綜するにつれ、嘗ては等一であつたこれ等の人間の靈魂は、人々の考の内にその性質の相異を來たし、重要さの度を生じここに區別を起こし――終にはそれ等本來の等一の本質は殆ど認められなくなつた』とスペンサア氏は云つて居る。かくして古代のヨオロッパに於ても、極東に於ても、國民のより大なる神々は亡靈の祭祀から生じ來たつたのである、併し東西の古代の社會にその形を成して居た祖先禮拜の倫理は、より大なる神々の生じた時代以前の時期から――すべての死者が何等の位置の差別なく皆神となると想像された時期から起つたものである。

[やぶちゃん注:「インドオ・ヨオロッパ民族」これはヨーロッパから南北アジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアにかけての広範囲で話者地域が広がる語族であるインド・ヨーロッパ語族のことと読み換えてよいであろう。全世界で、この語族に属する言語を公用語としている国は百を越える。参照した
ウィキインド・ヨーロッパ語族の「分布と起源」を引いておく。『所属は遺伝的関係によって決定され、すべてのメンバーが印欧祖語を共通の祖先に持つと推定される。インド・ヨーロッパ語族の下の語群・語派・分枝への所属を考えるときも遺伝は基準となるが、この場合にはインド・ヨーロッパ語族の他の語群から分化し共通の祖先を持つと考えられる言語内での共用イノベーションが定義の要素となる。たとえば、ゲルマン語派がインド・ヨーロッパ語族の分枝といえるのは、その構造と音韻論が、語派全体に適用できるルールの下で記述しうるためである』。『インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語の起源は印欧祖語であると考えられている。印欧祖語の分化と使用地域の拡散が始まったのは』六千年前とも八千年前とも言われており、その祖地は五千年前から六千年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)とする「クルガン仮説」と、八千年前から九千五百年前のアナトリア(現在のトルコ)とする「アナトリア仮説」が『あるが、言語的資料が増えた紀元前後の時代には、既にヨーロッパからアジアまで広く分布していた』。『この広大な分布に加えてその歴史をみると』、起源前十八世紀ごろから『興隆した小アジアのヒッタイト帝国の残したヒッタイト語』の『楔形文字の一種』『で書かれたヒッタイト語(アナトリア語派)の粘土板文書、驚くほど正確な伝承を誇るヴェーダ語(インド語派)による『リグ・ヴェーダ』、そして戦後解読された』紀元前千四百年から紀元前千二百年頃の『ものと推定される線文字Bで綴られたミケーネ・ギリシャ語(ギリシア語派)のミュケナイ文書など』、紀元前一千年を『はるかに遡る資料から始まって、現在の英独仏露語など』に至る、凡そ三千五百年ほどの『長い伝統を有する。これほど地理的・歴史的に豊かな、しかも変化に富む資料をもつ語族はない。この恵まれた条件のもとに初めて』十九世紀に『言語の系統を決める方法論が確立され、語族という概念が成立した』。『インド・ヨーロッパ諸語は理論的に再建することのできる、一つのインド・ヨーロッパ共通基語もしくは印欧祖語と呼ばれる共通の祖先から分化したと考えられている。現在では互いに別個の言語であるが、歴史的にみれば互いに親族の関係にあり、それらは一族をなすと考えることができる』。但し、『これは言語学的な仮定である。一つの言語が先史時代にいくつもの語派に分化していったのか、その実際の過程を文献的に実証することはできない。資料的に見る限り、インド・ヨーロッパ語の各語派は歴史の始まりから、すでに歴史上に見られる位置にあって、それ以前の歴史への記憶はほとんど失われている。したがって共通基語から歴史の始まりに至る過程は、言語史的に推定するしか方法はない』のであるとある。]

 古代の日本人は、アリヤン民族の原始的祖先禮拜者と同樣、その死者を以つて現世以外の光明至福の王土にのぼり、若しくは苦悶苛責の世界に墮ちるといふ風には考へなかつた。彼等は死者を以つて、なほ此世界に住み、若しくは少くとも此世界と常に交渉をつづけて居るものと考へて居た。日本人最古の神聖なる記録には、なるほど下界の事が記してあり、不思議な雷神及び惡靈が醜惡の内に住んで居るといふ事がある、併しこの漠然とした死者の世界は、生きた人の世界と交通し、その下界の靈は多少その朽廢の内に包まれては居るが、なほ且つ地上に於て人々の奉仕と供物とを受納しうるのである。佛教の渡來までは、天國地獄の考はなかつた。死者の亡靈は奉祭を要し、また多少生者の苦樂を頒かち得る恆久の存在を有するものとして考へられて居た。それ等は飮食竝びに光明を要したが、その代りにまた利福を下し得たのであつた。その身體は地中に融解し去つた、併しその靈の力 はなほ上界にさすらひ、その心髓に透徹し、風の内に水の中に動いて居たのである。死に依つて人々は神祕な力を得たのである――彼等は『上に立つ感の』神(ゴッヅ)になつたのである。

[やぶちゃん注:「日本人最古の神聖なる記録には、なるほど下界の事が記してあり、不思議な雷神及び惡靈が醜惡の内に住んで居るといふ事がある」「古事記」の伊耶那岐(いさなき)の黄泉国訪問のシークエンスを指す。]

 則ち換言すれば最古のギリシヤ及びロオマでいふ意味の神になつたのである。注意すベき事は、此神格化には、東西共に何等道德的差別を伴はない事である。『すべて死者は神になる』とは神道の大解釋家なる平田(篤胤)の記した處である。これと同樣に古いギリシヤ人の考に於ても、後のロオマ人の考に於てすらも、すべて死者は神となつたのである。クウランジュ氏はその『古代の都市』“La Cité Antique”の内に恁う言つて居る『この種の祭拜はただに大人物のみの特權ではない、何等の差別もありはしなかつた……有德の人であつたといふ事すら必要ではなかつた、惡人も善人と同樣神になつた――只だこの死後の存在にあつても、惡人はその前生の惡るい性癖を保持して居たのである』と。神道の信仰も丁度その通りで――善人は善行の神となり、惡人は惡の神となつた――併しすべては等しく神となつたのである。『而して善神も惡神もあるが故に、その好み給ふ供物を以つて、琴を彈じ、笛を吹き、歌ひ且つ舞ひ、其の他神々の意に適ふものを以つてその靈を慰めの要あり』と本居も記した。ラテンの人は死者の惡意ある亡靈を Larvae(惡靈)と呼び、善意ある或は害なき亡靈を Lares(家の神)と呼んだ、アピユレイアスの所謂 Manes(亡靈、死者)Genii(守神)である。併しすべては等しく神々 ―― dii-manes(亡魂の神)であつた、而してシセロはすべてのデイイ・マネスに正當なる禮拜を爲すべき事を警告し『彼等はこの世から去つた人間である――彼等を神惚なるものと考ふるべし』と言つた。

[やぶちゃん注:「クウランジュ」ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。

「『古代の都市』“La Cité Antique”」フュステル・ド・クーランジュが一八六四年に刊行したLa Cité antique(古代都市)。彼の最初期の著作で、上記のウィキによれば、『広い学識を簡明に総合してやさしい形式のもとに表現しようとした時期』の作品である。

「本居」本居宣長。私は宣長の著作を所持せず、読んだこともないが、幸い、平井呈一氏が恒文社版の訳で訳注を附しておられ、これは明和八(一七七一)年成稿の「直毘靈(なほびのみたま)」(「古事記傳」にも所収)に基づくものであることが明らかにされてある(平井氏は「真昆霊」とされるが、誤記か誤植であろう)。以下、引用箇所を恣意的に正字化し、読みは独自にひらがなで歴史的仮名遣によって附したものを示す。

   *

善神もありあしき神も有りて。所行(しわざ)も然(しか)ある物なれば。惡人(あしきひと)も福(さか)えよき人も禍(まが)る事よのつね也。かかれば神は理(ことは)リの当不(あたりあたらず)をもて思ひはかるべきにあらず。ただその怒(いかり)みて。ひたぶるにいつきまつるべきものぞ。されば祭(まつ)るに就(つき)ても其こころはえ有(あり)て。いかにも神の悦(よろこ)び給ふわざをしてまつるぞ古(いにしへ)の道なる。そは万(よろづ)を齋忌(いみ)きよまはりて。堪(たへ)たるかぎり美好物(うまきもの)さはにたてまつり。あるは琴(こと)ひき笛(ふえ)ふき。うたひまひなど。おもしろきわざをしてまつる。これみな神代(かみよ)の古事(ふること)にて。神のよろこび給ふわざ也。

   *

Larvae」ラァルヴェ。ラテン語で、“Larua”(ラゥラア)に同じい。「幽霊」「幻影」の他、「仮面」の意もある。

Lares」ラァレェ。ラテン語で、“Lar”(ラァ)“Laris”(ラァリス)に同じく、その複数形であるこちらで普通は使う。元は「家庭の守護神」で、そこから単に「家」「住居」の意ともなった。

「アピユレイアス」原文“Apuleius”。北アフリカのマダウロス出身の帝政ローマの弁論作家で哲学者アプレイウス(Lucius Apuleius 一二三年頃~没年未詳)。参照したウィキの「アプレイウス」には、『奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博し』、『カルタゴに居住し、文学活動の傍ら』、『アフリカ各地を旅した。哲学者として市民の尊敬を得、カルタゴやマダウロスにアプレイウスの彫像が建てられたと伝えられている』とある。

Manes」マネス。ラテン語で「亡霊」・「死骸」・「下界」・「地獄の苦しみ」の意。

Genii」ラテン語の擬人化された精霊を指すゲニウス(genius)の複数形。所持するラテン語辞書には「守り神」・「才」「我(が)」・「趣味」「楽しみ」などと記すが、ウィキの「ゲニウス」には、『古代ローマ人の信仰においては、ゲニウスは概して守護霊もしくは善意の霊とされ、悪霊は malus genius と呼ばれた』。『一般的に言って、古代ローマの宗教におけるゲニウスとは、個人や場所や事物にあまねく現臨している普遍的な神性を個別化したものであり』、『換言すれば、万象に宿る非人格的な神的力を個別に人格化・神格化したものである』とあり、また、『語源学的には、genius nature は同じ由来を持ち、インド・ヨーロッパ語族の』「gen-」(産出する)から生まれたとある。その他、詳しくはリンク先を参照されたい。

dii-manes」不詳。ラテン語の接頭辞「di-」ならば「dis-」で「分離された」の意であり、また関係があるかどうかは全く不明であるが、「Dis」は冥界の神の名(ギリシャ神話のプルートと同一視された)でもある。ただ、小堀馨子氏の論文「古代ローマの死者祭祀レムリア(Lemuria)再考」(PDF)に『祖霊神(di manes)』の綴りを見い出せる。総体としての祖霊で、これであろう。]

 

 

 神道に於ては、古ギリシヤの信仰に於けるが如く、死ぬといふ事は、超人的の力を獲得するといふ事――超自然の方法に依り、利福を授け若しくは不幸を與へるやうになる事であつた…。併し昨日かくかくの人は、普通の勞役者、何等重きを爲すに足らぬ人物であつた、――が、けふは死んで、聖い力を持つ人となり、其子供等は自分等の事業の繁榮の爲めに、その人に祈願するのである。丁度ギリシヤ悲劇中の人物、たとへばアルセステイスの如き人物も、突然に死に依つて姿をかへ、神聖なものとなり、禮拜若しくは祈禱の言葉を以つて言ひかけられる。併しその超自然の力をもつて居るにも拘らず、死者は自分の幸福に關しては、生者に依賴して居る。夢の外には人の目には見えないが、彼等死者は地上の奉養と奉仕と――飮食竝びに子孫の崇敬を要する。亡靈は孰れもその慰安を得る爲めに生ける近親に寄り縋る、――その近親の信心に依つてのみ、その安息を得るのである。則ち亡靈はその息み所――適當なる墳墓を要し、――それは供物を要する。立派に息み場を有し、適宜な奉養を受ければ、靈は喜び、その奉祭する人々の幸福を守る助けをする。併し若し墓所と、葬式と、飮食と火との供物を缺くならば、靈は飢渇と寒さとのために苦しみ、怒つて惡意ある働きをなし、それ等を怠つた人々に不幸を被らせやうと力める……。かくの如きは死者に對する古ギリシヤ人の思想であつたが、それが又昔の日本人の思想であつた。

[やぶちゃん注:「アルセステイス」原文“Alcestis”。エウリピデスによるギリシア悲劇「アルケスティス」の主人公の女神。参照したウィキの「アルケスティスギリシア悲劇によれば、『死期が迫ったテッタリア地方ペライの王アドメートスが、アポローンの好意によって身代わりを出せば命が助かることとなり、最終的に妃のアルケースティスが身代わりとなって死ぬが、ヘーラクレースが彼女を救い出すという神話を題材とする』とし、紀元前四三八年の『ディオニューシア祭で『クレタの女たち』『テレフォス』『プソフィスのアルクマイオン』の三部作に続くサテュロス劇の代わりに上演され、二等賞を得た』。『エウリピデスの現存する作品の中では最も古いものと目されるが、それでも作家が』五十歳に『近いころのものであるから、全体としては中期の後半あたりに属すると言える』とある。梗概はリンク先を参照されたい。]

 

 亡靈に就いての宗教は、嘗て吾が祖先の宗教であつたが――北歐南歐いづれに於ても、――そしてそれから起こり來たつた慣習、たとへば花を以つて墓を飾る習慣の如きは、今日なほ吾が尤も進歩した社會の間に行はれて居るが――吾が思想の形は、近代文化の影響を受けて、甚だしく變化し、今や死者の幸福が、物質的なる食物に依るといふが如き事を、どうして人々が考へ得たかと想像する事さへ、吾々には困難な位になつた。併し古代のヨオロッパ社會に於ける眞の信仰も、近代の日本に現存する信仰と似たものであつた事は察し得られる處である。死者は食物の實質を食ふと考へられるのではない、只だその目に見えない精氣を吸ふとされて居るのである。祖先禮拜の古い時代にあつては、食物の供御は一般に行はれて居た、後代になつて靈は全く氣息の如き類の給養をすらも殆ど要しないといふ考へが起つて来たに從つて、さういふ供物はだんだん行はれる事が少くなつて來た。併しその供物は如何に少くとも、それが規則正しく行はれる事は必要缺くべからざる事であつた。死者の幸福はかかる影の如き食物に依つて居たのである、而して生者の幸運は死者の幸福に依つたのである。生死の兩者互に他の助けを無視する事は出來なかつた、目に見える世界と、目に見えない世界との兩者は、相互に必要なる無數の覊絆に依つて結ばれて居り、その結び合ひの只だ一個の關係なりとも、これを破れば必ず尤も恐ろしい結果を生ずるのである。

[やぶちゃん注:「供御」「くご」と読み、一般には貴人に供される食膳を指し、後に女房言葉で「ご飯」の意ともなった。
 
「覊絆」「きはん」と読み、「羈絆」と書く。「羈」も「絆」も牛馬を繫ぎ止めるものの意であるから本来は、「行動する者の妨げになる物や事柄」「束縛」の謂いであるが、ここは寧ろ、フラットに「きずな」という謂いで、行動制限などの悪い意味はない。]

 

 

 一切の宗教上の生贄に關する歷史をたどれば、それは皆亡靈に捧げられた供物の古い慣習に歸せられる、而してインドオ・アリヤン民族も、嘗ては皆この靈に關する宗教以外他の宗教を有つては居なかつたのである。事實、すべて進歩した人間の社會は、その歷史の或る期間に、必らず祖先禮拜の狀態を通つて來て居る、併しその靈拜が精緻な文化と兩立して居るのを今日見んと欲するならば、吾々はこれを東洋に求めなければならない。さて日本人の祖先禮拜は――アリヤン人種以外の人民の信仰を代表し、その發達の歷史に於て種々なる興味ある特色を示して居るが――なほ且つ一般祖先禮拜の多くの特徴を具體化して顯にして居る。その内には、あらゆる風土地方に永續して居た祖先禮拜の、あらゆる形の下に潜んで居る次の三種の信仰が特に殘つて居るのである、――

 第一――死者はこの世界にとどまつて居る――その墳墓や又以前の家庭に出沒し、目に見えないながらも、その生きてゐる子孫の生活を共に享けて居る。

 第二――すべで死者は超自然の力を得るといふ意味に於て神になる、併し存生中その特徴であつた特質をなほ保持して居る。

 第三――死者の幸福は生存者が行ふ尊い奉仕に依るのであり、また生存者の幸福は、その死者に對し忠實に義務を果たす事に依るのである。

 

 

 この極めて古い三箇條に加へて、次の箇條がある。恐らくこれは後世に發達したものであり、而も嘗ては偉大なる力を振つたに相違ないものである。

 第四――善なると惡なるとに拘らず、現世に於ける事件――四季の順調、多分の收穫――出水、飢饉、――暴風雨、海嘯、地震等――は死者の業である。

 第五――善にあれ惡にあれ、すべて人間の行爲は死者に依つて左右されて居るものである。

[やぶちゃん注:「海嘯」「かいせう(かいしょう)」と読み、普通なら「海鳴り」のことであるが、ここはカタストロフが列記されているところから、潮津波(しおつなみ:満潮の際に河口に入いる潮波の前面が垂直の高い壁状となって砕けながら川上に激しく進む現象で、河口が三角形状の大きな河川に見られる。ブラジルのアマゾン河口でのポロロッカなどで有名)或いは、原文は“tidal-wave”であり、ここは戸川氏も単に「大津波」の謂いで用いていよう。]

 

 

 始めの三個の信仰は文化の曙光の時から、若しくはその前から、死者がその力の差別なく、すべて神であつた時代から、今日まで殘つて居たものである。後の兩者は、眞の神話――廣漠たる多神教――が亡靈の禮拜から發達し來たつた時代のものと察しられる。此種の信仰は決して單純なものではない、それ等は嚴肅なる恐怖すべき信仰であつて、佛教の助けに依つて、それが駆逐されなかつた間は、此地に住んで居る人々の心を壓迫し、恰もはてなき惡夢のやうな重味をそれに加へて居たに相違ない。併しその形の和らげられた古い方の信仰は、なほ現存する祭祀の根本的の要素となりて居る。日本の祖先禮拜は過去二千年間に多大な變化を受けたが、人の行爲に關するその主要なる性質の上に變化を加へる事はしなかつた、そして社會の全構造はその性質の上に立つて居る事、恰も道德上の基礎の上に立つて居るかの如くである。日本の歷史は實際その宗教の歴史である。この點に就いて、政治といふ事の古い日本語――まつりごと――がその文字上禮拜の事の意であるといふ事實は、尤も注意に値する一事實である。今後吾々はただに政治のみならず、日本社會の殆ど一切の事が直接間接にこの祖先禮拜から出て來て居る事、竝びに生者にあらずして、むしろ死者が國民の統治者であり、國民の運命の形成者であつた事を知るにいたるであらう。

 

 

THE ANCIENT CULT

 

THE real religion of Japan, the religion still professed in one form or other, by the entire nation, is that cult which has been the foundation of all civilized religion, and of all civilized society,— Ancestor-worship. In the course of thousands of years this original cult has undergone modifications, and has assumed various shapes; but everywhere in Japan its fundamental character remains unchanged. Without including the different Buddhist forms of ancestor-worship, we find three distinct rites of purely Japanese origin, subsequently modified to some degree by Chinese influence and ceremonial. These Japanese forms of the cult are all classed together under the name of "Shintō," which signifies, "The Way of the Gods." It is not an ancient term; and it was first adopted only to distinguish the native religion, or "Way" from the foreign religion of Buddhism called "Butsudo," or "The Way of the Buddha." The three forms of the Shintō worship of ancestors are the Domestic Cult, the Communal Cult, and the State Cult;— or, in other words, the worship of family ancestors, the worship of clan or tribal ancestors, and the worship of imperial ancestors. The first is the religion of the home; the second is the religion of the local divinity, or tutelar god; the third is the national religion. There are various other forms of Shintō worship; but they need not be considered for the present.

   Of the three forms of ancestor-worship above mentioned, the family-cult is the first in evolutional order,— the others being later developments. But, in speaking of the family-cult as the oldest, I do not mean the home-religion as it exists to-day;— neither do I mean by "family" anything corresponding to the term "household." The Japanese family in early times meant very much more than "household": it might include a hundred or a thousand households: it was something like the Greek γένος or the Roman gens,— the patriarchal family in the largest sense of the term. In prehistoric Japan the domestic cult of the house-ancestor probably did not exist;—the family-rites would appear to have been performed only at the burial-place. But the later domestic cult, having been developed out of the primal family-rite, indirectly represents the most ancient form of the religion, and should therefore be considered first in any study of Japanese social evolution.

   The evolutional history of ancestor-worship has been very much the same in all countries; and that  of the Japanese cult offers remarkable evidence in support of Herbert Spencer's exposition of the law of religious development. To comprehend this general law, we must, however, go back to the origin of religious beliefs. One should bear in mind that, from a sociological point of view, it is no more correct to speak of the existing ancestor-cult in Japan as "primitive," than it would be to speak of the domestic cult of the Athenians in the time of Pericles as "primitive." No persistent form of ancestor-worship is primitive; and every established domestic cult has been developed out of some irregular and non-domestic family-cult, which, again, must have grown out of still more ancient funeral-rites.

   Our knowledge of ancestor-worship, as regards the early European civilizations, cannot be said to extend to the primitive form of the cult. In the case of the Greeks and the Romans, our knowledge of the subject dates from a period at which a domestic religion had long been established; and we have documentary evidence as to the character of that religion. But of the earlier cult that must have preceded the home-worship, we have little testimony; and we can surmise its nature only by study of the natural history of ancestor-worship among peoples not yet arrived at a state of civilization. The true domestic cult begins with a settled civilization. Now when the Japanese race first established itself in Japan, it does not appear to have brought with it any civilization of the kind which we would call settled, nor any well-developed ancestor-cult. The cult certainly existed; but its ceremonies would seem to have been irregularly performed at graves only. The domestic cult proper may not have been established until about the eighth century, when the spirit-tablet is supposed to have been introduced from China. The earliest ancestor-cult, as we shall presently see, was developed out of the primitive funeral-rites and propitiatory ceremonies.

   The existing family religion is therefore a comparatively modern development; but it is at least as old as the true civilization of the country, and it conserves beliefs and ideas which are indubitably primitive, as well as ideas and beliefs derived from these. Before treating further of the cult itself, it will be necessary to consider some of these older beliefs.

 

   The earliest ancestor-worship,— "the root of all religions," as Herbert Spencer calls it,— was probably coeval with the earliest definite belief in ghosts. As soon as men were able to conceive the idea of a shadowy inner self, or double, so soon, doubtless, the propitiatory cult of spirits began. But this earliest ghost-worship must have long preceded that period of mental development in which men first became capable of forming abstract ideas. The primitive ancestor-worshippers could not have formed the notion of a supreme deity; and all evidence existing as to the first forms of their worship tends to show that there primarily existed no difference whatever between the conception of ghosts and the conception of gods. There were, consequently, no definite beliefs in any future state of reward or of punishment,— no ideas of any heaven or hell. Even the notion of a shadowy underworld, or Hades, was of much later evolution. At first the dead were thought of only as dwelling in the tombs provided for them,— whence they could issue, from time to time, to visit their former habitations, or to make apparition in the dreams of the living. Their real world was the place of burial,— the grave, the tumulus. Afterwards there slowly developed the idea of an underworld, connected in some mysterious way with the place of sepulture. Only at a much later time did this dim underworld of imagination expand and divide into regions of ghostly bliss and woe. . . . It is a noteworthy fact that Japanese mythology never evolved the ideas of an Elysium or a Tartarus,— never developed the notion of a heaven or a hell. Even to this day Shintō belief represents the pre-Homeric stage of imagination as regards the supernatural.

   Among the Indo-European races likewise there appeared to have been at first no difference between gods and ghosts, nor any ranking of gods as greater and lesser. These distinctions were gradually developed. "The spirits of the dead," says Mr. Spencer, "forming, in a primitive tribe, an ideal group the members of which are but little distinguished from one another, will grow more and more distinguished;— and as societies advance, and as traditions, local and general, accumulate and complicate, these once similar human souls, acquiring in the popular mind differences of character and importance, will diverge — until their original community of nature becomes scarcely recognizable." So in antique Europe, and so in the Far East, were the greater gods of nations evolved from ghost-cults; but those ethics of ancestor-worship which shaped alike the earliest societies of West and East, date from a period before the time of the greater gods,— from the period when all the dead were supposed to become gods, with no distinction of rank.

   No more than the primitive ancestor-worshippers of Aryan race did the early Japanese think of their dead as ascending to some extra-mundane region of light and bliss, or as descending into some realm of torment. They thought of their dead as still inhabiting this world, or at least as maintaining with it a constant communication. Their earliest sacred records do, indeed, make mention of an underworld, where mysterious Thunder-gods and evil goblins dwelt in corruption; but this vague world of the dead communicated with the world of the living; and the spirit there, though in some sort attached to its decaying envelope, could still receive upon earth the homage and the offerings of men. Before the advent of Buddhism, there was no idea of a heaven or a hell. The ghosts of the departed were thought of as constant presences, needing propitiation, and able in some way to share the pleasures and the pains of the living. They required food and drink and light; and in return for these; they could confer benefits. Their bodies had melted into earth; but their spirit-power still lingered in the upper world, thrilled its substance, moved in its winds and waters. By death they had acquired mysterious force;— they had become "superior ones," Kami, gods.

   That is to say, gods in the oldest Greek and Roman sense. Be it observed that there were no moral distinctions, East or West, in this deification. "All the dead become gods," wrote the great Shintō commentator, Hirata. So likewise, in the thought of the early Greeks and even of the late Romans, all the dead became gods. M. de Coulanges observes, in La Cité antique: "This kind of apotheosis was not the privilege of the great alone. no distinction was made. . . .  It was not even necessary to have been a virtuous man: the wicked man became a god as well as the good man,— only that in this after-existence, he retained the evil inclinations of his former life." Such also was the case in Shintō belief: the good man became a beneficent divinity, the bad man an evil deity,— but all alike became Kami. "And since there are bad as well as good gods," wrote Motowori, "it is necessary to propitiate them with offerings of agreeable food, playing the harp, blowing the flute, singing and dancing and whatever is likely to put them in a good humour." The Latins called the maleficent ghosts of the dead, Larvae, and called the beneficent or harmless ghosts, Lares, or Manes, or Genii, according to Apuleius. But all alike were gods,— dii-manes; and Cicero admonished his readers to render to all dii-manes the rightful worship: "They are men," he declared, "who have departed from this life; consider them divine beings. . . ."

 

      In Shintō, as in old Greek belief, to die was to enter into the possession of superhuman power, to become capable of conferring benefit or of inflicting misfortune by supernatural means. . . .  But yesterday, such or such a man was a common toiler, a person of no importance;— to-day, being dead, he becomes a divine power, and his children pray to him for the prosperity of their undertakings. Thus also we find the personages of Greek tragedy, such as Alcestis, suddenly transformed into divinities by death, and addressed in the language of worship or prayer. But, in despite of their supernatural power, the dead are still dependent upon the living for happiness. Though viewless, save in dreams, they need earthly nourishment and homage,— food and drink, and the reverence of their descendants. Each ghost must rely for such comfort upon its living kindred;— only through the devotion of that kindred can it ever find repose. Each ghost must have shelter,— a fitting tomb;— each must have offerings. While honourably sheltered and properly nourished the spirit is pleased, and will aid in maintaining the good-fortune of its propitiators. But if refused the sepulchral home, the funeral rites, the offerings of food and fire and drink, the spirit will suffer from hunger and cold and thirst, and, becoming angered, will act malevolently and contrive misfortune for those by whom it has been neglected. . . .  Such were the ideas of the old Greeks regarding the dead; and such were the ideas of the old Japanese.

 

   Although the religion of ghosts was once the religion of our own forefathers— whether of Northern or Southern Europe,— and although practices derived from it, such as the custom of decorating graves with flowers, persist to-day among our most advanced communities,— our modes of thought have so changed under the influences of modern civilization that it is difficult for us to imagine how people could ever have supposed that the happiness of the dead depended upon material food. But it is probable that the real belief in ancient European societies was much like the belief as it exists in modern Japan. The dead are not supposed to consume the substance of the food, but only to absorb the invisible essence of it. In the early period of ancestor-worship the food-offerings were large; later on they were made smaller and smaller as the idea grew up that the spirits required but little sustenance of even the most vapoury kind. But, however small the offerings, it was essential that they should be made regularly. Upon these shadowy repasts depended the well-being of the dead; and upon the well-being of the dead depended the fortunes of the living. Neither could dispense with the help of the other. the visible and the invisible worlds were forever united by bonds innumerable of mutual necessity; and no single relation of that union could be broken without the direst consequences.

 

   The history of all religious sacrifices can be traced back to this ancient custom of offerings made to ghosts; and the whole Indo-Aryan race had at one time no other religion than this religion of spirits. In fact, every advanced human society has, at some period of its history, passed through the stage of ancestor-worship; but it is to the Far East that we must took to-day in order to find the cult coexisting with an elaborate civilization. Now the Japanese ancestor-cult — though representing the beliefs of a non-Aryan people, and offering in the history of its development various interesting peculiarities — still embodies much that is characteristic of ancestor-worship in general. There survive in it especially these three beliefs, which underlie all forms of persistent ancestor-worship in all climes and countries:—

   I.— The dead remain in this world,— haunting their tombs, and also their former homes, and sharing invisibly in the life of their living descendants;—

   II.— All the dead become gods, in the sense of acquiring supernatural power; but they retain the characters which distinguished them during life;—

   III.— The happiness of the dead depends upon the respectful service rendered them by the living; and the happiness of the living depends upon the fulfilment of pious duty to the dead.

 

   To these very early beliefs may be added the following, probably of later development, which at one time must have exercised immense influence:—

   IV.— Every event in the world, good or evil,— fair seasons or plentiful harvests,— flood and famine,— tempest and tidal-wave and earthquake,— is the work of the dead.

   V.— All human actions, good or bad, are controlled by the dead.

 

   The first three beliefs survive from the dawn of civilization, or before it,— from the time in which the dead were the only gods, without distinctions of power. The latter two would seem rather of the period in which a true mythology — an enormous polytheism — had been developed out of the primitive ghost-worship. There is nothing simple in these beliefs: they are awful, tremendous beliefs; and before Buddhism helped to dissipate them, their pressure upon the mind of a people dwelling in a land of cataclysms, must have been like an endless weight of nightmare. But the elder beliefs, in softened form, are yet a fundamental part of the existing cult. Though Japanese ancestor-worship has undergone many modifications in the past two thousand years, these modifications have not transformed its essential character in relation to conduct; and the whole framework of society rests upon it, as on a moral foundation. The history of Japan is really the history of her religion. No single fact in this connection is more significant than the fact that the ancient Japanese term for government — matsuri-goto — signifies liberally "matters of worship." Later on we shall find that not only government, but almost everything in Japanese society, derives directly or indirectly from this ancestor-cult; and that in all matters the dead, rather than the living, have been the rulers of the nation and—the shapers of its destinies.

どうぞ裸になって下さい 村山槐多 (自筆草稿断片より やぶちゃん完全復元版)

  どうぞ裸になって下さい(自筆草稿断片より やぶちゃん完全復元版)

 

 どうぞ裸になって下さい

 

 ねえさん

うつくしいねえさん

どうぞ裸になって下さい

羽織からゆもじまで

すつかりとって

まる裸になって下さい

ああ 心がをどる

どんなにうつくしいだらう

あなたのまる裸

{ねえさん}とても見ずには居ら{すまさ}れません

どうぞ裸になって下さい

うたまろの畫の樣なねえさん

 

[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『どうぞ裸になって下さい』」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトの拡大画像)。字配もなるべく復元を心掛けたが、短い詩篇ながら、抹消と挿入が複雑なので一部を記号で整序した。使用漢字はなるべくそのままのものを採用したが、「様」の略字は正字化した。

 少しく説明する。まず、拗音表記は総てママであるので注意されたい。即ち、現行のそれらは拗音部に関して言えば、歴史的仮名遣表記に従って綺麗に消毒されたものであることが判るということである。

 

・表題は本文罫の四行目(最右端の有意に幅広の罫線外を一行と数えるなら五行目)に書かれているが、その二行前(私の判断する本文罫一行目のほぼ中央(標題の「って」の右手位に大きな「レ」点のようなチェック・マーキングが一つある。但し、これは本文のインクの色とは全く異なる。

・標題(四行目)と初行(六行目)の間に「ねえさん」が書かれてあるが、三本以上の取消線によって抹消されている。

・「羽織からゆもじまで」は二本の取消線で抹消されている。

・「すつかりとって」も二本の取消線で抹消されている。

・「ああ 心がをどる」の感動詞「ああ」の後には有意に半角程度の空きが認められる。

・本文七行目は恐らく、最初に、

「どんなにうつくしいだらう」

と記したが、気に入らず、

「いだらう」

を抹消して、

「かろ」

とを右に加えて、

「うつくしかろ」

訂したものとは思われるが、この「かろ」の箇所は「か」と「ろ」の間に明白な一字を書いたものを徹底的に黒く塗りつぶした跡がある。推定としては、「うつくしから」(う)と書こうとして「ら」を抹消して「かろ」とした可能性が考え得るようには思う(潰された字は判読不能で、あくまで推理に過ぎない)。

・本文九行目は錯綜している。「 {ねえさん}とても見ずには居ら{すまさ}れませんぬ」の{ }は挿入を指し、{ }は挿入したが抹消したことを示す。想定される推敲順に説明する。

①行頭に「見」という漢字を第六画まで書きながら放置している。実は抹消線はない。しかし、この最後の七画目を書かない字は彼にとっては無効抹消の字と判断されて意識外に廃棄されたものと判断して抹消線を附したものである。

②恐らく最初は、以下二字目から改めて、

「とても見ずには居られません」

と書いたのであるが、気に入らず、そこで、

「居ら」を抹消するも、「れ」を残しておいて、「居ら」を「すまさ」と訂した。

その結果、

「すまされ」となり、

今度は以下の「せん」を抹消して、

「すまされぬ」

とし、全体を、

「とても見ずにはすまされぬ」

訂したのである。ここで大事なことは「れ」は生きている点である。

③冒頭の抹消みなしの「見」の不完全字の下に向けて、最終行の後の左から、アーチ状の挿入記号があり、その左後方には、

「ねえさん」

とある。ところが、これは二本の抹消線で消されてある。これは①や②に先行するものかも知れない

・最終行は全抹消されている。

 

 以上から、この草稿の決定稿は私なり整序するならば、以下のようになる。

 

   *

 

 どうぞ裸になって下さい

うつくしいねえさん

どうぞ裸になって下さい

まる裸になって下さい

ああ 心がをどる

どんなにうつくしかろ

あなたのまる裸

とても見ずにはすまされぬ

どうぞ裸になって下さい

 

   *

 さて、これは現行の槐多詩篇どうぞ裸になて下さいの草稿――というよりも決定稿と私は断ずる――であるが、驚くべきことに、大正九(一九二〇)年アルス刊「槐多の歌へる」も、無論、それを踏襲した現行の平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」も、これは、

 

  どうぞ裸になつて下さい

 

うつくしい□□□□

どうぞ裸になつて下さい

まる裸になつて下さい

ああ心がおどる

どんなにうつくしかろ

あなたのまる裸

とても見ずにはすまさぬ

どうぞ裸になつて下さい

 

となっている(本文二行目の「どうぞ」は「槐多の歌へる」では「どうそ」であるが、ここは誤植と断じて訂した)。「おどる」は孰れもママ。「全集」では編者注があり、伏字部分を『お珠さん』と推定復元するが、槐多がストーカーした彼女の固有名詞をここに復元出来る根拠は示されていない。ところがである! この草稿によって、

 

彌生書房版全集の伏字推定の「お珠さん」は誤りであり、「ねえさん」であったことが判明した!

 

のである!

 しかも! 七行目は、

 

飢えた性獣のような乱暴な「とても見ずにはすまさぬ」という云い方ではなくて、より自然で礼儀正しい日本語である「とても見ずにはすまされぬ」であった!

 

のである! またしても我々は、村山槐多の真の詩の響きを、実に九十九年後の今日只今(本篇は大正六(一九一七)年作)聴くことが出来たのである!

2016/01/23

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(PDF縦書版/β版)

本文内注のリンクは機能しないのは御寛恕戴きたい。

2016/01/22

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注 (2)  新奇及び魅力

 

 新奇及び魅力

 旅客の筆にして居る日本に關する第一印象の多數は愉快な印象である。全くの處、日本がその人の情緒の上に何等訴ふる處もないと云ふやうな性質の人には何ものか缺陷があるのか、或は其人に何處か苛酷な處があるに相違ない。その心に訴ふる所以は則ち問題解決の端緒である、而してその問題とはこの人種及びその文化の特質を指すのである。

 日本――晴れ切つた春の日の白い日の光の内に姿を現はした日本――に關する私一個の第一印象は言ふまでもなく、普通一般の人の經驗する處と共通な點を多くもつて居た。特に私はその光景の驚きと悦びとを記憶して居る。この驚きと悦びとは遂に消え去らなくて、滯在十四五年後の今でも屢々、何か偶然の機會があれば頭を擡げて來るのである。併しながら恁ういふ感情の起こり來る理由に至つては知り難い――若しくは少くとも攷(かんが)へ難い、何となれば私はまだ多く日本に就いて知るとは言へないのであるから……餘程以前に私の得た尤も良い尤も親しい日本の友人が、その死ぬ少し前に私に言つた事があつた『これからなほ四五年經つて、貴下が全く日本人は了解が出來ないとお考へになるやうになつたら、その時始めて貴下は日本人に就いて幾分かお解りになり始めるでせう』と。この友人の豫告の眞實なる事を實際に感じた後――私は全然日本人を了解し得ない事を發見した後――私は却つてこの論文を試みる資格のある事を感ずる次第である。

[やぶちゃん注:「滯在十四五年」ハーンの来日は明治二三(一八九〇)年四月四日で、本書の執筆は明治三六(一九〇三)年三月の東京帝国大学による不当解雇の後であるから実質は起筆は丸十三年ほど、所謂、数えでなら十四年になるが、翌ハーン没後一ヶ月後の出版(明治三七(一九〇四)年十月)まで引き延ばせば、数えで「十五年」も正当な表現と言える。実は原文は“after fourteen years of sojourn”であるから、戸川氏は公刊時を念頭に数えの十五年と加えたものかも知れない。

「恁ういふ」「かういふ(こういう)」と読む。

「餘程以前に私の得た尤も良い尤も親しい日本の友人」これに最もよく当て嵌まる人物は私は松江中学校奉職時代の校長心得(教頭)であった西田千太郎(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)が有力な候補であるように思われてならない。西田氏は郷里島根県で母校松江中学の英語教師を務め、この明治二三(一八九〇)年九月に着任したハーンと親交を結び、ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。ハーンと出逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなっている(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

 

 最初に知覺した通り、日本に於ける事物の外觀上の新奇は、(少くとも或る種の人には)敍述しがたい一種異樣な竦動――全く見知らぬものに就いての知覺に伴なつてのみ吾々に起こり來る不氣味の感を起こさせる。我々は普通でない形をした上衣と草鞋とをつけた妙な矮人の澤山に居る異樣な小さい町筋を通つて動いて居る、そして一見したばかりでは、その人の男だか女だかの別も出來ない。家は吾々の經驗した處とは全く異つた仕方で建造され、造作をつけられて居る、さらに店舖に竝べられてある無數の品物の用途も意義も、全く考へつかれないのを知りて、吾々は呆然とするのである。何處から來たものか想像もつかないやうな食料品、謎のやうな形をした器具、何か祕密な信仰から來たものである理解の出來ない符牒、神々や惡魔に關する傳説を記念させる面と玩具、なほ怪異な耳をもち顏に笑をたたへて居る神々そのものの妙な姿、すべて斯樣なものを、吾々は歩き廻はるに從つて認める事であらう、よし一方には電柱やタイプライタ、電燈及びミシンを見るに相違ないに。到る處、看板に、暖簾に、又道行く人の背に、驚くべき漢字を見る事であらう、そしてこれ等のものの不思議さこそは光景の主調を成すものである。

[やぶちゃん注:「竦動」「しようどう(しょうどう)」と読み、謹み畏(かしこ)まること、恐れて身を縮めることを意味する。]

 

 この奇異な世界といよいよ進んで近接しても、その最初の光景に依つて喚起されら新奇の感は決して減少される事はない。人はやがて此人民の身體上の行動すらも珍らしいものである事――彼等の仕事のやり方は西洋のやり方と反對である事を認めるであらう。諸々の道具の恰好は驚くべきもので、それがまた驚くべき方法によつて取り扱はれる。鍛冶工は鐡敷の前に蹲つて槌を揮るふが、其槌は永く練習しなければ、西洋の鍛冶工には使ひ得ないやうな道具である。大工は異樣なその鉋と鋸とを、前に突かずに後へ引く。いつも左側が正しい側で、右が間違つた側である。錠を開閉する鍵は、吾々の間違つた方向と常に考へて居る方に廻はさなければならない。日本人は逆に話し、逆に讀み、逆に書くとパアシヷル・ロヱル氏が言つたのは常を得て居る――而もこれは『彼等日本人の逆行のいろはに過ぎない』のである。ものを逆に書く習慣に就いては明らかに進化論上の理由がある。そして日本の書法には、當然その理由があるので、書家はその筆を手前に引かずに、それを前方に押すのである。併しながら何故に日本の娘は絲を針の目に通す事をせずして、針の目をして絲の尖端を通して行かせるやうな事をするのであるか。反對のやり方の無數にある例の内で、尤も顯著なものは、日本の剱術の示す爲のであらう。剱客は兩手を以つてその一撃を施すのであるが、その打擊の際にその刃を自分の方に引かずに、自分の方から前の方にそれを突きやる。則ち他のアジヤ人のするやうに楔の理窟でせずに、鋸の理窟でやるのである兎に角打擊をするに吾々が手前に引く運動を期待して居る時、突く運動があるのである…………これ等の他いろいろな吾々の知らないやり方があつて、その不思議な事は身體上から言つても、日本人は別世界の人であるかのやうに、吾々とは緣の薄い人間であるといふ考ヘ――何か解剖學上の相違のあるといふ考へを起こさせる位である。併しそんな相違はありさうにも思はれない、それですべてかくの如き反對は、恐らくアリヤン人種の經驗とは全く離れた人間の經驗から來たものではなくて、進化論から言つて吾々の經驗よりもまだ經驗の若い處から來たものであらうと考へられる。

[やぶちゃん注:「いつも左側が正しい側で、右が間違つた側である」平井呈一氏は一九七六年恒文社刊「日本――一つの試論」(私はこの題名の訳こそが正しいと思っている)では、『左がつねに正しい側で、右はギッチョなのである』と訳しておられるが、無論、実際には日本人が左利きなわけではないから、幾つかの道具の用い方が西洋の方式とは反対であることから、八雲は所謂、本邦の信義上儀礼上の「右よりも左が尊位」ということをここで強調しようとしているように私には思われる。大方の御批判を俟つ。

「パアシヷル・ロヱル」アメリカ人天文学者にして日本研究者であったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」より引く。『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年の『「Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』。三百枚に近い『図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』。『最大の業績は、最晩年の』一九一六年に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、一九三〇年に『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名』“Pluto”には、ローウェルのイニシャルである“P.L.”『の意味もこめられている』とある。一八八九年から一八九三年(明治二十二年から二十六年で、ハーンは明治二十三年に来日しているから、殆んどハーンと同時期の日本を体験している)にかけて、明治期の日本を五回も訪れ、通算約三年間、滞日したことになる。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』(下線やぶちゃん。以下同じ。因みに、私はモースの『日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』を電子化注しているが、フェノロサとビゲローはモースによって来日したと言ってもよい)。しかし、『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とあるものの、『日本語を解するバジル・ホール・チェンバレンはこの説に批判的であり、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったラフカディオ・ハーンもこの没個性論には否定的だった』と注にある。ここで八雲が引くのは、私は当該書を読んでいないが、ローウェルが一八八八
年に刊行した“
The Soul of the Far East”(極東の魂)か? 識者の御教授を乞う。

「アリヤン人種」“Aryan”はこの場合、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族は共通の祖先であるアーリア人から発生したものとするアーリアン学説に基づく人種説の一つで、その場合の「アーリア人」は以下に示す狭義のそれよりも遙かに拡大されてしまうので注意が必要である。狭義のアーリア人はインド・ヨーロッパ語族に属する言語を話し、紀元前一五〇〇年頃に中央アジアからインドやイランに移住した古代民族で、現代のヨーロッパやアジアの多くの民族との文化的共通性を持ってはいるが、現行ではあらゆる学術分野からその非科学性が指摘され、アーリアン学説自体は最早、人類学の人種説としての意味を失っている。なお、後にナチス・ドイツが用いた人種分類の一つである「アーリア人」は専ら優勢性を主張するための差別語に過ぎず、起源を異にするセム(ユダヤ)人に対してアーリア人であるゲルマン民族の優越を述べるための非科学的非論理的表現であるが、我々は「アーリア人」という言葉に未だ以って、このヒトラーの亡霊の呪文の呪縛を受けているきらいが十分にあるということを自戒する必要があるように思われる。なお、「アーリア」とは梵語(古代インド語サンスクリット)で「貴い」(ārya)に由来する。]

 

 併しながらその經驗は決して劣等なものではなかつた。其表現はただ驚かすばかりでなく、又人を悦ばすものである。纎細なる細工の完璧、物象の輕快な力と品位、最少の材料を以つて最上の結果を收めんとするやうになされた力、出來うる限り筒單な方法に依つて機械力の目的を達する事、審美的價値あるものとして、不規則を了解する事、一切のものの恰好及び完全な趣味、着色若しくは色彩にあらはれたる調和の感――すべてこれ等の事は、ただに藝術及び趣味の事に於けるのみならず、又經濟と功利(利用厚生)の事に於ても、吾が西洋はこの遠く隔たつたる文化から學ばなければならぶ處の少くない事を直に納得させられるに相違ない。これ等驚くべき陶器、目ざましい刺繡、漆器、象牙、靑銅の細工等は吾々の知らない方向に想像力を教育するものであるが、其觀者に訴ふる所以は決して野蠻曖昧な空想から生ずるのではない。否、これ等はその範圍内にあつては、藝術家以外には何人も其製作品を批判する事の出來ない位に微妙になつた文化――三千年前のギリシヤ文化を指して不完全と稱する人々に依つてのみ不完全と稱されうる文化の産物である。

 併しながらこの世界の根抵に横たはつて居る奇異――心理上の奇異――は眼に見ゆる外觀の奇異よりも遙かに驚くべきものである。西洋で成人になつた者は到底日本の言語を完全に用ふる事の出來ないのを知るに至つて、人々は始めて、此奇異なる事の如何に大なるかを察しうるであらう。東洋も西洋も人情の根本的働き――情緒の基礎――に至つては多くは同じものである、日本の子供とヨオロッパの子供との精神上の相相違は主として、其力の未發的な處にある。然るに其發育と共に此相違は急速に發展し、擴大し、やがて成人に於てはそれが言語を以つては現はし難い程になる。日本人の精神上の構造はすべて放出して、西洋の心理的發達とは何等共通の點なき諸相を構成する、則ち思想の表現は制限を加へられ、感情の表現は抑制せられて、人を惑亂せしめる姿を爲す。日本人の思想は吾々の思想とは違ひ、其情操は吾々の情操とは違ふ、日本人の倫理的生活は、吾等に取つては、未だ探究された事のない、若しくは恐らく永く忘れられたる思想竝びに感情の世界を示すものである。試みに日本人の普通の辭句を一つ取つて、これを西洋の言葉に飜譯して見ると、それは何とも仕樣のない無意味なものになる、尤も簡單な英文を逐字的に日本語にして見ると、ヨオロッパ語を學んだ事のない日本人には殆どそれは理解されまい。日本の字書にある言葉を悉く學ぶ事が出來たとして、さらに日本人のやうに考へる事を學ばない以上――則ち逆に考へ、上と下と、外と内とを、取り違へて考へ、アリヤン人には全く緣のない方向に考へるのでなければ、文學の習得も、諸君の對話を了解さす助けとは少しもならないのである。ヨオロッパ語の習得に就いての經嶮は、それが火星住民の語る言語を學ぶ助けとなすに足らないと同樣に、日本語を學ぶ助けとはならない。日本人が用ふるやうに日本語を用ひうるには、生まれかはり、根抵から頭腦をすつかり改造して來なければならない。日本で生まれ、幼年の時から日本語を用ひなれてゐるヨオロッパ人を兩親とする人ならば、或はかの本能的の知識を後年まで持續し、其精神上の關係を日本の環境に適應さす事が出來るかも知れない、これは可能な事である。事實ブラックといふ日本で生まれたイギリス人があるが、此人の日本語に於ける勘能は、自らはなしかを職業として可なりな收入を得て居たといふ事實に依つて證明されて居る。併しこれは異常な場合である……。文學上の用語に就いて言へば、これを知るのは幾千の漢字を知るよりも遙かに多くの知識を要するとだけ言つて置けばよからう。西洋の人にして、自分の前に提出された文學上の文章を。一見して直ぐに了解しうるものは、一人もないと言つても誇張の言ではあるまい――實際日本の學者でもさういふ事をなし得る人は極めて少數である――そして幾多のヨオロッパ人が示して居る此方面に於ける其學識は、敬嘆に値するものではあるが、何人の著作と雖も、日本人の助力なくして、世界に發表され得たものは一つもないのである。

[やぶちゃん注:ここで言っておくと、戸川の訳のリーダの長さは表記通り、場所によって一定していない。それも再現してある。

「火星住民」ここで火星人が出るのには驚かされるが、これは恐らく前段に登場して貰ったローウェル火星人存在説に引っ掛けた八雲のお遊びであろう。但し、霊の存在を信じていた八雲が火星人の実在を信じていなかったかどうかは断言は出来ぬ。

「ブラックといふ日本で生まれたイギリス人」の「はなしか」落語家・講釈師。奇術師であった初代快楽亭ブラック(一八五八年(安政五年)~大正一二(一九二三)年)のこと。ウィキの快楽亭ブラック(初代)」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『イギリス領オーストラリアのアデレード生まれ。国籍は初め英国、のち日本に帰化している。本名ははじめヘンリー・ジェイムズ・ブラックHenry James Black)、帰化後の日本名は石井貎刺屈(いしいぶらつく)』。『先祖はスコットランド人、祖父の代までは海軍や陸軍の軍人。一八六五年(慶応元年)、日本初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者として日本に滞在していた父・J・R・ブラック(J. R. Blackの後を追い、母とともに来日した。父はのちに『日新真事誌』という新聞を発行して新政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、日本を見限って上海に渡った。このころ近所に演説好きの堀竜太がおり親しくなり自身も一、二度演説に立ったこともある』。『十八歳になっていた長男ブラックは単身日本に残る道を選び、一八七六年(明治九年)、奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し始める。同年七月には浅草西鳥越の芳川亭と日本橋南茅場町の宮松亭において、ハール・ブラックの名で西洋手品を興行した記録が残っている。その後の二~三年間は、一説によるとアメリカのシアトルで母と共に生活していたという』。『一八七八年(明治十一年)、再度来日。翌年春、以前から親交があった講談師二代目松林伯圓に誘われ横浜馬車道の富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。同年、正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った』(一八八〇年には父が五十三歳で死去している)。『当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代目伊藤燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌一八八〇年(明治十三年)に許可を取得。以後、本格的に寄席に出演するようになった。ところが親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英語塾を開かざるを得なかったが、結局は演芸の世界に舞い戻る。一八八四年(明治十七年)には三遊亭圓朝・三代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入った』(この間の明治二十三年にハーンは来日している)。『一八九一年(明治二十四年)三月より快楽亭ブラックを名乗る。その二年後の一八九三年(明治二十六年)四月に浅草猿若町菓子屋の娘・日本人女性の木村アカと結婚し婿養子となり、日本国籍を取得。本名を石井貎刺屈と改めた、この国際結婚は日本よりも祖国イギリスでの新聞が大々的に報じ話題になった、その後アカとは離婚している。これ以後、ブラックの八面六臂の活躍が始まる。西洋の小説を翻案した短編小説や、それをもとにした噺を書き出したのを手始めに、やがて自作の噺を創作するようにまでなり、べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家として人気を博した。また、高座で噺の最中に手品を見せてみたり、歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演してみたり、一八九六年(明治二十九年)には日本初とされる催眠術の実演を行ったりもしている』。『一九〇三年(明治三十六年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲、かっぽれなど諸芸を録音円版に録音。これが日本初のレコード録音となる。音質は不鮮明ながら、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、初代三遊亭圓遊、三代目柳家小さん、浪花亭愛造、豊年斎梅坊主など明治の名人たちの貴重な肉声が残されることになった』(八雲が本書を起筆した年である。即ち、まさに本篇が書かれたのは快楽亭ブラックの絶頂期であったことが判る)。しかし、『一九〇七年(明治四十年)になると人気が凋落し、落語見立で「東前頭四枚目」に落ちる。一九〇八年(明治四十一年)九月二十三日、兵庫県西宮の恵比須座に出演中に亜砒酸で自殺未遂騒動を起こすまでになった。関東大震災の衝撃覚めやらない一九二三年(大正十二年)九月十九日、白金三光町の自宅で満六十四歳で死去、死因は脳卒中。遺骸は横浜外国人墓地の父の隣に埋葬された』。私も若い頃、彼の墓をお参りした。]

 

 併し日本の外面の奇異が飽くまで美を示すと同樣に、その内面の奇怪に至つては又別の魅力をもつて居るやうに考へられる――即ち人々の日常生活に反映して居る一種倫理的の魅力をもつて居る。この日常生活の興味ある情景は、普通の觀察者には、それが幾世紀を積んで得られたる心理上の異樣な發展を示すものであるとは考へられまい、パアシヷル・ロヱル氏の如き科學的精神をもつた人のみが、直に提出されたるこの問題を了解するのである。かくの如き天與の力を多くもつて居ない外國人は、よし生來同情を有つて居るとしても、只だそれを樂しみ、また惑ひ、かくして世界の他方面(西洋)に於ける自分の樂しい生活の經驗に依つて、今自分の心を魅したるこの社會狀態を説明しようと試みる。今かくの如き外國人が、幸にして日本内地の古風な都會に、六箇月若しくは一箇年間住み得たと假定する。すると此滯在の最初から、その人は自分の周圍なる生活に顯はれて居る親切と樂しさとに感銘せざるを得ないであらう。人々相互の關係に於て、竝びに人々の自分に對する關係に於て、その人は餘所ならば全く水入らずの親しい仲間に於てのみ得られるやうな、不變の快心、如才なさ、良い氣心等を、感得するであらう。人は誰れでも他の人に挨拶するに、嬉しさな顏附と樂しさうな言葉とを以つてする、顏はいつも微笑してゐる、日常生活の極めて普通な事件も、教へられずして直に眞心から起こつたと思はれるやうな、全く技巧を加へない、而も全く瑕瑾のない、儀禮のためにその形をかへて立派なものとなつてしまふ。如何なる周圍の事情があつても、外面の快い好機嫌は失はれない、どんな嫌な事が來ようとも――暴風雨でも、火災でも、洪水でも、地震でも――笑聲の挨拶、晴れやかな微笑、しとやかな敬禮、親切な慰問、喜ばさうとの願ひ等は、いつまでも生存を美しくして居る。この日光の内には宗教も陰影を投じない、佛や神々の前で祈禱する時でも人々は徴笑して居る、お寺の庭は子供の遊び場である、そして大きな公共の神廟の境内に――それは莊嚴の場所といふよりも祭禮の場所である――舞踊の舞が建てられて居る。家族の生活は到る處温和といふ特徴をもつて居るらしく、目に見ゆる爭ひもなく、無情な荒ら立つた聲もなく、涙もなく、叱責の聲もない。殘酷といふ事は動物に對してすらないらしく、町に來る農夫は牛馬を側につれて辛抱強く歩きながら、この口をきかぬ相手を助けて荷物を荷ひ、笞その他の剌激物を用ひない。車を曳くものも、極めて癪にさはさうな場所にありながら、道をよけて、のろのろして居る犬若しくは愚かな雛をひくやうな事はしない…………隨分長い間、人はかくの如き光景の間に目を送つて居ても、その生存の樂しさを害ふやうなものを認める事はないのである。

[やぶちゃん注:「瑕瑾」「かきん」と読み、傷の意であるが、一般には、特に全体として優れている中にあって、惜しむべき小さな傷・短所・欠点をいう。

「害ふ」「そこなふ(そこなう)」で「損なう」に同じい。]

 

 言ふまでもなく、私が言ふかくの如き狀態は今や消失しかけて居る。併しなほそれ等は遠隔の地方には見られる。私の住んで居た地方では窃盜事件が幾百年の間も起こつた事がなく、明治時代新設の監獄は空しく無用物として立ち――人々は夜も晝も同樣に戸締りをしなかつたのである。かくの如き事實は皆日本人の熟知して居る處である。かくの如き地方に於て、外國人として諸君に對して表明される親切は、或は官憲の命令に出たものであると、諸君は考へるかも知れない、併しそれにしても人民相互間の親切は、これを怎う説明出來よう。何等の苛酷も、粗暴も、不正直も、また法の侵害もなく、而もかくの如き社會の狀態は幾世紀間も同樣であつた事を知る時、諸君は全く道德上優越した人間の領土に入つたと信ぜざるを得ないであらう。すべてかくの如き優雅、非難の餘地なき正直、言語動作の明々白々なる親切は、恐らく完璧なる善心から出た行爲と自ら解釋されやう。而して諸君を悦ばすこの素朴は決して野蠻から來た素朴ではない。この國に於ては各人みな教育を受け、各個みな立派に書き且つ語るを知り、詩を作り、作法に從つて己を處する事を知つて居り、到る處淸潔と良趣味とがあり、一家の内は光明に輝き鈍潔であり、日々の入湯は一般普通の事である。あらゆる事は博愛の精神に依つて治められ、あらゆる行爲は義務に依つて動かされ、あらゆる物は藝術に依つてその形を作られて居るやうな、この文化にどうして魅せられずに居られやう。人はどうしてかくの如き狀態に依つて悦ばされないで居られやう。また彼等の『異教徒』として罵られるのを聞いて、憤慨せずに居られやう。而して諸君の心の内にある博愛心の程度に應じて、この善良なる人民は何等外觀上強ひて骨折る事もせずして、自ら諸君を樂しくさせるであらう。かくの如き環境に於ける唯一の感じは平靜な樂しさである、それは夢の中の感じで、夢の中にあつては人々は自分がさう挨拶されたいと思ふやうな風に挨拶され、また聞きたいと欲する通るの事を聞き、して貰ひたいと願ふやうな事を、して貰ふのであるが、丁度その通りを感ずるので――人々は全く平靜な空間を通つて足に音を立てないやうに歩き、すべて雰圍氣のやうな光の内に浴して居るのである。さう――少からぬ時の間、この神仙の民は柔らかな睡眠の至福を與へる事が出來る。併し早晩、諸君が長く、彼等と一緒に住んでゐると、諸君の滿足なるものは、夢の樂しさと共通な處を多く有つて居る事が解るであらう。諸君は決して夢を忘れる事をしまい、――決して忘れまい、併しそれは恰も輝く日の午前中、日本の風光に超自然の美しさを與へる春の霞の如くに、結局は消されるであらう。實際諸君は身體が神仙の國に入つたが故に樂しいのである――實際は現存しないし、また到底自分のものとする事の出來ない世界に入つたが故に。諸君は諸君の居る世紀から――過去の消滅した時といふ洪大な空間をこえて――忘れられた時代、消え失せた時代に――エヂプト若しくはでニネヹの如き古代と云と云つたやうな處へ遡つて移されたのであつた。これが日本の事物の奇怪と美との奥義――これらの事物の與へる竦動の奧義――人民とそのやり方の、可愛らしい魑魅の如き魅力のある奧義である。幸運の人よ、『時間』の潮は諸君の爲めに廻轉したのであるよ。併し記憶せよ、ここの萬事は魔法である、――諸君は死者の魅力にかかつたのである、――光明と色彩と音聲とは萎れて、結局空虛と緘默とに歸さなければならないのてある。

[やぶちゃん注:「私の住んで居た地方では窃盜事件が幾百年の間も起こつた事がなく、明治時代新設の監獄は空しく無用物として立ち――人々は夜も晝も同樣に戸締りをしなかつたのである」「住んで居た」とあり、読者は直ちに松江を想起されるであろうが、私はこれは、彼の隠岐体験に基づくいいであるように思われる。私の「小泉八雲・落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(二十二)」を参照されたい。私の言いが尤もなことがお分かり戴けるものと思う。

「ニネヹ」原文“Nineveh”。現在のイラク北部に位置するチグリス川沿い都市モースルにあった古代メソポタミア北部のアッシリアの都市ニネヴェ。アッシリア帝国後期には首都が置かれた。参照したウィキの「ニネヴェ(メソポタミア)」によれば、紀元前七千年紀から人が居住を始めた非常に古い街で、『新アッシリア王国時代に、センナケリブがニネヴェに遷都して以降、帝国の首都として大規模な建築事業や都市の拡張が行われた。この時期に街は二重の城壁で囲まれ、クユンジクの丘には宮殿が相次いで建設された。アッシュールバニパル王の図書館があったのはこの都市であり、バビロンにあったとされる空中庭園は実際にはニネヴェにあったとする説もある』。紀元前六一二年に『メディアとバビロニアとスキタイの攻撃を受けてニネヴェは陥落し破壊された。その後も小規模の都市として存続したが、かつての重要性は失われ』たとある。近年は過激派組織ISILによって、遺跡の破壊と略奪が行われている。]

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 一時でも宜いから。もう消滅した美しいギリシヤ文化の世界に生活し得たらばとは、少くとも吾々の内の或る人の往々希望した處であつた。始めてギリシヤ藝術及びギリシヤ思想の魅力を知り、それに感激した結果は、其古代文化の實狀を想像し得ない内に、早くもさういふ希望が起こつて來るのである。併し若しさういふ希望が實現され得たとしても、吾々は正にさういふ實狀に身を適應させる事の不可能なる事を知るであらう。それは其環境を知るの困難なるが爲めではなくて、三千年前に人々が感じて居たと丁度同じやうに感ずる事の遙かに困難なるが爲めである。文藝復興以來、ギリシヤ研究にあらゆる努力が爲されたにかかはらず、古代ギリシヤ生活の諸相を了解する事は、なほ吾々の難しとする處である、たとへば近代の思想を以つてしても、エデイプスの大悲劇に依つて訴へ得た人民の情操感情等を如實に感得する事は出來ない。而も吾々はギリシヤ文化の知識に關しては、第十八世紀の吾が祖先よりも遙かに進んで居るものである。フランス革命の時代にあつては、ギリシヤ共和政の實狀をフランスに再現し、スパルタ式に依りて兒童を教育する事も出來ると考へて居た。今日に於ては、近代文化によつて育てられたる人が、ロオマ征服前なる古代世界の都市に存立して居た社會主義的專制主義の下にあつて、幸福を得る事の出來ない事は、何人もよく知つて居る處である。よし古いギジシヤ生活が吾々の爲めに再現して來たとしても、吾々はそれと融和する事は出來ない――その生活の一部となる事は出來ない――丁度吾々の自分の精神上の個性を變へる事の出來ないやうに。併し其生活を目睹し得るといふ喜びの爲めには、如何なる勞をも辭さないであらう――-コリンスに於ける祝祭に一度列するといふ樂しみ、全ヘレナの遊戲を目擊するといふ悦びのためにには………。

[やぶちゃん注:「コリンスに於ける祝祭」“festival in Corinth”。綴りが違うが、恐らく現在のギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市コリントス(Korinthosのことであろう。ウィキの「コリントス」によれば、紀元前九世紀に『ドーリア人(ドリス人)によって建設され、商業都市として繁栄した。アプロディーテーを守護神としその祭祀で知られ』、『「コリントス」は非ギリシア語源の語とみられ、おそらくドーリア人以前の先住民族の語である。ミケーネ文明の頃にはすでに繁栄していたと推測される。神話ではコリントスの創設者はシーシュポスであり、コリントスの王はその子孫であるとされる。神話ではまたイアーソーンがメーデイアを離婚した土地ともいわれる』。『ペロポネソス半島とギリシア本土をつなぐイストモス地峡に位置するコリントスは、交通と交易の要衝として繁栄し、古典期にはアイギナと並ぶギリシャ世界の経済の中心となった。アテナイやテバイの台頭後も、財力でこれらに並んだ。コリントスのアクロポリスには、街の主神であるアプロディーテーの大神殿が築かれた。複数の文献が、この神殿に雇われていた千人の聖娼(遊女)について伝えている。コリントスはまた四大ギリシア競技会のひとつ、イストミア大祭を開催した』。『バッキアダイによる寡頭政を経て』、紀元前七世紀には『僭主キュプセロス、ペリアンドロス父子により統治され、ふたたび寡頭政に移行した。また、シュラクサイ(現在のシラクサ)を初めとする複数の植民地を建設した。コリントスはペルシャ戦争でのギリシア方の主要ポリスのひとつであったが、後にはこのとき同盟したアテナイと敵対し、スパルタとペロポネソス同盟を結んだ。ペロポネソス戦争の要因のひとつは、コリントスの植民市コルキュラ(現在のケルキラ)をめぐるアテナイとコリントスの争いであった。軍事力に優れつつも経済的には脆弱だったスパルタの戦争継続能力維持を助けたのがコリントスの経済力であったと言われている』。紀元前一四六年、『かねてより対立していた共和政ローマから派遣された執政官ルキウス・ムンミウス率いるローマ軍がコリントスを包囲陥落させ、コリントスは完全に破壊された(コリントスの戦い)』とある。

「全ヘレナの遊戲」“the Pan-Hellenic games”“Hellenic”は「古代ギリシャの」の謂いであるから、オリンピックの起源である古代ギリシャの全祭典全競技の謂いであろう。ウィキの「古代オリンピック」によれば、『オリュンピアで行われるオリュンピア祭は、ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであった。これらの四つの競技大会は』オリュンピア大祭(開催地はオリュンピアで四年に一度。祭神はゼウス)・ネメアー大祭(開催地はネメアーで二年に一度。祭神はゼウス)・イストモス大祭(開催地はイストモス(現在のイストミア)で二年に一度。祭神はポセイドン)・ピューティア大祭(開催地はデルポイで四年に一度。祭神はアポロン)で、この内、『大神であるゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われた』。『ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制であった。そして奉納競技において競技者が裸体となることが関係していたとも考えられる。ポリスの日常生活にかかせない体育競技場においては、男性であっても競技を行わず衣服をまとって入場することがはばかられたほどであった。ただし、戦車競走では御者ではなく馬の持ち主が表彰されたので、女性が表彰された例はわずかにある』。『しかし、女子競技の部ともいうべきヘーライアという祭りが行われていた時代もある。これは名のとおりゼウスの妃ヘーラーに捧げる祭りで、オリュンピア祭と重ならない年に行われていた女子のみの祭典となっている。競技は短距離走のみで、右胸をはだけた着衣で行われたと当時を伝える像から考えられており、現在の夏季五輪のメダルに浮き彫りにされた勝利の女神はこれを着用している。競技優勝者にはオリーブの冠と犠牲獣の肉が分け与えられ神域に自身の像を残す事が許されているが、実際は肖像を壁画に残す等の事が多く行われている』。『なお、オリュンピア祭では体育だけでなく詩の競演も行われたことが伝わっている』とある。

 

 が、併し消滅したギリシヤ文化の復興を目擊し、――ピタゴラスのその學寮のあつたクロトオナの都を歩き、――セオクリタスの居たシラキユウスを放浪するのは、現在吾々が日本人の生活を研究する機會を與へられて居るその特權に勝さるものとは言はれないのである。否、進化論的の見解から言へぱ、前者の方が却つて特權として弱いものである――何となれば吾々が親しくその藝術文學を知つて居るギリシヤ時代の事情よりも、遙かに古く、又心理的に遙かに吾々とは隔つて居る事情の、生きたる光景を、日本は吾々の眼前に擴げて居るからである。

[やぶちゃん注:「ピタゴラスのその學寮のあつたクロトオナの都」ピタゴラスはイオニア地方のサモス島生まれであったが、後にギリシアの植民都市でイオニア海に面した港湾都市クロトーンでピタゴラス教団を立ち上げている。このクロトーンは現在のイタリア共和国カラブリア州東部にあるクロトーネ(イタリア語:Crotone)の前身で、同市は現在、クロトーネ県の県都である。

「セオクリタスの居たシラキユウス」「セオクリタス」は詩人で前章で既注。ギリシアの「牧歌」の創始者。「シラキユウス」は現在のイタリア共和国のシチリア島南東部に位置するシラクサ(イタリア語:Siracusa)。セオクリタスはシラクサ生まれであったが、シラクサ王の保護を受けられず、後に東方のアレクサンドリアに招聘されてアレキサンドリア王プトレマイオス二世の保護下に入って宮廷詩人として同宮廷に迎えられた。晩年は修業時代を過ごしたコス島に戻った(ここは主にウィキの「テオクリトス」に拠る)。]

 

 吾々の文化よりも進化の度の少く、智力上吾々から懸隔してゐると云つて、或る文化が必らずしもすべての點に於て、吾々のよりも劣つて居ると言はれないといふ事は、強いて諸君の注意を求めるまでもない事である。へレナの文化のその最高期は社會學から見たる進化の初期を代表して居る、而もその發展さし得た藝術は、美に關する吾々の最高のまた近似すべからざる理想を示してゐる。それと同じくこの舊日本の遙かに古風な文化も、吾吾の驚異と稱讃とを十分に値する、審美上竝びに道德上の水準に達し得たものである。ただ淺薄な人――極く淺薄な人のみが、日本の文化の最上なるものを、劣等であると放言し去るのであらう。併し日本の文化は、西洋に比類のないほどに、特徴のあるものとされて居るが、それは澤山の相ついで來た外國文化の積み重ねが、單純なる本來の土臺の上に置かれ、甚だ複雜なる紛糾をなす光景を呈して居るからである。この外來の文化の多分は支那の文化であつて、それはこの研究の主なる題目に對して、ただ間接の關係をもつて居るに過ぎない。不思議でまた驚くべきことには、かくの如き澤山の積み重ねのあつたに拘らず、人民及び其社會の本來の特質は、なほ歷として殘つて居るのである。日本の驚くべき點はその身に纏つた無數の、借りものに――昔の姫君の、色と質とを異にした十二の式服を一つ一つ重ねて、そのいろいろの色をした端の、襟や袖や裾に露はれるやうに着るのと同じやうに――あるのではない、否、眞に驚くべきはその着用者である。蓋し衣裳の感興は、その形や色にあるのではなく、考へとしてのその意義にあるのであるからである――その衣裳をつくり、それを採用した人を表現するものとして興味があるのである。されば古い日本の文化の最高の興味は、それがその人種の特色を示す點にある――明治のあらゆる變化に依つても、なほ全く變はらずに居るその特色を。

 この人種の特色たるや、認知されるのでなくて、直感されるのであるから、その用語も、『表現する』といふよりも『暗示する』といつた方が適當である。その特色に就いては、この人種の起原に關する明晰な知識があれば、了解の助けともなるであらうと思ふ、併し吾々はまださういふ知識をもつて居ない。人種學者は皆一致して、日本人種は幾種かの民族の集つて出來たものであり、その主なる要素はモンゴリヤ種であると云つて居る、併しこの主なる要素は、二つの甚だ相違した型に依つて代表されて居る――一つは纖弱な殆ど女のやうな風采、も一つはづんぐりした力のある姿である。支那朝鮮の要素も或る地方の人の内にあると云はれて居る、またアイヌの血も多分に混入したらしい。マレイ若しくはポリネシヤの要素が、少しでもあるかどうかといふ事は、未だ斷定されて居ない。ただこれだけの事は十分肯定されうる――則ちすべて善良な人種はみなさうであるが、この人種も混成の人種であり、又本來一緒になつてこの人種を形成した幾多の人種は、相混和して永い社會的訓練の下に、可なり統一された型の性格を發達さし得たといふ事である。この特質はその外貌の或る點に於ては、直に認められはするが、容易に説明しがたい幾多の謎を吾々に呈するものである。

[やぶちゃん注:この段では日本人の起源説が問題とされているが、遺伝学や分子生物学の解析によっても現行でも未だ諸説紛々であるからして、ウィキの「日本人」の「成立」の項のみを引いておく。『主要に日本人を形成したのは、ウルム氷期の狩猟民と弥生時代の農耕民といった、日本列島へ渡来した人々である。まずウルム氷期にアジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代人は、縄文人の根幹を成した。そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、再びアジア大陸から新石器時代人が西日本の一角に渡来した。その地域では急激に新石器時代的身体形質が生じたが、彼らが直接及ばなかった地域は縄文人的形質をとどめていた。その後、古墳時代から奈良時代にかけて徐々に均一化されていった』。『地理的に隔離された北海道や南西諸島の人々の形態は、文化による変化はあっても、現在なお縄文人的形態をとどめている。近年、最初に日本列島に住んだ後期旧石器時代人(縄文人)は古モンゴロイドであり、新石器時代人(終末期の縄文人~弥生人)は新モンゴロイドであると研究結果が出ている。新モンゴロイドの影響が及ばなかったアイヌや南西諸島住民は、古モンゴロイド的特徴を残していると解されている。これらの分析では、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類によるモンゴロイドの二型(古モンゴロイドと新モンゴロイド)を用いている』。かつては約三万年前に『大陸から渡来して先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により否定されている』。以下、抗体を形成する免疫グロブリンを決定する遺伝子である
Gm 遺伝子によるバイカル湖畔起源説などは面白いが、統計データやサンプリングが不備な感じはする。

「『表現する』」原文“"Suggests"”。」

「『暗示する』」原文“"expresses,"”(コンマはママ)。

「マレイ」マレー人。『本来はマレー半島、スマトラ島東海岸、ボルネオ島沿岸部などに住んでマレー語を話し、マレー人と自称する人々(民族)のことを指し、マレー語ではムラユ Melayu と呼ぶ。漢字では馬来人と表記した。移住により南アフリカの人種構成にも影響を与えた』。『広義にはマレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピンなど東南アジア島嶼部(マレー諸島)の国々に住む人々の総称であるが、これは人種的な意味(マレー人種)で用いることが多い』とウィキの「マレー人」には記されてある。]

 

 さうは言ふものゝ、もつとよくこの人種を了解するといふ事は重要な事になつて來た。日本は世界の競爭場裡に入つて來た、而してその爭ひに於ける一國民の價値は、その兵力に依ると同樣、その特質に依るのである。吾々は日本人種をつくり上げた四圍の狀況の性質を明らかにしうるならば、その特質に就いても多少知る事が出來る――この人種の道德上の經驗に關する大きな一般的な幾多の事實を明らかにしうるならば。而してかくの如き事實は、國民信仰の歷史の内に、また宗教にその根を置き、宗教に依つて發達せしめられた社會の諸々の制度の歷史の内に、或は表明され、或は暗示されて居るのを、吾々は認めるのである。 

 

Strangeness and Charm

The majority of the first impressions of Japan recorded by travellers are pleasurable impressions. Indeed, there must be something lacking, or something very harsh, in the nature to which Japan can make no emotional appeal. The appeal itself is the clue to a problem; and that problem is the character of a race and of its civilization.

   My own first impressions of Japan,— Japan as seen in the white sunshine of a perfect spring day,— had doubtless much in common with the average of such experiences. I remember especially the wonder and the delight of the vision. The wonder and the delight have never passed away: they are often revived for me even now, by some chance happening, after fourteen years of sojourn. But the reason of these feelings was difficult to learn,— or at least to guess; for I cannot yet claim to know much about Japan. . . . Long ago the best and dearest Japanese friend I ever had said to me, a little before his death: "When you find, in four or five years more, that you cannot understand the Japanese at all, then you will begin to know something about them." After having realized the truth of my friend's
prediction,— after having discovered that I cannot understand the Japanese at all,— I feel better qualified to attempt this essay.

   As first perceived, the outward strangeness of things in Japan produces (in certain minds, at least) a queer thrill impossible to describe,— a feeling of weirdness which comes to us only with the perception of the totally unfamiliar. You find yourself moving through queer small streets full of odd small people, wearing robes and sandals of extraordinary shapes; and you can scarcely distinguish the sexes at sight. The houses are constructed and furnished in ways alien to all your experience; and you are astonished to find that you cannot conceive the use or meaning of numberless things on display in the shops. Food-stuffs of unimaginable derivation; utensils of enigmatic forms; emblems incomprehensible of some mysterious belief; strange masks and toys that commemorate legends of gods or demons; odd figures, too, of the gods themselves, with monstrous ears and smiling faces,— all these you may perceive as you wander about; though you must also notice telegraph-poles and type-writers, electric lamps and sewing machines. Everywhere on signs and hangings, and on the backs of people passing by, you will observe wonderful Chinese characters; and the wizardry of all these texts makes the dominant tone of the spectacle.

   Further acquaintance with this fantastic world will in nowise diminish the sense of strangeness evoked by the first vision of it. You will soon observe that even the physical actions of the people are unfamiliar,— that their work is done in ways the opposite of Western ways. Tools are of surprising shapes, and are handled after surprising methods: the blacksmith squats at his anvil, wielding a hammer such as no Western smith could use without long practice; the carpenter pulls, instead of pushing, his extraordinary plane and saw. Always the left is the right side, and the right side the wrong; and keys must be turned, to open or close a lock, in what we are accustomed to think the wrong direction. Mr. Percival Lowell has truthfully observed that the Japanese speak backwards, read backwards, write backwards,— and that this is "only the abc of their contrariety." For the habit of writing backwards there are obvious evolutional reasons; and the requirements of Japanese calligraphy sufficiently explain why the artist pushes his brush or pencil instead of pulling it. But why, instead of putting the thread through the eye of the needle, should the Japanese maiden slip the eye of the needle over the point of the thread? Perhaps the most remarkable, out of a hundred possible examples of antipodal action, is furnished by the Japanese art of fencing. The swordsman, delivering his blow with both hands, does not pull the blade towards him in the moment of striking, but pushes it from him. He uses it, indeed, as other Asiatics do, not on the principle of the wedge, but of the saw; yet there is a pushing motion where we should expect a pulling motion in the stroke. . . . These and other forms of unfamiliar action are strange enough to suggest the notion of a humanity even physically as little related to us as might be the population of another planet,— the notion of some anatomical unlikeness. No such unlikeness, however, appears to exist; and all this oppositeness probably implies, not so much the outcome of a human experience entirely independent of Aryan
experience, as the outcome of an experience evolutionally younger than our own. 

   Yet that experience has been one of no mean order. Its manifestations do not merely startle: they also delight. The delicate perfection of workmanship, the light strength and grace of objects, the power manifest to obtain the best results with the least material, the achieving of mechanical ends by the simplest possible means, the comprehension of irregularity as aesthetic value, the shapeliness and perfect taste of everything, the sense displayed of harmony in tints or colours,— all this must convince you at once that our Occident has much to learn from this remote civilization, not only in matters of art and taste, but in matters likewise of
economy and utility. It is no barbarian fancy that appeals to you in those amazing porcelains, those astonishing embroideries, those wonders of lacquer and ivory and bronze, which educate imagination in unfamiliar ways. No: these are the products of a civilization which became, within its own limits, so exquisite that none but an artist is capable of judging its manufactures,— a civilization that can be termed imperfect only by those who would also term imperfect the Greek civilization of three thousand years ago. 

   But the underlying strangeness of this world,— the psychological strangeness,— is much more startling than the visible and superficial. You begin to suspect the range of it after having discovered that no adult Occidental can perfectly master the language. East and West the fundamental parts of human nature — the emotional bases of It — are much the same: the mental difference between a Japanese and a European child is mainly potential. But with growth the difference rapidly develops and widens, till it becomes, in adult life, inexpressible. The whole of the Japanese mental superstructure evolves into forms having nothing in common with Western psychological development: the expression of thought becomes regulated, and the expression of emotion inhibited in ways that bewilder and astound. The ideas of  this people are not our ideas; their sentiments are not our sentiments their ethical life represents for us regions of thought and emotion yet unexplored, or perhaps long forgotten. Any one of their ordinary phrases, translated into Western speech, makes hopeless nonsense; and the literal rendering into Japanese of the simplest English sentence would scarcely be comprehended by any Japanese who had never studied a European tongue. Could you learn all the words in a Japanese dictionary, your acquisition would not help you in the least to make yourself understood in speaking, unless you had learned also to think like a Japanese,— that is to say, to think backwards, to think upside-down and inside-out, to think in directions totally foreign to Aryan habit. Experience in the acquisition of European languages can help you to learn Japanese about as much as it could help you to acquire the language spoken by the inhabitants of Mars. To be able to use the Japanese tongue as a Japanese uses it, one would need to be born again, and to have one's mind completely reconstructed, from the foundation upwards. It is possible that a person of European parentage, born in Japan, and accustomed from infancy to use the vernacular, might retain in after-life that instinctive knowledge which could alone enable him to adapt his mental relations to the relations of any Japanese environment. There is actually an Englishman named Black, born in Japan, whose proficiency in the language is proved by the fact that he is able to earn a fair income as a professional storyteller (hanashika). But this is an extraordinary case. . . . As for the literary language, I need only observe that to make  acquaintance with it requires very much more than a knowledge of several thousand Chinese characters. It is safe to say that no Occidental can undertake to render at sight any literary text laid before him — indeed the number of  native scholars able to do so is very small;— and although the learning displayed in this direction by various Europeans may justly compel our admiration, the work of none could have been given to the world without Japanese help.

   But as the outward strangeness of Japan proves to be full of beauty, so the inward strangeness appears to have its charm,— an ethical charm reflected in the common life of the people. The attractive aspects of that life do not indeed imply, to the ordinary observer, a psychological differentiation measurable by scores of centuries: only a scientific mind, like that of Mr. Percival Lowell, immediately perceives the problem presented. The less gifted stranger, if naturally sympathetic, is 
merely pleased and puzzled, and tries to explain, by his own experience of happy life on the other side of the world, the social conditions that charm him. Let us suppose that he has the good fortune of being able to live for six months or a year in some old-fashioned town of the interior. From the beginning of this sojourn he call scarcely fail to be impressed by the apparent kindliness and joyousness of the existence about him. In the relations of the people to each other, as well as in all their relations to himself, he will find a constant amenity, a tact, a good-nature such as he will elsewhere have met with only in the friendship of exclusive circles. Everybody greets everybody with happy looks and pleasant words; faces are always smiling; the commonest incidents of everyday life are transfigured by a courtesy at once so artless and so faultless that it appears to spring directly from the heart, without any teaching. Under all circumstances a certain outward cheerfulness never falls: no matter what troubles may come,— storm or fire, flood or earthquake,— the laughter of greeting voices, the bright smile and graceful bow, the kindly inquiry and the wish to please, continue to make existence beautiful. Religion brings no gloom into this sunshine: before the Buddhas and the gods folk smile as they pray; the temple-courts are playgrounds for the children; and within the enclosure of the great public shrines— which are places of festivity rather than of solemnity — dancing-platforms are erected. Family existence would seem to be everywhere characterized by gentleness: there is no visible quarrelling, no loud harshness, no tears and reproaches. Cruelty, even to animals, appears to be unknown: one sees farmers, coming to town, trudging patiently beside their horses or oxen, aiding their dumb companions to bear the burden, and using no whips or goads. Drivers or pullers of carts will turn out of their way, under the most provoking circumstances, rather than overrun a lazy dog or a stupid chicken. . . . For no inconsiderable time one may live in the midst of appearances like these, and perceive nothing to spoil the pleasure of the experience.

   Of course the conditions of which I speak are now passing away; but they are still to be found in the remoter districts. I have lived in districts where no case of theft had occurred for hundreds of years,— where the newly-built prisons of Meiji remained empty and useless,— where the people left their doors unfastened by night as well as by day. These facts are familiar to every Japanese. In such a district, you might recognize that the kindness shown to you, as a stranger, is the consequence of official command; but how explain the goodness of the people to each other? When you discover no harshness, no rudeness, no dishonesty, no breaking of laws, and learn that this social condition has been the same for centuries, you are tempted to believe that you have entered into the domain of a morally superior humanity. All this soft urbanity, impeccable honesty, ingenuous kindliness of speech and act, you might naturally interpret as conduct directed by perfect goodness of heart. And the simplicity that delights you is no simplicity of barbarism. Here every one has been taught; every one knows how to write and speak beautifully, how to compose poetry, how to behave politely; there is everywhere cleanliness and good taste; interiors are bright and pure; the daily use of the hot bath is universal. How refuse to be charmed by a civilization in which every relation appears to be governed by altruism, every action directed by duty, and every object shaped by art? You cannot help being delighted by such conditions, or feeling indignant at hearing them denounced as "heathen." And according to the degree of altruism within yourself, these good folk will be able, without any apparent effort, to make you happy. The mere sensation of the milieu is a 
placid happiness: it is like the sensation of a dream in which people greet us exactly as we like to be greeted, and say to us all that we like to hear, and do for us all that we wish to have done,— people moving soundlessly through spaces of perfect repose, all bathed in vapory light. Yes — for no little time these fairy-folk can give you all the soft bliss of sleep. But sooner or later, if you dwell long with them, your contentment will prove to have much in common with the happiness of dreams. You will never forget the dream,— never; but it will lift at last, like those vapors of spring which lend preternatural loveliness to a Japanese landscape in the forenoon of radiant days. Really you are happy because you have entered bodily into Fairyland,— into a world that is not, and never could be your own. You have been transported out of your own century — over spaces enormous of perished time — into an era forgotten, into a vanished age,— back to something ancient as Egypt or Nineveh. That is the secret of the strangeness and beauty of things,— the secret of the thrill they give,— the secret of the elfish charm of the people and their ways. Fortunate mortal! the tide of Time has turned for you! But remember that here all is enchantment,— that you have fallen under the spell of the dead,— that the lights and the colours and the voices must fade away at last into emptiness and silence.

        *    *     *    *     *

   Some of us, at least, have often wished that it were possible to live for a season in the beautiful vanished world of Greek culture. Inspired by our first acquaintance with the charm of Greek art and thought, this wish comes to us even before we are capable of imagining the true conditions of the antique civilization. If the wish could be realized, we should certainly find it impossible to accommodate ourselves to those conditions,— not so much because of the difficulty of learning the environment, as because of the much greater difficulty of feeling just as people used to feel some thirty centuries ago. In spite of all that has been done for Greek studies since the Renaissance, we are still unable to understand many aspects of the old Greek life: no modern mind can really feel, for example, those sentiments and emotions to which the great tragedy of Oedipus made appeal. Nevertheless we are much in advance of our forefathers of the eighteenth century, as regards the knowledge of Greek civilization. In the time of the French revolution, it was thought possible to reestablish in France the 
conditions of a Greek republic, and to educate children according to the system of Sparta. To-day we are well aware that no mind developed by modern 
civilization could find happiness under any of those socialistic despotisms which existed in all the cities of the ancient world before the Roman conquest. 
We could no more mingle with the old Greek life, if it were resurrected for us,— no more become a part of it,— than we could change our mental identities. 
But how much would we not give for the delight of beholding it,— for the joy of attending one festival in Corinth, or of witnessing the Pan-Hellenic games? . . 

   And yet, to witness the revival of some perished Greek civilization, — to walk about the very Crotona of Pythagoras,— to wander through the Syracuse of Theocritus,— were not any more of a privilege than is the opportunity actually afforded us to study Japanese life. Indeed, from the evolutional point of view, it were less of a privilege,— since Japan offers us the living spectacle of conditions older, and psychologically much farther away from us, than those of any Greek period with which art and literature have made us closely acquainted.

   The reader scarcely needs to be reminded that a civilization less evolved than our own, and intellectually remote from us, is not on that account to be regarded as necessarily inferior in all respects. Hellenic civilization at its best represented an early stage of sociological evolution; yet the arts which it developed still furnish our supreme and unapproachable ideals of beauty. So, too, this much more archaic civilization of Old Japan attained an average of aesthetic and moral culture well worthy of our wonder and praise. Only a shallow mind — a very shallow mind — will pronounce the best of that culture inferior. But Japanese civilization is peculiar to a degree for which there is perhaps no Western parallel, since it offers us the spectacle of many successive layers of alien culture 
superimposed above the simple indigenous basis, and forming a very bewilderment of complexity. Most of this alien culture is Chinese, and bears but an indirect 
relation to the real subject of these studies. The peculiar and surprising fact is that, in spite of all superimposition, the original character of the people and of their society should still remain recognizable. The wonder of Japan is not to be sought in the countless borrowings with which she has clothed herself,— much as a princess of the olden time would don twelve ceremonial robes, of divers colours and qualities, folded one upon the other so as to show their many-tinted edges at throat and sleeves and skirt;— no, the real wonder is the Wearer. For the interest of the costume is much less in its beauty of form and tint than in its significance as idea,— as representing something of the mind that devised or adopted it. And the supreme interest of the old — Japanese civilization lies in what it expresses of the race-character,—that character which yet remains essentially unchanged by all the changes of Meiji.

   "Suggests" were perhaps a better word than "expresses," for this race-character is rather to be divined than recognized. Our comprehension of it might be helped by some definite knowledge of origins; but such knowledge we do not yet possess. Ethnologists are agreed that the Japanese race has been formed by a mingling of peoples, and that the dominant element is Mongolian; but this dominant element is represented in two very different types,— one slender and almost feminine of aspect; the other, squat and powerful. Chinese and Korean elements are known to exist in the populations of certain districts; and, there appears to have been a large infusion of Aino blood. Whether there be any Malay or Polynesian element also has not been decided. Thus much only can be safely affirmed,— that the race, like all good races, is a mixed one; and that the peoples who originally united to form it have been so blended together as to develop, under 
long social discipline, a tolerably uniform type of character. This character, though immediately recognizable in some of Its aspects, presents us with many 
enigmas that are very difficult to explain.

   Nevertheless, to understand it better has become a matter of importance. Japan has entered into the world's competitive struggle; and the worth of any people in that struggle depends upon character quite as much as upon force. We can learn something about Japanese character if we are able to ascertain the nature of the conditions which shaped it,— the great general facts of the moral experience of the race. And these facts we should find expressed or suggested in the history of the national beliefs, and in the history of those social institutions derived from and developed by religion.

2016/01/21

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注(PDF縦書版/β版)

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注(PDF縦書版/β版)を公開した。

本文内注のリンクは機能しないのは御寛恕戴きたい。

2016/01/20

ぼくは

ぼくは、どこから来た人間なんだろ?
 
ぼくは、ぼくの幼年期から来たんだな……
 
(サン・テグジュペリ「戦う操縦士」より)

 
きょうは半日、通院でおわり――だからこれで――おしまい……

柳田國男 蝸牛考 初版(16) 訛語と方言と

 

       訛語と方言と

 

 東北地方今日の言語現象が、殊に自分たちの解説し難いものを以て充ちて居るのは、恐らくは今尚些しも研究せられて居らぬ此方面の中古土著の歷史と、隱れたる關係を有するものであらう。其中でも日本海に面した弘い區域のカサツブレが、直接に京洛の文化と略確かなる脈絡を保つて居るに反して、一方嶺を東に越えた北上川下流の地、即ち夙に獨自の文化を發達せしめて居たと傳ふる部分には、別に一派の方言團の孤立して存するものがあるが如きは、之を單なる偶然の事實として、輕々に看過することは出來ぬやうである。此點から考へると、近世府縣の教育者の間に流行せんとした、所謂方言匡正の事業には、實は危險なる不用意があつたわけである。幸ひに其企てが不自然にして、未だ十分なる成功を見るに至らず、寧ろ若干の記錄を以て其亡失を防ぐの力さへあつたが、土語を粗末にして未來の文藝の自由なる取捨に干渉し、更に實地の使用者をして、今一度固有の感覺を味はしめる機會を乏しくしたことは爭われない。方言は決してさういふ同情無き態度を以て、一括して排除すべきものでは無かつたのである。普通の外來者が一驚を喫するやうな珍らしい單語が、無意味無法則に出現し、また流轉する道理は無い。殊に蝸牛の如く其使用者が最も倦み易く且つ新奇を愛する兒童なる場合に於て、とにかくに大勢に反抗して能く是だけの殘壘を固守して居たとすれば、それには恐らく今日の標準語運動と同じやうな、一種の雅俗觀とも名づくべきものが働いて居たからで、實際また割據時代の日本の文化は、必ずしも花の都の求心力のみによつて、指導せられては居なかつたのである。

 

 だから舊仙臺領などでは、最近に至るまでタマダラが蝸牛の本名であつて、之と異なるものが笑はれ又は正されて居た。さうしてこの語の及ぶところの領域が、大體に於て御城下の勢力と終始して居たのである。しかも此事實が伊達氏の入部によつて始まつたものでないことは、それが北隣の南部領の中へ、幾分か入り込んで居たのを見ても察せられる。或は山村海隅に在つては多少の例外が見出されるかも知らぬが、自分の知る限りに於ては、その分布は大よそ次の如くであった。

   タンマクラ          「東北方言集」、宮城

   タマグラ、タンマクラ     「仙臺方言考」

   クマグラ、タンマクラ     「登米郡史」

   クマクラ、メンメン      「遠田郡誌」

   タンバクラ          「玉造郡誌」

   タンマクラ          「栗原郡誌」

   カマグラ           「牡鹿郡誌」

   ヘビタマグリ、ベココ     陸中上閉伊郡

   ヘビタマグリ、デンデンべーコ 同郡釜石

   ヤマツブ           陸中平泉

   ヘビタマグリ         「御國通辭」、盛岡

   ヘビタマ           「秋田方言」、鹿角郡

[やぶちゃん注:「東北方言集」恐らくは大正九(一九二〇)年仙臺税務監督局編のそれと推定される。

「仙臺方言考」同題の書籍はあるものの、本篇の出版年から考えて、恐らくは大正五(一九一六)年刊の伊勢斎助著「増訂 仙臺史傳 仙臺方言考」ではないかと推測する。

「登米郡史」宮城県にあった旧登米郡(とめぐん)の郡誌。大正一二(一九二三)年登米郡役所編。現在の登米市の大部分(津山町各町を除く)に相当する。なお、以下の注も参照のこと。

「遠田郡誌」遠田(とおだ)郡は宮城県の北部内陸に現存する郡の旧郡誌。大正一五(一九二六)年遠田郡教育会編。ウィキの「遠田郡」によれば、当時は現在の涌谷町(わくやちょう)・美里町(みさとまち)の他、大崎市の一部を含み、登米市(前注参照)米山町西野と米山町中津山が明治一一(一八七八)年まで本郡に所属していたとある。

「玉造郡誌」宮城県最北部栗原郡の南にあった旧郡の郡誌。昭和四(一九二九)年玉造郡教育会編。旧玉造(たまつくり)郡は現在の大崎市の一部。

「栗原郡誌」宮城県最北部にあった旧郡の郡誌。大正七(一九一八)年栗原郡教育会編。旧栗原郡は現在の栗原市及び大崎市の一部であるが、参照したウィキの「栗原郡」によれば、登米市(前注参照)石越町(いしこまち)各町が明治一〇(一八七七)年、登米市南方町(みなみかた)などが翌明治十一年まで当郡に所属していたともある。

「牡鹿郡誌」宮城県牡鹿(おしか)郡は現在の女川町(おながわちょう)の他、当時は石巻市の一部を含んだ。同郡誌は大正一二(一九二三)年牡鹿郡役所編。

「陸中上閉伊郡」岩手県上閉伊(かみへい)郡は現在は大槌町(おおつちちょう)のみであるが、当時は遠野市全域及び釜石市の南方海岸域にある唐丹町(とうにちょう)を除いた大部分を郡域とした。

「御國通辭」「おくにつうじ」と読み、寛政二(一七九〇)年に南部藩藩士服部武喬によって編まれた盛岡の方言集。

「秋田方言」昭和四(一九二九)年秋田県学務課編のそれか?]

 

 是が何れも蝸牛のことである。以上の諸例の中で、牡鹿半島のカマグラは明らかに訛語である。仙臺の市中に於ても、近頃は誤つてマタグラといふ者もあるさうだが、是は多數と反するといふのみで無く、土地の人たちもそれがをかしな片言であることをまだ知つて居る。平泉のヤマツブは或は併存の例であるかも知らぬが、田螺はこの邊で一般にツブだから、この語は新たにも發生し得、又ごく古くからあつたとしても一向に不思議はない。其次には舊南部領内のヘビタマグリであるが、是も新らしい訛りでは無いやうに思はれる。仙臺の城下にも既に「物類稱呼」の頃から、ヘビノテマクラといふ語は行はれて居た。或は烏瓜を「烏の枕」と謂ひ、靑みどろを「蛙の蒲團」といい、ひとでを「章魚の枕」といふ例もあるから、形と大さとに基づいて戲れに名を賦したと考へられぬことも無いが、若し其方が前であつたならば、恐らくはタマクラとは言はなかつたであらう。タマクラは文語の手枕と近いけれども、東北では別に其名を持つものがあつて、それは我々のいふタマキ(環)のことであった。例へば蚯蚓の頸にある色の薄い環がタマクラであつた。普通の農家に用ゐられるタマクラは、土製の圓い輪であつて、藁苞や割竹の類を一つに束ねる爲に、拔差しするやうに出來て居る器のことである。マイマイの螺旋とはちがつて、是は單なる循環であるけれども、物を輪にするといふ點は一つだから、言はゞ圓い物をツブラといつたのと、同じ程度の不精確さである。蝸牛を斯く呼ぶことが他の土地では早く止み、更に差別の爲にタマキ又はタマクラを、環のみに限ることになつたものとすれば、是は蝸牛に取つては可なり前からの名詞であつた。是から南に向つて阿武隈川流域のダイロウ領を中に置いて、福島縣石城の海岸地方にも、マイマイはまたべーコの語と併存して、別に又蝸牛をツムグリといふ例があつた。ツムグリは一方にタマグラと近く、又他の一方には美濃などのツンブリとも近い。或は古事記にある都牟刈の太刀のツムガリなどゝも同じで、本來はツグラ・ツブラの第一音が、ツンと發音せらるべき傾向を具へて居たことを暗示するものかも知れない。

[やぶちゃん注:「烏瓜」スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides私の烏瓜の思い出はこちらに(今もこの実を必ず裏山から一つ、必ず採って来ては、翌年の秋まで部屋に飾っておくのが私の趣味である)。

「靑みどろ」生物学的には緑色植物亜界ストレプト植物門接合藻綱ホシミドロ目ホシミドロ科アオミドロ属 Spirogyra に属する淡水産藻類の総称であるが、一般にはホシミドロ属 Zygnema などの近縁種や似たような形状のぬるぬるした淡水性のて緑色のカーペット状を呈する藻類を広くこう呼称してしまっている(実際には一般人の視認では区別することは不可能である)。

『ひとでを「章魚の枕」といふ』私の大好きな、磯野直秀先生の名論文「タコノマクラ考:ウニやヒトデの古名」によれば、棘皮動物門星形動物亜門の主にヒトデ綱 Asteroidea に属するヒトデ綱 Asteroidea 及びそれらよりも原始的とされるクモヒトデ綱 Ophiuroidea に属するヒトデ類を古くは「たこのまくら」と呼んだ。寧ろ、「ひとで(人手)」はそれよりも遅れて出ており、同論文によれば、寛文六(一六六六)成立の中村惕斎(てきさい)著になる字書「訓蒙図彙」の記載が最も古く、「ひとで」の初出は神田玄泉の「日東魚譜」(最古の写本は享保九(一七一九)年)とある。無論、今では同じ棘皮動物のウニ綱タコノマクラ目タコノマクラ科タコノマクラ属タコノマクラ Clypeaster japonicus が狭義の標準和名としてそれを名にし負うてはいるわけだが(負うのではなく枕にしているというべきか)、ここはそんな薀蓄は不要で、あくまでヒトデ類を指すと採るべきであることは言うまでもない。しかし今時、ヒトデを「タコノマクラ」と呼ぶ人々は絶対数が減っていることは確かではあろう。

「福島縣石城」「石城」は「いはき(いわき)」で旧福島県石城郡のこと。現在のいわき市とほぼ同域。

「古事記にある都牟刈の太刀のツムガリ」知られた素戔嗚の八岐大蛇退治のコーダで、出現する「都牟羽(つむは)の太刀(たち)」=「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」=「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は異名を「都牟刈(つむがり)の太刀(たち)とも称する。無論、現在の三種の神器の一つである。但し、「都牟羽」も「都牟刈」も原義は不明である。]

 

 蛇と蝸牛との關係には、何かまだ我々の心付かぬものがあるやうである。八重山の石垣島には眞乙姥の墓という石棺が露出した處があるが、土地では是を又ツダミバカ(蝸牛塚)とも謂つて、石の下にはこの貝の殼が一杯入つて居る。蛇が蝸牛をくはへて此中に出入りするのを常に見るといふことであつた。自分はまだ實驗したのでは無いが、蛇が此蟲を食物にして居るといふ話は、他の地方でもよく聽く所だから、或は是に關係した昔話なり、古い信仰なりがあつたのかも知れぬが、假にさうで無くとも若し蛇のトグロをもタマクラといふ習はしがあつたら、斯ういふ異名は起り易かつたであらうと思ふ。ツグラとクマグラとの元一つの語であつたことは、決して自分の臆説では無いのである。ちやうど中央部で胡坐をアヅクラ、またはオタグラなどといふと行きちがひに九州の方では之をヰタマダラと謂つて居る。例へば

   イタマグレ     筑後吉井邊

   イタマグラニスワル 同 久留米

   イタグラミースル  肥前佐賀市

の類である。さうして他の一方には東北で蝸牛をタマグラ、九州では弘くツグラメと謂つて居るのを見れば、獨りタマクラがツグラの同系であるといふに止まらず、國の南北の兩方に一つの語の行はれて居ることは、恰もマイマイが東海道と中國とに、カサとカタカタが伊豫土佐熊野伊豆から、飛んで北國出羽の端々にあると同じく、又蛞蝓と蝸牛とを一つの語で呼ぶ風が、津輕秋田と島原半島とにある如く、頗る自分などの假定する方言周圈説を、有力に裏書することになるのである。

[やぶちゃん注:「眞乙姥の墓」これは誤認がある。ここは確かに「眞乙姥」(まいつば)の墓であるが、ここで柳田が言っている「つだみ墓」(かたつむり墓)というのは同じ場所に忌まわしい方法で埋められた「眞乙姥」の姉か妹(或いは双生児。一方が結婚していないところを見ると、多くの双生児の風俗社会での扱いから考えると双生児の可能性が高いようにも私には思える)の「古乙姥(くいつば)」の墓である。個人(と思われる)サイト「八重山石垣雑学帳」の「赤蜂の妻古乙姥(クイツバ)をめぐる話」が伝承を詳しく載せる。それを引きたいが、別ページも含めかなりの分量になってしまうので諦め(但し、リンク先は必読)、ウィキの「長田大主」を参考に纏めてみると、この二人は石垣島の豪族で後に八重山頭職に任じられた長田大主(なーたふーず/なあたうふしゅ)の実の二人の妹であったという。古乙姥(くいつば)の方は石垣島東部の豪族遠弥計赤蜂(おやけあかはち)に政略結婚で嫁がせたものの、赤蜂が反乱を起こし、その鎮圧後も古乙姥(くいつば)は夫に従って反抗したために処刑されてしまう。それに対し、一方の真乙姥(まいつば)は、ノロ(祝女:現在の沖繩県と鹿児島県奄美群島の琉球信仰における女性シャーマン)となって首里王府軍のために武運と航海の安全を祈り、その功績によって地元のノロの高位である永良比金(いらびんがみ)の神職に任ぜられた。その後、この島民の尊崇厚かった真乙姥(まいつば)が亡くなって墓を建てるという話になるのであるが、そこにはなんと(以下、「赤蜂の妻古乙姥(クイツバ)をめぐる話」より)、『クイツバをマイツバの墓地の片隅につだみ墓(かたつむり墓)として葬ったという続編がある。(牧野清著「八重山のお嶽」)つだみ墓にした目的は意図的に墓地を訪れる人々に踏みつけさせようという見せしめ以外の何ものでもなく、クイツバを逆賊の象徴としたのである』。『見せしめとはいえ、つだみ(かたつむり)にするというのは余りにも酷で哀れに思えてならない。この後、首里王府の目論みは成功し八重山を完全に掌中に治めるのである』とある。だからこそ柳田の言うように、異様にも「石棺が露出し」ているのである。柳田ともあろう者がその伝承を語らずにここにこんなものの例示として出すのは、不十分どころかすこぶる不適切、それこそ古乙姥(くいつば)の墓を知らずに踏んずけているようなものと思うのであるが、如何? 大方の御批判を俟つ。

「貝の殼」底本では「貝の穀」となっているが、改訂版と校合、誤植と断じて、特異的に訂した。

「蛇が此蟲を食物にして居るといふ話は、他の地方でもよく聽く」蛇は普通にカタツムリを餌にする(ウィキの「ヘビ」には、『食性は全てが動物食で、主食はシロアリ、ミミズ、カタツムリ、カエル、ネズミ、魚類、鳥類など種類によって異なる』たる)。また、まさに南西諸島にはカタツムリ食に特化した蛇類もいると聴いたことがあり、今回、それを調べてみたところが、サイト「WAOサイエンスパーク」内の京都大学白眉センター特定助教細将貴氏のインタビュー記事に「右利きのヘビと左巻きのカタツムリ「右」と「左」から迫る生物進化の謎」というのがあり(文は『WAOサイエンスパーク』編集長松本正行氏)、そこでカタツムリ食の当該ヘビの一種が有鱗目ヘビ亜目セダカヘビ科セダカヘビ属イワサキセダカヘビ Pareas iwasakii と判明した。ウィキの「イワサキセダカヘビによれば、無毒蛇で『南西諸島の石垣島と西表島にのみ棲息する。日本固有種』とあり、『その特殊な生態から「右利きのヘビ」と呼ばれることがある』記されてある。体長は五〇~七〇センチメートル、『体はかなり細く、地色は褐色ないしは淡褐色で、頭部から尾にかけては波状の暗褐色の縦縞が見られる。ただしこの縞は尾部に近づくほど不明瞭になる。他の多くのヘビと異なり、背が盛り上がって断面が三角形状をなしていることがセダカヘビ(背高蛇)の名の由来となっている』。『頭部は吻部の詰まった楕円形をしている。眼は大きく、瞳孔はやや縦長で、虹彩はオレンジ色もしくはやや赤味がかった黄土色』。『後述する食性との関係から、上あごの歯は一部が消失し、いっぽうで下あごの歯には高度な特殊化が見られる』。『夜行性で』、『樹上性と考えられているが』(生態研究が進んでいない)、『地上を匍匐していることもある。近年、石垣島ではサトウキビ畑やパイナップル畑などでよく見つかっている』。『ほぼカタツムリしか食べないことで知られている。このような陸貝専食性のヘビは日本では本種のみである。野外では』腹足綱有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科ニッポンマイマイ科『イッシキマイマイ Satsuma caliginosa caliginosa を捕食していた事例が知られている』。別種のセダカヘビ(Aplopeltura boa)ではヤマタニシのような蓋のあるカタツムリを捕食する様子が観察されているが』、『本種はそのようなカタツムリを与えても捕食することがない。ヤエヤマアオガエル Rhacophorus owstoni を捕食していたという野外観察例があるとされていたが、これは、イリオモテヤマネコ Prionailurus bengalensis iriomotensis の調査報告書』『に書かれた憶測がもととなって流布された誤解と考えられる。かなりの大食であり、飼育下では』一日に四~五個体の『カタツムリを捕食する。 カタツムリを捕食するときには、上あごを殻に引っ掛け、下あごの歯をカタツムリの軟体部に挿し込み、殻から軟体部を器用に抜き出す』(引用元に動画リンク有り)。『殻を割って食べることはない。本種の下あごの歯は本数が左右で異なり、右側が平均』二五本なのに対し、『左側は』十八本で、『この非対称性は、左巻きに比べて圧倒的に多数派である右巻きのカタツムリを効率よく捕食するための特殊化だと考えられており、セダカヘビ科のヘビほぼ全種で確認されている』。『実際、左巻きのカタツムリの捕食にはしばしば失敗する』(同じく動引用者に動画有り)。『そのため、左巻きのカタツムリの進化がセダカヘビ類によって促進されたのではないかと考えられている』とある。そうなんである! なんと! 少数派の左巻きのカタツムリ類の発生はこの蛇の捕食圧であったというのである! それを語っているのが、前にリンクした細氏の記事なんである! 注で引くには脱線となるのでぐっとこらえるが、とても面白い。必読である。

「筑後吉井邊」現在の福岡県うきは市吉井町附近。「うきは市」は福岡県の南東部に位置する市で旧浮羽郡吉井町と浮羽町が合併したもの。]

梅崎春生「カロ三代」「大王猫の病気」「ある少女」(PDF縦書版)

既にここで公開した梅崎春生の以下の三篇を「心朽窩旧館」にPDF縦書版で公開した。読み易く作ったつもりである。どうぞ、ダウンロードあれ。

「カロ三代」

「大王猫の病気」

「ある少女」

2016/01/19

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注 始動 / (1) 難解

小泉八雲「神國日本」 “Japan: An Attempt at Interpretation”   戸川明三譯

 

[やぶちゃん注:本訳書の英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニューヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された。則ち、八雲は上梓された本書を手にすることなく、逝ったのであり、さればこそしばしば本書は彼を殺したとも言われるのである。題名は訳すなら、「日本――一つの解釈の試み」であるが、原本中扉には書名冒頭の“JAPAN”だけが大きなポイントで記され、その上に一行、右から左へ「神國」(「神」はママ)と書かれてあるので、本訳書もそれを踏襲し、且つ、副題を省略している。私は個人的にはこの原文にはない「神國」というのが生理的に厭であるが、訳者自体がそう訳している以上、それに従うこととした。また、彼の元名を標題に記さないのは、本作執筆時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、既に帰化(ハーンは明治二八(一八九五)年の秋頃に妻子の将来を考えて帰化手続をして「小泉八雲」と改名したが、帰化手続完了は翌明治二九(一八九六)年二月であるから戸籍上の正式な改名はそこになる)した日本人「小泉八雲」であるからである。

 底本は昭和六(一九三一)年第一書房刊「小泉八雲全集 第八卷」(全篇が本書)の戸川明三(とがわめいぞう)訳を国立国会図書館デジタルコレクションの同巻の画像を視認して活字に起こした。

 戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。

 私のオリジナル注は、本文が短く、且つ、多くの注を必要としないと判断した章では訳文の最後に、本文が長い場合は、各段の後に配した。本文途中の段落後に投げ込む場合はそのまま挟み込み、最後に配する場合は、訳文との間に行空けを施してある。これは本文の行空けを維持するためである。

 既に電子化した「知られぬ日本の面影」と全く同様に、それぞれの公開分の最後に原文を示した。原文は“Project Gutenberg”“Japan: An Attempt at Interpretation by Lafcadio Hearn”こちらのデータを基本としながら、それを“Internet Archive”の原本画像で一部を校合して誤植を訂したりして、読み易いものに加工したものである(但し、「知られぬ日本の面影」の場合と同じく、一部の記号などは原本とは一致させていない)。

 踊り字「〻」は私が生理的に嫌いなので漢字では「々」に、平仮名では「ゝ」変更してある。傍点「ヽ」はブログ版では太字に代えた。

 因みに、小泉節子夫人(八雲が亡くなった時は満三十六)はその「思い出の記」の中で(節子夫人(慶応四(一八六八)年二月四日~昭和七(一九三二)年二月十八日)も著作権満了。引用は一九七六年恒文社刊『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』に拠った)、

   *

 『日本』では大層骨を折りました。「この書物は私を殺します」と申しました。「こんなに早く、こんなに大きな書物を書くこと容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」などと申しました。これは大学を止めてからの仕事でした。ヘルンは大学を止めさせられたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。普通の人に何でもないことでも、ヘルンは深く思い込む人ですから、感じたのでございます。大学には永くいたいという考えは勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていて書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止めさせられたということでなく、止めさせられる時の仕打ちがひどいというのでございました。ただ一片の通知だけで解約したのがひどいと申すのでございました。

 原稿がすっかり出来上りますと大喜びで固く包みまして(固く包むことが自慢でございました。板など入れて、ちゃんと石のようにして置くのです)表書を綺麗に書きまして、それを配達証明の書留で送らせました。校正を見て、電報で「宜しい」と返事をしてから、二、三日の後亡くなりました。この書物の出版は余程待ちかねて、死ぬ少し前に、「今あの『日本』の活字を組む音がカチカナと聞えます」といって、出来上るのを楽しみにしていましたが、それを見ずに、亡くなりましたのはかえすがえす残念でございます。

   *

と語っておられる。] 

 

  難 解 

 

 日本に關して書かれた書物は無數にある、然しそれ等の内に――藝術的の出版物竝びに全然特殊の性質を有つた著作は別として――實際價値ある書册は殆ど二十を出ないであらう。この事實は日本人の表面の生活の基礎となつて居るものを認知し、是を理解する事の甚だしく困難なる事に歸せられる。其生活を十分に解説する著作は――歷史的に、社會的に、心理的に、また倫理的に、日本を内部からも外部からも、描いた著作は――少くとも今後五十年間は出來まいと思ふ。此問題は頗る廣大にまた錯綜して居るので、幾多の學者の一代の勞力を合はせても、これを盡す事は出來ず、またそれは甚だ困難な問題で、これが爲めにその時を捧げる學者の數も常に必らず少いに相違ないのである。日本人その人の間にあつてすら、自國の歷史に就いての科學的知識はまだ得られない――何となればかくの如き知識を得る方法がまだ出來て居ないからである――よし其材料は山ほど集められてあるとしても。近代式の方法の上に立つた立派な歷史のない事は、實に幾多不利なる缺陷のその一である。その社會學的研究の基礎となるものは、まだ西洋の研究家の手には入らない。家族及び氏族の古い狀態、諸階級の分派發達の歷史、政治上の法則と宗教上の法則との分離の歷史、諸々の禁制拘束の事、及び習俗に及ぼしたるその影響の歷史、産業の發達に於ける、取締り及び協力の事情に關する歷史、倫理及び審美の歷史――これ等のすべての事、その他の事柄はみな不明である。

 私のこの論文は、日本に關する西洋の知識に對しての寄與として、只だ一方面に於てのみ役に立ちうるものである。併しこの一方面は必らずしも重要ならざるものとは云へない。從來日本の宗教に關する問題は主としてその宗教に對する仇敵の手になつたものであつた、また中にはこの宗教を殆ど全く無視したものもあつた。併しそれが無視され、誤り傳へられて居る限り、日本に就いての實際の知識は得られないのである。凡そ社會の狀態に就いて少しでも眞實の理解を得んと欲するならば、その宗教の事情を皮相的でなく、十分に熟知する事を要する。人民の産業上の歷史すら、その發達の初期に於ける産業上の生活を支配する宗教上の傳統と慣習とに就いての多少の知識がなくてはそれを了解する事は出來ない……また藝術の問題を取つて見る。日本に於ける藝術は宗教と密接な關係を持つて居るので、その藝術が反映して居る信仰に就いての廣い知識をもたずして、それを研究せんとする事は、たまたま時を浪費するに過ぎないのである。ここに藝術と私の云ふのは、ただ繪畫や彫刻の事をいふのではない、あらゆる種類の裝飾、大抵の種類の繪畫の如きもの――男の子の凧、女の子の羽子板に描かれてあるもの、漆ぬりの手箱、若しくは琺瑯をかけた花瓶――お姫樣の帶の模樣と共に職人のもつ手拭の繪――佛教の山門を護る大きな仁王の姿と共に、孩兒の爲めに買ふ紙製の犬若しくは木製のガラガラ…………を云ふのである。又日本の文學に就いても、其研究が、ただに日本人の信仰を了解する事が出來るのみならず、又少くとも吾が大古典學者達が、ユウリピディス、ピンダア及びセオクリタスの宗教に同感すると同じ程度に、それに同情を有しうる學者に依つて爲されるまでは、正常にこれを評價する事は正に出來ないのである。西洋の古代竝びに近代の宗教に就いて些少の知識をも有せずして、イギリス、フランス若しくはドイツ、イタリヤの文學をどれほど十分に了解しうるであらうか、それを先づ吾々は自分に尋ねて見よう。私は必らずしもはつきりした宗教的な作者――ミルトン若しくはダンテの如き詩人――の事をいふのではない、併しただシェイクスピヤの戲曲の一でさへも、キリスト教の信仰或はそれ以前の信仰に就いて、少しも知る處のない人に取つては、それは全く了解されないに相違ないといふ事實をいふのである。或る一つのヨオロッパの國語に眞實に熟達する事も、ヨオロッパの宗教に就いての知識がなくては不可能である。無學者の言語すらも、宗教上の意義を澤山にもつて居る、貧民の俚諺、家庭の用語、街路にきく歌謠、工場の言語――それ等はすべて人民の信仰に就いて知る處のない人には、思ひつかれない意義を、その内に含んで居るのである。これは日本に居て、吾々のとは全然異つて居る信仰をもつて居り、吾々とは全く異つた社會上の經驗に依つて作られた倫理をもつて居る學生に、英語を教へるに多年を費やした人の、何人よりもよく知つて居る處である。

[やぶちゃん注:「孩兒」「がいじ」と読む。幼な子。乳飲み子。

「紙製の犬」犬張子(いぬはりこ)。犬の立ち姿の張り子細工。江戸時代に出来た子供の玩具及び妊婦や子どものお守り。犬は一回に複数頭の子供を生み、出産も他の動物に比べて軽いことなどから、安産及び広く男女を問わず、子どもの健康を祈念するお守り・魔除けとして用いられ、一般には宮参り・雛祭りの贈物などに使われた。

「ガラガラ」子をあやすのに用いる玩具でんでん太鼓(だいこ)のこと。雅楽で用いられる「振鼓(ふりつづみ)」を真似たものとされる。

「ユウリピディス」アイスキュロスとソポクレスと並ぶ古代アテナイの三大ギリシャ悲劇詩人の最後の一人で、知られた戯曲「メディア」「アンドロマケ」「エレクトラ」などの作者エウリピデス(紀元前四八〇年頃~紀元前四〇六年頃)。神話伝説の世界を現実の人間的レベルで描こうとした(「大辞林」)。厳しい性格で非社交的にして哲学的新思想の持ち主であった。「舞台の哲人」と呼ばれた(ウィキエウリピデス)。

「ピンダア」ギリシャ最大の抒情詩人ピンダロス(紀元前五一八年頃~紀元前四三八年頃)。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、名門の家に生れ、アテネに学んで各地の貴族や僭主に招かれて注文に応じてエピキニオン(epinikion:競技祝勝歌。古代ギリシャの合唱隊歌の一種)を作った。ペルシア戦役には故郷テーベの方針に倣って中立を守ったが、戦後に運動競技が再び盛んになると、昂揚する思想と大胆な比喩と崇高な言葉によって優勝者をたたえる彼のエピニキオンは争って求められたという。

「セオクリタス」ギリシャの詩人。牧歌の創始者テオクリトス(紀元前三一〇年~起源前二五〇年頃)「ブリタニカ国際大百科事典」その他によれば、多様な形式の詩篇をよくし、なかでも彼の名を不朽にしたのがシチリアの田園風景の中で歌い戯れる牧人たちを描いた牧歌で、彼によって「田園詩・牧歌」という文学ジャンルが創造されたとされる。]

 

 

Difficulties 

 

A THOUSAND books have been written about Japan; but among these,— setting aside artistic publications and works of a purely special character,— the really precious volumes will be found to number scarcely a score. This fact is due to the immense difficulty of perceiving and comprehending what underlies the surface of Japanese life. No work fully interpreting that life,— no work picturing Japan within and without, historically and socially, psychologically and ethically,— can be written for at least another fifty years. So vast and intricate the subject that the united labor of a generation of scholars could not exhaust it, and so difficult that the number of scholars willing to devote their time to it must always be small. Even among the Japanese themselves, no scientific knowledge of their own history is yet possible; because the means of obtaining that knowledge have not yet been prepared,— though mountains of material have been collected. The want of any good history upon a modern plan is but one of many discouraging wants. Data for the study of sociology are still inaccessible to the Western investigator. The early state of the family and the clan; the history of the differentiation of classes; the history of the differentiation of political from religious law; the history of restraints, and of their influence upon custom; the history of regulative and cooperative conditions in the development of industry; the history of ethics and aesthetics,— all these and many other matters remain obscure.

   This essay of mine can serve in one direction only as a contribution to the Western knowledge of Japan. But this direction is not one of the least important. Hitherto the subject of Japanese religion has been written of chiefly by the sworn enemies of that religion: by others it has been almost entirely ignored. Yet while it continues to be ignored and misrepresented, no real knowledge of Japan is possible. Any true comprehension of social conditions requires more than a superficial acquaintance with religious conditions. Even the industrial history of a people cannot be understood without some knowledge of those religious traditions and customs which regulate industrial life during the earlier stages of its development. . . . Or take the subject of art. Art in Japan is so intimately
associated with religion that any attempt to study it without extensive knowledge of the beliefs which it reflects, were mere waste of time. By art I do not mean
only painting and sculpture, but every kind of decoration, and most kinds of pictorial representation,— the image on a boy's kite or a girl's battledore, not less than the design upon a lacquered casket or enamelled vase,—
  the figures upon a workman's towel not less than the pattern of the girdle of a princess,— the
shape of the paper-dog or the wooden rattle bought for a baby, not less than the forms of those colossal Ni-Ō who guard the gateways of Buddhist temples. .
. . And surely there can never be any just estimate made of Japanese literature, until a study of that literature shall have been made by some scholar, not only able to understand Japanese beliefs, but able also to sympathize with them to at least the same extent that our great humanists can sympathize with the religion of Euripides, of Pindar, and of Theocritus. Let us ask ourselves how much of English or French or German or Italian literature could be fully understood without the slightest knowledge of the ancient and modern religions of the Occident. I do not refer to distinctly religious creators,— to poets like Milton or Dante,— but only to the fact that even one of Shakespeare's plays must remain incomprehensible to a person knowing nothing either of Christian beliefs or of the beliefs which preceded them. The real mastery of any European tongue is impossible without a knowledge of European religion. The language of even the unlettered is full of religious meaning: the proverbs and household-phrases of the poor, the songs of the street, the speech of the workshop,—all are infused with significations unimaginable by any one ignorant of the faith of the people. Nobody knows this better than a man who has passed many years in trying to teach English in Japan, to pupils whose faith is utterly unlike our own, and whose ethics have been shaped by a totally different social experience.

ある少女   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年三月号『新女苑』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。

 本文第一段落には「敗戦の年の秋のこと」とあるので、作品内の主時制は昭和二〇(一九四五)年九月以降である。第十七段落目に、主人公の「私」は「敗戦後直ぐに復員して上京してきた」とあるが、梅崎春生自身も昭和二十年九月には上京している。この時は川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居しており、翌昭和二十一年二月以降は目黒区柿ノ木坂に移っている。また、彼が赤坂書房編集部に勤務するようになるのが同年三月、山崎恵津さんと結婚するのが翌昭和二十二年一月であるから、本作は主に、この昭和二十年九月の上京から昭和二十二年一月の結婚までの閉区間の諸体験に基づくものと考えられる。

 ここで舞台となっている外食券食堂についてのみ「猫の話」の授業案のそれを参考にして注しておく。

 外食券食堂は第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券(ここに出るように真鍮製。紙では容易に偽造出来てしまうからであろう)を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。「猫の話」の授業案にも記しておいたが、私がかつて古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記には、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容が記されてあった。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏担当の「外食券食堂」の項によれば、戦後、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは形骸化し、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、「券」も「食堂」も記憶には全くない。] 

 

   あ る 少 女 

 

 その食堂は河岸にあった。いや、河と言うより掘割と言った方がいい。どす黒いきたない水がゆるゆる動いていて、その上に古ぼけた橋がかかっている。橋には欄干(らんかん)がない。戦争中の金属回収で外(はず)されたまま、放置してあるのだ。木製の代用手すりもない。敗戦の年の秋のことだから、それはムリもない。日本中が飢餓に充ちていて、橋の手すりどころの騒ぎではなかった。

 食堂はその橋のたもとにあった。

 食堂はかなり大きい建物だったけれども、やはり古ぼけていた。荒廃していたと言ってもいい。戦争中の手入れ不足で、手入れするにも手入れの材料などもなく、壁も汚点(しみ)だらけで、食堂というよりも倉庫みたいな感じがした。

 入口に食票売場があった。

 人々はそこに登録票と金を差し出して、真鍮(しんちゅう)の食票を受取り、内に入って食票と食膳を引きかえる。食膳の上には丼と汁、あるいはおかずが乗っている。丼の内容が白いメシばかりということはほとんどない。サツマ芋ばかりであったり、スイトンであったり、うすぐろいウドンであったり、さまざまであった。そして一食分の丼の内容は極度に少かった。頰張って食えば、四口か五口で終ってしまうのだ。

 私は毎日その食堂に通っていた。

 私が食事を出来るのはこの食堂だけで、他の食堂でメシを食うというわけには行かなかった。その頃は登録制という制度になっていて、つまり自分をひとつの食堂に登録してしまえば、そこでしかメシを食えないような仕組みになっていたからだ。

 もちろん金さえあればヤミで何でも食べられるという事情があったが、私には金がなかった。

 だから私は腹を減らしていた。常住腹をぺこぺこにさせていた。食事の前は無論ぺこぺこだが、食事を済ませても相変らずぺこぺこであった。一食分の、ひとにぎりの主食では、腹いっぱいというわけには行かなかったのだ。

 それほどお腹をすかした私が、その少女に、丼に入っている大切な主食の一部を、何故分かち与えようとしたのか、私にもよく判らない。衝動的なものか、あるいは私のくだらない感傷癖だったのか。

 それにお腹をすかしているのは、その少女だけでなく、この食堂に出入りする者の大部分がそうであったのに、その中からどうしてその少女を私がえらび出したのか。

 その少女がいつも占める席が掘割に面した窓ぎわで、そしてそこは私が好きな席でもあった。そこが一番明るい席だったからだ。だから私たちは、しばしば顔をつき合わせ、あるいは並び合って食事をとった。もちろん言葉を交すことはなく、目礼し合うでもなく、ああまた来てるんだな、とふっと思う程度で、それ以上の交渉は何もなかったのだ。ここに出入りするすべての人に対すると同じように。 

 

 だから私は、その少女がどんな素姓でどんな境遇にあるのか、全然知らなかったし、今でも知らない。

 歳の頃は十六か十七、少女を終りかけた頃で、いつも同じセーターにモンペを着けていた。顔色は蒼白く、眼だけが大きかった。大きな眼に特徴があった。

 このくらいの年頃で、家庭で食事をすることなく、毎日一人で外食券食堂で食事をとるということは、正常な状態ではなかろう。しかし敗戦直後のことだから、それは別段目に立つことでなかった。正常よりも異常の方が世に充ちあふれていたのだから。

 少女はお腹をすかしていた。この少女は私と同じく、たいてい一食事に一食分しか食べていないようだったから、

 私はまだその頃、配給制度というものを信じていた。敗戦後直ぐに復員して上京してきたのだが、数年の軍隊生活からいきなり混乱した娑婆(しゃば)に放り出され、どうやって生きて行けばいいのか、メドをつかみかねていたのだ。巷のヤミ市には物や食物があふれているのに、それが自分の手に入らない。どこかこの世に抜け道があると判っていたが、さてそれはどこにあるかという段になると、私はうろうろと途惑(とまど)ってしまう。だからバカ正直に配給制度というものを信じ、一回一食分だけで我慢し、内心はいらいらと腹を立てていた。誰に対して立腹するのではない。惨めでおろかな自分自身に対してだ。

 時にはあるいはしばしば、腹立ちまぎれに、一回に二食分、あるいは三食分も食票を買い、いっぺんに食べてしまったりする。今日の分でなく、明日明後日の分まで食べてしまうのだ。月末になるとヤミ外食券を買うために、乏しい金をさかねばならぬことは判っているのに、つい食い込んでしまうのだ。そうしてしまったあと、私は漠然と自己嫌悪におち入る。月末のことなどを考えて憂鬱になる。また一回一食分という自律が破れたこと、自分の意志の弱さに対する嫌悪。前述のように私はまだ配給制度を信じていた。政府が配給して呉れるものだけで生きて行けない筈はないと思っていた。とんでもないかん違いをしていたわけだ。

 で、その日も私は欲望に負け、負けるような自分に腹を立てながら、三食分もいっぺんにとってしまった。勤め先(ごく僅かの給料しか呉れない)で面白くないこともあったりして、私は食膳を三つもならべ、端からむしゃむしゃと食べ始めた。

 その日の献立は、今でも覚えているが、主食はフカシ芋で、あとは薄い汁と煮魚であった。丼の方にフカシ芋が二片三片、無造作にごろごろころがっている。

 フカシ芋であろうと何であろうと、三つも食膳を並べるのは、ある意味ではいい気分のものである。大尽にでもなったような気がする。いつもは他の人々が二食も三食分も食べているのに、自分だけは一食分だけで、袖でかくすようにしてこそこそ食べるのだが、今日はそうでない。晴れがましいような気分なのだ。

 二膳目もまたたく間に食べ終り、三膳目のフカシ芋に手をつける。芋はばさばさとしめり気がないので、汁を口に流し込み、また煮魚をつつきながら、むしゃむしゃと食べる。その時私はふっとその少女の視線に気付いたのだ。

 少女は卓をひとつ隔てた向うに腰をおろして、頰杖をついてぼんやりとこちらを眺めていた。眺めるという意識的なものでなく、放心していたのかも知れない。

 芋を頰張りながら私はちらと少女を見た。少女の顔を、そして少女の前に置かれた食膳を。食膳はただのひとつであった。私の三つに対し、ただのひとつ。乗っている丼や皿は、舐(な)めでもしたかのようにきれいにからっぽになっていた。

 時刻がおそかったので、食堂内に客の姿はちらほらするだけで、全体的にがらんとしていた。

 私の視線に気付いたのか、少女はふっと顔を外(そ)らした。

 三膳目の丼に、フカシ芋がまだひとつ残っている。その芋をあの少女に分けてやろうと、どんなつもりでそんなことを思い付いたのか、私にもよく判らない。その少女に対する哀憐か、三膳も自分が食べたといううしろめたさか。それとも満腹のせいか。いや、満腹のせいではあるまい。満腹なら、残った芋をポケットに入れて帰ればいいのだから。

「上げるよ、このお芋」

 と私は即座に言葉をかけた。よく考えもせず立ち上った。丼から芋をつまみ上げて、少女の卓の方に歩いた。少女はきっと私に顔をふり向けた。それは意外に烈しい視線であった。少したじろぎながら、私は少女の方に芋をつき出した。

「上げるよ」

「いらない!」

 少女は立ち上りながら、はっきりと拒否した。妙な話だが、私はふいに腹が立ってきた。善意を裏切られたような気がしたのだ。私のその気持は実は善意ではなく、傲慢に過ぎなかったのだけれども。

「そう言わずに取ったらいいじゃないか」

 私は芋を少女の掌に押しつけようとした。

「誰だって、腹がへっている時は、お互いさまだよ」

「いらない!」

 少女は声を高くして、押しつけられた芋をはたくようにした。芋は私の手から離れて、ころころと土間にころがった。私はっとして、ころがった芋に手を伸ばそうとした。土間はぐちょぐちょに濡れている。

 たかが一片の芋と、今なら考えるだろうが、その頃の芋と言ったら、至大の価値を持っていた。私は未練がましく手をうろうろさせ、そして思い切って手をひっこめた。

 少女は脅えたような眼で芋を見、つづいて私の顔を見た。突然自分の顔を両掌でかくして、小走りに出口の方に走って行った。

 言いようもなく惨めな気持で、私はその後姿を見送った。少女の姿は出口に消えた。濡れた土間に、私と芋だけが残った。やりきれなさが私の胸を嚙んだ。つまらない思いつきのために、私は貴重な芋をうしない、しかも少女を傷つけることだけに終った。私は舌打ちをして、自分の頭を拳固(げんこ)でなぐった。

 

 そういうことがあると、どうも人間同士はうまく行かない。

 次の日から、私は食堂でその少女を見るのが苦痛であった。何でもないと思おうとしても、やはり意識が芋のことにからみついて、ぎくしゃくとなってしまう。

 それは少女の方も同じようであった。いや、同じと言うより裏返し、逆の形であったのかも知れない。その逆の形で少女はあきらかに私を意識していた。意識しながら私を黙殺しようとしていた。その日から私たちの視線は合おうとしなかった。合ってもパチッと音がするような具合で、すぐに外れた。

 そんなに具合が悪いのなら、食堂は広いのだから、窓ぎわの席に行くのはやめて、他の場所で食べればいいではないか。そう思ってもそうは出来なかった。席を変えること自体があの事件にこだわっているということの証明になる。そのこだわりを相手に知らせることになるのだ。席をかえるわけには行かぬ。少女が席をかえないのも、同じ理由からか。もっとも少女の側にすれば、席をうつす謂れはないかも知れない。

 だから私は食堂に通うのに、出来るだけ混雑した時刻をえらぶようになっていた。混雑していれば、その混雑にまぎれて、少女のことを意識しないで済む。

 ある日その混雑の中で、私はふっと少女が私のすぐそばに腰をおろしていることに気がついた。少女はわき目もふらず食事をとっていた。少女は一食分でなく、二食分を食べていた。

(あ、二食分を食べている)

 そのことがすぐ頭に来た。それはすぐにあのころがった芋につながった。私は手を曲げて自分の食膳をかくすようにした。無意識にそんな動作をとった。

(もうやらないぞ。もう誰にも芋をやらないぞ!)

 私は気持だけで力みながら、大急ぎで自分の食事をかっこんだ。

 それから食堂でその少女の姿を見るたびに、彼女が常に一度に二食分をとっているのに気がついた。この間までは彼女は常に一食分であった。それなのにどうしてそんな変化が生じたのだろう。金まわりでも良くなったのか。しかし少女の身なりは相変らず同じ色のセーターとモンペで、別段うるおっているようには見えない。変化は食事の量だけであった。もっともそのことだけで私に羨望を起させるに充分だったけれども。

 そしてある日、私は食堂の入口に、少女がズックの鞄を提(さ)げて立っているのを見た。 

 

 食票売場のすぐ横にたまり場があって、そこにいつも五人や六人の男や女が立っている。鞄を持ったり風呂敷包みを持ったり、さまざまの風体だが、その中には手巻き煙草や外国煙草、旅行者用外食券、石鹸や紙幣などがぎっしり詰まっている。天気の日にはそのたまり場で、雨の日はその連中は食堂内に移動する。極めて規模の小さいヤミ屋であるが、食堂利用者たちは彼らを重宝(ちょうほう)した。私にしても、時には二食分三食分を食べる関係上、どうしても彼等から旅行者用外食券を買い入れねばならぬ。また煙草も一日三本や四本の配給では足りないから、ヤミで買う必要がある。外国煙草には手は出せないから手巻き煙草。手巻き煙草はカスカスしてヨモギのにおいがした。

 旅行者用外食券は高かった。私のその頃の一月の給料を投じても、四十枚か五十枚しか買えなかった。だからこそ登録票の食い込みを極度に押える必要があったのだが。

 しかしどうして彼等は、その鞄や風呂敷の中に、あんなに多量の旅行者用外食券を所持しているのか。それが私の疑問であった。外食券を不要とするものは日本にはほとんどいない筈なのに、それらがまとめて右から左へ売られている。外食券の偽造団がどこかにいるのかも知れない。

 そのヤミ売り人の中に少女の姿を見出した時、私はあるショックを感じた。少女はズックの鞄を提げていた。それはかなりふくらんでいた。立っている感じからして、彼女は日向ぼっこをしているのではなく、あきらかに売人(ばいにん)の仲間に入っていたのだ。現に私が食票を買っている時、ジャンパー姿の若い男が紙幣を出して、その少女から赤丸印の洋モクを買っているのをちらっと見た。少女は無表情のまま、その青年にぼそぼそと礼を言った。

(どういうつもりであの少女売人の仲間入りをしたのかな?)

 食堂の中でぼそぼそとメシをかっこみながら、私はそんなことを考えた。考えなくてもそんなことはすぐに判ることであった。食べて行くためにきまっていた。食べるために、栄養失調にならないために、彼女はヤミ屋になったのだ。他人から芋をめぐまれるような境遇であるよりも、彼女は敢然とヤミ屋の職業をえらんだのだろう。

 少女がその売人に仲間入りをしたことは、私には具合が悪かった。時々売人から物を買うのに、そこに少女がいては面白くないような気持であった。まだ私はあのことにこだわっていた。しかしそれは仕方がなかった。

 

 そして月末のある日、私はどうしても十枚ほどの外食券を買う必要に迫られた。登録分は食べ尽して、月がかわるまであと三日もあったのだ。

 私は食票売場の前に立たず、ぼんやりとその売人のたまり場に立った。売人のどれから券を買おうか。もちろんどれから買ってもよかった。誰から買っても値段は同じだったのだから。ただ私はその少女の存在にこだわっていたのだ。少女から券を買うべきか。それも何かわざとらしく、こだわりを気取られるおそれがある。黙殺して他の人から買うべきか。それも何だか別にこだわっているような気がする。

 そんな自意識が私の態度を固くさせ、つまり少時(しばらく)私はもじもじしていたわけだ。

 その私の顔を、少女はまっすぐに見詰めていた。その視線がますます私をもじもじさせた。少女は表情を凝らしたまま、いきなり口を開いた。

「外食券かい。それともタバコ?」

 私は少女を見た。少女は鞄を胸にかかえるようにして私をにらんでいた。その声は単純な話しかけにしては憎悪に満ちていた。

「外食券だよ?」

「金はあるかい、兄さん。一枚三円だよ」

 少女は表情を動かさず、きわめてぞんざいな口の利き方をした。

「金がなけりゃ、その上衣を脱ぎなよ。二十枚と取っ替えるよ」

 少女は右手を伸ばして、私の着ている復員服を指差した。私は黙っていた。黙ったまま十円紙幣を三枚突出し、十枚の外食券を受取った。

 その一枚を切取り、食票売場に差出しながら、私はもう来月からはこの食堂は止めることにしよう、他の食堂に登録替えをしようと決心していた。そして実際にそうした。

 

 それから五年ほど経ったある日、私は都電の中でその少女にめぐりあった。もうその頃は少女ではなく、彼女はすっかり成熟していた。成熟してはいたけれども、その大きな眼の感じからしても、それは彼女に相違なかった。

 彼女はもうモンペ姿ではなかった。ちゃんとした和服で、持っているハンドバッグの感じからも、かなり裕福に見えた。それに彼女は三歳ほどの男児を一人連れていた。彼女の子供であることは、その男児の眼の形でもはっきりとしていた。彼女は座席に腰をおろし、窓外の景色についていろいろ子供に説明していた。

 私は車掌台の近くに立って、それを見ていたのだ。彼女は私に気付いていないらしい。しかし私の顔を見たとしても、私であると認めるかどうか。(ああ、あれから五年経ったんだな)

 ある苦痛と共に、私はそう考えた。五年経ち、食糧事情はずっと好転して、かつてのように芋に執着するような時代ではなくなっている。しかしあの事件の記憶は、記憶として好転することはなく、やはり私の胸に苦痛として残っているのだ。

(五年経っても、十年経っても、あんなことがあったということ、一片の芋が濡れてころがったということは変らない)

 私はそして次の停留場でそっと電車を降りた。まだ目的の停留場ではなかったが、やはり乗っていることに耐えられないような気持があった。私をおろして、電車は彼女と共に彼方に走って行った。私はぼんやりと空を見ながら次の電車を待った。

「笈の小文」の旅シンクロニティ――歩行ならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉

本日  2016年 1月19日

     貞享4年12月17日

はグレゴリオ暦で

    1688年 1月19日

 

桑名より食はで來ぬればと云ふ日永(ひなが)の里より、馬借りて杖つき坂登るほど、荷鞍打反(うちかへ)りて馬より落ちぬ。

 

歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉

 

と物うさの餘り云ひ出で侍れども、終に季の詞(ことば)入らず。

 

「笈の小文」。日付はサイト「俳諧」の「笈の小文」のこちらの旅程④に従った。

「桑名より食はで來ぬれば」は西行作とも宗祇作(孰れも芭蕉の最も崇敬する古人)ともする凡歌、

 

桑名より食はで來ぬれば星川(ほしかは)の朝明(あさけ)は過ぎて日永にぞ思ふ

 

の上の句。桑名・星川(現在の三重県桑名市大字星川)・朝明(現在の三重県四日市市朝明町)・日永(四日市日永)の地名が詠み込まれてあたじけない掛け言葉となっている。ただ丁度、芭蕉が名古屋から伊賀へ向かうルートと合致していた。

「杖つき坂」杖衝坂。現在の三重県四日市市采女(うねめ)にある旧東海道の坂。四日市宿と石薬師宿(現在の三重県鈴鹿市内)の中間にある。「古事記」で、日本武尊(やまとたける)が東征の帰途に伊吹山の神を甘く見て戦いを挑んだ結果、禁忌に触れて疲弊し、その弱った状態で大和へ帰らんとする途次、この急坂を杖をついて登った、とあるのに基づく。

「物うさ」気怠(けだる)く大儀で、心重く苦しいこと。日本武尊の故事に掛けた。

「季の詞」現行の季語に当たるもの。「去来抄」で『蕉門に無季の句興行侍るや」という問いに、「去來曰、無季の句は折々有り。興行はいまだ聞ず。先師曰、発句(ほく)も四季のみならず、戀・旅・名所・離別等、無季の句有りたきもの也。されどいかなる故ありて、四季のみとは定め置れけん、その事をしらざれば、暫く黙止侍る也。その無季といふに二ツ有り。一ツは前後・表裏、季と見るべきものなし』として本句などを引き、『又詞に季なしといへども、一句に季と見る所有りて、或は歳旦とも、名月とも定まる有り』。と述べている。芭蕉は一方では、一見、近現代の有象無象の守旧派の自称俳人どもの如く、「季の詞」を重視しているポーズを見せながら、その実、優れた一句を詠み出だした中にあっては「季の詞」とならない言葉は実はない、悉く言葉は「季の詞」たりうるものを内在させていると考えていた節がある、と私は勝手に考えている。それはそれとして、この無季の句を芭蕉が「笈の小文」に採ったのには、決して形に堕すことのない芭蕉の天馬空を翔けるが如き、自由自在な句への自負があったことを示す好例の掌に遊ぶ滑稽句と見る。

2016/01/18

私は、初めて教師となった頃、とある先輩国語教師が、トラカンを綺麗にバラして、教科書の中に巧みに挟み込んで隠し、それをあたかも生徒と同じ教科書であるかのようにして見ながら平然と授業をしているのを発見し、その狡猾な巧みさに驚きもし、呆れもしたのを思い出した――名前を言えば、分るだろう、あの僕を徹頭徹尾、馬鹿にした「あいつ」だよ――

大王猫の病気   梅崎春生   附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年三月号『文芸』に発表され、後に単行本「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年現代社刊)に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。

 一見、童話のように見えるが(実際に梅崎春生は童話も書いてはいる)、仮想される猫世界が軍隊のカリカチャアであること、大王猫の抑鬱的精神状態(底本全集別巻では、この前年の昭和二十八年の条に鬱病様の徴候が発現した旨の記載がある)や肝機能障害及び身体不調が当時及びこれ以降の梅崎春生自身の病歴と妙に一致し、戦中戦後当時の政治や世俗風刺をもし掛けている辺り、大人のブラッキーな漫画といった雰囲気の小品である。いや、ここにはもしかすると、春生が生涯語らなかったという海軍二曹時代のおぞましい体験、トラウマとなった何かが、戯画の中に秘かに隠しこまれてあるのかも知れない。

 以下、例によって私のマニアックな注を附しておくが、一部は文中に、またネタバレになりそうなものは後に回した。

 「Xerxes did die, so must we.」アメリカ建国の一世紀前の植民地時代一六八〇年代につくられ、十九世紀後半まで(地域によっては二十世紀の一九二〇年代まで)使用された初等教育用教科書 “The New England Primer”(ニューイングランド初等教本)の中に、“Xerxes the great did die. And
so must you & I. Xerxes did die, And so must I.”
という章句を見出せる。“Xerxes”はクセルクセス一世(紀元前五一九~紀元前四六五)でアケメネス朝ペルシアの王(在位:紀元前四八五~紀元前四六五)。四八〇年のサラミス(Salamis)の海戦でギリシャ軍に大敗の後、連戦連敗し続け、国力は減衰、最後は側近に暗殺された。元は――偉大なるクセルクサスは死ぬ/そしてそうしたらあなたも私も死なねばならぬ/クセルクサスは死ぬ/そうしてそうしたら私も死なねばならぬ――で、ここは偉大なる大王(猫)も死ぬ。そしたら我々も死なねばならぬ――の謂いか(一部で「morichanの父」氏のブログの「『ニューイングランド初等教本』The New England PrimerMarginalia 余白に]」を参考にさせて頂き、原文引用は英文サイトのこちらを用いた)。

 「これはまあ医者のエンマ帳みたいなものでしょうな」の「エンマ帳」はちょっと使い方がおかしい気がする。「閻魔帳」は閻魔大王が死者の生前の行為や罪悪を書き附けておくとされる帳簿で、現世では専ら、教師が受け持っている生徒の成績や出欠などを記入しておく最重要機密書類の一種である「教務手帳」の俗称であって、この場合、ヤブ猫が見ているは、自分が症例と処方について新しい医学書(猫界の)から書き写したものと思われ、教師の「エンマ帳」というに比すよりは寧ろ、教師の「トラカン」、所謂、「虎の巻」(周時代の兵法書「六韜(りくとう)」の中の「虎韜(ことう)の巻」に由来)、「あんちょこ」(「安直」の転訛)、教師用指導書の類いである(因みに私は、初めて教師となった頃、とある先輩国語教師が、トラカンを綺麗にバラして、教科書の中に巧みに挟み込んで隠し、それをあたかも生徒と同じ教科書であるかのようにして見ながら平然と授業をしているのを発見し、その狡猾な巧みさに驚きもし、呆れもしたのを思い出した)。大王猫の話だから「エンマ帳」という洒落なのかも知れぬが、トラは食肉目ネコ型亜目ネコ科 Felidae ヒョウ属 Panthera トラ Panthera tigrisなんだから、『医者の「虎の巻」ならぬ「猫の巻」みたいなものでしょうな』ぐらいにした方が、これ、面白くはありませんか? 梅崎先生?

 「ツンツン椿」なんのこっちゃ? と調べてみれば、歌謡歌手で古賀政男門下の神楽坂浮子(かぐらざかうきこ 昭和一三(一九三八)年~平成二五(二〇一三)年:本名は大野景子)の曲名らしい。国立国会図書館の歴史的音源の書誌データによれば作詞は佐伯孝夫で作曲は清水保雄とある。「ツンツン椿」は恐らく「山椿」「藪椿」と同義で、所謂「椿」、ツバキ類の原種の一つであるツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica のことである。

 「ハンの木」「ハン」は漢字では「榛」と書き、通常は落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。ここも後者であろうと思われる。

 「ヤチダモ」落葉広葉樹のゴマノハグサ目モクセイ科トネリコ属ヤチダモ亜種ヤチダモ(谷地梻) Fraxinus mandshurica var. japonica 。単に「タモ」とも呼ぶ。

 「アカダモ」落葉広葉樹のイラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ(春楡) Ulmus davidiana var. japonica の異名。大きくなると樹高三〇メートル・直径一メートルに達し、日本産ニレ属の樹木では最大となる。] 

 

  大王猫の病気 

 

 つい半年ほど前から、猫森に住む猫の大王の身体の調子が、どうも面白くありませんでした。

 どこと言ってとり立てて悪いところはないのですが、なんとなく疲れやすく、食慾も減退し、脚をふんばってみても昔みたいな元気がどうしても出て来ないのです。これはつまり公平なところ、相当にながく生きてきたので、そろそろ老衰期にかかってきたのでしょう。自分では若いつもりでいても、身体の方で言うことを聞かないというわけです。

 猫森の真ん中にある茸庭(きのこにわ)のあたりを、その朝も猫大王はいらいらと尻尾をふりながら、よたよたと行ったり来たりしていました。眼をらんらんと光らせてと言いたいところですが、もう今は眼もどんより濁って総体に暗鬱な気配でした。

 尻尾をふっているのは、大王が怒っている時の癖なのですが、もうその尻尾もあちこち毛がすすり切れて、なめし色の地肌がところどころのぞいているのです。これは大王が若い頃から怒りっぽくて、あんまり尻尾をふり廻したせいでもあるのでした。

 そこへ椎(しい)の木小路の方から、朝の光をかきわけてオベッカ猫と笑い猫とぼやき猫たちが、何か世間話をしながらチョコチョコやって参りました。そして大王の顔を見ると、いっせいに立ち止り、口をそろえて調子よくあいさつをしました。

「お早うございます。大王様」

 大王はじろりと三匹を見て、頰をもぐもぐ動かしたのですが、それは別段声にはならないようでした。なんだか口をきくのも辛そうな、面白くなさそうな表情なのです。そこで三匹は顔を見合わせましたが、オベッカ猫はすばやくピョコンと大王の前に飛び出して言いました。

「大王様には今朝もごきげんうるわしく――」

 オベッカ猫がそこまで言いかけた時、大王猫はむっとした顔でそれをさえぎりました。

「ヤブ猫を呼んできて呉れい。それも大至急にだぞ」

 ヤブ猫というのは猫森の三丁目一番地に開業している医者猫のことなのです。そこで再び三匹は顔を見合わせ、お互いに眼をパチパチさせ、今度は三匹いっしょに口を開きました。

「大王様。どこかお身体が――」

「調子わるい!」

 と大王猫は言いました。ゼンマイのゆるんだような、筋がもつれたような、それはそれはへんな響きの声でした。

「今朝の朝飯のとき、うっかり舌をかんだのだ」

 そして大王猫は大口をあけて、ぺろりと舌を出して見せました。三匹が首を伸ばしてのぞいて見ますと、タイシャ色の舌苔(したごけ)におおわれた細長い舌の尖端の部分に、歯型が三つ四つついていて、そこらに血がうっすらと滲(にじ)み出ていました。ちょっとその形が踏みつぶされた芋虫みたいに見えたものですから、笑い猫は思わずクスリと笑い声を立ててしまったのです。すると大王猫はぺろりと舌を引っこめて、こわい眼付で笑い猫をにらみつけました。そしていきなり怒鳴りつけようとしたらしいのですが、その前にオベッカ猫が早口でわめきました。

「こら。笑い猫にぼやき猫。大急ぎでヤブ猫のところに行ってこい。歩幅は四尺八寸、特別緊急速度だぞ!」[やぶちゃん注:「四尺八寸」は約一メートル四十五センチメートル強。]

 大王猫は先にわめかれてしまったものですから、とたんに気勢をそがれ、ぐにゃぐにゃとうずくまりながら、力なく言いました。

「早く行って呉れえ」

「早く行って呉れえ」

 とオベッカ猫が猫なで声で、そう口裏似をしました。するとぼやき猫が不服そうに口をとがらせました。「そりゃ僕は行ってもいいよ。行ってもいいが、一体君はどうするんだね」

「僕か。僕はここに居残って」とオベッカ猫は前脚でくるりと顔を拭きました。「大王様の看護にあたるんだよ」

「ずるいよ。いくらなんでもそりやずるいよ。他人ばかりに働かせて、自分は楽(らく)しようなんて」

「そんなんじゃないよ。そんなんであるものか。じゃ君が看護にあたれ。看護課の第九章を知ってるか」

 するとぼやき猫はすっかり黙りこんでしまいました。第九章どころか第一章も知らなかったからです。オべッカ猫はすっかり得意になり、胸をそらして大声で命令しました。

「行って来い。出発」

 大王猫はしごく憂鬱そうな表情で、このやりとりをぼんやり眺めていましたが、つりこまれたように自分も口をもごもご動かしました。

「出――発」

 笑い猫とぼやき猫は大王の前に整列し、ピタンと挙手の礼をして右を向き、それっ、というようなかけ声と同時に、すばらしい速さで椎の木小路の方にかけ出して行きました。木の間を縫う朝の光が、そのためにゆらゆらゆらっと揺れたほどです。

 大王猫はぐふんとせきをして、身体を平たく伸ばしながら言いました。

「こら。オベッカ猫しばらくわしの腰を揉(も)んで呉れえ」

「かしこまりました。大王様」

 オベッカ猫が腰を揉んでいる間、笑い猫とぼやき猫は猛列なスピードで、

「大王様のご病気だよう」

「大王様のご病気だよう」

 呼吸のあい間にそうわめきながら、三丁目の方角に疾走していました。なにしろ歩幅が四尺八寸というのですから、人間にだってむつかしいのに、まして猫のことですから、後脚のキックに相当の力をこめねばならないのです。そこで一番地のヤブ猫の家の前まで来た時には、二匹ともすっかりへとへとになり、呼吸もふいごのようにはげしく、しばらくは声もろくに出ない有様でした。二匹とも一挙に目方が三百匁ぐらいは減ってしまったらしいのです。[やぶちゃん注:「三百匁」は一キロ百二十五グラム。]

「何か用か」

 途方もなく大きな一本の孟宗竹(もうそうだけ)の、下から三節目のくりぬき窓から、鼻眼鏡をかけたヤブ猫が首を出して、威厳ありげに声をかけました。

 笑い猫とぼやき猫は並んで立ち、両の前脚を上に上げて横に廻す深呼吸運動を、前後五回ばかり繰返しました。そしてこもごも口をひらきました。

「大王様がご病気です」

「大へん御重体です」

「うっかりして舌を嚙まれたのです」

「そこでおむかえに参りました」

「どうぞ早く来て下さい」

「お願いでございます」

 ヤブ猫は二匹の猫の顔を鼻眼鏡ごしにかわるがわる眺めていましたが、やがてフンと言った表情で首をひっこめ、そして根元の扉のところから、ちょこちょこと出て参りました。もう小脇には竹の皮でつくった大きな診察鞄(かばん)をかかえこんでいたのです。それを見るとぼやき猫は急に不安になってきて、少しおろおろ声になって訊ねました。

「大王様はどうでしょうか。おなおりになりますでしょうか」

「まさか、おなくなりになるようなことはありませんでしょうね」

 と笑い猫が負けずに口をそえました。

「それは判らん」とヤブ猫は鼻眼鏡をずり上げて横柄に答えました。「諺にも Xerxes did die, so must we. というのがあるな」

 ヤブ猫がとたんに学のあることを示したものですから、あまり学のない笑い猫とぼやき猫は、まったくシュンとなって顔を見合わせました。ヤブ猫はすました顔で、

「じゃあ出かけるかな」

 と竹皮鞄をつき出しました。これは二匹の猫に持って行けということなのです。二匹はあわててそれを受取り、そして口をそろえて言いました。

「そいじゃ歩幅は三尺六寸ということにお願いいたします」[やぶちゃん注:「三尺六寸」は約一メートル九センチメートル。]

 それはそうでしょう。重い鞄をかかえてそれで四尺八寸とは、これはもう猫業(ねこわざ)ではありません。

 さて大王猫の方では、オベッカ猫に腰を操ませ、四本の脚を揉ませ、次には裏返しになって背骨を指圧させ、つづいて、首筋をぐりぐりやらせていましたが、まだヤブ猫はやって参りません。オベッカ猫は揉みに揉ませられて、すこしはじりじりして来たらしく、もうやけくそな勢いで大王猫の首筋をつかんだりたたいたりしていました。こんなことなら使いに出た方がまだましだった、そう思っているようなしかめ面(つら)でした。ところが大王はそんな乱暴な揉み方が案外気に入っているらしく、眼を細めて咽喉(のど)をぐるぐる鳴らしていたのです。これはきっと大王の血圧が高く、それで首筋が石のように凝(こ)っているせいなのでしょう。

 丁度そのとき椎の木小路の方から、エッサエッサと昼前の空気を押し分けるようにして、ヤブ猫一行がひとつながりになって走って来ました。ヤブ猫は鼻眼鏡が気になるし、笑い猫とぼやき猫は診察鞄を両方からかかえているし、というわけで、そのスピードもそれほどのものではありませんでした。オベッカ猫はそれを横目でにらみながら呟(つぶや)きました。

「あれほど四尺八寸だと言ったのに、ヘッ、あれじゃあ三尺六寸どころか、全然二尺四寸どまりじゃないか」[やぶちゃん注:「二尺四寸」は七十二・七二センチメートル。]

「なにをぐずぐず言っとる」

 と大王猫が聞きとがめて、頭をうしろに廻しました。とたんに首の筋がよじれて、ぎくんと鳴ったらしく、大王はイテテテテと顔をしかめました。

「いえ。ヤブ猫一行が参ったらしゅうございます」

「どれどれ」

 大王は椎の木小路に眼を向けましたが、視力が弱っていてとらえかねている中に、もうヤブ猫一行は茸庭に勢いよくかけ入ってきて、ぱっと一列に整列をしました。笑い猫が大きな声で復命しました。

「笑い猫、只今ヤブ猫をたずさえて戻って参りました」

「ぼやき猫、右に同じ!」

 ぼやき猫も負けじとばかり大声をはり上げました。

 ヤブ猫はすっかり荷物あつかいされてむっとしたらしく、二匹をにらんで何か言おうとしましたが、その前に大王猫が前脚をあげてさしまねいたものですから、二匹から診察鞄をひったくるようにして、大王の前に近づきました。

「大王様。如何なされました」

 いくら横柄なヤブ猫でも、大王猫の前ではそうツンケンと威張るわけには行きません。すこし腰をかがめてまったく神妙な態度でした。

 大王猫は眼をしばしばさせて、やや哀しそうにヤブ猫の顔を見上げました。

「身体のあちこちが、どういうわけか大層具合がわるいのだ」

「舌をお嚙みなされたそうで」

「うん」

「ちょいと拝見」

 大王猫は笑い猫を横目でじろりとにらみながら、忌々しげにべろりと舌を出しました。ヤブ猫は診察鞄のなかから竹のへラを取出して、それで大王の舌をおさえたり、かるくしごいてみたりしました。そして仔細あり気に訊ねました。

「今朝は何をお食べになりました?」

「コンニャクを食べたのだ」と大王猫は舌をすばやく引っこめて、ちょっと恥かしそうに鬚(ひげ)をびくびく動かしました。

「コンニャクを食べていると、口の中のものがコンニャクか舌か判らなくなっての、それでうっかり間違えて嚙んでしまったのだよ」

 笑い猫が急に横を向き、あわてて両の前脚で口をしっかと押えて、ブブッと言ったような圧縮音を立てたのです。ヤブ猫はえへんとせきばらいをして、教えさとすようい言いました。

「それはもう相当に感覚が鈍磨しておりますな。もう以後コンニャクのようなまぎらわしいものは、一切お摂(と)りになりませんように」

「うん。わしも別に食べたくはなかったが、今朝はなんだかとても身体がだるくて、全身に砂がたまっているような気がしたもんだからの」と大王猫は情なさそうに合点々々をしました。「で、どこぞに故障でもあるのかな」

「三半規管ならびに迷走神経の障害」とヤブ猫は名医らしく言下にてきぱきと答えました。「それに舌下腺も少々老衰現象を呈していますな」

 大王猫はぷいと横を向いて、グウと言うような惨(みじ)めな啼(な)き声をたてました。

「グウ。それに対する療法は?」

「まあマタタビなどがよろしゅうございましょう」

 そう言いながらヤブ猫は、診察鞄から聴診器をおもむろに取出しました。鞄は竹皮製ですから、あけたての度にばさばさと音を立てるのでした。

「一応全部ご診察いたしましょう」

 それから、ヤブ猫は聴診器のゴムを耳にほめ、大王猫の身体をあおむけにしたり裏返しにしたり、丸く曲げたり平たく伸ばしたり、そして要所々々に聴診器をあて、またもっともらしい手付きで打診などしたりしました。オベッカ猫と笑い猫とぼやき猫は、結果如何にと眼を皿のようにして、大王の軀とヤブ猫の顔色をかたみにうかがっています。それらはまったく真剣そのものの表情でした。[やぶちゃん注:「かたみにうかがっています」この「かたみ」は「片身」で、真っ向向いてでは失礼なので、侍りながら、それとなく気を向けている様子の謂いであろう。]

 ヤブ猫はやがて手早く診察を終り、聴診器をくるくる丸めて鞄のなかにしまい、腕組みをして首をかたむけ、フウウと大きな溜息をつきました。大王猫はびくっと身体をふるわせ、おそるおそる片眼をあけてヤブ猫を見上げました。

「まだ他にどこぞ故障があったかの」

 ヤブ猫は腕を組んだまま視線を宙に浮かせて、じっと沈黙しています。たまりかねたようにオベッカ猫が横あいから口をさし入れました。

「おい、ヤブ猫君。何とか言ったらどうだね。え。大王様はすっかり御丈夫だろう。ええ。まったく御健康だと言い給え」

 ヤブ猫はオベッカ猫にじろりとつめたい一瞥(いちべつ)をくれて、しずかに首を振りました。その横柄な態度がぐっとオベッカ猫の癇(かん)にさわったらしいのです。

「なに。大王様が御壮健でないことがあるものか。御壮健そのものだぞ。僕がよく知っている。僕の方がよっぽど虚弱なくらいだぞ。だから僕は日夜大王様の身辺に侍して、大王様のはつらつたる御健康のおこぼれを……」

「なんだと。おいぼれだと!」

 大王猫が憤然と聞きとがめて、頭をむっくりもたげました。

「いえ、いえ。おいぼれじゃなく、おこぼれでございまする」

「ははあ。耳にも故障がございますな」

 ヤブ猫は鞄の中から細い金属棒をせかせかとつまみ出し、大王猫の頭をいきなりぐっと押え、その尖端を右耳のなかにそっと差し込みました。途中でところどころ引っかかるようでしたが、とにかくその金属棒はしだいしだいに耳穴にすいこまれ、やがてその尖端が左の耳の穴からチカチカと出て参りました。その間大王猫はすっかり観念したように、身動きさえしませんでした。

「ははあ。思った通りだ」

 金属棒を耳からずるずると引き抜きながらヤブ猫がつぶやきました。

「鼓膜も穴だらけだし、内耳も腐蝕しておるし、これじゃ右から左へぜんぜん素通しだ」

「どうしたらよかろう」

 と大王猫はうめくように言いました。

「マタタビ軟膏をお詰めになるんですな」とヤブ猫はすました顔で言いました。「それに肝臓も相当に傷んでいて、すでにペースト状を呈しておりますな。早急に手当をせねばなりません」[やぶちゃん注:「マタタビ軟膏」以下の「マタタビオニン」「マタタビ丸」(またたびがん)も含め、このような薬剤や薬物は実在しない。「マタタビ」は後注を参照されたい。「ペースト状」の「肝臓」は脂肪肝のことであろう。]

「どんな手当がよろしかろうか」

「マタタビオニンがよろしいでしょう。それから坐骨神経の障害。ほら、ここを押すとしたたかお痛みになりますでしょう」

「うん。あ、いてててて!」

「マタタビの葉をすりつぶしてお貼りになるんですね。朝夕二回ぐらいがよろしゅうございましょう」

「それから近頃どうかすると――」大王は胸を押えました。「すぐに心臓がドキドキするのじゃが」

「心悸亢進(しんきこうしん)でございましょうな。すべてこれらは老衰にともなう典型的な症状でございまして――」

「なに。老衰だと」と大王猫はぎろりと眼を剝(む)きました。

「じっさいお前は言いにくいことを、全くはっきりと言う猫だな。それじゃよし。そんなら老衰という現象には――」

「マタタビがよろしゅうございましょう」

 これはヤブ猫だけでなく、他の三匹の猫も一緒に合唱するように言ったものですから、大王猫はかっとなって二尺ばかり飛び上って、総身の毛をぎしぎしと逆立てました。[やぶちゃん注:「二尺」六十センチ六ミリメートル。]

「何を聞いても、マタタビ、マタタビ、マタタビだ。このへボ医者奴。薬はそれしきゃ知らないのか。おい、ぼやき猫。ひとっ走りして文化猫を大至急呼んでこい!」

「文化猫はここしばらく、イタチ森へ講演旅行に出かけております」

「なんだと。講演旅行だと。あのロクデナシ奴。おい、ヤプ猫。お前は近頃全然勉強が足りないぞ。マタタビとはなんだ」大王猫は怒りのために尻尾をやけにうち振りふり廻し、呼吸をぜいぜいはずませました。「マタタビなんか古い。全然古い。十九世紀的遺物だ。現今はもはや二十世紀だぞ!」

 ヤブ猫はかくのごとく真正面から痛烈に面罵されて、とたんにすっかり慄え上り、おろおろと前脚を鞄につっこみ、がしゃがしゃとかき廻した揚句、小さな鼠革表紙の手帳をとり出しました。これはまあ医者のエンマ帳みたいなものでしょうな。ヤブ猫は大急ぎで前脚に唾をつけ、ぺらぺらぺらと頁をめくりました。

「ええと。ええ。大王様。お怒りにならないで。不勉強なわけでは決してございません。ええ。それそれ、ここに、カビ、抗生物質と書いてございます。これなんかは老衰に――」

「なに。このわしにカビを食わせる気かっ!」

「いえいえ」ヤブ猫はあわてて次の頁をめくり、鼻眼鏡の位置を正しました。「ええ、次なるは葉緑素。これは最新学説でございますな。これを摂(と)ることによって体内の細胞はまったく更新し――」

「葉緑素とは何だ」

「はい。木の葉などにふくまれている天然自然の貴重な元素でございます」

 三匹の猫たちは横柄なヤブ猫がちぢみ上っているので、お互いに目まぜをしながら痛快がっていました。大王猫は逆立てた背毛をすこし平らにしました。

「たとえばそれはどんな植物に豊富に含まれているのか」

「はあ」とヤブ猫は眼をぱちぱちさせました。「あのう、たとえば猫ジャラシとか――」

「ああ、あれはいかん」大王猫は前脚をひらひらとふりました。「あれを見ると、わしはイライラしてくるのじゃ」

「では、ツンツン椿(つばき)の葉っぱなどは如何でございましょう。毎食前に五枚ずつ」

 大王猫はちょっと限をつぶって、顎(あご)をがくがく動かし、椿の味を想像している風でしたが、すぐにかっと眼を見開いてはき出すように言いました。

「あんまり感心しないな。お前の勉強はそれだけか」

「いえいえ」ヤブ猫はやけくそな勢いで次の頁をめくりました。「ええ。ええと。脳下垂体。これ、これ、これに限ります。これなら一発覿面(てきめん)でございます」

「覿面だと?」

「はあ。これは牛の脳下垂体でございまして、これを採取して内服するなり移植するなりいたしますと、たちまち十五年ばかり若返るのでございます」

 大王猫は再びちょっと眼を閉じ、肩をぐっとそびやかしました。これはちょっと牛の気分を出してみたのです。すぐに眼をあけ、いくらか満足げににこにこしながら言いました。

「それはよかろう。面白かろう。それじゃ早速それを一発やって貰おう」

「今でございますか」ヤブ猫は手帳を急いでポケットにしまい、ハンカチでせまい額をごしごしと拭いました。「残念ながら只今のところ手持ちがございません。今しばらくの御猶予(ゆうよ)のほどを」

「なに。今手持ちがない?」大王猫の声はやや荒々しく、背毛もふたたび斜めに持ち上りました。「どこに行けば直ちに手に入るのかっ!」

「牛ケ原に参りますれば、そこらに黒牛が若干おりますので、あるいはそれに頼めば分けて呉れるかも知れません」

「よし。では早速家来どもを派遣する!」

 大王猫は顔をじろりと三匹猫の方にむけました。三匹描は思い合わせたように、一斉(いっせい)に一歩二歩あとしざりをしました。これは牛は黒くて大きいし力はあるし、それとの交渉はあまり好もしい役目ではなかったからです。

「ではお前たち、直ちに牛ケ原に向って出発せよ」

「もうし、大王様」

と笑い猫が未練げに足踏みをしながら言いました。

「私どもは未だにはっきりと任務の内容を与えられておりません」

「よし。ヤブ猫。任務の内容を詳細に説明せよ」

 ヤブ猫はまたハンカチでしきりに顔をふきながら、三匹の方に向き直りました。冷汗がひっきりなしに滲み出てくる風なのです。

「ええと、それは簡単である」ヤブ猫の声はおのずから苦しげな紋切型の口調になりました。「牛ケ原におもむいて、先ず黒牛をさがす。さがし当てたら、貴下の脳下垂体を少少分けて呉れと、相手を怒らせないように丁寧(ていねい)に頼みこむ。むこうが承諾したら、脳下垂体をすばやく採取して大至急戻ってくる」

「どういう方法で採取するのですか」とぼやき猫がおそろしそうに聞きました。

「ええ。それも簡単である」とヤブ猫は忙しくハンカチで顔を逆撫(さかな)でしました。もうハンカチは吸いとった汗でびしょびしょになってるようでした。「黒牛に先ず上をむいて貰うように頼む。そ、それから黒牛の鼻の穴に前脚をそろそろとつっこむ。右の穴でも左の穴でもどちらでもよろしいが、ただし、くしゃみをされるおそれがあるから、事前に前脚はよく洗っておくこと。まず前脚の付け根までつっこめば、何かぶよぶよしたものをきっと探り当てるから、そいつに爪をかけ、力いっぱい引っぱり出すこと。あとはそれをかかえて後も見ずに一目散にかけ戻って来ればよろしいのだ」

「うしろをふり返ってはいけないんですか」

「ふり返らない方がよろしかろう」とヤブ猫はぶるんと顔をふって冷汗をはじき飛ばしました。「万一ふり返りでもしたらどういうことになるか、それはもう保証の限りでない!」

 その一言を聞いて三匹猫は一斉にぶるぶるっと身慄いしました。聞くだにおそろしそうな話だったからです。ことにぼやき猫なんかはもう目がくらくらして、ほとんどぶっ倒れそうな気分でしたが、辛うじて脚をふんばり、最後の質問をはなちました。

「もし黒牛さんがイヤだと申しましたら――」

「他の黒牛にあたるんだ」

「そいじゃ黒牛さんが、脳下垂体は分けてやる代りに――」とぼやき猫はここで大きく息を吸いこみました。「その代りに猫森の一部分を割譲せよとか、猫的資源を供出せよとか、そんなことを言い出したら如何はからいましょうか」

「そりや困る!」

 と大王猫が渋面をつくって、あわててはき出すように言いました。

「いや、大丈夫でしょう。黒牛なんてえものは至極お人好しの牛種ですから」とヤブ猫は診察鞄を小脇にかかえ、もう半分逃げ腰になりながら猫撫で声を出しました。「そんな悪らつなことを、まさかねえ、アメリカじゃあるまいし」

「よろしい。出発!」と大王猫がいらだたしげに前脚をふりました。「大至急、牛ケ原にむけ前進開始!」

「笑い猫にぼやき猫!」と大王猫の号令に便乗してオベッカ猫が声をはり上げました。「ただちに牛ケ原にむかって出発前進。糧食一食分携行。遠距離であるからして、歩幅は三尺六寸でよろしい。ただし帰りは四尺八寸に伸ばさざれば、生命の保証なしと知るべし。さらば征(ゆ)け、勇敢なる若猫よ!」

「バカ。このロクデナシ!」

 大王猫は激怒のあまり逆上して、二三度ぴょんぴょんと飛び上り、オベッカ猫をにらみつけました。

「ずるやすみもいい加減にしろ。先刻もこのわしをおいぼれ呼ばわりまでしやがって!」

「はい。何でございましょうか」

「何もくそもあるものか」と大王猫は王者のたしなみも忘れて、口汚ないののしり方をしました。「行くんだよ。お前が先頭に立って出発するんだっ!」

「はあ、私がでございますか」とオベッカ猫はきょとんとした顔をしました。

「そうだよ。それがあたり前だ」

「でも私はここに居残って、大王様の御看護を――」

「看護にはヤブ猫が残る!」と大王猫は怒鳴りつけました。「弁当をこしらえてさっさと出て失せろ!」

 鞄をかかえて逃げ腰になっていたヤブ猫は、大王猫に肩をつかまれて、当てが外れたようにへたへたと地面に坐りこみました。

 三匹猫はうらめしそうにそのヤブ猫をにらみつけ、それからそれぞれ手分けをして、大王の朝飯の残りのコンニャクやそこらに生えている茸(きのこ)を、のろのろと弁当袋につめこみ、めいめいそれを頸(くび)から脇にかけました。なかんずくオベッカ猫の動作が一番のろかったのは、この牛ケ原行きにもっとも気が進まなかったせいでしょう。しかしとうとう用意がととのってしまったものですから、三匹はオベッカ猫を最右翼にしてしぶしぶ一列横隊となり、そしてオベッカ猫がまず哀しげに声をはり上げました。

「オベッカ猫、只今より牛ケ原に向い、黒牛の頭蓋より脳下垂体を奪取して参ります!」

 そしてオベッカ猫はぎょろりとヤブ猫をにらめました。

「笑い猫、右に同じ!」

「ぼやき猫、右に同じ!」

 そして二匹は一斉にぎらりとヤブ猫をにらみ、それから視線を大王に戻してこんどは大王の顔をきっとにらみつけました。すると大王は何をかんちがいしたのか、まったく満足げににこにこしながら、荘重な口調で訓示を垂れました。

「よろしい。只今諸子の眼光をうかがうに俄(にわ)かにけいけいとして、見るからに闘志にあふれておる。わしの満足とするところである。その闘志をもって牛ケ原に直行し、巧言令色もって至妙の交渉をとげ、首尾よく脳下垂体を獲得して帰投せよ。出発!」

「出発。右向けえ、右!」とオベッカ猫があまり力のこもらない号令をかけました。「行く先は牛ケ原。歩幅は二尺六寸。出――発!」

「三尺六寸だっ!」と大王猫が怒鳴りました。

「もとい。歩幅三尺六寸。出発」

 彼方のゆらゆら木洩(も)れ日をかきわけて、三匹編成の特別一小隊は、エッサエッサと懸声をかけて椎の木小路の方にだんだんと遠ざかって行きました。あとはしんかんとした茸庭の正午の空気です。一隊が見えなくなると、大王猫は急にぐったりしたように、ぐにゃぐにゃと地面にへたりこみました。

「すこし疲労したようだ」と大王猫はものうげに小さな欠伸(あくび)をしました。「脳下垂体か。それまでの間に合わせに、マタタビ丸を三粒ほど呉れえ。しかしあいつ等、うまく持って帰ってくるかなあ」

「あいつらが失敗すれば、また別の家来を派遣なさいませ」と鞄からマタタビ丸をつまみ出しながら、ヤブ猫がそそのかすような声で言いました。「まだ御家来衆は次々控えておりまするでございましょう」

「そうだ。そうだ。あいつらがやりそこなったら、今度はイバリ猫にズル猫にケチンボ猫を派遣しようかな」

 そして大王猫はマタタビ丸をぺろりとのみこんで、ふううと大きな溜息をついて身体を地面にひらたく伸ばしました。

「ヤブ猫。後脚の付け根あたりをすこし揉んで呉れえ。近頃わしは中脚の方も全然ダメになったようだが、脳下垂体を服(の)めば回復するか。するだろうな。そうでなければわざわざ服む価値はないぞ」[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「中脚」とは陰茎のことである。]

 一方オベッカ猫を長とする特別一小隊は、やがて猫森を出はずれ、ハンの木、ヤチダモ、アカダモ並木の大街道をかけ抜け、一面茫々の大湿地地帯を通過し、やっとタンポポ丘にたどりついた時は、もはや陽ざしは午後二時近くになっていました。さすがの若猫たちもこの長距離疾走にはすっかり疲労して、膝の関節もがくがくとなり、歩幅も二尺六寸ぐらいに縮小してしまっていたくらいです。そのタンポポ丘の頂上に立った時、突然笑い猫が彼方を指差してすっとんきょうな声を立てました。

「黒牛が!」

 タンポポ丘のふもとから見渡す限り青々と草原がひろがり、五百米ほどの彼方に黒いものがひとつ、じっとうずくまっているのが見えました。ここが名だたる牛ケ原なのです。そいつは見るからに傲然として、途方もなく巨大な黒牛らしいのでした。ぼやき猫もその叫びにつられたように、哀しげな声を出しました。[やぶちゃん注:「傲然」偉そうに人を見下すさまを指す。]

「ああ。あそこに黒牛が」

 オベッカ猫はその瞬間まっさおになり、しばらくむっと黙っていましたが、やがてへたへたとタンポポを踏みくだいて腰をおろし、情なさそうに口をひらきました。

「さあ。とにかく、それよりも、弁当ということにしようや。そして弁当が済んだら、君たちは二人とも小川でよく前脚を洗うんだよ。黒牛がくしゃみをすると僕だって大へん困るからなあ」

 笑い猫もぼやき猫も同時に顔をぐしゃっとしかめ、よろめくように丘の斜面に尻もちをつきました。そこで三匹はそのままの姿勢で弁当袋をひらき、めいめいぼそぼそとコンニャクだの茸だのを口に入れては嚙みました。おそらくそれらは全然食べ物の味がしなかったに違いありません。三匹ともろくに唾液が分泌してこないようで、時々ちらちらと黒牛の方に横目を使いながら、ごくんごくんとむりやりに嚥下(えんげ)している様子なのでした。僕はこういう彼等につよく同情するのです。

[やぶちゃん後注:「三半規管」あくまでヒトのケースで述べる。内耳にある三つの半環状の管で、互いに直角に組み合わさっている。中にリンパ液が満ちていて、その動きによって首や身体の回転の方向を立体的に認知し、人体全体の平衡感覚を掌っている。ネコの場合、この三半規管がすこぶる敏感で高性能なことは、高い場所から落ちてもちゃんと着地する空中立位反射を見れば判る。冒頭の大王猫の「脚をふんばってみても昔みたいな元気がどうしても出て来ない」「よたよたと行ったり来たり」するところから、ヤブ猫の見立ては一応、理解は出来る。

「迷走神経」あくまでヒトのケースで述べる。脳神経の一つで、副交感神経や咽頭・喉頭・食道上部の運動神経、腺の分泌神経などを含み、延髄を起点とする。脳神経でありながら、体内で多数に枝分れして複雑な経路をとって腹腔内にまで広く分布を持つことから、かく名が附せられた。内臓に多く分布していて体内の環境をコントロールしているが、強い痛みや精神的ショックなどが原因で迷走神経が著しく刺激されると同神経系が過剰に反応し、心拍数及び血圧低下や脳貧血などを惹き起こして失神などの症状を呈する(以上は看護師求人転職サイト「看護roo!(カンゴルー)」の「看護用語集」にある「迷走神経」を参考にした)。迷走神経の中でも迷走神経鰓弓部と呼ばれる咽頭附近に集合するものの中でも、反回(下喉頭)神経が障害を受けると、喉頭筋が不全麻痺に陥るため、声が嗄れたり、呼吸困難・窒息が起こるとある(ここは私が献体している慶應義塾大学医学部解剖学教室の船戸和弥先生のサイト内の「脳神経の概要」の「迷走神経[]」に拠った)から、大王猫の舌を嚙む症状からは、ネコの迷走神経系もヒトと基本的に変わらないとするならば、この見立ても無きにしもあらず、ではある。

「舌下腺」唾液腺の一つで下顎骨の内面に接してある(辞書類にはさらに多く記載があるが、ヒトとネコでは異なる可能性が高そうなのでこれ以上は注しない)。舌を嚙む症状が唾液の多少に関わりそうな気は、確かにする。

「マタタビ」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygamaウィキの「マタタビ」によれば、マタタビは雌雄異株で、『雄株には雄蕊だけを持つ雄花を』、雌株は『花弁のない雌蕊だけの雌花をつける』が、雌株には『雄蕊と雌蕊を持った両性花をつける』ものがある(ここは他の記載で一部操作した)。六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし(キク亜綱シソ目シソ科イヌハッカ属イヌハッカ Nepeta cataria。但し、本邦には元来は自生しない帰化植物。ウィキの「イヌハッカ」によれば、『日本ではキャット・ミントと呼ばれることもあ』り、『種名のカタリア(cataria)はラテン語で猫に関する意味があり、また英名の Catnip には「猫が噛む草」という意味がある。その名の通り、猫はこのハッカに似た香りのある草を好むが』、『これはこの草の精油にネペタラクトンという猫を興奮させる物質が含まれているからである。猫がからだをなすりつけるので、イヌハッカを栽培する際には荒らされることも多いが、この葉をつめたものは猫の玩具としても売られている』。『なお、猫に同様の効果をもたらす植物としてマタタビや荊芥』(けいがい:同イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia)『などがあるが、日本において特に有名な前者にちなみ、イヌハッカは「西洋マタタビ」と呼ばれることもある』とある)、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』。「牧野新日本植物図鑑」(一九八五年北隆館刊/三三一頁)によると、『アイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学と民俗学が美事に復権した素晴らしい記載である。他にも『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』ともある。このウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。

「坐骨神経」仙骨(腰椎下方・尾骨上方にある骨盤の後壁をなす骨)から骨盤を経由し、大腿部に向かう神経。多くの動物に於いて、同一個体中に於ける最大直径・最大長を有する末梢神経である。

「心悸亢進」烈しい動悸を感ずる症状。『普通には自覚されない心臓の鼓動を前胸部に感じる不快感。普通は心臓の拍動が亢進しているときに起こるが、正常心拍でも動悸を感じる場合もある。脈拍は、普通1分間に』五〇~九〇回ほどで『規則正しく打っているが、心拍数が』百を『超す頻脈』や、反対に四〇以下に『減少する徐脈、不整脈、心臓の収縮性が亢進したときなどに動悸や心悸亢進が自覚されることが多い』。『直接的な原因となる心臓の病気には、期外収縮、心房細動、心房粗動などの不整脈、発作性頻拍症、洞不全症候群、高度の徐脈、高血圧などがある。また、心疾患以外でも、貧血、発熱、薬物(気管支拡張薬、甲状腺剤、強心剤、アトロピン、エフェドリンなど)使用時や、心因性疾患も、動悸・心悸亢進を引き起こすことがある』(以上は「日本薬学会」公式サイト内の「薬学用語解説」の「心悸亢進」より引いた)。

「カビ、抗生物質」カビや放線菌などの微生物によって生産され、他の微生物や生きた細胞の発育を阻害する有機物質。イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming 一八八一年~一九五五年)が一九二八年にブドウ球菌(真正細菌フィルミクテス門バシラス綱バシラス目ブドウ球菌科ブドウ球菌属 Staphylococcus )の一種を培養実験中、菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科アオカビ属アオカビ(当時の学名は Penicillium notatum であったが現在はPenicillium chrysogenum)のコロニーの周囲に阻止円(ブドウ球菌の生育が阻止される領域)が生じる現象を発見、アオカビを液体培地で培養、その培養液を濾過した濾液に含まれる抗菌物質にアオカビの属名に因んで「ペニシリンと名付け(一九二九年)、後の第二次世界大戦では多くの傷病兵が感染症からこのペニシリンによって救われた(実際にはフレミングはペニシリンの精製に成功しなかったが、オーストラリア人生理学者ハワード・フローリー(Howard Walter Florey 一八九八年~一九六八年)とドイツ生まれのイギリス人生化学者エルンスト・ボリス・チェーン(Ernst Boris Chain 一九〇六年~一九七九年)が一九四〇年精製製剤化の開発に成功、大量生産が可能となった。これを「ペニシリンの再発見」と呼び、一九四五年にフレミング・フローリー・チェーンの三人はノーベル医学生理学賞を共同受賞している)。それ以来、数多くの抗生物質が発見されて医薬品などに用いられている。抗生物質は戦後になって民間にも安く行き渡るようになった。その安くなった抗結核薬ストレプトマイシンン(streptomycin:単離は一九四三年)のお蔭で、私も結核性カリエス(一歳半で発病して四歳半で完治)から救われた。

「葉緑素」クロロフィル(chlorophyll)の薬理効果は比較的早くから知られており、造血機能の促進(一九一九年)、細胞を活発化させて創傷や潰瘍の治癒を促進させる効果(一九二二年)などが医学論文で報告されており、その後、急速に葉緑素に対する多方面の研究がなされた。特に本篇より後の、一九六六年頃からは数多くの医学効果が確認され、発表されるようになった。現行では、整腸・消炎・貧血予防の他、抗癌効果・コレステロール値を下げる効果・デトックス効果(体内に溜まった老廃物や毒物を排出する効果)などが認められている(以上は葉緑素の成分情報サイト「わかさの秘密」(「わかさ生活」提供)の「葉緑素」に拠った)。

「猫ジャラシ」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属エノコログサ(狗尾草)Setaria viridis の俗称であるが、こちらの方が多分、通りがよい。

「脳下垂体」「牛の脳下垂体」rattail氏のサイト「岡田自観師の論文集」(岡田自観(明治一五(一八八二)年~昭和三〇(一九五五)年)とは世界救世(メシヤ)教教主。本名は岡田茂吉)の『医学断片集二十九』(『栄光』一九四号・昭和二八(一九五三)年二月四日発行)に、

   《引用開始》

 近来流行の牛の脳下垂体埋没法によって、若返るとか、禿に毛が生えるとか、背が伸びるとか、皺(しわ)がなくなるとか、疲れなくなるとか、まるで牡丹餅(ぼたもち)で頬ッペタを叩かれるような、うまい話ずくめなので、その専門の医師が雨後の筍(たけのこ)のように増え、最近東京都内だけで、二百数十カ所にも及んだというのであるから驚かざるを得ない。そのため医師会の問題になり、その対策によりより合議中だが、容易に断案(だんあん)は得られないので困っているようである。

 しかしこれを吾々から見ると、はなはだ簡単な話で直ちに断案を得られるからそれをかいてみよう。いつもいう通り医学の方法は、ヒロポンと同様よく効く程一時的効果でしかないから、この脳下垂体法も効果はまず数カ月ないし一力年くらいと思えばよかろう。その先は元の木阿弥(もくあみ)どころか、体内に入れてはならない変なものが入っている以上、これが禍(わざわい)をして厄介な病気になり、随分苦しむ事になろう。確か十数年前に若返り手術などといって、一時流行した事があるが、これもいつの間にか煙になってしまったのは、知る人も相当あろう。

 今度の方法もそれと同工異曲と思えばいい。まず一、二年で幽霊のようになってしまうのは、断言して誤りないのである。

   《引用終了》

文中の「断案」とは、ある事柄に就いて最終的に決定された考え・方法・態度のことである。さてもまた、『東スポweb』の二〇一二年十一月七日の記事に、「安直な理由で広まった若返りブーム【なつかしの健康法列伝:牛の脳下垂体がブーム】」 というのがあり、昭和二七(一九五二)年に全国の医師が食肉処理場に大挙して繰り出し、牛の脳下垂体を買い求めに来るという事態が起きたとし、それが何と、『牛の脳下垂体を人間の筋肉に埋め込むと、若返りに効果絶大という噂が広がったから。大学病院の医師から開業医にいたるまで、入手希望者が殺到したという』。『施術の具体的な方法は、牛の脳下垂体の皮をむきメスで細かく刻み、細切れになったものを患者の尻の筋膜下に入れ込むというものだったらしい』とあり、『若返り希望者(需要)と、処理される牛(供給)のバランスがとれておらず「処理場では牛の頭の奪い合いだった」という記事も残っている』とある。『また、当時の医者の卵は教授から「ちょっと実験台になってみろ」と、やたらめったら尻の皮膚を削られるという悲惨な現象も起きたとか。もちろん、その若者たちが若者のままであるという事実は一切ないがと、ちゃらかし、『脳下垂体はホルモンのボス的存在。どうやら「ホルモンのボスなのだから、移植すれば若返りに効果があるだろう」というなかなか安直な理由で広まったブームらしい』。『もちろん、細切れの皮1枚を移植したところで効果もなければ副作用もなかったようだ。バカらしく思えるブームだが、「若返り」と聞けば何でも飛びつく習性は、今も何ら変わってないような気もしたりして』と結んでいる。岡田の警告した副作用のなかったのはちょっと残念だが、ヤブ猫(どうもこの医者猫、私自身の分身のようで他人の気がしないのだが)の言うように「内服」となると、私は俄然、プリオン病のクロイツフェルト・ヤコブ病の感染が危惧されるのであるが、如何?

「覿面(てきめん)」の「覿」は見るの意で、原義は、「面と向かって見ること」「目の当たりに見ること」「目の当たり」「目前」であるが、そこから転じて今では、効果・結果・報いなどが即座に現前することを指す。

「黒牛に先ず上をむいて貰うように頼む。そ、それから黒牛の鼻の穴に前脚をそろそろとつっこむ。右の穴でも左の穴でもどちらでもよろしいが、ただし、くしゃみをされるおそれがあるから、事前に前脚はよく洗っておくこと。まず前脚の付け根までつっこめば、何かぶよぶよしたものをきっと探り当てるから、そいつに爪をかけ、力いっぱい引っぱり出す」この施術法は私には、かつて盛んに行われたいまわしい精神外科的手術、ロボトミー(lobotomy)、前頭葉白質切截(はくしつせっせつ)術をフラッシュ・バックさせる。精神障害、特に統合失調症(当時の精神分裂病)や双極性障害(所謂、躁鬱病或いは鬱病)人格異常による興奮などの主に重い精神疾患を持つと判断された患者に対して行われたおぞましい術式である。脳の一部を切除するこの種の精神外科術式は既にブルクハルト(G. Burckhardt(一八八八年))やダンディ(W. E. Dandy(一九二二年))らによって試みられてはいたが、事実上の「ロボトミー」創始者となったのはポルトガルのモーニスによる一九三五年(昭和五年相当)のそれであった(一九四九年(昭和二十四年)にモーニスはこの業績を以ってノーベル生理学・医学賞を受賞した)。モーニスは精神病者の精神症状は前頭葉に至る神経経路を遮断することによって改善されると考え、前頭葉白質内への無水アルコール注入による神経繊維の凝固及び太い注射器上の剔抉器具である白質切截器「ルーカトーム」(leucotome)による脳葉の神経回路の切離術を明らかにした。しかし、モーニスの原法である前頭葉白質切截術(frontal leucotomy)はヨーロッパではあまり行われず、寧ろ、アメリカに於いてフリーマン(W.Freeman)やワッツ(J. W. Watts)らによって発展施術させられた。日本でも特に第二次世界大戦後の一時期、精神科の治療法の一つとして施行されていたが、その後の急速な向精神薬の導入や、脳に回復不能な影響を与えるだけにとり返しのつかない後遺症を齎す上、その治療効果自体も疑問視され、手術そのものを非人間的とする厳しい批判もあって現、在では行われなくなった(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の武正建一氏の記載を元にした)。

   *

 最後に。

 私はこの截ち切れたようなエンディングに不思議に少しも失望しない。

 何故か?

 それはこの、

 

「黒牛が!」

 タンポポ丘のふもとから見渡す限り青々と草原がひろがり、五百米ほどの彼方に黒いものがひとつ、じっとうずくまっているのが見えました。ここが名だたる牛ケ原なのです。そいつは見るからに傲然として、途方もなく巨大な黒牛らしいのでした。ぼやき猫もその叫びにつられたように、哀しげな声を出しました。

「ああ。あそこに黒牛が」

 

というコーダの景観が不思議に胸を撲(う)つからである。もう、お判りであろう。これはまさに、「桜島」冒頭の、

 

 翌朝、医務室で瞼を簡単に治療して貰い、そして峠を出発した。徒歩で枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度(たび)の展望に目を見張った。何故(なぜ)此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を嚙むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別(けつべつ)という感傷が私の肉眼を多分に歪(ゆが)めていたとしても――

 

を直ちに想起させ、そして無論、同時に「幻化」の、

 

 忽然(こつぜん)として、視界がぱっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美な衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。

「あ!」

 彼は思わず立ちすくんだ。

「これだ。これだったんだな」

 数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径(やまみち)から、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方に小さな湖が見える。

〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉

 頭のしびれるような恍惚(こうこつ)を感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが――

「そうじゃない。ここだったのだ」

 五郎は海に面した路肩に腰をおろし、紙コップに酒を充たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。

「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」

 その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣囊(いのう)をかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらけ、真昼の陽にきらきらと光り、遠くに竹島、硫黄島、黒島がかすんで見えた。体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。

〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉

 感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。 

 

の原風景を見るからである。梅崎春生もきっとそうだったに違いない。だからこそ彼はここで擱筆したのだとさえ私は思うのである。――正直言えば――この「黒牛」は――私には「幻化」に出てくるあの坊津の「雙剣石」に見えて――しょうがないのである……

カロ三代   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十月号『小説新潮』に掲載されたが、単行本には収録されなかった。小説というよりは実在の人物が実名で登場するエッセイに近い実録市井物で、実際に梅崎春生の猫好きは有名であった。この当時は世田谷に住んでいたかと思われる。「カロ」と言えば、「輪唱」「猫の話」に登場する猫の名であるが、あれは先立つ四年前昭和二三(一九四八)年の九月号『文芸』に発表されている。当時、春生三十七歳。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 結構、残酷なので猫好きの方は読まない方が無難であろう。

 以下、先に簡単な注を附しておく。

「今年の六月二十四日か五日頃」本篇時系列から発表の昭和二七(一九五二)年六月。

・「岩崎栄」フル・ネームで出しているので、作家岩崎栄(さかえ 明治二四(一八九一)年~昭和四八(一九七三)年)であろう。岡山県児島郡琴浦町(現在の倉敷市)の農家の次男として生まれ、岡山商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業後、郷里の商工学校で教えたりした後、上京、早稲田大学予科及び明治大学中退で帰郷、『岡山新聞』『大阪時事新報』支局の記者を経、大正九(一九二〇)年に『大阪毎日新聞』に入社、昭和三(一九二八)年には『東京日日新聞』社会部に転じ、社会部副部長を務め昭和一四(一九三九)年に退社した。その間、昭和九(一九三四)年に「佐山栄太郎」のペン・ネームで『改造』に発表した「天保忠臣蔵」が翌年に片岡千恵蔵によって映画化されて評判となった。当初は「広田弘毅伝」(昭和一一(一九三六)年)などの政治家伝などを書いていたが、戦後はエロティック歴史小説に手を染めた。代表作は「徳川女系図」シリーズなど(ウィキの「岩崎栄」に拠る)。

「悠容迫らず」通常は「悠揚(ゆうよう)迫らず」で「ゆったりとしてこせこせしないさま」を意味するが、「悠容(ゆうよう)迫らず」の表記もネット上には散見する。但し、これは思うに、「危急の際でも慌てて騒いだり焦ったりせずに落ち着いているさま」を意味する「従容(縦容)(しょうよう)」(一般の慣用句では「従容として」と使う)の「従(從)」と何となく漢字も音も類似していることから、それを「悠揚」と混同して「迫らず」にうっかり繋げてしまった慣用句のようにも見受けられないではない。まれに見受ける「従容として迫らず」という表現は如何にもヘンで、「それって『悠揚迫らず』じゃないの?」と言いたくなるからである。

・「毒団子」殺鼠用のものと思われるが、「猫いらず」などの黄燐、リン化亜鉛や硫酸タリウムの急性毒性の強いものが仕込まれたものであったのだろう。

・「三尺」約九十一センチメートル弱。

・「縞蛇」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata 。全長八〇センチメートルから大型個体では二メートル近くなるものも稀にいる。無毒。私は昭和三二(一九五七)年生まれで、幼稚園の頃は練馬の大泉学園に住んでいたが(ここは梅崎春生の自宅にも近かった)、近くの弁天池やその向うに広がっていた田圃近くには無数のシマヘビがいてよく獲ったものである。

・「吉田時善」(ときよし 大正一一(一九二二)年~平成一八(二〇〇六)年)。小説家。鹿児島県生まれ。東京商科大学卒業。戦後に大地書房(春生の単行本「桜島」の出版社)に勤め、和田芳恵と『日本小説』を創刊、昭和二五(一九五〇)年に『新潮』に「鍾乳洞」を発表した。他に「地の塩の人 江口榛一私抄』(昭和五七(一九八二)年)など(江口榛一は春生の「桜島」の初出誌『素直』の編集長でもあった)。文脈から判ると思うが、『隊商』は彼の所属した同人誌名である。

・「斎藤茂吉の『自動車に轢かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ』」これは恐らく、茂吉の第十歌集「白桃(しろもも)」(昭和一七(一九四二)年刊)の昭和九(一九三四)年のパートにある(引用は一九五八年岩波文庫刊山口他編「斎藤茂吉歌集」を参考に漢字を恣意的に正字化した)、

    一區切をはりたれば人麿評釋の筆を

    おきてしばらく街上を行かむとす

街上(がいじやう)に轢かれし猫はぼろ切(きれ)か何かのごとく平(ひら)たくなりぬ

の記憶違いであろう。

・「アサクラ山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ品種アサクラザンショウ(朝倉山椒)Zanthoxylum piperitum forma inerme 。サンショウの棘のない栽培品種である。

・「鯨尺」かつて主に布を計るのに用いられた物差し。鯨尺の一尺は、通常使われた曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分で現在の約三十七・八センチメートルに相当するから、鯨尺「三尺」は百十三・四センチメートルであるから、尻尾まで入れてとしても確かに「巨大な猫」と言える。

・「当歳の男児」昭和二六(一九五一)年五月に誕生した春生の長男知生(ともお)。「当歳」は「とうさい/とうざい」で、ここはその年生まれの数え一歳の意であるから、このシーンのロケーションは同年末か。

・「画家の秋野卓美」(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)「立軌会」同人。元「自由美術協会」会員。後で「画伯は若い」と出るように、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。作家色川武大とは麻雀仲間。

・「誰かの小説に、猫の耳を見ていると、切符鋏でパチンと穴をあけたくなる、というようなことが書いてあった」梶井基次郎の「愛撫」(リンク先は私の古い電子テクスト)。

・「鱸(すずき)」脊椎動物亜門条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus 。肉食性の沿岸性大型海水魚であるが、河川のかなり上流域にまで棲息する。出世魚として知られるが、海水魚の多くが、このスズキ(パーチ)目Perciformes に属することはよく知られているとは思わないので、特に注しておく。

・「コイコイ」花札の二人遊びのゲーム。手札の花と場札の花を合わせてそれを自分の札とし、獲得した札で出来役を成立させ、得られる得点を競うもの。花札では最も代表的な遊び方であるが、流行は昭和以降。役が出来れば、勝負を終わらせてもよいが、まだ手札が残っていて、より上位の役が出来ると思った際、「来い! 来い!」と相手を煽ることに由来する。
 
・「無防備都市」一九四五年製作公開のイタリア・ネオレアリズモの名作、ロベルト・ロッセリーニ監督作品
“ Roma città aperta (原題の意は「開かれた都市ローマ」)。日本公開は昭和二五(一九五〇)年十一月。第二次世界大戦末期のドイツ軍が制圧中のローマでのレジスタンスを描く。作中、主人公のレジスタンス指導者マンフレーディはゲシュタポの拷問を受けて絶命する(ここはウィキ無防備都市を参考にした)。因みに、連合軍によるローマ解放は一九四四年六月五日。] 

 

    カ ロ 三 代

 

 私の家は、猫運にめぐまれていない。

 この三年ばかりの間に、三匹猫を飼い、三匹とも次々に死んで行った。三匹と言っても、一時に三匹飼ったのではない。一匹が死ねば、次にまた一匹補充するという具合にして、つまり三代にわたって、飼ったわけである。名前も、最初のやつをカロと言ったから、二代目三代目も、それを引継いで、同じ名前のカロ。この三代目のカロが死亡したのは、ついせんだって、今年の六月二十四日か五日頃と推定される。それ以後、私の家は、猫を飼わない。

 妙なもので、初代二代目カロの毛並や顔かたちを、私はもう覚えていない。全然忘れてしまっている。憶い出そうとすると、すぐ三代目の風貌にかさなってしまう。

 初代のやつは、近所の岩崎栄さんの家から、生れたばかりのを貰ってきた。べつだん可愛がろうと思って貰ったのではなく、家に鼠が跳梁(ちょうりょう)して困ったからだ。実際その頃、家には鼠がたくさん棲んでいた。その鼠族の首領みたいな老鼠などは、大きさも仔猫ほどもあり、そいつが平気で、寝ている枕もとなどを歩き廻ったりする。悠容迫らず、一種の威厳さえ具ええいた。私はこの老鼠を憎んだ。どうにかして捕えたいと思ったが、こいつはなかなか智能が発達していて、鼠捕器などには、絶対にかからない。素手でとらえようなど、動作のにぶい私には、不可能のことである。私たちはこの老鼠を、『猫もどき』という渾名(あだな)で呼んでいた。軀(からだ)が大きく、猫ほどもあるからである。この猫もどきを頭(かしら)にいただく鼠聯隊(れんたい)や予備隊が、日毎夜毎、柱をガリガリ齧(かじ)り、押入れの壁に穴をあけ、食物や衣類などをめちゃめちゃにしてしまうのだ。机の上の、原稿用紙を齧られたことさえある。苦心してやっと書き上げた小説を齧られては、私でも腹が立つ。

 初代カロが、この猫もどきを仕止めたのは、家に来て半年後である。日記にまでつけてあるところを見ると、私もよほど嬉しかったのであろう。「近来の快事なり」などと記してある。

 猫もどきが死んで以来、鼠族の跳梁は頓(とみ)に減少し、間もなくすっかり居なくなったようである。初代カロは、実に機敏な猫であったし、また首領を殺された関係もあって、天井裏の聯隊は、赤城山の忠次一味みたいに、思い思いの方向に四散して行ったのだろう。鼠というものは、不利な環境には、絶対に棲まない動物である。

 その初代カロは、それから一年後、近所で仕掛けた毒団子か何かを食べたらしく、物置の中で斃死(へいし)していた。遺骸は庭のすみに、私が埋葬した。墓などはたててやらない。埋めただけである。今はそこに、蕗(ふき)を植えているが、よく育つし味もいい。遺骸が地下で分解して、肥料の役目を果たしているのだろうと思う。

 それから直ぐ、また猫を飼った。これは雌猫で、あまり特徴がなかった。ヘビやトカゲが大好物らしかったが、家の中に持込んで来るのには困惑した。三尺ばかりの縞蛇(しまへび)を、書斎にくわえ込んできて、私の眼の色を変えさせたこともある。その縞蛇はまだ生きていて、私の方に鎌首をもたげ、赤い舌をチロチロと出した。

 この二代目は、やがて妊娠し、どういう関係からか流産して、古行李(こうり)の中で死んだ。死んだのは、昨年の二月。縁側に出した古行李の中で、ケイレンを繰返しながら、死んで行った。丁度(ちょうど)その時、『隊商』の吉田時善君が遊びに来ていて、私と話しながらも、その方が気になるらしく、横目でチラチラと古行李の方をにらんでいた。最近号の『隊商』に、彼はこう書いている。

 「わたくしは、かつて或る人を訪ねた時、縁先に出したやぶれ行李の中で、その家の猫が流産をして、きたない毛布にくるまって、ひくひくと鼻を動かしながら、のこりすくなくなった生命のうつろいにじっと耐えているのを見たことがあった。わたくしがそこにいるあいだに、猫は、死んだ。さらに、わたくしには、斎藤茂吉の『自動車に轢(ひ)かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ』という歌にあらわれた猫のはかない生命のことも、自然に想い出された。すくなくとも、生命の充実感がいかに見事な印象であろうとも、一匹の猫に羨望をいだくほど、無意味なことはないにちがいない。(中略)猫はやはり猫にすぎないのだが、そのことに気がつくまで、すこし時間がかかった」

 青田君は文学青年だから、こういう文章を書く。のこりすくなくなった生命のうつろいに、じっと耐えていたかどうか、よく懐い出せないけれども、カロがやはり猫にすぎず、猫らしく死んだのは、事実であろう。遺骸は、死産児もろとも、初代カロの隣りに、穴をほって埋めた。やはり墓はつくらず、その代りに、山椒(さんしょう)の木を植えた。これも発育がよくて、現在は三尺ばかりの高さとなった。野生のそれでなく、アサクラ山椒という、香の高い山椒である。近頃では、朝飯の味噌汁などに、浮かせて食べる。この葉は、駆虫の功も果たすと言うから、まことに重宝(ちょうほう)な植物だ。 

 この二代目カロが死亡して三日目に、どこからともなく仔猫が二匹、私の庭に迷いこんできた。一匹は黒猫で、一匹は赤トラ。家人が物好きに、二匹とも上にあげて、一晩過させたところ、黒猫の方は、畳の上に放尿する習癖があることが判り、これは落第。赤トラの方が、三代目カロを襲名することとなった。黒猫は、近所の原っぱに捨てた。

 

 カロは見る見る大きくなった。こんな成長の早い猫を、私は今まで見たことがない。半年ほども経つと、近所中で一番巨大な猫になってしまった。雄猫で、尻尾も長い。いつか畳に押えつけて、鯨尺(くじらじゃく)で計ってみたら、鼻の頭から尻尾の先まで、大体三尺ばかりもあった。体軀もそれに応じて、ぼったりとふくらみ、あぶらぎっている。動作も、わざとやっているみたいに、にぶく重々しい。ある種の代議士の動作に似ている。

 ほとんど一日中、台所とか縁側などに、じっと寝そべっている。何にもすることがないみたいだ。

「何というヤクザな猫だろうね」

 と私は、家人相手に、嘆いたこともある。

「これはもう、猫というより、豚だね」

 実際カロは、一日中、食べることばかり考えているように見えた。人間が近づくと、細い目をあけて、ニャアと啼きながら、こちらを観察する。手に皿とか鍋とかを持っていると、急いで起き上って、台所のすみにかけてゆく。そこにはカロ用の皿が、置かれてあるのだ。そして、ニャアニャアと啼きながら、食事をうるさく催促する。そういう時だけは、動作も素早かった。根っから動作がにぶいわけではないのである。

 カロはなかなかの美食家であった。家人が餌をやりすぎていたせいもあるだろうが、たとえば、鰹節(かつおぶし)をかけた飯を与えると、上にかけた鰹節だけを食べる。あとは見向きもしない。近所の猫が、忍び込んで食べるのに、まかせている。どうも腹が減っていても、他に旨いものが食えそうな予感がする時は、食べるのを辛抱しているような様子さえあった。

 前に書いたように、動作が重々しいので、子供たちの相手には好適であった。当歳の男児が、カロをかまうのが好きで、ごそごそ這って行って、カロの耳を引っぱったり、毛をむしったりする。カロはそれに抵抗は全然しない。迷惑そうな表情で、なすがままに任せている。義理でお相手をつとめているような風情(ふぜい)がある。五分間ほども相手をしていると、もうこの位でよかろうといった顔で、のそりと歩き出す。子供に爪を立てないのは、一応感心ではあるが、その表情や動作が、いつからか私の気に喰わなくなっていた。

 

 カロに対して、何かなおざりに出来ないような、ほっとけないような感じを、私が持ち始めたのは、いつ頃からだったか、どんな動機からだったか、もう憶い出せない。はっきりした動機はなく、自然とそういう具合になったのだろうと思う。

 猫をかまったり、こらしめたり、いじめたりするには、竹の蠅叩(はえたた)きが一番有効であることを、私は発見した。棍棒(こんぼう)とか箒(ほうき)では大げさ過ぎるし、第一座右には置いとけない。と言って、火箸か何かでは短か過ぎて、急場の役に立たない。蠅叩きが一番適当なのである。これなら相当力が入るし、もっと腹が立った場合には、先端の丸い部分を、平らにではなく、横にして叩く。この方法は、相当な利(き)き目がある。これは私が、自分の膝や臑(すね)を実験台にして、試みてみたことだから、確実である。当り場所によっては、呼吸がとまるほど痛い。

 私はこの蠅叩きを、五本ほど買い求め、居間に三本、書斎に一本、台所に一本、常備して置いた。もちろんカロを打擲(ちょうちゃく)するためである。蠅を叩くためには使用しない。蠅のためには、も少し安物の蠅叩きを使うようにした。蠅とカロを一緒に叩いては、カロに悪いという気持でもあったが、第一には兼用では、意味が薄れると思ったからである。カロが死ぬまでに、このカロ叩きは二本が完全に破損し、使用出来るのは三本だけになっていた。頻繁(ひんぱん)に使用したせいもあるが、あまり頑丈に作られていなかったためでもある。もっとも蠅を叩くだけなら、もっと保ったに違いない。だからこれは、製造した職人の怠慢とは言えないだろう。

 

 画家の秋野卓美君が、時々私の家に、遊びにやってくる。さすがに画家だから、いろんなものの形に興味を持つようだが、カロに対しては特に興味を覚えたらしく、椅子の上に乗せて、写生を試みたりする。

 カロは、赤ん坊からかまわれる時と同じように、迷惑そうな表情で、ポーズをとっている。ポーズは秋野君がつけるのだ。かなり乱暴なやり方で、肢を引っぱったり、顔をねじ向けたり、尻尾を曲げたりする。カロは厭な顔をしているが、それでも一応言うなりになって、指定されたポーズを保っている。しかしそれも、五分ぐらいの間だ。もうこれで義理を果たしたという恰好(かっこう)で、のそりと体をおこす。

 「こらッ」

 と秋野君が怒る。怒ったって、カロは平気なものだ。つかまえようとすると、ヒラリと手をすりぬけて、庭へ飛び出し、あとは悠々と歩く。他の猫みたいに、一目散に遁走(とんそう)するということはしない。人間が追ってくる範囲や限界だけを逃げて、あとは自分のペースであるくのだ。体力や神経の無駄な消費を、極度に避けているように見えた。

 また秋野君は時々、カロをつかまえて、頭に袋をかぶせてみたり、またあおむけにして、後肢を左右に開き、そこらあたりを忠実に観察したりもしていた。絵を画くには、先ず観察が第一であるし、その点において、私は秋野君の勤勉に一応の感服をする。あまりしばしば観察をするので、カロは秋野君の顔を見ると、命ぜられもしないのにひっくりかえって、肢を開いて見せたことさえある。

 カロは顔に紙袋をかぶせられても、他の猫のように、絶対に後退りはしない。じっとしているだけである。眠ってしまったかのように動かない。ついに人間の方が根負けをして、袋をとってやる。

「このカロは、実にあなたに似てるですなあ」

 ある時、秋野君が感嘆したように、そう言った。

「まあ飼い猫というやつは、その主人の性格に、そっくり似るものだそうだけれど」

「そうかねえ」

 どういう点が似ているか、訊ねてみようかと思ったけれども、止しにした。もうその頃は、私はカロを放って置けないような心境になっていたし、猫叩きも盛んに使用していたので、似ているところをハッキリされては、すこし困るのである。秋野君は内心では、私とカロの類似点をあげたかったらしいが、私がふくれたような顔をしているので、それきり黙ってしまった。 

 

 そんなに腹を減らしている筈はないのに、我が家の食事時になると、カロはのそのそとあらわれる。私にはカロの心事が、ちゃんと判っている。食卓にどんなものが並んでいるか、それを偵察に、またあわよくば、かすめ取ろうという魂胆なのだ。実際に、私が座にいなくて、子供たちだけの時など、カロはしばしば卓上のものをくわえて逃げた。

 しかし、私が坐っている場合は、食卓をねらっているのではない、ただ部屋を通り抜けるだけだ、という表情と物腰で、のそりのそりと歩く。その際でも、カロは、ちらと横目を使って、卓上をぬすみ見ることは忘れない。それが私を怒らせる。私の右手は、もう私自身が気が付かないうちに、猫叩きをつかんで振り上げている。

 私があまり打擲(ちょうちゃく)するものだから、ついにカロは、私の眼の前では、黒豹か何かみたいに、肢を曲げ、背中を極度に低くして、すり足で歩くような習慣になってしまった。私が猫叩きを摑(つか)むと、パッと電光のように走って逃げるのである。そうなればそうなったで、私はますます癪(しゃく)に障ってくる。最初の頃は、何か理由があった時、つまりカロに何か落度があった時しか、猫叩きを使用しなかったのに、しだいに私は、随時それを使用するようになってきた。随時と言っても、私は心の中では、ちゃんとその理由を見つけている。つまり、一昨日魚をくわえて逃げたではないか、とか、一週間ばかり前に泥足で上ってきたではないか、とか、本日叩く理由はちゃんと持っている。その折叩きそびれたから、後ればせながら、今こらしめる訳である。そういうやり方を、家人はしばしば非難した。

「猫が一々、二日も三日も前のことを、覚えているもんですか。可哀そうだから、よしなさい」

 しかし、猫にどの程度の記憶力があるのか、家人も実証的に調べたわけではない。だからその抗議には、私はとり合わない。カロが覚えているかどうか、もちろん私も知らない。それはカロのみが知っていることだ。しかし、カロが悪事を働いたことを、私が覚えているからには、私は猫叩きを使わないわけには行かないのだ。

 台所の棚の辺で、カタリと音がする。食事中でも、仕事中でも、また来客中でも、私は猫叩きをつかんで、台所にかけてゆく。家人は呑気(のんき)な性質で、猫がいるというのに、平気で棚の上に、むき出しに魚や肉を乗せて置く。もしその犯人がカロであったら、私は怒り心頭に発して、カロを追いかけるのだ。カロの逃走するコースは、決っている。台所の土間から、風呂の焚(た)き口をくぐって、風呂場に逃げる。焚き口は小さくて、私が通れないということを、ちゃんと知っているのである。そして風呂場で、私を嘲るように、ニャアと啼(な)く。私は大急ぎで風呂場のガラス扉へかけ戻り、それを押し開く。するとカロは、水の流出口から表へ逃げるか、また焚き口をくぐってまた台所へ戻る。カロがその二つのどっちを選ぶかは、私の怒りの質量によって決定される。つまり、私がはなはだしく怒って、あくまでカロを追う決心の時は、表へ逃げる。私の怒りが中ぐらいの時は、カロは焚き口から台所へ戻る。私がしっこく追跡するかしないかを、カロは私の顔色や動作で、チャンと計算し判断してしまうのだ。私がカロを放って置けない原因の一半は、カロのそういう横着な計算力なのである。先代、先々代のカロには、こんな狡猾(こうかつ)な計算力はなかった。もっと愚直であった。

 そういう狡猾なカロでも、食卓上のものをぬすみ取る時は、さすがに気が動転して、冷静を欠くらしかった。大あわてして事を遂行しようとする結果、御馳走が並べてあるのにタクアンや芋の煮ころがしをくわえて遁走したりする。一升瓶のキルク栓をくわえて逃げたことさえある。しかし、おかしなことに、カロは、くわえて逃げたものは、必ず食べてしまうのだ。その心事が、私にはよく判らないが、キルク栓だって、半分ほど齧ってしまったのである。苦心してかすめ取ったからには、食わねば損だと思ったのかも知れない。 

 

 そういうカロに対する私の態度は、家内ではあまり評判がよくなかった。

 秋野画伯までが、一緒になって、私を非難する。

 秋野君のカロヘのやり方は、はなはだ気紛れであった。ひどく可愛がってみたり、私の真似をして、猫叩きで追っかけ廻したりするのだ。

 秋野君は、私の家にやって来ると先ず、勝手知ったる食器戸棚から、鰹節箱をとり出す。二十分ぐらいかけてゴシゴシ削り、ケズリ節を山のようにつくる。私は横目でそれをチラチラと見ている。

 それから秋野君は、カロを呼びよせ、台所に連れて行き、山なすケズリ節を、ごそりとカロ皿に盛ってやる。この秋野君のサービスを、カロが喜んで食べることは勿論である。

 秋野君がカロを残して台所から立ち去るとどこからともなく、猫叩きを手にした私の姿が、台所にひっそりと現われる。忍び足でカロに近づいて、その背中に一撃をあたえる。カロはケズリ節を放棄して、横っ飛びに飛んで、焚き口から風呂場へ逃げる。なぜ私が打擲するかと言うと、猫のくせに不当の贅(ぜい)を尽しているからである。

 しかしカロは、ケズリ節に未練があるので、焚き口からちろちろと顔を出し、台所の様子をうかがっている。ところが私が、三分毎ぐらいに姿を現わして、猫叩きをビュツと振って示威を試みるから、カロといえどもやすやすと出て来るわけには行かない。私が根負けするのをじっと待っているだけだ。

 そんな時、たまたま秋野画伯が、台所にやってくる。ケズリ節がほとんど残されているのを見て、画伯は激怒する。せっかく削ってやったのに、食べないなんて、猫のくせに贅沢だというのである。カロが贅沢だという見解においては、私も別の意味において同感なので、私と画伯はそこで一致して、めいめい猫叩きをふりかざし、カロを追っかけ廻すことになる。画伯は若いし、体力も走力もあるので、カロにとっては大敵である。懸命に逃げ廻って、松の木にかけ上ったり、屋根にかけ上って行ったりして、大騒ぎである。

 一度、家中が皆留守で、私一人が家に残ったことがある。いつもカロに逃げられているので、今日は万全の策を講じようと思い、扉から窓から全部しめ切った。風呂場の焚き口も、煉瓦(れんが)を積み重ねて、出入り出来ないようにして、それからカロを追いにかかった。私が扉や窓をしめている間、カロは縁側にねそべって、横目で私のやることを眺めていたのである。狡猾だといっても、やはり猫のかなしさで、私のたくらみを見抜けなかったらしい。

 猫叩きをふりかざした私の血相を見て、カロは狼狽した。飛び上って、風呂場の焚き口にかけつけたけれども、そこはダメ。ちゃんとふさがれている。カロは必死となって、私の足の下をすり抜け、玄関にかけて行く。玄関も窓も、どこにも隙間はない。うろうろしているところを、猫叩きが落下する。泣きたいような気持だっただろうと思う。また私の足をすり抜けて、疾走する。

 二十分ほども、私とカロは、家中を縦横無尽にかけ廻った。私も疲れたが、カロも疲れたらしい。焚き口の煉瓦のそばにうずくまって、とうとう動かなくなってしまった。眼だけはらんらんと光らせ、じっと私を凝視している。猫叩きでひっぱたいても、低くうなるだけで、身動きもしない。立たせようと思って、猫叩きを腹の下にさしこみ、ぐっと持ち上げようとすると、猫叩きがしなうだけで、カロの体はびくとも動かない。いろいろやっているうちに、私を凝視しているカロの眠が、だんだん青味を帯びてきた。そして、今まで出したこともないような奇妙な声で、ギャアアと一声啼(な)いた。あんまり不気味な声だったので、私はぞっとして、思わず猫叩きを投げ捨てて、書斎に飛んで帰った。やはり逃げ途をつくってやらねば、追っかけることの意味がないことを、その時しみじみと痛感した。

 このことは、家人にも秋野画伯にも、とうとう話さないでしまった。話すことが、なんだか忌々しい気がしたからである。やがて家人が帰ってくると、カロは不断のカロに立ち戻って、ふつうの声でニャアと啼き、食物を催促したりした。私は、ほっと安心したような、また腹だたしいような気分で、その声を聞いた。

 こういう沈着にして横着なカロでも、さかりの時期になるとソワソワと、落着かなくなってくる。

 他の猫でもそうだと思うが、さかりの期間は、カロはほとんど食事をしない。家に居付かなくて、そこらをうろうろ歩き廻り、れいの妙な声を出して、雌猫と啼き交す。あの声は、私にとっては、ガラスを爪で引っかく音の次ぐらいにイヤな声なので、もしその声が近くであれば、私は猫叩きを両手につかんで、その現場に走ってゆく。遠くであるならば、その方向に石を投げつける。

 カロはこの界隈(かいわい)で、一番巨大な体を持っているのに、喧嘩はあまり強くなかった。私の観察するところでは、猫の世界では雌猫の方が雄猫よりも、ずっと強い。強いだけでなく、兇暴である。鼠などを取るのは、大てい雌猫である。カロは、その弱い雄猫の中でも、また比較的弱い方であった。これは、食事はカロ皿に潤沢にあるから、闘争してまで食事を獲得する必要がない。つまり、争闘の経験や習慣に乏しいのである。だから、そこらの野良猫に、かなうわけがない。軟弱にして、性根がヤワなのだ。

 それはまた、カロがしばしば鬚(ひげ)を切られたせいであるかも知れない、とも思う。前に書いたように、カロは一見おとなしくて、子供たちの相手には好適であるから、近所でも子供たちに存分にかまわれていたらしい。誰にもそういう心理があると思うが、あの猫の顔に、白い鬚がピンと張っているのを見ると、つい鉄でチョキンと切り落したくなるものだ。誰かの小説に、猫の耳を見ていると、切符鋏でパチンと穴をあけたくなる、というようなことが書いてあったが、これと類似の心理である。ことに子供たちのことだから、そういう衝動を、すぐ実行に移すのにちがいない。カロの鬚は、しばしば刈り取られ、満足に伸びきっているのを、見たことがなかった。ことわっておくが、私はカロの鬚を切ったことは一度もない。暴力をもって体の一部を毀傷(きしょう)するような、そんな野蛮で残酷な行為は、私は好まないのである。鬚を切ったのは、近所の子供たちだと書いたが近所の大人たちかも知れない。また、近所だけでなく、もっと近くにもいたかも知れない、と思う。ある日、午前中カロの鬚がチャンと生えていたのに、午後になると、それがすっかり刈り取られていたことがあった。私が見た範囲では、カロはその間、一歩も家から外に、足を踏み出さなかった。とすれば、髪切り犯人は、家の中にいるか、家の中に入ってきたということになる。もちろん私は切らないし、家人も切る筈はない。だからその犯人は、秋野画伯であるとは言わないけれど、その時画伯が遊びに来ていたのは事実である。四つになる子供の証言によると、画伯は鋏をチョキチョキ鳴らしながら、縁側で自分の爪を切っていたと言う。カロはたしか、そのすぐ傍に、寝そべっていた筈である。

 まあ誰が切ったって同じことだけれど、鬚を切られると、猫はとたんに軟弱になり、闘争心を失うのだ。平衡感覚を失ってしまうらしいのである。

 そういう軟弱なカロであるから、さかりの時期、雌猫争奪戦において、カロはいつも敗北するらしい。恋敵からひっ掻かれて血を出したり、ドブに落っこちて泥だらけになったりして、しょんぼりと戻ってくる。こういう猫だから、雌描からも愛想をつかされていたのではないかと思う。これは私の想像だけであるけれども。

 二日に一度か三日に一度、そういう風にしょんぼり戻ってくると、俄然(がぜん)食慾が戻ってくるらしく、カロはがつがつと餌を食う。この時はもう、彼はさすがに美食家でなくなっている。汁かけ飯でも、パンの耳でも、何でもかでも、がつがつと食べる。カロ皿に何も乗ってなければ、野菜籠のジャガ芋や人参などまで齧ったりする。あさましいものである。そして、私からだけでなく、家人からも追っかけられて、逃げまどうのである。

 

 今年の六月二十三日。

 この日も、そういうさかり明けの日であった。カロは朝から、何となく落着かぬ風(ふう)で、台所や縁側をうろうろしていた。丁度(ちょうど)秋野画伯が遊びに来ていて、紙袋をかぶせられたり、尻尾を洗濯バサミではさまれたりしていた。画伯が、カロの尻尾を洗濯バサミではさむのは、何もカロをいじめるつもりではなく、絵の構図として研究していたのかも知れない。

 その日、知合いの人から、大きな鱸(すずき)を貰った。家中大喜びで、今夜はひとつこれをアライにして食べようと言うわけで、台所で三枚におろした。秋野画伯も大の魚好きで、昼飯をぬいて、夕方になるのを待ちかねていたのである。

 その三枚におろしたボッタリした大きな一切れを、ちょっとの油断を見すまして、カロがくわえて逃げたのである。私は丁度(ちょうど)その時居間で画伯相手に、花札のコイコイをやっていたのだ。画伯は下手糞のくせに、大の花札好きで、いつも私のいいカモなのである。台所の棚のあたりで、ガタンと音がした瞬間、画伯はハッとした風に花札をほうり出して、立ち上った。私も思わず膝を立てた。

「カロの奴だー!」

 二人が勢いこんで台所に走り入ると、カロはそれをくわえて、焚き口のところでぐいと振り返ったところである。大きな一片だから、口でくわえて、その端は土間にひきずっているのだ。私と画伯の血は、逆流した。

「こら待てっ!」

 私たちの手には、何時の間にか、それぞれ猫叩きが握られていた。板の間を踏みならして、追っかけ、裸足で外に飛び出した。カロは鱸(すずき)を地面に引きずりながら、懸命に其の方にかけてゆく。私たちは夢中で走ったが、もう一息というところで、カロは竹の四ツ目垣をくぐり、隣りの庭に 逃げ入ってしまった。隣りだって何だってかまわない。私たちはメリメリと、四ツ日垣をまたぎ越え、追っかけに追っかけた。しかしカロの脚の方が、ちょっとばかり速かった。

 カロはそれをくわえたまま、隣家の床の下にもぐり込んでしまったのである。蜘蛛(くも)の巣だらけの低い床なので、もう私たちは断念する他はなかった。

 腹が立って仕方がないけれども、床の下にもぐり込んで鱸を取返しても、もう食いものにならないにきまっている。

「あ。あそこで食べてやがる」

 画伯が指差したので、私もしゃがんで見ると、床下の奥の方で、カロが眼をキラキラ光らせながら、ピチャピチャと音を立て、旨そうに鱸を食べていた。画伯の胃のあたりで、ググウと鳴る音が聞えた。 

 

 一時間ほど経って、カロは前肢で口を拭いたりしながら、台所に戻ってきた。ケロリとした表情をしている。画伯が近づいて、がっしとその頸(くび)根っこを押えた。カロはじっとして、なすままにされている。気のせいか、何時もよりもボックリと、腹がふくらんでいるように見えた。

 私が猫叩きを持とうとすると、画伯がそれを制した。

「カロのことは、私に任せて下さい」

 それから画伯は、頸をつまんでぶら下げて、茶の間に入った。すぐ出て来て、今度は、ゴム紐(ひも)や、罐(かん)切りやビールの栓抜き、タワシ、胡椒(こしょう)に七味唐辛子、マッチやペンチ、そんな品々をあつめて、再び茶の間に入り、襖(ふすま)や障子を全部しめ切った。それから十五分ほどの間、この密室の中で、どんなことが行われたか、私は知る由もない。

「きっと秋野君は、『無防備都市』みたいなことをやったんだよ」

 と、あとあとになって、私は家人と話し合ったのだが、十五分経って、画伯とカロは、茶の間から出て来た。カロはげっそりしたような顔で、後肢はかすかにピッコを引いている。毛もあちこち、引き抜けているのが認められた。画伯は、やっと恨みをはらした人のように、にこにこしていた。カロは私たちの足の間を、よろよろとすり抜けて、台所の方に歩いて行った。 

 

 カロの姿が見えなくなったのは、その夜からである。翌日も翌々日も、カロは私たちの面前に、姿を見せなかった。

 六月二十六日の朝、隣りのH氏がカロがH家の天井裏で死んでいると、知らせに来て呉れた。

 天井板から、片足をつき出して、死んでいたそうである。天井から足がぶら下っていては、H氏も仰天したに違いない。

 遺骸は即座に引取った。

「あんたがあまりいじめるから、カロは自殺したのよ」

 と家人は私を責めた。

「カロがいなくったって、平気なんでしょ」

「いや、とても気にかけてたんだ。日記にも書いている」

 私は私の日記を、家人に示した。そこには、こう書いてある。

『六月二十五日。カロの姿終日見えず。心配なり。

 六月二十六日。カロ、H氏天井裏にて、死亡しありし由。哀悼に堪(た)えず。涙数行下る』

 家人はその日記の頁を、日に透かして見たり、こすって見たりして、なじるような調子で言った。

「これはインキの色が同じよ。二十五日のは、死んだと判って書いたんでしょ。カロがいなくて、心配する柄ですか」

 私は黙して語らなかった。

 カロの死骸は、秋野画伯に埋めさせようと思って待っていたが、その日もその翌日もやって来ない。

 止むなく、私がシャベルをふるって、穴を掘り、カロを埋めた。場所は、先代カロの隣りである。

 二三日して、画伯はやって来た。カロの死を告げると、画伯はすこしも騒がず、

「そうですか」

 と言っただけである。そして、少し経って、

「じゃ今日は、カロ追悼の意味でコイコイをやりましょう」

 そこで私たちは、花札を取出して、追悼コイコイをやった。画伯は下手くそだから、何時ものことながら、私が大勝したのは、言うまでも無い。

 カロの霊、安かれ。

2016/01/17

梅崎春生「奇妙な旅行」(PDF縦書版)

梅崎春生「奇妙な旅行」(PDF縦書版)「心朽窩旧館」に公開した。

奇妙な旅行   梅崎春生

奇妙な旅行   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年十二月号『小説公園』に掲載されたが、単行本には所収されなかった。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻に拠った。

 当時、梅崎春生三十八歳、作歌として精力的に活動する一方、年譜では看過出来ない抑鬱傾向が発現していることが記されてある(但し、金剛出版昭和五〇(一九七五)年刊の春原千秋・梶谷哲男共著「パトグラフィ叢書 別巻 昭和の作家」の「梅崎春生」(梶谷哲男氏担当)の病跡学記載にはこの年の特異変調は記されていない)。

 冒頭、「もう四年も前のことだ」と始まる。従って読者のロケーションは昭和二四(一九四九)年十一月には確実に戻る。敗戦から四年目の冬の初頭である(この時制は極めて重要である)

 また、主人公の「僕」、「島村」は敗戦時、兵士としてフィリピンにおり、同地で米軍の捕虜となって生き延びたことが明らかにされるが、春生の実兄で哲学者・作家であった梅崎光生(大正元(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)は東京文理科大学哲学科卒で、二度応召され、フィリピンのルソン島を転戦、敗戦時には米軍の捕虜となり、昭和二一(一九四六)年六月にフィリピンの俘虜収容所から復員帰国している。ここはその実兄の経験を利用している(ご存じの通り、暗号科下士官(海軍二等兵曹)であった春生自身は外地体験や実戦経験はない)。但し、島村は梢に問われて復員を「二十二年の春」と答えている。

 以下、例によって若い読者及びマニアックな方向けに簡単にオリジナルな注を附しておく。なるべくネタバレにならぬように記してはある。先にお読み戴いても、それほど問題はないと思う。

・「O県」「O駅」「P郡のQ駅」不詳。「O駅」(県名と恐らくは県庁所在地駅名が同一)まで、当時の列車で東京駅から丸一日かかり、そこから支線が出ている。市や村ではない「郡」で支線の駅名は「O」でも「P」でもない「Q」という標高が高い山間の小さな駅。しかし当時は駅員がいた。駅員の言葉から「強い地方訛」のある地域であることが判る。公開後に教え子の鉄道好きに候補地を捜して貰おうか、とは思っている。

・本文で最初に「三好」なる登場人物の語る中の「清吾の弟」というのは、正確には「清吾の義弟」(これでルビを「おとうと」と振ればよい)とあるべきところである。

・「役所」という言葉で、主人公島村が公務員であることが判るが、戦前・戦中のことであるが、春生は東京帝国大学卒業後(昭和一五(一九四〇)年三月)は東京市教育局教育研究所に勤務しており、昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊するものの、肺疾患のために即日帰郷となり、以後療養するも、同研究所に暫くいた(その後、徴用を逃れようと昭和十九年の三月には東京芝浦電気通信工業支社に転職しているが、三ヶ月後の同年六月に応召されて佐世保相ノ浦海兵団入りした)。

・「郷里の親爺の病気」因みに、梅崎春生の実父建