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2016/01/11

昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)

 

   昭和二〇(一九四五)年

 

[やぶちゃん注:昭和二〇(一九四五)年の敗戦の年の日記は七月二十三日・八月二日・八月九日・八月十六日の四日分しか掲載されていない(全公開が待たれる)。私は既に、梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注の注で、これらをばらばらに電子化した。そこで閲覧の便宜のために、それらを纏めておくことにした。簡単な注はそれらに附したものに一部書き換えや追加をしたものであるが、一部、新たに書き下ろした重大な私の見解をも含む。なお、これに限っては、昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を底本しながらも、敢えて恣意的に漢字を正字化し、歴史的仮名遣に改めてあるので注意されたい。各日記間に「*」を附した。]

   *

七月二十三日

 朝六度六分 夕七度一分

 白い粉藥を貰ふ。原因は不判[やぶちゃん注:「わからず」。]。(昨夜は八度五分)

 看護科に蟋蟀(こほろぎ)兵曹といふ人がゐる。

 來てから、病氣つづきで、當直に立たないから、谷山に歸さうかと司令部の掌暗號長が言つた由。

 芳賀檀のかいたもの、ドイツは古代人のやうな、單純な、偉大な文化を志してゐた由。そのやうなものが一朝にして滅びたことは、まことに悲愴である。

 都市は燒かれ、その廢墟の中から、日本が新しい文化を產み出せるかと言ふと、それは判らない。

 しかし、たとへば東京、江戶からのこる狹苦しい低徊的な習俗が亡びただけでもさばさばする。

 平和が來て、先づ外國映畫が來れば、又、日本人は劇場を幾重にも取圍むだらうとふと考へた。

 何か、明治以來の宿命のやうなものが日本人の胸に巢くつてゐる。戰爭に勝つても、此の影は歷然としてつきまとふだらう。それは、つきつめれば東西文化の本質といふ點まで行つてしまふ。

 極言すれば日本には文化といふものはなかつたのだ。

(奈良時代や平安時代、そのやうな古代をのぞいて)あるのは、習俗と風習にすぎない。新しい文化を產み出さねばならぬ。 

[やぶちゃん注:大日本帝国海軍二等兵曹であった梅崎春生が桜島の海軍秘密基地で敗戦の二十四日前にこんな感懐を日記に記していることに、私は驚嘆せざるを得ない。

蟋蟀(こほろぎ)兵曹」この姓の漢字表記が本当に「蟋蟀」であったのかどうかは、やや疑問ではある。「幻化」(リンク先は私のPDF縦書版詳注附きテクスト)に久住五郎の同僚の「興梠(こうろぎ)」という二等兵曹が出るから、「こうろぎ」(或いは「おおろぎ」とも読む)を「こほろぎ」と誤認した可能性を捨てきれない。但し、ネットを調べると、サイト「エンタメハウス」の『日本に現在5世帯以下しかいない絶滅寸前の「珍しい名字」20選』という記事中に現在、一世帯しかない「蟋蟀」という姓が存在するともある。孰れにせよ、「幻化」の「興梠二曹」のモデルはこの人物と考えてよいであろう。

「谷山」海軍谷山基地。薩摩半島東側の旧谷山市内。現在は新制鹿児島市谷山地区で市南部に位置する。底本全集第一巻の本多秋五氏の「解題」には梅崎春生の軍歴が以下のように記されてある。昭和一九(一九四四)年六月に『召集されて佐世保海兵団に入り、そこから防府の海軍通信学校に派遣され、ふたたび佐世保へよび返されて、こんどは佐世保通信隊に配置』となった後、翌昭和二十年の初め頃には『最初の実施部隊として指宿(いぶすき)の航空隊の通信科に転勤』、同二十年『五月に海軍二等兵曹に任官』、『その後、谷山基地からK基地へ、K基地』(この部分は梅崎春生の「眼鏡の話」(昭和三〇十二月号『文藝春秋』初出)に出る記載からの推定である)『から坊津へ派遣され、そこから谷山へ帰還を命ぜられ』て『桜島へ赴任したらしい』とある。何故、「らしい」なのかと言えば、実は春生は、この時の体験を後の小説「桜島」や「幻化」に反映させているにも拘わらず、配属された坊津の海軍特別攻撃隊などについては生涯一切語ることがなかったからである(この部分はウィキの「梅崎春生」に拠る)。本多氏は、この謎の『K基地』については『どこかは不明だが、『眼鏡の話』に、そこが吹上浜の真正面にあたるとあるのが、『幻化』のなかで、主人公は「坊津に行く前に、吹上浜の基地を転々とした」とあるのに符合する』と述べておられる。今回、この注で初めて述べることであるが、この辺りで、春生は生涯のトラウマとなるような、ある忌まわしい経験をしたものと考えられ(それは何人かの春生周辺の親しい仲間も推測している)、それは後の春生の精神変調の実は大きな病根となったのだと考えている。私は幾つかの小説内での描出、特に「桜島」(リンク先は私のPDF縦書版詳注附きテクスト)の吉良兵曹長との絡みの中の、異様な超現実的空気感覚の描写から、一つの〈ある絶対に思い出したくないが忘れられないおぞましい可能性〉を想定してはいる。しかし、軽々には言えないとだけ述べておく。ただ、その私が「異様な超現実的空気感覚」と評する箇所は引いておく。吉良が主人公村上二曹と本土決戦の議論を戦わせているところに、昼の玉音が終戦に詔勅であったことが報知された直後の、驚愕が二人を襲う沈黙のシークエンスである。――二人きりの――暗い壕の中の描写である――

   《引用開始》

 私は卓をはなれた。興奮のため、足がよろめくようであった。解明出来ぬほどの複雑な思念が、胸一ぱいに拡がっては消えた。上衣を掛けた寝台の方に歩きかけながら、私は影のようなものを背後に感じて振り返った。

 乏しい電灯の光の下、木目の荒れた卓を前にし、吉良兵曹長は軍刀を支えたまま、虚ろな眼を凝然と壁にそそいでいた。卓の上には湯呑みが空(から)のまま、しんと静まりかえっていた。奥の送信機室は、そのまま薄暗がりに消えていた。

 私はむきなおり、寝台の所に来た。上衣を着ようと、取りおろした。何か得体(えたい)の知れぬ、不思議なものが、再び私の背に迫るような気がした。思わず振り返った。

 先刻の姿勢のまま、吉良兵曹長は動かなかった。天井を走る電線、卓上の湯呑み、うす汚れた壁。何もかも先刻の風景と変らなかった。私は上衣を肩にかけ、出口の方に歩き出そうとした。手を通し、ぼたんを一つ一つかけながら、異常な気配が突然私の胸をおびやかすのを感じた。私は寝台のへりをつかんだまま三度ふり返った。

 卓の前で、腰掛けたまま、吉良兵曹長は軍刀を抜き放っていた。刀身を顔に近づけた。乏しい光を集めて、分厚な刀身は、ぎらり、と光った。憑(つ)かれた者のように、吉良兵曹長は、刀身に見入っていた。不思議な殺気が彼の全身を包んでいた。彼の、少し曲げた背に、飢えた野獣のような眼に、此の世のものでない兇暴な意志を私は見た。寝台に身体をもたせたまま、私は目を据えていた。不思議な感動が、私の全身をふるわせていた。膝頭が互いにふれ合って、微かな音を立てるのがはっきり判った。眼を大きく見開いたまま、血も凍るような不気味な時間が過ぎた。

 吉良兵曹長の姿勢が動いた。刀身は妖(あや)しく光を放ちながら、彼の手にしたがって、さやに収められた。軍刀のつばがさやに当って、かたいはっきりした音を立てたのを私は聞いた。その音は、私の心の奥底まで沁みわたった。吉良兵曹長は軍刀を持ちなおし、立ち上りながら、私の方を見た。そして沈痛な声で低く私に言った。そのままの姿勢で、私はその言葉を聞いた。

「村上兵曹。俺も暗号室に行こう」

   《引用終了》

恐らくは何人かの方は私の想定の具体が既にお分かり戴けたものとは思う。

「掌暗號長」通信科内の暗号管理の実務エキスパートで、恐らくは兵曹長である。この上にさらに全体を統括する原則、海軍将校が就いた(前にも述べたが、狭義の「海軍将校」とは原則、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを指す。但し、この兵学校選修学生出身の特務士官〔海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても将校とはなれず将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった〕も特例として就けた)、暗号科内の最高責任者である「暗号長」の職務を補佐して全体を指揮監督する「暗号士」がいたものと想定される。ここは個人サイト「兵隊さん昔話」内の「海軍にのみ存在した特務士官を考える」などを参考にさせて戴いた。

「芳賀檀」(明治三六(一九〇三)年~平成三(一九九一)年)は「はがまゆみ」と読む、ドイツ文学者(文学博士)で評論家である。京都生まれ。かの国文学者芳賀矢一の子で、東京帝大文学部独文科昭和三(一九二八)年卒。ドイツに留学した後、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)教授に就任、昭和一七(一九四二)年退官後、関西学院大学、東洋大学、創価大学教授。『コギト』『日本浪曼派』『四季』同人としてドイツ文学に関する評論を発表、昭和一二(一九三七)年の「古典の親衛隊」が代表作。以後、「民族と友情」「祝祭と法則」などを刊行し、次第にナチス礼賛に傾斜した。他の著書に「リルケ」「芳賀檀戯曲集 レオナルド・ダ・ヴィンチ」「千利休と秀吉」、詩集「背徳の花束」、訳書にヘッセ「帰郷」「青春時代」、フルトヴェングラー「音と言葉」など(ここまでは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」を概ね参照した)。ウィキの「芳賀檀」には、戦後は『父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、日本ペンクラブの仕事に精を出していたが』、昭和三二(一九五七)年、『国際ペンクラブ大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけ』、『その道化じみた様子は、高田里惠子の『文学部をめぐる病い』で揶揄され』たとある。因みに、詩人立原道造の晩年の詩に影響を与えた一人とされる。梅崎春生より十二年上。

「ドイツ」「が一朝にして滅びたこと」これはナチス・ドイツが、この日記に先立つ二ヶ月前の一九四五年五月、連合国軍によって敗北して消滅したことを指している。]

   *

八月二日

 此の間から敵機が何度も來て、鹿兒島は連日連夜炎を上げて燃えてゐる。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る。

 身體の具合は相變らず惡い。何となく惡い。

 昨夜は、大島見張所が夜光蟲を敵輸送船三千隻と認めて電を打つた。

 東京からも便りがない。うちからも。

 (胃が極度に弱つてゐるらしい)

[やぶちゃん注:「昨夜は、大島見張所が夜光蟲を敵輸送船三千隻と認めて電を打つた」の「大島見張所」は当時、既に東京都(昭和一八(一九四三)年七月一日に東京府と東京市が統合)大島町であった大島南部の波浮港近辺にあった海軍のそれと思われる。ウィキの「伊豆大島」によれば、戦時体制下の昭和一九(一九四四)年に『小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、海軍第二魚雷艇特攻隊の中間基地として波浮港が接収され』(ここに「海軍第二魚雷艇特攻隊」とあるのであるが、ウィキの「乙型魚雷艇」(戦時中に海軍が大量建造を計画した多くの型が存在する魚雷艇の一つの大きなタイプ・グループ)の記載の中に、『日本海軍が建造した魚雷艇は(隼艇を含め)全部で約』五百隻、『船体のみ完成して放置されたものや雷艇として竣工したものを含めると』約八百隻となったが、『その後の戦局の悪化により魚雷艇の生産は』昭和二〇(一九四五)年三月に『中止、震洋などの特攻兵器の生産に重点を移していった』とあるから、これは実質上は「魚雷艇」の「特攻隊」ではなくて「震洋特攻隊」のことと思われる。なお、「震洋」の試作艇の船体は魚雷艇の船型を基礎としている)、翌年六月には本土決戦に備えて第三二一師団が編成されていたとある。この驚愕の誤認事件については「桜島」の中にも語られている。以下、そこにつけた私の注を引く。田中誠氏のブログ「So what?」の「梅崎春生」には「桜島」の読後記載が記されてあるが、そこには、昭和二〇(一九四五)年八月一日の夜十時に『大島の見張所が夜光虫を見間違えて「敵大船団、大島東方を北上中」と発信して、間もなく』(翌二日午前二時頃)、『「先の大船団は夜光虫の誤り」と訂正された(割と有名な)エピソードも載っていて、その辺が軍オタには、興味深いかも』とある。また、サイト「メロウ伝承館」の『水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記』のスレッドの「水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)3」には、 kousei3 氏の投稿として、以前に注したモーター・ボート特攻兵器である、「震洋」の『爆装作業が終わった日の夜中』(昭和二十年八月一日)に、『「敵船団接近中」との報で「震洋艇出撃」の命令が届いた。出撃準備が出来ているのは僅か』五隻だけで、搭乗員五十名の中から五名を『指名しなければなら』ず、『部隊長は横須賀に出張中、高橋先任艇隊長に指名の苦悩がのしかかった。暫くして幸い敵船団来襲は誤報で(編注=伊豆大島見晴所が多量の夜光虫を船団と見聞違えて報告)、「震洋艇出撃用意」が取り消され、高橋艇隊長は安堵の胸を撫で下ろした』とある。また、個人サイト内の「我々が生きた時代と海龍の年表」(【二〇二〇年七月九日附記】現存しない模様)の昭和二十年八月一日の条には、『「敵大船団、大島東方を北上中」の情報により』、第十一突撃隊では『全艇出撃。集合地点は九十九里浜沖。沈座して敵を待つ予定であったが、城ヶ島を回ったところで「先の報告は夜光虫の誤り。全艇直ちに帰投せよ」と無線で命令を受ける』とある。この「海龍(かいりゅう)」とは大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りによって攻撃を行う、二人乗り有翼特殊潜航艇で水中特攻兵器の名である。従ってこれは、先の「震洋」とともに出撃した「海龍」の記載事実であることが判る。]

   *

八月九日

 松本文雄が召集されて來てゐるのに會ひ、一しよに酒を飮みに行つた夢を見る。大濱氏も出て來る。

 昨夜は夕食にジヤガ芋つぶしたのを少量、燒酎小量のみ、十二時より直に立つとやはり胃の調子惡し。

[やぶちゃん注:この日記は、広島と同じ恐るべき新型爆弾が、この日の朝に同じ九州の長崎に落されたことを知っている日記ではない。

「松本文雄」は熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」の「かざしの園」という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。

「大濱氏」不詳。

「十二時」とは昼の十二時であろう。前の二日の日記に『胃が極度に弱つてゐるらしい』とあり、後の敗戦翌日の十六日では消化器の激しい衰弱が読み取れる。]

   *

八月十六日

 十二月八日が突然來たやうに、八月十五日も突然やつて來た。

 ソ聯の參戰。そして日ならずして昨日、英米ソ支四國宣言を受諾する旨の御宣言を受諾する旨の御宣詔。

 原子爆彈。

 昨日は、朝五時に起きて、下の濱邊で檢便があつた。

 朝食後受診。依然としてカユ食。

 夜九時から當直に行つた折、着信控をひらいて見て、停戰のことを知り、目をうたがふ。これから先どうなるのか。

 領土のこと。軍隊のこと。賠償のこと。

 又、ひいて、國民生活のことなど。いろいろ考へ、眠れず。

[やぶちゃん注:文面から察するに、この時はかなり重い消化器不調を訴えていたことが判る。

「十二月八日」謂わずもがな、真珠湾攻撃(日本時間昭和一六(一九四一)年十二月八日未明/ハワイ時間十二月七日)と、開戦の詔勅「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」を指す。

「ソ聯」の「聯」の表記は原文のママ。

「英米ソ支四國宣言」通常は「米英支ソ四国共同宣言」で、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)のことである。昭和二〇(一九四五)年七月二十六日にアメリカ合衆国大統領トルーマン・イギリス首相チャール・中華民国国民政府主席蒋介石の名に於いて大日本帝国に対して発された「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全十三ヶ条から成る宣言。正式には「日本への降伏要求の最終宣言」(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)という。「支」は未だ中華民国で、中華人民共和国建国はこの四年後の一九四九年十月一日である。但し、実は先立つポツダム会談(同年七月十七日~八月二日)に蒋介石は出席しておらず、実質的には「米英共同宣言」であったが、日本からの侵略を受けていた中国を配慮し、宣言のそれは蒋介石に無線で了承を得た上で署名されて「米英中共同宣言」の体裁を採った。一方、ソ連はポツダム会談には出、対日降伏勧告についても介入しなかったが、日ソ中立条約(昭和一六(一九四一)年締結)があったために署名はしていない。ソ連のポツダム宣言参加は日本時間八月九日未明にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州国・朝鮮半島北部及び南樺太へ侵攻を開始したソ連対日参戦を以って宣言に後から参加したものであるから、「米英支ソ四國共同宣言」が正確と言えば、正確ではある。

「原子爆彈」この時は流石に長崎に二つ目が投下されたことを知っていたであろう。所謂「玉音」、「大東亜戰争終結ノ詔書」にも「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル」とも既にあった以上、敗戦の翌日とはいえ、春生が長崎原爆投下を、この時点で知らなかったとは考えられない。

「檢便」これは彼個人の、ではなく、隊内での感染症予防検査のためのそれであろう。

「夜九時」当初、『日記の書き振りから見て、これは前日十五日の九時ではなく、この十六日のことであろう』と注していたが、後の梅崎春生の桜島の八月十五日によって、これは敗戦当日十五日のことであることが判明した。

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