ブログ770000アクセス突破記念 侵入者 梅崎春生 (「写真班」「植木屋」二篇構成)
先ほど、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、770000アクセス突破した。以下、記念テクストを公開する。冒頭に注した通り、PDF縦書版も用意してある。
[やぶちゃん注:本作は昭和三一(一九五六)年二月号『新潮』に発表され、後の単行本『侵入者』(昭和三二(一九五七)年四月角川書店刊)に所収された。
本作の後半の「植木屋」は以前、高等学校の国語の教科書に採られていた。私が教師時代に使用していたものにも載っていたが、春生ファンの私はすこぶる面白いとは思ったものの、国語教師の哀しい性(さが)で、『これで試験問題が何点分、作れるだろう?』という勘案で結果的に採らず、授業していない。しなかったのは悔やまれるが、これでおぞましい問題を作って、それが今に梅崎春生の作品を穢したというトラウマとならなくてよかったと胸を撫で下ろしてはいる。しかし朗読はすべきであったと後悔はしている。さればこそ、ここで電子化したい。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。
一つだけ私が知らなかった「ラカン槇(まき)」を注しておく。結論から言うと、これは槇(正式和名は「イヌマキ」)の変種である裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ変種ラカンマキ Podocarpus macrophyllus var. maki であることが判った。参照したウィキの「イヌマキ」によれば、『中国原産で、イヌマキより小型で葉の数が多』く、『庭木や生垣として栽培される』とある。グーグル画像検索「Podocarpus
macrophyllus var. maki」をリンクさせておく(但し、その画像総てが同変種とは限らないので注意されたい)。
なお、本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、770000アクセス突破記念として公開することとした。合わせてPDF縦書版も公開してある。【2016年1月13日 藪野直史】]
侵入者
写真班
玄関のブザーが重苦しく鳴り響いた。二度短く、三度目は長く。茶の間でモリソバをたいらげていた彼は、心臓をどきんとさせ、あわてて箸を置いてよたよたと立ち上った。彼は自宅のこのブザーの音をほとんど聞いたことがない。ふだんの日は勤めに出ているし、日曜日には来訪者はめったになかったのだから。しかしどうもこのブザーの音は心臓にひびく。玄関のブザーと書いたが、玄関にあるのは押しボタンであって、ブザーの音源は台所にとりつけてある。茶の間は台所の隣りにあるのだ。このブザーはずっと前の日曜日、見知らぬ電気屋がやってきて、なかば強制的に取りつけて行ったものだ。取りつけ終って電気屋は言った。電池代だけはおマケにしときます。おマケだって? 電池代だけがおマケだって? ブザーの響きの充満した台所を、彼は腹を立てながら擦過し、玄関に飛び出した。腹立ちの対象はもちろんブザーそれ自身とそれをとりつけた電気屋。それにそれを許容した自分自身もだ。玄関の扉を押しあけると、そこに見知らぬ男が二人立っていた。一人は四十前後のあから顔の男で、どういうつもりか、ひと握りの赤茶けたような鬚(ひげ)を、顎(あご)の下に生やしていた。も一人はそれより少し若い、頭をイガクリ坊主に刈った男で、肩から重そうに大きな写真機をぶら下げている。彼が玄関の扉を内側から押すとたんにブザーの音は鳴り止んだ。ボタンを押しつづけていたのは、顎鬚男の親指だった。
「こんにちは」
今までボタンを押していた指で、顎鬚は自分の鳥打帽のひさしを上方に弾(はじ)いた。
「写真を撮らせて貰いに来ましたよ」
「写真?」彼はいぶかしく、またいらだたしげに反問した。「僕の写真をですか。僕はそんなものを頼まないですよ」
「あなたの写真じゃありませんよ」
顎鬚はにやりとわらい、玄関の土間にずいと入ってきた。イガクリも体をななめにして、片足だけを踏み入れた。二人まるまる収容するには土間は狭過ぎるのだ。そしてイガクリがぼんやりした声で言った。
「小さな玄関だなあ」
「近頃の建築はどこでも玄関が小さいのだよ」顎鬚がたしなめるように言って、ふたたび顔を彼に向けた。「あなたの写真じゃなくて、家の写真ですよ」
「家を写して何になる?」えたいの知れぬ狼狽を感じて彼は天井を見上げたり壁を見廻したりした。「それに僕は……」
「いや、お心使いは無用です」顎鬚はポケットから名刺をさっと取出し、彼が手を出さないのに、それをしゃにむに彼の掌に握らせ、イガクリを目顔でうながした。「さあ」
二人の男は一斉(いっせい)に腰をかがめて、ごそごそと靴の紐をとき始めた。押しつけられた名刺に急いで彼は視線を走らせた。「金融公庫住宅資料調査社写真班・多々良太郎」多々良というのが顎鬚男なのだろう。その顎鬚が靴を脱いでのそのそと上って来た。押し止める間もなかった。つづいてイガクリが上って来た。脱ぎ捨てられた靴で狭い土間は靴だらけになった。彼は余儀なく台所まで後退(あとしざ)りした。廊下も狭いので、後退しないわけに行かない。後退する彼を追いつめるように顎鬚も歩を進め、台所にまで達すると立ち止り、イガクリをかえり見た。
「面白いところに台所があるな」
「そうだねえ」イガクリは写真機を方からおろしながら、吟味するようにきょろきょろとした。「ふん。こちらが茶の間か」
「ここを撮(と)るか」顎鬚が両手の親指と人差指を使用して四角なワクをつくり、それを自分の顔の前であちこち動かした。「台所から茶の間を見通すか」
「ちょっと待って」彼はあわてて口を入れた。「写真を撮るって、そりゃあ、あんたちょっと……」
「大丈夫ですよ」顎鬚がいやにはっきりした声を出した。
「貴方を撮るのではなく、家を撮るのだ。家というものは、撮られても減りはしない。それにわたくしたちは命ぜられて、家を撮影する責任がある。それでお給金を貰っているんですからねえ。だから家は撮影される義務がある」
顎鬚がしゃべっている間に、イガクリは金属製の三脚をどこからか取出して、ガチャガチャと脚を引き伸ばした。顎鬚は言葉をつづけた。
「そこでわたしたちは家を撮って廻っている。撮るのは家だけですよ。なに、この家が公庫から融資を受けていることは判っていますよ。我々は公庫の名簿で調べて来たんですからな。おい、用意出来たか」
イガクリはしきりに手足や機械を動かした。
「家にその義務があれば、自然家の持ち主にも義務がある」
「義務というと、写される義務?」
「あんた自身には写される義務はないですよ。そりゃ先刻から何度も説明した」顎鬚はいらいらして掌を打ち合わせた。「何故かと言うと、あんたはまるまるあんただからだ。ところがこの家はそうでない」
「すると、貴方がたは、いや、貴方がたの、この調査社というのは――」何か言おうと思うのだが、言うことが見付からないので、彼は手の名刺に眼をうろうろとさせた。「これは住宅金融公庫の、外郭団体か何かですか?」
「外郭団体であるか外郭団体でないか、というおたずねですね」もうこれ以上質問は許さぬといったきつい口調で、顎鬚が念を押した。「ではお答えします。外郭団体ではありません!」
あまりにもピタリとした答え方だったので、彼は二の句がつげずたじろいだ。そのすきにイガクリはもう写真機を三脚の上に据(す)えつけ、ファインダーをのぞいたり、横を向いてせきばらいをしたりしている。肩や背中から急に力が抜けて行くような感じで、彼はそのまま茶の間の方にまた二三歩後退した。(靴を脱がさなきゃよかったんだ)忌々(いまいま)しい気持で彼はそう思った。(この間の電気屋だってそうだった。ごめんください、ごめんくださいと言うもんだから、玄関に出て行って見たら、もうそいつは靴を片一方脱いでいやがった)それも日曜日のことであった。電気屋はもうすこし怒っているらしく、まだ三十にならぬ若い男だったが、目を吊り上げて、唇の端に泡をすこし出していた。そいつはいきり立った声を出した。
「あんたは何度僕に、ごめんください、を言わせるつもりですか?」
「ごめん、ごめん」と彼はあやまった。「奥の間にいたから、つい聞えなかったんです」
「奥の間?」電気屋は軽蔑したような声を出した。「たかが十四五坪程度のコマギレ住宅に、奥の間も控えの間もありますかいな。こりや家の構造が悪いんですよ。玄関の声は奥に通らず、ほとんど外に散るようになっている。これでは玄関の役目を全然果たしていない。ベルをつけなさい。ベルかブザー。ベルかブザーをつけるのは、もうあなたの義務ですよ」
「あなたはどなた?」彼はうんざりして訊ねた。「どういう御用件です?」
「僕は電気器具星です」電気屋は胸のポケットから、ハガキぐらいもある大きな名刺を抜いて差し出した。「この家ではブザーですな。ペルをとりつけるには家が小さ過ぎる」
「で、御用件は?」
「ブザーのとりつけですよ」電気屋はいらだたしげに言って、残った足の踵も靴から引っばり出した。上(あが)り框(かまち)に片足かけた。「うちのブザーは性能がいいんで評判なんですよ。故障は起きないし、音色はいいし」
「ブザー? 誰がブザーを――」彼はちょっと頭が混乱して、口をもぐもぐさせた。「そ、それは、取りつけてもいいが、値段……」
「値段のことなんか言っている場合じゃないですよ」電気屋の残った足も上にあがってきた。電気屋は彼より三寸ばかり背が高かった。「ブザーをつけなきゃ、来訪者が皆迷惑するじゃありませんか。ね、そうでしょう。現に僕がさっき何度、ごめんください、と言わせられたと思います?」
「そ、それは判るが、つまり君が、ごめんくださいを連呼したのは、つまり、ブザーを売りつけるために――」彼の顔はすこしあかくなった。何が何だかよく判らなくなってきたからだ。「でも、僕はブザーやベルの音は嫌いなんだ」
「なぜ?」
「ごめんください、という声を聞けば、来訪者のおおよその性格が見当つくけれど、ブザーやベルはそういうわけに行かない。ね、そうでしょう」背の高い電気屋を奥に通すまいと、狭い廊下に立ちふさがるようにして、彼は必死に抗弁した。「友達のブザーも、押売りのブザーも、保険勧誘人のブザーも、音色はひとつだ。性格がない。扉をあけるまでそいつの正体は見当がつかない。そんなのは僕は厭だね。ごめんください、の方がよっぽどいい」
「何を言ってんですか、あなたは」電気屋は失笑して、右を伸ばして彼の肩を押すようにした。「いくらごめんくださいの方がいいと言っても、あなたに聞えなきゃ意味がないじゃないですか。第一あなたは身勝手ですよ。ごめんくださいの連呼で来訪者を疲労させ、疲労させた揚句に正体を見当つけようと言う。トクをするのはあなただけじゃないですか」
彼は肩を押されて二三歩後退りした。電気屋は手をゆるめず、彼について前進した。そしてとうとう彼は台所まで押し戻され、うやむやのうちにブザーを取りつけられてしまったのだ。その自分の引きさがり方が、今のこの写真屋の場合とそっくりだと思った時、彼は茶の間に戻りながら身をよじりたくなるような忌々しさを感じた。
(つまりおれがまごまごと押し戻されてしまうのは――)
彼はしょぼしょぼとチャブ台の前に坐り、箸をとり上げながら考えた。(つまりこちらがはっきりしていないためだ。この家がはっきりと自分のものであるという自覚、そいつがこの俺にないためだ)
半年前にこの家を建てた時、それもやっとの思いで建てた時から、その不安定なものが彼につきまとって離れない。それには理由もあった。家を建てた費用の約三分の一は住宅公庫からの借入金であったし、残余の二分の一は彼が勤めている会社からの借金で、そのまた残余の二分の一は親類や先輩からの借金であった。彼が自分で出したのは、総額の六分の一に過ぎなかった。そのことが当初から彼の意識にまつわり、彼の物腰を落着かなくさせている。すべての因がそこにあるようであった。この家が彼の所有物であるというより、自分がこの家の付属物であるような、棟木とかガラス窓とか下駄箱、そんなものと等価値のものであるような気がいつも彼にはしている。(この家がはっきりと俺のものでないとすれば、一体これは誰のものだろう?)
彼は箸をモリソバにつけた。ソバは伸びてぐちゃっとくっつき合っていた。その二筋三筋を引き剝(は)がして口に持って行く。ひどく不味(まず)い。不味いけれども食べ残すわけには行かないような気持が別にある。彼はまた箸をソバに伸ばした。台所でファインダーをのぞいていたイガクリが、首をかしげてうんざりした声を出した。
「目ざわりだなあ。どけて呉れませんか」
「僕をどけろと言うんですか」彼はソバをつまんだままむっとした顔を台所に向けた。やはりすこし声が高くなった。
「あんたじゃありませんよ」顎鬚がなだめるように目尻に皺(しわ)を寄せて言った。「こいつが言っているのは、そのモリソバのことですよ」
「そうだ。そうだ」イガクリがうなずいた。「公庫住宅写真集にモリソバがうつっていては具合が悪い」
彼は肩をそびやかして何か言い返そうとしだ。が、すぐに肩を元の高さに戻した。ソバのザルを持って立ち上った。次の間に足を踏み入れた。部屋はもうこれだけしかない。そこをはみ出るともう庭になる。狭い庭には庭樹がたくさん繁っている。彼は部屋のまんなかに坐り、ぼんやりした眼で庭を見廻す。何か不法なことが行われているが、その正体がはっきり摑(つか)めない。これが夢なら、何かの拍子にふっと判ってしまうのだが、夢じゃないからそううまくは行かない。カチッとシャッターの音がした。低い声で二人が台所で何か相談し合っている。彼はさっとそちらを振り向き、また顔を元に戻して、思い切ったように不味い残りソバを箸でつまみ上げた。のびて団子状にかたまっているので、それは容易につまみ上げることが出来る。彼はそれを全部無理矢理に口の中に押し込んだ。目を白黒させながらそれを嚙んだ。二人の写真班は何かこそこそ話し合いながら台所から茶の間に移動し、そのまま彼のいる部屋に侵入して来た。まんなかに坐っている彼を無視して、二人は立ったままガラス戸越しに庭の方をしげしげと眺めている。
「ずいぶんごちゃごちゃと樹が生えているねえ」
「そうだねえ。まるで植木市(いち)みたいだな」
彼はまるで自分自身が光を発さない光源体みたいな感じになり、そいつをぶち破るために何か叫び出そうとしたが、口いっぱいに詰め込んだソバのために、それはほとんど声にならなかった。
植木屋
彼の家に出入りしている植木屋は、一体何人なのか。一人なのか、二人なのか、三人なのか、あるいは四人もいるのか、まさか四人以上ということはないだろう。それはひとつに彼が人の顔を覚えるのが不得手のせいもあったし、またほとんど顔を合わさないせいもあったし、(しげしげと出入りはしているのだが、彼が勤めの関係上日曜しか在宅しないので)それに植木屋がしょっちゅう服装や恰好を変えてやってくるのではないかと思われる節もあった。鬚(ひげ)を立ててみたり、また剃り落したり、太縁の眼鏡をかけたり、次に見るとたしか同じ顔なのにかけていなかったり、ジャンパー姿で来るかと思うと、軍隊服を着ていたり、腹がけどんぶり姿であったり、留守番の雇い婆さんの話ではそうであるようだ。婆さん自身が植木屋が何人いるのか見当がつきかねているらしい。もっとも婆さんはすこし耳が遠かったし、視力も不確かになっているのだから、それは無理もない。婆さんの話では七人か八人かいるような具合だったが、彼の家のような小さな庭に、七人も八人も出入りするわけがない。やはり一人か二人か三人かが、さまざまに服装や恰好を変えてあらわれてくるのだろう。何故植木屋がさまざまに恰好を変えるか。植木屋というやつは他人の庭をしょっちゅう模様替えをするのが商売で、その関係上、自分の服装や顔かたちなども模様替えをしたくなるのだろう。
その植木屋(どの植木屋か)が彼の庭に姿をあらわしたのは、ここに引越して来て三日目の日曜日の夕方のことであった。いつの間にかその植木屋は彼の庭(庭というより空地だが)に入って、濡れ縁に腰をおろして足をぶらぶらさせ、いろいろ目測するように頭をかしげたり、指を顔の前で動かしたりしていた。へんな奴がいると思って彼が濡れ縁に出て行くと、その足音に気付いて、植木屋はななめに彼を見上げながらとぼけたような声を出した。
「旦那。こいつはいい庭になりますぜ。ようがす。あっしに任しておくんなさい」
「庭?」
庭をつくるなんて思いもよらなかったし、そんな趣味も全然なかったし、彼はびっくりした声を出した。
「ええ、庭ですよ。この空地は地味と言い、広さと言い――」
「おいおい」と彼はさえぎった。「こんな猫の額のような――」
「いや、広けりゃ広いし、狭けりゃ狭いで、ちゃんとやり方があるんでさ」植木屋は自信あり気に断定した。「あっしなんかには、このくらいの広さが手頃でさ。ようがす。ひとつあっしが身を入れることにしましょう」
「おいおい、早合点しちゃ困るよ。まだ庭をつくるとも何とも――」
彼も下駄をつっかけて庭へ降り、そのでこぼこの空地を踏みしめながら、そう言いかけて振り返った時、もうその植木屋の姿は濡れ縁には見えなかった。早吞み込みして、さっさと退散して行ったものらしい。その日はそれで済んだ。
それから四五日して彼が会社から戻ってくると、留守番の婆さんがあたふたと彼に報告した。
「何だかへんな人が来て、庭に樹を植えて行きましたよ」
「植木屋だろう」
彼は濡れ縁に出て見た。庭のまんなかにぽつんと椿の木がつっ立っている。へんてつもない恰好の椿であった。
「困った奴だなあ」彼は嘆息し、そして婆さんに言いつけた。「今度僕の留守にやってきたらだな、勝手に樹を植えたり庭をつくったりしても、代金の方の責任は負わないぞって、そう言っといて呉れ」
また一週間ばかり経った。彼が会社から戻って来ると、椿に並んで百日紅(さるすべり)が植えられ、庭の隅には孟宗竹(もうそうちく)と南天(なんてん)が植えられていた。彼は婆さんを呼びつけて訊ねた。
「代金の責任は持たないと、植木屋に言って呉れたかね?」
「言いましたとも」婆さんは口をとがらせて答えた。「そうしたら、お代の方は心配なく、なんて言ってましたよ。ある時払いで結構だって」
「ある時払い?」彼は庭を眺めながらおうむ返しに言った。庭に植えられた樹々は、ひとつひとつを見れば一応の恰好をしているが、こう並んでみると妙に不調和な感じがした。眺めているだけでも面白くない気分になってくるので、彼は早々に鑑賞を切り上げて濡れ縁を退散した。
また四五日目に松と柿が植えられ、次にはザクロと紅葉が植えられた。ザクロは赤く割れた実を点じていた。また一週間も経つと、ラカン槇(まき)に梅に沈丁花(じんちょうげ)があたらしく姿をあらわした。どしどし樹が殖えて行くので、彼は面白くもあり、また気味悪くもあって、下駄をつっかけて庭に降り、樹をひとつひとつ点検して廻った。最初四五本の時は不調和だったが、こんなに沢山になると何か雑然とした面白さが出て来るようでもあった。彼は嘆息して、婆さんに冗談を言った。
「植木屋の奴、僕のうちに森林でもつくるつもりかな」
婆さんは聞えなかったのか、ぶすっと横を向いて返事をしなかった。
それからも五日か六日毎に、樹の数はすこしずつ殖えて行く。一体どういうつもりだろうといぶかりながらも、彼は樹々の生態にすこしずつ興味を感じ始めていた。(代金はある時払いなどと言ってたが、こんなに沢山樹を持ち込んで、それで商売になるのかな)ザクロは実をたくさんつけ、それがしだいに大きく赤く割れてきた。夕陽がそれにあたると、粒々の色がまことに鮮烈で、それが彼の食慾をしきりにそそった。ある日彼は物干竿でそれを五つ六つはたきおとし、濡れ縁に腰をおろしてもりもりと食べた。ザクロの味は彼に少年の日を憶い出させた。
次の日曜日の夕方、彼が茶の間に寝そべっていると、濡れ縁の方からとぼけたような声がした。
「旦那。旦那」
見ると腹がけどんぶり姿の男が立っている。見覚えのあるような、ないような、ぼんやりした感じの男であった。
「旦那はザクロの実を食べたね」
それで植木屋だと判った。
「食べたよ」と彼は答えた。
「いけないね。ザクロなんか食べちゃいけないねえ」
「いけないか」
「いけないよ。ザクロは食うもんじゃねえ。あれは眺めるもんだ」
「そうか」彼は頭をかいた。「あんまり旨(うま)そうだったからな。じゃもうザクロを食うのはよそう。柿にしよう」
「柿?」
植木屋はぎくりと棒立ちになったようだった。そして何を思ったか、そのまま彼の視界をふらふらっと横に切れた。濡れ縁に出て見ると、もう植木屋の姿はどこにも見えなかった。庭には雑然と樹々がむらがり立っているだけであった。
「おかしな植木屋だな」彼はひとりごとを言った。「まるでイタチみたいだよ」
次の日勤めから戻ってきて庭に立ち、樹群を眺めているうち、彼はふっと柿の木が見当らないのに気がづいた。あわてて見廻すと、ザクロも忽然(こつぜん)と姿を消していた。彼は大声で婆さんを呼んだ。
「婆さん、婆さん。ここに生えていた柿とザクロはどうしたね?」
「今日の昼、植木屋さんが掘り起して運んで行きましたよ」
「運んで行った?」植木屋に詰め寄るつもりで彼は婆さんに詰め寄った。「どういうわけで運んだ? 何か言ってたか?」
「へえ。ザクロや柿はこの庭にはあまり似合わないんだってさ」そして婆さんはぼやくように言葉をつづけた。「ほんとにいけすかない植木屋たちだよ。植えたかと思うと運んで行くし、いっこうに落着きがない」
「運んで行ったのは、それじゃこれが初めてじゃないのか?」
「そうですよ」婆さんはぼったりとうなずいた。「入れかわり立ちかわりだから、庭の掃除もたいへんだねえ」
彼は何か言おうとしたが、すぐ思い直して下駄をつっかけ、庭に出た。小森林をなす庭樹のかずかずの、そのひとつひとつを調べて行くと、そう言えば最初の日に植えられた椿や百日紅の姿はなく、その跡には青桐が枝をひろげていたり、孟宗竹が茂っていたところには泰山木がぬっとつっ立っていたりして、彼をおどろかせた。(何でまた俺はうっかりしていたのだろう)朝夕ただぼんやりと庭樹を眺め、眺めるだけで済ましていたのだが、それの内容が次々変化しているとは今まで全く気がつかなかった。彼はなにか懸命にオシッコでもこらえているような気持になって、婆さんをふり返った。
「どういうつもりであいつらは、庭樹をいろいろ入れ替えるんだろうねえ」
「この庭にピッタリするかどうか、ためしてみて、ピッタリしないから持って行くんだというんですけどねえ」婆さんは腹立たしげに鼻を鳴らした。「こんなにごちゃごちゃ植えたんじゃあ、あたしゃイヤだね。ねえ、旦那さん。これじゃあまるで夜店の植木屋みたいだよ」
夜店? 夜店の植木屋だって? たくさんの樹が次々にどこからか彼の庭に運ばれ、彼の庭で一休みして、またどこかに運ばれてゆく。その過程を彼はちらと脳裡に組立てていた。中継地。貯木場。その想念は彼の頭をガンとどやしつけた。ああ、俺の庭は、俺の庭みたいに見えて、俺のために樹がたくさん生えているように見えて、ただそう見えているだけのことじゃないのか。何時の間にか売られて行く樹々の中休み場所かプールになって、つまり土地をただで使われているわけじゃないかと思った時、彼は突然自分の顔から血の気がすっと引いて行くのを感じ、よろよろと濡れ縁によろめいて手をついた。荒涼としてあおぐらい彼の視界の中で、樹々は枝を振り立て葉をうち鳴らし、すさまじい音を立てて哄笑(こうしょう)した。
婆さんが鴉(からす)のような声を立てて、あわててその彼のそばにかけ寄った。
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