桜島の八月十五日 梅崎春生
桜島の八月十五日
もうあれから十五年経つ。いろんな人がさまざまの状態で、さまざまの解放感を味わったことだろう。私の体験は平凡なものだが、十五年の心覚えのために、書きつけて置きたいと思う。
私は三十歳。海軍二等兵曹。前年の六月の応召兵で、一年ばかり兵隊のままうろうろと苦労した揚句、拙速の下士官教育を受けて出来上った急造下士官で、軍人としてはいっこう筋金が入っていない。兵科は通信料の暗号。所属は、部隊名は忘れたが、なんとか部隊の桜島分遣隊というのである。
八月十五日。その日は朝から暑かった。なにしろ鹿児島だから、東京あたりとは緯度が違う。沖繩から毎日グラマンなどが飛んで来るので、兵舎などはない。居住区も暗号室も、すべて壕内である。素振りの壕で、風通しが悪く、空気はじとじとと湿っている。
それにふつうの兵隊なら、午後九時就寝午前六時起床で九時間眠れるが、電信科や暗号科はその間に三時間の夜直があるから、六時間しか眠れない。
今の私なら、むし暑さと寝不足に負けて、たちまち病人になるところだが、あの頃の私は三十歳だったし、また病院送りになったら大変だという緊張で、どうにかもっていた。
正午に天皇の放送があるということは、前から判っていた。電報(もちろん暗号電報で、我々がそれを翻訳した)が来ていたからだ。
でも私は、午前九時から正午までの当直に当っていて、放送は聞けなかった。正午過ぎに居住区に戻って来て、食事をしていた。
戦争末期にもかかわらず、九州の海軍部隊は実に豊富な食糧を持っていた。同じ鹿児島県でも、陸軍部隊は一食が茶碗一杯しかないというのに、海軍は大きな食器に一杯で、しかも三度三度米ばかりで、一日に四合やそこらは食っていたと思う。おかずも、山海の珍味とまでは行かないが、充分に栄養のあるものを摂取していた。あるいは南九州は米軍上陸の予想地点で、だから食糧も充分確保されていたのかも知れぬ。
で、その昼飯を食べていると、放送を聞きに行った連中がどやどやと戻って来た。何の放送だったかと開くと、ラジオの性能がわるくて、があがあ言うだけで、ほとんど聞き取れなかったという。
「ますます一所懸命にやれ、という話だろう」
ということに話は落着いた。
天皇の放送があるという電報を翻訳した際、どんな内容のものだろうと私が予想したか、残念ながら私の記憶にはない。
しかし、終戦の放送ではないか、とは考えなかったと思う。鹿児島の新聞社が焼けて新聞は全然来ないし、ニュースといえば暗号電報を通じてだけだから、一体世の中がどう動いているのか、政治や経済がどんな動き方をしているのか、全然めくら桟敷に置かれているのだから、予想が立たなかったのも無理はない。
戦争が早く終ればいいという気持は、常に私の胸中にとぐろを巻いていたが、天皇の放送をそこに結びつける才覚は働かなかったのだ。
私の次の当直は午後六時からで、昼食後からその六時まで私が何をしていたか、それも記憶がない。夕食を済ませて六時に暗号室に入り、私は当直長だったから、前直の電報綴りを調べたら、いきなり「終戦」という文字が眼に飛び込んで来て、私はぎくりとした。
直ぐに私は席を立ち、暗号士のところに行って、戦争が終ったのは本当ですか、と訊ねた。その暗号士は学徒出身の少尉か何かで、海軍入りの前は東京の尾久あたりで小学校の先生をやっていた男だが、ちょっと妙な笑い方をして、
「そうだよ」
という風にうなずいた。
それで私は自分の席に戻ったが、居ても立ってもおれない気がして、便所に行くといつわって暗号室を飛び出し、何となくそこらあたりを歩き廻り、そして居住区に戻って来た。
居住区はがらんとしていて、壕の一番奥に電信の下士官が一人、腰掛けの上に横になっていたので、私はそいつを揺り起し、
「戦争が終ったよ」
と教えてやったら、その下士官はぼんやりと眼をあけて、うん、と答えた。
寝ぼけでいて事の重大さを理解しなかったのか、それとも終戦のことをすでに知っていたのか、よく判らない。でも、重大なことを人に知らせてやったことで、私は気持にゆとりを取り戻して壕を出た。
やはり重大なことは、自分ひとりで受け止めているより、他人に話してしまった方が楽になるものである。
居住区を出て暗号室に歩く間に、本当の解放感が私の内部にじわじわとひろがって来た。それは陶酔という感じや、酩酊という感じに近かった。そういう感じは、一生に何度とあるものではなかろう。
その日とその翌日あたりまで、部隊の表情にはほとんど変化がなかった。亢奮(こうふん)のあまりに狂躁(きょうそう)的になることもなく、失望のあまりに、虚脱状態になることもなかった。終戦前の状態とほとんど変らないのである。それを私は今でもふしぎに思う。反応がにぶいのか、それとも抑制していたのか。
いくらか狂躁的になったのは、その翌々日ぐらいからで、部隊解散と決定したから、物資の分配をおこなう。
「何々分隊靴を取りに来たれ」
「何々分隊食糧かんづめを取りに来たれ」
という伝令や伝声が次々にやって来て、その度に兵隊が右往左往して、ほとんど仕事に手もつかぬ風になってしまった。
物資の分配ということになると、人間は俄然活気づくものである。生命がたすかったことよりも、物資の方が重大だとは、ふしぎに思えるけれども、事実だから仕方がない。
そう申す私にしても、周囲が活気づくから、自然活気づかざるを得なかった。
物資の配給があったり、演芸会があったり、ざわざわざわと一週間が過ぎた後、退職金の支給があった。少尉はいくら、二等兵曹はいくら、兵はいくらと、退職の金額が掲示され、ただし応召兵は現役兵の七割だという。
金額指示の電報は私も電報綴りで読んでいたが、応召兵七割の指示は読まなかった。桜島分遣隊の主計科の連中が、勝手にそんな指示をでっち上げて、応召兵たちの退職金のぴんはねをしたんだと思う。
当時桜島には、千余名の将兵がいたと推定されるが、その八割か九割までが応召の老兵たちで、壕掘りや作業に使役されていた。一人当り百円びんはねをしたとしても十万円。終戦時の十万円だから、話は大きい。
復員後、南九州各地の海軍部隊からの復員兵に、退職金のことを問いただしてみたが、応召兵七割支給というのは、どこの部隊でもなかった。
桜島分遣隊だけが、それをやったのである。どさくさまぎれに退職金を横領するなんて、極めて悪質な犯罪である。
十五年経って、もう遅いかも知れないが、ここに書き記して、告発にかえる。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三五(一九六〇)年に講談社発行の『週刊現代』に連載された総標題「うんとかすんとか」という連載エッセイの第十八回として、同年の敗戦記念日前日のクレジットである八月十四日号に掲載された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を用い、以上の書誌もその解題に拠った。
底本では三段落目の「沖繩」は「沖縄」であるが、私の字に対する生理感覚から「繩」に代えてある。
「めくら棧敷」は聾桟敷(つんぼさじき)に同じであろう。江戸時代の歌舞伎小屋で二階正面桟敷の最後部にある最下級席。舞台から最も遠く、台詞もよく聴こえない。現在の三階席や立見席に当たる。通はここで観聴くなどと言われる。「大向こう」「百桟敷」とも呼ぶ。そこから転じて、必要な事柄を知らされずにいる疎外された立場を言う。現行では差別用語であって使用は控えねばならない。「尾久」は「おぐ」と読み、旧東京市尾久町。現在の荒川区北西部に当たる。
小説「桜島」を解釈する上で、非常に重要な作者の実体験が述べられているのもさることながら(私が梅崎春生の日記に附した一部の解釈の誤りがこれで判明もした)、最後に記されたとんでもない犯罪は許しがたい。春生の遺志を受け継いで、ここに新たに糾弾告発するものである。]