山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵第五
[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵五枚目。
右上三分の一に「鎌倉権五郎神社」[やぶちゃん字注:「権」はママ。]
その下に丸いウィンドウで「光明寺山門」
その左上三分の二に「鎌倉大塔宮」
丸い「光明寺山門」のウィンドウの下三分の二の後ろに隠れながら、中央やや上に、横に「編輯ノ一行瑞泉寺ヲ訪フノ圖」
下部右手に「建長寺堂内の圖」
それがめくれ上がる形で下部左下にほぼ三角形で「髙時一族自殺ノ穴」
と手書き文字でキャプションが記されてある。この内、「編輯ノ一行瑞泉寺ヲ訪フノ圖」は東陽堂の『風俗畫報』編集担当者四名が瑞泉寺を訪れた折りのスナップ・スケッチということらしい。よく見ると、手前に背を向けている男の左手には何やらん、見覚えのある三度笠がある。彼は黒い羽織を着ており、背中に紋がついている。黒い紋付に三度笠――今一度、本誌冒頭の「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」を見て戴きたい。私が中央にいる人物が画家山本松谷自身であろうと推測した彼の服装を――。それにしても如何にもヤラせっぽい絵ではある。編集者が足で歩いてちゃんと現地を確認しました、ちゃんと宝物も見ました、ちゃんとちゃんと文書も現認検証しました、と言いたいようだ。にしては「新編鎌倉志」と「新編相模国風土記稿」(後者自身が無批判に多くを前者から引用しているのであるが)からの無批判不用心の引き写しが多く、ガイド・ブックとしては致命的であることは、本文電子化のなかでさんざん見てきただけに、「いいかげんにせい!!」と私は怒り心頭に発する一枚である。どうせ、寺巡りもそこそこに、最後に挿絵で出て来る江の島の「金龜樓」にでもはやばやとあがってどんちゃん騒ぎしたに、決まってる!(但し、一部に杜撰はあるものの、挿絵の山本松谷氏をその指弾の射程内に入れようとは私は思ってはいないことを述べおいてはおく。彼の絵は本文なんかより、ずっと価値ある失われた景観を後世に残してくれたからである)。最後の「髙時一族自殺ノ穴」(現在の腹切りやぐら)や東勝寺跡へ向かう青砥藤綱の伝説の滑川であるが、今のように橋(少なくともアーチ橋の現在の東勝寺橋は大正一三(一九二四)年架橋である)がなくて、川中の飛び石を伝ってゆくのである。とってもいい!! 先導しているのが、松谷が描き込むのが好きな子守りをする少女であるのがまたまた! いい!!!(この時代、こうした子守りの娘たちは鎌倉観光に訪れた人々を案内することで、子守りがてら、それなりの駄賃も得ていたのかも知れない……「それでヨイ! それでヨイ!」(大好きだった笠智衆さん風に)……)]