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2016/01/04

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (5)

 

 確かに、私は苛立(いらだ)っている。連日の睡眠不足のせいもあった。が、それだけではなかった。一言で言えば、私は、私の宿命が信じ切れなかったのだ。何故私が、小学校の地理では習ったけれども、訪れる用事があろうとも思えなかった此の南の島にやって来て、そして此処で滅亡しなければならないのか。この事が私に合点(がてん)が行かなかったのだ。合点が行かなかったというより、納得(なっとく)しようと思わなかったのだ。納得出来るわけのものでなかった。しかし事態は、急迫していた。どの道どのような形でか、覚悟を決めなければならぬ処まで来ていたのだ。

 暗号室や居住区での雑談で、米軍が何処に上陸するかということが、時々話題にのぼった。海軍は吹上浜(ふきあげはま)に上陸を予想し、陸軍は宮崎海岸の防備に主力を尽しているという噂がまことしやかに語られた。沖繩は既に玉砕したし、大和(やまと)の出撃も失敗に終った。日々に訳す暗号電報から、味方の惨敗は明かであった。連日飛来する米機の様相から、上陸が間近であることも必至であった。不気味な殺気を孕(はら)んだ静穏のまま、季節は八月に入って行った。八月一日の真夜中、私は当直に立っていた。

 土の臭(にお)いのする洞窟の、薄暗い灯の下で、皆不機嫌の眼を光らせて、暗号を引いていた。ときどき電信室の方から、取次が眠そうな眼をして電報を持って来た。暗号書をめくる音が、変に小うるさく感じられた。私は手を伸ばして、今持って来た電報を取り上げた。作戦特別緊急電報である。はっとして私は頭を上げた。いよいよ何か起ったのではないか。私は急いで暗号書を繰った。一語一語、訳文書に書き取った。

「敵船団三千隻見ユ。針路北」

 大島見張所の発信である。私は立ち上った。

「敵船団の電報です」

 当直士官の眠たげな顔に、一瞬緊張の色が走った。

 電鈴が鳴って、すぐ幕僚室に通報され、暗号室に至る通路に、枕を並べて眠っていた暗号士や掌暗号長や通信士が、兵隊に起されてぞろぞろと起きて来た。暗号室に入るとき、一様に眼をしかめ、灯から眼をそむけるようにした。指揮官卓に集って、低い声で話し合った。

 俄(にわ)かに電報量が多くなった。作戦特別緊急電報ばかりである。報告や通報や、各部隊に対する命令電波が、日本中に錯綜(さくそう)しているらしかった。船団は明かに東京方面を目指していた。千葉海岸あたりに殺到し、一挙に東京を攻略するのではないか。それはあり得ないことではなかった。

(東京都民は、今頃何も知らずに眠っているだろう)

 応召するまで私が住んでいた本郷のことや、また友達のことが、突然のようにはっきり頭に浮んで来た。それは戦争とは関係のない静かな街であり、平和な人々の姿であった。私が自分に落ちるものと覚悟していた悪運が、今や彼等の上に置き換えられようとしている。此の、死の巨大な凶報も心付かずして、寝床の中に穏かな顔をして眠っているのではないか。一つの或る想念が、私の心を烈しい苦痛を伴って突き刺した。

(もし東京に上陸するならば、桜島にいる私はたすかるのではないか?)

 うめくような気持で、私は此の考えを辿(たど)っていた。――

 私の背後の指揮官卓での話し声が少しずつ高くなって来た。ときどき、笑い声がまじった。緊張のなかに、へんに自棄(やけ)っぱちな気持がこじれたままふくれ上り、冗談を言い合う声が奇妙にうわずって来るらしかった。

「軍令部や東通の連中、いい配置かと安心していた奴等が泡食うぜ」

太えしくじりとぼやいてもおっつかない」

「しかし関東平野は逃げでがあるだろう」

 誰かが口をはさんだ。

「特攻隊は、出撃する様子かな」

 暫く誰も口を利かなかった。その沈黙が、痛いほど私の背にのしかかって来た。その瞬間、投げやりな調子で、誰かが冗談を言った。

「どうせ来年の今頃は、俺達はメリケン粉かつぎよ。佐世保港かどこかで」

 低い笑い声が起った。

「兵隊も準士官も無しよ。そうなれば」

 突然、笑いを含まぬ質の違った口調が、その会話を断ち切った。

「馬鹿な事を言うなよ」

 真面目な、烈しい声であった。笑い声が止んだ。私は身体を少しよじって、背後をぬすみ見た。

「兵隊の居る処で、不見識なこと言うのは止めろ」

 吉良兵曹長であった。何時暗号室に入って来たのか、私は知らない。眺めているのもはばかられて、私は前にむきなおり、暗号書を繰るふりをした。そう言いながら、吉良兵曹長は立ち上ったらしかった。白けた空気の中から、

「冗談じゃないか。冗談だよ」

 誰かが止める気配(けはい)がした。

「誰も日本が負けるなどとは思っていないよ」

「冗談にしてもだ、言って良いことと悪いことと――」

「吉良兵曹長。言いがかりのようなことはよせ」

 なに、と言葉にならない言葉が聞えたと思うと、何か絡(から)み合うような気配のうち、肉体がぶつかり合うようなにぶい音がし、小さくなっている私の背に、誰かがよろめいてたおれかかった。乱数盤が、かたりと床に落ちると、数十本の乱片がそこらにみだれ散った。烈しい呼吸が、私の襟(えり)筋をかすめた。私は背筋を硬くして、じっと暗号書を見つめていた。低い虚ろな笑い声のようなものが、聞えたと思った。私は思わずふり返った。壕を支えた木組によりかかって、背の高い吉良兵曹長の顔は、蠟(ろう)のように血の気を失い、仮面に似た無表情であった。見ていけないものを見たような気持で、思わず目を外らしたとき、呻(うめ)くような小さな声で、吉良兵曹長の声がした。

「よして呉れ」

 冗談を言うのをよせと言うのか、醜い争いをするのをよせと言うのか、自分に言い聞かせるような弱々しい声音(こわね)であった。白々しい沈黙が来た。その中を、よろめくようにして、吉良兵曹長は壕を出て行ったらしかった。湿った土くれを踏む長靴の音が、それにつづいた。そして、緊張のあとの、ゆるんだ気配が背に感じられた。私は今日の電報綴りを意味なく繰っていた。繰る指が、おさえようとしてもぶるぶるふるえた。

(船団が見えた。それだけのことに皆興奮している)

 私をも含めて、度を失った此の一群の男たちに、私は言い知れぬ不快なものが胸に湧き上って来るのを感じた。不快と言うよりも、もっと憤怒に近い感情であった。ああ、自分の体も八つ裂きにし、そして彼等のも八つ裂きにし、谷底にでも投げ込みたい。私は手刀で力をこめて頸(くび)筋を、えいえい、とたたいた。たたく度に後頭部に、しびれるような感覚を伴(ともな)って血が上って来た――

「村上兵曹。村上兵曹。訳文点検御願い致します」

 兵隊の声であった。私は手を伸ばして訳文紙を受取った。稚拙な字で、翻訳文がしたためてある。

「サキノ敵船団ハ夜光虫ノ誤リナリ。大島見張所」

 苦い笑いが浮び上って来た。すべては茶番に過ぎないではないか。もし米軍が日本の電波状況を傍受していたなら、此の突如として巻き起った電波の嵐を、――大島から横鎮(よこちん)へ、横鎮から全国へ、部隊から部隊へ、ひっきりなしに打ち廻された作戦特別緊急信の大群を、何と解釈しただろう。此の部隊にも、先刻佐鎮(さちん)から、即時待機の命令が出た。今頃は整備兵らが起されて、仕事にかかっている筈(はず)である。夜光虫の誤りだと判ったとき、整備兵たちはどんな思いでまた寝に就くのであろう。にがい笑いは、何か生理的な発作のように、止め度無く湧き上って止まなかった。私は立ち上り、訳文を当直士官に差し出した。指揮官卓にいた準士官等の視線が、それに集った。読んでも、誰も笑わなかった。

「夜光虫、か」

 変に感動のうすれた声で誰かが言った。

 私は席に戻り、当直士官が幕僚室に電話をかける声を聞いていた。電話機の具合が悪く、夜光虫、というのが仲々(なかなか)通じないらしかった。その声に混って、外の準士官等の、疲れたような口調の会話を耳にとめていた。

「近頃、いらいらしているらしいのだね」

「ひがんでるのさ。奴(やっこ)さん」

 会話は、それだけで止んだ。もはや起きている必要はないというので、それぞれの寝室へ、壕を出て行くらしかった。

 三時になった。交替の当直員が来た。私達は申継(もうしつ)ぎをし、並んで暗号室を出て行った。通路を出ると、真闇(まっくら)であった。私は目を慣らすために、出口の崖によりかかり、暫(しばら)く待っていた。対岸の鹿児島市は、相変らず一二箇所、静かに焰(ほのお)を上げていた。もはや消す気もないようであった。昨夜と同じ個所が、同じ量の焰をあげて、とろとろと燃えている。――

 歩き出した。片手を崖に沿わせ、歩き悩みながら、私は、大船団に見まがう夜光虫の大群の光景を想像していた。暗い海の、果てから果てまでキラキラと光りながら、帯のようにくねり、そしてゆるやかに移動して行く紫色の微光を思い浮べたとき、私は心がすがすがしく洗われるのを感じた。先刻の気持の反動と判っていながらも、私は此の感傷に甘く身をひたしていた。ひそやかな孤独の感じが、快よく身体を領していた。夜風が、顔の皮にあたって吹いた。

 山道を長いことかかって登り、居住区に着いた。入口を入ると、奥の卓によりかかり、誰かが腰をおろしていた。私の方を見た。吉良兵曹長であった。今までそのままの姿勢で、じっとしていたらしかった。

「上陸地点に近づいたか」

「あれは、夜光虫だそうです」

 私は事業服の襟(えり)の紐(ひも)を解きながら、そう答えた。安堵(あんど)とも疑惑ともつかぬ妙な表情が、彼の顔にちょっと現われて消えた。いじめられた子供のように切ない表情にも見えた。光を背にしているので、それも定かでなかった。そして眼を閉じた。

 私は、寝台に行き、音のしないように横になった。両掌をそろえて、顔をおおった。瞼がしきりと痒(かゆ)かった。坊津での傷は、ほとんどなおっていて、その跡がしわになっているらしかった。そこをこする私の指の爪が、眼鏡の縁(ふち)にふれて、かたかたと鳴った。私は侘びしくその音を聞いていた。

[やぶちゃん注:「海軍は吹上浜(ふきあげはま)に上陸を予想し、陸軍は宮崎海岸の防備に主力を尽しているという噂がまことしやかに語られた」既に注したが、「幻化」の「砂浜」の章に、主人公久住五郎について、『坊津に行く前に、吹上浜の基地を転々とした』あり、梅崎春生が遂に語らなかった坊津以前の海軍秘密基地勤務の中には確実に吹上浜が含まれていた。吹上浜は、これも既注であるが、鹿児島県西部の薩摩半島西岸で東シナ海に面した、現在のいちき串木野市・日置市・南さつま市にかけての砂丘海岸で、その長さは凡そ四十七キロメートルに及んでおり、一つの砂丘としての長さでは日本一の長い砂浜海岸である。なお、ここで村上兵曹は「まことしやかに語られた」とあるが、この直後に日本はポツダム宣言を受諾して降伏したため、米軍による本土上陸作戦は行われることがなかったものの、アメリカ軍とイギリス軍をはじめとする連合軍はこの時、実際に「ダウンフォール作戦」(Operation Downfall:「失墜」「滅亡」作戦)という日本本土上陸作戦を策定していた。その中の初期作戦は「オリンピック作戦」(Operation Olympic:国際的スポーツ祭典であるオリンピックを戦闘名にとしヤンキーらしい実にいやらしい命名である)と呼ばれる、まさに日本本土の九州南部に対する上陸作戦であった。これはその後に展開されるはずであった関東への上陸作戦、「コロネット作戦」(Operation Coronet:「小さな王冠」作戦。天皇を揶揄したものであろうか)のために飛行場を確保するためであった。以下、ウィキの「ダウンフォール作戦」から当該「オリンピック作戦」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『作戦予定日は「Xデー」と呼称され、一九四五年十一月一日が予定されていた』『(なお、この日程は日本軍に完全に読まれていたことが明らかとなり、後に機密漏えいを疑う騒動となった』)。『海上部隊は空前の規模であり、空母四十二隻を始め、戦艦二十四隻、四百隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。陸上部隊は十四個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。なお、これを支援するための兵力誘導用欺瞞作戦』も同時に考案されており、連合軍が、当時、『日本が占領下に置いていた中華民国上海周辺に上陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させる』というものであった。『また、直前の陽動作戦として、十月二十三日から三十日に、アメリカ軍第九軍団(八万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行うことや、イギリス本土の爆撃機軍団から引き抜かれたイギリス空軍のアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として沖縄から出撃する予定であった』。『事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼を、本上陸五日前に占領することも検討された。これは、沖縄戦の時と同じく、本上陸海岸の近傍に良好な泊地を確保することが目的である。この泊地は、輸送艦やダメージを受けた艦の休息場所に使われる。また、九州主要戦略目標地域に対して、マスタードガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていた。さらに米統合参謀本部は、神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に侵攻してもほとんど死者を出さずにすむと信じ、ドイツ崩壊後から米軍が太平洋で毒ガス戦を展開できるよう、マスコミと協力して世論づくりをしていたことを記録したアメリカ軍の極秘資料がアメリカで報道された。この文書では、ジュネーブ議定書で毒ガスの使用は禁止されていたが、日本軍が中華民国内で使用したという事実と、アメリカ白人による黄色人種への人種差別感情が、アメリカ側の罪悪感を軽減したとも指摘されている』。『上陸部隊はアメリカ第六軍であり、隷下の三個軍団がそれぞれ宮崎、大隅半島、薩摩半島に上陸することとなっていた。これは日本軍の三倍以上の兵力になると、アメリカ軍では見積もっていた。大隅半島には日本軍の防御施設があったものの、宮崎や薩摩半島は手薄であったということも判断材料となった』(下線やぶちゃん。以下同)。『アメリカ軍の動員される兵力は二十五万二千人の歩兵と八万七千人の海兵隊から成る十六個師団であり、ヨーロッパ戦線の部隊は予定されていない。上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍はチェスター・ニミッツ提督に第三艦隊と第五艦隊を与えたが、これは太平洋で利用できるすべての艦隊に等しかった(それまで第三艦隊と第五艦隊が同一の作戦に参加することはなかった)』。『第五艦隊(レイモンド・スプルーアンス提督)は、十隻の空母、十六隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行い、上陸用舟艇や輸送船を含めた艦船の数は三千隻に達した。またイギリス海軍も極東方面に展開していた艦隊を派遣することとなった。第三艦隊(ウイリアム・ハルゼー提督)は、十七隻の空母と八隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した』。『ドイツが一九四五年五月に降伏したこともあり、一九四五年の中期までにアメリカ軍、イギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍を中心とした連合軍は千二百機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は二十二隻の空母、イギリス海軍は十隻の空母を用意する予定であり、計千九百十四機の戦闘機が運用可能だった』。『予想される連合軍の損害は、タラワ、硫黄島、沖縄の戦闘から類推して二十五万人と言われるが、これは見積もる人によって異なる。いずれにせよ、オリンピック作戦が実施された場合、第二次大戦最大の損害がアメリカ軍とイギリス軍をはじめとするイギリス連邦軍に生じたと推測できる』。『なお、航空基地の確保が目的のため、南部九州のみの占領で作戦は終了し、北部九州への侵攻は行わないことになっていた。この基地は、翌年三月のコロネット作戦のための前進基地であり、七十二万人の兵員と三千機が収納できる巨大基地となるはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができた』とある。なお、リンク先には「オリンピック作戦」及び全体の「ダウンフォール作戦」の展開図も見られたい。また一方でウィキの「本土決戦」を読んでみると、「昭和天皇独白録」によれば、昭和二十年六月十二日には『「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。」また、「終戦後元侍従長の坪島から聞いた事だが一番防備の出来ている筈の鹿児島半島の部隊でさえ、対戦車砲がない有様で、兵は毎日塹壕堀に使役され、満足な訓練は出来て居らぬ有様だった』そうだ。」とある、と記されてある。

「沖繩は既に玉砕した」既注であるが、再掲すると、主な戦闘が沖繩本島で行われた沖繩戦は、昭和二〇(一九四五)年三月二十六日に始まり、組織的な戦闘は本小説内時間の前月である同年六月二十日乃至六月二十三日に終了したとされている。

「大和(やまと)の出撃も失敗に終った」冒頭に出る坊津から西南約四百キロメートル沖合の東シナ海上に於いて、昭和二十年四月七日、戦艦大和は海上特攻によって凄絶な沈没をしていた。

「作戦特別緊急電報」当時は軍用電報に六段階あったが、これは「警急」という最上級の次に位置するものである(保坂廣志「日本軍の暗号作戦」(二〇一四年紫峰出版刊)に拠る)。

「敵船団三千隻」因みに、先に引いたウィキの「ダウンフォール作戦」を見ると、九州上陸占領の「オリンピック作戦」でも海上部隊は空前の規模で空母四十二隻・戦艦二十四隻・四百隻以上の駆逐艦が投入される予定であったとあり、近接支援を行う第五艦隊だけでも空母十隻・支援空母十六隻・上陸用舟艇・輸送船を含めた艦船数は三千隻に達したとある。またその後に予定されていた関東上陸占領の「コロネット作戦」を同ウィキから引くと(アラビア数字を漢数字に代えた)、『オリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する作戦である。上陸予定日はYデーと呼ばれ、一九四六年三月一日が予定されていた。コロネット作戦は洋上予備も含めると二十五個師団が参加する作戦であり、それまでで最大の上陸作戦となる予定であった。上陸地点は湘南海岸(相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東京都区部へ進行する計画予定)と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。湘南海岸には第八軍、九十九里浜には第一軍が割り当てられていた』。『Yデーの三ヶ月前からイギリス軍とアメリカ軍による艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行ない、攻撃の中にはミサイルやジェット戦闘機、化学兵器の使用も含まれていた。一九四六年三月に関東平野の南東と南西から上陸する連合軍は、古典的な挟撃作戦によって約十日で東京を包囲する。計画では湘南海岸に三十万人、九十九里海岸に二十四万人、予備兵力合わせて百七万人の兵士と千九百機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が投入される予定であった』とある(下線やぶちゃん。因みにノルマンディー上陸作戦(上陸は「ネプチューン作戦」(Operation Neptune)/上陸からパリ解放までの作戦全体は「オーバー・ロード作戦」(Operation Overlord)と称した)では上陸用舟艇四千隻及び艦砲射撃を行う軍艦百三十隻を含む六千隻を超える艦艇が投入された。ここでは外洋を北上する艦船であるから近海で使用される上陸用舟艇は輸送船に格納されているから含まないので「敵船団三千」というのはとんでもない化け物並みの数と考えてよい)。

「大島見張所」後で「船団は明かに東京方面を目指していた。千葉海岸あたりに殺到し、一挙に東京を攻略するのではないか」とあるから、これは既に東京都(昭和一八(一九四三)年七月一日に東京府と東京市が統合)大島町であった大島で、同島の南部の波浮港近辺にあった海軍のそれと思われる。ウィキの「伊豆大島」によれば、戦時体制下の昭和一九(一九四四)年に『小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、海軍第二魚雷艇特攻隊の中間基地として波浮港が接収され』、翌年六月には本土決戦に備えて第三二一師団が編成されていたとある。

「幕僚室」ウィキの「幕僚」を見ると、大正三(一九一四)年軍令第一〇号の「艦隊令」第五条第一項に『聯合艦隊及艦隊ニ當該司令長官ノ幕僚トシテ左ノ職員ヲ置ク』とあって、参謀長・参謀・副官・機関長・軍医長・主計長が挙げられているとし、『これらのことから、日本陸海軍では幕僚とは、参謀のみならず、司令部に置かれて指揮官を補佐する各部門の責任者たるスタッフを指すものとされていた』とある。現行の自衛隊の「幕僚」が狭義の参謀クラスに近い者を指すのとは異なるので注意。

「応召するまで私が住んでいた本郷」梅崎春生は昭和一五(一九四〇)年三月に二十五歳で東京帝国大学文学部国文科を卒業(高校受験で一浪し、大学で一年自主留年した)しているが、その間は少なくとも下宿生活をしていた(本郷であったかどうかは確認出来ないが、そうであってなんら不思議でない)。前注で示した通り、卒業後は東京市教育局教育研究所に勤務し(この間も本郷にいたとしておかしくない)、昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊するも、肺疾患のために即日帰郷、以後療養している。しかし昭和十九年六月に応召され、佐世保相ノ浦海兵団を皮切りに、防府の海軍通信学校に派遣、佐世保へ戻って佐世保通信隊、昭和二〇(一九四五)年の初め頃には初めての実施部隊として指宿航空隊通信科に転勤、同二十年五月に海軍二等兵曹に任官後、本篇にも出る谷山基地から恐らくは吹上浜にあった海軍秘密基地を経、坊津・谷山、そしてこの桜島へと赴任したものと考えられている(これも既に注で述べた)。

「私が自分に落ちるものと覚悟していた悪運が、今や彼等の上に置き換えられようとしている。此の、死の巨大な凶報も心付かずして、寝床の中に穏かな顔をして眠っているのではないか。一つの或る想念が、私の心を烈しい苦痛を伴って突き刺した。/(もし東京に上陸するならば、桜島にいる私はたすかるのではないか?)/うめくような気持で、私は此の考えを辿(たど)っていた。――」この「もし」の「し」の右には後に出る傍点と比べると有意に薄いながらも、確かに傍点「ヽ」の形が打たれてはある。しかし「し」のみに打たれたものであり、初出誌や単行本を持たない私には確認が出来ない。講談社文芸文庫平成元(一九八九)年刊「桜島・日の果て・幻化」を底本とする「青空文庫」版を見ると、傍点は打たれていない。初出及び単行本を確認するまでは取り敢えず打たずにおくこととした。さて。ここで村上兵曹がはからずも心内に抱いてしまった思いこそが――私は――「幻化」の久住五郎へとダイレクトに繋がる――「病い」の始まり――それは同時に梅崎春生自身の「病い」であると同時に作家梅崎春生の文学の「鬼の根」のようなものの始まり――であるような気がしてならない。

「軍令部」ウィキの「軍令部」から引く。大日本帝国海軍の海軍省と共同の中央統括機関。海軍省が内閣に従属して『軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する』。軍令部長(後に軍令部総長)を長とし、『天皇によって海軍大将又は海軍中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある』。『軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する』。『設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、戦時大本営条例に基づき、大本営では本来陸軍の軍令機関であるはずの参謀本部の長官である参謀総長が天皇に対して帝国全軍の作戦用兵の責任を負うこととされた。これに対して海軍では一貫して陸軍と対等の地位を要求し続けた。そして日露戦争の直前に、山本権兵衛海軍大臣から海軍軍令部条例を改め、名称を「参謀本部」にしたい(すなわち陸海軍の参謀本部を同格にしたい)と上奏を受けた明治天皇は』、この件を元帥府(天皇の軍事部門に於ける終身大将である元帥の称号が与えられた者から構成された最高顧問集団)『に諮ることを命じた。しかし元帥府はこの上奏を受け入れ』ず、『明治天皇は徳大寺実則侍従長を通じて山縣有朋元帥陸軍大将に再考を促した。結局、陸軍が折れ、戦時大本営条例が改定された。(しかし軍令部の改名は受け入れられなかった)これにより、海軍軍令部長は参謀総長と対等の立場で作戦用兵に責任を負うこととなった。さらに伏見宮博恭王軍令部長の時には軍令部の位置づけが強化され、海軍の独立性がより高められた』。『しかし、組織的には陸軍の方が圧倒的に大きく、海軍は常に陸軍への吸収と隣り合わせだった。実際、近衛首相の時には日米開戦を避けるために「アメリカ海軍に勝てない」と海軍に告白させようと圧力がかけられ、海軍の存在意義が問われる事態に陥ったことがあった。これに苦慮した海軍省は「海軍は無敵である」と盛んに宣伝し、海軍の存在意義を保とうとするが、軍令部はこれに困惑した』。『また、太平洋戦争中、権力の集中を図るため東條首相の命で、嶋田繁太郎海軍大臣が軍令部総長を兼任した際には、海軍内部で大きな反発が起きたほか、戦力強化のため陸軍からたびたびも統合案が持ち出されたが、統帥権を盾に統合を阻んだ。海軍の独立が確保できなければ終戦工作はより困難なものになっていたのではないかと反省会では指摘されている』。『太平洋戦争の開戦から敗戦に至るまでについての内幕や反省点については、開戦時に一部一課で作戦を担当した佐薙毅をはじめとした部員達の証言が海軍反省会に残されている』とある。

「東通」父に聴いたが、聴き馴れない略称だという。「軍令部」と並んでいることから「東京通信部のようなものか」とのことであったが、そうした名称のものは捜し得なかった。ただ、昭和二〇(一九四五)年六月に本土決戦及び首都圏の警備を目的に編成された、大日本帝国陸軍の軍の一つに「東京防衛軍」(!)というのが存在し、そこには三つの警備旅団があってそれぞれ通信隊を持っていた(ウィキの「東京防衛軍を参照した)から、それを統括する部局のことを指すのかも知れない。或いは、本土決戦に備えてそれより少し前の二月一日に旧来の陸軍の東部軍を改編した東部軍管区(ウィキの「東部軍管区(日本軍)」に拠る)の中の通信部局を指すのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。【2016年1月9日追記】橋本多佳子全句集など、私の電子テクストをよく読んで下さっている「しづ」様より本未明、メールを頂戴し、これは『なんとなくトンツウと讀めるかもしれないと考えはじめ調べてみました』ところ、『東通は東京海軍通信隊のことの様でネット上で見つかりました』と御教授下さった。これは「東京海軍通信隊」のことで、大日本帝国海軍の広義の陸戦隊の一つと思われる「通信隊」の中の「東京海軍通信隊」を指すことが判明した(他には第一連合通信隊・高雄海軍通信隊・父島海軍通信隊・沖繩海軍通信隊・第三海軍通信隊・第三海軍通信隊・第五海軍通信隊・第六海軍通信隊の各通信隊を hush 氏のサイト「The
Naval Data Base.
」内の「日本海軍:~組織と編制~根拠地隊、特別根拠地隊、通信隊.で確認出来る)。またその他にも、旧同各通信隊所属の方々のネット記載などにも「東通」という語がしばしば使われていることも確認出来た。さらにまた、これはどうも「しづ」様のおっしゃっている通り、通信のモールス信号に掛けて「東通(トンツー)」と読んでいるように(無線家の方はそう読みたくなるように)強く感じられもした。ここももしかすると、日常的に梅崎春生も「とんつう」「とんつー」と呼んでいて、日常に過ぎたためにルビを振らなかった可能性も十分あり得るように思われる。最後に。この場を借りて「しづ」様に心より御礼申し上げる。

「どうせ来年の今頃は、俺達はメリケン粉かつぎよ。佐世保港かどこかで」「メリケン粉」は小麦粉のことであるが、日本産のものを「うどん粉」というのに対し、アメリカ産のそれ(当時は精製度が高く日本産のそれよりも白かった)を指した。従ってこの下士官の一人(後の吉良兵曹の口の利き方と「兵隊の居るところで、不見識なこと言うのは止めろ」から判る)の発言は、日本が年内に敗戦し、来年は米軍に接取された佐世保基地でメリケン粉担ぎの雑役夫になり下がっているという謂いなのである。

「乱数盤が、かたりと床に落ちると、数十本の乱片がそこらにみだれ散った」この描写は、あばばばば氏のヴォイニッチ手稿(一九一二年にイタリアで発見された古文書の写本で未解読の文字で記されており、多数の奇妙な絵が描かれている謎の文書。偽書とも言われる)についてのサイト「The Most Mysterious Manuscript in the World“Voynich Manuscript”」の「暗号にはどのような種類があるのだろうか?」によってほぼ判明した。換字式暗号(文字又は語句等を他文字又は記号(群)で置き換える形式)の複雑形式或いは応用形式(暗号の基本形式を組み合わせた型)の一つで「ストリップ式」と呼ばれる暗号に用いる道具である。それによれば、「ストリップ式」暗号とは、ストリップという細片に不規則にアルファベットが二回繰り返してあるものを数十回を使用して暗号化する暗号形式であるとある。これは他のサイトの記載によれば、暗号としては反復使用の確率が極めて低いとされるものであったようである。そのストリップを刺すのが「乱数盤」であり、「乱片」というのがその「ストリップ」であると思われる。

「(船団が見えた。それだけのことに皆興奮している)/私をも含めて、度を失った此の一群の男たちに、私は言い知れぬ不快なものが胸に湧き上って来るのを感じた。不快と言うよりも、もっと憤怒に近い感情であった。ああ、自分の体も八つ裂きにし、そして彼等のも八つ裂きにし、谷底にでも投げ込みたい。私は手刀で力をこめて頸筋を、えいえい、とたたいた。たたく度に後頭部に、しびれるような感覚を伴って血が上って来た――「船団が見えた」という「それだけのことに」「興奮している」のは彼らだけではない。村上兵曹自身がはからずも「私が自分に落ちるものと覚悟していた悪運が、今や彼等の上に置き換えられようとし」、しかも心内ではあろうことか、『もし東京に上陸するならば、桜島にいる私はたすかるのではないか?』とまで思い、「うめくような気持で」執拗にそ「の考えを辿っていた」のであった。だからこそ村上は、「私をも含めて、度を失った此の一群の男たちに、私は言い知れぬ不快なものが胸に湧き上って来るのを感じた」のである。いや、それは「不快と言うよりも、もっと憤怒に近い感情で」さえ「あった」のである。さればこそ「ああ、」このおぞましい人非人の「自分の体も八つ裂きにし、そして」同じ人非人の「彼等のも八つ裂きにし、谷底にでも投げ込みたい」と熱望し、彼はあたかも自刎するかの如く「手刀で力をこめて頸筋を、えいえい、とたたいた」のであった。「たたく度に後頭部に、しびれるような感覚を伴って血が上って来」る、その「血」はまさにヒューマニズムの忿怒の表象であると以上に、はからずも、この場の誰もが心底に抱いたところの生き延びれるかも知れぬ/生き延びたいという欲求の「生」=「性」たるシンボルとしての「血」でもあったのである。

「サキノ敵船団ハ夜光虫ノ誤リナリ。大島見張所」これは実際にあった誤認事件である。田中誠氏のブログ「So what?」の「梅崎春生」には「桜島」の読後記載が記されてあるが、そこには、

昭和二〇(一九四五)年八月一日の夜十時に『大島の見張所が夜光虫を見間違えて「敵大船団、大島東方を北上中」と発信して、間もなく』(翌二日午前二時頃)、『「先の大船団は夜光虫の誤り」と訂正された(割と有名な)エピソードも載っていて、その辺が軍オタには、興味深いかも』

とある(下線やぶちゃん。以下同)。また、サイト「メロウ伝承館」の『水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記』のスレッドの「水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)3」には、 kousei3 氏の投稿として、以前に注したモーター・ボート特攻兵器である、

「震洋」の『爆装作業が終わった日の夜中』(昭和二十年八月一日)に、『「敵船団接近中」との報で「震洋艇出撃」の命令が届いた。出撃準備が出来ているのは僅か』五隻だけで、搭乗員五十名の中から五名を『指名しなければなら』ず、『部隊長は横須賀に出張中、高橋先任艇隊長に指名の苦悩がのしかかった。暫くして幸い敵船団来襲は誤報で(編注=伊豆大島見晴所が多量の夜光虫を船団と見聞違えて報告)、「震洋艇出撃用意」が取り消され、高橋艇隊長は安堵の胸を撫で下ろした』とある。また、個人サイト内の「我々が生きた時代と海龍の年表」昭和二十年八月一日の条には、

『「敵大船団、大島東方を北上中」の情報により』、第十一突撃隊では『全艇出撃。集合地点は九十九里浜沖。沈座して敵を待つ予定であったが、城ヶ島を回ったところで「先の報告は夜光虫の誤り。全艇直ちに帰投せよ」と無線で命令を受ける』

とある。この「海龍(かいりゅう)」とは大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りによって攻撃を行う、二人乗り有翼特殊潜航艇で水中特攻兵器の名である。さらに実は、

梅崎春生自身がこれを昭和二〇(一九四五)年八月二日の条の日記に記している

のである。以下、底本全集第七巻の「日記」から引く。但し、これに限っては戦前の記載であるので恣意的に漢字を正字化して歴史的仮名遣に改めたので注意されたい。

   *

八月二日

 此の間から敵機が何度も來て、鹿兒島は連日連夜炎を上げて燃えてゐる。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る。

 身體の具合は相變らず惡い。何となく惡い。

 昨夜は、大島見張所が夜光蟲を敵輸送船三千隻と認めて電を打つた。

 東京からも便りがない。うちからも。

 (胃が極度に弱つてゐるらしい)

   *

ここでは「敵輸送船」とある。

なお、「夜光虫」も注しておこう。海洋性のプランクトンのアルベオラータAlveolata 上門渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans 。以下、ウィキの「ヤコウチュウ」より引く。『大発生すると夜に光り輝いて見える事からこの名』(ラテン語の“noctis”「夜」+“lucens”「光る」)『が付いたが、昼には赤潮として姿を見せる。赤潮原因生物としては属名カナ書きでノクチルカと表記されることが多い。動物分類学では古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目、最近では渦鞭毛虫門に、植物分類学では渦鞭毛植物門に所属させる。一般的な渦鞭毛藻とは異なり葉緑体は持たず、専ら他の生物を捕食する従属栄養性の生物である』。『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞』(或いは水嚢:pusulen)『で満たされた細胞は直径』一、二ミリメートルで、『外形はほぼ球形』であるが、一ヶ所『くぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろそれ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは』一本の『触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に』、二本の『鞭毛を持つが、目立たない』。『このように、およそ渦鞭毛虫とは思えない姿である。一般に渦鞭毛虫は体に縦と横の溝を持ち、縦溝には後方への鞭毛を、横溝にはそれに沿うように横鞭毛を這わせる。ヤコウチュウの場合、横溝は痕跡程度にまで退化し、横鞭毛もほぼ消失している。しかし、縦溝は触手のある中心部にあり、ここに鞭毛もちゃんと存在する。ただし、それ以外の細胞が大きく膨らんでいるため、これらの構造は目立たなくなってしまっているのである』。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』。『他の生物発光と同様、発光はルシフェリンルシフェラーゼ反応による。ヤコウチュウは物理的な刺激に応答して光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』。『海産で沿岸域に普通、代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が即ち富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため、被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』。夜光虫は遺作「幻化」の「白い花」の中でも、主人公久住五郎が部下福兵長と飲酒して泳ぎ、溺死シークエンスに出現する。今、私はそれを語り切ることが出来ないでいるが、「幻化」のそれは明らかに、この「桜島」のこの「夜光虫」の梅崎春生の確信犯のインスパイア演出であると考えている。

「横鎮(よこちん)」神奈川県横須賀市にあった横須賀鎮守府。第一海軍区として「陸中陸奥國界ヨリ紀伊國南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海岸海面及小笠原島ノ海岸海面」を所管した(ウィキの「横須賀鎮守府」に拠る)。

『「近頃、いらいらしているらしいのだね」/「ひがんでるのさ。奴(やっこ)さん」』の「近頃、いらいらしている」「ひがんでる」「奴(やっこ)さん」とは、流れの上では、直前のいざこざを受けて、かの吉良兵曹長のことを揶揄しているとは読めるのであるが、どうもここはそうではなく、この直前の幕僚に電話をかけ、なかなか夜光虫というのが伝わらず、困った感じでいる当直士官(彼らの直接の上官)を揶揄しているようである。それは、次のパートの冒頭で当直士官が幕僚に対して『「カブを上げ」たかった』という村上の謂いによく出ていると私は思う。

「三時になった。交替の当直員が来た。私達は申継(もうしつ)ぎをし、並んで暗号室を出て行った。通路を出ると、真闇(まっくら)であった。私は目を慣らすために、出口の崖によりかかり、暫(しばら)く待っていた。対岸の鹿児島市は、相変らず一二箇所、静かに焰(ほのお)を上げていた。もはや消す気もないようであった。昨夜と同じ個所が、同じ量の焰をあげて、とろとろと燃えている。――」鹿児島市内のそれは「相変らず」とあるように、前に出ているが、このシーンは先に示した梅崎春生の「日記」に、『此の間から敵機が何度も來て、鹿兒島は連日連夜炎を上げて燃えてゐる。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る』という事実記載と完全に一致する

「私は、大船団に見まがう夜光虫の大群の光景を想像していた。暗い海の、果てから果てまでキラキラと光りながら、帯のようにくねり、そしてゆるやかに移動して行く紫色の微光を思い浮べたとき、私は心がすがすがしく洗われるのを感じた。先刻の気持の反動と判っていながらも、私は此の感傷に甘く身をひたしていた。ひそやかな孤独の感じが、快よく身体を領していた」夜光虫の実際の発行色は一般には青白い光と表現されるが、私は主人公の「紫色の微光」というのがすこぶるしっくりくる(グーグル画像検索「夜光虫の光をリンクしておく)。夜光虫の光の色――それは確かに――不思議な青みがかった妖しい紫色――赤を孕んだ――である。そしてこれは――「血」であり――「生」であり――「性」であるところの――リビドー(Libido)をシンボライズしている色だ――と私は私の中で認知している。……だから村上二曹がここで、「心がすがすがしく洗われるのを感じ」、そ「の感傷に甘く身をひたし」、しかもそこに「ひそやかな孤独の感じ」があって、それがまた、「快よく身体を領していた」というのが、「私」個人の「肉の感じ」として「私を突く」ように「判る」のである……

「事業服」海軍軍装の一種の正式呼称。正装の軍服ではないが、作業服の一ランク上のものであったらしい。ミリタリーグッズ・革ジャンの専門店「中田商店」ののようなものかと思われる。「襟(えり)の紐(ひも)」が確かにあるのが判る。

「安堵(あんど)とも疑惑ともつかぬ妙な表情が、彼の顔にちょっと現われて消えた。いじめられた子供のように切ない表情にも見えた。光を背にしているので、それも定かでなかった。そして眼を閉じた」吉良が主人公村上二曹の実はトリック・スターの一部を体現しているのだということが、ここで明らかになっている、と私は思う。]

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