山本松谷「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」
明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)
及び、
明治三一(一八九八)年八月 二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)
の挿絵を逐次、適切と思われる既に電子化した各記事或いは新記事で配することとする。
原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷/山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であり、往時の景色を活写していて興味深い。なお、彼の著作権は満了している。
底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用いた。
[やぶちゃん注:「鎌倉江島名所圖會」巻頭画。上部の欄外に「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」と右から左に手書き文字でキャプションが記されてある(画面では上外。私のスキャン機器のサイズの関係上、画像化していない)。見開きで、縮小合成をしたくなかったので、左右をずらして二枚とし、一枚目(画像ネーム:hitirienosima1)は色補正をして原画の原色を強くし、反対に二枚目(画像ネーム:hitirienosima2)は原画では透けて見えてしまう裏側の頁の印刷文字をハイライトを上げて飛ばし、見えないようにした。二枚目の方が底本に近い。
ロケーションは現在の稲村ヶ崎の西方の音無川河口左岸であるが、画面左手まで稲村ヶ崎デフォルメして引き寄せてあり、大潮の干潮時らしいが、江の島と富士の大きさは勿論小動の鼻の沖まですっかり砂地が出ているのも、ややデフォルメされている。既に、江の島の人道橋である弁天橋が架けられてある(本格的なその架橋は明治二四(一八七一)年)。しかし何といっても、この挿絵の素晴らしさは概ね裸で遊ぶ沢山の子らのそれぞれの表情にこそある。列車のように連なって海に向かう子ら。ここに最早失われた鎌倉の原風景がある。因みに、中央で三度笠を被って、洋傘を刀のように差した、画帖らしきものを左手に持った男性が作者山本松谷であろう(底本の澤壽郎先生の解題に引用された木村荘八の文章によれば、彼は下書きの実地スケッチには主に鉛筆を使ったとあるので、右手に持つそれは筆ではなく鉛筆ということなる)。]