甲子夜話卷之一 48 加藤右計柔術仕合の事
48 加藤右計柔術仕合の事
明和の頃か、加藤右計と云たるは柔術に達たる人なり。或とき他の柔術者この技にて仕合をせんことを請たるに、右計云ようは、無用なることなり。迚も柔術にての仕合は、勝負して一人は死ぬるより外は無しと云たれども、是非にとて承引せず。右計さらば連立合たるに、彼男組つくと即擲たるに、壁をうちぬきて其身は外へ出即死してける。右計云ようは、いらざること也。是非と云故立合たればこの如きなり。然し彼も達したる者なり。我擲たるとき當身をしたる故、我が肋を蹴折たるとて、人に示せしに、其肋骨一つ折れてありしと云。
■やぶちゃんの呟き
「明和」一七六四年から一七七一年。第十代将軍徳川家治の治世。
「加藤右計」字が違うが、これは柔術家加藤有慶(うけい 宝永三(一七〇六)年~天明六(一七八六)年)のことであろう。丹波出身で、名は長政或いは長正、通称は忠蔵。起倒(きとう)流滝野遊軒(元禄八(一六九五)年~宝暦一二(一七六二)年 京都生まれ。大坂で堀田自諾に起倒流柔術を学び、当初は京坂で柔術を教えたが、後に江戸で道場を開いて起倒流の名を広めた。門弟は京都・大坂・江戸合わせて五千七百人を越えたと伝える)の高弟で、江戸で柔術を教えた。以上は講談社の「日本人名大辞典」に拠ったが、「朝日日本歴史人物事典」によれば、江戸では下谷和泉橋に居を構えたとし、同門に老中松平定信の柔術の師であった鈴木清兵衛がいたが、有慶の実力は彼以上に高く、同流歴代の師範の中でも最も傑出していたとされ、諸侯や旗本の門人も多かった。晩年になっても、酒宴の最中に隙をみてかかってきた力士を盃の酒を一滴も零すことなく、投げてみせたという、とある。
「達」「たつし」。
「即擲たるに」「すなはちなげたるに」。
「即死」調子としてここは「そくし」であろう。
「當身」柔道の「あてみ」。
「肋」「ろく」。肋骨。
「蹴折たる」「けをりたる」。