八年振りに訪ねる――桜島―― 梅崎春生
八年振りに訪ねる
――桜 島――
桜島にいたのは、敗戦の年の七月上旬から八月十六日までで、階級は海軍二等兵曹、通信科勤務である。復員後一箇月ほど福岡の実家で休養した後上京、稲田登戸にいた友人のところにころがり込み、十二月に「桜島」を書き上げた。発表は二十一年九月「素直」創刊号で、発表がこんなに遅れたのは「素直」の発刊が遅れたからだ。
この作品は場所や風景だけがほんとで、出て来る人物は虚構である。ただ一人、桜島転勤の途中で出合う谷中尉にはモデルがあるが、吉良兵曹長も見張りの兵隊も耳のない妓(こ)も、皆私がつくった。だからあれを実録のように思われては困る。
昭和二十八年晩春、九州旅行をしたついでに、私は桜島に行った。戦争中部隊は袴腰というところにあり、一般兵は海岸沿いの崖の大きな洞窟陣地に住み、通信室と私たちの居住区はその上の丘の中腹に、それぞれ小さな洞窟の中にあった。海岸沿いの大洞窟は入口がくずれ落ちたり、ふさがれたりして、八年間そのまま放置されていることが判った。
南九州新聞の文化部の人たちといっしょだったが、心覚えの道をさぐって、丘の中腹を探した。丈なす草をかきわけて、やっと通信壕だけを発見した。U字形のその壕は、すっかり陥没して、辛うじて入口らしき痕跡が残っていた。この中で私たちは暗号電報を組立てたり翻訳したりしたのである。終戦のことも、この壕内で知った。文化部の人が言った。
「これが壕の跡とは、誰も気がつかないでしょうなあ」
居住区の壕は、それらしき方角をしきりに探したが、どうしても見付けることは出来なかった。この方は完全に埋没したのだろう。当時は連絡のための道や小径があったが、今は使われていなくて、草ぼうぼうになっている。
それから九年余、洞窟はすべて埋没しただろうと思っていたら、先日ある週刊誌に洞窟の一部を京大(?)の地震研究所が使っている写真が出ていた。海沿いの大洞窟だろうと思う。二十八年にはなかったようだから、その後復元されたのか。その写真を見て、一種の切ないような感慨があった。
[やぶちゃん注:底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻を用いた。底本の解題には『初出紙未詳』とあるのに、昭和三七(一九六二)年十月一日号のクレジットは載っている(不思議である)。
「稲田登戸」現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。
「昭和二十八年晩春」とあるが、年譜の昭和二八(一九五三)年の四月の条に続いて、『この頃、九州に旅行、桜島を再訪する』と確かにある。
「京大(?)」とあるが、「学校法人 京都大学 防災研究所 火山活動研究センター 桜島観測所」公式サイトを見たが、この旧海軍基地跡を使用した事実は掲載されていないようである。但し、現在の同観測所は南岳の火口から北西約五キロメートルの、桜島港(袴腰)の東約五百メートルの大正溶岩原に位置しているから、過去に一時的に観測に使用した可能性は極めて高いようには思われる。
第二段落などは「桜島」のキャラクター構築の秘密が語られており、短いながらも、貴重な一篇と言える。]