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2016/01/05

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (6)

 午前の当直を終え、正午、私は居住区に戻って来た。当直の時、当直士官の掌暗号長から叱られた。電報が一通、届け方が遅れた。それも傍受電報である。此の部隊に、直接関係があるわけではない。当直士官が幕僚(ばくりょう)室に、「カブを上げ」たかったからに過ぎない。私は憂欝な気持で昼食を終え、寝台に入り、昼寝をした。そして夢を見た。

 何の夢だったかは判らない。ただ、薄暗がりのようなところを、何か一所懸命にわめきながら歩いていた。涙をだらだら流しながら滅茶苦茶に歩いていた。手を振り、足を踏みならしながら、何かさけんでいた。そのまま、ゆるゆると浮き上って来るようにして目が覚めた。汗をびっしょりかいていた。身体中が重苦しくて、夢の感覚がまだ身体のそこここに残っていた。うつつの私も、夢の中と同じように涙を流していた。何物に対してか、つかみかかりたいような気持で、べとつく肌の気味悪さに堪えながら、じっとあおむけに横たわっていた。

(これでいいのか。これで――)

 不当に取扱われているという反撥(はんぱつ)が、寝覚めのなまなましい気持を荒々しくゆすっていた。私はひとりで腹を立てていた。誰に、ということはなかった。掌暗号長にではない。私を此のような破目に追いこんだ何物かに、私は烈しい怒りを感じた。突然するどい哀感が、胸に湧き上った。何もかも、徒労ではないか。此のような虚(むな)しい感情を、私は何度積み重ねてはこわして来たのだろう。……

 私は身体を起し、寝台から飛び下りた。乱れた毛布を畳むために、毛布の耳をひとつひとつ揃(そろ)えながら、ふと呟(つぶ)いた。

「毛布でさえも、耳を持つ――」

 耳たぶがないばかりに、あの田舎町(いなかまち)の妓(おんな)は、どのような暗い厭(いや)な思いを味わって来たことであろう。あの夜、あの妓は、私の胸に顔を埋めたまま、とぎれとぎれ身の上話を語った。耳なしと言われた小学校のときのこと。身売りの時でも、耳たぶがないばかりに、あのような田舎町の貧しい料亭に来なければならなかったこと。そのような不当な目にあいつづけて、あの妓はどのようなものを気持の支えにして生きて来たのだろう。妓の淋しげな横顔が、急に私の眼底によみがえって来た。侘びしい感慨を伴って、妓の貧しい肉体の記憶がそれに続いた。

(此の感傷によりかかり、そして気持を周囲から孤立させる、此の方法以外に、私の此のいら立ちをなだめる手があろうか?)

 もはや、私の青春は終った。桜島の生活は、既に余生に過ぎぬ。自然に手に力が入り、揃えた毛布を乱暴に積み重ねると、私は服を着け、洞窟を出て行った。午後の烈しい光線が、したたかに瞼に滲(し)みわたった。丘の上に登ってみようと思った。

 石塊道(いしころみち)を登り、林を抜けると、見張所であった。栗の木の下には、此の前と同じ見張の男が立っていた。私を認めると、かすかに笑ったようであった。何となく元気が無いように見えた。

「また来ましたね」

 うなずきながら、私は見張台に立ち、四周(まわり)を見渡した。心の底まで明るくなるような、炎天の風景であった。

 積乱雲が立っていた。白金色に輝きながら、数百丈の高さに奔騰(ほんとう)する、重量ある柱であった。その下に、鹿児島西郊の鹿児島航空隊の敷地が見え、こわれた格納庫や赤く焼けた鉄柱が小さく見えた。黒く焼け焦(こが)れた市街が、東にずっと続いていた。市街をめぐる山々は美しく、鮮かな緑に燃え、谷山方面は白く砂塵がかかり、赤土の切立地がぼんやりとかすんでいた。自然だけが、美しかった。人間が造ったものの廃墟は、いじけて醜かった。草原に腰をおろした。男も、此の前と同じく、並んですわった。

「見張も、大変だね」

「大したことはないですよ」

「何だか元気がないようだけれど、身体の具合でも悪いのかね」

「疲れているのですよ」

 男は、静かな湾内をぐるぐるっと指さして見せた。

「此の湾内に、潜水艦が三隻いるのです」

「ああ、電報で見た。味方のではないか」

「兵曹は通信科ですか。味方のか敵のかはっきりしないんです」

「味方識別をつけ忘れていた、と言うらしいのだよ」

「そうですか」

 男は、暫(しばら)くの沈黙の後、私に聞いた。

「通信科なら――特攻隊、あれはどうなっているのですか」

「てんで駄目だよ。皆、グラマンに食われてしまうらしい」

「やはり駄目ですか」

 溜息をついた。そして、

「特攻隊、あれはひどいですね」

「ひどいって、何が?」

 男は暫く黙っていた。そして、一語一語おさえつけるように、

「木曽義仲、あれが牛に松明(たいまつ)つけて敵陣に放したでしょう。あの牛、特攻隊があれですね。それを思うと、私はほんとに特攻隊の若者が可哀そうですよ。何にも知らずに死んで行く――」

「君にも、子供がいるのだろう」

「ときどき練習機の編隊が飛んで行きますね。あれも特攻隊でしょう」

「ああ。――無茶だよ」

 男の顔は、光線の加減か土色に見えた。ひどく大儀そうだった。

「身体には、注意しなくてはいけないよ。壕生活はこたえるから」

「鹿児島には、昔、土蜘蛛(つちぐも)という種族がいたらしいですね。熊襲(くまそ)みたいな。やはり私達と同じで、洞窟に住んでいた」

「君は、東京かね」

「もう亡(ほろ)んでしまったんですね。弱い種族だったに違いないですよ」

「蟬が、ずいぶんふえたね。ほんとにうるさい位だ」

 熊蟬が、あちらこちらの樹に止って、ここを先途(せんど)と鳴いていた。

「蟬? ああ、蟬のこと。法師蟬は、まだ今年は来ませんよ」

 男は白い歯を見せて、神経質な笑い声を立てた。肩の辺の骨が細く、服の加減で、少年のような稚(おさ)なさを見せている。何か漠然とした不安が、私をとらえた。男は、両掌(りょうて)を後頭部に組み、その儘(まま)うしろに寝ころがった。今日は、飛行機も来ないらしかった。低い声で男は話し出した。

「私はねえ、近頃、滅亡の美しさということを考えますよ」

 しみじみとした、自分に言い聞かせるような声音(こわね)であった。

「廃墟というものは、実に美しいですねえ」

「美しいかねえ」

「人間には、生きようという意志と一緒に、滅亡に赴(おもむ)こうという意志があるような気がするんですよ。どうもそんな気がする。此のような熾(さか)んな自然の中で、人間が蛾(が)のようにもろく亡(ほろ)んで行く。奇体に美しいですね」

 あとの方は独り言のようになった。

「此の間、妙なものを見ましたよ」

「何だね」

 男は持っていた双眼鏡を私に渡し、横合いの谷間を指さした。

「あそこに家が、百姓家が見えるでしょう。もう少し右。ええ、そこです。双眼鏡で見てごらんなさい。母家(おもや)の横に、小さな納屋(なや)が見えるでしょう。そこの、軒下に何か下っているでしょう。見えますか」

 傾いた納屋の入口の梁(はり)に、何か長い、紐(ひも)のようなものが、風のためふらふら揺れているのが、双眼鏡にうつって来た。子供が一人、納屋の前の地面にしゃがんで、あそんでいた。それは何だか判らなかった。どういう意味があるのか、私には判らなかった。双眼鏡を返しながら、私は男の顔を見た。

「で?」

「あの家はね、百姓なんです。どこか、遠い所に、田か畠を持っているらしくて、毎日、そこの夫婦は鍬(くわ)など持って出かけて行くようです。お爺さんがいましてねえ、長いこと病気をして、母家の奥の部屋に寝ているらしいのです。時々、納屋の横の便所に立つために出て来るのですが、どうも身体がよく利(き)かない。双眼鏡で見てても、危っかしいのですよ。それに長いわずらいだと見えて、邪魔者あつかいにされているらしく、昼飯の仕度に帰って来た女房から罵(ののし)られたりしているのです。また子供がいましてねえ、頭の鉢の開いた、七つか八つの男の子なんですが、これも爺さんを馬鹿にしているらしい。勿論、双眼鏡で見るんだから、声など聞えはしないけれど、此の黙劇(パントマイム)からそのしぐさで私が推察したんですが、まあ、そんな訳なんです。子供は爺さんを馬鹿にしてるけれど、爺さんにとっては孫ですからねえ、可愛いらしい」

「よく判るもんだね」

 男は、かすれた声で一寸わらった。

「そうじゃないかと思うのですよ。で、爺さんにしてみれば、息子夫婦からは邪魔にされるし、行末の希望はないし、という訳で、或る日のことでしたが、私が此処から双眼鏡で見ていたんですよ。昼間でね、日がかんかん当っている。爺さんが縁側に這(は)い出して来たんですよ。そして庭に下りて、納屋の方に歩いて行く。便所に行くのかな、と思って見ていたら、そうでもないらしい。納屋の奥から苦労して、踏台と繩を一本持ち出して来たんです。何をするのかと思っていると、入口の所に踏台をおいて、それに登ろうというのです。処(ところ)が身体が利かないもんだから、二三度転げ落ちて地面にたおれたりしましてね。何とも言えず不安になって、私は思わず双眼鏡持っている掌から、脂汗(あぶらあせ)がにじみ出て来ましたよ。そして終に踏台に登った。梁(はり)に取りついて、繩をそれに結びつけ、あとの垂れた部分を輪にして、二三度ちょっと引張ってみて、その強さをためしてみる風なんです」

「――首を吊る」

「いよいよこれで大丈夫だと思ったんでしょうね。あたりをぐるっと見廻した。するとすぐ真後(まうしろ)の六尺ばかり離れた処に、影のように、あの男の子が立っているのです。黙りこくって、じっと爺さんがする事を眺めているんです。爺さんがぎくっとしたのが、此処まではっきり判った位です。爺さんは、繩をしっかり握って、その振り返った姿勢のまま、じっと子供を眺めている。子供も、石のように動かず、熱心に爺さんを見つめている。十分間位、睨(にら)み合ったまま、じっとしているのです。その中、がっくりと爺さんは、踏台から地面にくずれ落ちた。男の子は、やはりじっとしていて、手を貸そうともしない。地面を這うようにして縁側までたどりつくと、爺さんは沓(くつ)ぬぎにうつ伏せになって、肩の動き具合から見ると、虫のようにしくしく、長いこと泣いていましたよ。ほんとに長い間」

 男は上半身を起した。

「先刻(さっき)見えたでしょう。あれが、その繩なんです」

 私は、ふっと此の男に嫌悪を感じていた。はっきりした理由はなかった。少し意地悪いような口調で、私は訊(たず)ねた。

「で、いやな気持がしたんだね」

「――残酷な、という気がしたんです。何が残酷か。爺さんがそんな事をしなくてはならないのが残酷か。見ていた子供が残酷か。そんな秘密の情景を、私がそっと双眼鏡で見ているということが残酷なのか、よく判らないんです。私は、何だか歯ぎしりしながら見ていたような気がするんです」

 男は、首を上げて空を眺めた。太陽は、ぎらぎらと光りながら、中空にあった。

「そうですかねえ。人間は、人が見ていると死ねないものですかねえ。独りじゃないと、死んで行けないものですかねえ」

 男は光をさえぎるために、片手をあげた。強い光線に射られて、男の顔は、まるで泣き笑いをしているように見えた。

 

[やぶちゃん注:この最後の老人と孫の悲惨な話は、あの作品のあのシーンを思い出さずにはいられぬ(太字化はやぶちゃん)。

   *

 一時間ばかりたつた後、玄鶴はいつか眠つてゐた。その晩は夢も恐しかつた。彼は樹木の茂つた中に立ち、腰の高い障子の隙から茶室めいた部屋を覗いてゐた。そこには又まる裸の子供が一人、こちらへ顏を向けて横になつてゐた。それは子供とは云ふものの、老人のやうに皺くちやだつた。玄鶴は聲を擧げようとし、寢汗だらけになつて目を醒ました。…………

 「離れ」には誰も來ていなかつた。のみならずまだ薄暗かつた。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是正午に近いことを知つた。彼の心は一瞬間、ほつとしただけに明るかつた。けれども又いつものやうに忽ち陰欝になつて行つた。彼は仰向けになつたまま、彼自身の呼吸を數へてゐた。それは丁度何ものかに「今だぞ」とせかれてゐる氣もちだつた。玄鶴はそつと褌を引き寄せ、彼の頭に卷きつけると、兩手にぐつと引つぱるやうにした。

 そこへ丁度顏を出したのはまるまると着膨(きぶく)れた武夫だつた。

 「やあ、お爺さんがあんなことをしてゐらあ。」

 武夫はかう囃しながら、一散に茶の間へ走つて行つた。

   *

無論、これは芥川龍之介の「玄鶴山房」の第五章の末尾の部分である(リンク先は私の古い電子テクスト)。続く次の第六章の冒頭では既に玄鶴は死んでいるが、「桜島」の「ここ」と似て、彼の自殺は未遂であった設定で、『一週間ばかりたつた後、玄鶴は家族たちに圍まれたまま、肺結核の爲に絶命した。彼の告別式は盛大(!)だつた』と始まる。

 さて、しかし……芥川龍之介と梅崎春生……どっちが「――残酷」だろう? 龍之介と春生、この二人の「男」のどちらにあなたは「嫌悪を感」ずるだろう?……「はっきりした理由はな」いが、「少し意地悪いような口調で」言うなら、私は梅崎の方が遙かに「残酷」であると断ずる。しかも、かくも見張り兵に描写させて読者にその「残酷」を突き付け、それでいて自分の分身である主人公村上兵曹にはちゃっかり、『私は、ふっと此の男に嫌悪を感じていた。はっきりした理由はなかった。少し意地悪いような口調で、私は訊(たず)ねた』、『「で、いやな気持がしたんだね」』と言わせているんである。……私は、「で、」この梅崎春生の筆致に「はっきりした理由はな」いが、何やらん、「いやな気持がした」……とまずは答えておこうと思う。

 では翻って、この「玄鶴山房」と「桜島」のシーンのどちらリアルか?

と問うたなら、これはもう、圧倒的に「桜島」であるに違いない。

 「玄鶴山房」は滅亡してゆく前時代の、暗く黴臭い玄鶴の病者の体臭に包まれた、テッテ的に作られた仮想の「物語」なのであって、登場人物は心情的のみでなく、総ての点で冷血動物のように人間味がしない(と私は思う)。凶悪の冷血という恐るべきキャラクターであるはずの甲野自体が生人形のように冷たく、さればこそその「冷たさ」が逆に伝わってこない(と私は若き日の初読時に感じたものである。昭和二十年代以前の日本映画の平板な女優の台詞や演技を見るように、である)。同様に、縊(くびくく)らんとする玄鶴も、それを見て無邪気な声を挙げる武夫も、昨日今日、舞台に立ったような新米人形師が扱わされる、安物の、如何にもな、からくりにしか見えぬ滑稽面(づら)の下品(かひん)の文楽の頭(かしら)にしか見えぬのである。彼らには誰一人として――身体としての「血」が通っていない。だから、最後に「險しい顏をし」て「リイプクネヒトを讀みはじめ」る青年を配しても、少しもそこから〈新時代〉の匂いはしてこないのだ(あの作品でリアルに〈する〉ものは冒頭の「ゴルデン・バツト」とエンディングの「敷島」の煙草の臭いだけだ)。個人的には「玄鶴山房」は「物語」として陰惨にして素敵で大いに好きであり、前触れの夢の、シュールレアリスティクな「老人のやうに皺くちや」の「まる裸の子供が一人、こちらへ顏を向けて横になつてゐる」シーン(これは――玄鶴の人生そのものの奇形体――である)も上手いとは思うが、作品全体が「現代小説」として成功しているかと言われれば、私は微妙に留保するものである。人物も映像も構造も総てが徹底して前近代的な安っぽい「前時代」の「作り物」であって、切れるような「新時代」の「リアルさ」が殆んど全くと言っていいほどに感じられないからである。私はこの素人文楽の「玄鶴縊りの段」には残念ながら、身を乗り出すことはないのである。

 一方、この「桜島」のこの見張り兵によって「物語」られる話はどうか?

 あるのは、ただ、主人公の覗く双眼鏡のフレームの中に浮かぶ――梁にぶら下がった首括りの繩ばかり……

 しかし、この縊死せんとした老人が愛する孫の無言の視線(そこに孫からの愛情の視線は――微塵もない。それは一種――憮然とした「何だ! お前!」といった「ある」憤激に近い視線――である)と睨み合い、遂に自死を諦め、がっくりと踏み台から崩れ落ち、縁側の沓脱ぎにうっ伏(ぷ)して泣くシークエンスは――恐ろしく忌まわしく――しかも夏のムンムンする熱気の中――「実際に起ったおぞましい事実」として強烈な「リアルさ」で読者の胸を激しく打つ

 いや! それは――梅崎春生の確信犯――なのはないか?

 それが、

現実のクロース・アップされた――繩ばかりの双眼鏡の映像――を遠く覗く主人公村上二曹――

  ↓

その――フレームの中にフラッシュ・バックする――老人と孫の自殺未遂劇のシークエンス(の想像)――

  ↓

それを遠くから凝っと覗いている見張り兵の男(の想起)――

  ↓

それをいやがおうにも読まさせられる我々――「桜島」の読者――

という心理式をあっという間に発生させる。そうして、

その半強制的な関係妄想的心理状態こそが主人村上二曹を「嫌悪」させ、ひいては我々を(或いは「私を」だけでも構わぬ)「嫌悪」させる

のではないか?

 しかし、それこそが梅崎春生が仕掛けた本シークエンスの――罠――なのではあるまいか?

 最後に言っておくと、この見張り兵の話は実話かも知れぬが、私は梅崎春生は明らかに芥川龍之介の「玄鶴山房」の、この場面を確信犯でインスパイアしていると思う。

 梅崎春生は昭和三〇(一九五五)年二月、四十歳の時に「ボロ家の春秋」で直木賞を受賞するが、彼がその受賞連絡を聴いて悩み、辞退しようとして多くの作家仲間に相談した事実はとみに知られている。彼は自身を、受けるならば芥川賞を受けるべき作家と自認していたのであった。それは純文学作家としての自信の矜持であったには違いないが、私はそれより以上に、梅崎春生が芥川龍之介を強烈に意識し、それを越え得る小説世界を目指そうとする気概があったのだと確信している。さればこそここも、かの幻鶴自死未遂の、如何にもなヤラセみたような平板で暗く饐えた映像を――「私なら実写せずに、しかもリアルに、炎夏の陽光のロケーションで、こう描くぞ!」という強い意志表明とともに筆を執っていると感ずるのである。芥川龍之介と梅崎春生の関係についてはまた、本作の最後に少し語りたいと思っている。

 

「傍受電報」無線通信電報で直接の相手でない者が偶然にその通信電報を受信したことを言っているが、必ずしも敵のそれとは限らない。この書き方から見ると、桜島海軍基地当てではない陸海軍の無線電報をたまたま傍受したのである。規則上は受信傍受したものは如何なるものも総て報告する規則になっていたのである。

「耳たぶがないばかりに、あの田舎町(いなかまち)の妓(おんな)は、どのような暗い厭(いや)な思いを味わって来たことであろう」彼女の登場シーンでも注したが、彼女は生後に何らかの事故によって耳介を欠損したのではないと読める。これは小耳症の第度と呼ばれる、耳介を全く欠く奇形と思われる。「愛知医科大学形成外科」公式サイト内の小耳症についてによれば、『欧米では小耳症の発生頻度は』一万二千五百人に一人という『報告(ConwayWagner)から』七千から八千人に一人という『データまで報告されています。人種によって差があり日本ではこの数字よりやや多く発生するのではないかといわれています。右側の発生がやや多いですが、両方の耳に症状がでる人も10%程度あります。男女比では男性にやや多く発生します』。『耳症の人の次の世代(つまりお子さんということです)がどのくらいの頻度で小耳症になるかは家族にとって気になる問題です。現在言われているのは数%という数字です。この発生率を高いと見るか低いと見るかは個人の見解により分かれるところですが、小耳症自体は決して致命的な疾病ではありませんし、数%の発生率ということは逆に言えば90%以上は大丈夫ということです』とある。
 
「数百丈」百丈は三百三メートルで、積乱雲の雲頂高度は日本などの中緯度地域では最低でも五キロメートル、高いものは十六キロメートルにも達するから、これはやや過小気味である。

「奔騰(ほんとう)」激しい勢いで昇ること。

「鹿児島西郊の鹿児島航空隊」鹿児島県鹿児島市郡元町(こおりもとちょう)の鴨池海岸にあった鹿児島海軍航空隊。同飛行場は戦後は鹿児島空港(鹿児島市民は「鴨池空港」と通称)となったが、昭和四七(一九七二)年に鹿児島県霧島市溝辺町(みぞべちょう)大字麓(ふもと)に移転した。

「味方識別をつけ忘れていた」正直、よく意味が判らない。軍事系サイトの書き込みを総合すると、日本帝国海軍の潜水艦が浮上航行している場合は、味方の海域内にあっては後甲板に二本の白い布による味方識別線の白線をつけていたようだが、この場合、三隻が三隻とも味方識別を出さずに錦江湾内を航行してしまったというのは考え難い。しかし潜航状態では航空機からでも敵味方はつかない(浮上しても実は同じで、だからこそ誤射されないように白線を附けたのである。それでも誤射される事故は何件も起っているようである)。とすれば、この場合は、何らかの暗号による味方識別のための電信用の特別暗号が配当されるはずが、それが三隻総て全く行われないままに、錦江湾内に三隻同時に入ってしまった、そのために識別出来ないということか? それも何だかなって感じはする。もっと違う意味なのか? 識者の御教授を乞うものである。

「木曽義仲、あれが牛に松明(たいまつ)つけて敵陣に放したでしょう」所謂、「火牛(かぎゅう)の計(けい)」で、牛の角に刀の上に刀や火を点けた松明を結び、尾に藁を結びつけてそれに点火、その牛を敵陣に追いやるという夜襲戦法の一つ。古代中国の斉(せい)の田単(でんたん)が考えたとされる。木曽義仲も倶利伽羅山合戦でこの戦術を採ったとされるが(「源平盛衰記」)、史実上はフィクションの可能性がすこぶる高いと私は思っている。但し、圧倒的な義仲軍の破竹の勢いで北陸道を京へ攻め入る話柄の中では一つのクライマックスの「演出」ではある(まさにこの第二次世界大戦末期の特攻とは全く以って対照的に、である)。お詳しくない方には、勝田敏夫氏のサイト内の「倶利伽羅合戦」が写真も豊富でお勧めである。

「土蜘蛛(つちぐも)」ウィキの「土蜘蛛」より引く。『本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である』が、大和朝廷に逆らった者たちの常道として、後世では『蜘蛛の妖怪』に零落させられ、『別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」』などと呼んだ。『八束脛はすねが長いという意味』である。『なお、この名で呼ばれる蜘蛛は実在しない。海外の熱帯地方に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛』類の一グループである節足動物門鋏角亜門クモ(蛛形)綱クモ目オオツチグモ科 Theraphosidae の和名の一部は、『これらに因んで和名が付けられている』ものの、『命名は後年近代に入ってからであり、直接的にはやはり無関係である』。『古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ』、『陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている』。『また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ』、『すなわち、穴に籠る様子から付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)』。『土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる』。『大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある。『日本書紀』では、吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている。『古事記』においても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している』。「肥前国風土記」には『景行天皇が志式島』(ししきしま:現在の平戸南部地域)『に行幸した際』、『海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある』。「豊後国風土記」にも『五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。この他、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話もあり、山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、全滅させられたとある。八十(やそ)は大勢の意であり、多くの女性首長層が大和朝廷に反抗して壮絶な最期を遂げたと解釈されている』。『この土蜘蛛八十女の所在を大和側に伝えたのも、地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残ることに成功している(抵抗した者と味方した者に分かれたことを伝えている)』。「日本書紀」の記述でも景行天皇一二年』の冬十月、『景行天皇が碩田国』(おおきたのくに:現在の大分県。「おおいた」はこれが訛ったものとも言われる)『の速見村に到着し、この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が』二人住んでおり、『名は白と青という。また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が』三人いて、『名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら』五人は『強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている』とある(以下、妖怪の記載はここと無縁なので省略する)。但し、ここでは寧ろ、次の「熊襲」や或いは「隼人(はやと)」族を出すべきであるように思われる。ウィキの「隼人」から引く。『隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「隼(はやぶさ)のような人」の形容とも』、『方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも』『あくまで隼人は大和側の呼称)』伝える。『風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある』。『古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが』、『「熊襲」という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている』。『こうした近習の記事や雄略天皇が亡くなり、墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは』六世紀末・七世紀初期・七世紀末とする説がある。部族には薩摩半島一帯(薩摩国設置以前はこの一帯は「アタ」(「阿多」「吾田」と表記)と呼ばれていた)に居んでいた「阿多隼人(薩摩隼人)」、後世の大隅郡(大隅半島北部、特に大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)周辺か)と呼ばれる地域に居住した「大隅隼人」(私は実はこの土地の血を強く受け継いでいる)、種子島と屋久島(多禰島)の「多褹(たね)隼人」。甑島(こしきじま)の「甑隼人」、日向国に住んだ「日向隼人」らがいた。彼らは『服属後もしばしば朝廷に対し』、『反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置』(七一三年)『後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が征隼人将軍大伴旅人によって征討』(七二一年)『された後には完全に服従し』たとする。言語や文化に関は『他の地方と大きく異なっていたとされ、『特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった』(これは天皇の即位式に於いておぞましくも従属の証としてずっと舞わされてきたものであるという説を読んだ。ここは私が特に注した)。『また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している)』。『肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている』。『考古学的には、鹿児島県・宮崎県境周辺に地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある』。『これを含み、考古学上、隼人の墓制は三種類あり、薩摩半島南部の「立石土壙墓」(阿多隼人の墓と推測される)と「地下式板石積石室」(薩摩半島より北域)、そして広域に分布する「地下式横穴墓」となる。また、南山城の男山丘陵の大住からも横穴が多く発見されている(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するものとみられる)』。『日本神話では、海幸彦(火照(ホデリ)命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという』。『説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もある』とある。

「熊襲(くまそ)」前の土蜘蛛や隼人らと同じく、日本の記紀神話に登場するところの、大和朝廷に抵抗したとされる九州南部に本拠地を構えた部族。ウィキの「熊襲」より引く。「古事記」には「熊曾」と表記され、「日本書紀」には「熊襲」、「筑前国風土記」では「球磨囎唹」と表記される。『肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされ』、五世紀頃までには『大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている』。『また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない』。『文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲の文化圏によって生み出されたものではないかと森浩一は考察している』『景行朝の記述として、熊襲は頭』(かしら)『を渠師者(イサオ)と呼び』、二人いて、『その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権は武力では押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した(ヤマトタケルが弟彦(オトヒコ)という武人を美濃国に求めた神話においても、敵を酔わせて殺害する戦法を取っている)』とも伝える。「古事記」の『国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日別(タケヒワケ)」といったとされ』、「古事記」の後の箇所では、『景行天皇の皇子であるヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐譚が記され、日本書紀においては、それに加え、ヤマトタケルに先立つ景行天皇自身の征討伝説が記される。特に前者は、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である』。鹿児島県霧島市隼人町には「熊襲の穴」と伝える洞窟があり、ここは『熊襲の首領である熊襲建、川上梟帥の兄弟が居住にしていたと伝わ』り、『川上梟師が女装したヤマトタケルに誅殺された場所とも伝』えられているとある。

「熊蟬」有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana  facialis

「ここを先途(せんど)と」この瞬間を勝敗や運命を決する大事な分かれ目、瀬戸際と心得て。但し、「先途」にはそこから「行きつく果て」や「最後」の謂いもある。ここには蟬の寿命は勿論のこと、人の命の儚さという伏線もそこに匂わされていることは言うまでもない。

「法師蟬」「ほうしぜみ」。既注のセミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera のこと。

「六尺」約一・八メートル。

「――残酷な、という気がしたんです。何が残酷か。爺さんがそんな事をしなくてはならないのが残酷か。見ていた子供が残酷か。そんな秘密の情景を、私がそっと双眼鏡で見ているということが残酷なのか、よく判らないんです。私は、何だか歯ぎしりしながら見ていたような気がするんです」注意されたい。主人公村上兵曹はこの直前に、その――孫のいる老人の自死未遂の風景――一を語った見張り兵に対する「嫌悪」を心理的にはここで一旦呑み込んでいる留保しているように見える事実である。私は確かに留保していると思う。それは彼の台詞の中に実は村上兵曹の、ひいては梅崎春生自身の感懐であるところの――「そんな秘密の情景を、私がそっと双眼鏡で見ているということが残酷なのか」もしないという感懐が表明されているからである。そうして、その「死」の翳からさらに梅崎特有の不吉な伏線であるところの「そうですかねえ。人間は、人が見ていると死ねないものですかねえ。独りじゃないと、死んで行けないものですかねえ」という見張り兵の台詞を以ってハレーションを起しそうな画面はフェイド・アウトする。]

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