柳田國男 蝸牛考 初版(17) 東北と西南と(Ⅰ)
東北と西南と
從來の方言區域論に於ては、單に日本の中央部に近く、稍著しい一つの堺線のあることばかり注意せられて、それが他の一方の側ではどういふ結末を示して居るかといふことまで、考えて見ないのが普通であつたやうだが、言語の地方的異同が曙染などの如く、漸次に國の片端から浸潤して來たであらうといふ想像には、實は是認し難い幾つかの論理の跳躍があつた。第一にはこの二千年に餘る國内移動の趨向は、いつでも中央部の人多き地域から、四方の邊土へ出て行かうとして居たことを忘れて居る。九州現在の大姓の過半が、いずれもある時代の京人・東人の末であつたことを無視して居る。第二には東北方面の言語の特質を、何によつて解説すべきかの用意が無く時としては未だ確かめられざる異分子の作用を假りて、この變化の原因を究め得るかの如き、國語の統一と相容れざる豫想をさへ抱かしめて居る。九州の隅々には幾つかの古い言葉が、今も殘つて居ることは事實であるが、それが他の一方の端の方にも、殘つて居なかつたといふことは證明せられて居ない。神武天皇の御一行が、後に留めて置かれた言葉だけならばこそ、南九州以外の地には無いといふ道理もあらうが、大倭の御代以來の物言ひであつて、彼地の一端にしか傳はらぬといふものが有らう筈は無いのであつた。要するに是は「古さ」といふ語の不精確に基し、同時に又我々の言語が、次々に分化し增殖したといふ事實を、十分に承認し得なかつた結果に他ならぬと思ふ。
[やぶちゃん注:「曙染」「あけぼのぞめ」と訓ずる。ぼかし染色の一種で朧染(おぼろぞめ)とも呼ばれる。衣装に仕立てた際に曙の空のように紅や紫などで肩から裾に向って次第に色調が淡くなるように染め、最後に裾の部分十~十五センチメートルほどを白く染め残す手法を指す。そのグラデーションのような感じで言語上の異同が漸層的型に嵌めた如くに鮮やかに分かり易く変異することの比喩として頗る批判的に用いている点に注意されたい。]
或は私の問題とする蝸牛といふ一小動物のみが、特にいろいろの新らしい語をさそひ出したゞけで、さういふ異例を以て國語全體の傾向を、測定しようとするのは惡いといふ人があるかも知れぬが、私は單にデンデン蟲の如く多數且つ複雜なる變化を持つもので無いと、滿足に其推移の跡を辿ることが出來ぬから、試みに是を例にとつて北と南との遙かなる一致を説くのであるが、若し必要ならばまだ幾らでも、似たる場合を列擧することが出來のである。方言は必ずしも中央との比較のみによつて、其意義乃至學問上の價値を、決定すべきもので無いことを論證することが出來るのである。但しこの説明は枝路である故に、今は及ぶ限簡略にして置かうと思ふ。是がもし一つの機緣となつて、將來この細長い島の一方に住む人が、進んで他の片端の生活を考へて見ようとする學問が榮へるならば幸ひのことである。最初に此問題に手を著け始めた人は、沖繩の學者宜野灣朝保氏、次には其志を承繼した伊波普猷君の日琉同祖論であつたが、其後この事業は停頓し、且つ是も亦京都以東には及ばなかつた。自分の試みは只其一部の補充である。東北と西南と、言語のよく似て居ることに何人でも氣の付くのは、ツグラ・タマグラ以外に先づざつと次のやうなものがある。
[やぶちゃん注:「宜野灣朝保」琉球王国末期の著名な政治家で歌人で、琉球の五偉人の一人とされる宜湾朝保(ぎわんちょうほ 尚灝(しょうこう)二〇(一八二三)年~尚泰(しょうたい)二九/明治九(一八七六)年)のこと。当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。小禄御殿の支流である向氏宜湾殿内(しょううじぎわんどぅんち:琉球王国の首里の大名)の十二世として首里に生まれた。唐名は向有恆で父の宜野湾(ぎのわん)親方朝昆(唐名は向廷楷)は尚育王時代の三司官(琉球王朝の宰相職)の一人であった。父が亡くなり、朝保は十三歳で家を嗣ぎ、宜野湾間切を領した。当初は「宜野湾」の家名を名乗っていたが、尚泰二八/明治八(一八七五)年に尚泰王次男尚寅(しょういん)が宜野湾間切(まぎり:行政単位集落の単位呼称)を賜り、宜野湾王子と称するようになったことから、「宜野湾」の称を避けて「宜湾」と称するようになった。参照したウィキの「宜湾朝保」によれば、『和漢洋の学問に通じ、英語をよくした。接貢船修甫奉行となり、その後、異国船御用係、学校奉行、系図奉行を経て三司官となった。当時は清、フランス、アメリカ、オランダと通商し、琉球は国事多端の時であったが、献身的に尚泰王を助け、信任を得た。ヤマトに派遣されること』六度、清に派遣されること二度に及んだ。また、『伊江王子の副使となって東京に行き、琉球藩を設け』、『尚泰を藩王とする命を拝したが、帰琉後、強い排斥を受け、隠退した』。『幕末は、鹿児島に使し、歌人の八田知紀に和歌を学び、帰琉して別業を営み、悠然亭と命じ、自分は松風斎と号し、歌を講じた。のち福崎季連と相携え、琉球歌壇の基礎を築いた』。明治五(一八七二)年の東京滞在中には、『吹上離宮の歌会に陪侍し、「水石契久
動きなき御世を心のいはかねにかけてたえせぬ滝の白糸」と詠み、天皇のお褒めを頂いた』という。
「伊波普猷」(いはふゆう 明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)は、沖繩県那覇市出身の民俗学者・言語学者で「沖繩学の父」とも呼ばれる。以下、ウィキの「伊波普猷」より引く。『琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる』。明治三六(一九〇三)年に第三高等学校(京都大学の前身)を卒業後、『東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した』。『帰郷後沖縄県立図書館の館長を務める傍ら、沖縄研究資料の収集に尽力した。歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。弟伊波月城は、沖縄毎日新聞の新聞記者として文明開化のために活動した』。『学問の領域は、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したゆえ、「沖縄学の父」とも称された』。「おもろさうし」(琉球王国第四代尚清王代の嘉靖一〇(一五三一)年から尚豊王代の天啓三(一六二三)年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「うむい(=思ひ)」で元は祭祀に於ける祝詞であったと考えられている)の研究『貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索』、「日琉同祖論」(後注参照)はその探究の一つであった。『しかし、例えば鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』において、伊波の「琉球研究の開拓者としての功績は大いに讃えられて然るべきである」と評する一方、その研究について「文献に偏重し、加うるに結論を出すに急であったために、幾多の論理的飛躍と誤謬とを犯したことも事実である」と指摘している』。『また、伊波の思想の欠点は、近代日本がうみだした沖縄差別への批判が弱かったことで、そのため、沖縄人としての生き方に誇りをみいだすことにおいて、一定の成果をあげたが、結果として天皇制国家に沖縄をくみこむための政策に利用されることになった、という評もある』。『民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。友人の東恩納寛惇は伊波について、浦添城跡の顕彰碑に「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻んだ』とある。
「日琉同祖論」「にちりゆう(りゅう)どうそろん」と読み、日本人と琉球(沖繩)人はその起源に於いて民族的には同一であるとする説のこと。ウィキの「日琉同祖論」より引く。日琉同祖論は歴史的には十六世紀の『京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発し、それが琉球へ伝わり』、十七世紀に琉球王国の尚質王及び尚貞王の摂政を務めた羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が編纂した琉球王国初の正史「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」に影響を与え、『明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された』。『近年の研究では、日琉同祖論の起源となる源為朝琉球渡来伝説は』、十六世紀前半には既に『日本において文献に現れていることが明らかになっている。現在確認されているその初出は、京都五山の臨済宗僧侶・月舟寿桂』(文明二(一四七〇)年~天文二(一五三三)年)の『「鶴翁字銘井序」においてである』。『そこで、月舟は信憑性は分からないがと断りながら、「日本には、源為朝が琉球へ渡って支配者(創業主)となったという伝説がある。そうであるなら、その子孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」という内容を記している』。つまり源為朝来琉説が十六世紀前半には既に『京都五山の僧侶の間である程度流布していた事実が確認できる』。『この源為朝来琉説が、日琉間の禅宗僧侶の交流を通じて琉球へもたらされ、それが後年羽地朝秀が『中山世鑑』を編纂する際に影響を与えた可能性が指摘されている。こうした源為朝来琉説や附庸国説は史実的根拠を欠いた伝説の域を出ないが、しかし、薩摩の琉球侵攻以後に、その支配を正当化するためにこれらの説が創作されたわけではないのは確かである』。羽地朝秀は一六五〇年(尚質三年/慶安三年)、『琉球最初の正史である『中山世鑑』を編纂した。この中で羽地は、琉球最初の王・舜天は源為朝の子であり、琉球は清和源氏の後裔によって開かれたと述べ源為朝来琉説を紹介している。舜天が実在の王か否かについては議論があるが、舜天の名自体は『中山世鑑』より百年以上前の尚真四六(一五二二)年に建てられた「国王頌徳碑」に刻まれている。碑文は、琉球の僧で円覚寺第六代住持・仙岩が撰んだもので、そこには「舜天、英祖、察度三代以後、其の世の主は遷化すと雖も同行を用いず……」とあり、舜天は』十六世紀『初頭には琉球最初の王であると見なされていたことが分かる』。また羽地朝秀は尚貞王の摂政就任後の尚貞五年(一六七三年三月の『仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている』。『なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民は、縄文人を基礎として成立し、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であり、同じ祖先を持つことが明らかになっている』。『高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為』、十世紀から十二世紀頃に『農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘『するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期』(十世紀前後)『に南下して定住したものが主体であると推測されている』。『こうした羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保(三司官)に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、万葉集などの上代日本語と琉球方言を比較して、両者に共通点があると説いた』。『日本における日琉同祖論は、室町時代の京都五山の僧侶以降では、江戸時代に新井白石がその著』「南島誌」(享保四(一七一九)年)の「総序」において、中国の幻想的地誌「山海経」に見える「北倭」「南倭」の「南倭」とは沖繩のこと『であると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している』。また、江戸中期の有職故実研究家であった藤貞幹(とう
ていかん)は神代上代の研究書である「衝口発(しょうこうはつ)」の中で、『神武天皇は沖縄の「恵平也(いへや)島」(伊平屋島)に生誕しそこから東征したと述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、クマヤー洞窟)という洞窟があり、地元では天孫降臨説があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。本居宣長はこの説に激怒』、天明五(一七八五)年に成稿した著作「鉗狂人(けんきょうじん)」を以って『これに徹底的に論駁している』とある。]
[やぶちゃん注:以下の段落冒頭の標題(柱)である「アケズ」「ウロコ」「クラ」「ミザ」「ムゾイ、ムゾカ」「タンペ」「アクト」「サカズラ」「トゼンナ」「ネバシ・ナラシ」という文字の太字は底本のママであって、これは傍点ではないので注意されたい。]
アケヅ 上代のアキツムシ、即ち蜻蛉のことである。沖繩の諸島と種子島と東北六縣とのみに此語の通つて居るのが見出され、中央部はすべてトンボ又はドンブ等、九州にはへンボ・エンブ等あつて、各地非常なる音變化を以て、東京などのヤンマに續いて居る。奧羽も北の一隅だけにダブリ・ダンブリといふ語が交へ用ゐられ、それが又鹿兒島縣下のボウリといふ語と接近して居る。ボウリも恐らくはツブリの變化であつた。トンボの音は後には確かに「飛ぶ」といふ語と聯想せられて居るが、最初はダンブリ又は是と近い音であつたことは證據がある。芝居や小兒の遊戲でする飜筋斗、東京ではトンボガヘリといふ行爲を、上方ではドンブリカヘリといひ又サカドンブリとも謂つて居る。即ち古音が複合の形にのみ保存せられて居る例である。能の狂言のドブカッチリには丼礑の漢字を宛てゝあるが、井の字の中に點のある字を、今は普通にドンブリの語に用ゐて居る。集韻には丼、都感の切、物を井中に投ぐる聲とあり、靈異記の訓釋には「井投彼釜」の井の字に、ツハトと訓を附してあるが、「大和物語」には「ツブリと落ち入りぬ」とあり、宇治拾遺にも「ツブリと打かへりぬ」と用ゐて居るから(以上「俚言集覽」による)[やぶちゃん注:上記( )は底本ではポイント落ちで右寄り記載。]、トンボのダンブリも元はあの蟲の珍らしい擧動によつた名であつて、多分は童詞などの力によつて、弘く行はれたものであらう。ヘンボ・エンバがそれから出たか否かは別問題として、兎に角に此音の面白さが、次第にアキツを不用にして、國の外側へ押遣つたことだけは爭はれない。
[やぶちゃん注:「能の狂言のドブカッチリ」能狂言「丼礑(どぶかつちり(どぶかつちり))」は柳瀬祐樹氏のサイト「日本語であそぼ」の「丼礑」を参照されたい。但し、時代的限界性から視覚障碍者に対するかなりあからさまな差別的展開であるので注意されたい(当初、梗概をオリジナルに書いたが、あまりの内容にリンクに代えることとした)。渡渉をしようとする視覚障碍者の座頭が浅瀬に石を投げてそれが川底の石に直ぐ当たる擬音が「礑(かっちり)」(当該字の音は「タウ(トウ)」で、意味は「はた」「はたと」)、深ければ「丼(どぶ)」ということで後者はここでは「ど~んぶり!」のオノマトペイアの当て字のようには見える。但し、以下の「井投彼釜」の注を参照されたい。
「集韻」宋代の一〇三九年に丁度らによって書かれた勅撰の韻書。
「都感の切」反切(はんせつ)による音の表現。「都」の中国音「dū」「dōu」或いは日本語の音の「tu」の「d」或いは「t」と、「感」の「kán」或いは「kan」の「an」を接合して「dan」「tan」(ダン・タン)といった形で示すこと。「丼」の「ドン」と近似して聴こえはする。
「靈異記」「日本霊異(りょうい)記」。
「井投彼釜」同書下巻の「用寺物復將寫大般若建願以現得善惡報緣第廿三」(寺の物を用ゐ、また大般若を寫さむと願を建て、以つて現(げん)に善惡の報ひを得る緣第二十三)の一節にある。「井(つば)と釜の彼(か)の釜に投(い)るれば」と読み(蘇生した主人公が語る、あの世で熱湯の釜に投げ入れられるシーンである)、これは擬音語の「ざんぶと」「ざぶんと」に相当する読みと思われる。
『「大和物語」には「ツブリと落ち入りぬ」とあり』第百四十七段の「生田川」の一節。二人の男に言い寄られた女が、結局、切羽詰って生田川に身を投げるという「生田川伝説」のシーンで、「つぶりと落ち入りぬ」とある。一見、オノマトペイアに読めるのであるが、小学館の「日本古典文学全集」の高橋正治氏の頭注によれば、これは一般に擬声語と言われるものの、『粒・つぶり(頭)・つぶら、などの「つぶ」で、物のまるく完全なようすを表わすので、体がすっかり水の中に見えなくなるのをいうのであろう。「づぶり」ではない』とある。まさに目から鱗ならぬ、「つぶら」な目から蝸牛である(下線はやぶちゃん)。
「宇治拾遺」「宇治拾遺物語」。
『「ツブリと打かへりぬ」と用ゐて居る』私の持つ「宇治拾遺物語」ではこの文字列では出ないが、「つぶり」は第百三十三の「空入水したる僧事」に「つぶりとも入らで」とは出る。私の持つものとは違う伝本に拠るか。発見し次第、追加する。
「俚言集覽」「りげんししゆう(しゅう)らん」は十九世紀前期に成立した国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られている。全二十六巻。江戸後期の国文学者石川雅望の現わした「雅言集覧」に対して口語や方言を主として扱っており諺も挙げている。]
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