奇妙な旅行 梅崎春生
奇妙な旅行 梅崎春生
[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年十二月号『小説公園』に掲載されたが、単行本には所収されなかった。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻に拠った。
当時、梅崎春生三十八歳、作歌として精力的に活動する一方、年譜では看過出来ない抑鬱傾向が発現していることが記されてある(但し、金剛出版昭和五〇(一九七五)年刊の春原千秋・梶谷哲男共著「パトグラフィ叢書 別巻 昭和の作家」の「梅崎春生」(梶谷哲男氏担当)の病跡学記載にはこの年の特異変調は記されていない)。
冒頭、「もう四年も前のことだ」と始まる。従って読者のロケーションは昭和二四(一九四九)年十一月には確実に戻る。敗戦から四年目の冬の初頭である(この時制は極めて重要である)。
また、主人公の「僕」、「島村」は敗戦時、兵士としてフィリピンにおり、同地で米軍の捕虜となって生き延びたことが明らかにされるが、春生の実兄で哲学者・作家であった梅崎光生(大正元(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)は東京文理科大学哲学科卒で、二度応召され、フィリピンのルソン島を転戦、敗戦時には米軍の捕虜となり、昭和二一(一九四六)年六月にフィリピンの俘虜収容所から復員帰国している。ここはその実兄の経験を利用している(ご存じの通り、暗号科下士官(海軍二等兵曹)であった春生自身は外地体験や実戦経験はない)。但し、島村は梢に問われて復員を「二十二年の春」と答えている。
以下、例によって若い読者及びマニアックな方向けに簡単にオリジナルな注を附しておく。なるべくネタバレにならぬように記してはある。先にお読み戴いても、それほど問題はないと思う。
・「O県」「O駅」「P郡のQ駅」不詳。「O駅」(県名と恐らくは県庁所在地駅名が同一)まで、当時の列車で東京駅から丸一日かかり、そこから支線が出ている。市や村ではない「郡」で支線の駅名は「O」でも「P」でもない「Q」という標高が高い山間の小さな駅。しかし当時は駅員がいた。駅員の言葉から「強い地方訛」のある地域であることが判る。公開後に教え子の鉄道好きに候補地を捜して貰おうか、とは思っている。
・本文で最初に「三好」なる登場人物の語る中の「清吾の弟」というのは、正確には「清吾の義弟」(これでルビを「おとうと」と振ればよい)とあるべきところである。
・「役所」という言葉で、主人公島村が公務員であることが判るが、戦前・戦中のことであるが、春生は東京帝国大学卒業後(昭和一五(一九四〇)年三月)は東京市教育局教育研究所に勤務しており、昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊するものの、肺疾患のために即日帰郷となり、以後療養するも、同研究所に暫くいた(その後、徴用を逃れようと昭和十九年の三月には東京芝浦電気通信工業支社に転職しているが、三ヶ月後の同年六月に応召されて佐世保相ノ浦海兵団入りした)。
・「郷里の親爺の病気」因みに、梅崎春生の実父建吉郎(元陸軍歩兵中佐)は戦前の昭和一三(一九三八)年二月に享年五十八で死去している(底本全集別巻の年譜によれば、脳溢血で永く病床にあったが、死因は床ずれから起った敗血症であった)。
・「歩廊」「ホーム」と当て読みしておく。
・「里古(ふ)りて柿の木持たぬ家もなし」山本健吉「芭蕉全発句」によれば、これは松尾芭蕉没年の元禄七(一九六四)年八月七日に郷里伊賀の芭蕉の妹婿であった井筒屋新蔵望翠邸の夜会の歌仙の折りに創られた句である。この二ヶ月後の十月十二日に芭蕉は没している(享年五十一)。
・「その気持は君にも判るだろう」と突然、主人公島村から、我々が同意を求められるのである。読者に島村自身が直接語っているかのような擬似臨場感を与える、なかなかうまい手法である。
・「僕は学生の頃文学が好きで、校友会雑誌にも一二度小説を発表したこともある」既に私のブログで公開したように、春生自身が熊本第五高等学校時代の校友会雑誌である『龍南』に投稿したものは、総て詩(散文詩を含む)である。そこで明らかにしたが、一度、小説を掲載しようとしたことがあったが土壇場に中止しており、現在、その草稿は知られていない。
・「半町」約二百十八メートル。
・「タケノコ生活」筍生活とは、生活のため、筍の皮が身から一枚一枚剝げるさまに擬え、手持ちの家財道具や衣料品などを、必要に迫られるとその都度、売っては生活費に充てる暮らし向きを指す表現。戦中の物資統制とインフレ、敗戦後の品不足から、衣類と食糧の物々交換が闇物資取引の主流であったことから、諷刺的に産み出された言葉である。筍が竹に成長する意は含まれず、生きるために衣類を脱いで売って遂には裸になってしまうイメージである。
・「田舎らしいごわごわした布団だったけれど、真新しい品だった」これは梢の再婚用の新枕用とは考えられまいか?
・「三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ」前書に「ある日夜にかけて俳句箱の底を叩きて」とある、正岡子規の明治三〇(一八九七)年秋の句。喀血から二年後、死の五年前。「三千」は私は実数にというよりも三千世界(仏教用語で「三千大千世界」の略。「一世界」とは須弥山(しゅみせん)を中心として九山八海(くせんはっかい)・四洲(四天下)及び日・月などを合したものであり、その「一世界」一千個分が「小千世界」、「中千世界」が「小千世界」一千個分、その「中千世界」一千個分「大千世界」となるので、我々の時空間である「一世界」の十億個分を指す)を掛けていると読む(そういう解釈を写生第一主義の子規は嫌ったとしても、である)。
さて。私が本作を敢えて梅崎春生の処女習作とも言うべき陰惨な習作「地図」(以上はブログ版。PDF縦書版はこちら)と同日に公開するのか?
判る方には解かって戴けるように思われる。
多くを語るのはやめよう。
この作品では思いの外に「死」は概ね隠蔽されている(敢えて言えば三好の義父の病死の事実が示されるだけである)。――にも拘らず――そこには「生」の生き生きとした「活力」などは微塵もない。――それはまるで作中の煙草の煙の如く、濃厚な霧の底へと沈んでゆくばかりの、みじめな生き物の「生」でしかない。――しかしそこに一つ、何か驚くべき生々しさをもって甘ったるいべとべととした粘液質の誘惑に我々を引き込む鮮やかなものが確かに「一つ」ある――エロティックな匂いをも燻らせながら――それこそが――たかが/されどの「生」=「性」の「ザイン(Sein:存在)」なのである――と私は思うのである……]
奇妙な旅行
もう四年も前のことだ。
僕がその男に初めて出会ったのは、その四年前の十一月の、ある霧の深い夜だった。その時僕はすこし酔っていた。新宿の西口にある、ちょっとあなぐらのような感じの、行きつけの小さな安酒場の中でだ。入口からも窓からも、霧がしっとりとしのび入り、室内燈をぼうとうるませていた。そのせいで酒場の中は、ふだんよりは薄暗かったのだ。
男は僕の前に腰かけていた。壁にくっついた小さなすみっこの卓だ。僕は焼酎を飲んでいたが、その男はビールだった。左頰に大きな傷のある顔で、ビールをゆっくり、奥歯でかみしめるふうにかたむけていた。もちろん僕は一人だったし、その男にも連れはなかった。だから、というわけでもないが、やはり酔いが廻てくると、話し相手が欲しくなってくるものだ。僕らはいつか、どちらからともなく、ほそぼそと話を交し始めたように思う。どんなきっかけから会話が始まったか、今はもう思い出せない。なにしろ四年前のことだから、一々そんなことまでは覚えていない。
その男は僕よりも、四つ五つ年長のようだった。身体つきも大きく、人なつこい眼を持っているが、左頰に傷があるので、ふとしたはずみや光線の具合などで、妙に陰欝な、また兇悪な風貌にも見えた。しかしそれもその瞬間だけで、また元の人なつこい印象にもどる。僕はこの男を、画描きか何かそんな職業に従事しているのではないかと、ちょっと思ったりした。別段画描き的な服装をしてるのではなく、ふつうの背広を着ているのだが、何となくそんな気がしたのだ。ふとした身のこなしからだとか、あるいは絵の具のにおいのようなものから、僕は漠然とそんなことを感じたのかも知れない。
三杯目のコップをお代りする頃だったかな、その男がぽつんと僕に言ったのだ。
「君は戦争に行ったことあるかい」
「行ったよ」
と僕は答えた。すると男は、ちらと上目使いで僕を見て、ハッキリと断定するような声で言ったのだ。
「外地だね。ヒリッピンだろう」
僕はおどろいて顔を上げた。男はビールをふくみながら、じつと僕を見返している。傷のない方の頰に、なにか笑いの翳(かげ)のようなものが、ぼんやり浮んでいるのを僕は見た。
「よく判るもんだね」
少し経(た)って僕はそう答えた。まさしく図星だったからだ。召集でひっぱられ、戦争末期から敗戦、そして俘虜(ふりょ)生活まで、僕はヒリッピンにいたのだ。しかしそのことが、どうしてこの男に判るのだろう。
「そう。ヒリッピンだけど、よくそんなことまで判るんだね」
「判るというわけじゃないんだがね」
と男は低い声で答えた。そして壁面の方へ視線を外らしながら、
「この前、四五日前だったかな、君はやはりここで飲んでいただろう。その時連れの男と、君はヒリッピンの話をしてたじゃないか」
「ふん」
僕は頭を忙しく働かせた。たしかに四五日前、僕は同僚とここに飲みに来た。この男のことは気がつかなかったが、そう言えば兵隊時代の思い出話を同僚にしたような気もする。しかし男のその言い方は、あまり面白い感じではなかった。
「聞いてたのかい?」と僕は訊(たず)ねた。
「聞いてたんじゃない」
と男は小さく声を立ててわらった。
「聞いてたんじゃなく、聞えてきたのさ」
そしてなだめるような口調で、
「俺もヒリッピンに行ってたんだよ。あそこで君と同じような、いや君なんかと比較にならないほどの苦労をして来たんだ」
比較にならないって、どうしてそんなことが判るんだと言い返そうとして、僕はそっと口をつぐんだ。男の頰の傷が僕を圧倒したし、また言い返すより男の話を黙って聞いた方が、面白そうにも思われたからだ。
しかしその男もそれきり口をつぐんで、遠くを見る目付で黙ってしまった。そこで僕がうながすように、
「苦労って、どんな苦労だね」
「いや」
男は我に帰ったように、大きく肩を動かした。そして消えた煙草に火を近づけながら、
「やけにしめっぽくて、煙草が不味(まず)いな。すぐに消えやがる」
「霧のせいだよ」
「霧のせいか」
男は煙をはき出して、扉口の方をふり返った。煙草の煙は、はき出された形のまま、しずかにひろがり、そして床の方に沈んで行くようだった。
「そう言えば暗いな。どこか席をかえるか」
そして男は顔をまっすぐに僕に向け、いどむような声で言った。
「実は君にひとつ依頼したいことがあるんだがね。頼まれてみるかい?」
「依頼だって?」
と僕はおどろいて反問した。
「そう、依頼だ。でも、それに応じようが断ろうが、もちろんそれは君の勝手だが」
「どんな話だね。トクにならない話なら断るよ」
男は咽喉(のど)を鳴らしてかすかに笑った。そして言った。
「ちょっと旅行をして貰いたいんだ。旅費はもちろん、日当も充分に出す。兇(わる)い仕事じゃない。むしろラクな仕事だ」
僕は窓の外の霧を見ていた。また相当に酔ってもいたのだ。何だか変な気味よくない話だけれど、一応話だけは聞いてみようか。その僕に、男は再び声を重ねて、しずかに立ち上った。
「席をかえよう。そこで話をする」
以上の通り、出会いはかなり奇妙な状況だったのだ。そうなったのは、酔いのさせる気まぐれだったかも知れないし、また妖(あや)しく深い霧のせいだったとも言えるだろう。僕はその男のあとについて、(酒場の勘定は男がむりに僕の分まで支払った)ふらふらと霧の巷(ちまた)に泳ぎ出た。戸外はさすがにひやりとつめたかった。
男が僕を連れて行ったのは、客のいない、がらんとした茶房みたいなところだった。先に立って歩いた男の動作から見れば、ここは男の行きつけの茶房ではなく、行き当りばったり、お客のいない店をねらって案内したような恰好(かっこう)だった。席につくと、男はぐるりとあたりを見廻して、早口に言った。
「あ、酒はないのか」
「お酒はございません」
鉢植えの傍に立っていた女がつめたく答えた。貧相な感じの女だし、また店内の造作もチャチで、流行(はや)らない店の相だと一目で受け取れた。霧はしんしんとこの店にも流れ入って来た。
そこで僕らは結局プレーンソーダを注文することにした。そしてそのソーダ水を飲み終るまで、男は何も口をきかなかったし、僕も黙りこくって、不自然じゃない程度に男の方を観察していた。この男は悪者ではないらしいが、どこか奇妙なところがある。それに面白くないところもある。すなわち僕にとってはこの男は初対面だが、先方は四五日前から僕のことを見ていて、ヒリッピン帰りだというようなことも承知している。僕のことをどの程度知ってるのか判らないが、一体何を頼もうというのだろう。ほとんど見ず知らずの人間に、何ごとを依頼しようとするのか。そして僕はついに、僕の方から口を切った。
「旅行って、どこに行くんだね?」
男は顔を上げた。ソーダで酔いが醒(さ)めかかったのか、すこし顔が青ざめ、不機嫌な表情にもとれた。僕は重ねて言葉をついだ。
「僕にだってやれる仕事かい?」
「やれるだろう」
そっけなくその言葉はひびいた。
「旅行って、どこだね?」
僕は同じ質問をくり返した。男は肱(ひじ)を卓につき、掌で顔を支え、しばらく視線を宙に浮かせているようだった。そしてそのままの姿勢で、低いつぶやくような声で言った。
「O県だ。O市から乗りかえて、その支線の山奥だ」
「O県?」
僕はその未見の山奥を、酔った頭のすみにちらと想像してみた。
「そして、そこに行って――」
「その山村の三好(みよし)という家に訪ねて行って貰いたいんだ」
男は掌から顔をゆるゆると離して、いくらか沈欝な眼付で僕を見返した。
「そこに行って、そこの家族の様子や、まあそんなことを調べて来て欲しいのだ」
「すこし面倒な仕事らしいな」
と僕は首をかたむけた。
「そんなら僕じゃなくてもいいだろう。つまり、あんたにとって見ず知らずの僕ではなくても――」
「いや、見ず知らずの方が、俺には好都合なんだ。よく知ってる奴には、頼みたくない」
「何故?」
男は返事はしなかった。ただ妙な笑いを頰にはしらせただけだった。
「もすこし系統立って、話して呉れないかね」と僕はすこしして言った。「適当な仕事だったら、引受けてもいいよ」
男はややうつむいて、左手を頰にあてていた。指が頰の傷をいたわるようにまさぐっている。気まぐれを起したのを後悔してるんじゃないか。ふっとそんなことを僕は思った。男はしずかに顔を上げた。
「つまりその三好家に行く。君はその三好家の長男、三好清吾(せいご)という男と戦友だったというふれ込みだ」
「戦友?」
「そうだ。ヒリッピンの部隊で一緒だったんだ。三好清吾はヒリッピンで死んでしまったのだ。公報もすでに入ってる筈だ」
「それで?」
男の説明の仕方は、さっきまでと違って、突然感情を殺した事務的なやり方になってきた。そのやり方はかえってその依頼のカラクリを僕に悟らせるようなものだった。
「その三好清吾の最後の模様を、家族に報告して貰う。最後の状況は、君が捏造(ねつぞう)して呉れてもいいし、君に捏造の才能がなければ、僕が指示してもいい」
「そうだな」
僕は目を閉じた。瞼の裡(うち)に、あのヒリッピンの青暗い密林の風物や、そこらで虫のように死んで行った戦友のすがたが、ありありと浮び上ってくるようだった。それは僕にとっては苦しく、厭な記憶だった。僕は頭をふり、記憶をふり払うようにして、眼を開いた。
「そこで僕をえらんだというわけだな。ヒリッピン帰りというところで」
「まあそういうことだね」
「それならそれでもいい。それで、三好家の家族の構成は?」
「清吾の義父と義母がいる。いる筈だ。でも、もう死んだということも考えられる。行って見なくちゃ判らない」
「じゃその清吾ってのは、養子か!」
男はかすかにうなずいた。
「だから、当然、清吾の女房もいる。梢(こずえ)という名だ。それに清吾の弟。これはもう二十前後になるかな。家族はそれだけだ」
男の言葉はちょっと苦渋の色を帯びた。そして沈黙が来た。
僕はしばらく、指でストローをもてあそんだり、貧相な女給仕の方を眺めたり、無意味に鼻を鳴らしたりしながら、あれこれと考えをめぐらしていた。ハッキリと割り切れているようでもあるし、またどこかにあやふやな気もする。身に負えぬ大役みたいにも感じられるが、またすらすらと行きそうな気もする。やがて僕は口を開いた。その僕の声は我ながら厭なひびきを含んだ。
「日当は、いくらだね?」
「いくら要る?」
男はそう反問した。
「五百円でどうだね?」
僕はもうその時、行ってもいいと考えていたのだ。酔いが僕のその踏切りをたすけていた。役所の方には五日ばかりの休暇をとれほいい。それほど忙しい部課ではないから、五日ぐらい休んだって、大した支障はないのだ。男はうなずいて、僕の提案に同意を示した。僕はたしかめるように復唱した。
「じゃ僕は、あんたの指示によって、三好家を訪問する。そして先ずあなたの最後の模様を、あなたの遺家族に説明し、あなたの死を確認させる。先ずそういうことだね」
男の頰がビクリと痙攣(けいれん)した。それは痙攣しただけで、そのまま表情にはならなかった。
「そして遺家族の状況を調査し、帰京の上あんたに報告する。仕事というのはそれだけだね」
「そうだ」男はうめくように答えた。「その他訊(たず)ねることがあるかね?」
「いや、ない」僕は手をふった。「他のいろんなことを知ったら、おそらく仕事の邪魔になるだろう。まあたとえばだね、この僕が、好奇心とか同情心とか、そんなものを持ったとすれば――」
「ああ、それはまずい」
と男は言下にさえぎった。
「そうだろう」僕は言った。「それにしても、見ず知らずの僕をよく信用出来るもんだね。感心するよ」
男は、いや、もう三好と書いていいかも知れない。三好は僕の顔を見た。強い視線で僕を見詰めながら、
「君は、もしかすると、俺をだますかも知れない。それならばそれでもいい。しかし、俺を裏切ったりはしないだろうな。それだけはハッキリ誓言して呉れ」
「裏切らない」
僕は片手をあげて誓った。すこし芝居気がかった仕種(しぐさ)だったけれども、
「君を裏切ったって、僕のトクにはならないから」
男はポケットに手を入れた。そして何枚かの紙幣を摑(つか)み出した。パラパラと数えて、僕の方に差出した。
「旅費と、一泊の宿賃ぐらい、これでまかなえるだろう。足りなかったら、今度会った時、日当と一緒に払う。いいね」
「今度はどこで会おうか」
「そうだな」男は横眼で僕の表情を監視するようにしながら、「今日から五日目の夜七時、さっきの酒場で待っている。それだけの日時があればO県まで往復出来るだろう」
僕はうなずいた。ついにひとつの役目がこれで僕においかぶさった。いざおいかぶされて見ると、それは妙に重い感じがした。
翌朝眼が覚めて、僕はやほり少からぬ後悔を感じた。酔って気持が高揚している時は、そんな突飛な依頼を承諾する気にもなったが、気持が平常に戻れば、どうも気分的に重苦しい。なにか正しくないことの片棒かついでいるような気がする。それにしても、あの三好という男は、どういう所存なのだろう。僕に宿賃旅費を現実に渡したぐらいだから、シャレや冗談ではないことは確実だ。僕の方にしても、金を受取ったからには、そのまま知らぬ顔をしている訳(わけ)には行かない。他人の金を横領するのは厭だ。とにかく出かける外(ほか)はなかろう。
そして僕はしぶしぶ起き上って、身仕度をととのえた。二日酔いの気味もあって、頭も重かった。役所には速達を出して、郷里の親爺の病気という名目で五日間の休暇をとることにして、東京駅についたのは、もう正午をはるかに過ぎていた。しかしいざ駅に着いて見ると、あわただしげな旅客たちの動きや拡声器の声、そんなものが僕の旅情をしきりにそそり立てた。やはり旅立ちというものは、どんな旅でも、なかなか愉(たの)しいものだなあ。僕は身にかぶさった負担も忘れ、いそいそと汽車の時間をしらべたり、乗換時間の具合をしらべたりした。そして汽車に乗込んだ。持物は、身の廻り品を入れた小さなスーツケースだけ。幸い汽車はそれほど混んでいなくて、なごやかな旅の情をゆっくり味わうことが出来た。私用の旅に出ることなんて、僕にとって敗戦以来始めてのことだった。
で、O駅に着いたのが翌朝。下車してそこらをちょっと散歩し、朝食などをしたためて、支線のマッチ箱みたいな汽車に乗る。行先はP郡のQ駅。汽車はのろい速度で、あるいは渓流に沿い、あるいはトンネルに入り、あえぎあえぎ走った。まあ本線に乗っている間は、どうにか旅人らしくくつろげたが、いよいよ支線に入ると、刻一刻Q駅に近づく実感があって、それが僕の気分を重苦しくさせて来る。なにしろ正々堂々の旅でなく、ある意味では人だましの片棒かつぎの旅なんだから、あまり愉しい仕事ではない。でもこうなった以上は仕方がない。自分をつっぱなして、出来るだけ非情に、出来るだけ事務的に事を運ぶ以外にはないだろう。僕は窓外を去来する山々の紅葉を眺めながら、しきりにそんなことを考え続けていた。とにかく三好清吾、また三好一家に対して、僕は僅かな予備知識しか与えられていないのだから、事務的に、また臨機応変にやるより手はないのだ。
Q駅は山間の小さな駅だった。標高も高いらしく、駅に降り立つと冷気が襟(えり)にしみこむようだった。ここに下車したのは、僕一人だった。歩廊に鶏が二三匹、コココと遊んでいるような、そんな侘しい駅だった。改札の駅員に三好家を聞いたら、強い地方訛(なまり)で、すぐに教えてくれた。Q駅からずっと山あいにかけてQ村が始まるのだ。
僕は教えられた通り、Q村に入って行った。柿の木の多い村で、あちこちに赤い実を点じている。白い土蔵やわらぶきの屋根に、その実はひなびた美しさをそえている。僕は歩きながら、『里古(ふ)りて柿の木持たぬ家もなし』という芭蕉の句を思い出していた。まったくこの句がピッタリくるような、そんな感じの村だったのだ。
道は爪先上がりにのぼり、そして低い石垣に囲まれた古ぼけた家が、三好家だった。旧家らしく、かなり大きい。そしてその庭にも、柿の大木が立っていて、枝もたわわに紅い実を下げていた。そのどっしりした母屋の玄関に立ち、案内を乞うのは、覚悟はしていたものの、相当の気持の抵抗があった。ひところ、お宅のだれそれと戦友だったと称して金品を貰ったり御馳走になったりする、そんなサギ漢が横行したことがあったが、僕の場合も、当人から依頼されたとはいえ、それに近いおもむきがあるではないか。
やがて奥から、二十七八の女人が出て来た。三好梢さんであることは、一目で判った。三好清吾が話して呉れた風貌と、ぴったり一致したからだ。色の白い、清楚(せいそ)な感じのひとだった。
玄関に佇立し、私は三好清吾君とヒリッピンで戦友だった、と自己紹介する時、僕はいくらか後ろめたく、言葉もしどろもどろになったのも当然だろう。梢さんを見た瞬間に、僕はこんな奇妙な、そして邪悪な役目につよい嫌悪を感じていたのだ。その気持は君にも判るだろう。
そして母屋の奥の、イロリのある部屋に通されて、僕はやむなく三好清吾戦死の模様を物語ることになったのだ。
清吾の部隊構成とか移動の模様は、あの夜彼からいろいろ説明を聞いて置いた。それによると、清吾の部隊は全滅と言っていい有様で、清吾だけは負傷しながら奇蹟的に俘虜(ふりょ)となり、俘虜生活は変名で通し、そしてやっと帰国出来たのだという。では帰国して何故まっすぐ村に戻らなかったのか、という僕の質問に対しては、
「それは君の関知するところじゃない」
という返事をむくいただけだった。そう言われてみれば、それは僕の関知するところではないから、僕は口をつぐんでしまったのだけれども。
イロリのそばで、清吾戦死の有様をしきりに聞きたがったのは、梢さんではなくて、むしろ母親の方だった。梢さんはほとんど無口で、眼を大きく見開いて、僕をじっと見詰めているばかりだった。僕は母親の質問よりは、梢さんのその視線の方が苦しかった。母親はもう五十四五にもなるかしら、髪も半白の上品な婆さんだが、その眼にはきつい光がある。梢さんの眼もそんなきつさがあって、これが三好一族の特徴だとも思われた。僕はそして三好清吾を出来るだけ苦痛がなく、安らかに死なせる義務があった。だから僕は、清らかなヒリッピンの渓谷のほとりで彼を死なしめた。苦痛なく、ほとんど安楽死の状態で。そしてその死体は、僕が磧(かわら)に埋めたことにした。僕は学生の頃文学が好きで、校友会雑誌にも一二度小説を発表したこともある位だから、割に捏造(ねつぞう)の才には富んでいる方なのだ。しかもヒリッピンの風物はよく知っているから、そこらはうまくごまかせたものと思う。出来るだけ事務的に、そして簡単に切り上げようと思ったのだが、いろいろと母親が質問して来るので、自然と細密なことまで捏造せざるを得なかったわけだが。
そしてそんなことをしているうちに、山あいのことだから日が落ちるのも早く、まだ午後四時頃だというのに、戸外はひたひたと黄昏(たそが)れかけて来るようだった。
「息をひき取る時、何か申しまして?」
僕がすべてを語り終えた時、梢さんがハッキリした声で僕に問いかけて来た。実を言うと、僕が一番おそれていたことは、清吾の死を語ることによって、お婆さんや梢さんが泣き出しはしないか、ということだった。もし泣き出されたりしたら、僕は直接僕のウソの責任を感じざるを得ないだろう。そうすれば気の弱い僕のことだから、つい情に負けて真実をぺらぺらとしゃべり、三好清吾を裏切るようなことになるかも知れないのだ。辛うじて僕をその裏切りから守って呉れたものは、真実を語ることがすべての幸福になるかどうか、そんな根拠も確信もないことだった。深い予備知識を持たなかったのが幸いということになる。
で、梢さんのその質問に対しては、僕はただ首を振った。梢さんの眼は、白っぽく乾いていて、涙のあとすらなかった。僕はその瞳からそっと視線を外(そ)らしていた。
――夕暮、汽車通学をしているという梢さんの弟が、庭を廻って戻ってきた。そして田舎の青年らしい朴訥(ぼくとつ)なやり方で、ていねいに僕にあいさつをした。
それからその弟の案内で、僕は三好清吾の墓参りに出かけて行った。清吾の墓は、半町ほどもはなれた其の山かげにあった。仮墓標らしく白木の柱だが、その地点からは黄昏れかけたQ村の全景が見渡せた。その風景は淋しく美しかった。
「義兄(にい)さんはここが好きで――」
弟は途中で摘(つ)んだ草花を墓前にさしながら言った。
「暇があれはいつもここに来て、絵を描いたり、本を読んだりしてたんです」
「戦死の公報が入ったのは何時(いつ)?」
と僕は訊(たず)ねて見た。
「終戦の翌年でしたかしら」
「皆さん、お嘆きだっただろうね」
「ええ」弟はあいまいにうなずいて、ふいに視線を僕から外らせるようにした。「でも、もう皆、ほとんど諦(あきら)めていましたから」
その弟の言い方は、なにか朴訥でないもの、その背後に複雑なものを、僕に感じさせた。しかし僕はそれ以上、そのことを質問することをはばかった。僕はただ日当貰ったメッセソジャーに過ぎない。そういう家庭の事情は僕の関知するところではないのだ。
僕は墓の前にぬかずき、一分間ほど眼をつむっていた。もちろん三好清吾の冥福(めいふく)を祈っていたわけではない。今夜の方針を、つまり今夜はここに泊るか、夜汽車で発(た)って東京に戻るか、そんなことを色々考えていたわけだ。しかし、もしこの僕が本当に三好清吾の戦友で、しかもはるばる東京から訪ねて来たとすれば、やはり一泊して行くのが自然だろう。匇々(そうそう)に立ち去ると、かえって疑惑をまねくことにもなるだろう。もちろん三好一家も、僕が泊って行くことを予定している風だったから。
墓からの戻り、だらだら坂を下りながら、僕と弟と交した会話。
「お姉さんは、それからずっとひとり?」
「ええ。でも来年の春、再婚することになってるんです」
「相手は?」
「相手はもうずっと前から決っているんです」
「それはいいことだね。地下の清吾君の霊も、むしろ喜んで呉れるだろう。遅きに過ぎたようなものだね」
「ええ。もっと早い筈だったけれど、どうも姉さんの気持が進まなくて――」
「なぜ?」
「なぜだか僕も――。義兄さんがまだ死んでる筈はない、そんなことを言い出したりして――」
僕は黙った。弟は独りごとのように、
「ミコを呼んで来て、義兄さんの生死を占わせたりしたんだけど」
「それでミコは何と占ったの?」
すると今度は弟の方が黙った。下の母屋の方から、迎えに出た梢さんらしいひとの提灯(ちょうちん)が、ゆるゆると登ってくる。
キノコと河魚と山芋、そんな田趣ゆたかな夕餉(ゆうげ)を御馳走になった。イロリを囲んだ家族待遇の食事だ。キノコ汁はうまかった。それににおいの強い地酒。旅疲れがしているから、ちょうし二本か三本で僕はかんたんに酔ってしまった。
僕は話題を出来るだけ清吾のことを避け、東京のこととか映画のこととか、そんなことばかりに話を持って行った。酔ってまで清吾の話をするのは辛かったし、うっかりしてつじつまのあわぬことをしゃべったら、それこそ大変だったからだ。で、清吾のことに話が行きそうになると、逆に僕は三好家のことやこの村のことを質問したりして努力した。三好家も敗戦の年父親が病死して以来、あまりうまく行かない様子で、弟が一人だち出来るまでは、やはり山を売ったりして、タケノコ生活をつづけている風だった。お婆さんは嘆くように言った。
「爺さんも病気で死んだし、清吾も帰って来ないし、しばらくは人手がなくて、大変でございましたよ」
この夕餉の間も、梢さんはほとんど口をきかなかった。もともと無口なたちかとも思えたが、あるいはそれが僕に対する不信、すなわち僕のインチキ性を見破っての態度ではないかと、一応疑えば疑えた。で、僕の方も、強いて梢さんに話しかけるのは避けた。
夕餉が終ったのは、九時頃だった。酒が入ったので、割に暇がかかったのだ。飲んだのは僕だけでなく、お婆さんも僕と等量に飲んだし、梢さんもチョコに二三杯、弟もコップに一杯飲みほした。ここらの地方は寒気のため女子供も飲む、そんな習慣があるのだろうか。
その時梢さんが僕にむかって訊ねた。
「島村さん(僕の名)は何時(いつ)復員なさったの」
「二十二年の春ですよ」
「清吾があなたに、無事に帰れたら、是非一度家の方に連絡して呉れって、そう言ったということでしたね」
そして梢さんの眼は、探るような色を帯びて、僕にまっすぐ突きささった。
「なぜ復員したら直ぐ来て下さらなかったの?」
「そ、それは――」と僕はどもった。「すぐお伺いしたいとは思ったんですが、いろいろととりまぎれて――」
「梢」と婆さんがたしなめた。「そりゃ島村さんの方にも御都合がおありだったろうから、そんなこと言ったって――」
ちょっと白けた沈黙が来た。僕はわざと酔いしれたように眼をしばしばさせた。実際眠くもあったのだ。
「さあ、そろそろお眠いようですよ」
と婆さんが言った。それをきっかけに僕は立ち上った。
弟に案内された僕の寝室は、離れみたいな六畳間だった。田舎らしいごわごわした布団だったけれど、真新しい品だった。枕もとには水差しとコップ、それに皿の上に大きな柿が一つ載っかっていた。柿は酒の酔いを醒ますというが、まさかその目的でなく、庭先のを御馳走のつもりでもいで呉れたのだろう。その赤い皮肌はつややかに光り、ゆたかに盛り上り、見るからに僕の食慾をそそった。僕は布団の上にあぐらをかき、ナイフをとって皮を剝き始めた。『三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ』という子規(しき)の句があるが、僕の心境もいくらかそれに似ていたと言ってもいい。子規の句のような高尚な仕事ではなく、インチキな仕事のあとだが、とにかくやっと一つの役目を果たしたという安堵(あんど)感が、その柿の重さにこめられている感じだった。
そしてその柿は、実際歯にしみわたるような冷たさと旨(うま)さとを持っていた。僕はこんな旨い柿をそれまでに食べたことはない。環境のせいもあって、それは形容を絶した味だったのだ。僕はタネとへタ以外は全部、ほとんど柿の鬼と化してむさぼりにむさぼり食べた。
タオルで口を拭って、そのまま横になって眼を閉じ、それから五分も経ったかと思う。うとうと眠りに入りかけた僕の耳に、かすかな跫音(あしおと)が聞えて来た。この部屋に通じる廊下の方でだ。そして次の瞬間唐紙がそっと引きあけられた。
「島村さん、島村さん」
ささやくようなその声は梢さんのだった。僕はぎゅっと身体を固くして、贋(にせ)のいびきを立てていた。ここで眼を覚ますとまずいことになる。本能的な直覚が僕にその擬態(ぎたい)をとらせたのだ。
「島村さん。もうおやすみなの?」
低いけれどもそれはなじるような響きもこもっていた。僕はもちろん返事しないで、いびきの音をわざと高めた。ここで眼を覚ませば、日当仕事としてうまく行ってたのが、梢さんとの対決によってすべてがひっくりかえり、それによって何人かの人間の運命が変るかも知れない。その畏れが僕の胸をぎゅっと押しつけていた。僕自身の一挙一動によって何人かの運命が変る。そんな重さには僕は到底耐えられそうにもなかった。時間が早く過ぎますように。僕は心中深くそう祈念しながら、布団の中で身体を固くしていた。
梢さんは枕もとに立って、じっとその僕を見下しているらしい気配だった。時間が泡立って停止した。そして身じろぐ気配があって、梢さんはそのまま畳を踏んで部屋を出て行くらしかった。唐紙がしめられ、そして跫音はしのびやかに廊下を遠ざかって行った。
僕はほっとして眼をひらいた。汗が脇の下につめたかった。
翌朝はいい天気だった。
僕は井戸端で、手の切れるようなつめたい水で顔を洗った。ここらは水質もいいらしく、口に含むと何とも言えない甘さがある。
イロリはたで、昨夕と同じく、家族ともども食事を済ませた。弟は身仕度して、僕にていねいなあいさつをして、学校に出かけて行った。そして僕も身仕度をした。十時の汽車で東京へ戻るつもりだったから。
身仕度して、まだ時間がすこしあったから、僕は庭に出た。梢さんも庭に降りて来た。僕は柿の木の下に佇(た)ち、たわわな実のさまを見上げた。梢さんも同じく僕のそばに佇った。
「昨夜の柿はおいしかった」
僕は何となく梢さんに話しかけた。
「あんなおいしい柿は、もう二度と食べられないような気がしますよ」
「お土産にさし上げましょうか」
と梢さんが言った。そしてしみじみした口調で、
「清吾が出征する時も、そんなことを言いましたわ。でも、その時はまだ実が青くて、あと一箇月ぐらいしないと食べられなかった。九月の半ば頃だったものですから」
「清吾君もヒリッピンで、特にこの柿の味を思い出したでしょうね」
梢さんは黙っていた。その横顔は陶器のようにかたく、つめたかった。そして突然身体ごと僕の方に向き直った。
「あたし、今でも、まだ清吾が生きているような気がするんです」
その語調がすこし烈しかったので僕はたじろいだ。梢さんの瞳がまっすぐ僕につき刺さってきた。
「世界のどこかに、きっと生きている」
僕は黙って佇(た)っていた。頭の中が燃えるようだった。その瞬間僕の脳裡(のうり)にある考えがはしり抜けた。あの三好清吾が、見ず知らずの僕を使者にえらんだのも、賭けをしたかったのじゃないか。つまり彼は僕の性格を知らないわけなのだから、この僕が真実をしゃべらないという保証や確信は彼にはないわけだ。ウソを押し通すならそれでもよし、本当をぶちまけるならまたそれでもよし、そういう自分の運命を未知の僕に託したのではないか。それならば思い切って、裏実をぶちまけた方がいいのではないか。その考えはひとつの衝動のように僕の胸を灼いて奔(はし)り抜けた。
しかしその瞬間、梢さんの緊張した表情がかすかにくずれ、そしてそのまま下にうつむいた。
「でも、貴方のお話で、やっと諦めることが出来そうですわ」
梢さんが顔を伏せたのは、涙をかくすためらしかった。梢さんは小指で眼のあたりをはらった。
「さあ、柿をもぎましょう」
梢さんはくるりと僕に背を向けて、小走りに納屋の方に走って行った。
――三十分後、僕はスーツケースと共に、柿をいっぱい詰めた籠を持って、Q駅の歩廊に立っていた。三輌連結の小さな汽車が、やがてトンネルからあらわれ、歩廊の前に停止した。僕はそれに乗り込んだ。
汽笛が鳴り、汽車が動き出した時、歩廊で梢さんが手をふりながら何か叫んだようだった。僕も窓から首を出し、見えなくなるまで帽子を振り続けた。もうこの里にも、再びは来ることはないだろう。その思いが僕の胸を灼いた。
約束の日の午後七時過ぎ、僕はあの酒場を訪れた。手には籠をぶら下げていた。梢さんから貰った柿の半分をつめた小さな籠だ。
この前と同じ卓に、三好清吾は沈欝な表情で腰掛けていた。少し待ったらしく、ビール瓶が卓上に二本並んでいる。顔を上げてじろりと僕を見ただけであった。
そしてこの僕も、不機嫌な顔をしていたのだろうと思う。
僕らは黙って卓をはさんで対坐した。三好は僕にビールをさした。僕はそれを飲み乾した。三好が押しつけるような声で言った。
「行って来て呉れたかい?」
僕は返事の代りに、柿の籠を彼の前に差出した。三好の表情がぎゅつと凝縮したようだった。手が伸びて、籠をおし開いた。
「ああ」と三好はうめくような声を出した。
「柿だね。Q村の」
「出征する時、も一度この柿を食べたいなんて、そんなこと言ったんだってね」
それに対して三好は返事をせず、柿の一つを掌の上に載せ、しみじみとその重さをはかっている風だった。少し経って口を開いた。
「梢は元気かね?」
「元気なようだった」自からそっけない調子となった。
「来年の春、あのひとは再婚するらしい」
「そうか」
それから僕は簡単に、依頼の使命を果たしたこと、三好の家族の近況について説明した。三好はほとんど無表情で僕の話を聞いていた。自からなる無表情ではなく、やはり感情を殺していたのだろうと思う。
そして柿の籠を彼に渡し、それで僕はそっけなく別れを告げた。前に預った金で、大体日当も出そうだったから、そのことには全然ふれなかった。三好もそのつもりだったのだろう。
それ以来、僕は三好と会わない。そして四年経(た)つ。三好が今どうしているのか、もちろん僕は全然知らない。だから僕が果たした奇妙な役割の結果についても、僕はまったく関知しないというわけだ。
でも、僕は時々あの柿の味を思い出す。奇妙な、そしてあまり後味のよくないあの旅行の思い出の中で、それだけが唯一の甘美なものとして、強く僕の印象に残っているのだ。