梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (21)
戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。二、三年経って、彼にまとまった金を借りに来た。
「何に使うんだね?」
「家を建てたいんだ」
「まだあの人といっしょかね?」
「あの人って?」
「紫の袴をはいていた女さ」
「ああ」
小城はちょっと顔をあからめた。
「あれは今、ぼくの女房だ」
小城が家を建てるために、なぜおれが金を貸さねばならぬのかと、彼はいぶかった。
「金のことなら、お断りするよ」
五郎は言った。
「そんな金はない」
「そうかね」
小城は別にがっかりした風でもなかった。少壮学者らしく、顔は青白く、額にぶら下る髪を時々かき上げて、むしろ軒昂(けんこう)たる風情(ふぜい)もあった。
私大の教授もしていたし、どこからか金はつくったのだろう。建前の日に招待された。そこで小城の妻の顔を見た。紫の袴を見てから、二十年も経つ。へんてつもない中年の女で、五郎にはもう興味がなかった。それよりも建前の行事、夕暮の空に立つ柱や梁(はり)、その下で汲合う冷酒やかんたんな肴(さかな)、大工の話などの方が面白かった。この日以後、彼は小城と顔を合わせたことがない。
それから数年後、小城はある若い女が好きになった。ある進歩的な出版社から発行される雑誌の編集部につとめる女だ。その女といっしょになるために、小城は妻を捨てた。その話を彼は三田村から聞いた。
「そういう男なんだ。あいつは!」
三田村ははき捨てるように言った。
「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。エゴイストだね」
五郎は何となく、向日葵(ひまわり)の方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、炎(も)えている感じは、もうなくなっていた。
「何が何でも!」
終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた。
[やぶちゃん注:「軒昂」奮い立って勢いがある様子。畳語。「軒」は「挙」と同義で「高く上がる」「高く上げる」の意。「昂」はもと「日が昇る」で、そこから「上へ上へ高く上がっていく」「感情や意気が激しく昂(たか)ぶる」、昂奮するという意味が生まれた。
『五郎は何となく、向日葵(ひまわり)の方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、炎(も)えている感じは、もうなくなっていた。/「何が何でも!」/終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた』形容の「生」=「性」のアナグラムと言い、映像と台詞の覚悟のマッチング、「終末的な力みだけで、枝が花を支えている」の表現が、普通の向日葵を異様な肉質のものにメタモルフォーゼさせてゆく。]
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