地図 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年六月の創刊号『寄港地』に発表された梅崎春生の最初の本格小説である。同誌は霜多正次ら十名で創刊した同人誌であったが、二号で廃刊した。当時、春生は東京帝国大学文学部国文科一年、既に二十一歳であった(中学浪人及び熊本第五高等学校二年次落第のため)。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第二巻を用いた。
文脈での語彙の選び方や、展開のリズムにやや生硬さが見られるが、最早、既にして「梅崎春生」である。既にしてすこぶる映像的である。特に……白壁のシークエンスの前後……そして――誰一人、その題名の「地図」がどんな役割をするか、絶対に想起出来ないという心憎さを持った――衝撃の、コーダ……
本篇は私が「桜島」や「幻化」に感じたところの、惨めな生き物としての人間の「死」=「生」=「性」の生理が余すところなく描かれているということに私は驚愕する。これを読むと、その小説家としての梅崎春生の出発点に於いて既に彼は、人間存在の持つ――たかが/されどの惨めにして確かなあからさまの真理の戦慄――を生々しく痛烈に読者に突きつけていたのだということに改めて気づくことになる、と私は信ずるものである。どこだって? 庄造少年がちゃんと解き明かしてるじゃないか!――「自分には判りそうにもない人間の奇怪なからくり」と!……
老婆心乍ら、高校教師時代の悲しい性(さが)で、幾つかの語には注をしておきたい。
・「閲歴中」は「既経験の内に於いて」の謂い。
・「色敵」は「いろがたき」と読む。
・「燎爛」は、通常は「繚乱」「撩乱」と書いて、入り乱れること、或いは特に花が咲き乱れること、そこから、主に美麗なものの数多ある換喩として「百花繚乱」などと使うが、この漢字表記も別にあり、ここは寧ろ、絶え間なく燃える篝火(かがりび)或いは焼け広がって焼き尽くす火の意を孕む「燎」、そこから連想されるところのものの焼け爛(ただ)れるの意の「爛」であって、春生のここでの確信犯の表記選択とも採れる。
・「擾乱」は乱れ騒ぐこと・乱すことであるが、ここは庄造の意識印象や感覚上の中での内的なそれである。
・「隠亡」は「隠坊」「御坊」等とも書き、「おんぼ」とも読む。死者の火葬・埋葬時の実務を執り行って墓所を守ることを業とした人々を指す。江戸時代に明確な賤民身分扱いとされて差別され、明治までそれは続いた。
・「傲然と」偉そうに人を見下すさまを指す。ここの形容としてすこぶる映像的で素晴らしい。
・「放恣」勝手気ままで乱れていること。一家の内に潜む「ある」血を美事に表象する単語である。
・「本陣」ここは「内陣」とあるべきところであろう。所謂、寺社の本尊・神体を安置する最も奥の内殿部である。
・「いんいんと」風であるから「殷殷」「隠隠」(孰れも「音の轟くさま」の形容)であろうが、心象的には薄暗く寂しいさまを意味する「陰陰」も効かせてあるように思われる。
・「ぐじぐじ」副詞。言葉が明瞭でないさま。ぶつぶつ。
・「南国」梅崎春生は福岡出身で、前期通り、熊本五高にいた。台詞に現われる方言はどちらにも採れる。敢えて「南国」と言い、山間部となれば、ロケーションとしては後者の印象か。
・「奔騰」激しい勢いで吹き上がること。
・「集って」「たかって」。寄って集って。
・「おさめる」修める。学業として修得する。]
地 図
それでも女は三日間ほど生きていた。
南に窓を展(ひら)いたあかるい部屋に祖母にみとられながら空虚な瞳を天井に投げていた。でも時折からだを物憂(う)げに動かして祖母に痛みをほそぼそと訴えた。老婆はその度毎に幾分狼狽の色を見せながら、二言三言意味をなさない慰めの言葉を口走り、顔をあからめて女をまじまじと眺め、何やら微かに口の中で呟(つぶや)いたりした。老婆は羞恥を感じていたのである。つねづね老婆に水晶のように冷たい表情を見せた女がこの場合弱々しい感情を見せることは、老婆にとって淋しいことであった。が、羞しいことでもあった。しかし女は老婆のそういう表情を読み取ると、瞳をゆっくりと天井に戻し、蠟のように青白い顔の皮膚を動かしもしなかった。不平を言う気配もなく、運命をうらむ様子も無いようであった。老婆は布団をなおしてやりながら恥しい程手がふるえた。女は鎖の様にまつわりつく老婆の愛情をうるさいものに思っていたのである。そして老婆に話しかけたことを後悔して、氷のように感情をこわばらせた。
その前日、女はひとりで山に花を採りにゆき、そこで数名の男等に辱かしめを受けたのである。女はそれだけ言うと鉛のように黙り込み、あとはどんなに聞きただしても口を開こうとしなかった。ずいぶん烈しい出血であった。老婆は介抱しながら身の置き所もない様子であった。居たたまらない程の屈辱と憤怒を感じていたのである。がその前に、女の弱味を見せまいとする虚勢が、やるせないほど老婆をいらだたせた。それ故老婆は意味の無い言葉のきれはしを女に聞えないように呟いては気持をごまかそうとした。女は処女であった。十八歳の春の五月であった。
「此の子ばかりはまっとうな生き方をして呉れると思ったに」
老婆はうるんだ眼で濁った家系の事を思っていたのだ。女の父親は花作りであった。老婆は閲歴(えつれき)中いくにんかの男と交渉はもったが、子供は此の花作り一人であった。花作りは自分を私生児に産んだ老婆をうらむ様子もなく実直に花を栽培していたが、女関係にだらしなく、昨年色敵に肺を刺され、二箇月ばかりの後死んだ。逞(たくま)しい肉体を持った男であった。花作りがあぶらの乗った力こぶにさんさんと日光を浴びながら働いている様子がまざまざと老婆の眼底にあった。母親はお人好しであった。が夫の眼を盗んでちょいちょい男と関係する様子であった。老婆はそれらを猫のように鋭い眼で知りぬいていた。しかし何とも言わなかった。悪いこととは思っていなかったのだ。只楽しさだけが老婆にとって真実であったのである。
母親は女の弟の庄造を産んだ時、昆虫のようにたよりなく死んだ。女が七歳のときであった。女は幼くして母を嫌っていた。何故だかは知らない。自分と相似の肉体と混濁の血液を持った母親を女は本能的に憎悪した。初潮以来女は、女に生れた悲しみと、そしてうけついだ淫蕩の血液を知った。我が身の汚濁を感じた。そしてますます母親を憎み、その事で老婆としばしば口汚なく争った。
「お前のおっかあじゃ無(ね)えけ。命日なりともおとなしくつつしんどれ」
ああうるさい。やめとくれ。と女はわめき立て、ことさらに荒々しく振舞い、記憶の底の母親を侮辱した。踏んでも飽き足りない気持であった。しかしその頃から女は老婆に垣を造って冷たく黙殺する術を学んでいた。いや、老婆だけにではない。父親にも弟の庄造にも女は何時も冷たい横顔を見せ始めた。父親は娘にいつもにやにや笑いかけながら、娘の肉体の成長を見守っていた。女は汚れたものをその視線に感じ、食事最中にでもぷいと立ち上り庭に下りて行った。父親はにやにやと笑いながらその後姿を見送り老婆をかえりみて、あいつもいい娘になったの! と嘆息したりした。老婆はその言葉をはかりかねて、女の後姿を憂わしげに見やった。老婆には女の態度が不可解であったのである。庄造も姉から冷たく遇せられ、取りつく島もないたわけた表情で姉を見つめていた。庄造は無口であったが時々白痴のようなふるまいをし、口を開けばびっくりするような卑しい冗談を言った。そういう時女は雌虎のように物すごく怒り、はげしく庄造を折檻(せっかん)した。老婆は常に女の味方となり庄造をしかりつけたが、そういう妥協の時にすら女との距離をはっきりと感じていたのである。
女は三日目の薄暮に死んだ。
老婆はかたくなであった孫娘の白い屍体を丹念に浄めてやりながら、泪(なみだ)があとからあとからと流れ落ちた。年老いた体を今からさき娘によって生活して行こうという気持は毛頭無かったけれども、そうでもしなければ生活して行けないのであった。老婆を悲しませるのは只我が身のたよりなさだけではなく、あの日輪のように華麗であった家系の没落なのだ。老婆は愚痴では無く、そうした没落をしんじつ悲しんだ。今その血をつぐものは庄造ひとりではないか。老婆は、ひとりひとりが胸を張り力強く青春に生きて来た家系を、その華やかなる淫蕩の歴史を反芻(はんすう)しながら、女の髪をくしけずっていた。庄造は横にすわり、白く眼を据えて、姉の屍体の最後の化粧に蛇のような視線を放っていた。ああ、厭な眼だと老婆は憤った。
「なんじゃいその眼は!」
庄造はあわてて視線を老婆にうつすと、はにかんだように卑しく嗤(わら)った。自分を今まで威圧して来た姉が今は冷たい屍体になっていることが妙に面白く思われたのだ。が、それより庄造の好奇をそそるのは、あんなに冷たい姉の厳然たる態度が山の中でどんなにもろくくずされたか、女としてのあらゆる弱味にその男達はどんなに冷酷に乗じたか、そういう痴想が小学五年生の庄造の脳をじんとしびれさす程快よかったのだ。老婆は砂を嚙んだような物狂おしい恥辱を感じた。
「あっちいってろ。このわろめ!」
その部屋の前に展がる廃園は、花作りが死んでから手も入れないが、去年のこぼれ種は五月の空の下に燎爛(りょうらん)と花開いた。花揺する微風の中で、蜂と蝶は花粉にまみれて飛び廻り、季節が重々しく地をゆすった。女の屍体は花の匂いが移り、夜は微光を放った。
その廃園の尽きるところは、国道を限る白い壁であった。学校に往き帰りの幼い花盗賊に業をにやした花作りが、胸を刺される少し前に築いたものであるが、幾分時代がそれをむしばみ、長い割目に蜂が巣をつくった。庄造はその壁にうずくまり、陽光を避けて手をかざしているのだが、ああ、花々がわめき立てるその豊かな擾乱(じょうらん)の中で、ある不逞(ふてい)の想像にふけっていた。今夕しめやかな葬列が国道に沿うて寺につづくであろうが、ああ、それは姉さんの葬式だなと胸ふくらむ愉しさであった。生活。姉の中にいる異邦人。つねづね庄造が姉におどおどとしりごんだのも、時には姉をからかって犬のように打たれたのも、また打たれたかったのも、此の異邦人のせいだ。貝のように固い殻をはぎ、ぶよぶよしたやわらかいほんとの身体をいためつけたい欲望。なぜ愉しいのだろう。姉さんの葬式がどうしてたのしいのだろうとふと庄造は思ってみた。姉さんがいなくなる。土の下に入り、もう出て来ない。明日から口やかましい老婆と二人きりの生活。が庄造は刺激がほしかったのだ。今の、現在の、この時だけの、多彩な、目くるめく、身の毛もよだつ、その刺激――白い姉の屍体を木の箱に入れ、鬚の生えた隠亡(おんぼう)がそれをかつぎ、和尚が荘重な顔をして経を誦す。じつは山の中のことを空想していたのだ。たくましい日にやけた男達の肉体と、姉の弱々しい憤怒に蒼ざめた肢体。そして五月の陽の下、華麗なる空間の営みと。庄造はふと兇暴な発作に襲われた。雲が無い青空を鳶(とび)が一匹輪をかいてめぐっていた。花の香が激しかった。庄造は立ち上り、手に泥をなすりつけ、無茶苦茶に白い壁をぬりたくり始めた。白い壁を汚す快感。良質の土であった。花作りがみずから選び、山から運んで来た泥土――白い壁にねばりよくくっつき、縞(しま)を作り、野蛮な模様をかたどった。これだったんだな、こうしたかったのだな、と庄造は心の中で合点合点し、なおもはげしく土をふりまき、姉への讃歌をぶちまけた。讃歌なのだ。侮辱ではない。姉だけ、ああ、あの姉だけがなし得た強烈な戯画への讃美だ。庄造は姉のゆたかな乳房を知っている。梨の花のように白く、指でつつくと傲然(ごうぜん)と揺れた。青葉のかげでは青くそまり、太陽の下では光をはじき、光を滑り落し、ぴちぴちと氾濫した。その放恣(ほうし)さ。それがうらやましかったのだ。姉に卑しい冗談を言ってわざと怒らせたのもその羨望のあらわれなのだ。母親は、と庄造は思った。母親はどんな人だったろう。しかし庄造は、それについては時計の針のように正確に知りぬいていた。一人で知らぬ振りをしているだけだ。が、庄造はそれに気がつかない。男に自分を産んだ母親の子宮をのろった。倒錯した快感が常に庄造にいどむのだ。自分には判りそうにもない人間の奇怪なからくりだけが生き甲斐であった。庄造は学校の成績は悪かった。作文だけがうまかった。時々紫の袴(はかま)をはいた女の先生が、皆の前で庄造の作文を激賞し、読み上げた。庄造はただにやにやとわらいながら先生の袴のふくらみばかり見ていた。実を言えば嬉しかったのだ。作文など、題を出されると、それについて書くことが際限なく出て来た。それを書けばいい。それを書けない級友どもを軽蔑しながら、もうこの早熟な子供は、生命の激しさ、豊かさを、身をもって体得した。庄造は毎日毎日を、胸を張り、呼吸をあえがせて生活をしていたのだ。奇怪なものを、激烈なものを、豊饒(ほうじょう)なものを、人生のあらゆるものを、たとえば姉の双の乳房のように単純なものに還元して、それを凝視するすべを、庄造は蛇の敏感さで知っていたのだ。
庄造はそっと裏口から台所に忍びこみ、音を立てないように手を洗った。激しい亢奮のあとで指が魚のようにふるえた。あの壁を老婆が見たら怒るにちがい無い。そうした意識が漠然と二人切りの生活を暗示して、わびしかった。やるせない淋しさであった。
夕暮、葬列が出た。
近所のひとたちが数人と老婆と庄造であった。みよりのものとて近くにはない此の一家であった。寺は銀杏(いちょう)が多かった。風が吹いた。庄造は老婆に話しかけなかった。むしょうにたかぶってくる自らの心を、むしろこっそりと愉しんでいたのである。老僧のゆるやかな読経がすすけた本堂の柱を縫って流れ、葬送者は侘しい眼を黒く輝く本陣にむけては涙勝ちにうつむいた。黄昏(たそがれ)、むれ立つ樹々に風はいんいんと鳴り、寺前の銀杏は豊かな葉々をふるわす。老婆は細い指をにぎりしめて、孫娘とのつながりが今断絶する儀式に烈しくおえつした。無意識のうちに老婆は孫娘にも淫蕩の美しさを教えたかったのだ。処女ではない。しかし暴力で奪われたのだ。老婆は淫蕩の家系を身をもって認容して、孫娘を殺戮(さつりく)した男達に憎悪を山脈の様に盛り上げた。
庄造は老婆の後にすわり、声をひそめていつまでもぐじぐじと笑いつづけた。姉の華麗な暴行の光景と、此の荘重な儀礼の様子との対照が、彼には此の上無く滑稽に思われたのだ。が、今となれば姉の肉体を葬ることが庄造には此の上もなく残念なことに思えるのである。高価なものを泥土になげうつ気持であった。庄造は生れて一度だけ、あなたは姉さんに似ていると言われたことがあった。身体がほてった。憎しみともうれしさとも言えない気持をその男に感じ、その男がびっくりするほどはにかんだ。そういう思い出が甘くよみがえった。庄造はそっと膝をずらし、手を入れ、あの姉の肉体と同じ血液がふつふつと流れている肢を、股のあたりのすべすべした皮膚をなでさすり、心ゆくまでたのしんだ。まったく貴重なものに手を触れる感じであったのだ。
南国の村は季節の推移がゆるやかで、ひとびとは刺激少い日々に慣れ、何か変ったことを好んだ。噂が既に拡がっていた。不覚にも庄造はそれを計算に入れていなかった。不覚であった。
「お前の姉さんは山の中で何ばしたとか」
「山の中でせつのうめそめそないたのじゃろ」
小学校は丘の上にあった。運動場のまわりにポプラが高高とその枝を伸ばし、古ぼけた校舎の根から陽炎が幕のようにはげしかった。その運動場の片すみであった。同級の、上級の、いたずらな根性の悪い子供らが、たちの悪い冗談を弄して庄造を弄(なぶ)り始めた。庄造はかっとなった。全部が敵に見えたのである。虚をつかれた思い。血が顔にじんと上った。庄造は矢庭(やにわ)に手近にいた一人の背高い同級の男に飛びかかると足がらみをかけて押し倒し、ほこりにまみれて二人ともごろごろと転がり始めた。格闘であった。その小学校の風習として、見物人は素早くその囲りに輪をつくり、がやがやと罵(ののし)りさわぎながらどよめいた。誰も手出しもしなければとめもしなかった。皆たのしんでいたのだ。着物の裾がまくれ、白い脛が、もっと奥の方まで見えたと思うと、又はげしく体がうごき、脚がからみ合い、頰や頭をこぶしで打つ鈍い音が聞えた。背高い少年は、いわばぐるりの観衆の意志を一身に荷(にな)っていると感じているらしく、非常にはでな動作で庄造をたたきつけようとかかるのだが、意外にはげしい庄造の体力にたじたじとなり、やがてあせり始めた。庄造は、たたかいながら、周囲の無数の目に悪魔のような侮辱の色を見た。かっと頭が割れるほど血が奔騰(ほんとう)した。殺してやる。歯の根も合わぬほどのあらゆる残虐な考えが瞬間庄造の頭を一杯にした。
その時、観衆の一角がくずれ、庄造の視野の一部がほかっと明るくなった。が、その瞬間庄造の体はぐるりと背高い少年の下じきとなった。しかし庄造は、紫色の袴をはいた女先生が来たことを素早く見て取ったのだ。下敷にされているのを見られるのは屈辱であった。庄造は満身の力ではねかえそうとした。女先生は来てみたものの、あまり猛烈な格闘なのでためらいながら手を出しかねている様子であった。その事が庄造をかっとさせた。女先生までが自分の屈辱の光景を平然と見物に来たのか。姉をさげすむ気持でさげすんでいるのに違いない。叛逆の血が庄造を兇暴にさせた。庄造は、相手のこぶしを巧みに左右に外しながら、はずみをつけてはね返し、馬乗りになり満身の憎悪をこめて相手の顔面を乱打した。血潮がぱっと散った。おびただしい鼻血であった。背高い少年は始めの間こそ足をばたばたさせて反抗したが、血を見るとにわかに両手で頭をかかえはっきりと敗北の意志を表示した。
その絶望の表情が、かえって庄造の残虐をかり立てたのだ。庄造は立ち上ると足を上げてその少年の横腹を蹴飛ばし、おろおろと戸まどっていた女先生の方に向きなおると、獣じみた兇暴さで女先生に飛びついて行った。女先生はその不意の襲撃によろめき、不覚にも横ざまにたおれた。庄造の意志をはかりかねたのだ。当惑したような表情と、教師としての威厳を失うまいとする心構えが入り組んだ顔であった。その顔に庄造は一握りの砂をかっとたたきつけた。女先生ははっと顔を両手でおおった。その女らしさ。不逞の復讐の行動。庄造はその紫の袴に手をかけると力まかせに引っぱった。裾が乱れ、白い蠟のような両脚が膝頭あたりまで見えた。女の弱みをさらけ出してやるんだ。姉が味わったその恥辱感がどんなに苦しいものであったか思い知らしてやるのだ。べりべりと音立てて袴が裂けた。女先生は必死に両手で袴をおさえた。蒼ざめた顔であった。美しい憤怒の表情であった。周囲にいるこどもたちも皆青ざめた。このように平和な小学校には恐しいことであった。
「何をするのです。あなたは」
するどい、しかしふるえた高い声で女先生はさけび、庄造の顔をにらんだ。瞳の中で蒼白い火が燃えているような烈しい気組みだ。その瞬間庄造は、心の一角でずるずるとくずれ落ちるものを感じた。押しつめられたものの最後の吐息なのだ。持ちこたえることが出来なかった。庄造はがくっと膝を折ると、もう何もかも判らないような気持で女先生の柔かな身体に顔を埋めるとはげしくすすり泣いた。
その夕暮になってもまだ庄造は学校にいた。裁縫室の片隅に守宮(やもり)のようにひそんでいたのだ。職員室で叱責された。女先生が不利な証言をしたのである。恥かしさのまっただなかをつき通す言葉がいくつも出た。庄造は貝殻のように黙りこみ、復讐の気配を針のように鋭くさせた。教師たちは集って庄造の淫蕩の血を罵ったのだ。此んな弟だから姉もあんな死に様をしたのだ、というような無残な言葉もあった。じつは其の時から死ぬ事を考えていたのだ。相手を殺して自分も死ぬ。相手を犬ころのように殺戮して、ゆうゆうと自分も美しく死ぬ。しかし誰が相手であろう。庄倉は裁縫室でうずくまり、女先生の匂いを思い出した。あの先生が憎いのではない。敵は居ない、という意識が彼の気持を淋しくさせた。此の部屋には女の匂いがする。日毎、少女たちが世のなりわいをおさめるところ。庄造はすでに地図を教室から持って来ていた。死ぬ前のひとときが退屈だったのだ。海をかぎり、海岸線を描いて陸地があえいでいる。その地図を拡げて、ああ、今居る所がこのあたり、夏にもなれば季節風が吹き、夕立が来る南国の此の所。庄造は小刀を出した。地図を細く切り始めた。むすび合せて縊死(いし)するつもりである。すでに職員室に於て計画したことなのだ。巻地図を裂き、くびれ死ぬ。もっとも美しい行為で死にたい。そういう願望をわざと胸に起伏させ、教師の叱責を外らしていたのだ。
古ぼけた裁縫室の風物でった。大きな梁(はり)が時代の下にほこりを集めていた。じつを言えば鬼面人を驚かす死に方も考えてはみたのだ。しかし此の死に方が一等庄造の気に入った。裁縫台をつみ上げて細かく裂かれた地図を引っかけた。
今となっては姉が恋しかった。不思議な気持であった。姉との距離が此の様な場合にちぢめられたことは庄造にもっとはげしい愛慕の念を高まらせた。純粋な肉親の愛情。いや、此の様な愛情を生れた時から持っていたような気がした。真実なのだ。昔から姉を愛していたのだ。今だからこそはっきりわかる。庄造の頰がぬれ始めた。ぬれて軟かくひかった。
夕日が校舎の屋根から少し残り、おだやかな風が吹いた。梁には地図の紐(ひも)が死んだ蛇のようにだらりとぶら下り、床には切り裂かれた地図がみにくく横たわっていた。地図の故郷の所を首にあてて息絶えるその物珍しい感覚をふと思ってみた。その蛇のような紐で――。
屍体は翌日発見され、花作りの家に、戸板に乗せ布をかけて運ばれた。老婆は何を考えたのであろう。しばらく空虚な目で屍体を見つめ身動きもしなかった。老婆にはもう太陽とか花園とかが色あせて見えた。姉を失い、そして弟を失った老婆は胸に大きな空洞があいた気がしたのだ。言葉が出なかった。老婆は屍体を運んで来た学校の教師や校長たちをぼんやりした目で見廻すと、突然庄造の屍体に顔を埋めるとびっくりする程はげしくすすり泣いた。涙が冷たい庄造の皮膚を通して雨のように流れ落ちて行った。