梅崎春生 詩 「死床」 (初出形復元版)
……マジ……梅崎春生テクスト化の……「鬼」の世界に……私は入った気がしてきた……
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死 床
文二甲二 梅崎春生
海綿の樣に落魄に濕つた病床に
私は茫漠と橫たはつて居る
窓の外に蟋蟀が鳴きむせぶ夜である
露をとらへた秋草を踏み分けて
近づいて來る跫音を私は聞く
窓には不安に戰く障子がある
一枚の紙をおす夜の重壓
東洋風な幻想の恐怖に
流木の如く押し流される私の意識
私は更に强い恐怖を感じる
私はグングンと上昇する體溫計の水銀を感じる
私はヌルヌルと分泌する皮膚面の殘滓を感じる
そして鬱積した闇黑を破つて
近づいて來る跫音を私は聞く
人つ子一人居ない此の病室に
私は紙のやうにふるへて居る
心に巢くふ死の恐怖と生の執着とに
何だか月が山に隱れる豫感がする
蟋蟀の聲も細つて來た樣だ
私は高熱に浮かされながら
山の端に沈む月光の最後の一條の
執着に狂奔する光景を幻想する
近づいて來る跫音を私は聞く
私は鈍くなつた脈搏を數へる
私は衰へ果てた四肢を撫でる
私は思ひ出に滿ちた生涯の影像を
頭の中にしつかり刻みつけて置かうと
淋しい悲しい努力に悶へる
益々近づいて來る跫音
終に窓一樣に擴がる影 影 影
外面一ぱい荒れ狂ふ嵐の幻覺
鼠色の壁からしみ出る妖性の幻視
私は渾身の力で蒲團にしがみつく
遂に遂に窓を押し開いて躍り込む影――
私の意識の中で壁土がボロボロと散り落ちる
ぐらぐらとゆらめく此の病室の陰慘な風景よ
蒲團の上に跨つて私の咽喉を扼するもの
ああ慘々たる恐怖の中に
私の意識は墜ちる墜ちる――
果てし無き虛無の中に彈丸の如く墜落する
[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年七月二日第五高等学校龍南会発行『龍南』二二五号に所載された初出形。同号の詩篇の部巻頭で、次回に電子化する梅崎春生の詩篇「カラタチ」の詩も続いて載っている(この前には随筆が一本あるだけ)。
今回、底本は「熊本大学学術リポジトリ」内で発見した、同初出誌誌面画像「225-002.pdf」(PDF/ファイルの拡張子で判るので以下ではこの注は略す)を視認して活字に起こした。この私の梅崎春生の詩篇の初出復元電子化は恐らく初めての試みと思われる(昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻所収の同詩篇は正字化され、歴史的仮名遣も現代仮名遣化されてしまっている)。
但し、次の三箇所は誤植と判断して、沖積舎版により、補正した。
第二連八行目
「そして鬱積した闇黑を破つて」→【初出】「そして鬱積した闇里を破つて」
第七連四行目
「私は渾身の力で蒲團にしがみつく」→【初出】「私は渾身の方で蒲團にしがみつく」
第八連一行目
「遂に遂に窓を押し開いて躍り込む影――」→【初出】「遂に遂に窓を押し開いて躍り込む影―」
前二者は「闇里」及び「方」では意味が通らないこと、三番目は同連の五行目のダッシュが二文字分であり、ここを一字分ダッシュとする有意な差異性は認められないと判断したことによる。なお、底本には一切のルビが入っていないことから、沖積舎版全集に入っている十二箇所に及ぶルビは全集編者によるものであることが判明した(当該全集には編者による適宜ルビ振りしたという注記記載はない)。この内では一箇所だけ、第七連二行目の「外面」に「とのも」とルビを振っていることに限っては、読みとしてそうあるべきことを肯んずることが出来、読みの振れを考えるならばあった方がよいものであるとは思った。
「文二甲二」は熊本の第五高等学校文科二年の甲類(選択外国語が英語)の二組(甲類中のクラス・ナンバー)の意であろう。梅崎春生は福島県修猷館中学校卒業後、福岡高校を受験したが不合格で、翌年四月に第五高等学校に入学しているため、この時、既に満十八になっていた(春生は大正四(一九一五)年二月十五日生まれ)。但し、本篇には重い病床に臥している詩人の姿が描かれるが、梅崎春生の年譜、同年の日記その他を調べてみても、五高時代のこの時期にそのような入院をした事実を確認出来ない。但し、この年次の最後、三年進級時に落第して、二年次をダブってはいる。
『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(初期は『龍南会雑誌』か)の熊本第五高等学校の交友会誌。五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九年度には編集委員に名を連ねている。今回、「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」により発行月日まで確認出来た。
なお、本詩篇が掲載された『龍南』当該誌の『編輯後記』をも「熊本大学学術リポジトリ」内の初出誌誌面画像「25-017.pdf」で現認出来るが、そこには『「死床」は此の人の作風がよく現れて居る』と『(中村)』なる人物の署名で書かれている(この人物は不詳。当該ファイルの書誌情報にも姓のみしか記されていない)。ただ、同号に『文三甲三 中村信一』という人物の「塩魚の燒くるにほひ」という詩篇が載るが、これについてこの「中村」氏は『「塩魚の燒くる匂」題は何だか素晴らしいさうでつまらない』(「匂」はママ)と評しており、他の寸評に比して、ひどくそっけない。一つの推理であるが、このそっけなさは実は自分の詩であったからではあるまいか?]
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