いなびかり 梅崎春生 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:本作は昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』に掲載された「いなびかり」「猫の話」「午砲」の三篇から構成されたアンソロジー「輪唱」の第一篇である(因みに、第三篇の「午砲」は、私の所持する以下に示す全集には標題及び文中でもルビが打たれていないが、一般にはこれで「ドン」と当て読みする読みが通行している)。「輪唱」全体は後に単行本「B島風物誌」(同昭和二三(一九四七)年十二月河出書房刊)に所収された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第三巻」を用いた。傍点「ヽ」はブログ版では太字に代えた。なお、全三篇合わせたPDF縦書版「輪唱」(附やぶちゃん注)も用意した。]
いなびかり
おじいさんはだんだん人に口を利(き)かなくなった。それは歯が抜けているせいでもあったが、でもしゃべろうと思えば、まだしゃべることはできた。発音がすこし不明瞭になるだけであった。
しゃべりたくなると、おじいさんはひとり言をいった。しかしよく聞くと、それはひとり言ではなくて、なにかに話しかけているのであった。話し相手は、そのときどきによって、壁であったり、電熱器であったり、自分がきざんでいる仏像であったりした。おじいさんは実際に、ひとり言のなかで、話している相手の物品に、さんづけでよびかけたりしたのである。だからおばあさんは、聴き耳をたてるまでもなく、おじいさんが今なにに話しかけているか知ることができた。しかしそんな時でも、おばあさんはすこし仏頂づらしたまま、聞えないふりをしていた。おばあさんは、耳はもちろん、眼も歯も、わかい娘のようにたっしゃであった。
この数年来、おじいさんとおばあさんは、ほとんど口を利き合わなかった。二三年前までは、おじいさんも、寒いから窓をしめなさいとか、このおかずはまずいとか、短い言葉を言うこともあったけれども、ちかごろではそれも言わなくなった。おじいさんがものを言わないから、自然とおばあさんも、家のなかでは口を利かなくなった。しかしおばあさんは、しゃべりたくなると、近所にでかけて行って、よそのおかみさんとおしゃべりをしてきた。
昼のあいだ、おじいさんはモク拾いに出かけた。おじいさんは若いときから、仏師として生活していたが、ちかごろでは注文が絶えてないのであった。注文がなければたちまち生活にこまるので、払い下げ品の軍隊ゲートルを脚にまいて、おじいさんは毎朝モク拾いに出かけていった。そして一日中、道路や公園や駅をあるき廻った。おじいさんは駅がいちばん好きであった。収穫が多いというせいもあったが、また何となく好きなのであった。夕方になると、手にさげた信玄袋に煙草の吸いさしをいっぱい入れて、くたびれた姿勢になって戻ってきた。弁当をもって行かないから、おなかはぺこぺこの筈であった。
おじいさんは歯が弱かったが、おばあさんは丈夫なので、肉が大好きであった。けれども貧乏なので、安い鯨肉しか買えなかった。鯨肉でもそのつもりで食えば、牛肉のような味がした。鯨が出盛りになると、おばあさんは毎日それを買ってきた。おばあさんは元気よく食べたけれども、おじいさんはひどく努力してそれを食べた。別に不平も言わなかった。おじいさんの食事はながいことかかったが、おばあさんは先にさっさと済ませて、夜なべの準備にとりかかった。おばあさんの夜なべというのは、おじいさんが持ち帰った煙草の吸いさしをほぐして、新しい巻煙草に再生することであった。
おじいさんは食事がすむと、ひっそりと板の間におりて行った。ここがおじいさんの仕事場になっていた。そこに坐るとおじいさんの顔は、俄(にわ)かにがっくりと年とったように見えた。仕事にかかる前に、おじいさんは彫りかけの仏像をしばらくながめたり、のみをとって刃先をながいこと光に透したりした。
「今日も、モク拾いに、行ってきましたよ。ノミさん」
衰えた声でそんなことを呟(つぶや)いたりした。おじいさんの顔には、疲労がみなぎつていて、彫りかけた仏像のつやつやした顔と、いい対照を示していた。
長い吸いさしや短い吸いさし、曲った吸いさしや口紅のついた吸いさし、おばあさんは丹念に解きほぐして、ごちゃごちゃにすると、こんどは手巻器械をカチャカチャ言わせて、一本一本巻いて行った。その音のあいだに、おじいさんがのみをあてる音が混った。のみの音はにぶく間遠であった。くらい電燈のひかりが、そこにしずかに落ちていた。おばあさんはそちらをちらちら見ながら、指を正確にうごかして、器械をカチャカチャ鳴らした。
(おじいさんは仏師のくせに、うちには仏壇もないんだよ!)
おばあさんはそんなことを考えたりした。そしておじいさんが若いころ女好きで、それで苦労したことなどを思いだしたりした。その頃からこの家には、仏壇がなかった。しかしいま暗い板の間に坐っているおじいさんの姿は、そのころと別人のようにしなびていた。
十時ごろになると、巻き終えた煙草をひとまとめにして、おばあさんは立ちあがりバタンバタンと乱暴に夜具をしいた。その音にびっくりしたようにおじいさんは顔を上げるのであった。あたりの木屑を整理すると、自分もたちあがって夜具をしいた。そしてふたりとも、だまって別々に寝た。
夜中におばあさんが眼をさますと、いつもおじいさんは片頰に、うすら笑いをうかべて眠っていた。
ある日おじいさんは、いつものようにゲートルをまいて、小刻みに脚をうごかしながら、駅の方へあるいて行った。手には信玄袋をぶらぶらさせていた。切符を買って歩廊に入ると、すこし前屈みになって、吸いさしをみつけると、手をのばして拾いあげ、大事そうに信玄袋におさめた。それから煙草をくわえている男をみつけると、すこし遠くから、じつと見守っていた。煙草を捨てるのを待っているのであった。そんなときのおじいさんの顔は、すこしゆるんで、にこにこしているように見えた。男が捨てると、すぐ近よってそれを拾いあげ、また他の男の方へあるいて行った。おじいさんはやせているので、ゲートルを巻いた脚は細い竹の筒みたいだった。
そのころおばあさんは街角で、昨夜まいた手巻煙草をうりつくし、マーケットから赤黒い鯨肉をひとかたまり買って戻ってきた。それを台所におくと、おとなりの糊屋のおばあさんのところへおしゃべりに行った。
しばらくすると台所にやせたぶち猫がおずおずと入ってきた。あたりを見廻して台所にあがり、流しのざるに伏せた鯨肉を、歯ですこしずつ千切って、にちゃにちゃと食べた。歯に肉がひっかかるらしく、ときどき前脚をあげて踊るような恰好をした。そのたびに流し板がかたかたと鳴った。鯨肉はすこしずつ食いちぎられ、不規則な形に歯跡がのこされて行った。猫の腹はしだいにぼったりふくらんできた。すると表の方から跫音(あしおと)が近づいてきたので、猫はぎょつとしたように首をあげた。……
「あのじじい。おれが煙草すてるのを待ってやがる」
派手なアロハシャツを着た青年が、駅の歩廊で、連れの男にそう言った。そしていまいましそうに吸いかけの煙草を、おじいさんの方へピンと弾きとばした。煙草はあかい線となっておじいさんの足もとにとんだ。
そのとたんに、おじいさんは二尺ばかり飛びあがった。煙草の火がゲートルのほぐれたところにもぐりこんで、ぶかぶかの地下足袋のなかにおちこんだのである。おじいさんは真赤な顔になって、やっ、ほう、と変な叫びをたてて、片足をぴょんぴょんさせた。
夕方になっておじいさんはとぼとぼと家に戻ってきた。暗い空からは、今にも雨がおちてきそうであった。おじいさんはかすかにびっこを引いていて、はなはだしく疲労しているように見えた。
台所には鯨肉を煮る匂いがしていた。かまどの前では、おばあさんが仏頂づらをして、しきりに火吹竹をふいていた。
やがて夕食が終えたころ、屋根の上で雨のおとがぽつりぽつりと鳴った。そしてそれはだんだんひどくなった。
部屋のすみではおばあさんが信玄袋をひらいたら、吸いがらはいつもの半分ぐらいしかなかった。おばあさんはとがめるような眼付になって、おじいさんの方を見た。おじいさんは大きな耳をひくひくと動かして、奥歯でしきりに鯨肉を嚙んでいた。おばあさんはかなしいような、あきらめたような表情になって、吸いがらをざらざらと畳にこぼした。
(ほんものの牛肉を、いっぺん腹いっぱい食べたいな)
おばあさんは気をまぎらすように、そんなことをかんがえた。へんな猫に鯨肉を半分も食われたことを、まだおばあさんは腹を立てているのであった。しかし火吹竹で猫の横面を力いっぱいなぐりつけたとき、猫がよろめきながら、燃えるようなかなしい眼付をしたことを思いだすと、やはりおばあさんの胸にも物悲しい気持がひろがってきた。
茶碗をかたづけると、おじいさんはひっそりと板の間におりて行った。そしていつものところに坐った。内側にまげた足先に、あかく火ぶくれができているのが、暗い電燈の光でもはっきり見えた。おじいさんは顔をあげ、雨の音をききながら、ぼんやり壁にかかった雨合羽をながめていた。明日も雨だとすると、吸いがらは濡れてしまうから、出かける必要はないわけであった。おじいさんは奥歯をなおもすり合わせて、はさまった鯨肉の一片をかんだ。今日のも、やはり堅い肉であった。しかし今夜ほど、嚙むのに骨の折れたことは、今までにあまりなかった。嚙んでいるだけで、体力が尽きてしまいそうな気がした。
「雨合羽さん。雨合羽さん」おじいさんは口の中でもぐもぐと呼びかけた。「この四五年に、わたしは鯨を一匹はたべましたよ」
吸いがらをほぐす手をやめて、おばあさんはきらっと眼をひからせた。おじいさんはのみをとりあげながら、うつむいたまま、ぼんやりわらっているのであった。不気味なかげが、おじいさんの額におちていた。その前には、半分ほど出来かけた仏像が、背をそらして立っていた。この仏像に、おじいさんは二箇月もかかっているのであった。
窓のそとを、ときどき青白く稲妻がはしった。おじいさんの背後には、でき上った小さな仏像が、壁を背にしていくつもならんでいた。翳(かげ)をふかめて鎮もっている仏像たちが、稲妻の青い光にとつぜん浮び上った。仏像たちは微妙な光を全身にたたえていて、まるで生きて歩きだしそうに見えた。しかし稲妻がきえると、それらはまた壁の暗がりにしずんで行った。
[やぶちゃん注:「払い下げ品の軍隊ゲートル」「ゲートル」はフランス語“g uêtre”で本来は、革・ズック・ラシャなどで作った長靴のような洋風脚絆を一般には指すが、これは当時の闇市で売られた、負けた日本軍の「払い下げ品」である軍装の一つの、「巻脚絆(まききゃはん)」「巻きゲートル」のことである 。兵士の行軍中の脛を保護する目的の外、ズボンの裾が周囲の物に捲きついたりしないように押さえ、長時間の行軍の際には下肢を締めつけることで鬱血を防ぎ、脚の疲労を軽減するなどの目的を持っていた。「巻脚絆」とは包帯状の細い布を巻いて脚絆とするタイプのゲートルで、参照したウィキの「脚絆」によれば、『世界の軍隊の軍装品としては第一次世界大戦をピークに、第二次世界大戦頃まではレギンス型や長靴とともに各国の軍隊で広く用いられた。脚絆の一端には脚絆を最後に固定するための紐が取り付けられている。欠点としては、上手に巻くには慣れが必要で時間がかかり、高温多湿の環境下ではシラミなど害虫の温床になりやすい。第二次大戦後に編上げ式の半長靴が普及するにつれてとって代わられ』、民間使用としては『第二次大戦頃までは軍隊と同様に広く普及していたが、現代ではほぼ廃れている』。日本陸軍では『日露戦争中に採用され、日露戦後に徒歩本分者の被服とされた。数種類の巻き方があり、いったん巻いた脚絆の上下(足首と膝下)を固定用の紐でさらに締め、紐がすねの前で交差する巻き方は「戦闘巻」と俗称された』。日本海軍では当初は陸戦装備として一九三〇年代(昭和五~一五年)に『士官下士官兵共通の被服として採用され(陸戦隊被服)、艦船勤務の将兵であっても広く普及していた』とある。闇市は昭和二四(一九四九)年のGHQによる闇市撤廃命令で規制されてから急速に消滅しており、後の若者の「派手なアロハシャツ」という風俗から、本篇の作品内時間は昭和二〇年代初期の昭和二十二~二十四年辺りの夏に設定出来るように思う。
「モク拾い」後の「おばあさん」の作業と叙述から判るように、これは自分が吸うためのそれではなく、拾い集めて煙草の葉を取り出し、それを紙で丸めて、また一本の煙草に再生し、それを路上で売るのである。専売で統制品であった煙草は敗戦後の数年は極端な品不足に陥っており、街中や駅構内での吸い殻ポイ捨ては常識であった(私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、物心ついた頃の記憶の中に、昭和三〇年代の国電(山手線)の駅ホームの線路が吸い殻で雪のように真っ白だったことに驚いた思い出が残る)。しかも、この昭和二十年代の煙草の殆んどはフィルターなしの両切りで、吸い殻には煙草の葉そのものが指で摘まめる分ほどには有意に残っていたのである。
「信玄袋」布製の平底の手提げ袋であるが、口を紐で締められるようにしたものを特に指す。明治中期以降から流行し、和裝の女性が小物入れなどに使う。普通に私もかく呼んでいるが、何故、「信玄」なのかは実は不詳らしい(「大辞泉」に拠る)。
「鯨が出盛りになる」戦後に急速に拡大発達した日本の商業捕鯨に於いて、当時、食用として捕獲された主対象は、現生種は勿論、中生代に繁栄した水陸の巨大恐竜類などの絶滅種も含め、地上史上最大の動物種である大型のシロナガスクジラ(哺乳綱鯨偶蹄(クジラ)目ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus 。体長は二〇~三四メートル(記録上の最大長)・体重八〇~一九〇トン)やナガスクジラ(ナガスクジラ属ナガスクジラ Balaenoptera physalus 。体長二〇~二六メートル・体重三〇~八〇トン)であった。「出盛り」とは旬のことのようにも読めるが(例えば小型の鯨であるイルカ類は本邦では冬とされて冬の季語ともなっている。確かに私がしばしば訪ねた伊東の古い魚屋(既に廃業)には夏になると店頭に鮮やかな紅色の海豚肉が並んだものだった)、しかしこれは寧ろ、冷凍技術レベルの低い捕鯨船団が日本へ帰投し、冷蔵流通が困難な状況下で、ともかくも鯨肉が傷んでしまって商品にならなくなる前に安く売り捌かねばならない時期を指し、それを買う側から現象として見た時に「出盛りになる」時期と称している、と考えるのが自然なように私には思われる。そして先にも示した登場する若者の風体が「派手なアロハシャツ」というのに着目すれば、やはりこの作品内の季節は夏と考えてよい。因みに、当時の捕鯨の技術的発展はウィキの「日本の捕鯨」その他によれば、昭和二六(一九五一)年に「平頭銛(へいとうもり)」(七十五ミリ捕鯨砲)が開発されたことや魚群探知機の導入などがあるとあって、『先端が平らな平頭銛は水中での直進性に優れ、浅い角度で命中した時の跳弾も少ない銛で』あったが、これは実は『日本海軍が開発した九一式徹甲弾の技術が応用されていた』とある。「九一式徹甲弾」は、今も昔も世界最大である日本海軍の大和型戦艦群に搭載された遠距離砲撃戦用大型特殊弾の一つで、水中弾効果を高める形状設計で、海中に突入後は急激に水平方向に向きを変え、魚雷のように敵艦水線下に突き進んで敵艦の喫水下を破砕するという特殊徹甲弾である。
「切符を買って歩廊に入ると」「歩廊」は「ほろう」で駅のプラット・ホームのこと。動きの鈍い「おじいさん」は同業の連中とは街路では恐らく太刀打ち出来ないのに違いない。だから、わざわざ金を払ってでも駅入場券を買って構内へ行くのだ。ホームは狭く、しかも電車が着けば、喫煙していた者は即座にそこでたいして吸っていなくても煙草を足元に投げ棄てるから、「モク拾い」としては意外な穴場なのではないか。そうしてそれなりのモクの収穫量に達すれば、「おばあさん」がそれを再生して売る額は、この駅の入場料の金額を相応に越える有意な額となるのであろうことも想像出来る。
「糊屋」「のりや」。障子の張り替えや着物の洗い張りに使うための糊を売っている店のことであるが、最早見かけぬ商店である。私も実際には見たことがない。
「二尺」六十一センチメートル弱。
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★ここで以下の同日内(昼過ぎから夜)シークエンスの描写をよく記憶されたい(下線はやぶちゃん)。
「やせたぶち猫」
「夕方になっておじいさんはとぼとぼと家に戻ってきた。暗い空からは、今にも雨がおちてきそうであった」
「やがて夕食が終えたころ、屋根の上で雨のおとがぽつりぽつりと鳴った。そしてそれはだんだんひどくなった」
「へんな猫に鯨肉を半分も食われたことを、まだおばあさんは腹を立てているのであった。しかし火吹竹で猫の横面を力いっぱいなぐりつけたとき、猫がよろめきながら、燃えるようなかなしい眼付をしたことを思いだすと、やはりおばあさんの胸にも物悲しい気持がひろがってきた」[やぶちゃん注:「横面」は「よこっつら」と読む。]
「窓のそとを、ときどき青白く稲妻がはしった」
そうして、次の「猫の話」をお読み戴きたいのである。或いは既に「猫の話」を読んでいる方は思い出して戴きたいのである(下線太字はやぶちゃん)。
――「猫の話」の「カロ」は「茶色ぶち」である。
「カロ」が轢かれた日の夕刻から夜に到るシークエンスを御覧戴きたい。
――「その夜」「外では雨が降ってきたらしく、板廂をはじく水音が聞え、遠く近くで雷の音がごろごろと鳴った。前の大通りを、自動車が水をはねて疾走してゆく音が、ときどき聞えた」
この掌篇「いなびかり」の「雨」と「稲妻」は「猫の話」のあの「雨」と「雷」である。
そして何より(下線やぶちゃん)――
――この「いなびかり」で「鯨肉を半分も」盗み食いしているところを見つけられ、「火吹竹で」「横面を力いっぱいなぐりつけ」られて、「よろめきながら、燃えるようなかなしい眼付をした」「やせたぶち猫」とは――
――「猫の話」で「ものを盗んでいるところを見付けられ、どこかをしたたか殴られたにちがいない」「カロ」であり――
――「向う側の横町から」「なにかへんにふらふらした歩きかたで、いつものような確かさがな」く「頸をしきりに曲げるようにしながら、ひょろひょろとよろめいて、大通りを横切ろうとした」「カロ」である――
という驚くべき哀しい事実なのである。そうしてまた(太字やぶちゃん)――
――この「いなびかり」で、おばあさんのその「胸に」「物悲しい気持がひろがってきた」事実がまたしても――我々の胸を激しく打つ――
のである。]