梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (9)
「溺れたんじゃなく、心臓麻痺だった」
五郎は女に言った。
「強い酒を飲んで水に入るのは、一番危険なことなんだ」
「そう知ってて、どうして泳いだの?」
「悪いとは知ってたさ。しかしもっと悪いことだってした。若かったからね。若さで押し切れると思ったし、そして生命のすれすれまで行ってみたいという気持もあった。要するに荒れてたんだな」
福兵長はその年の三月頃から、五郎と行動を共にしていた。沖繩から『仁』の電文が届く。それを翻訳する。仁は次のような文章から始まる。
『本日ノ戦死者氏名左ノ通リ』
そして兵籍番号と名前が出て来る。福が翻訳した名前の一人に、彼の弟の名があった。ずいぶん後になって、福は告白した。
「いやな気持でしたねえ。しばらく暗号書を引く気にもなれなかった」
「可哀そうだなあ」
死んだ福の弟が可哀そうか、それを翻訳した福が可哀そうなのか、はっきりしないまま五郎は同感した。福は他のさまざまの電文で、彼の一家のある地帯がやられたこと、守備隊が全滅したことなどを知っていたらしい。あぶり字があぶられて出て来るように、自らの翻訳によって故郷の実況が出て来るのだから、つらい思いがしたに違いない。五郎もその頃しばしば、ト連送の電文を見た。
『トトトト』
ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信されるのである。ト連送が終った時が、一つの命がうしなわれた時なのだ。福の通夜の時、五郎はじっと考えていた。
〈あいつ、自殺するつもりじゃなかったのか〉
積極的に自殺を願ったのではないかも知れないが、五郎が感じたように、ここらで死んでもいいな、という気分は動いただろうと思う。それに福は酔い過ぎていた。気持が放漫になって、泳ぎ着ければそれでいいし、途中でだめならそれでもいい。泳ぎ出すことだけが自分の意志で、あとは運命に任せる。その気分の動き。
女が舌たるく聞いた。
「あんた、それで責任を感じたの?」
「責任? いや。福は自分から言い出したんだから、死んだのは彼の責任さ。しかしおれはとめなかった。一緒に泳いだ」
五郎は空を見上げながら、何気なく左手を女の肩に廻した。女は体をびくと震わせたが、拒否の気配は見せなかった。
「おれたちは同じ汽車に乗り合わせたようなものさ。前に乗り込んだ人が次々に降りて行く。新しいのが次々乗り込んで来る。途中下車をするやつもいるしさ。福なんかは途中下車じゃない。窓をあけて飛び降りたようなものだ。同行者としての責任感は、たしかにある。いや。同行者の責任なんて、一体あるものかな。連帯感はあるが――」
押えていた歪んだ情念が、しだいに彼の体の中で高まって来た。女の肩の丸みやあたたかさが、彼を刺戟(しげき)した。
「その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ」
「今朝退院したの?」
「そうだ」
五郎は腕に力を入れて、女を抱き寄せた。女はすこしあらがった。
「そんなことをしてもいいの?」
唇が離れた後、女はすこし怒ったような声を出した。
「いいんだよ。おれたちは同行者なんだから。二十年前、君はおれを見た筈だし、おれは君の姿を見た筈だ。どんな姿だったか、覚えていない。モンペ姿で、可愛らしいお下げ髪だったんだろう」
「そうよ。可愛らしかったかどうか、知らないけれど」
女は自分の頰に掌を当てた。
「すこし酔って来たわ」
「どうしてもこの土地を見たい。ずっと前から、考えていたんだ。今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確めたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」
ずいぶん身勝手な理屈をこねている。その自覚は五郎にはあった。枕崎で飲んだ焼酎、峠であおったコップ酒が、彼の厚顔な言説をささえていた。それに相手が出戻り女で、気分的にもかなり荒れているという計算も、心の底に動いていた。
「おれは今、何かにすがりたいんだ」
五郎は女にささやいた。その言葉は、全然うそではない。四分の一ぐらいはほんとであった。彼はさらに腕に力をこめた。
「つながりを確めたいんだ。死んだ福や、雙剣石や、その他いろんなものとの――」
「ああ」
女は胸を反らしながら、かすかにうめいた。それはやや絶望的な響きを帯びた。
「いいだろ」
相手をもどろどろしたものの中に引きずり入れたい。今はその嗜欲(しよく)だけしか五郎にはなかった。
時間が泡立ち、揺れながら過ぎた。やがて静かな流れに戻った。五郎は立ち上り、ミツギのざらざらした幹に、しばらく背をもたせ、暗い海を見ていた。
「今夜、君の家に泊めて呉れないか」
かすれた声で五郎は言った。
「行き当りばったりで、泊るところがないんだ」
「うちはだめ!」
身づくろいをしながら、女は答えた。
「あたしだけでも、いづらいんだから」
「そうだろうね」
その返事は予期していた。ただ訊ねてみただけであった。
「では枕崎の宿屋に戻ろうかな。まだバスはあるだろう」
「坊にも宿屋があってよ。宿屋と言えるかしら。そこの小父さん、あたし小さい時から、よく知ってるから。案内しましょうか」
女は立ち上った。地も空も蒼然と昏(く)れ、時々坊岬燈台の光の束が、空を薙(な)いで走る。石段も暗く、手をつなぎ合って、そろそろと降りた。しめった掌を離すと、女は道を降り、ダチュラの花を四つ五つ摘んで来た。
「寝る部屋に置いとくといいわよ」
花を五郎に手渡した。
「部屋が匂いでいっぱいになるわ」
その口調に残酷さがあった。福の通夜のことを実感として思い出せというのか。しかし五郎は素直に返事した。
「ありがとう。きっと君の夢を見るよ」
そのまま町の方に歩いた。すでに戸を立てた家も多い。すべて屋根が低いので、町は暗がりの底に、へばりついているようだ。ラジオの音や話声が、家の中から聞えて来る。
「この町の人は、ずいぶん早寝だね」
「不景気だからよ」
女は言った。なぜ不景気なのかは説明しなかった。
女が案内した家は、宿屋らしくなかった。他の家と違うのは、ここだけが二階家である。中二階みたいな妙な構造で、一見平屋風(ふう)のように見える。玄関の板の間に、古ぼけたオルガンが置いてある。案内を乞うと、主人らしい老人が出て来た。
「この人、泊めて上げて」
女が言った。
「二十年前、海軍でここにいた人よ」
主人はするどい眼付きで五郎を見た。五郎が靴を脱いでいる間に、女はいなくなった。主人が言った。
「あんた。久住五郎というひとじゃなかか」
言葉は電撃のように、五郎の背中を撲(う)った。五郎は顔色を変えて、思わず立ち上った。
「ど、どうしてそれを知っているんだ?」
五郎はどもった。
「二十年前――」
「いや。いや」
主人は視線をやわらげて、空気を両手で押えつけるようにした。
「いまさっき枕崎の立神館から電話がありもしてな。あなたの人相風体など説明して――」
「丹尾という男ですね」
「はあ。着いたら電話を呉れと――」
「電話なんかしなくてもいいんですよ」
やっと動悸がおさまって、五郎は答えた。
「風呂に入れますか。ああ。この花をぼくの部屋に――」
ダチュラはもう萎(しな)び始めていた。一体丹尾は何で五郎をつけ廻すのか。つけ廻す理由があるのか。五郎はもう考えたくなかった。いちいち心配していては、気分の方で参ってしまう。
[やぶちゃん注:「ト連送の電文を見た」「『トトトト』」「ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信される」「ト連送」を一般空軍機の突撃開始命令の暗号電信とのみ記す記載が多いが、これはそれとは違う。特攻兵が機体を敵艦船に向けて体当攻撃に入ったことを意味し、兵は同時に電鍵で短点(モールス符号の短点「・」で「ト」或いは「トン」と呼び、長点「―」は通称「ツー」と呼ぶ)を打ち続けることを指す。その「トトトト」(・・・・)――が途絶えた時刻が――特攻兵の死亡時刻――とされたのであった。
「舌たたるく」物の言い方が甘えたようなさま、また、態度が馴れ馴れしくべたべたしている感じを言うが、近世以降に生じた形容詞である。
『「おれたちは同じ汽車に乗り合わせたようなものさ。前に乗り込んだ人が次々に降りて行く。新しいのが次々乗り込んで来る。途中下車をするやつもいるしさ。福なんかは途中下車じゃない。窓をあけて飛び降りたようなものだ。同行者としての責任感は、たしかにある。いや。同行者の責任なんて、一体あるものかな。連帯感はあるが――」』『「その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ」』五郎が初めて語る、「戦中」から「戦後」を生き続けた彼の外界との掛かり方の暗く沈んだ、一種の「死んだ魂」の哲学である。……その虚構の国家や虚構の平和の中には、「連帯感はあ」ったし、そして「同行者」たる他者という存在には「責任感はあ」った……がしかし、待てよ?……本当の意味で「同行者」たる他者に「責任なんて」あるんだろうか? あるはずないさ! そもそも何の、誰に対する「責任」があるっていうんだ?!……そうさ! ぐるぐるをやって過ぎてゆくうち、おれは、「同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た」んだ!――「酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった」……全く以ってこの疑念は、おそるべき大きさに膨張し続け、遂には自分の魂をはじけさせんばかりにまでなったのだ! 「それでとうとう病院に入って、治療を受けた」という訳さ!……何てったって、「今朝まで」気違いにされて「病院にいたんだ」からな!……と五郎は、ここでは取り敢えず、訴えている、ととってよかろう。
「嗜欲(しよく)」思うままに、思いっきり飲んだり、見たり、聞いたりしたいという貪るような欲求。
「坊岬燈台」「ぼうのみさきとうだい」と読む。坊津の南西端に位置する坊ノ岬にある。個人サイト『日本の宝島「あまくさ」』の「九州・山口県の灯台編」の中の「坊ノ岬灯台」が地図もあって画像もよい。そこに大正一一(一九二三)年七月の点灯とある。無論、先の昭和二〇(一九四五)年のシークエンスでは防空管制のために点灯されていない(と考えてよいだろう)。なお、昭和二十年四月七日に戦艦大和は海上特攻によって凄絶な沈没をしたが、それはこの坊ノ岬から西南約四百キロメートル沖合の東シナ海上であった。
「女が案内した家は、宿屋らしくなかった。他の家と違うのは、ここだけが二階家である。中二階みたいな妙な構造で、一見平屋風(ふう)のように見える」既注のTsubu 氏の「西郷隆盛のホームページ 敬天愛人」「薩摩旅行記」の『薩摩旅行記(3)「大陸への玄関口・坊津(ぼうのつ)」』にある、豪商森吉兵衛の密貿易屋敷「倉浜荘」がモデルである。ワシモ(WaShimo)氏のサイト内の「写真旅紀行 坊津―鹿児島県南さつま市坊津町」に、三代目森吉兵衛が万延元(一八六〇)年に建てたもので五代目吉兵衛まで住んでいた、とある。
『「主人が言った。/「あんた。久住五郎というひとじゃなかか」/言葉は電撃のように、五郎の背中を撲(う)った。五郎は顔色を変えて、思わず立ち上った。/「ど、どうしてそれを知っているんだ?」/五郎はどもった。/「二十年前――」』ここは非常に興味深いシーンである。まず、ここで初対面であるはずの他者によって主人公の姓名が「名指される」ことになる。しかもそれが、五郎自身が自分の意識の中で封印していた坊津の記憶を蘇らせた直後であることに気づく。そうしてまた、ここでの五郎の反応は極めて特異であることに注目したいのである。普通ならば、病院や五郎の親族などから捜索願が警察に出され、そうした関連で紹介があったのではないかと思うのが普通であるのに、五郎は鼻っから――自分の記憶からは消去されているのかも知れないが――この老人と「二十年前」に「ここ」で逢ったことがあり、「何らかの」五郎の忘れている「重大な事実を知っている」人物なのではないか――と考えたからこそ、五郎の「背中」を「電撃」が「撲った」のであり、「顔色を変えて、思わず立ち上」って「ど、どうしてそれを知っているんだ?」と「どもっ」て小さく叫び、『ま、まさか……あ、あんたは「二十年前――」の、あの敗戦の前後、こ、ここにたったの、さ、三週間しかいなかったはずの、お、おれのことを、お、覚えているのかッツ?!』と驚愕しているのである。これこそ、この坊津での体験が彼の自分探しの正統な場所の一つであったことを、図らずもこの五郎の狼狽そのものが表わしていると言えるのではあるまいか? さらに言うなら、この場所が妖しげで奇体な構造(次のパートを参照)をした密貿易屋敷であること、ダチュラの女が幻しの如く消え去ってしまうことなどなど、サスペンスや伝奇的浪漫性を盛り上げる効果も忘れずに配されてあるのである。]