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2016/01/05

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (7)

 午後の当直を終えて外に出ると、夕焼雲が空に明るかった。今日は麦酒(ビール)の配給があったと言って、交替に来た兵の中には、目縁(まぶち)を赤くしているのも居た。私が当直に立っているとき、交替時の直ぐ前だったか、緊急信が一通来た。私がそれを訳した。

 居住区の方に戻りながら、私はその電報のことを考えていた。それは決定的な内容を持った電報であった。

 居住区に入って行くと、通路の真中に卓を長く連ね、両側にそれぞれ皆腰かけ、卓の上は麦酒瓶(ビールびん)の行列であった。煙草の煙が奥深くこもり、瓶やコップの触れる音がかちかち響いた。奥の方に通り抜け、私の席についた。食器に麦酒がトクトクとつがれるのを眺めながら、私は此の騒然たる雰囲気に何か馴染(なじ)めない気がした。卓が白い泡で汚れている。私は上衣を脱ぐと、口に食器を持って行った。生ぬるい液体が、快よい重量感をもって、咽喉(のど)を下って行った。

 私の前には、電信の先任下士と吉良兵曹長が腰をおろしていた。先任下士は頰を赤くしていたが、吉良兵曹長はむしろ青く見えた。そしてその話し声がふと私の耳をとらえた。

「大きなビルディングが、すっかり跡かたも無いそうだ」

「全然、ですか」

「手荒くいかれたらしいな」

「どこですか」

「広島」

 ぼんやり聞いていた。吉良兵曹長がふと私の方に向きなおった。

「村上兵曹。何か電報があったか」

 濁ったその眼が、射るように光った。交替前の電報のことが、再び頭をよぎった。

「ソ連軍が、国境を越えました」

 私の言葉が、吉良兵曹長に少なからぬ衝動を与えたらしかった。しかし、表情は変らなかった。黙ってコップをぐっとほした。長い指で、いらだたしげに卓の上を意味なく二三度たたいた。

「参戦かね」

「それはどうか判りません。電報では、交戦中と言うだけです」

 私は吉良兵曹長の顔をじっと見つめていた。無表情な頰に、何か笑いに似たものが浮んだ。ぞっと身をすくませるような、残忍な笑いだった。私は思わず目を外(そ)らした。食器をかたむけて、麦酒を口の中に流し込んだ。再び瓶を傾けて、食器についだ。酔いがようやく廻って来るらしかった。手足の先がばらばらにほぐれるような倦怠感が、快よく身内にしみ渡って来た。

 ずっと向う側の卓で、話し声が漸(ようや)く高くなって来た。上半身裸になって、汗が玉になって流れている。出口の方に、黄昏(たそがれ)の色がうすれかかった。どうにでもなれと思って、私は肱(ひじ)を卓についたまま、ついでは飲み、ついでは飲んだ。

 次第に酔いが廻って来て、何だかそこらがはっきりしないような気持になって来た。いろいろとめ度もないことが、頭に浮んで消えた。坊津(ぼうのつ)のことをぼんやり考えていた。あの頃はまだ良かった。坊津郵便局の女事務員は、私が転勤するというので、葉書二十枚をはなむけに呉れた。衣囊(いのう)の底に、それはしまってある。まだ一枚も使わない。

 ふと自責の念が、鋭く私を打った。桜島に来て以来、私は家にも便りを出さない。桜島に来て居ることすら、私の老母は知らないだろう。私の兄は、陸軍で、比島にいる。おそらくは、生きて居まい。弟はすでに、蒙古(もうこ)で戦死した。俄(にわ)かに荒々しいものが、疾風のように私の心を満たした。此のような犠牲をはらって、日本という国が一体何をなしとげたのだろう。徒労と言うには――もしこれが徒労であるならば、私は誰にむかって怒りの叫びをあげたら良いのか?

 洞窟にこもった話し声が、騒然とくずれ始めたと思うと、出口近くの卓から、調子外(はず)れの歌声が突然起り、そしてそれに和すいろいろの声がそれに加わった。歌は「同期の桜」であった。麦酒瓶の底で卓をたたく。歌声は高く低く乱れながら、新しい歌に代って行った。卓についた肱に、卓を打つ振動が伝わって来る。眼が据(すわ)って来るのが、自分でもわかった。更に新しい麦酒を傾けて、一息にのみほした。

 黙ってしきりに麦酒をほしていたらしい吉良兵曹長が、身体(からだ)をずらして私の正面にむきなおった。もはや上半身は裸になっていた。堅そうな、筋肉質の肩の辺が、汗にぬれて艶々(つやつや)と光った。低い、いどみかかるような声で私に言った。

「兵隊どもに、戦争は今年中に終ると言ったのか。え。村上兵曹」

「そんなことは言いません」

 あの厭な、マニヤックな眼が、私の表情に執拗にそそがれている。何気なく振舞おうと思った。飲みほそうと食器を持った手が少しふるえた。

「此のように決戦決戦とつづけて行けば、どちらも損害が多くて、長くつづけられないだろうというようなことは、あるいは言ったかも知れません」

 そう言いながら、私は自らの弱さが、かっとする程腹が立って来た。私もじっと彼の顔を見据えながら言った。

「どうでもいいことじゃないですか。そんな馬鹿げたこと」

「今年中に終るか」

 執拗な口調であった。少し呂律(ろれつ)が怪しくなっているらしかった。

「村上兵曹。死ぬのはこわいか」

「どうでもいいです」

「死ぬことが、こわいだろう」

 瞳の中の赤い血管まではっきり見えるほど、私は彼の顔に近づいた。酔いが私を大胆にした。私は、顔の皮が冷たくなるような気持で、一語一語はっきり答えた。

「私が、こわがれば、兵曹長は満足するでしょう」

 はげしい憎悪の色が、吉良の眼に一瞬みなぎったと思った。それは咄嗟(とっさ)の間であった。立ち上るなと感じた。立ち上らなかった。吉良兵曹長は、首を後ろにそらせながら、引きつったような声で笑い出した。声は笑っていたが、顔は笑っていなかった。卓の下で握りしめていた私の掌に、今になって脂(あぶら)がにじみ出て来た。

 一人の兵隊が、卓からはなれて、よろめいて来た。歌声は乱れながら、雑然と入りまじった。

「兵曹長。踊ります」

「よし、踊れ」

 笑いを急に止めて、吉良兵曹長は叱りつけるような声でそう言った。

 その兵隊は、半裸体のまま、手を妙な具合に曲げると、いきなりシュッシュッと言いながら、おそろしくテンポの早い出鱈目(でたらめ)の踊りを踊り出した。よろめく脚を軸として、独楽(こま)のように廻った。手を猫の手のようにまげて、シュッシュッという合の手と共に、上や下に屈伸した。歌声が止み、濁った笑い声が、それに取って代った。

「何だい、そりゃあ」

「止めろ、止めろ」

 兵隊は、ますます調子を早めて行った。目が廻るのか、額を流れる汗が眼に入るのか、眼をつむったまま憑(つ)かれたもののように身体を烈しく動かした。よろめいて、身体を壕の壁で支えた。電灯の光まで土埃(つちぼこり)がうっすらと上って来た。けろりとした顔付になって兵隊は敬礼をした。

「終りました。四国の踊りであります」

 歌い声が新しく起った。何か弥次が飛んだようだけれど、はっきり聞えない。向うの方で、麦酒瓶が砕ける音がした。そして、雑然たる合唱がはじまった。

 

  さらばラバウルよ 又来るまでは

  しばし別れの 涙がにじむ

 

 私は、眼をつむった。動悸が胸にはげしかった。掌で、顎(あご)を支えた。顔についた土埃のため、ざらざらとした。頭がしんしんと痛かった。じっと一つのことを考えて居た。

 死ぬのは、恐くない。いや、恐くないことはない。はっきりと言えば、死ぬことは、いやだ。しかし、どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。――このまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにも惨(みじ)めではないか。生れて以来、幸福らしい幸福にも恵まれず、営々として一所懸命何かを積み重ねて来たのだが、それも何もかも泥土にうずめてしまう。しかしそれでいいじゃないか。それで悪いのか。私は思わず、吉良兵曹長に話しかけていた。

「吉良兵曹長。私も死ぬなら、死ぬ時だけでも美しく死のうと思います」

 残忍な微笑が、吉良兵曹長の唇にのぼった。毒々しい口調で、きめつけるように言った。

「おれはな、軍隊に入って、あちらこちらで戦争して来た。支那戦線にもいた。比律賓(フィリッピン)にもいたんだ。村上兵曹。焼け焦げた野原を、弾丸がひゅうひゅう飛んで来る。その間を縫って前進する。陸戦隊だ。弾丸の音がするたびに、額に突き刺さるような気がする。音の途断(とだ)えた隙(すき)をねらって、気違いのように走って行く。弾丸がな、ひとつでも当れば、物すごい勢で、ぶったおれる。皆前進して、焼け果てた広っぱに独りよ。ひとりで、もがいている。そのうちに、動かなくなり、呼吸をしなくなってしまう。顔は歪(ゆが)んだまま、汚い血潮は、泥と一緒に固まってしまう。日が暮れて、夜が明けて、夕方鴉(からす)が何千羽とたかり、肉をつつき散らす。蛆(うじ)が、また何千匹よ。そのうち夜になって冷たい雨が降り、臂(ひじ)の骨や背骨が、白く洗われる。もう何処の誰ともわからない。死骸か何か、判らない。村上兵曹。美しく死にたいか。美しく、死んで行きたいのか」

 言い終ると、身の毛もすくむような不快(いや)な声でわらい出した。じっと堪えながら、私は谷中尉のことを思っていた。あの若い元気な中尉も、美しく死にたいという考えは、感傷に過ぎぬと話して聞かせた。しかしそれが何であろう。虚無が、谷中尉にしろ吉良兵曹長にしろ、その胸に深い傷をえぐっているに過ぎぬ。私がもつ美しく死にたいというひそやかな希願と、何の関係があるか。

 不思議な悲哀感が、私を襲った。私は、再び吉良兵曹長の方は見ず、虚(うつ)ろな眼(まな)ざしを卓の上に投げていた。騒ぎはますます激しくなって行くようであった。昏迷しそうになる意識に鞭(むち)打ち、私は更に麦酒を口の中にそそぎ込んだ。かねてから私を悩ます、ともすれば頭をもたげようとするのを無意識のうちに踏みつぶし踏みつぶして来たあるものが、俄(にわ)かにはっきりと頭の中で形を取って来るらしかった。私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に?――

 私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗より高いものに自惚(うぬぼ)れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬(ぎ)せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の矜持(きょうじ)を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。

(ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの)

 耳の無いあの妓(おんな)がこう聞いた時、その声は泣いているようでもあったし、また発作的な笑いを押えているような声でもあった。酔いの耳鳴りの底で、私は再び鮮かにその幻(まぼろし)の声を聞いた。私は首を反(そ)らして、壁に頭をもたせかけ、そして眼をつむった。頭の中で、蟬が鳴いている。幾千匹とも知れぬ蟬の大群が、頭の壁の内側で、鳴き荒(すさ)んでいる――

 洞窟の内の、此の不思議な宴は、ますます狂躁に向い、変に殺気を帯びて来た。入口から風が吹き抜けると、歌声がまた新しく起った。卓子がぐらぐらゆれる。私は眼を開いた。ソ連の参戦も糞(くそ)もあるか。頭を強く二三度振り、今までの考えから抜け出ようと努力しながら、歌でも歌おうとよろめく足をふみしめ、卓に手をかけ立ち上ろうとした。吉良兵曹長の声が、吹き抜けるように洞内にひびいた。

「兵隊。軍刀を持って来い!」

 黒白もわかたぬほど酔っているらしかった。目が据(すわ)り、顔がぞっとする程蒼かった。立ち上ろうとして、平均を失い、卓に肱をついた。麦酒瓶が大袈裟(おおげさ)な音を立てて倒れ、白い泡が土間にしたたり落ちた。卓に片手をついて、下座の方を見据えた。

「剣舞をやるから、持って来い。軍刀」

 ふらふらと進み出た。

 雑然たる騒音の中から、獣のような声を出して、詩を吟(ぎん)じ始めた。誰の声か判らない。文句も節もはっきりしないままに、吉良兵曹長は軍刀を抜き放った。拍手が三つ四つ起って、すぐ止んだ。笑い声がする。詩を吟ずる声が二つ重なったと思うと、起承も怪しいまま、転々と続いて行くらしい。軍刀をかざしたまま、吉良兵曹長の上体はぐらぐらと前後に揺れた。眼をかっと見ひらいた。軍刀を壁に沿って振り下すと、体を開いてこぶしを目の所まで上げた。よろよろとして倒れかかり、私の肩にがっとしがみついた。軍刀は手から離れて、土の上に音無く落ちた。

「村上。飲め。もっと飲め」

 彼の掌に摑まれて、私の肩はしびれるように痛かった。それに反抗するように肩を張り、私は更に新しい麦酒瓶に左の手を伸ばして居た――

 

[やぶちゃん注:以下のシークエンスの時間は、まず会話に出る、

「広島」への原爆投下が昭和二〇(一九四五)年八月六日午前八時十五分

で、

「ソ連軍」が「国境」を越えて日本軍と「交戦中」となるは、昭和二〇(一九四五)年八月八月九日の日本時間午前零時(現在の時差で計算)のソ連軍対日攻勢作戦発動した以降で、同時刻頃には牡丹江市街(現在の黒竜江省南東部にある牡丹江市)が敵の空爆を受け、午前一時三十分頃(現地時間ならば日本時間は午前零時三十分)には新京(現在の吉林省長春市)郊外が空爆を受けている頃を「事実」は指す(後注参照)

である。但し、

その――ソ連軍国境ヲ越エタリ――といった暗号電報が桜島まで齎されたのは、場面(「黄昏の色がうすれかかった」)から見ても八月九日の夕刻遅く

である。ところが、この

八月九日とは長崎への原爆投下の当日(八月九日午前十一時二分

でもある。しかし、本文には長崎の原爆投下を知っている登場人物は出てこない。彼らは誰も、広島どころか同じ九州の、しかも、自分らを管轄する佐世保鎮守府に近い長崎に、広島と同じ凶悪な爆弾が落されたことを、その当日、しかも海軍秘密基地の兵であるのにも拘わらず、不思議に知らないのである。新型爆弾による壊滅的破壊は軍内部でも扱いを慎重にしていたものらしいことは知っている。ここではかの吉良兵曹長でさえ、この日にやっと、広島の原爆投下の惨状の事実を先任下士官からここで聴いて一瞬、呆然としていることからも判る(但し、広島のそれは六日にラジオ報道があり、八月七日に大本営が発表、八月八日には各新聞が広島が新型爆弾で攻撃されたことを一面トップで報じているから、次のパートに出るように「鹿児島の新聞社が焼けてからというものは、此の部隊に新聞は入って居ない」としても、この四日も経った八月九日まで下士官である吉良が広島の新型爆弾攻撃を知らないというのはやや不自然に思われる。長崎の原爆投下も六時間以上が経過しているのに、海軍秘密基地の連中が誰も何も知らないというのも、やはり変な気はする……が! どうもこれは事実のようなのである……それは、以前にも引いた梅崎春生自身の同日(!)の日記から判明するのである。以下、底本全集第七巻の「日記」から引く。但し、前に示したのと同じく、これに限っては戦前の記載であるので恣意的に漢字を正字化して歴史的仮名遣に改めたので注意されたい。「直」に「ちよく」(ちょく)とルビが振られているが、梅崎春生自身の附したものとは思われないので外した。

   *

八月九日

 松本文雄が召集されて來ているのに會ひ、一しよに酒を飮みに行つた夢を見る。大濱氏も出て來る。

 昨夜は夕食にジヤガ芋つぶしたのを少量、燒酎小量のみ、十二時より直に立つとやはり胃の調子惡し。

   *

この「松本文雄」は熊本第五高等学校の同期生らしい。個人ブログ「五高の歴史・落穂拾い」のかざしの園という記事に「続龍南雑誌小史」(昭和九(一九三四)年度二百二十七号より二百二十九号)という本が示されており、その編集委員に『松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘』とある。春生は五高には昭和七年四月入学である。「十二時」とは昼の十二時であろう(小説に即すなら、前夜に飲んで時間が経っていないから腹具合が悪い、という解釈が成り立つが、実際には、この前の二日の日記に『胃が極度に弱つてゐるらしい』とあり、後の敗戦翌日の十六日では消化器の激しい衰弱が読み取れる)。ともかくも、これは広島と同じ恐るべき新型爆弾がこの日の朝に同じ九州の長崎に落されたことを知っている日記ではない。さて、以上より、

 

――本パートのロケーションは昭和二〇(一九四五)年八月九日の夕刻六時以降から八時前頃までを想定してよいと考える(八時前は巡検時間から)。

 

「ソ連軍が、国境を越えました」ソヴィエト連邦の宣戦布告は正確には昭和二〇(一九四五)年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされているが、ウィキの「ソ連対日参戦」によれば、『事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとした。ヴャチェスラフ・モロトフは暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかしモスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった』。八月九日午前一時(ハバロフスク時間:現行と同じならば日本時間は午前零時)『にソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。同じ頃、関東軍総司令部は』第五軍司令部からの『緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街』(黒現在の竜江省南東部にある牡丹江市)『が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに』午前一時三十分頃(現地時間ならば日本時間は午前零時三十分)には新京(現在の吉林省長春市)『郊外の寛城子が空爆を受けた。総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、』午前六時に『「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。この攻撃は関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。さらに総司令官は宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた』とある。

「ふと自責の念が、鋭く私を打った。桜島に来て以来、私は家にも便りを出さない」これは梅崎春生自身の事実は反するように思われる。先に示した彼の同年八月二日(本ロケーションの一週間前)の日記の中に、

   *

 東京からも便りがない。うちからも。

   *

とあり、これは彼が東京の友人や福岡の実家に手紙を出したにも拘らず、返事もない、という意でとれるからである。

「私の老母は知らないだろう」梅崎春生の母貞子は昭和二九(一九五四)年に子宮癌で享年六十四歳で亡くなっているから、生年は明治三三(一九〇〇)年生まれとして、敗戦時は五十五歳で「老母」というにはやや若い気はする。なお、彼の父建吉郎は昭和一三(一九三八)年二月(春生二十三歳)に享年五十八歳で脳溢血と床擦れから敗血症を起こして亡くなっているから、父の生年は明治一四(一八八一)年生まれとなり(底本年譜に拠る)、父母の年齢は十九も離れている。

「私の兄は、陸軍で、比島にいる。おそらくは、生きて居まい」春生より三つ年上の兄は実際には戦死していない。春生の実兄梅崎光生(大正元(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)は東京文理科大学哲学科卒で、哲学者で作家。二度応召され、敗戦時には米軍の捕虜となった。昭和二一(一九四六)年六月にフィリピン(本文の「比島」は「ひとう」と読み、フィリピン諸島のこと)の俘虜収容所から復員帰国し、佐世保港に上陸、博多駅に降りている。この兵隊体験をもとに後年に創作を試み、「無人島」などの戦記物や、戦争体験をもとにした日常生活などを描く作品を書き続けた。著書に「ルソン島」「ショーペンハウアーの笛」、作品集に「暗い渓流」「春の旋風」「幽鬼庵雑話」「君知るや南の国」などがある。参考の一部にしたこちらの記載には、『幼少年時代の思い出は短篇「柱時計」のなかに、「父の家は佐賀の貧乏士族で、結婚当時は福岡の連隊に中尉としてつとめており、母の家は同じく佐賀の町家であった。/私が生まれたのも、物心ついたのも、福岡市の舞鶴城つまり連隊の近く簀子町という所であった」などとあり、また『幽鬼庵雑話』には弟の梅崎春生のことや閲歴が語られている』とある。本パートの吉良兵曹長のフィリピンでの体験談は勿論、春生の後の「日の果て」「ルネタの市民兵」「B島風物誌」などは春生の実体験にはない南方戦線が舞台であり、彼がネタ元ではないかとも思われる。

「弟はすでに、蒙古(もうこ)で戦死した」梅崎春生の実弟梅崎忠生(昭和四(一九二九)年~昭和二〇(一九四五)年)は彼をモデルにした「狂い凧」によれば、出征中に喘息の治療薬として用いた麻薬の中毒に罹患し、敗戦直前に自殺している(この内、病態は金剛出版昭和五〇(一九七五)年刊の春原千秋・梶谷哲男共著「パトグラフィ叢書 別巻 昭和の作家」の「梅崎春生」(梶谷哲男氏担当)を参考にし、生年は「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」の『長兄と末弟には17歳の歳のひらきがあった』という記載から逆算、没年は底本年譜に『終戦直前に自殺』という記載から推定した。彼忠生については事蹟記載がすこぶる少ない)。厳密には実際の彼の死は「戦死」ではなく、「戦病死」或いは「変死」扱いである。但し、底本の別巻にはこの忠生のさらに下の弟(梅崎家は男ばかりの六人兄弟)であった梅崎栄幸氏の「兄、春生のこと」が載るが、そこに『戦後五年ほどして忠生兄の死は、実は戦死ではなくて睡眠薬による自殺であったことを聞いた』とあるから、梅崎春生自身ももしかすると弟の自死の事実は知らず、戦死と認識していたのかも知れない(本作発表は敗戦の年の昭和二〇(一九四五)年十二月)。

「同期の桜」特攻隊員に好んで歌われ、その後に広く知られるようになった軍歌「同期の櫻」は大村能章作曲。原詞は西條八十によるが、知られたそれは西条のものではない。参照したウィキの「同期の桜」より引く。『原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で』、昭和一三(一九三八)年一月号『少女倶楽部』に『発表された西條の歌詞が元になっている。直接の作詞は、後に』特攻兵器人間魚雷「回天」の第一期搭乗員となった帖佐裕(ちょうさひろし)海軍大尉(彼は生き残って戦後は銀行の重役となった)が、『海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にした』ことが戦後に明らかにされた。但し、五番まである歌詞のうち、三番と四番は『帖佐も作詞していないと証言しており』、『人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在することから、真の作詞者は特定できない状態にある』とある。歌詞を引こうと思ったが、調べてみると西条氏(一九七〇年没)も帖佐氏(一九九四年没)も著作権が切れていないのでやめた。ネット上には全歌詞が蔓延しているが、これでいいのかね? 重箱隅をほじくるのが好きなはずの日本音楽著作権協会(JASRAC)さんよ?
 
『「兵隊どもに、戦争は今年中に終ると言ったのか。え。村上兵曹」/「そんなことは言いません」/あの厭な、マニヤックな眼が、私の表情に執拗にそそがれている。何気なく振舞おうと思った。飲みほそうと食器を持った手が少しふるえた。/「此のように決戦決戦とつづけて行けば、どちらも損害が多くて、長くつづけられないだろうというようなことは、あるいは言ったかも知れません」』前段で、桜島に村上二曹が着任してまだ日の経たないある日、空気が淀んでしようがない暗号室のある壕に、通風のための穴を一つ掘っている兵隊らが働いているのを監督がてら、掘り終るのを計算したところが、

   *

……此の風穴が完成するのは少くとも三箇月はかかるのである。十一月頃になったら、さだめし涼しい風が吹きこむことであろうと、むしろ腹立たしく、私は兵隊に話しかけた。

「此の工事は誰の命令だね」

「吉良兵曹長です」

「それまで此処が保(も)つと思うのかね」

 その兵は、もっこをわきに置いて、私の前に立った。

「此の穴が出来上らないうちに、米軍が上陸して来ますか」

 真面目な表情であった。十五歳になるという少年暗号員である。私は莨(たばこ)を深く吸い込みながら、聞いた。

「勝つと思うか?」

「勝つ、と思います」

 童話の世界のように、疑いのない表情であった。ふっと暗いものを感じ、私は掌(て)をふって作業を始めるように合図した。そのとき、私は不機嫌な顔をしていたに違いない。私は立ち上り、莨を踏み消した。そしてあるき出した。

   *

の箇所を指すものであろう。
 
 
「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「四国の踊り」徳島の阿波踊りの男踊り(半天踊り)か、そこから派生した『一人が凧を操る役、そしてもう一人がやっこ凧として操られる様を表現したアクロバティックな「やっこ踊り」』か?(ウィキの「阿波踊り」から引用)。

「さらばラバウルよ 又来るまでは/しばし別れの 涙がにじむ」ラバウル小唄。ウィキの「ラバウル小唄より引く。若杉雄三郎(明治三六(一九〇三)年~昭和三〇(一九五五)年)『作詞、島口駒夫作曲の戦時歌謡』で昭和二〇(一九四五)年に発売された。本来は昭和一五(一九四〇)年に『ビクターより発売の、南洋航路(作詞作曲は同じ人物)が元歌である。 歌詞に太平洋戦争の日本海軍の拠点であったラバウルの地名が入っていたこともあり、南方から撤退する兵士たちによって好んで歌われた。 このため、戦争末期に日本で流行したため、レコードとして広まったというよりかは、兵士たちが広めたという方が正しいだろう』。『歌詞については、二つのパターンが存在する。 一つは、「さらばラバウルよ」の歌い出しで、後に元歌である南洋航路の歌詞が続くものである。 二つ目は、歌い出しは一緒であるが、二番が「船は出ていく」とオリジナルのものとなり、後が元歌という形である。 なお、一つ目では南洋航路の歌詞がすべて入っているが、二つ目は元歌三番目の歌詞「流石男と」の部分が欠けている』とある。以下、サイト「軍歌、戦時歌謡アルバム」の「ラバウル小唄」を参考に一部表記を正字化、歴史的仮名遣にした。ルビは私が振った。

   *

 

一、

さらば ラバウルよ また來るまでは

しばし 別れの 涙がにじむ

戀し懷(なつか)し あの島 見れば

椰子(やし)の 葉かげに 十字星

 

二、

船は 出てゆく 港の沖へ

いとし あの娘(こ)の 打ちふるハンカチ

聲をしのんで こころで泣いて

兩手 合はせて ありがたう

 

三、

波の しぶきで 眠れぬ夜は

語り あかそよ デツキの上で

星が またたく あの星 みれば

くわへ 煙草も ほろにがい

 

四、

赤い 夕陽が 波間に沈む

果ては 何處(いづこ)ぞ 水平線よ

今日も はるばる 南洋航路

男 船乘り かもめ鳥

 

五、

さすが男と あの娘は 言ふた

燃ゆる 思ひを マストに かかげ

ゆれる 心は 憧れ はるか

今日は 赤道 椰子の下

 

   *

「死ぬのは、恐くない。いや、恐くないことはない。はっきりと言えば、死ぬことは、いやだ。しかし、どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。――このまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにも惨(みじ)めではないか。生れて以来、幸福らしい幸福にも恵まれず、営々として一所懸命何かを積み重ねて来たのだが、それも何もかも泥土にうずめてしまう」(下線太字やぶちゃん)主人公の村上兵曹の本心の心の叫びの部分である。私はここを読むと、梅崎春生の「輪唱」の「猫の話」(ブログ横書版PDF縦書)のカロを思い出さずにはいられない。その授業案(ブログ横書版PDF縦書版)も宜しければ読まれたい。私が思い出さずにはいられない意味がよりお分かり戴けるものと思う。

「陸戦隊」海軍陸戦隊。大日本帝国海軍が編成した陸上戦闘部隊。ウィキの「海軍陸戦隊より引く。『元々は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが』、一九三〇年代(昭和五年から十四年)には『常設的な部隊も誕生した』。『太平洋戦争では戦域が拡大するにつれ、島嶼や局地防衛の必要から、特別陸戦隊のほか警備隊や防衛隊などの名称で陸戦隊が次々と編成された。また、海軍独自の空挺部隊(パラシュート部隊)(陸軍の空挺部隊とともに空の神兵の愛称)や戦車部隊も保有した。空挺部隊は』昭和一七(一九四二)年一月に、現在のインドネシア中部のセレベス島(当時はオランダ領東インドの植民地)『メナドで日本最初の落下傘降下作戦を実施し、指揮官の堀内豊秋中佐はその功を讃えられ、特別に昭和天皇に拝謁した。終戦前には本土決戦に向けて艦艇部隊などの多くが陸戦隊に改編され、総兵力は』十万人に『達していた』。『このように、日本海軍の陸戦隊は拡充を続けたものの、アメリカ海兵隊の様に陸・海軍から独立した軍種となることはなかった。太平洋戦争前に、常設の地上戦部隊として海兵隊を復活させることなどが陸戦隊関係者から提案されていたが、採用されなかった』。『海軍内で陸戦隊はあくまで二義的な任務として捉えられ、一般的な海軍士官にとって根拠地隊などの常設的性格の陸戦隊への配置は左遷に近い扱いであった』。もっと詳しい「編成」「装備」等の記載がリンク先にあるので参照されたい。

「谷中尉」冒頭から二パート目の枕崎で出逢った海軍士官。本作全体を貫く命題「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」を最初に開示した人物である。そうしてこの回想が直ちに、その時に買った耳介の欠損した女郎の回想に繋がる辺りは梅崎の真骨頂と言える部分である。

「あの若い元気な中尉も、美しく死にたいという考えは、感傷に過ぎぬと話して聞かせた。しかしそれが何であろう。虚無が、谷中尉にしろ吉良兵曹長にしろ、その胸に深い傷をえぐっているに過ぎぬ。私がもつ美しく死にたいというひそやかな希願と、何の関係があるか」主人公の、いや、作者梅崎春生の公案の提示である。

「私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に?――/私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗より高いものに自惚(うぬぼ)れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬(ぎ)せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の矜持(きょうじ)を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。/(ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの)」変形して公案が再提示される。「擬(ぎ)せる」とは武器などを体に刺し当てる、の意。「三十年」本作の最初に注した通り、梅崎春生が敗戦当時二十九、数えで三十であったことと完全に一致する。

「頭の中で、蟬が鳴いている。幾千匹とも知れぬ蟬の大群が、頭の壁の内側で、鳴き荒(すさ)んでいる」これは何年にも亙って常時、慢性的な耳鳴りに悩まされている私などには頗る実感として落ちる。駄句二句をお笑い序でに掲げておく。二〇一〇年五十三歳の時の句である。

 

  ノイズ・キャンセリング 夏

 蟬時雨耳鳴りの音ねも森の内

 

  ノイズ・キャンセリング 秋

 蟲すだく耳の内なる蝸牛管(かたつむり)

 

「軍刀」ウィキ軍刀より引く。海軍の士官・特務士官・准士官の正式な軍刀は、昭和一二(一九三七)年に制定されている。『陸戦隊士官が第一次上海事変で使用した従来のサーベル様式の長剣は実戦の際に重大な欠陥を露呈した。「護拳が邪魔」などの陸軍と同じ苦情のほかに、「雨や泥に濡れて柄の鮫皮や鞘の革が剥がれる」「石突の金具から水が入り刀が錆びる」などの海軍長剣ゆえの問題点が生じた。そのためこれら難点を是正し、また当時の国粋主義思想もあって太刀型へと変更された。しかしながらあくまで海軍は陸戦主体でないため、儀礼的な要素を幾分か残した外装となった』。佩環(はいかん:腰の革帯に佩用にするための金属製の鞘とり付けられた輪)は『二個固定、柄は黒漆の塗られた鮫皮に茶色の柄糸、鞘は黒漆塗りが多く、一部には黒漆塗の研出鮫皮や、陸戦隊向けの黒シボ革で包んだ物もあった。鍔は装飾のない丸型。等級は一等・二等の』二種類があった。『陸軍と同じく太平洋戦争開戦以降は外装品位の低下が起き、普通塗料による鞘塗装や略式外装も普及し』、昭和二〇(一九四五)年には『更に臨時特例』(佩環を一個に省略し、部品も省略した革巻きの鞘のもの)『が出された』とある。但し、それとは別に、「異種軍刀」と呼ばれるものがあり、これは『陸海軍の軍人軍属を問わず、上記の制式軍刀外装とは異なり旧来の日本刀拵(打刀・太刀)を軍刀として使用できるように改造したものである。最低限』、『軍刀の形を成すため、鞘に革覆を巻き吊鐶を付したものが大半で、鍔や兜金の一部を軍刀部品に変更したものもある。その歴史は古く、日露戦争当時の写真にも佩用がみられる。支那事変勃発以降、折からの軍刀供給不足によりこうした改造品の佩用は認められていた』とある。このシーンのそれはこちらの「異種軍刀」かも知れない。

「黒白」ここは「こくびゃく」と読みたい。]

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