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2016/01/19

ある少女   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年三月号『新女苑』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。

 本文第一段落には「敗戦の年の秋のこと」とあるので、作品内の主時制は昭和二〇(一九四五)年九月以降である。第十七段落目に、主人公の「私」は「敗戦後直ぐに復員して上京してきた」とあるが、梅崎春生自身も昭和二十年九月には上京している。この時は川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居しており、翌昭和二十一年二月以降は目黒区柿ノ木坂に移っている。また、彼が赤坂書房編集部に勤務するようになるのが同年三月、山崎恵津さんと結婚するのが翌昭和二十二年一月であるから、本作は主に、この昭和二十年九月の上京から昭和二十二年一月の結婚までの閉区間の諸体験に基づくものと考えられる。

 ここで舞台となっている外食券食堂についてのみ「猫の話」の授業案のそれを参考にして注しておく。

 外食券食堂は第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券(ここに出るように真鍮製。紙では容易に偽造出来てしまうからであろう)を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。「猫の話」の授業案にも記しておいたが、私がかつて古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記には、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容が記されてあった。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏担当の「外食券食堂」の項によれば、戦後、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは形骸化し、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、「券」も「食堂」も記憶には全くない。] 

 

   あ る 少 女 

 

 その食堂は河岸にあった。いや、河と言うより掘割と言った方がいい。どす黒いきたない水がゆるゆる動いていて、その上に古ぼけた橋がかかっている。橋には欄干(らんかん)がない。戦争中の金属回収で外(はず)されたまま、放置してあるのだ。木製の代用手すりもない。敗戦の年の秋のことだから、それはムリもない。日本中が飢餓に充ちていて、橋の手すりどころの騒ぎではなかった。

 食堂はその橋のたもとにあった。

 食堂はかなり大きい建物だったけれども、やはり古ぼけていた。荒廃していたと言ってもいい。戦争中の手入れ不足で、手入れするにも手入れの材料などもなく、壁も汚点(しみ)だらけで、食堂というよりも倉庫みたいな感じがした。

 入口に食票売場があった。

 人々はそこに登録票と金を差し出して、真鍮(しんちゅう)の食票を受取り、内に入って食票と食膳を引きかえる。食膳の上には丼と汁、あるいはおかずが乗っている。丼の内容が白いメシばかりということはほとんどない。サツマ芋ばかりであったり、スイトンであったり、うすぐろいウドンであったり、さまざまであった。そして一食分の丼の内容は極度に少かった。頰張って食えば、四口か五口で終ってしまうのだ。

 私は毎日その食堂に通っていた。

 私が食事を出来るのはこの食堂だけで、他の食堂でメシを食うというわけには行かなかった。その頃は登録制という制度になっていて、つまり自分をひとつの食堂に登録してしまえば、そこでしかメシを食えないような仕組みになっていたからだ。

 もちろん金さえあればヤミで何でも食べられるという事情があったが、私には金がなかった。

 だから私は腹を減らしていた。常住腹をぺこぺこにさせていた。食事の前は無論ぺこぺこだが、食事を済ませても相変らずぺこぺこであった。一食分の、ひとにぎりの主食では、腹いっぱいというわけには行かなかったのだ。

 それほどお腹をすかした私が、その少女に、丼に入っている大切な主食の一部を、何故分かち与えようとしたのか、私にもよく判らない。衝動的なものか、あるいは私のくだらない感傷癖だったのか。

 それにお腹をすかしているのは、その少女だけでなく、この食堂に出入りする者の大部分がそうであったのに、その中からどうしてその少女を私がえらび出したのか。

 その少女がいつも占める席が掘割に面した窓ぎわで、そしてそこは私が好きな席でもあった。そこが一番明るい席だったからだ。だから私たちは、しばしば顔をつき合わせ、あるいは並び合って食事をとった。もちろん言葉を交すことはなく、目礼し合うでもなく、ああまた来てるんだな、とふっと思う程度で、それ以上の交渉は何もなかったのだ。ここに出入りするすべての人に対すると同じように。 

 

 だから私は、その少女がどんな素姓でどんな境遇にあるのか、全然知らなかったし、今でも知らない。

 歳の頃は十六か十七、少女を終りかけた頃で、いつも同じセーターにモンペを着けていた。顔色は蒼白く、眼だけが大きかった。大きな眼に特徴があった。

 このくらいの年頃で、家庭で食事をすることなく、毎日一人で外食券食堂で食事をとるということは、正常な状態ではなかろう。しかし敗戦直後のことだから、それは別段目に立つことでなかった。正常よりも異常の方が世に充ちあふれていたのだから。

 少女はお腹をすかしていた。この少女は私と同じく、たいてい一食事に一食分しか食べていないようだったから、

 私はまだその頃、配給制度というものを信じていた。敗戦後直ぐに復員して上京してきたのだが、数年の軍隊生活からいきなり混乱した娑婆(しゃば)に放り出され、どうやって生きて行けばいいのか、メドをつかみかねていたのだ。巷のヤミ市には物や食物があふれているのに、それが自分の手に入らない。どこかこの世に抜け道があると判っていたが、さてそれはどこにあるかという段になると、私はうろうろと途惑(とまど)ってしまう。だからバカ正直に配給制度というものを信じ、一回一食分だけで我慢し、内心はいらいらと腹を立てていた。誰に対して立腹するのではない。惨めでおろかな自分自身に対してだ。

 時にはあるいはしばしば、腹立ちまぎれに、一回に二食分、あるいは三食分も食票を買い、いっぺんに食べてしまったりする。今日の分でなく、明日明後日の分まで食べてしまうのだ。月末になるとヤミ外食券を買うために、乏しい金をさかねばならぬことは判っているのに、つい食い込んでしまうのだ。そうしてしまったあと、私は漠然と自己嫌悪におち入る。月末のことなどを考えて憂鬱になる。また一回一食分という自律が破れたこと、自分の意志の弱さに対する嫌悪。前述のように私はまだ配給制度を信じていた。政府が配給して呉れるものだけで生きて行けない筈はないと思っていた。とんでもないかん違いをしていたわけだ。

 で、その日も私は欲望に負け、負けるような自分に腹を立てながら、三食分もいっぺんにとってしまった。勤め先(ごく僅かの給料しか呉れない)で面白くないこともあったりして、私は食膳を三つもならべ、端からむしゃむしゃと食べ始めた。

 その日の献立は、今でも覚えているが、主食はフカシ芋で、あとは薄い汁と煮魚であった。丼の方にフカシ芋が二片三片、無造作にごろごろころがっている。

 フカシ芋であろうと何であろうと、三つも食膳を並べるのは、ある意味ではいい気分のものである。大尽にでもなったような気がする。いつもは他の人々が二食も三食分も食べているのに、自分だけは一食分だけで、袖でかくすようにしてこそこそ食べるのだが、今日はそうでない。晴れがましいような気分なのだ。

 二膳目もまたたく間に食べ終り、三膳目のフカシ芋に手をつける。芋はばさばさとしめり気がないので、汁を口に流し込み、また煮魚をつつきながら、むしゃむしゃと食べる。その時私はふっとその少女の視線に気付いたのだ。

 少女は卓をひとつ隔てた向うに腰をおろして、頰杖をついてぼんやりとこちらを眺めていた。眺めるという意識的なものでなく、放心していたのかも知れない。

 芋を頰張りながら私はちらと少女を見た。少女の顔を、そして少女の前に置かれた食膳を。食膳はただのひとつであった。私の三つに対し、ただのひとつ。乗っている丼や皿は、舐(な)めでもしたかのようにきれいにからっぽになっていた。

 時刻がおそかったので、食堂内に客の姿はちらほらするだけで、全体的にがらんとしていた。

 私の視線に気付いたのか、少女はふっと顔を外(そ)らした。

 三膳目の丼に、フカシ芋がまだひとつ残っている。その芋をあの少女に分けてやろうと、どんなつもりでそんなことを思い付いたのか、私にもよく判らない。その少女に対する哀憐か、三膳も自分が食べたといううしろめたさか。それとも満腹のせいか。いや、満腹のせいではあるまい。満腹なら、残った芋をポケットに入れて帰ればいいのだから。

「上げるよ、このお芋」

 と私は即座に言葉をかけた。よく考えもせず立ち上った。丼から芋をつまみ上げて、少女の卓の方に歩いた。少女はきっと私に顔をふり向けた。それは意外に烈しい視線であった。少したじろぎながら、私は少女の方に芋をつき出した。

「上げるよ」

「いらない!」

 少女は立ち上りながら、はっきりと拒否した。妙な話だが、私はふいに腹が立ってきた。善意を裏切られたような気がしたのだ。私のその気持は実は善意ではなく、傲慢に過ぎなかったのだけれども。

「そう言わずに取ったらいいじゃないか」

 私は芋を少女の掌に押しつけようとした。

「誰だって、腹がへっている時は、お互いさまだよ」

「いらない!」

 少女は声を高くして、押しつけられた芋をはたくようにした。芋は私の手から離れて、ころころと土間にころがった。私はっとして、ころがった芋に手を伸ばそうとした。土間はぐちょぐちょに濡れている。

 たかが一片の芋と、今なら考えるだろうが、その頃の芋と言ったら、至大の価値を持っていた。私は未練がましく手をうろうろさせ、そして思い切って手をひっこめた。

 少女は脅えたような眼で芋を見、つづいて私の顔を見た。突然自分の顔を両掌でかくして、小走りに出口の方に走って行った。

 言いようもなく惨めな気持で、私はその後姿を見送った。少女の姿は出口に消えた。濡れた土間に、私と芋だけが残った。やりきれなさが私の胸を嚙んだ。つまらない思いつきのために、私は貴重な芋をうしない、しかも少女を傷つけることだけに終った。私は舌打ちをして、自分の頭を拳固(げんこ)でなぐった。

 

 そういうことがあると、どうも人間同士はうまく行かない。

 次の日から、私は食堂でその少女を見るのが苦痛であった。何でもないと思おうとしても、やはり意識が芋のことにからみついて、ぎくしゃくとなってしまう。

 それは少女の方も同じようであった。いや、同じと言うより裏返し、逆の形であったのかも知れない。その逆の形で少女はあきらかに私を意識していた。意識しながら私を黙殺しようとしていた。その日から私たちの視線は合おうとしなかった。合ってもパチッと音がするような具合で、すぐに外れた。

 そんなに具合が悪いのなら、食堂は広いのだから、窓ぎわの席に行くのはやめて、他の場所で食べればいいではないか。そう思ってもそうは出来なかった。席を変えること自体があの事件にこだわっているということの証明になる。そのこだわりを相手に知らせることになるのだ。席をかえるわけには行かぬ。少女が席をかえないのも、同じ理由からか。もっとも少女の側にすれば、席をうつす謂れはないかも知れない。

 だから私は食堂に通うのに、出来るだけ混雑した時刻をえらぶようになっていた。混雑していれば、その混雑にまぎれて、少女のことを意識しないで済む。

 ある日その混雑の中で、私はふっと少女が私のすぐそばに腰をおろしていることに気がついた。少女はわき目もふらず食事をとっていた。少女は一食分でなく、二食分を食べていた。

(あ、二食分を食べている)

 そのことがすぐ頭に来た。それはすぐにあのころがった芋につながった。私は手を曲げて自分の食膳をかくすようにした。無意識にそんな動作をとった。

(もうやらないぞ。もう誰にも芋をやらないぞ!)

 私は気持だけで力みながら、大急ぎで自分の食事をかっこんだ。

 それから食堂でその少女の姿を見るたびに、彼女が常に一度に二食分をとっているのに気がついた。この間までは彼女は常に一食分であった。それなのにどうしてそんな変化が生じたのだろう。金まわりでも良くなったのか。しかし少女の身なりは相変らず同じ色のセーターとモンペで、別段うるおっているようには見えない。変化は食事の量だけであった。もっともそのことだけで私に羨望を起させるに充分だったけれども。

 そしてある日、私は食堂の入口に、少女がズックの鞄を提(さ)げて立っているのを見た。 

 

 食票売場のすぐ横にたまり場があって、そこにいつも五人や六人の男や女が立っている。鞄を持ったり風呂敷包みを持ったり、さまざまの風体だが、その中には手巻き煙草や外国煙草、旅行者用外食券、石鹸や紙幣などがぎっしり詰まっている。天気の日にはそのたまり場で、雨の日はその連中は食堂内に移動する。極めて規模の小さいヤミ屋であるが、食堂利用者たちは彼らを重宝(ちょうほう)した。私にしても、時には二食分三食分を食べる関係上、どうしても彼等から旅行者用外食券を買い入れねばならぬ。また煙草も一日三本や四本の配給では足りないから、ヤミで買う必要がある。外国煙草には手は出せないから手巻き煙草。手巻き煙草はカスカスしてヨモギのにおいがした。

 旅行者用外食券は高かった。私のその頃の一月の給料を投じても、四十枚か五十枚しか買えなかった。だからこそ登録票の食い込みを極度に押える必要があったのだが。

 しかしどうして彼等は、その鞄や風呂敷の中に、あんなに多量の旅行者用外食券を所持しているのか。それが私の疑問であった。外食券を不要とするものは日本にはほとんどいない筈なのに、それらがまとめて右から左へ売られている。外食券の偽造団がどこかにいるのかも知れない。

 そのヤミ売り人の中に少女の姿を見出した時、私はあるショックを感じた。少女はズックの鞄を提げていた。それはかなりふくらんでいた。立っている感じからして、彼女は日向ぼっこをしているのではなく、あきらかに売人(ばいにん)の仲間に入っていたのだ。現に私が食票を買っている時、ジャンパー姿の若い男が紙幣を出して、その少女から赤丸印の洋モクを買っているのをちらっと見た。少女は無表情のまま、その青年にぼそぼそと礼を言った。

(どういうつもりであの少女売人の仲間入りをしたのかな?)

 食堂の中でぼそぼそとメシをかっこみながら、私はそんなことを考えた。考えなくてもそんなことはすぐに判ることであった。食べて行くためにきまっていた。食べるために、栄養失調にならないために、彼女はヤミ屋になったのだ。他人から芋をめぐまれるような境遇であるよりも、彼女は敢然とヤミ屋の職業をえらんだのだろう。

 少女がその売人に仲間入りをしたことは、私には具合が悪かった。時々売人から物を買うのに、そこに少女がいては面白くないような気持であった。まだ私はあのことにこだわっていた。しかしそれは仕方がなかった。

 

 そして月末のある日、私はどうしても十枚ほどの外食券を買う必要に迫られた。登録分は食べ尽して、月がかわるまであと三日もあったのだ。

 私は食票売場の前に立たず、ぼんやりとその売人のたまり場に立った。売人のどれから券を買おうか。もちろんどれから買ってもよかった。誰から買っても値段は同じだったのだから。ただ私はその少女の存在にこだわっていたのだ。少女から券を買うべきか。それも何かわざとらしく、こだわりを気取られるおそれがある。黙殺して他の人から買うべきか。それも何だか別にこだわっているような気がする。

 そんな自意識が私の態度を固くさせ、つまり少時(しばらく)私はもじもじしていたわけだ。

 その私の顔を、少女はまっすぐに見詰めていた。その視線がますます私をもじもじさせた。少女は表情を凝らしたまま、いきなり口を開いた。

「外食券かい。それともタバコ?」

 私は少女を見た。少女は鞄を胸にかかえるようにして私をにらんでいた。その声は単純な話しかけにしては憎悪に満ちていた。

「外食券だよ?」

「金はあるかい、兄さん。一枚三円だよ」

 少女は表情を動かさず、きわめてぞんざいな口の利き方をした。

「金がなけりゃ、その上衣を脱ぎなよ。二十枚と取っ替えるよ」

 少女は右手を伸ばして、私の着ている復員服を指差した。私は黙っていた。黙ったまま十円紙幣を三枚突出し、十枚の外食券を受取った。

 その一枚を切取り、食票売場に差出しながら、私はもう来月からはこの食堂は止めることにしよう、他の食堂に登録替えをしようと決心していた。そして実際にそうした。

 

 それから五年ほど経ったある日、私は都電の中でその少女にめぐりあった。もうその頃は少女ではなく、彼女はすっかり成熟していた。成熟してはいたけれども、その大きな眼の感じからしても、それは彼女に相違なかった。

 彼女はもうモンペ姿ではなかった。ちゃんとした和服で、持っているハンドバッグの感じからも、かなり裕福に見えた。それに彼女は三歳ほどの男児を一人連れていた。彼女の子供であることは、その男児の眼の形でもはっきりとしていた。彼女は座席に腰をおろし、窓外の景色についていろいろ子供に説明していた。

 私は車掌台の近くに立って、それを見ていたのだ。彼女は私に気付いていないらしい。しかし私の顔を見たとしても、私であると認めるかどうか。(ああ、あれから五年経ったんだな)

 ある苦痛と共に、私はそう考えた。五年経ち、食糧事情はずっと好転して、かつてのように芋に執着するような時代ではなくなっている。しかしあの事件の記憶は、記憶として好転することはなく、やはり私の胸に苦痛として残っているのだ。

(五年経っても、十年経っても、あんなことがあったということ、一片の芋が濡れてころがったということは変らない)

 私はそして次の停留場でそっと電車を降りた。まだ目的の停留場ではなかったが、やはり乗っていることに耐えられないような気持があった。私をおろして、電車は彼女と共に彼方に走って行った。私はぼんやりと空を見ながら次の電車を待った。

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