日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (15) 好古家西川六兵衛
図―758
私は西川六兵衛という茶人で陶器にかけては中々食えぬ老人を訪問した。「花形装飾薩摩」が三百年も古いものだと思っているのは、この先生である。彼は蜷川、古筆その他あらゆる人の説を否認し、私がすべての証拠が彼とは反対のことを示しているといったら、図758のような顔をした。
[やぶちゃん注:「西川六兵衛」不詳。情報をお持ちの方、御教授下さるとありがたい。
「花形装飾薩摩」底本では直下に石川氏による『〔錦手?〕』という割注が入る。「錦手」は「にしきで」と読み、主に白釉(はくゆう)を施した磁器に不透明な赤釉を中心に緑・黄・紫・青などの透明釉で上絵をつけたもの。古伊万里などで知られるが、薩摩焼では「白薩摩」「白もん」と呼ばれる、現在の日置市の旧東市来町の美山にある苗代川(なえしろがわ)窯で焼かれていた陶器が有名。ここは藩主向けの御用窯で金・赤・緑・紫・黄などの華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手を主とした。元々は「苗代川焼」と呼ばれ、薩摩焼とは名称を異にしていた(後半部はウィキの「薩摩焼」に拠る)。「三百年も古いもの」とあるから、近代に出来た「京薩摩」ではない(但し、西川にとってはである)。因みに、明治一六(一八八三)年から単純計算で「三百年」前は天正一一(一五八三)年で、薩摩焼は文禄・慶長の役(一五二九年~一五九八年)で朝鮮出兵した薩摩藩十七代藩主島津義弘が八十人以上に及ぶ朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まるから、謂いとしてはおかしくはない。
「蜷川」既に多出している蜷川式胤(にながわのりたね)。但し、この時点で既に故人。]
図―759
私は西川氏と彼の陶器を見る約束をしたのであるが、家へ行って見ると、風が強いので蔵を封じて了い、それをあける気はしないから、僅かの品しか私に見せることが出来ぬといった。然し彼は戸棚から大きな籠に似た箱を引っ張り出し、その中から若干の陶器の標本を出した。この箱には人が背負うことが出来るように、紐帯がついていた(図759)。
[やぶちゃん注:「背負い箱」である。]
ここ数日間、ひどい風が吹き続き、街頭いたる所で大火事に対する準備が行われつつある。商品は僅かしか陳列して無く、土蔵は半泥で封じられ、人々はいざ封じるという時の用意に、店の前の穴の中や、二階の窓の下のつき出た棚にのっている大きな甕の中の泥を、こねている。恐しい大火や、破壊的な地震のことを思えば、住宅建築があまり進歩しなかったのも無理ではない。一時的の小屋以上のものは、建てても無用である。
[やぶちゃん注:こういう「泥入れの甕」やそれを捏ねている様子、土蔵をそれで封じるさまなど、当時の当たり前の風俗は実は時代劇や明治期を舞台にした映画やドラマなどではまず描かれない。これが明治一六(一八八三)年の、それも異邦人であるモースによって記された眼前の帝都東京の当たり前の風景であることを我々は忸怩たる思いで読まねばならぬと私は思う。]
私の持っている古い本には、古筆家の系図が出ている。十四代にわたって彼等は茶人であり、陶器の専門家であり、古い陶器、書いたもの、懸物の鑑定にかけては、権威者であると見られている。
[やぶちゃん注:「古筆家」先に出た好古家古筆了仲の家は代々の古文書鑑定家の家系で、江戸前期の古筆了佐を初祖とする。「了仲」は古筆別家の名跡。特に徳川中期の鑑定家であった第三世了仲(明歴二(一六五六)年~元文元(一七三六)年:名は守直、通称を務兵衛、初めは清水了因と称し、古筆了任の養子で古筆了伴の門人)は幕府古筆見となっている。個人サイト「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」の「古筆家」の頁が同家系に詳しい。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (14) 日本の門 | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (16) 地震と凧揚げ »