日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (25) 謠の稽古(続)
私はすでに数回謡の稽古をした。私の耳はかなり敏感なのであるが、いまだに継続する二つの調子を覚えることも、如何なる調子を思い出すことも出来ない。日本の音楽が、如何に我国の音楽と異っているかを知るのは、興味深いことであった。彼等の写本音楽には、楽譜もなければ、何事に関する指標もなく、只短い線を水平に引いたり、上を向けたり、下を向けたり、あるいは上下に波動させたりして、抑揚を示すものがある丈である。私の稽古は全然諳誦によるので、先生が先ず一行を歌い、私がそれに従って歌う。殆ど始るや否や、私は先生の歌いようが、そのたびごとに、すこしずつ違っていることに気がついた。時にある調子が嬰音にされ、時に同じところが半音下る。私の考では、謡は唱歌ではなく、ヨークシャの田舎者の会話に似た、抑揚のある朗誦である。数年前有名な生理学者の兄弟であるドクタア・フィリップ・ピー・カーペンタアは、彼がヨークシャの農民達の間で耳にした会話を、実際、楽譜にした。彼はそれを私に歌って聞かせ、私はそれをしよっ中覚えている。私が今習いつつある音楽は、短い線を、上へ向けたり、下へ向けたり、平にしたりして、書いたものである。私の先生は始める時、朗々たる声を出すためには、下腹部を拡げていなくてはならぬといった。これは絶間のない緊張で、中中どうして、容易なことではない。各種の日本の音楽――声楽でも器楽でも――を聞く外国人は、先ず面食い、次に大笑をする。古い音楽、それは日本人の目に涙を浮ばせるようなものが歌われる席に列し、そこで聴衆中の英国人が軽侮的な笑声を立てるのを聞いたりすると、誠に恐縮にたえぬ。東洋には、変った音楽がある。興味を刺戟する音楽もあれば、思わず足で拍子を取るような音楽もあるが、日本の音楽は、外国人にはまるで判らないのである。彼等の絵画芸術が、初めは我々には不可解であるが、それに親しみ、それを研究するに従って、追々その持つ抜んでた長所が見えて来ると同様に、日本の音楽も研究すれば、我々が夢にも見ぬ長所を持っているのだろうと、私は思う。この故に私は、日本の音楽の一つなる謡曲を学び、有名な先生の梅若氏についたのである。コーネル大学出身の矢田部教授は、外国からいろいろな事柄を取り入れることを心から賛成し、またそれ等が優秀であることを認めている一方、日本の音楽が我々のよりも優れていることを主張している。
[やぶちゃん注:「諳誦」「あんしょう」。暗誦に同じい。
「嬰音」半音上がること。シャープ(#)。
「半音下る」変音。フラット(♭)。
「ヨークシャ」エミリー・ブロンテの「嵐が丘」で知られる、イングランド北部の田園風景で知られるヨークシャー(Yorkshire)。現行ではイースト・ライディング・オブ・ヨークシャー、ウェスト・ヨークシャー、ノース・ヨークシャー、サウス・ヨークシャーの四行政区画から成る。
「有名な生理学者の兄弟であるドクタア・フィリップ・ピー・カーペンタア」イギリスの貝類研究家で牧師であったフィリップ・ピアソール・カーペンター(Philip Pearsall Carpenter 一八一九年~一八七七年)。彼は実はモースの生涯を決定づけた重要な人物である。一九五九年五月八日の朝、既に貝類コレクターとして知られていた当時二十一歳の青年モースを故郷ポートランドに彼が訪問、その月の末二十六日にはカーペンターから思いがけない手紙が舞い込む。彼はモースにとって雲の上の存在であった博物学者ルイ・アガシー(Louis Agazzis 一八〇七年~一八七三年)にモースを推薦して呉れ、アガシーも逢いたがっている旨の内容だったからである(因みに一八三八年生まれ)。これによってモースはアガシーの助手となって、正規の博物学の道を歩むこととなったのである。フィリップ・ピアソール・カーペンターなくしてモースはなかったといってもよいし、モースが日本へ来ることもなかったとも言えるのである(出逢いの箇所は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」を参考にした)。なお、彼の「有名な生理学者の兄」というのはイギリスの生理学者ウィリアム・ベンジャミン・カーペンター(William Benjamin Carpenter 一八一三年~一八八五年)のことで、この兄ベンジャミンは当時のイギリスの心霊ブームの中で降霊によるとされた「テーブル・ターニング(table turning)」(本邦の「こっくりさん」の濫觴)を、単なる生理学現象に於ける「観念運動作用(ideo-motor action)」として喝破したことで知られる。
「コーネル大学出身の矢田部教授」既注のモースの東京大学での同僚の植物学者で、「新体詩抄」でも知られる詩人で理学博士の矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)は明治四(一八七一)年に渡米、一年後にコーネル大学に入って植物学を学び、モース初来日の明治一〇(一八七七)年に東京大学初代植物学教授となっている(以前にも注しているが、彼は満四十七で亡くなっているが、これは鎌倉の海での遊泳中の事故死(溺死)である)。]
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