どうぞ裸になって下さい 村山槐多 (自筆草稿断片より やぶちゃん完全復元版)
どうぞ裸になって下さい(自筆草稿断片より やぶちゃん完全復元版)
どうぞ裸になって下さい
ねえさん
うつくしいねえさん
どうぞ裸になって下さい
羽織からゆもじまで
すつかりとって
まる裸になって下さい
ああ 心がをどる
どんなにうつくしいだらうか■ろ
あなたのまる裸
見 {ねえさん}とても見ずには居ら{すまさ}れませんぬ
どうぞ裸になって下さい
うたまろの畫の樣なねえさん
[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『どうぞ裸になって下さい』」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトの拡大画像)。字配もなるべく復元を心掛けたが、短い詩篇ながら、抹消と挿入が複雑なので一部を記号で整序した。使用漢字はなるべくそのままのものを採用したが、「様」の略字は正字化した。
少しく説明する。まず、拗音表記は総てママであるので注意されたい。即ち、現行のそれらは拗音部に関して言えば、歴史的仮名遣表記に従って綺麗に消毒されたものであることが判るということである。
・表題は本文罫の四行目(最右端の有意に幅広の罫線外を一行と数えるなら五行目)に書かれているが、その二行前(私の判断する本文罫一行目のほぼ中央(標題の「って」の右手位に大きな「レ」点のようなチェック・マーキングが一つある。但し、これは本文のインクの色とは全く異なる。
・標題(四行目)と初行(六行目)の間に「ねえさん」が書かれてあるが、三本以上の取消線によって抹消されている。
・「羽織からゆもじまで」は二本の取消線で抹消されている。
・「すつかりとって」も二本の取消線で抹消されている。
・「ああ 心がをどる」の感動詞「ああ」の後には有意に半角程度の空きが認められる。
・本文七行目は恐らく、最初に、
「どんなにうつくしいだらう」
と記したが、気に入らず、
「いだらう」
を抹消して、
「かろ」
とを右に加えて、
「うつくしかろ」
訂したものとは思われるが、この「かろ」の箇所は「か」と「ろ」の間に明白な一字を書いたものを徹底的に黒く塗りつぶした跡がある。推定としては、「うつくしから」(う)と書こうとして「ら」を抹消して「かろ」とした可能性が考え得るようには思う(潰された字は判読不能で、あくまで推理に過ぎない)。
・本文九行目は錯綜している。「見 {ねえさん}とても見ずには居ら{すまさ}れませんぬ」の{ }は挿入を指し、{ }は挿入したが抹消したことを示す。想定される推敲順に説明する。
①行頭に「見」という漢字を第六画まで書きながら放置している。実は抹消線はない。しかし、この最後の七画目を書かない字は彼にとっては無効抹消の字と判断されて意識外に廃棄されたものと判断して抹消線を附したものである。
②恐らく最初は、以下二字目から改めて、
「とても見ずには居られません」
と書いたのであるが、気に入らず、そこで、
「居ら」を抹消するも、「れ」を残しておいて、「居ら」を「すまさ」と訂した。
その結果、
「すまされ」となり、
今度は以下の「せん」を抹消して、
「すまされぬ」
とし、全体を、
「とても見ずにはすまされぬ」
訂したのである。ここで大事なことは「れ」は生きている点である。
③冒頭の抹消みなしの「見」の不完全字の下に向けて、最終行の後の左から、アーチ状の挿入記号があり、その左後方には、
「ねえさん」
とある。ところが、これは二本の抹消線で消されてある。これは①や②に先行するものかも知れない。
・最終行は全抹消されている。
以上から、この草稿の決定稿は私なり整序するならば、以下のようになる。
*
どうぞ裸になって下さい
うつくしいねえさん
どうぞ裸になって下さい
まる裸になって下さい
ああ 心がをどる
どんなにうつくしかろ
あなたのまる裸
とても見ずにはすまされぬ
どうぞ裸になって下さい
*
さて、これは現行の槐多の知られた詩篇「どうぞ裸になつて下さい」の草稿――というよりも決定稿と私は断ずる――であるが、驚くべきことに、大正九(一九二〇)年アルス刊「槐多の歌へる」も、無論、それを踏襲した現行の平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」も、これは、
どうぞ裸になつて下さい
うつくしい□□□□
どうぞ裸になつて下さい
まる裸になつて下さい
ああ心がおどる
どんなにうつくしかろ
あなたのまる裸
とても見ずにはすまさぬ
どうぞ裸になつて下さい
となっている(本文二行目の「どうぞ」は「槐多の歌へる」では「どうそ」であるが、ここは誤植と断じて訂した)。「おどる」は孰れもママ。「全集」では編者注があり、伏字部分を『お珠さん』と推定復元するが、槐多がストーカーした彼女の固有名詞をここに復元出来る根拠は示されていない。ところがである! この草稿によって、
彌生書房版全集の伏字推定の「お珠さん」は誤りであり、「ねえさん」であったことが判明した!
のである!
しかも! 七行目は、
飢えた性獣のような乱暴な「とても見ずにはすまさぬ」という云い方ではなくて、より自然で礼儀正しい日本語である「とても見ずにはすまされぬ」であった!
のである! またしても我々は、村山槐多の真の詩の響きを、実に九十九年後の今日只今(本篇は大正六(一九一七)年作)聴くことが出来たのである!]
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