破片 梅崎春生 (「三角帽子」「鏡」二篇構成)
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年一月号『文学界』に発表され、後の単行本「春日尾行」(昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊)に所収された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。ブログ版では傍点「ヽ」は太字とした。
本作は「三角帽子」と「鏡」の二篇構成ではあるが、両二者には、この三年前に発表されたかの三篇構成の「輪唱」(リンク先は私のPDFファイル)のような顕在的連関性は認められない。寧ろ、創作ノートの中の、似たような感触の「破片」っぽい小品乍ら、棄て難く、しかもそれが或る種、同じ奇妙な体臭のする作品断片であったのを、一先ず、組み合わせてお見せしよう、という雰囲気があるように私は感ずる。
なお、後者の「鏡」は、私が梅崎春生に耽溺した最初期から偏愛する一篇である。私は人が糸になろうが棒になろうが箱になろうが、或いは人が棺桶やら壁やら映写スクリーンの中やらから突如出現して来てもちっとも驚かぬし、つまらぬし、退屈な人間である。況や、それらが真正のシュールレアリスムだなんどとも、これ金輪際、全く思わない人種である。ところが、この「鏡」――これは今、読んでも実に新鮮にして凄い。――正直、このエンディングこそ――飴のように延びた平凡極まりない日常の現実の中に起り得るところの――恐るべき超現実(シュールレアリスム)の戦慄である――
以下、簡単に語注しておく。まず、「三角帽子」のパートから。
・「筒袖」「つつそで」で、和服で袂(たもと)がない筒状の袖の室外用の作業衣。古くより漁師や職人や物売りが着用した。
・「たっつけ」とは、「裁付」「立付」などとも書き、山袴(やまばかま)の一種である裁着袴(たっつけばかま)のこと。ズボン状に股が割れており、膝から下が脚絆を縫い付けてぴったりとさせた活動し易い実用的な袴。膝下部分に脚絆(きゃはん)ある。下肢に反して腰回りはゆったりとしていて保温性がある。古くは主に武士が用いたが、実用性の高さから樵・猟師・職人・大道芸人・役者などが好んで用い、民間にも広まった。また、伊賀忍者が用いたので伊賀袴とも称する。現在でも相撲の呼出、獅子舞の舞子などが穿く。軽衫(かるさん)も同グループの下穿きである。以上、前の「筒袖」と合わせて概ね、主人公の姿は想起出来るものと思う。
・「一町」約百九メートル。
・「顱頂」は頭の天辺(てっぺん)、頭頂のこと。
・「胴乱」は「どうらん」で、我々は専ら、野外採集した昆虫や植物の類を持ち歩くために肩からさげる容器をいうが、ここは薬や印などを入れて腰に提げた四角の革や布製の長方形の袋のこと。江戸初期に鉄砲の弾丸を入れるために用いられたのが始まりで、当初は革や羅紗等の布で作られたが、明治初期には再び革製が流行し、手提げ胴乱や肩掛け胴乱も作られた。
・「顫動」は「せんどう」で、小刻みに震えること。細かく振動すること。
・「盗汗(ねあせ)」漢方では寝汗を盗汗(とうかん)と呼ぶ。
・「磅礴(ほうはく)」「旁礴」「旁魄」などとも書き、「ぼうはく」とも読む。混じり合って一つになること、或いは、広がり満ちること・満ちて塞がることであるが、ここは両義を含むと読んでよかろう。
・「優曇華(うどんげ)の花」昆虫綱有翅昆虫亜綱脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属する完全変態するクサカゲロウ類の卵塊。長く細いい卵柄(らんへい)を持ち、一個ずつ産み付けられる場合が多いが、種によっては卵柄を紙縒(こよ)り状に絡ませた卵塊として葉などに産み附けたりする。窓枠や屋内の電灯の笠などにも産卵することがあり、私が小さな頃はよく見た。古く日本に於いてはこれが植物と誤認され、しかもその不思議な形状から、三千年に一度だけ花が咲き、開花する時には如来がこの世に顕現するという「優曇華の花」と言い囃されたのであった。なお、クサカゲロウ類は真正のカゲロウ類(有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera に属する、ヒラタカゲロウ亜目 Schistonota と マダラカゲロウ亜目 Pannota に属し、不完全変態である)ではないので注意されたい。詳しくはこちらの、橋本多佳子の句「薄翅かげろふ墜ちて活字に透きとほり」の私の「薄翅かげろふ」の注を参照されたい。
次に「鏡」のパート。
・「仁木寓」の「寓(ぐう)」は老婆心乍ら、これは彼の下の名前ではない。仮り住まいや寓居の謂いから、自分の住まい・住所を遜(へりくだ)っていう語で、名前を出さずに姓だけを表札にした「~宅」「~方(かた)」ほどの謂いである。
・「ちりけだった」聴き慣れず、私は使ったことのない語句であるが、「ちりけ」は「身柱」「天柱」と書き、灸を打つツボの名称で、襟首の下の両肩の中央、所謂、「ぼんのくぼ」を言うから、ここはそこから、首筋や襟首が総毛脱立つほどゾッとすることを指すと考えられる。江戸時代に「ちりけから水を掛ける」という、ぞっとする形容の慣用句がある。]
破片
三角帽子
その帽子は、古道具屋のごたごたした飾棚に、刀架(か)けの鹿の角の先にかけられて、ぶらりとさがっていた。地は黒いビロードで、ぐるりに白い房がついている。三角形の帽子である。型も大きくて、子供が冠るものとは思えない。しかしどんな大人が、こんな帽子をかぶるのだろう。よほどふざけた気分でもなければ、これをかぶって人中は歩けないだろう。
三郎は毎日その店先を、その帽子を横眼で見ながら通った。あの帽子はいくら位(くらい)するのだろう。あれは本当におれに似合うかしら、と思ったりする。するとその度に、何かへんに追っかけられるような気持になって、三郎はとっとっと足を早める。
もう長いこと、三郎は学校に行っていなかった。籍だけは置いてあるのだが、どうも通う気持が湧いてこない。生活に追われているせいもあった。アルバイトとして始めたこの飴売りの商売も、いつしかたまった皮膚の垢(あか)のように、しつとりと身につき始めていた。戦場に引きずり出され、学生生活を中断されたので、三郎は二十九になっても、まだ大学生であった。そしてそろそろ、角帽が似合わない顔付になってきていた。だから飴売りに出かける時も、決して制服制帽は使用しない。使用するとかえって、贋(にせ)学生じみて見えるのである。筒袖の商売衣を着て、たっつけを穿いたりする時、いつも老書生の悲哀が、三郎の胸をほろにがくした。
三郎の商売用の小鼓は、古ぼけてはげちょろけていたけれども、音だけはよく徹(とお)った。テンテンテン、テン、テンテンと打つと、一町も向うから、子供たちがばらばらと駈けてきた。その子供たちを箇所にあつめ、一席童話を聞かしてやり、そして飴を売る。春には春の陽が、秋には秋の陽が、その三郎の顱頂(ろちょう)をじかに照りつけた。まだ二十九だというのに、もう三郎の顱頂は、うっすらと禿(は)げ始めている。それが彼には少しかなしかった。
「帽子がひとつ欲しいな」
童話をしゃべっている最中にも、そのことがふと三郎の心をかすめたりする。そして話がとぎれたりする。しゃべる童話のほとんどは三郎の自作で、その日の気分で、即席に筋を変えたりすることもあった。童話の筋は無限に思い浮んだ。それを口にしてしゃべるのは、何故ともなくたのしかった。話が終ると、子供の大部分は、ふたたびばらばらと散ってしまう。残った何人かの子供たちが、恩きせがましい顔付で、三郎から飴を買うのであった。三郎は金を受取ると、肩から提(さ)げた胴乱をひらき、飴をひとつずつ数えて手渡してやる。そして鼓をテンテンとたたきながら、また次の町へ歩いてゆく。じつはこの古鼓も、あの古道具屋から、買い入れたものであった。古道具屋の主人は、四角な眼をもった、ひどく無愛想な男である。あまり繁昌していそうにもない、貧寒な店のなりであった。飾棚のくもったガラス越しに、どこか磨滅したり風化したりしたような品々が、いつも同じ配列で、ひっそりとほこりをかぶっている。あのビロードの三角帽子も、いつでも同じ恰好(かっこう)や、鹿の角のさきにぶら下っていた。
「あんな帽子が一体、売り物になるのかしら?」
あれは売り物ではなくて、鹿の角先を保護するために、かぶせてあるのかも知れない。そんな風(ふう)に三郎は考えてみたこともあった。しかし片方の角だけ保護するのもおかしいし、わざわざ帽子をかぶせるのも変な話だ。やはり飾棚にあるのだから、売り物でない訳がない。だとすれば、いったいどこの誰が、あんな帽子を買うのだろう。たとえばテンテン飴屋の自分のような者をのぞいた、どこの誰が?
「おれがあの帽子を買い、そしてかぶって歩けば――」
道を歩いている時などに、ふと三角帽子のことを思い出すと、三郎はかんがえる。
「――その時は、おれは完全にアメ屋になってしまうだろう。アルバイトでも副業でもない、まぎれもない本職のテンテン飴屋に」
黒い三角帽子をかぶり、たっつけを穿き、枯れた悠長な鼓音をひびかせながら、ひとり街中を歩いている自分の姿を、三郎は漠然と脳裡に組立てている。ぴったりと額縁にはまったように、その想像の風景はゆるがない。そのことが三郎に、ある焦りと畏れをもたらしてくる。その度に三郎は、何となく手をかざし、ついでに掌を顱頂にあててみたりする。薄くなった毛髪が、ぼやぼやと掌にふれてくる。そんな時彼は、ひとつの傾斜のようなものを、ぼんやりと足元に感じている。そのなめらかな傾斜面を、辷(すべ)り落ちようとする自分と、辷り落ちまいとしている自分とを。
「アメ屋になったって、いいんだけどな」
三角帽子は売れないと見えて、相変らず飾棚の中にぶら下っていた。来る日も来る日も、同じ位置に、同じ恰好で、ぶらりと下っていた。その日の天気の具合で、それはへんにおびやかすような艶を帯びて、ねっとりと彼の眼に迫ってくることもあった。柔かそうな黒いビロード生地(きじ)である。眺めるだけで、頭にふれてくる感触が想像できるようであった。
「あの帽子を買って、もう学校は止めようか」
そう思うとさすがに、気持の抵抗がないでもなかった。学問に未練があるというのではない。ひとつのところに自分が収まってしまうのが、すこし淋しいのであった。しかし自分がアメ屋になろうとなるまいと、この世にいささかの増減もない。また意見や文句を言う人もない。両親はすでに亡いし、兄が二人いる筈だが、それも戦争このかた、ずっと消息が絶えていて、どこにいるかも判らない。アルバイトにテンテン飴屋を選んだのも、初めは兄達とめぐり逢いたい願いからであったのだが、近頃はその気持もうすれてしまった。好きな童話を子供相手にしゃべり、それで生活の資を得る。ただそれだけであった。
「この二三年で、おれもずいぶん磨滅したもんだな」
夜眠りに就くときなど、彼はときどきそんなことを考えたりする。そう考えてみるだけで、先には進まなかった。一日中歩いて疲れているから、思いにふけるより、眠る方がたのしいことであった。それに三郎は、寝つきはいい方であった。すり減った金具のように、身じろぎもせず彼は眠る。
そのような夜々の眠りの間に、三郎はあの三角帽子のことを、時たま夢に見ることがあった。夢の中の三角帽子は、現実のそれとちがって、もっと妖(あや)しいなまなましさをたたえて、彼に迫ってくるようであった。それは黒い生地をひとりでにむくむくと顫動(せんどう)させていたり、彼を包みこむほど巨大な形をしていたり、生きた黒いかたまりとなって、ひとしきり彼を追っかけてきたりした。その時々の夢によって、その形相も異なっていた。いつもおびただしい盗汗(ねあせ)とともに、その次の瞬間、三郎は眼をさましている。帽子の夢は常に、彼にはひどく後味がわるかった。夢の中にただよっていた憎しみの感情が、そのまま寝覚めの意識に持ち越されているからであった。彼が帽子を憎んでいるのか、帽子が彼を憎んでいるのか。また別のものが別のものを憎んでいるのか。とにかくそうした磅礴(ほうはく)たる憎悪の感情が、夜半に醒めた三郎の奥歯を、いつもきりきりとかみ鳴らしてくる。
「あの店先から、あの三角帽子が、早く消えてなくならないかなあ」
しかし三郎が買い求めない限りは、どうしてあの帽子が飾棚から、姿をかき消すことが出来るだろう。その思いは、ひとつの確実な予感のように、じわじわと三郎の肩にかぶさってくる。彼は貧しい自分の部屋の鴨居(かもい)を見上げる。そこには商売用の古鼓とならんで、ボール箱でつくった貯金箱がかかっている。毎日売上げの一部をかならず投げこむので、ある程度の金がそこにたまっている筈だ。しかしこれをかんたんに費消するという訳にはいかない。もうずっと前から、月謝滞納の催促を、彼は学校から受けている。学問をつづけようと思うのなら、この日掛け貯金をもって、滞納にあてねばならないのであった。
「まだ売れていない!」
毎朝商売用正装をまとい、古道具屋の前を過ぎるとき、いつもきまって彼はそう思う。ぶらりと下った黒ビロードのかたまりを、するどく横眼で睨みながら、三郎はすたすたとその店先を通り抜ける。なにか放っておけないようないらだちが、しだいに彼の足を早めてくる。足裏をわざと地面にたたきつけるようにして、彼は急ぎ足になる。
「よし。明日まで売れなければ、このおれが買ってやる!」
なにも思い惑うことはない。あの帽子にしても、鹿の角の先から、おれの頭に引越すだけの話だ。なにほどのことがあろう。そう思いながら三郎は鼓をとり直して、テンテン、テンとたたき始める。昨日も一昨日も、そうであった。その音を聞きつけて、露地の奥や塀(へい)のかげから、子供たちが仔猫のようにばらばらと走って集まってくる。
空地に子供たちをあつめて、彼は帽子の話などをしている。「王様の帽子」「帽子のお化け」「タクラマカン沙漠の大帽子山」、話が終ると子供たちは、「よっちゃん」とか「まあちゃん」とか呼び交しながら、どこかにちりぢりに散って行ってしまう。残った四五人の子供たちが、お情けで買ってやるぞといった顔付で、てんでに金を三郎に突き出す。そのとき陽が照っていれば陽が照ったで、三郎の顱頂(ろちょう)の薄毛は、灰色にぼやぼやと輝いている。風が吹いておれば風が吹いたで、その薄毛はすすきの穂のように、ちりぢりに慄えながら、なびき動いている。それはどこか優曇華(うどんげ)の花にも似ている。
鏡
隣の家に、妙な男が引越してきた。
引越してきたその夜、その男は次郎の家に、鋸(のこぎり)を借りにやってきた。いくらかおでこで、耳が狐みたいに切立っていて、撫で肩で、どことなく身のこなしに、へんに女性的な感じのする男であった。玄関の暗がりに立ち、小腰をかがめて、押しつけるような声で、
「如何でしょう。ひとつノコを、貸してやって頂けませんか」
揉(も)み手さえしている様子である。次郎はだまって立ち上って、台所の棚に鋸をとりに行った。その間、男はしきりに首を伸ばして、次郎の家の内部を、じろじろとのぞいていたらしい。再び次郎が玄関に出てくると、はっと頸(くび)をちぢめるような動作をしながら、
「これは、これは。では、明日にでも、すぐお返しに参上つかまつります」
男が鋸を持ってそそくさと帰ってゆくと、次郎はなんだか落着かない気分になって、土間に飛び降りると、玄関の扉をいつになく厳重に戸じまりをした。次郎の家は、四畳半と六畳の二間で、玄関から首を伸ばせば、家中が全部見渡せるのである。お粗末な借家造りで、二軒長屋の片側の家であった。男が引越してきた隣家というのは、つまり次郎の家と背中合わせになった、反対側の家なのである。家主が権利金をつり上げたのか、そこは長いこと空屋になっていた。
それから一週間経っても、男は鋸を返しに来なかった。
ある日曜日、次郎は急に鋸が要ることがあって、隣の家にそれを取り返しに出かけた。隣と言っても、背中合わせの形になっているので、その玄関まではぐるりと迂回(うかい)しなければならないのである。するとその玄関には「仁木寓」という新しい表札がかかっていた。仁木という姓なのだと思いながら、次郎はとにかく玄関の扉を引きあけた。この家を訪問するのは、これが次郎にははじめてであった。そのとたんに次郎は、なんだか奇妙な感じの空気が、全身にぶわぶわと押し寄せてくるのをかんじた。
扉の音を聞きつけたと見えて、仁木が奥の部屋から飛び出してきた。女物と見まがうばかりの派手なハンテンを、ぞろりとまとっている。どうぞ、どうぞ、と切なく誘うものだから、次郎は下駄を脱いで、とことこと六畳の部屋に上った。さて座布団に坐って、仁木と相対して見ると、それでも座の空気は妙に落着かなく、ふしぎな違和感が次郎を膜のように包んでくるようであった。次郎は眼をきょろきょろさせて、しきりにあたりを見廻した。
「なにぶん、まだ一向に、かたづきませんで――」
弁解するような口調で、仁木はそんなことを言ったりした。しかしその部屋は、割にきちんとかたづいていた。次郎に奇妙な違和感をあたえるのは、その部屋の形や調度の有様なのであった。それは次郎の家の内部と、そっくり裏返しになっていた。背中合わせの家だから、四畳半六畳台所という間取りも、そのまま逆になっていたし、仁木の乏しい家具や調度頼も、大体次郎の家をひっくりかえした位置に、きちんと配置してあった。そのことが次郎には、なんだか生理的に面白くない感じであった。やがて次郎は低声で催促した。
「じつはこの間お貸しした鋸を――」
「あ。すっかり忘れておりました」
派手なハンテンの裾をひるがえして、仁木はひらりと台所の方に立って行った。のぞくともなしにそこをのぞいていると、仁木の台所にも、次郎の台所と同じような棚があって、次郎がいつも鋸をしまう場所から、今仁木が鋸をとり出そうとしているところであった。嘔(は)きたいような厭な戦慄が、その時かすかに次郎の咽喉(のど)をはしった。
やがて鋸をもって自分の家に戻ってきても、次郎は何かへんに落着かなかった。自分の家でありながら、自分の家ではないような気がした。彼はしきりに家中を見廻して、眉根を寄せたり、また何かを考え込む顔付になった。そして立ち上って鋸を、六畳間の袋戸棚の奥深くしまい込んだ。
それから四五日経った。扉をがたがたと引きあける音がして、仁木がまた玄関に入ってきた。
「へえ、こんにちは。どうかビールの栓(せん)抜きを、貸してやって貰えませんか。直ぐお返しにあがりますが」
茶簞笥(ちゃだんす)の抽出しをごそごそ探している間中、次郎は背後に仁木の粘っこい視線をかんじていた。栓抜きぐらいは自分で買えばいいじゃないかと思ったり、また貸したくないような気持になったりして、なかなか栓抜きは見付からなかった。やっと抽出しの底から見付け出すと、次郎はむっとした表情で、それを仁木の掌に手渡した。仁木の掌は、女のそれのように小さく、柔かそうであった。その掌で栓抜きをにぎってぺこぺこ頭を下げながら、仁木はあたふたと戻って行った。そしてその栓抜きも、仁木は返しに来なかった。
三日目になると、次郎はそれが要るという訳ではなかったが、何だか放って置けないような気分にかられて、杉の生籬(いけがき)をぐるりと迂回し、仁木の玄関にのりこんで行った。この前と同じように、仁木はハンテン姿で勢よく玄関に飛び出してきた。
「さあ。よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ。どうぞ」
六畳間に上って、座布団に坐りこむと、次郎はこの前の妙な感覚が、身体によみがえってくるのを感じた。しかもその奇妙な感覚は、この前の時よりも、なぜだかずっと明瞭で、ずっと切実な感じであった。
「ああ、栓抜きでございましたね」
仁木は横這(ば)いに部屋のすみに行ったと思うと、見るとそこには次郎の家のとそっくりの茶簞笥(ちゃだんす)が置かれていた。次郎は咽喉の奥がグッと鳴るような気がした。この前訪問したときは、この茶簞笥はなかったものである。あれ以後に買ったものに違いなかった。その同じ位置についた抽出しを、仁木の手がしきりに探っている。
「ええと、たしかにここに、しまって置いたんだがなあ」
それから四五日すると、仁木はフライパンを借りに来た。それを取戻しにゆくと、今度は四畳半の部屋に、次郎の家のと同じ型の長火鉢が殖えていて、鉄瓶がシュッシュッと湯気を立てていた。その鉄瓶の把手(とって)の形も、次郎の家のとそっくりであった。
「なにしろ戦災でみんな焼かれてしまいまして――」
仁木は揉み手をしながら、あやしい眼付でお世辞笑いをした。
「――それでも少しずつ、おかげさまで、道具がととのって参ります」
それから四五日目ごとに、仁木は何かしら次郎の家に借りに来た。ある時はシャベルであったり、梯子であったり、針と木綿糸であったり、ある時は歳時記であったり、すり鉢であったり、昨日の夕刊であったり、またある時はピンセットであったり、灌腸器(かんちょうき)であったりした。とにかくよく考えつくと思うくらい、仁木はいろんなものを次々に、次郎の家に借りに来た。借りて行っても決して戻しには来ないので、その都度次郎は取戻しに行かねばならない。するとその度に、仁木の家には品物が殖えたり家具の位置が変ったりして、つまり細部にいたるまでしだいに、次郎の家の内部と全くそっくりになってくるのを、次郎は目撃し感知した。そっくりと言っても、正確に言えば、そっくり裏返した訳であった。たとえば長火鉢にしても、どこからどう探してきたのか、形や大きさは次郎の家のとそっくりのくせに、どういうものか抽出しだけが逆の位置についていた。壁のしみまでが、そっくり逆の形についている。背中合わせの共通の壁だから、あるいはそれが当然だとも言えるが、次郎はそれにも不気味な感じを押え切れなかった。
(あいつの家がそっくり、おれの家の裏返しになってしまえば、その時おれはどうしたらいいだろう?)
自分の家の長火鉢の前に坐っていても、ふとそんなことを考えると、次郎はひどく不安な気分になり、居ても立ってもいられなくなって、おろおろと部屋の中を歩き廻る。仁木の家では近頃猫を飼い始めて、その猫がまた次郎の家のと、双生児みたいによく似た猫であった。ただ斑(ぶち)だけが逆になっていた。そんな猫を飼うのも、仁木の自由な筈であった。次郎はそれを阻止する権利も強制力もなかった。そのことが次郎の不安に拍車をかけた。
(どうしたらいいだろう。どうしたらいいだろう?)
飯を食っている時でも、逆の形で飯を食っている仁木の姿を思い浮べると、次郎は急に食慾を喪失した。便所にしゃがんでいる時でも、同じことが頭にひらめくと、すぐに便意が消滅する。だから次郎はこの頃、永いこと便秘状態がつづいていた。そして四五日目毎に、仁木は相変らず玄関にあらわれて、丁寧な言葉使いで、何か道具器具の借用を申し入れる。その翌日になると、次郎は強迫観念のかたまりのようになって、じつとしておれなくなり、仁木の家に取戻しに行く。仁木の家を見ることは、恐いことである筈なのに、そうせずにはいられないのであった。その度に仁木の家の中は、次郎のにそっくり逆に近づいてくるのが判る。
大晦日(おおみそか)に近い日であった。貸したパレットナイフを取戻しに、次郎は仁木の家を訪れた。そして自分の身体も裏返しになった感じで、仁木の部屋の座布団に坐りこんでいた。長火鉢の向うでは、派手なハンテンを着込んで、仁木の顔がにこにこ笑っている。近頃仁木はすこし肥ったようだ。
「はあ。パレットナイフでございますか。すぐにお返し申し上げます」
次郎はもじもじしながら、落着かなくしきりに周囲を見廻していた。もうほとんど完全に、何から何までそっくりになっている。柱時計の位置から、本棚の位置や、本棚に並べられた書物の色まで、次郎の部屋とまったく同じであった。その時何かがチラと視野の端にひらめいて、次郎は思わずそちらに視線をずらした。茶簞笥の上の壁に、新しい見慣れない鏡がかけてある。次郎の家には鏡はなかった。ついに仁木の家の家具が、自分のそれの模写からはみ出してきた。と直覚した時、次郎の胸にやってきたのは、安堵という感情ではなくて、むしろするどい新しい不安であった。その異質の不安がいきなり、針のように次郎の胸を突刺してきた。やがて彼はかすれたような声を出した。
「か、かがみを、買いましたね」
「はあ。おかげさまで」
仁木は次郎を見詰めながら、あわれむようににこにこ笑っている。次郎はあやつり人形のようにそのまま立ち上って、ふらふらと鏡の方に近づいた。鏡の中でも同じく次郎の姿が立ち上って、ふらふらと鏡面に近づいてくるのが見える。次郎は次郎の顔を見、次郎のうしろの調度や家具類を見た。そこには次郎の部屋があった。背後からしずかな声がした。
「昨晩、夜店で買い求めましたが、いい鏡でございましょう?」
その声は、仁木の声のようでなかった。しかしどこか聞き覚えのある声であった。誰の声だったか思い出さないうちに次郎の背筋はぞっとちりけだった。
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