小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(3) 古代の祭祀
古代の祭祀
眞の日本の宗教、今日なほ全國民に依つて各種の形に於て行はれて居る宗教は、あらゆる文明國の宗教竝びにあらゆる文明社會の基礎をなして居る處の其祭祀(カルト)――祖先崇拜である。數千年の經過の内に、此始めの祭祀は、色々の變化を受け、色々の形をとる事となつた、併し日本國中、何處に於ても、其根本たる特質は變はらずに殘つて居る。佛教の祖先崇拜の色々な形は別として、純なる日本起原の奉祭には三つの區別があるが、それは爾來支那の影響と儀式とに依つて多少形を變へられたものである。かくの如き日本の祭祀の形は、すべて『神道』といふ名の下に纏められて居る、其意は則ち『神々の道』といふ事である。これは古い言葉ではない、最初外國から來た佛氏の教則ち佛の道なる佛道と、本國の宗教則ち『道』とを只だ區別するために用ひられたものである。神道の祖先崇拜の三つの形とは、一家の祭祀、村邑の祭祀及び國家の祭祀である、――言ひ換へれば家族の祖先の禮拜、氏族若しくは部族の祖先の禮拜、竝びに帝國の祖先の禮拜である。此第一は家庭の宗教であり、第二は一地方の神若しくは守護神の宗教であり、第三は國家の宗教である。神道の禮拜にはまだいろいろの形があるが、それは今考へる必要のないものである。
上記の祖先崇拜の三形式に就いて云ふに、家族の禮拜は進化の順序上第一に居るもので、――其他は後に發達したものである。併し家族の禮拜を最古のものと云つた處で、それは今日見るが如き家庭の宗教を指すのではない――『家族(フアミリイ)』といふ言葉を以つて『一家(ハウスホオスト)』の意とするのでもない。古代に於ける日本の家族は遙かに『一家』以上のもので、百或は千の家を包有するかも知れないのである。それはギリシヤの
γένος 若しくはロオマの gens に似たもので――最も廣い意味での族長的家族である。有史以前の日本に於ては一家の祖先の家族的禮拜といふものはなかつた――同族的奉祭は只だ埋葬の場に於てのみ行はれたらしく思はれる。併し後代の家族的禮拜は、原始的な同族的奉祭から發達して來たもので、間接に尤も古い宗教の形を表はすものである、從つてそれは日本の社會的進化の研究には先づ第一に考へなければならないものである。
[やぶちゃん注:「γένος」はギリシャ語で「ゲェーノシュ」(私のネット上での複数の聴き取りから)と発音し、古代ギリシアに於ける共通の家系・家柄に属する社会集団を意味する。現行では「種」「種類」「人種」の意。
「gens」はラテン語で「ゲンス」、古代ローマ最古期に於ける「氏族集団」の意。一般には「種族」「一門」「子孫」「後裔」「種」「属」「系統」「人種」団体」「地方」、複数形で「外国」の意ともなる。前の「γένος」から派生し、現代英語の「遺伝子」や「種」の意の「gene」(ジーン)は、これらが大元の語源であろう。]
祖先禮拜の進化的の歷史は、何處の國に於ても大抵同樣であつて、日本の禮拜の歷史も、宗教的發達の法に關するハァバァト・スペンサアの説を支持する著しい證明となるのである。併しこの一般の法則を了解せんとすれば、吾々は宗教的信仰の起原に遡らなければならない。社會學的見解から、記憶して置かなければならない事は、日本に現存する祖先の祭祀を以つて『原始的』と云ふのが、其當を得て居ないのは、ペリクリスの時代に於けるアゼンス人の家族的祭祀を以つて『原始的』と云ふの非なると同樣であるといふ事である。祖先禮拜の永續せるものは、いづれも原始的ではないのであつて、凡そ一定した家族祭祀は、多少一定の形を有せざる、また家族的ならざる同族の祭祀から發達したものであり、この同族の祭祀はまたさらに古い埋葬の奉祭から生じて來たものに相違ない。
[やぶちゃん注:「ハァバァト・スペンサア」イギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。参照したウィキの「ハーバート・スペンサー」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『一八八〇~九〇年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、一八六〇年の『教育論』は、尺振八の訳で一八八〇年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。しかし、スペンサーからみると、封建制をようやく脱した程度の当時の日本は、憲法を持つなど急速な近代化は背伸びのしすぎであると考え、森有礼のあっせんで、一八八三年に板垣退助と会見した時も、彼の自由民権的な発言を空理空論ととらえ、けんか別れをしたといわれる。 このようなことがあったにもかかわらず、一八八六年には浜野定四郎らの訳により『政法哲学』が出版されるほど、日本でスペンサーの考えは浸透していた』とある。以上の四名の内、ダーゥイン(死後九年)を除いて、本書が執筆された明治二四(一八九一)年の段階でまだ存命していた近代科学と思想を現に荷っていた人物である。また、一八五九年にダーウィンが提唱した進化論が本格的に日本に紹介されたのは明治 一〇(一八七七)年の東京大学でのエドワード・モースの講義が濫觴であり(私のE.S.モース石川欣一訳「日本その日その日」を参照されたい)、一般民衆の受容は明治三七(一九〇四)年の丘浅次郎の「進化論講話」によったと考えてよいから(私は丘先生の「生物學講話」も電子化注しているので参考にされたい。将来はまさにこの「進化論講話」も手掛けたいと考えている)、まさに「死せる」ダーウィンもまたアップ・トゥ・デイトな「生きた」西欧最新の近代科学思想家であったのである。平井呈一氏は恒文社版「日本――一つの試論」の後書きの「八雲と二本(その二)」で、小泉八雲の本書の文章は『雄渾端正、彼の師事したハーバート・スペンサー、遠くはかれの私淑したド・キンシーの格調高い勁直な文体を思わせるものがあ』ると評しておられる。「ド・キンシー」は“Confessions of an English Opium-Eater”(イギリス阿片服用者の告白:一八二二年)で知られるイギリスの評論家トマス・ド・クインシー(Thomas De Quincey 一七八五年~一八五九年)のこと。
「ペリクリスの時代に於けるアゼンス人」原文の“the Athenians in the time of
Pericles”の単語を見れば判る通り、「アゼンス人」とは「アテナイ」(アテネ)人のことで、「ペリクリス」は古代アテナイの政治家でアテナイの最盛期を築き上げた政治家として知られるペリクレス(紀元前四九五年?~紀元前四二九年)のことである。]
古代のヨオロッパ文化に就いて言へば、祖先禮拜に關する吾々の知識は、祭禮の原始的な形にまで及びうるとは言はれない。ギジシヤ人及びロオマ人の場合、この問題に就いての吾々の知識は、家族的宗教が成立してすでに久しく經つた時期から始まつて居るので、吾々はその宗教の性質に關して文書上の證跡を有つて居る。併し家庭の禮拜に先き立つてあつたに相違ない遙かに古い祭祀に就いては、あまり證據が殘つて居ない、それで吾々はまだ文化の狀態に達して居なかつた人民の間に於ける祖先禮拜の自然の發達の歷史を研究して、その性質を推斷するのみである。眞實の家族の祭祀は一定した文化と共に始まるのである。さて日本人種が最初日本に落ち着いた時には、まだ今云ふ一定した文化の種類をも、また何等十分に發達した祖先の祭祀をも、もつて來たとは思はれない。勿論禮拜は正にあつた、併しその儀式は漠然と只だ墓邊に於てのみ行はれて居たのみと思はれる。眞正の意味の家族の祭祀は、第八世紀則ち位牌が支那から入りて來たと考へられるその時代頃までは成立して居なかつたのであらう。最古の祖先祭祀はやがて詳説しようと思ふが、それに原始的な葬式竝びに故人の靈を慰める儀式から發達したのであつた。
[やぶちゃん注:「第八世紀則ち位牌が支那から入りて來たと考へられるその時代頃」「位牌」は原文“the spirit-tablet”であるが、ちょっとおかしい。現在、位牌の伝来は鎌倉時代の禅宗の作法とともに伝来し、鎌倉新仏教の民衆への急速な展開によって祭祀されるようになるから、これは概ね十三世紀初頭となる。仏教伝来は遡る六世紀中葉であるから、これも合わない。八世紀となると、聖武天皇の治世に各国に国分寺が建立され、東大寺が総国分寺となって盧舎那仏が建立され、七五四年には鑑真が来日しており、この辺りを国家が本腰で仏教化し、そこから派生的に氏族内での公的祖先祭祀も生じたと八雲は判断したものか。この時期にはしかし位牌は存在せず、あくまで本尊などを祀る須弥壇(しゅみだん)があったばかりだとは思うのだが。]
それ故に現存の同族的宗教は、比較的近代の發達にかかる、併し少くともそれはこの國の眞の文化と、その古さを同じうして居り、正しく原始的である信仰と思想と、竝びにそれから出て來た思想と信仰とを保有して居る。それで祭祀そのものを説く前に、さういふ
古い信仰に就いて少しく考へる必要があると思ふ。
最古の祖先崇拜――ハァバァト・スぺンサアの所謂、『一切の宗教の根元たる』――は恐らく亡靈(ゴオスト)に對する最古の明確なる信仰と存立を同じうしたものであつた。人間が影なる内部の自己、則ち二重の自己といふ考を抱きうるや、必らず靈魂に就いてのその慰藉的祭祀が始まるのである。併しこの最古の亡靈の禮拜は、人間が抽象的な考をつくり得るやうになつた精神的發達のその時期よりも餘程以前にあつたに相違ない。原始的な祖先の禮拜者達は、まだ最高の神といふ考をつくり得なかつた、そして彼等の崇拜の最初の形式如何に關しての、現存して居るすべての證據は、亡靈といふ考と神々といふ考との間に當初何等の相違もかつた事を示すやうである。從つて未來に於ける賞罰の狀態に就いての明瞭な信仰はなかつたのである――天國若しくは地獄といふ考はなかつたのである。暗い下界則ちヘィディスといふ考すら遙かに後代の發展である。最初死者はそのものの爲めに準備されて居た墳墓の内に住んで居るとのみ考へられて居た、――その墳墓から死者は時折り出て來て、自分等の以前の住所を訪ね、生きて居る人々の夢に出現すると考へられて居た。死者の眞の世界はその葬られた場所であつた――墳墓、塚であつた。その後になつて、下界こといふ考が不思議な方法で墓場と結びついて徐に發達して來た。この漠然たる想像上の下界なるものが、擴がり、亡靈の幸福を享ける天地と、不幸の天地とに分かたれるやになつたのは、遙かに後の事である……日本の神話がエリジウム(至福の世界)若しくはタァタラス(地獄の奧の暗黒世界)の考を生み出さず――天國と地獄との考を發展せなかつたのは注意に値する事實である。今日に於てすら神道の信仰は、超自然に關してホオマア以前の想像時代を表はして居るのである。
[やぶちゃん注:「ヘィディス」原文“Hades”。ハデス。新約聖書に十回登場する、死者が行く場所。地獄と同義。ギリシア神話の冥界の神ハーデース及び冥界の意からとった言葉とされている。
「エリジウム」原文“Elysium”。エリシュゥム。ギリシャ神話で善人が死後に住むとされる天の世界であるエリュシオン。所謂、理想郷(ユートピア)や仏教の極楽浄土も、これに換訳されたりする。
「タァタラス」原文“Tartarus”。タルタロス。ギリシャ神話に於いて、先の冥界ハーデース(地獄に相当)の更に下方に在るとする「奈落」などと呼称される世界。天と地の間の距離と同じ分だけ大地から下に位置するとされ、霧と烈風の吹き荒ぶ救い無き穢土である。
「ホオマア以前の想像時代」原文は“the pre-Homeric stage”で“Homer”は言わずもがな、「イーリアス」「オデュッセイア」の作者とされる紀元前八世紀末の吟遊詩人ホメーロス(ラテン語:Homerus)の英語読み。]
インドオ・ヨオロッパ民族の間にあつては、最初は神々と亡靈との間には何等の區別もなく、神々の大小といふ位置もなかつたらしい。この種の區別は徐に發達したものであつた。『死者の靈は原始民族の間にあつては理想的の集團をなし、殆ど甲乙の差別もなかつたが、だんだんにその差別が生じ來り――社會が進むにつれ、また局部的な竝びに一般的な傳統が集積し、錯綜するにつれ、嘗ては等一であつたこれ等の人間の靈魂は、人々の考の内にその性質の相異を來たし、重要さの度を生じここに區別を起こし――終にはそれ等本來の等一の本質は殆ど認められなくなつた』とスペンサア氏は云つて居る。かくして古代のヨオロッパに於ても、極東に於ても、國民のより大なる神々は亡靈の祭祀から生じ來たつたのである、併し東西の古代の社會にその形を成して居た祖先禮拜の倫理は、より大なる神々の生じた時代以前の時期から――すべての死者が何等の位置の差別なく皆神となると想像された時期から起つたものである。
[やぶちゃん注:「インドオ・ヨオロッパ民族」これはヨーロッパから南北アジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアにかけての広範囲で話者地域が広がる語族であるインド・ヨーロッパ語族のことと読み換えてよいであろう。全世界で、この語族に属する言語を公用語としている国は百を越える。参照したウィキの「インド・ヨーロッパ語族」の「分布と起源」を引いておく。『所属は遺伝的関係によって決定され、すべてのメンバーが印欧祖語を共通の祖先に持つと推定される。インド・ヨーロッパ語族の下の語群・語派・分枝への所属を考えるときも遺伝は基準となるが、この場合にはインド・ヨーロッパ語族の他の語群から分化し共通の祖先を持つと考えられる言語内での共用イノベーションが定義の要素となる。たとえば、ゲルマン語派がインド・ヨーロッパ語族の分枝といえるのは、その構造と音韻論が、語派全体に適用できるルールの下で記述しうるためである』。『インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語の起源は印欧祖語であると考えられている。印欧祖語の分化と使用地域の拡散が始まったのは』六千年前とも八千年前とも言われており、その祖地は五千年前から六千年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)とする「クルガン仮説」と、八千年前から九千五百年前のアナトリア(現在のトルコ)とする「アナトリア仮説」が『あるが、言語的資料が増えた紀元前後の時代には、既にヨーロッパからアジアまで広く分布していた』。『この広大な分布に加えてその歴史をみると』、起源前十八世紀ごろから『興隆した小アジアのヒッタイト帝国の残したヒッタイト語』の『楔形文字の一種』『で書かれたヒッタイト語(アナトリア語派)の粘土板文書、驚くほど正確な伝承を誇るヴェーダ語(インド語派)による『リグ・ヴェーダ』、そして戦後解読された』紀元前千四百年から紀元前千二百年頃の『ものと推定される線文字Bで綴られたミケーネ・ギリシャ語(ギリシア語派)のミュケナイ文書など』、紀元前一千年を『はるかに遡る資料から始まって、現在の英独仏露語など』に至る、凡そ三千五百年ほどの『長い伝統を有する。これほど地理的・歴史的に豊かな、しかも変化に富む資料をもつ語族はない。この恵まれた条件のもとに初めて』十九世紀に『言語の系統を決める方法論が確立され、語族という概念が成立した』。『インド・ヨーロッパ諸語は理論的に再建することのできる、一つのインド・ヨーロッパ共通基語もしくは印欧祖語と呼ばれる共通の祖先から分化したと考えられている。現在では互いに別個の言語であるが、歴史的にみれば互いに親族の関係にあり、それらは一族をなすと考えることができる』。但し、『これは言語学的な仮定である。一つの言語が先史時代にいくつもの語派に分化していったのか、その実際の過程を文献的に実証することはできない。資料的に見る限り、インド・ヨーロッパ語の各語派は歴史の始まりから、すでに歴史上に見られる位置にあって、それ以前の歴史への記憶はほとんど失われている。したがって共通基語から歴史の始まりに至る過程は、言語史的に推定するしか方法はない』のであるとある。]
古代の日本人は、アリヤン民族の原始的祖先禮拜者と同樣、その死者を以つて現世以外の光明至福の王土にのぼり、若しくは苦悶苛責の世界に墮ちるといふ風には考へなかつた。彼等は死者を以つて、なほ此世界に住み、若しくは少くとも此世界と常に交渉をつづけて居るものと考へて居た。日本人最古の神聖なる記録には、なるほど下界の事が記してあり、不思議な雷神及び惡靈が醜惡の内に住んで居るといふ事がある、併しこの漠然とした死者の世界は、生きた人の世界と交通し、その下界の靈は多少その朽廢の内に包まれては居るが、なほ且つ地上に於て人々の奉仕と供物とを受納しうるのである。佛教の渡來までは、天國地獄の考はなかつた。死者の亡靈は奉祭を要し、また多少生者の苦樂を頒かち得る恆久の存在を有するものとして考へられて居た。それ等は飮食竝びに光明を要したが、その代りにまた利福を下し得たのであつた。その身體は地中に融解し去つた、併しその靈の力 はなほ上界にさすらひ、その心髓に透徹し、風の内に水の中に動いて居たのである。死に依つて人々は神祕な力を得たのである――彼等は『上に立つ感の』神(ゴッヅ)になつたのである。
[やぶちゃん注:「日本人最古の神聖なる記録には、なるほど下界の事が記してあり、不思議な雷神及び惡靈が醜惡の内に住んで居るといふ事がある」「古事記」の伊耶那岐(いさなき)の黄泉国訪問のシークエンスを指す。]
則ち換言すれば最古のギリシヤ及びロオマでいふ意味の神になつたのである。注意すベき事は、此神格化には、東西共に何等道德的差別を伴はない事である。『すべて死者は神になる』とは神道の大解釋家なる平田(篤胤)の記した處である。これと同樣に古いギリシヤ人の考に於ても、後のロオマ人の考に於てすらも、すべて死者は神となつたのである。クウランジュ氏はその『古代の都市』“La Cité Antique”の内に恁う言つて居る『この種の祭拜はただに大人物のみの特權ではない、何等の差別もありはしなかつた……有德の人であつたといふ事すら必要ではなかつた、惡人も善人と同樣神になつた――只だこの死後の存在にあつても、惡人はその前生の惡るい性癖を保持して居たのである』と。神道の信仰も丁度その通りで――善人は善行の神となり、惡人は惡の神となつた――併しすべては等しく神となつたのである。『而して善神も惡神もあるが故に、その好み給ふ供物を以つて、琴を彈じ、笛を吹き、歌ひ且つ舞ひ、其の他神々の意に適ふものを以つてその靈を慰めの要あり』と本居も記した。ラテンの人は死者の惡意ある亡靈を Larvae(惡靈)と呼び、善意ある或は害なき亡靈を Lares(家の神)と呼んだ、アピユレイアスの所謂 Manes(亡靈、死者)Genii(守神)である。併しすべては等しく神々 ―― dii-manes(亡魂の神)であつた、而してシセロはすべてのデイイ・マネスに正當なる禮拜を爲すべき事を警告し『彼等はこの世から去つた人間である――彼等を神惚なるものと考ふるべし』と言つた。
[やぶちゃん注:「クウランジュ」ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。
「『古代の都市』“La Cité Antique”」フュステル・ド・クーランジュが一八六四年に刊行した“La Cité antique”(古代都市)。彼の最初期の著作で、上記のウィキによれば、『広い学識を簡明に総合してやさしい形式のもとに表現しようとした時期』の作品である。
「本居」本居宣長。
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善神もありあしき神も有りて。所行(しわざ)も然(しか)ある物なれば。惡人(あしきひと)も福(さか)えよき人も禍(まが)る事よのつね也。かかれば神は理(ことは)リの当不(あたりあたらず)をもて思ひはかるべきにあらず。ただその怒(いかり)みて。ひたぶるにいつきまつるべきものぞ。されば祭(まつ)るに就(つき)ても其こころはえ有(あり)て。いかにも神の悦(よろこ)び給ふわざをしてまつるぞ古(いにしへ)の道なる。そは万(よろづ)を齋忌(いみ)きよまはりて。堪(たへ)たるかぎり美好物(うまきもの)さはにたてまつり。あるは琴(こと)ひき笛(ふえ)ふき。うたひまひなど。おもしろきわざをしてまつる。これみな神代(かみよ)の古事(ふること)にて。神のよろこび給ふわざ也。
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「Lares」ラァレェ。ラテン語で、“Lar”(ラァ)“Laris”(ラァリス)に同じく、その複数形であるこちらで普通は使う。元は「家庭の守護神」で、そこから単に「家」「住居」の意ともなった。
「アピユレイアス」原文“Apuleius”。北アフリカのマダウロス出身の帝政ローマの弁論作家で哲学者アプレイウス(Lucius Apuleius 一二三年頃~没年未詳)。参照したウィキの「アプレイウス」には、『奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博し』、『カルタゴに居住し、文学活動の傍ら』、『アフリカ各地を旅した。哲学者として市民の尊敬を得、カルタゴやマダウロスにアプレイウスの彫像が建てられたと伝えられている』とある。
「Manes」マネス。ラテン語で「亡霊」・「死骸」・「下界」・「地獄の苦しみ」の意。
「Genii」ラテン語の擬人化された精霊を指すゲニウス(genius)の複数形。所持するラテン語辞書には「守り神」・「才」「我(が)」・「趣味」「楽しみ」などと記すが、ウィキの「ゲニウス」には、『古代ローマ人の信仰においては、ゲニウスは概して守護霊もしくは善意の霊とされ、悪霊は malus genius と呼ばれた』。『一般的に言って、古代ローマの宗教におけるゲニウスとは、個人や場所や事物にあまねく現臨している普遍的な神性を個別化したものであり』、『換言すれば、万象に宿る非人格的な神的力を個別に人格化・神格化したものである』とあり、また、『語源学的には、genius と nature は同じ由来を持ち、インド・ヨーロッパ語族の』「gen-」(産出する)から生まれたとある。その他、詳しくはリンク先を参照されたい。
「dii-manes」不詳。ラテン語の接頭辞「di-」ならば「dis-」で「分離された」の意であり、また関係があるかどうかは全く不明であるが、「Dis」は冥界の神の名(ギリシャ神話のプルートと同一視された)でもある。ただ、小堀馨子氏の論文「古代ローマの死者祭祀―レムリア(Lemuria)再考」(PDF)に『祖霊神(di manes)』の綴りを見い出せる。総体としての祖霊で、これであろう。]
神道に於ては、古ギリシヤの信仰に於けるが如く、死ぬといふ事は、超人的の力を獲得するといふ事――超自然の方法に依り、利福を授け若しくは不幸を與へるやうになる事であつた…。併し昨日かくかくの人は、普通の勞役者、何等重きを爲すに足らぬ人物であつた、――が、けふは死んで、聖い力を持つ人となり、其子供等は自分等の事業の繁榮の爲めに、その人に祈願するのである。丁度ギリシヤ悲劇中の人物、たとへばアルセステイスの如き人物も、突然に死に依つて姿をかへ、神聖なものとなり、禮拜若しくは祈禱の言葉を以つて言ひかけられる。併しその超自然の力をもつて居るにも拘らず、死者は自分の幸福に關しては、生者に依賴して居る。夢の外には人の目には見えないが、彼等死者は地上の奉養と奉仕と――飮食竝びに子孫の崇敬を要する。亡靈は孰れもその慰安を得る爲めに生ける近親に寄り縋る、――その近親の信心に依つてのみ、その安息を得るのである。則ち亡靈はその息み所――適當なる墳墓を要し、――それは供物を要する。立派に息み場を有し、適宜な奉養を受ければ、靈は喜び、その奉祭する人々の幸福を守る助けをする。併し若し墓所と、葬式と、飮食と火との供物を缺くならば、靈は飢渇と寒さとのために苦しみ、怒つて惡意ある働きをなし、それ等を怠つた人々に不幸を被らせやうと力める……。かくの如きは死者に對する古ギリシヤ人の思想であつたが、それが又昔の日本人の思想であつた。
[やぶちゃん注:「アルセステイス」原文“Alcestis”。エウリピデスによるギリシア悲劇「アルケスティス」の主人公の女神。参照したウィキの「アルケスティス(ギリシア悲劇)」によれば、『死期が迫ったテッタリア地方ペライの王アドメートスが、アポローンの好意によって身代わりを出せば命が助かることとなり、最終的に妃のアルケースティスが身代わりとなって死ぬが、ヘーラクレースが彼女を救い出すという神話を題材とする』とし、紀元前四三八年の『ディオニューシア祭で『クレタの女たち』『テレフォス』『プソフィスのアルクマイオン』の三部作に続くサテュロス劇の代わりに上演され、二等賞を得た』。『エウリピデスの現存する作品の中では最も古いものと目されるが、それでも作家が』五十歳に『近いころのものであるから、全体としては中期の後半あたりに属すると言える』とある。梗概はリンク先を参照されたい。]
亡靈に就いての宗教は、嘗て吾が祖先の宗教であつたが――北歐南歐いづれに於ても、――そしてそれから起こり來たつた慣習、たとへば花を以つて墓を飾る習慣の如きは、今日なほ吾が尤も進歩した社會の間に行はれて居るが――吾が思想の形は、近代文化の影響を受けて、甚だしく變化し、今や死者の幸福が、物質的なる食物に依るといふが如き事を、どうして人々が考へ得たかと想像する事さへ、吾々には困難な位になつた。併し古代のヨオロッパ社會に於ける眞の信仰も、近代の日本に現存する信仰と似たものであつた事は察し得られる處である。死者は食物の實質を食ふと考へられるのではない、只だその目に見えない精氣を吸ふとされて居るのである。祖先禮拜の古い時代にあつては、食物の供御は一般に行はれて居た、後代になつて靈は全く氣息の如き類の給養をすらも殆ど要しないといふ考へが起つて来たに從つて、さういふ供物はだんだん行はれる事が少くなつて來た。併しその供物は如何に少くとも、それが規則正しく行はれる事は必要缺くべからざる事であつた。死者の幸福はかかる影の如き食物に依つて居たのである、而して生者の幸運は死者の幸福に依つたのである。生死の兩者互に他の助けを無視する事は出來なかつた、目に見える世界と、目に見えない世界との兩者は、相互に必要なる無數の覊絆に依つて結ばれて居り、その結び合ひの只だ一個の關係なりとも、これを破れば必ず尤も恐ろしい結果を生ずるのである。
[やぶちゃん注:「供御」「くご」と読み、一般には貴人に供される食膳を指し、後に女房言葉で「ご飯」の意ともなった。
「覊絆」「きはん」と読み、「羈絆」と書く。「羈」も「絆」も牛馬を繫ぎ止めるものの意であるから本来は、「行動する者の妨げになる物や事柄」「束縛」の謂いであるが、ここは寧ろ、フラットに「きずな」という謂いで、行動制限などの悪い意味はない。]
一切の宗教上の生贄に關する歷史をたどれば、それは皆亡靈に捧げられた供物の古い慣習に歸せられる、而してインドオ・アリヤン民族も、嘗ては皆この靈に關する宗教以外他の宗教を有つては居なかつたのである。事實、すべて進歩した人間の社會は、その歷史の或る期間に、必らず祖先禮拜の狀態を通つて來て居る、併しその靈拜が精緻な文化と兩立して居るのを今日見んと欲するならば、吾々はこれを東洋に求めなければならない。さて日本人の祖先禮拜は――アリヤン人種以外の人民の信仰を代表し、その發達の歷史に於て種々なる興味ある特色を示して居るが――なほ且つ一般祖先禮拜の多くの特徴を具體化して顯にして居る。その内には、あらゆる風土地方に永續して居た祖先禮拜の、あらゆる形の下に潜んで居る次の三種の信仰が特に殘つて居るのである、――
第一――死者はこの世界にとどまつて居る――その墳墓や又以前の家庭に出沒し、目に見えないながらも、その生きてゐる子孫の生活を共に享けて居る。
第二――すべで死者は超自然の力を得るといふ意味に於て神になる、併し存生中その特徴であつた特質をなほ保持して居る。
第三――死者の幸福は生存者が行ふ尊い奉仕に依るのであり、また生存者の幸福は、その死者に對し忠實に義務を果たす事に依るのである。
この極めて古い三箇條に加へて、次の箇條がある。恐らくこれは後世に發達したものであり、而も嘗ては偉大なる力を振つたに相違ないものである。
第四――善なると惡なるとに拘らず、現世に於ける事件――四季の順調、多分の收穫――出水、飢饉、――暴風雨、海嘯、地震等――は死者の業である。
第五――善にあれ惡にあれ、すべて人間の行爲は死者に依つて左右されて居るものである。
[やぶちゃん注:「海嘯」「かいせう(かいしょう)」と読み、普通なら「海鳴り」のことであるが、ここはカタストロフが列記されているところから、潮津波(しおつなみ:満潮の際に河口に入いる潮波の前面が垂直の高い壁状となって砕けながら川上に激しく進む現象で、河口が三角形状の大きな河川に見られる。ブラジルのアマゾン河口でのポロロッカなどで有名)或いは、原文は“tidal-wave”であり、ここは戸川氏も単に「大津波」の謂いで用いていよう。]
始めの三個の信仰は文化の曙光の時から、若しくはその前から、死者がその力の差別なく、すべて神であつた時代から、今日まで殘つて居たものである。後の兩者は、眞の神話――廣漠たる多神教――が亡靈の禮拜から發達し來たつた時代のものと察しられる。此種の信仰は決して單純なものではない、それ等は嚴肅なる恐怖すべき信仰であつて、佛教の助けに依つて、それが駆逐されなかつた間は、此地に住んで居る人々の心を壓迫し、恰もはてなき惡夢のやうな重味をそれに加へて居たに相違ない。併しその形の和らげられた古い方の信仰は、なほ現存する祭祀の根本的の要素となりて居る。日本の祖先禮拜は過去二千年間に多大な變化を受けたが、人の行爲に關するその主要なる性質の上に變化を加へる事はしなかつた、そして社會の全構造はその性質の上に立つて居る事、恰も道德上の基礎の上に立つて居るかの如くである。日本の歷史は實際その宗教の歴史である。この點に就いて、政治といふ事の古い日本語――まつりごと――がその文字上禮拜の事の意であるといふ事實は、尤も注意に値する一事實である。今後吾々はただに政治のみならず、日本社會の殆ど一切の事が直接間接にこの祖先禮拜から出て來て居る事、竝びに生者にあらずして、むしろ死者が國民の統治者であり、國民の運命の形成者であつた事を知るにいたるであらう。
THE ANCIENT CULT
THE real religion of
Japan, the religion still professed in one form or other, by the entire nation,
is that cult which has been the foundation of all civilized religion, and of
all civilized society,— Ancestor-worship. In the course of thousands of years
this original cult has undergone modifications, and has assumed various shapes;
but everywhere in Japan its fundamental character remains unchanged. Without
including the different Buddhist forms of ancestor-worship, we find three
distinct rites of purely Japanese origin, subsequently modified to some degree
by Chinese influence and ceremonial. These Japanese forms of the cult are all
classed together under the name of "Shintō," which signifies,
"The Way of the Gods." It is not an ancient term; and it was first
adopted only to distinguish the native religion, or "Way" from the
foreign religion of Buddhism called "Butsudo," or "The Way of
the Buddha." The three forms of the Shintō worship of ancestors are the
Domestic Cult, the Communal Cult, and the State Cult;— or, in other words, the
worship of family ancestors, the worship of clan or tribal ancestors, and the
worship of imperial ancestors. The first is the religion of the home; the
second is the religion of the local divinity, or tutelar god; the third is the
national religion. There are various other forms of Shintō worship; but they
need not be considered for the present.
Of the three forms of ancestor-worship above
mentioned, the family-cult is the first in evolutional order,— the others being
later developments. But, in speaking of the family-cult as the oldest, I do not
mean the home-religion as it exists to-day;— neither do I mean by
"family" anything corresponding to the term "household." The
Japanese family in early times meant very much more than "household":
it might include a hundred or a thousand households: it was something like the
Greek γένος or the Roman gens,— the
patriarchal family in the largest sense of the term. In prehistoric Japan the
domestic cult of the house-ancestor probably did not exist;—the family-rites
would appear to have been performed only at the burial-place. But the later
domestic cult, having been developed out of the primal family-rite, indirectly
represents the most ancient form of the religion, and should therefore be
considered first in any study of Japanese social evolution.
The evolutional history of ancestor-worship
has been very much the same in all countries; and that of the Japanese cult offers remarkable
evidence in support of Herbert Spencer's exposition of the law of religious
development. To comprehend this general law, we must, however, go back to the
origin of religious beliefs. One should bear in mind that, from a sociological
point of view, it is no more correct to speak of the existing ancestor-cult in
Japan as "primitive," than it would be to speak of the domestic cult
of the Athenians in the time of Pericles as "primitive." No
persistent form of ancestor-worship is primitive; and every established
domestic cult has been developed out of some irregular and non-domestic
family-cult, which, again, must have grown out of still more ancient
funeral-rites.
Our knowledge of ancestor-worship, as
regards the early European civilizations, cannot be said to extend to the
primitive form of the cult. In the case of the Greeks and the Romans, our
knowledge of the subject dates from a period at which a domestic religion had
long been established; and we have documentary evidence as to the character of
that religion. But of the earlier cult that must have preceded the
home-worship, we have little testimony; and we can surmise its nature only by
study of the natural history of ancestor-worship among peoples not yet arrived
at a state of civilization. The true domestic cult begins with a settled
civilization. Now when the Japanese race first established itself in Japan, it
does not appear to have brought with it any civilization of the kind which we
would call settled, nor any well-developed ancestor-cult. The cult certainly
existed; but its ceremonies would seem to have been irregularly performed at
graves only. The domestic cult proper may not have been established until about
the eighth century, when the spirit-tablet is supposed to have been introduced
from China. The earliest ancestor-cult, as we shall presently see, was
developed out of the primitive funeral-rites and propitiatory ceremonies.
The existing family religion is therefore a
comparatively modern development; but it is at least as old as the true civilization
of the country, and it conserves beliefs and ideas which are indubitably
primitive, as well as ideas and beliefs derived from these. Before treating
further of the cult itself, it will be necessary to consider some of these
older beliefs.
The earliest ancestor-worship,— "the
root of all religions," as Herbert Spencer calls it,— was probably coeval
with the earliest definite belief in ghosts. As soon as men were able to
conceive the idea of a shadowy inner self, or double, so soon, doubtless, the propitiatory
cult of spirits began. But this earliest ghost-worship must have long preceded
that period of mental development in which men first became capable of forming
abstract ideas. The primitive ancestor-worshippers could not have formed the
notion of a supreme deity; and all evidence existing as to the first forms of
their worship tends to show that there primarily existed no difference whatever
between the conception of ghosts and the conception of gods. There were,
consequently, no definite beliefs in any future state of reward or of
punishment,— no ideas of any heaven or hell. Even the notion of a shadowy
underworld, or Hades, was of much later evolution. At first the dead were
thought of only as dwelling in the tombs provided for them,— whence they could
issue, from time to time, to visit their former habitations, or to make
apparition in the dreams of the living. Their real world was the place of
burial,— the grave, the tumulus. Afterwards there slowly developed the idea of
an underworld, connected in some mysterious way with the place of sepulture.
Only at a much later time did this dim underworld of imagination expand and
divide into regions of ghostly bliss and woe. . . . It is a noteworthy fact
that Japanese mythology never evolved the ideas of an Elysium or a Tartarus,— never
developed the notion of a heaven or a hell. Even to this day Shintō belief
represents the pre-Homeric stage of imagination as regards the supernatural.
Among the Indo-European races likewise there
appeared to have been at first no difference between gods and ghosts, nor any
ranking of gods as greater and lesser. These distinctions were gradually
developed. "The spirits of the dead," says Mr. Spencer,
"forming, in a primitive tribe, an ideal group the members of which are
but little distinguished from one another, will grow more and more
distinguished;— and as societies advance, and as traditions, local and general,
accumulate and complicate, these once similar human souls, acquiring in the
popular mind differences of character and importance, will diverge — until
their original community of nature becomes scarcely recognizable." So in
antique Europe, and so in the Far East, were the greater gods of nations
evolved from ghost-cults; but those ethics of ancestor-worship which shaped
alike the earliest societies of West and East, date from a period before the
time of the greater gods,— from the period when all the dead were supposed to
become gods, with no distinction of rank.
No more than the primitive
ancestor-worshippers of Aryan race did the early Japanese think of their dead
as ascending to some extra-mundane region of light and bliss, or as descending
into some realm of torment. They thought of their dead as still inhabiting this
world, or at least as maintaining with it a constant communication. Their
earliest sacred records do, indeed, make mention of an underworld, where
mysterious Thunder-gods and evil goblins dwelt in corruption; but this vague
world of the dead communicated with the world of the living; and the spirit
there, though in some sort attached to its decaying envelope, could still
receive upon earth the homage and the offerings of men. Before the advent of
Buddhism, there was no idea of a heaven or a hell. The ghosts of the departed
were thought of as constant presences, needing propitiation, and able in some
way to share the pleasures and the pains of the living. They required food and
drink and light; and in return for these; they could confer benefits. Their
bodies had melted into earth; but their spirit-power still lingered in the
upper world, thrilled its substance, moved in its winds and waters. By death
they had acquired mysterious force;— they had become "superior ones,"
Kami, gods.
That is to say, gods in the oldest Greek and
Roman sense. Be it observed that there were no moral distinctions, East or
West, in this deification. "All the dead become gods," wrote the
great Shintō commentator, Hirata. So likewise, in the thought of the early
Greeks and even of the late Romans, all the dead became gods. M. de Coulanges observes,
in La Cité antique: ― "This kind
of apotheosis was not the privilege of the great alone. no distinction was made.
. . . It was not even necessary to have
been a virtuous man: the wicked man became a god as well as the good man,— only
that in this after-existence, he retained the evil inclinations of his former
life." Such also was the case in Shintō belief: the good man became a
beneficent divinity, the bad man an evil deity,— but all alike became Kami.
"And since there are bad as well as good gods," wrote Motowori,
"it is necessary to propitiate them with offerings of agreeable food,
playing the harp, blowing the flute, singing and dancing and whatever is likely
to put them in a good humour." The Latins called the maleficent ghosts of
the dead, Larvae, and called the
beneficent or harmless ghosts, Lares,
or Manes, or Genii, according to Apuleius. But all alike were gods,— dii-manes; and Cicero admonished his
readers to render to all dii-manes
the rightful worship: "They are men," he declared, "who have
departed from this life;―
consider them divine beings. . . ."
In Shintō,
as in old Greek belief, to die was to enter into the possession of superhuman
power, to become capable of conferring benefit or of inflicting misfortune by
supernatural means. . . . But yesterday,
such or such a man was a common toiler, a person of no importance;— to-day,
being dead, he becomes a divine power, and his children pray to him for the
prosperity of their undertakings. Thus also we find the personages of Greek
tragedy, such as Alcestis, suddenly transformed into divinities by death, and
addressed in the language of worship or prayer. But, in despite of their
supernatural power, the dead are still dependent upon the living for happiness.
Though viewless, save in dreams, they need earthly nourishment and homage,— food
and drink, and the reverence of their descendants. Each ghost must rely for
such comfort upon its living kindred;— only through the devotion of that
kindred can it ever find repose. Each ghost must have shelter,— a fitting
tomb;— each must have offerings. While honourably sheltered and properly
nourished the spirit is pleased, and will aid in maintaining the good-fortune
of its propitiators. But if refused the sepulchral home, the funeral rites, the
offerings of food and fire and drink, the spirit will suffer from hunger and
cold and thirst, and, becoming angered, will act malevolently and contrive
misfortune for those by whom it has been neglected. . . . Such were the ideas of the old Greeks
regarding the dead; and such were the ideas of the old Japanese.
Although the religion of ghosts was once the
religion of our own forefathers— whether of Northern or Southern Europe,— and
although practices derived from it, such as the custom of decorating graves
with flowers, persist to-day among our most advanced communities,— our modes of
thought have so changed under the influences of modern civilization that it is
difficult for us to imagine how people could ever have supposed that the
happiness of the dead depended upon material food. But it is probable that the
real belief in ancient European societies was much like the belief as it exists
in modern Japan. The dead are not supposed to consume the substance of the
food, but only to absorb the invisible essence of it. In the early period of
ancestor-worship the food-offerings were large; later on they were made smaller
and smaller as the idea grew up that the spirits required but little sustenance
of even the most vapoury kind. But, however small the offerings, it was
essential that they should be made regularly. Upon these shadowy repasts
depended the well-being of the dead; and upon the well-being of the dead
depended the fortunes of the living. Neither could dispense with the help of
the other. the visible and the invisible worlds were forever united by bonds
innumerable of mutual necessity; and no single relation of that union could be
broken without the direst consequences.
The history of all religious sacrifices can
be traced back to this ancient custom of offerings made to ghosts; and the
whole Indo-Aryan race had at one time no other religion than this religion of
spirits. In fact, every advanced human society has, at some period of its
history, passed through the stage of ancestor-worship; but it is to the Far
East that we must took to-day in order to find the cult coexisting with an
elaborate civilization. Now the Japanese ancestor-cult — though representing
the beliefs of a non-Aryan people, and offering in the history of its
development various interesting peculiarities — still embodies much that is
characteristic of ancestor-worship in general. There survive in it especially
these three beliefs, which underlie all forms of persistent ancestor-worship in
all climes and countries:—
I.— The dead remain in this world,— haunting
their tombs, and also their former homes, and sharing invisibly in the life of
their living descendants;—
II.— All the dead become gods, in the sense
of acquiring supernatural power; but they retain the characters which
distinguished them during life;—
III.— The happiness of the dead depends upon
the respectful service rendered them by the living; and the happiness of the
living depends upon the fulfilment of pious duty to the dead.
To these very early beliefs may be added the
following, probably of later development, which at one time must have exercised
immense influence:—
IV.— Every event in the world, good or
evil,— fair seasons or plentiful harvests,— flood and famine,— tempest and
tidal-wave and earthquake,— is the work of the dead.
V.— All human actions, good or bad, are
controlled by the dead.
The first three beliefs survive from the
dawn of civilization, or before it,— from the time in which the dead were the
only gods, without distinctions of power. The latter two would seem rather of
the period in which a true mythology — an enormous polytheism — had been
developed out of the primitive ghost-worship. There is nothing simple in these
beliefs: they are awful, tremendous beliefs; and before Buddhism helped to
dissipate them, their pressure upon the mind of a people dwelling in a land of
cataclysms, must have been like an endless weight of nightmare. But the elder
beliefs, in softened form, are yet a fundamental part of the existing cult.
Though Japanese ancestor-worship has undergone many modifications in the past
two thousand years, these modifications have not transformed its essential
character in relation to conduct; and the whole framework of society rests upon
it, as on a moral foundation. The history of Japan is really the history of her
religion. No single fact in this connection is more significant than the fact
that the ancient Japanese term for government — matsuri-goto — signifies liberally "matters of worship."
Later on we shall find that not only government, but almost everything in
Japanese society, derives directly or indirectly from this ancestor-cult; and
that in all matters the dead, rather than the living, have been the rulers of
the nation and—the shapers of its destinies.