梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (19)
めずらしくかき氷屋があった。東京ならもう店仕舞をしている筈だが、ここは南国なので商売がなり立っているのだろう。粒々のガラス玉をつらねたのれんがあり、それを押分けて五郎は入って行った。不機嫌な声で注文した。
「氷イチゴ!」
また背中のあちこちが痛み始めていた。
「それに、水一ぱい」
痛いというより、熱っぽく疼(うず)いている。水を少女が持って来た。薬を取り出して効能書を読む。(頭痛、歯痛、筋肉痛。一回一錠。一日三回まで)一錠をつまみ出して、水でのむ。そして上衣を脱いだ。やはり暑いのである。
「このすこし向うの――」
店番をしている婆さんに、彼は何気なく聞いた。
「雑貨屋の隣の二階家ね、あの二階に住んでいるのは誰だね?」
「学生さんでっしょ。二人兄弟で下宿しとんなさる」
「ああ。下宿屋か。それなら大したことはないな」
赤い氷を彼は口に入れた。さっきのにらみ合いは、二十秒ぐらいであった。松井教授のもそれくらいだっただろう。松井教授はあの時、あの窓に何を見たのか。もうそれを知るすべはない。ただその結果、五郎はきたないものを踏んづけた気分になり、きりきり舞いをして、落第した。
「お婆さん。ここら空襲を受けなかったのかい」
彼はまた呼びかけた。
「あの家は、昔から下宿屋だったのかい?」
「はい。大水が出ましたもんですけん。そるからあとはずっと変りましたたい」
「大水? 戦前に?」
「いいえ。それがあんた、戦後の昭和――」
「二十八年よ」
少女が補足した。
「六月二十六日」
「ああ。六月です。夜、水がやって来ましたですたい。いや、水じゃなか。泥ですたい。阿蘇ん方で大雨が降って、よなを溶かして流れち来たんですたいなあ。材木やら何やらを乗せて、戸口にあたる。戸が破れち、泥水がおどり込むとですたい。あれよあれよという暇もなかった。戸が破れたと一緒に、もう畳が浮き始めたとですたい。うちはこの子ば抱いち、飯櫃(びつ)といっしょに二階に這いあがりました。停電で電気はつきやせん。ラジオも鳴らんごとなった。まっくらやみの中で、ごうごうと水の流るる音、材木が家にぶつかる音」
今のおれには関係ないな、と思いながら、五郎は老女の話に聞き入っていた。老女の話し方には熱がこもっていて、彼の耳をひきつけた。
「そん都度に家が揺れ、梁(はり)がみしみし鳴っとですたい。生きた心地はなかったです。丁度(ちょうど)こん子が、小学校に入ったか入らん齢で――」
「旦那さんは?」
「はあ。つれ合いは夕方頃からパチンコに行っとりまして、パチンパチン弾(はじ)いとる中に流水がどかっと流れ込んで――」
「パチンコ屋にも?」
「そぎゃんですたい。あわてちパチンコ屋ん二階に避難して、そん夜から翌日にかけち、景品の罐詰ばっかり食べ、咽喉(のど)をからからにして帰って来ました。そんあと水ば五合ばっかり一息に飲みましたと」
「泥水を?」
「泥水が飲めるもんですか。こやし臭うして。水道ですたい」
「水道は菊池の方から来るとです」
少女が口を入れた。
「泥水がひいち、水道ん栓ばひねったら、きれか水がジャーッと出て来ち、あたしゃあぎゃんなうまか水ば、飲んだことはありまっせんと」
「どうしてそんな大洪水がおこつたんだろう?」
五郎は最後の一匙(さじ)を食べ終って、少女に訊ねた。少女は答えた。
「阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められち、水の行くとこがのうなって、横にはみ出したとです。大江へんは建物ごとごっそり削られたとです」
「ひどかでしたばい」
婆さんは口をとがらせた。口から泡を吹くような調子で、「あいからあたしゃリューマチにかかって、まだ直りきらんとです」
十年以上前のことを、老女は昨日の出来事のように熱っぽく語る。その情熱は、どこから来るのだろう。あの建物の二階にいる青年は何者か。それを調べて写されたネガを取戻したい。そう思ってこの店に入ったのだけれども、洪水話に巻き込まれて、その気はなくなってしまった。写したければ、勝手に写したらいいだろう。そんな気になっている。五郎の顔はあの青年にとって、意味も何もありゃしないのだ。
「そいから川幅も広うなりましたもんねえ、子飼橋も鉄骨でつくりかえられました。今度洪水があってん、家は流されてん、橋だきゃ流れんちゅ皆の噂ですばい」
「そうかね」
彼はしばらく白川べりの素人(しろうと)下宿に住んでいたことがある。三十年前のことだ。そこを見る気持になって、彼は立ち上った。
「いくらだね?」
代金を払う。昼食べたのがソースにひたしたポークカツなので、まだ咽喉(のど)が乾いている。かき氷は咽喉を冷やしただけで、乾きはとめなかったようだ。彼は道端に赤い唾をはいた。
〈おれは早く取戻さねばならぬ。何かを!〉
西日が五郎の背中を照りつける。埃(ほこり)っぽい道を、上衣を肩にかけて歩いている。同じような道をいつか通ったことがある。両側は家並でなく、一面の唐黍(とうきび)畠だ。唐黍畠から犬が這い出して来る。彼の背後から、トラックがやって来て、彼を追い越す。道を横切ろうとする犬をいきなり轢(ひ)く。犬の胴体を轢き、トラックはちょっと速度を落し、また元の速度に戻って走り去る。犬はじっと横たわっている。突然口から赤い血がかたまって流れ出る。手足が痙攣(けいれん)して、ぐっと突っ張る。血のにおいがして、もう彼は歩けない。……
[やぶちゃん注:「めずらしくかき氷屋があった。東京ならもう店仕舞をしている筈だが、ここは南国なので商売がなり立っているのだろう」これが私が最初に作品内時間を九月上旬とした大きな根拠である。
『「大水? 戦前に?」/「いいえ。それがあんた、戦後の昭和――」/「二十八年よ」/少女が補足した。/「六月二十六日」』これは昭和二八(一九五三)年六月二十六日発生した熊本の大水害を指す。ウィキの「昭和28年西日本水害」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、同年六月二十五日から六月二十九日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)を中心に発生した梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害の一つである。水害全体は『阿蘇山・英彦山を中心に総降水量が』一〇〇〇ミリを『超える記録的な豪雨により、九州最大の河川である筑後川を始め白川など九州北部を流れる河川がほぼ全て氾濫、流域に戦後最悪となる水害をひき起こし』、死者・行方不明者一千一名/浸水家屋四十五万棟/被災者数約百万人『という大災害となった。この水害により筑後川など九州北部の河川における治水対策が根本から改められることになり、現在においても基本高水流量の基準となっている』。『この九州北部を襲った水害は気象庁による明確な災害名が付けられておらず、熊本県では「白川大水害」または』「六・二六水害」と通称している。『最も被害が大きかったのは』この熊本県で、『降り始めからの雨量は鹿本郡山鹿町(山鹿市)で、この豪雨では最大の一五五〇・三ミリを記録したほか、阿蘇郡小国町宮原で一〇〇六・二ミリ、阿蘇郡黒川村(阿蘇市)で八八八・四ミリを記録するなど、過去最悪の豪雨災害となった。この豪雨で熊本市・玉名市・菊池郡・阿蘇郡など県北部を中心に甚大な被害が発生している。県内の被害の特徴としては後述する阿蘇山の火山灰を原因とする土砂災害や、家屋被害において床下浸水を上回る床上浸水の多さが挙げられる』。『なお、当時の被災状況については後に熊本県が県政ニュースとして映像を残しており、こちら(ただし凄惨な場面が含まれているので閲覧注意)で視聴可能である』。『県都・熊本市では市内を流れる白川が氾濫した。白川上流部では阿蘇郡黒川村で五日間の雨量が八八八・四ミリを記録するなど阿蘇地域一帯で猛烈な豪雨となった。白川水系流域面積の八〇%を占める阿蘇地域は阿蘇熔岩を主体とする岩盤の上に「ヨナ」と呼ばれる火山灰を多く含む土壌が堆積していた。鹿児島県大隅半島のシラス台地と同様に豪雨が降ると容易に崩壊する土壌であったため、一九五二年(昭和二十七年)には「特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法」、いわゆる特土法の規定する特殊土壌地帯に阿蘇地域は指定されていた。こうした土壌が堆積していた阿蘇地域で四月二十七日に阿蘇山が噴火して大量の火山灰が堆積、そこに大量の豪雨が降り注いだことで大量の火山灰や「ヨナ」が土石流となって広大な白川上流域から黒川合流点より下流の河川勾配が急な峡谷を一挙に下り、下流の熊本市内に流入した。さらに熊本市内の白川は天井川となっていて、熊本市役所庁舎をはじめ熊本市中心部は白川の水面よりも低い位置に存在していた。こうした複合的な要因が熊本市内の被害を増幅させる結果をもたらした』。『熊本市では京町や健軍といった高台を除く全市の七〇%が浸水し、熊本市中心部では平均で水深が二・五~三・〇メートルに達した。また白川の橋梁は十七箇所市内に架けられていたが、国道三号長六橋と大甲橋を除いて残らず流失し、』『上流・中流部でも七障子橋・代宮橋・赤瀬橋以外はことごとく流失した。特に子飼橋では至近距離にあった避難所で避難していた住民約四十名が橋もろとも白川に流され、死亡した。熊本市内は噴火した阿蘇山の火山灰が混ざった大量の泥や「ヨナ」で市街地などが埋まり、その総量は実に六百万トンにも及び熊本城の堀の一部を廃土で埋めることになった。また養老院が倒壊して五十二名が一度に圧死するなど、土砂災害による要因が死者を増加させている。熊本市の被害額は約百七十三億円(現在の金額で約千二百十九億円)にもおよぶ壊滅的被害となった。また上流の阿蘇郡長陽村(南阿蘇村)などでも土石流によって家屋や道路、鉄道への被害が大きく孤立した村落も発生、白川上流部のいわゆる「南郷谷」と呼ばれる阿蘇山カルデラ南部では土石流によって運ばれた巨大な岩石が一帯を覆い尽くし死者・行方不明者が六十六名を数えた。熊本県ではこの白川流域で甚大な被害をもたらした今回の水害を特に白川大水害または六・二六水害と呼ぶ』。なお、『白川ではこの水害の半月後七月十六日から十七日にかけても集中豪雨があり、仮橋を架けたばかりの国道二百六十六号代継橋や明午橋、白川橋、泰平橋が再び流失したほか床上・床下浸水の被害を受けている。またこの水害を契機に建築された白川沿いの住宅が、その後の白川治水事業を困難にする要因ともなった』とある(下線やぶちゃん)。
「よな」前注「ヨナ」関連の下線部を参照のこと。
「菊池」当時の熊本県菊池郡。現在の熊本県の北部に位置する菊池市の一部。但し、ここも同じくこの時、水害を蒙っている。同じく、ウィキの「昭和28年西日本水害」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『菊池川流域では山鹿の一四五五・三ミリをはじめ』、『菊池郡菊池村立門(菊池市)で八三〇・二ミリ、菊池郡隈府町(菊池市)で五九九・四ミリなど』、『猛烈な雨が流域を襲った。特に山鹿では六月二十五日に一日雨量としても最大となる五二八ミリを記録したほか二十六日には四一八・五ミリ、二十七日には二八二ミリという猛烈な雨となっている。このため』、『菊池川本流や支流の迫間川、合志川などが氾濫、菊池川の水位は最大で九メートルにも達した。玉名市、菊池村、隈府町、山鹿町などが浸水被害を受け、菊池川流域では死者七名、全半壊家屋五百七十二棟、浸水家屋一万五千三百三十五棟に上った。筑後川上流部の熊本県流域でも猛烈な豪雨が降ったことにより、筑後川(杖立川)の水位が六月二十六日十時に九州電力杖立取水堰地点で警戒水位を七メートル以上』も『上回る一二・五〇メートルに達した。これにより川沿いにある杖立温泉では全ての連絡手段が不通となり孤立、旅館などが流失・損壊するなど大きな被害となった』とある。しかしそれでも、ここから熊本に引いてあった水道導管は無傷であったということであろう。
「阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められ」子飼橋はJR熊本駅の東北三・九キロメートルの白川が北に大きく蛇行した部分に架かる橋。先の注の波線部も参照。筑後川上流から流れて来た恐るべき多量の流木群が橋でせき止められてダム化し、河川が決壊したり、箸が押し流されたり、多量の浸水地域に流木が押し寄せた、その惨状は先のウィキの「昭和28年西日本水害」や、そこにリンクされたこちらの動画(閲覧注意)からも分かる。
「大江」現在の熊本県熊本市中央区大江。熊本市の都心南東部の白川南岸。前の注の子飼橋はこの地域の北西の域外の白川河岸(ここは既に東子飼町)に、その南詰がある。
「リューマチ」関節痛や関節変形を生じる関節リウマチ(Rheumatoid Arthritis:RA)であろう。病因は現在でも判然とはしていないが、概ね自己の免疫システムが誤認を起こし、主に手足の関節を侵すところの炎症性自己免疫疾患で、遺伝的素因も疑われる代表的な膠原病の一つである。しばしば血管・心臓・肺・皮膚・筋肉といった全身臓器にも障害が及ぶ(以上はウィキの「関節リウマチ」に拠る)。老婆は十一年前の水害体験が病因とするが、それは考えられない。
「十年以上前」私が推定する作品内時間は昭和三九(一九六四)年の九月上旬であるから、十一年前になる。
「唐黍(とうきび)」単子葉植物綱イネ目イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea may の別称であるが、ウィキの「トウモロコシ」によれば、典拠は示されていないが、昭和前期までは、『この「とうきび」が全国で一般に使われていた』とある。因みに我々が日常的に用いているトウモロコシ(「玉蜀黍」は当て字。現在の中文表記は分類も一目瞭然の「玉米」)の「トウ」は中国の国家「唐」、「モロコシ」は「唐土(もろこし)」から伝来した植物の謂いで、意識しないで使っているが「唐唐(からから)」の謂いの甚だしい畳語である。
「唐黍畠から犬が這い出して来る。彼の背後から、トラックがやって来て、彼を追い越す。道を横切ろうとする犬をいきなり轢(ひ)く。犬の胴体を轢き、トラックはちょっと速度を落し、また元の速度に戻って走り去る。犬はじっと横たわっている。突然口から赤い血がかたまって流れ出る。手足が痙攣(けいれん)して、ぐっと突っ張る。血のにおいがして、もう彼は歩けない。……」直前の五郎の心内語『〈おれは早く取戻さねばならぬ。何かを――〉』とともに、かの「猫の話」(昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』掲載の「輪唱」中の一篇)が直ちにフラッシュ・バックする。リンク先は総て私の電子テクストで、「猫の話」単独のPDF縦書版はこちら、私の同作の高校教師時代の授業案(同PDF縦書版も有り)も参照されたい。ともかくも美事なモンタージュである。]