梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (15)
町
熊本の宿で、五郎は女指圧師に揉(も)まれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣きがある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけて来る。
部屋はあまりよくなかった。形ばかりの床の間のついた四畳半。窓をあけても展望はない。床の間には鷹を描いた宮本武蔵の軸がかけてある。もちろん複製品だ。女指圧師がまず口にしたのは、この部屋の悪口であった。
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
彼は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
彼女は揉み始めた。
「お客さんの体は、妙なこり方をしとるとね」
「そうらしいな」
五郎は腹這(ば)いのまま答える。
「昨夜もそう言われたよ」
「誰から?」
「鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ」
五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである。今まで彼は肩が凝(こ)ったという感じを持ったことがなかった。なぜあんまを呼ぶ気になったのか。ハイヤーの運転手に勧められたからだ。その運転手は、ズクラを獲っていた少年の父親だ。
[やぶちゃん注:最初に述べた通り、この「町」の章と最終章「火」は昭和四〇(一九六五)年八月号『新潮』に発表されたが、梅崎春生はこの年の七月十九日午後四時五分に東大病院上田内科にて肝硬変のために急逝しており、狭義の遺作部分となった。再度述べておくと、六月号『新潮』には前半の総標題として「幻化」が掲げられ、「同行者」「白い花」「砂浜」が載り、この八月号ではこの「町」と「火」が総標題「火」として掲載されてある。
「熊本の宿」前夜に五郎が泊まった吹上温泉(鹿児島県日置市吹上町湯之浦)から熊本市までは直線でも百四十八キロメートルもある。途中のルートは示されていないが、鹿児島本線の串木野辺りまでバスで出、旧鹿児島本線を海岸沿いに北上したものと考えられる。
「宮本武蔵」二刀を用いる二天一流兵法開祖で水墨画や工芸品もよくした剣豪宮本武蔵(天正一二(一五八四)年?~正保二(一六四五)年)は美作(みまさか:現在の岡山県北東部)の生まれとされるが死没地は熊本であった。ウィキの「宮本武蔵」によれば、晩年の寛永一七(一六四〇)年に『熊本城主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移』り、七人扶持十八石に合力米(こうりょくまい:知行地の代わりの米の現物支給)三百石が『支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り』『が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられ』、『重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも』、第二代藩主『細川光尚によりこれまでと同じように毎年』三百石の『合力米が支給され』、『賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水』『の直話として、こぞって武蔵門下に入ったことを伝えている』。『この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている』。寛永二十(一六四三)年には『熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている』。『墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」』とある(下線やぶちゃん)。熊本五高時代に春生もそうした武蔵の水墨画などを見たに違いない。
「五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである」細かいことをいうなら、この指示語は「これ」ではなく、「それ」とあるべきところである。そうでないと、この最後の段落は読んでいて違和感を感ずるはずである。]
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