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2016/01/15

梅崎春生 詩 「春」   (初出形復元版)

 

     

 

       文二甲二 梅 崎 春 生  

 

南の窓に日ざしがあかるくて、季節が遠く近く佇んで

ゐる。くちなわのやうに、はらわたのやうに、あちら

へ行く道が、こちらに通ずるみちが、しろい。破風を

ひととき雲雀がはねをやすめ、陽炎はあかがねの瓦よ

りたちのぼつて、俺は、今感覺の絕壁におる。おびた

だしい光箭にまみれて、さんらんと加速度の中にある。 

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年二月二十三日第五高等学校龍南会発行『龍南』二三〇号に所載された初出形(発行日は「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」により確認)。梅崎春生満二十歳になった直後である(彼の誕生日は大正四(一九一五)年二月十五日)。底本は「熊本大学学術リポジトリ」内の同初出誌誌面画像230-005.pdfを視認、活字に起こした。「くちなわ」「おる」はママ。「おびただしい光箭にまみれて」の部分は底本では「おびただしい光箭にたまみれて」となっているが、これでは「たまみれて」意味が通じないばかりでなく、画像を見ると、そのために一行字数が前行までの二十四字を越えて「る。」が下にはみ出て見苦しくなっている。この「た」は衍字と断じ、沖積舎版に倣って上記のように訂した。

 「破風」老婆心乍ら、「はふ」と読む。屋根の切妻にある合掌形の装飾板又はそれに囲まれた三角形の構造部分を指す。

 「光箭」「くわうせん(こうせん)」と読む。光りの矢。

 これも奇妙な一行字数配置を変更して繋げた方が読み易い。以下に示す(署名は省略した)。

   *

 

     

 

南の窓に日ざしがあかるくて、季節が遠く近く佇んでゐる。くちなわのやうに、はらわたのやうに、あちらへ行く道が、こちらに通ずるみちが、しろい。破風をひととき雲雀がはねをやすめ、陽炎はあかがねの瓦よりたちのぼつて、俺は、今感覺の絕壁におる。おびただしい光箭にまみれて、さんらんと加速度の中にある。 

 

   *

 なお、この号も梅崎春生が編集人として参加している。彼の「編輯後記」についても、同じく「熊本大学学術リポジトリ」内の230-012.pdfを視認、活字に起こす。

   *

       

 學年末のゆゑであらうか、原稿の集りかたが非常にすくなくこれほどの雜誌をこしらへるのにすら、ずいぶん骨が折れた。一般龍南人がどれほど(龍南)に冷淡であるかを知るにつけ、そこばくの感慨もあるが、ことさらに目を閉ぢ、ことさらに耳を押へて、馬車うまのやうに、狹い角度をだけ望み見ようとする人々の心情が、なほにがにがしく私の心を打つのだ。ことに中央の文藝復興の余波を受けて、前へ出ようとした氣運が、このやうにみじめに霜枯れてしまはうとは、まこと私の豫期しないところであつた。

       

 たとひこのたびが此のやうな有樣であるにしろ、この次のときは元瓶のゐる原稿の堆積を、ここで期待しておかう。部屋に積まれるそのたびの原稿が、かくも少ない時、それはどんなにさむざむとした風景であるか。しかもそれから一册を作り上げねばならぬ我々の苦しさを、原稿過多に惱むよそがたの高校に思ひあはせて、しみじみとわびしい氣がする。

       

 いたづらなくりごとは止めておくが、今度、一篇映畫に關する論文があつたのは(龍南)近來になかつた現象で、これはまことにこころ愉しく思はれる。映畫には緣遠い熊本とは言へ、このやうな眞面目な硏究も出て良い筈だ。とくに筆者が理科生であることは、前回の園田君の論文とも考へあはせて、遠くからの光をのぞむ心地であつた。

       

 春の光が空に明るい、このやうにすなほに(龍南)を成長させたい。おほらかな匂ひとたぎる情熱とをこめて、若々しい(龍南)を成長させたいと思ふ。   (梅崎)

   *

文中の「中央の文藝復興の余波」というのは、なかなか意味深長で、恐らくはプロレタリア文学運動への弾圧と転向文学の流行を揶揄しているようにも見える。「映畫に關する論文」は本号『龍南』巻頭の理二甲二の小笠原到氏の論文「映畫鑑賞についての一考察 忘れられたカメラマン」を指し(リンク先は同PDF。以下、同じ)、後の「前回の園田君の論文」は前の第二二九号『龍南』の園田正明氏の科学論文「陽電子(Positron)に就て」を指す。但し、後者は映画論文ではなく、理科の学生からの学術論文投稿であることを指しているので注意されたい。それにしても、ここで春生が映画を問題にしている辺り、前号の「時雨」の詩作意図に美事にフィード・バックしているではないか(この少し前の新感覚派が映像的表現を盛んに採り入れていたことを思い出させる)。「編輯後記」の最後のパートも、明らかに自身のこの詩篇に掛けて述べており、原稿の少なさをぼやき、諸氏に叱咤しつつ、全体になかなか気骨ある頼もしい編者の言葉となっている。]

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