大王猫の病気 梅崎春生 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年三月号『文芸』に発表され、後に単行本「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年現代社刊)に所収された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。
一見、童話のように見えるが(実際に梅崎春生は童話も書いてはいる)、仮想される猫世界が軍隊のカリカチャアであること、大王猫の抑鬱的精神状態(底本全集別巻では、この前年の昭和二十八年の条に鬱病様の徴候が発現した旨の記載がある)や肝機能障害及び身体不調が当時及びこれ以降の梅崎春生自身の病歴と妙に一致し、戦中戦後当時の政治や世俗風刺をもし掛けている辺り、大人のブラッキーな漫画といった雰囲気の小品である。いや、ここにはもしかすると、春生が生涯語らなかったという海軍二曹時代のおぞましい体験、トラウマとなった何かが、戯画の中に秘かに隠しこまれてあるのかも知れない。
以下、例によって私のマニアックな注を附しておくが、一部は文中に、またネタバレになりそうなものは後に回した。
「Xerxes did die, so must we.」アメリカ建国の一世紀前の植民地時代一六八〇年代につくられ、十九世紀後半まで(地域によっては二十世紀の一九二〇年代まで)使用された初等教育用教科書 “The New England Primer”(ニューイングランド初等教本)の中に、“Xerxes the great did die. And
so must you & I. Xerxes did die, And so must I.”という章句を見出せる。“Xerxes”はクセルクセス一世(紀元前五一九~紀元前四六五)でアケメネス朝ペルシアの王(在位:紀元前四八五~紀元前四六五)。四八〇年のサラミス(Salamis)の海戦でギリシャ軍に大敗の後、連戦連敗し続け、国力は減衰、最後は側近に暗殺された。元は――偉大なるクセルクサスは死ぬ/そしてそうしたらあなたも私も死なねばならぬ/クセルクサスは死ぬ/そうしてそうしたら私も死なねばならぬ――で、ここは偉大なる大王(猫)も死ぬ。そしたら我々も死なねばならぬ――の謂いか(一部で「morichanの父」氏のブログの「『ニューイングランド初等教本』The New England Primer[Marginalia 余白に]」を参考にさせて頂き、原文引用は英文サイトのこちらを用いた)。
「これはまあ医者のエンマ帳みたいなものでしょうな」の「エンマ帳」はちょっと使い方がおかしい気がする。「閻魔帳」は閻魔大王が死者の生前の行為や罪悪を書き附けておくとされる帳簿で、現世では専ら、教師が受け持っている生徒の成績や出欠などを記入しておく最重要機密書類の一種である「教務手帳」の俗称であって、この場合、ヤブ猫が見ているは、自分が症例と処方について新しい医学書(猫界の)から書き写したものと思われ、教師の「エンマ帳」というに比すよりは寧ろ、教師の「トラカン」、所謂、「虎の巻」(周時代の兵法書「六韜(りくとう)」の中の「虎韜(ことう)の巻」に由来)、「あんちょこ」(「安直」の転訛)、教師用指導書の類いである(因みに私は、初めて教師となった頃、とある先輩国語教師が、トラカンを綺麗にバラして、教科書の中に巧みに挟み込んで隠し、それをあたかも生徒と同じ教科書であるかのようにして見ながら平然と授業をしているのを発見し、その狡猾な巧みさに驚きもし、呆れもしたのを思い出した)。大王猫の話だから「エンマ帳」という洒落なのかも知れぬが、トラは食肉目ネコ型亜目ネコ科 Felidae ヒョウ属 Panthera トラ Panthera tigrisなんだから、『医者の「虎の巻」ならぬ「猫の巻」みたいなものでしょうな』ぐらいにした方が、これ、面白くはありませんか? 梅崎先生?
「ツンツン椿」なんのこっちゃ? と調べてみれば、歌謡歌手で古賀政男門下の神楽坂浮子(かぐらざかうきこ 昭和一三(一九三八)年~平成二五(二〇一三)年:本名は大野景子)の曲名らしい。国立国会図書館の歴史的音源の書誌データによれば作詞は佐伯孝夫で作曲は清水保雄とある。「ツンツン椿」は恐らく「山椿」「藪椿」と同義で、所謂「椿」、ツバキ類の原種の一つであるツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica のことである。
「ハンの木」「ハン」は漢字では「榛」と書き、通常は落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。ここも後者であろうと思われる。
「ヤチダモ」落葉広葉樹のゴマノハグサ目モクセイ科トネリコ属ヤチダモ亜種ヤチダモ(谷地梻) Fraxinus mandshurica var. japonica 。単に「タモ」とも呼ぶ。
「アカダモ」落葉広葉樹のイラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ(春楡) Ulmus davidiana var. japonica の異名。大きくなると樹高三〇メートル・直径一メートルに達し、日本産ニレ属の樹木では最大となる。]
大王猫の病気
つい半年ほど前から、猫森に住む猫の大王の身体の調子が、どうも面白くありませんでした。
どこと言ってとり立てて悪いところはないのですが、なんとなく疲れやすく、食慾も減退し、脚をふんばってみても昔みたいな元気がどうしても出て来ないのです。これはつまり公平なところ、相当にながく生きてきたので、そろそろ老衰期にかかってきたのでしょう。自分では若いつもりでいても、身体の方で言うことを聞かないというわけです。
猫森の真ん中にある茸庭(きのこにわ)のあたりを、その朝も猫大王はいらいらと尻尾をふりながら、よたよたと行ったり来たりしていました。眼をらんらんと光らせてと言いたいところですが、もう今は眼もどんより濁って総体に暗鬱な気配でした。
尻尾をふっているのは、大王が怒っている時の癖なのですが、もうその尻尾もあちこち毛がすすり切れて、なめし色の地肌がところどころのぞいているのです。これは大王が若い頃から怒りっぽくて、あんまり尻尾をふり廻したせいでもあるのでした。
そこへ椎(しい)の木小路の方から、朝の光をかきわけてオベッカ猫と笑い猫とぼやき猫たちが、何か世間話をしながらチョコチョコやって参りました。そして大王の顔を見ると、いっせいに立ち止り、口をそろえて調子よくあいさつをしました。
「お早うございます。大王様」
大王はじろりと三匹を見て、頰をもぐもぐ動かしたのですが、それは別段声にはならないようでした。なんだか口をきくのも辛そうな、面白くなさそうな表情なのです。そこで三匹は顔を見合わせましたが、オベッカ猫はすばやくピョコンと大王の前に飛び出して言いました。
「大王様には今朝もごきげんうるわしく――」
オベッカ猫がそこまで言いかけた時、大王猫はむっとした顔でそれをさえぎりました。
「ヤブ猫を呼んできて呉れい。それも大至急にだぞ」
ヤブ猫というのは猫森の三丁目一番地に開業している医者猫のことなのです。そこで再び三匹は顔を見合わせ、お互いに眼をパチパチさせ、今度は三匹いっしょに口を開きました。
「大王様。どこかお身体が――」
「調子わるい!」
と大王猫は言いました。ゼンマイのゆるんだような、筋がもつれたような、それはそれはへんな響きの声でした。
「今朝の朝飯のとき、うっかり舌をかんだのだ」
そして大王猫は大口をあけて、ぺろりと舌を出して見せました。三匹が首を伸ばしてのぞいて見ますと、タイシャ色の舌苔(したごけ)におおわれた細長い舌の尖端の部分に、歯型が三つ四つついていて、そこらに血がうっすらと滲(にじ)み出ていました。ちょっとその形が踏みつぶされた芋虫みたいに見えたものですから、笑い猫は思わずクスリと笑い声を立ててしまったのです。すると大王猫はぺろりと舌を引っこめて、こわい眼付で笑い猫をにらみつけました。そしていきなり怒鳴りつけようとしたらしいのですが、その前にオベッカ猫が早口でわめきました。
「こら。笑い猫にぼやき猫。大急ぎでヤブ猫のところに行ってこい。歩幅は四尺八寸、特別緊急速度だぞ!」[やぶちゃん注:「四尺八寸」は約一メートル四十五センチメートル強。]
大王猫は先にわめかれてしまったものですから、とたんに気勢をそがれ、ぐにゃぐにゃとうずくまりながら、力なく言いました。
「早く行って呉れえ」
「早く行って呉れえ」
とオベッカ猫が猫なで声で、そう口裏似をしました。するとぼやき猫が不服そうに口をとがらせました。「そりゃ僕は行ってもいいよ。行ってもいいが、一体君はどうするんだね」
「僕か。僕はここに居残って」とオベッカ猫は前脚でくるりと顔を拭きました。「大王様の看護にあたるんだよ」
「ずるいよ。いくらなんでもそりやずるいよ。他人ばかりに働かせて、自分は楽(らく)しようなんて」
「そんなんじゃないよ。そんなんであるものか。じゃ君が看護にあたれ。看護課の第九章を知ってるか」
するとぼやき猫はすっかり黙りこんでしまいました。第九章どころか第一章も知らなかったからです。オべッカ猫はすっかり得意になり、胸をそらして大声で命令しました。
「行って来い。出発」
大王猫はしごく憂鬱そうな表情で、このやりとりをぼんやり眺めていましたが、つりこまれたように自分も口をもごもご動かしました。
「出――発」
笑い猫とぼやき猫は大王の前に整列し、ピタンと挙手の礼をして右を向き、それっ、というようなかけ声と同時に、すばらしい速さで椎の木小路の方にかけ出して行きました。木の間を縫う朝の光が、そのためにゆらゆらゆらっと揺れたほどです。
大王猫はぐふんとせきをして、身体を平たく伸ばしながら言いました。
「こら。オベッカ猫しばらくわしの腰を揉(も)んで呉れえ」
「かしこまりました。大王様」
オベッカ猫が腰を揉んでいる間、笑い猫とぼやき猫は猛列なスピードで、
「大王様のご病気だよう」
「大王様のご病気だよう」
呼吸のあい間にそうわめきながら、三丁目の方角に疾走していました。なにしろ歩幅が四尺八寸というのですから、人間にだってむつかしいのに、まして猫のことですから、後脚のキックに相当の力をこめねばならないのです。そこで一番地のヤブ猫の家の前まで来た時には、二匹ともすっかりへとへとになり、呼吸もふいごのようにはげしく、しばらくは声もろくに出ない有様でした。二匹とも一挙に目方が三百匁ぐらいは減ってしまったらしいのです。[やぶちゃん注:「三百匁」は一キロ百二十五グラム。]
「何か用か」
途方もなく大きな一本の孟宗竹(もうそうだけ)の、下から三節目のくりぬき窓から、鼻眼鏡をかけたヤブ猫が首を出して、威厳ありげに声をかけました。
笑い猫とぼやき猫は並んで立ち、両の前脚を上に上げて横に廻す深呼吸運動を、前後五回ばかり繰返しました。そしてこもごも口をひらきました。
「大王様がご病気です」
「大へん御重体です」
「うっかりして舌を嚙まれたのです」
「そこでおむかえに参りました」
「どうぞ早く来て下さい」
「お願いでございます」
ヤブ猫は二匹の猫の顔を鼻眼鏡ごしにかわるがわる眺めていましたが、やがてフンと言った表情で首をひっこめ、そして根元の扉のところから、ちょこちょこと出て参りました。もう小脇には竹の皮でつくった大きな診察鞄(かばん)をかかえこんでいたのです。それを見るとぼやき猫は急に不安になってきて、少しおろおろ声になって訊ねました。
「大王様はどうでしょうか。おなおりになりますでしょうか」
「まさか、おなくなりになるようなことはありませんでしょうね」
と笑い猫が負けずに口をそえました。
「それは判らん」とヤブ猫は鼻眼鏡をずり上げて横柄に答えました。「諺にも Xerxes did die, so must we. というのがあるな」
ヤブ猫がとたんに学のあることを示したものですから、あまり学のない笑い猫とぼやき猫は、まったくシュンとなって顔を見合わせました。ヤブ猫はすました顔で、
「じゃあ出かけるかな」
と竹皮鞄をつき出しました。これは二匹の猫に持って行けということなのです。二匹はあわててそれを受取り、そして口をそろえて言いました。
「そいじゃ歩幅は三尺六寸ということにお願いいたします」[やぶちゃん注:「三尺六寸」は約一メートル九センチメートル。]
それはそうでしょう。重い鞄をかかえてそれで四尺八寸とは、これはもう猫業(ねこわざ)ではありません。
さて大王猫の方では、オベッカ猫に腰を操ませ、四本の脚を揉ませ、次には裏返しになって背骨を指圧させ、つづいて、首筋をぐりぐりやらせていましたが、まだヤブ猫はやって参りません。オベッカ猫は揉みに揉ませられて、すこしはじりじりして来たらしく、もうやけくそな勢いで大王猫の首筋をつかんだりたたいたりしていました。こんなことなら使いに出た方がまだましだった、そう思っているようなしかめ面(つら)でした。ところが大王はそんな乱暴な揉み方が案外気に入っているらしく、眼を細めて咽喉(のど)をぐるぐる鳴らしていたのです。これはきっと大王の血圧が高く、それで首筋が石のように凝(こ)っているせいなのでしょう。
丁度そのとき椎の木小路の方から、エッサエッサと昼前の空気を押し分けるようにして、ヤブ猫一行がひとつながりになって走って来ました。ヤブ猫は鼻眼鏡が気になるし、笑い猫とぼやき猫は診察鞄を両方からかかえているし、というわけで、そのスピードもそれほどのものではありませんでした。オベッカ猫はそれを横目でにらみながら呟(つぶや)きました。
「あれほど四尺八寸だと言ったのに、ヘッ、あれじゃあ三尺六寸どころか、全然二尺四寸どまりじゃないか」[やぶちゃん注:「二尺四寸」は七十二・七二センチメートル。]
「なにをぐずぐず言っとる」
と大王猫が聞きとがめて、頭をうしろに廻しました。とたんに首の筋がよじれて、ぎくんと鳴ったらしく、大王はイテテテテと顔をしかめました。
「いえ。ヤブ猫一行が参ったらしゅうございます」
「どれどれ」
大王は椎の木小路に眼を向けましたが、視力が弱っていてとらえかねている中に、もうヤブ猫一行は茸庭に勢いよくかけ入ってきて、ぱっと一列に整列をしました。笑い猫が大きな声で復命しました。
「笑い猫、只今ヤブ猫をたずさえて戻って参りました」
「ぼやき猫、右に同じ!」
ぼやき猫も負けじとばかり大声をはり上げました。
ヤブ猫はすっかり荷物あつかいされてむっとしたらしく、二匹をにらんで何か言おうとしましたが、その前に大王猫が前脚をあげてさしまねいたものですから、二匹から診察鞄をひったくるようにして、大王の前に近づきました。
「大王様。如何なされました」
いくら横柄なヤブ猫でも、大王猫の前ではそうツンケンと威張るわけには行きません。すこし腰をかがめてまったく神妙な態度でした。
大王猫は眼をしばしばさせて、やや哀しそうにヤブ猫の顔を見上げました。
「身体のあちこちが、どういうわけか大層具合がわるいのだ」
「舌をお嚙みなされたそうで」
「うん」
「ちょいと拝見」
大王猫は笑い猫を横目でじろりとにらみながら、忌々しげにべろりと舌を出しました。ヤブ猫は診察鞄のなかから竹のへラを取出して、それで大王の舌をおさえたり、かるくしごいてみたりしました。そして仔細あり気に訊ねました。
「今朝は何をお食べになりました?」
「コンニャクを食べたのだ」と大王猫は舌をすばやく引っこめて、ちょっと恥かしそうに鬚(ひげ)をびくびく動かしました。
「コンニャクを食べていると、口の中のものがコンニャクか舌か判らなくなっての、それでうっかり間違えて嚙んでしまったのだよ」
笑い猫が急に横を向き、あわてて両の前脚で口をしっかと押えて、ブブッと言ったような圧縮音を立てたのです。ヤブ猫はえへんとせきばらいをして、教えさとすようい言いました。
「それはもう相当に感覚が鈍磨しておりますな。もう以後コンニャクのようなまぎらわしいものは、一切お摂(と)りになりませんように」
「うん。わしも別に食べたくはなかったが、今朝はなんだかとても身体がだるくて、全身に砂がたまっているような気がしたもんだからの」と大王猫は情なさそうに合点々々をしました。「で、どこぞに故障でもあるのかな」
「三半規管ならびに迷走神経の障害」とヤブ猫は名医らしく言下にてきぱきと答えました。「それに舌下腺も少々老衰現象を呈していますな」
大王猫はぷいと横を向いて、グウと言うような惨(みじ)めな啼(な)き声をたてました。
「グウ。それに対する療法は?」
「まあマタタビなどがよろしゅうございましょう」
そう言いながらヤブ猫は、診察鞄から聴診器をおもむろに取出しました。鞄は竹皮製ですから、あけたての度にばさばさと音を立てるのでした。
「一応全部ご診察いたしましょう」
それから、ヤブ猫は聴診器のゴムを耳にほめ、大王猫の身体をあおむけにしたり裏返しにしたり、丸く曲げたり平たく伸ばしたり、そして要所々々に聴診器をあて、またもっともらしい手付きで打診などしたりしました。オベッカ猫と笑い猫とぼやき猫は、結果如何にと眼を皿のようにして、大王の軀とヤブ猫の顔色をかたみにうかがっています。それらはまったく真剣そのものの表情でした。[やぶちゃん注:「かたみにうかがっています」この「かたみ」は「片身」で、真っ向向いてでは失礼なので、侍りながら、それとなく気を向けている様子の謂いであろう。]
ヤブ猫はやがて手早く診察を終り、聴診器をくるくる丸めて鞄のなかにしまい、腕組みをして首をかたむけ、フウウと大きな溜息をつきました。大王猫はびくっと身体をふるわせ、おそるおそる片眼をあけてヤブ猫を見上げました。
「まだ他にどこぞ故障があったかの」
ヤブ猫は腕を組んだまま視線を宙に浮かせて、じっと沈黙しています。たまりかねたようにオベッカ猫が横あいから口をさし入れました。
「おい、ヤブ猫君。何とか言ったらどうだね。え。大王様はすっかり御丈夫だろう。ええ。まったく御健康だと言い給え」
ヤブ猫はオベッカ猫にじろりとつめたい一瞥(いちべつ)をくれて、しずかに首を振りました。その横柄な態度がぐっとオベッカ猫の癇(かん)にさわったらしいのです。
「なに。大王様が御壮健でないことがあるものか。御壮健そのものだぞ。僕がよく知っている。僕の方がよっぽど虚弱なくらいだぞ。だから僕は日夜大王様の身辺に侍して、大王様のはつらつたる御健康のおこぼれを……」
「なんだと。おいぼれだと!」
大王猫が憤然と聞きとがめて、頭をむっくりもたげました。
「いえ、いえ。おいぼれじゃなく、おこぼれでございまする」
「ははあ。耳にも故障がございますな」
ヤブ猫は鞄の中から細い金属棒をせかせかとつまみ出し、大王猫の頭をいきなりぐっと押え、その尖端を右耳のなかにそっと差し込みました。途中でところどころ引っかかるようでしたが、とにかくその金属棒はしだいしだいに耳穴にすいこまれ、やがてその尖端が左の耳の穴からチカチカと出て参りました。その間大王猫はすっかり観念したように、身動きさえしませんでした。
「ははあ。思った通りだ」
金属棒を耳からずるずると引き抜きながらヤブ猫がつぶやきました。
「鼓膜も穴だらけだし、内耳も腐蝕しておるし、これじゃ右から左へぜんぜん素通しだ」
「どうしたらよかろう」
と大王猫はうめくように言いました。
「マタタビ軟膏をお詰めになるんですな」とヤブ猫はすました顔で言いました。「それに肝臓も相当に傷んでいて、すでにペースト状を呈しておりますな。早急に手当をせねばなりません」[やぶちゃん注:「マタタビ軟膏」以下の「マタタビオニン」「マタタビ丸」(またたびがん)も含め、このような薬剤や薬物は実在しない。「マタタビ」は後注を参照されたい。「ペースト状」の「肝臓」は脂肪肝のことであろう。]
「どんな手当がよろしかろうか」
「マタタビオニンがよろしいでしょう。それから坐骨神経の障害。ほら、ここを押すとしたたかお痛みになりますでしょう」
「うん。あ、いてててて!」
「マタタビの葉をすりつぶしてお貼りになるんですね。朝夕二回ぐらいがよろしゅうございましょう」
「それから近頃どうかすると――」大王は胸を押えました。「すぐに心臓がドキドキするのじゃが」
「心悸亢進(しんきこうしん)でございましょうな。すべてこれらは老衰にともなう典型的な症状でございまして――」
「なに。老衰だと」と大王猫はぎろりと眼を剝(む)きました。
「じっさいお前は言いにくいことを、全くはっきりと言う猫だな。それじゃよし。そんなら老衰という現象には――」
「マタタビがよろしゅうございましょう」
これはヤブ猫だけでなく、他の三匹の猫も一緒に合唱するように言ったものですから、大王猫はかっとなって二尺ばかり飛び上って、総身の毛をぎしぎしと逆立てました。[やぶちゃん注:「二尺」六十センチ六ミリメートル。]
「何を聞いても、マタタビ、マタタビ、マタタビだ。このへボ医者奴。薬はそれしきゃ知らないのか。おい、ぼやき猫。ひとっ走りして文化猫を大至急呼んでこい!」
「文化猫はここしばらく、イタチ森へ講演旅行に出かけております」
「なんだと。講演旅行だと。あのロクデナシ奴。おい、ヤプ猫。お前は近頃全然勉強が足りないぞ。マタタビとはなんだ」大王猫は怒りのために尻尾をやけにうち振りふり廻し、呼吸をぜいぜいはずませました。「マタタビなんか古い。全然古い。十九世紀的遺物だ。現今はもはや二十世紀だぞ!」
ヤブ猫はかくのごとく真正面から痛烈に面罵されて、とたんにすっかり慄え上り、おろおろと前脚を鞄につっこみ、がしゃがしゃとかき廻した揚句、小さな鼠革表紙の手帳をとり出しました。これはまあ医者のエンマ帳みたいなものでしょうな。ヤブ猫は大急ぎで前脚に唾をつけ、ぺらぺらぺらと頁をめくりました。
「ええと。ええ。大王様。お怒りにならないで。不勉強なわけでは決してございません。ええ。それそれ、ここに、カビ、抗生物質と書いてございます。これなんかは老衰に――」
「なに。このわしにカビを食わせる気かっ!」
「いえいえ」ヤブ猫はあわてて次の頁をめくり、鼻眼鏡の位置を正しました。「ええ、次なるは葉緑素。これは最新学説でございますな。これを摂(と)ることによって体内の細胞はまったく更新し――」
「葉緑素とは何だ」
「はい。木の葉などにふくまれている天然自然の貴重な元素でございます」
三匹の猫たちは横柄なヤブ猫がちぢみ上っているので、お互いに目まぜをしながら痛快がっていました。大王猫は逆立てた背毛をすこし平らにしました。
「たとえばそれはどんな植物に豊富に含まれているのか」
「はあ」とヤブ猫は眼をぱちぱちさせました。「あのう、たとえば猫ジャラシとか――」
「ああ、あれはいかん」大王猫は前脚をひらひらとふりました。「あれを見ると、わしはイライラしてくるのじゃ」
「では、ツンツン椿(つばき)の葉っぱなどは如何でございましょう。毎食前に五枚ずつ」
大王猫はちょっと限をつぶって、顎(あご)をがくがく動かし、椿の味を想像している風でしたが、すぐにかっと眼を見開いてはき出すように言いました。
「あんまり感心しないな。お前の勉強はそれだけか」
「いえいえ」ヤブ猫はやけくそな勢いで次の頁をめくりました。「ええ。ええと。脳下垂体。これ、これ、これに限ります。これなら一発覿面(てきめん)でございます」
「覿面だと?」
「はあ。これは牛の脳下垂体でございまして、これを採取して内服するなり移植するなりいたしますと、たちまち十五年ばかり若返るのでございます」
大王猫は再びちょっと眼を閉じ、肩をぐっとそびやかしました。これはちょっと牛の気分を出してみたのです。すぐに眼をあけ、いくらか満足げににこにこしながら言いました。
「それはよかろう。面白かろう。それじゃ早速それを一発やって貰おう」
「今でございますか」ヤブ猫は手帳を急いでポケットにしまい、ハンカチでせまい額をごしごしと拭いました。「残念ながら只今のところ手持ちがございません。今しばらくの御猶予(ゆうよ)のほどを」
「なに。今手持ちがない?」大王猫の声はやや荒々しく、背毛もふたたび斜めに持ち上りました。「どこに行けば直ちに手に入るのかっ!」
「牛ケ原に参りますれば、そこらに黒牛が若干おりますので、あるいはそれに頼めば分けて呉れるかも知れません」
「よし。では早速家来どもを派遣する!」
大王猫は顔をじろりと三匹猫の方にむけました。三匹描は思い合わせたように、一斉(いっせい)に一歩二歩あとしざりをしました。これは牛は黒くて大きいし力はあるし、それとの交渉はあまり好もしい役目ではなかったからです。
「ではお前たち、直ちに牛ケ原に向って出発せよ」
「もうし、大王様」
と笑い猫が未練げに足踏みをしながら言いました。
「私どもは未だにはっきりと任務の内容を与えられておりません」
「よし。ヤブ猫。任務の内容を詳細に説明せよ」
ヤブ猫はまたハンカチでしきりに顔をふきながら、三匹の方に向き直りました。冷汗がひっきりなしに滲み出てくる風なのです。
「ええと、それは簡単である」ヤブ猫の声はおのずから苦しげな紋切型の口調になりました。「牛ケ原におもむいて、先ず黒牛をさがす。さがし当てたら、貴下の脳下垂体を少少分けて呉れと、相手を怒らせないように丁寧(ていねい)に頼みこむ。むこうが承諾したら、脳下垂体をすばやく採取して大至急戻ってくる」
「どういう方法で採取するのですか」とぼやき猫がおそろしそうに聞きました。
「ええ。それも簡単である」とヤブ猫は忙しくハンカチで顔を逆撫(さかな)でしました。もうハンカチは吸いとった汗でびしょびしょになってるようでした。「黒牛に先ず上をむいて貰うように頼む。そ、それから黒牛の鼻の穴に前脚をそろそろとつっこむ。右の穴でも左の穴でもどちらでもよろしいが、ただし、くしゃみをされるおそれがあるから、事前に前脚はよく洗っておくこと。まず前脚の付け根までつっこめば、何かぶよぶよしたものをきっと探り当てるから、そいつに爪をかけ、力いっぱい引っぱり出すこと。あとはそれをかかえて後も見ずに一目散にかけ戻って来ればよろしいのだ」
「うしろをふり返ってはいけないんですか」
「ふり返らない方がよろしかろう」とヤブ猫はぶるんと顔をふって冷汗をはじき飛ばしました。「万一ふり返りでもしたらどういうことになるか、それはもう保証の限りでない!」
その一言を聞いて三匹猫は一斉にぶるぶるっと身慄いしました。聞くだにおそろしそうな話だったからです。ことにぼやき猫なんかはもう目がくらくらして、ほとんどぶっ倒れそうな気分でしたが、辛うじて脚をふんばり、最後の質問をはなちました。
「もし黒牛さんがイヤだと申しましたら――」
「他の黒牛にあたるんだ」
「そいじゃ黒牛さんが、脳下垂体は分けてやる代りに――」とぼやき猫はここで大きく息を吸いこみました。「その代りに猫森の一部分を割譲せよとか、猫的資源を供出せよとか、そんなことを言い出したら如何はからいましょうか」
「そりや困る!」
と大王猫が渋面をつくって、あわててはき出すように言いました。
「いや、大丈夫でしょう。黒牛なんてえものは至極お人好しの牛種ですから」とヤブ猫は診察鞄を小脇にかかえ、もう半分逃げ腰になりながら猫撫で声を出しました。「そんな悪らつなことを、まさかねえ、アメリカじゃあるまいし」
「よろしい。出発!」と大王猫がいらだたしげに前脚をふりました。「大至急、牛ケ原にむけ前進開始!」
「笑い猫にぼやき猫!」と大王猫の号令に便乗してオベッカ猫が声をはり上げました。「ただちに牛ケ原にむかって出発前進。糧食一食分携行。遠距離であるからして、歩幅は三尺六寸でよろしい。ただし帰りは四尺八寸に伸ばさざれば、生命の保証なしと知るべし。さらば征(ゆ)け、勇敢なる若猫よ!」
「バカ。このロクデナシ!」
大王猫は激怒のあまり逆上して、二三度ぴょんぴょんと飛び上り、オベッカ猫をにらみつけました。
「ずるやすみもいい加減にしろ。先刻もこのわしをおいぼれ呼ばわりまでしやがって!」
「はい。何でございましょうか」
「何もくそもあるものか」と大王猫は王者のたしなみも忘れて、口汚ないののしり方をしました。「行くんだよ。お前が先頭に立って出発するんだっ!」
「はあ、私がでございますか」とオベッカ猫はきょとんとした顔をしました。
「そうだよ。それがあたり前だ」
「でも私はここに居残って、大王様の御看護を――」
「看護にはヤブ猫が残る!」と大王猫は怒鳴りつけました。「弁当をこしらえてさっさと出て失せろ!」
鞄をかかえて逃げ腰になっていたヤブ猫は、大王猫に肩をつかまれて、当てが外れたようにへたへたと地面に坐りこみました。
三匹猫はうらめしそうにそのヤブ猫をにらみつけ、それからそれぞれ手分けをして、大王の朝飯の残りのコンニャクやそこらに生えている茸(きのこ)を、のろのろと弁当袋につめこみ、めいめいそれを頸(くび)から脇にかけました。なかんずくオベッカ猫の動作が一番のろかったのは、この牛ケ原行きにもっとも気が進まなかったせいでしょう。しかしとうとう用意がととのってしまったものですから、三匹はオベッカ猫を最右翼にしてしぶしぶ一列横隊となり、そしてオベッカ猫がまず哀しげに声をはり上げました。
「オベッカ猫、只今より牛ケ原に向い、黒牛の頭蓋より脳下垂体を奪取して参ります!」
そしてオベッカ猫はぎょろりとヤブ猫をにらめました。
「笑い猫、右に同じ!」
「ぼやき猫、右に同じ!」
そして二匹は一斉にぎらりとヤブ猫をにらみ、それから視線を大王に戻してこんどは大王の顔をきっとにらみつけました。すると大王は何をかんちがいしたのか、まったく満足げににこにこしながら、荘重な口調で訓示を垂れました。
「よろしい。只今諸子の眼光をうかがうに俄(にわ)かにけいけいとして、見るからに闘志にあふれておる。わしの満足とするところである。その闘志をもって牛ケ原に直行し、巧言令色もって至妙の交渉をとげ、首尾よく脳下垂体を獲得して帰投せよ。出発!」
「出発。右向けえ、右!」とオベッカ猫があまり力のこもらない号令をかけました。「行く先は牛ケ原。歩幅は二尺六寸。出――発!」
「三尺六寸だっ!」と大王猫が怒鳴りました。
「もとい。歩幅三尺六寸。出発」
彼方のゆらゆら木洩(も)れ日をかきわけて、三匹編成の特別一小隊は、エッサエッサと懸声をかけて椎の木小路の方にだんだんと遠ざかって行きました。あとはしんかんとした茸庭の正午の空気です。一隊が見えなくなると、大王猫は急にぐったりしたように、ぐにゃぐにゃと地面にへたりこみました。
「すこし疲労したようだ」と大王猫はものうげに小さな欠伸(あくび)をしました。「脳下垂体か。それまでの間に合わせに、マタタビ丸を三粒ほど呉れえ。しかしあいつ等、うまく持って帰ってくるかなあ」
「あいつらが失敗すれば、また別の家来を派遣なさいませ」と鞄からマタタビ丸をつまみ出しながら、ヤブ猫がそそのかすような声で言いました。「まだ御家来衆は次々控えておりまするでございましょう」
「そうだ。そうだ。あいつらがやりそこなったら、今度はイバリ猫にズル猫にケチンボ猫を派遣しようかな」
そして大王猫はマタタビ丸をぺろりとのみこんで、ふううと大きな溜息をついて身体を地面にひらたく伸ばしました。
「ヤブ猫。後脚の付け根あたりをすこし揉んで呉れえ。近頃わしは中脚の方も全然ダメになったようだが、脳下垂体を服(の)めば回復するか。するだろうな。そうでなければわざわざ服む価値はないぞ」[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「中脚」とは陰茎のことである。]
一方オベッカ猫を長とする特別一小隊は、やがて猫森を出はずれ、ハンの木、ヤチダモ、アカダモ並木の大街道をかけ抜け、一面茫々の大湿地地帯を通過し、やっとタンポポ丘にたどりついた時は、もはや陽ざしは午後二時近くになっていました。さすがの若猫たちもこの長距離疾走にはすっかり疲労して、膝の関節もがくがくとなり、歩幅も二尺六寸ぐらいに縮小してしまっていたくらいです。そのタンポポ丘の頂上に立った時、突然笑い猫が彼方を指差してすっとんきょうな声を立てました。
「黒牛が!」
タンポポ丘のふもとから見渡す限り青々と草原がひろがり、五百米ほどの彼方に黒いものがひとつ、じっとうずくまっているのが見えました。ここが名だたる牛ケ原なのです。そいつは見るからに傲然として、途方もなく巨大な黒牛らしいのでした。ぼやき猫もその叫びにつられたように、哀しげな声を出しました。[やぶちゃん注:「傲然」偉そうに人を見下すさまを指す。]
「ああ。あそこに黒牛が」
オベッカ猫はその瞬間まっさおになり、しばらくむっと黙っていましたが、やがてへたへたとタンポポを踏みくだいて腰をおろし、情なさそうに口をひらきました。
「さあ。とにかく、それよりも、弁当ということにしようや。そして弁当が済んだら、君たちは二人とも小川でよく前脚を洗うんだよ。黒牛がくしゃみをすると僕だって大へん困るからなあ」
笑い猫もぼやき猫も同時に顔をぐしゃっとしかめ、よろめくように丘の斜面に尻もちをつきました。そこで三匹はそのままの姿勢で弁当袋をひらき、めいめいぼそぼそとコンニャクだの茸だのを口に入れては嚙みました。おそらくそれらは全然食べ物の味がしなかったに違いありません。三匹ともろくに唾液が分泌してこないようで、時々ちらちらと黒牛の方に横目を使いながら、ごくんごくんとむりやりに嚥下(えんげ)している様子なのでした。僕はこういう彼等につよく同情するのです。
[やぶちゃん後注:「三半規管」あくまでヒトのケースで述べる。内耳にある三つの半環状の管で、互いに直角に組み合わさっている。中にリンパ液が満ちていて、その動きによって首や身体の回転の方向を立体的に認知し、人体全体の平衡感覚を掌っている。ネコの場合、この三半規管がすこぶる敏感で高性能なことは、高い場所から落ちてもちゃんと着地する空中立位反射を見れば判る。冒頭の大王猫の「脚をふんばってみても昔みたいな元気がどうしても出て来ない」「よたよたと行ったり来たり」するところから、ヤブ猫の見立ては一応、理解は出来る。
「迷走神経」あくまでヒトのケースで述べる。脳神経の一つで、副交感神経や咽頭・喉頭・食道上部の運動神経、腺の分泌神経などを含み、延髄を起点とする。脳神経でありながら、体内で多数に枝分れして複雑な経路をとって腹腔内にまで広く分布を持つことから、かく名が附せられた。内臓に多く分布していて体内の環境をコントロールしているが、強い痛みや精神的ショックなどが原因で迷走神経が著しく刺激されると同神経系が過剰に反応し、心拍数及び血圧低下や脳貧血などを惹き起こして失神などの症状を呈する(以上は看護師求人転職サイト「看護roo!(カンゴルー)」の「看護用語集」にある「迷走神経」を参考にした)。迷走神経の中でも迷走神経鰓弓部と呼ばれる咽頭附近に集合するものの中でも、反回(下喉頭)神経が障害を受けると、喉頭筋が不全麻痺に陥るため、声が嗄れたり、呼吸困難・窒息が起こるとある(ここは私が献体している慶應義塾大学医学部解剖学教室の船戸和弥先生のサイト内の「脳神経の概要」の「迷走神経[Ⅹ]」に拠った)から、大王猫の舌を嚙む症状からは、ネコの迷走神経系もヒトと基本的に変わらないとするならば、この見立ても無きにしもあらず、ではある。
「舌下腺」唾液腺の一つで下顎骨の内面に接してある(辞書類にはさらに多く記載があるが、ヒトとネコでは異なる可能性が高そうなのでこれ以上は注しない)。舌を嚙む症状が唾液の多少に関わりそうな気は、確かにする。
「マタタビ」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygama。ウィキの「マタタビ」によれば、マタタビは雌雄異株で、『雄株には雄蕊だけを持つ雄花を』、雌株は『花弁のない雌蕊だけの雌花をつける』が、雌株には『雄蕊と雌蕊を持った両性花をつける』ものがある(ここは他の記載で一部操作した)。六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし(キク亜綱シソ目シソ科イヌハッカ属イヌハッカ Nepeta cataria。但し、本邦には元来は自生しない帰化植物。ウィキの「イヌハッカ」によれば、『日本ではキャット・ミントと呼ばれることもあ』り、『種名のカタリア(cataria)はラテン語で猫に関する意味があり、また英名の Catnip には「猫が噛む草」という意味がある。その名の通り、猫はこのハッカに似た香りのある草を好むが』、『これはこの草の精油にネペタラクトンという猫を興奮させる物質が含まれているからである。猫がからだをなすりつけるので、イヌハッカを栽培する際には荒らされることも多いが、この葉をつめたものは猫の玩具としても売られている』。『なお、猫に同様の効果をもたらす植物としてマタタビや荊芥』(けいがい:同イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia)『などがあるが、日本において特に有名な前者にちなみ、イヌハッカは「西洋マタタビ」と呼ばれることもある』とある)、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』。「牧野新日本植物図鑑」(一九八五年北隆館刊/三三一頁)によると、『アイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学と民俗学が美事に復権した素晴らしい記載である。他にも『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』ともある。このウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。
「坐骨神経」仙骨(腰椎下方・尾骨上方にある骨盤の後壁をなす骨)から骨盤を経由し、大腿部に向かう神経。多くの動物に於いて、同一個体中に於ける最大直径・最大長を有する末梢神経である。
「心悸亢進」烈しい動悸を感ずる症状。『普通には自覚されない心臓の鼓動を前胸部に感じる不快感。普通は心臓の拍動が亢進しているときに起こるが、正常心拍でも動悸を感じる場合もある。脈拍は、普通1分間に』五〇~九〇回ほどで『規則正しく打っているが、心拍数が』百を『超す頻脈』や、反対に四〇以下に『減少する徐脈、不整脈、心臓の収縮性が亢進したときなどに動悸や心悸亢進が自覚されることが多い』。『直接的な原因となる心臓の病気には、期外収縮、心房細動、心房粗動などの不整脈、発作性頻拍症、洞不全症候群、高度の徐脈、高血圧などがある。また、心疾患以外でも、貧血、発熱、薬物(気管支拡張薬、甲状腺剤、強心剤、アトロピン、エフェドリンなど)使用時や、心因性疾患も、動悸・心悸亢進を引き起こすことがある』(以上は「日本薬学会」公式サイト内の「薬学用語解説」の「心悸亢進」より引いた)。
「カビ、抗生物質」カビや放線菌などの微生物によって生産され、他の微生物や生きた細胞の発育を阻害する有機物質。イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming 一八八一年~一九五五年)が一九二八年にブドウ球菌(真正細菌フィルミクテス門バシラス綱バシラス目ブドウ球菌科ブドウ球菌属 Staphylococcus )の一種を培養実験中、菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科アオカビ属アオカビ(当時の学名は Penicillium notatum であったが現在はPenicillium chrysogenum)のコロニーの周囲に阻止円(ブドウ球菌の生育が阻止される領域)が生じる現象を発見、アオカビを液体培地で培養、その培養液を濾過した濾液に含まれる抗菌物質にアオカビの属名に因んで「ペニシリンと名付け(一九二九年)、後の第二次世界大戦では多くの傷病兵が感染症からこのペニシリンによって救われた(実際にはフレミングはペニシリンの精製に成功しなかったが、オーストラリア人生理学者ハワード・フローリー(Howard Walter Florey 一八九八年~一九六八年)とドイツ生まれのイギリス人生化学者エルンスト・ボリス・チェーン(Ernst Boris Chain 一九〇六年~一九七九年)が一九四〇年精製製剤化の開発に成功、大量生産が可能となった。これを「ペニシリンの再発見」と呼び、一九四五年にフレミング・フローリー・チェーンの三人はノーベル医学生理学賞を共同受賞している)。それ以来、数多くの抗生物質が発見されて医薬品などに用いられている。抗生物質は戦後になって民間にも安く行き渡るようになった。その安くなった抗結核薬ストレプトマイシンン(streptomycin:単離は一九四三年)のお蔭で、私も結核性カリエス(一歳半で発病して四歳半で完治)から救われた。
「葉緑素」クロロフィル(chlorophyll)の薬理効果は比較的早くから知られており、造血機能の促進(一九一九年)、細胞を活発化させて創傷や潰瘍の治癒を促進させる効果(一九二二年)などが医学論文で報告されており、その後、急速に葉緑素に対する多方面の研究がなされた。特に本篇より後の、一九六六年頃からは数多くの医学効果が確認され、発表されるようになった。現行では、整腸・消炎・貧血予防の他、抗癌効果・コレステロール値を下げる効果・デトックス効果(体内に溜まった老廃物や毒物を排出する効果)などが認められている(以上は葉緑素の成分情報サイト「わかさの秘密」(「わかさ生活」提供)の「葉緑素」に拠った)。
「猫ジャラシ」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属エノコログサ(狗尾草)Setaria viridis の俗称であるが、こちらの方が多分、通りがよい。
「脳下垂体」「牛の脳下垂体」rattail氏のサイト「岡田自観師の論文集」(岡田自観(明治一五(一八八二)年~昭和三〇(一九五五)年)とは世界救世(メシヤ)教教主。本名は岡田茂吉)の『医学断片集二十九』(『栄光』一九四号・昭和二八(一九五三)年二月四日発行)に、
《引用開始》
近来流行の牛の脳下垂体埋没法によって、若返るとか、禿に毛が生えるとか、背が伸びるとか、皺(しわ)がなくなるとか、疲れなくなるとか、まるで牡丹餅(ぼたもち)で頬ッペタを叩かれるような、うまい話ずくめなので、その専門の医師が雨後の筍(たけのこ)のように増え、最近東京都内だけで、二百数十カ所にも及んだというのであるから驚かざるを得ない。そのため医師会の問題になり、その対策によりより合議中だが、容易に断案(だんあん)は得られないので困っているようである。
しかしこれを吾々から見ると、はなはだ簡単な話で直ちに断案を得られるからそれをかいてみよう。いつもいう通り医学の方法は、ヒロポンと同様よく効く程一時的効果でしかないから、この脳下垂体法も効果はまず数カ月ないし一力年くらいと思えばよかろう。その先は元の木阿弥(もくあみ)どころか、体内に入れてはならない変なものが入っている以上、これが禍(わざわい)をして厄介な病気になり、随分苦しむ事になろう。確か十数年前に若返り手術などといって、一時流行した事があるが、これもいつの間にか煙になってしまったのは、知る人も相当あろう。
今度の方法もそれと同工異曲と思えばいい。まず一、二年で幽霊のようになってしまうのは、断言して誤りないのである。
《引用終了》
文中の「断案」とは、ある事柄に就いて最終的に決定された考え・方法・態度のことである。さてもまた、『東スポweb』の二〇一二年十一月七日の記事に、「安直な理由で広まった“若返り”ブーム【なつかしの健康法列伝:牛の脳下垂体がブーム】」 というのがあり、昭和二七(一九五二)年に全国の医師が食肉処理場に大挙して繰り出し、牛の脳下垂体を買い求めに来るという事態が起きたとし、それが何と、『牛の脳下垂体を人間の筋肉に埋め込むと、若返りに効果絶大という噂が広がったから。大学病院の医師から開業医にいたるまで、入手希望者が殺到したという』。『施術の具体的な方法は、牛の脳下垂体の皮をむきメスで細かく刻み、細切れになったものを患者の尻の筋膜下に入れ込むというものだったらしい』とあり、『若返り希望者(需要)と、処理される牛(供給)のバランスがとれておらず「処理場では牛の頭の奪い合いだった」という記事も残っている』とある。『また、当時の医者の卵は教授から「ちょっと実験台になってみろ」と、やたらめったら尻の皮膚を削られるという悲惨な現象も起きたとか。もちろん、その若者たちが若者のままであるという事実は一切ないが…』…と、ちゃらかし、『脳下垂体はホルモンのボス的存在。どうやら「ホルモンのボスなのだから、移植すれば若返りに効果があるだろう」というなかなか安直な理由で広まったブームらしい』。『もちろん、細切れの皮1枚を移植したところで効果もなければ副作用もなかったようだ。バカらしく思えるブームだが、「若返り」と聞けば何でも飛びつく習性は、今も何ら変わってないような気もしたりして』と結んでいる。岡田の警告した副作用のなかったのはちょっと残念だが、ヤブ猫(どうもこの医者猫、私自身の分身のようで他人の気がしないのだが)の言うように「内服」となると、私は俄然、プリオン病のクロイツフェルト・ヤコブ病の感染が危惧されるのであるが、如何?
「覿面(てきめん)」の「覿」は見るの意で、原義は、「面と向かって見ること」「目の当たりに見ること」「目の当たり」「目前」であるが、そこから転じて今では、効果・結果・報いなどが即座に現前することを指す。
「黒牛に先ず上をむいて貰うように頼む。そ、それから黒牛の鼻の穴に前脚をそろそろとつっこむ。右の穴でも左の穴でもどちらでもよろしいが、ただし、くしゃみをされるおそれがあるから、事前に前脚はよく洗っておくこと。まず前脚の付け根までつっこめば、何かぶよぶよしたものをきっと探り当てるから、そいつに爪をかけ、力いっぱい引っぱり出す」この施術法は私には、かつて盛んに行われたいまわしい精神外科的手術、ロボトミー(lobotomy)、前頭葉白質切截(はくしつせっせつ)術をフラッシュ・バックさせる。精神障害、特に統合失調症(当時の精神分裂病)や双極性障害(所謂、躁鬱病或いは鬱病)人格異常による興奮などの主に重い精神疾患を持つと判断された患者に対して行われたおぞましい術式である。脳の一部を切除するこの種の精神外科術式は既にブルクハルト(G. Burckhardt(一八八八年))やダンディ(W. E. Dandy(一九二二年))らによって試みられてはいたが、事実上の「ロボトミー」創始者となったのはポルトガルのモーニスによる一九三五年(昭和五年相当)のそれであった(一九四九年(昭和二十四年)にモーニスはこの業績を以ってノーベル生理学・医学賞を受賞した)。モーニスは精神病者の精神症状は前頭葉に至る神経経路を遮断することによって改善されると考え、前頭葉白質内への無水アルコール注入による神経繊維の凝固及び太い注射器上の剔抉器具である白質切截器「ルーカトーム」(leucotome)による脳葉の神経回路の切離術を明らかにした。しかし、モーニスの原法である前頭葉白質切截術(frontal leucotomy)はヨーロッパではあまり行われず、寧ろ、アメリカに於いてフリーマン(W.Freeman)やワッツ(J. W. Watts)らによって発展施術させられた。日本でも特に第二次世界大戦後の一時期、精神科の治療法の一つとして施行されていたが、その後の急速な向精神薬の導入や、脳に回復不能な影響を与えるだけにとり返しのつかない後遺症を齎す上、その治療効果自体も疑問視され、手術そのものを非人間的とする厳しい批判もあって現、在では行われなくなった(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の武正建一氏の記載を元にした)。
*
最後に。
私はこの截ち切れたようなエンディングに不思議に少しも失望しない。
何故か?
それはこの、
「黒牛が!」
タンポポ丘のふもとから見渡す限り青々と草原がひろがり、五百米ほどの彼方に黒いものがひとつ、じっとうずくまっているのが見えました。ここが名だたる牛ケ原なのです。そいつは見るからに傲然として、途方もなく巨大な黒牛らしいのでした。ぼやき猫もその叫びにつられたように、哀しげな声を出しました。
「ああ。あそこに黒牛が」
というコーダの景観が不思議に胸を撲(う)つからである。もう、お判りであろう。これはまさに、「桜島」冒頭の、
翌朝、医務室で瞼を簡単に治療して貰い、そして峠を出発した。徒歩で枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度(たび)の展望に目を見張った。何故(なぜ)此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を嚙むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別(けつべつ)という感傷が私の肉眼を多分に歪(ゆが)めていたとしても――
を直ちに想起させ、そして無論、同時に「幻化」の、
忽然(こつぜん)として、視界がぱっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美な衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。
「あ!」
彼は思わず立ちすくんだ。
「これだ。これだったんだな」
数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径(やまみち)から、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方に小さな湖が見える。
〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉
頭のしびれるような恍惚(こうこつ)を感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが――
「そうじゃない。ここだったのだ」
五郎は海に面した路肩に腰をおろし、紙コップに酒を充たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。
「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」
その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣囊(いのう)をかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらけ、真昼の陽にきらきらと光り、遠くに竹島、硫黄島、黒島がかすんで見えた。体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉
感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。
の原風景を見るからである。梅崎春生もきっとそうだったに違いない。だからこそ彼はここで擱筆したのだとさえ私は思うのである。――正直言えば――この「黒牛」は――私には「幻化」に出てくるあの坊津の「雙剣石」に見えて――しょうがないのである……]
« カロ三代 梅崎春生 | トップページ | I »