梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (8)
泳ごうと言い出したのは、福であった。どんなきっかけだか、五郎は覚えていない。泳ぎの話になった。福は自慢した。
「泳ぎならうまいですよ。今は沖繩だが、生れは奄美(あまみ)大島だからね。子供の時から水もぐりにゃ慣れている」
「お前んちは漁師(りょうし)なのかい?」
「漁師じゃないけれども、五キロや十キロぐらいなら、今でもらくに泳いで見せますよ」
「五キロなら、おれだって泳げそうだな」
五郎は答えた。五郎も海辺の町で育ったので、水泳には自信があった。
「じゃやりましょうか。あの雙剣石まで」
五郎はアルコールを含みながら、その方角を見た。彼等の宴の場所は、松林をすこし離れた大きな岩かげで、すぐ下から暗い海がひろがっている。時々思い出したように、しずかな波がやって来て、砂を洗う。海のところどころ、筋になったりかたまったり、ぼんやりと明るいのは、夜光虫のせいだろう。
「泳いでもいいな」
五郎は答えた。
「あそこまで六、七百米あるかな。一キロはない」
「やめなよ」
興梠(こうろぎ)二曹が傍から言った。
「泳いだって、どうなるものでなし。くたびれるだけの話だ」
「泳ぎたいんですよ。興梠二曹」
福は呂律(ろれつ)の乱れた声で言いながら、もう上衣を脱いでいた。福は相当に酔っていた。五郎も立ち上った。
「おれも泳ぐよ」
福に張り合う気持は毛頭なかった。ただその暗い海に身をひたし、抱かれたいという気持だけがあった。興梠は投げ出すように言った。
「じゃ行きな。海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、てなことにはなるなよ」
「大丈夫ですよ」
福は五郎に白い歯を見せて笑った。それからよろよろと砂浜に降り、海へ入った。彼もつづいて足を水に踏み入れた。
しばらく海の浅さがつづき、急に深くなった。五郎は平泳で前進し、そして背泳ぎに移り、やがて手足の動きを中止した。顔だけを空気にさらし、全身から力を抜く。水はつめたくなかった。生ぬるくねっとりとして、彼の体を包んだ。彼は『母胎』という言葉に似たものを感じながら、十分間ほどゆらゆらと海月(くらげ)のようにただよっていた。空には雲がなく、一面に星が光っていた。福がどこにいるか、もう判らなかった。
〈何ならここで死んでもいいな〉
倦怠と虚脱感がそこまで進んだ時、五郎は突然ある危険を感じて、姿勢を元に戻した。岬(みさき)や岩のたたずまいから、十分間の中に、体がいくらか潮に流されていることを知った。五郎は振切るようにしぶきを立て、元の岸に向って泳いだ。やがて足が砂についた。水をかき分けながら浜へ上る。岩かげから興梠(こうろぎ)の声がした。
「もう戻って来たのか?」
「うん。途中まで行ったんだが――」
五郎は片足飛びで、耳の内の水を出した。
「戻って来たよ」
「福は?」
「見うしなった。先に行ったんだろう」
やはり体が冷え、酔いも醒めていた。五郎は衣服をつけ、掌をこすり合わせた後、食器のアルコールを飲んだ。三十分経っても、福は戻って来なかった。
「もう帰ろうや」
興梠(こうろぎ)が言った。おそらく福は雙剣石に泳ぎ着き、ここに戻らずに近くの岸へ上り、陸路を歩いて宿舎に戻ったんじゃないか。そんな想像を興梠は立てたが、五郎は黙っていた。へんな予感があった。
罐詰類を水に放り、二人は宿舎に戻ったが、福の姿は見えなかった。海水のため体がべたべたするので、五郎はまた外に出て、真水で全身を拭う。海を眺めながら、さっきの危懼(きく)感を思い出していた。
翌朝、福の死体が波打際で発見され、早速医務室に運ばれた。水を飲んでいる様子がないところから、心臓麻痺と診断された。福の戦病死は、暗号『仁』によって、本隊に報告された。暗号文は五郎がつくった。
『仁にみなぎれるその戦死――』
福がつくった替歌の文句は、福にとって真実となった。
[やぶちゃん注:「五郎も海辺の町で育ったので、水泳には自信があった」梅崎春生の生地である福岡県福岡市簀子は博多湾の直近であり、また霜多正次氏の「学生時代の梅崎春生」によれば、『旧制の第五高等学校(熊本市)で、私は梅崎春生と同じクラスだった。そしていっしょに水泳部に入り、同じ平泳ぎをやり、タイムもふしぎに五分五分だった』と記されていると、江藤正顕氏の論文「梅崎春生『幻化』論――「幻化」と「火」をつなぐもの――」(PDF)にある。
「夜光虫」海洋性のプランクトンのアルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans 。なお、「桜島」では後半の皮肉で重要な「からくり」となる生物である。以下、ウィキの「ヤコウチュウ」より引く。『大発生すると夜に光り輝いて見える事からこの名』(ラテン語の“noctis”「夜」+“lucens”「光る」)『が付いたが、昼には赤潮として姿を見せる。赤潮原因生物としては属名カナ書きでノクチルカと表記されることが多い。動物分類学では古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目、最近では渦鞭毛虫門に、植物分類学では渦鞭毛植物門に所属させる。一般的な渦鞭毛藻とは異なり葉緑体は持たず、専ら他の生物を捕食する従属栄養性の生物である』。『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞』(或いは水嚢:pusulen)『で満たされた細胞は直径』一、二ミリメートルで、『外形はほぼ球形』であるが、一ヶ所『くぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろそれ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは』一本の『触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に』、二本の『鞭毛を持つが、目立たない』。『このように、およそ渦鞭毛虫とは思えない姿である。一般に渦鞭毛虫は体に縦と横の溝を持ち、縦溝には後方への鞭毛を、横溝にはそれに沿うように横鞭毛を這わせる。ヤコウチュウの場合、横溝は痕跡程度にまで退化し、横鞭毛もほぼ消失している。しかし、縦溝は触手のある中心部にあり、ここに鞭毛もちゃんと存在する。ただし、それ以外の細胞が大きく膨らんでいるため、これらの構造は目立たなくなってしまっているのである』。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』。『他の生物発光と同様、発光はルシフェリン-ルシフェラーゼ反応による。ヤコウチュウは物理的な刺激に応答して光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』。『海産で沿岸域に普通、代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が即ち富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため、被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』。
「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。
「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)」軍歌「海行かば」。まず、ウィキの「海行かば」から引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔がNHKの嘱託を受けて一九三七年(昭和十二年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」である』。『放送は一九三七年(昭和十二年)十月十三日から十月十六日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行われたとの記録がある』。『本曲への国民一般の印象を決定したのは、大東亜戦争(太平洋戦争)期、ラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際に、必ず冒頭曲として流されたことである(ただし真珠湾攻撃成功を伝える際は勝戦でも流された)。ちなみに、勝戦を発表する場合は、「敵は幾万」、陸軍分列行進曲「抜刀隊」、行進曲『軍艦』などが用いられた』。『敗戦までの間、「第二国歌」「準国歌」扱いされ、盛んに愛唱された』。歌『詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号四〇九四番。『新編国歌大観』番号四一一九番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第十三詔)の引用部分にほぼ相当する』とある。以下、歌詞。歌詞は二種ある。
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海行かば 水漬(みづ)く屍
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おほきみ)の 邊(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
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海行かば 水漬く屍
山行かば 草生むす屍
大君の 邊にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ
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『「かえりみはせじ」は、前述の』通り、「賀陸奥国出金詔書歌」によるものであるが、一方が『「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第十三詔)によ』り、『万葉学者の中西進は、大伴家が伝えた言挙げの歌詞の終句に「かへりみはせじ」「長閑には死なじ」の二つがあり、かけあって唱えたものではないか、と推測している』とある。最後に家持の「万葉集」の原歌を引いておく。底本は中西進氏の講談社文庫版「万葉集」を参考にしたが、恣意的に漢字を正字化した。読みは私が必要と判断したものを独自に附けた(中西氏には必ずしも従っていない。下線はやぶちゃん)。
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葦原の 瑞穗(みづほ)の國を 天降(あまくだ)り 領(し)らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日繼(ひつぎ)と 領らし來(く)る 君の御代御代(みよみよ) 敷きませる 四方(よも)の國には 山川(やまかは)を 廣み厚みと 奉る 御調(みつき)寶(たから)は 數へ得ず 盡しもかねつ 然れども わご大君の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひ給ひ 善き事を 始め給ひて 黃金(くがね)かも たしけくあらむと 思(おぼ)ほして 下惱(したなや)ますに 鷄(とり)が鳴く 東(あづま)の國の 陸奧(みちのく)の 小田(をだ)なる山に 黃金(くがね)ありと 申し給へれ 御(み)心を 明(あき)らめ給ひ 天地(あめつち)の 神相(あひ)珍(うづ)なひ 皇祖(すろめき)の 御靈(みたま)助けて 遠き代よに かかりし事を 朕(わ)が御代に 顯はしてあれば 食國(をすくに)は 榮えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緖(を)を 服從(まつろへ)の 向けのまにまに 老人(おいひと)も 女(をみな)童(わらは)も 其(し)が願ふ 心足(だら)ひに 撫で給ひ 治め給へば 此(ここ)をしも あやに貴(たふと)み 嬉(うれ)しけく いよよ思ひて 大伴(おほとも)の 遠(とほ)つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊へにこそ死なめ 顧(かへり)みは せじと言立(ことだ)て ますらをの 淸きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流(なが)さへる 祖(おや)の子等(こども)そ 大伴と 佐伯(さへき)の氏(うぢ)は 人の祖(おや)の 立つる言立(ことだ)て 人の子は 祖(おや)の名絕たず 大君に 奉仕(まつろ)ふものと 言ひ繼(つ)げる 言(こと)の官(つかさ)そ 梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて 劍(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き 朝(あさ)守(まも)り 夕(ゆふ)の守りに 大君の 御門(みかど)の守り われをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし增(まさ)る 大君の 命御言(みこと)の幸(さき)の 聞けば貴(たふと)み
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やや読みに違いがあるが、私がその附近(但し、当時はこの歴史館はなかった)で青春の六年を過ごした、「高岡市万葉歴史館」公式サイト内の「web万葉集」の「読んでみよう越中万葉」の本歌の全訳が載るページをリンクさせておく。
「危懼(きく)」危惧 (きぐ)に同じい。危(あや)ぶんで懼(おそ)れること。]