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2016/01/14

梅崎春生 詩  「創痍」   (初出形復元版) + 梅崎春生「編輯後記」

 

    創  痍   文二甲二 梅崎春生

 

遠クニ海鳴リノ音ガ聞エル此ノ酒場ノ屋根ニハ、破レタ

旗ガ夜風ニバタバタト歌ツタ。天井ノ低イ此ノ部屋ハ、

酒ノ匂ヒ、莨ノ匂ヒト共ニ、磯ノ香ガ漂ツテ居ル。アア

幾年海ニ住ミ、幾年海ニナヅンダ水夫達ノ服ニ、カソケ

クモシミツイタウラ淋シイ海ノ匂ヒナノダ。酒場ノ女ガ

ヒク手風琴ノ旋律ガ、ソノ中ニ和ヤカニムセンダ。人々

ハ、ジンヲ、ウイスキーヲ、ウヲツカヲ、心愉シク飮ミ

ナガラ、聲ヲ合セテ、或ヒハ船歌ヲ、或ヒハ戀歌ヲ歌ツ

タ。

私ハソノ時、ソノ一人トナリ、片隅ニ坐ツテ、或ヒハ眼

ヲ上ゲテ壁ニ懸ツタ油𤲿ヲ眺メ、或ヒハ卓ノ上ノ酒壜ノ

レツテルヲ眺メル。手風琴ノ響キガ私ノ記憶ノ海ニ荒ン

ダ。シカシソレヲ、波頭ノヤウニ碎カウトスル私ナノダ

。ソレハ小川ノヨウニ逃レテ行ク心ナノダ。水脈ヲ殘サ

ナイ幽靈船ノ私ナノダ。私ノ四肢ハ、グラスノ脚ノヤウ

ニ冷タカツタ。ソレ故私ハウイスキーヲツイデハ飮ンダ

。ツイデハ飮ンダ。ツイデハ飮ンダ。

窓ニアル季節ノ花束ハ紅カツタ。ソレヨリモ水夫ノ銜ヘ

タパイプハモツト紅カツタ。ソレヨリモ彼等ガ合唱スル

戀歌ハモツトモツト紅カツタ。時折、港ノ方カラハ、ボ

ボオ・ボオ・ト汽笛ガ聞エテ來タ。彼方ニハ、水夫

達ノナツカシイ生活ガアツタ。ソシテ此處ニモ、水夫タ

チノナツカシイ生活ガアツタ。ソレガ單調ナ繰返シデア

ツタニシロ、彼等ハ此ノ紅イ現實ヲ樂シム爲ニ、心ユク

マデ飮ミ、心ユクマデ歌フノダ。

私ハグラスヲカザス。私ハソレヲ飮ミホス。私ハソレヲ

卓ノ上ニ置ク。置キ忘レラレタ過去。モウ思ヒ出セナイ

過去。ソノ爲ニイラダタシイ氣持モ、亦私ノ宿命故デア

ツタラウカ。

私ハタチ上ル。私ハ扉ヲ押ス。巷ハ死魚ノ如ク眠リ、木鍊

鍊瓦ハ鱗ノ如ク光ツタ。私ノ足音ハ單調ナ堆積ニ過ギナ

イ。私ハモウ閲歷ノ足音ヲ聞ク事モシナイ。動キノ無イ

瞳デ蹣跚タル私ノ足ドリヲ數ヘル。ソレ故巷ニハ、秋風

ガ颯爽卜吹キ荒ンダ。 

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年六月二十八日第五高等学校龍南会発行『龍南』二二八号に所載された初出形(発行日は「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」により確認)。底本は「熊本大学学術リポジトリ」内の同初出誌誌面画像227-007.pdfを視認、活字に起こした。一行字数を底本に一致させてある。この散文詩はちょっと特異で、句点(。)が実はかなり大きく()、第三段落の「ボオ・ボオ・ボオ・ト」の中黒(・)も有意に大きい(「」。実は、ポイントを変えたり、幾つかの方法を試みて再現しようとしたが、行が揃わなくなるなどの弊害が生じるので諦めた)。

 実は、沖積舎版には一つ大きな問題がある。それは、編集者が、この一篇を他の散文詩と一行字数を同じ二十字に合わせてしまった結果、「私ハソノ時、ソノ一人トナリ」で始まる第二段落(第二連)と、「私ハタチ上ル」で始まる第三段落(第三連)が、改行されているようには見えなくなって、全体が五段落(五連)構成なのに、三段落(三連)から構成されているようにしか見えなくなってしまっているのである。これは、後々までも思いもかけない誤読を惹起させることにもなりかねないので、特に明記しておきたい

 さて、本詩篇には別な疑問がある。それは、通常行われるべき禁則処理が行われずに、行頭にデカい句点が二箇所も上っている点である。これは一つの可能性として、作者梅崎春生或いは編者なりが、これは一続きの散文だということを、暗に示している可能性を示唆する。とすれば、奇妙な一行字数制限を排除して表示したものこそが本篇のあるべき姿であるとも言い得ることになる。そこでそれを試みに表示しておきたいのである(署名は省略した)。なお、沖積舎版のような見かけ上のテクストの誤読を避けるために、各段(各連)の間に一行空きを設けておいた

   *

 

    創  痍

遠クニ海鳴リノ音ガ聞エル此ノ酒場ノ屋根ニハ、破レタ旗ガ夜風ニバタバタト歌ツタ。天井ノ低イ此ノ部屋ハ、酒ノ匂ヒ、莨ノ匂ヒト共ニ、磯ノ香ガ漂ツテ居ル。アア幾年海ニ住ミ、幾年海ニナズンダ水夫達ノ服ニ、カソケクモシミツイタウラ淋シイ海ノ匂ヒナノダ。酒場ノ女ガヒク手風琴ノ旋律ガ、ソノ中ニ和ヤカニムセンダ。人々ハ、ジンヲ、ウイスキーヲ、ウヲツカヲ、心愉シク飮ミナガラ、聲ヲ合セテ、或ヒハ船歌ヲ、或ヒハ戀歌ヲ歌ツタ。

私ハソノ時、ソノ一人トナリ、片隅ニ坐ツテ、或ヒハ眼ヲ上ゲテ壁ニ懸ツタ油𤲿ヲ眺メ、或ヒハ卓ノ上ノ酒壜ノレツテルヲ眺メル。手風琴ノ響キガ私ノ記憶ノ海ニ荒ンダ。シカシソレヲ、波頭ノヤウニ碎カウトスル私ナノダ。ソレハ小川ノヨウニ逃レテ行ク心ナノダ。水脈ヲ殘サナイ幽靈船ノ私ナノダ。私ノ四肢ハ、グラスノ脚ノヤウニ冷タカツタ。ソレ故私ハウイスキーヲツイデハ飮ンダ。ツイデハ飮ンダ。ツイデハ飮ンダ。

窓ニアル季節ノ花束ハ紅カツタ。ソレヨリモ水夫ノ銜ヘタパイプハモツト紅カツタ。ソレヨリモ彼等ガ合唱スル戀歌ハモツトモツト紅カツタ。時折、港ノ方カラハ、ボオ・ボオ・ボオ・ト汽笛ガ聞エテ來タ。彼方ニハ、水夫達ノナツカシイ生活ガアツタ。ソシテ此處ニモ、水夫タチノナツカシイ生活ガアツタ。ソレガ單調ナ繰返シデアツタニシロ、彼等ハ此ノ紅イ現實ヲ樂シム爲ニ、心ユクマデ飮ミ、心ユクマデ歌フノダ。

私ハグラスヲカザス。私ハソレヲ飮ミホス。私ハソレヲ卓ノ上ニ置ク。置キ忘レラレタ過去。モウ思ヒ出セナイ過去。ソノ爲ニイラダタシイ氣持モ、亦私ノ宿命故デアツタラウカ。

私ハタチ上ル。私ハ扉ヲ押ス。巷ハ死魚ノ如ク眠リ、木鍊瓦ハ鱗ノ如ク光ツタ。私ノ足音ハ單調ナ堆積ニ過ギナイ。私ハモウ閲歷ノ足音ヲ聞ク事モシナイ。動キノ無イ瞳デ蹣跚タル私ノ足ドリヲ數ヘル。ソレ故巷ニハ、秋風ガ颯爽ト吹キ荒ンダ。 

 

   *

 なお、最終段落(連)に出る「木鍊瓦」は不詳。これは当て推量に過ぎないが、「もくれんぐわ(もくれんが)」と読む一語で、木と煉瓦を組み合わせた古い港湾倉庫などの建築物を指しているのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。

 「閲歷」は本熟語の原義であるところの、「時間が過ぎ去ること」の謂いであろう。

 「蹣跚」老婆心乍ら、「まんさん」と読み、よろめき歩くさまの意。

 なお、沖積舎版(現代仮名遣化された部分はそのまま示してある)には実に「莨(たばこ)」「和(なご)ヤカ」「壜(びん)」「荒(すさ)ンダ」「銜(くわ)エタ」「亦(また)」「巷(ちまた)」「鱗(うろこ)」「堆積(たいせき)」「蹣跚(まんさん」「颯爽(さっそう)」と十箇所ものルビを振るが、またしても「水脈」には振っていない。これやはり「みを」以外の何ものでもない。読み間違いのあり得ないつまらぬ字にルビを附すのはやめて、ここにのみ「みお」のルビが振られるべきであると心得る。

 また、この号には編集委員として梅崎春生が参加しており、その「編輯後記」には彼による記載がある。同じく「熊本大学学術リポジトリ」内の228-013.pdfを視認、活字に起こした(底本では「○」の柱行の次以降は一字下げである。行空けはママ)。

   *

○創作の方は豫想以上に澤山集まりましたが、詩、歌、句は割に淋しく、特に短歌に於てその感を深くします。そうして期待して居た一年生の人達のものが少なかつたのは一寸物足りなく思はれます。

○詩は五篇。皆とりどりの味を見せて、割合に自由な感情を表現して居るやうに思へます。淸永、江藤兩君の詩は、素直な感情を美しい言葉で表現してあつて、その點敬服に價するやうに感じられます。頁數の都合上割愛した二篇もそれぞれ捨て難い味を見せて居ました。無題と題する詩篇は着想は良いのですが、もつと感情を整理したらどうかと思はれます。午前七時とする詩篇は、何かしら淸新なものが欠けて居て、もつと感情を飛躍させやうと勉めるべきだと言ふやうな感じを抱かせます。

○短歌一篇、此の一年生の歌人は、割合に良い味を持つて居るのですが、まだ物足りぬ何物かがあるやうです。おそらくは短歌に於いての經歷がまだ短い爲でせう。それ故次の作品が期待されます。

○俳句。三人の投稿者があつたのですが、何れも去年の龍南に比べるとずつとレベルが低いやうです。日方君のだけを拾ふ事が出來ました。上田先生は、良い所はあるが惜しい事には少し型が古いと批評して下さいました。

Oかう雜誌をこしらへて終ひますと、何より痛切に感じられるのは、龍南に批評家の出現です。新しい詩人、歌人、俳人と共に、新しい批評家もその出現を待望されるべきでせう。亦今の時は、その爲に龍南は頁を割く事を惜まないでせうから。

(梅 崎)

   *

当該号は、前述の「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」よりリンクで飛んで「熊本大学学術リポジトリ」内の同初出誌誌面画像のPDFファイルで、総ての記事を見ることが出来る。去年までの同期同級(春生は落第)とはいえ、詩への批評は鋭く、春生の抒情詩人と自覚したような気負いがいい意味で感じられる。因みに、巻頭投稿論文「耽美主義文學 英文學に於ける傳統の意義」の筆者「文三甲三 西郷信綱」とは後の上古文学者の彼である。春生の入学時の同級であった(この時には春生は三年進級に落第してズレている。しかしズレた先にも木下順二らがいた。何と、羨ましい!)。]

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