梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (18)
五郎は歩いていた。時折立ち止り、ふり返り、周囲を見廻す。追われている感じからではない。町のたたずまいを確めるためだ。追われている、尾行されている感じがなくなったのは、症状が好転したわけではなく、三田村に電報を打ったことに関係あるらしい。自分の居場所を教えてしまった。そのことが不安感をいくらかやわらげている。
〈もうおれは浮浪者ではなく、ヒモつきの旅行者だ〉
入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員が這(は)い出して、空中を散歩するのである。アナウンサーの解説では、人間史上画期的な瞬間だそうだが、彼にはひどく醜悪なものに見えた。ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形(きけい)の獣めいたものが出て来る。這い出るのに苦労をするらしく、しきりにもがいている。やっと出て来ると、そいつはへんな動き方をしながら、宙に浮く。彼は視線を外らそうと思いながら、やはりその時眼が離せなかった。
〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで――〉
しかも醜怪なものに変形するという犠牲まではらって、おれは何を得たのか。現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ。
歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の土蔵とか。そこだけが昔の形のままで残っている。それを取巻く風景には馴染(なじみ)がない。彼は首を傾ける。道筋もすこし変化したらしい。たとえば昔は曲っていた道が、今はまっすぐになっている。さびれていた道がにぎやかになり、魚屋や八百屋が店を開いている。
「たしかここらの――」
五郎は用心深く視線を動かした。
「この建物じゃないか?」
大きな赤提燈(ぢょうちん)をぶら下げた売春宿である。もちろん眼の前にあるそのしもた屋風(ふう)の二階建てには、提燈はぶら下っていない。でも歩いて来た感覚からして、ここらに建っている筈であった。
しかしそれがかつての宿とは、断定出来ない。彼の記憶に灼きついているのは、特異な提燈の色だけであって、あとは模糊(もこ)としている。二階にはすりガラスの窓があった。その時彼は窓を細目にあけて、道を見おろしていた。そして視線がぴたりと松井教授に合ったのだ。どんなつもりで、教授はその窓を見上げたのだろう。
〈こんな具合に――〉
五郎は立ち止り、二階の窓を見上げる。するとそこに一つの顔があった。出窓に腰をおろして、一人の男が道を眺めている。とたんに視線が合った。すると五郎は呪術にかかったように、眼が動かせなくなった。顔を上に向けたまま、そろそろ横に動いて、電柱につかまった。
それは学生らしい。もちろん見知った顔ではない。頭髪を長めに伸ばし、上半身は裸である。その顔は初めいぶかしげな表情をたたえ、しだいにとがめるような顔に変って行く。視線をそらすきっかけをうしない、五郎はじっとその変化を見守っていた。
〈まずいな。これは意味ないな〉
こんなやり方で現実と結び合おうとしても、無駄だ。それは一昨日坊津で経験ずみのことである。結びつくわけがない。その時ふっと顔は、窓から消えた。
〈降りて来るかな〉
へんな中年男が仔細ありげに窓を見上げている。なぜ見上げているか、訊(たず)ねる権利は彼にあるだろう。こちらも応じなくてはならないが、何と答えたらいいのか、と思う。その瞬間、窓にふたたび顔があらわれた。カメラを五郎に向け、シャッターを切った。シャッターの音は、あたりの雑音の間を縫って、まっすぐに彼の耳に届いた。彼はたじろいだ。
[やぶちゃん注:「宇宙船から乗員が這(は)い出して、空中を散歩するのである」これは一九六五(昭和四〇)年三月十八日、ソヴィエト連邦の宇宙飛行士アレクセイ・アルキポフヴィチ・レオーノフ(Алексе́й
Архи́пович Лео́нов ラテン文字転写:Alexey
Arkhipovich Leonov 一九三四年~)がボスホート二号(Восход-2 ラテン文字転写:Voskhod
2)から人類初の宇宙遊泳を行った時の映像である。長さ五メートルの命綱をつけて約二十分間、宇宙遊泳している(彼は八十一で健在である)。凡そ二ヶ月半遅れて同年六月三日にはアメリカの宇宙飛行士エドワード・ヒギンズ・ホワイト二世(Edward Higgins White, II 一九三〇年~一九六七年)はアメリカがジェミニ四号(Gemini IV)からアメリカ人初の宇宙遊泳を行っている(彼はアポロ一号の訓練中の火災事故によって三十六で亡くなっている)が、「人間史上画期的な瞬間」という表現と、春生の病態(同年七月十九日午後四時五分、東大病院上田内科にて肝硬変のため急逝)から見ても、アレクセイ・レオーノフの宇宙遊泳である。
「カメラを五郎に向け、シャッターを切った」本作発表の昭和四〇(一九六五)年には新左翼勢力の内ゲバが既に始まっていた。ウィキの「内ゲバ」によれば、昭和三六(一九六一)年七月の全学連(全日本学生自治会総連合:昭和二三(一九四八)年結成)第十七回大会に於いて『革共同系学生(マル学同)とブント・解放派ら』『の間で乱闘衝突。学生運動史上初めての角材を使用した内ゲバであり、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバの初めとなった』。二年後の一九六三年九月十一日には千代田区紀尾井町にある千代田区立清水谷(しみずだに)公園で中核派・解放派ら連合四派二百五十名の集会に革マル派百五十名が『押し掛け、角材で乱闘』する「清水谷公園乱闘事件」が起き、翌昭和三九(一九六四)年七月二日は『革マル派の拠点早大に、中核派・解放派・構改派の』三派が殴りこみをかけるという「七・二早大事件」が起きている。ここでこの学生が写真を撮るのも、そうした流れの中では、少しもおかしくない。こうした威嚇的な写真を撮られたことのない人間には、こういう時の気持ちは分からない。因みに、私は大学一年の時に、あった。その男は写真を撮ってニヤッと笑った。その男はそれより前、私を訪ねてきて、「あんたの弁論の内容はネ、とってもいいんだけど、サ……論文で使ってる、その単語ネ、それを、こっちの言う通りに変えてくんないとネェ……ウチの一部の言葉に敏感な連中がいてネ……突然、アンタを襲ってきて……角材で――ポカポカ!――ってヤラれちゃうかも、知んないヨ……言葉を変えるだけなんだから……いいでしょ?……命あっての何トカって言うじゃない?……」と言う、如何にも汚らしい卑劣な脅しまでかけていたのであった。言っとくが、私は学生運動とは無縁であった。これはさる弁論大会(私は大学では弁論部に所属していたのである)での出来事であった。]