梅崎春生 詩 「追憶」 (初出形復元版)
追 憶 梅 崎 春 生
大きな夾竹桃のある幼ない思い出の庭、
私はその土藏の壁に橙色のクレオンで素晴らしい船の畫を描いた。
橙色の二本の煙突からチロチロとはき出される橙色の煙、
橙色の鷗がはたはたと飛び交ふ橙色の波頭。
ああ午後の庭は目の痛い程明るい――。
遠くから來る響きのやうに私はスクリウの音を感じて居る。
あれは今日も夾竹桃の花をゆるがす風の音ででもあらうか。
今土藏を前にしてクレオンを握つて居るのは幼ない日の私である。
橙色の鷗のひそけきはばたき――遠い追憶の翼のそれ。
甲板をゆききする大男の船長の錆びたる靴のひびき、
マストに坐る小さな船員のあの異國めいた發音よ。
白い大洋への白き陽の光のたわむれ――さざめく潮の匂ひもして、
私は遠い遠い昔の事を長い水脈のやうに知り始めて居る。
私は裏庭の土藏の壁畫に、
再びクレオンを握りしめて長い長い水脈をかきそへる。
さうして明るい午後の庭の追憶の甘さに放心して――
じつと、むせぶほどの夾竹桃の花の香をかいで居る。
[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年二月二十八日第五高等学校龍南会発行『龍南』二二七号に所載された初出形(発行日は「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」により確認)。底本は「熊本大学学術リポジトリ」内の同初出誌誌面画像「227-007.pdf」を視認、活字に起こした。行間の有意な空きはママである。「思い出」「たわむれ」はママ。
沖積舎版はこの行空きを無視し、しかも最終連の最後の二行を一続きにしているため、かなり見た目の印象が異なるので、特に別に掲げる。
*
追 憶
大きな夾竹桃(きょうちくとう)のある幼ない思い出の庭、
私はその土蔵の壁に橙色(だいだい)のクレオンで素晴らしい船の画を描いた。
橙色の二本の煙突からチロチロとはき出される橙色の煙、
橙色の鷗(かもめ)がはたはたと飛び交う橙色の波頭。
ああ午後の庭は目の痛い程明るい――。
遠くから来る響きのように私はスクリューの音を感じて居る。
あれは今日も夾竹桃の花をゆるがす風の音ででもあろうか。
今土蔵を前にしてクレオンを握って居るのは幼ない日の私である。
橙色の鷗のひそけきはばたき――遠い追憶の翼のそれ。
甲板をゆききする大男の船長の錆(さ)びたる靴のひびき、
マストに坐る小さな船員のあの異国めいた発音よ。
白い大洋への白き陽の光のたわむれ――さざめく潮の匂いもして、
私は遠い遠い昔の事を長い水脈のように知り始めて居る。
私は裏庭の土蔵の壁画に、
再びクレオンを握りしめて長い長い水脈をかきそえる。
そうして明るい午後の庭の追憶の甘さに放心して――じっと、むせぶほどの夾竹桃の花の香をかいで居る。
*
ルビの「橙色(だいだい)」は「橙色」の二字に「だいだい」と振られている。それはそれでよいとは思う。悪くないとは思う。思うが、初出にはルビはない以上、そう編者が振った根拠はどこにあるのかは知りたくはある、とは言っておく。寧ろ、私は二箇所の「水脈」の方が気になる。沖積舎全集の編者は、これを「すいみゃく」と読ませるつもりなのか? これは意味から間違いなく絶対に「みを(みお)」である。当たり前だからだ、というか?! だったら、「きょうちくとう」も「かもめ」も「錆びたる」の「さ」もみんな、いらないだろ?! と言いたいのである。
さても。私がもし朗読せよと言われ、この初出形と沖積舎版の上記のテクスト渡されとしたら、その朗読は全く違うものとなる。初出形は朗読時間が倍以上下手をすれば三倍に近くなろうと思う。則ち、この初出形と、この沖積舎版は、全く異なった詩篇だと言っても私には差支えないように思われるのである。
私はこの一篇を偏愛する。そうして――偏愛し――朗読したくなるのは――初出形のみだ――と言い添えておく。]
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