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2016/02/29

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(3) 二 優れた者の跋扈

     二 優れた者の跋扈

 

 劣つた種族が生存競爭に敗れて滅亡することは理の當然であるが、しからば優れた種族は永久に生存し得るかといふに、これに就いては大に攻究を要する點がある。優れた種族は敵と競爭するに當つては無論勝つであらうが、悉く敵に打ち勝つて最早天下に恐るべきものがないといふ有樣に遂した後は如何に成り行くであらうか。敵がなくなつた以上は、なほいつまでも全盛を極めて勢よく生存し續け得るであらうか。または敵がなくなつたために却つて種族の退化を引き起す如き新な事情が生ずることはないであらうか。今日化石となつて知られて居る古代の動物を調べて見るに、一時全盛を極めて居たと思はれる種族は悉く次の時代には絶滅したが、これは如何なる理由によることであるか。向ふ處敵なき程に全盛を極めて居た種族が、なぜ今まで己よりも劣つて居た或る種族との競爭に脆くも敗北して忽ち斷絶するに至つたか。これらの點に關してはまだ學者間にも何らの定説もないやうで、古生物學の書物を見ても滿足な説明を與へたものは一つもない。されば今から述べようとする所は全く著者一人だけの考であるから、その積りで讀んで貰はねばならぬ。

 

 およそ生存競爭に於て敵に勝つ動物には勝つだけの性質が具はつてあるべきはいふまでもないが、その性質といふのは種族によつてさまざまに違ふ。第一、敵とする動物が各種毎に違ふから、これに勝つ性質も相手の異なるに從ひ異ならねばならぬ。今日學者が名前を附けた動物だけでも數十萬種あるが、如何なる動物でもこれを悉く敵とするわけではなく、日常競爭する相手はその中の極めて僅少な部分に過ぎぬ。例へば産地が相隔れば喧嘩は出來ず、同じ地方に産するものでも森林に住む種族と海中に住む種族とでは直接に相敵對する機會はない。されば勝つ性質といふのは、同じ場處に住み、ほゞ對等の競爭の出來るやうな相手に對して優れることであつて、樹の上の運動では巧に攀ぢるものが勝ち、水の中の運動では速く游ぐものが勝つ。そして水中を速く游ぐには足は鰭の形でなければならぬから、木に登るには適せず、巧に木に登るには腕は細くなければならぬから、水を游ぐには適せぬ。それ故、水を游ぐことに於て敵に優れたものは、樹に登るには敵よりも一層不適當であり、木に登ることに於て敵に優れたものは、水を游ぐには敵よりも一層不適當であるを免れぬ。同一の足を以て、樹上では猿よりも巧に攀ぢ、平原では鹿よりも迅く走り、水中では「をつとせい」よりも速に游ぐといふ如きことは到底無理な註文である。鴨の如く飛ぶことも歩くことも游ぐことも出來るものは、飛ぶことに於ては遠く燕に及ばず、走ることに於ては遠く駝鳥に及ばず、游ぐことに於ては遠くペンギンに及ばず、いづれの方面にも相手に優る望はない。魚類の中には肺魚類というて肺と鰓とを兼ね具へ、空氣でも水でも勝手に呼吸の出來る至極重寳な種類があるが、水中では水のみを呼吸する普通の魚類に勝てず、陸上では空氣のみを呼吸する蛙の類に勝てず、今では僅に特殊の條件の下に熱帶地方の大河に生存するものが二三種あるに過ぎぬ。龜の甲の厚いことも、「とかげ」の運動の速いことも、それぞれその動物の生存には必要であるが、甲が重くては速に走ることが到底出來ず、速に走るには重い甲は何よりも邪魔になるから、「とかげ」よりも速力で優らうとすれば、甲の厚さでは龜に劣ることを覺悟しなければならず、甲の厚さで龜よりも優らうとすれば、速力では「とかげ」に劣ることを覺悟しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「肺魚類」脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属する、肺や内鼻孔などの両生類的特徴を有する魚類で、出現は非常に古く、約四億年前のデボン紀で、化石では淡水産・海産合わせて、約六十四属二百八十種が知られるが、現生種は以下の六種のみが知られ、所謂、「生きた化石」と称される。現生種は全て淡水産。

ケラトドゥス目 Ceratodontiformes

 ケラトドゥス科ネオケラトドゥス属

  ネオケラトドゥス・フォルステ(オーストラリアハイギョ)Neoceratodus forsteri

レピドシレン目 Lepidosireniformes

 レピドシレン(ミナミアメリカハイギョ)科レピドシレン属

  レピドシレン・パラドクサ Lepidosiren paradoxa

 プロトプテルス科(アフリカハイギョ)科プロトプテルス属

  プロトプテルス・エチオピクス Protopterus aethiopicus

  プロトプテルス・アネクテンシス Protopterus annectens

  プロトプテルス・ドロイ Protopterus dolloi

  プロトプテルス・アンフィビウス Protopterus aethiopicus

ウィキの「ハイギョによれば(記号の一部を省略した)、『ハイギョは他の魚類と同様に鰓(内鰓)を持ち、さらに幼体は両生類と同様に外鰓を持つ』(ネオケラトドゥスは除く)『ものの、成長に伴って肺が発達し、酸素の取り込みの大半を鰓ではなく肺に依存するようになる。数時間ごとに息継ぎのため水面に上がる必要があり、その際に天敵のハシビロコウやサンショクウミワシなどの魚食性鳥類に狙われやすい。その一方で、呼吸を水に依存しないため、乾期に水が干れても次の雨期まで地中で「夏眠」と呼ばれる休眠状態で過ごすことができる』(ネオケラトドゥスは除く)。『この夏眠の能力により、雨期にのみ水没する氾濫平原にも分布している。アフリカハイギョが夏眠する際は、地中で粘液と泥からなる被膜に包まった繭の状態となる。「雨の日に、日干しレンガの家の壁からハイギョが出た」という逸話はこの習性に基づく』。『オーストラリアハイギョが水草にばらばらに卵を産み付けるのに対し、その他のハイギョでは雄が巣穴の中で卵が孵化するまで保護する。ミナミアメリカハイギョの雄は繁殖期の間だけ腹鰭に細かい突起が密生し、酸素を放出して胚に供給する』。『ハイギョは陸上脊椎動物と同様に外鼻孔と内鼻孔を備えている。正面からは吻端に開口する』一対の『外鼻孔が観察でき、口腔内に開口している内鼻孔は見えない』。『ハイギョの歯は板状で「歯板」と呼ばれる。これは複数の歯と顎の骨の結合したもので貝殻も砕く頑丈なものである。獲物をいったん咀嚼を繰り返しながら口から出し唾液とともに吸い込むという習性を持つ。現生種はカエル、タニシ、小魚、エビなどの動物質を中心に捕食するが、植物質も摂食する。頑丈な歯板は化石に残りやすいため、歯板のみで記載されている絶滅種も多い。ハイギョの食道には多少の膨大部はあるものの、発達した胃はない。このためにじっくりと咀嚼を繰り返す。ポリプテルス類、チョウザメ類、軟骨魚類と同様に、腸管内面に表面積拡大のための螺旋弁を持つ。総排出腔は正中に開口せず、必ず左右の一方に開口する。糞はある程度溜めた後に、大きな葉巻型の塊として排泄する』。『硬骨魚類は肉鰭類と条鰭類の』二系統に分かれるとされるが、『四足類は肉鰭類から進化したとされる。肉鰭類の魚類は現在』シーラカンス(肉鰭亜綱総鰭下綱シーラカンス目ラティメリア属のラティメリア・カルムナエ(シーラカンス)Latimeria chalumnae 及びラティメリア・メナドエンシス(インドネシアシーラカンス)Latimeria menadoensis の二種)『とハイギョのみである。かつての総鰭類(肉鰭類から肺魚類を除いた群)は分岐学に基づいて妥当性が見直され、さらに、現生種に対して分子遺伝学手法が導入された結果、シーラカンスよりもハイギョが四足類に近縁とする考えや、それに基づいた分類が用いられるようになった』とある。]

 

 かくの如く、優れた種族といふのは皆それぞれその得意とする所で相手に優るのであるから、競爭の結果、益々專門の方向に進むの外なく、專門の方向に進めば進むだけ專門以外の方面には適せぬやうになる。鳥の翼は飛翔の器官としては實に理想的のものであるが、その代り飛翔以外には全く何の役にも立たぬ。犬ならば餌を抑へるにも顏を拭ふにも地を掘るにも前足を用ゐるが、鳥は翼を用ゐることが出來ぬから止むを得ず後足または嘴を以て間に合せて居る。されば如何なる種族でも己が得意とする點で相手に優り得たならば、忽ち相手に打ち勝つてその地方に跋扈することが出來る。即ち水中ならば最もよく游ぐ種族が跋扈し、樹上では最もよく攀ぢる種族が跋扈し、平原ならば最もよく走る種族が跋扈することになるが、今日までに地球上に跋扈した種族を見ると、實際皆必ず或る專門の方面に於て敵に優つたものばかりである。

 

 對等の敵と競爭するに當つては一歩でも先へ專門の方向に進んだものの方が勝つ見込みの多いことは、人間社會でも多くその例を見る所であるが、同じ仕事をするものの間では、一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込みがある。身體各部の間に分業が行はれ、同じく食物を消化するにも、唾液を出す腺、膵液を出す腺、硬い物を咀嚼する器官、液體を飮み込む器官、澱粉を消化する處、蛋白質を消化する處、脂肪を吸收する處、滓を溜める處などが、一々區別せられるやうになれば、身體の構造がそれだけ複雜になるのは當然であるから、數種の異なつた動物が同じ仕事で競爭する場合には、體の構造の複雜なものの方が分業の進んだものとして一般に勝を占める。古い地質時代に跋扈して居たさまざまの動物を見るに、いづれも相應に身體の構造の複雜なものばかりであるのはこの理由によることであらう。相手よりも一歩先へ專門の方向に進めば相手に打ち勝つて一時世に跋扈することは出來るが、それだけ他の方面には不適當となつて融通が利かなくなるから、萬一何らかの原因によつて外界の事情に變化が起つた場合には、これに適應して行くことが困難になるを免れぬ。相手よりも一層身體の構造が複雜であれば、無事のときには敵に勝つ望が多いが、複雜であるだけ破損の虞が增し、一旦破損すればその修繕が容易でないから、急に間に合はずして失敗する場合も生ぜぬとは限らぬ。恰も人力車と自動車とでは平常はとても競走は出來ぬが、自動車は少しでも破損すると全く動かなくなつて、到底簡單で破損の憂のない人力車に及ばぬのと同じことである。嘗て地球上に全盛を極めた諸種の動物は、各その相手に比して專門の生活に適することと分業の進んだこととで優つて居たために、世界に跋扈することを得たのであるが、それと同時にここに述べた如き弱點を具へて居たものであることを忘れてはならぬ。

[やぶちゃん注:「膵液」膵臓で分泌される消化液。重炭酸塩及び多種の消化酵素を含んでおり、消化酵素にはトリプシン・キモトリプシン・カルボキシペプチダーゼなどの蛋白質分解酵素、リパーゼなどの脂肪分解酵素、アミラーゼなどの炭水化物分解酵素、ヌクレアーゼなどの核酸分解酵素が含まれ、三大栄養素の全てを消化出来る。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(2) 一 劣つた種族の滅亡

      一 劣つた種族の滅亡

 

 いつの世の中でも種族間の生存競爭は絶えぬであらうから、相手よりも遙に劣つた種族は到底長く生存することを許されぬ。同一の食物を食ふとか、同一の隱れ家を求めるとか、その他何でも生存上同一の需要品を要する種族が、二つ以上同じ場處に相接して生活する以上は一競爭の起るのは當然で、その間に少しでも優劣があれば、劣つた方の種族は次第に勢力を失ひ、個體の數も段々減じて終には一疋も殘らず死に絶えるであらう。また甲の種族が乙の種族を食ふといふ如き場合に、もし食はれる種族の繁殖力が食ふ種族の食害力に追ひ附かぬときは、乙は忽ち斷絶するを免れぬでゐらう。かくの如く他種族からの迫害を蒙つて一の種族が子孫を殘さず全滅する場合は常に幾らもある。そして昔から同じ處に棲んで居た種族の間では、勝負が急に附かず勝つても負けても變化が徐々であるが、他地方から新な種族が移り來つたときなどは各種族の勢力に急激な變動が起り、劣つた種族は短日月の間に全滅することもある。ヨーロッパに、アジヤの「あぶらむし」が入り込んだために、元から居た「あぶらむし」は壓倒されて殆ど居なくなつたこともその例であるが、かゝることの最も著しく目に立つのは、大陸と遠く離れた島國へ他から新に動物が移り入つた場合であらう。ニュージーランドの如きは從來他の島との交通が全くなくて、他とは異なつた固有の動物ばかりが居たが、ヨーロッパ産の蜜蜂を輸入してから、元來土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた。鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた。蠅にもこれと同樣なことがある。

[やぶちゃん注:「あぶらむし」ここで謂うのは恐らく、有翅亜綱半翅目(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアリマキ(蟻牧)類のことであろう。但し、今のところ、丘先生が述べておられるような侵入によるヨーロッパ産の在来種のアリマキが圧倒されたという学術的記述を見出せない。調査を続行するが、是非とも識者の御教授を乞うものである。

「ニュージーランド」の固有種(という意味であろう)「土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた」という種も確認出来なかった。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた」というのも同定出来なかった。ただやや不審なのは、ニュージーランドにはキーウィ(鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx)などの飛べない特異な鳥類が豊富にいるが(但し、近年は移入動物のネズミやネコの食害により個体数の深刻な現象が起こっている)、これは元来、ニュージーランドには彼らの天敵となるネズミやネコといった小型哺乳類がいなかったことが、固有の生態系と種を保存出来たと私は認識しており、この固有の齧歯類(ネズミ)というのにはどうも引っかかる。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「蠅にもこれと同樣なことがある」固有種の同定不能。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

Baison

[アメリカの野牛]

Dodo

[モーリシヤス島に居た奇体な鳩]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 近代になつて絶滅した種族もなかなか數が多いが、その大部分は人間がしたのである。鼠とか雀とか蠅とか「しらみ」とかの如き常に人間に伴うて分布する動物を除けば、その他の種族は大抵人間の勢力範圍の擴張するに隨うて甚しく壓迫せられ、特に大形の獸類、鳥類の如きは最近數十年の間に著しく減少した。近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛の如きは、今は僅に少數のものが特別の保護を受けて生存して居るに過ぎぬ。ヨーロッパの海狸も昔は各處の河に多數に住んで居たが、今は殆ど絶滅に近いまでに減少した。獅子・虎の如き猛獸はアフリカやインドが全部開拓せられた曉には、動物園の外には一疋も居なくなるであらう。人間の力によつて已に絶滅した種族の例を擧げて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた。またこの島よりも更に東に當るロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた。シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた。前の鳥類でもこの海獸でも敵に對して身を護る力が十分でなかつたから、生存競爭に劣者として敗れ亡びたのであるが、もし人間が行かなかつたならば無論なほ長く生存し續け得たに違ない。劣つた種族が急に滅亡するのは大抵強い敵が不意に現れた場合に限るやうである。

[やぶちゃん注:「近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛」偶蹄目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison 。別名、バッファロー(buffalo)。ウィキの「アメリカバイソン」によれば、分布は『アメリカ合衆国(アイダホ州、アリゾナ州、カリフォルニア州、サウスダコタ州、モンタナ州、ワイオミング州、ユタ州)、カナダ』。『以前はアラスカからカナダ西部・アメリカ合衆国からメキシコ北部にかけて分布していた』が、『ワイオミング州のイエローストーン国立公園とノースウェスト準州のウッド・バッファロー国立公園を除いて野生個体群は絶滅し、各地で再導入が行われている』。体長はで三〇四~三八〇センチメートル、で二一三~三一八センチメートル。肩高はで一六七~一八六センチメートル、で一五二~一五七センチメートル。体重はで五四四~九〇七キログラムにも達し、は三一八~五四五キログラム。の最大体重個体では実に一トン七二四キログラムのものもいた』。『肩部は盛り上がり、オスでは特に著し』く、『成獣は頭部や肩部、前肢が長く縮れた体毛で被われる』。『湾曲した角』を有し、最大角長は五〇センチメートル。分類学上は二亜種に『分ける説がある』一方、『生態が異なるのみとして亜種を認めない説もある』。

ヘイゲンバイソン Bison bison bison (Linnaeus, 1758)

シンリンバイソン Bison bison athabasca Rhoads, 1898

『草原、森林に』棲息し、『以前は季節により南北へ大規模な移動を行っていた』。と幼獣からなる群れを形成し、が『この群れに合流するが、これらが合流して大規模な群れを形成することもある』。同士では『糞尿の上を転げ回り臭いをまとわりつかせて威嚇したり、突進して角を突き合わせる等して激しく争う』。『食性は植物食で、草本や木の葉、芽、小枝、樹皮などを食べ』、『通常の成獣であれば捕食されることはないが、老齢個体や病気の個体・幼獣はタイリクオオカミ・ピューマに捕食されることもある』。『また、イエローストーン国立公園において、若い成獣がヒグマに捕食されたことが観察されている』。  ~九月に交尾を行い、妊娠期間は二百八十五日。四~五月に一回に一頭の幼獣を出産、は生後三年で、は生後二~三年で性成熟する。『ネイティブ・アメリカンは食用とし、毛皮は服・靴・テントなど、骨は矢じりに利用された』。『ネイティブ・アメリカンは弓や、群れを崖から追い落とすなど伝統的な手法によりバイソンの狩猟を行っていた。特にスー族など平原インディアンは農耕文化を持たず、衣食住の全てをバイソンに依存していた』。十七世紀に『白人が北アメリカ大陸に移入を開始すると食用や皮革用の狩猟、農業や牧畜を妨害する害獣として駆除されるようになった』。十八世紀に『人による、主に皮革を目的とする猟銃を使った狩猟が行われるようになると、バイソンの生息数は狩猟圧で急激に減少』、一八三〇年代以降は『商業的な乱獲により大平原の個体も壊滅的な状態となり、ネイティブ・アメリカンも日用品や酒・銃器などと交換するために乱獲するようになった』。一八六〇年代以降は『大陸横断鉄道の敷設により肉や毛皮の大規模輸送も可能となり、列車から銃によって狩猟するツアーが催されるなど娯楽としての乱獲も行われるようになった』。『当時のアメリカ政府はインディアンへの飢餓作戦のため、彼らの主要な食料であったアメリカバイソンを保護せずむしろ積極的に殺していき、多くのバイソンが単に射殺されたまま利用されず放置された。この作戦のため、白人支配に抵抗していたインディアン諸部族は食糧源を失い、徐々に飢えていった。彼らは、アメリカ政府の配給する食料に頼る生活を受け入れざるを得なくなり、これまで抵抗していた白人の行政機構に組み入れられていった。狩猟ができなくなり、不慣れな農耕に従事せざるを得なくなった彼らの伝統文化は破壊された。バイソン駆除の背景には牛の放牧地を増やす目的もあったとされ、バイソンが姿を消すと牛の数は急速に増えていった』。一八六〇年代以降は『保護しようとする動きが始まるが、開拓期の混乱が継続していたこと・ネイティブ・アメリカンへの食料供給の阻止・狩人や皮革業者の生活保障などの理由から大きな動きとはならなかった』。十九世紀末から二十世紀になると、フロンティアの消滅に伴って、『保護の動きが強くなりイエローストーン国立公園などの国立公園・保護区が設置されるようになり』、一九〇五年になってやっと保護を目的とする「アメリカバイソン協会」が発足された。『白人が移入する以前の生息数は』約六千万頭だったと推定されているが、一八九〇年には千頭未満まで激減した。一九七〇年には一万五千から三万頭まで増加したとされる、とある。鯨から油だけを搾り採り、肉を日本に売っていた、「世界正義」を標榜するアメリカの実態がこれだ。

「ヨーロッパの海狸」「海狸」は「かいり/うみだぬき」で「ビーバー」と読んでおく(既に丘先生は本文で「ビーバー」と表記しているからである)。哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属Castor の一属のみ)。ここで謂うのはヨーロッパ北部・シベリア・中国北部に生息する

ヨーロッパビーバー Castor fiber

であるが、他にもう一種、北アメリカ大陸に生息する

アメリカビーバー Castor Canadensis

がいる。丘先生は専ら前者の急激な減少のみを問題にているように読めるが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」(平凡社一九八八年刊)の「ビーバー」の項を見ると、ビーバーは『かつて北半球に広く分布していたが』、『近世以降』、『高価に取引きされるために乱獲され』、『個体数は著しく減少』、十七世紀に『イギリスやフランスの上流階級のあいだでビーバーの毛皮でつくった山高帽が流行』、『これが植民地時代のアメリカにおける本格的な乱獲に火をつけたといわれる』とあり、十九世紀前半には年間十万頭から五十万頭ものビーバーが毛皮用に殺され、『ハドソン・ベイ・カンパニー(北米原住民との毛皮取引きを目的として設立されたイギリスの会社)の紋章にもなった』。十九世紀半ばに『なって乱獲は下火となったが』、『一時は絶滅寸前かと噂された』。『二十世紀に入ってからは各州』(これは明らかにアメリカである)『の保護のもと』、『個体数は多少増えつつある』とあるから、乱獲と個体数激減で深刻だったのは寧ろ、アメリカビーバー Castor Canadensis の方だったことが窺えるのである(下線やぶちゃん)。

「マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた」マダガスカルの東方八百九十キロメートルのインド洋上マスカレン諸島に位置する、イギリス連邦加盟国であるモーリシャス共和国(Republic of Mauritius)の首都ポートルイスのあるモーリシャス島に棲む、

ハト目ドードー科 Raphus 属モーリシャスドードー Raphus cucullatus

で、一般に単に「ドードー」と呼んだ場合は本種を指す。ウィキの「ドードー」によれば、『大航海時代初期の』一五〇七年に『ポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された』。一五九八年に八隻の『艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。食用に捕獲したものの煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいた』『が、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝した。以降は入植者による成鳥の捕食が常態化し、彼らが持ち込んだイヌやブタ、ネズミにより雛や卵が捕食された。空を飛べず地上をよたよた歩く、警戒心が薄い、巣を地上に作る、など外来の捕食者にとって都合のいい条件が揃っていた』『ドードーは森林の開発』『による生息地の減少、そして乱獲と従来』は『モーリシャス島に存在しなかった人間が持ち込んだ天敵により急速に個体数が減少した。オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは』一六八一年の『イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した』。『ドードーは、イギリス人の博物学者ジョン・トラデスカントの死後、唯一の剥製が』一六八三年に『オックスフォードのアシュモレアン博物館に収蔵されたが、管理状態の悪さから』一七五五年に『焼却処分されてしまい、標本は頭部、足などのごくわずかな断片的なものしか残されていない』。『しかし、チャコールで全体を覆われた剥製は、チェコにあるストラホフ修道院の図書館に展示されている『特異な形態に分類項目が議論されており、短足なダチョウ、ハゲタカ、ペンギン、シギ、ついにはトキの仲間という説も出ていたが、最も有力なものはハト目に属するとの説であった』。『シチメンチョウよりも大きな巨体』『で翼が退化しており、飛ぶことはできなかった。尾羽はほとんど退化しており、脆弱な長羽が数枚残存するに過ぎない。顔面は額の部分まで皮膚が裸出している』。『空を飛べず、巣は地面に作ったと言う記録があ』り、『植物食性で果実や木の実などを主食にしていたとされる』。『また、モーリシャスにある樹木、タンバラコク(アカテツ科のSideroxylon grandiflorum、過去の表記はCalvaria major〈別称・カリヴァリア〉であった)と共生関係にあったとする説があり』、一九七七年に『サイエンス誌にreportが載っている』。『内容は、その樹木の種子をドードーが食べることで、包んでいる厚さ』一・五センチメートルもの『堅い核が消化器官で消化され、糞と共に排出される種子は発芽しやすい状態になっていることから、繁茂の一助と為していたというものであった。証明実験としてガチョウやシチメンチョウにその果実を食べさせたところ、排出された種子に芽吹きが確認された記述もあった。タンバラコクは絶滅の危機とされ』、一九七〇年代の観測で老木が十数本、実生の若木は一本とされる。『ただし、この説は論文に対照実験の結果が示されていないことや、サイエンス誌の査読が厳密ではなかったと推測する人もおり、それらの要因から異論を唱える専門家も存在する』。『ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意』で、また、『アメリカ英語では「DODO」の語は「滅びてしまった存在」の代名詞である』とある。但し、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」(平凡社一九九三年刊)の「ドードー」によれば、『一説によると』、『ドードーという名前そのものが』、『この鳥の鳴き声だともいう』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、たった百四十七年であった(下線やぶちゃん)。

「ロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた」これは、モーリシャス島の北東五百六十キロメートルに位置するモーリシャス領の孤島で三つの島からなるロドリゲス島(Rodrigues Island)にのみ棲息していた、

ハト目ドードー科 Pezophaps 属ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria

を指す。別名、「ソリテアー」(solitaire:ひとりもの)で、『形態などの差異からモーリシャスドードーとは別属に分類されている』。体長一メートルほどで、『体重は最も肥満する時期で』二十キログラム以上にも達した。『体色は主に褐色で白いものもある。飛べない。歩く速度は、「開けた場所なら簡単に捕まえられるが森の中ではなかなか捕まえられない」程度。卵は地上に葉を積み上げた巣に』、一個だけ産む。敵がおらず、『生息地が限られている環境で種を維持するには』、二個以上の卵を『産むのは不適当だったからであろうが、この習性が人間がロドリゲス島に来た後になって個体数の回復を難しくした可能性が高い』。この鳥を一六八九年に『はじめて発見したフランソワ・ルガの手記によると、多数が生息していたにもかかわらず複数で行動しているところはみかけなかったとのことで、別名のソリテアー(ひとりもの)と学名の種小名solitaria はそこから名付けられた』。一七六一年を『最後に目撃者がおらず、絶滅したとされる。標本は残っておらず、ヨーロッパに持ち込まれたこともない。人間による捕獲とネズミなどの移入動物による(特に卵や雛の)捕食が絶滅の原因とされている』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、こちらは実に七十二年しかかからなかった。なお、ドードーには今一種、モーリシャス島西南方百九十キロメートルに位置するレユニオン島(現在はフランス領)に棲息していた、

レユニオンドードー Raphus solitaries

 

がいた。ウィキの「レユニオンドードー」によれば、『島を訪れた航海者の手記によると、「シチメンチョウ程度の大きさで、太ったおとなしい鳥」。羽毛は白、クチバシと羽の先は黄色。飛べない』。モーリシャスドードー Raphus cucullatus と同様の理由によって十七世紀末には絶滅したとされており、二羽ほどが『ヨーロッパに送られたらしいが、標本は残っていない。なお』、同島内では『ロドリゲスドードーに似た痩せた姿のレユニオンドードーも目撃されており、絵が残されている。日本の鳥類学者蜂須賀正氏はこれをレユニオンドードーとは別の種』(同氏は「ホワイトドードー」(victoriornis inperialis)と「レユニオンソリテアー」(Ornithaptera solitaria)という、孰れも別個立ての新属として種小名も「レユニオンドードー」(Raphus solitaries)とも異なる二種に分けて命名している)『としたが、今のところ一般には採用されていない』とある。「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」で荒俣氏の記載にも小さな島(百九平方キロメートルしかない)に『類似した種が二つもいるとは考えられぬとして否定的な意見が多い』とある。私も同感である。なお、モーリシャス島・ロドリゲス島・レユニオン島では、他にも多くのリクガメやゾウガメの仲間が同時期に絶滅してもいる。

「シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた」ベーリング海に棲息していたジュゴン科に属する寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ哺乳綱海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウHydrodamalis gigas  ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年に発見された彼らは、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶える。ヒトに知られてから何と、僅か二十七年の命であった「地球にやさしい」僕らは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。この頭骨の語りかけてくるものに僕らは今こそ真剣に耳を傾けねばならないのではないか? 自分たちが滅びてしまう前に――

 

 人間の各種族に就いても理窟は全く同樣で、遠く離れて相觸れずに生活して居る間は、たとひ優劣はあつても勝敗はないが、一朝相接觸すると忽ち競爭の結果が顯れ、劣つた種族は暫くの間に減少して終には滅亡するを免れぬ。歷史あつて以來優れた種族から壓迫を受けて終に絶滅した人間の種族は今日までに已に澤山ゐる。オーストラリヤの南にあるタスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた。古い西洋人のアフリカ紀行を讀んで見ると、瓢を持つて泉に水を汲みに來る土人を、樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰めたことなどが書いてあるが、鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人とが相觸れては、野蠻人の方が忽ち殺し盡されるのは當然である。今日文明人種の壓迫を蒙つて將に絶滅せんとして居る劣等人種の數は頗る多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリッピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニヤのパプア人でも、今後急に發展して先達の文明人と對立して生存し續け得べき望みは素よりない。文明諸國の人口が殖えて海外の殖民地へ溢れ出せば、他人種の住むべき場處はそれだけ狹められるから、終には文明人とその奴隷とを除いた他の人間種族は地球上に身を置くべき處がなくなつて悉く絶滅するの外なきことは明である。人種間の競爭に於ては、幾分かでも文明の劣つた方は次第に敵の壓迫を受けて苦しい境遇に陷るを免れぬから、自己の種族の維持繼續を圖るには相手に劣らぬだけに智力を高め文明を進めることが何よりも肝要であらう。

[やぶちゃん注:「タスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた」タスマニア島の原住民であったタスマニアン・アボリジニ(Aborigine:アボリジニーはオーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民。タスマニアン・アボリジニーは一八〇〇年代前半に起こったイギリス植民者との「ブラック・ウォー(Black War)」で敗北、大量に殺戮され、或いは小島に移住させられて、ほぼ絶滅させられた。ウィキの「ブラック・ウォー」によれば、『この戦争は公式な宣戦布告無しで開始されたため、その継続期間についてはいくつかのとらえ方がある』。一八〇三年に『タスマニア島に最初にヨーロッパ人が入植した時に始まったとする見方もある。 最も激しい衝突があったのは』一八二〇年代で、『特にこの時期をブラック・ウォーと呼ぶことが多い』。この一八二〇年代の激しい衝突の後、一八三〇年にイギリス人副総督ジョージ・アーサー(George Arthur)は、『タスマニア島内のアボリジニーを一掃する計画を立てた。この作戦はブラック・ラインとして知られ、流刑者まで含めた島内全ての男性入植者が動員された。入植者は横列を組んで南と東に向け数週間かけて進み、タスマン半島へとアボリジニーを追い込もうとした。しかし、ほとんどアボリジニーを捕捉することはできなかった』。『もっとも、ブラック・ラインの実行は、アボリジニーを動揺させ、フリンダーズ島への移住を受け入れさせることにつながったと一般に考えられて』おり、約三百人の生き残っていた『タスマニアン・アボリジニーの大半は』、一八三五年末までにジョージ・ロビンソン(George Augustus Robinson)の提案に従って、『フリンダーズ島へ移住して、事態の鎮静化までの「保護」を受けることになった。そして、この移住完了をもってブラック・ウォーについて戦争終結と見るのが一般的である』。しかし、『フリンダーズ島への移住後、劣悪な生活環境とヨーロッパ人がもたらした疫病によりタスマニアン・アボリジニーの人口は激減』、一八四七年に『タスマニア島のオイスター湾保護区に再移送されるまでにタスマニアン・アボリジニーは約』四十人にまで減少、『その固有の文化も失われた。民族浄化というブラック・ラインの目的は、フリンダーズ島移住によって代わりに実現されたことになる』。『ジョージ・ロビンソンは』、一八三九年に『ポート・フィリップ地区の主席アボリジニー保護官に任命された。彼の下でオイスター湾の保護区は運営され』、一八四九年末に閉鎖された。このおぞましい大虐殺について、かのイギリスの作家H・G・ウェルズは、その「宇宙戦争」(The War of the Worlds:一八九八年刊)の序文で、次のように触れている。(火星人の侵略について考えるに際して)『われわれ人間は、自らが行ってきた無慈悲で徹底した破壊という所業を思い起こす必要がある。それも、バイソンやドードーといった動物を絶滅させただけでなく、われわれの劣等な近縁種たちまでも手にかけてきたことを。タスマニア人たちは、われわれ人とよく似ていたにも関わらず、ヨーロッパからの移民が行った駆除作戦によって』、五十年の『うちに絶滅させられてしまったのだ』(下線やぶちゃん)。同時代に生きた丘先生の本パートはまさにウェルズと同じ慙愧の念を以って語られているとは思えないか?

「昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた」テノチティトランと呼ばれた現在のメキシコ市の中心部に都を置き、アステカ文化を花開かせた彼らは、十四世紀からスペイン人によって征服されてしまった一五二一年まで栄えた。「アステカ(Azteca)」とは彼らの伝説上の起源の地「アストラン(Aztlan)の人」を意味する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、ウィキの「アステカ」から滅亡の前後を見よう。『メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した』。一五一九年二月、『ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で』十六頭の『馬と大砲や小銃で武装した』五百人の『部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆』、『コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行』って、『その勝利の結果として贈られた女奴隷』二十人の『中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた』。『サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラ(スペイン語版、英語版)の町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち』、三百人で内陸へと進軍『コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ』。十月十八日、チョルーラの町で彼らを礼節を以って迎えた三千から六千人ともされる無辜の民をおぞましい方法で大虐殺し、その後、千人の『トラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍』、一五一九年十一月十八日、『コルテス軍は首都テノチティトランへ到着』、モクテスマ二世は『抵抗せずに歓待』、コルテス達はモクテスマ二世の父の宮殿に入って六日間を過ごしたが、『ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こして』モクテスマ二世を支配下に治めた。翌一五二〇年五月、『ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは』百二十人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した』。『コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出』たことから、『コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出た』モクテスマ二世は『アステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう』『(これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)』。翌月末の六月三十日、『メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した』。『王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた』。翌一五二一年四月二十八日、『トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に』十三隻の『船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲』、一五二一年八月十三日、『コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした』。その後、『スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)』。『その犠牲者は征服前の人口はおよそ』一千百万人で『あったと推測されるが』、一六〇〇年の『人口調査では、先住民の人口は』百万程度に『なっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した』のであった。当ウィキの注釈には、『アステカ王国がわずかな勢力のスペイン人に』たった二年半で滅ぼされてしまった『理由が、白い肌のケツァルコアトル神が「一の葦」の年に帰還するという伝説があったため』、『アステカ人達が白人のスペイン人を恐れて抵抗できなかったというためだったという通説については、異論を唱える研究者もいる。大井邦明によれば、ケツァルコアトルが白人に似た外観であったというのはスペイン人が書き記した文書にのみ見られるという。白人が先住民の支配を正当化すべく後から話を作った可能性があるという』。『また、スーザン・ジレスピー(フロリダ大学)によれば、アステカ側の年代記制作者が、わずかな勢力に王国が滅ぼされたことの理由付けとして後から話を作った可能性があるという』。『実際の理由としては、アステカがそれまで経験してきた戦争は生贄に捧げる捕虜の確保が目的であ』って、『敵を生け捕りにしてきたのに対し、スペイン人達の戦い方は敵の無力化が目的であり』、『殺害も厭わなかったこと』、『また、スペインの軍勢の力を見せつけるべくチョルーラで大規模な殺戮を行うなどしたが、アステカの人々にとっては集団同士の戦いでの勝敗はそれぞれの集団が信仰する神の力の優劣を表していたこと』、『そしてまた、スペイン人達は銃や馬で武装しており、アステカの軍勢は未知の武器に恐れをなしてたびたび敗走したこと』、『スペイン人がアステカに不満を持っていた周辺の民族を味方につけたこと』『などが挙げられる。これらの他、モクテソマ王自身が、不吉な出来事や自身が権力の座を失うことなどに不安を募らせ』、『希望を失なって首都を離れようとするなど』、『厭世的な気持ちに捕らわれていたことがアステカの軍勢の士気をも落としていただろうという指摘もある』とある。

「劣等人種」「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」時代的限界性からこれらが現行では許されない表現であることは言を俟たない。しかしどうあろう、丘先生はこれらを一種鉤括弧つきで皮肉に用いておられるようにも私には思われるのである。生物学的な「進化」の観点からは「劣等」「優等」という措辞を完全抹消することは恐らくは出来まい。そうして、例えば「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」を、現代の合わせて私は「鐡砲のない野蠻人と」全人類を何度も絶滅し得るだけの馬鹿げた核兵器を保持し、ゲーム感覚の電子精密「鐡砲」で無辜の民を殺すことに興じている「文明人」と言い換えてみたくなる。私は――「瓢」(ふすべ)「を持つて泉に水を汲みに來る土人」でありたいが、「樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰め」る「文明人」には金輪際、なりたくないのである。――

「セイロン島のヴェッダ人」ウィキの「ヴェッダ人(英語:Vedda)によれば、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音するが』、これは実は侮蔑語であって、彼らの『自称はワンニヤレット (Wanniyalaeto, Wanniyala-Aretto)で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。 記録は、ロバート・ノックス』(Robert Knox)の「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies,1681)に遡り、人口は一九四六年当時で二千三百四十七人、『バッティカロア、バドゥッラ、アヌラーダプラ、ラトゥナプラに居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計で四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八月の『大祭には多くの法悦の行者が聖地を訪れて火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語:Saman)を『祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書『マハーワンサ』によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線やぶちゃん)。

「フィリッピン島のネグリト人」「ネグリート」とも呼ぶ。ウィキのネグリト(英語:Negrito)から引く。彼らは『東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。アンダマン諸島のアンダマン諸島人』、(十族)と、『Jangil、ジャラワ族、オンゲ族、センチネル族』を合わせた十四の『民族、マレー半島と東スマトラのセマン族』、『タイのマニ族』、『フィリピンのアエタ族・アティ族・バタク族(英語版)・ママンワ族』の四民族、『ニューギニアのタピロ族』『などの民族が含まれる』。『身長は低く、諸民族の中でも最も小さな人々であり「大洋州ピグミー」とも呼ばれる。オーストラロイドに属し、暗い褐色の皮膚を持ち、巻毛と突顎を持つ。山地にすみ単純な採集や狩猟を行い、移動焼畑を行う場合もある採集狩猟民である。フィリピンのアエタなどは火を使用するが、アンダマン諸島民は火を使わない。セマンは木の皮を叩いてやわらかくして衣服を作り、洞窟や木の葉で覆った家に住んでいたと記録されている』。『ネグリトという言葉はスペイン語で「小柄で黒い人」という意味であり、当初スペイン人航海者たちはネグリト人の肌の黒さからアフリカ人(アフリカの黒人)の一種かもしれないと考えていた。マレー語ではオラン・アスリ(orang asli)、すなわち「もとからいた人」と言う。フィリピンでは、現在のマレー系の民族が舟で到来する前の先住民とされ、パナイ島の伝説ではボルネオ島から渡ったマレー人たちがネグリト系のアエタの民から土地の権利を買ったとされている』。『ネグリトの人々は他の民族と比較して最も純粋なミトコンドリアDNAの遺伝子プールを持つとされ、彼らのミトコンドリアDNAは遺伝的浮動の研究の基礎となっている。またニューギニアに住む集団は、ネグリトとはさらに別に、メラネシア・ピグミーとされる事がある』。使用言語の項。『アンダマン諸島やニューギニア島のネグリトは固有の言語を持つが、マレー半島やフィリピンのネグリトは周辺諸族(非ネグリトのモンゴロイド)と同様のものを話す。これは過去のある時点で固有の言語を喪失したものと考えられている』。平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の「ネグリト」によれば、インド洋のアンダマン諸島に約六百人、タイ南部と半島マレーシアの内陸に約二千五百人(セマン族)、フィリピン群島に約千五百人(アエタ族)が居住するとある(下線やぶちゃん)。

「ボルネオのダヤック人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の内堀基光氏の「ダヤク族」(英語:DayakDyak)によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『オランダ系の民族学においては、ボルネオ島(カリマンタン)に住むプロト・マレー人系の原住民の総称として「ダヤク」の名称が一般的に用いられる。したがってこの語に各民族名を冠し、「カヤン・ダヤク」、「クニャー・ダヤク」、「ヌガジュ・ダヤク」、「海ダヤク(イバン族)」、「陸ダヤク」などの複合名称がしばしば用いられる。ダヤク諸族間の言語・文化的類縁関係については諸説があるが、ごく大きく分けて、(一)フィリピンの諸民族と近い北部群(とくにムルット族)、(二)中央カリマンタン諸族(カヤン族・クニャー族を含む)、(三)西ボルネオ諸族(イバン族・陸ダヤク)の三群を認めることができる』。『ダヤク諸族全体を通して焼畑陸稲栽培、顕著なアニミズム的世界観、発達した葬制、双系的な社会構造などの共通性が存在する。農耕方式における例外としては、北部高地のケラビット族の棚田耕作、西部海岸のミラナウ族のサゴヤシ栽培が文化史的に重要である。ボルネオ島の各地方海岸部に住むマレー人の起源は、多くの場合、イスラム化したダヤク族に求められるであろう。現在でも進行中の社会過程としてダヤク族のイスラム化=マレー化は、東南アジア島嶼部の歴史を理解するうえで重要な現象である。ボルネオ北西部を占めるサラワク(現・マレーシア領)では、イギリス植民地時代から「ダヤク」の語を「海ダヤク」と「陸ダヤク」に限定して用いてきた。日本でダヤク(ダイヤ)族という場合、実際にはイバン族をさしていることが多い』とある(下線やぶちゃん)。

「ニューギニヤのパプア人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の畑中幸子氏の「パプア人」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『ニューギニア島の高地に住む人々を指す場合と、パプア・ニューギニア(ニューギニア島東部)に住む人々を指す場合がある』(丘先生の謂いはこの両者を含むと考えてもよいが、少数の被圧された種族という意味ではニューギニア高地人で採るのがよかろう)。『高地に住む人々は、人種的にはオーストラロイドまたはオセアニック・ネグリトといわれ、アジア大陸から太平洋に向かって押し出された最古の集団である。これらの人々は約三万年前にニューギニア島に到着していた、後から来たモンゴロイド系に高地に追いやられた。一般にニューギニア高地人と呼ばれ、他のメラネシア地域とは異なる人種集団を形成している。一時期に大規模な人種の混血があったため、身体的特徴も地域により異なる。一九六〇年半ばから始まった考古学調査によると、高地の各地の渓谷に約一万年前に人が住んでいたことが明らかとなった。ベールに包まれたまま長く外界と孤立していたパプア人の多くは、第二次世界大戦後、オーストラリア行政と接触した。しかし六十年代までパプア人社会に近代化政策がもち込まれなかったため、発展が遅れた』。『パプア諸語には、数百を下らぬ数の異なる言語が含まれ、それぞれの言語の話者数は、数百から十五万人以上とさまざまである。パプア人社会は威信の獲得、蓄積を競う男性社会によって支配される部族社会であり、その特徴は中央集権化された政治組織および体系化された宗教がないことにある。儀礼が発達しており、多くはシングシング』(singsing:南西太平洋のメラネシア、特にパプア・ニューギニアでよく使われる、主として踊りなどを指すピジン・イングリッシュ)『が伴う。リーダーシップは世襲ではなく、戦闘や部族間の交易によって築かれ獲得されたもので、氏族(クラン)ごとにいるリーダーはビッグマン(ピジン・イングリッシュで「首長」の意)と呼ばれた。ビッグマンは氏族の全面的支持を背景として対外関係を処理してきた。部族間の取引関係を通じて通婚関係や同盟が成立していたが、張合いと攻撃性はしばしば武力抗争にまで発展した。貝貨・豚は欠かすことのできない財であった。技術の発達は遅れており、一般に階層分化も社会分業も未発達であった。人々はすべて形あるものは精霊から授けられると信じ、また呪術が部族間・部族内を問わずはびこっていた。彼らは根茎類(ヤムイモ・タロイモ・サツマイモ・キャッサバなど)の栽培を生業とする自給農民であるが、主として女性が農耕に従事する。主食のサツマイモは約三〇〇~三五〇年前にポルトガル人あるいはマレー人によって海岸地方にもたらされ内陸部に達したもので、これが高地の人口を増加させ、社会を変えたといわれる。一九六〇年代には換金作物の茶、コーヒーが導入されて栽培に成功、国の経済発展に一役買っている』。一九七三年に『パプア・ニューギニアに自治政府が樹立され、パプア人たちも政治に参加する機会をえた』。一九七五年には『イギリス女王を元首とする立憲君主国として独立したが、パプア・ニューギニアの約三百六十万人』(一九八四年次推定)の人口の三分の二が『パプア人である。メラネシア人との人種混血がおきており、ラネシア人国家ということから国民の間にメラネシア人としてのアイデンティティ(同類意識)が育ちつつある。西欧文化との接触が新しいため、土着文化が西欧文化と共存している』とある(下線やぶちゃん)。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(1) (序)

    第二十章  種族の死

 

 生物の各個體にはそれぞれ一定の壽命があつて、非業の死は免れ得ても壽命の盡きた死は決して免れることが出來ず、早いか晩いか一度は必ず死なねばならぬ運命を持つて居るが、さて種族として論ずるときはどうであらうか。同樣の個體の集まりである種族にも、やはり個體と同じやうに生死があり壽命があつて、一定の期限の後には絶滅すべきものであらうか。これらのことを論ずるには、まづ生物の各種族が如何にして生じ、如何なる歷史を經て今日の姿までに達したものかを承知して置かねばならぬ。

 

 動植物の種族の數は今日學者が名を附けたものだけでも百萬以上もあつて、その中には極めて相似たものやまるで相異なつたものがあるが、これらは初め如何にして生じたものであるかとの疑問は、苟しくも物の理窟を考へ得る程度までに腦髓の發達した人間には是非とも起るべきもので、哲學を以て名高い昔のギリシヤ人の間にもこれに關しては已に種々の議論が鬪はされた。しかし近代に至つて實證的にこれを解決しようと試みたのは、誰も知る通りダーウィンで、「種の起原」と題する著書の中に次の二箇條を明にした。即ち第一には生物の各種は長い間には少しづつ變化すること、第二には初め一種の生物も代を多く重ねる間には次第に數種に分れることであるが、絶えず少しづつ變化すれば、先祖と子孫とはいつか全く別種の如くに相違するに至る筈で、太古から今日までの間には境は判然せぬが幾度も形の異なつた時代を經過し來つたものと見倣さねばならず、また初め一種の先祖から起つた子孫も後には數種に分れるとすれば、更に後に至れば數種の子孫の各々がまた數種に分れるわけ故、すべてが生存するとしたならば、種族の數は次第に增すばかりで、終には非常な多數とならねばならぬ。この二箇條を結び合せて論ずると、およそ地球上の生物は初め單一なる先祖から起り、次第に變化しながら絶えず種族の數が殖えて今日の有樣までに達したのである。即ち生物各種の間の關係は、一本の幹から何囘となく分岐して無數の梢に終つて居る樹枝狀の系圖表を以て示し得べきもので、各種族は一つの末梢に當り、相似た種族は、相接近した梢に、相異つた種族は遙に相遠ざかつた梢に當つて、いづれも互に血緣の連絡はあるが、その遠いと近いとには素より種々程度の相違がある。これだけは生物進化論の説く所であるが、これは單に議論ではなく、化石學を始とし比較解剖學・比較發生學・分類學・分布學など生物學の各方面に亙つて無數の證據があるから、今日の所では最早疑ふ餘地のない事實と見倣さねばならぬ。

[やぶちゃん注:「動植物の種族の數は今日學者が名を附けたものだけでも百萬以上もあ」るとあるが、本書初版刊行の大正五(一九一六)年から八十八年も経った二〇〇四年現在は、ウィキの「種」によれば、

命名済みの種だけで二百万種

あり(これは化石種も当然含まれる。生物学者である丘先生の謂いも同じと考えてよいと思うが、一般的向けの本書の体裁から考えると、この百万種以上というのは現生種(現在、生存している種)のみの数とも読め、それだと八十八年で五十万増えると言うのはかえって自然と言えるかもしれない)、実際に

地球の歴史上ではそ『の数倍から十数倍以上の種の存在が推定され』ている

とあるから、実に百年弱で百万種が増えたことになる。しかし、ウィキの「古生物」によれば、

古生物(かつて地球上に存在した生物種)は約十億種以上(但し、『(?)』が附されてある)

化石種(化石として発見された種)は約十三万種

人類が発見して命名した現生種は約百五十万種

未確認種は数千万種

とされるとあるから、実に

化石絶滅種を含めた生物の推定種数は実に十億数千万種以上

ということになろう。

「種の起原」『種の起源』原題「On the Origin of Species」はイギリスの自然科学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)が一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)に出版されている。本書初版刊行の大正五(一九一六)年の五十七年前となる。]

 

 かくの如く生物の各種族はいづれも長い歷史を經て今日の姿までに達したものであるが、その間には何度も形の變じた種族もあれば、また割合に變化することの少かつた種族もあらう。しかしながらいづれにしても變化は徐々でゐるから、いつから今日見る如き形のものになつたかは時期を定めていふことは出來ぬ。化石を調べて見ると、少しづつ次第次第に變化して先組と子孫とがまるで別種になつてしまつた例は幾らもあるが、これらは血筋は直接に引き續いて居ながらその途中でいつとはなしに甲種の形から乙種の形に移り行くから、乙なる種族はいつ生じたかといふのは、恰も虹の幅の中で黄色はどこから始まるかと問ふのと同じである。人間などは化石の發見せられた數がまだ甚だ少いから、この場合の例には不適當であるが、もしも時代の相續いた地層から多數の化石が發見せられたならば、やはりいづれから後を人間と名づけてよいかわからず、隨つていつ初めて生じたといふことは出來ぬであらう。

 

 生物種族の初めて現れる具合は、今述べた通り漸々の變化によるのが常であるが、かくして生じた種族は如何になり行くかといふに、無論繼續するか斷絶するかの外はなく、繼續すれば更に少しづつ變化するから、長い間には終に別の種族となつてしまふ。地屏の中から掘り出された化石が時代の異なる毎に種族も違つて、一として數代に繼續して生きて居た種族のないのは、昔もその通りであるが、今後とても恐らく同じことであらう。稀には變化の極めて遲いものがあつて、いつまでも變化せぬやうに見えるが、これは寧ろ例外に屬する。「しやみせんがひ」や「あかがひ」などの種族は隨分古い地層から今日まで繼續して居るから、その間だけを見ると殆ど永久不變のものであるかの如き感じが起るが、「しやみせんがひ」屬「あかがひ」屬の形になる前のことを考へると、無論變化したものに違ない。また或る地層までは澤山の化石が出て、その次の地層からは最早その化石が出ぬやうな種族は、その間の時期に斷絶して子孫を殘さなかつたものと見倣さねばならぬが、かやうな種族の數は頗る多い。獸類でも魚類でも貝類でも途中で斷絶した種族の數は、現今生きて居る種族の數に比して何層倍も多からう。そしてこれらの種族はなぜかく絶滅したかといふと、他種族との競爭に敗れて亡びたものが多いであらうが、また自然に弱つて自ら滅亡したものもあつたであらう。

[やぶちゃん注:「しやみせんがひ」三味線貝(その独特の形状由来)。冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類(他にシャミセンガイ科 Lingulidae には Credolingula 属・Glottidia 属・Lingularia 属があり、化石属になると更に多数ある。分類タクサは保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。「腕足動物門」の学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名Lingulida(リングラ)は「小さな舌」の意(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、まずウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる』。二枚の『殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は五センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では』一対の『腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。一対か二対の『腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり』、二つの『神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。以下、ウィキの「シャミセンガイ」の項。『尾には筋肉があるだけで、内臓はすべて殻の中に入っている。殻は二枚貝のように見えるが、二枚貝が左右に殻を持つのに対して、シャミセンガイは腹背に殻を持つ。殻をあけると、一対のバネのように巻き込まれた構造がある。これは触手冠と呼ばれ、その上に短い多数の触手が並び、そこに繊毛を持っていて、水中のデトリタスなどを集めて食べるための器官である』。『特異な外観は、日本では三味線に例えられているが、中国では舌やモヤシに例えられて、命名されている』(中文サイトを見ると「舌形貝」「海豆芽」とある)。『太古から姿が変わっていない生きている化石の一つと言われることも多いが、実際には外形は似ているものの内部形態はかなり変化しており、生きた化石とは言いがたいという説もある。化石生物と現在のものとは別の科名や属名がつけられている』。二〇〇三年、『殻の形が大きく変化していることから、生きている化石であることは否定された』(下線やぶちゃん)。『日本では青森県以南に分布する。砂泥の中に縦穴を掘り、長い尾を下にして潜っている』。『中国では、渤海湾以南に分布』し、『台湾にも見られる』。しかし、『生息数が減少しており、地域によっては絶滅が危惧されている』。『大森貝塚(東京都大田区・品川区)の発見者であるエドワード・S・モースは』、明治一〇(一八七七)年に東京大学お雇い外国人として生物学を教える一方、シャミセンガイの研究のためにも来日しており、滞在期間中の凡そ一ヶ月の間、『江ノ島臨海実験所で研究をしており、その間にミドリシャミセンガイを』五百個体も捕獲している(私の「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳」の「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」以下のパートを参照されたい。因みに、日本で最初にダーウィンの進化論を東京大学や公開講演会で学術的に講義講演したのも、このモースである日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 27 日本最初のダーウィン進化論の公開講演などを参照されたい)。日本に於ける代表種であるミドリシャミセンガイ Lingula anatina は『岡山県児島湾や有明海で食用とされる。有明海ではメカジャ(女冠者)と呼ばれ、福岡県柳川市や佐賀県佐賀市周辺でよく食用にされる。殻及び触手冠の内部の筋肉や内臓を食べる。味は二枚貝よりも濃厚で、甲殻類にも似た独特の旨みがある』。『日本での料理としては、味噌汁、塩茹で、煮付けなどにすることが多』く、『中国では広東省湛江市、広西チワン族自治区北海市などで主に「海豆芽」(ハイドウヤー)などと称して炒め物にして食べられており、養殖の研究も行われている』(引用部を含め、下線やぶちゃん)。

「あかがひ」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ属アカガイ Scapharca broughtonii モースによる、現在の東京都品川区から大田区に跨る繩文後期から末期の大森貝塚の発掘(明治一〇(一八七七)年六月十七日に横浜に上陸したモースは二日後の六月十九日に東京大学との公式契約を結ぶために横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの山側の崖に貝殻が積み重なっている地層を発見、三ヶ月後の九月十六日に第一回発掘調査を行い、九月十八或いは十九日に第二回を、十月一日附で東京府の許可を得た上で十月九日から本格的な発掘を開始し、終了は十二月一日)の際には多量の、アカガイを含むフネガイ科 Arcidae の埋蔵貝類の殻を発掘し、同時に近くの海岸で同種・近縁種である現生種の貝殻も採取してそれを比較検討している日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較の本文及び私の注を是非、読まれたい。私も小学生の頃、家近くの切通しや崖から沢山の未だ化石化していないアカガイの埋蔵物古物を発掘したものだった。泥だらけになりながら、それを掘り出すのに至福を覚えた(今も絵日記に残っている)あの少年は、どこへ行ってしまったのだろう……

2016/02/28

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(6) 五 死後の命 /第十九章 個體の死~了

     五 死後の命

 

 身體は死んでも魂だけは後に殘るとは昔から廣く信ぜられて居ることであるが、これなどもたゞ人間のみに就いて考へるのと、生物を悉く竝べ、人間もその中に加へて考へるのとでは、結論も大に違ふであらうと思はれるから、死の話の序にこゝに一言書き添へて置く。すべての生物種類を竝べた中へ、人間をも加へて全部を見渡すと、人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬するものなることは明であるから、身體を離れた魂なるものが人間にあるとすれば、猿にもあると考へねばならず、猿に魂があるとすれば、犬にもあると見倣さねばならず、かうして先から先へと比べて行くと、何類までは魂が有つて何類以下には魂がないか、到底その境を定めることが出來ぬ。假に下等の動物まで魂が有るとすれば、これらの動物が人間とはまるで違うた方法で子を産んだり死んだりするときに、魂はいつ身體に入り來りいつ身體から出で去るかと考へて見ると隨分面白い。「いそぎんちやく」が分裂して二疋になる場合には魂も分裂して二個となつて兩方へ傳はるか、それとも今まで宇宙に浮んで居む宿なしの魂が新に一方に入り來るか、もしさうならば、もとから居た魂と新に來た魂とは如何にして受持の體を定めるかなどと幾つでも謎が出で來る。また人間だけに就いて考へても、卵細胞の受精から桑實期、胃狀期を經て、身體各部が次第次第に發育し終つて成人になるまでを一目に見渡した積りになつて、いつ初めて魂が現れたかと尋ねると、やはり答に當惑する。身體から離れた個體の魂が永久に不滅であるとすれば、今日までに死んだ者の魂が皆どこかに存するわけで、その數はどの位あるか知れぬがそれらはいつ生じたものであるか。終を不滅と想像するならば、始も無限と想像して宜しからうが、假に始もなく終もなく永久に存在するものとすれば、それが身體に乘り移らぬ前には何をして居たか。世間でいふ魂はいつまでもその一時關係して居た肉體の死んだときの年齡で止まるやうで、五歳で死んだ孩兒の魂はいつまでも五歳の幼い狀態にあり、九十で死んだ老爺の魂はいつまでも九十の老耄した狀態にあるやうに思はれて居るが、これらの魂は肉體に宿る前には如何なる狀態にあつたかなどと尋ねると、まるで雲の如くで摑まへ所がない。かくの如く身體と離れて獨立に存在し得る個體の魂なるものがゐるとの考は、生物界のどこへ持つて行つても辻悽の合はぬことだらけであるから、虚心平氣に考へると所謂魂なるものがあるとは容易に信ぜられぬ。神經系の靈妙な働の一部を魂の働と名づけるならば、これは別であるが、身體が死んでも後に魂が殘るといふ如きは、實驗と觀察とによつて生物界を科學的に研究するに當つては全く問題にも上らぬことである。

[やぶちゃん注:「人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬する」再度、確認しよう。現行ではヒトは 

動物界 真正後生動物亜界 新口動物上門 脊索動物門 脊椎動物亜門 四肢動物上綱 哺乳綱 真獣下綱 真主齧上目 真主獣大目 霊長目 真猿亜目 狭鼻下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト亜科 ヒト族 ヒト亜族 ヒト属 ヒト Homo sapiens Linnaeus, 1758 

に分類される。「猩々類」(しやうじやうるい(しょうじょうるい)」とはオランウータンのことで、 

オランウータンはヒト科オランウータン亜科オランウータン属ボルネオオランウータン(オランウータン)Pongo Pygmaeus 及びスマトラオランウータン Pongo abelii 

中国語では本属は「猩猩屬」と現在も書く。ヒト科にはオランウータン亜科 Ponginae・ヒト亜科 Hominidaeの二亜科しかない(オランウータン科 Pongidae を別に立てる学説もある)。因みに、ヒト科には現生のゴリラ族ゴリラ属 Gorilla 及びヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属 Pan 、そして化石人類のアウストラロピテクス属 Australopithecus  やホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis などが含まれる。この分類から考えると、現在ならヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属ボノボ(ピグミーチンパンジー) Pan paniscus や模式種であるチンパンジー(ナミチンパンジー)Pan troglodytes とチンパンジー「類と同じ仲間に屬する」とする方がしっくりくる。

「桑實期」「第十四章 身體の始め(1の「一 卵の分裂」を参照。

「胃狀期」第十四章 身體の始め(2) 二 胃狀の時期を参照。リンク先の文章と挿絵から見て、現行の胞胚期(但し、桑実胚と胞胚期の区別は明確ではない)から原腸胚期及び原腸貫入から神経胚形成の前までを丘先生はかく呼称しているように読める。]

 

 しかるに肉體が死んでも魂だけは生き殘といふ信仰が極めて廣く行はれて居るのはなぜかといふに、これには種々の原因があるが、一部分は確に感情に基づいて居る。その感情とは、自分が死んだ場合に肉體も精神もなくなつて全然消滅してしまふことを、何となく殘り惜しく物足らぬやうに思ふ感じであるが、これも熟考して見るならば魂などが殘つてくれぬ方を有り難く思ふ人も多からう。死んで魂が殘るのは自分と自分の愛する人とだけに限るならば實に結構であるが、嫌ひな人も憎い人も債權者も執達吏も死ねば、やはり魂の仲間入りをして來ることを考へると、寧ろ魂などを殘さずに綺麗に消えてなくなつた方が苦患が短く濟むことに心附かねばならぬ。魂といふ字は學者にいはせれば種々深い理窟もあらうが、通俗にいひ傳へ來つた魂なるものは、單に個人の性質が身體なしに殘つた如きもので、至つて幼稚な想像に過ぎず、男ならば死んでも男、女ならば死んでも女、酒呑みは死んだ後にも酒好きで、吃りは死んだ後にも吃り、實際草葉の蔭か位牌の後に隱れて居て、供へ物の香を嗅ぎ御經の聲を聞き得るものの如くに考へて居るのであるが、かやうな種類の死後の命はこれをあると信ずべき理由は少しもない。生物學上からいへば、子孫を遺すことが即ち死後に命を傳へることであつて、子孫が生き殘る見込みの附いた後に自分が死ねば、自分の命は已に子孫が保證して受け繼いでくれたこと故、自分は全く消え果てても少しも惜しくはない筈である。されば、子孫の生き殘ることを死後の命と考へ、死後も自己の種族の益々發展することを願うて、專ら種族のために有効に働き得るやうな優れた子孫を遺すことを常々心掛けたならば、これが何よりも功德の多いことであらうと思はれる。

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(5) 四 死の必要

     四 死の必要

 

 食ふのは産まんがためで、産むのは更に多く食はんがためであると前にいづれかの章で述べたが、生物の動作を見ると、無意識ながら徹頭徹尾自己の種族を維持し發展させんがめに働いて居る。食ふのは他種族の物質を自己の體内に取り入れ、これを同化して自己の物質とすること故、直接に自己の種族をそれだけ膨脹せしめたことに當る。また産めば自己の種族の個體の數が殖え、これが打ち揃うて食へば益々他種族の物質を取つて自己の種族に併合することが出來る。即ち食慾も色慾もその根抵は無意識の種族發展慾にあるが、數多くの種族が相竝んで各々膨脹しようと努めるから、互に壓し合ひ攻め合ふことを免れず、少しでも力の強い方は膨れて他を壓迫し、少しでも弱い方は他に壓迫せられて縮小せざるを得ぬ。そしてその際壽命の長さも種族の消長に關係し、最も適當な長さの壽命を有する種族でなければ忽ち滅び失せねばならぬ運命に陷ることは、ほゞ次の如き理由による。

[やぶちゃん注:「食ふのは産まんがためで、産むのは更に多く食はんがためであると前にいづれかの章で述べた」例えば「第九章 生殖の方法」の序の部分を参照。]

 

 抑々動物個體を成す細胞は發生の進むに隨うてその間に分業が行はれ、各種特別の任務を分擔して專門の仕事にのみ適するやうになると、始め持つて居た再生の力が次第に減ずるもので、終には新な細胞を生ずる力が全くなくなる。例へば神經細胞とか赤血球とかいふものになつてしまへばその分撞の仕事は十分に務めるが、更に分裂して新な細胞となることは出來ぬ。換言すれば、細胞にも年齡があり、老若の別があつて、專門の仕事を務めた細胞は既に老細胞と見倣さねばならぬ。個體は細胞の集まりであるから、古くなるに隨つて老細胞の數の割合が自然多くなり、各部の働も鈍くなり、再生力も減ずることを免れぬ。身體内で絶えず新な細胞が出來ては居るが、その割合は老若によつて非常に違ひ、胎兒の發生中の如きは實に盛に新細胞が出來るに反し、老年になると古い細胞が長く留まつて働いて居る。それ故若いときには傷口なども速に癒えるが、老年になるとなかなか手間がかかる。また物を覺えるのでも若いときには容易く出來るが、年を取つた後はとても難かしい。自轉車の稽古でも大人には八囘も教へぬと覺えぬ所を八歳の子供ならば僅に三囘で濟む。「八十の手習」といふ諺はあるが、その半分の四十を過ぎては外國語の學習の如きは殆ど絶望でゐる。かやうな次第で、老いたる個體は壯年時代の個體に比べて生活上種々劣つた所が生じ、老の積るに隨ひ、益々著しく劣るやうになるから、一種族の中に老いたる個體の多くあることは他種族と對抗するに當つては確に不得策である。假に敵と味方との個體の員数が相均しいとすれば、老いたる個體を多く有する組の方が敗ける心配が多い。壽命が短過ぎて種族維持の見込みの立たぬ間に親が死ぬやうでは、その種族は勿論生存が出來ぬが、また壽命が長きに過ぎて種族維持の見込みが確に附いた後に、老者が長く生存して若い者の占むべき坐席を塞ぐやうでも、他の種族との競爭に勝てぬから、昔から長い間の種族間の競爭の結果、丁度適當の長さの壽命を有するもののみが生き殘り、各種類に種族生存上最も有利な長さの壽命が自然に定まつたのであらう。

[やぶちゃん注:「八十の手習」この諺は晩学の自己謙遜の表現としてしばしば用いられるものの、元来は、学問や習い事をするのに年齢の早い遅いなどはない、晩年に始めても遅過ぎるということなどは如何なる対象に対しても、ない、という意を含むものである。年齢の「八十」は「六十」「七十」でも構わないが、現行の日本人の寿命の長さから考えると、「五十」はちょっと不自然で(使う人はいる)、「四十」以下では誤使用の嫌いがある。但し、丘先生の言うように、「手習い」を文字通りの、修得時期が若いほど有効であるとされる母語でない外国の言語の「語学」の意で採ると、自己卑下と実際の習得の困難さから見れば「四十の手習」はアリ、という気は個人的にはする。]

 

 非業の死を免れた個體も適當な時期に達すれば必ず死ぬことが、その種族の維持繼續のために必要であるが、今まで健康なものが即刻死ぬといふことは困難であるから、死ぬにはまづ以て身體に少しづつ變化が起り、變化が積つて遂に死に終るのが常である。尤もこの變化が起り始めてから死までの時の長さは、動物の種類によつて非常に違ひ、短いものは僅に數秒に過ぎず、長いものは二十年もかかる。例へば蜜蜂の雄が死ぬのは交尾の將に終らうとする瞬間で、雌に交接器の根元を食ひ切られ、雌の體から離れて地上に落ちる頃には已に死んで居る。これに反して人間の如きは四十歳か四十五歳以上になると、僅かづつ變化が始まり次第に變化が著しく進んで七十歳位になつて死んでしまふ。かく緩々と變化の進む動物に就いてその變化の模樣を詳細に調べて見ると、身體の諸部に種々の異なつた變化の起ることが知れるが、これに基づいて死の原因に關するさまざまの學説が唱へられた。老衰は身體に一定の變化が起つて終に死の轉歸を取るもの故、昔はこれを以て一種の病氣と見倣したこともあるが、一種の病氣と見倣す以上は何らかの手段によつてこれを治療することが出來る筈と考へ、不老不死の方法の研究に苦心する人もあつた。また老衰を以て一種の慢性中毒と見倣し、もしその毒を消すことが出來たならば老衰は避けられると論じた人もある。一時世間に評判の高かつたメッチニコフの新養生法の如きはその一例であるが、その要點を摘んでいふと、人間の大腸の内には澤山の黴菌が居て、その生ずる毒のために動脈の壁が硬くなり彈力を失ひなどして老衰の現象が起り、それが積つて終に死ぬのである。それ故何らかの方法で腸内の黴菌の繁殖を防ぎさへすれば老衰は避けられる。黴菌の發生を防ぐには乳酸を用ゐるのが最も宜しいが、食物としては牛乳をブルガリヤ菌で乳酸化させたヨーグルトが一番その目的に適うて居る。ヨーグルトさへ食つて居れば老衰する氣遣ひはないとの説で、議論としては實に筒單明瞭なものである。その他老衰は身體内に石灰が溜り過ぎるために起るとか、血管壁の硬化のために起るとか、または内分泌の狀態の變化のために起るとか、さまざまの説があつていづれも有名な醫學者によつて熱心に唱へられて居るが、著者の考によると、これらは皆原因と結果とを轉倒して居るのでゐつて、動脈の硬くなるのも、組織が彈力を失ふのも、石灰分が溜るのも、決して老衰を起す原因ではなく、寧ろ老衰のために生ずる結果と見倣さねばならぬ。前にも遠べた通り、各種動物の壽命はその種族維持のために長過ぎず短過ぎず丁度最も有利な所に定まつて居るが、これは古代から今日までの長い間の種族間の競爭の結果として生じたことでその根抵は各個體を形成する細胞の原形質の深い處に潜んで居るから、原形質までを造り直すことが出來ぬ間は、壽命の長さを隨意に延長したり短縮したりすることは難かしからう。蠶の蛾が産卵後一兩日で死ぬのも、人間が末の子供の生長し終る頃に壽命の盡きるのも、蠶の體の長さが約七六糎を超えず、人間の身長が平均一・六米位に止まるのと同じく、何千萬年かの間に自然に定まつた性質である。そして壽命の盡きたときに急に死ぬ種類では、恰も急性の心臟麻痺か卒中かで死ぬ如くに特に老衰と稱すべき時期がないが、生殖後死ぬまでに手間の取れる動物ではその間に漸々體質が變化して、一歩一歩死に近づいて行くから、老衰の狀態が著しく顯れる。即ち組織の再生力が次第に減じ、古い細胞が多くなれば、各組織の働も鈍くなつて、或は彈力がなくなるとか、硬く脆くなるとか、或は石灰が溜まるとか分泌が十分でなくなるとか、その他なほさまざまの變化が明に見える。廣く生物界を見渡して諸種の異なつた生物を比較することを忘れ、たゞ人間のみを材料として老衰期に起る身體上の變化を調べると、とかく或る一種の變化を以て老衰の唯一の原因と見倣し、それさへ防げば老衰は避け得られるものの如くに思ひ誤る傾がある。著者は或るとき五歳ばかりの幼兒を連れて、散歩の途中に半鐘を指し「あれは何をするものか」と尋ねた所が、「あれを敲くと火事が始まるのでせう」と答へたので大に笑つたことがあるが、動脈の硬化を以て老衰の原因と見倣すことは幾分かこの幼兒の答に似て居るやうに思はれる。前に遠べたメッチニコフの長壽論の如きも、一部づつに離せば恐らく皆正しからう。即ち大腸の内に多くの黴菌が居ることも、乳酸によつて黴菌の發生を止め得ることも、年を取れば動脈壁の硬化することも。皆決して間違ではなからうが、これを繫ぎ合せてヨーグルトさへ食つて居れば老衰が避けられる如くに論ずるのは、最も大事な所で原因と結果とを轉倒して居るから、半鐘さへ敲かねば火事は起らぬ如くに考へるのと同樣な誤に陷つて居るのである。

[やぶちゃん注:現在の細胞遺伝学では真核生物の染色体の末端部にあって、見た目、染色体末端を保護するキャップ状構造の箇所を「テロメア(telomere)」、「末端小粒」と呼んでいる(ギリシャ語の「末端」の意の「telos」+「部分」の意の「meros」の合成語)が、実はこの部分には細胞の分裂回数を制御する働きがあるらしい。体細胞組織から取り出した細胞には分裂回数に一定の制限(「ヘイフリック限界」)があり、それを越えると細胞は増殖を停止し、その状態を生物の「個体老化」に対して「細胞老化」と呼称するようになったが、後の研究によって細胞老化状態にある細胞では、そのテロメア部分が短くなっていることが観察されている。これから、テロメアの長さが細胞の分裂回数を制限していると考えられた。後に不死細胞である癌細胞のテロメアが有意に短いことなどが分かり、テロメアとテロメアの特異的反復配列を伸長させる酵素テロメラーゼ(telomerase)の研究からヒトは遂に不老不死の禁断の領域探究に足を踏み入れてしまった。マッドな科学者の癌への興味は実は最早、制圧されることにあるのではなく、不老不死を手に入れることにあるとも言えるのだと私は思っている。

「蜜蜂の雄が死ぬのは交尾の將に終らうとする瞬間で、雌に交接器の根元を食ひ切られ、雌の體から離れて地上に落ちる頃には已に死んで居る」「四 命を捨てる親」で既注。

「緩々」は「くわんくわん(かんかん)」と音読みも出来、「ゆるゆる」と訓でも読め、孰れも「ゆっくりしたさま」である。「ゆるゆる」と訓じておく。

「メッチニコフ」ロシアの微生物学者で動物学者イリヤ・イリイチ・メチニコフ(Ilya Ilyich MechnikovИлья Ильич Мечников 一八四五年~一九一六年)は、特に白血球の食菌作用の研究で一九〇八年のノーベル生理学・医学賞を受賞した(パウル・エールリヒと共同受賞)ことで知られる。参照したウィキの「イリヤ・メチニコフ」によれば、『ミジンコやナマコの幼生の研究から、それらの動物の体内に、体外から侵入した異物を取り込み、消化する細胞があることを発見した。たとえば、ミジンコの体内に侵入して増殖し、ミジンコを殺してしまう酵母の』一属(菌界子嚢菌門メチニコビア属Metschnikowia)が『いるが、彼は、場合によっては侵入を受けたミジンコが死なず、侵入した胞子がそこへやってきた細胞に取り込まれ、消化されることを発見した。そこで、彼は、この細胞に食細胞と命名し、この細胞の働きが、動物が病気にならないためのしくみ、つまり生体防御のしくみを支えるものだと判断し』、「食細胞学説」を提唱した。白血球などの動物体内で組織間隙を遊走して食作用をもつ細胞の総称である「食細胞」、「phagocyte」(ファーゴサイト)『(ギリシア語のphagein=「食べる」とkytoscell「細胞」から)や』、白血球の一種であり、生体内をアメーバ様運動する遊走性の食細胞で特に外傷や炎症の際に活発に機能する「macrophage」(マクロファージ)『はメチニコフに由来する』。『当時、免疫は専ら血清中の液性因子(抗体や補体)によるもの(=液性免疫)だけと考えられていたが、メチニコフの提唱した学説はこれとは異なる、血球細胞による免疫機構(=細胞性免疫)の存在を支持するものであった』。『また晩年には老化の原因に関する研究から、大腸内の細菌が作り出す腐敗物質こそが老化の原因であるとする自家中毒説を提唱した。ブルガリア旅行中の見聞からヨーグルトが長寿に有用であるという説を唱え、ヨーロッパにヨーグルトが普及するきっかけを作ったことでも知られる(ブルガリアのヨーグルトも参照)。自身もヨーグルトを大量に摂取し、大腸を乳酸菌で満たして老化の原因である大腸菌を駆逐しようと努めた』。『彼は食細胞の働きを生体防御の働きと見て、そのために液性免疫の役割を否定した。そのために、従来の研究者たちと対立し、激しい論争が行われたと伝えられる。ちなみに、この』二つの『働きの関係は、最近まで明らかにならなかった。近年まで、教科書には生体防御と言えば、白血球によるものと体液性免疫によるものが、ほとんど無関係に、並列的に記述されていた。この両者が密接に関係を持って一つの生体防御のしくみをなしていることがわかったのは、個々のリンパ球の働きなどが明らかになってからのことである』。『彼は死の寸前に、ヨーグルトを食べたことの結果が自分の体にどのように現れたかを調べるよう、友人に依頼したといわれる。「腸のあたりだと思うんだ」が最後の言葉であったと伝えられる。現在ではヨーグルトを経口で摂取しても、胃において乳酸菌は、ほとんど死滅し、腸には到達しない事が判明している(ただし死滅した加熱死菌体も疾病予防効果などを有するので、健康上の効果は存在する)』。更に若き日の私の愛読書であったレフ・『トルストイの小説「イワン・イリイッチの死」のモデルとされる司法官は彼の長兄』であるとある。

「蠶の體の長さが約七六糎を超えず」実は底本では「糎」(センチメートル)ではなく、「粍」(ミリメートル)となっているが、人間が家畜として改良した(品種としては凡そ四百種がいるが、カイコガには野生種はいない)鱗翅(チョウ)目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori の蚕(かいこ)の幼虫の大きさとしては明らかにおかしい。講談社学術文庫版では『蚕(かいこ)の体の長さが約二寸(すん)五分(ぶ)(約七・五センチメートル)』となっているので(括弧内は文庫版編者に拠る割注。正確には七センチ五十七・五七五七ミリメートル)。誤字と断じて、特異的に本文を訂した。調べてみると、

孵化した直後のカイコガの幼虫は二~三ミリメートル

で「蟻蚕(ぎさん)」とも呼び、これが

一齢幼虫として五ミリメートル強(約三日間)

となり、その後、

二齢で八ミリメートル~一センチメートル強

となって休眠し、脱皮(約三日間)

を行い、その後

三齢で一・四センチメートルから二・五センチメートル弱(約四日間)

となって

四齢で二・五センチメートル強から一気に四・五センチメートルを越え(約六日間)

て、最終齢の、

五齢では五・五センチメートルから一度八・五センチメートルをも越える(約八日間)

ものの、

熟蚕(じゅくさん:摂餌をしなくなり、少し小さくなる。糸を吐き始める直前の状態。約二日)になると七センチメートル弱

になる。七センチメートル越えするのは五齢幼虫の後期の僅か数日だけのことで、熟蚕は七センチメートル以下に縮んでしまうから丘先生の謂いは間違っていない。以上は「財団法人 大日本蚕糸会」の公式サイト「カイコからのおくりもの」のカイ育てよう」にある幼虫の各齢でのスケールを視認して測ったものである。

「人間の身長が平均一・六米位に止まる」ヒト(Homo sapiens Linnaeus, 1758)全体の現在の平均身長はで百六十五センチメートルほどで、はそれよりおよそ百五十三・四五センチメートル。]

 

 各種生物の寿命はほゞその種族の維持繼續に最も有利な長さに定まつてあるとすれば、これを更に延すことに努力する必要はない。隨つて壽命を延し得るとの學説を聞いてこれを歡迎することは大きな間違である。まだ壽命の終らぬ年齡の者が非業の死を遂げることは出來るだけ避ける工夫を廻らさねばならぬが、既に壽命を全うした者がその後なほ長く生きて居ることは種族のために損はあつても益はないから、決して願はしいことでない。種族發展の上からいへば、今日必要なことは、已に老いたる老人の命を更に長く延すことではなく、他種族との競爭場裡に立つて勝つ見込みのある有望な後繼者を造るにある。六十歳で已に老耄する人もあれば八十歳になつても矍鑠たる人もあるから、一概には論ぜられぬが、自然の壽命を超えれば身體も精神も著しく衰へるのが常であつて、到底一人前の働は出來ぬ。書畫などにも年齡の書いてあるのは子供か老人に限り、八歳童とか七十八翁などと記してあるが、三十歳・四十歳の人に年齡を書く者は決してない。即ち老人は子供と同じく年に似合はぬ所を誇る積りであらうが、これが已に老耄して居る證據である。人間は頗る大きな團體を造つて生活するから、その中に老耄者が多少混じて居ても、そのために不利益を蒙ることが明に見えぬが、他の動物では種族の生存上かゝることは決して許されぬ。されば一般に通じていへば種族の維持發展の上には、各個體がその死ぬべき適當の時期に必ず死ぬといふことが最も必要である。

[やぶちゃん注:この子どもと老人の年齢揮毫の観点、考えてみたこともなかったが、目から鱗!]

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命

 

     三 壽 命

 非業の死を免れたものはいつまで生きるかといふに、その期限は種類毎にそれぞれほゞ定まつて居る。これを壽命と名づける。即ち各種生物の生まれてから食つて産んで死ぬまでの年敷を指すのであるが、身體の大きなものは生長に手間がかかるから、身體の小さなものよりも自然壽命が長い。例へば象や鯨は鼠・「モルモット」に比べると遙に長命である。しかし壽命は必ずしも身體の大きさと比例するものではない。犬は二十年で老衰するが、犬よりも小さな鳥は百年以上も生きる。馬は三四十年で死ぬが、「ひき蛙」は五十年餘も生きて居る。しからば壽命なるものは何によつて定まるかといふに、如何なる動物でも、子二孫を遺す見込みの立たぬ前に死んではその種族が忽ち斷絶するは知れたこと故、必ず若干の子を産むに足るだけの壽命がなければならず、そして極めて多數の子を産めば、そのまゝ親が死んでも種族の繼續する見込みが確に立つが、稍々少數の子を産むものはこれを保護・養育して競爭場裡に安心して手放せるやうに仕上げてからでなければ親は死なれぬ。實際動物各種の壽命を調べて見ると、皆この説に定まつて居る。

[やぶちゃん注:「小さな鳥は百年以上」セキセイインコで七年、九官鳥で十五年、こちらの記載に動物学者によれば、鳥綱スズメ目スズメ亜目カラス科カラス属 Corvus のカラス類の寿命は十年から三十年であるが、人に飼育されていたカラス属クマルガラス Corvus dauuricusが六十年も生きていたという記録もあるとある(私がカラスを出したのは実は学術文庫版ではここは『烏(からす)』となっているからである。底本は確かに「鳥」(とり)であって「烏」ではないことを断わっておく)。また、オウムに至っては百年以上生きた例もあるとするから、丘先生の「百年以上」も強ち大袈裟とは言えない。因みに多くの個別動物の寿命を纏めたものはインターネット動物園「動物図鑑」の「動物の寿命」がよい。因みに、丘先生の挙げた生物は現在の推定知見では(複数のネット情報を比較勘案した)、

「象」は自然状態で五十から七十年(飼育下で五十~八十年)。

「鯨」は種によっては約二百十一年。短命の種でも百三十五年から百七十五年。

「鼠」大型種で約三年。二十日鼠で一年から一年半。

「モルモット」齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科テンジクネズミ科テンジクネズミ属モルモット Cavia porcellus は凡そ五から八年。

「犬」十二年から十五年。私の先代のアリスは十六年と一ヶ月生きた。

「馬」二十五から三十年で、四十年生きればとても長寿とされる。

「ひき蛙」自然環境下で条件さえ良ければ十五年以上、飼育下の両生綱無尾目カエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ヨーロッパヒキガエル Bufo bufoで最長三十六年の記録がある

とある(丘先生の「五十年餘」は自来也の類いの伝承物?)。但し、「ゾウの時間 ネズミの時間」で知られる私の敬愛する生物学者本川達雄氏(現在、東京工業大学理学部生物学教室教授)によれば、代謝(特に心拍の周期(心周期)。ヒトは凡そ一秒、ネズミは〇・二秒ネコは〇・三秒、ウマは二秒、ゾウは三秒)から各生物体の生体内の時間は体重の四分の一乗に比例し、例えば体重が二倍になると時間が一・二倍長くゆっくりとなる(例えば三〇グラムのハツカネズミと三トンのゾウでは体重が十万倍異なるから個体生体内時間のスケールは十八倍も異なることになり、ゾウはネズミに比べて時間が十八倍緩やかに経過するという比較になる。本川先生よれば(例えばこちらのインタビュー記事を参照されたい)哺乳類の場合、各種の動物の寿命を心周期で割ってみると、単純計算で十五億回打って心臓は停止するとされ、心周期に限った生物学的なヒト本来の寿命は二十六・三年だそうである。……あなたの二十六歳の時を思い出し給え。……その時何をしていたかを。それが君の本来の生物学的死の時であったのだ。私は最初に担任を持って修学旅行に引率した年だった…… 

 

 生物の壽命に就いては昔から種々の説が唱へられ、その中には隨分廣く俗間に知られて居るものがある。一例を擧げると、如何なる動物でもその壽命は生長に要する年月の五倍に定まつて居るといふ説があるが、これには少しも據り所はない。身體の大きくなることが止まり、生殖の器官が十分に成熟したときを通常生長の終つたときと見倣すが二三の最も普通な動物に就いてその壽命とこの期限とを比較して見たら、直にかゝる説の取るに足らぬことが知れる。例へば蠶は發育を始めてから約一箇月で生長し終つて卵を産むが、その後四箇月生きるかといふと僅に四日も生きては居ない。「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長するが、翅が生えて飛び出せば僅に數時間で悉く死んでしまうて、決して十年の壽命は保たぬ。アメリカの有名な「十七年蟬」の如きは、幼蟲は十七年もかかつて地中で生長し、成蟲となつて卵を産めば數日で死ぬが、これなどは五倍説に隨へば八十五歳まで生きねばならぬ筈である。また他の類から例を取つて見るに、鶴は二年で生長し終るが、その壽命は十年と限らず、よく百年以上も生きる。「からす」の如きも雛は數箇月で生長し終るが、壽命はやはり百年に達する。總じて鳥類は甚だ命の良いもので、生長期限の何十倍にも當るのが常である。また魚類の如きは卵を産むやうになつてから後も引き續いて身體が大きくなるから、生長の終をいつと定めることが出來ぬ。かやうな次第で種々の動物から實際の例を擧げて比べて見ると、生長に要する年散と壽命の年數との割合は種類によつてそれぞれ違ふもので、決して一定の率を以ていひ表し得べき性質のものでないことが明である。たゞいづれの場合にも種族繼續の見込みのほゞ確に附いた頃に親の命が終ることだけは例外のない規則のやうに見える。前の例に就いて見ても、蠶は各々の雌蛾が數百粒の卵を産んで置きさへすれば、後は捨てて置いても蠶の種族の絶える虞はないと見込んだ如くに、殆ど産卵が濟むと同時に壽命が盡きる。これに反して鳥類は概して運動が敏活であり、隨つて滋養分を多量に要するが、毎日食つた食物の中から自身を養ふべき滋養分を引き去つた、殘りの滋養分だけが溜つて卵を造る材料となるのであるから、餘程食物が潤澤になければ卵を多く産むことは出來ぬ。しかも鳥類の卵はすべての動物の中で最も滋養分を含んだ最も大きな卵でゐるから、これを數多く産むことは到底望まれぬ。雛の如く人に飼はれて常に豐富に餌を食ふものは一年に百以上も卵を産むが、野生の鳥類は食物の十分にあるときもあれば、食物の甚しく缺乏するときもあり、且競爭者もあること故、平均しては決して豐富とはいはれぬ。それ故鳥類が一年に産む卵の數は極めて少いのが通常であつて、十個も産めば頗る多産の方である。大きな鳥は大抵一年に一個もしくは二個の卵より産まぬ。その上鳥類の卵は頗る壞れ易いもので、雛が孵化する前に何かの怪我で破損する場合も決して少くはなからう。されば鳥類は餘程の長命でなければ種族維持の見込みが立たぬ。一年に卵を一つより産まねば、百年かかつても僅に百個産むに過ぎず、これを如何に大事に保護養育しても非業の死を遂げるものが相應にあるから、命は長くても決して必要以上に長いわけではない。他の動物に比べて鳥類の壽命が特に長いのは、恐らくかやうな事情が存するからであらう。

[やぶちゃん注:『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』蜉蝣(カゲロウ)については本テクストに限らず、今まで散々に注して来たが、以前のものにはどれもやや不満足な部分があるので、ここに決定版の注を記すこととする。「かげろふ(かげろう)」即ち、真正のカゲロウ類は、生物学的には、

昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera

に属する昆虫類のみの総称である。昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。本邦産の種群の代表例は以下。

トビイロカゲロウ科
Leptophlebiidae
(四属九種)

 トビイロカゲロウ属トビイロカゲロウParaleptophlebia spinosa

カワカゲロウ科
Potamanthidae
(一属二種)

 カワカゲロウ属キイロカワカゲロウ Potamanthus formosus

 カワカゲロウ属オオカワカゲロウ Potamanthus fuoshanensis

モンカゲロウ科
Ephemeridae
(一属四種)

 モンカゲロウ属モンカゲロウ Ephemera strigata

 モンカゲロウ属フタスジモンカゲロウEphemera japonica 

シロイロカゲロウ科
Polymitarcyidae
(一属三種)

 シロイロカゲロウ属オオシロカゲロウEphoron shigae 

ヒメシロカゲロウ科
Caenidae
(二属三種以上。最も分類が遅滞している科)

 ヒメシロカゲロウ属 Caenis

 ミツトゲヒメシロカゲロウ属 Brachycercus

マダラカゲロウ科
Ephemerellidae
(六属二十三種以上)

 アカマタラカゲロウ属アカマダラカゲロウ Uracanthella punctisetae

 トゲマダラカゲロウ属オオマダラカゲロウ Drunella basalis

 トウヨウマダラカゲロウ属クロマダラカゲロウCincticostella nigna 

ヒメフタオカゲロウ科
Ameletidae
(一属六種)

 ヒメフタオカゲロウ属ヒメフタオカゲロウ Ameletus montanus 

コカゲロウ科
Baetidae
(十一属三十九種以上)

 コカゲロウ属フタバカゲロウ Baetiella japonica

 コカゲロウ属シロハラコカゲロウ Baetiella thermicus 

ガガンボカゲロウ科
Dipteromimidae
(一属二種)

 ガガンボカゲロウ属ガガンボカゲロウDipteromimus tipuliformis

 ガガンボカゲロウ属キイロガガンボカゲロウ Dipterominus flavipterus

フタオカゲロウ科
Siphlonuridae
(一属四種)

 フタオカゲロウ属オオフタオカゲロウ Siphlonurus binotatus 

チラカゲロウ科Isonychiidae(一属三種)

 チラカゲロウ属チラカゲロウIsonychia japonica

ヒトリガカゲロウ科Oligoneuridae(一属一種)

 ヒトリガカゲロウ属ヒトリガカゲロウOligoneuriella rhenana

ヒラタカゲロウ科Ecdyonuridae(八属四十二種以上)

 ヒラタカゲロウ属ウエノヒラタカゲロウ Epeorus curvatulus

 ヒラタカゲロウ属ナミヒラタカゲロウEpeorus ikanonis

 ヒラタカゲロウ属エルモンヒラタカゲロウ Epeorus latifolium

 タニガワカゲロウ属クロタニガワカゲロウ Ecdyonurus tobiironis

 タニガワカゲロウ属シロタニガワカゲロウEcdyonurus yoshidae

 ヒメヒラタカゲロウ属サツキヒメヒラタカゲロウ Rhithrogena tetrapunctigera 

幼虫はすべて水生である。不完全変態であるが、幼虫亜成虫成虫という「半変態」と呼ばれる特殊な変態を行う。成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。主に参照したウィキの「カゲロウによれば(この記載は優れて博物学的である。但し、上記の種群は同ウィキには必ずしも従っていない)、目の学名エフェメロプテラはギリシャ語で「カゲロウ」を指す「ephemera」と、「翅」を指す「pteron」からなるが、この「ephemera」の原義は epi」(on)+「hemera」(day:その日一日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する(ギリシャ語で「ephemera」(エフェメラ)は、チラシやパンフレットのような一時的な筆記物及び印刷物で、長期的に使われたり保存されることを意図していないものを指す語としても用いられるが、これも、やはりその日だけの一時的なものであることによる)。和名の「カゲロウ」については、『空気が揺らめいてぼんやりと見える「陽炎(かぎろひ)」に由来するとも言われ、この昆虫の飛ぶ様子からとも、成虫の命のはかなさからとも言われるが、真の理由は定かでない。なお江戸時代以前の日本における「蜉蝣」は、現代ではトンボ類を指す「蜻蛉」と同義に使われたり、混同されたりしているため、古文献におけるカゲロウ、蜉蝣、蜻蛉などが実際に何を指しているのかは必ずしも明確でない場合も多い』。『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である。一方、平安時代に書かれた藤原道綱母の『蜻蛉日記』の題名は、「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という中の一文より採られているが、この場合の「蜻蛉」ははかなさの象徴であることから、カゲロウ目の昆虫を指しているように考えられる』。『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』とある。

 さてここからが肝心。

 この最後の『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』の部分を補注すると、

クサカゲロウは有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae

に属し、「クサカゲロウ」は「カゲロウ」と名にし負うものの、カゲロウ目とは極めて縁が遠いのである。附言しておくと、クサカゲロウの幼虫『は柔らかな腹部と、小さな頭部に細く鎌状に発達した大顎を持つ。足は三対の胸脚のみで、全体としてはアリジゴクをやや細長くしたような姿である。すべて肉食性で、アブラムシやハダニなどの小動物を捕食するためアリマキジゴクと呼ばれる。この食性から農業害虫の天敵としても利用されている。種によっては、幼虫は背面に鉤状の毛を持ち、そこに様々な植物片や捕食した昆虫の死骸などを引っ掛け、背負う行動を取る』。彼ら幼生は陸生で水中には棲まない因みに、クサカゲロウ類の卵は長い卵柄を持ったもので、一単体で産む種も多いが、中に卵柄を紙縒(こより)状に絡ませた卵塊状で産みつける種がおり、この卵を俗に「憂曇華・優曇華(うどんげ)」と呼ぶが、これは「法華経」に出る、三千年に一度如来の降臨とともに咲くとされる伝説上の花である。確かに妖しく美しい。以上はウィキの「クサカゲロウ」に拠った。短命な種もいるようだが、クサカゲロウの種の中には摂餌もし、成虫で越冬する種もいるので、凡そ短命の代表とは言えないと私は思う(下線やぶちゃん)。

 次に「ウスバカゲロウ」である。

ウスバカゲロウは脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae

に属し、「クサカゲロウ」と同様に「ウスバカゲロウ」とやはり「カゲロウ」と名にし負うものの、カゲロウ目とは極めて同じく縁が遠い。附言しておくと、ウスバカゲロウ類は、ウィキの「ウスバカゲロウ」によれば、所謂、『「アリジゴク」の成虫の名として有名であるが、本科全ての種の幼虫がアリジゴクを経ているわけではな』く、アリジゴク(蟻地獄)の幼生期を過ごす種は一部である。アリジゴクは『軒下等の風雨を避けられるさらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住み、迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として捕らえることで有名である。捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸い取る。この吐き戻し液は獲物に対して毒性を示し、しかも獲物は昆虫病原菌に感染したかのように黒変して致死する。その毒物質は、アリジゴクと共生関係にあるエンテロバクター・アエロゲネス』(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属ンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes)『などに由来する。生きているアリジゴクのそ嚢に多数の昆虫病原菌が共生しており、殺虫活性はフグ毒のテトロドトキシンの』百三十倍とされる(この事実を知る人はあまり多いとは思われないので特に注しておく)。『吸い取った後の抜け殻は、再び大あごを使ってすり鉢の外に放り投げる。アリジゴクは、後ろにしか進めないが、初齢幼虫の頃は前進して自ら餌を捉える。また、アリジゴクは肛門を閉ざして糞をせず、成虫になる羽化時に幼虫の間に溜まった糞をする。幼虫は蛹になるとき土中に丸い繭をつくる。羽化後は幼虫時と同様に肉食の食性を示す』。『かつてはウスバカゲロウ類の成虫は水だけを摂取して生きるという説が存在したが』、ウスバカゲロウ科オオウスバカゲロウ属オオウスバカゲロウ Heoclisis japonica)『など一部の種では肉食の食性が判明している』。『成虫も幼虫時と同じく、消化液の注入により体組織を分解する能力を備えている。ウスバカゲロウの成虫はカゲロウの成虫ほど短命ではなく、羽化後』二~三週間は生きるとある(以上、下線やぶちゃん)。

 即ち、

クサカゲロウもウスバカゲロウも真正の「カゲロウ」類に形状は似ているものの、全く異なった種である

ので注意されたい。何故わざわざこんな注を附すかといえば、かの私の偏愛する、鋭い観察力に富んだ優れた作家梶井基次郎でさえも、この生物学上の致命的な誤りを犯しているから、である。かの名作「櫻の樹の下には」の中で(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

 二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を傳ひ步きしてゐた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげらふがアフロデイツトのやうに生れて來て、溪の空をめがけて舞ひ上がつてゆくのが見えた。お前も知つてゐるとほり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。暫く步いてゐると、俺は變なものに出喰はした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を殘してゐる、その水のなかだつた。思ひがけない石油を流したやうな光彩が、一面に浮いてゐるのだ。お前はそれを何だつたと思ふ。それは何萬匹とも數の知れない、薄羽かげらふの屍體だつたのだ。隙間なく水の面を被つてゐる、彼等のかさなりあつた翅が、光にちぢれて油のやうな光彩を流してゐるのだ。そこが、產卵を終つた彼等の墓場だつたのだ。

 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるやうな氣がした。墓場を發いて屍體を嗜む變質者のやうな慘忍なよろこびを俺は味はつた。

   *

と記すが、これも実は『薄羽かげらふ』(ウスバカゲロウ)は誤りで真の「カゲロウ」類であることが、梶井の描写そのものによってお分かり戴けるものと思う

「十七年蟬」「周期蟬(しゅうきぜみ)」と呼ばれる半翅(カメムシ)目セミ科 Magicicada 属に属する以下の三種を「ジュウシチネンゼミ(十七年蟬)」と総称する。

ヒメジュウシチネンゼミ Magicicada cassini

ジュウシチネンゼミ Magicicada septendecim

コジュウシチネンゼミ Magicicada septendecula

因みに、「ジュウサンネンゼミ(十三年蟬)」は以下の四種(和名は確認出来なかった)。

Magicicada neotredecim

Magicicada tredecim

Magicicada tredecassini

Magicicada tredecula

因みに、属名の「マジックシカダ」とは「魔法の蟬」の意。ウィキの「周期ゼミ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、毎世代、『正確に十七年または十三年で成虫になり大量発生するセミである。その間の年にはその地方では全く発生しない。ほぼ毎年どこかでは発生しているものの、全米のどこでも周期ゼミが発生しない年もある。周期年数が素数であることから素数ゼミともいう』。『十七年周期の十七年ゼミが三種、十三年周期の十三年ゼミが四種いる。なお、十七年ゼミと十三年ゼミが共に生息する地方はほとんどない』。『北アメリカ東部。セミの仲間は世界中に分布しているが、この周期ゼミという現象が確認できるのは、世界の中でも北アメリカのみである』。『十七年ゼミは北部、十三年ゼミは南部に生息する』。『なお、北アメリカには周期ゼミしかいないわけではなく、周期ゼミ以外のセミも百種以上生息する』。『周期ゼミは、発生する年により年次集団に分けられる。理論上、十七年ゼミには十七、十三年ゼミには十三、計三十の年次集団が存在しうる。十七年ゼミの年次集団にはI - XVII1 - 17)、十三年ゼミの年次集団にはXVIII - XXX18 - 30)の通し番号が付いている』。『ただし、実際にある年次は三十の半数の十五である。したがって、全米のどこでも周期ゼミが発生しない年もある』。『年次集団は種によってはほとんど分かれていない。年次集団XVII M. septendecim のみからなる以外は、年次集団は複数の種からなり、多くは同じ周期の全ての種からなる』。なお、『これらは全米での話で、各々の地方には一つの年次集団しか生息していない。つまり、ある地方での周期ゼミの発生は十七年に一度または十三年に一度である』。『周期的発生および素数年発生の適応的意義を最初に指摘したのはロイドとダイバス(Lloyd and Dybas,1966,1974)である。彼らは素数年での同時発生は、捕食者が同期して発生する可能性を抑えられるためではないかと指摘した。十三年と十七年の最小公倍数は二百二十一年であり、同時発生は例えば四年と八年に比べて頻度が小さくなる。それぞれの大量発生についてはいわゆる希釈効果で説明できる。まとまって発生することで個体が捕食される可能性を低下させることができる。かつては種の保存のためと説明されたが、現在では個体の生存に有利であるためと考えるのが一般的である』。『それとは別に、吉村仁は氷河期と成長速度を関連付けて説明した。他の周期をもつ種と交雑するとその周期が乱れるため、同じ周期を維持できなくなる。したがって交雑種は大量発生年からずれて発生するようになり、希釈効果を受けられなくなるか、配偶相手を見つけにくくなる(ウォレス効果あるいは正の頻度依存選択による分断性選択)。そのため、もっとも他の周期と重なりにくい素数周期のセミが生き残った、と主張している』。イロコイ連邦(Iroquois Confederacy或いは Haudenosaunee(ロングハウスを建てる人々の意)とも称し、北アメリカ・ニューヨーク州北部のオンタリオ湖南岸とカナダに跨って保留地(居留地)を領有する六つのインディアン部族により構成される部族国家集団。アメリカの独立戦争に際しては英国側に与して戦ったが一七七九年に破れて、一七九四年にアメリカ合衆国連邦政府と平和友好条約を結んだ。アメリカ合衆国国務省のパスポートを認めず、鷲の羽根を使った独自のパスポートを発行、同パスポートの使用はいくつかの国家により認められている。日本国政府は二〇〇五年に宗教史協会の集まりでイロコイ連邦代表団が来日した際に、このパスポートを承認している。国連も認める独立自治領であり、独立した国家として、連邦捜査局(FBI)などアメリカ合衆国連邦政府の捜査権も及ばない、とウィキの「イロコイ連邦にはある)の『インディアン部族のひとつ、「オノンダーガ族」は「十七年ゼミ」を伝統食としている。朝早く、まだ地上に出てきたばかりで空腹状態のこのセミを紙袋に集め、フライパンでバター炒めにする。蓋をして炒ると、ポップコーンのように弾けるので、これを皿に盛って食べる』とある。

「鶴は二年で生長し終るが、その壽命は十年と限らず、よく百年以上も生きる」ウィキの「ツルによれば、実際の寿命は動物園での飼育の場合であっても五十年からせいぜい八十年程度で、野生では三十年位と推定されているとある。この記載、丘先生、ちょっと非生物学的でごぜえやす。

『「からす」の如きも雛は數箇月で生長し終るが、壽命はやはり百年に達する』ここを読むと、前の百年以上『鳥』が生きるとした箇所は、学術文庫版通り、やっぱり『烏』なのかなぁ?] 

 

 要するに動物の壽命は種族繼續の見込みのほゞ立つた頃を限りとしたもので、そのためには若干數の子を産み終るまで生きねばならぬことはいふまでもない。そして子の總數を一度に産んでしまふ種類もあれば、何度にも分けて産む種類もあり、分けて産むものでは最後の子を産むまで壽命は續かねばならぬ。また子を産み放しにする動物では、最後の子を産み終ると同時に親の壽命が終つても差支はないが、子を保護し養育する種類では、最後の子を産んだ後になほこれを保護養育する間壽命が延びる必要がある。即ち最後の子を産んだ後親の壽命は、丁度子が親の保護養育を受ける必要のある長さと相均しかるべき筈である。以上述べた所は無論大體に就いての理窟で、一個一個の場合にはこの通りになつて居ないこともあらうが、多敷を平均して考へるといづれの種類にもよく當て嵌つて決して例外はない。人間の如きも「人生七十古來稀なり」というて、まづ七十歳乃至七十五歳位が壽命の際限であるが、これは二十五年かかつて生長し、五十歳まで生長し、五十歳まで生殖し續けるものとすると、最後の子が徴兵檢査を受けるか大學を卒業する頃に親の壽命が盡きる勘定で、こゝに述べた所と全く一致する。人間の壽命も他の動物の壽命と同じく、一定の理法に隨つて、何千萬年の昔から今日までの間に自然に種族維持に最も有利な邊に定まつたのと考へると、特殊の藥品や健康法を工夫してこれを延長せんと努力することは、賢い業か否か大に疑はざるを得ない。

[やぶちゃん注:「人生七十古來稀なり」杜甫の七言律詩「曲江」より。七五八年、安禄山の乱が平定されたこの頃、杜甫は長安で左拾遺(さしゅうい)の官に就いていたが、敗戦の責任を問われた宰相房琯(ぼうかん)の弁護をして粛宗の怒りに触れ、曲江に通っては酒に憂さをはらしていた四十七歳の頃の作。

   *

   曲江

 朝囘日日典春衣

 每日江頭盡醉歸

 酒債尋常行處有

 人生七十古來稀

 穿花蛺蝶深深見

 點水蜻蜓款款飛

 傳語風光共流轉

 暫時相賞莫相違

  朝(てう)より回(かへ)りて 日日春衣(しゆんい)を典(てん)し

  每日 江頭(かうとう)に酔(ゑ)ひを盡くして歸る

  酒債(しゆさい)は尋常 行く処に有り

  人生七十 古來稀なり

  花を穿(うが)つ蛺蝶(けふてふ)は深深(しんしん)として見え

  水に點ずる蜻蜓(せいてい)は款款(くわんくわん)として飛ぶ

  傳語(でんご)す 風光 共に流轉して

  暫時相ひ賞して 相ひ違(たが)ふこと莫(なか)れと

   *

以下、「・」で詩の簡単な語注を附す。

・「曲江」漢の武帝が長安城の東南隅に作った池。水流が「之(し)」の字形に曲折していたため、かく名づけられた。当時は長安最大の行楽地であった(埋め立てられて現存しない)。

・「朝囘」朝廷から帰参する。

・「典」質に入れる。

・「酒債」酒代の借金。

・「蛺蝶」揚羽蝶(アゲハチョウ)。又は蝶の仲間の総称。

・「蜻蜓」蜻蛉。トンボ。

・「款款」緩緩に同じい。ゆるやかなさま。

・「穿花」花の間を縫うように飛ぶ。一説に、蝶が蜜を吸うために花の中に入り込むことともいう。

・「點水」水面に尾をつける。トンボが産卵のために水面に尾をちょんちょんとつけるさま。

・「傳語」言伝(ことづ)てする。

「徴兵檢査を受ける」敗戦前の日本帝国に於いて、満二十歳(昭和一八(一九四三)年からは満十九歳)になった男子は徴兵令(明治二二(一八八九)年一月二十二日法律第一号.国民の兵役義務を定めた日本の法令。明治六(一八七三)年に陸軍省から発布された後に太政官布告によって何度か改定が繰り返されたが、この明治二十二年に法律として全部改正、その後の昭和二(一九二七)年の全改正の際に法令標題も「兵役法」に変更された。敗戦後の昭和二〇(一九四五)年に廃止)によって徴兵検査を受ける義務があった。以下、ウィキの「兵(日本軍)によれば、当時の徴兵検査は海軍で徴兵する者も陸軍が一括して行っていた。海軍で徴兵する者を除いた者が下記の区分に従って徴兵された。徴兵検査は四月十六日から七月三日にかけて全国的に行われ、『検査を受ける者は、褌ひとつになって身体計測や内科検診を受けた。軍隊の嫌う疾病は、伝染性の結核と性病(集団生活に不都合。性病が発見されると成績が大きく下がり、その連隊にいる限りまず絶対に一等兵以上に進級しなかった』)『で、また軍務に支障ありとされる身体不具合は、偏平足・心臓疾患(長距離行軍が不能のため)・近視乱視(射撃不能のため・諸動作・乗馬に不都合)であった。X線検査などはなく、単に軍医の問診・聴診・触診や動作をさせての観察など簡単な方法にて診断が行われた。また褌をはずさせて軍医が性器を強く握り性病罹患を確かめる、いわゆるM検、さらに後ろ向きに手をつかせ、肛門を視認する痔疾検査も検査項目として規定され、全員に実施された。航空機搭乗者・聴音などの特殊兵種の少年志願兵の検査には、より入念な方法が実施された』。『検査が終わると、次の』五種に『分類された』。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部を太字化し、半角空隙を全角に変更した。]

甲種 身体が特に頑健であり、体格が標準的な者。現役として(下記の兵役期間を参照)入隊検査後に即時入営した。甲種合格者の人数が多いときは、抽選により入営者を選んだ。

乙種 身体が普通に健康である者。補充兵役(第一または第二)に(同)組み込まれ、甲種合格の人員が不足した場合に、志願または抽選により現役として入営した。

丙種 体格、健康状態ともに劣る者。国民兵役に(同)編入。入隊検査後に一旦は帰宅できる。

丁種 現在でいう身体障害者。兵役に適さないとして、兵役は免除された。

戊種 病気療養者や病み上がりなどの理由で兵役に適しているか判断の難しい者。翌年再検査を行った。

   《引用終了》

「大學を卒業する頃」旧学制では問題なく進級しても、満二十三から二十五歳であったが、実際には中学や大学での落第による留年、自主的に留年や結核などの病気療養のために休学をする者も多く、その他の理由(兵役忌避など)も合わせ、戦前は二十六、七歳での卒業者もざらにいた(例えば夏目漱石の東京帝国大学卒業は満二十六である)。]

2016/02/27

本日休業

本日は雛祭にて妻のお友達のおなご衆のぎょうさん来はるによって店仕舞い致します――心朽窩主人

2016/02/26

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(3) 二 非業の死

      二 非業の死

 

 非業の死といふ文字は新聞紙などで屢々見掛けるが、これは何か不意の出來事のために命を取られることで、人間の社會では寧ろ數の少い例外の如くに見倣されて居る。即ち人間は慢性の病氣にでも罹つて死ぬのが自然の死にやうで、強盜に殺されるとか、汽車に轢かれるとかいふのは。もしその事がなかつたならば、なほ生存し續け得や筈の所を自然に反して無理に命を奪はれたのでゐるから、これを非業と名づけるのであらう。尤も非業といふ中にも種々の程度があつて、死にやうが劇烈でない場合は、事實非業であつても通常これを非業とは名づけぬ。例へば何か事業に失敗して心痛の餘り病氣となり、入院して死んだとすればこれまた非業の死といふべき筈であるが、この位では世人は非業の死とは見倣してくれぬ。もしかやうな場合までを非業の方へ算へ込めば、人間の非業の死の數は餘程殖えるが、それでもまた決して大多數とはならぬ。しかし他の動物では如何と見ると、これはまるで趣が違ふ。

 

 前に幾度も遠べた通り、多くの動物は無數の卵を産み放すが、これから孵つた兒は殆ど悉く非業の死を遂げる。魚類は數十萬の卵を産み、「うに」・「なまこ」・「ごかい」・「はまぐり」などは數百萬の卵を産むが、大概は發生の途中に命を失つて、生長し終るまで生存し得るものは極めて少數に過ぎぬ。産む子は多くてもこを常食とする敵動物が待ち構へて居るから、多數はその餌となつてしまふ。その他風雨のために吹き流されて死ぬものもあり、怒濤のために岩に打ち附けられ濱に打ち上げられて死ぬものもあり、旱魃のために干枯らびて死ぬものもあれば、洪水のために溺れて死ぬものもあらう。また同僚との競爭に敗けて餌を求め得ずして餓ゑて死ぬものや、仲間同志の共食ひで食ひ殺されるものもあらう。とにかく何らかの方法で發生の中途に命を失ふものが非常に多數を占め、生長し終るまで生き殘るのは平均十萬疋中の二疋、百萬疋中の二疋に過ぎぬ。即ち十萬疋の中の九萬九千九百九十八疋、百萬疋の中の九十九萬九千九百九十八疋は悉く非業の死を遂げるのである。

 

 子を産み放しにする動物では、かくの如く非業の死を遂げるものの數が極めて多いが、子を世話する種類では保護養育の程度の進むと共に、非業の死を遂げる子供の割合が次第に減ずる。同じ魚類でも巣を造つて卵を保護する「とげうを」や、雄の腹の嚢に卵を入。れる「たつのおとしご」では、非業の死を遂げるものの數は餘程少くなくり、蛙の中でも背に子を負ふ種類、背の囊に卵を入れる種類では、非業の死を遂げるものは更に少い。これらの動物は皆子を産む數が少いから、もしも普通の魚類や「ごかい」・「はまぐり」などに於けると同じ割合日に、多數の子が死んだならば忽ち種族が斷絶する虞がある。人間は最も少く子を産み、最も長くこれを保護養育するもの故、發達の途中に命を失ふものの數は他の動物に比すると遙に少く、且その中特に悲慘な死にやうをしたものでなければ非業と名づけぬから、それで非業の死が稀な例外の如くに見えるである。

 

 動物に非業の死の多いことは何を見ても直に知れる。魚市場や肴屋・料理屋の店にある魚類は悉く非業の死を遂げたもので、これらの魚類の胃を切り開いて見ると、また非業の死を遂げた小さな魚や蟲や貝類などが充滿してゐる。そしてこの小さい魚や蟲の腹の中には更に小さな幼蟲や卵などが一杯にあるが、これまた非業の死を建げたものである。およそ肉食する動物がある以上は、その餌となる動物は日々非業の死を建げるを免れることは出來ぬ。また田圃で害蟲を騏除すれば敷千萬の蟲が非業の死を遂げ、養蠶を終れば何百萬の蛹が非業の死を遂げる。その他自然界に於ける非業の死の例を算へ擧げたら際限はない。されば、非業の死なるものは、人間社會に於てこそ稍々稀な場合である如き感じがあるが、廣く自然界を見渡せば非業の死は殆ど常の規則であつて、その中極めて少數のものが半ば僥倖によつて生長を終り子を殘し得るのである。

[やぶちゃん注:一言言っておく。捕鯨に反対する連中は皆、完全菜食主義であって、しかも無論、高級な絹製装身具なんざ、着ちゃいないんだよね?

「僥倖」老婆心乍ら、「げうかう(ぎょうこう)」と読み、思いがけぬ幸運のことを言う。]

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(2) 一 死とは何か

      一 死とは何か

 

 抑々死とは何ぞやと尋ねると、これに對して正確に答へることは到底出來ぬ。一寸考へると、死とは生の反對で死ぬとは生の止むことであるから、至極明瞭でその間に何の疑も起りさうにないが、已に本書の初に短く述べて置いた通り、生なるものの定義が容易に定められぬ。それ故生を知らず爰んぞ死を知らんやといふやうなわけで、死に就いてもすべての場合に常て嵌り、且つの除外例をも許さぬ正確な定義はなかなか見出されぬ。しかしながら正確な定義の定められぬことは、たゞ生と死とに限るわけではなく、自然界の事物には寧ろこれが通則である。例へば獸類は胎生するといへば、「かものはし」の如き卵生する例外があり、獸類の體は毛で蔽はれるといへば、象や鯨の如き毛のない例外がある。しかもこれらを含むやうな定義を造れば、獸類は胎生もしくは卵生體は毛で蔽はれまたは蔽はれずといはねばならず、かくては定義として何の役にも立たぬ。それよりは獸類は胎生で體は毛で蔽はれるとして置いて、「かものはし」や鯨は例外としてやはりその中ヘ入れる方が遙に便利であり。かやうな考から本書に於ては生の定義などには構はず、たゞ生物は食つて産んで死ぬものといふだけに止めて置いたが、死に就いてもこれと同樣に、まづ動物には如何なる死にやうをするものがあるかを述べて、死とはおよそ如何なるものかを概論するに止める。

[やぶちゃん注:「第一章 生物の生涯 一 食うて産んで死ぬ」を参照のこと。]

Wamusi

[輪蟲 (右)乾いたもの (左)生きて動くもの]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 まづ人間などに就いて見ても、死と生との區別の判然せぬ場合があり、死んだと思つて棺に入れ、今から葬式を始めようといふときにその人が蘇生したので、皆々、大に驚いたといふやうな記事を新聞紙上に見ことが往々ある。人間は死ねば呼吸が止まり脈が絶え、温かつた身體が冷くなるが、これだけを見て直に死んだものと定めてしまふと右のやうな間違も起る。淡水に産す「輪蟲」や「熊蟲」などは、乾せば體が收縮して全く乾物となり、少しも生きて居る樣子は見えず、そのまゝ何年も貯藏して置けるが、これに水を加へると忽ち水を吸收して膨れ、舊の大きさに反つて平氣で活潑に匍ひ出す。即ち死んだやうに見えても必ずしも眞に死んだとは限らず、いつまで置いても生き返らぬことが確になつて初めて眞に死んだといへるのでゐる。また全身としては確に死んでも、その組織の生きて居ることは常である。例へば頸を切られた罪人は最旱生き返る氣遣ひはないから、確に死んだに違ないが、その神經を刺戟すれば盛に筋肉が收縮する。心臟の如きは別に刺戟を與へずとら、暫くは生きて居る通りに搏動を續ける。蛙などで實驗して見るに、取り出した心臟の血管の根本を縊つて稀い鹽水の中に入れて置くと、十日以上も絶えず收縮して居る。これに反して全身は健全に生きて居ても、一部分づつの組織は絶えず死んで捨てられて居る。血液中の赤血球や粘膜の表面の細胞の如きは、特に壽命が短くて新陳代謝が始終行はれて居る。かくの如く一部分づつの組織や細胞が死んでも通常これを死と名づけず、組織や細胞がなほ生きて居ても、全體として蘇生の望がなければこれを死と名づけるのであるから、世人の通常死と呼ぶのは一般に生きた個體としての存在の止むことである。

[やぶちゃん注:「輪蟲」やはり冒頭の「第一章 生物の生涯 二 食はぬ生物」に既出既注。

「熊蟲」脱皮動物上門緩歩動物門Tardigrada に属する生物の通称。緩歩動物門はさらに異クマムシ綱 Heterotardigrada・中クマムシ綱 Mesotardigrada・真クマムシ綱 Eutardigrada に分かれ、ここでお馴染みの「クマムシ」の名が出る。ウィキの「緩歩動物」によれば、四対八脚の『ずんぐりとした脚でゆっくり歩く姿から緩歩動物、また形がクマに似ていることからクマムシ(英名はwater bears)と呼ばれている。また、以下に述べるように非常に強い耐久性を持つことからチョウメイムシ(長命虫)と言われたこともある』。体長は五〇マイクロメートルから一・七ミリメートルとごく小さいために馴染みがないが、『熱帯から極地方、超深海底から高山、温泉の中まで、海洋・陸水・陸上のほとんどありとあらゆる環境に生息する。堆積物中の有機物に富む液体や、動物や植物の体液(細胞液)を吸入して食物としている』。凡そ千種以上(内、海産は百七十種余)が知られる(以下、(アラビア数字を漢数字に代えた)。『体節制は不明確。基本的には頭部一環節と胴体四環節からなり、キチン質の厚いクチクラで覆われている。真クマムシ目のものは外面がほぼなめらかだが、異クマムシ目のものは装甲板や棘、毛などを持ち、変化に富んだ外見をしている』。『胴体部の各節から出る四対の脚を持つ。歩脚は丸く突き出て関節がなく、先端には基本的に』四本から十本ほどの『爪、または粘着性の円盤状組織が備わっている』。『頭部に眼点を持つものがあるが、持たないものもある。口の近くに口縁乳頭などの小突起を持つ例もあるが、外部に出た触角や口器などはない』。『体腔は生殖腺のまわりに限られる。口から胃、直腸からなる消化器系を持つ。排出物は顆粒状に蓄積され、脱皮の際にクチクラと一緒に捨てられる』。『呼吸器系、循環器系はない。酸素、二酸化炭素の交換は、透過性のクチクラを通じて体表から直接行う。神経系ははしご状。通常、一対の眼点と、脳、二本の縦走神経によって結合された五個の腹側神経節を持つ』。『多くの種では雌雄異体だが、圧倒的に雌が多い。雌雄同体や単為発生も知られる。腸の背側に不対の卵巣又は精巣がある。産卵は単に産み落とす例もあるが、脱皮の際に脱皮殻の中に産み落とす例が知られ、脱皮殻内受精と呼ばれる』。『幼生期はなく、直接発生して脱皮を繰り返して成長する。その際、体細胞の数が増加せず、個々の細胞の大きさが増すことで成長することが知られる』。『陸上性の種の多くは蘚苔類などの隙間におり、半ば水中的な環境で生活している。樹上や枝先のコケなどにも棲んでいる。これらの乾燥しやすい環境のものは、乾燥時には後述のクリプトビオシス』(cryptobiosis:「隠された生命活動」の意)『の状態で耐え、水分が得られたときのみ生活していると考えられる』。『水中では水草や藻類の表面を這い回って生活するものがおり、海産の種では間隙性の種も知られる。遊泳力はない』。クリプトビオシスとは無代謝の休眠状態を指し、『緩歩動物はクリプトビオシスによって環境に対する絶大な抵抗力を持つ。周囲が乾燥してくると体を縮める。これを「樽」と呼び、代謝をほぼ止めて乾眠(かんみん)と呼ばれるクリプトビオシスの状態の一種に入る。樽(tun)と呼ばれる乾眠個体は、下記のような過酷な条件にさらされた後も、水を与えれば再び動き回ることができる。ただしこれは乾眠できる種が乾眠している時に限ることであって、全てのクマムシ類が常にこうした能力を持つわけではない。さらに動き回ることができるというだけであって、その後通常の生活に戻れるかどうかは考慮されていないことに注意が必要である』。『また、単細胞生物では芽胞を作ることにより、さらに過酷な環境に耐えることが知られており、クマムシの耐性強度が大きいというのは、あくまで他の一般的な多細胞生物と比べた場合である』。『乾眠状態には瞬間的になれるわけではなく、ゆっくりと乾燥させなければあっけなく死んでしまう。乾眠状態になるために必要な時間はクマムシの種類によって異なる。乾燥状態になると、体内のグルコースをトレハロースに作り変えて極限状態に備える。水分がトレハロースに置き換わっていくと、体液のマクロな粘度は大きくなるがミクロな流動性は失われず、生物の体組織を構成する炭水化合物が構造を破壊されること無く組織の縮退を行い、細胞内の結合水だけを残して水和水や遊離水が全て取り除かれると酸素の代謝も止まり、完全な休眠状態になる。ただし、クマムシではトレハロースの蓄積があまり見られないため、この物質の乾眠への寄与はあまり大きくないと考えられている』。現行データでは、「乾燥」に対しては、通常は体重の八五%をしめる水分を三%以下まで減らして極度の乾燥状態にも耐え得る。「温度」に対しては、摂氏百五十一度の高温から、〇・〇〇七五ケルビンというほぼ絶対零度の極低温まで耐え得る。「圧力」に対しては、真空から七万五千気圧の高圧まで耐え得、「放射線 」についても高線量の紫外線・エックス線及びガンマ線等の放射線に対して耐え得る。エックス線の半致死線量は実に五十七万レントゲンの高値である(ヒトの致死線量は五百レントゲン)。長く『この現象が、「一旦死んだものが蘇生している」のか、それとも「死んでいるように見える」だけなのかについて、長い論争があった』が、先に示したように現在ではこのような状態を「クリプトビオシス(隠された生命活動)と呼称する『ようになり、「死んでいるように見える」だけであることが分かっている』(「クリプトビオシス」は生物体が、

乾燥によって水分が奪われた場合に起こる「アンハイドロビオシス」(anhydrobiosis:乾眠)

高浸透圧の外液によって水分が奪われて起こる「オスモビオシス」(Osmobiosis:塩眠)

氷結した際に起こる「クリオビオシス」(Cryobiosis;凍眠)

外界の酸素濃度が代謝を維持するのに必要なレベル以下に下がった際に起こる「アノキシビオシス」(Anoxybiosis:窒息仮死)

の四種の現象に分類される)。他にも前掲の 

 扁形動物上門輪形動物門 Rotifera のワムシ類

 線形動物門 Nematoda の線虫類の一部

 「シーモンキー」の通称でお馴染みの甲殻亜門鰓脚綱サルソストラカ亜綱無甲(ホウネンエビ)目ホウネンエビモドキ科アルテミア属 Artemia アルテミア類

 双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科ユスリカ亜科 Polypedilum 属ネムリユスリカ Polypedilum vanderplanki

などが『クリプトビオシスを示すことが知られている』。『なお、クマムシはこの状態で長期間生存することができるとする記述がある。例えば、「博物館の苔の標本の中にいたクマムシの乾眠個体が、百二十年後に水を与えられて蘇生したという記録もある」など、教科書や専門書でもそのように書いているものもある。ただし、この現象は実験的に実証されているわけではなく、学術論文にも相当するものはない。類似の記録で、百二十年を経た標本にて十二日後(これは異常に長い)に一匹だけ肢が震えるように伸び縮みしたことを観察されたものはあるものの、サンプルがこの後に完全に生き返ったのかどうかの情報はない。通常の条件で樽の状態から蘇生して動き回った記録としては、現在のところ十年を超えるものはない。また、蘇生の可否は樽の保存条件に依存し、冷凍したり無酸素状態にしたりすると保存期間が延びることがわかっている』。『また、宇宙空間に直接さらされても十日間生存できることが実験で確かめられ、動物では初めての発見となった。太陽光を遮り宇宙線と真空にさらしたクマムシは地球上で蘇生し、生殖能力も失われていなかった。太陽光を直接受けたクマムシも一部は蘇生したが、遮った場合と比べ生存率は低かった』とある(下線やぶちゃん。この報道に接した際にはわくわくしたのを覚えている)。

「縊つて」「くくつて(くくって)」と訓じていよう。

「稀い」「うすい」。]

Hoyanobguntai

[「ほや」の群體]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

Himomusiyoutyuu



Himomusiyoutyuugakujyutubunkohan

[紐蟲の幼蟲]

[やぶちゃん注:以上の図の前のものは底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。その後のものは講談社学術文庫版の挿絵で、明らかに異なるので別に掲げた。]

 

 獸類・鳥類など人の常に見慣れて居る高等動物は人間と同じやうな死に方をするが、稍々下等の動物にはさまざまに變つた死にやうのものがある。例へば「ほや」の或る種類ではときどき身體の上半だけが死んで頽れ去り、下半はそのまゝ殘り、芽生によつて新に上半身が出來ると、それが古い下半身と連絡して一疋の完全な身體が出來上る。また海産の苔蟲類では、各個體が老いて勢が弱くなると終に死んで組織が變質し、茶色の丸い脂肪の球となつてしまふが、僅に生き殘つた組織が基となつて後に新な個體が生ずる。そしてその際前の脂肪の球は芽の内に包み込まれ、滋養分として利用せられる具合は、死んだ親の肉を罐詰にして置いて子がこれを食つて生長するのに比較することが出來よう。群棲する「ほや」類の中には、ときどき群體内の個體が皆死に絶えて一疋もなくなり、たゝいづれの個體にも屬せぬ共同の部分だけ殘るものがあるが、暫く經つとこの部の表面から新に一揃の個體が生ずる。これなどは各個體は毎囘死ぬが、その個體から成る群體は始終生き續けて居る。また前に述べた植物に寄生する小蠅や蛙の肺に寄生する蛔蟲の類では、子が生まれる前に母親の身體を内から食ひ盡すから、母親は死んでも蟬の拔殼よりも遙に薄い皮の囊が殘るだけで、眞の死骸といふべきものは何もない。これに反して「うに」や「ひとで」などの發生中には、死なずして死骸が出來る。これは一寸聞くと全く不可能のことのやうであるが、「うに」や「ひとで」の類では卵が發育しても直に親と同じ形になるのではなく、最初暫くは親と全く形の異なつた幼蟲となつて海面を浮游し、その幼蟲の身體の一部分から「うに」や「ひとで」の形が出來て、殘り全體は萎びて捨てられるか吸收せられるかするから個體としては生存し續けながら、大きな死骸が一時そこに生ずることになる。淺い海の底に棲む「紐蟲」といふ細長い柔い蟲の發生中にもこれと同樣なことがある。即ち海の表面に浮いて居る幼蟲の體の一部に小さな成蟲の形が出來始まり、これが幼蟲の體から離れて成蟲となるが、その際幼蟲の殘りの身體は不用となつて捨てられる。「おたまじやくし」が蛙となるときには全身の形が變るが「うに」「ひとで」「紐蟲」などの變態するときには幼蟲の體の一部分だけが生存して成蟲となり、殘りは死骸となるのであるから、考へやうによつては、幼蟲が芽生によつて成蟲を生ずると見倣せぬこともなからう。さればこれらの動物は變態と世代交番との中間に位する例といふことが出來る。

[やぶちゃん注:『「ほや」の或る種類』後で群体ボヤを示していることから、これは単体ボヤの一種のように読めてしまうが、実際には単体ボヤは有性生殖で、出芽のような単為生殖能力を持たないのでそれは誤読である。これも群体ボヤの一種と断定出来るが、しかし、どうもこの丘先生の叙述は、少なくとも一見、単体ボヤのように見える「或る種」のホヤでは「ときどき身體の上半だけが死んで頽れ去り、下半はそのまゝ殘り、芽生によつて新に上半身が出來ると、それが古い下半身と連絡して一疋の完全な身體が出來上る」ことがあると述べておられるように感じてならない。そこで調べてみると、新稲一仁氏のホヤの学術サイト内の「採集と飼育」の二の「種による飼育の難易度他」の記載の中に、『ツツボヤ属のホヤは一見単体ボヤに見えるが、それぞれの個虫が芽茎で連絡しているので扱いには注意した方が良く、死滅後も芽茎が残っていれば再び出芽して(芽茎出芽=無性生殖の一)息を吹き返す場合もある』とあった。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[]」(保育社)の記載によれば、脊索動物門尾索動物亜ホヤ綱マメボヤ目マンジュウボヤ亜目ヘンゲボヤ(ポリキトリ)科ツツボヤ属 Clavelina に属するツツボヤ類で、同属には(以下は日本海洋データセンター(JODC)の分類データを利用)、

 コバルトツツボヤ Clavelina coerulea  Oka, 1934

 ワモンツツボヤ Clavelina cyclus Tokioka & Nishikawa, 1975

 クロスジツツボヤ Clavelina obesa Nishikawa & Tokioka, 1976

 フサツツボヤ Clavelina elegans  (Oka, 1927)

などが含まれることが判った。この正式表示の学名をよく御覧戴きたい。二種の命名者に丘先生がおられる。されば、この特異なホヤ(群体ホヤのくせに単体ボヤのように見える)で変わった蘇生現象を起こすことがある種はこのコバルトツツボヤ或いはフサツツボヤなのではあるまいか? 専門家の御教授を乞うものである。

「苔蟲類」触手動物(外肛動物)門 Bryozoa に属するコメムシ類。既注。丘先生の専門分野。但し、私の所持する複数の海産無脊椎動物関連の専門書には、苔虫全般に見られる老成(一般的に)個虫が退化してその外殻の虫室のみが残り、群体を支持する構造物化する空個虫(kenozooid)の記載はしきりに出るが、ここにあるように老個虫由来の「脂肪の球」が出芽した若い無性出芽した個虫「芽の内に包み込まれ、滋養分として利用せられる」という現象を叙述したものには遂に出逢わなかった。因みに、「老」とか「若い」と言ったかが、彼らは全部が同じ遺伝子型を持つ完全なクローン群体である。

『群棲する「ほや」類』少なくとも丘先生が選んだ挿絵の個虫の鮮やかな菊花状配列の模様を見る限りでは、これはホヤ綱マボヤ目マボヤ亜目イタボヤ科の、やはり丘先生の命名になる、

 ミダレキクイタボヤBotryllus primigenus  Oka, 1928

或いは

 ウスイタボヤ Botryllus schlosseri

 キクイタボヤ Botryllus tuberatus

辺りではなかろうかと思われる。

「前に述べた植物に寄生する小蠅」長幼の別(5) 四 幼時生殖(2) タマバエの例に出、私が有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科 Cecidomyiinae 亜科 Mycodiplosini Mycophila 属に属する「タマバエ」に同定した種のこと。リンク先の「蟲癭」の私の注を参照のこと。

「蛙の肺に寄生する蛔蟲の類」直前章末第十七章 親子(8) 五 親を食ふ子に出、私がガマセンチュウ(蟇線虫)Rhabdias bufonis に同定した種。

『「うに」や「ひとで」の類では卵が發育しても直に親と同じ形になるのではなく、最初暫くは親と全く形の異なつた幼蟲となつて海面を浮游し、その幼蟲の身體の一部分から「うに」や「ひとで」の形が出來て、殘り全體は萎びて捨てられるか吸收せられるかするから個體としては生存し續けながら、大きな死骸が一時そこに生ずることになる』棘皮動物門ウニ綱 Echinoidea のウニ類の「プルテウス幼生」及び星形動物亜門 Asterozoa のヒトデ類の「ビピンナリア幼生」及びその後の「ブラキオラリア幼生」からの成体形への変態ステージを言っているようであるが、私はてっきり突起の吸収ばかりが起こると思い込んでいたのだが、かく遺骸の如く脱ぎ捨てるというのは不覚にして知らなかった。

「紐蟲」冠輪動物上門紐形動物門 Nemertea に属するヒモムシ類の総称。大部分は海産で滑らかな平たい紐(ひも)状の体型をしている。ウィキの「ヒモムシによれば、『見かけの上ではその他に目立った特徴がな』く、『動きの鈍い動物であり、底を這い回るものが多い』ことから、潮干狩りの最中に「ヘンな色のキモいミミズみたような虫がいる」ぐらいの認識があれば恩の字、普通に身近に海浜に棲息しているにも拘わらず全然知らない人々が圧倒的に多い。『体は左右相称で、腹背があり、不明瞭ながら頭部が区別できる。前端に口、後端に肛門があり、いわば典型的な蠕虫である。附属肢や触手など見かけ上で目立つ構造はないが、前端に内蔵された吻があり、これをのばして摂食などに利用する』。『ほとんどが底生生活で、一部に浮遊生活のものが知られる。大部分の種が海産であるが、淡水産、陸生の種もわずかに知られている』。体長は数ミリメートル〜 十数センチメートルが一般的であるが、担帽綱リネウス科リネウス属の巨大種 Lineus longissimusは体長三十メートルにも『達し、動物のなかでも最大の体長をもつ種の一つに挙げられる』。『かつては扁形動物に近縁のごく原始的な後生動物と考えられたが、現在では見方が変わっている』。『体はその名の通りに細長い。体は柔らかく、摘まんでもつまみ心地がない程度。非常によく伸び縮みする。表皮は粘液に覆われ、また繊毛がある』。『左右対称で腹背がある。体はさほど厚みがないが、背中側にふくらみ腹面は扁平。背面には模様があるものもある。体は前端から後端までほぼ変わらない太さだが、前端から少し後ろでややくびれるものが多く、これを頭横溝という。ここから先が頭部というが、実際はこの少し後方までが頭部としての構造を持つようで、頭部とそれ以降の部分ははっきりと区別できない。また、頭の先端から背中側にくぼみがあって、先端が二つに分かれたようになっている例もよくあり、これを頭縦溝という』。『頭部には肉眼的にはあまりなにもないが、実際には眼点などの感覚器が並んでいる。一対の頭感器と呼ばれるものが頭部に開いた穴の内部にあり、これが化学物質の受容を行っているとされる』。『口は体の前端の下面にあり、消化管はそこから後方へと直線的に続き、後端の肛門につながる。消化管は前方から前腸・胃・幽門・腸に区別される』。『前頭部に長い吻(ふん)を持つ。この吻は裏返しにして体内に格納することができる。吻は消化管の背面側に伸びる吻腔に納められており、その先端は口か、口より前に開く吻口に続く。吻の先端には針を持つものと持たないものがあり、これによってヒモムシ類が無針類と有針類に区分される』。『循環系として、閉鎖血管系を持つ。体側面の柔組織の中を走る側血管、背面にある一本の背血管が体の前後で互いにつながっているもので、背血管の一部は吻腔に入り、その部分が心臓の役目を果たしている。排出系としては原腎管がある』。『神経系は大まかにははしご形神経系で、体側の腹面側を走る一対の縦走神経が前頭部の消化管の上で結合して脳を構成する』。『ヒモムシ類は普通は雌雄異体で、生殖腺は体の中央から後方にあり、複数が両側面に対をなして並び、それぞれ体側に口を開く』。『放出された卵は粘液に包まれるか、ゼラチン質にくるまって卵塊を作る。卵割は全割でらせん卵割を示す。幼生はほぼ親の形となる、いわゆる直接発生をするものが多いが、無針類の一部では特有の幼生の形が見られ、それらはピリディウム幼生、デゾル幼生などと呼ばれる』。『多くの種が海産である。浅瀬の岩の間や泥の中から』 四千 メートルの『深海まで、広い範囲に生息している。湿った土壌や淡水中に生息する種もいる。ほとんどが底生だが』、有針綱針紐虫目ペラゴネメルテス科ペラゴネメルテス属オヨギヒモムシPelagonemertes moseleyi など、『少数の浮遊性の種が知られる』。『通常捕食性で、突き出した吻を獲物に巻きつけて捕らえる。また、吻の先端に毒針がついており、これを用いて他の動物を捕食する種もいる。体長の』三倍の『長さまで吻を伸ばす種もいる。一部に貝などに寄生生活する種が知られる』。『形態や繊毛運動をすること、原腎管があること、体腔らしいものが存在せず、無体腔と考えられたことなどから、かつては扁形動物の渦虫類と棒腸類に近縁であるとの説が有力であった。ただし扁形動物との大きな違いとして口と肛門が分化している点は大きく、そのために扁形動物に次いで原始的な、口と肛門の分かれたもっとも下等な動物、というのが一つの定説であった。しかし、閉鎖血管系を持つことなどより高度な性質と思われる面もあり、議論の分かれる動物群であった。脊椎動物の祖先形をこの類に求める説すらあった』。『さらに、近年の分子生物学的な研究では、環形動物や軟体動物(いずれも中胚葉由来の体腔がある真体腔類)と近縁であると説が浮上した。その観点からの見直しで、吻を格納する吻腔が体腔に相当するとの判断も出たため、無体腔動物との判断が揺らぎ、さらに発生の再検討からこの構造が裂体腔と見るべきとの判断も出ている。そのため前述のような扁形動物と関連させた位置づけは見直されている』。それにしても確かに、この図のリボンをつけた可愛いカラカサさんから、あのヒモムシが生まれるとは思えない。成体の幼生から最後に言っておくと、多くの種がレッド・データ・ブックに載っていることも皆、知らない日常の視野に入って来ない地味な生き物や見た目のキモい生物は滅亡したって関係ないと不遜なたかが動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱サル亜綱正獣下綱霊長(サル)目真猿(サル)亜目狭鼻(サル)下目ヒト上科ヒト科ヒト属ヒト Homo sapiens は思って平気なのである。実は自分自身が滅亡危惧種であることも知らずに。

 

 死の有無に就いて特に議論のあるのは「アメーバ」・「ざうりむし」などの如き單細胞蟲類である。甲なる一疋が分裂して乙・丙の二疋になつた場合に、甲は死んだか死なぬかというて、今でも議論をして居るが、實はこれは單に言葉の爭に過ぎぬ。死骸が殘らねば、死んだと見做さぬ人は甲は死なぬといひ、個體としての存在の止んだことを死と名づける人は甲は死んだといふが、いづれとしも事實は事實のまゝである。もしも死なぬものと見倣せば、かゝる蟲類は死ぬこともない代りに生まれることもないといはねばならず、またもし死ぬものと見倣せば、これは死んでも死骸を殘さぬ一種特別の死にやうでゐる。元來生死といふ文字は、人間・鳥獸などの如き雌雄生殖をする動物だけを標準として造られたもの故、無性生殖の場合によく當て嵌らぬのは當然のことで、「アメーバ」・「ざうりむし」に限らず、「いそぎんちやく」や「絲みみず」などが分裂によつて繁殖する場合にも、子が生れたとか親が死んだとかいふ言葉は、普通の意味では到底用ゐることは出來ぬ。

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(1) 序

 

    第十九章 個體の死

 

 「生あるものは死あり」と昔から承知して居ながら、やはり死にたくないのが人情と見えて、少しでも物の理窟を考へる餘裕が出來ると、まづ第一に死のことから注意し始め、想像を逞しうして、不老不死の藥とか、無限壽の仙人とかの話を造り出す。それより智力が進めば進むだけ、死に關する想像も複雜精巧になり、想像と實際との區別がわからぬためにさまざまの迷信が生じて、今日に至つても、死に就いては實に種々雜多の説が行はれて居る。生を論ずるに當つても、材料を人間のみに取つては一部に偏するために、到底公平な結論に達すべき望がないのと同じく、死を研究するにも、まづ廣く全生物界を見渡して、種々の異なつた死にやうを比較する必要がある。そして廣く各種の動物に就いて、その死にやうを調べて見ると、或は外面だけが死んで内部が生き殘るもの、前半身が死んで後半身が生き殘るもの、死んで居るか生きて居るかわからぬもの、死んでも死骸の殘らぬものなど、實に意外な死に方をするものが澤山あつて、人間の死の如きはたゞその中の最も平凡なる一例に過ぎぬことが明に知れる。

 

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(4) 五 命の貴さ / 第十八章 教育~了

     五 命の貴さ

 

 以上述べ來つた通り、人間は種族維持のために最も有力の武器である知識を競うて進めねばならず、その結果として、他の動物には到底その比を見ぬ程の長年月を教育に費すが、かくしては各個體が團體競爭に與る一員として完成する時期が非常に後れる。無數の子を産むものは、そのまゝ捨て置いて少しも世話をせず、一生懸命に子の世話をするやうなものは子の産み方が頗る少いことは、全動物界に通ずる規則であるが、人間の如くに子の教育に手間のかかる動物では勢ひ子の數らは最も少からざるを得ない。現に人間の子を産む割合は女一人につき平均四人か四人半により當らぬが、この位少く子を産む種類は決して他にはない。そしてこの少數の子を一人一人戰鬪員として役に立つまでに育て上げるために、親もしくは親の代理者が費す時間と勞力とは、他の動物が子を教育する手間に比べて何層倍に當るかわからぬ程である。

[やぶちゃん注:「與る」老婆心乍ら、「あづかる(あずかる)」と訓ずる。

「人間の子を産む割合は女一人につき平均四人か四人半により當らぬ」一人の女性が一生に産む子供の平均数は「合計特殊出生率」と呼ぶ。ィキの「合計特殊出生率」によれば、日本の戦後のそれは昭和二二(一九四七)年で四・五四であり、丘先生の数値に近い。戦前の合計特殊出生率を検索してみたところ、不破雷蔵氏のブログ(サイト)「ガベージニュース」の「日本の出生率と出生数をグラフ化してみる(2015年)(最新)」に『戦前のデータはほとんどつぎはぎだらけ』とされており、『確定値の限りでは』と断りを入れて、

大正一四(一九二五)年で五・一一

昭和五(一九三〇)年で四・七二

の『値が確認できる。戦前最後の』

昭和一五(一九四〇)年は四・一二

とある。本書は、

大正五(一九一六)年刊

である。因みに、

二〇一四年の日本は一・四二

にまで下がっている。因みに国際連合の公式データでは、現在、世界で合計特殊出生率が四~四・五を示す国は、降順で

モーリタニア(四・五二)から

コンゴ共和国・ガーナ・トーゴ・スーダン・グアテマラ・イラク・パプアニューギニア・トンガ・パキスタン・バヌアツ・

コモロ(四・〇〇)

、世界保健機関(WHO)によれば

世界平均は二・四

である。]

 

 さて戀愛に始まり教育に終る生殖事業の目的は、いふまでもなく自己の種族の維持繼續にあるが、この點から見ると、個體の命の價値は生殖法の異なるに隨つて、非常に相違があるやうに思はれる。各個體の命は、それを有する個體自身から見れば無論何よりも大切なもので、自身一個を標準として考へれば、命を失ふことは、全宇宙の滅亡したのと同じことに當るが、種族の生命を標準として考へると、個體の命なるものは全くその意味が變つて來る。まづ無數の子を産み放して、少しも世話をせぬやうな種類に就いて論ずるに、およそ種族維持のためには一對の親から産まれた子の中から、平均二疋だけが生き殘れば宜しく、また實際その位より生き殘らぬから、生まれた子が五十疋や百疋踏み漬されても食ひ殺されても、種族としては少しも痛痒を感ぜぬ。しかも後から後からと盛に子を産むから、かやうな動物の命は恰も掘拔き井戸の水のやうなもので、絶えず盛に溢れて無駄になつて居る。この場合には個體の命の價は殆ど零に均しい。かやうな蟲を殺すことを躊躇するのは、恰も掘拔き井戸の水を柄杓で酌むことを遠慮して居るやうなものである。

Mizugakaretesinuuo

[水が涸れて死ぬ魚]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 これに反して、稍々數の子を産む種類では、それが更に減じては親の跡を繼ぐだけの子が生き殘り得るや否や頗る疑はしくなるから、種族維持の上からいふと、一疋でも甚だ大切である。それから實際かやうな動物では親が何らかの方法で子を保護し、また進んでは養育もする。そして夫婦で五十疋の子を産む種類ならば、その中四十八疋死んでも宜しいが、十疋より産まぬ種類では、その中八疋以上死なれては後繼者がなくなるから、種族維持の上からは前者に比して後者の方が數倍も一個體の命が貴い。そして貴いだけに實際かやうな種類では、必ず親が一生懸命になつて長くこれを保護し養育して居る。およそ物の價は何でも需要が多くて供給の少いものが高く、また製産に費用の多く掛つたものが高いのが當然で、命の價もこの規則に隨つて高いのと安いのとがあり、概していふと個體の命の貴さは、個體を完成するまでに要する保護・教育の量に比例する。他の動物とは飛び離れて多くの教育を要する人間仲間で、個人の命が他の動物とは比較にならぬ高い程度に貴ばれるのは、やはりこの理窟によることであらう。無數に子を産む動物では、全局を通算して種族維持の見込みが附けば宜しいのであつて、各個體の一々の生死の如きは殆ど問題にならぬが、人間などはその正反對で、實際些細な事柄でも、事苟も人命に關すると切り出されると、止むを得ずこれを重大事件と見倣さねばならぬこともある。かくの如く人間は常に命を非常に貴いものとして取扱ふ癖が附いて居るから、これより類推して、他の生物の命もすべて貴いものの如くに思ひ、蟲一疋の命を助けることをも非常に善いことの如くに譽め立てるが實際を調べて見ると、こゝに述べた通り、種類によつては命の價の殆ど零に近いものが幾らもある。自然界には命の消費せられることが隨分盛で、命を貴いものと考へる人から見れば、如何にも勿體なくてたまらぬやうに感ぜられることが常に行はれて居る。大陸の河が旱魃のために涸れたときには、最後まで水のある處に魚が悉く集まり來り、そこまでが涸れゝば、何萬何億といふ魚が皆一時に死んでしまふ。風が少しく強く吹けば、海岸一面に種種の動物が數限りもなく打ち上げられて居るのを見るが、何十粁も沿岸の續く處ではどの位の命が捨てられるか想像も出來ぬ。しかしこれらの損失はときどきあるべきこととして、各種族の豫算には前以て組み込んであり、生殖によつて直に埋め合す豫定になつて居るから、初から別に惜まれるべき命ではない。無益の殺生は決して譽むべきことではないが、印度の宗教の如くに生物の命を一切取らぬことを善の一部と見倣して、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するのは、生物の命をすべて貴いものの如くに誤解した結果で、實は何にもならぬ遠慮である。

[やぶちゃん注:「貴さ」私はあくまで総て「たふとさ(とうとさ)」と訓ずる。学術文庫版なでは「尊さ」に書き換えられて「たっとさ」(歴史的仮名遣「たつとさ」)のルビが振られてあるのだが――「尊さ」は「たっとさ」であり、「貴さ」は「とうとさ」である――と私は小学生以来、教え込まれて来たし、「尊(たっと)い」という語には超自然的非人間的な(ある意味では「厭な」)響きがあると私は信じている人間である。人間の持つ暖かな精神的な高「貴」とは「貴(とうと)さ」であると私は思うし、それを誰かが馬鹿にしても、その人物を私は逆に馬鹿にするだけのこと、だからである。

「全局」全局面。全生活史に於けるそれぞれのステージ総て。

「印度の宗教の如くに生物の命を一切取らぬことを善の一部と見倣して、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するの」ヒンドゥー教の不殺生は仏教のそれと基本、変わらないので特異的な例としてはちょっと弱い気がする(ヒンドゥー教徒は菜食主義者が多いことは事実であるが、それでもでも牛以外の肉食を可とする信者もおり、下級カーストに屠殺業を配している)。寧ろ、もっと厳格なアヒンサー(サンスクリット語の「暴力(ヒンサー)の忌避」の意)を強く求める、ヒンドゥー教・仏教と同じく古代インド起源であるジャイナ教を指しているように思われる。ウィキの「アヒンサによれば、『ジャイナ教におけるアヒンサーは如何なる肉食を避けるだけでなく、植物の殺生に通じる芋などの球根類の摂取が禁じられている。さらに小さな昆虫や他の非常に小さな動物さえ傷つけないようしようと道からそれるなど、毎日の生活で極力動植物を害さないようにと少なからぬ努力を行う。この方針に従い、農業それ自体と同様に、その栽培が小さな昆虫や虫を害することになる作物を食べることが慎まれている』とあるくらいである。]

2016/02/25

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(3) 四 人間の教育

 

     四 人間の教育

 

 以上述べた通り、鳥類にも獸順にも子を教育するものは幾らもあり、その方法の如きも一定の規則に從うて居るが、人間の教育に比べては素より簡單極まるものである。しからば人間に於てのみ、教育が他に飛び離れて複雜になつたのは何故かと尋ねると、その原因はいふまでもなく言語と文字との發達にある。音によつて互に通信することは動物界に決して珍しくはないが、人間の如くに音を組み合せて一々特殊の意味を表すやうな言葉を用ゐるものは他にはないから、「人は言語を有する動物なり」と、いひ放つても敢へて誤りではなからう。しかも言語のみがあつてまだ文字がなかつたならば、子を教育するに當つても、先祖からのいひ傳へを親が記憶して置いて子に傳へるといふことが、他の動物に異なるだけで、それ以外に多くの相違はない。現に文字を知らぬ野蠻人が、子を教育する程度は猫や虎に比べて著しくは違はぬ。しかるに一旦文字なるものが發明せられると、その後は子の受くべき教育の分量はたゞ增す一方で、殆どその止まる處を知らず、終には一生涯の大部分をもそのために費さざるを得ぬやうになつて、人間の教育と他の動物の教育との間に、甚しい懸隔を生ずるのである。

 

 抑々文字は腦髓の記憶力を助けるための補助器官である。初は繩に結び玉を造り、棒に切れ目を附けたたりしただけであつたのが、段々進歩して今日見る如き便利なものまでになつたが、かく便利な文字が出來た以上は、これを用ゐて無限に物を記憶することが出來る。腦髓ばかりで記憶して居た頃は、恰も猿が食物を頰の囊に貯へる如くで、身體の一隅に溜め込むだけであるから、その量にも素より狹い際限があつたが、文字を用ゐて、腦髓以外に記憶し得るやうになると、丁度畑鼠が米や麥の穗を自分の巣の内に貯藏すると同じ理窟で、孔さへ廣く掘れば幾らでも限なく溜めることが出來る。かやうな次第で、人間は文字の發明以來、日々の經驗によつて獲た新な知識を文字に收めて貯へ來つたが、人間の生存競爭に於ては知識が最も有效な武器であるから、敵に負けぬためには子を戰場に立たせる前に、これに十分の知識を授けて置かねばならぬ。敵に比べて知育が著しく劣つて居ては、その民族は平時にも戰時にも競爭に勝つ見込みが立たぬから、常々子弟に十分な知識を與へて置かぬと親は安心して死なれぬ。さらば、今日の文明國に於ける教育の狀態を見ると、傳來の迷信のために隨分無駄なことをして居る部分もあるが、大體は、敵に負けぬだけの知識を授けることを務めて居る。そしてその知識は文字によつて腦髓以外に貯藏せられ、蓄積せられ得べきものである 人間の教育が他の動物の教育と異なる所は主としてかゝる種類の知識を子弟に授ける點に存する。

 

 世間には單に理論の上から教育を三分して、知育・德育・體育とし、いづれにも偏せぬやうに平等に力を盡すがよいと説く人もあるが、以上述べた所から考へると、この三種の教育は決して對等の性質のものではなく、且如何に平等に取扱うても、その效果は頗る不平等なるを免れぬであらう。人間の教育に就いて詳しく述べることは、本書の趣意でもなく、また門外漢なる著者の能くする所でもないから、他はすべて略して、こゝには以上の三育の效果の相異ならざるべからざる理由を一言するだけに止める。

 

 知育は特に人間に取つて大切な教育でゐつて、且その效果も頗る著しく現れる。學校の課程を見ても、その大部分は知育に屬するもので、生徒の知識が如何に一年毎に進み行くかは誰の目にも明に知れる。試に學校を踏んで來た子供と、學校へ行つたことのない子供とを比べたら、その知識の相違は非常なもので、今日の社會では「いろは」も讀めぬやうな者は殆ど用ゐ途がない。即ち知育は行へば行うただけ效果の擧るもので、異民族が互に競爭する場合には相手に負けぬために出來るだけ程度を高めることが必要であり、また高めれば必ずそれだけの效果がある。されば今後は各民族は競うて知育の程度を高めるであらうが程度を高めればそれだけ教育の年限が長くなるを免れぬ。新な知識は年と共に積るばかりであるが、舊い知識がそのため不用になるわけでもないから、授くべき教材は年々多くならざるを得ない。エッキス光線・無線電信・飛行機・潛航艇のことを追加して教へるからというて、その代りに物理學教科書の最初の數頁を破り捨てるわけには行かぬから、いづれの學科に於ても、やはり「いろは」から始めて最新の發見まで授けることとなり、これを滿足に教へるには次第次第に教育の年數を增さねばならぬ。如何に教授法が巧になつても、教材が無限に殖えては、時間を延長するより外に途はない。しかし教育の年限をどこまでも延すことは、無論出來ぬことであつて、人間僅か五十年の中、二十歳で丁年に達しながら四十歳まで學校に通ふやうでは、到底教育費と生産力との釣合が取れぬ。それ故、もし各民族がどこまでも競うて知育を高めたならば、今日大砲や軍艦の大きさ、飛行機や潛航艇の數を競爭して互に困つて居る如くに、知育の競爭に行き詰つて、互に閉口する時節が早晩來るであらう。

[やぶちゃん注:本書は大正五(一九一六)年刊である。丘先生の警鐘は今もそのままに新しい、いや、寧ろ、より深刻――ヒトという種の滅亡を間近に感ずる現在という点に於いて――な様相を呈しているではないか。

「用ゐ途がない」学術文庫版では『用(もち)いる途(みち)がない』とある。確かに「る」脱字が疑われはするが、暫くママとする。

「エッキス光線」エックス線。レントゲン線のこと。]

 

 徳育は知育と違うて、骨を折る割合に效果が擧るか否か頗る疑はしい。團體生活を營む動物が互に競爭するに當つて最も大切なことは協力一致・義勇奉公の精神であるが、この精神は如何にして養成せられるかといふに、數多の小團體が絶えず劇烈に競爭して勝つた團體のみが生き殘り、敗けた團體が亡び失せるによるの外はない。かくすれば、一代毎に必ず少しづつ、義勇奉公といふ如き團體的競爭に勝つべき性質が進歩して、終に今日の蜜蜂や蟻に見る如き程度までに發達する。しかるに近世の人間は、民族間に絶えず紛議があるに拘らず、敗けた團體が全部亡びるといふ如きことは決してなく、生まれながら義勇奉公の念の稍々僅い者も稍々弱い者も均しく生存の機會を得るから、この精神の進歩すべき望がなくなつた。その上、團體内に於ける個人間の競爭では、義勇奉公の念の薄い者の方が勝つやうな事情も生じて、この精神は寧ろ漸々滅び行くものの如くに見える。教育者は往々、教育の力によつて如何なる性質の人間をも、注文に應じて隨意に造り得るかの如くにいふが、實際は決して人形師が人形を造るやうには行かず、各個人の性質は先祖及び父母からの遺傳によつて、生まれたとき既に大體は定まり教育者は僅ばかりこれを變更し得るに過ぎぬ。教育の力によつて、手の指を一本殖やすことも減らすことも出來ぬと同じく、腦髓の細胞を竝べ直して、義勇奉公の念を自然に強くすることは到底出來ぬであらう。かやうな次第であるから、德育は今後如何に力を盡しても、決して知育に於ける如き目覺しい效果の擧らぬのみならず、知育が進めば惡事も益々巧にするやうになるから、これに對抗するだけでもなかなか容易ではなからうと思はれる。

[やぶちゃん注:私にはこの「團體」という熟語が「國體」に見える。]

 

 しからば體育は如何といふに、これまた十分に效果の擧らぬ事情がある。一體ならば子供を學校などへやらずに、自由自在に「鬼ごと」・「木登り」・「水泳ぎ」・「角力取り」などさせて置くのが、體育のためには最も善いのであるが、種族生存の必要上、知育を盛にせねばならず、そのためには、動きたがる子供等を強ひて靜に坐らせ、勉強させるのであるから、體育の方からいふと知育は無論有害である。しかるに知育はこれを減ずることが出來ぬのみならず、今後は他民族との競爭上益々增進する必要があり、なるべく短い時間になるべく多くの知識を授けようとすれば、勢ひ體育の方はそれだけ迫害せられるを免れぬ。小學校の一年から六年まで、中學校の一年から五年までと級が進むに隨つて、一年增しに毎日坐らせられ俯向かせられる時間が長くなつて、身體の自然の發育は次第に妨げられるが、これも種族の維持繼續の上に必要であるとすれば、止むを得ぬこととして忍ぶの外はない。なほその他にも今日の人間の身體を少しづつ弱くする原因が澤山にある。されば體育は今後如何に力を盡しても、知育を暫時廢止せぬ以上は、たゞ知育のために受ける身體上の損害を幾分か取り消し得るのが關の山で、到底進んで身體を昔の野蠻時代以上に健康にすることは出來ぬであらう。

[やぶちゃん注:「鬼ごと」鬼ごっこ。

「中學校の一年から五年」旧制中学校は五年制。本書の刊行は大正五(一九一六)年(なお、昭和一九(一九四四)年四月一日からは、前年に閣議決定された「教育ニ關スル戰時非常措置方策」によって修業年限四年変更の前倒しが行われ、この時に四年となった者(昭和一六(一九四一)年入学生)から適用されたが、翌昭和二〇(一九四五)年三月には「決戰教育措置要綱」が閣議決定されて昭和二十年度(同年四月から翌昭和二一年三月末迄)授業が停止されることなり、更に同年五月二十二日には「戰時教育令」が公布されて授業は無期限停止が法制化されている。その後、敗戦の翌月八月二十一日、文部省により、「戰時教育令」廃止が決定されて同年九月から授業が再開されることとなった。翌昭和二一(一九四六)年には修業年限が元の五年に戻ったが、その翌年昭和二二(一九四七)年四月一日附を以って学制改革(六・三制の実施と新制中学校の発足)で旧制中学校は消滅した(以上はウィキの「旧制中学校に拠る)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(2) 三 獸類の教育

 

    三 獸類の教育

 

 智力を標準として論ずると、獸類の中には非常に程度の異なつたものがあつて、或るものは遙に鳥類に優つて居るが他のものは到底鳥類に及ばぬ。隨つて教育の行はれる程度にも著しい相違があり、「かものはし」や「カンガルー」などが如何程まで子を教育するかは頗る疑はしいが、食肉類・猿類の如き高等の獸類になると、子の教育に力を注ぐことは決して鳥類に劣つては居ない。獸類の普通の運動法である歩行は、鳥類の飛翔に比べると遙に容易で、親が特に世話を燒かずとも、子の發育の進むに隨つて自然に出來るやうになるから、わざわざ教育する必要のある事項が鳥よりは一つ少いことになる。その代り或る獸類では大腦の發達が非常に進んで居るために、所謂智的方面の練習を要することは鳥類よりは一層多くなる傾が見える。

Toranokyouiku

[虎の教育

虎は猫と同じく幼兒を長く養ひこれに餌を捕へ殺す法を教へ子が十分に自活し得るまでに進んだ頃初めてこれを放ち去らしめる]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 子持ちの牝猫が鼠を捕へた場合に、如何なることをするかを注意して見るに、決して直に殺して食つてしまふ如きことはせず、まづ鼠を輕く傷けてこれを放し、その逃げて行く所を小猫に捕へさせる。これは即ち鼠を捕へる下稽古で、度々かやうなことをして居る間に鼠を見れば必ずこれを追ひ掛けずには居られぬやうになり、また追ひ掛ければ大概これを捕へ得るまでに熟達する。飼猫でも常にかやうな方法で子を教へるが野生の食肉獸になると、更にこれよりも念を入れて我が子に渡世の途を仕込む。狐などは幼兒が生れて二十日過ぎになると、已に鳥類を殺す稽古を始めさせ、少しく大きくなると、夜出歩くときに一所に連れ廻り、餌を取ることを手傳はせ、次第次第に自分の餌だけは獨力で取れるやうに仕込み、しかる後に手放してやる。獅子などはかくして教育し終るのに約一年半もかかる。その間に初は親は子に見物させ、次に子を助けて實習させ、後にはたゞ監督するだけで全く子に委せ、少しづつ骨の折れる仕事に慣れさす具合は、前に鳥類に就いて述べた所とはほゞ同樣である。虎の食ひ殘した牛の骨などを見るに急處には親虎の大きな牙の跡があり、間の處には子虎の小さい牙の跡が澤山にあるのは、虎も猫と同じく子に肉を引き裂いて食ふ稽古をさせるからであらう。

Sarusakumotunusumu

[猿が作物を盜むところ]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。この挿絵は学術文庫版にはない。]

 

 猿の類も多くは子を教育する。昔から猿の人眞似というて猿程何でもよく眞似をするものはないが、兒猿にこの性質があれば教育は自然に出來る。動物園などで見てゐても、母猿は殆ど世話を燒き過ぎると思はれる程に絶えず熱心に兒猿に注意し、危險を恐れて瞬時も側から離さず、もし兒猿が客氣に委せて遠方へでも走り行けば、直に追ひ附いて捕へ歸り打擲して懲らしめる。かく絶えず親の傍に置かれるから兒猿は何でも親のすることを見てこれを眞似する。親が果物の皮を剝いて食はせてくれゝば、自分で食ふときにも必ず皮を剝き、親が箱の蓋を明けて人參を盜めば、子も同じく箱の蓋を明けて人參を盜む。また團體を造つて生活する種類ならば種々の相圖を覺え、一々これを聞き分けて同僚の仕事と衝突せぬやうに注意する。かくして猿の生活に必要な仕事をすベて眞似し覺え、熟練して終に一疋前の猿となるがこれ皆教育の結果である。

[やぶちゃん注:「客氣」は「かくき(かっき)」或いは「きやくき(きゃっき)」で、老婆心乍ら、物事にはやる心、血気であって、動物園の観客にのぼせての謂いではないのでご注意あれ。

「一疋前」丘先生、気配り、御見事!]

 

 獸類の幼兒は、犬や猫の例でも知れる通り、頗る活潑に戲れ廻るものであるが、遊戲も教育の一部である。獸類の兒は如何なることをして遊ぶかといふに、無論種類によつて違ひ、猿ならば木に登つて遊び「をつとせい」ならば水に泳いで遊ぶが、廣く集めて分類して見ると、主として追ふこと、逃げること、捕へること、防ぐことなどであつて、いづれも生長の後には眞劍に行はねばならぬことのみである。中には戲に交尾の眞似までするが、これも生長の後には眞劍に行はねばならぬ。されば遊戲なるものは單に元氣のあり餘るまゝに身體を活動させて、時間を浪費して居るのではなく、生長の後に必要な働を豫め練習して居るのである。そして父親がこれに加はることは決してなく、母親はときどき仲間に入つて共に戲れることもあれば、また側に靜止して横著な媬姆の如くに横目で監督して居ることもある。とにかく親が保護しながら、かゝる有益な練習をさせるのであるから、これは立派に教育と名づくべきものであらう。

[やぶちゃん注:「媬姆」保母のこと。中文サイトに出るので国字ではない。学術文庫版では『保母』と替えられている。]

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(1) 序・「一 教育の目的」・「二 鳥類の教育」

 

    第十八章  教  育

 

 大概の動物では無數の卵を産み放しにするか、または子を保護し養育しさへすれば、子孫の幾分かが必ず生存し得る見込みは立つが、獸類・鳥類などの如き神經系の著しく發達した動物になると、更に子を或る程度まで教育して置かぬと、安心して生存競爭場裡へ手放すことが出來ぬ、敵を防ぐに當つても餌を取るに當つても、敏活な運動が出來ねば競爭に敗ける虞がゐるが、敏活な運動には數多くの神經と筋肉との相調和した働が必要で、それが即座に行はれ得るまでには、多くの練習を要する。しかして練習するに當つて子が獨力で一々實地に就いて練習しては危險が多くて、大部分はその間に命を落すを免れぬ。例へば敵から逃げることの練習をするのに、子が一々實際の敵に遭遇して逃げるとすれば、これは眞劍の勝負であるから、練習中に殺されるものが幾らあるか知れぬ。もしこれに反して親が假想の敵となつて子を追ひかけ子は一生懸命に逃げるとすれぱ、危瞼は少しもなくて同じく練習となり、練習が積んで完全に逃げ得るやうになつてから、これを世間に出せば、子の死ぬ割合は餘程減ずるから、親は子を遺す數が少くても、ほゞ種族繼續の見込みが附いたものと見倣して安心して死ねる。されば生活に必要な働の練習を、子が若いときに獨力でするやうな動物は、餘程多くの子を産まねばならず、また親が手傳うて子に練習させるやうな動物ならば、それだけ子を少く産んでも差支はない。更にこれを裏からいへば、子を多く産む種類は、練習を子の自由に委せて置いても宜しいが、子を少く産む種類では、親が除程熱心に子の練習を助けてやらねば、種族維持の見込みが立たぬといふことになる。

 

 尤も動物の種類によつては、少しも練習を要せずして隨分精巧な仕事をするものがある。蜜蜂が六角の規則正しい部屋を造り、蠶が俵狀の美しい繭を結びなどするのはその例であるが、これは所謂本能によることで、その理由は、恐らく神經系が生まれながらにしてこれらの仕事をなし得る狀態にあるからであらう。即ち始から他の動物が練習によつて達し得る狀態と、同じ狀態にゐるのであらう。そしてまたその源を尋ねれば、先祖代々の經驗の傳はつたものと見倣すの外はないから、やはり今日までの種族發生の歷史中に練習を重ね來つた結果といふことも出來よう。人間でも生まれて直に乳の吸ひ方を心得て居たり、巧に呼吸運動をしたり、咄嵯の間に瞼を閉ぢて眼球を保護したりするのは皆本能の働で、少しも練習を要せぬ。

 

 かやうに數へ上げて見ると、動物のする働の中には、本能によつて先天的にその力の具はつてゐるものと、練習によつて後天的に完成するものとがあり、また練習するに當つては子が獨力で自然に練習を積む場合と、親が子を助けて安全に練習せしめる場合とがある。教育とはすべて後の如き場合に當て嵌めて用うべき言葉であらう。

 

     一 教育の目的

 

 大抵の教科書を開いて見ると、たゞ人間の教育のみに就いて書いてあるから、その目的の如きも、人間だけを標準として至つて狹く論じてある。しかもその書き方が頗る抽象的で摑まへ所を見出すに苦しむやうなものも少くない。今日では比較心理學などの流行し來つた結果、止むを得ず鳥獸にも子を教育するものがあると書いた論文をも往々見掛けるが、少しく古い書物には「教育は人間のみに限る。なぜといふに、精神を有するのは人間のみに限る。なぜといふに、精神を有するものは人間のみである。」などと書いてあつた位で、他の生物に行はれる教育までも、研究の範圍内に入れ、全體を見渡して論を立てる如きことは夢にもなかつた。その有樣は、恰も昔天動説の行はれて居た頃に、地球を以て一種特別のものと考へ、その金星・火星・木星土星などと同格の一遊星なることを知らずに居たのと同じであるが、かやうに根本から考が間違つて居ては、如何に巧に議論しても、到底正しい知識に到著すべき見込みがない。教育の目的を論ずるに當つては、まづかゝる迷ひを捨て、人間も他の動物も一列に竝べて、虛心平氣に考へねばならぬ。

 

 動物の種類を悉く竝べて通覽すると、子を産み放しにして少しも世話せぬ種類が一番多く、子を聊かでも保護する種類はこれに比べると遙に少い。また子を單に保護するだけのものに比べると、親が子に食物を與へて養育するものは遙に少く、子を養ふものに比べると、子を教育するものは更に遙に少い。かくの如く、子を教育する種類は、全動物界中の極めて小部分に過ぎぬが、如何なる僧物が子を教育するかといヘば、これは殆ど悉く獸類・鳥類であつて、その他には恐らく一種もなからう。そしてこれらは解剖學上から見れば、現在生存する動物中、腦の最も大きく發達して居るもの、また地質學上から見れば、諸動物中最後に地球上に現れたもの、習性學上から見れば、他の勤物に比して子を産む數の最も少いものである。獸類も鳥類も共に本能によつて生まれながらなし得ることよりは、練習によつて完成しなければならぬ仕事の方が遙に多いから、教育の多少は直にその種族の存亡に影響し、隨つて教育に力を入れる種類が、代々競爭に打ち勝つて終に今日の有樣までに遂したのであらう。これらの動物が、如何にその子を教育するかは次の節で述べるが、いづれにしても單細胞時代・囊狀時代、もしくは水中を泳いで居た魚形時代の、昔の先祖の頃から已に子を教育したわけではなく、恐らく初は無數の子を産み放した時代があり、次には子の數が漸々減じて親がこれを保護しむ時代があり、次第に進んでこれを養ふやうになり、最後にこれを教へるやうになつたものと思はれる。

[やぶちゃん注:「囊狀時代」原始的な多細胞生物。]

 

 動物の親子の關係に種々程度の異なつたもののゐるのを見、且一歩一歩その關係の親密になり行く狀態を考へると、教育の目的は生殖作用の補肋として、種族の維持を確ならしめるにあることは極めて明である。教育の書物には何と書いてあらうが、生物學上から見れば、教育は種族の維持繼續を目的とする生殖作用の一部であるから、その目的も全く生殖作用の目的と一致して、やはり種族の維持にあることは疑ない。これだけはすべての動物を比較しての結論であるから、いづれの動物にも當て嵌ることで、その中の一例なる人間にも素よりそのままに當て嵌ることと思ふ。但し人間の教育に就いては、更に後の節で述べるから、こゝには省いて置く。

 

     二 鳥類の教育

 

 前にも述べた通り、鳥類の卵から孵つて出る雛は、種類の異なるに隨つて、それぞれ發育の程度が違ふから、これを養ひ教育する親の骨折にも種々難易の相違がある。概していへば、「きじ」雞などの如き平生餘り飛ばぬ烏は比較的大きな卵を産み、それから孵る雛は直に走り得る位までに發育して居る。これに反して、燕や鳩のやうな巧に飛ぶ鳥は小さな卵を産み、それから孵る雛は頗る小さくて弱いから、特に親に保護せられ養はれねば一日も生きては居られぬ。また雛が稍々生長してからも、地上を走る鳥ならば、たゞ親の呼聲を覺えしめ、地上から小さな物を速に啄むことを練習せしめなどすれば、それで宜しいが、常に飛ぶ鳥では雛を教へて、飛翔の術を練習せしめねばならず、なほ飛びながら餌を取る法や、敵から逃れる法を會得せしめねばならず、これにはなかなか容易ならぬ努力を要する。

 

 卵から孵つたばかりの雞の雛は、食物が地上に澤山落ちてあつてもこれを啄むことを知らずに居ることがある。しかるにもし鉛筆かペン軸で地面を敲いて音を立てると、直に啄み始める。これは一種の反射作用であつて、雛に生まれながらこの性質が具はつてあるために、親鳥が地面を敲くと、雛がその音を聞いて直に物を啄む練習を始めるのである。そして、初の間は砂粒でも何でも啄んで口に入れ、食へぬものは再びこれを吐き出すが、後には段々識別の力が進んで、食へるものだけを選んで啄むやうになる。また牝雞が雛を集め、米粒などを態々高くから地面に落して、その躍ね散るのを拾はせて居る所を屢々見るが、これは迅速に且精確に小さな物を啄むことを練習させて居るのであつて、雛に取つては頗る有益な教育である。

[やぶちゃん注:「態々」老婆心乍ら、「わざわざ」と読む。

「躍ね散る」「はねちる」。]

 

 鳥類の多數は飛翔によつて生活して居るが、飛翔はすべての運動中最も困難なもの故、巧になるまでには大に練習を要する。巣の内で育てられた雛が稍々大きくなると、親鳥はこれに飛ぶことを練習させるが、最初は雛は危ながつて、容易に巣から離れようとはせぬ。 これを巣から出して飛ばせるためには、或る種類では親鳥が雛の最も好む餌を銜へて、まづ巣から出て、恰も人間が歩き始めの幼兒に「甘酒進上」といふて、歩行の練習を奬勵する如くに、餌を見せて雛を誘ひ出す。即ち興味を以て導かうとする。また他の種類では、所謂硬教育の流儀で、親鳥が雛を巣から無理に押し出して止むを得ず翼を用ゐさせる。無論初は極めて短距離の處を飛ばせ、次第に距離を增して終に自由自在に飛べるやうになれば、全く親の手から離すのでゐる。南アメリカの「コンドル鷲」の如き大鳥になると、雛が飛翔の練習を卒業して獨立の生活に移るまでには約三年を要する。

[やぶちゃん注:「甘酒進上」講談社学術文庫版では『あまざけしんじょう』とルビを振るが、私は「あまざけしんじよ(まざけしんじょ)」と読みたい。これは所謂、古来、本邦で未だよちよち歩きの幼児を上手に歩かせるようにするため、少し離れた所から呼びかけるところの台詞「処(ここ)までお出で、甘酒進(しん)じょ」(「進じょ」は「進ぜむ進ぜん進ぜう進じよ進じょ」の音変化)であるからである。

「コンドル鷲」タカ目コンドル科 Vultur 属コンドル Vultur gryphus 。]

Wasinooyako

[鷲の親と子]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 餌を巧に捕へるにも餘程の練習を要する。雀などでも雛が飛び得るやうになつた後も、なほ暫くは親が常に迷れ歩いて餌を食はせて居るがどの間に雛は親に見習うて、次第に自分で餌を拾ひ得るやうになり、最早親の補助がなくとも十分に生活が出來るやうになれば、そのとき親と離れてしまふ。鷲・鷹の如き稍々大きな生きた餌を捕へて食ふ猛禽類では、教育が更に順序正しく行はれ、まづ初には兩親が雛を獵に連れて行くが、たゞ見學させるだけで、實際餌を捕へる仕事には加はらしめず次には親が餌を傷け弱らせ置いて雛にこれを捕へ殺させ、次には親と雛と協力して獵をなし、雛の腕前が聊熟達して來ると、終には雛のみで餌を捕へさせ、親はたゞこれを監督し、萬一餌が逃げ去りさうな場合にこれを防ぐだけを務める。即ち「易より人つて難に進む」といふ教授法の原則が、巧に實行せられて居るのである。

 

 水鳥が雛に游泳のの練習をさせたり、魚を捕へる練習をさせたりする方法も、以上とほゞ同樣で、初めはたゞ簡單な游泳の練習のみをさせ、餌は親が直接に食はせてやり、次には親が啄いて少しく弱らせた魚を、雛から三〇糎位の處に放してこれを捕へさせ、これが出來れば次は六〇糎位の處、次には九〇糎位の處といふやうに、順々に距離を增して、速に泳ぐことと巧に捕へることとを兼ねて練習せしめる。かくして雛の技術が進めば親は少しく助けながら、自然のまゝの勢のよい魚を捕へしめ、これが十分に出來るやうになればやがて卒業させる。「あひる」だけは長らく人に飼はれた結果として、雛は肥り翼は短くなり卵は大きく、これから出た雛は直に水面を游ぎ得る程に發育して居るから、少しも教育らしいことをせぬが、これは素より例外であつて、野生の水鳥は大抵皆雛を教育する。雛がまだ泳げぬ間は、これを足の間に挾んで保護したり、恰も人間が子を負ふ如くに自分の背に載せて泳ぐ種類などもあるが、いづれにしても、親が手放す前には必ず獨力で生活の出來る程度までに、泳ぐことと魚を捕へることとの練習が進んで居る。

 

 以上は食ふための教育であるが、鳥類にはなほ結婚して子を遺し得るための教育も行はれる。即ち歌や踊も決して雛が生まれながらに巧に出來るものではなく聞いては眞似し見ては眞似して一歩一歩練習上達して、終に他と競爭し得る程度までに達するのである。尤も歌の大體の形だけは遺傳で傳はり、他の歌ふのを聞かずとも、本能によつて各種類に固有な歌を謠ひ始めるが、それだけでは極めて拙であつて到底他と競爭することは出來ぬ。鶯などもよく鳴かせるむめには歌の巧な鶯の側へ持つて行つて、向ふの歌を聞かせ習はせる必要のあることは、鶯を飼ふ人の誰も知つて居ることであるが、かくの如く聞けば覺えて段々上手になるのは、元來教育せられ得べき素質を具へて居るからであつて、人に飼はれず、野生して居るときにも無論この點に變りはなく、雛のときに拙く鳴き始め、老成者の熟練した歌を眞似て次第に巧になる。藪の中ばかりに居ては到底座敷の鶯の如くに、人間の注文に應じたやうな歌ひ方はせぬであらうが、鶯仲間での競爭に加はり得べき程度までに上達するのは、やはり教育の結果である。

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(8) 五 親を食ふ子 / 第十七章 親子~了

      五 親を食ふ子

 

 前に幼時生殖のことを述べるに當つて、植物に五倍子を造る一種の微細な蠅のことを例に擧げたが、この蠅の幼蟲が卵を産むときには、卵は親なる幼蟲の体内で發育し、親と同じ形の幼蟲となり、初は子宮の内に居るが、少しく大きくなると皆子宮を食ひ破つて、母の身體の組織を片つ端から食ひ盛に生長する。それ母の體は遂にはたゞ表面を包む薄皮が一重殘るだけで、恰も氷囊の如きものとなつてしまふ。人間は母親のことをときどきお袋と呼ぶが、この蟲では母親は眞に囊だけとなり、肉は悉く胎兒に食はれてその肉に化するのである。胎兒は生長が進むと、終に母の遺骸なる薄皮の囊を破つて出るが、かやうな場合にこれを「生れ出る」と名づくべきか否か、頗る曖昧で、實は何と名づけて宜しいかわからぬ。「生まれる」といふ文字は元來母の體はそのまゝに存して、子の體が母の體から出で離れる普通の場合に當つて造られもの故、普通と異なつた場會によく當て嵌らぬのは當然である。この蟲などでは、子が生まれるときは既に母親は居ないが、居ない親から子が生まれるといふのは如何にも理窟に合はぬ。またそれならば、母に親は死んだかといふと、後に死骸が殘らぬから、普通の意味の死んだともいひ難い。即ち生きて居る親の身體組織が、生きたまゝで子に食はれるから、これが親の死骸であるというて指し示すことの出來るものは全く生ぜぬ。前に薄皮の囊を母の遺骸というたが、これは單に便宜上いうたことで、體の表面を包む薄皮の如きは、人體に譬へていへば毛か爪か、厚皮の表面の如き神經もなく、切つても痛くない部分故、これのみでは無論眞の遺骸とは名づけられぬ。死骸の發見せられぬ人の葬式に、頭髮を以てこれに代用するのと同じ意味で、遺骸というたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「前に幼時生殖のことを述べるに當つて、植物に五倍子を造る一種の微細な蠅のことを例に擧げた」「長幼の別(5) 四 幼時生殖(2) タマバエの例」の箇所。

「この蠅」前記箇所の「蟲癭」に附した注で、私は有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科 Cecidomyiinae 亜科 Mycodiplosini Mycophila 属に属するタマバエと取り敢えず比定した。]

Kaerukiseityu

[蛙の寄生蟲

右の二疋は泥中に自由に生活するもの(長さ約一・五粍)

左の一疋は蛙の肺の内に寄生するもの(長さ約一・五粍)]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 これと同樣の例をなほ一つ擧げて見るに、蛙類の肺臟の内に往々一種の小さな絲の如き寄生蟲が居る。蛔蟲・十二指腸蟲などと同じ仲間に屬するものであるが他のものが皆雌雄異體であるに反し、これは一疋毎に雌雄を兼ね、その産んだ卵は蛙の肺から食道・胃腸に移り、蛙の糞と共に體外に出で、水の中で發育する。かくして生じた子は親とは形が違ひ同じく絲狀ではあるが、親に比べると稍太くて短く、且つ雌雄の別があつて形も互に違ふ。泥の中で自由に生活し、成熟すると交尾して、雌の體内に少數の子が出來る。これらの子供は始は親の子宮の内で發生し、少しく生長すると子宮を食ひ破つてその外に出で、母親の肉を順々に食ひ進み、遂には表面の薄皮のみを殘して、内部を全く空虛にしてしまふ。この點は、前の例に於けると少しも違はぬ。次に薄皮をも破つて裸で泥の中に生活し、蛙に食はれてその體内に入ると、直に肺臟内に匍ひ移り、少時で雌雄同體の生殖器官が成熟して卵を産むやうになる。前の蠅は幼蟲が子を産むから、幼時生殖の例であつたが、この寄生蟲はかくの如く雌雄同體で卵生する代と、雌雄異體で胎生する代とが交る交る現れるから、世代交番の例ともなる。

[やぶちゃん注:「蛙類の肺臟の内に往々一種の小さな絲の如き寄生蟲が居る」寄生部位の特異性から、浅川満彦論文「日本産カエル類に寄生する線虫類の保全医学的なコメント(PDF)にある、

線形動物門双腺綱桿線虫亜綱桿線虫目桿線虫亜目桿線虫(カンセンチュウ)科 Rhabdias

かと思われる。更に限定させてもらうなら、

ガマセンチュウ(蟇線虫)Rhabdias bufonis

ではないか私は考える。何故ならこの丘先生の図と殆ど相同の同種の図(恐らく原画は同一物である)を前段と同じロシア語サイトРис. 197 (zu) Rhabdias bufonis: гермафродитное и свободноживущее поколенияに見出せるからである。因みに、浅川氏によれば、本種や、腸に寄生する桿線虫目糞線虫上科糞線虫(フンセンチュウ)科 Strongyloides 属及び桿線虫亜綱円虫目モリネウス科の Batrachonema 属と Oswaldocruzia属、及びCosmocercidae科の各属、双腺綱旋尾線虫亜綱カイチュウ(回虫)目 Meteterakis 属らは、『まったく健康に見える野生カエル類から発見される。おそらく,これら宿主体内で線虫単独による重篤な疾病発生原因とはなり難いであろう。しかし,たとえば,飼育環境下におかれ,ほかの病原体の感染やストレスにより,症状をより悪化させる因子になることが考えられる』と喚起を促しておられる。

「蛔蟲・十二指腸蟲などと同じ仲間に屬する」「蛔蟲」は前注にも示した通り、

線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱(但し、桿線虫亜綱とする記載もある)回虫(カイチュウ)目 Ascaridida

に属し、本文の本種を、

双腺綱桿線虫亜綱桿線虫目桿線虫亜目桿線虫(カンセンチュウ)科 Rhabdias 

と仮定するならば、同じ「線虫」であり、しかも綱(或いは亜綱)のタクサで同類と言え、「十二指腸蟲」の方も、

桿線虫亜綱円虫目鉤虫上科鉤虫科 Ancylostomatidae

で亜綱のタクサで同類である。因みに、「十二指腸虫」という呼称は、本来、本種は小腸上部に寄生するにも拘わらず、たまたま最初に十二指腸で発見されたために、この名が与えられたに過ぎないため、現行では鉤虫と呼ぶ方がよい。]

 

 動物界に於ける親と子の關係を見渡すと、本章に掲げた例だけによつても知れる通り、全く無關係なものから、親が子を保護するもの、親が子を養育するもの、子が親の身體を食うて生長するものまで、實にさまざまの階段がある。しかもよく調べて見ると、決して偶然に不規則にさまざまのものが竝び存するのではなく、一々かくあるべき理由が存し、如何なる場合にも種族の維持繼續を目的として、そのため各々異なつた手段を採つて居るに過ぎぬことが明に知れる。例へば最後に擧げた例の如きも、種族繼續の目的からいふと、母親の身體が生きながら子の餌食となることが最も有利であらう。最後の子を産み終つた後の母の身體は、種族の標準としていふと、最早廢物であるが、これが自然に死んで腐つてしまふか、または敵に食はれ敵の肉となつて敵の勢を增すことに比べれば、我が子の身體を造るために利用せられ、直接に自分の種族の繁榮に力を添へ得る方が、全體として遙に得の勘定となる。しからば何故すべての動物で子が母親を食うて生長せぬかといふに、これは各種類の生活狀態が皆相異なつて、甲に對して有利なことも、乙に對しては必ずしも有利と限らぬからである。何事にも一得あれば一失あるを免れぬもので、子が母親の體の内部から食うて生長するとすれば、母は忽ち運動の力を失ひ、子は一塊に集まりて動かずに居ることになるから、敵に攻められた場合には全部食ひつくされて種が殘らぬの虞がある。假に魚類が胎生して胎兒が腹の内から母の肉を食うて生長すると想像するに、さめにでも食はれてしまへば子孫全滅を免れぬから種族保存の上からいへば極めて不利益であつて、これに比べれば無數の小さな卵を撒き散らし、殘つた母の體を廢物として捨て去つた方が如何程有效であるかわからぬ。かやうな次第で、各種動物の習性に應じて、それぞれ最も有效な種族保存の方法が自然に講ぜられて居るから、親子の間にさまざまな關係の違うたものが生ずるのである。

2016/02/24

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 四 命を捨てる親

     四 命を捨てる親

 

 生殖の目的は種族の維持にあるから、子の生存し得べき見込みが附いた上は、親の身體は最早無用となつて死ぬべき筈である。親と子とが相知らぬやうな種類の動物では、卵が生まれてしまへば、親はいつ死んでも差支はない。特に父親の方は受精を濟ませば最早用はないから、なるべく早く死んだ方が却つて種族の生存のためには經濟に當る。蜜蜂の雄が女王の體と繋がつたまゝで氣絶して死ぬのも、「かまきり」の雄が交尾しにまゝで頭の方から雌に食はれるのも、この理窟に過ぎぬ。子を産めば直に死ぬ動物は隨分多いが、或る種類の「さなだむし」の如くに子を産み出すべき孔がなく、子は親の體を破つて外に出るやうな動物では、親の個體を標準として論ずれば、姙娠は即ち自殺の覺悟に當る。これらは、子が出來ると同時に親の近々死なねばならぬことが定まるのであるが、一旦子が出來てから後に、親が子のために命を捨てるものも、決して珍しくはない。獸類や鳥類の如くに、親が子を大事に養育するものでは不意に敵に攻められた場合に親が身を以て子供を護り、そのため一命を落すことのあるは、獵師などから屢々聞く所であるが、かくまで執心に子を保護する性質が親に具はつてあることは、種族維持のために頗る有利であるから、本能として今日の程度までに進み來つたのであらう。

[やぶちゃん注:「蜜蜂の雄が女王の體と繋がつたまゝで氣絶して死ぬ」ウィキの「ミツバチ」には、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis の『オスは女王バチと交尾するため、晴天の日を選んで外に飛び立つ。オスバチは空中を集団で飛行し、その群れの中へ女王バチが飛び込んできて交尾を行う。オスバチは交尾の際に腹部が破壊されるため交尾後死亡するが、女王バチは巣に帰還し産卵を開始する。交尾できなかったオスも巣に戻るが、繁殖期が終わると働きバチに巣を追い出される等して死に絶える』とあるが、『交尾の際に腹部が破壊されるため交尾後死亡する』理由が明確に述べられていないので、さらに調べてみると、個人サイトと思われる中の「養蜂・蜜蜂の神秘」の「4 女王蜂の交尾」に以下のようにある。『新女王は誕生して』七日目以後の、『晴れて風の少ない日に、生涯一度だけの、巣の外での交尾に出かけます。こうした交尾日和には周辺の地域にいる雄バチは地上』十メートルほどの『上空の一箇所に集まりたむろしています。別々の群のオスが何故一箇所に集まることが出来るかはフェロモンを感じてのことです。新女王はオスがたむろしている場所に現れて飛びます。女王を見るとオスは一斉に追いかけ、先頭のオスが交尾します。交尾が終わったオスは挿入したペニスを抜こうとしますが』、『ペニスと貯精嚢(睾丸)を女王の膣に残した状態で腹部からちぎれて、地上に落下して絶命します。次のオスが女王に追いつき、前のオスが残した性器を口で抜き落として、先のオスと同様に交尾します。こうした交尾を』十~十五匹の『オスが次々に繰り返しては落下して絶命します。十分にオスの精子を貯精嚢に溜め込んだ女王は、最後のオスの性器を付けたまま巣に帰還し、働き蜂が最後のオスの性器を除去し、以後、受精卵を産み続けることが出来ます。時にはオスを作るために貯精嚢の蓋を閉じて無精卵を産み分けることもできます。不幸にも交尾出来なかった多くのオスはそれぞれの巣に戻ります』とあった(下線やぶちゃん)。凄絶の極み!!!

『「かまきり」の雄が交尾したまゝで頭の方から雌に食はれる』以前に注しているが、再度注しておく。種によって異なるものの、最新の知見では交尾中にに食われる頻度は必ずしも高くはないという。私は、カマキリ(昆虫綱カマキリ(蟷螂)目 Mantodea)の交尾時には、種によっては高い頻度でに食われ、それはカマキリが近眼で、交尾時でも通常の際と同様に動くものを反射的に餌として捕食してしまうものと認識していた(実際、私は小学生の時に頭部を交尾をしたカマキリで、一方の(と思われる個体の)頭が失われているのを見たことがあったし、サソリのある種ではが頭胸部の下方に無数の子供を抱いて保育するが、落下して母親の視界に入ってしまうと、彼らは近眼であるために大事に育てているはずの子供を食べてしまう映像を見たことがある)。また、正上位での交尾ではそのリスクが高まるため、近年、のカマキリの中には後背位で交尾をして交尾後直ちに現場を去るという個体が見られるようになったという昆虫学者の記載を読んだこともあって、かつて授業でもしばしばそう話したのを記憶している諸君も多いであろう。しかし今回、ウィキの「カマキリ」の「共食い」の記載の見ると、幾分、異なるように書かれてある。一応、以下に引用しておきたい(オス(雄)・メス(雌)を記号に代えた)。『共食いをしやすいかどうかの傾向は、種によって大きく異なる。極端な種においてはに頭部を食べられた刺激で精子嚢をに送り込むものがあるが、ほとんどの種のは頭部や上半身を失っても交尾が可能なだけであり、自ら進んで捕食されたりすることはない。日本産のカマキリ類ではその傾向が弱く、自然状態でを進んで共食いすることはあまり見られないとも言われる。ただし、秋が深まって捕食昆虫が少なくなると他の個体も重要な餌となってくる』。『一般に報告されている共食いは飼育状態で高密度に個体が存在したり、餌が不足していた場合のものである。このような人工的な飼育環境に一般的に起こる共食いと交尾時の共食いとが混同されがちである。交尾時の共食いもが自分より小さくて動くものに飛びつくという習性に従っているにすぎないと見られる。ただしを捕食することはなく、遺伝子を子孫に伝える本能的メカニズムが関係していると考えられる(すなわちを捕食してはDNAが子孫に伝わらなくなる)。また、このような習性はクモなど他の肉食性の虫でも見られ、特に珍しいことではない』『また、それらのを捕食する虫の場合、が本能的にいくつものと交尾をし、体力を使いすぎて最後に交尾したの餌になっている場合もある』。私の話はカマキリの種によっては誤りではない、と一応の附言はしておきたい。]

『或る種類の「さなだむし」の如くに子を産み出すべき孔がなく、子は親の體を破つて外に出る』ウィキの「サナダムシ」によれば、サナダムシは扁形動物門条虫綱 Cestoda に属する成体の形状が真田紐(さなだひも)に似ている寄生虫の総称で(英語も「Tapeworm」)、単節条虫亜綱 Cestodaria 及び多節条虫(真正条虫)亜綱 Eucestoda の二亜綱に分かれるものの、殆どは後者に属する。

単節条虫亜綱は、

両網目 Amphilinidea(アンフィリナ/ヨウヘンジョウチュウ(葉片条虫):チョウザメ(条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科 Acipenseridae のチョウザメ(蝶鮫)類)に寄生)

と、

槢吸盤(しゅうきゅうばん)目 Gyrocotylidea(ギロコティレ/エンバイジョウチュウ(円杯条虫):ギンザメ(軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma )に寄生)

で、多節条虫(真正条虫)亜綱の方は、

果頭目 Caryophyllidea

箆頭(へいとう?)目 Spathebothriidea

錐吻目 Trypanorhyncha

擬葉目 Pseudophyllidea(裂頭条虫科裂頭条虫属コウセツレットウジョウチュウ(広節裂頭条虫=ミゾサナダ)Diphyllobothrium latum・裂頭条虫科スピロメトラ属マンソンレトウジョウチュウ(マンソン裂頭条虫)Spirometra erinaceieuropaei・裂頭条虫科裂頭条虫属ニホンカイレットウジョウチュウ(日本海裂頭条虫)Diphyllobothrium nihonkaiense・裂頭条虫科 Sparganum 属ガショクコチュウ(芽殖孤虫)Sparganum proliferum 等)

盤頭目 Lecanicephalidea

無門目 Aporidea

四葉目 Tetraphyllidea(キュウヨウジョウチュウ(吸葉条虫/学名不詳)・キュウコウジョウチュウ(吸鈎条虫/学名不詳)

二葉目 Diphyllidea

菱頭目 Litobothridea

日本条虫目 Nippotaeniidea

変頭目 Proteocephalidea

二性目 Dioectoaeniidea

円葉目 Cyclophyllidea(ディフィリディウム科(新科名)ウリザネジョウチュウ(瓜実条虫=犬条虫)Dipylidium caninum・テニア科 Cysticercus 属ユウコウジョウチュウ(有鉤嚢虫=カギサナダ)Cysticercus cellulosae テニア科テニア属ムコウジョウチュウ(無鉤条虫=カギナシサナダ)Taenia saginata・テニア科エキノコックス属 Echinococcus エキノコックス類等)

に分類され、多くの種が存在する。彼らは普通は雌雄同体であり、同ウィキに『多節条虫亜綱のものは、頭部とそれに続く片節からなる。頭部の先端はやや膨らみ、ここに吸盤や鉤など、宿主に固着するための構造が発達する。それに続く片節は、それぞれに生殖器が含まれており、当節から分裂によって形成され、成熟すると切り離される。これは一見では体節に見えるが、実際にはそれぞれの片節が個体であると見るのが正しく、分裂した個体がつながったまま成長し、成熟するにつれて離れてゆくのである。そのため、これをストロビラともいう。長く切り離されずに』十メートルにも『達するものもあれば、常に数節のみからなる』数ミリメートル程度の『種もある。切り離された片節は消化管に寄生するものであれば糞と共に排出され、体外で卵が孵化するものが多い』とある。しかし丘先生のおっしゃる種は、そうした分裂生殖した個体の謂いとは異なるものとしか読めない。種同定することが出来ない(だいたいからして寄生虫の分類学は本邦ではかなり遅れているようである)。母体を食い破って幼体が出現するというサナダムシの仲間、識者の御教授を乞うものである。]

 

 鳥獸などの如き神經系の發達した動物が、命をも捨てて我が子を護る働は、人間自身に比べて、よく了解することが出來るが、小さい蟲類になると、人間では思ひ掛けぬやうな方法で、子を保護するものがある。蛾の中で「まいまい蛾」と稱する普通の種類は、卵を一塊産み著けると、その表面に自分の身體に生えて居た毛を被せて蔽ひ包み、まるで黃色の綿の塊の如くに見せて置く。これは母親が即座に命を捨てるわけではないが、まづ自分の毛を全く失ふこと故、人間の女に譬へていへば恰も綠の黑髮を根元から切つて子供の夜具に造り、しかる後に自害するやうなものであらう。また植物に大害を與へる貝殼蟲の類には、死んでもその場處に留まり、自分の乾からびた死骸を以て卵の塊を蔽ひ保護するものがある。貝殼蟲は初は「ありまき」の如くに六木の足を以て匍ひ歩くが、一箇處に止まり、吻を植物の組織の中へ差込んで動かぬやうになると、體が恰も皿か貝殼かの如き形に變じ、一見しては昆蟲とは思はれぬやうなものになる。そして成熟して産卵する頃に至ると、蟲の柔い身體は背面の貝殼の如き部とは離れ、貝殼に被はれたまゝでその内で卵を産むが、卵を一粒産むたびに親の身體はそれだけ容積が減じ、悉く卵を産み終れば貝殼の内部は全く卵のみで滿され、親の體は恰も空の紙袋の如くになつて貝殼の一隅に縮んでしまふ。これに類する死に方をするものはなほ幾つもあるが、こゝには略して、次に一つ全く別の方面に、親が子のために一身を犧牲に供するものの例を擧げて見よう。

[やぶちゃん注:「まいまい蛾」鱗翅(チョウ)目ヤガ上科ドクガ科マイマイガ属マイマイガ Lymantria dispar である。ウィキの「マイマイによれば、ドクガ科ではあるが、『アレルギーでもない限り、人が害を被ることはほとんどない』。但し、一齢幼虫には『わずかだが毒針毛があり、触れるとかぶれる。卵』・二齢以降の幼虫・繭・成虫『には毒針毛はない』とあるので偏見を持たぬように。また、『他のドクガ科と同様、卵は一箇所にまとまって産み付けられ、表面にはメスの鱗毛が塗られ保護される』とある(下線やぶちゃん)。またこの和名については「舞々蛾」らしく、本種は七月から八月にかけて羽化するが、『オス成虫は活動的で、日中は森の中を活発に飛び回る。和名のマイマイガはオスのこの性質に由来していると言われる。対照的に、メスは木の幹などに止まってじっとしており、ほとんど飛ぶことはない。交尾後に産卵を終えると成虫は死に、卵で越冬する』とある。

「貝殼蟲」有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea に分類される昆虫の総称。ウィキの「カイガラムシ」によれば(下線やぶちゃん)、『果樹や鑑賞樹木の重要な害虫となるものが多く含まれ』る一方、古くから『いくつかの種で分泌する体被覆物質や体内に蓄積される色素が重要な経済資源ともなっている分類群である』。『熱帯や亜熱帯に分布の中心を持つ分類群であるが、植物の存在するほぼ全ての地域からそれぞれの地方に特有のカイガラムシが見出されており、植物のある地域であればカイガラムシも存在すると考えても差し支えない。現在』、世界では約七千三百種が『知られており、通常は』二十八科に『分類されている。ただしカイガラムシの分類は極めて混乱しており、科の区分に関しても分類学者により考え方が異なる』。『日本に分布する代表的な科としてはハカマカイガラムシ科 Orthezidae 、ワタフキカイガラムシ科 Margarodidae 、コナカイガラムシ科 Pseudococcidae 、カタカイガラムシ科 Coccidae 、マルカイガラムシ科 Diaspididae などがある』。同じような食性を持つ半翅目の腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea のアブラムシ類(本文の「ありまき」のこと)などの腹吻類の『昆虫は、基本的に長い口吻(口針)を植物組織に深く差し込んで、あまり動かずに篩管液などの食物を継続摂取する生活をし、しばしば生活史の一時期や生涯を通じて、ほとんど動かない生活をする種が知られる。その中でもカイガラムシ上科は特にそのような傾向が著しく、多くの場合に脚が退化する傾向にあり、一般的に移動能力は極めて制限されている』。『脚が退化する傾向にはあるものの、原始的な科のカイガラムシではそこに含まれるほとんどの種が機能的な脚を持っており、中には一生自由に動き回ることができる種もいる。イセリアカイガラムシやオオワラジカイガラムシはその代表例で、雌成虫に翅は通常無いものの、雌成虫にも脚、体節、触角、複眼が確認できる。しかしマルカイガラムシ科などに属するカイガラムシでは、卵から孵化したばかりの』一齢幼虫の『時のみ脚があり自由に動き回れるが』、二齢幼虫以降は『脚が完全に消失し、以降は定着した植物に完全に固着して生活するものがいる。こうしたカイガラムシでは』、一齢幼虫以外は『移動することは不可能で、脚以外にも体節、触角、複眼も消失する。雌の場合は、一生を固着生活で送り、そのまま交尾・産卵、そして死を迎えることになる』。『基本的には固着生活を営む性質のカイガラムシでも、一部の科以外のカイガラムシでは機能的な脚を温存しており、環境が悪化したり、落葉の危険がある葉上寄生をした個体が越冬に先駆けて、歩行して移動する場合もある』。『だが、基本的に脚が温存されるグループのカイガラムシであっても、樹皮の内部に潜入して寄生する種やイネ科草本の稈鞘』(かんしょう:「稈」は稲や竹など中空になっている茎の部分で、イネ科植物全般の茎につく葉の基部にある鞘(さや)状の部分を指す)『下で生活する種などでは、脚が退化してしまい成虫においては痕跡的な脚すら持たないものもいる』。『また固着性の強い雌と異なり、雄は成虫になると翅と脚を持ち、自由に動けるようになる。だが、雄でも幼虫の頃は脚、体節、触角、複眼が消失し、羽化するまで固着生活を送る種が多い』。『もうひとつカイガラムシに特徴的な形質は体を覆う分泌物で、虫体被覆物と呼ばれる。虫体被覆物の主成分は余った栄養分と排泄物である。多くのカイガラムシが食物としているのは篩管』(しかん:「師管」とも書き、植物の維管束を構成する主部分。葉で合成された同化物質を下へ流す通管で細長い細胞が縦に繫がった管状組織。細胞の境の膜(篩板)に多数の小孔を有する)『に流れる液であり、ここに含まれる栄養素は著しく糖に偏った組成となっている。これをカイガラムシの体を構成する物質として同化すると、欠乏しがちな窒素やリンなどと比して、炭素があまりにも過剰になってしまうので、これを処理する必要がある。処理の手段の一つは食物に含まれる過剰の糖と水分を、消化管にある濾過室という器官で消化管の経路をショートカットさせて糖液として排泄してしまうことであり、この排泄された糖液を甘露という。また、体内に取り込まれた過剰の糖分は炭化水素やワックスエステル、樹脂酸類などといった、蝋質の分泌物に変換されて体表から分泌され、虫体被覆物となる。カイガラムシの種類によっては、甘露などの消化管からの排泄物を体表からの分泌物とともに虫体被覆物の構成要素としている』。『通常虫体が露出しているように見える種のカイガラムシでも、その表面は体表の分泌孔や分泌管から分泌されたセルロイド状の分泌物の薄いシートで被覆されている。また、分泌物の量が多いものでは体表が白粉状や綿状、あるいは粘土状の蝋物質で覆われていることが容易に観察できる』。『マルカイガラムシ科のカイガラムシは多くの科のカイガラムシとは少々様相が異なり、英語で Armored scale insects と呼ばれるように、虫体からは分離して、体の上を屋根のように覆う介殻と呼ばれる貝殻状の被覆物の下で生活している。これは体表の腺から分泌される繊維状の分泌物などを腹部末端の臀板と呼ばれる構造を左官職人の用いる鏝(こて)のように用いて壁を塗るように作り上げられる。このとき虫体は口針を差し込んでいる箇所を中心に回転運動して広い範囲に分泌物を塗りこむ。この介殻も、余った栄養分と排泄物から成り立っている』。『典型的な不完全変態である他のカメムシ目(半翅目)の昆虫と異なり、仮変態(新変態、副変態とも)と呼ばれる変態を行う。雌雄では成長過程が大幅に異なっている』。『雌の場合』、二齢幼虫を『経て成虫になるが、脱皮せずにそのまま成虫になる種が多く見られる。これは脚などが消失し、固着生活を送る種では顕著に見られる。すなわち、羽化をせずに成虫になる。このような種では体内に大きな卵のうを有しているため産卵活動もせず、交尾後、雌成虫の死骸から孵化した』一齢幼虫が『這い出してくる形となる。また、脚などが消失せず、移動生活を送る種でも、羽化して成虫になる種は多くない』。雄の場合、三齢幼虫を『経て成虫になるが』、この三齢幼虫は『擬蛹と呼ばれる。つまり、完全変態昆虫の蛹に該当するが、体内構造が完全変態昆虫の蛹のそれとは大幅に異なっている』。その特異性から『「カイガラムシの雄には蛹の期間があるため、完全変態である」という説明がよくされるが、厳密には不完全変態であり、不完全変態と完全変態の中間的な性質をもち特殊化した物と考えられている。前出の仮変態もこれに因んでいる。そして、羽化して翅と脚を有する成虫になる』。翅は二対四枚あるが、退化して一対二枚しかない『種も多く存在する。雄成虫には口吻がなく、精巣が異常なまでに発達している。そして、交尾を済ませるとすぐに死んでしまう。雄成虫の寿命は数時間から数日程度で、交尾のためだけに羽化する』。『近年、カイガラムシ上科に属する種の中には、雌雄が逆転し、雄が一生を固着生活で終えるのに対し、雌が擬蛹~羽化によって有翅の成虫となる種も発見されている。そして、活発に交尾・産卵をして短い成虫期間を生殖に費やす。また、雌雄ともに擬蛹~成虫というプロセスをたどる種も発見されている。さらには、最終齢幼虫(擬蛹)が不動ではなく摂食する種も存在する。だが、これらの種をカイガラムシ上科に分類するべきではない、とする学説も存在する。カイガラムシの分類学的研究が大幅に遅れているため、これらの種に対して決定的な分類は未だされていない』。『草食性で、大半の被子植物に寄生し、口吻を構成する口針を植物の組織に深く突き刺して、篩管などの汁液を摂取する。食物は維管束から篩管液を摂取するものが多いが、葉に寄生するものを中心に、葉肉細胞などの柔組織の細胞を口針で破壊して吸収するものも少なくない。雌成虫は口吻が異常なまでに発達している種が多く、固着生活を送る種では顕著である。これらの種では寄生している植物から引き剥がしても、口吻が確認できないことが多い。引き剥がした際、口吻まで引きちぎられて宿主植物の内部に残存してしまっていることが多いからである。そのため、宿主植物から引き剥がされた固着性のカイガラムシは、すぐに死んでしまうことが多い。また、移動生活を送る種の場合は、口吻で植物体にくっついているが、それ以外の部分は密着していないため、寄生している植物から引き剥がしても口吻が確認できる。腹面に隠れている頭部全体や脚も確認できることが多い』。以下、「資源生物」の項(「害虫」の項は思うところあって省略する。「害虫」とは人間の勝手な命名であって、彼らはただ生命を維持するために少しばかりの摂餌をしているに過ぎない。爆発的な個体数の増加は寄生虫や病気の蔓延と次世代の飢餓を惹き起こして繁栄即滅亡の危機に繋がる。そうしてそういう異常発生が生じるのは大抵が人が手を入れた非自然環境で発生する)。『カイガラムシの資源生物としての利用は、多くの場合体表に分泌される被覆物質の利用と、虫体体内に蓄積される色素の利用に大別される』。『被覆物質の利用で著名なものはカタカイガラムシ科のイボタロウムシ Ericerus pela (Chavannes, 1848) である。イボタロウムシの雌の体表は薄いセルロイド状の蝋物質に覆われるだけでほとんど裸のように見えるが、雄の』二齢幼虫は『細い枝に集合してガマの穂様の白い蝋の塊を形成する。これから精製された蝋は白蝋(Chinese wax)と呼ばれ、蝋燭原料、医薬品・そろばん・工芸品・精密機械用高級ワックス、印刷機のインクなどに使われている。主な生産国は中国で、四川省などで大規模に養殖が行われている。かつては日本でも会津地方で産業的に養殖された歴史があり、会津蝋などの異名も持つが、現在では日本国内では産業的に生産されていない。会津蝋で作られた蝋燭は煙がでないとされ珍重された』。『色素の利用で著名なものに中南米原産のコチニールカイガラムシ科のコチニールカイガラムシ Cochineal Costa, 1829 がある。エンジムシ(臙脂虫)とも呼ばれ、ウチワサボテン属に寄生し、アステカやインカ帝国などで古くから養殖されて染色用の染料に使われてきた。虫体に含まれる色素成分の含有量が多いので、今日色素利用されるカイガラムシの中ではもっともよく利用され、メキシコ、ペルー、南スペイン、カナリア諸島などで養殖され、染色用色素や食品着色料、化粧品などに用いられている。日本でも明治初期に小笠原諸島で養殖が試みられた記録があるが、失敗したようである』。『こうしたカイガラムシの色素利用は新大陸からもたらされただけでなく、旧大陸でも古くから利用されてきた。例えば地中海沿岸やヨーロッパで古くからカーミンと呼ばれて利用されてきた色素はタマカイガラムシ科の Kermes ilicis (Linnaeus, 1758) から抽出されたものだった。カイガラムシ起源の色素はすべてカルミン酸とその近縁物質で、この名称はカーミンに由来する。ネロ帝の時代に、ブリタンニア地方に生息していたカイガラムシを染料として利用する方法が発見され、属州から税金の代わりにとして納められていた時代もある』。『虫体被覆物質と虫体内色素の両方を利用するものに Lac に代表されるラックカイガラムシ科』 Kerriidaeの『ラックカイガラムシ類が挙げられ、インドや東南アジアで大量に養殖されている。ラックカイガラムシの樹脂様の虫体被覆物質を抽出精製したものはシェラック(Shellac、セラックともいう)と呼ばれ、有機溶媒に溶かしてラックニスなどの塗料に用いられるほか、加熱するといったん熱可塑性を示す一方である温度から一転して熱硬化性を示すので様々な成型品としても用いられ、かつてのSPレコードはシェラック製だった。化粧品原料、錠剤、チョコレートのコーティング剤としても使われる』。『また、ラックカイガラムシの虫体内の色素は中国では臙脂(えんじ)や紫鉱、インドではラックダイと呼ばれ、染料として古くから盛んに用いられた』。『また、特殊な利用に糖分を多く含んだ排泄物の利用がある。旧約聖書の出エジプト記にしるされているマナと呼ばれる食品は、砂漠地帯で低木に寄生したカイガラムシの排泄した排泄物(甘露)が急速に乾燥して霜状に堆積したものと推測されている』。]

 

 夏日花のある處に澤山飛んで來「はなばち」・「まるばち」などといふ蜂の類は體が丸くて、黑色や黄色の「びろうど」の如き毛で被はれて居るが、この蜂の雌が、冬成蟲のまゝで隱れて居るのを取つて解剖して見ると、その體内に奇妙な寄生蟲の居ることが往々ある。長さ一・五糎ばかりに達する小さな「なまこ」狀の囊で、その内には小さな蛔蟲に似た蟲が澤山居るが、さてこの囊の形が内なる子供と著しく違ふから、確に親であるとも見えず、一體如何にして出來たものか、そのまゝでは到底知れ難い。しかし内なる子供が生長して終に次の代の子を産むに至るまでの發育の順序を詳に調べると、この囊の素性が明に知れる。子供は囊の内で或る程度まで生長すると、囊を破つて出で、次いで蜂の體からも出で地中で獨立に生活し、長さ一粍位になると生殖の器官も十分に成熟する。かくして交尾の後、雄は直に死んでしまふが、雌は「はなばち」の體内に潜り込み、その中で母の體内の子供が段々發育するのである。そしてその際、母の體に意外な變化が生ずる。即ち前圖の通り、生殖器の開き口に直に接する膣と稱する部が、恰も巾著を裏返しにした如くに裏返しとなつて、生殖器の孔から體の外面に現れ出る。膣の内面は外面となつて、直に宿主動物の組織に觸れてこれから滋養分を吸收し、膣の續きなる子宮は、内に子を容れたまゝ膣が裏返しになつたために出來た囊の内に入り來り、内の子の生長すると共に次第に大きくなる。これに引き換へ、膣と子宮とが體外へ脱出した後の母の體はそのまゝ少しも生長せぬから、膣の裏返しになつて出來た囊が長さ一・五糎にもなつた頃には、たゞ極めて小さな附屬物として、その一端に附著して居るに過ぎぬ。膣が裏返しになつて體外へ現れ出ることは、「膣外翻」と稱して人間の女にも往々見る所であるが、こゝに述べた蟲では、このことが規則となり、姙娠すれば必ず膣外翻が起り、しかも新に外向きになつた膣の内面は、宿主動物から滋養分を吸收して、胎兒に供給すべき器官として更に大に發達するのである。その代り、殘りの母の體は最早不用物として、終には宿主動物の組織に吸收せられてしまふの外はない。子を宿主動物の體内でよく發育せしめるために、母體にかやうな變化の生ずる蟲は、今述べたものの外になほ甲蟲類に寄生するもの、蠅類に寄生するものなどが幾種もある。

Hatikiseityu

[     蜂の寄生蟲

(い) 膣の半ば裏返つで出た雌(長さ約一粍)

(ろ) 膣が全く裏返つて大きくなつた雌

(は) 生長し終つた膣の囊(長さ一・五糎)その一端に附著するのは雌の體

(に) 雄]

 

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものであるが、実は本図は底本画像では上段右端の図が「は」となっていて、「は」が二箇所で「に」が存在しない。これは明らかに誤植であるので、学術文庫で確認したところ、上段右端の図は「に」で同寄生虫のの図であり、下段の大きなものは実は同寄生虫のの膣の巨大化したもの(右で左にカーブした端に糸のように附着している逆「へ」の字型のものがの体)であることが判った。そこで「に」であるべき「は」を「に」に見えるよう、加工補正を施しておいた。また、私の判断で読まれる方の意外感をなるべく保つために今までとは違って最後の方に図を持って来て置いた。この寄生虫は図のその形状から見て線形動物門 Nematoda の線虫類と見て、画像で海外サイトを検索してみたところ、どうもマルハナバチに寄生する(同種の英語版ウィキを参照)双腺綱Tylenchida Sphaerulariidae Sphaerularia Sphaerularia bombi なる種或いはその仲間であるように私には思われた(例えばロシア語のサイトРис. 192 (zu) Sphaerularia bombi из полости тела шмеляの図と解説を見よ)。識者の御教授を乞うものである(それにしても日本の学術記載の貧困さは啞然とするばかりである)。

「はなばち」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科 Apoidea の属する蜂類の中で、幼虫の餌として花粉や蜜を蓄える類の総称である。代表種はミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis のミツバチ類・ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa のクマバチ類・ミツバチ亜科(或いはマルハナバチ亜科 )マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus のマルハナバチ類などで、参照したウィキの「ハナバチ」によれば、『英語のBeeの意味する範囲に相当する』とある。

「まるばち」現行ではこの呼び名は一般的でない。前注のマルハナバチ属 Bombus のマルハナバチ類ととっておく。

「膣外翻」「ちつがいはん」と読む。「人間の女にも往々見る所」とあるが、これは現行では重症の「骨盤臓器脱」とされる「完全子宮脱」で、膣が完全に外翻(体の外にめくれ出る状態)して子宮が股間部にぶら下がった形となる症状を指す(医療法人「四谷メディカルキューブ」公式サイト内の骨盤臓器脱(性器脱)に拠る)。

「甲蟲類に寄生するもの、蠅類に寄生するもの」識者の御教授を乞う。]

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 三 子の飼育(Ⅱ)

Penginesa

[子に餌を與へる「ペンギン鳥」]

 [やぶちゃん注:本図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 親鳥が雛を養ふ仕方も、種類によつて種々に違ふ。燕などは捕へて來た昆蟲をそのまゝ雛の口に移してやるが、雀や「からす」もこれと同樣で、そこで啄んだ食物をそのまゝ子に與へるのを屢々見掛ける。鷲や鷹の類は捕へ殺した餌を、更に小さく裂いて雛に食ひ易いやうにしてやる。動物園の鶴なども子にやるときには、「どぜう」をまづ少さく嚙み切り、水で洗うて與へる。また「ペリカン」の如き鳥は、一度嚥み込んだ餌を口まで吐き出して子に啄ませる。鳩類では雛が孵化する頃には、雌雄ともに嗉囊の壁が厚くなり、特に一種の濃い滋養液を分泌し、これを口から吐き出して子の口に移してやる。昔から『「からす」に反哺の孝がある』といひ傳へたのは恐らく、鳥類の親が雛の口の中へ餌を移し入れてやる所を遠方から見て、子が親を養ふのかと思ひ誤つたためであらう。烏類に限らず如何なる動物にも、子が生長し終つた後に、老耄して生き殘つて居る親に餌を與へて養ふものは、決して一種たりともない。それはかゝることをしても種族の維持のためには何の役にも立たぬのみか、餌が少くて生活の困難な場合には、却つて種族のために明に不利益になるからであらう。

[やぶちゃん注:「嗉囊」「そなう(そのう)」と読む。鳥類(他に軟体動物・昆虫類・貧毛類の多くの種が持つ)の消化管の一部で、食道に続く薄壁の膨らんだ部分の呼称。食べ物を一時的に蓄えておく場所とされる。

「どぜう」正しい歴史的仮名遣表記は「どぢやう」である。私の中毒(数ヶ月食べないと気持ちが沈んでくるのである)の店駒形ぜう」公式サイトの「のれんの由来」に、『「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案で』、文化三(一八〇六)年の『江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもら』ったところが、『これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたと』伝える、とある。目から泥鰌(どぜう)!

『「からす」に反哺の孝がある』梁武帝の「孝思賦」や、一二四六年成立の宋代の祝穆(しゅくぼく)編になる類書(辞書)「事文類聚」などの故事に基づく「慈烏反哺(じうはんぽ)」「烏(からす)に反哺(はんぽ)の孝(こう)あり」という故事成句。鴉は成長した後は親鳥の口に餌を含ませて(「反」は「返す」の、「哺」は口の中の食物の意)養育の恩に報いる、という丘先生のおっしゃる通り、誤認に基づいたもので、畜生で死肉を啄む邪悪な鴉でさえも親の恩に報いるのであるから、ましてや、人は親孝行をせねばならぬという意。

「ペリカン」鳥綱真鳥亜綱新鳥下綱新顎上目ペリカン目ペリカン科ペリカン属 Pelecanus のペリカンの仲間。コロニー(集団繁殖地)を形成することで知られる。ウィキの「ペリカンによれば、『ペリカンが胸に穴を開けてその血を与えて子を育てるという伝説があり』、『あらゆる動物のなかで最も子孫への強い愛をもっているとされる。この伝説を基礎として、ペリカンは、全ての人間への愛によって十字架に身を捧げたキリストの象徴であるとされ』、『このようなペリカンをキリストのシンボルとみなす記述は、古くは中世の著作にも見つけることができる』。また、カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae の鵜の類を指す「鵜」(音は「ダイ・テイ」)という漢字があるが、これは『もともとはペリカンの意である』とある。目から鵜(ぺりかん)! にしても、何故、挿絵は「ペリカン」でなく、「ペンギン」(新顎上目ペンギン目 Sphenisciformes)なんじゃろ? 本文に言及がなく挿絵が載る例は今までもなかった訳ではないものの、極めて異例ではある。しかも「ペリカン」と「ペンギン」は妙に文字が似ている。丘先生か或いは編集を手伝った助手が図を選ぶ際、「ペリカン」を「ペンギン」と誤認した可能性、或いは子に餌を与えるペリカンの適当な原図が見当たらなかったので「ペンギン」で代用した可能性が想定される。]

Hatiesahakobu

[餌を運ぶ蜂]

 [やぶちゃん注:本図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 昆蟲類の中でも蜂の類には、子を養ふために親蟲が盛に餌を集めて貯藏するものがある。蟻や蜜蜂のことは省くとして他の種類に就いていうて見るに地中に孔を穿つてその中に卵を産んで置く所謂「地峰」の類は、晝の間は絶えず飛び廻つて「くも」や昆蟲類などを捕へ、尻の先の毒針を以てその蟲を刺して麻痺せしめ、動けぬやうにして置いてこれを孔の中へ運び入れ、自分の幼蟲に食はせる。

[やぶちゃん注:「ファーブル昆虫記」の圧巻の観察(昆虫が苦手な小学五年の私が苦手であることを忘れて読みふけった箇所であった)で知られる、対象を美事な針さばきで麻酔させ(特定の神経節を狙う)、卵を産み込み、土中に封鎖、麻酔された対象生物は生きながらにして蜂の幼虫に内側から食われるという、強烈なあの、巣を造らない、

 単独性「狩り蜂」

のことである。具体的には、

 ドロバチ(ドロバチ科Eumenidae

 アナバチ(ミツバチ上科アナバチ(ジガバチ)科 Sphecidae

 ベッコウバチ(ベッコウバチ科 Pompilidae

等の仲間で、親が幼虫の摂餌対象として選んで卵を産み附けるのは、丘先生の記すように昆虫やクモ類である。図のそれは奥の地面に収納するための穴のようなものが描かれていること、触角の形状が顕著でないことなどから、ジガバチ科の類のように私には見うけられる。因みに、よく似た習性のものに通常は麻酔をせずに卵を産み附ける(後掲するように中間型の特異種がいる)ところの、

 「寄生蜂」

とは異なるので注意されたい。ウィキの「寄生バチ」によれば、膜翅(ハチ)目 Hymenoptera 中、『生活史の中で、寄生生活する時期を持つものの総称である。分類学的には、ハチ目ハチ亜目寄生蜂下目 Parasitica に属する種がほとんどであるが、ヤドリキバチ上科(ハバチ亜目)』(ヤドリキバチ上科 Orussoidea・ハバチ亜目=広腰亜目 Symphyta)や『セイボウ上科(ハチ亜目有剣下目)』(セイボウ上科 Chrysidoidea・有剣下目 Aculeata)『など、別の分類群にも寄生性の種がいる』とある。以下動物寄生の箇所を引く(植物体寄生種もいる)。『動物に寄生するものは、一匹のメスが宿主に卵を産みつける。卵から孵った幼虫は、宿主の体を食べて成長する。その過程では宿主を殺すことはないが、ハチの幼虫が成長しきった段階では、宿主を殺してしまう、いわゆる捕食寄生者である』。『外部寄生のものは宿主の体表に卵が産み付けられ、幼虫はその体表で生活する。内部寄生のものも多く、その場合、幼虫が成熟すると宿主の体表に出てくるものと、内部で蛹になるものがある』。『宿主になるのは昆虫とクモ類で、昆虫では幼虫に寄生するものが多いが、卵に寄生するものもある。寄生の対象となる種は極めて多く、昆虫類ではノミやシミなど体積の問題がある種を除いて寄生を受けない種はないといわれ、すでに寄生中のヤドリバチやヤドリバエの中にすら二重三重に寄生する。ただし、一部の種には後から寄生してきたハチを幼虫が食い殺す例もあることが発見されている』。『動物に寄生する寄生バチは、いわゆる狩りバチと幼虫が昆虫などを生きながら食べ尽くす点ではよく似ている。相違点は、典型的な狩りバチでは雌親が獲物を麻酔し、それを自分が作った巣に確保する点である。その点、寄生バチは獲物(宿主)を麻酔せず、またそれを運んで巣穴に隠すこともない。しかし中間的なもの(エメラルドゴキブリバチなど)が存在し、おそらく寄生バチから狩りバチが進化したと考えられる』とある。このハチ亜目ミツバチ上科セナガアナバチ科セナガアナバチ属エメラルドゴキブリバチ Ampulex compressa はゴキブリを特異的に幼虫宿主に選ぶことで知られ、見た目はスマートで名前通りの金属光沢を持った青緑色で美しい種であるが、その産卵生態たるや、一見、猟奇的ですこぶる科学的で、非常に面白い。ウィキの「エメラルドゴキブリバチ」から引いておく。エメラルドゴキブリバチは寄生蜂グループとしては異例に、『ゴキブリの特定の神経節を狙って刺していることが』確認されており、一回目の『刺撃では胸部神経節に毒を注入し、前肢を穏やかかつ可逆的に麻痺させる。これは、より正確な照準が必要となる』二回目の『刺撃への準備である』。二回目の『刺撃は脳内の逃避反射を司る部位へ行われる。この結果、ゴキブリは』三十分ほど『身繕いの動作を行い、続いて正常な逃避反射を失って遅鈍な状態になる』。二〇〇七年には『エメラルドゴキブリバチの毒が神経伝達物質であるオクトパミン』(octopamine)『の受容体をブロックしていることが明らかとなっ』ている。『続いてハチはゴキブリの触角を』二本とも『半分だけ噛み切る』(絶妙!!!)。『この行動はハチが自分の体液を補充するため、もしくはゴキブリに注入した毒の量を調節するためであると考えられている。毒が多すぎるとゴキブリが死んでしまい、また少なすぎても幼虫が成長(後述)する前に逃げられてしまうからである。エメラルドゴキブリバチはゴキブリを運搬するには体が小さい。従って巣穴までゴキブリを運ぶ際には、ゴキブリの触角を引っ張って誘導するように連れて行く。巣穴に着くと、ハチはゴキブリの腹部に長径』二ミリメートルほどの『卵を産み付ける。その後ハチは巣穴から出てその入り口を小石で塞ぎ、ゴキブリが他の捕食者に狙われないようにする』。『逃避反射が機能しないため、ハチの卵が孵るまでのおよそ』三日間、『ゴキブリは巣穴の中で何もせずに過ごす。卵が孵化すると、幼虫はゴキブリの腹部を食い破って体内に侵入し、これを食べながら』四~五日の間、『捕食寄生生活を送る』。幼虫は八日の間、『ゴキブリが死なない程度に内臓を食べ続け、そのままゴキブリの体内で蛹化する。最終的に変態を遂げたエメラルドゴキブリバチはゴキブリの体から出、成虫としての生活を送る。一連の成長は気温の高い時期ほど早い』とある。読む限りでは「寄生蜂」と「狩り蜂」の『中間型』というよりは、しっかり「狩り蜂」、それも特異な手法を持った奇体な種と呼ぶのが相応しいように思われる。] 

 

 昔の人はこの類が毎日「くも」を地に埋めるのを見、またその同じ孔から蜂の子が出て來るのを見て、「くも」が蜂に變化するのであらうと早合點して、この蜂の名前に「似我蜂」といふ字を當て、この蜂は實子を産まず、「くも」を連れて來て養子とし、「我に似よ」、「我に似よ。」というて埋めて置くと、やがてその「くも」が蜂になるなどといふ牽強附會な説を造つた。かやうな例はなほ他にも幾つもあつて、卵を産むときに一度だけ餌を添ヘて置くものや、卵が孵つて幼蟲になつてからも屢餌を持つて來て與ヘるものなど、多少相異なつた方法で子を養うて居る。

[やぶちゃん注:「似我蜂」これで「ジガバチ」と読む。前に注したように典型的な単独性「狩り蜂」で、幼生の摂餌に選ぶ対象は青虫(あおむし:蝶や蛾を含む鱗翅(チョウ)目の幼虫の中で長い棘毛などで体を覆っていない緑色を呈する幼虫類の総称)である(同科で似た生態で「ジガバチ」の名を附すが、ジガバチ亜科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophiliniではない、全く別な属種群である
Sceliphron
 属はクモ類を選ぶ)である(かのファーブルが感嘆したのもこのジガバチ科アラメジガバチPodalonia
hirsuta
であった)。ウィキの「ジガバチによれば、『ジガバチの名は、その羽音に由来し、虫をつかまえて穴に埋め』、「似我似我(じがじが、我に似よ)と言っている」のだという『伝承に基づく。じがじがと唱えたあと、埋めた虫が後日ハチの姿になって出てきたように見えたためである』とある。目から似我蜂(じがばち)!]

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(6) 三 子の飼育(Ⅰ)

     三  子の養育

 

 以上述べたのはいづれも親が何らかの方法で卵を保護するだけの例であるが、誰も知る通り動物の中には、親が幼兒に食物を與へて養ふものが幾らもゐる。しかしこれは殆ど獸類・鳥類の如き神經系の發達した高等の動物に限ることであつて、昆蟲類には多少その例があるが、それより以下の動物ではこれに類することは一つも行はれぬ。親が子を養ふといふ以上は、親の生存時期と子の生存時期とが一部重なり合ひ、その間親と子とが相接觸して共同に生活して居ることはいふを待たぬが、子が聊かなりとも親を慕ふ形跡の見えるのは、全動物界中かやうな類のみに限られ、しかも子が親に養はれる期間のみに限られて居る。その他のものに至つては子は決して親を知らず、全く無關係の如くに生活して代を重ねて行く。前に卵を保護する種類は卵を産み放しにするものに比べると、遙に少數の卵を産むことを述べたが、親が子を養ふ種類では、子の生まれる數はなほ一層少い。しかもこの少數の子を大事に保護し養育するのも、小さな卵を無數に産み放すのも、種族の維持繼續を目的とすることに至つては全く同じであつて、その効力にも決して甲乙はない。たゞ各種動物の構造・習性等に適した方法を採つて居るといふに過ぎぬ。


Hyounititiwonomaseruinu

[豹の子に乳を呑ませる犬]

[やぶちゃん注:この図は講談社学術文庫版では省略されているので、底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 獸類の幼兒はすべて母の乳汁で養はれるが、乳汁は動物の種類によつて各々成分が幾らかづつ違うて、或は脂肪が多いとか糖分が少いとかいふことがある。それ故、幼兒を養ふのに最も適するのは無論その兒を産んだ母か、またはこれと同じ位の同類の雌が分泌した乳であつて、人間の幼兒を育てるのに。人の乳よりも牛の乳とか山羊の乳とかの方

が更に宜しいといふやうな理窟は決してない。しかし乳汁なるものは一種の食物に過ぎず、兒の腸胃に入つてから消化せられ吸牧せられるのであるから、一定の滋養成分を含んで居る以上は、甲の動物の乳汁を以て乙の動物の幼兒を育てることも素より出來る。外國の動物園では獅子や虎の幼兒に、牝犬の乳を呑ませて健全に育てた例もある。以前駒場の農科大學では牝犬が狸の子に乳を呑ませて居たことがある。幼兒が乳汁のみで育てられる時期の長さは種類によつて大に違ひ、概して大形の獸は生長も遲く乳を呑む間も長い。しかし人間程に長い間乳を呑むものは他になからう。幼兒が乳を呑むことを止める前から、既に何か食物を食ひ始めるが、これは大抵母親が多少嚙み碎いて、兒の容易く食へるやうにしてやる。猫や犬が子を育てるのを見ても、その例は澤山ある。

Sitateyadori

[仕立屋鳥]

Syokuyouennsou

[食用燕巣]

Hataoridori

[機織鳥]

[草の纎維を織り合せて樹の枝から垂れ下つた囊狀の巣を造る巣の入口は下に向いてゐる短い筒の先に開いてゐるので飛ぶ動物でなければ巣の内に入ることができぬ 圖に示したのは印度産の一種である]

[やぶちゃん注:以上の三図は総て底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 烏鷲の雛が卵から孵つて出たときの有樣は種類によつて甚だ違ひ、雞の如く直に走るもの、あひるの如く直に游ぐものもゐるが、巧に飛ぶ種類の鳥では雛は實に憐なもので、親に養はれなければ一日も生きては居られぬ。鳥類には隨分精巧な巣を造るものがあるが、これは皆卵を温め且卵から孵つた雛を安全に育て得るためでゐる。今最も精巧なものとして有名な例をこ一二擧げて見るに、アフリカの諸地方に産する「機織(はたおり)鳥」と稱するものは、「つぐみ」か「ひよどり」位の大きさの鳥であるが、草の莖の細い纎維などを巧に布の如く編み合せて、樹の枝から垂れた囊のやうな形の巣を造る。また東印度の島に住む「仕立屋鳥」といふ小鳥は、大きな木の葉を二枚寄せ、その緣を植物の纎維で巧に縫ひ合せ、その間に巣を造る。その他にも鳥の巣には精巧なものが種々あるが、中には他の材料を用ゐず、自分の口から出す唾液だけで巣を造るものあがある。支那人が最上等の料埋として珍重する有名な燕の巣はそれで、今では西洋人にもこれを嗜むものがなかなか多くなつた。普通の燕は口に泥を銜へて來て、泥と唾とを混ぜて黑い堅い巣を造るが、この燕はたゞ唾液だけで造るから、巣は純白で恰も乾いた寒天の如くである。産地は東印度の島々であるが、海岸の絶壁の處に造られるから、澤山あるにも拘らずこれを採集することはなかなか容易でない。

[やぶちゃん注:「機織(はたおり)鳥」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科ハタオリドリ科 Ploceidae に属するハタオリドリの仲間で、ここに記されている通り、草などを編んで枝から垂れ下がる袋状の巣を作る。多様な種がおり、グーグル画像検索「Ploceidaeでも色彩も巣の形状も多様であることが知れる。酷似した巣を造る以前に注した「共和政治鳥」(スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科スズメ科スズメハタオリ亜科 Philetairus(フィレタイルス)属シャカイハタオリ Philetairus socius(英名“Sociable Weaver”)も参照されたい。

「仕立屋鳥」これはスズメ目セッカ科サイホウチョウ(裁縫鳥)属Orthotomus に属するサイホウチョウの仲間(現行では全十二種)のことを指している。全長 十二~十六センチメートル、羽色は一般に背面がオリーブ色或いは褐色を呈し、下面は白い。かなり大き目の二枚の葉の縁を、植物繊維や蜘蛛の糸を以って縫い合わせ、袋状の巣を造ることで知られる。グーグル画像検索「Orthotomus tailorbird nestで鳥の様子と巣型がよく判る。

「自分の口から出す唾液だけで巣を造るものあがある。支那人が最上等の料埋として珍重する有名な燕の巣はそれ」一般に知られる中華料理の「燕の巣のスープ」、広東料理の高級食材とされる「燕窩」の原材料は、

アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Collocaliini ヒマラヤアナツバメ属 Aerodramus

のアナツバメ類の内、空中から集めた巣材をわずかしか使わずに巣の殆んど全ての部分が唾液腺分泌物で出来ているとされる、

マレーアナツバメ(ジャワアナツバメ)Aerodramus fuciphagus germani

や、

オオアナツバメ Aerodramus maximus

など数種の巣のみが中華食材では高級品とされている。なお、和名に「ツバメ」が附き、それを用いた中華料理が普通に『「燕」の巣のスープ』と呼ばれ、しかも飛翔時の形状もよく似ていることから、所謂、

スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica

などのツバメ類とさも近縁種のように思われている向きがあるが、以上の分類からも判る通り、アマツバメ目とスズメ目で目レベルで違い、真正のツバメ類とは脚の構造なども有意に異なっていることから、全くの縁遠い異種であるので注意が必要である。まあしかし、「穴燕の巣のスープ」とか、中国語の「目」表記で「雨燕の巣のスープ」とか言ってもあんまり美味そうではないなぁ……ウィキの「燕の巣によれば、『アナツバメの巣は海岸近くの断崖につくられるが、断崖絶壁などに巣を作る習性の鳥は、しばしば鉄筋コンクリート製の建造物の増加した近代的な都市を本来の営巣環境に近似した環境と受け止めて巣作りを行う。ハヤブサやチョウゲンボウの例が著名であるが、アナツバメ類にもこうした傾向が見られる。近年ではこのような習性を利用して、東南アジア諸国の鉄筋コンクリート製建造物の内部に条件を整えることで集団営巣地を作らせることができるようになり、市場への供給量が増した』。『アナツバメの巣の採取については東南アジア各国で採取の時期、採取方法などを厳重に管理し、またアナツバメの生息地の環境保護のために立ち入り制限を行っている。アナツバメは雛が巣立ちしてしまうと同じ巣を利用することはないため、アナツバメが放棄した巣を採取している。オスは次の発情期になればまた唾液腺から特殊な分泌物を吐き出して新たに巣をつくる』。『断崖絶壁における採取作業は非常に危険が伴う作業である』。清の乾隆三六(一七七一)年頃には完成されていたと考えられている阮葵生(げんきせい)の「茶余客話(ちゃよきゃくわ)」(全三十巻。政治・経済・文化・法律等、学術領域の豊富な内容が含まれる重要史料。特に清朝初期の制度・地誌記載は史料価値が高いとされ、また、人物伝や「荊釵記」「元曲」「水滸伝」「琵琶記」「金瓶梅」「西游記」など戯曲・小説等も多数収録された恐るべき博物学的叢書である)には、『よく訓練した猿に布袋を背負わせて採取したと記されている』。『日本で人家の軒先などに一般的に見られるツバメの巣は、唾液だけでなく泥や枯れ草によって作られるので食用には適さないが、アナツバメの巣は世界中で高い人気を誇る食材となっており、スープの具やデザートの素材や飾り付けとして用いられる』。『中華料理の中でも特に広東料理で利用される。元末明初頃に中華世界に知られるようになり、清代になるとふかひれや乾しあわびと並ぶ高級中華食材として珍重されるようになった。燕の巣が出る宴席は「燕菜席」と呼ばれ、満漢全席に次いで格式の高い宴席となっている』。二〇一三年、『中国政府は綱紀粛正の一環として、接待の宴席に高級料理を用いることを禁じた。この際、高級食材の例としてふかひれとともにツバメの巣が挙げるなど』、二十一世紀の『現代においても贅沢品の代表格であることが窺える』。『日本においても、江戸時代初期の料理書『料理物語』に、「燕巣(えんず)」という名で記載されており、吸い物や刺身のつまとして用いられていた。日本では上記のとおり生産されておらず、交易によって輸入されたものであり、中国同様に貴重な食材である』。『独特のゼリー状の食感が特徴で』、『古くから美容と健康に良いとされている漢方食材であり、清の西太后も連日のように食したと伝えられている』。『巣によって羽毛などの巣材を比較的多く含むものから、全くと言っていいほど含まないものまで差がある。混ざり物などが少なく作られて間もない物が重宝され高値がつきやすい。調理に際しては湯で柔らかく戻してから、ピンセットなどで丁寧に羽毛などを除去する』とある。しかし、同ウィキには、『中国では古くから赤い燕の巣が珍重されてきた。現在においても赤い巣、オレンジ色の巣は高価で取引される傾向がある為、顧客の好みの色に着色して出荷する生産者も珍しくない。赤やオレンジに発色する原因は、岩石からの鉄分や壁土などの色素を含むからとも発酵の結果によるともされる。ただし、こういった赤やオレンジの巣には人体に有害な亜硝酸塩が多く含まれるという調査報告が出ている』。『亜硝酸塩は水溶性なので水で洗い流すことが出来るが、天然、着色を問わず赤やオレンジの色素もなくなってしまう』。『見た目の立派さが価格に影響することもあり、乾燥した巣の表面に糊を塗布して外観を整える手法も広く行われている。水に溶いた巣の他、海藻、豚皮、ラード、植物樹脂などが糊として用いられるケースがある』。『白さを強調する為に薬品によって漂白された燕の巣は、独特の匂いが無くなっていたり、薄くなっている』とあるから、色附きや真っ白な、しかも安価な値段のそれは食さない方が無難な感じもする。何度か食べたことがあるが、ゼリー系が苦手な私は全く美味いとは思わなかった。さても最後に。しかしだ、そもそもが中国語の同食材を指す「燕窩」の「窩」、私の雅号の「心朽窩主人」の「窩」の字の字体も、敦煌で落款を彫って貰った中国の篆刻家は、如何にも意味深長にニヤリと笑い、「この字は良い字ではない。」という意味の中国語を言って、しきりに「別な字にしなさい。」と言うていたのを、ふと思い出した……。]

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅹ) / 「いとめ」の生活と月齢との関係――附やぶちゃん注~完

 

       五 電氣による「いとめ」の精蟲と卵及び人類の精蟲の實驗

 

 大正十四年十月二十一日午後四時より八時に至る精液電氣實驗。當日氣温十四度氣壓七六三粍。「いとめ」の精液一グラム0.8%の食鹽水五〇グラムに混じ、之れに屋井乾電池を用ひて四・五ボルトの電流を通じたるに精蟲は+極(プラス)に集合し、精蟲を包容する粘液は-極(マイナス)に集合した。實驗後五分乃至十分にして之を檢するに精蟲は活潑に運動してゐた。人類の精蟲につきて實驗したるに是亦粗同樣の結果を得た。蒸溜水中に於いても同樣の作用が行はれた。死したる精蟲につきて實驗するも猶同樣の結果を得た。之を以て見れば精蟲は好氣性の爲に+極(プラス)に集まると云ふ議論は立たざることになる。大正十五年四月四日大日本生理學會例會に於ける京都府立醫科大學水野忠一氏代演越智教授の講演の際人類の精蟲電氣實驗に關する右の事實を追加補足して置いた。

 

 Itome5  

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ」のものを補正して示した。キャプションを以下の通り。

   *

A圖 「いとめ」の精液電氣實驗

    +極に集まれる精蟲

    -極に集まれる精液

 

B圖 「いとめ」の卵の電氣實驗

   *

文中の「+極(プラス)」「-極(マイナス)」はそれぞれ「+極」の二字に「プラス」、「-極」の二字に「マイナス」のルビが振られてある。

「屋井乾電池」乾電池の発明者屋井先蔵(やいさきぞう 文久三(一八六四)年~昭和二(一九二七)年)の名を冠した乾電池。国立公文書館公式サイト内の「公文書にみる発明のチカラ」の「乾電池の発明(屋井先蔵)」に詳しい。それによれば、一八八八年にドイツ人ガスナーらが液のこぼれない乾電池を発明する前年の明治二〇(一八八七)年に、当時、電池時計の技術者であった屋井が(ウィキの「屋井先蔵」では『東京物理学校(現:東京理科大学)の実験所付属の職工』とある)、陽極の炭素棒にパラフィンを染みこませることによって液漏れしない「屋井乾電池」を発明した事実が記されてある。ウィキのエピソード欄には、乾電池を世界に先駆けて『発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許を取得はできなかった(当時の特許取得料金は高額だった)。また、乾電池を発売した当初、大半の世論は「乾電池などという怪しいものが正確に動くはずがない」というもので、先蔵の乾電池は全く売れなかった。さらに持病の為に寝込む日が続き生活は貧窮を極めた。さらに、先蔵の乾電池の価値を知った外国人が万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばらく時間が経つまで世界で最初に乾電池を発明したのが先蔵であると認知されなかった』とある。ここではっきりと闡明しようではないか! 人類史上、乾電池を最初に発明したのは、この屋井先蔵であると!

「死したる精蟲につきて實驗するも猶同樣の結果を得た」「精蟲は好氣性の爲に+極(プラス)に集まると云ふ議論は立たざることになる」塩水及び蒸留水の電気分解にあっては+(陽極)に水酸化物イオン(OH)が誘引され、水酸化物イオンは陽極に電子を渡して水と酸素になるため、結果として陽極には酸素が発生する。逆に-(陰極)には水素イオン(H)とナトリウムイオン(Na)が誘引されるが、ナトリウムイオンは原子になるよりもイオンの状態の方が遙かに安定しているため、ナトリウムイオン自体は水溶液中に残り、水素イオンが電子を受け取って、結果、陰極からは水素が発生する。この場合、死んだ精子を実験しても同じ結果が生じたということは、生体の精子が好気性を特異的に指向するために自律的に陽極に集合したのではない、ということがはっきりする。精液は細胞成分である精子と、それを包む液体成分である精漿(せいしょう)とに分かれるが、ここでは物理的電気的性質としては精子が陽極に引かれる負(陰電気)の電位を有し、精漿が陰極に引かれる正(陽電気)の電位を有するという物理的電気的事実が分かるということである。新田氏がこのように書くということは、恐らく当時の生理学者の中には、ヒトが好気性生物であるが故に精子も同じく、正の好気性を保持した生命体であるに決まっているという誤った考え方(類推)があったことを批判しているのではないかと思われる。

「京都府立醫科大學水野忠一氏」不詳。

「越智教授」不詳。]

 

 Itome6  

 

 「いとめ」の卵の電氣實驗は卵の或量を取りて0.8%の食鹽水に混和し、四・五乃至一八ボルトの電流を通じたるに卵は少しも破壞されなかつた。唯電流を通じない前の卵は甲圖の如く顆粒が中心より遠ざかつてゐたが、強き電流を通じたる場合には卵の顆粒が乙圖の如く僅かに中心に近寄つたのみであつた。0.8%食鹽水五〇グラム中にバチの粉碎せざる卵一グラムを混じたるに何れの極へも集まらなかつた。又受精せざる雞卵及び受精したる雞卵の卵黄を別々に取つて粉砕し、之に各々前と同樣の實驗を施したるに兩極に分離した。以上の實驗に使用したる電力は時計形直流用電壓電流計にて測り、電池は屋井乾電池を用ひた。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ」のものを補正して示した。図に示した通り、この段落中の「じたるに卵は少しも破壞されなかつた。唯電流を通じない前の卵は甲圖の如く顆粒が中心より遠ざかつてゐたが、強き電流を通じたる場合には」の部分は原典の十四頁の下(一行八字組)にあり、「唯電流を通じない前の卵は甲圖」と「の如く顆粒が中心より遠ざかつてゐたが」の間にその甲図と乙図が挟まっている(従って甲・乙図はイトメの卵子の電気実験の図であってヒトのそれではないので注意)。また、その十四頁上方には「人間の精蟲電氣實驗」という附図があり、以下のキャプションが附されてある(附図には「Nov.1st, 1925  At Kiba, Fukagawa,  Tokyo」というクレジットが記されてある)。

   *

 

大正十四年十一月一日人間の精液電氣實驗二十分後の圖當日氣壓七六八粍、室内氣温二〇度電流四ボルト使用

 

Aは粘液、 Bは精蟲

 

十五分時にしてB極を檢するに精蟲がなほ運動を繼續してゐた。再び攪拌するも十分時にして圖の如く明かなる分野を形造つた

 

   *

 なお、この段落以下、後の二段落の内容については、私は幾つかの箇所に於いて筆者の謂わんとするところが十全には呑み込めなかった。そこで公開に先だって生命科学を専門とする私の教え子に意見を乞うた。以下の注の中で《教え子の見解》として『 』で示した箇所がそれである(というより殆んどが彼の見解の引用である。この場を借りて深く謝意を表するものである)。公開許諾は得ている。但し、それでも私と教え子の疑問は完全に氷解してはいない。何方か更に別な解釈や理解をお持ちの方があれば、是非御教授をお願いしたい。

「強き電流を通じたる場合には卵の顆粒が乙圖の如く僅かに中心に近寄つたのみであつた」先に示した古屋康則・恩地理恵・古田陽子・山内克典「イトメ Tylorrhynchus heterochaetus(環形動物:多毛類)の人工受精法および発生過程の観察」を再び管見したところ、イトメの卵子には「卵ゼリー層」と呼ばれるものが形成されることが分かった。イトメの生体内の未受精卵にはこのゼリー層は見られないが、海水に浸漬したり受精することで、卵の周囲にゼリー層が形成されるのであるが、『このようなゼリー層はゴカイの卵にも見られ(岡田,1960),ゴカイでは卵を海水に浸けただけでは形成されず,受精が起きなければ形成されないという(沢田,1969).一方,イトメにおいてはゼリー層形成と受精との相互関係は明瞭ではなく(高島・川原,1952),受精とは無関係に形成されることも知られている』とあって、その「図5.イトメの未受精卵および受精卵の発生過程」の「D)未受精卵でのゼリー層形成」とキャプションのある画像を見ると、これが本文に載る「乙圖」と酷似しているように私には見えるのである。しかもこのゼリー層形成を検証した実験では『媒精しないで卵のみを希釈海水に入れたときのゼリー層形成は,海水から3/4海水では5534%であったが,2/3海水では全く形成されなかった.しかし,それよりも薄い1/2海水では50%の卵で形成された』。『これは,ゼリー層が受精によってのみ形成されるゴカイ(沢田,1969)とは大きく異なる点である.また,ゼリー層形成はある程度浸透圧の影響を受けることを示唆している』という記述をも見出された(下線やぶちゃん)。但し、当該論文では「顆粒」ではなく『卵核胞を取り囲むように十数個の油球が見られる』(下線やぶちゃん)とある。これは一つの可能性の推測であるが、この新田氏の「乙圖」は実はそのゼリー層が形成された後の卵子の、油球が中央の卵核胞を取り囲むように見える状態を描いたものなのではあるまいか? しかしその場合、それは電気刺激によって現出した現象とは言い難い。何故なら、これは通電をする以前に実験に用いた食塩水濃度(〇・八%)に、この卵子が反応してゼリー層を形成した結果、「油球」が中央へ寄った可能性が私は高いと思うからである。新田氏が通電を行った後に、たまたま塩分濃度による浸透圧で形成されたゼリー層の形成に新田氏が気づかず、通電によって「顆粒」状の油球が中央に有意に移動したと錯覚した可能性である。無論、イトメのゼリー層形成のメカニズムが現在でも完全に解明されていない以上、逆に、電気刺激によってもゼリー層は形成され油球が中央へ移動した可能性もないとはいえない(私が専門家なら直ちに実験してみたいのだが)。時に、このゼリー層形成に新田氏は気づいていないのは一見奇妙に思える。新田氏は既に『四 食鹽水及び淡水による「いとめ」の精蟲及び卵の實驗』でこのゼリー層形成という現象を見ているはずではないのか? ところが新田氏は見ていないのである。何故なら、同章では多様な塩分濃度での実験の対象は専らイトメの精子に当てられており、卵子の実験は『卵は0.3%乃至1%の食鹽水中に在つては生理的に破壞されないが、蒸溜水に卵を混図れば十分乃至一時間にして生理的に全部破壞せられる』の三パターンの記録記載しかなく、それも専ら塩分濃度の違いによる細胞質破壊をしか実験目的にしていないかのように見えるからである。

0.8%食鹽水五〇グラム中にバチの粉碎せざる卵一グラムを混じたるに何れの極へも集まらなかつた」《教え子の見解》『そのまま読むと、少なくとも完全な卵として存在するときには電気的に中性であると読める。』

「又受精せざる雞卵及び受精したる雞卵の卵黄を別々に取つて粉砕し、之に各々前と同樣の實驗を施したるに兩極に分離した」《教え子の見解》『もしも分離に偏りがある場合は(鶏卵の卵黄に)電気的な偏りがあると考えることもできるが、そうした記述は特になく、陰性または陽性の極性分子の集合であるが、全体としては中性と読める。』]

 

 

 思ふに精蟲が生殖の際卵をめがけて突進するは電気作用によるのであらう。精液が電気の爲めに二ツに分れ、+極(プラス)及び-極(マイナス)に集まる事實より推測するに、精液として存在するときは陰陽兩電氣が中和せられてゐるが、之が水中に散布せられて粘液を脱し精蟲のみとなる時は陰性となるを以て卵子に含まれたる陽性に近づかんとするのは當然のことであらう。

[やぶちゃん注:「卵子に含まれたる陽性」《教え子の見解》『上の記述を読む限りは、卵子に陽極性分子が含まれていても全体としては中性という結果であるため意味が通じない。なお、現在、精子が卵子に誘導される機構は、卵子より放出される分子を精子がシグナルとして受容することによるものであるとされている。精子の側の受容体の反応から、ブルゲオナール様の分子である可能性が示唆されている(“Identification of a Testicular Odorant Receptor Mediating Human Sperm Chemotaxis”[やぶちゃん補注:教え子の記載のアドレスを当該論文(英文)標題とリンクに代えた。標題は「精巣嗅覚受容体を媒介するヒト精子走化性の同定」(機械翻訳)。])が、いまだに具体的な分子の正体は不明である。』]

 

 

 「いとめ」及びパロロの生殖作用が空中電氣の影響あることも右の實驗によつて否定すべからざることであらうが、これは研究未完成なれば他日に讓ることゝする。

[やぶちゃん注:「空中電氣」地磁気と言うならまだしも、これは言っている意味がよく分からない。教え子も『一般的には大気中の電気現象一般のことだが、ここでの意味は不明』とのことであった。]

 

 

 

   六 結  論

 

 (一)バチの群游は東京灣附近に於ては通常十月及び十一月に渉りて四回行はれるが、稀には九月に群游することもある。大正十四年の如き萩原朔太郎九月に一回あつた。

 漁夫等は此四回の群游に夫々第一バチ、第二バチ、第三バチ、第四バチの名を附してゐる。東京灣附近に於ては通常千住附近が第一バチ、小松川が第二バチ、深川が第三バチ、羽田が第四バチの順序である。そして群游の目的は水中に産み精蟲を散布して生殖を容易ならしめるにある。

 (二)バチの群游期は朔望より四日以内にある。通常望よりも朔の翌日が盛んである。最大滿干潮は朔望よりも三日以内で、九、十、十一月に在りては多くは日没後の滿干潮が夫々同日の他の滿干潮よりも強大である。又東京附近に於ては通常朔の大潮が強大である事實がよくバチの群集に一致する。大潮の滿潮時(朔望)には海水が隅田川河口よりも上流に達するも、小潮時(弦月)には潮少きが故に海水が上流に達しない故に小潮時には群游しないのである。

 (三)稀には朔望の前にバチの群游することもある。大正十四年の如きは、十一月十六日が朔で、バチの群游が同月十三日の日沒であつた。

 (四)大群游は日沒後滿潮(High Water)面より約一寸位引きかけた時に始まり、河水面がバチの爲に赤色を帶ぶるに至る。斯う云ふ現象は約二時間繼續する。即ちバチの群游は滿潮時にあらずして落潮時(Ebb)の始めに於て盛大に行はれるのである。

[やぶちゃん注:以下、この「結論」の章では注を中に入れ込むことにし、後に空欄は設けない。

High Water」(英語)上げ潮。新田氏は次の段で別に「差し潮即ち滿潮(Flood)」と用いているところからは、ここは満潮時に最も海水面が上昇する時、という意味でこれを用いたようである。

Ebb」(英語)引き潮。「干潮」は「High Water」の対で示すなら、“low water”であるが、新田氏はここを今度は「潮が引いてゆく」という干潮時に経過する現象としてのそれとして示しているのかも知れない。]

 (五)落潮時に群游を行ふ理由は、精蟲は淡水中にては運動を停止し、卵は淡水中にて破壞せられる。之に反して精蟲は海水中にては猛烈なる運動をなし、卵は破壞されることが無い。差し潮即ち滿潮(Flood)はバチを淡水の方に押上げ鹽分の濃度を減じ精蟲の運動を弱め生殖作用を妨げる虞がある。之に反して落潮時には最も盛んなる活動に適する海水の方へバチを押流しつゝ生殖作用を完全に行はしめる。之れ自然に順應するものにして適者存續の法則に一致する。

[やぶちゃん注:「差し潮即ち滿潮(Flood)」「Flood」(英語)は“ebb”の対義語としての上げ潮。やはり前の注で示したように、ここでは今度は「鹽が満ちてゆく」という現象を示そうとしていると考えてよさそうだ。]

 (六)海水の鹽分の濃度が多い程比重の關係上浮游し易い。これバチが落潮を利用して受胎作用を行ふ所以である。

 (七)海水の濃度は夜半及び曉よりも日沒後が高い。暖かな方が精蟲の運動に適してゐる。又大潮時の滿潮は日沒時と未明に多い。

 (八)バチが日沒後に群游することは強き日光を避くる爲であることは勿論なれども、敵に發見せられないと云ふ事も理由の一ツとして考へられる。何となれば多くの魚類は宵の口に眠るからである。

 (九)群游中に太陰出づる時は群游しつゝあるバチが一齊に深く水中に沈んで行く。之を漁夫等は底バチと云つてゐる。

[やぶちゃん注:「太陰」太陽に対しての「月」を指す。天文学・暦法・潮汐学に於いては一月・二月などの「月」との混同を避けるためにかく用いる。なお、新田氏はこの月が出ると同時にイトメが水中に沈んでゆく理由を述べていないが、これは月光に敏感に反応して潜るものと考えてよく、それによって水中からの夜間の捕食者の目につかないようにするための行動のようにも私には思われる(次の(十)の記載から生殖行動をそれによって中断されないようにするためである)。]

 (十)一度群游を行つたバチは生殖後死滅し、或は魚類の食となり、次の群游期に再び生殖作用を行ふことがない。だから第一回目に群游するバチと第二回目に群游するバチとは同一でない。第一回目の時に成熟不十分であつたものが第二回目に浮び出るので、以下順次に四回行はれるのである。

 (十一)「いとめ」の群游は其生存する環境のあらゆる刺戟が最も大にして且つあらゆる必要なる條件が全く一致せし時に起る。實驗上鹽分のパーセント、氣壓の差、及潮差等皆朔望に於て最も大である。(完)

[やぶちゃん注:以上で本文が終わる。以下の「參考」は原典では全体が四字下げである。「{」は原典では三つが繋がったもので、“Bülow”“Friedländer”もそれぞれ上下三行に及ぶもの。“Friedländer”の方を太字にして区別した。原典では“Bülow”“Friedländer”は「{」の上に横向き(左から右)に記してあり、“Friedländer”は上に“Fried-”、下に“länder”となっているが、繋げて表記した。]

 

 

  パロロの群游時(參考)

                       Astoronom.    Letztes Viertel    Paloloschwärme

                              am                      um                         am
     
21. Okt.             7h59′früh                  21. Oct.

Bülow         11. Okt.             5 h 7′ ˮ                      10. Oct.

     
9. Nov.             1 h 40′ ˮ                      9. Nov.

     
29. Okt.             3 h 54′ ˮ                    28. Oct.

Friedländer  18. Okt.             9 h 42′ ˮ                    17. Oct.

     
17. Nov.            2 h 25′ ˮ                    16. Nov.

 

 

[やぶちゃん注:引用元の指示がないが、ドイツ語でしかもパロロのデータであるから、先に出たヘルパッハの「風土心理的現象:気象・気候・風光の精神生活への影響」からのものであろうか(或いは、以下の「LITERATUR」の「2」(私は未見)にそこから孫引きされたものか)。なお、以下、当初はドイツ語に冥い私でも何とかなるだろうという甘い気持ちでドイツ語辞書片手に注を附けてみたものの、出来上がったものは私自身如何にも心もとないものであった。単なる辞書的記載では到底読み解けない部分があると判断し、先の『三、「いとめ」の成熟時の活動狀態』のドイツ語文献引用で全面的に御協力頂いた Feldlein(フェルトライン)氏の私の拙稿を校閲して戴くこととした。これは同一論文中、鉄壁の注が氏の御協力で成すことが叶ったにも拘らず、最後の最後で竜頭蛇尾の誹りを受けては当の Feldlein 氏の顔に泥を塗ることに等しいと考えたからでもある。以下、本注は全面的に Feldlein 氏の注と依拠したことを最初に述べておく。なお、私の誤読は自戒のために取り消し線を附などしてなるべく残し、《Feldlein 氏》『 』として御指摘戴いたものを後に附すこととした(引用は了承済。下線は私が附した)。

Astoronom.ピリオドがなければ「天文学者」であるが、ここは「観察時」という意か。Feldlein 氏》『astronomischを省略するために、ピリオドをつけていると考えます。たとえば、university unive. とピリオドをつけて略すように。私は、天文学的な情報・数値・日付を表すということと解しました。』

Letztes Viertel」下弦の月の意。月が欠けて新月になる最後の日、朔日の前日の「晦」(かい/みそか)のこと。

Paloloschwärme」「wärmeは温暖・熱/温度/体温の意であるが、比喩表現で熱心/熱情という意味があるから、これはパロロの生殖群泳をかく表現したものであろうか。Feldlein 氏》『これは、前回の懸案であったドイツ語引用にある「この大いなる群がり」に相当します。ここでは、「大きな」「偉大な」はなく、「パロロ」プラス「(うようよした)群がり」の組合せです。「パロロの蟻集」「ぱろろの群がり」と訳せます。』これは如何に私が、先の本文の「三」でのFeldlein 氏の御教授を全く以って学習していなかったを如実に示すもので、私の不徳と致すところである。

am」は“an den”(前置詞+冠詞)であるから「~時に」、「月日」の意であろう。《Feldlein 氏》『はい、日付を表しています。an dem のことです。ここでは日本語に訳す必要はないと思います。』。

um」正確な時刻。以下に「früh」(副詞「早く」)とあるから、「月の出」の時刻であろう。《Feldlein 氏》『はい、時間を表しています。何時に、というときの「に」ですが、ここでは訳す必要はないと思います。ここでは「früh」は、「朝」という意味で使っています。朝7時59分。あるいは「午前」でも良いでしょう。』。

Bülowビューロゥ。観察者の名。《Feldlein 氏》『これはスラヴ語起源の名前なので、woの長母音を表します。ビュロー、あるいはビューローで良いと思います。Wilhelm von Bülow という人が、サモアのパロロについて報告を書いていているようなので、その人のことと思われます。』。Feldlein 氏の御指摘を受け、Palolo Bülow の二つの単語で検索してみたところ、幾つかの文献でこの人物の名を発見出来た。

Okt.Oktber。十月。

Nov.November。十一月。

Friedländerフリートランダー。観察者の名。《Feldlein 氏》『フリートレンダーと音写すると良いかと思います』。ä 『は「エ」の発音になるので、ラではなくレになります。 Palolo Bülow の二つの単語で検索しましたら、同じく、ビューローとともに他所でも言及されている名前ですので、観察者・報告者で間違いないと思います。』。Feldlein 氏の御指摘を受け、Palolo Bülow Friedländer の三つの単語で検索してみたところ、中身は見えないが、例の Willy Hellpach, Die Geopsychischen Erscheinungen が検索に掛かってくるところから観察者と判断出来る。

 

 

 LITERATUR

1.  Dr.Ijima, 動物學提要

2.  Dr.Iizuka,「いとめ」の成熟と其群泳

3.  Willy Hellpach, Die Geopsychischen Erscheinungen, 1923.

 

[やぶちゃん注:「3」の書名は原典では「Geopsychische Erscheinungen」だが、ここは大事な参考文献箇所でもあり、前掲に倣って綴りを訂し、正しく冠詞を補った上、斜体ローマンとした。この書物については『三、「いとめ」の成熟時の活動狀態』の注で既注。

LITERATUR」ドイツ語で「参考書目」。

1. Dr.Ijima, 動物學提要」動物学者・魚類学者として知られる東京帝国大学理学部教授飯島魁(いさお 文久元(一八六一)年~大正一〇(一九二一)年)が大正七(一九一八)年に出版した、明治・大正期の動物学を総括した千頁を超える大著。長く生物学に於いて必読の教科書とされ、日本に於ける動物学普及に貢献した(ウィキの「飯島魁」に拠った)。

2. Dr.Iizuka,「いとめ」の成熟と其群泳』論文詳細は不明であるが、作者は動物学者飯塚啓(あきら 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)である。環虫類の世界的権威として知られ、特にゴカイの研究は世界のトップと言っても過言ではなかった。著書「海産動物学」は名テキストとして長く使用された。学習院大学教授で東京科学博物館動物学部長としても活躍した(ここまではウィキの「飯塚啓」に拠った)。鹿児島大学理学部佐藤正典氏の論文「干潟における多毛類の多様性」に、飯塚は明治三九(一九〇六)年十二月十七日に、『瀬戸内海の岡山県児島湾に赴き、そこでH. japonica 生殖群泳を観察した様子や、そこの干潟における成体の分布状況などは原記載論文に詳しく記述されていた』とある(下線やぶちゃん。文中の『H. japonica』は多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属アリアケカワゴカイ Hediste japonica のことで、『原記載論文』とは Izuka, A. (1908) On the breeding habit and development of Nereis japonica n. sp. Annot. Zool. Jap., 6, 295-305. を指す)。

 

[やぶちゃん注:以下、最終頁は奥附。左下方に太い黒枠の中に示されてある。ポイントの大きさ字体は総て同じにした。底本では全体が太い長方形の枠に囲まれており、中の「不許複製」はごく細い真四角の枠の中に太字ゴシックで示されてある。「発行所」もそれだけが太字ゴシックである。言わずもがなであるが、「著作兼」は「著作權」の誤りなのではなく、「著作」兼(けん)「發行者」の謂いである。]

 

 大正十五年十月 十日 印刷

 大正十五年十月十五日發行

            東京市深川區木場町十二番地

           著  

                新 田 淸 三 郎

  不 許      發  

        東京市牛込區早稻田鶴卷町百〇四番地

  複 製      印  者 吉 原   良 三

        東京市牛込區早稻田鶴卷町百〇四番地

           印  所 康   文   社

       東京市下谷區中徒士町三丁目二重貮番地

發 行 所          日      

 

2016/02/23

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(5) 二 子の保護(Ⅳ)

Sanbagaeru

 

[産婆蛙]

Hukurogaeru

[袋蛙]

Seoigaeru

[背負蛙]

[やぶちゃん注:以上、三図は総て国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 

 蛙の類には餘程變つた方法で卵を保護するものがある。ドイツ・フランスの南部に普通に居る「産婆蛙」は、大きさは赤蛙位で、姿は「ひき蛙」に似て居るが、産卵するときには、雄は雌を上から抱き、生まれ出る卵を自分の足に卷き附ける。蛙の卵はいつも粘液に混じて生まれ出るもので、「ひき蛙」や「殿樣蛙」では粘液は直に水を吸うて量が增し、柔く透明な寒天樣のものになるが、産婆蛙は陸上で産卵するから、卵は濃い粘液に繫がれて珠數の如き形をなし、雄がこれを足に卷き附ければ、粘液のためにそこに粘著する。かうして、雄は卵を膝や腿の邊に卷き附けたまゝ石の下などに隱れ、卵が發育して「おたまじやくし」になる頃に近邊の池まで行き、水の中へ泳ぎ出させる。普通の蛙に比べると、卵は大きくて數が餘程少い。また南アメリカに産する雨蛙の一種では、雌の背に一つの囊があり、その口は背の後端に近い處で肛門の少しく前に開いて居るが、卵は生まれると直にこの囊に入れられ、發生が餘程進むまでその中で保護せられる。卵は無論粒が大きくて數が少い。また同じく南アメリカに産する雨蛙で、十數個の大卵を單に背面に粘著せしめて、背負うて歩く種類もある。印度洋の南にあるセイシェル島の蛙は、「おたまじやくし」を親が背に載せて歩く。

[やぶちゃん注:「産婆蛙」両生綱平滑両生亜綱無尾(カエル)目スズガエル科サンバガエルAlytes obstetricans 。ヨーロッパ西部、ドイツからポルトガルにかけて分布し、普段は林・石垣・石切場・砂丘などに棲息し、ほぼ陸生志向を持つカエルで、水かきなどはあまり発達していない。皮膚表面に無数の凸凹の疣状突起があり、ヒキガエル類(ヒキガエル科 Bufonidae)に似ているものの、遙かに小型で三~五センチメートルしかない。体色は淡い緑色・灰色・褐色など様々で不規則な暗色模様が全体に見られる。瞳孔が縦長で菱形を呈しており、夜行性の特徴を示す。春から初夏にかけての繁殖期にの腹部を刺激して産卵を促し、は産み出された紐状の淡褐色の卵塊を自分の後肢に巻きつけて凡そ五十日もの間、運んで歩きながら保育する。その後、卵が孵化し始めると、は水辺へと移動、浅い水に幼体を放つ。同サンバガエル属の種は通常、攻撃を受けると皮膚から乳白色の毒を分泌する(但し、マジョルカサンバガエル Alytes muletensis は毒分泌はしないとされる)。

「袋蛙」無尾(カエル)目アマガエル科フクロガエル Gastrotheca marsupiatum 。外観は普通のアマガエル類(アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属 Hyla)に似ているが、の背に育児袋があり、産み出された卵はその中に流れ込んで孵化した幼生は変態を終えるまで袋の中で育つ。袋から出る際には母親が後肢の指で袋の口を開口する。

「背負蛙」「南アメリカに産する雨蛙で、十數個の大卵を單に背面に粘著せしめて、背負うて歩く種類」中南米に分布ツノアマガエル亜科 Hemiphractinaeの仲間か? 同科の特徴はが背中部で幼生又は子蛙に変態するまで育てることであるが、但し、これらは現行の専門家の解説によれば「保育囊」とある。しかしそれらの画像を見ると卵(かなり大きい)の場合は一見、背部に粘着しているようにしか見えない。一応、同科の属を以下に示す。

 フクロアマガエル属 Gastrotheca

 ツノアマガエル属 Hemiphractus

 ヒダアマガエル属 Fritziana

 クリプトバトラクス属 Cryptobatrachus

 コモリアマガエル属 Flectonotus

 ステファニア属 Stefania

『印度洋の南にあるセイシェル島の蛙は、「おたまじやくし」を親が背に載せて歩く』セーシェルガエル科セーシェルガエル(コオイセーシェルガエル)Sooglossus sechellensis 。サイト「カエル動画図鑑」のセーシェルガエルによれば、は十五ミリメートル、は二センチメートル。『背中は金色がかった褐色であり、脇腹と手足には黒色の斑点がある』。本種は『セーシェル諸島のマヘ島とシルエット島の海抜』二百メートル以上の高地地域に棲息し、『熱帯雨林の林床の落ち葉の中を、主な生活場所にしている。普段は隠れていることが多く、あまり人に発見されることはない』。『雨季になると、繁殖が行なわれる。オスは昼夜問わず、メスをひきつけるために鳴き声をあげる。メスは』僅かに十個ほどを産卵、は『卵が孵化するまで面倒を見る。卵が孵化すると』、は『オタマジャクシが変態して小ガエルになるまで、オタマジャクシを自分の背中に載せる。オタマジャクシが水の中で暮らすことはない』とある。]

 

Seanagaeru

[背孔蛙]

Dawinhanagaeru

[卵を吞む蛙]

[やぶちゃん注:以上、二図はともに国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 

 南アメリカの北部の熱帶地方に産する「背孔蛙」と稱する一種は他に類のない方法で卵を保護する。「ひきがへる」程の大きさの妙な蛙であるが、雌が粘液に混じて數十個の卵を産み出すと、雄はこれを雌の背の上に塗り附けてやる。日數が經つと雌の背中の皮膚が柔く厚くなり、卵は一粒づつその孔の中に嵌り包まれ、かうして保護せられるのみならず、「おたまじやくし」時代をも通り越して、四本の足を具ヘた小さな蛙の形まで發育する。幼兒は初は親の背中の皮膚の孔から顏だけを出して居るが、後には恰も「カンガルー」の幼兒などの如くに、自由に匍ひ出したり、また舊の孔に入つたりする。しかしこれは極めて、短い間であつて、四足が自由に動くやうになれば親から離れて獨立の生活を始める。子が母親の背中の表面から産まれるといふのも珍しいが、同じ南アメリカのチリ邊に産する一種の小さな雨蛙は、更に意外な方法で卵を保護する。この蛙は、雌が大きな卵を一粒づつ産むと、雄は直に呑み込んでしまふ。但し卵は無論食道を通過し胃に入つて消化せられるのではなく咽喉から別の道を通つて別の囊に入り、その中で小さな蛙の形まで發育し、終に父親の口から産み出される。それ故一時はこのの蛙は胎生と思はれて居たが、腹に子を持つて居るものを解剖して見ると、いづれも睾丸を具へた雄ばかりであるから、なほよくよく調べて見たら、子供の人つて居る囊は、普通の雨蛙が鳴くとき聲を響かせるために膨らせる咽喉の囊に相當することが明に知れた。普通の雨蛙の鳴く所を横から見ると、聲を發する毎に咽喉の皮が大きく球形に膨れるが、チリの小さな雨蛙では、この囊が更に大きくなり、内臟のある場處と皮膚との間に割り込んで、腹の方まで達して居るのである。

[やぶちゃん注:以上の他にも変わった保育を行う蛙について、「るいネット」の雪竹恭一氏のカエルの繁殖様式いろいろが参考になる。以上の蛙も挙がっており、リンクもされていて必見。

「背孔蛙」無尾目無舌亜目ピパ科ピパ属コモリガエル(ピパピパ)Pipa pipa ウィキの「ピパピパによれば(「メス」「オス」を記号に代えた)、体長は十五センチメートルほどもある『大型のカエルだが、前方に三角形にとがった頭部と、上から押しつぶされたような扁平な体はカエルとは思えないほどである』(不謹慎ながら、小さな頃によく見た車に轢かれて熨斗烏賊になった大型の蛙に似ていると私は昔からずっと思っている)。『体色は褐色で全身にいぼのような小さな突起がある。後脚には広い水かきが発達する。前脚には水かきがないが、指先に小さな星形の器官がある。目は小さくてほとんど目立たないが、口は大きい。また、舌がないのもピパ科のカエルの特徴であり、同じ科のツメガエル類とも共通した特徴である』。『アマゾン川流域を中心とした南米北部の熱帯域に分布し、川の中に生息』し、『陸上に出ることはほとんどなく、一生を水中で過ごす』。『前脚を前方に突き出し、「バンザイ」をしたような格好で川底にひそむ。褐色の扁平な体は枯れ葉や岩石によく似ており、捕食者や獲物の目をあざむく擬態である』。『前脚の指先にある星型の器官は節足動物の触角のような役割を果たしており、小魚や水生昆虫が前脚に触れると、瞬時に大きな口で捕食する。このとき、口を開けて水とともに獲物を吸い込みつつ、前脚で口の中に掻き込むような動作を行う。移動する時は後脚の水かきを活かして移動し、前脚で障害物を掻き分けながら進む』。『その変わった姿だけでなく、が子どもを保育することでも知られ』、『産卵前にはの背中の皮膚がスポンジのようにやわらかく肥厚する。は水中で抱接しながら後方に何度も宙返りし、背泳ぎの状態になったときに産卵した卵をの腹部で受け止めて受精させ、回転が終了したときに受精卵をの背中の肥厚した皮膚組織に押し付け、埋めこんでしまう。卵は組織内で孵化し、幼生(オタマジャクシ)の時期もの背中の組織内ですごす。メスの背中から飛び出してくる頃には小さなカエルの姿になっている。「コモリガエル」という和名はこの繁殖行動からつけられたものである』。『同じピパ属のカエルの中には背中の皮膚内で孵化した幼生がカエルまで成長せず、オタマジャクシの状態で泳ぎだす種も知られている』。

「卵を吞む蛙」無尾目ダーウィンガエル科ハナガエル属ダーウィンハナガエル Rhinoderma darwinii ウィキの「ダーウィンハナガエルによれば(「メス」「オス」を記号に代えた)、『チリやアルゼンチンの森林の小川に生息するダーウィンガエル科のカエルである。フランスの動物学者アンドレ・デュメリルとその助手ガブリエル・ビブロンによって記載された。種小名darwiniiはビーグル号による航海の際に、チリでこの種を発見したチャールズ・ダーウィンに因む』。『最大の特徴は、オタマジャクシがオスの鳴嚢の中で成長する点である』。『色は茶色か緑色で、大きさは』二・五~三・五センチメートル。『前足には水かきがないが、後ろ足の爪先のいくつかには水かきがある。昆虫やその他の節足動物を食べる』。彼らは『エサを捕まえるだけではなく、捕食者から身を隠す必要もある。捕食者から逃れる最大の武器はカムフラージュである。まるで枯葉のように地面に横たわって、捕食者が通り過ぎるのを待つ』。以下、「口内保育」の項。は約三十個の『卵を産み、は卵が孵化するまで、おおよそ』二週間、『それを守る。その後、は鳴嚢の中で生き残った全ての子供を育てる。オタマジャクシは卵黄を食べながら』、『袋状の顎の皮膚の中で成長する。オタマジャクシが』〇・五インチ(一・二七センチメートル)程度まで『成長すると、口の中から飛び出て泳ぎ去る』とある。但し、悲しいことに、二〇一三年十一月に『ロンドン動物学会とチリのアンドレス・ベロ国立大学の研究者は、カエルツボカビ症』(一属一種の真菌である菌界ツボカビ門ツボカビ綱ツボカビ目ツボカビ科ツボカビカエルツボカビ Batrachochytrium dendrobatidis によって引き起こされる両生類の致死的感染症)『によってこの種は既に絶滅しているようだと発表した』とある。

「嵌り」「はまり」と読む。]

藪野直史編 梅崎春生全詩集(ワード縦書版)

僕がオリジナルに編した「梅崎春生全詩集」(一括ワード縦書版)を公開した。ダウンロードしてお読みあれ。

2016/02/22

梅崎春生「仮象」PDF縦書版

梅崎春生「仮象」PDF縦書版を公開した。

仮象   梅崎春生

仮象   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年十二月号『群像』に発表され、後の梅崎春生の死の直後に出た単行本に「幻化」とともに収められた(作品集「幻化」には他に「凡人凡語」も所収されている。後述参照)。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第六巻」を用いた。同底本の古林尚氏の解題によれば、『この作品は一部に、先に「群像」の昭和三十二年十月号に発表された短篇「顔序説」が使用された』とある。

 同底本の山本健吉氏の解説には、春生と最後に電話をした際、かの遺作となってしまった「幻化」にこの短篇「仮象」を『添えて単行本を作るということだけを、彼は言った』とあり、また、それは春生が本短篇「仮象」を「幻化」『の衛星的作品と考えていたからである』と断言されておられる。本作には「幻化」にも描写されるチンドン屋に遭遇すると気分が変調する老人が描かれているが、「幻化」では『自分が他の人間になることは、何とすばらしいことだろう』と、主人公五郎に心内語で言わせている。因みに題名の「仮象」とは哲学用語でドイツ語「Schein」(シャイン)の訳語。実際に存在するように感覚に現れながらも、それ自身は客観的な実在性を持たない虚構の形象の意である。

 第一章「顔」の最初の方の主人公の回想に出る「教班長」とは、戦争中の日本帝国海軍の「新兵教育分隊」の「班」を「教班」と称し、その「教班長」はその班の担当下士官である班長を言ったものらしい。

 同じく「顔」の「回転車」は言わずもがな乍ら、ゴンドラで回転する大観覧車のこと。

 第二章「梵語研究会」の最初に出る「受持連絡」というのは、正式には「巡回連絡」と呼ぶようである。その直後に出る「孝治橋」という橋名は不詳である。地区も『Q』なればこそ架空のものであるらしい。

 同パートに蟻の「見張り」の観察のシーンが出るが、これは他の群れ或いは同じように見えながら別種の異個体が侵入したものをそれが攻撃したのを見誤ったものではないかと私は推測する。主人公の言うような監視システムをアリは保持していないように私は思う。寧ろ、近年の研究では怠ける働きアリ(周囲の環境に対して反応閾値が高く設定されてしまっている個体)がいるからこそ、労働が上手く分配され、アリ社会の永続性が逆に保持されているということが解ってきているぐらいである。

 第三章「神経科病室」の「バレーボールのストップ」とはバレーボールのブロックを指しているものと思われる(元バレーボール部顧問の妻の談)。この当時、バレーボールのプレイとしての「ブロック」を「ストップ」と一般に呼んでいたかどうかは判らないが、ここは実際の塀としての「ブロック」の比喩であるため、判り易く区別するために作者がかく表記したようにも思われる。

 ブログ版「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注」及び同PDF縦書版をリンクさせておく。]

 

 

 仮  象

 

 

 

 

 毎日毎日、どういう形でか、顔と会う。顔というのは、自分の顔でない。他人の顔のことだ。自分の顔に自分では会えない。鏡を使えば会えるようなもんだが、あれは左右が入替っている。本当の顔じゃない。また人間は自分の顔に会う必要がない。自分の顔を見ないでも、ここにいるのは自分であることは、自分で判るからだ。

 他人に会うということは、他人の顔に会うということだ。もし顔がなければ、特別の場合をのぞいて、相手が誰であるか判らない。相手が獣や鳥の場合は、それを識別するのに、顔よりも毛色や形に重点を置くが、相手が人間だとそんなわけには行かない。衣服をつけているから、毛色や形は見えないし、衣服から出ている部分と言えば、顔だけだ。顔をたよりにする以外に方法はない。で、毎日毎日、どういう形でか、いろんな顔と会う。無人島に住んでいるのではないから、それも当然だが、時には私はそれを苦痛に感じることがある。苦痛と言うより苦労、心の重さ、気分の重さと言う方が適切だろう。それにはいろいろ原因があるが、ひとつには私の能力、他人の顔を覚えると言う能力が、たいへん欠乏しているせいである。人の顔を覚えるのは実にむつかしい。分類学というような才能を必要とするものらしい。私にはその才能がほとんど欠如しているのだ。

 見慣れてしまった顔なら、問題はない。それから全然関係のない他人の顔、これもあまり問題でない。一番困るのは、中途半端な顔だ。どこかで見たような、見たことがないような、そんな顔が一番困るのである。そういう顔にぶつかると、はたと私は当惑してしまう。

 そういう場合、相手が私に話しかけて呉れたら、それを手がかりにして、相手が何者であるかを探り出せる。しかしこれもたいへん老練な受け答えが必要で、うっかりすると相手に気を悪くさせたり、またかなり長時間受け答えをしながら、とうとう相手の正体を摑(つか)めない場合だってある。うまく行って、相手の正体が判り、別れたあと「今のが何某さんだ」と心に銘じても、翌朝になると何某さんの名前だけが残って、何某さんの顔は我が記憶からすっぽりと消え去っている。だから、またどこかで顔を合わせれば、同じようないきさつになって、受け答えに私が苦労するということになる。気分が重いというのはこういうことだ。

 このような物忘れの現象は、私の年齢のせいではない。若い時からそうだった。二十九歳で海軍に召集され、海兵団に入れられ、それから教班長を紹介される。

「おれが第一教班長の××一曹」

「おれが第二教班長の××二曹」

 という風な具合に、それぞれの教班長が自己紹介をする。私は自分の欠点を承知しているので、眼を皿のようにして、各教班長をにらみつける。それでも駄目なのだ。

「わかれ」の号令がかかって解散すると、もうどれがどの班長の顔だったか判らない。結局、自分の班の教班長の顔だけ覚えて、あとはどうにかごまかすか、ごまかしそこねてひっぱたかれる、というようなことになるのだ。

 さっき書いた中途半端な場合、どこかで見たような見ないような顔で、こちらに話しかけて来れば来たで苦労するし、来なければ来ないで困る。妙な具合に視線を合わせ、そのまま妙な具合に視線を外らせる。一度だけならいいが、顔を合わせるのが二度三度と重なると、気分の重さ、やり切れなさは、それに応じて倍加する。どこの誰とも判らないながら、いっそ帽子を取ってあいさつをし合った方が気はラクだ。ラクだと言っても、あいさつをするわけには行かない。この度あいさつをするのなら、なぜ前回の時にあいさつをしなかったか、という意識が脱帽の行為をためらわせるのだ。ためらっているうちに、そいつと私はすれ違ってしまう。次回に会った場合には、そのためらいは更に倍加する。前二回知らぬふりをして、今度だけあいさつをする根拠はどこにあるか。どこにもありはしないのだ。

 そういうケースは、向うも私の顔をどこかで見たような顔だが、こちらの正休を摑めないと言うことで起るのらしい。顔覚えの苦手な人間は、世間には私一人ではない。たくさんいる筈だ。そう思う。そうでなければ、私は特殊な人間、あるいは人間並でない人間と言うことになる。それは私は厭(いや)だ。私はどちらかと言うと平凡でありたい。

 私は平凡な顔をしている。鏡をのぞいても、自分ながらそう思う。鏡の中の顔は、左右が取替っているが、も一つ鏡を使って、合わせ鏡にして眺めても、ごく平凡な顔である。別にどこと言って特徴がない。ありふれた型の眼鏡をかけている。鼻は高からず低からず、というような形容があるが、私の顔もみんな……からず……からずで形容出来るようだ。たとえば、顔は長からず短かからず、色は白からず黒からず、唇は厚からず薄からず、全部が全部そうである。平凡でぼんやりした顔なのだ。

 そういう顔だから、私の顔は人目に立たないし、したがって記憶しにくい顔に属するらしい。目立った顔、たいへん長い顔だとか、極端に眠が大きな顔だとか、一目見れば忘れられないという顔がある。そういう顔の持主は、実生活で得をしているか損をしているか、聞いたことがないから知らないけれども、私はそんな顔をあまり持ちたくない。つまり私は、あまり人目に立ちたくない。あまり目立たないところで、こそこそと生きていたいという気持が、いつも胸の奥底にわだかまっている。平凡な顔に生れついてよかったと思う。目立つ顔は損だと思う。適当なたとえでないかも知れないが、たとえば悪事をはたらくような場合でも、平凡な顔の方が得だ。もし目撃者がいて、あれはたいへん大きな鼻の持主だったと証言すると、その大鼻のは人は直ちにつかまる可能性が多い。私のように平凡な顔だと、目撃者がいても証言のしようがなく、モンタージュ写真をつくっても、ありふれた日本人の顔しかつくれないから、捜査は永びくことになる。悪事をはたらく気持は、今の私には毛頭ないけれども、将来のいつなんどき、追われる身にならないとは限らない。悪事と関係なく、追ったり追われたりする世にならないとは、誰も保証出来ない。

 で、その具合の悪い相手は、世の中に無数にいるが、その中の特殊の一人について私は書こうと思う。そいつの名前も住所も、私は全然知らない。住所は私の近くかも知れない。私がよく乗るバスの中で、一度顔を合わせたことがあるからだ。しかしこれもあてにならない。何かの用事で偶然そいつは、そのバスに乗っていたということもあり得る。

 そいつと最初に顔を合わせたのは、私の記憶では、二年ぐらい前のことだったと思う。それ以前も会ったことがあるかも知れないが、記憶にはない。それは国電の駅の階段でだ。たしか秋の末の昼下りで、通勤時間のように混んでいずに、階段はがらんとしていた。そいつは上から降りて来て、私は下から昇っていた。階段の丁度(ちょうど)中ほどのところで、すれ違う時に、ぱっと顔が合った。

「あ!」

 そいつはそんな声を出して、ぎょつとしたように立ち止った。それで私も立ち止った。立ち止らないわけには行かなかった。

 そいつの顔に私は見覚えはなかった。いや、見覚えがないとは、はっきり言い切れない。いつも見慣れた顔をのぞくと、私は日本人の顔なら大体どれもこれも、見覚えがあるようなないような感じを持っている。特にその時は、向うが「あ!」と言って立ち止ったのだから、こちらとしては「おれを見知っているんだな」「つまりどこかで会ったことがあるんだな」という意識を、瞬間的に持たざるを得ない。そういう時、私の態度は常に警戒的になる。慎重に受け答えして、相手の正体を知らねばならぬのだから、どうしても防禦(ぼうぎょ)の立場に立って、相手の出方をうかがう恰好(かっこう)となる。だから私はよく人から言われる。

「どうしてそんなにびくびくしているんですか?」

 びくびくしているのではない。警戒しているのだ。

 しかしその時、一瞬にしてそいつは私から眼を外(そ)らし、(視線を私からムリに引剝ぐと言った感じだった)そのままとことこと、足早に階段を降りて行った。だから私も、足を動かして、そのまま階段を昇った。何故そいつが私の顔を見て「あ!」と叫んだのか。立ち止ったのか。次の瞬間視線を引剝がして、逃げるように階段をかけ降りて行ったのか。私には判らなかった。判らないまま改札口を出た。

 その次顔を合わせたのは、それから半年後で、場所はある遊園地だった。私は一人で回転車(と言うのかな。小さなボックスに乗り込むと、ゆるゆると上って、降りて来るやつ)に乗っていた。下から頂点の中途まで来ると、軸を中心にして反対側のボックスに、じつと私を見ている男の視線を、突然私は感じた。次の瞬間、それがそいつであることに、私は気がついた。ゆるゆると下降しながらそいつは、ゆるゆると上昇しつつある私を、眼を皿のようにして、見つめていた。そいつはボックスに若い女と同乗していたのだが、やがて角度の関係で、そいつのボックスは私の視界からふっと切れた。向うからも私の顔が見えなくなったわけだ。

 私が頂点まで上昇、それからゆっくりと下降して、ボックスから降り立ち、そいつの姿を探し求めたが、もうどこにも見えなくなっていた。三度目が前記のバスの中で、私が乗り込んで、空席を探すべく車内を見廻すと、そいつの顔にばったり出合った。そいつの顔はさっと緊張した。緊張したことだけは判ったが、それがどういう意味を持つ緊張なのか、たとえば恐怖だとか、嫌悪だとか、それは私には判じかねた。彼の顔に緊張をもたらしたのは、私の顔の出現のせいだということだけは、確実であった。

 そいつの年頃は、私と同じくらいか、少し上ぐらいで、顔に別段の特徴はない。ありふれた型の眼鏡をかけている。しごく平凡な顔だ。と言うと、私もありふれた型の眼鏡をかけ、平凡な顔をしているのだから、私に似ているかと言うと、そうでもない。平凡にもいろいろ種類があって、平凡だからとて似ていると言うものではない。顔というものは、そんな単純なものではない。

 顔。顔とは何だろう。後頭部の表側にあたる部分、それでは説明にならない。もしあの部分がのっぺらぼうだったら、それは顔とは言えないだろう。眼や鼻や口や耳、そんなものがあるからこそ、これは顔なのだ。そういうものの配置、ならび具合が顔と称するものである。では、眼や耳や口は、顔をつくるために存在するのか。そうではない。眼は見るために、鼻は呼吸のために、口は食うために、耳は聞くために存在する。それらの機能を果たすべく、人体の中の一番都合のいい部分に、所を求めてあつまったのだ。その一番都合のいい場所というのが、頭からすべり降りた前面の空地で(耳だけは横面)しかるべきところに定着したとたんに、顔というものが出来上った。顔が出来たのは、偶然だと言ってもいい。だからそれら器官の配置の具合が平凡だと言っても、何千何万種類の平凡さがあって、それは言葉では言いつくせない。

 そいつはとにかく、一瞬はげしく緊張した。それは前記器官の配置の微妙な変化で、すぐに判った。しかしそれが、どんな意味の緊張だか判らなかったのは、そいつがすぐに視線を引剝がして、膝の上の週刊誌に顔を向けてしまったからだ。それは私にはむしろ好都合だった。私は遠慮なくそいつを観察出来る立場に立てたのだから。やがてバスが次の停留所にとまると、そいつは私を見ないようにして、ごそごそとバスを降りて行った。その停留所が彼の目的地だったのか、私が乗り込んだから降りて行ったのか、それはよく判らない。

 それから今までに、そいつの顔を二度ばかり見た。一度は日比谷の映画館の便所で、もう一度は新宿駅でだ。新宿駅で電車を待っている時、ふと向うを見ると、松本行鈍行列車の二等車の席に、彼は腰かけていた。どういうつもりか、まだ停車中なのに、彼は汽車弁当を食べていた。(汽車弁当と言うものは、汽車が動いていないと、食べても旨くないものだと私は思うのだが)私の視線をはっと感じたらしい。そいつは箸をとめて、顔をぐいとこちらにねじ向けた。いつものショックがそいつの顔をおそった。あきらかにそいつは驚愕の色を示した。そこへ電車が轟と走り入って、私とそいつの間を隔ててしまったのだ。それはいい後味のものではなかった。とにかく私の顔が、この私の平凡な顔が、ある男にとってショックに値いするということは、私にはたいへん面白くないことだった。最初から面白くないことであったが、度重なるにつれて、それは重苦しい鎧(よろい)のように、私の全身にかぶさって来る。ふりはらおうと努力しても、それはずっしりと、まつわりついて離れない。

 

 梵語研究会

 

 夕方帰宅して風呂に入る。上ってビールを飲む。すると電話がかかって来た。彼は立ち上って受話器をとった。電話は台所と居間の間にある。低い押しつぶしたような声が、彼の名前を確めた。

「そうです」

「あなたが本人ですね」

「そうですが――」

 彼は用心深く言った。

「あんたは一体どなたです?」

「あ。失礼。こちらはQ警察、エトウというものです」

 声はあやまった。しかし彼はあやまられたような気がしない。警察が何でおれに電話をかけてよこすのか。その不安の方が先に立った。

「あなたは梵語(ぼんご)研究会というのを御存知ですか?」

「ボンゴ研究会?」

「ええ。インドの古代の言葉らしいですな。それの研究会です」

 梵語? 梵語研究会とこのおれと、何の関係があるのだろう。だから電話というやつはイヤなんだ、と彼は考えた。見たことも会ったこともない相手と、しかも対面でなく遠く離れて、素(す)で話し合う。顔見知りなら気軽に電話口に出られるが、声だけの初対面というのが彼の気に入らなかった。

「梵語には僕は興味ありませんね」

 彼はそっけなく言った。

「まして梵語研究会なんかに、かかわりあるわけがない。一体その研究会はどこにあるんです? どこかの大学にでも――」

「大学じゃありません」

 相手の声の調子は変らなかった。

「個人が主宰しているのです」

「その個人と僕との間に、何の関係が――」

「それをおうかがいしたいんです。その男が持っていた会員名簿に、あなたの名が出ていました」

「え? 僕の名前が?」

 彼はびっくりして反問した。

「そりやおかしいな。僕が知らないうちに会員になってるなんて。姓も名も同じなんですか?」

「そう」

 うなずく気配がする。そして急にぞんざいな口調になった。

「あんた、Q区に部屋を借りているね」

「借りちゃいけないんですか」

「いや。借りるのはあなたの自由です。受持連絡で最近判ったもんでね」

「受持連絡というのは、何ですか?」

「交番の者が受持地区の各宅を廻って、そこに住んでいる人の数などを調べるでしょう。同居人とか雇い人を含めてね、それを受持連絡というんです」

「しかし僕は同居しているわけじゃない。部屋を借りて、一日の中何時間か仕事をするだけです」

 彼はいらいらした声で答えた。

「それと梵語とどんな関係があるんですか?」

「あなたはQ区の孝治橋という橋を知っていますか?」

 声は問いに答えず、突然話題を変えた。

「あの橋のふもとに、電車の停留所があるでしょう」

「ふもとじゃなく、たもとでしょう」

 彼は相手のタイミングを乱すために、揚足をとった。

「それともその橋は、高くそびえているんですか」

「そう。たもとです」

 声は冷静さをくずして、初めていまいましげな諷子になった。

「そのたもとの電停の安全地帯で――」

「安全地帯も何も、僕はその橋に行ったことはないですよ。Q区って広いんでしょう」

 そして彼はきめつけるように言った。

「もすこし筋道を立てて話したらどうですか?」

 相手は返事をしなかった。彼は受話器をぴたりとあて、聞き耳を立てる。近頃の受話器は性能が良くなって、以前より背後の音が入りやすい。かすかに声がする。二人以上の人間が相談しているらしい。はっきり聞きとれないのは、相手の掌が送話口をふさいでいるからだ。会話のくぐもり具合が、湿った厚ぼったい掌をまざまざと想像させた。やがて掌が引剝がれる音がして、声が大きくなった。「するとあなたは、梵語研究会も知らないし、孝治橋にも行ったことはないというわけですな」

「もちろんそうです」

「そうでしょうな。それならそれでいいです」

 ちょっと待て、という前に電話が切れてしまった。

「もしもし。もしもし」

 切れたから、もちろん応答はない。彼は受話器を置き、ふわふわした足どりで元の席に戻って来た。コップに残ったビールをぐっとあおる。何だか後味が悪い。またコップにビールを注いだ。彼の家のうしろにある工場の機械が、またガシャガシャと昔を立てている。この工場は夜の八時頃か、遅い時は十二時頃まで、音を立てているのだ。その度に螢光燈がびりびりと慄える。

「あの工場じゃ何をつくってんだね?」

 ある夜将棋仲間の浅香が、将棋を指しながらその方に顔をむけて言った。

「ほんとにうるさいな。震動で歩がピョコピョコ動くようだよ」

「うん。看板には紙工所と出ているんだ」

 この工場が出来た時、いや、ふつうのしもた屋が内部を改造して小さな工場になった時は、ほとんど音は発しなかった。看板がかかげられ、大和紙工所、その下に小さく、紙袋包装紙印刷加工、と書いてある。まだ機械は入っていず、手でバタンバタンと何かを打返す昔が、風の具合で彼に聞えて来た。

「それからふくれて来たんだな。つまり注文が多くなったということだろう」

 建物がつぎ足され、ふくれ上り、彼の家の裏庭の生籬(いけがき)のすれすれまでに、工場の壁が迫って来た。そして機械が入れられた。新規に次々買い入れるらしく、だんだん音が大きくなる。ある日彼がその前を通ると、以前は仕事場だったところが、商取引の応対所になっていて、チョビ髭を生やしたそこの主人が、卓の向うの回転椅子に腰をおろして、煙草をふかしていた。創業当時にその髭はなかったと思う。そいつが彼の顔を見て、中腰になり、じろりとにらんだ。にらんだだけでなく、文句はつけさせないぞという感じで、肩をそびやかした。

「やはり音を出していることに、引け目を感じているんだね」

 彼は浅香に説明した。

「髭を立てたのが、その証拠だ」

「髭が何の証拠になるんだい?」

「髭を立てると、鉄面皮、いや、鉄面皮とまでは行かないが、少し横着になる気分になるんだ。一昨年の夏だったかな、おれは信州の友人に誘われて、山ごもりをしたことがある。そこで雨の日に転んでね、顔を白樺の木の根っこにぶっつけた。顔中が傷だらけになり、眼鏡も割れてしまった」

「山の中で眼鏡をこわしたら、困るだろうね」

「そりや困るさ。だから翌日山を降りて、町まで眼鏡を買いに行った」

 素面ではどうにも恰好(かっこう)がつかないので、大きなサングラスをかけた。バスに乗った。するとバスに乗っている連中の態度が、どこかおかしい。おどおどとして、彼の顔を見ないようにする。顔を合わせると、あわてて眼をそむける。

「初めは気の毒がってそうしていると思ってたら、そうじゃないんだね。恐がっているんだ」

 顔には傷があるし、あまり品の良くない黒眼鏡をかけている。しかも太い杖をついている。殺し屋みたいな恰好をして、うっかりすると因縁をつけられそうだ。そういう心境に乗客がなっていることが判ったのは、バスの車掌が切符切りに来た時だ。その若い女車掌は彼の前を通る時、眼を伏せるようにして、切符を売らなかった。

「すると君はただ乗りをしたのか?」

「つまり、そうだ。売って呉れないから、仕方がないやね。バスを降りて眼鏡屋まで歩く時も、通行人は皆おれをよけて通ったよ。そこでおれも面白くなって、わざとすごんだような歩き方で、街を歩いた」

「それと髭と、何の関係があるんだい?」

「だからさ、顔かたちが変ると、人間は若干横着になるということさ。素(す)の顔じゃ責任を感じるが、髭とか黒眼鏡は責任を減少させる楯となる」

「ふん。そんなものかな」

「そうだよ。グレン隊を見なさい。おおむねサングラスをかけている。それで破廉恥なことが出来るんだ」

「他の考え方は出来ないか」

 浅香は憮然とした表情で、角の位置を動かした。

「たとえばだね、君は盲のアンマさんと間違えられたんじゃないか」

「アンマ?」

 彼は驚いて反間した。

「じゃ皆、どうしておれの顔から眼をそむけたんだ?」

「怪我したアンマさんなんて、何か哀れで、見るに忍びないからね。車掌が切符を売らなかったというのも、同情したんだとは考えられないか?」

 彼は返事をしないで、しばらく盤面を見詰めていた。見詰めているふりをしていた。ギャングの親方のような気分になっていたのに、他人には盲人に映っていたかも知れない。その解釈がひどく面白くない。彼は敵角の前に香車を打った。浅香は腕を組みながら言った。

「眼鏡を新調してかけた時、さっぱりしただろう」

「うん。うす暗くてもやもやした世界が、急にはっきりしたね」

「それで街を歩いた時――」

 浅香は角を動かした。

「誰も君をよけなかっただろう」

「うん」

 面白くない気分のまま、彼はあまり考えもせず、しきりに駒を動かした。盤面は間もなく彼の負けになった。勝負はそれで打切り、ビールが出た。気がついてみると、紙工店は作業をやめ、音は止っていた。

「どこかにいい仕事部屋はないかね」

 彼は言った。浅香はコップを手に持ったまま言った。

「どうして紙工店に抗議を申し込まないんだ?」

「うん。それも考えたんだが――」

 彼は視線を宙に浮かした。初めは人の手で打返すだけの音であった。それから小さな機械が入った。機械を入れ替えるのか買い足すのか、だんだん音が大きくなる。夏になると窓をあけ放すので、なおこたえる。では抗議という段になると、彼はついためらってしまう。昨日も今日と同じくらいにやかましかった。今日抗議するくらいなら、なぜ昨日抗議しなかったのか。何か特別に今日抗議する理由があるのか。

「印刷加工と言うが、音が大き過ぎやしないか?」

浅香はにやにやと笑いながら言った。

「爆弾でもこさえているんじゃないか」

「バクダンを?」

 彼も笑った。

「まさかねえ」

「とにかく君は気が弱過ぎるんだ。びくびくし過ぎるんだよ」

 そうじゃないんだ、と訂正しようと思ったが、面倒くさくなって彼は口をつぐむ。

 

 いたずらじゃないか。誰かがいたずらに電話をかけたんじゃないか、と思いついたのは、三本目のビールの栓を抜いた時であった。コップに盛り上る白い泡に、彼はしばらく眼を据(す)えていた。

『しかしいたずらにしては――』

 彼はぼんやりと考えた。

『さっぱりしたところがない。へんに意味ありげだった』

 彼は立ち上り、電話帳を持って戻って来た。Q警察署の番号を探した。また立ち上って電話口に取りつき、ダイヤルを廻す。若々しい元気そうな声が出た。

「はい。こちら、Q警察署です」

「つかぬことをおうかがいしますが――」

 舌がもつれるのを感じながら、彼は言った。

「そちらに江藤さんとか何とか、そういう方が勤務しておられますか?」

「江藤? いませんね」

 やはりいたずらだったのかと、瞬間彼は考えた。

「伊藤の間違いじゃないですか?」

「あ。そうかも知れません」

「伊藤さんはもう帰りました。何か用事でも――」

「ええ。ちょっとした事件で」

「主任がいますから、その方につなぎましょう」

 電話が切り換えられて、別の声が出て来た。彼は言った。

「さっき伊藤さんから電話がありましてね、途中で切れたような具合で――」

「何の用件でした?」

「僕もよく判らないんですが、梵語研究会とか何とか――」

「ああ。あの事件ですか。梵語研究会とあなたとは何の関係もないそうですな」

「もちろんありませんよ!」

 調子が詰問じみた。ビールの酔いがそれをけしかけている。

「一体梵語研究会とは、何の団体ですか。思想的なものなんですか?」

「あなたの職業は?」

 警察というところは、すぐに話題をそらせたがる。平静に、平静に、と念じながら、彼は答えた。

「著述業。ものを書く商売です」

「ああ。なるほど」

 うなずく気配がする。

「ものを書く商売ね。判りました」

「それで僕の家の近くに工場があったり、またその頃アパートが建ちかかったりして、うるさかったもんですから、浅香という友人の紹介で、Q区に仕事部屋を借りたんです」

「浅香?」

 語尾が尻上りになった。

「それはどういう人物ですか。以前からのお知合いですか?」

「いや。四、五年前に知合ったんですがね」

「どこで知合ったんです?」

「どこだったか忘れましたよ」

 彼はいらだって言った。四、五年前新宿のバーで誰かに紹介され、それ以来将棋仲間として往き来している。それを説明するのは面倒だったし、またその義務もない。しかし何か為体(えたい)の知れないものが、彼の身辺にまつわりかかっている。それが第一にやり切れなかった。

「一体その梵語研究会に僕の名が――」

「ああ。あの名簿はあまり当てにならないんですよ」

「当てにならないって、そんなバカな――」

 彼は嘆息した。

「その研究会の正体は、つまるところ何ですか?」

「つまり梵語研究会という名をつけて、いかがわしい本を売りさばいていたんですな。その男が」

「いかがわしい本?」

「そう。猥褻(わいせつ)な書物のことですよ」

「猥褻?」

 彼は絶句した。自分が猥褻文書に関係している。それは意外であったし、またその事実もなかった。しばらくして彼は言った。

「僕にはそんな心当りは全然ありませんよ」

 関係がないことを、どんな方法で証明するか。その心配が彼の口調を弱くさせた。しかしおどおどしていては、かえって疑いを持たれるおそれがある。

「で、その犯人はつかまったんですか」

「ええ。つかまえて家宅捜索をしたら、そんな名簿が出て来ましてね。あなたの名が出ていたというわけです」

 彼は頭をいそがしく働かせながら、主任の声を聞いていた。もやもやした不安感が一応形をとったけれど、また別のもやもやが発生して、彼にかぶさって来る。

「その男を訊問すると、あなたと同じ名の男がある場所を指定して来て、そこで書物と金を引替えたと言うんですがね」

「ある場所? どこです?」

「孝治橋の電停の安全地帯だというんです」

「孝治橋――」

 なるほど孝治橋がそこにつながるんだな、と彼は考えた。

「しかし僕は孝治橋などには、伊藤さんに申し上げた通り、行ったことはありませんよ」

「誰かがあなたの名をかたったのかも知れませんな。おい。灰皿を持って来て呉れ」

 灰皿が受話器の横に置かれる音がした。主任は今までくわえ煙草で応答していたらしい。

「こんな場合、皆さんは自分の本名を使いたがらないもんでね。全然の偽名か、誰かの名を借りることが多い。だからこんな事件はやりにくいんです」

 一体誰が名前をかたったんだろう。その疑問がまず彼に来た。

「孝治橋で受渡しした以上、その偽名者はQ区に住んでいるだろうと見当をつけましてね、もう一度調査したら、あなたが同居しておられたというわけです」

「その偽名者が僕であるかないか、どうしてそちらに判るんですか」

 彼は放って置けないような気持になって言った。

「その男は僕と称する男に、孝治橋で会ったんでしょう。すると僕の顔を見た筈ですね」

「そりやそうでしょう」

「その男は今留置場に入れられているわけですね。僕がその男と会えば――」

「いや。その男は――」

 相手は少し苦しげな口調になった。

「今ここの留置場にいないのです」

「どこかに身柄を移したんですか?」

「いえ。放してあるんです。自宅にね」

 どうも話がよく判らない。売り手の犯人を釈放しているくせに、買い手のおれ(?)に電話をかけて来る。一体どういう意味なのか。相手は続けた。

「まあ逃亡するおそれはないと見て、そんな処置を取ったんです。ですから、孝治橋にあらわれたのは、あなたじゃないと判れば、それでいいんですよ。いや、電話で御迷惑をかけました」

 彼は何か返事をしようとした。しかし言葉が出ない中に、電話は静かに切れた。

「何かがどこかでこんぐらがっている」

 元の座に戻って彼は呟いた。コップのビールの泡はもう消滅して、茶褐色の液体だけになっている。

「とにかく声ばかりだからな」

 初めから終りまで電話だけで、お互いに顔を見せ合わない。第一にそれが不安定であった。しかし誰かが彼の名前を使用したのは、事実であるらしい。Q区の仕事部屋のことを知っているのは、浅香と貸し手の内山一族だけの筈だ。殺人だの傷害などの刑事事件ならいいが、誰かが名をかたって猥褻書を手に入れた。名をかたられたおれは、何の得もしていない。それが彼には忌々しかった。泡の消えたビールを台所に捨て、彼はも一度ダイヤルを廻して、浅香を呼び出した。

「浅香君かね?」

 彼は言った。

「君は梵語研究会というのを、知っているかい?」

「何だね、そりゃあ」

 浅香の声が戻って来た。

「梵語、サンスクリットか何かだ。それを研究する会さ」

「心当りないね、全然。それがどうしたんだね?」

「心当りがなけりゃいいんだよ」

 彼はある快感を感じながら答えた。今やられたことを他人にやるのは、くすぐったいような喜びがある。

「明日の夜でも将棋をさしに来ないか」

「おい。おい。奥歯にもののはさまったような言い方はよせ」

 じれたような浅香の声がした。

「梵語研究会とは何だい?」

「おれにもよく判らないんだよ」

 彼は笑いながら答えた。そして電話を切った。笑いはすぐにおさまって、にがにがしいものが胸につき上げて来る。

 

「それは変だな」

 将棋の一勝負がついて、浅香は煙草に火をつけながら言った。

「判っているのは、それだけかい?」

「声のやり取りだけだからね、くわしいことは判らないのだ」

 彼は立ち上って、東京都の地図を取出し、ごそごそと拡げた。

「孝治橋というのは、ここなんだよ」

 赤鉛筆で印した箇所を、彼は指で押えた。浅香は眼鏡を外して、それに見入った。

「おれの仕事部屋から歩いて、三十分ぐらいのところだ。君は行ったことがあるか?」

「ないね。タクシーで通ったことはあるけれど――」

 浅香は顔を上げ、しかつめらしい表情で顔を見た。

「それ、偽名じゃなく、本名と違うか?」

「本名?」

 彼も地図から顔を上げた。

「同姓同名の別の男がいるというわけか。そんなことはないだろう」

「いや。君自身が孝治橋に行ったということさ」

「なに? このおれが?」

 彼はびっくりして浅香の顔を見た。

「おれが嘘をついていると思うのか。わざわざ君を呼び出して――」

「いや。そうじゃないんだよ」

 浅香は両掌で空気を押えるような恰好をした。

「君は嘘をついてない。でも、無意識裡(り)にそれをやって、それを忘れてしまって――」

「冗談じゃないよ。夢遊病じゃあるまいし」

 彼は笑おうとしたが、笑いはどこかに引っかかった。

「それなら少くとも現物がおれの手に残っている筈じゃないか」

「それもそうだな」

 浅香は視線を地図に戻した。この男と知合って約五年になる。親友というほどではないが、お互いに胸襟を開いているつもりだ、と彼は浅香のうすくなった顱頂(ろちょう)を見ながら考えた。それなのに夢遊病あつかいにするのは、変じゃないか。水くさいじゃないか。

「しかし――」

 思わず声になった。偽名男がもしかすると浅香ではないか。昨日の警察電話以来、胸のどこかにからまっている疑念を、今はっきりと彼は自覚した。相手を疑っていることにおいては、お互いさまではないか。ぎょっとした風に浅香は顔を上げて言った。

「しかし、何だい?」

「いや。何でもない」

 彼は間の抜けたような笑い方をした。

「おれが夢遊病者だという発想は、どこから出たんだね?」

「ああ」

 浅香は困った表情になった。

「内山んとこの爺さんが、そんなことを言ってたんでね」

 内山というのは彼の仕事部屋を借りた家である。浅香の遠縁に当るそうで、浅香の口ききで離れを借りることが出来た。戦災をまぬかれた家なので、相当に古い。そこに爺さんがいる。離れを根城としている。彼はその離れを正午から夕方まで使うという約束で、部屋代を払っている。その間爺さんは母屋でテレビを見たり、雑誌を読んだり、または外出したりする。

「君は仕事をするために部屋を借りたんだろう。それなのに庭をぐるぐる歩き廻ったり、この間などは庭にしやがんで、二時間も蟻が這っているのを眺めていたり――」

 浅香は眼鏡を塵紙でごしごし揉んだ。

「もちろんおれには判っているよ。ところが爺さんには判らないのだ。だから君のことを変な人間だと――」

 それはまだ暑い日のことである。彼は庭に出て見ると、蟻が行列して這っていた。それぞれ米粒の半分くらいの白いものをかついで、移動している。

(蟻の引越しだな)

 と彼は気付いた。そしてその行列の行先をたどった。行列はかなり広い庭を横切り、隣家の垣根をくぐっている。引越し先は判らない。彼は元の巣へ戻り、そこにしゃがみ、出て来る蟻の群を観察していた。

(この白い粒は何だろう。食糧かな?)

 それを運び出す蟻と、運び終って戻って来る蟻とで、巣の出入口は混乱している。その中に面白いものを見た。何も持たないでそこらをうろうろしている蟻がいる。その怠け蟻に、比較的大型の蟻が近づいて、いきなり嚙みついて殺してしまった。音が聞える筈もないが、彼はゴツンという音のようなものを感じた。

「あ!」

 彼は思わず声を立てた。その大型蟻は巣の近くに五、六匹いて、働き蟻の仕事ぶりを監視しているらしい。彼はその仕組みにショックを感じた。

「そうか。あの爺さんがおれのことをそう言ったのか」

 彼は浅香に言った。

「夢遊状態で蟻を眺めていたと、爺さんは思い込んでいるのだね」

「そうらしいよ」

「どうしてそのことを、早くおれに知らせなかったんだ?」

「知りたかったのか?」

 浅香は意外そうに口をとがらせた。

「そんなこと、知らなきゃ知らないで、事は済むもんだと思って、君には話さなかったんだがね」

「そりややはり知りたいさ。自分に関係したことだからね」

「そうかい?」

 浅香は言った。

「君は警察の電話で、君の偽者(にせもの)がいることを知った。知って迷惑を感じている。電話さえなければ、君は何も知らないで、つまり迷惑しなくて済んだんじゃないのか」

 それとこれとは問題が違う。そう言おうとしたが、頭が混乱して、どこが違うのか、彼には判らなかった。

「あれは蟻の引越しを見ていたんだ」

 仕方がないので、彼は話を変えた。

「君は見たことがあるか」

「ないね」

「蟻には憲兵みたいな奴がいるんだよ。驚いたね」

 彼は蟻の生態について、簡単に説明した。浅香は黙って聞いていた。

「そのおれのしゃがんだ後姿を、爺さんはそんな眼で眺めていたんだな」

 彼は内山老人の眼のことを考えながら、そう言った。老人の眼は埴輪(はにわ)の眼に似ている。トーチカの銑眼にも似ている。ある特別の期間を除いて、いつも拒否の風情(ふぜい)をたたえている。

「しかし変なのは爺さんの方だよ。君も知ってるだろ」

「うん。知っている」

 浅香はうなずいた。

「早く病院に入れた方がいいって、内山に会う度に言うんだがね」

 

 背中にジンマシンのようなものが出来たらしく、痒(かゆ)くてたまらない。孫の手をどこかで売っていないかと、ぶらぶら歩いている中に、Q警察署の前に出た。

「あ。警察がここにある」

 彼は思わず呟(つぶや)いた。いきなりぬっとあらわれて、立ちはだかったような感じである。古ぼけた建物なのに、妙に威圧感がある。内部で働いている人たちの表情が、建物にまでしみ出て来るものなのか。

「こんなところにあったのか」

 彼は佇(たたず)んだまま、しばらく考えた。そして中に入って行った。受付に行って訊(たず)ねる。

「こちらに伊藤さんという刑事さん、いらっしやいますか?」

「伊藤?」

「ええ。風俗の取締りなどをやる係りの――」

「ああ。ああ」

 若い受付の男はうなずきながら、受話器を取り上げようとして、またおろした。

「公安課の伊藤さんですね。二階です。あの階段を登って、右に曲ったところです」

 彼はお礼を言って、歩き出した。二階の廊下は小学校の廊下に似て広い。しかしいろんなものが窓際に積み重ねてあるので、実際に歩ける場所は狭いのだ。大掃除の時のような匂いがする。台の上にラーメンの丼が重ねてある。その少し先に『公安課』の札が下っている部屋があった。彼はその扉を押して、あいさつをした。

「こんにちは」

 部屋には卓と椅子が五人分あって、コの字型になっている。しかし人間は一人しかいなかった。その刑事は読んでいた新聞を卓に置き、不審そうな眼で彼を見た。

「伊藤さんはいらっしゃいますか」

「今外に出ています」

 刑事は彼を見詰めたまま言った。

「あなたは?」

 その声でこの刑事は、伊藤刑事や主任でないことが、すぐ彼に判った。彼は帽子を脱いで自分の名をいった。

「実は一週間ほど前、梵語研究会のことで、電話で問合わせがあったんですが――」

「ああ。あの件ね」

 彼の名前を聞いて、刑事は思い出したのだろう。立ち上って椅子をすすめた。中庭を隔てたどこかに剣道場があるらしく、懸声が入り乱れて窓から飛び込んで来る。彼は腰をおろして煙草を取出した。

「あれはもういいんです」

 ライターの火を差出しながら、刑事は静かに言った。刑事というと顎(あご)の張った男を彼は連想するが、この刑事の顎はしゃくれて尖っていた。予定を立てて来たわけでなく、たまたま建物があって入って来たのだから、どうも落着かない。形をつくるために、彼はせきばらいをした。

「そちらでいいとおっしゃっても――」

 彼は言った。

「こちらじゃ割切れない気分が残るんです」

「そうでしょうな」

「この際実情を話していただけませんか。一体その梵語研究会と言うのは――」

「あれは元は真面目な団体だったそうですが、代が替って、今は三代目なんです」

「三代目?」

 彼は煙草をもみ消した。

「三代目と言いますと?」

「初代と二代目は引退したんです。その三代目になって、会員にいかがわしい本を売るようになった。したがって会員のメンバーも変って来た」

「三代目になって堕落したというわけですね」

 彼はよく判らないまま合点合点をした。

「本はよく売れたんですか?」

「それがあまり売れていないらしい。趣味でやっているのか、それで儲(もう)けようとしたのか、それがはっきりしないんです。とにかく残本とメモを押収して、そのメモで買った人を捜して参考人に――」

「その男をつかまえたのは、いつ頃ですか?」

「二箇月ほど前です」

「そのメモを見せて呉れませんか?」

「それもここにはないのです」

 背中が急に痒くなって来た。彼は椅子の背にくっつき、しきりに両肩を動かした。

「すると僕に孝治橋で渡したというのも、その頃なんですね?」

「いや。今年の三月頃だと、当人は言っていましたね。霧の深い、寒い夕方だったと――」

「今年の三月?」

 彼はびっくりして言った。

「僕がQ区に部屋を借りたのは、今年の五月頃ですよ。それまでQ区とは、何も関係もなかった。おかしいですねえ」

「なるほどね」

 彼が痒がっているのを見兼ねて、刑事は机上の物差しを彼に貸した。彼は襟からつっこんで、ごしごしとこすった。

「道理であいつをあげて直ぐ、孝治橋を中心にして、買い手を捜した。その近くに住んでいるだろうという推定でね。しかし捜しても見つからなかった」

「そりゃそうでしょう。僕はその頃いなかったんですから」

 物差しを机に戻しながら彼は言った。

「それで何故、また手数をかけて僕を捜したんですか?」

「書類を検察庁に廻したら、もう少し参考人、つまり本の買い手をですね、余計に捜して呉れとのことで、も一度調査し直したんです。するとあなたが部屋を借りているという受持連絡があった。しかし更にわたしが調べてみると、時間的に食違いがある」

「あなたは内山家に行ったんですか。誰が応対に出ました?」

「お爺さんでしたよ」

「お爺さんは僕のことを何と言っていましたか?」

「いいえ。別に」

 会話は途切れた。彼は撃剣の音を聞きながら、しばらく窓の外に眼を放していた。つじつまが合っていそうで、まだ何かが残っている。ぼんやりしているが、彼の名をかたった人間が、たしかにこの世に存在するのは事実だ。そこを誰も解明して呉れない。

「それの住所を教えて呉れませんか。会いに行きますから」

「それというと?」

「犯人のことですよ、梵語研究会の。会って偽名男の人相などを――」

「そりゃムリです」

 刑事はきっぱりと答えた。

「あれが犯人か犯人でないか、裁判所できめることです。われわれ警察官がそこに立入ることは出来ませんね」

「でも、僕の名をかたった奴がいる。そいつは明らかに氏名詐称でしょう」

 彼は食い下った。

「それはやはり罪になるんでしょうね」

「あなたに金銭その他のことで、重大な実害があった場合にはね」

 刑事はうんざりした声を出した。

「その男がどんな男かは判らないし、またあんな事件では、皆自分の名を出したがらないものです。たとえば連込み宿などで、宿帳には本名を書かない。それと同じです。それをいちいち人名詐称で――」

 その時電話がじりじりと鳴り渡った。刑事はのろのろと立ち上り、受話器を取った。そう言えば実害はないのだから、放って置いてもよろしい。その気持と、一体どんな了見でおれの名をかたったのか、その疑念が入り乱れる。じりじりと時間が経つ。刑事は誰かと世間話をしているらしい。そののんびりした言葉や笑いを聞いている中、刑事の背中が何か壁のように見えて来て、思わずワッと叫びたい気持になる。

 話が済んで刑事が戻って来た。

「孝治橋で本を受取った男は、頭が禿げていた。梵語研究会長がそう言うのです」

 刑事は少し笑った。

「ところがあなたは禿げていない。ふさふさしていますね」

「禿げてるも何も、僕は今日初めてあなたに会ったわけでしょう。どうして――」

「いや。あの電話のあと、すぐわたしが内山さんとこに急行して、あなたの髪の具合を聞いて来たわけですな。そして出先から電話して、あなたの頭は禿げてないとの報告をしました」

 ビールを二、三本飲んでいる間に、おれが禿げているかいないか、調べられたわけだな。なるほど、それで一応話は通る。しかし釈然としない。彼は手で髪をかき上げながらいった。

「その男、眼鏡をかけていませんでしたか」

 バスの中で、遊園地の回転車の中で、松本行列車の中で見た顔を、思い出しながら彼は言った。あいつはいつも帽子を冠っていた。

「年の頃は僕か、僕より少し上のような――」

「何か心当りがあるんですか?」

「いえ。別に――」

 刑事は鉛筆で机をこつこつと叩きながら、彼の顔を見ていた。彼はそろそろと立ち上りながら、あいさつをした。

「どうもお邪魔しました」

「いえ、こちらこそ御苦労さまでした」

 刑事があけて呉れた扉から、彼は廊下に出る。刑事の視線を背に感じながら、まっすぐ歩く。

(つまりおれはこの事件では、利用価値がないというわけだな)

 階段を降りて、建物の外に出る。出るというより、感じとしては追い出されるみたいだ。何だかひどく疲れて、もう孫の手を買う気力がなくなっている。――

 

 神経科病室

 

 内山老人がとうとう入院することになったと、ある日浅香は彼に報告した。彼は訊ねた。

「当人は承諾したのかね?」

「承諾と言っていいのかな」

 浅香は首をひねった。

「とにかく縁側から落ちて、肱(ひじ)を痛めたからね。それの治療のためだと、爺さんには言ってある」

 内山家は母屋が三部屋で、離れの一部屋は渡り廊下でつながっている。老人が落っこちたのは、母屋の縁側からだ。なぜ落ちたかというと、外でチンドン屋の音がして、急いで見に行こうとして、蹴つまずいたのだ。

「どうもチンドン屋と爺さんは、相性が悪いようだね」

 内山老は街でチンドン屋と会ったり、豪の前をチンドン崖が通ったりすると、急に亢奮(こうふん)してそれを見に行く。時にはチンドン屋のあとにくっついて、一時間ぐらい戻って来ないこともある。戻って来た老人は、夢に浮かされたように朗らかになっている。上棟嫌になって、家人や彼にも話しかけて来る。家人とは母屋に住む内山夫妻と中学三年の男の子だ。

 しかしこの御機嫌な状態は、三日と続かない。三日目あたりから、深い欝(うつ)状態におちいる。急に不機嫌な状態になる。いや、不機嫌というのは当らない。不機嫌というと他人に当り散らすようだが、老人は逼塞(ひっそく)して自分の殻に閉じこもってしまうのだ。ほとんど行動しないで、食慾もなくなる。

「不眠も来るらしいんだね。内山君の奥さんもそう言っていた」

 浅香は説明した。

「夜中にぶつぶつと何か呟いていたり、泣いているのを聞いたことがあるそうだ」

 その状態が五日か六日か続き、だんだんと元の状態になる。元の状態と言っても、心身健康というわけでない。むっつりとして笑わない、あまり感動のないような老人に戻るのである。浅香は言った。

「君があの離れを借りた時から、爺さんのその状態はひどくなったとは思わないか?」

「そうだね。その傾向もあるようだな」

 初めあの部屋を借りた時、老人は自分の居室に他人が入って来たという実感がないらしく、時々離れにやって来た。机のまわりに散らかした書きほぐしを拡げて読んだり、また彼の書いている机の上をじっと見詰めていたりする。それでは仕事にならないので、彼は母屋の人に頼んで、彼がいる間は出入りしないようにしてもらった。以後そんなことはなくなったが、その措置を老人がどう受取ったのか、彼には判らない。

「どんなつもりかな。あの爺さんは」

 老人の気持が、彼には理解出来ない。と同時に、老人は彼のことを理解していない。彼のことを変人だとか、夢遊病的だと批評したのでも判る。つまりお互いに判ってはいないのだ。

「チンドン屋を見ると発作(ほっさ)が、いや、何か転換が起きるのは、面白いね」

 彼は言った。

「ある人間をある状態に置くと、喘息やジンマシンが起きる。それと同じことかな」

「そうかも知れない」

「チンドン屋というのは、特別の商売だ。あれは街を歩いているけれど、人間の素顔を出していない。厚化粧をして、服装だって時代離れをしている。つまり人間じゃなくて、仮のものだ。仮象だね。考えて見ると、あれは気味の悪いものだ」

「あれは儲(もう)かる商売かな。どういうシステムになっているのだろう。請負(うけお)いか、それとも日当か」

「ある顔を見ると、突如として反応を起すのは――」

 彼はあの男のことを思い出しながら言った。

「何か底深い関係があるのかも知れない」

「ある顔って、誰の顔だ?」

「チンドン屋の顔さ。あれは皆同じような顔をしている。塗りたくって、同じ型になっている。表情がない」

「表情はあるだろう。笑ったり――」

「あれは表情じゃない。顔の筋肉が動いているだけだ」

 彼は彼等のほんとの表情を、一度見たことがある。二年ほど前彼が散歩していると、道ばたの小公園の入口で、チンドン屋の一組が車座になって、昼の弁当を食べていた。食べながらおしゃべりをしていた。生き生きとした表情や笑いが、厚化粧を通してはっきり判った。今まで禁じられたりしばられたり抑圧されていたものが、いっぺんによみがえっている。その感じがあるショックを彼に与えた。

「おれにもそれに似たことがあるんだよ」

 彼は言った。

「それと逆の立場だけれどね。おれの顔を見ると、その男にある反応が起きるんだ。ギョッとしたような――」

「それ、知合いかね?」

「いや。全然見知らぬ男だよ」

 駅の階段で、バスの中で、遊園地の回転車の中で、会うとギョッとした表情になるあの男のことを、彼は浅香に説明した。浅香は黙って聞いていた。

「へんな話だね」

 浅香が言った。

「すると君そっくりの男が、どこかにいるんだね」

「そうらしいんだ。いるというより、いたという感じだな」

 彼はその男の表情を思い浮べながら言った。

「あいつは死人でも見るような眼付きで、おれを見る。そして青ざめるんだ」

「今度会ったら、つかまえて聞いてみたらどうだい?」

 彼は返事をしなかった。相手が怯(おび)える以上に、近頃彼はその男に怯えを感じていた。しばらくして彼は言った。

「いつ爺さんを入院させるんだね?」

「明日だ」

 浅香は答えた。

「早くしないと、また悪い状態になるからねえ」

「肱をいためたのは、いつだい?」

「今日だ。今日君はあの部屋に行かなかっただろう」

「うん、用事があってね」

 彼は言った。

「するとまだ御機嫌の筈だね。肱をいためたって、骨か?」

「いや。すりむいただけだ」

 彼は老人の上機嫌の状態を思い浮べ、強い哀れさを感じる。いつだったか、やはりチンドン屋を見た直後、老人は朗らかな表情で彼に話しかけた。それは酔っぱらっているような口のきき方であった。日本もアメリカの一州になった方がいいという説である。彼はすこし驚いて反問した。

「何故ですか?」

「その方が日本のために好都合ですぜ」

 老人の主張によると、日本人が皆米国籍に入る。大統領選挙がおこなわれる。その時旧日本人から候補者を一人立てる。旧日本人並びに黒人はその候補者に票を入れる。白人は二派に分かれているから、旧日本人はかならず当選する。

「新大統領の特別命令で、ホワイトハウスを日本州に持って来る。こりや都合がいいですぜ」

 冗談の口調ではない。呂律(ろれつ)は怪しいが、本気の主張と思われた。

(そんなことを考えているのか)

 そんな老人が、周囲からだまされるようにして、入院させられる。入院して泊る方が老人にとって幸福だと判っていても、可哀そうだという気分は打消しがたい。彼は言った。

「気の毒なようなもんだな」

「家族がかい?」

「いや。爺さんがさ」

「爺さんが?」

 浅香は眼を大きくして彼を見た。彼はたじろいで弁解をした。

「いや。気の毒というのは言い過ぎだが、とにかく、おれにとっては、他人事じゃないような気がするよ」

「そうか。そう言えば君にもその傾向があるようだな」

 浅香は笑いながら言った。

「君はいつもびくびくして生きている。一度診察してもらったらどうだね。おれがいい医者を紹介するよ」

「お爺さんがいなくなると、がらんとしているな」

 

 それから三日目の午後、浅香は内山家の離れにやって来て、そう言った。

「何だかはり合いがないね」

「爺さんは元気かい?」

 彼は庭を眺めながら言った。内山家の庭はかなりあれている。花壇らしいものが一応つくられてはいるものの、花は咲かず、雑草ばかりがはびこり、日かげにはぜに苔がいっぱい貼りついている。貧寒な庭だけれども、彼はこの庭が割に気に入っていた。浅香の話では、昨年までは老人と孫の中学生がせっせと草花を植え、水をやったりして手入れしていたそうだが、今年になっては誰もかまわなくなった。老人は変になり、中学生は受験準備で忙しいので、草花どころの騒ぎではなくなった。終戦子なので、競争もはげしいのだろう。今その中学生が庭の隅に生えた柿の熟した実を一箇もいで、母屋に戻って行く。無表情というより、いくらか沈欝(ちんうつ)な顔をしている。この中学生は彼と視緑が合っても、あいさつをしない。

(おれにもあんな時代があったな)

 と、その度に彼は思う。体だけは大人になって、気がまえがそれに伴わない。行く先がどうなるのか、見当がつかない。気持が内に折れ曲る。しかし若いから、その時期を過ぎれば、やがて調子を取り戻すだろう。

「爺さんは眠っているよ。いる筈だよ」

 浅香は答えた。

「薬で持続的に眠らせて、抑圧を取除くんだそうだ」

「そうか。爺さんは今まで抑制されていたのか。なるほど、そう言えばそんな調子だったな」

 すべてのものを拒むような老人の眼窩(がんか)を、彼は思い出していた。

「チンドン屋のこと、医者に話してみたかね?」

「うん。話したよ。でも――」

 浅香は口ごもった。要するに人間には個人差があって、はっきりは判らないけれども、子供の時チンドン屋が大好きで、いつもついて歩いていた。その幼時の経験が今よみがえって来て、強い悲哀の情緒を引き起すのではないか。

「と、医者は言うんだね」

「じゃおれのチンドン屋仮象説は、間違っているのか?」

「うん。それは考え過ぎだろうと、医者は笑っていたな」

「しかしチンドン屋を見ると、爺さんは調子が俄然(がぜん)明朗になるじゃないか。憂欝な状態はその後に来るんだろう」

「それもね、医者は言ってたが――」

 チンドン屋を見た瞬間から、欝状態が始まる。その欝状態に全細胞(?)が反撃して、反対の状態をつくり上げる。一時的な躁(そう)状態が発生するのはよくある例で、内山老人のもそれではないか。

「欝状態の変形だと言うんだがね」

「一々理屈をつけて、おれたち素人(しろうと)の考えを潰そうとするんだな」

 彼は笑いながら言った。

「むきになって言ったのか?」

「いや。わりに控え目だったよ。一度見舞いに、いや、見に行かないか。勉強になるよ」

「そうだね。今度の土曜日にでも行って見るか」

 彼はまだ神経科の病院を見たことがない。興味が彼をそそった。興味というより義務感にそれは似ていた。

 

 約束の日、浅香は彼の家にやって来た。浅香を待たせて、ゆっくりと彼は着換えをする。浅香は言った。

「工場の音、少し静まったようじゃないか。文句でもつけたのか?」

「いや。寒くなったからだよ」

 寒くなると工場も窓をしめる。こちらも窓をしめる。音の通い路が小さくなる。そこで静かになったような気になる。実際は夏の間と同じ響きを、あの機械たちは出しているのである。それを彼は知っていた。その証拠に小春日和(びより)になると、向うが窓をあけ放つので、俄然音が大きくなる。彼は朝十時頃起きるが、起きなくてもその音の大きさで、その日の天気や寒暖の程度を知ることが出来る。

「おれはあそこに塀を立てようと思っているんだがね」

 ネクタイをしめながら、彼はひとりごとのように言った。

「塀を?」

「うん。ブロックで、三メートルぐらいの高さのを」

 それは夏頃から考えていたことである。隣のアパートが完成して、家が見おろせるようになった時、彼は大急ぎで植木屋に頼んで、大きな杉の木を四本植えた。それが今はすっかり根づいて、バレーボールのストップのように、アパートの住人たちの視線をはね返して呉れる。工場からのは視線でなく、音と響きだから、杉では間に合うまい。やはりブロックが適当だろう。

「すると向うは南をさえぎられて、日かげになるわけだね」

「そういうことさ」

「文句をつけて来やしないか」

「そりやお互いさまだ。こちらも迷惑を蒙っているんだから」

 彼は笑った。

「その時はおれもチョビ髭を立てるさ」

 この間工場が忙しかったのか、午後十時か十一時頃まで就業して、音をばらまき、迷惑をしたことがあった。夜になるとあたりが静まるので、なおのこと騒がしく聞えるのだ。そこで彼は昼間境界線に行って、紐(ひも)をつかって測量した。測量の真似ごとをした。すると工場の窓が開いて、工場主があわてて顔を突出した。何か言いたげにチョビ髭がむくむくと動いた。しかし言葉にはならなかった。工場主の紅潮した顔はすぐに引込み、一分間ほどして機械の音はぴたりとやんだ。そして窓に工員たちの顔がずらずらと重なり並んだ。時々工員たちとも顔を合わせるのだが、合わせる度に顔が変っているような気がする。忙しくこき使われるから、次々にやめて新顔が入って来るのか。それともこちらが覚えようという気がないので、記憶がないのか。いや、もともと彼には他人の顔を覚える能力が欠乏しているのだ。

「…………」

 彼は黙って工員たちの顔を、ひとわたり見廻した。そして測量の真似ごとを中止して、家に戻って来た。五分ほど経って、ふたたび機械がガッシャガッシャと動き出した。

「君はびくびくしているくせに、案外強いところがあるんだな」

 彼の用意がととのったので、浅香も立ち上りながら言った。

「そうじゃない。おれはもともと強いんだ」

 彼は答えた。

「ただ為体(えたい)の知れないものに弱いんだ。相手が判ってしまえば、こちらにも打つ手はあるだろう。判らないから、警戒をする」

 いくらか強がりの気持もあった。

「ほんとかね。ほんとにそう思っているのかね」

「そこでそれを逆にして、自分を為体の知れないものに仕立て上げたら、もう恐いものはないだろう。処世術としては最高だね」

「じゃもの書きはやめて、チンドン屋になるんだね」

 そして浅香はしゃがれた声で笑い出した。

 

 病院は木造の二階建てになっていた。ヒマラヤ杉が前庭に生えていて、建物はかなり古びている。浅香が受付を通して、待合室でしばらく待たされた。どうして待たせられるのか、彼には判らない。

「ここは十年ほど前、産婦人科の病院だったそうだ」

 浅香は彼に小さな声で説明した。

「産科じゃはやらなくなったんで、身売りして神経科になったのだ。つまり映画がテレビに押されて斜陽産業になったようなもんだな」

 待合室には大型のテレビが置かれていたし、椅子も柔らかい。日射しもよく、明るかった。彼は椅子に腰をおろし、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。昔のことを考えていた。彼の子供の時の病院は、日当りが悪く、皮張りの長椅子はじめじめしているくせに堅かった。そして空気は薬くさかった。

(ミツ薬と言ってたな。うちの婆さんは)

 彼の祖母が死んで、三十年余り経つ。祖母の故郷では(ヅ)と(ズ)の発音を区別して使う。子供の彼にはその(ヅ)が(ツ)に聞える。蜜薬という風に聞える。蜜だから甘そうに思えるが、飲むとひどくにがかったり、渋かったりする。もう今では(ヅ)と(ズ)の区別はなくなっただろう。

(代診というのもいたな。今でもそれに当るものがいるだろうか)

 病院の待合室は、とかく昔のことを考えさせるのだ、と彼は思う。子供の時の通いつけの医者は、小柄で貧相な男であった。ところが代診の方はでっぷり肥って、貫禄が充分にあった。病気になって医者を呼ぶ。最初の日は医者がやって来る。人力車に乗ってうちに来る。病気が大したものでないと判ると、次の日から代診がてくてく歩いてやって、つまりその医院には、専属の人力車は一台しかないのだろう。診察をしている間、俥夫(しゃふ)は腰をおろして煙管(きせる)で刻み煙草を吸っている。あの俥夫は月給をいくらぐらい貰って、それでどんな生活をしていたのだろうか。そこでよその家の前に人力車が停っていると、ああここには病人がいるんだな、と直ぐに判った。その頃は神経科の病院はなかった。神経衰弱などは、転地や海水浴などでなおしていたようだ。それでもなおらなければ、たいてい彼等は自殺した。

「遅いな」

 彼は浅香にささやいた。

「ここじゃ見舞人を待たせるのか」

「そうだね。どうも変だ。ちょっと聞いて来よう」

 浅香は立ち上って、受付の方に行った。彼は眼を閉じて、うつらうつらしていた。待合室には十人ほどがテレビを見ている。ちゃんとした恰好(かっこう)をしているので、入院患者ではないだろう。皆黙りこくっている。眼をつむると、テレビの音だけが聞えて来る。どこかの舞台中継をしているらしく、気取った声のやりとりが続いている。そのやりとりはへんに空疎な感じがする。浅香が戻って来て、彼の肩をたたいた。

「来診患者と間違えられたんだよ」

 浅香はささやいた。

「なんてそそっかしい看護婦だろう」

「患者って、おれがかい?」

「おれか君か判らないが、二人連れで来たもんだから、患者と付添いだと思い込んだらしいんだ」

 彼はのろのろと立ち上った。

「病室は二階だそうだ」

 廊下を歩いて階段を登る。階段はゆるやかにつくってある。病人は転びやすいから、こんなになだらかにしてあるのだろう。登り切った廊下の両側に病室が並んでいる。病室の入口に、入院患者の名札がかかっている。

「ここだよ」

 名札を確めて、浅香は言った。彼はその扉を押した。病床が六つあって、そのいくつかの視線が、一斉に彼にそそがれた。どこだったか忘れたが、皆どこかで見た顔であった。たしかに見覚えのある顔が、各病床の上にあった。病室の中の空気は、たいへん密度が高かった。

「こんにちは」

 その密度の中に自分を押し込むように、彼は部屋に足を踏み入れようとしたが、足がもつれてしまって、うまく行かなかった。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(補遺) / 「一目小僧」~了

     補  遺

この三週間に新たに現はれた材料を一括して、今一度自分の説の強いか弱いかをしらべてみようと思ふ。材料の一半は親切な讀者の注意によるものである。

本年三月刊行の加藤咄堂氏編日本風俗志上の卷の一六三頁に、四種の恠物の圖が出て居る。出處を明らかにして無いが、江戸時代の初期より古い繪では無いやうである。其中の「山わろ」と云ふ物は半裸形の童形で、兩手に樹枝を持ち腰に蓑樣のものを纏ひ、顏の眞中に眞圓な目が一つである。即ち土佐などで山爺を一眼と云ふのと合致する。但し脚は立派に二本附いて居る。

[やぶちゃん注:「加藤咄堂」(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)は仏教学者・作家。

「日本風俗志」大正六(一九一七)年から翌年にかけて新修養社から加藤が刊行した全国規模の民俗資料。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同書当該頁の画像を視認出来る。]

小石川金富町の鳥居強衞君から、「朝鮮の迷信と俗傳」と題する一書を贈られ、其中にトツカギイ或はトツケビイと云ふ獨脚の鬼の記事があることを注意せられた。大正二年一〇月刊行、楢木末實と云ふ人の著である。自分は此半島の獨脚鬼に就ては未だ何程も調べては居らぬ。支那でも山海經に獨脚鬼の事を記し、或は本草に山?は一足にして反踵などゝあるさうだが、他の方面にもよくよくの類似點が無い限りは、三國一元と云ふやうな推定には進まぬつもりである。從つて只參考品としてのみ陳列して置くが、此書の記す所に依れば、トルケビイは通例樹蔭深き處に出沒し、色は最も黑く好んで婦女に戲れ、或は人に禍福を授けると傳へられる。さうして目はいまでも兩箇を倶へて居る。

[やぶちゃん注:「小石川金富町」「金富」は「かなとみ」と読む。現在の東京都文京区春日(かすが)地区内。ここは永井荷風の生誕地である。

「朝鮮の迷信と俗傳」京城・新文社刊。二〇一四年に復刻されている。

「山海經」「せんがいきやう(きょう)」。幻想的地理書。私の愛読書である。魯迅も偏愛した。

「本草」ここは「和漢の本草書」という一般名詞の用法ととっておく。但し、次注の最後を参照されたい。

「山?」音なら「さんさう(さんそう)」、本邦では「やまわろ」と訓じている。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「やまわろ」はそれなりの私の考証注を入れてあるのでそれを参照されたい(「?」が使用出来なかった古い電子化であるため、ページ内検索「やまわろ」でお願いしたい)。因みに、「やまわろ」の次にはまさに一本足「反踵」(はんしよう(はんしょう):(かかと)が反り返っていることを言うが、これは寧ろ、中華の本草類の怪人では「後へに向」いている、即ち、足首が反り返るどころではなく、大腿骨骨頭以下が逆についているというのが圧倒的な実体図像である)の「山精」が出るのでそちらも是非どうぞ。画像附き。というより、柳田が万一、「本草」を一般に知られる明の李時珍の「本草綱目」の意で使っているとすると(但し、仏はその場合、一般的には「本綱」と略すことが多い)、柳田が頻りに一足反踵と言っていること、「山?」は「本草綱目」には載らないことから、この「本草綱目」に出る「山精」や「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を「山?」と誤認している可能性が高いように思われる。]

磐城平の出身なる木田某氏の注意に、自分が彼地方で「山の神はカンカチで外聞が惡いと言つて十月に出雲へ行かれぬ」といつて居る其カンカチを、眇目のことに解して居たのは誤りだとのことである。平町附近でも眇目は他地方と同樣にメツカチ又はカンチと謂ひ、カンカチと云ふのは火傷の瘢のことを意味する。是は山神が山の精で山に住んで居る爲に折々山火事に遭ひ火傷をするのだと説明せられて居るさうである。自分は一知半解の早合點で、カンチともメツカチとも謂ふからカンカチも片目のことだらうと思つて大失敗をした。固より第一の報告者の高木誠一君がさう言はれたので無いが、念の爲更に同君に聞合せてみると、その返事も全く同樣であつて、大變な間違だから注意しようと思つて居た所だつたとのことである。是で自分の一目小僧の話を書く動機になつた好材料の一つが、空になつたわけであるがどうも仕方が無い。其爲に山の神の祭に關する一部分の話は中途から見合せることにした。

[やぶちゃん注:「五」章の重大補正箇所である

「磐城平」岩城平とも書く。旧陸奥国磐前郡の城下町で現在の福島県の東部の浜通り地域。

「平町」「たいらまち」。福島県浜通り南部にあった旧町名。現在はいわき市平地区の常磐線いわき駅周辺に相当する。

「瘢」全集版は『きずあと』とルビする。]

高木君は此序を以て十年前に亡くなられた御祖父樣から聞いたと云ふ話を一つ報ぜられた。石城郡草野村大字水品(みづひな)の苗取山に水品神社と云ふ社がある。もと三寶荒神樣と稱し五六十年前までは物凄い森であつて、天狗が住んで居て大きな音をさせるとも言ひ、又一目小僧が居るともいつて誰も怖がる場處であつた。或晩この社の宮守をして居る法印樣が便所に往つて、足を取られて吃驚して用も足さずに歸つて來たことがある。明る朝夙く起きて行つて見ると、古狸が引込み時を忘れてまだ其に居つた。古狸は一目小僧に化けるものだと御祖父樣が云はれた云々。又木田氏の羽書には斯う云ふことが書いてあつた。此地方の一目は大入道の姿で出る。足のことは何とも言はぬが眼は丸々としたのが額の眞中に一つあり、暗い夜白い衣物で出るものと子供の時に毎度聞いて居た云々。即ち此點が既に全然朝鮮のトツケビイと共通で無い。

[やぶちゃん注:「高木君」不詳。

石城郡草野村大字水品(みづひな)」「みづひな」はママであるがルビの誤植の可能性が高い。現在の福島県浜通り南部にある、いわき市平地区の水品(みずしな)。全集版も『みずしな』とルビ。

「水品神社」現在のいわき市平水品(たいらみずしな)荒神平に鎮座。個人サイト「いわきの鎮守様」の「水品神社」に詳しい解説と写真が載る。

「この社の宮守をして居る法印」とあるから、この高木氏の祖父の話は廃仏毀釈よりずっと以前の江戸時代の話である。]

信州松本地方の一目も又小僧では無くて入道である。是は貉の化けるものと傳へられて居る由、平瀨麥雨君から新たに報ぜられた。但飛驒の高山のやうに雪降りの晩に出るとは言はず、此方は別に雪降り入道雨降り入道などがあつて、山から出て來るとも言ふが、是には一眼又は一足の沙汰は無いさうである。同君又曰く、何でも物の高低あるものを山の神と謂ふと書いたのは、聊か精確で無い、寧ろ高さの均しかるべき物が不揃ひになつたのをさう謂ふと言ふべきである。通例の適用としては、下駄と草履と片方づゝ履いたことを、履物を山の神に履いたと云ふなどである云々。

[やぶちゃん注:「五」章の補正。]

一眼一足と云ふやうな珍しい話が、懸離れた東西の田舍に分布して存するのは意外だと言つて、靑森縣中津輕郡新和村大字種市の竹浪熊太郎氏が、其少年時代に聞いて居られた次のやうな話を報ぜられた。此地方の山神祭は舊曆十二月の十二日である。この日は昔から大抵吹雪が烈しく、且つ野原に出ると山神に捕へられると言つて、特に半日の休日になつて居る。山神はこの吹雪を幸ひとして、背には大きな叺を負ひ、人間殊に小兒を捕へに里に出て來ると云ふ。是を見たと云ふ人はまだ聞いたことが無いが、古い人たちの話ではやはり眼が一つで足が一本である。山神祭には何れも長さ二尺以上もある大きな草鞋又は草履を片足だけ作つて、村の宮の鳥居の柱に結び附けて置くのである。是を見ても其一本の足と云ふのがよほど大きなものと想像せられて居たことがよく分かる。但し今日では此風習も追々廢つて行くやうだとのことである。此話は南伊豫の正月十五日の大草履片足の由來を推定せしめる材料であるのみならず、又自分の不名譽なる失敗を或程度まで恢復するものである。即ち山の神の一目と云ふものが信ぜられて居た一の例證にはなるので、只殘念ながら一目とはメツカチのことだと云ふ方の意見に對しては、何らの援助も得られ無いのである。

[やぶちゃん注:全集版では『この話は南伊予の正月十五日の大草履片足の由来を推定せしめる材料である。すなわち山の神の一目というものが信ぜられていた一の例証にはなるので、』とあって「のみならず、又自分の不名譽なる失敗を或程度まで恢復するものである。」がない。確かにちょっと柳田先生、人の褌で我田引水の気味がなくもない。カットするのがよろしいでしょう。

「靑森縣中津輕郡新和村大字種市」現在は青森県弘前市種市(たねいち)。

「竹浪熊太郎」不詳。

「二尺以上」六十一センチメートル以上。]

國書刊行會の某役員から一目小僧の記事が此八月彼會出版の百家隨筆第一の五〇五頁落栗物語の中に出て居るが知つて居るかとの注意であつた。早速出して讀んで見たが其大要は斯うである。雲州の殿樣がある時親しい者に今夜は化物の振舞をするから來いと招かれたので、一同如何なる趣向かと往つて見ると、淋しい離れ座敷に通され、やがて茶を持つて出たのは面色赭く醜くして大きな眼の額の眞中に一つある小法師であつた。次に出た給仕は身長七尺餘の小姓であつた。後で聞いてみると後者は出羽から出た釋迦と云ふ相撲で十七歳で七尺三寸ある少年、前者は侯の領内の山村に住んで居た片輪者で、斯な者が二人まで見付かつたので此催しをせられたのであると云ふ。珍しい話ではあるが此材料は自分の手に合はぬ。如何した事かを考へる前に確かな話か否かを正してみねばならぬ。此書は京都の人の聞書であると云ふから、大分多勢の好事家の耳口を經て來たものと思はれる。

[やぶちゃん注:「落栗物語」全二冊。従一位右大臣藤原家孝による文政期(一八一八年から一八三〇年)の随筆とされる秀吉の時代から寛政までの見聞逸話集であるが、内容から寛政四(一七九二)年以降の成立と見られる。本文のそれは大正六(一九一七)年から翌年にかけて刊行された図書刊行会編刊「百家随筆 第一」所収のものを指す。本箇所は坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」の相撲関連古典テクストの「落栗物語下册にまるまる見出だせる。漢字を正字化して以下に示す。

   *

松江少將は所領十八萬石餘の主にて。おかしき人なりけり。或時親しき人々を集るとて。今宵は化物の饗をし侍るよし云ひやられければ。怪き招きかなと思ひながら皆打つれて行ぬ。館のさまいつに變りていと靜に設けなし。常には目馴ぬ前栽の竹の間より細き道を開き。ひとつの東屋を建たり。其所のさま物さびていと淋しげ也。主もいまだ出逢ねば。客人達打向ひ物語し居たり。夜寒の風の身に沁むまゝに。燈火暗くなりたる時。放出の方より。淸げに引繕ひ半臂着たる小法師の。梨地の托子に白がねの茶盞をすへて持出たり。近く寄來るまゝによく見れば。面の色赤みてゑも云わず見にくきが。眼は大にて額の程にたゞ一ッ付てあり。人々驚きけれど。兼ねてのあらましなれば。念じて見居たるほどに。座中の人に茶を引渡して入ぬ。とばかり有て。身の長七尺餘と見ゆる童子の。かたちは太く逞しけれど。眉のかゝり目見なんどはいと幼くて。年の程十六七と見ゆるが。柳の衫着て瓶子に土器持て出たり。此度は堪えかねてあれば。いかにとどよめき騷ぎければ。彼者打笑ひて引入ぬ。やがて主の少將出來て數々のもてなしあり。各興に入ける時。前の事を問ふに。少將はたゞ知らずとのみ答て其夜は止ぬ。後に聞ければ。彼小法師は少將の領地の山里に住けるかたは者。童は出羽國の相撲にて釋迦と云者也。年は十七に成けるが。身の長は七尺三寸有しとぞ。少將は此二人の者を得しよりぞ。かゝる招きをばせられける。此釋迦。京へ上りて鴨川の東にて相撲せし時。近衞舍人共見に行て。高き棧敷の上に居て釋迦を呼。盃をとらせしかば。其下に寄立て酒を飮しに。首のほどは上に居たる人より高く見えしとぞ。又。或人此者に向て其骨柄を譽めければ。答て云樣。それがしはかく相撲し歩きて有なん。姉にて候者は今一かさまさりて大に候ほどに。見苦しとてみづから歎き候へ共。せんかたなく候と語りしとぞ。

   *

少し語釈しておく。

・「松江少將」柳田も「出雲」とするから松江藩主であるが、少将であったのは複数おり、十八万石とあるからには松平直政以下の松平家藩主であるが、それでも少将は六人いる。しかし、全景の茶道の風流という点から見て、恐らくは第七代藩主松平不昧公治郷(はるさと)かと推理したら、検索中に「甲子夜話」(遅々として進まぬが私も電子化注をしている)の巻五十一「貧醫思はず侯第に招かる事」に非常によく似た話(但し、シチュエーションは江戸)が載っていることを知って確認してみると、これは「松平南海」の仕業とあり、これは治郷の父第六代藩主松平宗衍(むねのぶ)の隠居出家後の号であることが判った(長いし、別に電子化してこともあるから節としてこの話自体は示さない。しかし同じく一目童子と異様にデカい青年が登場するのはマンマ)。ウィキの「松平宗衍」によれば、『隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣に命じて色白の美しい肌の美女を連れて来いと命じ、その女性の背中に花模様の刺繍を彫らせ、その美女に薄い白色の着物を着させて、うっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺繍を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとしたが誰も応じず、仕方なく』千両を『与えるからとしても誰も応じなかったという』。また、『江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで妖怪やお化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいたといわれる』ともある。この御仁、まあ、尋常じゃあ、ネエ。

・「饗」「あへ(あえ)」と読んでおく。饗応。馳走。

・「放出」「はなちいで/はなちで」で、寝殿造などで寝殿や対屋(たいのや)などから張り出して造った建物。或いは、庇(ひさし)の間を几帳や障子・衝立などで仕切って設けた部屋のこと。後者であろう。

・「半臂」「はんぴ」で、武家の束帯や舞楽の装束で袍(ほう)の下に着る袖無しの胴着のこと。

・「梨地」「なしぢ(なしじ)」で蒔絵技法の一種。器物の表面に漆を塗って金・銀・錫などの梨地粉を蒔き、その上に透明な漆を塗って粉の露出しない程度に研いだ技法。梨の肌に似ているところからこの名がある。

・「托子」「たくし」で茶托 (ちゃたく)のこと。

・「茶盞」「ちやさん(ちゃさん)」で比較的小さな茶碗。

・「念じて」我慢して。

・「七尺」二・一二メートル。

・「衫」「さん」でここは裏地のない単衣(ひとえ)の謂いであろう。

・「瓶子」「へいし」で、酒を入れる細長く口の狭い焼き物。

・「七尺三寸」凡そ二メートル二十一センチメートル。

・「近衞舍人」「このゑのとねり(このえのとねり)」で、内裏の近衛府の下級官吏。宮中の警護や天皇・皇族・大臣らの近侍などを務めた。

 なお、私は多分、柳田とは違う意味でこの話、私の性(しょう)に合わぬ。健常者の歪曲した猟奇的生理が生み出した、実に気味(きび)の悪い感じのする話であるからである。これは柳田が疑うようには作話ではないかもしれないが、とすれば、なおのこと、ホラー以前に悪趣味で私は生理的に嫌悪するものである。

神樣が眼を突かれたと云ふ話も、亦其後三つ四つ集まつて來た。小石川原町の沼田賴輔氏の知らせに、同氏の郷里相模國愛甲郡宮瀨村の村社熊野神社は、熊野樣であるにも拘わらず、祭神が柚子の樹の刺で眼を突かれたと云ふ傳説があり、それ故に村内には柚子を栽ゑぬことゝしてあり、又植ゑても實を結ばぬと申して居ると云ふ。

[やぶちゃん注:「小石川原町」現在の文京区白山及び同区千石。

「沼田賴輔」(よりすけ/らいすけ 慶応三(一八六七)年~昭和九(一九三四)年)は紋章学者・歴史学者。相模国愛甲郡宮ヶ瀬村(現在の神奈川県愛甲郡清川村)生まれ。明治一九(一八八六)年に神奈川県師範学校高等師範科を卒業、県内の小学校長となり、その後の明治二三(一八九〇)年に理科大学簡易科第二部を修め、次いで歴史科・地理科・植物科などの教員免許を得た。明治三〇(一八九七)年に開成中学校教諭となるが、その傍ら、文科大学史学科編纂係も勤めた。明治三四(一九〇一)年に鳥取県米子中学校教諭、明治三九(一九〇六)年に西大寺高等女学校長となった後、明治四四(一九一一)年には山内家史編纂所主任となったが、編纂所に初めて出勤した際に山内侯爵から山内家が何故桐の家紋を用いているのかその理由を質問されるも即答することが出来なかったことに発憤、それ以来、紋章の研究に専心して、大正一四(一九二五)年に「日本紋章学」(刊行は翌年。明治書院)を完成、翌年、帝国学士院恩賜賞を受賞、昭和五(一九三〇)年、文学博士。他にも考古学会副会長や人類学会及び集古会の幹事でもあった(ウィキの「沼田頼輔」に拠る)。

「相模國愛甲郡宮瀨村の村社熊野神社」明暦元(一六五五)年創建の宮ヶ瀬の氏神社であるが、平成三(一九九一)年に宮ヶ瀬ダムの建設により旧地は水没、現在の宮ヶ瀬湖畔に遷座、村民も厚木市宮の里へ移住させられているので、本禁忌は失われたと考えた方がよいか。]

信州小縣郡長久保新町の石合又一氏の報道に依れば、同地鎭座の郷杜松尾神社でも、氏子の者が一般に胡麻を作らず、若し作ると必ず家族に病人が出來ると言ひ傳へ、今でも此禁を破る者が無い。つい近頃も他より寄留して居る者が、此説を信ぜずして胡麻を栽ゑ、眼病に罹つた例があると云ふ。是は同郡浦里村の小林君が、他にも幾つか例があると言はれた一つであらうと思ふが、既に何故にと云ふ點が不明になつて居ると見える。

[やぶちゃん注:「信州小縣郡長久保新町」現在の長野県小県(ちいさがた)郡長和町(ながわまち)長久保(ながくぼ)。

「石合又一」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一六(一八八四)年刊の『明治協会雑誌』書誌データに筆者不詳の「石合又一君東坡赤壁遊記ノノ問ニ答フ』というのがあるが、この人物と同一人か。

「松尾神社」現在の長野県長和町長久保宮所に鎮座。祭神は大山咋大神(おおやまくいのかみ)。但し、調べてみたところ、当地の「道の駅」の特産品としても野沢菜漬には胡麻が使用されていることが検索で判った。一応、言い添えておく。

「同郡浦里村」現在の長野県上田市の北西部の国道百四十三号沿線及び小県郡青木村大字当郷に相当。

「小林」第「六」章に出た小林乙作氏(詳細事蹟不詳)と同一人物。]

又福島縣三春町の神田基治郎氏からは同縣岩瀨郡三城目(さんじやうのめ)村に竹の育たぬ理由を報ぜられた。昔鎌倉權五郎と云ふ武將が、竹の箭で目を射られ漸くにして之を引拔いた。其以來此村では、如何に他方面から移植して來ても竹は成育せぬ。同氏も數囘往つてよく知つて居るが、隣村には有るのに此村だけには竹を見ぬと云ふ。或は鳥海彌三郎と戰つた處はこの村だとでも言つて居るのであらう。單に御靈社が有るだけで此くの如き結果になるのでは、箭は先づ竹だから、東北などでは竹を産せぬ地方が非常に多くなる都合である。

[やぶちゃん注:「福島縣三春町」現在の福島県田村郡三春町(みはるまち)。

「神田基治郎」不詳。

「同縣岩瀨郡三城目(さんじやうのめ)村」福島県西白河郡矢吹町(やぶきまち)三城目。]

武州野島村の片目地藏と同系の話が、東京のごく近くに今一つあつた。これも十方庵の百年前の紀行に出て居るが、東小松川村の善通寺は本尊阿彌陀如來、或時里の鷄小兒に追はれて堂に飛込み、距(つめ)をもつて御像の眼を傷けた。其よりして今に此阿彌陀の片目より、涙の流れた痕が拜せられる云々。是とても木佛金佛が人間同樣の感覺を具へて居たと云ふ以上に、格別靈驗の足しにも成らぬ事を傳へるには、別に隱れたる沿革が有るものと解するのが相當である。是には佛樣の中に特に子供が御好きで、子供のした事は一切咎められぬ御方があることを、考へ合せて見ねばならぬ。

[やぶちゃん注:「十方庵の百年前の紀行」既注の「遊歴雑記」。

「東小松川村」現在の東京都江戸川区東小松川。

「善通寺」真光山明証院善通寺現在は同江戸川区平井へ移転して現存する。同寺については、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しいが、それによると千田真太郎宗信(法名蓮真)なる人物が康正年間(一四五五年~一四五七年)に「善導院」と号して別な場所で創建したらしく、その後移転を繰り返し、六世林説上人の代(慶長元(一五九七)年)に東小松川に移った上で「善通寺」に改号、荒川開削に伴い、大正四(一九一五)に年当地へ移転したとされる。本尊阿弥陀如来は曼荼羅でこれについては「江戸川区史」に、『本尊は中将姫作の蓮糸織阿弥陀如来曼荼羅をまつる。中将姫は聖武帝の御代横佩右大臣豊成公の女で、十六歳の時当麻寺に入り実雅阿闍梨を師とし法名を善心法女といった。日夜誦経念仏していると、ある日尼僧が現われて、極楽浄土を見るには蓮糸で極楽浄土を織っておがむがよいといわれた。その事が朝庭に達すると百駄の蓮茎が集められた。法女は尼僧と共に糸をとって洗うとこれが五色の色に染まった。そして夕方になると一人の織女が現われて、その夜のうちに一丈五尺の大曼陀羅を織り上げ、翌朝織女はこれを両尼に渡すとどこかに消えてしまった。また尼僧も観無量寿経の話を終ると、私の仕事はもうこれで終ったといって紫の雲に乗って帰られた』。『善心法女は残りの蓮糸で、如来の髪には自分の髪の毛を織りこんで六尺の尊像を織り上げて、これを庵室に安置して日夜誦経念仏すると、その部屋に紫雲が常にたなびいていたという』。『その後千葉介常胤が当麻寺からこの尊像を願い求めて守り本尊とした。かくて常胤より九世平氏胤の次男で下総国曾谷の城主千田太郎宗胤に伝わり、宗胤は後に入道して善導院願阿と号した。その嫡子真太郎宗信は康正年中大谷蓮如上人の弟子となり蓮真と号し、帰国の後小松川に一寺を建立して善導院と名づけ、この尊像を本尊とした。これが善通寺の始まりで、その頃お堂から光明が発するので「光御堂」といわれたという』という奇瑞が語られている。私は当初、鶏の爪で何で本尊の眼が傷つくのかやや不審であったが、これ、織られた幅の曼荼羅絵なれば、鶏が蹴爪で掻いて傷つけた、というのが目から鱗ではないか!

本多林學博士の編輯せられた大日本老樹名木誌の中には、又次のやうな例もある。土佐長岡郡西豐永村の藥師堂の逆さ杉は、もと行基菩薩の突立てた杖であつたと云ふ傳説がある。然るに或時或名僧がこの山に登つて來て、此杉の枝で片目を突き、其故に其靈が此杉に宿つて、今でも眼病の者が願掛けをすると效驗があると稱し、「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある由。處が藥師如來は斯んな事が無くても、固より眼の病を禱る佛樣である。

[やぶちゃん注:「本多林學博士」この「林學」は名前ではなく、造林学の博士号のことで、日本初の林学博士となった本多静六(ほんだせいろく 慶応二(一八六六)年~昭和二七(一九五二)年 旧姓・折原)のこと。造園家としても知られ、「日本の公園の父」と称される。ウィキの「本多静六」によれば、『武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の』第六子として『生まれた。東京山林学校に入学するまでの間河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数』二十五軒ほどの『小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった』。ところが九歳の時、『父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった』。『それでも向学心は衰えることなく』、十四歳の年、『志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み』、農閑期の半年は上京して『勉学に努め、農繁期の半年は帰省』、『農作業や米つきに励むという変則的な生活を三年間繰り返した』。明治一七(一八八四)年三月に『東京山林学校(後に東京農林学校から東京帝国大学農科大学)に入学』、卒業時は首席で、銀時計が授けられている。卒業一年前の明治二二(一八八九)年五月に元彰義隊隊長本多敏三郎の娘詮子』(「あきこ」と読みか)『と結婚し、婿養子となった』。『東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学した。ドイツでは』まず、『ドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に』一年と半年、『学問を極めた。ドクトルの学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授、教授になった』。その後は『日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園』、『福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、東京都の明治神宮』、『長野県の臥竜公園、石川県の卯辰山公園、福岡県の大濠公園』など、『設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツを始め、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった』。『東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っている』。『また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、二昼夜不眠不休で作成し』てもいる。

「大日本老樹名木誌」本多静六編。大正二(一九一三)年大日本山林会刊。当該頁を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で読める。何となく、当該箇所を電子化したくなった。字配は再現していない。

   *

   〔四一五〕 藥師堂ノ逆杉

所在地 高知縣長岡郡西豐永村藥師堂附近

地上五尺ノ周圍 六尺

樹高 七間

樹齢 千餘年

傳説 枝條地ニ向テ垂下スルヲ以テ此名アリ 傳ヘ言フ天平ノ昔行基菩薩登山ノ際携フル所ノ杖ヲ逆サマニ挿シ置キタルガ根ヲ生ジ枝ヲ出シテ終ニ成木シタルモノナリト云フ又曰ク「名僧某ノ登山ノ際此枝先ニテ眼ヲ突キ盲目トナリ歿後其靈ア此杉ニ宿リ世ノ眼病者ヲ救フ」ト故ニ眼ヲ病ム者此樹ニ祈願スルモノ多ク樹下ニ目ノ字ヲ書キタル紙ノ散在スルモノ多シ又或時之ニ隣接スル民家ニ火ヲ失スルモノアリ折カラ山風ニ火勢甚ダ盛ナリシガ火焰皆反對ノ方向ニ靡キ然モ類燒ヲ受ケザリシト云フ

   *

引用中の「五尺」は百五十一・五センチメートル、「六尺」は百八十一・八センチメートル、「七間」は十二・七二六メートル、「樹齢 千餘年」は伝承をそのままに受けたものか。

「土佐長岡郡西豐永村」現在の高知県長岡郡大豊町(おおとよちょう)内。

「藥師堂」これは同大豊町にある真言宗大田山大願院豊楽寺(ぶらくじ)はと号する。本尊薬師如来。別名を「柴折薬師」と称し、「日本三大薬師」の一つに数えられる。古い村名の「大杉」の起源となった特別天然記念物指定の日本一の杉の巨木が現存する。「嶺北広域行政事務組合」(住所:高知県長岡郡本山町本山)公式サイト内のこちらに解説と写真がある。それによれば、同寺は神亀元(七二四)年、行基の創建で、行基(ぎがこの地を訪れて豊楽寺を開いた折りのこと、持っていた杖を挿すと、根が出てきて一本の杉として育ったという伝説があるという。「逆さ杉」の樹齢は約四百年で、名の由来は殆どの『枝が通常とは逆の下向きに伸び、まさに地上に垂れようとする姿に』ある記す。別に、行基と言わず、『「ある時名僧が来て豊楽寺に登る途中この枝先で目を突き盲目となってしまったが、この僧の死後その霊がこの杉に宿った。」という言い伝えもあり、目の病気を治療するのに効果があるとして祈願する者も多い』。『「草創の古より法灯大いに栄え、山腹には大田寺、南大門、極楽寺、蓮華院等の堂塔伽藍が立ち並んで繁栄していた。」と伝えられている。逆さ杉は大豊町寺内字ダイモンにあり、ダイモンは南大門の建っていた場所だと伝えられている』。『豊楽寺の境内には国宝に指定されている薬師堂があり、平安時代の建築様式を色濃く残していて美しい。更にその内部には釈迦如来坐像、(しゃかにょらいざぞう)薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)、阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の三体の仏像が安置されていて、国の重要文化財に指定されている』とある。

『「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある』眼病平癒祈願では、全国的に古くからポピュラーな絵馬であるが、実物を見た時には結構、ギョッとする(グーグル画像検索『「め」の絵馬』。つげの「ねじ式」の『ちくしょう 目医者ばかりではないか』のカットのようにシュールレアリスティクでさえある)。同寺では今は日本一の杉に掛けて「日本一の願掛け絵馬」が二〇一二年から出されてあるらしい。杉にとってもよろしくなく、根元に収めるのだけは「だめヨ」。]

佛教の方の御本尊に片目の話があつても、其を本國から携へて來たものとは言はれぬ。名ばかり佛であり僧であつても、信仰の内容は全然日本式になつてしまつたものは是のみでは無いのである。殊に地藏尊がさうであるやうに自分は思ふ。

近江神崎郡山上村の大字に佐目と言ふ部落がある。以前は左目と書いて居たやうである。逆眞上人と云ふ人の左の眼が流れて來て止まつた處なるが故に左目と謂ふと、近江國輿地誌略卷七十一に出て居る。逆眞は如何なる人であつたか、未だ自分は些しも知らぬが、やはり土佐の山の名僧の一類であらう。

[やぶちゃん注:「近江神崎郡山上村の大字に佐目と言ふ部落がある。以前は左目と書いて居たやうである」「神崎(かんざき)郡山上(やまかみ)村」と読む。現在の滋賀県東近江市佐目町(さめちょう)かと思われる。

「逆眞上人」不詳。宗派も推定出来ない。個人ブログ「自然体で、興味を持ったことを・・平成25年6月:間質性肺炎患者に」のこちらに『左目:逆真上人の左眼の流れ止るところで左目といったとか、猛牛が村に暴れ困らせていた時、左眼の童子がこれを退治して救ったことから、童子の功績を後世まで伝えんためにこれを記念して左目としたとかの話が伝えられている』とある。柳田よろしく私も「土佐の山の名僧の一類」で誤魔化して納得したことにしよう。

「近江國輿地誌略」既注。]

片目の魚の例も幾つか增加した。伊勢の津の四天王寺の七不思議の一として有名な片目の魚の池を、如何云ふわけで落したかと「津の人」から注意せられた。自分は確かに知つて居る分だけを列記したので、此外にも無數に同じ話のあるべきを信じて居た。津の話も由來等をもつと詳しく聞きたいものである。

[やぶちゃん注:「伊勢の津の四天王寺」三重県津市栄町にある曹洞宗塔世山四天王寺。推古天皇の勅願により聖徳太子が建立したと伝えられ、藤堂高虎所縁の寺であるが、衰亡・復興を繰り返した。

「七不思議の一として有名な片目の魚の池」津市図書館『ようこそ図書館へ』二〇〇八年四月第四号(PDF)の「レファレンス事例集」の回答に、『七不思議の記述についての資料は少ないが』としつつ、「津市案内記」(津市役所発行)・「津市郷土読本」(津市教育会分類)『によると、「血天井・景清鎧掛松・亀の甲の三尊像・蛇の鱗・薬師堂の瓦・風呂神・生佛」が四天王寺の七不思議の伝説とある』とあり、「片目の魚」はない。不審。津の郷土史家の方の御教授を切に乞う。]

作州久米郡稻岡の誕生寺、即ち法然上人の生地と傳ふる靈場にも、片目の魚の話があつたやうだと、あの國生れの黑田氏は語られた。

[やぶちゃん注:「作州久米郡稻岡」現在の岡山県久米郡久米南町誕生寺里方。

「誕生寺」浄土宗栃社山(とちこそさん)誕生寺(たんじょうじ)。本尊は圓光大師(法然源空の没後に朝廷から贈られた大師号)。鎌倉幕府御家人であった熊谷直実は法然の弟子となって出家、法力房蓮生と法号したが、建久四(一一九三)年に法然の徳を慕って、法然の父である久米押領使漆間時国の旧宅のこの地に寺を建立、それを本寺の始まりとする。

「片目の魚の話があつたやうだ」誕生寺内を流れる川を現在も「片目川」と呼ぶが、「久米南町」(くめなんちょう)公式サイト内の「観光・イベント」の「片目川」によれば、『誕生寺の寺域を貫流する小河川。弓の腕をめきめきと上達させていた勢至丸(法然上人)に夜襲の際右眼を射られた明石定明が、側の小川でその目を洗ったため、以後片目の魚が出現するようになったと言われ、川そのものも片目川と呼ばれるようにな』ったと明記されてある(下線やぶちゃん)。明石定明(あかしのさだあきら)は美作国久米郡稲岡荘の預所を務めた武将であったが、法然の父時国と意見が対立、数百の軍勢をもって時国を襲撃、殺害に及んだ。死に臨んで勢至丸(後の法然)には、特に復讐の無益を説いて亡くなったとされている。

「黑田」前出せず、不詳。この書き方はひどい。]

相良子爵の舊領肥後の人吉の城下の北に、一の祇園社が有つて亦片目の魚の居る池があつた。祇園樣が片目だから魚も片目だと言つて居たさうである。猶此より上流上球磨の田代川間(かうま)と云ふ處には、斑(まだら)魚と云ふ魚の口が二つあるものが居るとも傳へられた。參考の爲に取調べをさせ猶出來るなら二種の魚の干物を取寄せてやらうと、同子爵は言はれた。

[やぶちゃん注:「相良子爵」旧人吉藩(ひとよしはん・肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市))十三代藩主相良長福の長男で貴族院議員であった相良頼紹(さがらよりつぐ 嘉永六(一八五四)年~大正一三(一九二四)年)であろう。従五位・子爵。父が没した時は幼少であったため、叔父の頼基が十四代藩主となり、後に頼基の養子となった。明治八(一八七五)年に養父頼基が隠居、家督を継いだ。明治一四(一八八一)年には伊藤博文の憲法調査に随行している。明治一七(一八八四)年、子爵に叙爵(以上はウィキの「相良頼紹」に拠った)。

「人吉の城下の北に、一の祇園社が有つて亦片目の魚の居る池があつた」「一」は「ひとつ」と訓じておく。熊本県人吉市南泉田町これは城との位置関係(現在の人吉城趾の真北)から見て、現在の八坂神社(祇園社)と考えられる。「片目の魚」は検索に掛からないが、個人ブログ「ブログ肥後国 くまもとの歴史」の「【人吉】八坂神社(祇園社)」に建武元(一三三四)年、相良第五代『頼広(よりひろ)の夫人の希望によって創設』された社で、建てられた二月十日の『真夜中に、社殿の下からにわかに清水が湧きだした。その水は甘露のように甘く、曼荼羅川と名づけられた』とあって水と関係があるから間違いあるまい。

「上球磨の田代川間(かうま)」現在の熊本県人吉市段塔町(だんとうまち)の田代川間(たしろごうま)。現住所表記と読みはサイト「村影弥太郎の集落紀行」のこちらに拠った。

「斑(まだら)魚と云ふ魚の口が二つあるもの」不詳。山間渓流に棲息する魚であるから、ゴリ(淡水産の類脊椎動物亜門条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属 Cottus)等の類か? 相良が「二種の魚の干物を取寄せてやらう」とまで言うのであるから、人吉では極めてポピュラーなもの(であった)と思われる。人吉の郷土史家の方の御教授を切に乞う。

鰹魚の嗜な田村三治君が、曾て東海岸の或漁師から聞かれた所では、鰹魚は南の方から段々上つて來て奧州金華山の沖まで來る間は皆片目である。金華山の御燈明の火を拜んで始めて目は二つになるので、一同是までは必ずやつて來ると言つた。是は同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異狀を呈するのであらうと、今までは思つて居られたさうである。

[やぶちゃん注:「嗜な」「すきな」。

「田村三治」ジャーナリストで作家でもあった田村三治(さんじ 明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年)か? 東京市本所生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科明治二五(一八九二)年卒。在学中に『青年文学』同人となり、国木田独歩と親交を結び、明治二十七年に中央新聞社に入社、後に主筆となった。独歩の死後には田山花袋らと「欺かざるの記」の校訂などもしている。他に『中央新聞』に伝記物なども書いている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「金華山の御燈明」城県石巻市の牡鹿半島東南端に相い対する島、金華山に鎮座する黄金山(こがねやま)神社の御灯明(おとうみょう)。

「同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異狀を呈するのであらう」このような魚類の走性偏移と陽光を原因とする眼球異常について私は未だ嘗て聴いたことは一度もない。似非科学の部類と私は思うが、もし事実であるならば是非、お教え頂きたい。]

中村弼氏は越後高田の人である。其話に、靑柳の池の龍女に戀慕した杢太と云ふ人の居た安塚の城は、高田から四五里の地で、靑柳村も亦其附近である。この靑柳の池の水と地の底で通つて居ると云ふ話で、杢太は池に入つて池の主となつて後も、此水を傳つて屢々善導寺の和尚の説經を聽聞に來た。只の片目の田舍爺の姿で來たさうである。どうやら見馴れぬ爺だと思つて居ると、歸つた後で本堂の疊が一處沾れて居たと云ふことである。

[やぶちゃん注:「中村弼」(たすく 慶応元(一八六五)年~大正八(一九一九)年)はジャーナリスト。越後(新潟県)出身。尾崎行雄の文部大臣時代(第一次大隈内閣/明治三一(一八九八)年)に秘書官を務めた。明治三十三年に『朝野(ちょうや)新聞』から『二六新報』に移り、主筆となった。大正三(一九一四)年には「日本移民協会」の創立に係わり、幹事長となっている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「四五里」十五・七~十九・六キロメートル。

「善導寺」現在の新潟県上越市寺町にある浄土宗真光山光明院善導寺か?

「沾れて」「ぬれて」。]

まだ些し殘つて居るが、あまり長くなるやうだから其は第二の機會まで貯へて置く考へである。あゝ詰らない話だつたと言はれなければよいがと思ふ。

      (大正六年八月、東京日日新聞)

[やぶちゃん注:「大正六年」一九一七年。

 以上で「一目小僧その他」の巻頭「一目小僧」のパートは終わる。]

2016/02/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十一)

     二十一

 

 さて自分は不滿足ながら今まで竝べた材料だけで、一目小僧の斷案を下すのである。斷案と言つても勿論反對御勝手次第の假定説である。

 曰く、一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本據を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目に畫にかくやうにはなつたが、實は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神樣の眷屬にするつもりで、神樣の祭の日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げてもすぐ捉まるやうに、その候補者の片目を潰し足を一本折つて置いた。さうして非常に其人を優遇し且つ尊敬した。犧牲者の方でも、死んだら神になると云ふ確信が其心を高尚にし、能く神託豫言を宣傳することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能の然らしむる所、殺すには及ばぬと云ふ託宣もしたかも知れぬ。兎に角何時の間にか其が罷むで只目を潰す式だけが遺り、栗の毬や松の葉、さては箭に矧いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、之を神聖にして手觸るべからざるものと考へた。目を一つにする手續も追々無用とする時代は來たが、人以外の動物に向つては大分後代まで猶行はれ、一方には又以前の御靈の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を脱して、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいこと此上無しとせざるを得なかつたのである。

[やぶちゃん注:「宣傳」全集版は『宣明(せんみょう)』となっている。]

 右の自分の説に反對して起るべき最大の勁敵は、其樣な事を言つては國の辱だと云ふ名論である。一言だけ豫防線を張つて置きたい。

[やぶちゃん注:「勁敵」「けいてき」「勁」は「強い」であるから、強敵と同じい。

「名論」「めいろん」とは通常は優れた論・立派な議論の謂いであるが、言論統制をだんだんに感じ始めていた柳田にして「ごリッパな論」という痛烈な皮肉である。]

 第一自分は人の殺し方如何と其數量で、文明の深さは測られるとは思はぬ。戰もすれば自殺もする文明人が、此の如き考へを持つ筈が無いと思ふ。併しそれが惡いとしても、人を供へて神を祭つたのは、近年の政治家が責任を負ひ得るやうな時代の事では無い。人も言ふ如く日本國民は色々の分子から成つて居る。千二三百年前まではまだ所謂不順國神(まつろはぬくにつかみ)が多かつた。國神の後裔には分らぬ人も隨分あつたことは、大祓の國津罪の列擧を見ても察せられる。それでも行かぬと云ふなら、この島へは方々の人が後から後から渡つて來て居る。さうして信仰上の記憶は居たつて永く殘るものである。彼等がまだ日本と云ふ國の一部分を爲さぬ前、どこか或地に於ての生活經歷を傳へて居るのだとも見られる。

[やぶちゃん注:「大祓の國津罪」「おほはらへ(おおはらえ)のくにつつみ」と読む。神道における罪の観念の一つで天つ罪(あまつつみ:素戔嗚が高天原で犯した罪を起源とする農耕を妨害する人為的悪行)と並んで、「延喜式」の巻八「祝詞(のりと)」にある「大祓詞(おおはらえのことば)」に対句形式で出る。以下、ウィキの「天つ罪・国つ罪」より引く。『国つ罪は病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴があるが、一説に天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象と把え、人間が疵を負ったり疾患を被る(またこれによって死に至る)事や不適切な性的関係を結ぶ事によって、その人物の体から穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるためであると説明する』(以下、一部の漢字を正字化、一部の数字及び記号を変更追加、一部で改行も行った)。

    《引用開始》

・「生膚斷(いきはだたち)」:生きている人の肌に傷をつけることで、所謂、傷害罪に相当する。

・「死膚斷(しにはだたち」:直接的解釈では、死んだ人の肌に傷をつけることで、現在の死体損壊罪に相当し、その目的は何らかの呪的行為にあるとされるが、また前項の生膚断が肌を傷つけられた被害者がまだ生存しているのに対し、被害者を傷つけて死に至らしめる、所謂、傷害致死罪に相当するとの説もある。

・「白人(しらひと)」:肌の色が白くなる病気で、「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂、ハンセン病の一種とされる。

・「胡久美(こくみ)」:背中に大きな瘤ができること(所謂、せむし)。

・「己(おの)が母犯せる罪」:実母との相姦(近親相姦)。

・「己が子犯せる罪 」:実子との相姦。

・「母と子と犯せる罪」:ある女と性交し、その後その娘と相姦すること。

・「子と母と犯せる罪」:ある女と性交し、その後その母と相姦すること。

(以上四罪は『古事記』仲哀天皇段に「上通下通婚(おやこたわけ)」として総括されており、修辞技法として分化されているだけで、意味上の相違はないとの説もある)

・「畜犯せる罪」:獣姦のことで、『古事記』仲哀天皇段には「馬婚(うまたわけ)」・「牛婚(うしたわけ)」・「鶏婚(とりたわけ)」・「犬婚(いぬたわけ)」と細分化されている。

・「昆虫(はうむし)の災」:地面を這う昆虫(毒蛇やムカデ、サソリなど)による災難である。

・「高つ神の災」:落雷などの天災とされる

・「高つ鳥の災」:大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には「飛ぶ鳥の災」とあり、猛禽類による家屋損傷などの災難とされる。[やぶちゃん注:「大殿祭」は宮殿の平安を祈願する儀式で大嘗祭他の式典前後に行われる定例のものと、宮殿新築・移転及び斎宮や斎院の卜定(ぼくじょう)の後に行う祭。]

・「畜仆(けものたお)し、蠱物(まじもの)する罪 」:家畜を殺し、その屍体で他人を呪う蠱道(こどう)のことである。

   《引用終了》]

 まだそれでも行かぬとならば是非が無い。どうか此説は採るに足らぬものとして戴きましよう。實は此研究が丸でだめだとしても、自分は猶一つ善い事をして居るのである。即ち民間の俗信と傳説とに對して、最も眞摯で且つ親切な態度を以て臨んで見たのである。是は今日まで他に誰も範を示した人が無かつた。