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2016/02/29

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(3) 二 優れた者の跋扈

     二 優れた者の跋扈

 

 劣つた種族が生存競爭に敗れて滅亡することは理の當然であるが、しからば優れた種族は永久に生存し得るかといふに、これに就いては大に攻究を要する點がある。優れた種族は敵と競爭するに當つては無論勝つであらうが、悉く敵に打ち勝つて最早天下に恐るべきものがないといふ有樣に遂した後は如何に成り行くであらうか。敵がなくなつた以上は、なほいつまでも全盛を極めて勢よく生存し續け得るであらうか。または敵がなくなつたために却つて種族の退化を引き起す如き新な事情が生ずることはないであらうか。今日化石となつて知られて居る古代の動物を調べて見るに、一時全盛を極めて居たと思はれる種族は悉く次の時代には絶滅したが、これは如何なる理由によることであるか。向ふ處敵なき程に全盛を極めて居た種族が、なぜ今まで己よりも劣つて居た或る種族との競爭に脆くも敗北して忽ち斷絶するに至つたか。これらの點に關してはまだ學者間にも何らの定説もないやうで、古生物學の書物を見ても滿足な説明を與へたものは一つもない。されば今から述べようとする所は全く著者一人だけの考であるから、その積りで讀んで貰はねばならぬ。

 

 およそ生存競爭に於て敵に勝つ動物には勝つだけの性質が具はつてあるべきはいふまでもないが、その性質といふのは種族によつてさまざまに違ふ。第一、敵とする動物が各種毎に違ふから、これに勝つ性質も相手の異なるに從ひ異ならねばならぬ。今日學者が名前を附けた動物だけでも數十萬種あるが、如何なる動物でもこれを悉く敵とするわけではなく、日常競爭する相手はその中の極めて僅少な部分に過ぎぬ。例へば産地が相隔れば喧嘩は出來ず、同じ地方に産するものでも森林に住む種族と海中に住む種族とでは直接に相敵對する機會はない。されば勝つ性質といふのは、同じ場處に住み、ほゞ對等の競爭の出來るやうな相手に對して優れることであつて、樹の上の運動では巧に攀ぢるものが勝ち、水の中の運動では速く游ぐものが勝つ。そして水中を速く游ぐには足は鰭の形でなければならぬから、木に登るには適せず、巧に木に登るには腕は細くなければならぬから、水を游ぐには適せぬ。それ故、水を游ぐことに於て敵に優れたものは、樹に登るには敵よりも一層不適當であり、木に登ることに於て敵に優れたものは、水を游ぐには敵よりも一層不適當であるを免れぬ。同一の足を以て、樹上では猿よりも巧に攀ぢ、平原では鹿よりも迅く走り、水中では「をつとせい」よりも速に游ぐといふ如きことは到底無理な註文である。鴨の如く飛ぶことも歩くことも游ぐことも出來るものは、飛ぶことに於ては遠く燕に及ばず、走ることに於ては遠く駝鳥に及ばず、游ぐことに於ては遠くペンギンに及ばず、いづれの方面にも相手に優る望はない。魚類の中には肺魚類というて肺と鰓とを兼ね具へ、空氣でも水でも勝手に呼吸の出來る至極重寳な種類があるが、水中では水のみを呼吸する普通の魚類に勝てず、陸上では空氣のみを呼吸する蛙の類に勝てず、今では僅に特殊の條件の下に熱帶地方の大河に生存するものが二三種あるに過ぎぬ。龜の甲の厚いことも、「とかげ」の運動の速いことも、それぞれその動物の生存には必要であるが、甲が重くては速に走ることが到底出來ず、速に走るには重い甲は何よりも邪魔になるから、「とかげ」よりも速力で優らうとすれば、甲の厚さでは龜に劣ることを覺悟しなければならず、甲の厚さで龜よりも優らうとすれば、速力では「とかげ」に劣ることを覺悟しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「肺魚類」脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属する、肺や内鼻孔などの両生類的特徴を有する魚類で、出現は非常に古く、約四億年前のデボン紀で、化石では淡水産・海産合わせて、約六十四属二百八十種が知られるが、現生種は以下の六種のみが知られ、所謂、「生きた化石」と称される。現生種は全て淡水産。

ケラトドゥス目 Ceratodontiformes

 ケラトドゥス科ネオケラトドゥス属

  ネオケラトドゥス・フォルステ(オーストラリアハイギョ)Neoceratodus forsteri

レピドシレン目 Lepidosireniformes

 レピドシレン(ミナミアメリカハイギョ)科レピドシレン属

  レピドシレン・パラドクサ Lepidosiren paradoxa

 プロトプテルス科(アフリカハイギョ)科プロトプテルス属

  プロトプテルス・エチオピクス Protopterus aethiopicus

  プロトプテルス・アネクテンシス Protopterus annectens

  プロトプテルス・ドロイ Protopterus dolloi

  プロトプテルス・アンフィビウス Protopterus aethiopicus

ウィキの「ハイギョによれば(記号の一部を省略した)、『ハイギョは他の魚類と同様に鰓(内鰓)を持ち、さらに幼体は両生類と同様に外鰓を持つ』(ネオケラトドゥスは除く)『ものの、成長に伴って肺が発達し、酸素の取り込みの大半を鰓ではなく肺に依存するようになる。数時間ごとに息継ぎのため水面に上がる必要があり、その際に天敵のハシビロコウやサンショクウミワシなどの魚食性鳥類に狙われやすい。その一方で、呼吸を水に依存しないため、乾期に水が干れても次の雨期まで地中で「夏眠」と呼ばれる休眠状態で過ごすことができる』(ネオケラトドゥスは除く)。『この夏眠の能力により、雨期にのみ水没する氾濫平原にも分布している。アフリカハイギョが夏眠する際は、地中で粘液と泥からなる被膜に包まった繭の状態となる。「雨の日に、日干しレンガの家の壁からハイギョが出た」という逸話はこの習性に基づく』。『オーストラリアハイギョが水草にばらばらに卵を産み付けるのに対し、その他のハイギョでは雄が巣穴の中で卵が孵化するまで保護する。ミナミアメリカハイギョの雄は繁殖期の間だけ腹鰭に細かい突起が密生し、酸素を放出して胚に供給する』。『ハイギョは陸上脊椎動物と同様に外鼻孔と内鼻孔を備えている。正面からは吻端に開口する』一対の『外鼻孔が観察でき、口腔内に開口している内鼻孔は見えない』。『ハイギョの歯は板状で「歯板」と呼ばれる。これは複数の歯と顎の骨の結合したもので貝殻も砕く頑丈なものである。獲物をいったん咀嚼を繰り返しながら口から出し唾液とともに吸い込むという習性を持つ。現生種はカエル、タニシ、小魚、エビなどの動物質を中心に捕食するが、植物質も摂食する。頑丈な歯板は化石に残りやすいため、歯板のみで記載されている絶滅種も多い。ハイギョの食道には多少の膨大部はあるものの、発達した胃はない。このためにじっくりと咀嚼を繰り返す。ポリプテルス類、チョウザメ類、軟骨魚類と同様に、腸管内面に表面積拡大のための螺旋弁を持つ。総排出腔は正中に開口せず、必ず左右の一方に開口する。糞はある程度溜めた後に、大きな葉巻型の塊として排泄する』。『硬骨魚類は肉鰭類と条鰭類の』二系統に分かれるとされるが、『四足類は肉鰭類から進化したとされる。肉鰭類の魚類は現在』シーラカンス(肉鰭亜綱総鰭下綱シーラカンス目ラティメリア属のラティメリア・カルムナエ(シーラカンス)Latimeria chalumnae 及びラティメリア・メナドエンシス(インドネシアシーラカンス)Latimeria menadoensis の二種)『とハイギョのみである。かつての総鰭類(肉鰭類から肺魚類を除いた群)は分岐学に基づいて妥当性が見直され、さらに、現生種に対して分子遺伝学手法が導入された結果、シーラカンスよりもハイギョが四足類に近縁とする考えや、それに基づいた分類が用いられるようになった』とある。]

 

 かくの如く、優れた種族といふのは皆それぞれその得意とする所で相手に優るのであるから、競爭の結果、益々專門の方向に進むの外なく、專門の方向に進めば進むだけ專門以外の方面には適せぬやうになる。鳥の翼は飛翔の器官としては實に理想的のものであるが、その代り飛翔以外には全く何の役にも立たぬ。犬ならば餌を抑へるにも顏を拭ふにも地を掘るにも前足を用ゐるが、鳥は翼を用ゐることが出來ぬから止むを得ず後足または嘴を以て間に合せて居る。されば如何なる種族でも己が得意とする點で相手に優り得たならば、忽ち相手に打ち勝つてその地方に跋扈することが出來る。即ち水中ならば最もよく游ぐ種族が跋扈し、樹上では最もよく攀ぢる種族が跋扈し、平原ならば最もよく走る種族が跋扈することになるが、今日までに地球上に跋扈した種族を見ると、實際皆必ず或る專門の方面に於て敵に優つたものばかりである。

 

 對等の敵と競爭するに當つては一歩でも先へ專門の方向に進んだものの方が勝つ見込みの多いことは、人間社會でも多くその例を見る所であるが、同じ仕事をするものの間では、一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込みがある。身體各部の間に分業が行はれ、同じく食物を消化するにも、唾液を出す腺、膵液を出す腺、硬い物を咀嚼する器官、液體を飮み込む器官、澱粉を消化する處、蛋白質を消化する處、脂肪を吸收する處、滓を溜める處などが、一々區別せられるやうになれば、身體の構造がそれだけ複雜になるのは當然であるから、數種の異なつた動物が同じ仕事で競爭する場合には、體の構造の複雜なものの方が分業の進んだものとして一般に勝を占める。古い地質時代に跋扈して居たさまざまの動物を見るに、いづれも相應に身體の構造の複雜なものばかりであるのはこの理由によることであらう。相手よりも一歩先へ專門の方向に進めば相手に打ち勝つて一時世に跋扈することは出來るが、それだけ他の方面には不適當となつて融通が利かなくなるから、萬一何らかの原因によつて外界の事情に變化が起つた場合には、これに適應して行くことが困難になるを免れぬ。相手よりも一層身體の構造が複雜であれば、無事のときには敵に勝つ望が多いが、複雜であるだけ破損の虞が增し、一旦破損すればその修繕が容易でないから、急に間に合はずして失敗する場合も生ぜぬとは限らぬ。恰も人力車と自動車とでは平常はとても競走は出來ぬが、自動車は少しでも破損すると全く動かなくなつて、到底簡單で破損の憂のない人力車に及ばぬのと同じことである。嘗て地球上に全盛を極めた諸種の動物は、各その相手に比して專門の生活に適することと分業の進んだこととで優つて居たために、世界に跋扈することを得たのであるが、それと同時にここに述べた如き弱點を具へて居たものであることを忘れてはならぬ。

[やぶちゃん注:「膵液」膵臓で分泌される消化液。重炭酸塩及び多種の消化酵素を含んでおり、消化酵素にはトリプシン・キモトリプシン・カルボキシペプチダーゼなどの蛋白質分解酵素、リパーゼなどの脂肪分解酵素、アミラーゼなどの炭水化物分解酵素、ヌクレアーゼなどの核酸分解酵素が含まれ、三大栄養素の全てを消化出来る。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(2) 一 劣つた種族の滅亡

      一 劣つた種族の滅亡

 

 いつの世の中でも種族間の生存競爭は絶えぬであらうから、相手よりも遙に劣つた種族は到底長く生存することを許されぬ。同一の食物を食ふとか、同一の隱れ家を求めるとか、その他何でも生存上同一の需要品を要する種族が、二つ以上同じ場處に相接して生活する以上は一競爭の起るのは當然で、その間に少しでも優劣があれば、劣つた方の種族は次第に勢力を失ひ、個體の數も段々減じて終には一疋も殘らず死に絶えるであらう。また甲の種族が乙の種族を食ふといふ如き場合に、もし食はれる種族の繁殖力が食ふ種族の食害力に追ひ附かぬときは、乙は忽ち斷絶するを免れぬでゐらう。かくの如く他種族からの迫害を蒙つて一の種族が子孫を殘さず全滅する場合は常に幾らもある。そして昔から同じ處に棲んで居た種族の間では、勝負が急に附かず勝つても負けても變化が徐々であるが、他地方から新な種族が移り來つたときなどは各種族の勢力に急激な變動が起り、劣つた種族は短日月の間に全滅することもある。ヨーロッパに、アジヤの「あぶらむし」が入り込んだために、元から居た「あぶらむし」は壓倒されて殆ど居なくなつたこともその例であるが、かゝることの最も著しく目に立つのは、大陸と遠く離れた島國へ他から新に動物が移り入つた場合であらう。ニュージーランドの如きは從來他の島との交通が全くなくて、他とは異なつた固有の動物ばかりが居たが、ヨーロッパ産の蜜蜂を輸入してから、元來土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた。鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた。蠅にもこれと同樣なことがある。

[やぶちゃん注:「あぶらむし」ここで謂うのは恐らく、有翅亜綱半翅目(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアリマキ(蟻牧)類のことであろう。但し、今のところ、丘先生が述べておられるような侵入によるヨーロッパ産の在来種のアリマキが圧倒されたという学術的記述を見出せない。調査を続行するが、是非とも識者の御教授を乞うものである。

「ニュージーランド」の固有種(という意味であろう)「土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた」という種も確認出来なかった。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた」というのも同定出来なかった。ただやや不審なのは、ニュージーランドにはキーウィ(鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx)などの飛べない特異な鳥類が豊富にいるが(但し、近年は移入動物のネズミやネコの食害により個体数の深刻な現象が起こっている)、これは元来、ニュージーランドには彼らの天敵となるネズミやネコといった小型哺乳類がいなかったことが、固有の生態系と種を保存出来たと私は認識しており、この固有の齧歯類(ネズミ)というのにはどうも引っかかる。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「蠅にもこれと同樣なことがある」固有種の同定不能。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

Baison

[アメリカの野牛]

Dodo

[モーリシヤス島に居た奇体な鳩]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 近代になつて絶滅した種族もなかなか數が多いが、その大部分は人間がしたのである。鼠とか雀とか蠅とか「しらみ」とかの如き常に人間に伴うて分布する動物を除けば、その他の種族は大抵人間の勢力範圍の擴張するに隨うて甚しく壓迫せられ、特に大形の獸類、鳥類の如きは最近數十年の間に著しく減少した。近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛の如きは、今は僅に少數のものが特別の保護を受けて生存して居るに過ぎぬ。ヨーロッパの海狸も昔は各處の河に多數に住んで居たが、今は殆ど絶滅に近いまでに減少した。獅子・虎の如き猛獸はアフリカやインドが全部開拓せられた曉には、動物園の外には一疋も居なくなるであらう。人間の力によつて已に絶滅した種族の例を擧げて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた。またこの島よりも更に東に當るロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた。シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた。前の鳥類でもこの海獸でも敵に對して身を護る力が十分でなかつたから、生存競爭に劣者として敗れ亡びたのであるが、もし人間が行かなかつたならば無論なほ長く生存し續け得たに違ない。劣つた種族が急に滅亡するのは大抵強い敵が不意に現れた場合に限るやうである。

[やぶちゃん注:「近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛」偶蹄目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison 。別名、バッファロー(buffalo)。ウィキの「アメリカバイソン」によれば、分布は『アメリカ合衆国(アイダホ州、アリゾナ州、カリフォルニア州、サウスダコタ州、モンタナ州、ワイオミング州、ユタ州)、カナダ』。『以前はアラスカからカナダ西部・アメリカ合衆国からメキシコ北部にかけて分布していた』が、『ワイオミング州のイエローストーン国立公園とノースウェスト準州のウッド・バッファロー国立公園を除いて野生個体群は絶滅し、各地で再導入が行われている』。体長はで三〇四~三八〇センチメートル、で二一三~三一八センチメートル。肩高はで一六七~一八六センチメートル、で一五二~一五七センチメートル。体重はで五四四~九〇七キログラムにも達し、は三一八~五四五キログラム。の最大体重個体では実に一トン七二四キログラムのものもいた』。『肩部は盛り上がり、オスでは特に著し』く、『成獣は頭部や肩部、前肢が長く縮れた体毛で被われる』。『湾曲した角』を有し、最大角長は五〇センチメートル。分類学上は二亜種に『分ける説がある』一方、『生態が異なるのみとして亜種を認めない説もある』。

ヘイゲンバイソン Bison bison bison (Linnaeus, 1758)

シンリンバイソン Bison bison athabasca Rhoads, 1898

『草原、森林に』棲息し、『以前は季節により南北へ大規模な移動を行っていた』。と幼獣からなる群れを形成し、が『この群れに合流するが、これらが合流して大規模な群れを形成することもある』。同士では『糞尿の上を転げ回り臭いをまとわりつかせて威嚇したり、突進して角を突き合わせる等して激しく争う』。『食性は植物食で、草本や木の葉、芽、小枝、樹皮などを食べ』、『通常の成獣であれば捕食されることはないが、老齢個体や病気の個体・幼獣はタイリクオオカミ・ピューマに捕食されることもある』。『また、イエローストーン国立公園において、若い成獣がヒグマに捕食されたことが観察されている』。  ~九月に交尾を行い、妊娠期間は二百八十五日。四~五月に一回に一頭の幼獣を出産、は生後三年で、は生後二~三年で性成熟する。『ネイティブ・アメリカンは食用とし、毛皮は服・靴・テントなど、骨は矢じりに利用された』。『ネイティブ・アメリカンは弓や、群れを崖から追い落とすなど伝統的な手法によりバイソンの狩猟を行っていた。特にスー族など平原インディアンは農耕文化を持たず、衣食住の全てをバイソンに依存していた』。十七世紀に『白人が北アメリカ大陸に移入を開始すると食用や皮革用の狩猟、農業や牧畜を妨害する害獣として駆除されるようになった』。十八世紀に『人による、主に皮革を目的とする猟銃を使った狩猟が行われるようになると、バイソンの生息数は狩猟圧で急激に減少』、一八三〇年代以降は『商業的な乱獲により大平原の個体も壊滅的な状態となり、ネイティブ・アメリカンも日用品や酒・銃器などと交換するために乱獲するようになった』。一八六〇年代以降は『大陸横断鉄道の敷設により肉や毛皮の大規模輸送も可能となり、列車から銃によって狩猟するツアーが催されるなど娯楽としての乱獲も行われるようになった』。『当時のアメリカ政府はインディアンへの飢餓作戦のため、彼らの主要な食料であったアメリカバイソンを保護せずむしろ積極的に殺していき、多くのバイソンが単に射殺されたまま利用されず放置された。この作戦のため、白人支配に抵抗していたインディアン諸部族は食糧源を失い、徐々に飢えていった。彼らは、アメリカ政府の配給する食料に頼る生活を受け入れざるを得なくなり、これまで抵抗していた白人の行政機構に組み入れられていった。狩猟ができなくなり、不慣れな農耕に従事せざるを得なくなった彼らの伝統文化は破壊された。バイソン駆除の背景には牛の放牧地を増やす目的もあったとされ、バイソンが姿を消すと牛の数は急速に増えていった』。一八六〇年代以降は『保護しようとする動きが始まるが、開拓期の混乱が継続していたこと・ネイティブ・アメリカンへの食料供給の阻止・狩人や皮革業者の生活保障などの理由から大きな動きとはならなかった』。十九世紀末から二十世紀になると、フロンティアの消滅に伴って、『保護の動きが強くなりイエローストーン国立公園などの国立公園・保護区が設置されるようになり』、一九〇五年になってやっと保護を目的とする「アメリカバイソン協会」が発足された。『白人が移入する以前の生息数は』約六千万頭だったと推定されているが、一八九〇年には千頭未満まで激減した。一九七〇年には一万五千から三万頭まで増加したとされる、とある。鯨から油だけを搾り採り、肉を日本に売っていた、「世界正義」を標榜するアメリカの実態がこれだ。

「ヨーロッパの海狸」「海狸」は「かいり/うみだぬき」で「ビーバー」と読んでおく(既に丘先生は本文で「ビーバー」と表記しているからである)。哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属Castor の一属のみ)。ここで謂うのはヨーロッパ北部・シベリア・中国北部に生息する

ヨーロッパビーバー Castor fiber

であるが、他にもう一種、北アメリカ大陸に生息する

アメリカビーバー Castor Canadensis

がいる。丘先生は専ら前者の急激な減少のみを問題にているように読めるが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」(平凡社一九八八年刊)の「ビーバー」の項を見ると、ビーバーは『かつて北半球に広く分布していたが』、『近世以降』、『高価に取引きされるために乱獲され』、『個体数は著しく減少』、十七世紀に『イギリスやフランスの上流階級のあいだでビーバーの毛皮でつくった山高帽が流行』、『これが植民地時代のアメリカにおける本格的な乱獲に火をつけたといわれる』とあり、十九世紀前半には年間十万頭から五十万頭ものビーバーが毛皮用に殺され、『ハドソン・ベイ・カンパニー(北米原住民との毛皮取引きを目的として設立されたイギリスの会社)の紋章にもなった』。十九世紀半ばに『なって乱獲は下火となったが』、『一時は絶滅寸前かと噂された』。『二十世紀に入ってからは各州』(これは明らかにアメリカである)『の保護のもと』、『個体数は多少増えつつある』とあるから、乱獲と個体数激減で深刻だったのは寧ろ、アメリカビーバー Castor Canadensis の方だったことが窺えるのである(下線やぶちゃん)。

「マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた」マダガスカルの東方八百九十キロメートルのインド洋上マスカレン諸島に位置する、イギリス連邦加盟国であるモーリシャス共和国(Republic of Mauritius)の首都ポートルイスのあるモーリシャス島に棲む、

ハト目ドードー科 Raphus 属モーリシャスドードー Raphus cucullatus

で、一般に単に「ドードー」と呼んだ場合は本種を指す。ウィキの「ドードー」によれば、『大航海時代初期の』一五〇七年に『ポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された』。一五九八年に八隻の『艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。食用に捕獲したものの煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいた』『が、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝した。以降は入植者による成鳥の捕食が常態化し、彼らが持ち込んだイヌやブタ、ネズミにより雛や卵が捕食された。空を飛べず地上をよたよた歩く、警戒心が薄い、巣を地上に作る、など外来の捕食者にとって都合のいい条件が揃っていた』『ドードーは森林の開発』『による生息地の減少、そして乱獲と従来』は『モーリシャス島に存在しなかった人間が持ち込んだ天敵により急速に個体数が減少した。オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは』一六八一年の『イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した』。『ドードーは、イギリス人の博物学者ジョン・トラデスカントの死後、唯一の剥製が』一六八三年に『オックスフォードのアシュモレアン博物館に収蔵されたが、管理状態の悪さから』一七五五年に『焼却処分されてしまい、標本は頭部、足などのごくわずかな断片的なものしか残されていない』。『しかし、チャコールで全体を覆われた剥製は、チェコにあるストラホフ修道院の図書館に展示されている『特異な形態に分類項目が議論されており、短足なダチョウ、ハゲタカ、ペンギン、シギ、ついにはトキの仲間という説も出ていたが、最も有力なものはハト目に属するとの説であった』。『シチメンチョウよりも大きな巨体』『で翼が退化しており、飛ぶことはできなかった。尾羽はほとんど退化しており、脆弱な長羽が数枚残存するに過ぎない。顔面は額の部分まで皮膚が裸出している』。『空を飛べず、巣は地面に作ったと言う記録があ』り、『植物食性で果実や木の実などを主食にしていたとされる』。『また、モーリシャスにある樹木、タンバラコク(アカテツ科のSideroxylon grandiflorum、過去の表記はCalvaria major〈別称・カリヴァリア〉であった)と共生関係にあったとする説があり』、一九七七年に『サイエンス誌にreportが載っている』。『内容は、その樹木の種子をドードーが食べることで、包んでいる厚さ』一・五センチメートルもの『堅い核が消化器官で消化され、糞と共に排出される種子は発芽しやすい状態になっていることから、繁茂の一助と為していたというものであった。証明実験としてガチョウやシチメンチョウにその果実を食べさせたところ、排出された種子に芽吹きが確認された記述もあった。タンバラコクは絶滅の危機とされ』、一九七〇年代の観測で老木が十数本、実生の若木は一本とされる。『ただし、この説は論文に対照実験の結果が示されていないことや、サイエンス誌の査読が厳密ではなかったと推測する人もおり、それらの要因から異論を唱える専門家も存在する』。『ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意』で、また、『アメリカ英語では「DODO」の語は「滅びてしまった存在」の代名詞である』とある。但し、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」(平凡社一九九三年刊)の「ドードー」によれば、『一説によると』、『ドードーという名前そのものが』、『この鳥の鳴き声だともいう』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、たった百四十七年であった(下線やぶちゃん)。

「ロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた」これは、モーリシャス島の北東五百六十キロメートルに位置するモーリシャス領の孤島で三つの島からなるロドリゲス島(Rodrigues Island)にのみ棲息していた、

ハト目ドードー科 Pezophaps 属ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria

を指す。別名、「ソリテアー」(solitaire:ひとりもの)で、『形態などの差異からモーリシャスドードーとは別属に分類されている』。体長一メートルほどで、『体重は最も肥満する時期で』二十キログラム以上にも達した。『体色は主に褐色で白いものもある。飛べない。歩く速度は、「開けた場所なら簡単に捕まえられるが森の中ではなかなか捕まえられない」程度。卵は地上に葉を積み上げた巣に』、一個だけ産む。敵がおらず、『生息地が限られている環境で種を維持するには』、二個以上の卵を『産むのは不適当だったからであろうが、この習性が人間がロドリゲス島に来た後になって個体数の回復を難しくした可能性が高い』。この鳥を一六八九年に『はじめて発見したフランソワ・ルガの手記によると、多数が生息していたにもかかわらず複数で行動しているところはみかけなかったとのことで、別名のソリテアー(ひとりもの)と学名の種小名solitaria はそこから名付けられた』。一七六一年を『最後に目撃者がおらず、絶滅したとされる。標本は残っておらず、ヨーロッパに持ち込まれたこともない。人間による捕獲とネズミなどの移入動物による(特に卵や雛の)捕食が絶滅の原因とされている』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、こちらは実に七十二年しかかからなかった。なお、ドードーには今一種、モーリシャス島西南方百九十キロメートルに位置するレユニオン島(現在はフランス領)に棲息していた、

レユニオンドードー Raphus solitaries

 

がいた。ウィキの「レユニオンドードー」によれば、『島を訪れた航海者の手記によると、「シチメンチョウ程度の大きさで、太ったおとなしい鳥」。羽毛は白、クチバシと羽の先は黄色。飛べない』。モーリシャスドードー Raphus cucullatus と同様の理由によって十七世紀末には絶滅したとされており、二羽ほどが『ヨーロッパに送られたらしいが、標本は残っていない。なお』、同島内では『ロドリゲスドードーに似た痩せた姿のレユニオンドードーも目撃されており、絵が残されている。日本の鳥類学者蜂須賀正氏はこれをレユニオンドードーとは別の種』(同氏は「ホワイトドードー」(victoriornis inperialis)と「レユニオンソリテアー」(Ornithaptera solitaria)という、孰れも別個立ての新属として種小名も「レユニオンドードー」(Raphus solitaries)とも異なる二種に分けて命名している)『としたが、今のところ一般には採用されていない』とある。「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」で荒俣氏の記載にも小さな島(百九平方キロメートルしかない)に『類似した種が二つもいるとは考えられぬとして否定的な意見が多い』とある。私も同感である。なお、モーリシャス島・ロドリゲス島・レユニオン島では、他にも多くのリクガメやゾウガメの仲間が同時期に絶滅してもいる。

「シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた」ベーリング海に棲息していたジュゴン科に属する寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ哺乳綱海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウHydrodamalis gigas  ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年に発見された彼らは、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶える。ヒトに知られてから何と、僅か二十七年の命であった「地球にやさしい」僕らは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。この頭骨の語りかけてくるものに僕らは今こそ真剣に耳を傾けねばならないのではないか? 自分たちが滅びてしまう前に――

 

 人間の各種族に就いても理窟は全く同樣で、遠く離れて相觸れずに生活して居る間は、たとひ優劣はあつても勝敗はないが、一朝相接觸すると忽ち競爭の結果が顯れ、劣つた種族は暫くの間に減少して終には滅亡するを免れぬ。歷史あつて以來優れた種族から壓迫を受けて終に絶滅した人間の種族は今日までに已に澤山ゐる。オーストラリヤの南にあるタスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた。古い西洋人のアフリカ紀行を讀んで見ると、瓢を持つて泉に水を汲みに來る土人を、樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰めたことなどが書いてあるが、鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人とが相觸れては、野蠻人の方が忽ち殺し盡されるのは當然である。今日文明人種の壓迫を蒙つて將に絶滅せんとして居る劣等人種の數は頗る多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリッピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニヤのパプア人でも、今後急に發展して先達の文明人と對立して生存し續け得べき望みは素よりない。文明諸國の人口が殖えて海外の殖民地へ溢れ出せば、他人種の住むべき場處はそれだけ狹められるから、終には文明人とその奴隷とを除いた他の人間種族は地球上に身を置くべき處がなくなつて悉く絶滅するの外なきことは明である。人種間の競爭に於ては、幾分かでも文明の劣つた方は次第に敵の壓迫を受けて苦しい境遇に陷るを免れぬから、自己の種族の維持繼續を圖るには相手に劣らぬだけに智力を高め文明を進めることが何よりも肝要であらう。

[やぶちゃん注:「タスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた」タスマニア島の原住民であったタスマニアン・アボリジニ(Aborigine:アボリジニーはオーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民。タスマニアン・アボリジニーは一八〇〇年代前半に起こったイギリス植民者との「ブラック・ウォー(Black War)」で敗北、大量に殺戮され、或いは小島に移住させられて、ほぼ絶滅させられた。ウィキの「ブラック・ウォー」によれば、『この戦争は公式な宣戦布告無しで開始されたため、その継続期間についてはいくつかのとらえ方がある』。一八〇三年に『タスマニア島に最初にヨーロッパ人が入植した時に始まったとする見方もある。 最も激しい衝突があったのは』一八二〇年代で、『特にこの時期をブラック・ウォーと呼ぶことが多い』。この一八二〇年代の激しい衝突の後、一八三〇年にイギリス人副総督ジョージ・アーサー(George Arthur)は、『タスマニア島内のアボリジニーを一掃する計画を立てた。この作戦はブラック・ラインとして知られ、流刑者まで含めた島内全ての男性入植者が動員された。入植者は横列を組んで南と東に向け数週間かけて進み、タスマン半島へとアボリジニーを追い込もうとした。しかし、ほとんどアボリジニーを捕捉することはできなかった』。『もっとも、ブラック・ラインの実行は、アボリジニーを動揺させ、フリンダーズ島への移住を受け入れさせることにつながったと一般に考えられて』おり、約三百人の生き残っていた『タスマニアン・アボリジニーの大半は』、一八三五年末までにジョージ・ロビンソン(George Augustus Robinson)の提案に従って、『フリンダーズ島へ移住して、事態の鎮静化までの「保護」を受けることになった。そして、この移住完了をもってブラック・ウォーについて戦争終結と見るのが一般的である』。しかし、『フリンダーズ島への移住後、劣悪な生活環境とヨーロッパ人がもたらした疫病によりタスマニアン・アボリジニーの人口は激減』、一八四七年に『タスマニア島のオイスター湾保護区に再移送されるまでにタスマニアン・アボリジニーは約』四十人にまで減少、『その固有の文化も失われた。民族浄化というブラック・ラインの目的は、フリンダーズ島移住によって代わりに実現されたことになる』。『ジョージ・ロビンソンは』、一八三九年に『ポート・フィリップ地区の主席アボリジニー保護官に任命された。彼の下でオイスター湾の保護区は運営され』、一八四九年末に閉鎖された。このおぞましい大虐殺について、かのイギリスの作家H・G・ウェルズは、その「宇宙戦争」(The War of the Worlds:一八九八年刊)の序文で、次のように触れている。(火星人の侵略について考えるに際して)『われわれ人間は、自らが行ってきた無慈悲で徹底した破壊という所業を思い起こす必要がある。それも、バイソンやドードーといった動物を絶滅させただけでなく、われわれの劣等な近縁種たちまでも手にかけてきたことを。タスマニア人たちは、われわれ人とよく似ていたにも関わらず、ヨーロッパからの移民が行った駆除作戦によって』、五十年の『うちに絶滅させられてしまったのだ』(下線やぶちゃん)。同時代に生きた丘先生の本パートはまさにウェルズと同じ慙愧の念を以って語られているとは思えないか?

「昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた」テノチティトランと呼ばれた現在のメキシコ市の中心部に都を置き、アステカ文化を花開かせた彼らは、十四世紀からスペイン人によって征服されてしまった一五二一年まで栄えた。「アステカ(Azteca)」とは彼らの伝説上の起源の地「アストラン(Aztlan)の人」を意味する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、ウィキの「アステカ」から滅亡の前後を見よう。『メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した』。一五一九年二月、『ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で』十六頭の『馬と大砲や小銃で武装した』五百人の『部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆』、『コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行』って、『その勝利の結果として贈られた女奴隷』二十人の『中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた』。『サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラ(スペイン語版、英語版)の町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち』、三百人で内陸へと進軍『コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ』。十月十八日、チョルーラの町で彼らを礼節を以って迎えた三千から六千人ともされる無辜の民をおぞましい方法で大虐殺し、その後、千人の『トラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍』、一五一九年十一月十八日、『コルテス軍は首都テノチティトランへ到着』、モクテスマ二世は『抵抗せずに歓待』、コルテス達はモクテスマ二世の父の宮殿に入って六日間を過ごしたが、『ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こして』モクテスマ二世を支配下に治めた。翌一五二〇年五月、『ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは』百二十人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した』。『コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出』たことから、『コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出た』モクテスマ二世は『アステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう』『(これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)』。翌月末の六月三十日、『メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した』。『王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた』。翌一五二一年四月二十八日、『トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に』十三隻の『船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲』、一五二一年八月十三日、『コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした』。その後、『スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)』。『その犠牲者は征服前の人口はおよそ』一千百万人で『あったと推測されるが』、一六〇〇年の『人口調査では、先住民の人口は』百万程度に『なっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した』のであった。当ウィキの注釈には、『アステカ王国がわずかな勢力のスペイン人に』たった二年半で滅ぼされてしまった『理由が、白い肌のケツァルコアトル神が「一の葦」の年に帰還するという伝説があったため』、『アステカ人達が白人のスペイン人を恐れて抵抗できなかったというためだったという通説については、異論を唱える研究者もいる。大井邦明によれば、ケツァルコアトルが白人に似た外観であったというのはスペイン人が書き記した文書にのみ見られるという。白人が先住民の支配を正当化すべく後から話を作った可能性があるという』。『また、スーザン・ジレスピー(フロリダ大学)によれば、アステカ側の年代記制作者が、わずかな勢力に王国が滅ぼされたことの理由付けとして後から話を作った可能性があるという』。『実際の理由としては、アステカがそれまで経験してきた戦争は生贄に捧げる捕虜の確保が目的であ』って、『敵を生け捕りにしてきたのに対し、スペイン人達の戦い方は敵の無力化が目的であり』、『殺害も厭わなかったこと』、『また、スペインの軍勢の力を見せつけるべくチョルーラで大規模な殺戮を行うなどしたが、アステカの人々にとっては集団同士の戦いでの勝敗はそれぞれの集団が信仰する神の力の優劣を表していたこと』、『そしてまた、スペイン人達は銃や馬で武装しており、アステカの軍勢は未知の武器に恐れをなしてたびたび敗走したこと』、『スペイン人がアステカに不満を持っていた周辺の民族を味方につけたこと』『などが挙げられる。これらの他、モクテソマ王自身が、不吉な出来事や自身が権力の座を失うことなどに不安を募らせ』、『希望を失なって首都を離れようとするなど』、『厭世的な気持ちに捕らわれていたことがアステカの軍勢の士気をも落としていただろうという指摘もある』とある。

「劣等人種」「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」時代的限界性からこれらが現行では許されない表現であることは言を俟たない。しかしどうあろう、丘先生はこれらを一種鉤括弧つきで皮肉に用いておられるようにも私には思われるのである。生物学的な「進化」の観点からは「劣等」「優等」という措辞を完全抹消することは恐らくは出来まい。そうして、例えば「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」を、現代の合わせて私は「鐡砲のない野蠻人と」全人類を何度も絶滅し得るだけの馬鹿げた核兵器を保持し、ゲーム感覚の電子精密「鐡砲」で無辜の民を殺すことに興じている「文明人」と言い換えてみたくなる。私は――「瓢」(ふすべ)「を持つて泉に水を汲みに來る土人」でありたいが、「樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰め」る「文明人」には金輪際、なりたくないのである。――

「セイロン島のヴェッダ人」ウィキの「ヴェッダ人(英語:Vedda)によれば、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音するが』、これは実は侮蔑語であって、彼らの『自称はワンニヤレット (Wanniyalaeto, Wanniyala-Aretto)で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。 記録は、ロバート・ノックス』(Robert Knox)の「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies,1681)に遡り、人口は一九四六年当時で二千三百四十七人、『バッティカロア、バドゥッラ、アヌラーダプラ、ラトゥナプラに居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計で四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八月の『大祭には多くの法悦の行者が聖地を訪れて火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語:Saman)を『祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書『マハーワンサ』によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線やぶちゃん)。

「フィリッピン島のネグリト人」「ネグリート」とも呼ぶ。ウィキのネグリト(英語:Negrito)から引く。彼らは『東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。アンダマン諸島のアンダマン諸島人』、(十族)と、『Jangil、ジャラワ族、オンゲ族、センチネル族』を合わせた十四の『民族、マレー半島と東スマトラのセマン族』、『タイのマニ族』、『フィリピンのアエタ族・アティ族・バタク族(英語版)・ママンワ族』の四民族、『ニューギニアのタピロ族』『などの民族が含まれる』。『身長は低く、諸民族の中でも最も小さな人々であり「大洋州ピグミー」とも呼ばれる。オーストラロイドに属し、暗い褐色の皮膚を持ち、巻毛と突顎を持つ。山地にすみ単純な採集や狩猟を行い、移動焼畑を行う場合もある採集狩猟民である。フィリピンのアエタなどは火を使用するが、アンダマン諸島民は火を使わない。セマンは木の皮を叩いてやわらかくして衣服を作り、洞窟や木の葉で覆った家に住んでいたと記録されている』。『ネグリトという言葉はスペイン語で「小柄で黒い人」という意味であり、当初スペイン人航海者たちはネグリト人の肌の黒さからアフリカ人(アフリカの黒人)の一種かもしれないと考えていた。マレー語ではオラン・アスリ(orang asli)、すなわち「もとからいた人」と言う。フィリピンでは、現在のマレー系の民族が舟で到来する前の先住民とされ、パナイ島の伝説ではボルネオ島から渡ったマレー人たちがネグリト系のアエタの民から土地の権利を買ったとされている』。『ネグリトの人々は他の民族と比較して最も純粋なミトコンドリアDNAの遺伝子プールを持つとされ、彼らのミトコンドリアDNAは遺伝的浮動の研究の基礎となっている。またニューギニアに住む集団は、ネグリトとはさらに別に、メラネシア・ピグミーとされる事がある』。使用言語の項。『アンダマン諸島やニューギニア島のネグリトは固有の言語を持つが、マレー半島やフィリピンのネグリトは周辺諸族(非ネグリトのモンゴロイド)と同様のものを話す。これは過去のある時点で固有の言語を喪失したものと考えられている』。平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の「ネグリト」によれば、インド洋のアンダマン諸島に約六百人、タイ南部と半島マレーシアの内陸に約二千五百人(セマン族)、フィリピン群島に約千五百人(アエタ族)が居住するとある(下線やぶちゃん)。

「ボルネオのダヤック人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の内堀基光氏の「ダヤク族」(英語:DayakDyak)によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『オランダ系の民族学においては、ボルネオ島(カリマンタン)に住むプロト・マレー人系の原住民の総称として「ダヤク」の名称が一般的に用いられる。したがってこの語に各民族名を冠し、「カヤン・ダヤク」、「クニャー・ダヤク」、「ヌガジュ・ダヤク」、「海ダヤク(イバン族)」、「陸ダヤク」などの複合名称がしばしば用いられる。ダヤク諸族間の言語・文化的類縁関係については諸説があるが、ごく大きく分けて、(一)フィリピンの諸民族と近い北部群(とくにムルット族)、(二)中央カリマンタン諸族(カヤン族・クニャー族を含む)、(三)西ボルネオ諸族(イバン族・陸ダヤク)の三群を認めることができる』。『ダヤク諸族全体を通して焼畑陸稲栽培、顕著なアニミズム的世界観、発達した葬制、双系的な社会構造などの共通性が存在する。農耕方式における例外としては、北部高地のケラビット族の棚田耕作、西部海岸のミラナウ族のサゴヤシ栽培が文化史的に重要である。ボルネオ島の各地方海岸部に住むマレー人の起源は、多くの場合、イスラム化したダヤク族に求められるであろう。現在でも進行中の社会過程としてダヤク族のイスラム化=マレー化は、東南アジア島嶼部の歴史を理解するうえで重要な現象である。ボルネオ北西部を占めるサラワク(現・マレーシア領)では、イギリス植民地時代から「ダヤク」の語を「海ダヤク」と「陸ダヤク」に限定して用いてきた。日本でダヤク(ダイヤ)族という場合、実際にはイバン族をさしていることが多い』とある(下線やぶちゃん)。

「ニューギニヤのパプア人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の畑中幸子氏の「パプア人」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『ニューギニア島の高地に住む人々を指す場合と、パプア・ニューギニア(ニューギニア島東部)に住む人々を指す場合がある』(丘先生の謂いはこの両者を含むと考えてもよいが、少数の被圧された種族という意味ではニューギニア高地人で採るのがよかろう)。『高地に住む人々は、人種的にはオーストラロイドまたはオセアニック・ネグリトといわれ、アジア大陸から太平洋に向かって押し出された最古の集団である。これらの人々は約三万年前にニューギニア島に到着していた、後から来たモンゴロイド系に高地に追いやられた。一般にニューギニア高地人と呼ばれ、他のメラネシア地域とは異なる人種集団を形成している。一時期に大規模な人種の混血があったため、身体的特徴も地域により異なる。一九六〇年半ばから始まった考古学調査によると、高地の各地の渓谷に約一万年前に人が住んでいたことが明らかとなった。ベールに包まれたまま長く外界と孤立していたパプア人の多くは、第二次世界大戦後、オーストラリア行政と接触した。しかし六十年代までパプア人社会に近代化政策がもち込まれなかったため、発展が遅れた』。『パプア諸語には、数百を下らぬ数の異なる言語が含まれ、それぞれの言語の話者数は、数百から十五万人以上とさまざまである。パプア人社会は威信の獲得、蓄積を競う男性社会によって支配される部族社会であり、その特徴は中央集権化された政治組織および体系化された宗教がないことにある。儀礼が発達しており、多くはシングシング』(singsing:南西太平洋のメラネシア、特にパプア・ニューギニアでよく使われる、主として踊りなどを指すピジン・イングリッシュ)『が伴う。リーダーシップは世襲ではなく、戦闘や部族間の交易によって築かれ獲得されたもので、氏族(クラン)ごとにいるリーダーはビッグマン(ピジン・イングリッシュで「首長」の意)と呼ばれた。ビッグマンは氏族の全面的支持を背景として対外関係を処理してきた。部族間の取引関係を通じて通婚関係や同盟が成立していたが、張合いと攻撃性はしばしば武力抗争にまで発展した。貝貨・豚は欠かすことのできない財であった。技術の発達は遅れており、一般に階層分化も社会分業も未発達であった。人々はすべて形あるものは精霊から授けられると信じ、また呪術が部族間・部族内を問わずはびこっていた。彼らは根茎類(ヤムイモ・タロイモ・サツマイモ・キャッサバなど)の栽培を生業とする自給農民であるが、主として女性が農耕に従事する。主食のサツマイモは約三〇〇~三五〇年前にポルトガル人あるいはマレー人によって海岸地方にもたらされ内陸部に達したもので、これが高地の人口を増加させ、社会を変えたといわれる。一九六〇年代には換金作物の茶、コーヒーが導入されて栽培に成功、国の経済発展に一役買っている』。一九七三年に『パプア・ニューギニアに自治政府が樹立され、パプア人たちも政治に参加する機会をえた』。一九七五年には『イギリス女王を元首とする立憲君主国として独立したが、パプア・ニューギニアの約三百六十万人』(一九八四年次推定)の人口の三分の二が『パプア人である。メラネシア人との人種混血がおきており、ラネシア人国家ということから国民の間にメラネシア人としてのアイデンティティ(同類意識)が育ちつつある。西欧文化との接触が新しいため、土着文化が西欧文化と共存している』とある(下線やぶちゃん)。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(1) (序)

    第二十章  種族の死

 

 生物の各個體にはそれぞれ一定の壽命があつて、非業の死は免れ得ても壽命の盡きた死は決して免れることが出來ず、早いか晩いか一度は必ず死なねばならぬ運命を持つて居るが、さて種族として論ずるときはどうであらうか。同樣の個體の集まりである種族にも、やはり個體と同じやうに生死があり壽命があつて、一定の期限の後には絶滅すべきものであらうか。これらのことを論ずるには、まづ生物の各種族が如何にして生じ、如何なる歷史を經て今日の姿までに達したものかを承知して置かねばならぬ。

 

 動植物の種族の數は今日學者が名を附けたものだけでも百萬以上もあつて、その中には極めて相似たものやまるで相異なつたものがあるが、これらは初め如何にして生じたものであるかとの疑問は、苟しくも物の理窟を考へ得る程度までに腦髓の發達した人間には是非とも起るべきもので、哲學を以て名高い昔のギリシヤ人の間にもこれに關しては已に種々の議論が鬪はされた。しかし近代に至つて實證的にこれを解決しようと試みたのは、誰も知る通りダーウィンで、「種の起原」と題する著書の中に次の二箇條を明にした。即ち第一には生物の各種は長い間には少しづつ變化すること、第二には初め一種の生物も代を多く重ねる間には次第に數種に分れることであるが、絶えず少しづつ變化すれば、先祖と子孫とはいつか全く別種の如くに相違するに至る筈で、太古から今日までの間には境は判然せぬが幾度も形の異なつた時代を經過し來つたものと見倣さねばならず、また初め一種の先祖から起つた子孫も後には數種に分れるとすれば、更に後に至れば數種の子孫の各々がまた數種に分れるわけ故、すべてが生存するとしたならば、種族の數は次第に增すばかりで、終には非常な多數とならねばならぬ。この二箇條を結び合せて論ずると、およそ地球上の生物は初め單一なる先祖から起り、次第に變化しながら絶えず種族の數が殖えて今日の有樣までに達したのである。即ち生物各種の間の關係は、一本の幹から何囘となく分岐して無數の梢に終つて居る樹枝狀の系圖表を以て示し得べきもので、各種族は一つの末梢に當り、相似た種族は、相接近した梢に、相異つた種族は遙に相遠ざかつた梢に當つて、いづれも互に血緣の連絡はあるが、その遠いと近いとには素より種々程度の相違がある。これだけは生物進化論の説く所であるが、これは單に議論ではなく、化石學を始とし比較解剖學・比較發生學・分類學・分布學など生物學の各方面に亙つて無數の證據があるから、今日の所では最早疑ふ餘地のない事實と見倣さねばならぬ。

[やぶちゃん注:「動植物の種族の數は今日學者が名を附けたものだけでも百萬以上もあ」るとあるが、本書初版刊行の大正五(一九一六)年から八十八年も経った二〇〇四年現在は、ウィキの「種」によれば、

命名済みの種だけで二百万種

あり(これは化石種も当然含まれる。生物学者である丘先生の謂いも同じと考えてよいと思うが、一般的向けの本書の体裁から考えると、この百万種以上というのは現生種(現在、生存している種)のみの数とも読め、それだと八十八年で五十万増えると言うのはかえって自然と言えるかもしれない)、実際に

地球の歴史上ではそ『の数倍から十数倍以上の種の存在が推定され』ている

とあるから、実に百年弱で百万種が増えたことになる。しかし、ウィキの「古生物」によれば、

古生物(かつて地球上に存在した生物種)は約十億種以上(但し、『(?)』が附されてある)

化石種(化石として発見された種)は約十三万種

人類が発見して命名した現生種は約百五十万種

未確認種は数千万種

とされるとあるから、実に

化石絶滅種を含めた生物の推定種数は実に十億数千万種以上

ということになろう。

「種の起原」『種の起源』原題「On the Origin of Species」はイギリスの自然科学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)が一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)に出版されている。本書初版刊行の大正五(一九一六)年の五十七年前となる。]

 

 かくの如く生物の各種族はいづれも長い歷史を經て今日の姿までに達したものであるが、その間には何度も形の變じた種族もあれば、また割合に變化することの少かつた種族もあらう。しかしながらいづれにしても變化は徐々でゐるから、いつから今日見る如き形のものになつたかは時期を定めていふことは出來ぬ。化石を調べて見ると、少しづつ次第次第に變化して先組と子孫とがまるで別種になつてしまつた例は幾らもあるが、これらは血筋は直接に引き續いて居ながらその途中でいつとはなしに甲種の形から乙種の形に移り行くから、乙なる種族はいつ生じたかといふのは、恰も虹の幅の中で黄色はどこから始まるかと問ふのと同じである。人間などは化石の發見せられた數がまだ甚だ少いから、この場合の例には不適當であるが、もしも時代の相續いた地層から多數の化石が發見せられたならば、やはりいづれから後を人間と名づけてよいかわからず、隨つていつ初めて生じたといふことは出來ぬであらう。

 

 生物種族の初めて現れる具合は、今述べた通り漸々の變化によるのが常であるが、かくして生じた種族は如何になり行くかといふに、無論繼續するか斷絶するかの外はなく、繼續すれば更に少しづつ變化するから、長い間には終に別の種族となつてしまふ。地屏の中から掘り出された化石が時代の異なる毎に種族も違つて、一として數代に繼續して生きて居た種族のないのは、昔もその通りであるが、今後とても恐らく同じことであらう。稀には變化の極めて遲いものがあつて、いつまでも變化せぬやうに見えるが、これは寧ろ例外に屬する。「しやみせんがひ」や「あかがひ」などの種族は隨分古い地層から今日まで繼續して居るから、その間だけを見ると殆ど永久不變のものであるかの如き感じが起るが、「しやみせんがひ」屬「あかがひ」屬の形になる前のことを考へると、無論變化したものに違ない。また或る地層までは澤山の化石が出て、その次の地層からは最早その化石が出ぬやうな種族は、その間の時期に斷絶して子孫を殘さなかつたものと見倣さねばならぬが、かやうな種族の數は頗る多い。獸類でも魚類でも貝類でも途中で斷絶した種族の數は、現今生きて居る種族の數に比して何層倍も多からう。そしてこれらの種族はなぜかく絶滅したかといふと、他種族との競爭に敗れて亡びたものが多いであらうが、また自然に弱つて自ら滅亡したものもあつたであらう。

[やぶちゃん注:「しやみせんがひ」三味線貝(その独特の形状由来)。冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類(他にシャミセンガイ科 Lingulidae には Credolingula 属・Glottidia 属・Lingularia 属があり、化石属になると更に多数ある。分類タクサは保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。「腕足動物門」の学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名Lingulida(リングラ)は「小さな舌」の意(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、まずウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる』。二枚の『殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は五センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では』一対の『腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。一対か二対の『腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり』、二つの『神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。以下、ウィキの「シャミセンガイ」の項。『尾には筋肉があるだけで、内臓はすべて殻の中に入っている。殻は二枚貝のように見えるが、二枚貝が左右に殻を持つのに対して、シャミセンガイは腹背に殻を持つ。殻をあけると、一対のバネのように巻き込まれた構造がある。これは触手冠と呼ばれ、その上に短い多数の触手が並び、そこに繊毛を持っていて、水中のデトリタスなどを集めて食べるための器官である』。『特異な外観は、日本では三味線に例えられているが、中国では舌やモヤシに例えられて、命名されている』(中文サイトを見ると「舌形貝」「海豆芽」とある)。『太古から姿が変わっていない生きている化石の一つと言われることも多いが、実際には外形は似ているものの内部形態はかなり変化しており、生きた化石とは言いがたいという説もある。化石生物と現在のものとは別の科名や属名がつけられている』。二〇〇三年、『殻の形が大きく変化していることから、生きている化石であることは否定された』(下線やぶちゃん)。『日本では青森県以南に分布する。砂泥の中に縦穴を掘り、長い尾を下にして潜っている』。『中国では、渤海湾以南に分布』し、『台湾にも見られる』。しかし、『生息数が減少しており、地域によっては絶滅が危惧されている』。『大森貝塚(東京都大田区・品川区)の発見者であるエドワード・S・モースは』、明治一〇(一八七七)年に東京大学お雇い外国人として生物学を教える一方、シャミセンガイの研究のためにも来日しており、滞在期間中の凡そ一ヶ月の間、『江ノ島臨海実験所で研究をしており、その間にミドリシャミセンガイを』五百個体も捕獲している(私の「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳」の「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」以下のパートを参照されたい。因みに、日本で最初にダーウィンの進化論を東京大学や公開講演会で学術的に講義講演したのも、このモースである日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 27 日本最初のダーウィン進化論の公開講演などを参照されたい)。日本に於ける代表種であるミドリシャミセンガイ Lingula anatina は『岡山県児島湾や有明海で食用とされる。有明海ではメカジャ(女冠者)と呼ばれ、福岡県柳川市や佐賀県佐賀市周辺でよく食用にされる。殻及び触手冠の内部の筋肉や内臓を食べる。味は二枚貝よりも濃厚で、甲殻類にも似た独特の旨みがある』。『日本での料理としては、味噌汁、塩茹で、煮付けなどにすることが多』く、『中国では広東省湛江市、広西チワン族自治区北海市などで主に「海豆芽」(ハイドウヤー)などと称して炒め物にして食べられており、養殖の研究も行われている』(引用部を含め、下線やぶちゃん)。

「あかがひ」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ属アカガイ Scapharca broughtonii モースによる、現在の東京都品川区から大田区に跨る繩文後期から末期の大森貝塚の発掘(明治一〇(一八七七)年六月十七日に横浜に上陸したモースは二日後の六月十九日に東京大学との公式契約を結ぶために横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの山側の崖に貝殻が積み重なっている地層を発見、三ヶ月後の九月十六日に第一回発掘調査を行い、九月十八或いは十九日に第二回を、十月一日附で東京府の許可を得た上で十月九日から本格的な発掘を開始し、終了は十二月一日)の際には多量の、アカガイを含むフネガイ科 Arcidae の埋蔵貝類の殻を発掘し、同時に近くの海岸で同種・近縁種である現生種の貝殻も採取してそれを比較検討している日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較の本文及び私の注を是非、読まれたい。私も小学生の頃、家近くの切通しや崖から沢山の未だ化石化していないアカガイの埋蔵物古物を発掘したものだった。泥だらけになりながら、それを掘り出すのに至福を覚えた(今も絵日記に残っている)あの少年は、どこへ行ってしまったのだろう……

2016/02/28

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(6) 五 死後の命 /第十九章 個體の死~了

     五 死後の命

 

 身體は死んでも魂だけは後に殘るとは昔から廣く信ぜられて居ることであるが、これなどもたゞ人間のみに就いて考へるのと、生物を悉く竝べ、人間もその中に加へて考へるのとでは、結論も大に違ふであらうと思はれるから、死の話の序にこゝに一言書き添へて置く。すべての生物種類を竝べた中へ、人間をも加へて全部を見渡すと、人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬するものなることは明であるから、身體を離れた魂なるものが人間にあるとすれば、猿にもあると考へねばならず、猿に魂があるとすれば、犬にもあると見倣さねばならず、かうして先から先へと比べて行くと、何類までは魂が有つて何類以下には魂がないか、到底その境を定めることが出來ぬ。假に下等の動物まで魂が有るとすれば、これらの動物が人間とはまるで違うた方法で子を産んだり死んだりするときに、魂はいつ身體に入り來りいつ身體から出で去るかと考へて見ると隨分面白い。「いそぎんちやく」が分裂して二疋になる場合には魂も分裂して二個となつて兩方へ傳はるか、それとも今まで宇宙に浮んで居む宿なしの魂が新に一方に入り來るか、もしさうならば、もとから居た魂と新に來た魂とは如何にして受持の體を定めるかなどと幾つでも謎が出で來る。また人間だけに就いて考へても、卵細胞の受精から桑實期、胃狀期を經て、身體各部が次第次第に發育し終つて成人になるまでを一目に見渡した積りになつて、いつ初めて魂が現れたかと尋ねると、やはり答に當惑する。身體から離れた個體の魂が永久に不滅であるとすれば、今日までに死んだ者の魂が皆どこかに存するわけで、その數はどの位あるか知れぬがそれらはいつ生じたものであるか。終を不滅と想像するならば、始も無限と想像して宜しからうが、假に始もなく終もなく永久に存在するものとすれば、それが身體に乘り移らぬ前には何をして居たか。世間でいふ魂はいつまでもその一時關係して居た肉體の死んだときの年齡で止まるやうで、五歳で死んだ孩兒の魂はいつまでも五歳の幼い狀態にあり、九十で死んだ老爺の魂はいつまでも九十の老耄した狀態にあるやうに思はれて居るが、これらの魂は肉體に宿る前には如何なる狀態にあつたかなどと尋ねると、まるで雲の如くで摑まへ所がない。かくの如く身體と離れて獨立に存在し得る個體の魂なるものがゐるとの考は、生物界のどこへ持つて行つても辻悽の合はぬことだらけであるから、虚心平氣に考へると所謂魂なるものがあるとは容易に信ぜられぬ。神經系の靈妙な働の一部を魂の働と名づけるならば、これは別であるが、身體が死んでも後に魂が殘るといふ如きは、實驗と觀察とによつて生物界を科學的に研究するに當つては全く問題にも上らぬことである。

[やぶちゃん注:「人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬する」再度、確認しよう。現行ではヒトは 

動物界 真正後生動物亜界 新口動物上門 脊索動物門 脊椎動物亜門 四肢動物上綱 哺乳綱 真獣下綱 真主齧上目 真主獣大目 霊長目 真猿亜目 狭鼻下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト亜科 ヒト族 ヒト亜族 ヒト属 ヒト Homo sapiens Linnaeus, 1758 

に分類される。「猩々類」(しやうじやうるい(しょうじょうるい)」とはオランウータンのことで、 

オランウータンはヒト科オランウータン亜科オランウータン属ボルネオオランウータン(オランウータン)Pongo Pygmaeus 及びスマトラオランウータン Pongo abelii 

中国語では本属は「猩猩屬」と現在も書く。ヒト科にはオランウータン亜科 Ponginae・ヒト亜科 Hominidaeの二亜科しかない(オランウータン科 Pongidae を別に立てる学説もある)。因みに、ヒト科には現生のゴリラ族ゴリラ属 Gorilla 及びヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属 Pan 、そして化石人類のアウストラロピテクス属 Australopithecus  やホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis などが含まれる。この分類から考えると、現在ならヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属ボノボ(ピグミーチンパンジー) Pan paniscus や模式種であるチンパンジー(ナミチンパンジー)Pan troglodytes とチンパンジー「類と同じ仲間に屬する」とする方がしっくりくる。

「桑實期」「第十四章 身體の始め(1の「一 卵の分裂」を参照。

「胃狀期」第十四章 身體の始め(2) 二 胃狀の時期を参照。リンク先の文章と挿絵から見て、現行の胞胚期(但し、桑実胚と胞胚期の区別は明確ではない)から原腸胚期及び原腸貫入から神経胚形成の前までを丘先生はかく呼称しているように読める。]

 

 しかるに肉體が死んでも魂だけは生き殘といふ信仰が極めて廣く行はれて居るのはなぜかといふに、これには種々の原因があるが、一部分は確に感情に基づいて居る。その感情とは、自分が死んだ場合に肉體も精神もなくなつて全然消滅してしまふことを、何となく殘り惜しく物足らぬやうに思ふ感じであるが、これも熟考して見るならば魂などが殘つてくれぬ方を有り難く思ふ人も多からう。死んで魂が殘るのは自分と自分の愛する人とだけに限るならば實に結構であるが、嫌ひな人も憎い人も債權者も執達吏も死ねば、やはり魂の仲間入りをして來ることを考へると、寧ろ魂などを殘さずに綺麗に消えてなくなつた方が苦患が短く濟むことに心附かねばならぬ。魂といふ字は學者にいはせれば種々深い理窟もあらうが、通俗にいひ傳へ來つた魂なるものは、單に個人の性質が身體なしに殘つた如きもので、至つて幼稚な想像に過ぎず、男ならば死んでも男、女ならば死んでも女、酒呑みは死んだ後にも酒好きで、吃りは死んだ後にも吃り、實際草葉の蔭か位牌の後に隱れて居て、供へ物の香を嗅ぎ御經の聲を聞き得るものの如くに考へて居るのであるが、かやうな種類の死後の命はこれをあると信ずべき理由は少しもない。生物學上からいへば、子孫を遺すことが即ち死後に命を傳へることであつて、子孫が生き殘る見込みの附いた後に自分が死ねば、自分の命は已に子孫が保證して受け繼いでくれたこと故、自分は全く消え果てても少しも惜しくはない筈である。されば、子孫の生き殘ることを死後の命と考へ、死後も自己の種族の益々發展することを願うて、專ら種族のために有効に働き得るやうな優れた子孫を遺すことを常々心掛けたならば、これが何よりも功德の多いことであらうと思はれる。

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(5) 四 死の必要

     四 死の必要

 

 食ふのは産まんがためで、産むのは更に多く食はんがためであると前にいづれかの章で述べたが、生物の動作を見ると、無意識ながら徹頭徹尾自己の種族を維持し發展させんがめに働いて居る。食ふのは他種族の物質を自己の體内に取り入れ、これを同化して自己の物質とすること故、直接に自己の種族をそれだけ膨脹せしめたことに當る。また産めば自己の種族の個體の數が殖え、これが打ち揃うて食へば益々他種族の物質を取つて自己の種族に併合することが出來る。即ち食慾も色慾もその根抵は無意識の種族發展慾にあるが、數多くの種族が相竝んで各々膨脹しようと努めるから、互に壓し合ひ攻め合ふことを免れず、少しでも力の強い方は膨れて他を壓迫し、少しでも弱い方は他に壓迫せられて縮小せざるを得ぬ。そしてその際壽命の長さも種族の消長に關係し、最も適當な長さの壽命を有する種族でなければ忽ち滅び失せねばならぬ運命に陷ることは、ほゞ次の如き理由による。

[やぶちゃん注:「食ふのは産まんがためで、産むのは更に多く食はんがためであると前にいづれかの章で述べた」例えば「第九章 生殖の方法」の序の部分を参照。]

 

 抑々動物個體を成す細胞は發生の進むに隨うてその間に分業が行はれ、各種特別の任務を分擔して專門の仕事にのみ適するやうになると、始め持つて居た再生の力が次第に減ずるもので、終には新な細胞を生ずる力が全くなくなる。例へば神經細胞とか赤血球とかいふものになつてしまへばその分撞の仕事は十分に務めるが、更に分裂して新な細胞となることは出來ぬ。換言すれば、細胞にも年齡があり、老若の別があつて、專門の仕事を務めた細胞は既に老細胞と見倣さねばならぬ。個體は細胞の集まりであるから、古くなるに隨つて老細胞の數の割合が自然多くなり、各部の働も鈍くなり、再生力も減ずることを免れぬ。身體内で絶えず新な細胞が出來ては居るが、その割合は老若によつて非常に違ひ、胎兒の發生中の如きは實に盛に新細胞が出來るに反し、老年になると古い細胞が長く留まつて働いて居る。それ故若いときには傷口なども速に癒えるが、老年になるとなかなか手間がかかる。また物を覺えるのでも若いときには容易く出來るが、年を取つた後はとても難かしい。自轉車の稽古でも大人には八囘も教へぬと覺えぬ所を八歳の子供ならば僅に三囘で濟む。「八十の手習」といふ諺はあるが、その半分の四十を過ぎては外國語の學習の如きは殆ど絶望でゐる。かやうな次第で、老いたる個體は壯年時代の個體に比べて生活上種々劣つた所が生じ、老の積るに隨ひ、益々著しく劣るやうになるから、一種族の中に老いたる個體の多くあることは他種族と對抗するに當つては確に不得策である。假に敵と味方との個體の員数が相均しいとすれば、老いたる個體を多く有する組の方が敗ける心配が多い。壽命が短過ぎて種族維持の見込みの立たぬ間に親が死ぬやうでは、その種族は勿論生存が出來ぬが、また壽命が長きに過ぎて種族維持の見込みが確に附いた後に、老者が長く生存して若い者の占むべき坐席を塞ぐやうでも、他の種族との競爭に勝てぬから、昔から長い間の種族間の競爭の結果、丁度適當の長さの壽命を有するもののみが生き殘り、各種類に種族生存上最も有利な長さの壽命が自然に定まつたのであらう。

[やぶちゃん注:「八十の手習」この諺は晩学の自己謙遜の表現としてしばしば用いられるものの、元来は、学問や習い事をするのに年齢の早い遅いなどはない、晩年に始めても遅過ぎるということなどは如何なる対象に対しても、ない、という意を含むものである。年齢の「八十」は「六十」「七十」でも構わないが、現行の日本人の寿命の長さから考えると、「五十」はちょっと不自然で(使う人はいる)、「四十」以下では誤使用の嫌いがある。但し、丘先生の言うように、「手習い」を文字通りの、修得時期が若いほど有効であるとされる母語でない外国の言語の「語学」の意で採ると、自己卑下と実際の習得の困難さから見れば「四十の手習」はアリ、という気は個人的にはする。]

 

 非業の死を免れた個體も適當な時期に達すれば必ず死ぬことが、その種族の維持繼續のために必要であるが、今まで健康なものが即刻死ぬといふことは困難であるから、死ぬにはまづ以て身體に少しづつ變化が起り、變化が積つて遂に死に終るのが常である。尤もこの變化が起り始めてから死までの時の長さは、動物の種類によつて非常に違ひ、短いものは僅に數秒に過ぎず、長いものは二十年もかかる。例へば蜜蜂の雄が死ぬのは交尾の將に終らうとする瞬間で、雌に交接器の根元を食ひ切られ、雌の體から離れて地上に落ちる頃には已に死んで居る。これに反して人間の如きは四十歳か四十五歳以上になると、僅かづつ變化が始まり次第に變化が著しく進んで七十歳位になつて死んでしまふ。かく緩々と變化の進む動物に就いてその變化の模樣を詳細に調べて見ると、身體の諸部に種々の異なつた變化の起ることが知れるが、これに基づいて死の原因に關するさまざまの學説が唱へられた。老衰は身體に一定の變化が起つて終に死の轉歸を取るもの故、昔はこれを以て一種の病氣と見倣したこともあるが、一種の病氣と見倣す以上は何らかの手段によつてこれを治療することが出來る筈と考へ、不老不死の方法の研究に苦心する人もあつた。また老衰を以て一種の慢性中毒と見倣し、もしその毒を消すことが出來たならば老衰は避けられると論じた人もある。一時世間に評判の高かつたメッチニコフの新養生法の如きはその一例であるが、その要點を摘んでいふと、人間の大腸の内には澤山の黴菌が居て、その生ずる毒のために動脈の壁が硬くなり彈力を失ひなどして老衰の現象が起り、それが積つて終に死ぬのである。それ故何らかの方法で腸内の黴菌の繁殖を防ぎさへすれば老衰は避けられる。黴菌の發生を防ぐには乳酸を用ゐるのが最も宜しいが、食物としては牛乳をブルガリヤ菌で乳酸化させたヨーグルトが一番その目的に適うて居る。ヨーグルトさへ食つて居れば老衰する氣遣ひはないとの説で、議論としては實に筒單明瞭なものである。その他老衰は身體内に石灰が溜り過ぎるために起るとか、血管壁の硬化のために起るとか、または内分泌の狀態の變化のために起るとか、さまざまの説があつていづれも有名な醫學者によつて熱心に唱へられて居るが、著者の考によると、これらは皆原因と結果とを轉倒して居るのでゐつて、動脈の硬くなるのも、組織が彈力を失ふのも、石灰分が溜るのも、決して老衰を起す原因ではなく、寧ろ老衰のために生ずる結果と見倣さねばならぬ。前にも遠べた通り、各種動物の壽命はその種族維持のために長過ぎず短過ぎず丁度最も有利な所に定まつて居るが、これは古代から今日までの長い間の種族間の競爭の結果として生じたことでその根抵は各個體を形成する細胞の原形質の深い處に潜んで居るから、原形質までを造り直すことが出來ぬ間は、壽命の長さを隨意に延長したり短縮したりすることは難かしからう。蠶の蛾が産卵後一兩日で死ぬのも、人間が末の子供の生長し終る頃に壽命の盡きるのも、蠶の體の長さが約七六糎を超えず、人間の身長が平均一・六米位に止まるのと同じく、何千萬年かの間に自然に定まつた性質である。そして壽命の盡きたときに急に死ぬ種類では、恰も急性の心臟麻痺か卒中かで死ぬ如くに特に老衰と稱すべき時期がないが、生殖後死ぬまでに手間の取れる動物ではその間に漸々體質が變化して、一歩一歩死に近づいて行くから、老衰の狀態が著しく顯れる。即ち組織の再生力が次第に減じ、古い細胞が多くなれば、各組織の働も鈍くなつて、或は彈力がなくなるとか、硬く脆くなるとか、或は石灰が溜まるとか分泌が十分でなくなるとか、その他なほさまざまの變化が明に見える。廣く生物界を見渡して諸種の異なつた生物を比較することを忘れ、たゞ人間のみを材料として老衰期に起る身體上の變化を調べると、とかく或る一種の變化を以て老衰の唯一の原因と見倣し、それさへ防げば老衰は避け得られるものの如くに思ひ誤る傾がある。著者は或るとき五歳ばかりの幼兒を連れて、散歩の途中に半鐘を指し「あれは何をするものか」と尋ねた所が、「あれを敲くと火事が始まるのでせう」と答へたので大に笑つたことがあるが、動脈の硬化を以て老衰の原因と見倣すことは幾分かこの幼兒の答に似て居るやうに思はれる。前に遠べたメッチニコフの長壽論の如きも、一部づつに離せば恐らく皆正しからう。即ち大腸の内に多くの黴菌が居ることも、乳酸によつて黴菌の發生を止め得ることも、年を取れば動脈壁の硬化することも。皆決して間違ではなからうが、これを繫ぎ合せてヨーグルトさへ食つて居れば老衰が避けられる如くに論ずるのは、最も大事な所で原因と結果とを轉倒して居るから、半鐘さへ敲かねば火事は起らぬ如くに考へるのと同樣な誤に陷つて居るのである。

[やぶちゃん注:現在の細胞遺伝学では真核生物の染色体の末端部にあって、見た目、染色体末端を保護するキャップ状構造の箇所を「テロメア(telomere)」、「末端小粒」と呼んでいる(ギリシャ語の「末端」の意の「telos」+「部分」の意の「meros」の合成語)が、実はこの部分には細胞の分裂回数を制御する働きがあるらしい。体細胞組織から取り出した細胞には分裂回数に一定の制限(「ヘイフリック限界」)があり、それを越えると細胞は増殖を停止し、その状態を生物の「個体老化」に対して「細胞老化」と呼称するようになったが、後の研究によって細胞老化状態にある細胞では、そのテロメア部分が短くなっていることが観察されている。これから、テロメアの長さが細胞の分裂回数を制限していると考えられた。後に不死細胞である癌細胞のテロメアが有意に短いことなどが分かり、テロメアとテロメアの特異的反復配列を伸長させる酵素テロメラーゼ(telomerase)の研究からヒトは遂に不老不死の禁断の領域探究に足を踏み入れてしまった。マッドな科学者の癌への興味は実は最早、制圧されることにあるのではなく、不老不死を手に入れることにあるとも言えるのだと私は思っている。

「蜜蜂の雄が死ぬのは交尾の將に終らうとする瞬間で、雌に交接器の根元を食ひ切られ、雌の體から離れて地上に落ちる頃には已に死んで居る」「四 命を捨てる親」で既注。

「緩々」は「くわんくわん(かんかん)」と音読みも出来、「ゆるゆる」と訓でも読め、孰れも「ゆっくりしたさま」である。「ゆるゆる」と訓じておく。

「メッチニコフ」ロシアの微生物学者で動物学者イリヤ・イリイチ・メチニコフ(Ilya Ilyich MechnikovИлья Ильич Мечников 一八四五年~一九一六年)は、特に白血球の食菌作用の研究で一九〇八年のノーベル生理学・医学賞を受賞した(パウル・エールリヒと共同受賞)ことで知られる。参照したウィキの「イリヤ・メチニコフ」によれば、『ミジンコやナマコの幼生の研究から、それらの動物の体内に、体外から侵入した異物を取り込み、消化する細胞があることを発見した。たとえば、ミジンコの体内に侵入して増殖し、ミジンコを殺してしまう酵母の』一属(菌界子嚢菌門メチニコビア属Metschnikowia)が『いるが、彼は、場合によっては侵入を受けたミジンコが死なず、侵入した胞子がそこへやってきた細胞に取り込まれ、消化されることを発見した。そこで、彼は、この細胞に食細胞と命名し、この細胞の働きが、動物が病気にならないためのしくみ、つまり生体防御のしくみを支えるものだと判断し』、「食細胞学説」を提唱した。白血球などの動物体内で組織間隙を遊走して食作用をもつ細胞の総称である「食細胞」、「phagocyte」(ファーゴサイト)『(ギリシア語のphagein=「食べる」とkytoscell「細胞」から)や』、白血球の一種であり、生体内をアメーバ様運動する遊走性の食細胞で特に外傷や炎症の際に活発に機能する「macrophage」(マクロファージ)『はメチニコフに由来する』。『当時、免疫は専ら血清中の液性因子(抗体や補体)によるもの(=液性免疫)だけと考えられていたが、メチニコフの提唱した学説はこれとは異なる、血球細胞による免疫機構(=細胞性免疫)の存在を支持するものであった』。『また晩年には老化の原因に関する研究から、大腸内の細菌が作り出す腐敗物質こそが老化の原因であるとする自家中毒説を提唱した。ブルガリア旅行中の見聞からヨーグルトが長寿に有用であるという説を唱え、ヨーロッパにヨーグルトが普及するきっかけを作ったことでも知られる(ブルガリアのヨーグルトも参照)。自身もヨーグルトを大量に摂取し、大腸を乳酸菌で満たして老化の原因である大腸菌を駆逐しようと努めた』。『彼は食細胞の働きを生体防御の働きと見て、そのために液性免疫の役割を否定した。そのために、従来の研究者たちと対立し、激しい論争が行われたと伝えられる。ちなみに、この』二つの『働きの関係は、最近まで明らかにならなかった。近年まで、教科書には生体防御と言えば、白血球によるものと体液性免疫によるものが、ほとんど無関係に、並列的に記述されていた。この両者が密接に関係を持って一つの生体防御のしくみをなしていることがわかったのは、個々のリンパ球の働きなどが明らかになってからのことである』。『彼は死の寸前に、ヨーグルトを食べたことの結果が自分の体にどのように現れたかを調べるよう、友人に依頼したといわれる。「腸のあたりだと思うんだ」が最後の言葉であったと伝えられる。現在ではヨーグルトを経口で摂取しても、胃において乳酸菌は、ほとんど死滅し、腸には到達しない事が判明している(ただし死滅した加熱死菌体も疾病予防効果などを有するので、健康上の効果は存在する)』。更に若き日の私の愛読書であったレフ・『トルストイの小説「イワン・イリイッチの死」のモデルとされる司法官は彼の長兄』であるとある。

「蠶の體の長さが約七六糎を超えず」実は底本では「糎」(センチメートル)ではなく、「粍」(ミリメートル)となっているが、人間が家畜として改良した(品種としては凡そ四百種がいるが、カイコガには野生種はいない)鱗翅(チョウ)目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori の蚕(かいこ)の幼虫の大きさとしては明らかにおかしい。講談社学術文庫版では『蚕(かいこ)の体の長さが約二寸(すん)五分(ぶ)(約七・五センチメートル)』となっているので(括弧内は文庫版編者に拠る割注。正確には七センチ五十七・五七五七ミリメートル)。誤字と断じて、特異的に本文を訂した。調べてみると、

孵化した直後のカイコガの幼虫は二~三ミリメートル

で「蟻蚕(ぎさん)」とも呼び、これが

一齢幼虫として五ミリメートル強(約三日間)

となり、その後、

二齢で八ミリメートル~一センチメートル強

となって休眠し、脱皮(約三日間)

を行い、その後

三齢で一・四センチメートルから二・五センチメートル弱(約四日間)

となって

四齢で二・五センチメートル強から一気に四・五センチメートルを越え(約六日間)

て、最終齢の、

五齢では五・五センチメートルから一度八・五センチメートルをも越える(約八日間)

ものの、

熟蚕(じゅくさん:摂餌をしなくなり、少し小さくなる。糸を吐き始める直前の状態。約二日)になると七センチメートル弱

になる。七センチメートル越えするのは五齢幼虫の後期の僅か数日だけのことで、熟蚕は七センチメートル以下に縮んでしまうから丘先生の謂いは間違っていない。以上は「財団法人 大日本蚕糸会」の公式サイト「カイコからのおくりもの」のカイ育てよう」にある幼虫の各齢でのスケールを視認して測ったものである。

「人間の身長が平均一・六米位に止まる」ヒト(Homo sapiens Linnaeus, 1758)全体の現在の平均身長はで百六十五センチメートルほどで、はそれよりおよそ百五十三・四五センチメートル。]

 

 各種生物の寿命はほゞその種族の維持繼續に最も有利な長さに定まつてあるとすれば、これを更に延すことに努力する必要はない。隨つて壽命を延し得るとの學説を聞いてこれを歡迎することは大きな間違である。まだ壽命の終らぬ年齡の者が非業の死を遂げることは出來るだけ避ける工夫を廻らさねばならぬが、既に壽命を全うした者がその後なほ長く生きて居ることは種族のために損はあつても益はないから、決して願はしいことでない。種族發展の上からいへば、今日必要なことは、已に老いたる老人の命を更に長く延すことではなく、他種族との競爭場裡に立つて勝つ見込みのある有望な後繼者を造るにある。六十歳で已に老耄する人もあれば八十歳になつても矍鑠たる人もあるから、一概には論ぜられぬが、自然の壽命を超えれば身體も精神も著しく衰へるのが常であつて、到底一人前の働は出來ぬ。書畫などにも年齡の書いてあるのは子供か老人に限り、八歳童とか七十八翁などと記してあるが、三十歳・四十歳の人に年齡を書く者は決してない。即ち老人は子供と同じく年に似合はぬ所を誇る積りであらうが、これが已に老耄して居る證據である。人間は頗る大きな團體を造つて生活するから、その中に老耄者が多少混じて居ても、そのために不利益を蒙ることが明に見えぬが、他の動物では種族の生存上かゝることは決して許されぬ。されば一般に通じていへば種族の維持發展の上には、各個體がその死ぬべき適當の時期に必ず死ぬといふことが最も必要である。

[やぶちゃん注:この子どもと老人の年齢揮毫の観点、考えてみたこともなかったが、目から鱗!]

生物學講話 丘淺次郞 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命

 

     三 壽 命

 非業の死を免れたものはいつまで生きるかといふに、その期限は種類每にそれぞれほゞ定まつて居る。これを壽命と名づける。卽ち各種生物の生まれてから食つて產んで死ぬまでの年數を指すのであるが、身體の大きなものは生長に手間がかかるから、身體の小さなものよりも自然壽命が長い。例へば象や鯨は鼠・「モルモット」に比べると遙に長命である。しかし壽命は必ずしも身體の大きさと比例するものではない。犬は二十年で老衰するが、犬よりも小さな鳥は百年以上も生きる。馬は三四十年で死ぬが、「ひき蛙」は五十年餘も生きて居る。しからば壽命なるものは何によつて定まるかといふに、如何なる動物でも、子二孫を遺す見込みの立たぬ前に死んではその種族が忽ち斷絕するは知れたこと故、必ず若干の子を產むに足るだけの壽命がなければならず、そして極めて多數の子を產めば、そのまゝ親が死んでも種族の繼續する見込みが確に立つが、稍々少數の子を產むものはこれを保護・養育して競爭場裡に安心して手放せるやうに仕上げてからでなければ親は死なれぬ。實際動物各種の壽命を調べて見ると、皆この說に定まつて居る。

[やぶちゃん注:「小さな鳥は百年以上」セキセイインコで七年、九官鳥で十五年、こちらの記載に動物学者によれば、鳥綱スズメ目スズメ亜目カラス科カラス属 Corvus  のカラス類の寿命は十年から三十年であるが、人に飼育されていたカラス属クマルガラス Corvus dauuricus が六十年も生きていたという記録もあるとある(私がカラスを出したのは、実は、学術文庫版では、ここは『烏(からす)』となっているからである。底本は確かに「鳥」(とり)であって「烏」ではないことを断わっておく)。また、オウムに至っては、百年以上生きた例もあるとするから、丘先生の「百年以上」も強ち大袈裟とは言えない。因みに多くの個別動物の寿命を纏めたものはインターネット動物園「動物図鑑」の「動物の寿命」がよい。因みに、丘先生の挙げた生物は現在の推定知見では(複数のネット情報を比較勘案した)、

「象」は自然状態で五十から七十年(飼育下で五十~八十年)。

「鯨」は種によっては約二百十一年。短命の種でも百三十五年から百七十五年。

「鼠」大型種で約三年。二十日鼠で一年から一年半。

「モルモット」齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科テンジクネズミ科テンジクネズミ属モルモット Cavia porcellus は凡そ五から八年。

「犬」十二年から十五年。私の先代のアリスは十六年と一ヶ月生きた。

「馬」二十五から三十年で、四十年生きればとても長寿とされる。

「ひき蛙」自然環境下で条件さえ良ければ十五年以上、飼育下の両生綱無尾目カエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ヨーロッパヒキガエル Bufo bufoで最長三十六年の記録がある。

とある(丘先生の「五十年餘」は自来也の類いの伝承物か?)。但し、「ゾウの時間 ネズミの時間」で知られる私の敬愛する生物学者本川達雄氏(現在、東京工業大学理学部生物学教室教授)によれば、代謝(特に心拍の周期(心周期)。ヒトは凡そ一秒、ネズミは〇・二秒ネコは〇・三秒、ウマは二秒、ゾウは三秒)から各生物体の生体内の時間は体重の四分の一乗に比例し、例えば体重が二倍になると、時間が一・二倍長くゆっくりとなる(例えば三十グラムのハツカネズミと三トンのゾウでは体重が十万倍異なるから個体生体内時間のスケールは十八倍も異なることになり、ゾウはネズミに比べて時間が十八倍緩やかに経過するという比較になる。本川先生よれば(例えばこちらのインタビュー記事を参照されたい)哺乳類の場合、各種の動物の寿命を心周期で割ってみると、単純計算で十五億回打って心臓は停止するとされ、心周期に限った生物学的なヒト本来の寿命は二十六・三年だそうである。……あなたの二十六歳の時を思い出し給え。……その時何をしていたかを。それが君の本来の生物学的死の時であったのだ。私は最初に担任を持って修学旅行に引率した年だった…… 

 

 生物の壽命に就いては昔から種々の說が唱へられ、その中には隨分廣く俗間に知られて居るものがある。一例を擧げると、如何なる動物でもその壽命は生長に要する年月の五倍に定まつて居るといふ說があるが、これには少しも據り所はない。身體の大きくなることが止まり、生殖の器官が十分に成熟したときを通常生長の終つたときと見倣すが二三の最も普通な動物に就いてその壽命とこの期限とを比較して見たら、直にかゝる說の取るに足らぬことが知れる。例へば蠶は發育を始めてから約一箇月で生長し終つて卵を產むが、その後四箇月生きるかといふと僅に四日も生きては居ない。「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長するが、翅が生えて飛び出せば僅に數時間で悉く死んでしまうて、決して十年の壽命は保たぬ。アメリカの有名な「十七年蟬」の如きは、幼蟲は十七年もかかつて地中で生長し、成蟲となつて卵を產めば數日で死ぬが、これなどは五倍說に隨へば八十五歳まで生きねばならぬ筈である。また他の類から例を取つて見るに、鶴は二年で生長し終るが、その壽命は十年と限らず、よく百年以上も生きる。「からす」の如きも雛は數箇月で生長し終るが、壽命はやはり百年に達する。總じて鳥類は甚だ命の良いもので、生長期限の何十倍にも當るのが常である。また魚類の如きは卵を產むやうになつてから後も引き續いて身體が大きくなるから、生長の終をいつと定めることが出來ぬ。かやうな次第で種々の動物から實際の例を擧げて比べて見ると、生長に要する年數と壽命の年數との割合は種類によつてそれぞれ違ふもので、決して一定の率を以ていひ表し得べき性質のものでないことが明である。たゞいづれの場合にも種族繼續の見込みのほゞ確に附いた頃に親の命が終ることだけは例外のない規則のやうに見える。前の例に就いて見ても、蠶は各々の雌蛾が數百粒の卵を產んで置きさへすれば、後は捨てて置いても蠶の種族の絕える虞はないと見込んだ如くに、殆ど產卵が濟むと同時に壽命が盡きる。これに反して鳥類は槪して運動が敏活であり、隨つて滋養分を多量に要するが、每日食つた食物の中から自身を養ふべき滋養分を引き去つた、殘りの滋養分だけが溜つて卵を造る材料となるのであるから、餘程食物が潤澤になければ卵を多く產むことは出來ぬ。しかも鳥類の卵はすべての動物の中で最も滋養分を含んだ最も大きな卵でゐるから、これを數多く產むことは到底望まれぬ。雛の如く人に飼はれて常に豐富に餌を食ふものは一年に百以上も卵を產むが、野生の鳥類は食物の十分にあるときもあれば、食物の甚しく缺乏するときもあり、且競爭者もあること故、平均しては決して豐富とはいはれぬ。それ故鳥類が一年に產む卵の數は極めて少いのが通常であつて、十個も產めば頗る多產の方である。大きな鳥は大抵一年に一個もしくは二個の卵より產まぬ。その上鳥類の卵は頗る壞れ易いもので、雛が孵化する前に何かの怪我で破損する場合も決して少くはなからう。されば鳥類は餘程の長命でなければ種族維持の見込みが立たぬ。一年に卵を一つより產まねば、百年かかつても僅に百個產むに過ぎず、これを如何に大事に保護養育しても非業の死を遂げるものが相應にあるから、命は長くても決して必要以上に長いわけではない。他の動物に比べて鳥類の壽命が特に長いのは、恐らくかやうな事情が存するからであらう。

[やぶちゃん注:『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』蜉蝣(カゲロウ)については本テクストに限らず、今まで散々に注して来たが、以前のものには、どれも、やや不満足な部分があるので、ここに決定版の注を記すこととする。「かげろふ(かげろう)」即ち、真正のカゲロウ類は、生物学的には、

昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera

に属する昆虫類のみの総称である。昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。本邦産の種群の代表例は以下。

トビイロカゲロウ科Leptophlebiidae(四属九種)

 トビイロカゲロウ属トビイロカゲロウParaleptophlebia spinosa

カワカゲロウ科Potamanthidae(一属二種)

 カワカゲロウ属キイロカワカゲロウ Potamanthus formosus

 カワカゲロウ属オオカワカゲロウ Potamanthus fuoshanensis

モンカゲロウ科Ephemeridae(一属四種)

 モンカゲロウ属モンカゲロウ Ephemera strigata

 モンカゲロウ属フタスジモンカゲロウEphemera japonica 

シロイロカゲロウ科Polymitarcyidae(一属三種)

 シロイロカゲロウ属オオシロカゲロウEphoron shigae 

ヒメシロカゲロウ科Caenidae(二属三種以上。最も分類が遅滞している科)

 ヒメシロカゲロウ属 Caenis

 ミツトゲヒメシロカゲロウ属 Brachycercus

マダラカゲロウ科Ephemerellidae(六属二十三種以上)

 アカマタラカゲロウ属アカマダラカゲロウ Uracanthella punctisetae

 トゲマダラカゲロウ属オオマダラカゲロウ Drunella basalis

 トウヨウマダラカゲロウ属クロマダラカゲロウCincticostella nigna 

ヒメフタオカゲロウ科Ameletidae(一属六種)

 ヒメフタオカゲロウ属ヒメフタオカゲロウ Ameletus montanus 

コカゲロウ科Baetidae(十一属三十九種以上)

 コカゲロウ属フタバカゲロウ Baetiella japonica

 コカゲロウ属シロハラコカゲロウ Baetiella thermicus 

ガガンボカゲロウ科Dipteromimidae(一属二種)

 ガガンボカゲロウ属ガガンボカゲロウDipteromimus tipuliformis

 ガガンボカゲロウ属キイロガガンボカゲロウ Dipterominus flavipterus

フタオカゲロウ科Siphlonuridae(一属四種)

 フタオカゲロウ属オオフタオカゲロウ Siphlonurus binotatus 

チラカゲロウ科Isonychiidae(一属三種)

 チラカゲロウ属チラカゲロウIsonychia japonica

ヒトリガカゲロウ科Oligoneuridae(一属一種)

 ヒトリガカゲロウ属ヒトリガカゲロウOligoneuriella rhenana

ヒラタカゲロウ科Ecdyonuridae(八属四十二種以上)

 ヒラタカゲロウ属ウエノヒラタカゲロウ Epeorus curvatulus

 ヒラタカゲロウ属ナミヒラタカゲロウ Epeorus ikanonis

 ヒラタカゲロウ属エルモンヒラタカゲロウ Epeorus latifolium

 タニガワカゲロウ属クロタニガワカゲロウ Ecdyonurus tobiironis

 タニガワカゲロウ属シロタニガワカゲロウ Ecdyonurus yoshidae

 ヒメヒラタカゲロウ属サツキヒメヒラタカゲロウ Rhithrogena tetrapunctigera 

幼虫はすべて水生である。不完全変態であるが、幼虫亜成虫成虫という「半変態」と呼ばれる特殊な変態を行う。成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。主に参照したウィキの「カゲロウによれば(この記載は優れて博物学的である。但し、上記の種群は同ウィキには必ずしも従っていない)、目の学名エフェメロプテラは、ギリシャ語で「カゲロウ」を指す「ephemera」(ラテン文字転写。以下同じ)と、「翅」を指す「pteron」からなるが、この「ephemera」の原義は epi」(on)+「hemera」(day:その日一日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する(ギリシャ語で「ephemera」(エフェメラ)は、チラシやパンフレットのような一時的な筆記物及び印刷物で、長期的に使われたり保存されることを意図していないものを指す語としても用いられるが、これも、やはり、その日だけの一時的なものであることによる)。和名の「カゲロウ」については、『空気が揺らめいてぼんやりと見える「陽炎(かぎろひ)」に由来するとも言われ、この昆虫の飛ぶ様子からとも、成虫の命のはかなさからとも言われるが、真の理由は定かでない。なお江戸時代以前の日本における「蜉蝣」は、現代ではトンボ類を指す「蜻蛉」と同義に使われたり、混同されたりしているため、古文献におけるカゲロウ、蜉蝣、蜻蛉などが実際に何を指しているのかは必ずしも明確でない場合も多い』。『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である。一方、平安時代に書かれた藤原道綱母の『蜻蛉日記』の題名は、「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という中の一文より採られているが、この場合の「蜻蛉」ははかなさの象徴であることから、カゲロウ目の昆虫を指しているように考えられる』。『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』とある。

 さてここからが肝心。

 この最後の『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』の部分を補注すると、

クサカゲロウは有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae

に属し、「クサカゲロウ」は「カゲロウ」と名にし負うものの、カゲロウ目とは極めて縁が遠いのである。附言しておくと、クサカゲロウの幼虫『は柔らかな腹部と、小さな頭部に細く鎌状に発達した大顎を持つ。足は三対の胸脚のみで、全体としてはアリジゴクをやや細長くしたような姿である。すべて肉食性で、アブラムシやハダニなどの小動物を捕食するためアリマキジゴクと呼ばれる。この食性から農業害虫の天敵としても利用されている。種によっては、幼虫は背面に鉤状の毛を持ち、そこに様々な植物片や捕食した昆虫の死骸などを引っ掛け、背負う行動を取る』。彼ら幼生は陸生で、水中には棲まない因みに、クサカゲロウ類の卵は長い卵柄を持ったもので、一単体で産む種も多いが、中に卵柄を紙縒(こより)状に絡ませた卵塊状で産みつける種がおり、この卵を俗に「憂曇華・優曇華(うどんげ)」と呼ぶが、これは「法華経」に出る、三千年に一度、如来の降臨とともに咲くとされる伝説上の花である。確かに妖しく美しい。以上はウィキの「クサカゲロウ」に拠った。短命な種もいるようだが、クサカゲロウの種の中には摂餌もし、成虫で越冬する種もいるので、凡そ短命の代表とは言えないと私は思う(下線やぶちゃん)。

 次に「ウスバカゲロウ」である。

ウスバカゲロウは脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae

に属し、「クサカゲロウ」と同様に「ウスバカゲロウ」とやはり「カゲロウ」と名にし負うものの、カゲロウ目とは極めて同じく縁が遠い。附言しておくと、ウスバカゲロウ類は、ウィキの「ウスバカゲロウ」によれば、所謂、『「アリジゴク」の成虫の名として有名であるが、本科全ての種の幼虫がアリジゴクを経ているわけではな』く、アリジゴク(蟻地獄)の幼生期を過ごす種は一部である。アリジゴクは『軒下等の風雨を避けられるさらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住み、迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として捕らえることで有名である。捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸い取る。この吐き戻し液は獲物に対して毒性を示し、しかも獲物は昆虫病原菌に感染したかのように黒変して致死する。その毒物質は、アリジゴクと共生関係にあるエンテロバクター・アエロゲネス』(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属ンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes )『などに由来する。生きているアリジゴクのそ嚢に多数の昆虫病原菌が共生しており、殺虫活性はフグ毒のテトロドトキシンの』百三十倍とされる(この事実を知る人はあまり多いとは思われないので特に注しておく)。『吸い取った後の抜け殻は、再び大あごを使って』、『すり鉢の外に放り投げる。アリジゴクは、後ろにしか進めないが、初齢幼虫の頃は前進して自ら餌を捉える。また、アリジゴクは肛門を閉ざして糞をせず、成虫になる羽化時に幼虫の間に溜まった糞をする。幼虫は蛹になるとき土中に丸い繭をつくる。羽化後は幼虫時と同様に肉食の食性を示す』。『かつてはウスバカゲロウ類の成虫は水だけを摂取して生きるという説が存在したが』、ウスバカゲロウ科オオウスバカゲロウ属オオウスバカゲロウ Heoclisis japonica)『など一部の種では肉食の食性が判明している』。『成虫も幼虫時と同じく、消化液の注入により体組織を分解する能力を備えている。ウスバカゲロウの成虫はカゲロウの成虫ほど短命ではなく、羽化後』二~三週間は生きるとある(以上、下線やぶちゃん)。

 即ち、

クサカゲロウもウスバカゲロウも真正の「カゲロウ」類に形状は似ているものの、全く異なった種である

ので注意されたい。何故わざわざこんな注を附すかといえば、かの私の偏愛する、鋭い観察力に富んだ優れた作家梶井基次郎でさえも、この生物学上の致命的な誤りを犯しているから、である。かの名作「櫻の樹の下には」の中で(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

 二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を傳ひ步きしてゐた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげらふがアフロデイツトのやうに生れて來て、溪の空をめがけて舞ひ上がつてゆくのが見えた。お前も知つてゐるとほり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。暫く步いてゐると、俺は變なものに出喰はした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を殘してゐる、その水のなかだつた。思ひがけない石油を流したやうな光彩が、一面に浮いてゐるのだ。お前はそれを何だつたと思ふ。それは何萬匹とも數の知れない、薄羽かげらふの屍體だつたのだ。隙間なく水の面を被つてゐる、彼等のかさなりあつた翅が、光にちぢれて油のやうな光彩を流してゐるのだ。そこが、產卵を終つた彼等の墓場だつたのだ。

 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるやうな氣がした。墓場を發いて屍體を嗜む變質者のやうな慘忍なよろこびを俺は味はつた。

   *

と記すが、これも実は『薄羽かげらふ』(ウスバカゲロウ)は誤りで、真の「カゲロウ」類であることが、梶井の描写そのものによってお分かり戴けるものと思う

「十七年蟬」「周期蟬(しゅうきぜみ)」と呼ばれる半翅(カメムシ)目セミ科 Magicicada 属に属する以下の三種を「ジュウシチネンゼミ(十七年蟬)」と総称する。

ヒメジュウシチネンゼミ Magicicada cassini

ジュウシチネンゼミ Magicicada septendecim

コジュウシチネンゼミ Magicicada septendecula

因みに、「ジュウサンネンゼミ(十三年蟬)」は以下の四種(和名は確認出来なかった)。

Magicicada neotredecim

Magicicada tredecim

Magicicada tredecassini

Magicicada tredecula

因みに、属名の「マジックシカダ」とは「魔法の蟬」の意。ウィキの「周期ゼミ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、毎世代、『正確に十七年または十三年で成虫になり大量発生するセミである。その間の年にはその地方では全く発生しない。ほぼ毎年どこかでは発生しているものの、全米のどこでも周期ゼミが発生しない年もある。周期年数が素数であることから素数ゼミともいう』。『十七年周期の十七年ゼミが三種、十三年周期の十三年ゼミが四種いる。なお、十七年ゼミと十三年ゼミが共に生息する地方はほとんどない』。『北アメリカ東部。セミの仲間は世界中に分布しているが、この周期ゼミという現象が確認できるのは、世界の中でも北アメリカのみである』。『十七年ゼミは北部、十三年ゼミは南部に生息する』。『なお、北アメリカには周期ゼミしかいないわけではなく、周期ゼミ以外のセミも百種以上生息する』。『周期ゼミは、発生する年により年次集団に分けられる。理論上、十七年ゼミには十七、十三年ゼミには十三、計三十の年次集団が存在しうる。十七年ゼミの年次集団にはI - XVII1 - 17)、十三年ゼミの年次集団にはXVIII - XXX18 - 30)の通し番号が付いている』。『ただし、実際にある年次は三十の半数の十五である。したがって、全米のどこでも周期ゼミが発生しない年もある』。『年次集団は種によってはほとんど分かれていない。年次集団XVII M. septendecim のみからなる以外は、年次集団は複数の種からなり、多くは同じ周期の全ての種からなる』。なお、『これらは全米での話で、各々の地方には一つの年次集団しか生息していない。つまり、ある地方での周期ゼミの発生は十七年に一度または十三年に一度である』。『周期的発生および素数年発生の適応的意義を最初に指摘したのはロイドとダイバス(Lloyd and Dybas,1966,1974)である。彼らは素数年での同時発生は、捕食者が同期して発生する可能性を抑えられるためではないかと指摘した。十三年と十七年の最小公倍数は二百二十一年であり、同時発生は例えば四年と八年に比べて頻度が小さくなる。それぞれの大量発生についてはいわゆる希釈効果で説明できる。まとまって発生することで個体が捕食される可能性を低下させることができる。かつては種の保存のためと説明されたが、現在では個体の生存に有利であるためと考えるのが一般的である』。『それとは別に、吉村仁は氷河期と成長速度を関連付けて説明した。他の周期をもつ種と交雑するとその周期が乱れるため、同じ周期を維持できなくなる。したがって交雑種は大量発生年からずれて発生するようになり、希釈効果を受けられなくなるか、配偶相手を見つけにくくなる(ウォレス効果あるいは正の頻度依存選択による分断性選択)。そのため、もっとも他の周期と重なりにくい素数周期のセミが生き残った、と主張している』。イロコイ連邦(Iroquois Confederacy或いは Haudenosaunee(ロングハウスを建てる人々の意)とも称し、北アメリカ・ニューヨーク州北部のオンタリオ湖南岸とカナダに跨って保留地(居留地)を領有する六つのインディアン部族により構成される部族国家集団。アメリカの独立戦争に際しては英国側に与して戦ったが一七七九年に破れて、一七九四年にアメリカ合衆国連邦政府と平和友好条約を結んだ。アメリカ合衆国国務省のパスポートを認めず、鷲の羽根を使った独自のパスポートを発行、同パスポートの使用はいくつかの国家により認められている。日本国政府は二〇〇五年に宗教史協会の集まりでイロコイ連邦代表団が来日した際に、このパスポートを承認している。国連も認める独立自治領であり、独立した国家として、連邦捜査局(FBI)などアメリカ合衆国連邦政府の捜査権も及ばない、とウィキの「イロコイ連邦にはある)の『インディアン部族のひとつ、「オノンダーガ族」は「十七年ゼミ」を伝統食としている。朝早く、まだ地上に出てきたばかりで空腹状態のこのセミを紙袋に集め、フライパンでバター炒めにする。蓋をして炒ると、ポップコーンのように弾けるので、これを皿に盛って食べる』とある。

「鶴は二年で生長し終るが、その壽命は十年と限らず、よく百年以上も生きる」ウィキの「ツルによれば、実際の寿命は動物園での飼育の場合であっても五十年からせいぜい八十年程度で、野生では三十年位と推定されているとある。この記載、丘先生、ちょっと非生物学的でごぜえやす。

『「からす」の如きも雛は數箇月で生長し終るが、壽命はやはり百年に達する』ここを読むと、前の百年以上『鳥』が生きるとした箇所は、学術文庫版通り、やっぱり『烏』なのかなぁ?] 

 

 要するに動物の壽命は種族繼續の見込みのほゞ立つた頃を限りとしたもので、そのためには若干數の子を產み終るまで生きねばならぬことはいふまでもない。そして子の總數を一度に產んでしまふ種類もあれば、何度にも分けて產む種類もあり、分けて產むものでは最後の子を產むまで壽命は續かねばならぬ。また子を產み放しにする動物では、最後の子を產み終ると同時に親の壽命が終つても差支はないが、子を保護し養育する種類では、最後の子を產んだ後になほこれを保護養育する間壽命が延びる必要がある。卽ち最後の子を產んだ後親の壽命は、丁度子が親の保護養育を受ける必要のある長さと相均しかるべき筈である。以上述べた所は無論大體に就いての理窟で、一個一個の場合にはこの通りになつて居ないこともあらうが、多數を平均して考へるといづれの種類にもよく當て嵌つて決して例外はない。人間の如きも「人生七十古來稀なり」というて、まづ七十歲乃至七十五歲位が壽命の際限であるが、これは二十五年かかつて生長し、五十歲まで生長し、五十歲まで生殖し續けるものとすると、最後の子が徴兵檢査を受けるか大學を卒業する頃に親の壽命が盡きる勘定で、こゝに述べた所と全く一致する。人間の壽命も他の動物の壽命と同じく、一定の理法に隨つて、何千萬年の昔から今日までの間に自然に種族維持に最も有利な邊に定まつたのと考へると、特殊の藥品や健康法を工夫してこれを延長せんと努力することは、賢い業か否か大に疑はざるを得ない。

[やぶちゃん注:「人生七十古來稀なり」杜甫の七言律詩「曲江」より。七五八年、安禄山の乱が平定されたこの頃、杜甫は長安で左拾遺(さしゅうい)の官に就いていたが、敗戦の責任を問われた宰相房琯(ぼうかん)の弁護をして粛宗の怒りに触れ、曲江に通っては酒に憂さをはらしていた四十七歳の頃の作。

   *

   曲江

 朝囘日日典春衣

 每日江頭盡醉歸

 酒債尋常行處有

 人生七十古來稀

 穿花蛺蝶深深見

 點水蜻蜓款款飛

 傳語風光共流轉

 暫時相賞莫相違

  朝(てう)より回(かへ)りて 日日春衣(しゆんい)を典(てん)し

  每日 江頭(かうとう)に醉(ゑ)ひを盡くして歸る

  酒債(しゆさい)は尋常 行く處に有り

  人生七十 古來稀なり

  花を穿(うが)つ蛺蝶(けふてふ)は深深(しんしん)として見え

  水に點ずる蜻蜓(せいてい)は款款(くわんくわん)として飛ぶ

  傳語(でんご)す 風光 共に流轉して

  暫時相ひ賞して 相ひ違(たが)ふこと莫(なか)れと

   *

以下、「・」で詩の簡単な語注を附す。

・「曲江」漢の武帝が長安城の東南隅に作った池。水流が「之(し)」の字形に曲折していたため、かく名づけられた。当時は長安最大の行楽地であった(埋め立てられて現存しない)。

・「朝囘」朝廷から帰参する。

・「典」質に入れる。

・「酒債」酒代の借金。

・「蛺蝶」揚羽蝶(アゲハチョウ)。又は蝶の仲間の総称。

・「蜻蜓」蜻蛉。トンボ。

・「款款」緩緩に同じい。ゆるやかなさま。

・「穿花」花の間を縫うように飛ぶ。一説に、蝶が蜜を吸うために花の中に入り込むことともいう。

・「點水」水面に尾をつける。トンボが産卵のために水面に尾をちょんちょんとつけるさま。

・「傳語」言伝(ことづ)てする。

「徴兵檢査を受ける」敗戦前の日本帝国に於いて、満二十歳(昭和一八(一九四三)年からは満十九歳)になった男子は徴兵令(明治二二(一八八九)年一月二十二日法律第一号.国民の兵役義務を定めた日本の法令。明治六(一八七三)年に陸軍省から発布された後に太政官布告によって何度か改定が繰り返されたが、この明治二十二年に法律として全部改正、その後の昭和二(一九二七)年の全改正の際に法令標題も「兵役法」に変更された。敗戦後の昭和二〇(一九四五)年に廃止)によって徴兵検査を受ける義務があった。以下、ウィキの「兵(日本軍)によれば、当時の徴兵検査は海軍で徴兵する者も陸軍が一括して行っていた。海軍で徴兵する者を除いた者が下記の区分に従って徴兵された。徴兵検査は四月十六日から七月三日にかけて全国的に行われ、『検査を受ける者は、褌ひとつになって身体計測や内科検診を受けた。軍隊の嫌う疾病は、伝染性の結核と性病(集団生活に不都合。性病が発見されると成績が大きく下がり、その連隊にいる限りまず絶対に一等兵以上に進級しなかった』)『で、また軍務に支障ありとされる身体不具合は、偏平足・心臓疾患(長距離行軍が不能のため)・近視乱視(射撃不能のため・諸動作・乗馬に不都合)であった。X線検査などはなく、単に軍医の問診・聴診・触診や動作をさせての観察など簡単な方法にて診断が行われた。また褌をはずさせて軍医が性器を強く握り性病罹患を確かめる、いわゆるM検、さらに後ろ向きに手をつかせ、肛門を視認する痔疾検査も検査項目として規定され、全員に実施された。航空機搭乗者・聴音などの特殊兵種の少年志願兵の検査には、より入念な方法が実施された』。『検査が終わると、次の』五種に『分類された』。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部を太字化し、半角空隙を全角に変更した。]

甲種 身体が特に頑健であり、体格が標準的な者。現役として(下記の兵役期間を参照)入隊検査後に即時入営した。甲種合格者の人数が多いときは、抽選により入営者を選んだ。

乙種 身体が普通に健康である者。補充兵役(第一または第二)に(同)組み込まれ、甲種合格の人員が不足した場合に、志願または抽選により現役として入営した。

丙種 体格、健康状態ともに劣る者。国民兵役に(同)編入。入隊検査後に一旦は帰宅できる。

丁種 現在でいう身体障碍者。兵役に適さないとして、兵役は免除された。

戊種 病気療養者や病み上がりなどの理由で兵役に適しているか判断の難しい者。翌年再検査を行った。

   《引用終了》

「大學を卒業する頃」旧学制では問題なく進級しても、満二十三から二十五歳であったが、実際には中学や大学での落第による留年、自主的に留年や結核などの病気療養のために休学をする者も多く、その他の理由(兵役忌避など)も合わせ、戦前は二十六、七歳での卒業者もざらにいた(例えば夏目漱石の東京帝国大学卒業は満二十六である)。]

2016/02/27

本日休業

本日は雛祭にて妻のお友達のおなご衆のぎょうさん来はるによって店仕舞い致します――心朽窩主人

2016/02/26

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(3) 二 非業の死

      二 非業の死

 

 非業の死といふ文字は新聞紙などで屢々見掛けるが、これは何か不意の出來事のために命を取られることで、人間の社會では寧ろ數の少い例外の如くに見倣されて居る。即ち人間は慢性の病氣にでも罹つて死ぬのが自然の死にやうで、強盜に殺されるとか、汽車に轢かれるとかいふのは。もしその事がなかつたならば、なほ生存し續け得や筈の所を自然に反して無理に命を奪はれたのでゐるから、これを非業と名づけるのであらう。尤も非業といふ中にも種々の程度があつて、死にやうが劇烈でない場合は、事實非業であつても通常これを非業とは名づけぬ。例へば何か事業に失敗して心痛の餘り病氣となり、入院して死んだとすればこれまた非業の死といふべき筈であるが、この位では世人は非業の死とは見倣してくれぬ。もしかやうな場合までを非業の方へ算へ込めば、人間の非業の死の數は餘程殖えるが、それでもまた決して大多數とはならぬ。しかし他の動物では如何と見ると、これはまるで趣が違ふ。

 

 前に幾度も遠べた通り、多くの動物は無數の卵を産み放すが、これから孵つた兒は殆ど悉く非業の死を遂げる。魚類は數十萬の卵を産み、「うに」・「なまこ」・「ごかい」・「はまぐり」などは數百萬の卵を産むが、大概は發生の途中に命を失つて、生長し終るまで生存し得るものは極めて少數に過ぎぬ。産む子は多くてもこを常食とする敵動物が待ち構へて居るから、多數はその餌となつてしまふ。その他風雨のために吹き流されて死ぬものもあり、怒濤のために岩に打ち附けられ濱に打ち上げられて死ぬものもあり、旱魃のために干枯らびて死ぬものもあれば、洪水のために溺れて死ぬものもあらう。また同僚との競爭に敗けて餌を求め得ずして餓ゑて死ぬものや、仲間同志の共食ひで食ひ殺されるものもあらう。とにかく何らかの方法で發生の中途に命を失ふものが非常に多數を占め、生長し終るまで生き殘るのは平均十萬疋中の二疋、百萬疋中の二疋に過ぎぬ。即ち十萬疋の中の九萬九千九百九十八疋、百萬疋の中の九十九萬九千九百九十八疋は悉く非業の死を遂げるのである。

 

 子を産み放しにする動物では、かくの如く非業の死を遂げるものの數が極めて多いが、子を世話する種類では保護養育の程度の進むと共に、非業の死を遂げる子供の割合が次第に減ずる。同じ魚類でも巣を造つて卵を保護する「とげうを」や、雄の腹の嚢に卵を入。れる「たつのおとしご」では、非業の死を遂げるものの數は餘程少くなくり、蛙の中でも背に子を負ふ種類、背の囊に卵を入れる種類では、非業の死を遂げるものは更に少い。これらの動物は皆子を産む數が少いから、もしも普通の魚類や「ごかい」・「はまぐり」などに於けると同じ割合日に、多數の子が死んだならば忽ち種族が斷絶する虞がある。人間は最も少く子を産み、最も長くこれを保護養育するもの故、發達の途中に命を失ふものの數は他の動物に比すると遙に少く、且その中特に悲慘な死にやうをしたものでなければ非業と名づけぬから、それで非業の死が稀な例外の如くに見えるである。

 

 動物に非業の死の多いことは何を見ても直に知れる。魚市場や肴屋・料理屋の店にある魚類は悉く非業の死を遂げたもので、これらの魚類の胃を切り開いて見ると、また非業の死を遂げた小さな魚や蟲や貝類などが充滿してゐる。そしてこの小さい魚や蟲の腹の中には更に小さな幼蟲や卵などが一杯にあるが、これまた非業の死を建げたものである。およそ肉食する動物がある以上は、その餌となる動物は日々非業の死を建げるを免れることは出來ぬ。また田圃で害蟲を騏除すれば敷千萬の蟲が非業の死を遂げ、養蠶を終れば何百萬の蛹が非業の死を遂げる。その他自然界に於ける非業の死の例を算へ擧げたら際限はない。されば、非業の死なるものは、人間社會に於てこそ稍々稀な場合である如き感じがあるが、廣く自然界を見渡せば非業の死は殆ど常の規則であつて、その中極めて少數のものが半ば僥倖によつて生長を終り子を殘し得るのである。

[やぶちゃん注:一言言っておく。捕鯨に反対する連中は皆、完全菜食主義であって、しかも無論、高級な絹製装身具なんざ、着ちゃいないんだよね?

「僥倖」老婆心乍ら、「げうかう(ぎょうこう)」と読み、思いがけぬ幸運のことを言う。]

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(2) 一 死とは何か

      一 死とは何か

 

 抑々死とは何ぞやと尋ねると、これに對して正確に答へることは到底出來ぬ。一寸考へると、死とは生の反對で死ぬとは生の止むことであるから、至極明瞭でその間に何の疑も起りさうにないが、已に本書の初に短く述べて置いた通り、生なるものの定義が容易に定められぬ。それ故生を知らず爰んぞ死を知らんやといふやうなわけで、死に就いてもすべての場合に常て嵌り、且つの除外例をも許さぬ正確な定義はなかなか見出されぬ。しかしながら正確な定義の定められぬことは、たゞ生と死とに限るわけではなく、自然界の事物には寧ろこれが通則である。例へば獸類は胎生するといへば、「かものはし」の如き卵生する例外があり、獸類の體は毛で蔽はれるといへば、象や鯨の如き毛のない例外がある。しかもこれらを含むやうな定義を造れば、獸類は胎生もしくは卵生體は毛で蔽はれまたは蔽はれずといはねばならず、かくては定義として何の役にも立たぬ。それよりは獸類は胎生で體は毛で蔽はれるとして置いて、「かものはし」や鯨は例外としてやはりその中ヘ入れる方が遙に便利であり。かやうな考から本書に於ては生の定義などには構はず、たゞ生物は食つて産んで死ぬものといふだけに止めて置いたが、死に就いてもこれと同樣に、まづ動物には如何なる死にやうをするものがあるかを述べて、死とはおよそ如何なるものかを概論するに止める。

[やぶちゃん注:「第一章 生物の生涯 一 食うて産んで死ぬ」を参照のこと。]

Wamusi

[輪蟲 (右)乾いたもの (左)生きて動くもの]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 まづ人間などに就いて見ても、死と生との區別の判然せぬ場合があり、死んだと思つて棺に入れ、今から葬式を始めようといふときにその人が蘇生したので、皆々、大に驚いたといふやうな記事を新聞紙上に見ことが往々ある。人間は死ねば呼吸が止まり脈が絶え、温かつた身體が冷くなるが、これだけを見て直に死んだものと定めてしまふと右のやうな間違も起る。淡水に産す「輪蟲」や「熊蟲」などは、乾せば體が收縮して全く乾物となり、少しも生きて居る樣子は見えず、そのまゝ何年も貯藏して置けるが、これに水を加へると忽ち水を吸收して膨れ、舊の大きさに反つて平氣で活潑に匍ひ出す。即ち死んだやうに見えても必ずしも眞に死んだとは限らず、いつまで置いても生き返らぬことが確になつて初めて眞に死んだといへるのでゐる。また全身としては確に死んでも、その組織の生きて居ることは常である。例へば頸を切られた罪人は最旱生き返る氣遣ひはないから、確に死んだに違ないが、その神經を刺戟すれば盛に筋肉が收縮する。心臟の如きは別に刺戟を與へずとら、暫くは生きて居る通りに搏動を續ける。蛙などで實驗して見るに、取り出した心臟の血管の根本を縊つて稀い鹽水の中に入れて置くと、十日以上も絶えず收縮して居る。これに反して全身は健全に生きて居ても、一部分づつの組織は絶えず死んで捨てられて居る。血液中の赤血球や粘膜の表面の細胞の如きは、特に壽命が短くて新陳代謝が始終行はれて居る。かくの如く一部分づつの組織や細胞が死んでも通常これを死と名づけず、組織や細胞がなほ生きて居ても、全體として蘇生の望がなければこれを死と名づけるのであるから、世人の通常死と呼ぶのは一般に生きた個體としての存在の止むことである。

[やぶちゃん注:「輪蟲」やはり冒頭の「第一章 生物の生涯 二 食はぬ生物」に既出既注。

「熊蟲」脱皮動物上門緩歩動物門Tardigrada に属する生物の通称。緩歩動物門はさらに異クマムシ綱 Heterotardigrada・中クマムシ綱 Mesotardigrada・真クマムシ綱 Eutardigrada に分かれ、ここでお馴染みの「クマムシ」の名が出る。ウィキの「緩歩動物」によれば、四対八脚の『ずんぐりとした脚でゆっくり歩く姿から緩歩動物、また形がクマに似ていることからクマムシ(英名はwater bears)と呼ばれている。また、以下に述べるように非常に強い耐久性を持つことからチョウメイムシ(長命虫)と言われたこともある』。体長は五〇マイクロメートルから一・七ミリメートルとごく小さいために馴染みがないが、『熱帯から極地方、超深海底から高山、温泉の中まで、海洋・陸水・陸上のほとんどありとあらゆる環境に生息する。堆積物中の有機物に富む液体や、動物や植物の体液(細胞液)を吸入して食物としている』。凡そ千種以上(内、海産は百七十種余)が知られる(以下、(アラビア数字を漢数字に代えた)。『体節制は不明確。基本的には頭部一環節と胴体四環節からなり、キチン質の厚いクチクラで覆われている。真クマムシ目のものは外面がほぼなめらかだが、異クマムシ目のものは装甲板や棘、毛などを持ち、変化に富んだ外見をしている』。『胴体部の各節から出る四対の脚を持つ。歩脚は丸く突き出て関節がなく、先端には基本的に』四本から十本ほどの『爪、または粘着性の円盤状組織が備わっている』。『頭部に眼点を持つものがあるが、持たないものもある。口の近くに口縁乳頭などの小突起を持つ例もあるが、外部に出た触角や口器などはない』。『体腔は生殖腺のまわりに限られる。口から胃、直腸からなる消化器系を持つ。排出物は顆粒状に蓄積され、脱皮の際にクチクラと一緒に捨てられる』。『呼吸器系、循環器系はない。酸素、二酸化炭素の交換は、透過性のクチクラを通じて体表から直接行う。神経系ははしご状。通常、一対の眼点と、脳、二本の縦走神経によって結合された五個の腹側神経節を持つ』。『多くの種では雌雄異体だが、圧倒的に雌が多い。雌雄同体や単為発生も知られる。腸の背側に不対の卵巣又は精巣がある。産卵は単に産み落とす例もあるが、脱皮の際に脱皮殻の中に産み落とす例が知られ、脱皮殻内受精と呼ばれる』。『幼生期はなく、直接発生して脱皮を繰り返して成長する。その際、体細胞の数が増加せず、個々の細胞の大きさが増すことで成長することが知られる』。『陸上性の種の多くは蘚苔類などの隙間におり、半ば水中的な環境で生活している。樹上や枝先のコケなどにも棲んでいる。これらの乾燥しやすい環境のものは、乾燥時には後述のクリプトビオシス』(cryptobiosis:「隠された生命活動」の意)『の状態で耐え、水分が得られたときのみ生活していると考えられる』。『水中では水草や藻類の表面を這い回って生活するものがおり、海産の種では間隙性の種も知られる。遊泳力はない』。クリプトビオシスとは無代謝の休眠状態を指し、『緩歩動物はクリプトビオシスによって環境に対する絶大な抵抗力を持つ。周囲が乾燥してくると体を縮める。これを「樽」と呼び、代謝をほぼ止めて乾眠(かんみん)と呼ばれるクリプトビオシスの状態の一種に入る。樽(tun)と呼ばれる乾眠個体は、下記のような過酷な条件にさらされた後も、水を与えれば再び動き回ることができる。ただしこれは乾眠できる種が乾眠している時に限ることであって、全てのクマムシ類が常にこうした能力を持つわけではない。さらに動き回ることができるというだけであって、その後通常の生活に戻れるかどうかは考慮されていないことに注意が必要である』。『また、単細胞生物では芽胞を作ることにより、さらに過酷な環境に耐えることが知られており、クマムシの耐性強度が大きいというのは、あくまで他の一般的な多細胞生物と比べた場合である』。『乾眠状態には瞬間的になれるわけではなく、ゆっくりと乾燥させなければあっけなく死んでしまう。乾眠状態になるために必要な時間はクマムシの種類によって異なる。乾燥状態になると、体内のグルコースをトレハロースに作り変えて極限状態に備える。水分がトレハロースに置き換わっていくと、体液のマクロな粘度は大きくなるがミクロな流動性は失われず、生物の体組織を構成する炭水化合物が構造を破壊されること無く組織の縮退を行い、細胞内の結合水だけを残して水和水や遊離水が全て取り除かれると酸素の代謝も止まり、完全な休眠状態になる。ただし、クマムシではトレハロースの蓄積があまり見られないため、この物質の乾眠への寄与はあまり大きくないと考えられている』。現行データでは、「乾燥」に対しては、通常は体重の八五%をしめる水分を三%以下まで減らして極度の乾燥状態にも耐え得る。「温度」に対しては、摂氏百五十一度の高温から、〇・〇〇七五ケルビンというほぼ絶対零度の極低温まで耐え得る。「圧力」に対しては、真空から七万五千気圧の高圧まで耐え得、「放射線 」についても高線量の紫外線・エックス線及びガンマ線等の放射線に対して耐え得る。エックス線の半致死線量は実に五十七万レントゲンの高値である(ヒトの致死線量は五百レントゲン)。長く『この現象が、「一旦死んだものが蘇生している」のか、それとも「死んでいるように見える」だけなのかについて、長い論争があった』が、先に示したように現在ではこのような状態を「クリプトビオシス(隠された生命活動)と呼称する『ようになり、「死んでいるように見える」だけであることが分かっている』(「クリプトビオシス」は生物体が、

乾燥によって水分が奪われた場合に起こる「アンハイドロビオシス」(anhydrobiosis:乾眠)

高浸透圧の外液によって水分が奪われて起こる「オスモビオシス」(Osmobiosis:塩眠)

氷結した際に起こる「クリオビオシス」(Cryobiosis;凍眠)

外界の酸素濃度が代謝を維持するのに必要なレベル以下に下がった際に起こる「アノキシビオシス」(Anoxybiosis:窒息仮死)

の四種の現象に分類される)。他にも前掲の 

 扁形動物上門輪形動物門 Rotifera のワムシ類

 線形動物門 Nematoda の線虫類の一部

 「シーモンキー」の通称でお馴染みの甲殻亜門鰓脚綱サルソストラカ亜綱無甲(ホウネンエビ)目ホウネンエビモドキ科アルテミア属 Artemia アルテミア類

 双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科ユスリカ亜科 Polypedilum 属ネムリユスリカ Polypedilum vanderplanki

などが『クリプトビオシスを示すことが知られている』。『なお、クマムシはこの状態で長期間生存することができるとする記述がある。例えば、「博物館の苔の標本の中にいたクマムシの乾眠個体が、百二十年後に水を与えられて蘇生したという記録もある」など、教科書や専門書でもそのように書いているものもある。ただし、この現象は実験的に実証されているわけではなく、学術論文にも相当するものはない。類似の記録で、百二十年を経た標本にて十二日後(これは異常に長い)に一匹だけ肢が震えるように伸び縮みしたことを観察されたものはあるものの、サンプルがこの後に完全に生き返ったのかどうかの情報はない。通常の条件で樽の状態から蘇生して動き回った記録としては、現在のところ十年を超えるものはない。また、蘇生の可否は樽の保存条件に依存し、冷凍したり無酸素状態にしたりすると保存期間が延びることがわかっている』。『また、宇宙空間に直接さらされても十日間生存できることが実験で確かめられ、動物では初めての発見となった。太陽光を遮り宇宙線と真空にさらしたクマムシは地球上で蘇生し、生殖能力も失われていなかった。太陽光を直接受けたクマムシも一部は蘇生したが、遮った場合と比べ生存率は低かった』とある(下線やぶちゃん。この報道に接した際にはわくわくしたのを覚えている)。

「縊つて」「くくつて(くくって)」と訓じていよう。

「稀い」「うすい」。]

Hoyanobguntai

[「ほや」の群體]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

Himomusiyoutyuu



Himomusiyoutyuugakujyutubunkohan

[紐蟲の幼蟲]

[やぶちゃん注:以上の図の前のものは底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。その後のものは講談社学術文庫版の挿絵で、明らかに異なるので別に掲げた。]

 

 獸類・鳥類など人の常に見慣れて居る高等動物は人間と同じやうな死に方をするが、稍々下等の動物にはさまざまに變つた死にやうのものがある。例へば「ほや」の或る種類ではときどき身體の上半だけが死んで頽れ去り、下半はそのまゝ殘り、芽生によつて新に上半身が出來ると、それが古い下半身と連絡して一疋の完全な身體が出來上る。また海産の苔蟲類では、各個體が老いて勢が弱くなると終に死んで組織が變質し、茶色の丸い脂肪の球となつてしまふが、僅に生き殘つた組織が基となつて後に新な個體が生ずる。そしてその際前の脂肪の球は芽の内に包み込まれ、滋養分として利用せられる具合は、死んだ親の肉を罐詰にして置いて子がこれを食つて生長するのに比較することが出來よう。群棲する「ほや」類の中には、ときどき群體内の個體が皆死に絶えて一疋もなくなり、たゝいづれの個體にも屬せぬ共同の部分だけ殘るものがあるが、暫く經つとこの部の表面から新に一揃の個體が生ずる。これなどは各個體は毎囘死ぬが、その個體から成る群體は始終生き續けて居る。また前に述べた植物に寄生する小蠅や蛙の肺に寄生する蛔蟲の類では、子が生まれる前に母親の身體を内から食ひ盡すから、母親は死んでも蟬の拔殼よりも遙に薄い皮の囊が殘るだけで、眞の死骸といふべきものは何もない。これに反して「うに」や「ひとで」などの發生中には、死なずして死骸が出來る。これは一寸聞くと全く不可能のことのやうであるが、「うに」や「ひとで」の類では卵が發育しても直に親と同じ形になるのではなく、最初暫くは親と全く形の異なつた幼蟲となつて海面を浮游し、その幼蟲の身體の一部分から「うに」や「ひとで」の形が出來て、殘り全體は萎びて捨てられるか吸收せられるかするから個體としては生存し續けながら、大きな死骸が一時そこに生ずることになる。淺い海の底に棲む「紐蟲」といふ細長い柔い蟲の發生中にもこれと同樣なことがある。即ち海の表面に浮いて居る幼蟲の體の一部に小さな成蟲の形が出來始まり、これが幼蟲の體から離れて成蟲となるが、その際幼蟲の殘りの身體は不用となつて捨てられる。「おたまじやくし」が蛙となるときには全身の形が變るが「うに」「ひとで」「紐蟲」などの變態するときには幼蟲の體の一部分だけが生存して成蟲となり、殘りは死骸となるのであるから、考へやうによつては、幼蟲が芽生によつて成蟲を生ずると見倣せぬこともなからう。さればこれらの動物は變態と世代交番との中間に位する例といふことが出來る。

[やぶちゃん注:『「ほや」の或る種類』後で群体ボヤを示していることから、これは単体ボヤの一種のように読めてしまうが、実際には単体ボヤは有性生殖で、出芽のような単為生殖能力を持たないのでそれは誤読である。これも群体ボヤの一種と断定出来るが、しかし、どうもこの丘先生の叙述は、少なくとも一見、単体ボヤのように見える「或る種」のホヤでは「ときどき身體の上半だけが死んで頽れ去り、下半はそのまゝ殘り、芽生によつて新に上半身が出來ると、それが古い下半身と連絡して一疋の完全な身體が出來上る」ことがあると述べておられるように感じてならない。そこで調べてみると、新稲一仁氏のホヤの学術サイト内の「採集と飼育」の二の「種による飼育の難易度他」の記載の中に、『ツツボヤ属のホヤは一見単体ボヤに見えるが、それぞれの個虫が芽茎で連絡しているので扱いには注意した方が良く、死滅後も芽茎が残っていれば再び出芽して(芽茎出芽=無性生殖の一)息を吹き返す場合もある』とあった。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[]」(保育社)の記載によれば、脊索動物門尾索動物亜ホヤ綱マメボヤ目マンジュウボヤ亜目ヘンゲボヤ(ポリキトリ)科ツツボヤ属 Clavelina に属するツツボヤ類で、同属には(以下は日本海洋データセンター(JODC)の分類データを利用)、

 コバルトツツボヤ Clavelina coerulea  Oka, 1934

 ワモンツツボヤ Clavelina cyclus Tokioka & Nishikawa, 1975

 クロスジツツボヤ Clavelina obesa Nishikawa & Tokioka, 1976

 フサツツボヤ Clavelina elegans  (Oka, 1927)

などが含まれることが判った。この正式表示の学名をよく御覧戴きたい。二種の命名者に丘先生がおられる。されば、この特異なホヤ(群体ホヤのくせに単体ボヤのように見える)で変わった蘇生現象を起こすことがある種はこのコバルトツツボヤ或いはフサツツボヤなのではあるまいか? 専門家の御教授を乞うものである。

「苔蟲類」触手動物(外肛動物)門 Bryozoa に属するコメムシ類。既注。丘先生の専門分野。但し、私の所持する複数の海産無脊椎動物関連の専門書には、苔虫全般に見られる老成(一般的に)個虫が退化してその外殻の虫室のみが残り、群体を支持する構造物化する空個虫(kenozooid)の記載はしきりに出るが、ここにあるように老個虫由来の「脂肪の球」が出芽した若い無性出芽した個虫「芽の内に包み込まれ、滋養分として利用せられる」という現象を叙述したものには遂に出逢わなかった。因みに、「老」とか「若い」と言ったかが、彼らは全部が同じ遺伝子型を持つ完全なクローン群体である。

『群棲する「ほや」類』少なくとも丘先生が選んだ挿絵の個虫の鮮やかな菊花状配列の模様を見る限りでは、これはホヤ綱マボヤ目マボヤ亜目イタボヤ科の、やはり丘先生の命名になる、

 ミダレキクイタボヤBotryllus primigenus  Oka, 1928

或いは

 ウスイタボヤ Botryllus schlosseri

 キクイタボヤ Botryllus tuberatus

辺りではなかろうかと思われる。

「前に述べた植物に寄生する小蠅」長幼の別(5) 四 幼時生殖(2) タマバエの例に出、私が有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科 Cecidomyiinae 亜科 Mycodiplosini Mycophila 属に属する「タマバエ」に同定した種のこと。リンク先の「蟲癭」の私の注を参照のこと。

「蛙の肺に寄生する蛔蟲の類」直前章末第十七章 親子(8) 五 親を食ふ子に出、私がガマセンチュウ(蟇線虫)Rhabdias bufonis に同定した種。

『「うに」や「ひとで」の類では卵が發育しても直に親と同じ形になるのではなく、最初暫くは親と全く形の異なつた幼蟲となつて海面を浮游し、その幼蟲の身體の一部分から「うに」や「ひとで」の形が出來て、殘り全體は萎びて捨てられるか吸收せられるかするから個體としては生存し續けながら、大きな死骸が一時そこに生ずることになる』棘皮動物門ウニ綱 Echinoidea のウニ類の「プルテウス幼生」及び星形動物亜門 Asterozoa のヒトデ類の「ビピンナリア幼生」及びその後の「ブラキオラリア幼生」からの成体形への変態ステージを言っているようであるが、私はてっきり突起の吸収ばかりが起こると思い込んでいたのだが、かく遺骸の如く脱ぎ捨てるというのは不覚にして知らなかった。

「紐蟲」冠輪動物上門紐形動物門 Nemertea に属するヒモムシ類の総称。大部分は海産で滑らかな平たい紐(ひも)状の体型をしている。ウィキの「ヒモムシによれば、『見かけの上ではその他に目立った特徴がな』く、『動きの鈍い動物であり、底を這い回るものが多い』ことから、潮干狩りの最中に「ヘンな色のキモいミミズみたような虫がいる」ぐらいの認識があれば恩の字、普通に身近に海浜に棲息しているにも拘わらず全然知らない人々が圧倒的に多い。『体は左右相称で、腹背があり、不明瞭ながら頭部が区別できる。前端に口、後端に肛門があり、いわば典型的な蠕虫である。附属肢や触手など見かけ上で目立つ構造はないが、前端に内蔵された吻があり、これをのばして摂食などに利用する』。『ほとんどが底生生活で、一部に浮遊生活のものが知られる。大部分の種が海産であるが、淡水産、陸生の種もわずかに知られている』。体長は数ミリメートル〜 十数センチメートルが一般的であるが、担帽綱リネウス科リネウス属の巨大種 Lineus longissimusは体長三十メートルにも『達し、動物のなかでも最大の体長をもつ種の一つに挙げられる』。『かつては扁形動物に近縁のごく原始的な後生動物と考えられたが、現在では見方が変わっている』。『体はその名の通りに細長い。体は柔らかく、摘まんでもつまみ心地がない程度。非常によく伸び縮みする。表皮は粘液に覆われ、また繊毛がある』。『左右対称で腹背がある。体はさほど厚みがないが、背中側にふくらみ腹面は扁平。背面には模様があるものもある。体は前端から後端までほぼ変わらない太さだが、前端から少し後ろでややくびれるものが多く、これを頭横溝という。ここから先が頭部というが、実際はこの少し後方までが頭部としての構造を持つようで、頭部とそれ以降の部分ははっきりと区別できない。また、頭の先端から背中側にくぼみがあって、先端が二つに分かれたようになっている例もよくあり、これを頭縦溝という』。『頭部には肉眼的にはあまりなにもないが、実際には眼点などの感覚器が並んでいる。一対の頭感器と呼ばれるものが頭部に開いた穴の内部にあり、これが化学物質の受容を行っているとされる』。『口は体の前端の下面にあり、消化管はそこから後方へと直線的に続き、後端の肛門につながる。消化管は前方から前腸・胃・幽門・腸に区別される』。『前頭部に長い吻(ふん)を持つ。この吻は裏返しにして体内に格納することができる。吻は消化管の背面側に伸びる吻腔に納められており、その先端は口か、口より前に開く吻口に続く。吻の先端には針を持つものと持たないものがあり、これによってヒモムシ類が無針類と有針類に区分される』。『循環系として、閉鎖血管系を持つ。体側面の柔組織の中を走る側血管、背面にある一本の背血管が体の前後で互いにつながっているもので、背血管の一部は吻腔に入り、その部分が心臓の役目を果たしている。排出系としては原腎管がある』。『神経系は大まかにははしご形神経系で、体側の腹面側を走る一対の縦走神経が前頭部の消化管の上で結合して脳を構成する』。『ヒモムシ類は普通は雌雄異体で、生殖腺は体の中央から後方にあり、複数が両側面に対をなして並び、それぞれ体側に口を開く』。『放出された卵は粘液に包まれるか、ゼラチン質にくるまって卵塊を作る。卵割は全割でらせん卵割を示す。幼生はほぼ親の形となる、いわゆる直接発生をするものが多いが、無針類の一部では特有の幼生の形が見られ、それらはピリディウム幼生、デゾル幼生などと呼ばれる』。『多くの種が海産である。浅瀬の岩の間や泥の中から』 四千 メートルの『深海まで、広い範囲に生息している。湿った土壌や淡水中に生息する種もいる。ほとんどが底生だが』、有針綱針紐虫目ペラゴネメルテス科ペラゴネメルテス属オヨギヒモムシPelagonemertes moseleyi など、『少数の浮遊性の種が知られる』。『通常捕食性で、突き出した吻を獲物に巻きつけて捕らえる。また、吻の先端に毒針がついており、これを用いて他の動物を捕食する種もいる。体長の』三倍の『長さまで吻を伸ばす種もいる。一部に貝などに寄生生活する種が知られる』。『形態や繊毛運動をすること、原腎管があること、体腔らしいものが存在せず、無体腔と考えられたことなどから、かつては扁形動物の渦虫類と棒腸類に近縁であるとの説が有力であった。ただし扁形動物との大きな違いとして口と肛門が分化している点は大きく、そのために扁形動物に次いで原始的な、口と肛門の分かれたもっとも下等な動物、というのが一つの定説であった。しかし、閉鎖血管系を持つことなどより高度な性質と思われる面もあり、議論の分かれる動物群であった。脊椎動物の祖先形をこの類に求める説すらあった』。『さらに、近年の分子生物学的な研究では、環形動物や軟体動物(いずれも中胚葉由来の体腔がある真体腔類)と近縁であると説が浮上した。その観点からの見直しで、吻を格納する吻腔が体腔に相当するとの判断も出たため、無体腔動物との判断が揺らぎ、さらに発生の再検討からこの構造が裂体腔と見るべきとの判断も出ている。そのため前述のような扁形動物と関連させた位置づけは見直されている』。それにしても確かに、この図のリボンをつけた可愛いカラカサさんから、あのヒモムシが生まれるとは思えない。成体の幼生から最後に言っておくと、多くの種がレッド・データ・ブックに載っていることも皆、知らない日常の視野に入って来ない地味な生き物や見た目のキモい生物は滅亡したって関係ないと不遜なたかが動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱サル亜綱正獣下綱霊長(サル)目真猿(サル)亜目狭鼻(サル)下目ヒト上科ヒト科ヒト属ヒト Homo sapiens は思って平気なのである。実は自分自身が滅亡危惧種であることも知らずに。

 

 死の有無に就いて特に議論のあるのは「アメーバ」・「ざうりむし」などの如き單細胞蟲類である。甲なる一疋が分裂して乙・丙の二疋になつた場合に、甲は死んだか死なぬかというて、今でも議論をして居るが、實はこれは單に言葉の爭に過ぎぬ。死骸が殘らねば、死んだと見做さぬ人は甲は死なぬといひ、個體としての存在の止んだことを死と名づける人は甲は死んだといふが、いづれとしも事實は事實のまゝである。もしも死なぬものと見倣せば、かゝる蟲類は死ぬこともない代りに生まれることもないといはねばならず、またもし死ぬものと見倣せば、これは死んでも死骸を殘さぬ一種特別の死にやうでゐる。元來生死といふ文字は、人間・鳥獸などの如き雌雄生殖をする動物だけを標準として造られたもの故、無性生殖の場合によく當て嵌らぬのは當然のことで、「アメーバ」・「ざうりむし」に限らず、「いそぎんちやく」や「絲みみず」などが分裂によつて繁殖する場合にも、子が生れたとか親が死んだとかいふ言葉は、普通の意味では到底用ゐることは出來ぬ。

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(1) 序

 

    第十九章 個體の死

 

 「生あるものは死あり」と昔から承知して居ながら、やはり死にたくないのが人情と見えて、少しでも物の理窟を考へる餘裕が出來ると、まづ第一に死のことから注意し始め、想像を逞しうして、不老不死の藥とか、無限壽の仙人とかの話を造り出す。それより智力が進めば進むだけ、死に關する想像も複雜精巧になり、想像と實際との區別がわからぬためにさまざまの迷信が生じて、今日に至つても、死に就いては實に種々雜多の説が行はれて居る。生を論ずるに當つても、材料を人間のみに取つては一部に偏するために、到底公平な結論に達すべき望がないのと同じく、死を研究するにも、まづ廣く全生物界を見渡して、種々の異なつた死にやうを比較する必要がある。そして廣く各種の動物に就いて、その死にやうを調べて見ると、或は外面だけが死んで内部が生き殘るもの、前半身が死んで後半身が生き殘るもの、死んで居るか生きて居るかわからぬもの、死んでも死骸の殘らぬものなど、實に意外な死に方をするものが澤山あつて、人間の死の如きはたゞその中の最も平凡なる一例に過ぎぬことが明に知れる。

 

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(4) 五 命の貴さ / 第十八章 教育~了

     五 命の貴さ

 

 以上述べ來つた通り、人間は種族維持のために最も有力の武器である知識を競うて進めねばならず、その結果として、他の動物には到底その比を見ぬ程の長年月を教育に費すが、かくしては各個體が團體競爭に與る一員として完成する時期が非常に後れる。無數の子を産むものは、そのまゝ捨て置いて少しも世話をせず、一生懸命に子の世話をするやうなものは子の産み方が頗る少いことは、全動物界に通ずる規則であるが、人間の如くに子の教育に手間のかかる動物では勢ひ子の數らは最も少からざるを得ない。現に人間の子を産む割合は女一人につき平均四人か四人半により當らぬが、この位少く子を産む種類は決して他にはない。そしてこの少數の子を一人一人戰鬪員として役に立つまでに育て上げるために、親もしくは親の代理者が費す時間と勞力とは、他の動物が子を教育する手間に比べて何層倍に當るかわからぬ程である。

[やぶちゃん注:「與る」老婆心乍ら、「あづかる(あずかる)」と訓ずる。

「人間の子を産む割合は女一人につき平均四人か四人半により當らぬ」一人の女性が一生に産む子供の平均数は「合計特殊出生率」と呼ぶ。ィキの「合計特殊出生率」によれば、日本の戦後のそれは昭和二二(一九四七)年で四・五四であり、丘先生の数値に近い。戦前の合計特殊出生率を検索してみたところ、不破雷蔵氏のブログ(サイト)「ガベージニュース」の「日本の出生率と出生数をグラフ化してみる(2015年)(最新)」に『戦前のデータはほとんどつぎはぎだらけ』とされており、『確定値の限りでは』と断りを入れて、

大正一四(一九二五)年で五・一一

昭和五(一九三〇)年で四・七二

の『値が確認できる。戦前最後の』

昭和一五(一九四〇)年は四・一二

とある。本書は、

大正五(一九一六)年刊

である。因みに、

二〇一四年の日本は一・四二

にまで下がっている。因みに国際連合の公式データでは、現在、世界で合計特殊出生率が四~四・五を示す国は、降順で

モーリタニア(四・五二)から

コンゴ共和国・ガーナ・トーゴ・スーダン・グアテマラ・イラク・パプアニューギニア・トンガ・パキスタン・バヌアツ・

コモロ(四・〇〇)

、世界保健機関(WHO)によれば

世界平均は二・四

である。]

 

 さて戀愛に始まり教育に終る生殖事業の目的は、いふまでもなく自己の種族の維持繼續にあるが、この點から見ると、個體の命の價値は生殖法の異なるに隨つて、非常に相違があるやうに思はれる。各個體の命は、それを有する個體自身から見れば無論何よりも大切なもので、自身一個を標準として考へれば、命を失ふことは、全宇宙の滅亡したのと同じことに當るが、種族の生命を標準として考へると、個體の命なるものは全くその意味が變つて來る。まづ無數の子を産み放して、少しも世話をせぬやうな種類に就いて論ずるに、およそ種族維持のためには一對の親から産まれた子の中から、平均二疋だけが生き殘れば宜しく、また實際その位より生き殘らぬから、生まれた子が五十疋や百疋踏み漬されても食ひ殺されても、種族としては少しも痛痒を感ぜぬ。しかも後から後からと盛に子を産むから、かやうな動物の命は恰も掘拔き井戸の水のやうなもので、絶えず盛に溢れて無駄になつて居る。この場合には個體の命の價は殆ど零に均しい。かやうな蟲を殺すことを躊躇するのは、恰も掘拔き井戸の水を柄杓で酌むことを遠慮して居るやうなものである。

Mizugakaretesinuuo

[水が涸れて死ぬ魚]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 これに反して、稍々數の子を産む種類では、それが更に減じては親の跡を繼ぐだけの子が生き殘り得るや否や頗る疑はしくなるから、種族維持の上からいふと、一疋でも甚だ大切である。それから實際かやうな動物では親が何らかの方法で子を保護し、また進んでは養育もする。そして夫婦で五十疋の子を産む種類ならば、その中四十八疋死んでも宜しいが、十疋より産まぬ種類では、その中八疋以上死なれては後繼者がなくなるから、種族維持の上からは前者に比して後者の方が數倍も一個體の命が貴い。そして貴いだけに實際かやうな種類では、必ず親が一生懸命になつて長くこれを保護し養育して居る。およそ物の價は何でも需要が多くて供給の少いものが高く、また製産に費用の多く掛つたものが高いのが當然で、命の價もこの規則に隨つて高いのと安いのとがあり、概していふと個體の命の貴さは、個體を完成するまでに要する保護・教育の量に比例する。他の動物とは飛び離れて多くの教育を要する人間仲間で、個人の命が他の動物とは比較にならぬ高い程度に貴ばれるのは、やはりこの理窟によることであらう。無數に子を産む動物では、全局を通算して種族維持の見込みが附けば宜しいのであつて、各個體の一々の生死の如きは殆ど問題にならぬが、人間などはその正反對で、實際些細な事柄でも、事苟も人命に關すると切り出されると、止むを得ずこれを重大事件と見倣さねばならぬこともある。かくの如く人間は常に命を非常に貴いものとして取扱ふ癖が附いて居るから、これより類推して、他の生物の命もすべて貴いものの如くに思ひ、蟲一疋の命を助けることをも非常に善いことの如くに譽め立てるが實際を調べて見ると、こゝに述べた通り、種類によつては命の價の殆ど零に近いものが幾らもある。自然界には命の消費せられることが隨分盛で、命を貴いものと考へる人から見れば、如何にも勿體なくてたまらぬやうに感ぜられることが常に行はれて居る。大陸の河が旱魃のために涸れたときには、最後まで水のある處に魚が悉く集まり來り、そこまでが涸れゝば、何萬何億といふ魚が皆一時に死んでしまふ。風が少しく強く吹けば、海岸一面に種種の動物が數限りもなく打ち上げられて居るのを見るが、何十粁も沿岸の續く處ではどの位の命が捨てられるか想像も出來ぬ。しかしこれらの損失はときどきあるべきこととして、各種族の豫算には前以て組み込んであり、生殖によつて直に埋め合す豫定になつて居るから、初から別に惜まれるべき命ではない。無益の殺生は決して譽むべきことではないが、印度の宗教の如くに生物の命を一切取らぬことを善の一部と見倣して、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するのは、生物の命をすべて貴いものの如くに誤解した結果で、實は何にもならぬ遠慮である。

[やぶちゃん注:「貴さ」私はあくまで総て「たふとさ(とうとさ)」と訓ずる。学術文庫版なでは「尊さ」に書き換えられて「たっとさ」(歴史的仮名遣「たつとさ」)のルビが振られてあるのだが――「尊さ」は「たっとさ」であり、「貴さ」は「とうとさ」である――と私は小学生以来、教え込まれて来たし、「尊(たっと)い」という語には超自然的非人間的な(ある意味では「厭な」)響きがあると私は信じている人間である。人間の持つ暖かな精神的な高「貴」とは「貴(とうと)さ」であると私は思うし、それを誰かが馬鹿にしても、その人物を私は逆に馬鹿にするだけのこと、だからである。

「全局」全局面。全生活史に於けるそれぞれのステージ総て。

「印度の宗教の如くに生物の命を一切取らぬことを善の一部と見倣して、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するの」ヒンドゥー教の不殺生は仏教のそれと基本、変わらないので特異的な例としてはちょっと弱い気がする(ヒンドゥー教徒は菜食主義者が多いことは事実であるが、それでもでも牛以外の肉食を可とする信者もおり、下級カーストに屠殺業を配している)。寧ろ、もっと厳格なアヒンサー(サンスクリット語の「暴力(ヒンサー)の忌避」の意)を強く求める、ヒンドゥー教・仏教と同じく古代インド起源であるジャイナ教を指しているように思われる。ウィキの「アヒンサによれば、『ジャイナ教におけるアヒンサーは如何なる肉食を避けるだけでなく、植物の殺生に通じる芋などの球根類の摂取が禁じられている。さらに小さな昆虫や他の非常に小さな動物さえ傷つけないようしようと道からそれるなど、毎日の生活で極力動植物を害さないようにと少なからぬ努力を行う。この方針に従い、農業それ自体と同様に、その栽培が小さな昆虫や虫を害することになる作物を食べることが慎まれている』とあるくらいである。]

2016/02/25

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(3) 四 人間の教育

 

     四 人間の教育

 

 以上述べた通り、鳥類にも獸順にも子を教育するものは幾らもあり、その方法の如きも一定の規則に從うて居るが、人間の教育に比べては素より簡單極まるものである。しからば人間に於てのみ、教育が他に飛び離れて複雜になつたのは何故かと尋ねると、その原因はいふまでもなく言語と文字との發達にある。音によつて互に通信することは動物界に決して珍しくはないが、人間の如くに音を組み合せて一々特殊の意味を表すやうな言葉を用ゐるものは他にはないから、「人は言語を有する動物なり」と、いひ放つても敢へて誤りではなからう。しかも言語のみがあつてまだ文字がなかつたならば、子を教育するに當つても、先祖からのいひ傳へを親が記憶して置いて子に傳へるといふことが、他の動物に異なるだけで、それ以外に多くの相違はない。現に文字を知らぬ野蠻人が、子を教育する程度は猫や虎に比べて著しくは違はぬ。しかるに一旦文字なるものが發明せられると、その後は子の受くべき教育の分量はたゞ增す一方で、殆どその止まる處を知らず、終には一生涯の大部分をもそのために費さざるを得ぬやうになつて、人間の教育と他の動物の教育との間に、甚しい懸隔を生ずるのである。

 

 抑々文字は腦髓の記憶力を助けるための補助器官である。初は繩に結び玉を造り、棒に切れ目を附けたたりしただけであつたのが、段々進歩して今日見る如き便利なものまでになつたが、かく便利な文字が出來た以上は、これを用ゐて無限に物を記憶することが出來る。腦髓ばかりで記憶して居た頃は、恰も猿が食物を頰の囊に貯へる如くで、身體の一隅に溜め込むだけであるから、その量にも素より狹い際限があつたが、文字を用ゐて、腦髓以外に記憶し得るやうになると、丁度畑鼠が米や麥の穗を自分の巣の内に貯藏すると同じ理窟で、孔さへ廣く掘れば幾らでも限なく溜めることが出來る。かやうな次第で、人間は文字の發明以來、日々の經驗によつて獲た新な知識を文字に收めて貯へ來つたが、人間の生存競爭に於ては知識が最も有效な武器であるから、敵に負けぬためには子を戰場に立たせる前に、これに十分の知識を授けて置かねばならぬ。敵に比べて知育が著しく劣つて居ては、その民族は平時にも戰時にも競爭に勝つ見込みが立たぬから、常々子弟に十分な知識を與へて置かぬと親は安心して死なれぬ。さらば、今日の文明國に於ける教育の狀態を見ると、傳來の迷信のために隨分無駄なことをして居る部分もあるが、大體は、敵に負けぬだけの知識を授けることを務めて居る。そしてその知識は文字によつて腦髓以外に貯藏せられ、蓄積せられ得べきものである 人間の教育が他の動物の教育と異なる所は主としてかゝる種類の知識を子弟に授ける點に存する。

 

 世間には單に理論の上から教育を三分して、知育・德育・體育とし、いづれにも偏せぬやうに平等に力を盡すがよいと説く人もあるが、以上述べた所から考へると、この三種の教育は決して對等の性質のものではなく、且如何に平等に取扱うても、その效果は頗る不平等なるを免れぬであらう。人間の教育に就いて詳しく述べることは、本書の趣意でもなく、また門外漢なる著者の能くする所でもないから、他はすべて略して、こゝには以上の三育の效果の相異ならざるべからざる理由を一言するだけに止める。

 

 知育は特に人間に取つて大切な教育でゐつて、且その效果も頗る著しく現れる。學校の課程を見ても、その大部分は知育に屬するもので、生徒の知識が如何に一年毎に進み行くかは誰の目にも明に知れる。試に學校を踏んで來た子供と、學校へ行つたことのない子供とを比べたら、その知識の相違は非常なもので、今日の社會では「いろは」も讀めぬやうな者は殆ど用ゐ途がない。即ち知育は行へば行うただけ效果の擧るもので、異民族が互に競爭する場合には相手に負けぬために出來るだけ程度を高めることが必要であり、また高めれば必ずそれだけの效果がある。されば今後は各民族は競うて知育の程度を高めるであらうが程度を高めればそれだけ教育の年限が長くなるを免れぬ。新な知識は年と共に積るばかりであるが、舊い知識がそのため不用になるわけでもないから、授くべき教材は年々多くならざるを得ない。エッキス光線・無線電信・飛行機・潛航艇のことを追加して教へるからというて、その代りに物理學教科書の最初の數頁を破り捨てるわけには行かぬから、いづれの學科に於ても、やはり「いろは」から始めて最新の發見まで授けることとなり、これを滿足に教へるには次第次第に教育の年數を增さねばならぬ。如何に教授法が巧になつても、教材が無限に殖えては、時間を延長するより外に途はない。しかし教育の年限をどこまでも延すことは、無論出來ぬことであつて、人間僅か五十年の中、二十歳で丁年に達しながら四十歳まで學校に通ふやうでは、到底教育費と生産力との釣合が取れぬ。それ故、もし各民族がどこまでも競うて知育を高めたならば、今日大砲や軍艦の大きさ、飛行機や潛航艇の數を競爭して互に困つて居る如くに、知育の競爭に行き詰つて、互に閉口する時節が早晩來るであらう。

[やぶちゃん注:本書は大正五(一九一六)年刊である。丘先生の警鐘は今もそのままに新しい、いや、寧ろ、より深刻――ヒトという種の滅亡を間近に感ずる現在という点に於いて――な様相を呈しているではないか。

「用ゐ途がない」学術文庫版では『用(もち)いる途(みち)がない』とある。確かに「る」脱字が疑われはするが、暫くママとする。

「エッキス光線」エックス線。レントゲン線のこと。]

 

 徳育は知育と違うて、骨を折る割合に效果が擧るか否か頗る疑はしい。團體生活を營む動物が互に競爭するに當つて最も大切なことは協力一致・義勇奉公の精神であるが、この精神は如何にして養成せられるかといふに、數多の小團體が絶えず劇烈に競爭して勝つた團體のみが生き殘り、敗けた團體が亡び失せるによるの外はない。かくすれば、一代毎に必ず少しづつ、義勇奉公といふ如き團體的競爭に勝つべき性質が進歩して、終に今日の蜜蜂や蟻に見る如き程度までに發達する。しかるに近世の人間は、民族間に絶えず紛議があるに拘らず、敗けた團體が全部亡びるといふ如きことは決してなく、生まれながら義勇奉公の念の稍々僅い者も稍々弱い者も均しく生存の機會を得るから、この精神の進歩すべき望がなくなつた。その上、團體内に於ける個人間の競爭では、義勇奉公の念の薄い者の方が勝つやうな事情も生じて、この精神は寧ろ漸々滅び行くものの如くに見える。教育者は往々、教育の力によつて如何なる性質の人間をも、注文に應じて隨意に造り得るかの如くにいふが、實際は決して人形師が人形を造るやうには行かず、各個人の性質は先祖及び父母からの遺傳によつて、生まれたとき既に大體は定まり教育者は僅ばかりこれを變更し得るに過ぎぬ。教育の力によつて、手の指を一本殖やすことも減らすことも出來ぬと同じく、腦髓の細胞を竝べ直して、義勇奉公の念を自然に強くすることは到底出來ぬであらう。かやうな次第であるから、德育は今後如何に力を盡しても、決して知育に於ける如き目覺しい效果の擧らぬのみならず、知育が進めば惡事も益々巧にするやうになるから、これに對抗するだけでもなかなか容易ではなからうと思はれる。

[やぶちゃん注:私にはこの「團體」という熟語が「國體」に見える。]

 

 しからば體育は如何といふに、これまた十分に效果の擧らぬ事情がある。一體ならば子供を學校などへやらずに、自由自在に「鬼ごと」・「木登り」・「水泳ぎ」・「角力取り」などさせて置くのが、體育のためには最も善いのであるが、種族生存の必要上、知育を盛にせねばならず、そのためには、動きたがる子供等を強ひて靜に坐らせ、勉強させるのであるから、體育の方からいふと知育は無論有害である。しかるに知育はこれを減ずることが出來ぬのみならず、今後は他民族との競爭上益々增進する必要があり、なるべく短い時間になるべく多くの知識を授けようとすれば、勢ひ體育の方はそれだけ迫害せられるを免れぬ。小學校の一年から六年まで、中學校の一年から五年までと級が進むに隨つて、一年增しに毎日坐らせられ俯向かせられる時間が長くなつて、身體の自然の發育は次第に妨げられるが、これも種族の維持繼續の上に必要であるとすれば、止むを得ぬこととして忍ぶの外はない。なほその他にも今日の人間の身體を少しづつ弱くする原因が澤山にある。されば體育は今後如何に力を盡しても、知育を暫時廢止せぬ以上は、たゞ知育のために受ける身體上の損害を幾分か取り消し得るのが關の山で、到底進んで身體を昔の野蠻時代以上に健康にすることは出來ぬであらう。

[やぶちゃん注:「鬼ごと」鬼ごっこ。

「中學校の一年から五年」旧制中学校は五年制。本書の刊行は大正五(一九一六)年(なお、昭和一九(一九四四)年四月一日からは、前年に閣議決定された「教育ニ關スル戰時非常措置方策」によって修業年限四年変更の前倒しが行われ、この時に四年となった者(昭和一六(一九四一)年入学生)から適用されたが、翌昭和二〇(一九四五)年三月には「決戰教育措置要綱」が閣議決定されて昭和二十年度(同年四月から翌昭和二一年三月末迄)授業が停止されることなり、更に同年五月二十二日には「戰時教育令」が公布されて授業は無期限停止が法制化されている。その後、敗戦の翌月八月二十一日、文部省により、「戰時教育令」廃止が決定されて同年九月から授業が再開されることとなった。翌昭和二一(一九四六)年には修業年限が元の五年に戻ったが、その翌年昭和二二(一九四七)年四月一日附を以って学制改革(六・三制の実施と新制中学校の発足)で旧制中学校は消滅した(以上はウィキの「旧制中学校に拠る)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(2) 三 獸類の教育

 

    三 獸類の教育

 

 智力を標準として論ずると、獸類の中には非常に程度の異なつたものがあつて、或るものは遙に鳥類に優つて居るが他のものは到底鳥類に及ばぬ。隨つて教育の行はれる程度にも著しい相違があり、「かものはし」や「カンガルー」などが如何程まで子を教育するかは頗る疑はしいが、食肉類・猿類の如き高等の獸類になると、子の教育に力を注ぐことは決して鳥類に劣つては居ない。獸類の普通の運動法である歩行は、鳥類の飛翔に比べると遙に容易で、親が特に世話を燒かずとも、子の發育の進むに隨つて自然に出來るやうになるから、わざわざ教育する必要のある事項が鳥よりは一つ少いことになる。その代り或る獸類では大腦の發達が非常に進んで居るために、所謂智的方面の練習を要することは鳥類よりは一層多くなる傾が見える。

Toranokyouiku

[虎の教育

虎は猫と同じく幼兒を長く養ひこれに餌を捕へ殺す法を教へ子が十分に自活し得るまでに進んだ頃初めてこれを放ち去らしめる]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 子持ちの牝猫が鼠を捕へた場合に、如何なることをするかを注意して見るに、決して直に殺して食つてしまふ如きことはせず、まづ鼠を輕く傷けてこれを放し、その逃げて行く所を小猫に捕へさせる。これは即ち鼠を捕へる下稽古で、度々かやうなことをして居る間に鼠を見れば必ずこれを追ひ掛けずには居られぬやうになり、また追ひ掛ければ大概これを捕へ得るまでに熟達する。飼猫でも常にかやうな方法で子を教へるが野生の食肉獸になると、更にこれよりも念を入れて我が子に渡世の途を仕込む。狐などは幼兒が生れて二十日過ぎになると、已に鳥類を殺す稽古を始めさせ、少しく大きくなると、夜出歩くときに一所に連れ廻り、餌を取ることを手傳はせ、次第次第に自分の餌だけは獨力で取れるやうに仕込み、しかる後に手放してやる。獅子などはかくして教育し終るのに約一年半もかかる。その間に初は親は子に見物させ、次に子を助けて實習させ、後にはたゞ監督するだけで全く子に委せ、少しづつ骨の折れる仕事に慣れさす具合は、前に鳥類に就いて述べた所とはほゞ同樣である。虎の食ひ殘した牛の骨などを見るに急處には親虎の大きな牙の跡があり、間の處には子虎の小さい牙の跡が澤山にあるのは、虎も猫と同じく子に肉を引き裂いて食ふ稽古をさせるからであらう。

Sarusakumotunusumu

[猿が作物を盜むところ]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。この挿絵は学術文庫版にはない。]

 

 猿の類も多くは子を教育する。昔から猿の人眞似というて猿程何でもよく眞似をするものはないが、兒猿にこの性質があれば教育は自然に出來る。動物園などで見てゐても、母猿は殆ど世話を燒き過ぎると思はれる程に絶えず熱心に兒猿に注意し、危險を恐れて瞬時も側から離さず、もし兒猿が客氣に委せて遠方へでも走り行けば、直に追ひ附いて捕へ歸り打擲して懲らしめる。かく絶えず親の傍に置かれるから兒猿は何でも親のすることを見てこれを眞似する。親が果物の皮を剝いて食はせてくれゝば、自分で食ふときにも必ず皮を剝き、親が箱の蓋を明けて人參を盜めば、子も同じく箱の蓋を明けて人參を盜む。また團體を造つて生活する種類ならば種々の相圖を覺え、一々これを聞き分けて同僚の仕事と衝突せぬやうに注意する。かくして猿の生活に必要な仕事をすベて眞似し覺え、熟練して終に一疋前の猿となるがこれ皆教育の結果である。

[やぶちゃん注:「客氣」は「かくき(かっき)」或いは「きやくき(きゃっき)」で、老婆心乍ら、物事にはやる心、血気であって、動物園の観客にのぼせての謂いではないのでご注意あれ。

「一疋前」丘先生、気配り、御見事!]

 

 獸類の幼兒は、犬や猫の例でも知れる通り、頗る活潑に戲れ廻るものであるが、遊戲も教育の一部である。獸類の兒は如何なることをして遊ぶかといふに、無論種類によつて違ひ、猿ならば木に登つて遊び「をつとせい」ならば水に泳いで遊ぶが、廣く集めて分類して見ると、主として追ふこと、逃げること、捕へること、防ぐことなどであつて、いづれも生長の後には眞劍に行はねばならぬことのみである。中には戲に交尾の眞似までするが、これも生長の後には眞劍に行はねばならぬ。されば遊戲なるものは單に元氣のあり餘るまゝに身體を活動させて、時間を浪費して居るのではなく、生長の後に必要な働を豫め練習して居るのである。そして父親がこれに加はることは決してなく、母親はときどき仲間に入つて共に戲れることもあれば、また側に靜止して横著な媬姆の如くに横目で監督して居ることもある。とにかく親が保護しながら、かゝる有益な練習をさせるのであるから、これは立派に教育と名づくべきものであらう。

[やぶちゃん注:「媬姆」保母のこと。中文サイトに出るので国字ではない。学術文庫版では『保母』と替えられている。]

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(1) 序・「一 教育の目的」・「二 鳥類の教育」

 

    第十八章  教  育

 

 大概の動物では無數の卵を産み放しにするか、または子を保護し養育しさへすれば、子孫の幾分かが必ず生存し得る見込みは立つが、獸類・鳥類などの如き神經系の著しく發達した動物になると、更に子を或る程度まで教育して置かぬと、安心して生存競爭場裡へ手放すことが出來ぬ、敵を防ぐに當つても餌を取るに當つても、敏活な運動が出來ねば競爭に敗ける虞がゐるが、敏活な運動には數多くの神經と筋肉との相調和した働が必要で、それが即座に行はれ得るまでには、多くの練習を要する。しかして練習するに當つて子が獨力で一々實地に就いて練習しては危險が多くて、大部分はその間に命を落すを免れぬ。例へば敵から逃げることの練習をするのに、子が一々實際の敵に遭遇して逃げるとすれば、これは眞劍の勝負であるから、練習中に殺されるものが幾らあるか知れぬ。もしこれに反して親が假想の敵となつて子を追ひかけ子は一生懸命に逃げるとすれぱ、危瞼は少しもなくて同じく練習となり、練習が積んで完全に逃げ得るやうになつてから、これを世間に出せば、子の死ぬ割合は餘程減ずるから、親は子を遺す數が少くても、ほゞ種族繼續の見込みが附いたものと見倣して安心して死ねる。されば生活に必要な働の練習を、子が若いときに獨力でするやうな動物は、餘程多くの子を産まねばならず、また親が手傳うて子に練習させるやうな動物ならば、それだけ子を少く産んでも差支はない。更にこれを裏からいへば、子を多く産む種類は、練習を子の自由に委せて置いても宜しいが、子を少く産む種類では、親が除程熱心に子の練習を助けてやらねば、種族維持の見込みが立たぬといふことになる。

 

 尤も動物の種類によつては、少しも練習を要せずして隨分精巧な仕事をするものがある。蜜蜂が六角の規則正しい部屋を造り、蠶が俵狀の美しい繭を結びなどするのはその例であるが、これは所謂本能によることで、その理由は、恐らく神經系が生まれながらにしてこれらの仕事をなし得る狀態にあるからであらう。即ち始から他の動物が練習によつて達し得る狀態と、同じ狀態にゐるのであらう。そしてまたその源を尋ねれば、先祖代々の經驗の傳はつたものと見倣すの外はないから、やはり今日までの種族發生の歷史中に練習を重ね來つた結果といふことも出來よう。人間でも生まれて直に乳の吸ひ方を心得て居たり、巧に呼吸運動をしたり、咄嵯の間に瞼を閉ぢて眼球を保護したりするのは皆本能の働で、少しも練習を要せぬ。

 

 かやうに數へ上げて見ると、動物のする働の中には、本能によつて先天的にその力の具はつてゐるものと、練習によつて後天的に完成するものとがあり、また練習するに當つては子が獨力で自然に練習を積む場合と、親が子を助けて安全に練習せしめる場合とがある。教育とはすべて後の如き場合に當て嵌めて用うべき言葉であらう。

 

     一 教育の目的

 

 大抵の教科書を開いて見ると、たゞ人間の教育のみに就いて書いてあるから、その目的の如きも、人間だけを標準として至つて狹く論じてある。しかもその書き方が頗る抽象的で摑まへ所を見出すに苦しむやうなものも少くない。今日では比較心理學などの流行し來つた結果、止むを得ず鳥獸にも子を教育するものがあると書いた論文をも往々見掛けるが、少しく古い書物には「教育は人間のみに限る。なぜといふに、精神を有するのは人間のみに限る。なぜといふに、精神を有するものは人間のみである。」などと書いてあつた位で、他の生物に行はれる教育までも、研究の範圍内に入れ、全體を見渡して論を立てる如きことは夢にもなかつた。その有樣は、恰も昔天動説の行はれて居た頃に、地球を以て一種特別のものと考へ、その金星・火星・木星土星などと同格の一遊星なることを知らずに居たのと同じであるが、かやうに根本から考が間違つて居ては、如何に巧に議論しても、到底正しい知識に到著すべき見込みがない。教育の目的を論ずるに當つては、まづかゝる迷ひを捨て、人間も他の動物も一列に竝べて、虛心平氣に考へねばならぬ。

 

 動物の種類を悉く竝べて通覽すると、子を産み放しにして少しも世話せぬ種類が一番多く、子を聊かでも保護する種類はこれに比べると遙に少い。また子を單に保護するだけのものに比べると、親が子に食物を與へて養育するものは遙に少く、子を養ふものに比べると、子を教育するものは更に遙に少い。かくの如く、子を教育する種類は、全動物界中の極めて小部分に過ぎぬが、如何なる僧物が子を教育するかといヘば、これは殆ど悉く獸類・鳥類であつて、その他には恐らく一種もなからう。そしてこれらは解剖學上から見れば、現在生存する動物中、腦の最も大きく發達して居るもの、また地質學上から見れば、諸動物中最後に地球上に現れたもの、習性學上から見れば、他の勤物に比して子を産む數の最も少いものである。獸類も鳥類も共に本能によつて生まれながらなし得ることよりは、練習によつて完成しなければならぬ仕事の方が遙に多いから、教育の多少は直にその種族の存亡に影響し、隨つて教育に力を入れる種類が、代々競爭に打ち勝つて終に今日の有樣までに遂したのであらう。これらの動物が、如何にその子を教育するかは次の節で述べるが、いづれにしても單細胞時代・囊狀時代、もしくは水中を泳いで居た魚形時代の、昔の先祖の頃から已に子を教育したわけではなく、恐らく初は無數の子を産み放した時代があり、次には子の數が漸々減じて親がこれを保護しむ時代があり、次第に進んでこれを養ふやうになり、最後にこれを教へるやうになつたものと思はれる。

[やぶちゃん注:「囊狀時代」原始的な多細胞生物。]

 

 動物の親子の關係に種々程度の異なつたもののゐるのを見、且一歩一歩その關係の親密になり行く狀態を考へると、教育の目的は生殖作用の補肋として、種族の維持を確ならしめるにあることは極めて明である。教育の書物には何と書いてあらうが、生物學上から見れば、教育は種族の維持繼續を目的とする生殖作用の一部であるから、その目的も全く生殖作用の目的と一致して、やはり種族の維持にあることは疑ない。これだけはすべての動物を比較しての結論であるから、いづれの動物にも當て嵌ることで、その中の一例なる人間にも素よりそのままに當て嵌ることと思ふ。但し人間の教育に就いては、更に後の節で述べるから、こゝには省いて置く。

 

     二 鳥類の教育

 

 前にも述べた通り、鳥類の卵から孵つて出る雛は、種類の異なるに隨つて、それぞれ發育の程度が違ふから、これを養ひ教育する親の骨折にも種々難易の相違がある。概していへば、「きじ」雞などの如き平生餘り飛ばぬ烏は比較的大きな卵を産み、それから孵る雛は直に走り得る位までに發育して居る。これに反して、燕や鳩のやうな巧に飛ぶ鳥は小さな卵を産み、それから孵る雛は頗る小さくて弱いから、特に親に保護せられ養はれねば一日も生きては居られぬ。また雛が稍々生長してからも、地上を走る鳥ならば、たゞ親の呼聲を覺えしめ、地上から小さな物を速に啄むことを練習せしめなどすれば、それで宜しいが、常に飛ぶ鳥では雛を教へて、飛翔の術を練習せしめねばならず、なほ飛びながら餌を取る法や、敵から逃れる法を會得せしめねばならず、これにはなかなか容易ならぬ努力を要する。

 

 卵から孵つたばかりの雞の雛は、食物が地上に澤山落ちてあつてもこれを啄むことを知らずに居ることがある。しかるにもし鉛筆かペン軸で地面を敲いて音を立てると、直に啄み始める。これは一種の反射作用であつて、雛に生まれながらこの性質が具はつてあるために、親鳥が地面を敲くと、雛がその音を聞いて直に物を啄む練習を始めるのである。そして、初の間は砂粒でも何でも啄んで口に入れ、食へぬものは再びこれを吐き出すが、後には段々識別の力が進んで、食へるものだけを選んで啄むやうになる。また牝雞が雛を集め、米粒などを態々高くから地面に落して、その躍ね散るのを拾はせて居る所を屢々見るが、これは迅速に且精確に小さな物を啄むことを練習させて居るのであつて、雛に取つては頗る有益な教育である。

[やぶちゃん注:「態々」老婆心乍ら、「わざわざ」と読む。

「躍ね散る」「はねちる」。]

 

 鳥類の多數は飛翔によつて生活して居るが、飛翔はすべての運動中最も困難なもの故、巧になるまでには大に練習を要する。巣の内で育てられた雛が稍々大きくなると、親鳥はこれに飛ぶことを練習させるが、最初は雛は危ながつて、容易に巣から離れようとはせぬ。 これを巣から出して飛ばせるためには、或る種類では親鳥が雛の最も好む餌を銜へて、まづ巣から出て、恰も人間が歩き始めの幼兒に「甘酒進上」といふて、歩行の練習を奬勵する如くに、餌を見せて雛を誘ひ出す。即ち興味を以て導かうとする。また他の種類では、所謂硬教育の流儀で、親鳥が雛を巣から無理に押し出して止むを得ず翼を用ゐさせる。無論初は極めて短距離の處を飛ばせ、次第に距離を增して終に自由自在に飛べるやうになれば、全く親の手から離すのでゐる。南アメリカの「コンドル鷲」の如き大鳥になると、雛が飛翔の練習を卒業して獨立の生活に移るまでには約三年を要する。

[やぶちゃん注:「甘酒進上」講談社学術文庫版では『あまざけしんじょう』とルビを振るが、私は「あまざけしんじよ(まざけしんじょ)」と読みたい。これは所謂、古来、本邦で未だよちよち歩きの幼児を上手に歩かせるようにするため、少し離れた所から呼びかけるところの台詞「処(ここ)までお出で、甘酒進(しん)じょ」(「進じょ」は「進ぜむ進ぜん進ぜう進じよ進じょ」の音変化)であるからである。

「コンドル鷲」タカ目コンドル科 Vultur 属コンドル Vultur gryphus 。]

Wasinooyako

[鷲の親と子]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 餌を巧に捕へるにも餘程の練習を要する。雀などでも雛が飛び得るやうになつた後も、なほ暫くは親が常に迷れ歩いて餌を食はせて居るがどの間に雛は親に見習うて、次第に自分で餌を拾ひ得るやうになり、最早親の補助がなくとも十分に生活が出來るやうになれば、そのとき親と離れてしまふ。鷲・鷹の如き稍々大きな生きた餌を捕へて食ふ猛禽類では、教育が更に順序正しく行はれ、まづ初には兩親が雛を獵に連れて行くが、たゞ見學させるだけで、實際餌を捕へる仕事には加はらしめず次には親が餌を傷け弱らせ置いて雛にこれを捕へ殺させ、次には親と雛と協力して獵をなし、雛の腕前が聊熟達して來ると、終には雛のみで餌を捕へさせ、親はたゞこれを監督し、萬一餌が逃げ去りさうな場合にこれを防ぐだけを務める。即ち「易より人つて難に進む」といふ教授法の原則が、巧に實行せられて居るのである。

 

 水鳥が雛に游泳のの練習をさせたり、魚を捕へる練習をさせたりする方法も、以上とほゞ同樣で、初めはたゞ簡單な游泳の練習のみをさせ、餌は親が直接に食はせてやり、次には親が啄いて少しく弱らせた魚を、雛から三〇糎位の處に放してこれを捕へさせ、これが出來れば次は六〇糎位の處、次には九〇糎位の處といふやうに、順々に距離を增して、速に泳ぐことと巧に捕へることとを兼ねて練習せしめる。かくして雛の技術が進めば親は少しく助けながら、自然のまゝの勢のよい魚を捕へしめ、これが十分に出來るやうになればやがて卒業させる。「あひる」だけは長らく人に飼はれた結果として、雛は肥り翼は短くなり卵は大きく、これから出た雛は直に水面を游ぎ得る程に發育して居るから、少しも教育らしいことをせぬが、これは素より例外であつて、野生の水鳥は大抵皆雛を教育する。雛がまだ泳げぬ間は、これを足の間に挾んで保護したり、恰も人間が子を負ふ如くに自分の背に載せて泳ぐ種類などもあるが、いづれにしても、親が手放す前には必ず獨力で生活の出來る程度までに、泳ぐことと魚を捕へることとの練習が進んで居る。

 

 以上は食ふための教育であるが、鳥類にはなほ結婚して子を遺し得るための教育も行はれる。即ち歌や踊も決して雛が生まれながらに巧に出來るものではなく聞いては眞似し見ては眞似して一歩一歩練習上達して、終に他と競爭し得る程度までに達するのである。尤も歌の大體の形だけは遺傳で傳はり、他の歌ふのを聞かずとも、本能によつて各種類に固有な歌を謠ひ始めるが、それだけでは極めて拙であつて到底他と競爭することは出來ぬ。鶯などもよく鳴かせるむめには歌の巧な鶯の側へ持つて行つて、向ふの歌を聞かせ習はせる必要のあることは、鶯を飼ふ人の誰も知つて居ることであるが、かくの如く聞けば覺えて段々上手になるのは、元來教育せられ得べき素質を具へて居るからであつて、人に飼はれず、野生して居るときにも無論この點に變りはなく、雛のときに拙く鳴き始め、老成者の熟練した歌を眞似て次第に巧になる。藪の中ばかりに居ては到底座敷の鶯の如くに、人間の注文に應じたやうな歌ひ方はせぬであらうが、鶯仲間での競爭に加はり得べき程度までに上達するのは、やはり教育の結果である。

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(8) 五 親を食ふ子 / 第十七章 親子~了

      五 親を食ふ子

 

 前に幼時生殖のことを述べるに當つて、植物に五倍子を造る一種の微細な蠅のことを例に擧げたが、この蠅の幼蟲が卵を産むときには、卵は親なる幼蟲の体内で發育し、親と同じ形の幼蟲となり、初は子宮の内に居るが、少しく大きくなると皆子宮を食ひ破つて、母の身體の組織を片つ端から食ひ盛に生長する。それ母の體は遂にはたゞ表面を包む薄皮が一重殘るだけで、恰も氷囊の如きものとなつてしまふ。人間は母親のことをときどきお袋と呼ぶが、この蟲では母親は眞に囊だけとなり、肉は悉く胎兒に食はれてその肉に化するのである。胎兒は生長が進むと、終に母の遺骸なる薄皮の囊を破つて出るが、かやうな場合にこれを「生れ出る」と名づくべきか否か、頗る曖昧で、實は何と名づけて宜しいかわからぬ。「生まれる」といふ文字は元來母の體はそのまゝに存して、子の體が母の體から出で離れる普通の場合に當つて造られもの故、普通と異なつた場會によく當て嵌らぬのは當然である。この蟲などでは、子が生まれるときは既に母親は居ないが、居ない親から子が生まれるといふのは如何にも理窟に合はぬ。またそれならば、母に親は死んだかといふと、後に死骸が殘らぬから、普通の意味の死んだともいひ難い。即ち生きて居る親の身體組織が、生きたまゝで子に食はれるから、これが親の死骸であるというて指し示すことの出來るものは全く生ぜぬ。前に薄皮の囊を母の遺骸というたが、これは單に便宜上いうたことで、體の表面を包む薄皮の如きは、人體に譬へていへば毛か爪か、厚皮の表面の如き神經もなく、切つても痛くない部分故、これのみでは無論眞の遺骸とは名づけられぬ。死骸の發見せられぬ人の葬式に、頭髮を以てこれに代用するのと同じ意味で、遺骸というたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「前に幼時生殖のことを述べるに當つて、植物に五倍子を造る一種の微細な蠅のことを例に擧げた」「長幼の別(5) 四 幼時生殖(2) タマバエの例」の箇所。

「この蠅」前記箇所の「蟲癭」に附した注で、私は有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科 Cecidomyiinae 亜科 Mycodiplosini Mycophila 属に属するタマバエと取り敢えず比定した。]

Kaerukiseityu

[蛙の寄生蟲

右の二疋は泥中に自由に生活するもの(長さ約一・五粍)

左の一疋は蛙の肺の内に寄生するもの(長さ約一・五粍)]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 これと同樣の例をなほ一つ擧げて見るに、蛙類の肺臟の内に往々一種の小さな絲の如き寄生蟲が居る。蛔蟲・十二指腸蟲などと同じ仲間に屬するものであるが他のものが皆雌雄異體であるに反し、これは一疋毎に雌雄を兼ね、その産んだ卵は蛙の肺から食道・胃腸に移り、蛙の糞と共に體外に出で、水の中で發育する。かくして生じた子は親とは形が違ひ同じく絲狀ではあるが、親に比べると稍太くて短く、且つ雌雄の別があつて形も互に違ふ。泥の中で自由に生活し、成熟すると交尾して、雌の體内に少數の子が出來る。これらの子供は始は親の子宮の内で發生し、少しく生長すると子宮を食ひ破つてその外に出で、母親の肉を順々に食ひ進み、遂には表面の薄皮のみを殘して、内部を全く空虛にしてしまふ。この點は、前の例に於けると少しも違はぬ。次に薄皮をも破つて裸で泥の中に生活し、蛙に食はれてその體内に入ると、直に肺臟内に匍ひ移り、少時で雌雄同體の生殖器官が成熟して卵を産むやうになる。前の蠅は幼蟲が子を産むから、幼時生殖の例であつたが、この寄生蟲はかくの如く雌雄同體で卵生する代と、雌雄異體で胎生する代とが交る交る現れるから、世代交番の例ともなる。

[やぶちゃん注:「蛙類の肺臟の内に往々一種の小さな絲の如き寄生蟲が居る」寄生部位の特異性から、浅川満彦論文「日本産カエル類に寄生する線虫類の保全医学的なコメント(PDF)にある、

線形動物門双腺綱桿線虫亜綱桿線虫目桿線虫亜目桿線虫(カンセンチュウ)科 Rhabdias

かと思われる。更に限定させてもらうなら、

ガマセンチュウ(蟇線虫)Rhabdias bufonis

ではないか私は考える。何故ならこの丘先生の図と殆ど相同の同種の図(恐らく原画は同一物である)を前段と同じロシア語サイトРис. 197 (zu) Rhabdias bufonis: гермафродитное и свободноживущее поколенияに見出せるからである。因みに、浅川氏によれば、本種や、腸に寄生する桿線虫目糞線虫上科糞線虫(フンセンチュウ)科 Strongyloides 属及び桿線虫亜綱円虫目モリネウス科の Batrachonema 属と Oswaldocruzia属、及びCosmocercidae科の各属、双腺綱旋尾線虫亜綱カイチュウ(回虫)目 Meteterakis 属らは、『まったく健康に見える野生カエル類から発見される。おそらく,これら宿主体内で線虫単独による重篤な疾病発生原因とはなり難いであろう。しかし,たとえば,飼育環境下におかれ,ほかの病原体の感染やストレスにより,症状をより悪化させる因子になることが考えられる』と喚起を促しておられる。

「蛔蟲・十二指腸蟲などと同じ仲間に屬する」「蛔蟲」は前注にも示した通り、

線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱(但し、桿線虫亜綱とする記載もある)回虫(カイチュウ)目 Ascaridida

に属し、本文の本種を、

双腺綱桿線虫亜綱桿線虫目桿線虫亜目桿線虫(カンセンチュウ)科 Rhabdias 

と仮定するならば、同じ「線虫」であり、しかも綱(或いは亜綱)のタクサで同類と言え、「十二指腸蟲」の方も、

桿線虫亜綱円虫目鉤虫上科鉤虫科 Ancylostomatidae

で亜綱のタクサで同類である。因みに、「十二指腸虫」という呼称は、本来、本種は小腸上部に寄生するにも拘わらず、たまたま最初に十二指腸で発見されたために、この名が与えられたに過ぎないため、現行では鉤虫と呼ぶ方がよい。]

 

 動物界に於ける親と子の關係を見渡すと、本章に掲げた例だけによつても知れる通り、全く無關係なものから、親が子を保護するもの、親が子を養育するもの、子が親の身體を食うて生長するものまで、實にさまざまの階段がある。しかもよく調べて見ると、決して偶然に不規則にさまざまのものが竝び存するのではなく、一々かくあるべき理由が存し、如何なる場合にも種族の維持繼續を目的として、そのため各々異なつた手段を採つて居るに過ぎぬことが明に知れる。例へば最後に擧げた例の如きも、種族繼續の目的からいふと、母親の身體が生きながら子の餌食となることが最も有利であらう。最後の子を産み終つた後の母の身體は、種族の標準としていふと、最早廢物であるが、これが自然に死んで腐つてしまふか、または敵に食はれ敵の肉となつて敵の勢を增すことに比べれば、我が子の身體を造るために利用せられ、直接に自分の種族の繁榮に力を添へ得る方が、全體として遙に得の勘定となる。しからば何故すべての動物で子が母親を食うて生長せぬかといふに、これは各種類の生活狀態が皆相異なつて、甲に對して有利なことも、乙に對しては必ずしも有利と限らぬからである。何事にも一得あれば一失あるを免れぬもので、子が母親の體の内部から食うて生長するとすれば、母は忽ち運動の力を失ひ、子は一塊に集まりて動かずに居ることになるから、敵に攻められた場合には全部食ひつくされて種が殘らぬの虞がある。假に魚類が胎生して胎兒が腹の内から母の肉を食うて生長すると想像するに、さめにでも食はれてしまへば子孫全滅を免れぬから種族保存の上からいへば極めて不利益であつて、これに比べれば無數の小さな卵を撒き散らし、殘つた母の體を廢物として捨て去つた方が如何程有效であるかわからぬ。かやうな次第で、各種動物の習性に應じて、それぞれ最も有效な種族保存の方法が自然に講ぜられて居るから、親子の間にさまざまな關係の違うたものが生ずるのである。

2016/02/24

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 四 命を捨てる親

     四 命を捨てる親

 

 生殖の目的は種族の維持にあるから、子の生存し得べき見込みが附いた上は、親の身體は最早無用となつて死ぬべき筈である。親と子とが相知らぬやうな種類の動物では、卵が生まれてしまへば、親はいつ死んでも差支はない。特に父親の方は受精を濟ませば最早用はないから、なるべく早く死んだ方が却つて種族の生存のためには經濟に當る。蜜蜂の雄が女王の體と繋がつたまゝで氣絶して死ぬのも、「かまきり」の雄が交尾しにまゝで頭の方から雌に食はれるのも、この理窟に過ぎぬ。子を産めば直に死ぬ動物は隨分多いが、或る種類の「さなだむし」の如くに子を産み出すべき孔がなく、子は親の體を破つて外に出るやうな動物では、親の個體を標準として論ずれば、姙娠は即ち自殺の覺悟に當る。これらは、子が出來ると同時に親の近々死なねばならぬことが定まるのであるが、一旦子が出來てから後に、親が子のために命を捨てるものも、決して珍しくはない。獸類や鳥類の如くに、親が子を大事に養育するものでは不意に敵に攻められた場合に親が身を以て子供を護り、そのため一命を落すことのあるは、獵師などから屢々聞く所であるが、かくまで執心に子を保護する性質が親に具はつてあることは、種族維持のために頗る有利であるから、本能として今日の程度までに進み來つたのであらう。

[やぶちゃん注:「蜜蜂の雄が女王の體と繋がつたまゝで氣絶して死ぬ」ウィキの「ミツバチ」には、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis の『オスは女王バチと交尾するため、晴天の日を選んで外に飛び立つ。オスバチは空中を集団で飛行し、その群れの中へ女王バチが飛び込んできて交尾を行う。オスバチは交尾の際に腹部が破壊されるため交尾後死亡するが、女王バチは巣に帰還し産卵を開始する。交尾できなかったオスも巣に戻るが、繁殖期が終わると働きバチに巣を追い出される等して死に絶える』とあるが、『交尾の際に腹部が破壊されるため交尾後死亡する』理由が明確に述べられていないので、さらに調べてみると、個人サイトと思われる中の「養蜂・蜜蜂の神秘」の「4 女王蜂の交尾」に以下のようにある。『新女王は誕生して』七日目以後の、『晴れて風の少ない日に、生涯一度だけの、巣の外での交尾に出かけます。こうした交尾日和には周辺の地域にいる雄バチは地上』十メートルほどの『上空の一箇所に集まりたむろしています。別々の群のオスが何故一箇所に集まることが出来るかはフェロモンを感じてのことです。新女王はオスがたむろしている場所に現れて飛びます。女王を見るとオスは一斉に追いかけ、先頭のオスが交尾します。交尾が終わったオスは挿入したペニスを抜こうとしますが』、『ペニスと貯精嚢(睾丸)を女王の膣に残した状態で腹部からちぎれて、地上に落下して絶命します。次のオスが女王に追いつき、前のオスが残した性器を口で抜き落として、先のオスと同様に交尾します。こうした交尾を』十~十五匹の『オスが次々に繰り返しては落下して絶命します。十分にオスの精子を貯精嚢に溜め込んだ女王は、最後のオスの性器を付けたまま巣に帰還し、働き蜂が最後のオスの性器を除去し、以後、受精卵を産み続けることが出来ます。時にはオスを作るために貯精嚢の蓋を閉じて無精卵を産み分けることもできます。不幸にも交尾出来なかった多くのオスはそれぞれの巣に戻ります』とあった(下線やぶちゃん)。凄絶の極み!!!

『「かまきり」の雄が交尾したまゝで頭の方から雌に食はれる』以前に注しているが、再度注しておく。種によって異なるものの、最新の知見では交尾中にに食われる頻度は必ずしも高くはないという。私は、カマキリ(昆虫綱カマキリ(蟷螂)目 Mantodea)の交尾時には、種によっては高い頻度でに食われ、それはカマキリが近眼で、交尾時でも通常の際と同様に動くものを反射的に餌として捕食してしまうものと認識していた(実際、私は小学生の時に頭部を交尾をしたカマキリで、一方の(と思われる個体の)頭が失われているのを見たことがあったし、サソリのある種ではが頭胸部の下方に無数の子供を抱いて保育するが、落下して母親の視界に入ってしまうと、彼らは近眼であるために大事に育てているはずの子供を食べてしまう映像を見たことがある)。また、正上位での交尾ではそのリスクが高まるため、近年、のカマキリの中には後背位で交尾をして交尾後直ちに現場を去るという個体が見られるようになったという昆虫学者の記載を読んだこともあって、かつて授業でもしばしばそう話したのを記憶している諸君も多いであろう。しかし今回、ウィキの「カマキリ」の「共食い」の記載の見ると、幾分、異なるように書かれてある。一応、以下に引用しておきたい(オス(雄)・メス(雌)を記号に代えた)。『共食いをしやすいかどうかの傾向は、種によって大きく異なる。極端な種においてはに頭部を食べられた刺激で精子嚢をに送り込むものがあるが、ほとんどの種のは頭部や上半身を失っても交尾が可能なだけであり、自ら進んで捕食されたりすることはない。日本産のカマキリ類ではその傾向が弱く、自然状態でを進んで共食いすることはあまり見られないとも言われる。ただし、秋が深まって捕食昆虫が少なくなると他の個体も重要な餌となってくる』。『一般に報告されている共食いは飼育状態で高密度に個体が存在したり、餌が不足していた場合のものである。このような人工的な飼育環境に一般的に起こる共食いと交尾時の共食いとが混同されがちである。交尾時の共食いもが自分より小さくて動くものに飛びつくという習性に従っているにすぎないと見られる。ただしを捕食することはなく、遺伝子を子孫に伝える本能的メカニズムが関係していると考えられる(すなわちを捕食してはDNAが子孫に伝わらなくなる)。また、このような習性はクモなど他の肉食性の虫でも見られ、特に珍しいことではない』『また、それらのを捕食する虫の場合、が本能的にいくつものと交尾をし、体力を使いすぎて最後に交尾したの餌になっている場合もある』。私の話はカマキリの種によっては誤りではない、と一応の附言はしておきたい。]

『或る種類の「さなだむし」の如くに子を産み出すべき孔がなく、子は親の體を破つて外に出る』ウィキの「サナダムシ」によれば、サナダムシは扁形動物門条虫綱 Cestoda に属する成体の形状が真田紐(さなだひも)に似ている寄生虫の総称で(英語も「Tapeworm」)、単節条虫亜綱 Cestodaria 及び多節条虫(真正条虫)亜綱 Eucestoda の二亜綱に分かれるものの、殆どは後者に属する。

単節条虫亜綱は、

両網目 Amphilinidea(アンフィリナ/ヨウヘンジョウチュウ(葉片条虫):チョウザメ(条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科 Acipenseridae のチョウザメ(蝶鮫)類)に寄生)

と、

槢吸盤(しゅうきゅうばん)目 Gyrocotylidea(ギロコティレ/エンバイジョウチュウ(円杯条虫):ギンザメ(軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma )に寄生)

で、多節条虫(真正条虫)亜綱の方は、

果頭目 Caryophyllidea

箆頭(へいとう?)目 Spathebothriidea

錐吻目 Trypanorhyncha

擬葉目 Pseudophyllidea(裂頭条虫科裂頭条虫属コウセツレットウジョウチュウ(広節裂頭条虫=ミゾサナダ)Diphyllobothrium latum・裂頭条虫科スピロメトラ属マンソンレトウジョウチュウ(マンソン裂頭条虫)Spirometra erinaceieuropaei・裂頭条虫科裂頭条虫属ニホンカイレットウジョウチュウ(日本海裂頭条虫)Diphyllobothrium nihonkaiense・裂頭条虫科 Sparganum 属ガショクコチュウ(芽殖孤虫)Sparganum proliferum 等)

盤頭目 Lecanicephalidea

無門目 Aporidea

四葉目 Tetraphyllidea(キュウヨウジョウチュウ(吸葉条虫/学名不詳)・キュウコウジョウチュウ(吸鈎条虫/学名不詳)

二葉目 Diphyllidea

菱頭目 Litobothridea

日本条虫目 Nippotaeniidea

変頭目 Proteocephalidea

二性目 Dioectoaeniidea

円葉目 Cyclophyllidea(ディフィリディウム科(新科名)ウリザネジョウチュウ(瓜実条虫=犬条虫)Dipylidium caninum・テニア科 Cysticercus 属ユウコウジョウチュウ(有鉤嚢虫=カギサナダ)Cysticercus cellulosae テニア科テニア属ムコウジョウチュウ(無鉤条虫=カギナシサナダ)Taenia saginata・テニア科エキノコックス属 Echinococcus エキノコックス類等)

に分類され、多くの種が存在する。彼らは普通は雌雄同体であり、同ウィキに『多節条虫亜綱のものは、頭部とそれに続く片節からなる。頭部の先端はやや膨らみ、ここに吸盤や鉤など、宿主に固着するための構造が発達する。それに続く片節は、それぞれに生殖器が含まれており、当節から分裂によって形成され、成熟すると切り離される。これは一見では体節に見えるが、実際にはそれぞれの片節が個体であると見るのが正しく、分裂した個体がつながったまま成長し、成熟するにつれて離れてゆくのである。そのため、これをストロビラともいう。長く切り離されずに』十メートルにも『達するものもあれば、常に数節のみからなる』数ミリメートル程度の『種もある。切り離された片節は消化管に寄生するものであれば糞と共に排出され、体外で卵が孵化するものが多い』とある。しかし丘先生のおっしゃる種は、そうした分裂生殖した個体の謂いとは異なるものとしか読めない。種同定することが出来ない(だいたいからして寄生虫の分類学は本邦ではかなり遅れているようである)。母体を食い破って幼体が出現するというサナダムシの仲間、識者の御教授を乞うものである。]

 

 鳥獸などの如き神經系の發達した動物が、命をも捨てて我が子を護る働は、人間自身に比べて、よく了解することが出來るが、小さい蟲類になると、人間では思ひ掛けぬやうな方法で、子を保護するものがある。蛾の中で「まいまい蛾」と稱する普通の種類は、卵を一塊産み著けると、その表面に自分の身體に生えて居た毛を被せて蔽ひ包み、まるで黃色の綿の塊の如くに見せて置く。これは母親が即座に命を捨てるわけではないが、まづ自分の毛を全く失ふこと故、人間の女に譬へていへば恰も綠の黑髮を根元から切つて子供の夜具に造り、しかる後に自害するやうなものであらう。また植物に大害を與へる貝殼蟲の類には、死んでもその場處に留まり、自分の乾からびた死骸を以て卵の塊を蔽ひ保護するものがある。貝殼蟲は初は「ありまき」の如くに六木の足を以て匍ひ歩くが、一箇處に止まり、吻を植物の組織の中へ差込んで動かぬやうになると、體が恰も皿か貝殼かの如き形に變じ、一見しては昆蟲とは思はれぬやうなものになる。そして成熟して産卵する頃に至ると、蟲の柔い身體は背面の貝殼の如き部とは離れ、貝殼に被はれたまゝでその内で卵を産むが、卵を一粒産むたびに親の身體はそれだけ容積が減じ、悉く卵を産み終れば貝殼の内部は全く卵のみで滿され、親の體は恰も空の紙袋の如くになつて貝殼の一隅に縮んでしまふ。これに類する死に方をするものはなほ幾つもあるが、こゝには略して、次に一つ全く別の方面に、親が子のために一身を犧牲に供するものの例を擧げて見よう。

[やぶちゃん注:「まいまい蛾」鱗翅(チョウ)目ヤガ上科ドクガ科マイマイガ属マイマイガ Lymantria dispar である。ウィキの「マイマイによれば、ドクガ科ではあるが、『アレルギーでもない限り、人が害を被ることはほとんどない』。但し、一齢幼虫には『わずかだが毒針毛があり、触れるとかぶれる。卵』・二齢以降の幼虫・繭・成虫『には毒針毛はない』とあるので偏見を持たぬように。また、『他のドクガ科と同様、卵は一箇所にまとまって産み付けられ、表面にはメスの鱗毛が塗られ保護される』とある(下線やぶちゃん)。またこの和名については「舞々蛾」らしく、本種は七月から八月にかけて羽化するが、『オス成虫は活動的で、日中は森の中を活発に飛び回る。和名のマイマイガはオスのこの性質に由来していると言われる。対照的に、メスは木の幹などに止まってじっとしており、ほとんど飛ぶことはない。交尾後に産卵を終えると成虫は死に、卵で越冬する』とある。

「貝殼蟲」有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea に分類される昆虫の総称。ウィキの「カイガラムシ」によれば(下線やぶちゃん)、『果樹や鑑賞樹木の重要な害虫となるものが多く含まれ』る一方、古くから『いくつかの種で分泌する体被覆物質や体内に蓄積される色素が重要な経済資源ともなっている分類群である』。『熱帯や亜熱帯に分布の中心を持つ分類群であるが、植物の存在するほぼ全ての地域からそれぞれの地方に特有のカイガラムシが見出されており、植物のある地域であればカイガラムシも存在すると考えても差し支えない。現在』、世界では約七千三百種が『知られており、通常は』二十八科に『分類されている。ただしカイガラムシの分類は極めて混乱しており、科の区分に関しても分類学者により考え方が異なる』。『日本に分布する代表的な科としてはハカマカイガラムシ科 Orthezidae 、ワタフキカイガラムシ科 Margarodidae 、コナカイガラムシ科 Pseudococcidae 、カタカイガラムシ科 Coccidae 、マルカイガラムシ科 Diaspididae などがある』。同じような食性を持つ半翅目の腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea のアブラムシ類(本文の「ありまき」のこと)などの腹吻類の『昆虫は、基本的に長い口吻(口針)を植物組織に深く差し込んで、あまり動かずに篩管液などの食物を継続摂取する生活をし、しばしば生活史の一時期や生涯を通じて、ほとんど動かない生活をする種が知られる。その中でもカイガラムシ上科は特にそのような傾向が著しく、多くの場合に脚が退化する傾向にあり、一般的に移動能力は極めて制限されている』。『脚が退化する傾向にはあるものの、原始的な科のカイガラムシではそこに含まれるほとんどの種が機能的な脚を持っており、中には一生自由に動き回ることができる種もいる。イセリアカイガラムシやオオワラジカイガラムシはその代表例で、雌成虫に翅は通常無いものの、雌成虫にも脚、体節、触角、複眼が確認できる。しかしマルカイガラムシ科などに属するカイガラムシでは、卵から孵化したばかりの』一齢幼虫の『時のみ脚があり自由に動き回れるが』、二齢幼虫以降は『脚が完全に消失し、以降は定着した植物に完全に固着して生活するものがいる。こうしたカイガラムシでは』、一齢幼虫以外は『移動することは不可能で、脚以外にも体節、触角、複眼も消失する。雌の場合は、一生を固着生活で送り、そのまま交尾・産卵、そして死を迎えることになる』。『基本的には固着生活を営む性質のカイガラムシでも、一部の科以外のカイガラムシでは機能的な脚を温存しており、環境が悪化したり、落葉の危険がある葉上寄生をした個体が越冬に先駆けて、歩行して移動する場合もある』。『だが、基本的に脚が温存されるグループのカイガラムシであっても、樹皮の内部に潜入して寄生する種やイネ科草本の稈鞘』(かんしょう:「稈」は稲や竹など中空になっている茎の部分で、イネ科植物全般の茎につく葉の基部にある鞘(さや)状の部分を指す)『下で生活する種などでは、脚が退化してしまい成虫においては痕跡的な脚すら持たないものもいる』。『また固着性の強い雌と異なり、雄は成虫になると翅と脚を持ち、自由に動けるようになる。だが、雄でも幼虫の頃は脚、体節、触角、複眼が消失し、羽化するまで固着生活を送る種が多い』。『もうひとつカイガラムシに特徴的な形質は体を覆う分泌物で、虫体被覆物と呼ばれる。虫体被覆物の主成分は余った栄養分と排泄物である。多くのカイガラムシが食物としているのは篩管』(しかん:「師管」とも書き、植物の維管束を構成する主部分。葉で合成された同化物質を下へ流す通管で細長い細胞が縦に繫がった管状組織。細胞の境の膜(篩板)に多数の小孔を有する)『に流れる液であり、ここに含まれる栄養素は著しく糖に偏った組成となっている。これをカイガラムシの体を構成する物質として同化すると、欠乏しがちな窒素やリンなどと比して、炭素があまりにも過剰になってしまうので、これを処理する必要がある。処理の手段の一つは食物に含まれる過剰の糖と水分を、消化管にある濾過室という器官で消化管の経路をショートカットさせて糖液として排泄してしまうことであり、この排泄された糖液を甘露という。また、体内に取り込まれた過剰の糖分は炭化水素やワックスエステル、樹脂酸類などといった、蝋質の分泌物に変換されて体表から分泌され、虫体被覆物となる。カイガラムシの種類によっては、甘露などの消化管からの排泄物を体表からの分泌物とともに虫体被覆物の構成要素としている』。『通常虫体が露出しているように見える種のカイガラムシでも、その表面は体表の分泌孔や分泌管から分泌されたセルロイド状の分泌物の薄いシートで被覆されている。また、分泌物の量が多いものでは体表が白粉状や綿状、あるいは粘土状の蝋物質で覆われていることが容易に観察できる』。『マルカイガラムシ科のカイガラムシは多くの科のカイガラムシとは少々様相が異なり、英語で Armored scale insects と呼ばれるように、虫体からは分離して、体の上を屋根のように覆う介殻と呼ばれる貝殻状の被覆物の下で生活している。これは体表の腺から分泌される繊維状の分泌物などを腹部末端の臀板と呼ばれる構造を左官職人の用いる鏝(こて)のように用いて壁を塗るように作り上げられる。このとき虫体は口針を差し込んでいる箇所を中心に回転運動して広い範囲に分泌物を塗りこむ。この介殻も、余った栄養分と排泄物から成り立っている』。『典型的な不完全変態である他のカメムシ目(半翅目)の昆虫と異なり、仮変態(新変態、副変態とも)と呼ばれる変態を行う。雌雄では成長過程が大幅に異なっている』。『雌の場合』、二齢幼虫を『経て成虫になるが、脱皮せずにそのまま成虫になる種が多く見られる。これは脚などが消失し、固着生活を送る種では顕著に見られる。すなわち、羽化をせずに成虫になる。このような種では体内に大きな卵のうを有しているため産卵活動もせず、交尾後、雌成虫の死骸から孵化した』一齢幼虫が『這い出してくる形となる。また、脚などが消失せず、移動生活を送る種でも、羽化して成虫になる種は多くない』。雄の場合、三齢幼虫を『経て成虫になるが』、この三齢幼虫は『擬蛹と呼ばれる。つまり、完全変態昆虫の蛹に該当するが、体内構造が完全変態昆虫の蛹のそれとは大幅に異なっている』。その特異性から『「カイガラムシの雄には蛹の期間があるため、完全変態である」という説明がよくされるが、厳密には不完全変態であり、不完全変態と完全変態の中間的な性質をもち特殊化した物と考えられている。前出の仮変態もこれに因んでいる。そして、羽化して翅と脚を有する成虫になる』。翅は二対四枚あるが、退化して一対二枚しかない『種も多く存在する。雄成虫には口吻がなく、精巣が異常なまでに発達している。そして、交尾を済ませるとすぐに死んでしまう。雄成虫の寿命は数時間から数日程度で、交尾のためだけに羽化する』。『近年、カイガラムシ上科に属する種の中には、雌雄が逆転し、雄が一生を固着生活で終えるのに対し、雌が擬蛹~羽化によって有翅の成虫となる種も発見されている。そして、活発に交尾・産卵をして短い成虫期間を生殖に費やす。また、雌雄ともに擬蛹~成虫というプロセスをたどる種も発見されている。さらには、最終齢幼虫(擬蛹)が不動ではなく摂食する種も存在する。だが、これらの種をカイガラムシ上科に分類するべきではない、とする学説も存在する。カイガラムシの分類学的研究が大幅に遅れているため、これらの種に対して決定的な分類は未だされていない』。『草食性で、大半の被子植物に寄生し、口吻を構成する口針を植物の組織に深く突き刺して、篩管などの汁液を摂取する。食物は維管束から篩管液を摂取するものが多いが、葉に寄生するものを中心に、葉肉細胞などの柔組織の細胞を口針で破壊して吸収するものも少なくない。雌成虫は口吻が異常なまでに発達している種が多く、固着生活を送る種では顕著である。これらの種では寄生している植物から引き剥がしても、口吻が確認できないことが多い。引き剥がした際、口吻まで引きちぎられて宿主植物の内部に残存してしまっていることが多いからである。そのため、宿主植物から引き剥がされた固着性のカイガラムシは、すぐに死んでしまうことが多い。また、移動生活を送る種の場合は、口吻で植物体にくっついているが、それ以外の部分は密着していないため、寄生している植物から引き剥がしても口吻が確認できる。腹面に隠れている頭部全体や脚も確認できることが多い』。以下、「資源生物」の項(「害虫」の項は思うところあって省略する。「害虫」とは人間の勝手な命名であって、彼らはただ生命を維持するために少しばかりの摂餌をしているに過ぎない。爆発的な個体数の増加は寄生虫や病気の蔓延と次世代の飢餓を惹き起こして繁栄即滅亡の危機に繋がる。そうしてそういう異常発生が生じるのは大抵が人が手を入れた非自然環境で発生する)。『カイガラムシの資源生物としての利用は、多くの場合体表に分泌される被覆物質の利用と、虫体体内に蓄積される色素の利用に大別される』。『被覆物質の利用で著名なものはカタカイガラムシ科のイボタロウムシ Ericerus pela (Chavannes, 1848) である。イボタロウムシの雌の体表は薄いセルロイド状の蝋物質に覆われるだけでほとんど裸のように見えるが、雄の』二齢幼虫は『細い枝に集合してガマの穂様の白い蝋の塊を形成する。これから精製された蝋は白蝋(Chinese wax)と呼ばれ、蝋燭原料、医薬品・そろばん・工芸品・精密機械用高級ワックス、印刷機のインクなどに使われている。主な生産国は中国で、四川省などで大規模に養殖が行われている。かつては日本でも会津地方で産業的に養殖された歴史があり、会津蝋などの異名も持つが、現在では日本国内では産業的に生産されていない。会津蝋で作られた蝋燭は煙がでないとされ珍重された』。『色素の利用で著名なものに中南米原産のコチニールカイガラムシ科のコチニールカイガラムシ Cochineal Costa, 1829 がある。エンジムシ(臙脂虫)とも呼ばれ、ウチワサボテン属に寄生し、アステカやインカ帝国などで古くから養殖されて染色用の染料に使われてきた。虫体に含まれる色素成分の含有量が多いので、今日色素利用されるカイガラムシの中ではもっともよく利用され、メキシコ、ペルー、南スペイン、カナリア諸島などで養殖され、染色用色素や食品着色料、化粧品などに用いられている。日本でも明治初期に小笠原諸島で養殖が試みられた記録があるが、失敗したようである』。『こうしたカイガラムシの色素利用は新大陸からもたらされただけでなく、旧大陸でも古くから利用されてきた。例えば地中海沿岸やヨーロッパで古くからカーミンと呼ばれて利用されてきた色素はタマカイガラムシ科の Kermes ilicis (Linnaeus, 1758) から抽出されたものだった。カイガラムシ起源の色素はすべてカルミン酸とその近縁物質で、この名称はカーミンに由来する。ネロ帝の時代に、ブリタンニア地方に生息していたカイガラムシを染料として利用する方法が発見され、属州から税金の代わりにとして納められていた時代もある』。『虫体被覆物質と虫体内色素の両方を利用するものに Lac に代表されるラックカイガラムシ科』 Kerriidaeの『ラックカイガラムシ類が挙げられ、インドや東南アジアで大量に養殖されている。ラックカイガラムシの樹脂様の虫体被覆物質を抽出精製したものはシェラック(Shellac、セラックともいう)と呼ばれ、有機溶媒に溶かしてラックニスなどの塗料に用いられるほか、加熱するといったん熱可塑性を示す一方である温度から一転して熱硬化性を示すので様々な成型品としても用いられ、かつてのSPレコードはシェラック製だった。化粧品原料、錠剤、チョコレートのコーティング剤としても使われる』。『また、ラックカイガラムシの虫体内の色素は中国では臙脂(えんじ)や紫鉱、インドではラックダイと呼ばれ、染料として古くから盛んに用いられた』。『また、特殊な利用に糖分を多く含んだ排泄物の利用がある。旧約聖書の出エジプト記にしるされているマナと呼ばれる食品は、砂漠地帯で低木に寄生したカイガラムシの排泄した排泄物(甘露)が急速に乾燥して霜状に堆積したものと推測されている』。]

 

 夏日花のある處に澤山飛んで來「はなばち」・「まるばち」などといふ蜂の類は體が丸くて、黑色や黄色の「びろうど」の如き毛で被はれて居るが、この蜂の雌が、冬成蟲のまゝで隱れて居るのを取つて解剖して見ると、その體内に奇妙な寄生蟲の居ることが往々ある。長さ一・五糎ばかりに達する小さな「なまこ」狀の囊で、その内には小さな蛔蟲に似た蟲が澤山居るが、さてこの囊の形が内なる子供と著しく違ふから、確に親であるとも見えず、一體如何にして出來たものか、そのまゝでは到底知れ難い。しかし内なる子供が生長して終に次の代の子を産むに至るまでの發育の順序を詳に調べると、この囊の素性が明に知れる。子供は囊の内で或る程度まで生長すると、囊を破つて出で、次いで蜂の體からも出で地中で獨立に生活し、長さ一粍位になると生殖の器官も十分に成熟する。かくして交尾の後、雄は直に死んでしまふが、雌は「はなばち」の體内に潜り込み、その中で母の體内の子供が段々發育するのである。そしてその際、母の體に意外な變化が生ずる。即ち前圖の通り、生殖器の開き口に直に接する膣と稱する部が、恰も巾著を裏返しにした如くに裏返しとなつて、生殖器の孔から體の外面に現れ出る。膣の内面は外面となつて、直に宿主動物の組織に觸れてこれから滋養分を吸收し、膣の續きなる子宮は、内に子を容れたまゝ膣が裏返しになつたために出來た囊の内に入り來り、内の子の生長すると共に次第に大きくなる。これに引き換へ、膣と子宮とが體外へ脱出した後の母の體はそのまゝ少しも生長せぬから、膣の裏返しになつて出來た囊が長さ一・五糎にもなつた頃には、たゞ極めて小さな附屬物として、その一端に附著して居るに過ぎぬ。膣が裏返しになつて體外へ現れ出ることは、「膣外翻」と稱して人間の女にも往々見る所であるが、こゝに述べた蟲では、このことが規則となり、姙娠すれば必ず膣外翻が起り、しかも新に外向きになつた膣の内面は、宿主動物から滋養分を吸收して、胎兒に供給すべき器官として更に大に發達するのである。その代り、殘りの母の體は最早不用物として、終には宿主動物の組織に吸收せられてしまふの外はない。子を宿主動物の體内でよく發育せしめるために、母體にかやうな變化の生ずる蟲は、今述べたものの外になほ甲蟲類に寄生するもの、蠅類に寄生するものなどが幾種もある。

Hatikiseityu

[     蜂の寄生蟲

(い) 膣の半ば裏返つで出た雌(長さ約一粍)

(ろ) 膣が全く裏返つて大きくなつた雌

(は) 生長し終つた膣の囊(長さ一・五糎)その一端に附著するのは雌の體

(に) 雄]

 

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものであるが、実は本図は底本画像では上段右端の図が「は」となっていて、「は」が二箇所で「に」が存在しない。これは明らかに誤植であるので、学術文庫で確認したところ、上段右端の図は「に」で同寄生虫のの図であり、下段の大きなものは実は同寄生虫のの膣の巨大化したもの(右で左にカーブした端に糸のように附着している逆「へ」の字型のものがの体)であることが判った。そこで「に」であるべき「は」を「に」に見えるよう、加工補正を施しておいた。また、私の判断で読まれる方の意外感をなるべく保つために今までとは違って最後の方に図を持って来て置いた。この寄生虫は図のその形状から見て線形動物門 Nematoda の線虫類と見て、画像で海外サイトを検索してみたところ、どうもマルハナバチに寄生する(同種の英語版ウィキを参照)双腺綱Tylenchida Sphaerulariidae Sphaerularia Sphaerularia bombi なる種或いはその仲間であるように私には思われた(例えばロシア語のサイトРис. 192 (zu) Sphaerularia bombi из полости тела шмеляの図と解説を見よ)。識者の御教授を乞うものである(それにしても日本の学術記載の貧困さは啞然とするばかりである)。

「はなばち」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科 Apoidea の属する蜂類の中で、幼虫の餌として花粉や蜜を蓄える類の総称である。代表種はミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis のミツバチ類・ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa のクマバチ類・ミツバチ亜科(或いはマルハナバチ亜科 )マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus のマルハナバチ類などで、参照したウィキの「ハナバチ」によれば、『英語のBeeの意味する範囲に相当する』とある。

「まるばち」現行ではこの呼び名は一般的でない。前注のマルハナバチ属 Bombus のマルハナバチ類ととっておく。

「膣外翻」「ちつがいはん」と読む。「人間の女にも往々見る所」とあるが、これは現行では重症の「骨盤臓器脱」とされる「完全子宮脱」で、膣が完全に外翻(体の外にめくれ出る状態)して子宮が股間部にぶら下がった形となる症状を指す(医療法人「四谷メディカルキューブ」公式サイト内の骨盤臓器脱(性器脱)に拠る)。

「甲蟲類に寄生するもの、蠅類に寄生するもの」識者の御教授を乞う。]

生物學講話 丘淺次郞 第十七章 親子(7) 三 子の飼育(Ⅱ)

Penginesa

[子に餌を與へる「ペンギン鳥」]

 [やぶちゃん注:本図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 親鳥が雛を養ふ仕方も、種類によつて種々に違ふ。燕などは捕へて來た昆蟲をそのまゝ雛の口に移してやるが、雀や「からす」もこれと同樣で、そこで啄んだ食物をそのまゝ子に與へるのを屢々見掛ける。鷲や鷹の類は捕へ殺した餌を、更に小さく裂いて雛に食ひ易いやうにしてやる。動物園の鶴なども子にやるときには、「どぜう」をまづ少さく嚙み切り、水で洗うて與へる。また「ペリカン」の如き鳥は、一度嚥み込んだ餌を口まで吐き出して子に啄ませる。鳩類では雛が孵化する頃には、雌雄ともに嗉囊の壁が厚くなり、特に一種の濃い滋養液を分泌し、これを口から吐き出して子の口に移してやる。昔から『「からす」に反哺の孝がある』といひ傳へたのは恐らく、鳥類の親が雛の口の中へ餌を移し入れてやる所を遠方から見て、子が親を養ふのかと思ひ誤つたためであらう。鳥類に限らず如何なる動物にも、子が生長し終つた後に、老耄して生き殘つて居る親に餌を與へて養ふものは、決して一種たりともない。それはかゝることをしても種族の維持のためには何の役にも立たぬのみか、餌が少くて生活の困難な場合には、却つて種族のために明に不利益になるからであらう。

[やぶちゃん注:「嗉囊」「そなう(そのう)」と読む。鳥類(他に軟体動物・昆虫類・貧毛類の多くの種が持つ)の消化管の一部で、食道に続く薄壁の膨らんだ部分の呼称。食べ物を一時的に蓄えておく場所とされる。

「どぜう」正しい歴史的仮名遣表記は「どぢやう」である。私の中毒(数ヶ月食べないと気持ちが沈んでくるのである)の店駒形ぜう」公式サイトの「のれんの由来」に、『「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案で』、文化三(一八〇六)年の『江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもら』ったところが、『これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたと』伝える、とある。目から泥鰌(どぜう)!

『「からす」に反哺の孝がある』梁武帝の「孝思賦」や、一二四六年成立の宋代の祝穆(しゅくぼく)編になる類書(辞書)「事文類聚」などの故事に基づく「慈烏反哺(じうはんぽ)」「烏(からす)に反哺(はんぽ)の孝(こう)あり」という故事成句。鴉は成長した後は親鳥の口に餌を含ませて(「反」は「返す」の、「哺」は口の中の食物の意)養育の恩に報いる、という丘先生のおっしゃる通り、誤認に基づいたもので、畜生で死肉を啄む邪悪な鴉でさえも親の恩に報いるのであるから、ましてや、人は親孝行をせねばならぬという意。

「ペリカン」鳥綱真鳥亜綱新鳥下綱新顎上目ペリカン目ペリカン科ペリカン属 Pelecanus のペリカンの仲間。コロニー(集団繁殖地)を形成することで知られる。ウィキの「ペリカンによれば、『ペリカンが胸に穴を開けてその血を与えて子を育てるという伝説があり』、『あらゆる動物のなかで最も子孫への強い愛をもっているとされる。この伝説を基礎として、ペリカンは、全ての人間への愛によって十字架に身を捧げたキリストの象徴であるとされ』、『このようなペリカンをキリストのシンボルとみなす記述は、古くは中世の著作にも見つけることができる』。また、カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae の鵜の類を指す「鵜」(音は「ダイ・テイ」)という漢字があるが、これは『もともとはペリカンの意である』とある。目から鵜(ぺりかん)! にしても、何故、挿絵は「ペリカン」でなく、「ペンギン」(新顎上目ペンギン目 Sphenisciformes)なんじゃろ? 本文に言及がなく挿絵が載る例は今までもなかった訳ではないものの、極めて異例ではある。しかも「ペリカン」と「ペンギン」は妙に文字が似ている。丘先生か或いは編集を手伝った助手が図を選ぶ際、「ペリカン」を「ペンギン」と誤認した可能性、或いは子に餌を与えるペリカンの適当な原図が見当たらなかったので「ペンギン」で代用した可能性が想定される。]

Hatiesahakobu

[餌を運ぶ蜂]

 [やぶちゃん注:本図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 昆蟲類の中でも蜂の類には、子を養ふために親蟲が盛に餌を集めて貯藏するものがある。蟻や蜜蜂のことは省くとして他の種類に就いていうて見るに地中に孔を穿つてその中に卵を產んで置く所謂「地峰」の類は、晝の間は絕えず飛び𢌞つて「くも」や昆蟲類などを捕へ、尻の先の毒針を以てその蟲を刺して麻痺せしめ、動けぬやうにして置いてこれを孔の中へ運び入れ、自分の幼蟲に食はせる。

[やぶちゃん注:「ファーブル昆虫記」の圧巻の観察(昆虫が苦手な小学五年の私が苦手であることを忘れて読みふけった箇所であった)で知られる、対象を美事な針さばきで麻酔させ(特定の神経節を狙う)、卵を産み込み、土中に封鎖、麻酔された対象生物は生きながらにして蜂の幼虫に内側から食われるという、強烈なあの、巣を造らない、

 単独性「狩り蜂」

のことである。具体的には、

 ドロバチ(ドロバチ科Eumenidae

 アナバチ(ミツバチ上科アナバチ(ジガバチ)科 Sphecidae

 ベッコウバチ(ベッコウバチ科 Pompilidae

等の仲間で、親が幼虫の摂餌対象として選んで卵を産み附けるのは、丘先生の記すように昆虫やクモ類である。図のそれは奥の地面に収納するための穴のようなものが描かれていること、触角の形状が顕著でないことなどから、ジガバチ科の類のように私には見うけられる。因みに、よく似た習性のものに、通常は、麻酔をせずに卵を産み附ける(後掲するように中間型の特異種がいる)ところの、

 「寄生蜂」

とは異なるので注意されたい。ウィキの「寄生バチ」によれば、膜翅(ハチ)目 Hymenoptera 中、『生活史の中で、寄生生活する時期を持つものの総称である。分類学的には、ハチ目ハチ亜目寄生蜂下目 Parasitica に属する種がほとんどであるが、ヤドリキバチ上科(ハバチ亜目)』(ヤドリキバチ上科 Orussoidea・ハバチ亜目=広腰亜目 Symphyta)や『セイボウ上科(ハチ亜目有剣下目)』(セイボウ上科 Chrysidoidea・有剣下目 Aculeata)『など、別の分類群にも寄生性の種がいる』とある。以下動物寄生の箇所を引く(植物体寄生種もいる)。『動物に寄生するものは、一匹のメスが宿主に卵を産みつける。卵から孵った幼虫は、宿主の体を食べて成長する。その過程では宿主を殺すことはないが、ハチの幼虫が成長しきった段階では、宿主を殺してしまう、いわゆる捕食寄生者である』。『外部寄生のものは宿主の体表に卵が産み付けられ、幼虫はその体表で生活する。内部寄生のものも多く、その場合、幼虫が成熟すると宿主の体表に出てくるものと、内部で蛹になるものがある』。『宿主になるのは昆虫とクモ類で、昆虫では幼虫に寄生するものが多いが、卵に寄生するものもある。寄生の対象となる種は極めて多く、昆虫類ではノミやシミなど体積の問題がある種を除いて寄生を受けない種はないといわれ、すでに寄生中のヤドリバチやヤドリバエの中にすら二重三重に寄生する。ただし、一部の種には後から寄生してきたハチを幼虫が食い殺す例もあることが発見されている』。『動物に寄生する寄生バチは、いわゆる狩りバチと幼虫が昆虫などを生きながら食べ尽くす点ではよく似ている。相違点は、典型的な狩りバチでは雌親が獲物を麻酔し、それを自分が作った巣に確保する点である。その点、寄生バチは獲物(宿主)を麻酔せず、またそれを運んで巣穴に隠すこともない。しかし中間的なもの(エメラルドゴキブリバチなど)が存在し、おそらく寄生バチから狩りバチが進化したと考えられる』とある。このハチ亜目ミツバチ上科セナガアナバチ科セナガアナバチ属エメラルドゴキブリバチ Ampulex compressa はゴキブリを特異的に幼虫宿主に選ぶことで知られ、見た目はスマートで名前通りの金属光沢を持った青緑色で美しい種であるが、その産卵生態たるや、一見、猟奇的ですこぶる科学的で、非常に面白い。ウィキの「エメラルドゴキブリバチ」から引いておく。エメラルドゴキブリバチは寄生蜂グループとしては異例に、『ゴキブリの特定の神経節を狙って刺していることが』確認されており、一回目の『刺撃では胸部神経節に毒を注入し、前肢を穏やかかつ可逆的に麻痺させる。これは、より正確な照準が必要となる』二回目の『刺撃への準備である』。二回目の『刺撃は脳内の逃避反射を司る部位へ行われる。この結果、ゴキブリは』三十分ほど『身繕いの動作を行い、続いて正常な逃避反射を失って遅鈍な状態になる』。二〇〇七年には『エメラルドゴキブリバチの毒が神経伝達物質であるオクトパミン』(octopamine)『の受容体をブロックしていることが明らかとなっ』ている。『続いてハチはゴキブリの触角を』二本とも『半分だけ噛み切る』(絶妙!!!)。『この行動はハチが自分の体液を補充するため、もしくはゴキブリに注入した毒の量を調節するためであると考えられている。毒が多すぎるとゴキブリが死んでしまい、また少なすぎても幼虫が成長(後述)する前に逃げられてしまうからである。エメラルドゴキブリバチはゴキブリを運搬するには体が小さい。従って巣穴までゴキブリを運ぶ際には、ゴキブリの触角を引っ張って誘導するように連れて行く。巣穴に着くと、ハチはゴキブリの腹部に長径』二ミリメートルほどの『卵を産み付ける。その後ハチは巣穴から出てその入り口を小石で塞ぎ、ゴキブリが他の捕食者に狙われないようにする』。『逃避反射が機能しないため、ハチの卵が孵るまでのおよそ』三日間、『ゴキブリは巣穴の中で何もせずに過ごす。卵が孵化すると、幼虫はゴキブリの腹部を食い破って体内に侵入し、これを食べながら』四~五日の間、『捕食寄生生活を送る』。幼虫は八日の間、『ゴキブリが死なない程度に内臓を食べ続け、そのままゴキブリの体内で蛹化する。最終的に変態を遂げたエメラルドゴキブリバチはゴキブリの体から出、成虫としての生活を送る。一連の成長は気温の高い時期ほど早い』とある。読む限りでは「寄生蜂」と「狩り蜂」の『中間型』というよりは、しっかり「狩り蜂」、それも特異な手法を持った奇体な種と呼ぶのが相応しいように思われる。] 

 

 昔の人はこの類が每日「くも」を地に埋めるのを見、またその同じ孔から蜂の子が出て來るのを見て、「くも」が蜂に變化するのであらうと早合點して、この蜂の名前に「似我蜂」といふ字を當て、この蜂は實子を產まず、「くも」を連れて來て養子とし、「我に似よ」、「我に似よ。」というて埋めて置くと、やがてその「くも」が蜂になるなどといふ牽強附會な說を造つた。かやうな例はなほ他にも幾つもあつて、卵を產むときに一度だけ餌を添ヘて置くものや、卵が孵つて幼蟲になつてからも屢餌を持つて來て與ヘるものなど、多少相異なつた方法で子を養うて居る。

[やぶちゃん注:「似我蜂」これで「ジガバチ」と読む。前に注したように典型的な単独性「狩り蜂」で、幼生の摂餌に選ぶ対象は青虫(あおむし:蝶や蛾を含む鱗翅(チョウ)目の幼虫の中で長い棘毛などで体を覆っていない緑色を呈する幼虫類の総称)である(同科で似た生態で「ジガバチ」の名を附すが、ジガバチ亜科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophiliniではない、全く別な属種群である Sceliphron 属はクモ類を選ぶ)である(かのファーブルが感嘆したのもこのジガバチ科アラメジガバチ Podalonia hirsuta  であった)。ウィキの「ジガバチによれば、『ジガバチの名は、その羽音に由来し、虫をつかまえて穴に埋め』、「似我似我(じがじが、我に似よ)と言っている」のだという『伝承に基づく。じがじがと唱えたあと、埋めた虫が後日ハチの姿になって出てきたように見えたためである』(典型的な民俗社会の「化生」(かしょう)である)とある。目から似我蜂(じがばち)!]

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(6) 三 子の飼育(Ⅰ)

     三  子の養育

 

 以上述べたのはいづれも親が何らかの方法で卵を保護するだけの例であるが、誰も知る通り動物の中には、親が幼兒に食物を與へて養ふものが幾らもゐる。しかしこれは殆ど獸類・鳥類の如き神經系の發達した高等の動物に限ることであつて、昆蟲類には多少その例があるが、それより以下の動物ではこれに類することは一つも行はれぬ。親が子を養ふといふ以上は、親の生存時期と子の生存時期とが一部重なり合ひ、その間親と子とが相接觸して共同に生活して居ることはいふを待たぬが、子が聊かなりとも親を慕ふ形跡の見えるのは、全動物界中かやうな類のみに限られ、しかも子が親に養はれる期間のみに限られて居る。その他のものに至つては子は決して親を知らず、全く無關係の如くに生活して代を重ねて行く。前に卵を保護する種類は卵を産み放しにするものに比べると、遙に少數の卵を産むことを述べたが、親が子を養ふ種類では、子の生まれる數はなほ一層少い。しかもこの少數の子を大事に保護し養育するのも、小さな卵を無數に産み放すのも、種族の維持繼續を目的とすることに至つては全く同じであつて、その効力にも決して甲乙はない。たゞ各種動物の構造・習性等に適した方法を採つて居るといふに過ぎぬ。


Hyounititiwonomaseruinu

[豹の子に乳を呑ませる犬]

[やぶちゃん注:この図は講談社学術文庫版では省略されているので、底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 獸類の幼兒はすべて母の乳汁で養はれるが、乳汁は動物の種類によつて各々成分が幾らかづつ違うて、或は脂肪が多いとか糖分が少いとかいふことがある。それ故、幼兒を養ふのに最も適するのは無論その兒を産んだ母か、またはこれと同じ位の同類の雌が分泌した乳であつて、人間の幼兒を育てるのに。人の乳よりも牛の乳とか山羊の乳とかの方

が更に宜しいといふやうな理窟は決してない。しかし乳汁なるものは一種の食物に過ぎず、兒の腸胃に入つてから消化せられ吸牧せられるのであるから、一定の滋養成分を含んで居る以上は、甲の動物の乳汁を以て乙の動物の幼兒を育てることも素より出來る。外國の動物園では獅子や虎の幼兒に、牝犬の乳を呑ませて健全に育てた例もある。以前駒場の農科大學では牝犬が狸の子に乳を呑ませて居たことがある。幼兒が乳汁のみで育てられる時期の長さは種類によつて大に違ひ、概して大形の獸は生長も遲く乳を呑む間も長い。しかし人間程に長い間乳を呑むものは他になからう。幼兒が乳を呑むことを止める前から、既に何か食物を食ひ始めるが、これは大抵母親が多少嚙み碎いて、兒の容易く食へるやうにしてやる。猫や犬が子を育てるのを見ても、その例は澤山ある。

Sitateyadori

[仕立屋鳥]

Syokuyouennsou

[食用燕巣]

Hataoridori

[機織鳥]

[草の纎維を織り合せて樹の枝から垂れ下つた囊狀の巣を造る巣の入口は下に向いてゐる短い筒の先に開いてゐるので飛ぶ動物でなければ巣の内に入ることができぬ 圖に示したのは印度産の一種である]

[やぶちゃん注:以上の三図は総て底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 烏鷲の雛が卵から孵つて出たときの有樣は種類によつて甚だ違ひ、雞の如く直に走るもの、あひるの如く直に游ぐものもゐるが、巧に飛ぶ種類の鳥では雛は實に憐なもので、親に養はれなければ一日も生きては居られぬ。鳥類には隨分精巧な巣を造るものがあるが、これは皆卵を温め且卵から孵つた雛を安全に育て得るためでゐる。今最も精巧なものとして有名な例をこ一二擧げて見るに、アフリカの諸地方に産する「機織(はたおり)鳥」と稱するものは、「つぐみ」か「ひよどり」位の大きさの鳥であるが、草の莖の細い纎維などを巧に布の如く編み合せて、樹の枝から垂れた囊のやうな形の巣を造る。また東印度の島に住む「仕立屋鳥」といふ小鳥は、大きな木の葉を二枚寄せ、その緣を植物の纎維で巧に縫ひ合せ、その間に巣を造る。その他にも鳥の巣には精巧なものが種々あるが、中には他の材料を用ゐず、自分の口から出す唾液だけで巣を造るものあがある。支那人が最上等の料埋として珍重する有名な燕の巣はそれで、今では西洋人にもこれを嗜むものがなかなか多くなつた。普通の燕は口に泥を銜へて來て、泥と唾とを混ぜて黑い堅い巣を造るが、この燕はたゞ唾液だけで造るから、巣は純白で恰も乾いた寒天の如くである。産地は東印度の島々であるが、海岸の絶壁の處に造られるから、澤山あるにも拘らずこれを採集することはなかなか容易でない。

[やぶちゃん注:「機織(はたおり)鳥」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科ハタオリドリ科 Ploceidae に属するハタオリドリの仲間で、ここに記されている通り、草などを編んで枝から垂れ下がる袋状の巣を作る。多様な種がおり、グーグル画像検索「Ploceidaeでも色彩も巣の形状も多様であることが知れる。酷似した巣を造る以前に注した「共和政治鳥」(スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科スズメ科スズメハタオリ亜科 Philetairus(フィレタイルス)属シャカイハタオリ Philetairus socius(英名“Sociable Weaver”)も参照されたい。

「仕立屋鳥」これはスズメ目セッカ科サイホウチョウ(裁縫鳥)属Orthotomus に属するサイホウチョウの仲間(現行では全十二種)のことを指している。全長 十二~十六センチメートル、羽色は一般に背面がオリーブ色或いは褐色を呈し、下面は白い。かなり大き目の二枚の葉の縁を、植物繊維や蜘蛛の糸を以って縫い合わせ、袋状の巣を造ることで知られる。グーグル画像検索「Orthotomus tailorbird nestで鳥の様子と巣型がよく判る。

「自分の口から出す唾液だけで巣を造るものあがある。支那人が最上等の料埋として珍重する有名な燕の巣はそれ」一般に知られる中華料理の「燕の巣のスープ」、広東料理の高級食材とされる「燕窩」の原材料は、

アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Collocaliini ヒマラヤアナツバメ属 Aerodramus

のアナツバメ類の内、空中から集めた巣材をわずかしか使わずに巣の殆んど全ての部分が唾液腺分泌物で出来ているとされる、

マレーアナツバメ(ジャワアナツバメ)Aerodramus fuciphagus germani

や、

オオアナツバメ Aerodramus maximus

など数種の巣のみが中華食材では高級品とされている。なお、和名に「ツバメ」が附き、それを用いた中華料理が普通に『「燕」の巣のスープ』と呼ばれ、しかも飛翔時の形状もよく似ていることから、所謂、

スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica

などのツバメ類とさも近縁種のように思われている向きがあるが、以上の分類からも判る通り、アマツバメ目とスズメ目で目レベルで違い、真正のツバメ類とは脚の構造なども有意に異なっていることから、全くの縁遠い異種であるので注意が必要である。まあしかし、「穴燕の巣のスープ」とか、中国語の「目」表記で「雨燕の巣のスープ」とか言ってもあんまり美味そうではないなぁ……ウィキの「燕の巣によれば、『アナツバメの巣は海岸近くの断崖につくられるが、断崖絶壁などに巣を作る習性の鳥は、しばしば鉄筋コンクリート製の建造物の増加した近代的な都市を本来の営巣環境に近似した環境と受け止めて巣作りを行う。ハヤブサやチョウゲンボウの例が著名であるが、アナツバメ類にもこうした傾向が見られる。近年ではこのような習性を利用して、東南アジア諸国の鉄筋コンクリート製建造物の内部に条件を整えることで集団営巣地を作らせることができるようになり、市場への供給量が増した』。『アナツバメの巣の採取については東南アジア各国で採取の時期、採取方法などを厳重に管理し、またアナツバメの生息地の環境保護のために立ち入り制限を行っている。アナツバメは雛が巣立ちしてしまうと同じ巣を利用することはないため、アナツバメが放棄した巣を採取している。オスは次の発情期になればまた唾液腺から特殊な分泌物を吐き出して新たに巣をつくる』。『断崖絶壁における採取作業は非常に危険が伴う作業である』。清の乾隆三六(一七七一)年頃には完成されていたと考えられている阮葵生(げんきせい)の「茶余客話(ちゃよきゃくわ)」(全三十巻。政治・経済・文化・法律等、学術領域の豊富な内容が含まれる重要史料。特に清朝初期の制度・地誌記載は史料価値が高いとされ、また、人物伝や「荊釵記」「元曲」「水滸伝」「琵琶記」「金瓶梅」「西游記」など戯曲・小説等も多数収録された恐るべき博物学的叢書である)には、『よく訓練した猿に布袋を背負わせて採取したと記されている』。『日本で人家の軒先などに一般的に見られるツバメの巣は、唾液だけでなく泥や枯れ草によって作られるので食用には適さないが、アナツバメの巣は世界中で高い人気を誇る食材となっており、スープの具やデザートの素材や飾り付けとして用いられる』。『中華料理の中でも特に広東料理で利用される。元末明初頃に中華世界に知られるようになり、清代になるとふかひれや乾しあわびと並ぶ高級中華食材として珍重されるようになった。燕の巣が出る宴席は「燕菜席」と呼ばれ、満漢全席に次いで格式の高い宴席となっている』。二〇一三年、『中国政府は綱紀粛正の一環として、接待の宴席に高級料理を用いることを禁じた。この際、高級食材の例としてふかひれとともにツバメの巣が挙げるなど』、二十一世紀の『現代においても贅沢品の代表格であることが窺える』。『日本においても、江戸時代初期の料理書『料理物語』に、「燕巣(えんず)」という名で記載されており、吸い物や刺身のつまとして用いられていた。日本では上記のとおり生産されておらず、交易によって輸入されたものであり、中国同様に貴重な食材である』。『独特のゼリー状の食感が特徴で』、『古くから美容と健康に良いとされている漢方食材であり、清の西太后も連日のように食したと伝えられている』。『巣によって羽毛などの巣材を比較的多く含むものから、全くと言っていいほど含まないものまで差がある。混ざり物などが少なく作られて間もない物が重宝され高値がつきやすい。調理に際しては湯で柔らかく戻してから、ピンセットなどで丁寧に羽毛などを除去する』とある。しかし、同ウィキには、『中国では古くから赤い燕の巣が珍重されてきた。現在においても赤い巣、オレンジ色の巣は高価で取引される傾向がある為、顧客の好みの色に着色して出荷する生産者も珍しくない。赤やオレンジに発色する原因は、岩石からの鉄分や壁土などの色素を含むからとも発酵の結果によるともされる。ただし、こういった赤やオレンジの巣には人体に有害な亜硝酸塩が多く含まれるという調査報告が出ている』。『亜硝酸塩は水溶性なので水で洗い流すことが出来るが、天然、着色を問わず赤やオレンジの色素もなくなってしまう』。『見た目の立派さが価格に影響することもあり、乾燥した巣の表面に糊を塗布して外観を整える手法も広く行われている。水に溶いた巣の他、海藻、豚皮、ラード、植物樹脂などが糊として用いられるケースがある』。『白さを強調する為に薬品によって漂白された燕の巣は、独特の匂いが無くなっていたり、薄くなっている』とあるから、色附きや真っ白な、しかも安価な値段のそれは食さない方が無難な感じもする。何度か食べたことがあるが、ゼリー系が苦手な私は全く美味いとは思わなかった。さても最後に。しかしだ、そもそもが中国語の同食材を指す「燕窩」の「窩」、私の雅号の「心朽窩主人」の「窩」の字の字体も、敦煌で落款を彫って貰った中国の篆刻家は、如何にも意味深長にニヤリと笑い、「この字は良い字ではない。」という意味の中国語を言って、しきりに「別な字にしなさい。」と言うていたのを、ふと思い出した……。]

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅹ) / 「いとめ」の生活と月齢との関係――附やぶちゃん注~完

 

       五 電氣による「いとめ」の精蟲と卵及び人類の精蟲の實驗

 

 大正十四年十月二十一日午後四時より八時に至る精液電氣實驗。當日氣温十四度氣壓七六三粍。「いとめ」の精液一グラム0.8%の食鹽水五〇グラムに混じ、之れに屋井乾電池を用ひて四・五ボルトの電流を通じたるに精蟲は+極(プラス)に集合し、精蟲を包容する粘液は-極(マイナス)に集合した。實驗後五分乃至十分にして之を檢するに精蟲は活潑に運動してゐた。人類の精蟲につきて實驗したるに是亦粗同樣の結果を得た。蒸溜水中に於いても同樣の作用が行はれた。死したる精蟲につきて實驗するも猶同樣の結果を得た。之を以て見れば精蟲は好氣性の爲に+極(プラス)に集まると云ふ議論は立たざることになる。大正十五年四月四日大日本生理學會例會に於ける京都府立醫科大學水野忠一氏代演越智教授の講演の際人類の精蟲電氣實驗に關する右の事實を追加補足して置いた。

 

 Itome5  

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ」のものを補正して示した。キャプションを以下の通り。

   *

A圖 「いとめ」の精液電氣實驗

    +極に集まれる精蟲

    -極に集まれる精液

 

B圖 「いとめ」の卵の電氣實驗

   *

文中の「+極(プラス)」「-極(マイナス)」はそれぞれ「+極」の二字に「プラス」、「-極」の二字に「マイナス」のルビが振られてある。

「屋井乾電池」乾電池の発明者屋井先蔵(やいさきぞう 文久三(一八六四)年~昭和二(一九二七)年)の名を冠した乾電池。国立公文書館公式サイト内の「公文書にみる発明のチカラ」の「乾電池の発明(屋井先蔵)」に詳しい。それによれば、一八八八年にドイツ人ガスナーらが液のこぼれない乾電池を発明する前年の明治二〇(一八八七)年に、当時、電池時計の技術者であった屋井が(ウィキの「屋井先蔵」では『東京物理学校(現:東京理科大学)の実験所付属の職工』とある)、陽極の炭素棒にパラフィンを染みこませることによって液漏れしない「屋井乾電池」を発明した事実が記されてある。ウィキのエピソード欄には、乾電池を世界に先駆けて『発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許を取得はできなかった(当時の特許取得料金は高額だった)。また、乾電池を発売した当初、大半の世論は「乾電池などという怪しいものが正確に動くはずがない」というもので、先蔵の乾電池は全く売れなかった。さらに持病の為に寝込む日が続き生活は貧窮を極めた。さらに、先蔵の乾電池の価値を知った外国人が万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばらく時間が経つまで世界で最初に乾電池を発明したのが先蔵であると認知されなかった』とある。ここではっきりと闡明しようではないか! 人類史上、乾電池を最初に発明したのは、この屋井先蔵であると!

「死したる精蟲につきて實驗するも猶同樣の結果を得た」「精蟲は好氣性の爲に+極(プラス)に集まると云ふ議論は立たざることになる」塩水及び蒸留水の電気分解にあっては+(陽極)に水酸化物イオン(OH)が誘引され、水酸化物イオンは陽極に電子を渡して水と酸素になるため、結果として陽極には酸素が発生する。逆に-(陰極)には水素イオン(H)とナトリウムイオン(Na)が誘引されるが、ナトリウムイオンは原子になるよりもイオンの状態の方が遙かに安定しているため、ナトリウムイオン自体は水溶液中に残り、水素イオンが電子を受け取って、結果、陰極からは水素が発生する。この場合、死んだ精子を実験しても同じ結果が生じたということは、生体の精子が好気性を特異的に指向するために自律的に陽極に集合したのではない、ということがはっきりする。精液は細胞成分である精子と、それを包む液体成分である精漿(せいしょう)とに分かれるが、ここでは物理的電気的性質としては精子が陽極に引かれる負(陰電気)の電位を有し、精漿が陰極に引かれる正(陽電気)の電位を有するという物理的電気的事実が分かるということである。新田氏がこのように書くということは、恐らく当時の生理学者の中には、ヒトが好気性生物であるが故に精子も同じく、正の好気性を保持した生命体であるに決まっているという誤った考え方(類推)があったことを批判しているのではないかと思われる。

「京都府立醫科大學水野忠一氏」不詳。

「越智教授」不詳。]

 

 Itome6  

 

 「いとめ」の卵の電氣實驗は卵の或量を取りて0.8%の食鹽水に混和し、四・五乃至一八ボルトの電流を通じたるに卵は少しも破壞されなかつた。唯電流を通じない前の卵は甲圖の如く顆粒が中心より遠ざかつてゐたが、強き電流を通じたる場合には卵の顆粒が乙圖の如く僅かに中心に近寄つたのみであつた。0.8%食鹽水五〇グラム中にバチの粉碎せざる卵一グラムを混じたるに何れの極へも集まらなかつた。又受精せざる雞卵及び受精したる雞卵の卵黄を別々に取つて粉砕し、之に各々前と同樣の實驗を施したるに兩極に分離した。以上の實驗に使用したる電力は時計形直流用電壓電流計にて測り、電池は屋井乾電池を用ひた。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ」のものを補正して示した。図に示した通り、この段落中の「じたるに卵は少しも破壞されなかつた。唯電流を通じない前の卵は甲圖の如く顆粒が中心より遠ざかつてゐたが、強き電流を通じたる場合には」の部分は原典の十四頁の下(一行八字組)にあり、「唯電流を通じない前の卵は甲圖」と「の如く顆粒が中心より遠ざかつてゐたが」の間にその甲図と乙図が挟まっている(従って甲・乙図はイトメの卵子の電気実験の図であってヒトのそれではないので注意)。また、その十四頁上方には「人間の精蟲電氣實驗」という附図があり、以下のキャプションが附されてある(附図には「Nov.1st, 1925  At Kiba, Fukagawa,  Tokyo」というクレジットが記されてある)。

   *

 

大正十四年十一月一日人間の精液電氣實驗二十分後の圖當日氣壓七六八粍、室内氣温二〇度電流四ボルト使用

 

Aは粘液、 Bは精蟲

 

十五分時にしてB極を檢するに精蟲がなほ運動を繼續してゐた。再び攪拌するも十分時にして圖の如く明かなる分野を形造つた

 

   *

 なお、この段落以下、後の二段落の内容については、私は幾つかの箇所に於いて筆者の謂わんとするところが十全には呑み込めなかった。そこで公開に先だって生命科学を専門とする私の教え子に意見を乞うた。以下の注の中で《教え子の見解》として『 』で示した箇所がそれである(というより殆んどが彼の見解の引用である。この場を借りて深く謝意を表するものである)。公開許諾は得ている。但し、それでも私と教え子の疑問は完全に氷解してはいない。何方か更に別な解釈や理解をお持ちの方があれば、是非御教授をお願いしたい。

「強き電流を通じたる場合には卵の顆粒が乙圖の如く僅かに中心に近寄つたのみであつた」先に示した古屋康則・恩地理恵・古田陽子・山内克典「イトメ Tylorrhynchus heterochaetus(環形動物:多毛類)の人工受精法および発生過程の観察」を再び管見したところ、イトメの卵子には「卵ゼリー層」と呼ばれるものが形成されることが分かった。イトメの生体内の未受精卵にはこのゼリー層は見られないが、海水に浸漬したり受精することで、卵の周囲にゼリー層が形成されるのであるが、『このようなゼリー層はゴカイの卵にも見られ(岡田,1960),ゴカイでは卵を海水に浸けただけでは形成されず,受精が起きなければ形成されないという(沢田,1969).一方,イトメにおいてはゼリー層形成と受精との相互関係は明瞭ではなく(高島・川原,1952),受精とは無関係に形成されることも知られている』とあって、その「図5.イトメの未受精卵および受精卵の発生過程」の「D)未受精卵でのゼリー層形成」とキャプションのある画像を見ると、これが本文に載る「乙圖」と酷似しているように私には見えるのである。しかもこのゼリー層形成を検証した実験では『媒精しないで卵のみを希釈海水に入れたときのゼリー層形成は,海水から3/4海水では5534%であったが,2/3海水では全く形成されなかった.しかし,それよりも薄い1/2海水では50%の卵で形成された』。『これは,ゼリー層が受精によってのみ形成されるゴカイ(沢田,1969)とは大きく異なる点である.また,ゼリー層形成はある程度浸透圧の影響を受けることを示唆している』という記述をも見出された(下線やぶちゃん)。但し、当該論文では「顆粒」ではなく『卵核胞を取り囲むように十数個の油球が見られる』(下線やぶちゃん)とある。これは一つの可能性の推測であるが、この新田氏の「乙圖」は実はそのゼリー層が形成された後の卵子の、油球が中央の卵核胞を取り囲むように見える状態を描いたものなのではあるまいか? しかしその場合、それは電気刺激によって現出した現象とは言い難い。何故なら、これは通電をする以前に実験に用いた食塩水濃度(〇・八%)に、この卵子が反応してゼリー層を形成した結果、「油球」が中央へ寄った可能性が私は高いと思うからである。新田氏が通電を行った後に、たまたま塩分濃度による浸透圧で形成されたゼリー層の形成に新田氏が気づかず、通電によって「顆粒」状の油球が中央に有意に移動したと錯覚した可能性である。無論、イトメのゼリー層形成のメカニズムが現在でも完全に解明されていない以上、逆に、電気刺激によってもゼリー層は形成され油球が中央へ移動した可能性もないとはいえない(私が専門家なら直ちに実験してみたいのだが)。時に、このゼリー層形成に新田氏は気づいていないのは一見奇妙に思える。新田氏は既に『四 食鹽水及び淡水による「いとめ」の精蟲及び卵の實驗』でこのゼリー層形成という現象を見ているはずではないのか? ところが新田氏は見ていないのである。何故なら、同章では多様な塩分濃度での実験の対象は専らイトメの精子に当てられており、卵子の実験は『卵は0.3%乃至1%の食鹽水中に在つては生理的に破壞されないが、蒸溜水に卵を混図れば十分乃至一時間にして生理的に全部破壞せられる』の三パターンの記録記載しかなく、それも専ら塩分濃度の違いによる細胞質破壊をしか実験目的にしていないかのように見えるからである。

0.8%食鹽水五〇グラム中にバチの粉碎せざる卵一グラムを混じたるに何れの極へも集まらなかつた」《教え子の見解》『そのまま読むと、少なくとも完全な卵として存在するときには電気的に中性であると読める。』

「又受精せざる雞卵及び受精したる雞卵の卵黄を別々に取つて粉砕し、之に各々前と同樣の實驗を施したるに兩極に分離した」《教え子の見解》『もしも分離に偏りがある場合は(鶏卵の卵黄に)電気的な偏りがあると考えることもできるが、そうした記述は特になく、陰性または陽性の極性分子の集合であるが、全体としては中性と読める。』]

 

 

 思ふに精蟲が生殖の際卵をめがけて突進するは電気作用によるのであらう。精液が電気の爲めに二ツに分れ、+極(プラス)及び-極(マイナス)に集まる事實より推測するに、精液として存在するときは陰陽兩電氣が中和せられてゐるが、之が水中に散布せられて粘液を脱し精蟲のみとなる時は陰性となるを以て卵子に含まれたる陽性に近づかんとするのは當然のことであらう。

[やぶちゃん注:「卵子に含まれたる陽性」《教え子の見解》『上の記述を読む限りは、卵子に陽極性分子が含まれていても全体としては中性という結果であるため意味が通じない。なお、現在、精子が卵子に誘導される機構は、卵子より放出される分子を精子がシグナルとして受容することによるものであるとされている。精子の側の受容体の反応から、ブルゲオナール様の分子である可能性が示唆されている(“Identification of a Testicular Odorant Receptor Mediating Human Sperm Chemotaxis”[やぶちゃん補注:教え子の記載のアドレスを当該論文(英文)標題とリンクに代えた。標題は「精巣嗅覚受容体を媒介するヒト精子走化性の同定」(機械翻訳)。])が、いまだに具体的な分子の正体は不明である。』]

 

 

 「いとめ」及びパロロの生殖作用が空中電氣の影響あることも右の實驗によつて否定すべからざることであらうが、これは研究未完成なれば他日に讓ることゝする。

[やぶちゃん注:「空中電氣」地磁気と言うならまだしも、これは言っている意味がよく分からない。教え子も『一般的には大気中の電気現象一般のことだが、ここでの意味は不明』とのことであった。]

 

 

 

   六 結  論

 

 (一)バチの群游は東京灣附近に於ては通常十月及び十一月に渉りて四回行はれるが、稀には九月に群游することもある。大正十四年の如き萩原朔太郎九月に一回あつた。

 漁夫等は此四回の群游に夫々第一バチ、第二バチ、第三バチ、第四バチの名を附してゐる。東京灣附近に於ては通常千住附近が第一バチ、小松川が第二バチ、深川が第三バチ、羽田が第四バチの順序である。そして群游の目的は水中に産み精蟲を散布して生殖を容易ならしめるにある。

 (二)バチの群游期は朔望より四日以内にある。通常望よりも朔の翌日が盛んである。最大滿干潮は朔望よりも三日以内で、九、十、十一月に在りては多くは日没後の滿干潮が夫々同日の他の滿干潮よりも強大である。又東京附近に於ては通常朔の大潮が強大である事實がよくバチの群集に一致する。大潮の滿潮時(朔望)には海水が隅田川河口よりも上流に達するも、小潮時(弦月)には潮少きが故に海水が上流に達しない故に小潮時には群游しないのである。

 (三)稀には朔望の前にバチの群游することもある。大正十四年の如きは、十一月十六日が朔で、バチの群游が同月十三日の日沒であつた。

 (四)大群游は日沒後滿潮(High Water)面より約一寸位引きかけた時に始まり、河水面がバチの爲に赤色を帶ぶるに至る。斯う云ふ現象は約二時間繼續する。即ちバチの群游は滿潮時にあらずして落潮時(Ebb)の始めに於て盛大に行はれるのである。

[やぶちゃん注:以下、この「結論」の章では注を中に入れ込むことにし、後に空欄は設けない。

High Water」(英語)上げ潮。新田氏は次の段で別に「差し潮即ち滿潮(Flood)」と用いているところからは、ここは満潮時に最も海水面が上昇する時、という意味でこれを用いたようである。

Ebb」(英語)引き潮。「干潮」は「High Water」の対で示すなら、“low water”であるが、新田氏はここを今度は「潮が引いてゆく」という干潮時に経過する現象としてのそれとして示しているのかも知れない。]

 (五)落潮時に群游を行ふ理由は、精蟲は淡水中にては運動を停止し、卵は淡水中にて破壞せられる。之に反して精蟲は海水中にては猛烈なる運動をなし、卵は破壞されることが無い。差し潮即ち滿潮(Flood)はバチを淡水の方に押上げ鹽分の濃度を減じ精蟲の運動を弱め生殖作用を妨げる虞がある。之に反して落潮時には最も盛んなる活動に適する海水の方へバチを押流しつゝ生殖作用を完全に行はしめる。之れ自然に順應するものにして適者存續の法則に一致する。

[やぶちゃん注:「差し潮即ち滿潮(Flood)」「Flood」(英語)は“ebb”の対義語としての上げ潮。やはり前の注で示したように、ここでは今度は「鹽が満ちてゆく」という現象を示そうとしていると考えてよさそうだ。]

 (六)海水の鹽分の濃度が多い程比重の關係上浮游し易い。これバチが落潮を利用して受胎作用を行ふ所以である。

 (七)海水の濃度は夜半及び曉よりも日沒後が高い。暖かな方が精蟲の運動に適してゐる。又大潮時の滿潮は日沒時と未明に多い。

 (八)バチが日沒後に群游することは強き日光を避くる爲であることは勿論なれども、敵に發見せられないと云ふ事も理由の一ツとして考へられる。何となれば多くの魚類は宵の口に眠るからである。

 (九)群游中に太陰出づる時は群游しつゝあるバチが一齊に深く水中に沈んで行く。之を漁夫等は底バチと云つてゐる。

[やぶちゃん注:「太陰」太陽に対しての「月」を指す。天文学・暦法・潮汐学に於いては一月・二月などの「月」との混同を避けるためにかく用いる。なお、新田氏はこの月が出ると同時にイトメが水中に沈んでゆく理由を述べていないが、これは月光に敏感に反応して潜るものと考えてよく、それによって水中からの夜間の捕食者の目につかないようにするための行動のようにも私には思われる(次の(十)の記載から生殖行動をそれによって中断されないようにするためである)。]

 (十)一度群游を行つたバチは生殖後死滅し、或は魚類の食となり、次の群游期に再び生殖作用を行ふことがない。だから第一回目に群游するバチと第二回目に群游するバチとは同一でない。第一回目の時に成熟不十分であつたものが第二回目に浮び出るので、以下順次に四回行はれるのである。

 (十一)「いとめ」の群游は其生存する環境のあらゆる刺戟が最も大にして且つあらゆる必要なる條件が全く一致せし時に起る。實驗上鹽分のパーセント、氣壓の差、及潮差等皆朔望に於て最も大である。(完)

[やぶちゃん注:以上で本文が終わる。以下の「參考」は原典では全体が四字下げである。「{」は原典では三つが繋がったもので、“Bülow”“Friedländer”もそれぞれ上下三行に及ぶもの。“Friedländer”の方を太字にして区別した。原典では“Bülow”“Friedländer”は「{」の上に横向き(左から右)に記してあり、“Friedländer”は上に“Fried-”、下に“länder”となっているが、繋げて表記した。]

 

 

  パロロの群游時(參考)

                       Astoronom.    Letztes Viertel    Paloloschwärme

                              am                      um                         am
     
21. Okt.             7h59′früh                  21. Oct.

Bülow         11. Okt.             5 h 7′ ˮ                      10. Oct.

     
9. Nov.             1 h 40′ ˮ                      9. Nov.

     
29. Okt.             3 h 54′ ˮ                    28. Oct.

Friedländer  18. Okt.             9 h 42′ ˮ                    17. Oct.

     
17. Nov.            2 h 25′ ˮ                    16. Nov.

 

 

[やぶちゃん注:引用元の指示がないが、ドイツ語でしかもパロロのデータであるから、先に出たヘルパッハの「風土心理的現象:気象・気候・風光の精神生活への影響」からのものであろうか(或いは、以下の「LITERATUR」の「2」(私は未見)にそこから孫引きされたものか)。なお、以下、当初はドイツ語に冥い私でも何とかなるだろうという甘い気持ちでドイツ語辞書片手に注を附けてみたものの、出来上がったものは私自身如何にも心もとないものであった。単なる辞書的記載では到底読み解けない部分があると判断し、先の『三、「いとめ」の成熟時の活動狀態』のドイツ語文献引用で全面的に御協力頂いた Feldlein(フェルトライン)氏の私の拙稿を校閲して戴くこととした。これは同一論文中、鉄壁の注が氏の御協力で成すことが叶ったにも拘らず、最後の最後で竜頭蛇尾の誹りを受けては当の Feldlein 氏の顔に泥を塗ることに等しいと考えたからでもある。以下、本注は全面的に Feldlein 氏の注と依拠したことを最初に述べておく。なお、私の誤読は自戒のために取り消し線を附などしてなるべく残し、《Feldlein 氏》『 』として御指摘戴いたものを後に附すこととした(引用は了承済。下線は私が附した)。

Astoronom.ピリオドがなければ「天文学者」であるが、ここは「観察時」という意か。Feldlein 氏》『astronomischを省略するために、ピリオドをつけていると考えます。たとえば、university unive. とピリオドをつけて略すように。私は、天文学的な情報・数値・日付を表すということと解しました。』

Letztes Viertel」下弦の月の意。月が欠けて新月になる最後の日、朔日の前日の「晦」(かい/みそか)のこと。

Paloloschwärme」「wärmeは温暖・熱/温度/体温の意であるが、比喩表現で熱心/熱情という意味があるから、これはパロロの生殖群泳をかく表現したものであろうか。Feldlein 氏》『これは、前回の懸案であったドイツ語引用にある「この大いなる群がり」に相当します。ここでは、「大きな」「偉大な」はなく、「パロロ」プラス「(うようよした)群がり」の組合せです。「パロロの蟻集」「ぱろろの群がり」と訳せます。』これは如何に私が、先の本文の「三」でのFeldlein 氏の御教授を全く以って学習していなかったを如実に示すもので、私の不徳と致すところである。

am」は“an den”(前置詞+冠詞)であるから「~時に」、「月日」の意であろう。《Feldlein 氏》『はい、日付を表しています。an dem のことです。ここでは日本語に訳す必要はないと思います。』。

um」正確な時刻。以下に「früh」(副詞「早く」)とあるから、「月の出」の時刻であろう。《Feldlein 氏》『はい、時間を表しています。何時に、というときの「に」ですが、ここでは訳す必要はないと思います。ここでは「früh」は、「朝」という意味で使っています。朝7時59分。あるいは「午前」でも良いでしょう。』。

Bülowビューロゥ。観察者の名。《Feldlein 氏》『これはスラヴ語起源の名前なので、woの長母音を表します。ビュロー、あるいはビューローで良いと思います。Wilhelm von Bülow という人が、サモアのパロロについて報告を書いていているようなので、その人のことと思われます。』。Feldlein 氏の御指摘を受け、Palolo Bülow の二つの単語で検索してみたところ、幾つかの文献でこの人物の名を発見出来た。

Okt.Oktber。十月。

Nov.November。十一月。

Friedländerフリートランダー。観察者の名。《Feldlein 氏》『フリートレンダーと音写すると良いかと思います』。ä 『は「エ」の発音になるので、ラではなくレになります。 Palolo Bülow の二つの単語で検索しましたら、同じく、ビューローとともに他所でも言及されている名前ですので、観察者・報告者で間違いないと思います。』。Feldlein 氏の御指摘を受け、Palolo Bülow Friedländer の三つの単語で検索してみたところ、中身は見えないが、例の Willy Hellpach, Die Geopsychischen Erscheinungen が検索に掛かってくるところから観察者と判断出来る。

 

 

 LITERATUR

1.  Dr.Ijima, 動物學提要

2.  Dr.Iizuka,「いとめ」の成熟と其群泳

3.  Willy Hellpach, Die Geopsychischen Erscheinungen, 1923.

 

[やぶちゃん注:「3」の書名は原典では「Geopsychische Erscheinungen」だが、ここは大事な参考文献箇所でもあり、前掲に倣って綴りを訂し、正しく冠詞を補った上、斜体ローマンとした。この書物については『三、「いとめ」の成熟時の活動狀態』の注で既注。

LITERATUR」ドイツ語で「参考書目」。

1. Dr.Ijima, 動物學提要」動物学者・魚類学者として知られる東京帝国大学理学部教授飯島魁(いさお 文久元(一八六一)年~大正一〇(一九二一)年)が大正七(一九一八)年に出版した、明治・大正期の動物学を総括した千頁を超える大著。長く生物学に於いて必読の教科書とされ、日本に於ける動物学普及に貢献した(ウィキの「飯島魁」に拠った)。

2. Dr.Iizuka,「いとめ」の成熟と其群泳』論文詳細は不明であるが、作者は動物学者飯塚啓(あきら 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)である。環虫類の世界的権威として知られ、特にゴカイの研究は世界のトップと言っても過言ではなかった。著書「海産動物学」は名テキストとして長く使用された。学習院大学教授で東京科学博物館動物学部長としても活躍した(ここまではウィキの「飯塚啓」に拠った)。鹿児島大学理学部佐藤正典氏の論文「干潟における多毛類の多様性」に、飯塚は明治三九(一九〇六)年十二月十七日に、『瀬戸内海の岡山県児島湾に赴き、そこでH. japonica 生殖群泳を観察した様子や、そこの干潟における成体の分布状況などは原記載論文に詳しく記述されていた』とある(下線やぶちゃん。文中の『H. japonica』は多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属アリアケカワゴカイ Hediste japonica のことで、『原記載論文』とは Izuka, A. (1908) On the breeding habit and development of Nereis japonica n. sp. Annot. Zool. Jap., 6, 295-305. を指す)。

 

[やぶちゃん注:以下、最終頁は奥附。左下方に太い黒枠の中に示されてある。ポイントの大きさ字体は総て同じにした。底本では全体が太い長方形の枠に囲まれており、中の「不許複製」はごく細い真四角の枠の中に太字ゴシックで示されてある。「発行所」もそれだけが太字ゴシックである。言わずもがなであるが、「著作兼」は「著作權」の誤りなのではなく、「著作」兼(けん)「發行者」の謂いである。]

 

 大正十五年十月 十日 印刷

 大正十五年十月十五日發行

            東京市深川區木場町十二番地

           著  

                新 田 淸 三 郎

  不 許      發  

        東京市牛込區早稻田鶴卷町百〇四番地

  複 製      印  者 吉 原   良 三

        東京市牛込區早稻田鶴卷町百〇四番地

           印  所 康   文   社

       東京市下谷區中徒士町三丁目二重貮番地

發 行 所          日      

 

2016/02/23

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(5) 二 子の保護(Ⅳ)

Sanbagaeru

 

[産婆蛙]

Hukurogaeru

[袋蛙]

Seoigaeru

[背負蛙]

[やぶちゃん注:以上、三図は総て国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 

 蛙の類には餘程變つた方法で卵を保護するものがある。ドイツ・フランスの南部に普通に居る「産婆蛙」は、大きさは赤蛙位で、姿は「ひき蛙」に似て居るが、産卵するときには、雄は雌を上から抱き、生まれ出る卵を自分の足に卷き附ける。蛙の卵はいつも粘液に混じて生まれ出るもので、「ひき蛙」や「殿樣蛙」では粘液は直に水を吸うて量が增し、柔く透明な寒天樣のものになるが、産婆蛙は陸上で産卵するから、卵は濃い粘液に繫がれて珠數の如き形をなし、雄がこれを足に卷き附ければ、粘液のためにそこに粘著する。かうして、雄は卵を膝や腿の邊に卷き附けたまゝ石の下などに隱れ、卵が發育して「おたまじやくし」になる頃に近邊の池まで行き、水の中へ泳ぎ出させる。普通の蛙に比べると、卵は大きくて數が餘程少い。また南アメリカに産する雨蛙の一種では、雌の背に一つの囊があり、その口は背の後端に近い處で肛門の少しく前に開いて居るが、卵は生まれると直にこの囊に入れられ、發生が餘程進むまでその中で保護せられる。卵は無論粒が大きくて數が少い。また同じく南アメリカに産する雨蛙で、十數個の大卵を單に背面に粘著せしめて、背負うて歩く種類もある。印度洋の南にあるセイシェル島の蛙は、「おたまじやくし」を親が背に載せて歩く。

[やぶちゃん注:「産婆蛙」両生綱平滑両生亜綱無尾(カエル)目スズガエル科サンバガエルAlytes obstetricans 。ヨーロッパ西部、ドイツからポルトガルにかけて分布し、普段は林・石垣・石切場・砂丘などに棲息し、ほぼ陸生志向を持つカエルで、水かきなどはあまり発達していない。皮膚表面に無数の凸凹の疣状突起があり、ヒキガエル類(ヒキガエル科 Bufonidae)に似ているものの、遙かに小型で三~五センチメートルしかない。体色は淡い緑色・灰色・褐色など様々で不規則な暗色模様が全体に見られる。瞳孔が縦長で菱形を呈しており、夜行性の特徴を示す。春から初夏にかけての繁殖期にの腹部を刺激して産卵を促し、は産み出された紐状の淡褐色の卵塊を自分の後肢に巻きつけて凡そ五十日もの間、運んで歩きながら保育する。その後、卵が孵化し始めると、は水辺へと移動、浅い水に幼体を放つ。同サンバガエル属の種は通常、攻撃を受けると皮膚から乳白色の毒を分泌する(但し、マジョルカサンバガエル Alytes muletensis は毒分泌はしないとされる)。

「袋蛙」無尾(カエル)目アマガエル科フクロガエル Gastrotheca marsupiatum 。外観は普通のアマガエル類(アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属 Hyla)に似ているが、の背に育児袋があり、産み出された卵はその中に流れ込んで孵化した幼生は変態を終えるまで袋の中で育つ。袋から出る際には母親が後肢の指で袋の口を開口する。

「背負蛙」「南アメリカに産する雨蛙で、十數個の大卵を單に背面に粘著せしめて、背負うて歩く種類」中南米に分布ツノアマガエル亜科 Hemiphractinaeの仲間か? 同科の特徴はが背中部で幼生又は子蛙に変態するまで育てることであるが、但し、これらは現行の専門家の解説によれば「保育囊」とある。しかしそれらの画像を見ると卵(かなり大きい)の場合は一見、背部に粘着しているようにしか見えない。一応、同科の属を以下に示す。

 フクロアマガエル属 Gastrotheca

 ツノアマガエル属 Hemiphractus

 ヒダアマガエル属 Fritziana

 クリプトバトラクス属 Cryptobatrachus

 コモリアマガエル属 Flectonotus

 ステファニア属 Stefania

『印度洋の南にあるセイシェル島の蛙は、「おたまじやくし」を親が背に載せて歩く』セーシェルガエル科セーシェルガエル(コオイセーシェルガエル)Sooglossus sechellensis 。サイト「カエル動画図鑑」のセーシェルガエルによれば、は十五ミリメートル、は二センチメートル。『背中は金色がかった褐色であり、脇腹と手足には黒色の斑点がある』。本種は『セーシェル諸島のマヘ島とシルエット島の海抜』二百メートル以上の高地地域に棲息し、『熱帯雨林の林床の落ち葉の中を、主な生活場所にしている。普段は隠れていることが多く、あまり人に発見されることはない』。『雨季になると、繁殖が行なわれる。オスは昼夜問わず、メスをひきつけるために鳴き声をあげる。メスは』僅かに十個ほどを産卵、は『卵が孵化するまで面倒を見る。卵が孵化すると』、は『オタマジャクシが変態して小ガエルになるまで、オタマジャクシを自分の背中に載せる。オタマジャクシが水の中で暮らすことはない』とある。]

 

Seanagaeru

[背孔蛙]

Dawinhanagaeru

[卵を吞む蛙]

[やぶちゃん注:以上、二図はともに国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 

 南アメリカの北部の熱帶地方に産する「背孔蛙」と稱する一種は他に類のない方法で卵を保護する。「ひきがへる」程の大きさの妙な蛙であるが、雌が粘液に混じて數十個の卵を産み出すと、雄はこれを雌の背の上に塗り附けてやる。日數が經つと雌の背中の皮膚が柔く厚くなり、卵は一粒づつその孔の中に嵌り包まれ、かうして保護せられるのみならず、「おたまじやくし」時代をも通り越して、四本の足を具ヘた小さな蛙の形まで發育する。幼兒は初は親の背中の皮膚の孔から顏だけを出して居るが、後には恰も「カンガルー」の幼兒などの如くに、自由に匍ひ出したり、また舊の孔に入つたりする。しかしこれは極めて、短い間であつて、四足が自由に動くやうになれば親から離れて獨立の生活を始める。子が母親の背中の表面から産まれるといふのも珍しいが、同じ南アメリカのチリ邊に産する一種の小さな雨蛙は、更に意外な方法で卵を保護する。この蛙は、雌が大きな卵を一粒づつ産むと、雄は直に呑み込んでしまふ。但し卵は無論食道を通過し胃に入つて消化せられるのではなく咽喉から別の道を通つて別の囊に入り、その中で小さな蛙の形まで發育し、終に父親の口から産み出される。それ故一時はこのの蛙は胎生と思はれて居たが、腹に子を持つて居るものを解剖して見ると、いづれも睾丸を具へた雄ばかりであるから、なほよくよく調べて見たら、子供の人つて居る囊は、普通の雨蛙が鳴くとき聲を響かせるために膨らせる咽喉の囊に相當することが明に知れた。普通の雨蛙の鳴く所を横から見ると、聲を發する毎に咽喉の皮が大きく球形に膨れるが、チリの小さな雨蛙では、この囊が更に大きくなり、内臟のある場處と皮膚との間に割り込んで、腹の方まで達して居るのである。

[やぶちゃん注:以上の他にも変わった保育を行う蛙について、「るいネット」の雪竹恭一氏のカエルの繁殖様式いろいろが参考になる。以上の蛙も挙がっており、リンクもされていて必見。

「背孔蛙」無尾目無舌亜目ピパ科ピパ属コモリガエル(ピパピパ)Pipa pipa ウィキの「ピパピパによれば(「メス」「オス」を記号に代えた)、体長は十五センチメートルほどもある『大型のカエルだが、前方に三角形にとがった頭部と、上から押しつぶされたような扁平な体はカエルとは思えないほどである』(不謹慎ながら、小さな頃によく見た車に轢かれて熨斗烏賊になった大型の蛙に似ていると私は昔からずっと思っている)。『体色は褐色で全身にいぼのような小さな突起がある。後脚には広い水かきが発達する。前脚には水かきがないが、指先に小さな星形の器官がある。目は小さくてほとんど目立たないが、口は大きい。また、舌がないのもピパ科のカエルの特徴であり、同じ科のツメガエル類とも共通した特徴である』。『アマゾン川流域を中心とした南米北部の熱帯域に分布し、川の中に生息』し、『陸上に出ることはほとんどなく、一生を水中で過ごす』。『前脚を前方に突き出し、「バンザイ」をしたような格好で川底にひそむ。褐色の扁平な体は枯れ葉や岩石によく似ており、捕食者や獲物の目をあざむく擬態である』。『前脚の指先にある星型の器官は節足動物の触角のような役割を果たしており、小魚や水生昆虫が前脚に触れると、瞬時に大きな口で捕食する。このとき、口を開けて水とともに獲物を吸い込みつつ、前脚で口の中に掻き込むような動作を行う。移動する時は後脚の水かきを活かして移動し、前脚で障害物を掻き分けながら進む』。『その変わった姿だけでなく、が子どもを保育することでも知られ』、『産卵前にはの背中の皮膚がスポンジのようにやわらかく肥厚する。は水中で抱接しながら後方に何度も宙返りし、背泳ぎの状態になったときに産卵した卵をの腹部で受け止めて受精させ、回転が終了したときに受精卵をの背中の肥厚した皮膚組織に押し付け、埋めこんでしまう。卵は組織内で孵化し、幼生(オタマジャクシ)の時期もの背中の組織内ですごす。メスの背中から飛び出してくる頃には小さなカエルの姿になっている。「コモリガエル」という和名はこの繁殖行動からつけられたものである』。『同じピパ属のカエルの中には背中の皮膚内で孵化した幼生がカエルまで成長せず、オタマジャクシの状態で泳ぎだす種も知られている』。

「卵を吞む蛙」無尾目ダーウィンガエル科ハナガエル属ダーウィンハナガエル Rhinoderma darwinii ウィキの「ダーウィンハナガエルによれば(「メス」「オス」を記号に代えた)、『チリやアルゼンチンの森林の小川に生息するダーウィンガエル科のカエルである。フランスの動物学者アンドレ・デュメリルとその助手ガブリエル・ビブロンによって記載された。種小名darwiniiはビーグル号による航海の際に、チリでこの種を発見したチャールズ・ダーウィンに因む』。『最大の特徴は、オタマジャクシがオスの鳴嚢の中で成長する点である』。『色は茶色か緑色で、大きさは』二・五~三・五センチメートル。『前足には水かきがないが、後ろ足の爪先のいくつかには水かきがある。昆虫やその他の節足動物を食べる』。彼らは『エサを捕まえるだけではなく、捕食者から身を隠す必要もある。捕食者から逃れる最大の武器はカムフラージュである。まるで枯葉のように地面に横たわって、捕食者が通り過ぎるのを待つ』。以下、「口内保育」の項。は約三十個の『卵を産み、は卵が孵化するまで、おおよそ』二週間、『それを守る。その後、は鳴嚢の中で生き残った全ての子供を育てる。オタマジャクシは卵黄を食べながら』、『袋状の顎の皮膚の中で成長する。オタマジャクシが』〇・五インチ(一・二七センチメートル)程度まで『成長すると、口の中から飛び出て泳ぎ去る』とある。但し、悲しいことに、二〇一三年十一月に『ロンドン動物学会とチリのアンドレス・ベロ国立大学の研究者は、カエルツボカビ症』(一属一種の真菌である菌界ツボカビ門ツボカビ綱ツボカビ目ツボカビ科ツボカビカエルツボカビ Batrachochytrium dendrobatidis によって引き起こされる両生類の致死的感染症)『によってこの種は既に絶滅しているようだと発表した』とある。

「嵌り」「はまり」と読む。]

藪野直史編 梅崎春生全詩集(ワード縦書版)

僕がオリジナルに編した「梅崎春生全詩集」(一括ワード縦書版)を公開した。ダウンロードしてお読みあれ。

2016/02/22

梅崎春生「仮象」PDF縦書版

梅崎春生「仮象」PDF縦書版を公開した。

仮象   梅崎春生

仮象   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年十二月号『群像』に発表され、後の梅崎春生の死の直後に出た単行本に「幻化」とともに収められた(作品集「幻化」には他に「凡人凡語」も所収されている。後述参照)。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第六巻」を用いた。同底本の古林尚氏の解題によれば、『この作品は一部に、先に「群像」の昭和三十二年十月号に発表された短篇「顔序説」が使用された』とある。

 同底本の山本健吉氏の解説には、春生と最後に電話をした際、かの遺作となってしまった「幻化」にこの短篇「仮象」を『添えて単行本を作るということだけを、彼は言った』とあり、また、それは春生が本短篇「仮象」を「幻化」『の衛星的作品と考えていたからである』と断言されておられる。本作には「幻化」にも描写されるチンドン屋に遭遇すると気分が変調する老人が描かれているが、「幻化」では『自分が他の人間になることは、何とすばらしいことだろう』と、主人公五郎に心内語で言わせている。因みに題名の「仮象」とは哲学用語でドイツ語「Schein」(シャイン)の訳語。実際に存在するように感覚に現れながらも、それ自身は客観的な実在性を持たない虚構の形象の意である。

 第一章「顔」の最初の方の主人公の回想に出る「教班長」とは、戦争中の日本帝国海軍の「新兵教育分隊」の「班」を「教班」と称し、その「教班長」はその班の担当下士官である班長を言ったものらしい。

 同じく「顔」の「回転車」は言わずもがな乍ら、ゴンドラで回転する大観覧車のこと。

 第二章「梵語研究会」の最初に出る「受持連絡」というのは、正式には「巡回連絡」と呼ぶようである。その直後に出る「孝治橋」という橋名は不詳である。地区も『Q』なればこそ架空のものであるらしい。

 同パートに蟻の「見張り」の観察のシーンが出るが、これは他の群れ或いは同じように見えながら別種の異個体が侵入したものをそれが攻撃したのを見誤ったものではないかと私は推測する。主人公の言うような監視システムをアリは保持していないように私は思う。寧ろ、近年の研究では怠ける働きアリ(周囲の環境に対して反応閾値が高く設定されてしまっている個体)がいるからこそ、労働が上手く分配され、アリ社会の永続性が逆に保持されているということが解ってきているぐらいである。

 第三章「神経科病室」の「バレーボールのストップ」とはバレーボールのブロックを指しているものと思われる(元バレーボール部顧問の妻の談)。この当時、バレーボールのプレイとしての「ブロック」を「ストップ」と一般に呼んでいたかどうかは判らないが、ここは実際の塀としての「ブロック」の比喩であるため、判り易く区別するために作者がかく表記したようにも思われる。

 ブログ版「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注」及び同PDF縦書版をリンクさせておく。]

 

 

 仮  象

 

 

 

 

 毎日毎日、どういう形でか、顔と会う。顔というのは、自分の顔でない。他人の顔のことだ。自分の顔に自分では会えない。鏡を使えば会えるようなもんだが、あれは左右が入替っている。本当の顔じゃない。また人間は自分の顔に会う必要がない。自分の顔を見ないでも、ここにいるのは自分であることは、自分で判るからだ。

 他人に会うということは、他人の顔に会うということだ。もし顔がなければ、特別の場合をのぞいて、相手が誰であるか判らない。相手が獣や鳥の場合は、それを識別するのに、顔よりも毛色や形に重点を置くが、相手が人間だとそんなわけには行かない。衣服をつけているから、毛色や形は見えないし、衣服から出ている部分と言えば、顔だけだ。顔をたよりにする以外に方法はない。で、毎日毎日、どういう形でか、いろんな顔と会う。無人島に住んでいるのではないから、それも当然だが、時には私はそれを苦痛に感じることがある。苦痛と言うより苦労、心の重さ、気分の重さと言う方が適切だろう。それにはいろいろ原因があるが、ひとつには私の能力、他人の顔を覚えると言う能力が、たいへん欠乏しているせいである。人の顔を覚えるのは実にむつかしい。分類学というような才能を必要とするものらしい。私にはその才能がほとんど欠如しているのだ。

 見慣れてしまった顔なら、問題はない。それから全然関係のない他人の顔、これもあまり問題でない。一番困るのは、中途半端な顔だ。どこかで見たような、見たことがないような、そんな顔が一番困るのである。そういう顔にぶつかると、はたと私は当惑してしまう。

 そういう場合、相手が私に話しかけて呉れたら、それを手がかりにして、相手が何者であるかを探り出せる。しかしこれもたいへん老練な受け答えが必要で、うっかりすると相手に気を悪くさせたり、またかなり長時間受け答えをしながら、とうとう相手の正体を摑(つか)めない場合だってある。うまく行って、相手の正体が判り、別れたあと「今のが何某さんだ」と心に銘じても、翌朝になると何某さんの名前だけが残って、何某さんの顔は我が記憶からすっぽりと消え去っている。だから、またどこかで顔を合わせれば、同じようないきさつになって、受け答えに私が苦労するということになる。気分が重いというのはこういうことだ。

 このような物忘れの現象は、私の年齢のせいではない。若い時からそうだった。二十九歳で海軍に召集され、海兵団に入れられ、それから教班長を紹介される。

「おれが第一教班長の××一曹」

「おれが第二教班長の××二曹」

 という風な具合に、それぞれの教班長が自己紹介をする。私は自分の欠点を承知しているので、眼を皿のようにして、各教班長をにらみつける。それでも駄目なのだ。

「わかれ」の号令がかかって解散すると、もうどれがどの班長の顔だったか判らない。結局、自分の班の教班長の顔だけ覚えて、あとはどうにかごまかすか、ごまかしそこねてひっぱたかれる、というようなことになるのだ。

 さっき書いた中途半端な場合、どこかで見たような見ないような顔で、こちらに話しかけて来れば来たで苦労するし、来なければ来ないで困る。妙な具合に視線を合わせ、そのまま妙な具合に視線を外らせる。一度だけならいいが、顔を合わせるのが二度三度と重なると、気分の重さ、やり切れなさは、それに応じて倍加する。どこの誰とも判らないながら、いっそ帽子を取ってあいさつをし合った方が気はラクだ。ラクだと言っても、あいさつをするわけには行かない。この度あいさつをするのなら、なぜ前回の時にあいさつをしなかったか、という意識が脱帽の行為をためらわせるのだ。ためらっているうちに、そいつと私はすれ違ってしまう。次回に会った場合には、そのためらいは更に倍加する。前二回知らぬふりをして、今度だけあいさつをする根拠はどこにあるか。どこにもありはしないのだ。

 そういうケースは、向うも私の顔をどこかで見たような顔だが、こちらの正休を摑めないと言うことで起るのらしい。顔覚えの苦手な人間は、世間には私一人ではない。たくさんいる筈だ。そう思う。そうでなければ、私は特殊な人間、あるいは人間並でない人間と言うことになる。それは私は厭(いや)だ。私はどちらかと言うと平凡でありたい。

 私は平凡な顔をしている。鏡をのぞいても、自分ながらそう思う。鏡の中の顔は、左右が取替っているが、も一つ鏡を使って、合わせ鏡にして眺めても、ごく平凡な顔である。別にどこと言って特徴がない。ありふれた型の眼鏡をかけている。鼻は高からず低からず、というような形容があるが、私の顔もみんな……からず……からずで形容出来るようだ。たとえば、顔は長からず短かからず、色は白からず黒からず、唇は厚からず薄からず、全部が全部そうである。平凡でぼんやりした顔なのだ。

 そういう顔だから、私の顔は人目に立たないし、したがって記憶しにくい顔に属するらしい。目立った顔、たいへん長い顔だとか、極端に眠が大きな顔だとか、一目見れば忘れられないという顔がある。そういう顔の持主は、実生活で得をしているか損をしているか、聞いたことがないから知らないけれども、私はそんな顔をあまり持ちたくない。つまり私は、あまり人目に立ちたくない。あまり目立たないところで、こそこそと生きていたいという気持が、いつも胸の奥底にわだかまっている。平凡な顔に生れついてよかったと思う。目立つ顔は損だと思う。適当なたとえでないかも知れないが、たとえば悪事をはたらくような場合でも、平凡な顔の方が得だ。もし目撃者がいて、あれはたいへん大きな鼻の持主だったと証言すると、その大鼻のは人は直ちにつかまる可能性が多い。私のように平凡な顔だと、目撃者がいても証言のしようがなく、モンタージュ写真をつくっても、ありふれた日本人の顔しかつくれないから、捜査は永びくことになる。悪事をはたらく気持は、今の私には毛頭ないけれども、将来のいつなんどき、追われる身にならないとは限らない。悪事と関係なく、追ったり追われたりする世にならないとは、誰も保証出来ない。

 で、その具合の悪い相手は、世の中に無数にいるが、その中の特殊の一人について私は書こうと思う。そいつの名前も住所も、私は全然知らない。住所は私の近くかも知れない。私がよく乗るバスの中で、一度顔を合わせたことがあるからだ。しかしこれもあてにならない。何かの用事で偶然そいつは、そのバスに乗っていたということもあり得る。

 そいつと最初に顔を合わせたのは、私の記憶では、二年ぐらい前のことだったと思う。それ以前も会ったことがあるかも知れないが、記憶にはない。それは国電の駅の階段でだ。たしか秋の末の昼下りで、通勤時間のように混んでいずに、階段はがらんとしていた。そいつは上から降りて来て、私は下から昇っていた。階段の丁度(ちょうど)中ほどのところで、すれ違う時に、ぱっと顔が合った。

「あ!」

 そいつはそんな声を出して、ぎょつとしたように立ち止った。それで私も立ち止った。立ち止らないわけには行かなかった。

 そいつの顔に私は見覚えはなかった。いや、見覚えがないとは、はっきり言い切れない。いつも見慣れた顔をのぞくと、私は日本人の顔なら大体どれもこれも、見覚えがあるようなないような感じを持っている。特にその時は、向うが「あ!」と言って立ち止ったのだから、こちらとしては「おれを見知っているんだな」「つまりどこかで会ったことがあるんだな」という意識を、瞬間的に持たざるを得ない。そういう時、私の態度は常に警戒的になる。慎重に受け答えして、相手の正体を知らねばならぬのだから、どうしても防禦(ぼうぎょ)の立場に立って、相手の出方をうかがう恰好(かっこう)となる。だから私はよく人から言われる。

「どうしてそんなにびくびくしているんですか?」

 びくびくしているのではない。警戒しているのだ。

 しかしその時、一瞬にしてそいつは私から眼を外(そ)らし、(視線を私からムリに引剝ぐと言った感じだった)そのままとことこと、足早に階段を降りて行った。だから私も、足を動かして、そのまま階段を昇った。何故そいつが私の顔を見て「あ!」と叫んだのか。立ち止ったのか。次の瞬間視線を引剝がして、逃げるように階段をかけ降りて行ったのか。私には判らなかった。判らないまま改札口を出た。

 その次顔を合わせたのは、それから半年後で、場所はある遊園地だった。私は一人で回転車(と言うのかな。小さなボックスに乗り込むと、ゆるゆると上って、降りて来るやつ)に乗っていた。下から頂点の中途まで来ると、軸を中心にして反対側のボックスに、じつと私を見ている男の視線を、突然私は感じた。次の瞬間、それがそいつであることに、私は気がついた。ゆるゆると下降しながらそいつは、ゆるゆると上昇しつつある私を、眼を皿のようにして、見つめていた。そいつはボックスに若い女と同乗していたのだが、やがて角度の関係で、そいつのボックスは私の視界からふっと切れた。向うからも私の顔が見えなくなったわけだ。

 私が頂点まで上昇、それからゆっくりと下降して、ボックスから降り立ち、そいつの姿を探し求めたが、もうどこにも見えなくなっていた。三度目が前記のバスの中で、私が乗り込んで、空席を探すべく車内を見廻すと、そいつの顔にばったり出合った。そいつの顔はさっと緊張した。緊張したことだけは判ったが、それがどういう意味を持つ緊張なのか、たとえば恐怖だとか、嫌悪だとか、それは私には判じかねた。彼の顔に緊張をもたらしたのは、私の顔の出現のせいだということだけは、確実であった。

 そいつの年頃は、私と同じくらいか、少し上ぐらいで、顔に別段の特徴はない。ありふれた型の眼鏡をかけている。しごく平凡な顔だ。と言うと、私もありふれた型の眼鏡をかけ、平凡な顔をしているのだから、私に似ているかと言うと、そうでもない。平凡にもいろいろ種類があって、平凡だからとて似ていると言うものではない。顔というものは、そんな単純なものではない。

 顔。顔とは何だろう。後頭部の表側にあたる部分、それでは説明にならない。もしあの部分がのっぺらぼうだったら、それは顔とは言えないだろう。眼や鼻や口や耳、そんなものがあるからこそ、これは顔なのだ。そういうものの配置、ならび具合が顔と称するものである。では、眼や耳や口は、顔をつくるために存在するのか。そうではない。眼は見るために、鼻は呼吸のために、口は食うために、耳は聞くために存在する。それらの機能を果たすべく、人体の中の一番都合のいい部分に、所を求めてあつまったのだ。その一番都合のいい場所というのが、頭からすべり降りた前面の空地で(耳だけは横面)しかるべきところに定着したとたんに、顔というものが出来上った。顔が出来たのは、偶然だと言ってもいい。だからそれら器官の配置の具合が平凡だと言っても、何千何万種類の平凡さがあって、それは言葉では言いつくせない。

 そいつはとにかく、一瞬はげしく緊張した。それは前記器官の配置の微妙な変化で、すぐに判った。しかしそれが、どんな意味の緊張だか判らなかったのは、そいつがすぐに視線を引剝がして、膝の上の週刊誌に顔を向けてしまったからだ。それは私にはむしろ好都合だった。私は遠慮なくそいつを観察出来る立場に立てたのだから。やがてバスが次の停留所にとまると、そいつは私を見ないようにして、ごそごそとバスを降りて行った。その停留所が彼の目的地だったのか、私が乗り込んだから降りて行ったのか、それはよく判らない。

 それから今までに、そいつの顔を二度ばかり見た。一度は日比谷の映画館の便所で、もう一度は新宿駅でだ。新宿駅で電車を待っている時、ふと向うを見ると、松本行鈍行列車の二等車の席に、彼は腰かけていた。どういうつもりか、まだ停車中なのに、彼は汽車弁当を食べていた。(汽車弁当と言うものは、汽車が動いていないと、食べても旨くないものだと私は思うのだが)私の視線をはっと感じたらしい。そいつは箸をとめて、顔をぐいとこちらにねじ向けた。いつものショックがそいつの顔をおそった。あきらかにそいつは驚愕の色を示した。そこへ電車が轟と走り入って、私とそいつの間を隔ててしまったのだ。それはいい後味のものではなかった。とにかく私の顔が、この私の平凡な顔が、ある男にとってショックに値いするということは、私にはたいへん面白くないことだった。最初から面白くないことであったが、度重なるにつれて、それは重苦しい鎧(よろい)のように、私の全身にかぶさって来る。ふりはらおうと努力しても、それはずっしりと、まつわりついて離れない。

 

 梵語研究会

 

 夕方帰宅して風呂に入る。上ってビールを飲む。すると電話がかかって来た。彼は立ち上って受話器をとった。電話は台所と居間の間にある。低い押しつぶしたような声が、彼の名前を確めた。

「そうです」

「あなたが本人ですね」

「そうですが――」

 彼は用心深く言った。

「あんたは一体どなたです?」

「あ。失礼。こちらはQ警察、エトウというものです」

 声はあやまった。しかし彼はあやまられたような気がしない。警察が何でおれに電話をかけてよこすのか。その不安の方が先に立った。

「あなたは梵語(ぼんご)研究会というのを御存知ですか?」

「ボンゴ研究会?」

「ええ。インドの古代の言葉らしいですな。それの研究会です」

 梵語? 梵語研究会とこのおれと、何の関係があるのだろう。だから電話というやつはイヤなんだ、と彼は考えた。見たことも会ったこともない相手と、しかも対面でなく遠く離れて、素(す)で話し合う。顔見知りなら気軽に電話口に出られるが、声だけの初対面というのが彼の気に入らなかった。

「梵語には僕は興味ありませんね」

 彼はそっけなく言った。

「まして梵語研究会なんかに、かかわりあるわけがない。一体その研究会はどこにあるんです? どこかの大学にでも――」

「大学じゃありません」

 相手の声の調子は変らなかった。

「個人が主宰しているのです」

「その個人と僕との間に、何の関係が――」

「それをおうかがいしたいんです。その男が持っていた会員名簿に、あなたの名が出ていました」

「え? 僕の名前が?」

 彼はびっくりして反問した。

「そりやおかしいな。僕が知らないうちに会員になってるなんて。姓も名も同じなんですか?」

「そう」

 うなずく気配がする。そして急にぞんざいな口調になった。

「あんた、Q区に部屋を借りているね」

「借りちゃいけないんですか」

「いや。借りるのはあなたの自由です。受持連絡で最近判ったもんでね」

「受持連絡というのは、何ですか?」

「交番の者が受持地区の各宅を廻って、そこに住んでいる人の数などを調べるでしょう。同居人とか雇い人を含めてね、それを受持連絡というんです」

「しかし僕は同居しているわけじゃない。部屋を借りて、一日の中何時間か仕事をするだけです」

 彼はいらいらした声で答えた。

「それと梵語とどんな関係があるんですか?」

「あなたはQ区の孝治橋という橋を知っていますか?」

 声は問いに答えず、突然話題を変えた。

「あの橋のふもとに、電車の停留所があるでしょう」

「ふもとじゃなく、たもとでしょう」

 彼は相手のタイミングを乱すために、揚足をとった。

「それともその橋は、高くそびえているんですか」

「そう。たもとです」

 声は冷静さをくずして、初めていまいましげな諷子になった。

「そのたもとの電停の安全地帯で――」

「安全地帯も何も、僕はその橋に行ったことはないですよ。Q区って広いんでしょう」

 そして彼はきめつけるように言った。

「もすこし筋道を立てて話したらどうですか?」

 相手は返事をしなかった。彼は受話器をぴたりとあて、聞き耳を立てる。近頃の受話器は性能が良くなって、以前より背後の音が入りやすい。かすかに声がする。二人以上の人間が相談しているらしい。はっきり聞きとれないのは、相手の掌が送話口をふさいでいるからだ。会話のくぐもり具合が、湿った厚ぼったい掌をまざまざと想像させた。やがて掌が引剝がれる音がして、声が大きくなった。「するとあなたは、梵語研究会も知らないし、孝治橋にも行ったことはないというわけですな」

「もちろんそうです」

「そうでしょうな。それならそれでいいです」

 ちょっと待て、という前に電話が切れてしまった。

「もしもし。もしもし」

 切れたから、もちろん応答はない。彼は受話器を置き、ふわふわした足どりで元の席に戻って来た。コップに残ったビールをぐっとあおる。何だか後味が悪い。またコップにビールを注いだ。彼の家のうしろにある工場の機械が、またガシャガシャと昔を立てている。この工場は夜の八時頃か、遅い時は十二時頃まで、音を立てているのだ。その度に螢光燈がびりびりと慄える。

「あの工場じゃ何をつくってんだね?」

 ある夜将棋仲間の浅香が、将棋を指しながらその方に顔をむけて言った。

「ほんとにうるさいな。震動で歩がピョコピョコ動くようだよ」

「うん。看板には紙工所と出ているんだ」

 この工場が出来た時、いや、ふつうのしもた屋が内部を改造して小さな工場になった時は、ほとんど音は発しなかった。看板がかかげられ、大和紙工所、その下に小さく、紙袋包装紙印刷加工、と書いてある。まだ機械は入っていず、手でバタンバタンと何かを打返す昔が、風の具合で彼に聞えて来た。

「それからふくれて来たんだな。つまり注文が多くなったということだろう」

 建物がつぎ足され、ふくれ上り、彼の家の裏庭の生籬(いけがき)のすれすれまでに、工場の壁が迫って来た。そして機械が入れられた。新規に次々買い入れるらしく、だんだん音が大きくなる。ある日彼がその前を通ると、以前は仕事場だったところが、商取引の応対所になっていて、チョビ髭を生やしたそこの主人が、卓の向うの回転椅子に腰をおろして、煙草をふかしていた。創業当時にその髭はなかったと思う。そいつが彼の顔を見て、中腰になり、じろりとにらんだ。にらんだだけでなく、文句はつけさせないぞという感じで、肩をそびやかした。

「やはり音を出していることに、引け目を感じているんだね」

 彼は浅香に説明した。

「髭を立てたのが、その証拠だ」

「髭が何の証拠になるんだい?」

「髭を立てると、鉄面皮、いや、鉄面皮とまでは行かないが、少し横着になる気分になるんだ。一昨年の夏だったかな、おれは信州の友人に誘われて、山ごもりをしたことがある。そこで雨の日に転んでね、顔を白樺の木の根っこにぶっつけた。顔中が傷だらけになり、眼鏡も割れてしまった」

「山の中で眼鏡をこわしたら、困るだろうね」

「そりや困るさ。だから翌日山を降りて、町まで眼鏡を買いに行った」

 素面ではどうにも恰好(かっこう)がつかないので、大きなサングラスをかけた。バスに乗った。するとバスに乗っている連中の態度が、どこかおかしい。おどおどとして、彼の顔を見ないようにする。顔を合わせると、あわてて眼をそむける。

「初めは気の毒がってそうしていると思ってたら、そうじゃないんだね。恐がっているんだ」

 顔には傷があるし、あまり品の良くない黒眼鏡をかけている。しかも太い杖をついている。殺し屋みたいな恰好をして、うっかりすると因縁をつけられそうだ。そういう心境に乗客がなっていることが判ったのは、バスの車掌が切符切りに来た時だ。その若い女車掌は彼の前を通る時、眼を伏せるようにして、切符を売らなかった。

「すると君はただ乗りをしたのか?」

「つまり、そうだ。売って呉れないから、仕方がないやね。バスを降りて眼鏡屋まで歩く時も、通行人は皆おれをよけて通ったよ。そこでおれも面白くなって、わざとすごんだような歩き方で、街を歩いた」

「それと髭と、何の関係があるんだい?」

「だからさ、顔かたちが変ると、人間は若干横着になるということさ。素(す)の顔じゃ責任を感じるが、髭とか黒眼鏡は責任を減少させる楯となる」

「ふん。そんなものかな」

「そうだよ。グレン隊を見なさい。おおむねサングラスをかけている。それで破廉恥なことが出来るんだ」

「他の考え方は出来ないか」

 浅香は憮然とした表情で、角の位置を動かした。

「たとえばだね、君は盲のアンマさんと間違えられたんじゃないか」

「アンマ?」

 彼は驚いて反間した。

「じゃ皆、どうしておれの顔から眼をそむけたんだ?」

「怪我したアンマさんなんて、何か哀れで、見るに忍びないからね。車掌が切符を売らなかったというのも、同情したんだとは考えられないか?」

 彼は返事をしないで、しばらく盤面を見詰めていた。見詰めているふりをしていた。ギャングの親方のような気分になっていたのに、他人には盲人に映っていたかも知れない。その解釈がひどく面白くない。彼は敵角の前に香車を打った。浅香は腕を組みながら言った。

「眼鏡を新調してかけた時、さっぱりしただろう」

「うん。うす暗くてもやもやした世界が、急にはっきりしたね」

「それで街を歩いた時――」

 浅香は角を動かした。

「誰も君をよけなかっただろう」

「うん」

 面白くない気分のまま、彼はあまり考えもせず、しきりに駒を動かした。盤面は間もなく彼の負けになった。勝負はそれで打切り、ビールが出た。気がついてみると、紙工店は作業をやめ、音は止っていた。

「どこかにいい仕事部屋はないかね」

 彼は言った。浅香はコップを手に持ったまま言った。

「どうして紙工店に抗議を申し込まないんだ?」

「うん。それも考えたんだが――」

 彼は視線を宙に浮かした。初めは人の手で打返すだけの音であった。それから小さな機械が入った。機械を入れ替えるのか買い足すのか、だんだん音が大きくなる。夏になると窓をあけ放すので、なおこたえる。では抗議という段になると、彼はついためらってしまう。昨日も今日と同じくらいにやかましかった。今日抗議するくらいなら、なぜ昨日抗議しなかったのか。何か特別に今日抗議する理由があるのか。

「印刷加工と言うが、音が大き過ぎやしないか?」

浅香はにやにやと笑いながら言った。

「爆弾でもこさえているんじゃないか」

「バクダンを?」

 彼も笑った。

「まさかねえ」

「とにかく君は気が弱過ぎるんだ。びくびくし過ぎるんだよ」

 そうじゃないんだ、と訂正しようと思ったが、面倒くさくなって彼は口をつぐむ。

 

 いたずらじゃないか。誰かがいたずらに電話をかけたんじゃないか、と思いついたのは、三本目のビールの栓を抜いた時であった。コップに盛り上る白い泡に、彼はしばらく眼を据(す)えていた。

『しかしいたずらにしては――』

 彼はぼんやりと考えた。

『さっぱりしたところがない。へんに意味ありげだった』

 彼は立ち上り、電話帳を持って戻って来た。Q警察署の番号を探した。また立ち上って電話口に取りつき、ダイヤルを廻す。若々しい元気そうな声が出た。

「はい。こちら、Q警察署です」

「つかぬことをおうかがいしますが――」

 舌がもつれるのを感じながら、彼は言った。

「そちらに江藤さんとか何とか、そういう方が勤務しておられますか?」

「江藤? いませんね」

 やはりいたずらだったのかと、瞬間彼は考えた。

「伊藤の間違いじゃないですか?」

「あ。そうかも知れません」

「伊藤さんはもう帰りました。何か用事でも――」

「ええ。ちょっとした事件で」

「主任がいますから、その方につなぎましょう」

 電話が切り換えられて、別の声が出て来た。彼は言った。

「さっき伊藤さんから電話がありましてね、途中で切れたような具合で――」

「何の用件でした?」

「僕もよく判らないんですが、梵語研究会とか何とか――」

「ああ。あの事件ですか。梵語研究会とあなたとは何の関係もないそうですな」

「もちろんありませんよ!」

 調子が詰問じみた。ビールの酔いがそれをけしかけている。

「一体梵語研究会とは、何の団体ですか。思想的なものなんですか?」

「あなたの職業は?」

 警察というところは、すぐに話題をそらせたがる。平静に、平静に、と念じながら、彼は答えた。

「著述業。ものを書く商売です」

「ああ。なるほど」

 うなずく気配がする。

「ものを書く商売ね。判りました」

「それで僕の家の近くに工場があったり、またその頃アパートが建ちかかったりして、うるさかったもんですから、浅香という友人の紹介で、Q区に仕事部屋を借りたんです」

「浅香?」

 語尾が尻上りになった。

「それはどういう人物ですか。以前からのお知合いですか?」

「いや。四、五年前に知合ったんですがね」

「どこで知合ったんです?」

「どこだったか忘れましたよ」

 彼はいらだって言った。四、五年前新宿のバーで誰かに紹介され、それ以来将棋仲間として往き来している。それを説明するのは面倒だったし、またその義務もない。しかし何か為体(えたい)の知れないものが、彼の身辺にまつわりかかっている。それが第一にやり切れなかった。

「一体その梵語研究会に僕の名が――」

「ああ。あの名簿はあまり当てにならないんですよ」

「当てにならないって、そんなバカな――」

 彼は嘆息した。

「その研究会の正体は、つまるところ何ですか?」

「つまり梵語研究会という名をつけて、いかがわしい本を売りさばいていたんですな。その男が」

「いかがわしい本?」

「そう。猥褻(わいせつ)な書物のことですよ」

「猥褻?」

 彼は絶句した。自分が猥褻文書に関係している。それは意外であったし、またその事実もなかった。しばらくして彼は言った。

「僕にはそんな心当りは全然ありませんよ」

 関係がないことを、どんな方法で証明するか。その心配が彼の口調を弱くさせた。しかしおどおどしていては、かえって疑いを持たれるおそれがある。

「で、その犯人はつかまったんですか」

「ええ。つかまえて家宅捜索をしたら、そんな名簿が出て来ましてね。あなたの名が出ていたというわけです」

 彼は頭をいそがしく働かせながら、主任の声を聞いていた。もやもやした不安感が一応形をとったけれど、また別のもやもやが発生して、彼にかぶさって来る。

「その男を訊問すると、あなたと同じ名の男がある場所を指定して来て、そこで書物と金を引替えたと言うんですがね」

「ある場所? どこです?」

「孝治橋の電停の安全地帯だというんです」

「孝治橋――」

 なるほど孝治橋がそこにつながるんだな、と彼は考えた。

「しかし僕は孝治橋などには、伊藤さんに申し上げた通り、行ったことはありませんよ」

「誰かがあなたの名をかたったのかも知れませんな。おい。灰皿を持って来て呉れ」

 灰皿が受話器の横に置かれる音がした。主任は今までくわえ煙草で応答していたらしい。

「こんな場合、皆さんは自分の本名を使いたがらないもんでね。全然の偽名か、誰かの名を借りることが多い。だからこんな事件はやりにくいんです」

 一体誰が名前をかたったんだろう。その疑問がまず彼に来た。

「孝治橋で受渡しした以上、その偽名者はQ区に住んでいるだろうと見当をつけましてね、もう一度調査したら、あなたが同居しておられたというわけです」

「その偽名者が僕であるかないか、どうしてそちらに判るんですか」

 彼は放って置けないような気持になって言った。

「その男は僕と称する男に、孝治橋で会ったんでしょう。すると僕の顔を見た筈ですね」

「そりやそうでしょう」

「その男は今留置場に入れられているわけですね。僕がその男と会えば――」

「いや。その男は――」

 相手は少し苦しげな口調になった。

「今ここの留置場にいないのです」

「どこかに身柄を移したんですか?」

「いえ。放してあるんです。自宅にね」

 どうも話がよく判らない。売り手の犯人を釈放しているくせに、買い手のおれ(?)に電話をかけて来る。一体どういう意味なのか。相手は続けた。

「まあ逃亡するおそれはないと見て、そんな処置を取ったんです。ですから、孝治橋にあらわれたのは、あなたじゃないと判れば、それでいいんですよ。いや、電話で御迷惑をかけました」

 彼は何か返事をしようとした。しかし言葉が出ない中に、電話は静かに切れた。

「何かがどこかでこんぐらがっている」

 元の座に戻って彼は呟いた。コップのビールの泡はもう消滅して、茶褐色の液体だけになっている。

「とにかく声ばかりだからな」

 初めから終りまで電話だけで、お互いに顔を見せ合わない。第一にそれが不安定であった。しかし誰かが彼の名前を使用したのは、事実であるらしい。Q区の仕事部屋のことを知っているのは、浅香と貸し手の内山一族だけの筈だ。殺人だの傷害などの刑事事件ならいいが、誰かが名をかたって猥褻書を手に入れた。名をかたられたおれは、何の得もしていない。それが彼には忌々しかった。泡の消えたビールを台所に捨て、彼はも一度ダイヤルを廻して、浅香を呼び出した。

「浅香君かね?」

 彼は言った。

「君は梵語研究会というのを、知っているかい?」

「何だね、そりゃあ」

 浅香の声が戻って来た。

「梵語、サンスクリットか何かだ。それを研究する会さ」

「心当りないね、全然。それがどうしたんだね?」

「心当りがなけりゃいいんだよ」

 彼はある快感を感じながら答えた。今やられたことを他人にやるのは、くすぐったいような喜びがある。

「明日の夜でも将棋をさしに来ないか」

「おい。おい。奥歯にもののはさまったような言い方はよせ」

 じれたような浅香の声がした。

「梵語研究会とは何だい?」

「おれにもよく判らないんだよ」

 彼は笑いながら答えた。そして電話を切った。笑いはすぐにおさまって、にがにがしいものが胸につき上げて来る。

 

「それは変だな」

 将棋の一勝負がついて、浅香は煙草に火をつけながら言った。

「判っているのは、それだけかい?」

「声のやり取りだけだからね、くわしいことは判らないのだ」

 彼は立ち上って、東京都の地図を取出し、ごそごそと拡げた。

「孝治橋というのは、ここなんだよ」

 赤鉛筆で印した箇所を、彼は指で押えた。浅香は眼鏡を外して、それに見入った。

「おれの仕事部屋から歩いて、三十分ぐらいのところだ。君は行ったことがあるか?」

「ないね。タクシーで通ったことはあるけれど――」

 浅香は顔を上げ、しかつめらしい表情で顔を見た。

「それ、偽名じゃなく、本名と違うか?」

「本名?」

 彼も地図から顔を上げた。

「同姓同名の別の男がいるというわけか。そんなことはないだろう」

「いや。君自身が孝治橋に行ったということさ」

「なに? このおれが?」

 彼はびっくりして浅香の顔を見た。

「おれが嘘をついていると思うのか。わざわざ君を呼び出して――」

「いや。そうじゃないんだよ」

 浅香は両掌で空気を押えるような恰好をした。

「君は嘘をついてない。でも、無意識裡(り)にそれをやって、それを忘れてしまって――」

「冗談じゃないよ。夢遊病じゃあるまいし」

 彼は笑おうとしたが、笑いはどこかに引っかかった。

「それなら少くとも現物がおれの手に残っている筈じゃないか」

「それもそうだな」

 浅香は視線を地図に戻した。この男と知合って約五年になる。親友というほどではないが、お互いに胸襟を開いているつもりだ、と彼は浅香のうすくなった顱頂(ろちょう)を見ながら考えた。それなのに夢遊病あつかいにするのは、変じゃないか。水くさいじゃないか。

「しかし――」

 思わず声になった。偽名男がもしかすると浅香ではないか。昨日の警察電話以来、胸のどこかにからまっている疑念を、今はっきりと彼は自覚した。相手を疑っていることにおいては、お互いさまではないか。ぎょっとした風に浅香は顔を上げて言った。

「しかし、何だい?」

「いや。何でもない」

 彼は間の抜けたような笑い方をした。

「おれが夢遊病者だという発想は、どこから出たんだね?」

「ああ」

 浅香は困った表情になった。

「内山んとこの爺さんが、そんなことを言ってたんでね」

 内山というのは彼の仕事部屋を借りた家である。浅香の遠縁に当るそうで、浅香の口ききで離れを借りることが出来た。戦災をまぬかれた家なので、相当に古い。そこに爺さんがいる。離れを根城としている。彼はその離れを正午から夕方まで使うという約束で、部屋代を払っている。その間爺さんは母屋でテレビを見たり、雑誌を読んだり、または外出したりする。

「君は仕事をするために部屋を借りたんだろう。それなのに庭をぐるぐる歩き廻ったり、この間などは庭にしやがんで、二時間も蟻が這っているのを眺めていたり――」

 浅香は眼鏡を塵紙でごしごし揉んだ。

「もちろんおれには判っているよ。ところが爺さんには判らないのだ。だから君のことを変な人間だと――」

 それはまだ暑い日のことである。彼は庭に出て見ると、蟻が行列して這っていた。それぞれ米粒の半分くらいの白いものをかついで、移動している。

(蟻の引越しだな)

 と彼は気付いた。そしてその行列の行先をたどった。行列はかなり広い庭を横切り、隣家の垣根をくぐっている。引越し先は判らない。彼は元の巣へ戻り、そこにしゃがみ、出て来る蟻の群を観察していた。

(この白い粒は何だろう。食糧かな?)

 それを運び出す蟻と、運び終って戻って来る蟻とで、巣の出入口は混乱している。その中に面白いものを見た。何も持たないでそこらをうろうろしている蟻がいる。その怠け蟻に、比較的大型の蟻が近づいて、いきなり嚙みついて殺してしまった。音が聞える筈もないが、彼はゴツンという音のようなものを感じた。

「あ!」

 彼は思わず声を立てた。その大型蟻は巣の近くに五、六匹いて、働き蟻の仕事ぶりを監視しているらしい。彼はその仕組みにショックを感じた。

「そうか。あの爺さんがおれのことをそう言ったのか」

 彼は浅香に言った。

「夢遊状態で蟻を眺めていたと、爺さんは思い込んでいるのだね」

「そうらしいよ」

「どうしてそのことを、早くおれに知らせなかったんだ?」

「知りたかったのか?」

 浅香は意外そうに口をとがらせた。

「そんなこと、知らなきゃ知らないで、事は済むもんだと思って、君には話さなかったんだがね」

「そりややはり知りたいさ。自分に関係したことだからね」

「そうかい?」

 浅香は言った。

「君は警察の電話で、君の偽者(にせもの)がいることを知った。知って迷惑を感じている。電話さえなければ、君は何も知らないで、つまり迷惑しなくて済んだんじゃないのか」

 それとこれとは問題が違う。そう言おうとしたが、頭が混乱して、どこが違うのか、彼には判らなかった。

「あれは蟻の引越しを見ていたんだ」

 仕方がないので、彼は話を変えた。

「君は見たことがあるか」

「ないね」

「蟻には憲兵みたいな奴がいるんだよ。驚いたね」

 彼は蟻の生態について、簡単に説明した。浅香は黙って聞いていた。

「そのおれのしゃがんだ後姿を、爺さんはそんな眼で眺めていたんだな」

 彼は内山老人の眼のことを考えながら、そう言った。老人の眼は埴輪(はにわ)の眼に似ている。トーチカの銑眼にも似ている。ある特別の期間を除いて、いつも拒否の風情(ふぜい)をたたえている。

「しかし変なのは爺さんの方だよ。君も知ってるだろ」

「うん。知っている」

 浅香はうなずいた。

「早く病院に入れた方がいいって、内山に会う度に言うんだがね」

 

 背中にジンマシンのようなものが出来たらしく、痒(かゆ)くてたまらない。孫の手をどこかで売っていないかと、ぶらぶら歩いている中に、Q警察署の前に出た。

「あ。警察がここにある」

 彼は思わず呟(つぶや)いた。いきなりぬっとあらわれて、立ちはだかったような感じである。古ぼけた建物なのに、妙に威圧感がある。内部で働いている人たちの表情が、建物にまでしみ出て来るものなのか。

「こんなところにあったのか」

 彼は佇(たたず)んだまま、しばらく考えた。そして中に入って行った。受付に行って訊(たず)ねる。

「こちらに伊藤さんという刑事さん、いらっしやいますか?」

「伊藤?」

「ええ。風俗の取締りなどをやる係りの――」

「ああ。ああ」

 若い受付の男はうなずきながら、受話器を取り上げようとして、またおろした。

「公安課の伊藤さんですね。二階です。あの階段を登って、右に曲ったところです」

 彼はお礼を言って、歩き出した。二階の廊下は小学校の廊下に似て広い。しかしいろんなものが窓際に積み重ねてあるので、実際に歩ける場所は狭いのだ。大掃除の時のような匂いがする。台の上にラーメンの丼が重ねてある。その少し先に『公安課』の札が下っている部屋があった。彼はその扉を押して、あいさつをした。

「こんにちは」

 部屋には卓と椅子が五人分あって、コの字型になっている。しかし人間は一人しかいなかった。その刑事は読んでいた新聞を卓に置き、不審そうな眼で彼を見た。

「伊藤さんはいらっしゃいますか」

「今外に出ています」

 刑事は彼を見詰めたまま言った。

「あなたは?」

 その声でこの刑事は、伊藤刑事や主任でないことが、すぐ彼に判った。彼は帽子を脱いで自分の名をいった。

「実は一週間ほど前、梵語研究会のことで、電話で問合わせがあったんですが――」

「ああ。あの件ね」

 彼の名前を聞いて、刑事は思い出したのだろう。立ち上って椅子をすすめた。中庭を隔てたどこかに剣道場があるらしく、懸声が入り乱れて窓から飛び込んで来る。彼は腰をおろして煙草を取出した。

「あれはもういいんです」

 ライターの火を差出しながら、刑事は静かに言った。刑事というと顎(あご)の張った男を彼は連想するが、この刑事の顎はしゃくれて尖っていた。予定を立てて来たわけでなく、たまたま建物があって入って来たのだから、どうも落着かない。形をつくるために、彼はせきばらいをした。

「そちらでいいとおっしゃっても――」

 彼は言った。

「こちらじゃ割切れない気分が残るんです」

「そうでしょうな」

「この際実情を話していただけませんか。一体その梵語研究会と言うのは――」

「あれは元は真面目な団体だったそうですが、代が替って、今は三代目なんです」

「三代目?」

 彼は煙草をもみ消した。

「三代目と言いますと?」

「初代と二代目は引退したんです。その三代目になって、会員にいかがわしい本を売るようになった。したがって会員のメンバーも変って来た」

「三代目になって堕落したというわけですね」

 彼はよく判らないまま合点合点をした。

「本はよく売れたんですか?」

「それがあまり売れていないらしい。趣味でやっているのか、それで儲(もう)けようとしたのか、それがはっきりしないんです。とにかく残本とメモを押収して、そのメモで買った人を捜して参考人に――」

「その男をつかまえたのは、いつ頃ですか?」

「二箇月ほど前です」

「そのメモを見せて呉れませんか?」

「それもここにはないのです」

 背中が急に痒くなって来た。彼は椅子の背にくっつき、しきりに両肩を動かした。

「すると僕に孝治橋で渡したというのも、その頃なんですね?」

「いや。今年の三月頃だと、当人は言っていましたね。霧の深い、寒い夕方だったと――」

「今年の三月?」

 彼はびっくりして言った。

「僕がQ区に部屋を借りたのは、今年の五月頃ですよ。それまでQ区とは、何も関係もなかった。おかしいですねえ」

「なるほどね」

 彼が痒がっているのを見兼ねて、刑事は机上の物差しを彼に貸した。彼は襟からつっこんで、ごしごしとこすった。

「道理であいつをあげて直ぐ、孝治橋を中心にして、買い手を捜した。その近くに住んでいるだろうという推定でね。しかし捜しても見つからなかった」

「そりゃそうでしょう。僕はその頃いなかったんですから」

 物差しを机に戻しながら彼は言った。

「それで何故、また手数をかけて僕を捜したんですか?」

「書類を検察庁に廻したら、もう少し参考人、つまり本の買い手をですね、余計に捜して呉れとのことで、も一度調査し直したんです。するとあなたが部屋を借りているという受持連絡があった。しかし更にわたしが調べてみると、時間的に食違いがある」

「あなたは内山家に行ったんですか。誰が応対に出ました?」

「お爺さんでしたよ」

「お爺さんは僕のことを何と言っていましたか?」

「いいえ。別に」

 会話は途切れた。彼は撃剣の音を聞きながら、しばらく窓の外に眼を放していた。つじつまが合っていそうで、まだ何かが残っている。ぼんやりしているが、彼の名をかたった人間が、たしかにこの世に存在するのは事実だ。そこを誰も解明して呉れない。

「それの住所を教えて呉れませんか。会いに行きますから」

「それというと?」

「犯人のことですよ、梵語研究会の。会って偽名男の人相などを――」

「そりゃムリです」

 刑事はきっぱりと答えた。

「あれが犯人か犯人でないか、裁判所できめることです。われわれ警察官がそこに立入ることは出来ませんね」

「でも、僕の名をかたった奴がいる。そいつは明らかに氏名詐称でしょう」

 彼は食い下った。

「それはやはり罪になるんでしょうね」

「あなたに金銭その他のことで、重大な実害があった場合にはね」

 刑事はうんざりした声を出した。

「その男がどんな男かは判らないし、またあんな事件では、皆自分の名を出したがらないものです。たとえば連込み宿などで、宿帳には本名を書かない。それと同じです。それをいちいち人名詐称で――」

 その時電話がじりじりと鳴り渡った。刑事はのろのろと立ち上り、受話器を取った。そう言えば実害はないのだから、放って置いてもよろしい。その気持と、一体どんな了見でおれの名をかたったのか、その疑念が入り乱れる。じりじりと時間が経つ。刑事は誰かと世間話をしているらしい。そののんびりした言葉や笑いを聞いている中、刑事の背中が何か壁のように見えて来て、思わずワッと叫びたい気持になる。

 話が済んで刑事が戻って来た。

「孝治橋で本を受取った男は、頭が禿げていた。梵語研究会長がそう言うのです」

 刑事は少し笑った。

「ところがあなたは禿げていない。ふさふさしていますね」

「禿げてるも何も、僕は今日初めてあなたに会ったわけでしょう。どうして――」

「いや。あの電話のあと、すぐわたしが内山さんとこに急行して、あなたの髪の具合を聞いて来たわけですな。そして出先から電話して、あなたの頭は禿げてないとの報告をしました」

 ビールを二、三本飲んでいる間に、おれが禿げているかいないか、調べられたわけだな。なるほど、それで一応話は通る。しかし釈然としない。彼は手で髪をかき上げながらいった。

「その男、眼鏡をかけていませんでしたか」

 バスの中で、遊園地の回転車の中で、松本行列車の中で見た顔を、思い出しながら彼は言った。あいつはいつも帽子を冠っていた。

「年の頃は僕か、僕より少し上のような――」

「何か心当りがあるんですか?」

「いえ。別に――」

 刑事は鉛筆で机をこつこつと叩きながら、彼の顔を見ていた。彼はそろそろと立ち上りながら、あいさつをした。

「どうもお邪魔しました」

「いえ、こちらこそ御苦労さまでした」

 刑事があけて呉れた扉から、彼は廊下に出る。刑事の視線を背に感じながら、まっすぐ歩く。

(つまりおれはこの事件では、利用価値がないというわけだな)

 階段を降りて、建物の外に出る。出るというより、感じとしては追い出されるみたいだ。何だかひどく疲れて、もう孫の手を買う気力がなくなっている。――

 

 神経科病室

 

 内山老人がとうとう入院することになったと、ある日浅香は彼に報告した。彼は訊ねた。

「当人は承諾したのかね?」

「承諾と言っていいのかな」

 浅香は首をひねった。

「とにかく縁側から落ちて、肱(ひじ)を痛めたからね。それの治療のためだと、爺さんには言ってある」

 内山家は母屋が三部屋で、離れの一部屋は渡り廊下でつながっている。老人が落っこちたのは、母屋の縁側からだ。なぜ落ちたかというと、外でチンドン屋の音がして、急いで見に行こうとして、蹴つまずいたのだ。

「どうもチンドン屋と爺さんは、相性が悪いようだね」

 内山老は街でチンドン屋と会ったり、豪の前をチンドン崖が通ったりすると、急に亢奮(こうふん)してそれを見に行く。時にはチンドン屋のあとにくっついて、一時間ぐらい戻って来ないこともある。戻って来た老人は、夢に浮かされたように朗らかになっている。上棟嫌になって、家人や彼にも話しかけて来る。家人とは母屋に住む内山夫妻と中学三年の男の子だ。

 しかしこの御機嫌な状態は、三日と続かない。三日目あたりから、深い欝(うつ)状態におちいる。急に不機嫌な状態になる。いや、不機嫌というのは当らない。不機嫌というと他人に当り散らすようだが、老人は逼塞(ひっそく)して自分の殻に閉じこもってしまうのだ。ほとんど行動しないで、食慾もなくなる。

「不眠も来るらしいんだね。内山君の奥さんもそう言っていた」

 浅香は説明した。

「夜中にぶつぶつと何か呟いていたり、泣いているのを聞いたことがあるそうだ」

 その状態が五日か六日か続き、だんだんと元の状態になる。元の状態と言っても、心身健康というわけでない。むっつりとして笑わない、あまり感動のないような老人に戻るのである。浅香は言った。

「君があの離れを借りた時から、爺さんのその状態はひどくなったとは思わないか?」

「そうだね。その傾向もあるようだな」

 初めあの部屋を借りた時、老人は自分の居室に他人が入って来たという実感がないらしく、時々離れにやって来た。机のまわりに散らかした書きほぐしを拡げて読んだり、また彼の書いている机の上をじっと見詰めていたりする。それでは仕事にならないので、彼は母屋の人に頼んで、彼がいる間は出入りしないようにしてもらった。以後そんなことはなくなったが、その措置を老人がどう受取ったのか、彼には判らない。

「どんなつもりかな。あの爺さんは」

 老人の気持が、彼には理解出来ない。と同時に、老人は彼のことを理解していない。彼のことを変人だとか、夢遊病的だと批評したのでも判る。つまりお互いに判ってはいないのだ。

「チンドン屋を見ると発作(ほっさ)が、いや、何か転換が起きるのは、面白いね」

 彼は言った。

「ある人間をある状態に置くと、喘息やジンマシンが起きる。それと同じことかな」

「そうかも知れない」

「チンドン屋というのは、特別の商売だ。あれは街を歩いているけれど、人間の素顔を出していない。厚化粧をして、服装だって時代離れをしている。つまり人間じゃなくて、仮のものだ。仮象だね。考えて見ると、あれは気味の悪いものだ」

「あれは儲(もう)かる商売かな。どういうシステムになっているのだろう。請負(うけお)いか、それとも日当か」

「ある顔を見ると、突如として反応を起すのは――」

 彼はあの男のことを思い出しながら言った。

「何か底深い関係があるのかも知れない」

「ある顔って、誰の顔だ?」

「チンドン屋の顔さ。あれは皆同じような顔をしている。塗りたくって、同じ型になっている。表情がない」

「表情はあるだろう。笑ったり――」

「あれは表情じゃない。顔の筋肉が動いているだけだ」

 彼は彼等のほんとの表情を、一度見たことがある。二年ほど前彼が散歩していると、道ばたの小公園の入口で、チンドン屋の一組が車座になって、昼の弁当を食べていた。食べながらおしゃべりをしていた。生き生きとした表情や笑いが、厚化粧を通してはっきり判った。今まで禁じられたりしばられたり抑圧されていたものが、いっぺんによみがえっている。その感じがあるショックを彼に与えた。

「おれにもそれに似たことがあるんだよ」

 彼は言った。

「それと逆の立場だけれどね。おれの顔を見ると、その男にある反応が起きるんだ。ギョッとしたような――」

「それ、知合いかね?」

「いや。全然見知らぬ男だよ」

 駅の階段で、バスの中で、遊園地の回転車の中で、会うとギョッとした表情になるあの男のことを、彼は浅香に説明した。浅香は黙って聞いていた。

「へんな話だね」

 浅香が言った。

「すると君そっくりの男が、どこかにいるんだね」

「そうらしいんだ。いるというより、いたという感じだな」

 彼はその男の表情を思い浮べながら言った。

「あいつは死人でも見るような眼付きで、おれを見る。そして青ざめるんだ」

「今度会ったら、つかまえて聞いてみたらどうだい?」

 彼は返事をしなかった。相手が怯(おび)える以上に、近頃彼はその男に怯えを感じていた。しばらくして彼は言った。

「いつ爺さんを入院させるんだね?」

「明日だ」

 浅香は答えた。

「早くしないと、また悪い状態になるからねえ」

「肱をいためたのは、いつだい?」

「今日だ。今日君はあの部屋に行かなかっただろう」

「うん、用事があってね」

 彼は言った。

「するとまだ御機嫌の筈だね。肱をいためたって、骨か?」

「いや。すりむいただけだ」

 彼は老人の上機嫌の状態を思い浮べ、強い哀れさを感じる。いつだったか、やはりチンドン屋を見た直後、老人は朗らかな表情で彼に話しかけた。それは酔っぱらっているような口のきき方であった。日本もアメリカの一州になった方がいいという説である。彼はすこし驚いて反問した。

「何故ですか?」

「その方が日本のために好都合ですぜ」

 老人の主張によると、日本人が皆米国籍に入る。大統領選挙がおこなわれる。その時旧日本人から候補者を一人立てる。旧日本人並びに黒人はその候補者に票を入れる。白人は二派に分かれているから、旧日本人はかならず当選する。

「新大統領の特別命令で、ホワイトハウスを日本州に持って来る。こりや都合がいいですぜ」

 冗談の口調ではない。呂律(ろれつ)は怪しいが、本気の主張と思われた。

(そんなことを考えているのか)

 そんな老人が、周囲からだまされるようにして、入院させられる。入院して泊る方が老人にとって幸福だと判っていても、可哀そうだという気分は打消しがたい。彼は言った。

「気の毒なようなもんだな」

「家族がかい?」

「いや。爺さんがさ」

「爺さんが?」

 浅香は眼を大きくして彼を見た。彼はたじろいで弁解をした。

「いや。気の毒というのは言い過ぎだが、とにかく、おれにとっては、他人事じゃないような気がするよ」

「そうか。そう言えば君にもその傾向があるようだな」

 浅香は笑いながら言った。

「君はいつもびくびくして生きている。一度診察してもらったらどうだね。おれがいい医者を紹介するよ」

「お爺さんがいなくなると、がらんとしているな」

 

 それから三日目の午後、浅香は内山家の離れにやって来て、そう言った。

「何だかはり合いがないね」

「爺さんは元気かい?」

 彼は庭を眺めながら言った。内山家の庭はかなりあれている。花壇らしいものが一応つくられてはいるものの、花は咲かず、雑草ばかりがはびこり、日かげにはぜに苔がいっぱい貼りついている。貧寒な庭だけれども、彼はこの庭が割に気に入っていた。浅香の話では、昨年までは老人と孫の中学生がせっせと草花を植え、水をやったりして手入れしていたそうだが、今年になっては誰もかまわなくなった。老人は変になり、中学生は受験準備で忙しいので、草花どころの騒ぎではなくなった。終戦子なので、競争もはげしいのだろう。今その中学生が庭の隅に生えた柿の熟した実を一箇もいで、母屋に戻って行く。無表情というより、いくらか沈欝(ちんうつ)な顔をしている。この中学生は彼と視緑が合っても、あいさつをしない。

(おれにもあんな時代があったな)

 と、その度に彼は思う。体だけは大人になって、気がまえがそれに伴わない。行く先がどうなるのか、見当がつかない。気持が内に折れ曲る。しかし若いから、その時期を過ぎれば、やがて調子を取り戻すだろう。

「爺さんは眠っているよ。いる筈だよ」

 浅香は答えた。

「薬で持続的に眠らせて、抑圧を取除くんだそうだ」

「そうか。爺さんは今まで抑制されていたのか。なるほど、そう言えばそんな調子だったな」

 すべてのものを拒むような老人の眼窩(がんか)を、彼は思い出していた。

「チンドン屋のこと、医者に話してみたかね?」

「うん。話したよ。でも――」

 浅香は口ごもった。要するに人間には個人差があって、はっきりは判らないけれども、子供の時チンドン屋が大好きで、いつもついて歩いていた。その幼時の経験が今よみがえって来て、強い悲哀の情緒を引き起すのではないか。

「と、医者は言うんだね」

「じゃおれのチンドン屋仮象説は、間違っているのか?」

「うん。それは考え過ぎだろうと、医者は笑っていたな」

「しかしチンドン屋を見ると、爺さんは調子が俄然(がぜん)明朗になるじゃないか。憂欝な状態はその後に来るんだろう」

「それもね、医者は言ってたが――」

 チンドン屋を見た瞬間から、欝状態が始まる。その欝状態に全細胞(?)が反撃して、反対の状態をつくり上げる。一時的な躁(そう)状態が発生するのはよくある例で、内山老人のもそれではないか。

「欝状態の変形だと言うんだがね」

「一々理屈をつけて、おれたち素人(しろうと)の考えを潰そうとするんだな」

 彼は笑いながら言った。

「むきになって言ったのか?」

「いや。わりに控え目だったよ。一度見舞いに、いや、見に行かないか。勉強になるよ」

「そうだね。今度の土曜日にでも行って見るか」

 彼はまだ神経科の病院を見たことがない。興味が彼をそそった。興味というより義務感にそれは似ていた。

 

 約束の日、浅香は彼の家にやって来た。浅香を待たせて、ゆっくりと彼は着換えをする。浅香は言った。

「工場の音、少し静まったようじゃないか。文句でもつけたのか?」

「いや。寒くなったからだよ」

 寒くなると工場も窓をしめる。こちらも窓をしめる。音の通い路が小さくなる。そこで静かになったような気になる。実際は夏の間と同じ響きを、あの機械たちは出しているのである。それを彼は知っていた。その証拠に小春日和(びより)になると、向うが窓をあけ放つので、俄然音が大きくなる。彼は朝十時頃起きるが、起きなくてもその音の大きさで、その日の天気や寒暖の程度を知ることが出来る。

「おれはあそこに塀を立てようと思っているんだがね」

 ネクタイをしめながら、彼はひとりごとのように言った。

「塀を?」

「うん。ブロックで、三メートルぐらいの高さのを」

 それは夏頃から考えていたことである。隣のアパートが完成して、家が見おろせるようになった時、彼は大急ぎで植木屋に頼んで、大きな杉の木を四本植えた。それが今はすっかり根づいて、バレーボールのストップのように、アパートの住人たちの視線をはね返して呉れる。工場からのは視線でなく、音と響きだから、杉では間に合うまい。やはりブロックが適当だろう。

「すると向うは南をさえぎられて、日かげになるわけだね」

「そういうことさ」

「文句をつけて来やしないか」

「そりやお互いさまだ。こちらも迷惑を蒙っているんだから」

 彼は笑った。

「その時はおれもチョビ髭を立てるさ」

 この間工場が忙しかったのか、午後十時か十一時頃まで就業して、音をばらまき、迷惑をしたことがあった。夜になるとあたりが静まるので、なおのこと騒がしく聞えるのだ。そこで彼は昼間境界線に行って、紐(ひも)をつかって測量した。測量の真似ごとをした。すると工場の窓が開いて、工場主があわてて顔を突出した。何か言いたげにチョビ髭がむくむくと動いた。しかし言葉にはならなかった。工場主の紅潮した顔はすぐに引込み、一分間ほどして機械の音はぴたりとやんだ。そして窓に工員たちの顔がずらずらと重なり並んだ。時々工員たちとも顔を合わせるのだが、合わせる度に顔が変っているような気がする。忙しくこき使われるから、次々にやめて新顔が入って来るのか。それともこちらが覚えようという気がないので、記憶がないのか。いや、もともと彼には他人の顔を覚える能力が欠乏しているのだ。

「…………」

 彼は黙って工員たちの顔を、ひとわたり見廻した。そして測量の真似ごとを中止して、家に戻って来た。五分ほど経って、ふたたび機械がガッシャガッシャと動き出した。

「君はびくびくしているくせに、案外強いところがあるんだな」

 彼の用意がととのったので、浅香も立ち上りながら言った。

「そうじゃない。おれはもともと強いんだ」

 彼は答えた。

「ただ為体(えたい)の知れないものに弱いんだ。相手が判ってしまえば、こちらにも打つ手はあるだろう。判らないから、警戒をする」

 いくらか強がりの気持もあった。

「ほんとかね。ほんとにそう思っているのかね」

「そこでそれを逆にして、自分を為体の知れないものに仕立て上げたら、もう恐いものはないだろう。処世術としては最高だね」

「じゃもの書きはやめて、チンドン屋になるんだね」

 そして浅香はしゃがれた声で笑い出した。

 

 病院は木造の二階建てになっていた。ヒマラヤ杉が前庭に生えていて、建物はかなり古びている。浅香が受付を通して、待合室でしばらく待たされた。どうして待たせられるのか、彼には判らない。

「ここは十年ほど前、産婦人科の病院だったそうだ」

 浅香は彼に小さな声で説明した。

「産科じゃはやらなくなったんで、身売りして神経科になったのだ。つまり映画がテレビに押されて斜陽産業になったようなもんだな」

 待合室には大型のテレビが置かれていたし、椅子も柔らかい。日射しもよく、明るかった。彼は椅子に腰をおろし、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。昔のことを考えていた。彼の子供の時の病院は、日当りが悪く、皮張りの長椅子はじめじめしているくせに堅かった。そして空気は薬くさかった。

(ミツ薬と言ってたな。うちの婆さんは)

 彼の祖母が死んで、三十年余り経つ。祖母の故郷では(ヅ)と(ズ)の発音を区別して使う。子供の彼にはその(ヅ)が(ツ)に聞える。蜜薬という風に聞える。蜜だから甘そうに思えるが、飲むとひどくにがかったり、渋かったりする。もう今では(ヅ)と(ズ)の区別はなくなっただろう。

(代診というのもいたな。今でもそれに当るものがいるだろうか)

 病院の待合室は、とかく昔のことを考えさせるのだ、と彼は思う。子供の時の通いつけの医者は、小柄で貧相な男であった。ところが代診の方はでっぷり肥って、貫禄が充分にあった。病気になって医者を呼ぶ。最初の日は医者がやって来る。人力車に乗ってうちに来る。病気が大したものでないと判ると、次の日から代診がてくてく歩いてやって、つまりその医院には、専属の人力車は一台しかないのだろう。診察をしている間、俥夫(しゃふ)は腰をおろして煙管(きせる)で刻み煙草を吸っている。あの俥夫は月給をいくらぐらい貰って、それでどんな生活をしていたのだろうか。そこでよその家の前に人力車が停っていると、ああここには病人がいるんだな、と直ぐに判った。その頃は神経科の病院はなかった。神経衰弱などは、転地や海水浴などでなおしていたようだ。それでもなおらなければ、たいてい彼等は自殺した。

「遅いな」

 彼は浅香にささやいた。

「ここじゃ見舞人を待たせるのか」

「そうだね。どうも変だ。ちょっと聞いて来よう」

 浅香は立ち上って、受付の方に行った。彼は眼を閉じて、うつらうつらしていた。待合室には十人ほどがテレビを見ている。ちゃんとした恰好(かっこう)をしているので、入院患者ではないだろう。皆黙りこくっている。眼をつむると、テレビの音だけが聞えて来る。どこかの舞台中継をしているらしく、気取った声のやりとりが続いている。そのやりとりはへんに空疎な感じがする。浅香が戻って来て、彼の肩をたたいた。

「来診患者と間違えられたんだよ」

 浅香はささやいた。

「なんてそそっかしい看護婦だろう」

「患者って、おれがかい?」

「おれか君か判らないが、二人連れで来たもんだから、患者と付添いだと思い込んだらしいんだ」

 彼はのろのろと立ち上った。

「病室は二階だそうだ」

 廊下を歩いて階段を登る。階段はゆるやかにつくってある。病人は転びやすいから、こんなになだらかにしてあるのだろう。登り切った廊下の両側に病室が並んでいる。病室の入口に、入院患者の名札がかかっている。

「ここだよ」

 名札を確めて、浅香は言った。彼はその扉を押した。病床が六つあって、そのいくつかの視線が、一斉に彼にそそがれた。どこだったか忘れたが、皆どこかで見た顔であった。たしかに見覚えのある顔が、各病床の上にあった。病室の中の空気は、たいへん密度が高かった。

「こんにちは」

 その密度の中に自分を押し込むように、彼は部屋に足を踏み入れようとしたが、足がもつれてしまって、うまく行かなかった。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(補遺) / 「一目小僧」~了

     補  遺

この三週間に新たに現はれた材料を一括して、今一度自分の説の強いか弱いかをしらべてみようと思ふ。材料の一半は親切な讀者の注意によるものである。

本年三月刊行の加藤咄堂氏編日本風俗志上の卷の一六三頁に、四種の恠物の圖が出て居る。出處を明らかにして無いが、江戸時代の初期より古い繪では無いやうである。其中の「山わろ」と云ふ物は半裸形の童形で、兩手に樹枝を持ち腰に蓑樣のものを纏ひ、顏の眞中に眞圓な目が一つである。即ち土佐などで山爺を一眼と云ふのと合致する。但し脚は立派に二本附いて居る。

[やぶちゃん注:「加藤咄堂」(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)は仏教学者・作家。

「日本風俗志」大正六(一九一七)年から翌年にかけて新修養社から加藤が刊行した全国規模の民俗資料。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同書当該頁の画像を視認出来る。]

小石川金富町の鳥居強衞君から、「朝鮮の迷信と俗傳」と題する一書を贈られ、其中にトツカギイ或はトツケビイと云ふ獨脚の鬼の記事があることを注意せられた。大正二年一〇月刊行、楢木末實と云ふ人の著である。自分は此半島の獨脚鬼に就ては未だ何程も調べては居らぬ。支那でも山海經に獨脚鬼の事を記し、或は本草に山?は一足にして反踵などゝあるさうだが、他の方面にもよくよくの類似點が無い限りは、三國一元と云ふやうな推定には進まぬつもりである。從つて只參考品としてのみ陳列して置くが、此書の記す所に依れば、トルケビイは通例樹蔭深き處に出沒し、色は最も黑く好んで婦女に戲れ、或は人に禍福を授けると傳へられる。さうして目はいまでも兩箇を倶へて居る。

[やぶちゃん注:「小石川金富町」「金富」は「かなとみ」と読む。現在の東京都文京区春日(かすが)地区内。ここは永井荷風の生誕地である。

「朝鮮の迷信と俗傳」京城・新文社刊。二〇一四年に復刻されている。

「山海經」「せんがいきやう(きょう)」。幻想的地理書。私の愛読書である。魯迅も偏愛した。

「本草」ここは「和漢の本草書」という一般名詞の用法ととっておく。但し、次注の最後を参照されたい。

「山?」音なら「さんさう(さんそう)」、本邦では「やまわろ」と訓じている。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「やまわろ」はそれなりの私の考証注を入れてあるのでそれを参照されたい(「?」が使用出来なかった古い電子化であるため、ページ内検索「やまわろ」でお願いしたい)。因みに、「やまわろ」の次にはまさに一本足「反踵」(はんしよう(はんしょう):(かかと)が反り返っていることを言うが、これは寧ろ、中華の本草類の怪人では「後へに向」いている、即ち、足首が反り返るどころではなく、大腿骨骨頭以下が逆についているというのが圧倒的な実体図像である)の「山精」が出るのでそちらも是非どうぞ。画像附き。というより、柳田が万一、「本草」を一般に知られる明の李時珍の「本草綱目」の意で使っているとすると(但し、仏はその場合、一般的には「本綱」と略すことが多い)、柳田が頻りに一足反踵と言っていること、「山?」は「本草綱目」には載らないことから、この「本草綱目」に出る「山精」や「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を「山?」と誤認している可能性が高いように思われる。]

磐城平の出身なる木田某氏の注意に、自分が彼地方で「山の神はカンカチで外聞が惡いと言つて十月に出雲へ行かれぬ」といつて居る其カンカチを、眇目のことに解して居たのは誤りだとのことである。平町附近でも眇目は他地方と同樣にメツカチ又はカンチと謂ひ、カンカチと云ふのは火傷の瘢のことを意味する。是は山神が山の精で山に住んで居る爲に折々山火事に遭ひ火傷をするのだと説明せられて居るさうである。自分は一知半解の早合點で、カンチともメツカチとも謂ふからカンカチも片目のことだらうと思つて大失敗をした。固より第一の報告者の高木誠一君がさう言はれたので無いが、念の爲更に同君に聞合せてみると、その返事も全く同樣であつて、大變な間違だから注意しようと思つて居た所だつたとのことである。是で自分の一目小僧の話を書く動機になつた好材料の一つが、空になつたわけであるがどうも仕方が無い。其爲に山の神の祭に關する一部分の話は中途から見合せることにした。

[やぶちゃん注:「五」章の重大補正箇所である

「磐城平」岩城平とも書く。旧陸奥国磐前郡の城下町で現在の福島県の東部の浜通り地域。

「平町」「たいらまち」。福島県浜通り南部にあった旧町名。現在はいわき市平地区の常磐線いわき駅周辺に相当する。

「瘢」全集版は『きずあと』とルビする。]

高木君は此序を以て十年前に亡くなられた御祖父樣から聞いたと云ふ話を一つ報ぜられた。石城郡草野村大字水品(みづひな)の苗取山に水品神社と云ふ社がある。もと三寶荒神樣と稱し五六十年前までは物凄い森であつて、天狗が住んで居て大きな音をさせるとも言ひ、又一目小僧が居るともいつて誰も怖がる場處であつた。或晩この社の宮守をして居る法印樣が便所に往つて、足を取られて吃驚して用も足さずに歸つて來たことがある。明る朝夙く起きて行つて見ると、古狸が引込み時を忘れてまだ其に居つた。古狸は一目小僧に化けるものだと御祖父樣が云はれた云々。又木田氏の羽書には斯う云ふことが書いてあつた。此地方の一目は大入道の姿で出る。足のことは何とも言はぬが眼は丸々としたのが額の眞中に一つあり、暗い夜白い衣物で出るものと子供の時に毎度聞いて居た云々。即ち此點が既に全然朝鮮のトツケビイと共通で無い。

[やぶちゃん注:「高木君」不詳。

石城郡草野村大字水品(みづひな)」「みづひな」はママであるがルビの誤植の可能性が高い。現在の福島県浜通り南部にある、いわき市平地区の水品(みずしな)。全集版も『みずしな』とルビ。

「水品神社」現在のいわき市平水品(たいらみずしな)荒神平に鎮座。個人サイト「いわきの鎮守様」の「水品神社」に詳しい解説と写真が載る。

「この社の宮守をして居る法印」とあるから、この高木氏の祖父の話は廃仏毀釈よりずっと以前の江戸時代の話である。]

信州松本地方の一目も又小僧では無くて入道である。是は貉の化けるものと傳へられて居る由、平瀨麥雨君から新たに報ぜられた。但飛驒の高山のやうに雪降りの晩に出るとは言はず、此方は別に雪降り入道雨降り入道などがあつて、山から出て來るとも言ふが、是には一眼又は一足の沙汰は無いさうである。同君又曰く、何でも物の高低あるものを山の神と謂ふと書いたのは、聊か精確で無い、寧ろ高さの均しかるべき物が不揃ひになつたのをさう謂ふと言ふべきである。通例の適用としては、下駄と草履と片方づゝ履いたことを、履物を山の神に履いたと云ふなどである云々。

[やぶちゃん注:「五」章の補正。]

一眼一足と云ふやうな珍しい話が、懸離れた東西の田舍に分布して存するのは意外だと言つて、靑森縣中津輕郡新和村大字種市の竹浪熊太郎氏が、其少年時代に聞いて居られた次のやうな話を報ぜられた。此地方の山神祭は舊曆十二月の十二日である。この日は昔から大抵吹雪が烈しく、且つ野原に出ると山神に捕へられると言つて、特に半日の休日になつて居る。山神はこの吹雪を幸ひとして、背には大きな叺を負ひ、人間殊に小兒を捕へに里に出て來ると云ふ。是を見たと云ふ人はまだ聞いたことが無いが、古い人たちの話ではやはり眼が一つで足が一本である。山神祭には何れも長さ二尺以上もある大きな草鞋又は草履を片足だけ作つて、村の宮の鳥居の柱に結び附けて置くのである。是を見ても其一本の足と云ふのがよほど大きなものと想像せられて居たことがよく分かる。但し今日では此風習も追々廢つて行くやうだとのことである。此話は南伊豫の正月十五日の大草履片足の由來を推定せしめる材料であるのみならず、又自分の不名譽なる失敗を或程度まで恢復するものである。即ち山の神の一目と云ふものが信ぜられて居た一の例證にはなるので、只殘念ながら一目とはメツカチのことだと云ふ方の意見に對しては、何らの援助も得られ無いのである。

[やぶちゃん注:全集版では『この話は南伊予の正月十五日の大草履片足の由来を推定せしめる材料である。すなわち山の神の一目というものが信ぜられていた一の例証にはなるので、』とあって「のみならず、又自分の不名譽なる失敗を或程度まで恢復するものである。」がない。確かにちょっと柳田先生、人の褌で我田引水の気味がなくもない。カットするのがよろしいでしょう。

「靑森縣中津輕郡新和村大字種市」現在は青森県弘前市種市(たねいち)。

「竹浪熊太郎」不詳。

「二尺以上」六十一センチメートル以上。]

國書刊行會の某役員から一目小僧の記事が此八月彼會出版の百家隨筆第一の五〇五頁落栗物語の中に出て居るが知つて居るかとの注意であつた。早速出して讀んで見たが其大要は斯うである。雲州の殿樣がある時親しい者に今夜は化物の振舞をするから來いと招かれたので、一同如何なる趣向かと往つて見ると、淋しい離れ座敷に通され、やがて茶を持つて出たのは面色赭く醜くして大きな眼の額の眞中に一つある小法師であつた。次に出た給仕は身長七尺餘の小姓であつた。後で聞いてみると後者は出羽から出た釋迦と云ふ相撲で十七歳で七尺三寸ある少年、前者は侯の領内の山村に住んで居た片輪者で、斯な者が二人まで見付かつたので此催しをせられたのであると云ふ。珍しい話ではあるが此材料は自分の手に合はぬ。如何した事かを考へる前に確かな話か否かを正してみねばならぬ。此書は京都の人の聞書であると云ふから、大分多勢の好事家の耳口を經て來たものと思はれる。

[やぶちゃん注:「落栗物語」全二冊。従一位右大臣藤原家孝による文政期(一八一八年から一八三〇年)の随筆とされる秀吉の時代から寛政までの見聞逸話集であるが、内容から寛政四(一七九二)年以降の成立と見られる。本文のそれは大正六(一九一七)年から翌年にかけて刊行された図書刊行会編刊「百家随筆 第一」所収のものを指す。本箇所は坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」の相撲関連古典テクストの「落栗物語下册にまるまる見出だせる。漢字を正字化して以下に示す。

   *

松江少將は所領十八萬石餘の主にて。おかしき人なりけり。或時親しき人々を集るとて。今宵は化物の饗をし侍るよし云ひやられければ。怪き招きかなと思ひながら皆打つれて行ぬ。館のさまいつに變りていと靜に設けなし。常には目馴ぬ前栽の竹の間より細き道を開き。ひとつの東屋を建たり。其所のさま物さびていと淋しげ也。主もいまだ出逢ねば。客人達打向ひ物語し居たり。夜寒の風の身に沁むまゝに。燈火暗くなりたる時。放出の方より。淸げに引繕ひ半臂着たる小法師の。梨地の托子に白がねの茶盞をすへて持出たり。近く寄來るまゝによく見れば。面の色赤みてゑも云わず見にくきが。眼は大にて額の程にたゞ一ッ付てあり。人々驚きけれど。兼ねてのあらましなれば。念じて見居たるほどに。座中の人に茶を引渡して入ぬ。とばかり有て。身の長七尺餘と見ゆる童子の。かたちは太く逞しけれど。眉のかゝり目見なんどはいと幼くて。年の程十六七と見ゆるが。柳の衫着て瓶子に土器持て出たり。此度は堪えかねてあれば。いかにとどよめき騷ぎければ。彼者打笑ひて引入ぬ。やがて主の少將出來て數々のもてなしあり。各興に入ける時。前の事を問ふに。少將はたゞ知らずとのみ答て其夜は止ぬ。後に聞ければ。彼小法師は少將の領地の山里に住けるかたは者。童は出羽國の相撲にて釋迦と云者也。年は十七に成けるが。身の長は七尺三寸有しとぞ。少將は此二人の者を得しよりぞ。かゝる招きをばせられける。此釋迦。京へ上りて鴨川の東にて相撲せし時。近衞舍人共見に行て。高き棧敷の上に居て釋迦を呼。盃をとらせしかば。其下に寄立て酒を飮しに。首のほどは上に居たる人より高く見えしとぞ。又。或人此者に向て其骨柄を譽めければ。答て云樣。それがしはかく相撲し歩きて有なん。姉にて候者は今一かさまさりて大に候ほどに。見苦しとてみづから歎き候へ共。せんかたなく候と語りしとぞ。

   *

少し語釈しておく。

・「松江少將」柳田も「出雲」とするから松江藩主であるが、少将であったのは複数おり、十八万石とあるからには松平直政以下の松平家藩主であるが、それでも少将は六人いる。しかし、全景の茶道の風流という点から見て、恐らくは第七代藩主松平不昧公治郷(はるさと)かと推理したら、検索中に「甲子夜話」(遅々として進まぬが私も電子化注をしている)の巻五十一「貧醫思はず侯第に招かる事」に非常によく似た話(但し、シチュエーションは江戸)が載っていることを知って確認してみると、これは「松平南海」の仕業とあり、これは治郷の父第六代藩主松平宗衍(むねのぶ)の隠居出家後の号であることが判った(長いし、別に電子化してこともあるから節としてこの話自体は示さない。しかし同じく一目童子と異様にデカい青年が登場するのはマンマ)。ウィキの「松平宗衍」によれば、『隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣に命じて色白の美しい肌の美女を連れて来いと命じ、その女性の背中に花模様の刺繍を彫らせ、その美女に薄い白色の着物を着させて、うっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺繍を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとしたが誰も応じず、仕方なく』千両を『与えるからとしても誰も応じなかったという』。また、『江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで妖怪やお化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいたといわれる』ともある。この御仁、まあ、尋常じゃあ、ネエ。

・「饗」「あへ(あえ)」と読んでおく。饗応。馳走。

・「放出」「はなちいで/はなちで」で、寝殿造などで寝殿や対屋(たいのや)などから張り出して造った建物。或いは、庇(ひさし)の間を几帳や障子・衝立などで仕切って設けた部屋のこと。後者であろう。

・「半臂」「はんぴ」で、武家の束帯や舞楽の装束で袍(ほう)の下に着る袖無しの胴着のこと。

・「梨地」「なしぢ(なしじ)」で蒔絵技法の一種。器物の表面に漆を塗って金・銀・錫などの梨地粉を蒔き、その上に透明な漆を塗って粉の露出しない程度に研いだ技法。梨の肌に似ているところからこの名がある。

・「托子」「たくし」で茶托 (ちゃたく)のこと。

・「茶盞」「ちやさん(ちゃさん)」で比較的小さな茶碗。

・「念じて」我慢して。

・「七尺」二・一二メートル。

・「衫」「さん」でここは裏地のない単衣(ひとえ)の謂いであろう。

・「瓶子」「へいし」で、酒を入れる細長く口の狭い焼き物。

・「七尺三寸」凡そ二メートル二十一センチメートル。

・「近衞舍人」「このゑのとねり(このえのとねり)」で、内裏の近衛府の下級官吏。宮中の警護や天皇・皇族・大臣らの近侍などを務めた。

 なお、私は多分、柳田とは違う意味でこの話、私の性(しょう)に合わぬ。健常者の歪曲した猟奇的生理が生み出した、実に気味(きび)の悪い感じのする話であるからである。これは柳田が疑うようには作話ではないかもしれないが、とすれば、なおのこと、ホラー以前に悪趣味で私は生理的に嫌悪するものである。

神樣が眼を突かれたと云ふ話も、亦其後三つ四つ集まつて來た。小石川原町の沼田賴輔氏の知らせに、同氏の郷里相模國愛甲郡宮瀨村の村社熊野神社は、熊野樣であるにも拘わらず、祭神が柚子の樹の刺で眼を突かれたと云ふ傳説があり、それ故に村内には柚子を栽ゑぬことゝしてあり、又植ゑても實を結ばぬと申して居ると云ふ。

[やぶちゃん注:「小石川原町」現在の文京区白山及び同区千石。

「沼田賴輔」(よりすけ/らいすけ 慶応三(一八六七)年~昭和九(一九三四)年)は紋章学者・歴史学者。相模国愛甲郡宮ヶ瀬村(現在の神奈川県愛甲郡清川村)生まれ。明治一九(一八八六)年に神奈川県師範学校高等師範科を卒業、県内の小学校長となり、その後の明治二三(一八九〇)年に理科大学簡易科第二部を修め、次いで歴史科・地理科・植物科などの教員免許を得た。明治三〇(一八九七)年に開成中学校教諭となるが、その傍ら、文科大学史学科編纂係も勤めた。明治三四(一九〇一)年に鳥取県米子中学校教諭、明治三九(一九〇六)年に西大寺高等女学校長となった後、明治四四(一九一一)年には山内家史編纂所主任となったが、編纂所に初めて出勤した際に山内侯爵から山内家が何故桐の家紋を用いているのかその理由を質問されるも即答することが出来なかったことに発憤、それ以来、紋章の研究に専心して、大正一四(一九二五)年に「日本紋章学」(刊行は翌年。明治書院)を完成、翌年、帝国学士院恩賜賞を受賞、昭和五(一九三〇)年、文学博士。他にも考古学会副会長や人類学会及び集古会の幹事でもあった(ウィキの「沼田頼輔」に拠る)。

「相模國愛甲郡宮瀨村の村社熊野神社」明暦元(一六五五)年創建の宮ヶ瀬の氏神社であるが、平成三(一九九一)年に宮ヶ瀬ダムの建設により旧地は水没、現在の宮ヶ瀬湖畔に遷座、村民も厚木市宮の里へ移住させられているので、本禁忌は失われたと考えた方がよいか。]

信州小縣郡長久保新町の石合又一氏の報道に依れば、同地鎭座の郷杜松尾神社でも、氏子の者が一般に胡麻を作らず、若し作ると必ず家族に病人が出來ると言ひ傳へ、今でも此禁を破る者が無い。つい近頃も他より寄留して居る者が、此説を信ぜずして胡麻を栽ゑ、眼病に罹つた例があると云ふ。是は同郡浦里村の小林君が、他にも幾つか例があると言はれた一つであらうと思ふが、既に何故にと云ふ點が不明になつて居ると見える。

[やぶちゃん注:「信州小縣郡長久保新町」現在の長野県小県(ちいさがた)郡長和町(ながわまち)長久保(ながくぼ)。

「石合又一」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一六(一八八四)年刊の『明治協会雑誌』書誌データに筆者不詳の「石合又一君東坡赤壁遊記ノノ問ニ答フ』というのがあるが、この人物と同一人か。

「松尾神社」現在の長野県長和町長久保宮所に鎮座。祭神は大山咋大神(おおやまくいのかみ)。但し、調べてみたところ、当地の「道の駅」の特産品としても野沢菜漬には胡麻が使用されていることが検索で判った。一応、言い添えておく。

「同郡浦里村」現在の長野県上田市の北西部の国道百四十三号沿線及び小県郡青木村大字当郷に相当。

「小林」第「六」章に出た小林乙作氏(詳細事蹟不詳)と同一人物。]

又福島縣三春町の神田基治郎氏からは同縣岩瀨郡三城目(さんじやうのめ)村に竹の育たぬ理由を報ぜられた。昔鎌倉權五郎と云ふ武將が、竹の箭で目を射られ漸くにして之を引拔いた。其以來此村では、如何に他方面から移植して來ても竹は成育せぬ。同氏も數囘往つてよく知つて居るが、隣村には有るのに此村だけには竹を見ぬと云ふ。或は鳥海彌三郎と戰つた處はこの村だとでも言つて居るのであらう。單に御靈社が有るだけで此くの如き結果になるのでは、箭は先づ竹だから、東北などでは竹を産せぬ地方が非常に多くなる都合である。

[やぶちゃん注:「福島縣三春町」現在の福島県田村郡三春町(みはるまち)。

「神田基治郎」不詳。

「同縣岩瀨郡三城目(さんじやうのめ)村」福島県西白河郡矢吹町(やぶきまち)三城目。]

武州野島村の片目地藏と同系の話が、東京のごく近くに今一つあつた。これも十方庵の百年前の紀行に出て居るが、東小松川村の善通寺は本尊阿彌陀如來、或時里の鷄小兒に追はれて堂に飛込み、距(つめ)をもつて御像の眼を傷けた。其よりして今に此阿彌陀の片目より、涙の流れた痕が拜せられる云々。是とても木佛金佛が人間同樣の感覺を具へて居たと云ふ以上に、格別靈驗の足しにも成らぬ事を傳へるには、別に隱れたる沿革が有るものと解するのが相當である。是には佛樣の中に特に子供が御好きで、子供のした事は一切咎められぬ御方があることを、考へ合せて見ねばならぬ。

[やぶちゃん注:「十方庵の百年前の紀行」既注の「遊歴雑記」。

「東小松川村」現在の東京都江戸川区東小松川。

「善通寺」真光山明証院善通寺現在は同江戸川区平井へ移転して現存する。同寺については、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しいが、それによると千田真太郎宗信(法名蓮真)なる人物が康正年間(一四五五年~一四五七年)に「善導院」と号して別な場所で創建したらしく、その後移転を繰り返し、六世林説上人の代(慶長元(一五九七)年)に東小松川に移った上で「善通寺」に改号、荒川開削に伴い、大正四(一九一五)に年当地へ移転したとされる。本尊阿弥陀如来は曼荼羅でこれについては「江戸川区史」に、『本尊は中将姫作の蓮糸織阿弥陀如来曼荼羅をまつる。中将姫は聖武帝の御代横佩右大臣豊成公の女で、十六歳の時当麻寺に入り実雅阿闍梨を師とし法名を善心法女といった。日夜誦経念仏していると、ある日尼僧が現われて、極楽浄土を見るには蓮糸で極楽浄土を織っておがむがよいといわれた。その事が朝庭に達すると百駄の蓮茎が集められた。法女は尼僧と共に糸をとって洗うとこれが五色の色に染まった。そして夕方になると一人の織女が現われて、その夜のうちに一丈五尺の大曼陀羅を織り上げ、翌朝織女はこれを両尼に渡すとどこかに消えてしまった。また尼僧も観無量寿経の話を終ると、私の仕事はもうこれで終ったといって紫の雲に乗って帰られた』。『善心法女は残りの蓮糸で、如来の髪には自分の髪の毛を織りこんで六尺の尊像を織り上げて、これを庵室に安置して日夜誦経念仏すると、その部屋に紫雲が常にたなびいていたという』。『その後千葉介常胤が当麻寺からこの尊像を願い求めて守り本尊とした。かくて常胤より九世平氏胤の次男で下総国曾谷の城主千田太郎宗胤に伝わり、宗胤は後に入道して善導院願阿と号した。その嫡子真太郎宗信は康正年中大谷蓮如上人の弟子となり蓮真と号し、帰国の後小松川に一寺を建立して善導院と名づけ、この尊像を本尊とした。これが善通寺の始まりで、その頃お堂から光明が発するので「光御堂」といわれたという』という奇瑞が語られている。私は当初、鶏の爪で何で本尊の眼が傷つくのかやや不審であったが、これ、織られた幅の曼荼羅絵なれば、鶏が蹴爪で掻いて傷つけた、というのが目から鱗ではないか!

本多林學博士の編輯せられた大日本老樹名木誌の中には、又次のやうな例もある。土佐長岡郡西豐永村の藥師堂の逆さ杉は、もと行基菩薩の突立てた杖であつたと云ふ傳説がある。然るに或時或名僧がこの山に登つて來て、此杉の枝で片目を突き、其故に其靈が此杉に宿つて、今でも眼病の者が願掛けをすると效驗があると稱し、「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある由。處が藥師如來は斯んな事が無くても、固より眼の病を禱る佛樣である。

[やぶちゃん注:「本多林學博士」この「林學」は名前ではなく、造林学の博士号のことで、日本初の林学博士となった本多静六(ほんだせいろく 慶応二(一八六六)年~昭和二七(一九五二)年 旧姓・折原)のこと。造園家としても知られ、「日本の公園の父」と称される。ウィキの「本多静六」によれば、『武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の』第六子として『生まれた。東京山林学校に入学するまでの間河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数』二十五軒ほどの『小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった』。ところが九歳の時、『父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった』。『それでも向学心は衰えることなく』、十四歳の年、『志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み』、農閑期の半年は上京して『勉学に努め、農繁期の半年は帰省』、『農作業や米つきに励むという変則的な生活を三年間繰り返した』。明治一七(一八八四)年三月に『東京山林学校(後に東京農林学校から東京帝国大学農科大学)に入学』、卒業時は首席で、銀時計が授けられている。卒業一年前の明治二二(一八八九)年五月に元彰義隊隊長本多敏三郎の娘詮子』(「あきこ」と読みか)『と結婚し、婿養子となった』。『東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学した。ドイツでは』まず、『ドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に』一年と半年、『学問を極めた。ドクトルの学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授、教授になった』。その後は『日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園』、『福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、東京都の明治神宮』、『長野県の臥竜公園、石川県の卯辰山公園、福岡県の大濠公園』など、『設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツを始め、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった』。『東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っている』。『また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、二昼夜不眠不休で作成し』てもいる。

「大日本老樹名木誌」本多静六編。大正二(一九一三)年大日本山林会刊。当該頁を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で読める。何となく、当該箇所を電子化したくなった。字配は再現していない。

   *

   〔四一五〕 藥師堂ノ逆杉

所在地 高知縣長岡郡西豐永村藥師堂附近

地上五尺ノ周圍 六尺

樹高 七間

樹齢 千餘年

傳説 枝條地ニ向テ垂下スルヲ以テ此名アリ 傳ヘ言フ天平ノ昔行基菩薩登山ノ際携フル所ノ杖ヲ逆サマニ挿シ置キタルガ根ヲ生ジ枝ヲ出シテ終ニ成木シタルモノナリト云フ又曰ク「名僧某ノ登山ノ際此枝先ニテ眼ヲ突キ盲目トナリ歿後其靈ア此杉ニ宿リ世ノ眼病者ヲ救フ」ト故ニ眼ヲ病ム者此樹ニ祈願スルモノ多ク樹下ニ目ノ字ヲ書キタル紙ノ散在スルモノ多シ又或時之ニ隣接スル民家ニ火ヲ失スルモノアリ折カラ山風ニ火勢甚ダ盛ナリシガ火焰皆反對ノ方向ニ靡キ然モ類燒ヲ受ケザリシト云フ

   *

引用中の「五尺」は百五十一・五センチメートル、「六尺」は百八十一・八センチメートル、「七間」は十二・七二六メートル、「樹齢 千餘年」は伝承をそのままに受けたものか。

「土佐長岡郡西豐永村」現在の高知県長岡郡大豊町(おおとよちょう)内。

「藥師堂」これは同大豊町にある真言宗大田山大願院豊楽寺(ぶらくじ)はと号する。本尊薬師如来。別名を「柴折薬師」と称し、「日本三大薬師」の一つに数えられる。古い村名の「大杉」の起源となった特別天然記念物指定の日本一の杉の巨木が現存する。「嶺北広域行政事務組合」(住所:高知県長岡郡本山町本山)公式サイト内のこちらに解説と写真がある。それによれば、同寺は神亀元(七二四)年、行基の創建で、行基(ぎがこの地を訪れて豊楽寺を開いた折りのこと、持っていた杖を挿すと、根が出てきて一本の杉として育ったという伝説があるという。「逆さ杉」の樹齢は約四百年で、名の由来は殆どの『枝が通常とは逆の下向きに伸び、まさに地上に垂れようとする姿に』ある記す。別に、行基と言わず、『「ある時名僧が来て豊楽寺に登る途中この枝先で目を突き盲目となってしまったが、この僧の死後その霊がこの杉に宿った。」という言い伝えもあり、目の病気を治療するのに効果があるとして祈願する者も多い』。『「草創の古より法灯大いに栄え、山腹には大田寺、南大門、極楽寺、蓮華院等の堂塔伽藍が立ち並んで繁栄していた。」と伝えられている。逆さ杉は大豊町寺内字ダイモンにあり、ダイモンは南大門の建っていた場所だと伝えられている』。『豊楽寺の境内には国宝に指定されている薬師堂があり、平安時代の建築様式を色濃く残していて美しい。更にその内部には釈迦如来坐像、(しゃかにょらいざぞう)薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)、阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の三体の仏像が安置されていて、国の重要文化財に指定されている』とある。

『「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある』眼病平癒祈願では、全国的に古くからポピュラーな絵馬であるが、実物を見た時には結構、ギョッとする(グーグル画像検索『「め」の絵馬』。つげの「ねじ式」の『ちくしょう 目医者ばかりではないか』のカットのようにシュールレアリスティクでさえある)。同寺では今は日本一の杉に掛けて「日本一の願掛け絵馬」が二〇一二年から出されてあるらしい。杉にとってもよろしくなく、根元に収めるのだけは「だめヨ」。]

佛教の方の御本尊に片目の話があつても、其を本國から携へて來たものとは言はれぬ。名ばかり佛であり僧であつても、信仰の内容は全然日本式になつてしまつたものは是のみでは無いのである。殊に地藏尊がさうであるやうに自分は思ふ。

近江神崎郡山上村の大字に佐目と言ふ部落がある。以前は左目と書いて居たやうである。逆眞上人と云ふ人の左の眼が流れて來て止まつた處なるが故に左目と謂ふと、近江國輿地誌略卷七十一に出て居る。逆眞は如何なる人であつたか、未だ自分は些しも知らぬが、やはり土佐の山の名僧の一類であらう。

[やぶちゃん注:「近江神崎郡山上村の大字に佐目と言ふ部落がある。以前は左目と書いて居たやうである」「神崎(かんざき)郡山上(やまかみ)村」と読む。現在の滋賀県東近江市佐目町(さめちょう)かと思われる。

「逆眞上人」不詳。宗派も推定出来ない。個人ブログ「自然体で、興味を持ったことを・・平成25年6月:間質性肺炎患者に」のこちらに『左目:逆真上人の左眼の流れ止るところで左目といったとか、猛牛が村に暴れ困らせていた時、左眼の童子がこれを退治して救ったことから、童子の功績を後世まで伝えんためにこれを記念して左目としたとかの話が伝えられている』とある。柳田よろしく私も「土佐の山の名僧の一類」で誤魔化して納得したことにしよう。

「近江國輿地誌略」既注。]

片目の魚の例も幾つか增加した。伊勢の津の四天王寺の七不思議の一として有名な片目の魚の池を、如何云ふわけで落したかと「津の人」から注意せられた。自分は確かに知つて居る分だけを列記したので、此外にも無數に同じ話のあるべきを信じて居た。津の話も由來等をもつと詳しく聞きたいものである。

[やぶちゃん注:「伊勢の津の四天王寺」三重県津市栄町にある曹洞宗塔世山四天王寺。推古天皇の勅願により聖徳太子が建立したと伝えられ、藤堂高虎所縁の寺であるが、衰亡・復興を繰り返した。

「七不思議の一として有名な片目の魚の池」津市図書館『ようこそ図書館へ』二〇〇八年四月第四号(PDF)の「レファレンス事例集」の回答に、『七不思議の記述についての資料は少ないが』としつつ、「津市案内記」(津市役所発行)・「津市郷土読本」(津市教育会分類)『によると、「血天井・景清鎧掛松・亀の甲の三尊像・蛇の鱗・薬師堂の瓦・風呂神・生佛」が四天王寺の七不思議の伝説とある』とあり、「片目の魚」はない。不審。津の郷土史家の方の御教授を切に乞う。]

作州久米郡稻岡の誕生寺、即ち法然上人の生地と傳ふる靈場にも、片目の魚の話があつたやうだと、あの國生れの黑田氏は語られた。

[やぶちゃん注:「作州久米郡稻岡」現在の岡山県久米郡久米南町誕生寺里方。

「誕生寺」浄土宗栃社山(とちこそさん)誕生寺(たんじょうじ)。本尊は圓光大師(法然源空の没後に朝廷から贈られた大師号)。鎌倉幕府御家人であった熊谷直実は法然の弟子となって出家、法力房蓮生と法号したが、建久四(一一九三)年に法然の徳を慕って、法然の父である久米押領使漆間時国の旧宅のこの地に寺を建立、それを本寺の始まりとする。

「片目の魚の話があつたやうだ」誕生寺内を流れる川を現在も「片目川」と呼ぶが、「久米南町」(くめなんちょう)公式サイト内の「観光・イベント」の「片目川」によれば、『誕生寺の寺域を貫流する小河川。弓の腕をめきめきと上達させていた勢至丸(法然上人)に夜襲の際右眼を射られた明石定明が、側の小川でその目を洗ったため、以後片目の魚が出現するようになったと言われ、川そのものも片目川と呼ばれるようにな』ったと明記されてある(下線やぶちゃん)。明石定明(あかしのさだあきら)は美作国久米郡稲岡荘の預所を務めた武将であったが、法然の父時国と意見が対立、数百の軍勢をもって時国を襲撃、殺害に及んだ。死に臨んで勢至丸(後の法然)には、特に復讐の無益を説いて亡くなったとされている。

「黑田」前出せず、不詳。この書き方はひどい。]

相良子爵の舊領肥後の人吉の城下の北に、一の祇園社が有つて亦片目の魚の居る池があつた。祇園樣が片目だから魚も片目だと言つて居たさうである。猶此より上流上球磨の田代川間(かうま)と云ふ處には、斑(まだら)魚と云ふ魚の口が二つあるものが居るとも傳へられた。參考の爲に取調べをさせ猶出來るなら二種の魚の干物を取寄せてやらうと、同子爵は言はれた。

[やぶちゃん注:「相良子爵」旧人吉藩(ひとよしはん・肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市))十三代藩主相良長福の長男で貴族院議員であった相良頼紹(さがらよりつぐ 嘉永六(一八五四)年~大正一三(一九二四)年)であろう。従五位・子爵。父が没した時は幼少であったため、叔父の頼基が十四代藩主となり、後に頼基の養子となった。明治八(一八七五)年に養父頼基が隠居、家督を継いだ。明治一四(一八八一)年には伊藤博文の憲法調査に随行している。明治一七(一八八四)年、子爵に叙爵(以上はウィキの「相良頼紹」に拠った)。

「人吉の城下の北に、一の祇園社が有つて亦片目の魚の居る池があつた」「一」は「ひとつ」と訓じておく。熊本県人吉市南泉田町これは城との位置関係(現在の人吉城趾の真北)から見て、現在の八坂神社(祇園社)と考えられる。「片目の魚」は検索に掛からないが、個人ブログ「ブログ肥後国 くまもとの歴史」の「【人吉】八坂神社(祇園社)」に建武元(一三三四)年、相良第五代『頼広(よりひろ)の夫人の希望によって創設』された社で、建てられた二月十日の『真夜中に、社殿の下からにわかに清水が湧きだした。その水は甘露のように甘く、曼荼羅川と名づけられた』とあって水と関係があるから間違いあるまい。

「上球磨の田代川間(かうま)」現在の熊本県人吉市段塔町(だんとうまち)の田代川間(たしろごうま)。現住所表記と読みはサイト「村影弥太郎の集落紀行」のこちらに拠った。

「斑(まだら)魚と云ふ魚の口が二つあるもの」不詳。山間渓流に棲息する魚であるから、ゴリ(淡水産の類脊椎動物亜門条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属 Cottus)等の類か? 相良が「二種の魚の干物を取寄せてやらう」とまで言うのであるから、人吉では極めてポピュラーなもの(であった)と思われる。人吉の郷土史家の方の御教授を切に乞う。

鰹魚の嗜な田村三治君が、曾て東海岸の或漁師から聞かれた所では、鰹魚は南の方から段々上つて來て奧州金華山の沖まで來る間は皆片目である。金華山の御燈明の火を拜んで始めて目は二つになるので、一同是までは必ずやつて來ると言つた。是は同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異狀を呈するのであらうと、今までは思つて居られたさうである。

[やぶちゃん注:「嗜な」「すきな」。

「田村三治」ジャーナリストで作家でもあった田村三治(さんじ 明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年)か? 東京市本所生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科明治二五(一八九二)年卒。在学中に『青年文学』同人となり、国木田独歩と親交を結び、明治二十七年に中央新聞社に入社、後に主筆となった。独歩の死後には田山花袋らと「欺かざるの記」の校訂などもしている。他に『中央新聞』に伝記物なども書いている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「金華山の御燈明」城県石巻市の牡鹿半島東南端に相い対する島、金華山に鎮座する黄金山(こがねやま)神社の御灯明(おとうみょう)。

「同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異狀を呈するのであらう」このような魚類の走性偏移と陽光を原因とする眼球異常について私は未だ嘗て聴いたことは一度もない。似非科学の部類と私は思うが、もし事実であるならば是非、お教え頂きたい。]

中村弼氏は越後高田の人である。其話に、靑柳の池の龍女に戀慕した杢太と云ふ人の居た安塚の城は、高田から四五里の地で、靑柳村も亦其附近である。この靑柳の池の水と地の底で通つて居ると云ふ話で、杢太は池に入つて池の主となつて後も、此水を傳つて屢々善導寺の和尚の説經を聽聞に來た。只の片目の田舍爺の姿で來たさうである。どうやら見馴れぬ爺だと思つて居ると、歸つた後で本堂の疊が一處沾れて居たと云ふことである。

[やぶちゃん注:「中村弼」(たすく 慶応元(一八六五)年~大正八(一九一九)年)はジャーナリスト。越後(新潟県)出身。尾崎行雄の文部大臣時代(第一次大隈内閣/明治三一(一八九八)年)に秘書官を務めた。明治三十三年に『朝野(ちょうや)新聞』から『二六新報』に移り、主筆となった。大正三(一九一四)年には「日本移民協会」の創立に係わり、幹事長となっている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「四五里」十五・七~十九・六キロメートル。

「善導寺」現在の新潟県上越市寺町にある浄土宗真光山光明院善導寺か?

「沾れて」「ぬれて」。]

まだ些し殘つて居るが、あまり長くなるやうだから其は第二の機會まで貯へて置く考へである。あゝ詰らない話だつたと言はれなければよいがと思ふ。

      (大正六年八月、東京日日新聞)

[やぶちゃん注:「大正六年」一九一七年。

 以上で「一目小僧その他」の巻頭「一目小僧」のパートは終わる。]

2016/02/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十一)

     二十一

 

 さて自分は不滿足ながら今まで竝べた材料だけで、一目小僧の斷案を下すのである。斷案と言つても勿論反對御勝手次第の假定説である。

 曰く、一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本據を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目に畫にかくやうにはなつたが、實は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神樣の眷屬にするつもりで、神樣の祭の日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げてもすぐ捉まるやうに、その候補者の片目を潰し足を一本折つて置いた。さうして非常に其人を優遇し且つ尊敬した。犧牲者の方でも、死んだら神になると云ふ確信が其心を高尚にし、能く神託豫言を宣傳することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能の然らしむる所、殺すには及ばぬと云ふ託宣もしたかも知れぬ。兎に角何時の間にか其が罷むで只目を潰す式だけが遺り、栗の毬や松の葉、さては箭に矧いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、之を神聖にして手觸るべからざるものと考へた。目を一つにする手續も追々無用とする時代は來たが、人以外の動物に向つては大分後代まで猶行はれ、一方には又以前の御靈の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を脱して、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいこと此上無しとせざるを得なかつたのである。

[やぶちゃん注:「宣傳」全集版は『宣明(せんみょう)』となっている。]

 右の自分の説に反對して起るべき最大の勁敵は、其樣な事を言つては國の辱だと云ふ名論である。一言だけ豫防線を張つて置きたい。

[やぶちゃん注:「勁敵」「けいてき」「勁」は「強い」であるから、強敵と同じい。

「名論」「めいろん」とは通常は優れた論・立派な議論の謂いであるが、言論統制をだんだんに感じ始めていた柳田にして「ごリッパな論」という痛烈な皮肉である。]

 第一自分は人の殺し方如何と其數量で、文明の深さは測られるとは思はぬ。戰もすれば自殺もする文明人が、此の如き考へを持つ筈が無いと思ふ。併しそれが惡いとしても、人を供へて神を祭つたのは、近年の政治家が責任を負ひ得るやうな時代の事では無い。人も言ふ如く日本國民は色々の分子から成つて居る。千二三百年前まではまだ所謂不順國神(まつろはぬくにつかみ)が多かつた。國神の後裔には分らぬ人も隨分あつたことは、大祓の國津罪の列擧を見ても察せられる。それでも行かぬと云ふなら、この島へは方々の人が後から後から渡つて來て居る。さうして信仰上の記憶は居たつて永く殘るものである。彼等がまだ日本と云ふ國の一部分を爲さぬ前、どこか或地に於ての生活經歷を傳へて居るのだとも見られる。

[やぶちゃん注:「大祓の國津罪」「おほはらへ(おおはらえ)のくにつつみ」と読む。神道における罪の観念の一つで天つ罪(あまつつみ:素戔嗚が高天原で犯した罪を起源とする農耕を妨害する人為的悪行)と並んで、「延喜式」の巻八「祝詞(のりと)」にある「大祓詞(おおはらえのことば)」に対句形式で出る。以下、ウィキの「天つ罪・国つ罪」より引く。『国つ罪は病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴があるが、一説に天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象と把え、人間が疵を負ったり疾患を被る(またこれによって死に至る)事や不適切な性的関係を結ぶ事によって、その人物の体から穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるためであると説明する』(以下、一部の漢字を正字化、一部の数字及び記号を変更追加、一部で改行も行った)。

    《引用開始》

・「生膚斷(いきはだたち)」:生きている人の肌に傷をつけることで、所謂、傷害罪に相当する。

・「死膚斷(しにはだたち」:直接的解釈では、死んだ人の肌に傷をつけることで、現在の死体損壊罪に相当し、その目的は何らかの呪的行為にあるとされるが、また前項の生膚断が肌を傷つけられた被害者がまだ生存しているのに対し、被害者を傷つけて死に至らしめる、所謂、傷害致死罪に相当するとの説もある。

・「白人(しらひと)」:肌の色が白くなる病気で、「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂、ハンセン病の一種とされる。

・「胡久美(こくみ)」:背中に大きな瘤ができること(所謂、せむし)。

・「己(おの)が母犯せる罪」:実母との相姦(近親相姦)。

・「己が子犯せる罪 」:実子との相姦。

・「母と子と犯せる罪」:ある女と性交し、その後その娘と相姦すること。

・「子と母と犯せる罪」:ある女と性交し、その後その母と相姦すること。

(以上四罪は『古事記』仲哀天皇段に「上通下通婚(おやこたわけ)」として総括されており、修辞技法として分化されているだけで、意味上の相違はないとの説もある)

・「畜犯せる罪」:獣姦のことで、『古事記』仲哀天皇段には「馬婚(うまたわけ)」・「牛婚(うしたわけ)」・「鶏婚(とりたわけ)」・「犬婚(いぬたわけ)」と細分化されている。

・「昆虫(はうむし)の災」:地面を這う昆虫(毒蛇やムカデ、サソリなど)による災難である。

・「高つ神の災」:落雷などの天災とされる

・「高つ鳥の災」:大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には「飛ぶ鳥の災」とあり、猛禽類による家屋損傷などの災難とされる。[やぶちゃん注:「大殿祭」は宮殿の平安を祈願する儀式で大嘗祭他の式典前後に行われる定例のものと、宮殿新築・移転及び斎宮や斎院の卜定(ぼくじょう)の後に行う祭。]

・「畜仆(けものたお)し、蠱物(まじもの)する罪 」:家畜を殺し、その屍体で他人を呪う蠱道(こどう)のことである。

   《引用終了》]

 まだそれでも行かぬとならば是非が無い。どうか此説は採るに足らぬものとして戴きましよう。實は此研究が丸でだめだとしても、自分は猶一つ善い事をして居るのである。即ち民間の俗信と傳説とに對して、最も眞摯で且つ親切な態度を以て臨んで見たのである。是は今日まで他に誰も範を示した人が無かつた。

[やぶちゃん注:柳田の憤懣が頂点に達して、血管が切れそうなまでになっている様が手にとるように判る。]

 先頃此新聞でも各大學の良き靑年に依囑して、地方傳説の蒐集旅行をして貰つた。あれは一寸結構見たいな企てゞあつたが、不幸にして學生諸君がそれぞれ非凡な文才を有つて居られた爲に、大正年代の文藝を以て傳説に念入りの裝飾をしてしまひ、到頭少しばかり傳説の香のする甚だ甘い物に作り上げたことは、恰も柿・葡萄を以て柿羊羹葡萄羊羹を拵へた如くである。傳説と云ふ物はそんな事をして食べるものでは無い。

[やぶちゃん注:ここで語られた「甘い」成果物が何を指すのかは不詳。識者の御教授を乞う。]

 又其ほど無用な物でも無いのである。歷史家が帳面の陰から一歩でも踏出すことをあぶながり、考古學者が塚穴の寸尺に屈託して居るやうな場合に、お手傳ひに出て、無名無傳の前代平民等が目に見えぬ足跡を覓め、彼等何事を怖れ何を患ひ何を考へて居たかを少しでも明らかにするのが、此方面の研究である。兎に角人の作つた習慣俗信傳説であれば、人間的に意味が無ければならぬ。今の人の目に無意味と見えるだけ、其だけ深いものが潛んで居るので、言はゞ我々は得べき知識をまだ得て居らぬのである。昔の人の行爲と考へ方には床しく優しいことが多い。或は又古くなり遠ざかるからさう感ぜられるのかも知れぬ。しかもそれがエチオピヤ人でもなければパタゴニヤ人でも無く、我々が袖を捉へてふるへたいほど懷しく思ふ、亡親(なきおや)の親の親の親の親たちの事では無いか。

[やぶちゃん注:全集版では以下のように複数の改変があって、柳田のキレそうな響きが実に興味深い(下線やぶちゃん)。

「お手傳ひに出て」全集版は『たった一人がお手伝いに出て』。

「覓め」「もとめ」と読む。「求め」に同じい(但し、底本では「見」の上の部分が「不」になった字体である)。

「少しでも明らかにするのが、此方面の研究である」全集版『少しでも明らかにしたのが、自分の研究である』。

「パタゴニヤ」(Patagonia)南アメリカ大陸の南端部、現在のアルゼンチンとチリ両国に跨るコロラド川以南の地域の総称。因みに「パタ」(Pata)とはスペイン・ポルトガル語の「足」の意で、大足の部族パタゴン族の住む土地の意(「ゴン」の意味は不明)である。片足に通底して面白いではないか。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十)

     二十

 

 御靈が五郎に間違つたのには猶仔細がある。御靈は文字の示す如く、ミタマであつて、人の靈魂を意味して居る。我々の祖先は其中でも若くて不自然に死んだ人のミタマを殊に怖れ、打棄てゝ置くと人間に疫病其他の災害を加へる者と考へ、年々御靈會と云ふ祭をして、成るだけ遠方へ送るやうに努めたが、人の力だけでは十分で無い所から、或種の神樣に御靈の統御と管理とを御依賴申して居つた。後世に至つては祇園の牛頭天王が其方の專門のやうになつてしまはれたが、古くは天神も八幡も、それぞれこの任務の一部分を御引受けなされたのである。

[やぶちゃん注:「祇園の牛頭天王」「祇園」は「ぎをん(ぎおん)」で「祇園信仰」で、牛頭天王(ごづ(ごず)てんのう)及び素戔嗚尊に対する信仰を指す。災厄や疫病をもたらす御霊を慰め遷(うつ)して平安を祈願するもので、古くから主として本邦の都市部で盛んに信仰された。「祇園祭」「天王(てんのう)祭」「蘇民(そみん)祭」などの名で各地で祭りが行われる。牛頭天王は主に祇園社などで祭神とされる。もとインドの雷神インドラ神の化身の一つであったが仏教の守護神に取り入れられ、祇園精舎の守護神とか、薬師如来の化身とも称されるが、本来的には疫病神であって、後には荒ぶる神素戔嗚と習合されて畏敬されるようになった。]

 天神は人も知る如く、御自身が既に御靈の有力なるものであつたから尤もと思ふが、八幡樣の方は今の思想では何故と云ふことが解らない。しかも石淸水の如きは、其京都まで上つて來られた當初の形式が、如何にもよく紫野今宮の御靈の神などと似て居たのみならず、近い頃まで疫神參りと稱して、正月十五日に此山の下の院へ參拜する風があつたのを見ると、何か仔細のあつたことゝ思はれる。又若宮・今宮などと稱して非業に死んだ勇士の靈を八幡に祭つたと云ふ例は往々にあるが、熊野や諏訪や白山などでは其樣な話を聞かぬのを見れば、この神に限つて能く御靈を指導して、内にはやさしく外に對しては烈しく、其厲威を働かしめる御神德を昔は備へられたのであらう。

[やぶちゃん注:「紫野今宮の御靈の神」京都市北区紫野に鎮座する今宮神社のこと。ウィキの「今宮神社」によれば、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)であるが、『現在の今宮神社がある土地には』、延暦一三(七九四)年の『平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社(現在摂社疫神社)があったとされ』、『平安遷都後にはしばしば疫病や災厄が起こり、神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれた』。正暦五(九九四)年にも『都で大規模な疫病がはびこったため、朝廷は神輿』二基を造り、『船岡山に安置し、音楽奉納などを行なった後、疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流した』。『民衆主導で行なわれたこの「紫野御霊会」が今宮祭の起源とされ、京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まった』。長保三(一〇〇一)年にも『疫病が流行したことから、朝廷は疫神を船岡山から移し、疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けた』。この時に初めて前記『三柱の神が創祀された』。『疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ、やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着して』行った。『創祀以来、今宮神社に対する朝廷・民衆・武家からの崇敬』が厚い。

「厲威」「れいい」と読む。烈しく強い威厳・威力。]

 若し然りとすれば、鎌倉の權五郎で八幡太郎の家來で左の眼を箭で傷ついたと云ふ話のある人を、鎌倉の御靈で八幡樣の攝社で八幡の統御の下に立つ亡靈を祭つた社の神と間違へても、必ずしも無學の致す所とは言はれず、諸國の同名の社が成程と言つて此説に從つたのも仕方が無かつたと見ねばならぬ。

[やぶちゃん注:ポイントは「五郎」(ごらう)と「御靈」(ごりやう)の音の類似性にある。]

 後三年役の古戰場と主張する羽後仙北郡の金澤においては、流に住む眇の魚を以て權五郎景政が魂を殘したものと傳ふる由、黑甜瑣語と云ふ秋田人の隨筆に見えて居る。伊勢の神戸町の南方矢橋の御地と云ふ池に片目の魚の居たことは前にも述べたが、參宮名所圖會を見ると、此村にも一箇の鎌倉權五郎景政の塚が、田中の森の中に在つたやうに記してあるから、池と塚と恐らくは關係が有つたのであらう。權五郎の塚と云ふのは亦右の羽後金澤にもあつた。東京近くでは品川東海寺の寺中春雨菴にもあつた。今は社を營み氏神の如しと百年前の遊歷雜記にある。昔から戰場で目を射られた武士も隨分多かつたらうに、何が故に景政ばかりが此の如くもて囃されたかと云ふ問には、自慢では無いが自分が答へた以外には、丸々答へ無いと云ふ方法しか有るまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「羽後仙北郡の金澤」平安時代頃に現在の秋田県横手市金沢にあった古代の城砦、所謂、金沢柵(かねざわさく/かねざわのき)。朝廷に敵対した清原氏の居城で後三年の役では清原家衡・武衡が籠城、抗戦した。源義家も攻略に手を焼いたが、兵糧攻めによって寛治元(一〇八七)年に落城したウィキの「金沢柵には、『戦果を上げた鎌倉景政が立てた景正功名塚』などが『残っている。また、柵北側の断崖下を流れる厨川に右目が見えない片目カジカが目撃され、敵に右目を射られた後にここで目を洗った景政の武勇を今に伝えるとされている』とある。

「黑甜瑣語」「こくてんさご」と読む。人見蕉雨(藤寧(とうねい))が寛政一〇(一七九八)年に記した随筆。所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で捜したところ、第三編の終りの方に「眇魚」を見出したので当該箇所だけを視認して電子化する(前の部分は前に出た実盛が蝗と化して稲に害するということを北国で語るが、疑問を呈した上で、

   *

仙北金澤の流にある眇魚(すがめうを)も權五郎景正か魂を殘せしと云ふなど堂々たる男兒其冤を蟲魚に訴へんや此等の説華和殊に多し

   *

と述べており、これも実は筆者が批判的な謂いで挙げていることが判る。

「參宮名所圖會」「伊勢参宮名所図会」のことであろう。寛政九(一七九七)年に京都・大阪の版元から刊行された本編五巻(六冊)附録一巻(二冊)計八冊から成る伊勢参宮の決定版とも言える案内書。

「品川東海寺の寺中春雨菴」現在の東京都品川区北品川にある臨済宗万松山(ばんしょうざん)東海寺(とうかいじ)の西南西三百メートルほどのところに位置するかつての東海寺の沢庵宗彭の塔頭であったが、現在は独立した単立(たんりゅう)寺院春雨寺(しゅんぬじ)である。]

 つまり記錄上の御靈には戰場か刑場か牢獄の中で死んだと云ふ人ばかりだが、その今一つ前の時代の文化の劣つた社會では、入用に臨んで特に御靈を製造したらしいことは、片目の突傷と云ふ點からも想像し得られるのである。

 甲州では權五郎の代りに山本勘助をもつて片目神の舊傳を保存させて居た。山梨縣の商業學校で近年生徒に集めさせた口碑集の中に、甲府の北方にある武田家の古城の濠に住む泥鰌は、山本勘助に似て皆片目だと云ふ話が載せてある。久しく甲府に住んで居られた山中笑翁の説に拠依れば、彼地の奧村某と云ふ家は山本勘助の子孫であるさうで、代々の主人必ず片目であるとのことである。

[やぶちゃん注:「山中笑」「笑」は「ゑむ(えむ)」で既注の山中共古(ペンネーム。幼名は平蔵で後に保生)の改名後(明治四(一八七二)年:二十二歳の時)の実名である。]

 此類例には更に二箇の新しい暗示を含んで居る。其一つには山本勘助と云ふ郷士英雄が、單に權五郎の如く一目であつたのみで無く、猶信州松本邊の山の神と同じく、所謂片足であつたことで、自分が解釋が出來ぬものだからそつとして置いた一眼一足の脚の部分に、一道の光を投じて居る。第二の點は虚誕にもせよ片目を世襲して居ると云ふ噂である。

 自分が神主を殺すの目を潰すのと言つた爲に、ぎよつとせられた祠官たちが或は有るか知らぬが、御安心めされ、祠官は多くの場合には神主では無かつた。神主即ち神の依坐(よりまし)となる重い職分は、頭屋(とうや)とも謂ひ或は一年神主とも一時上﨟(ときじやうらふ)とも唱へて、特定の氏子の中から順番に出たり、若しくは卜食(うらはみ)に由つてきめたりするものと、一戸二戸の家筋に限つて出て勤める所謂鍵取りなるものとが有つたのである。さうして山本勘助の後裔と云ふ方はその第二種に屬して居る。

[やぶちゃん注:「卜食(うらはみ)」「うらばみ」とも読み、本来は亀卜(きぼく)の際の割れた裂けた筋目を指す。縦を吉、横を凶とした。ここは広義の占いや籤とととってよい。「鍵取り」「鍵」は神社の入口の扉の鍵で、それを預かって祭りを掌る家筋のこと。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十九)

     十九

 

 鎌倉攬勝考には所謂權五郎社に關して次のやうな説を掲げて居る。此社もとは鎌倉の西北なる梶原村に在つた。幕府で崇敬して居たと云ふのも其時分のことである。權五郎殿の一門に梶原權守景成と云ふ人、平氏の始祖葛原親王を神に齋ひ、之を葛原の宮とも御靈の社とも稱へて居たのが始まりである。其後鎌倉權八郎景經と云ふ人があつて、此社に先代の權五郎景政を合せ祀ることになつた爲に、却つて權五郎の社を以て呼ばれるやうになつたが、これは正しく無い云々。

[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考」幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん 宝暦七(一七五八)年~天保十四(一八四四)年:本名、植田十兵衛元紳。八王子千人同心組頭、同書序文には八王子戍兵学校校長ともある)によって編せられた鎌倉地誌。全十一巻(本篇九巻・附録二巻)。植田は「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」の地誌編纂作業にも深く関わっている。以下、私の「鎌倉攬勝考卷之三」の当該箇所を私の注(ここでは一部に新たに追加した)とともに総て引いておく。

   *

五靈ノ社 長谷村より西南の方にあり。神主小坂氏、別當は極樂寺村にて、普明山成就院、古義眞言宗、同國手廣村靑蓮寺末なり。例祭九月十八日。權五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の稱する社號なり。されど其事のたがへるいはれ有。次第は葛原ケ岡の條にしるせり。合せ見るべし。【東鑑】に、文治元年八月廿二日午ノ刻、御靈の社鳴動し地震の如し。此事先に爲怪の由、大庭平太景能申之。仍て二品〔賴朝〕參り給ふ所、寶殿左右の扉破れたり。是を解謝の爲に、御願書御奉納のうへに、神樂等を行はるゝとあり。建久五年正月、八田右衞門尉知家御使として奉幣の事あり。當社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勸請しける。祭禮の時は、梶原村より神主出會して神事を修す。神主小坂氏も、景政が家從の末孫といふ。されば古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事なりしと、里老語れりといふ。

[やぶちゃん注:この手の考証が入ると、植田は俄然、オリジナリティを発揮し始める。本項に被差別民であった非人に関わる伝承を持った面掛行列(はらみっと行列)の記載がないのは残念であるが、これは明治の神仏分離令までこの行列が鶴岡八幡宮放生会(八月十五日)で行われていたからであろう。

「權五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の稱する社號なり。されど其事のたがへるいはれ有。次第は葛原ケ岡の條にしるせり」は、「鎌倉攬勝考卷之九」の「葛原岡」の記載の以下の部分を指しておく(全文はリンク先を参照)。

里老の語るを聞に、むかし梶原景時が先祖、鎌倉權守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは、名もなき萱はらにて有しが、權守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいわひ、葛原の宮とも御靈の社とも稱し、此岡に鎭座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱へを替てくづはらの御靈社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人稱しければ、竟に地名とは成にける。其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御靈の社とのみ唱ふ。されば社號は御靈權現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。又其後、鎌倉權八郎景經が代に至り、權五郎景政が靈を、御靈社に合せ祀れりといふ。是平氏の祖神なり。然るを、御靈の社といへば、權五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御靈社へ景政を配しまつれる事をしるべし。既に朝廷にても、八所の御靈と稱し祀らしめ給ふは、崇德院・後鳥羽院、或は親王・攝家・大臣のたゝりをなし給ふを、八所の御靈と稱し、祀り給ふを以て知るべし。

「葛原親王」(かずらわらしんのう 延暦五(七八六)年~仁寿三年(八五三)年)は桓武天皇の第三皇子で桓武平氏の祖。但し、私はここで植田の主張する考えに従うことは出来ない(後注参照)。

「文治元年八月廿二日」は「廿七日」の誤り。以下に示す。文治元(一一八五)年八月二十七日の条を示す。

〇原文

廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物。〔各藍摺二段歟。〕被行御神樂之後還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日丁丑。午の剋。御靈社、鳴動す。頗る地震のごとし。此の事、先々怪たるの由、景能、之を驚き申す。仍りて二品參り給ふの處、寳殿の左右の扉、破れ訖んぬ。之を解謝せんが爲に、御願書一通を奉納せらるるの上、巫女等、面々に賜物〔各々藍摺二段(あゐずりにたん)か。〕有り。御神樂を行はらるの後、還御すと云々。

この鳴動は何だろう。もしや、あの御霊神社の下には断層帯でもあったものか? はたまた、海浜に直近でもあり、一種の液状化現象によるものででもあろうか?――それとも――ここを支配管理していた、「前々から何かおかしいと思って御座った」と言っている大庭景能(大庭氏の一族が景政の鎌倉氏でもある)が、本社を頼朝の目に掛けてもらわんがため、大力の家来にでも命じて、社殿をこっそり鳴動させ、扉も打ち壊したものか?……などと考えてみるのも面白い。

「解謝」神の憤りや怒りを解いて謝まること。

「當社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勸請しける」とするが、「されば古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事なりしと、里老語れりといふ」も併せて、私には俄かには信じ難い(「鎌倉市史 社寺編」でもこれらは否定されている)。但し、ここで神主が祭儀に際して出張して来るという事実の記載は見逃せないのであって、何らかの江戸時代の鎌倉の氏子支配構造や、鎌倉に於ける被差別民の歴史と関係がありそうである。御霊社は全国に数多くあり、ある時、ある人物の御霊信仰が爆発的に伝染し、各地に共時的に祭祀が分立したと考える方が自然な気が私にはするが、如何か。梶原にある御霊神社は梶原景時の屋敷跡が同地に比定されることから、同じ鎌倉平氏である勇猛な武将鎌倉権五郎景政を氏族の祖神として祀ったと考えてよい。現在、この坂ノ下の御霊神社の方は、それ以前の平安後期の建立と推定されており、御霊は実は五霊で関東平氏五家の鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭各氏の祖霊を祀った神社が元であったとされている。それが後の御霊信仰の伝播に伴い、鎌倉権五郎景政の一柱となったと考えられているのである。

……因みに、私はこの神社が大好きである。御霊信仰に纏わるそのルーツの伝承から、力石(ちからいし)伝説、江戸時代の滝沢馬琴の長男にして幕府医員であった種継(たねつぐ)に纏わる父馬琴の涙ぐましい息子の売り込みを感じさせる某人失明事件解明のエピソード、更に国木田独歩が棲んだ近代文学の足跡に至るまで、この神社で語れることは尽きないからである。もう、何年も行っていないけれど……]

   *

 この最後の箇所などは、書きたいことは山ほどあるという私の気持ちのよく現われているところで、ひどく懐かしい。]

 自分はこんな言譯見たいな由來談に對しては、容易にさうですかを言はぬのである。又無造作な新説ではあるが、御靈は昔から神とか社とかの語を添へずに呼ぶのが常である。然らば鎌倉の御靈殿を、鎌倉權五郎殿と聞き誤り覺え誤つたとしても、平民等なら些かも不思議は無いでは無いか。兎に角兩方ともえらい御方なのだから、願を掛けたら聞いて下さるだらうと有難く思つたのである。

 御靈を五郎と間違へて居た例は幾らもある。岩代耶麻郡三宮の三島神社境内の五郎神社は加納五郎の靈を祀ると言ひ、中山道美濃の落合には落合五郎兼行の靈社あり、信州高遠の五郎山には仁科五郎信盛の首なき屍を埋めたと傳へて、其處に在る祠を五郎の宮と稱し昔の城主なのに呼捨てにして居る。更に南して同じ上伊那郡赤穗の美女森の社の神を五郎姫神と謂ひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申して居るが、是などは姫神を五郎と云ふので殊に珍しく感ぜられる。

[やぶちゃん注:「岩代耶麻郡三宮の三島神社」「耶麻」は「やま」と読む。現在の喜多方市上三宮に鎮座する三島神社(旧耶麻郡は現存するが、ここは離脱して喜多方市に編入されている)。

「五郎神社は加納五郎の靈を祀る」個人サイトと思われる『呆嶷版「会津事典」』の「み」の「三島神社」に、『祭神は大山祇命』(おおやまつみのみこと)で、『社伝によれば、佐原義連の孫である佐原加納五郎盛時が加納荘を領し、東山端三宮の地に青山城を築いた際、義連の遺言によって伊豆国より三島神社を勧請したものであるという。ときに』承久三(一二二一)年『のことと伝えられる』とある。この三浦盛時(生没年未詳)というのは三浦氏佐原流の鎌倉幕府御家人(以下はウィキの「三浦盛時」をから引く)。嘉禄三(一二二七)年七月、法然の弟子で浄土宗多念義派の祖隆寛律師が奥州に流罪することが決定した際、奥州に所領を持つ佐原盛時預りとなっている事実から、盛時は本家三浦氏一族が滅ぼされる宝治合戦(宝治元(一二四七)年六月五日)以前に既にここ会津郡耶麻郡の加納庄を領していたことが判る(彼が主家につかなかった理由は後掲する)。『これが史料上の初見で』、『宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担』、建長四(一二五二)年に『宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える』。彼の『母の矢部禅尼は最初北条泰時に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に北条時氏・盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった』。『のためか、宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の北条時頼に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて得宗被官になっていたという』。『宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、奥州合戦の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『吾妻鏡』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている』。『合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜っ』てもいる。『宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や放生会などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという』。弘長三(一二六三)年に『時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・会津時連と揃って出家し、浄蓮と号した』。

「美濃の落合」岐阜県の旧恵那郡落合村。今は中津川市落合で現在の中津川市東部に位置する。

「落合五郎兼行の靈社」落合兼行(平治二・永暦元(一一六〇)年?~治承八・元暦元(一一八四年)についてはウィキの「落合兼行」から引く。源義仲の重臣で信濃国との国境美濃国恵那郡落合村(現在の中津川市落合)に館を構えて落合五郎兼行と称した武士で木曽義仲家臣で四天王の一人。樋口兼光、今井兼平の弟。巴御前の兄又は弟。『源義仲に対して、兄の樋口兼光、今井兼平と共に忠臣として仕え』治承四(一一八〇)年の『義仲挙兵時より参戦し、白鳥河原の勢揃、横田河原の戦い(『源平盛衰記』)、倶利伽羅峠の戦い、篠原合戦などに参戦した。義仲敗死後については諸説があり』、一説に『義仲の死去前後に討死にしたとする説』がある一方、『木曾谷に逃れて萱ヶ平に隠れたという説』、『更級郡の今井に逃れ、その子の兼善が親鸞の弟子となったという説などがある』とする。館については『信濃国佐久郡の落合という説もある』「源平盛衰記」では(以下引用では表記を恣意的にリンク先のそれを変更してある)、『信濃國には根井小彌太、其子楯親忠、八島行忠、落合五郎兼行……木曾黨には中三權頭とあり、兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平……』『とあり、根井行親の子であって、さらに木曽の住人ではないとされている』。大正時代に成立した「西筑摩郡誌」によると、『兼遠は「其子樋口兼光、今井兼平、姪(=甥)落合兼行等に義仲に臣事せしめ」たとあり、佐久郡の記録によると母は中原氏となっており、母が中原氏、父が根井氏という』とする。『信濃国との境である美濃国恵那郡落合村に、西からの備えのため館を構えていたと言われている。現在、岐阜県中津川市落合には、落合五郎兼行之城跡の碑があり、地元では「おがらん様」の名で親しまれている』。『中津川市落合には、おがらん四社(落合五郎兼行神社、愛宕神社、山神神社、天神社)があり、境内には寛延年間に建立された石灯籠と兼行顕彰碑がある』。『江戸時代の『木曽名所図会』には、落合五郎霊社という記述があり、『新撰美濃誌』には「落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、老杉三、四株生え茂りうらに愛宕神社あり」とある』とも記す。この「おがらん四社」の「落合五郎兼行神社」というのが「靈社」と考えてよいだろう。これらは総て現在では纏められて中津川市中津川与坂(よさか)にある。

「信州高遠の五郎山」「ごろうざん」と読む。現在の長野県上伊那郡高遠町にある、高遠城址南の小高い山。同名の山が多いので確認には注意が必要。

「仁科五郎信盛の首なき屍を埋めたと傳へて、其處に在る祠を五郎の宮と稱し昔の城主なのに呼捨てにして居る」「伊那市観光協会公式」ホームページ内の「五郎山」に、天正一〇()年に『織田軍に攻められて城中で壮絶な死を遂げた城主仁科五郎盛信。勝間村の農民が焼け跡にその屍を探し、火葬してこの山に埋葬し』たとある。地図上では山頂から北へ七百メートルほどの位置に「仁科五郎の墓」とある。仁科盛信(弘治三(一五五七)年?~天正一〇(一五八二)年)戦国・織豊時代の武将。武田信玄五男。永禄四(一五六一)年に父の意向で仁科家の名跡を継いだ。信玄の死後、兄の武田勝頼を助けて信濃高遠城を守ったが、織田軍の攻撃を受けて自刃、ウィキの「仁科盛信によれば、『首級は信忠のもとに届けられ、長谷川宗仁によって京の一条通の辻に武田勝頼・武田信勝・武田信豊らと共に獄門にかけられたが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く葬られた』とある。御霊に相応しい猛将である。柳田は「呼捨て」と憤っているが、敗将であって表だって敬することを民草が憚った、通称で親しく呼ばれているのだ、ととって何ら不自然とは私には思わない。

「上伊那郡赤穗」。現在の長野県駒ヶ根市赤穂。天竜川以西にあたる。

「美女森の社の神」「五郎姫神」これは同赤穂にある現在(というより柳田は何故か述べていないが当時も)の大御食(おおみけ)神社に日本武尊とともに祭られている宮簀姫(みやずひめ:尾張国造(くにのみやつこ)の祖先で日本武尊の妃。尊東征の帰途に草薙の剣を媛に預け、姫はその神剣を祀って熱田神宮の元を創ったとされる)別名、五郎姫である。

「侍かれた」「そばづかれた」。ウィキの「大御食神社」によれば、『創建は、当社蔵の「美しの杜社伝記」によると』、『大足彦忍代別天皇の御代四十八年(よそじまりやとせ)、御食彦御蔭の杉の木の下(もと)御安楽居(みやすらい)しその仮宮を神の御殿(みあらか)に見立て、日本武尊を祝い祀りて大御食ノ社(おおみけのやしろ)と御名を附け奉りき』。『とあり、日本武尊が当地に立ち寄った際に饗応した里長が「御食彦(みけつひこ)」の名を賜り、後に日本武尊を祀った当社を創建したものという』。景行天皇四八(一一八)年の創建と伝わる(「神社明細帳」では景行天皇五十一年とする)。『建御名方命が愛で、日本武尊が「奇び杉なりや」と誉めた古杉を御神木(御蔭の杉)としている』(現在の木は三代目)。『別名の「美しの杜」の名は、社伝記に、「宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を美しの杜と御名負はせまつる」とあることによる。 現在氏子らは「美女ヶ森(びじょうがもり)」と呼んでいる』。祭神の日本武尊は景行天皇四八(一一八)年の創祀とされ、宮簀姫は応神天皇三八(三〇七)年に『熱田ノ宮より草薙ノ剱の御霊代とともに迎えられた』。他にその後に石清水八幡ノ宮より勧請した八幡大神も祀られてある。『日本武尊が東国平定の帰路に信濃国赤須の里へ滞在した。そのとき赤須の里の長赤須彦は御影の杉のもとに仮宮を立て尊を饗した。それにより赤須彦は日本武尊より御食津彦の名を賜った』。

『また日本武尊は赤須彦の娘・押姫を愛で、赤須の里に三夜滞在した』(以来、赤須彦の子孫である神官宅を【采女邸(うねめやしき)】と呼ぶようになったとする)。景行天皇四八(一一八)年に『赤須彦は日本武尊を祀』って『大御食ノ社を創建』した。[やぶちゃん注:中略。]『神社には、神代文字(阿比留草文字)で書かれた社伝記が伝えられている』。『社伝記は、代々の神主が引き継いだ際』、三十七日間の潔斎して後に開いて見たが、『異形の文字で読めなかった』。 明治二(一八六九)年正月、『伊那県庁より管下の諸社に、社の由緒を書き上げ提出せよとの令があり、社伝記を持参した。当時、伊那県庁を訪れていた落合直澄(一平)が解読した。「美しの杜社伝記」の奥書に以上の経緯と謝意が記されている。落合は著書「日本古代文字考」において、『神官小町谷氏を責めて古記録を出させ 意を解釈することができた。是より「美女神字世ニ現レタリ」』と記している』。『落合は、社伝記を「美社神字録」、それを解読した自稿を「美社神字解」と名付けた』。昭和一一(一九三六)年に『赤穂村(現駒ヶ根市)金子金作が『美社神字解』を出版』、『宮崎小八郎は、著書『神代の文字』』(昭和一七(一九四二)年発行)『の中で「美社神字」と記し』、『吾郷清彦は「日本神学」誌上で解読文を紹介し、改めて「美しの杜物語」と名付けた。また著書『日本超古代秘史資料』』(昭和五一(一九七六)年)の『中で『美社神字解』を古代和字文献として紹介している』。『駒ヶ根市誌(現代編下巻)では、「神代文字社伝記」と記す』。その「美しの杜社伝記(うつくしのもりしゃでんき)」『では以下のように伝えている』とする。『建御名方命は国の巡りの時「奇(くしき)杉なり」とこの杉を愛で、日本武尊はこの木の元で饗応を受け大いに悦び「この杉はや、弥栄えて丈高し、奇び杉なりや。」と誉めた。以来この杉を「御蔭の杉」というようになった』とあるという(駒ヶ根市誌自然編では本杉樹は樹齢三百年と比定している)。本社の祭事に「獅子練り」というのがあり、九月の例祭では、『氏子が獅子練りを行う。祭典の中心祭事とされ、毎年、年番耕地の若衆が取り組む。お練りは、氏子がおかめ・ひょっとこなどと悪魔払いの獅子の機嫌を取りながら神社にお詣りをし、最後に獅子の頭を切り取り』、『奉納する。この行列に神主は同行せず、祭神三種の名を書いた幣束を捧げた少年三人(現在は大人)が裃を着用し、陣笠を頂いて加わっている』とある(下線やぶちゃん)。なかなかそそられる祭儀ではないか。]

 又何の五郎であつたか知らぬが、作州勝田郡池ケ原の熊野權現の山に義經大明神と云ふ社があつて、而も此地は義經が平家の殘黨五郎丸なる者を攻めた陣場の跡と傳へて居る。近江甲賀郡松尾村には五郎王樣と云ふ社あり、俗に曆の神樣だと云ふのは面白い。尾張では東春日井郡櫻佐村の五龍社を、俗に五郎宮と云ふと張州府志にあり、又知多郡藪村には弓取塚と稱して小さな弓矢を奉納して瘧の平癒を禱る塚を、人の爲に殺された花井惣五郎と云ふ者の首を埋めた處と、傳へて居たことは有名な話である。花井と云ふは泉の傍で神を祭つた風習を暗示する名稱であるかと思ふ。

[やぶちゃん注:「作州勝田郡池ケ原の熊野權現の山に義經大明神と云ふ社」現在の岡山県津山市池ケ原。現在も義経大明神として地図上に現われる。

「平家の殘黨五郎丸」不詳。しかし、位置的に見て義経が平家の残党狩りをした場所とは思われないのだが。

「近江甲賀郡松尾村」現在の滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう)松尾。

「五郎王樣と云ふ社あり、俗に曆の神樣だと云ふ」同松尾地区には中央部に八幡神社があるのみである。「五郎」「暦」などでは検索に掛からない。現地の識者の御教授を乞う。

「東春日井郡櫻佐村の五龍社を、俗に五郎宮と云ふ」は愛知県春日井市中南部に位置する桜佐町(さくらさちょう)に八龍神社というのを現認出来るが、「五郎」の事蹟は不詳。但し、これは「五郎(ごらう)」と「五龍(ごりやう)の音の類似が妙に気になる。」

「張州府志」尾張藩最初の官撰地誌。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)の編で、完成は宝暦二(一七五二)年。

「知多郡藪村」現在の愛知県東海市養父町(やぶまち)。

「弓取塚」「花井惣五郎」「東海市」公式サイト内「養父町の民話」の「藪城と惣五郎塚」でやっと発見出来た。『国道百五十五号線を横須賀町から養父町ヘ向かって南下すると「城之内」』(しろのうち)『という交差点があります。そのあたり一体を養父町城之内というのは、かつて、そこに藪城があったからだといわれています。しかし、いまは人家が建ち並び、城跡をはっきりさせることはできません』。『いまから五百年ほど前のことです。応仁元年)(一四六七)に応仁の乱がはじまりました。そのあと、この動乱の舞台は京都から地方に移り、全国が乱れ、約百年の間、戦国時代とよばれる戦乱期をむかえることになりました。戦乱がつづいた戦国時代には、実力をもった下の者が、実力のない上の者をたおす下克上の風潮が、社会の潮流となりました』。『そのころ、いまの東海市には、北から平島城、清水城、富田山中城、木田城、横須賀城、藪城などと呼ばれるいくつかの城がありました。藪城はそのうちの一つで、花井惣五郎という豪族が築いたものだと伝えられています』。『尾張の国には守護として土岐頼康がおり、その下に、富田、花井と名のる二名の守護代が仕えていました。花井惣五郎はその守護代花井氏の血統をひく一族のものだったのです。家来が主君の上になる時代です。かつては守護代として守護土岐頼康に仕えていた花井一族も、いつの間にかその中の一人が実力をつけて、藪城を築き、勢力をほしいままにする地位にのし上がっていたのです。すぐとなりの知多市八幡には堀之内城(寺本城、花井城)があり、花井播磨守信忠、勘八の父子二代が住んでおり、花井一族がこの地方一体を支配していたものと思われます』。『そのころ今川義元は知多半島方面へ進出しはじめました。これに対して織田信長勢は、今川方に通じているとみられた花井氏の堀之内城を攻めて火を放ちました。はなしはこのときのことです。織田勢が藪城へも押し寄せてきました。惣五郎以下よく敵を防いで戦いましたが、城内で裏切りがあって、惣五郎は弓矢をとらないままにあえなく討たれてしまいました。その最期に際して』、『「弓矢さえ持っていたならば、このようにむざむざ討たれはしなかったものを」』『とうらみの言葉を残したといいます』。『こうして、藪城はまたたく間に落城してしまいました。このあと、織田信秀の五男、信治(信長の弟)が野夫城の城主となりました。信治は元亀元年(一五七〇)九月十九日、姉川の戦いで戦死しました』。『惣五郎の遺骸を葬ったところを「惣五郎塚」または「弓捉塚」といいます。以前には、この花井惣五郎供養のための五輪塔が北堀畑の畑の中にありました。そのそばに植えられている松の木は伸びるままにしてあったので、よく茂っていました。また、小さな弓矢を塚に供えると病気が治ると信じられていました。いまは民家の裏庭に小さなお堂が作られ、その中にまつられています』とある。

「花井と云ふは泉の傍で神を祭つた風習を暗示する名稱であるかと思ふ」唐突に出る解釈で信じそうになっちゃうけど、アブナイ、アブナイ。これじゃ、前のしっかりした伝承の守護代の「花井」からなんからみんな嘘になっちゃうよ!]

 下總では或は御靈を千葉五郎と云ふありさうな勇士の名に託した例もあるが、印旛郡誌を見ると同郡千代田村大字飯重(いひしげ)の舊無格社五郎神社等、祭神を曾我五郎の靈とするもものが二三ある。相模足柄下郡の曾我谷津村の五郎社の如きも、本場であるから無論祭神は曾我五郎になつて居る。曾我兄弟の祠又は石塔は緣も無さそうな遠國に何十ケ所も有る。或は大磯の虎尼となつて廻國し、或は鬼王團三郎來り住むなどゝ言つて、何とかして本源を究めようと土地の人たちは骨折つて居るが、あまり數が多いのでいつも思ふやうに行かぬ。是も御靈が双神であると傳へた場合に、そんなら五郎十郎の兄弟かと云ふことになつたので、大磯の虎と云ふのも實は御靈にかしずいた只の尼樣だらうと思つて居る。

[やぶちゃん注:全集版では最後の「只の尼樣だらうと思つて居る」の箇所は『只の尼樣だらうと私は思つて居る』となっている。

「印旛郡誌」大正二(一九一三)年刊の千葉県印旛郡役所編輯「千葉県印旛郡誌」であろう。

「同郡千代田村大字飯重(いひしげ)の舊無格社五郎神社」現在の千葉県佐倉市大字であるが現在は飯重(いいじゅう)と読んでいる。誤まりか呼称変更かは不明。牛飼はじめ氏のブログ「天満宮巡拝(私の天満宮)」の816大宮神社(飯重・佐倉市)がそれである。「祭神」の項に曾我五郎霊が含まれてある(序でに言うと、強力な御霊も菅原道真も括弧書きながら入っている)。同「由緒」には『字兎内鎮座の五郎神社を』明治四三(一九一〇)年九月に合祀したものとあるから、この立地と他の祭神及び神社の由緒自体とは無関係と考えるべきであろう。私の感じと同じく、『五郎→御霊→菅原道真と連想しているようだ』とも注されておられる。

「相模足柄下郡の曾我谷津村の五郎社」位置としては神奈川県小田原市曽我谷津に鎮座する宗我(そが)神社であるが、この神社自体は曽我の地の人々が小澤大明神を崇拝して祀ったのを始まりとし、長元元(一〇二八)年に大和国の宗我都比古神社の神主宗我播磨守保慶が祖先の宗我都比古命と武内宿祢命を祀って社を創建、寛治元(一〇八八)年には源義家が奥州下向の際に参詣したが、その後に平家によって灰燼に化されたものを、永万元(一一六五)年に曾我兄弟の養父曽我祐信が再興したものあって兄弟との直接の関係はない。前に引かせて貰ったサイト「龍学」の師長行:小田原に、無関係性を述べられた上で、『本社殿の真後ろの石祠群の中に「御霊社」がある。どれだかもう分からなくなっているのだが、その「祠」は明治十七』(一八八四)『年頃、曽我原東方の山腹から掘り出され、ここに遷祀されたのだという(『曽我の里』草壁芳村:昭和九年)。建久六年に曽我兄弟の三年忌に祐信と鬼王丸(曽我兄弟の弟・五郎の家臣)が勧請した御霊大権現であると伝わる』。『その掘り起こされたところからは人骨や直刀なども出たという話で、すわ曽我兄弟の(本当の)墓ではないかとも騒がれたようだが、今となっては何ともいえない。また『新編風土記』にも五郎を祀る「五郎社」があるとあるが、曽我「五郎」からの御霊神社があったということではあるだろう』。『また、縁が深い中村一族の総守護の五所八幡宮や秦野堀之郷正八幡宮も本社殿真後ろに色々祀るのだが、その位置に祖霊社に相当するものを祀るという共通する形態があったのじゃないかともあたしは思っている』。仇討に成功したが兄は仁田忠常に討たれ、弟曾我時致(ときむね)は斬首されているから、御霊の資格は充分である。

「大磯の虎」大磯の遊女で、曽我兄弟の兄曾我祐成(すけなり:享年二十二)の愛人。仇討以後、箱根に於いて祐成の供養を営んで出家、信濃善光寺へと赴いた。時に十九。

「鬼王團三郎」既注。]

 下總の序に言へば、あの佐倉惣五郎なども大分此方へ近いものである。堀田樣こそ好い迷惑で、段々聞いてみると大勢で作り上げた只の話であるやうだ。略緣起には靈堂に父子五人の靈像を安置すと言ひ、境内別に五靈堂あり、宗吾と事を共にして追放の刑に處せられた五人の庄屋たちの像を本尊として居るとも言ふが、しかも嘉永五年の二百囘忌と云ふ時の位牌を見ると、父と一處に殺されなかつた娘までの名を加へて五人にして居る。勿論信徒たちが聞いたら何か反證があらうから、自分は唯まづ「らしい」と迄言つて置く。

[やぶちゃん注:「佐倉惣五郎」(慶長一〇(一六〇五)年?~承応二(一六五三)年九月二四日?)は江戸前期の下総国印旛郡公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市台方(だいかた))の名主で姓は木内氏、俗称を宗吾と称した。ウィキの「佐倉惣五郎によれば、『下総国印旛郡の堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎という』。『肥後国五家荘には、五家荘葉木の地頭・緒方左衛門の子で、下総の木内家の養子になったという伝承がある』。『年貢の取り立てが年々厳しくなるにつれて、佐倉藩領を代表して殿様への直訴を申し出』、この時の『公津村は佐倉藩領で、惣五郎は藩主である堀田氏の苛政を、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。このため惣五郎は』承応二(一六五三)年に『上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴』、『その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となる一方、男子も死罪となってしまった』という知られた義民の英雄である。『しかし、こうした伝承がある一方、資料上では惣五郎が一揆や直訴を行ったという記録はない』とある。

「堀田」下総佐倉藩第二代藩主堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)。ウィキの「堀田正信によれば、慶安四(一六五一)年に父が第三代将軍『徳川家光の死に伴い殉死』したため、遺領の下総十二万石(十万石或いは十五万石ともされる)を『相続。藩主在任中に佐倉惣五郎事件が発生し』たことになってはいる。万治三(一六六〇)年十月八日、『突然幕政批判の上書を幕閣に提出し、無断で佐倉へ帰城した。幕法違反の無断帰城について幕閣で協議がされた。正信の上書や行動に同情的意見もあったが、老中・松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解で合意がなされ』、同年十一月三日には『処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主・脇坂安政に預けられた。正信が佐倉へ無断帰城した動機については、信綱との確執や正室の叔父の松平定政が起こした出家遁世事件との関係も指摘されるが、不明』。寛文一二(一六七二)年には『安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父の若狭小浜藩主・酒井忠直に預け替えられる。しかし』延宝五(一六七七)年には『密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝した。これにより嫡男・正休と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。配流中には「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」などを著し』ている。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍『徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島で鋏で喉を突き自殺した。遺骸は江戸へ入ることを許され、菩提寺の金蔵寺に葬られた。正信を預かっていた徳島藩主・蜂須賀綱矩(綱通の従弟)は閉門、正休は正信の自殺で蟄居していたが、やがて両者は罪を許され、正休は後に近江宮川藩』一万石の『大名に取り立てられて、子孫は明治まで続いた』とあり、ご覧の通り、彼の改易の直接理由は、所謂、一種の狂気の沙汰のためである(但し、ウィキの「佐倉惣五郎によれば、これを惣五郎の怨霊によって祟られたためと解する説が後に横行した)。寧ろ、ウィキには注で異常行動の動機としては、『先に弟の正俊と従叔父の稲葉正則が幕閣に登用された焦りもあったと見られる。正信の狂気ということで改易されたため、両者と他の兄弟への連座はなかった』ともある。

「嘉永五年」一八五二年。

「靈堂に父子五人の靈像を安置す」千葉県成田市の真言宗鳴鐘山東勝寺にある宗吾霊堂。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十八)

 

     十八

 

 伊豆地方には富士愛鷹(あしたか)から海上の島々にかけて、神戰(かみいくさ)の神話が比較的うぶな形で古くより傳へられて居た。よく有りがちな歷史上の事蹟人物との混同も無く、神々たちが鳥と蛇との形を現じて水陸を馳せ廻られたことになつてゐる。尾佐竹猛君が近年島に渡つて聞いて來られたのも其一節の少し變化したものである。曰く大昔新島の白鳩を大蛇が追ひかけて、鳩は差地山(さしぢじま)の躑躅で目を突いて飛べなくなつたのを、大蛇が殺して三宅島へ逃げようとした。新島の神樣の大三皇子、母神兄神と力を合せて大蛇を退治し、其屍を三つに分けて八丈と三宅と新島との三つの島に埋められた。其よりして新島の蛇は人に喰ひ付かず、三宅島には蛇住まず、又差地山の躑躅は神の怒りに觸れて花が咲かなくなつたと云ふ。但し三宅島でも躑躅平と云ふ地は躑躅は花が咲かず、やはり此と同じ口碑を存して居るさうである。

[やぶちゃん注:「富士愛鷹(あしたか)」富士山南麓、静岡県にある標高一一八七・五メートルの愛鷹山(あしたかやま)。広義には愛鷹山塊・愛鷹連峰の総称として愛鷹山と呼ばれる。但し、愛鷹山塊の最高峰は愛鷹山ではなく西ごく直近の標高一五〇四・二メートルの越前岳である。参照したウィキの「愛鷹山」によれば、『愛鷹山峰の山頂には愛鷹明神を祀る桃沢神社が鎮座しており、このことが連峰最高峰でないにも関わらず連峰を代表する理由といわれる』。この山頂の明神社は現在、愛鷹山南麓にある静岡県沼津市青野の桃澤(おもざわ)神社(下社/里社)の奥社となっているが、元は別な社であったものが時代は不明ながら合祀されたものらしい。

「尾佐竹猛」尾佐竹猛(おさたけたけき 明治一三(一八八〇)年~昭和二一(一九四六)年)は法学者で大審院判事。明治文化研究者。『郷土研究』に伊豆新島での採集話などが載る。「国際日本文化研究センター」内「怪異・妖怪伝承データベース」の資料番号0640264の「大蛇」の項は彼の同誌(大正五(一九一六)年八月発行)の論文「伊豆新島の話(三)」によるもので、まさに本話の内容である。以下、要約の箇所を引用しておく。『新島の白鳩を大蛇が追いかけた。差地山の躑躅で目を突いて飛べなくなった白鳩を大蛇は殺して三宅島に逃げようとした。しかし新島の大三皇子(ダイサンオウジ)と母神が大蛇を退治し、骨は八丈島に、胴は三宅島に、屍は新島にそれぞれ分けられた。そのため新島の蛇は人に食いつかず、三宅島には蛇が住まず、差地山の躑躅は花が咲かなくなったという』。また、重宝にも同データベースの大蛇を拾い集めて呉れている個人サイト「龍学」の伊豆諸島の竜蛇」には、本神話の片々と思われるものが散在する。例えば三宅島三宅村では一月二十四日に『行う行事にまつわる蛇退治の伝説がある。昔、事代主命が蛇退治をした時、御子神ならびに御后神などが飛行して三宅島の頂上に集まって謀をしたことを祭るのだという』とあり、同じ三宅島の変形譚では『神代の昔、三宅島中根の漁夫が大漁になることと引きかえに、海神に向かって娘を差し出す約束をした。だがすぐに後悔し、かわりに妾を差し出したが、毒蛇は許さずどこまでも荒れ狂って娘を追い続けた。娘は神々の加護により神力を得、白い鷹、白い鳩、虫になりあちこち逃げのび、遥か後で人皇の御代になった』とあり、新島の採話として『大昔、近江の琵琶湖に住む漁夫が、不漁の続く際娘を捧げるかわりに大漁を祈った。すると魚が良く捕れ』、『水神が蛇となって娘をもらいに来た。娘は白鳩になって逃げ出し新島まで追い詰められた。そして逃げ込んだ差地山の躑躅の枝で目をつき、飛べなくなって喰い殺された』と出る。また同新島の話で、『大昔、近江の琵琶湖に住む漁夫の娘が大漁を祈って水神の生贄に差し出された。白鳩になって新島へ逃げたが、蛇になって追い詰めた水神に喰い殺された。怒った島の三島明神御子大三王子は剣を抜いて大蛇を切り殺して退治した。後、新島大三山に大三王子神社が建ち、退治に使った剣が納められ今も伝えられている』、後半部の異型、『逃げ込んだ差地山の躑躅で目を突いて飛べなくなり、大蛇になった水神に喰い殺されてしまう。後にこの躑躅は白鳩を盲目にしたので、花が咲かないといわれている』とある。このお馴染みの国津神たる事代主命の名を出すものは、個人ブログ「東京帯農会」のこちらの記事に、池田信道著「三宅島百話」からの要約として「蛇の棲まない三宅島」という詳しい伝説が載る。『古来から蛇類が済まない島で、むかし、芦の湖に美しい三人の娘を連れた老父婦が住んでいた。ある日漁に出たが雑魚一匹も釣れず「この船一杯魚をくれるものがあったら、わしの娘をその者にまかせる」と口走った。すると何処からともなく「約束を忘れるな」という不気味な声が聞こえてきた。今まで凪でいた水面は波立ち魚が船に山盛りになった。老爺さんは逃げ帰って神様に助けを求めた。神様は三人の娘を白いハトに』変え、『富士山に逃がしてやった。芦の湖の主の大蛇はこのことを知るとハトの後をおって富士山に向かった。ハトは危険になったので更に御焼島(後の三宅島)のツツジ平に隠れた』。『このころ事代主命は、現在』の三宅村にある富賀(とが)神社『付近に住み、ちょうど午睡の最中で素裸だった。「大蛇が渡って来る」の知らせを受け、裸のままで表に飛び出し、安寧子(飯の王子)、満寧子(酒の王子)』[やぶちゃん注:ルビが振られていないので「あんねいこ」「まんねいこ」と読むらしい。サイト「龍鱗」に載る同伝説(藤木喜久麿著の「伊豆諸島の大蛇伝説(一)」から引用)にかく読みが出る。]『の二人に命じて、大きな穴を掘らせ、一つの穴には飯を一杯つめて安寧子に守らせ、また一つの穴には酒を詰めて満寧子に守らせた。更に火戸寄神』[やぶちゃん注:「ほどりのかみ」で迦具突智神(かぐつちのかみ)と同じ。前記の藤木氏のそれでも『火之迦土命』(ひのかぐつちのかみ)と出ている。ウィキの「富賀神社」によれば、雄山の側火山の一つに祀られてある見目宮(みめのみや)は元宮である三宅村阿古(あこ)にある『火戸寄神社説明板では、祭神を男神の迦具突智神(かぐつちのかみ)と』し、『また、三宅島では噴火の噴気孔を「ほど」ということから』これはその側火山の『噴火口を祀る神社ともいわれる』とある。火山をシンボライズした神に迦具突智は相応しい。]『に命じて剣を造らせたが、間に合わないと見た火戸寄神は、この剣を指でつまんで引き伸ばした。事城主命は出来あがった剣の錆を海岸で落とし、(錆ケ浜の名称起源)大勢の神々の前で大蛇を退治する協力者を要請した。然し、恐ろしさの余り、誰も返事が無かったが、差出神のみが協力を申し出た』。『やがて大蛇は上陸して来たが、大海を渡って来た為に空腹になり、穴の中にある飯と酒を腹一杯に詰め込み鱗を立てて寝込んでしまった。事代主命は、この機会を逃さず、差出神と共に大蛇を退治した。この場所は「血走り原」と名付けて、その地名は今も残っている』。『大蛇は三つに切られ、頭は八丈島でマムシ化し、胴体は御蔵島で青大将、尾は新島方面に飛んで縞蛇となった。三宅島に棲んでいるトカゲは、このとき落ちた大蛇の鱗であるという』。『一件落着後、事代主命は三人の娘を探したがツツジ平のツツジの花から見つけ、それぞれ「小蛇がいたが大蛇の類かと思えば、怖くて出られなかった」また「私達の着ている紅梅の衣とツツジの花の色が似ているので見つからなかった」と弁解したが事代主命は立腹し「今日以後は、この山にツツジあっても花咲くな、蛇は娘たちを脅し、世を騒がした罪により、たとえ小蛇であっても、この島に棲むことを許さず」とおおせられた。以来』、『ツツジ平には一輪の花も咲かず、また蛇類の棲まない島になった。三人の娘は、後に事代主命の后となり次のように祀られている』として(以下、神名の読みや神社の場所などは私が独自に調べた)、

・長女伊賀牟比売(いかむひめの)命

 三宅島伊ヶ谷(いがや)の后(きさき)神社

・二女伊波乃比咩(いこなひめの)命

 三宅村坪田(つぼた)の二宮神社(合祀)

・三女佐伎多麻比咩(さきたまひめの)命

 三宅村神着(かみつき)の御笏(おしゃく)神社

の神名と神社を出す。この話は躑躅が咲かない理由が明記されており、腑に落ちる。

「差地山」先に引いた「龍学」の「伊豆諸島の竜蛇」には多量の「差地山」が出るのであるが、現在の新島にはこの名称の山を見出せない。Shikine氏のサイト「式根倶楽部」の「式根島江戸時代1」の中に、典拠未詳ながら、『この頃』(江戸初期?)『までは新島と式根島が「さじま街道」と呼ばれる陸続きであたと伝える文書も有』るとある。「さじま」は「差地」の音と通ずる。されば、これは古えの神代の話であればこそ、新島のどこそこの山の古代の呼称と読み換えるしかないか? 式根島と近い位置であるなら、丹後山・大峯・石山辺りか。現地の方なら現在のどの山か(躑躅が咲かない山である)を同定出来るのかも知れない。御教授を乞う。

「躑躅平」先のリンク先の藤木喜久麿著「伊豆諸島の大蛇伝説(一)」には、『今も阿古村の躑躅平には、躑躅の木は沢山有りますが、花が一つも咲かないそうで』あるとある(下線やぶちゃん)。]

 

 或大きな神樣の眷屬又は使令と稱する鳥なり蛇なり又は魚なりが、躑躅又は梅の枝又は玉の紐でそれぞれ眼を傷けたと云ふ話は、假令どの位他の說明に相異が有つても、基づく所は一なりと認めねばなるまい。殊に三者地を隔て神を異にし結論を同じくせぬ事實は、明らかに後世の傳播で無い證據である。自分が是を以て悉く生牲の眼を拔いた風習の反映である如く考へるのは、或は用心深い老輩諸氏の同意を得難いかも知らぬが、少くとも神の眷顧が特に一目の者に厚かつたこと、從つて神人の仲介者には成るべく斯んな顏の人を擇ぶ習ひのあつたことだけは、推論してもあまり無茶とは言はれまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「眷顧」「けんこ」とは、特別に目をかけること、贔屓の意。]

 

 伊勢桑名郡の國幣大社多度神社の攝社に、古來一目連の社と云ふ神のおはしますことは人の善く知る所である。當世の記錄には本社の祭神天津日子根命(あまつひこねのみこと)の御子で、姓氏錄に首(おびと)の祖天久之比乃命(あめのくしびのみこと)とある御神のことだと言ひ、古語拾遺に伊勢の齋部の祖神天目一箇命(あまのひとつのみこと)とあるのも同じ御方であると稱へて居る。自分等は勿論神の御系圖に暗いから贊成も反對も出來ぬが、關東の各地にも右の一目連を祀つた祠の多かつたことゝ、伊勢の本社に於ても特に俗人の信仰を受けて居られて、色々有難い奇瑞のあつたことゝ、其御名前が御目の一つだつたことを意味して居ることだけは受合つてもよいのである。又同名の神がもし他に無いとすれば、天目一箇命は金工の始祖である。

[やぶちゃん注:「多度神社の攝社」三重県桑名市多度(たど)町多度に鎮座する多度大社の境内にある摂社の内、新宮社(しんぐうしゃ)が天津彦根命幸魂(あまつひこねのみことさきみたま)と天目一箇命幸魂(あめのまひとつのみことさきみたま)を祀る。ウィキの「天目一箇神によれば、『日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神である。『古語拾遺』、『日本書紀』、『播磨国風土記』に登場する。別名は天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)、天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)』で、『ひょっとこ(火男)の原型とも伝えられている』。『『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる』。『鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している』。『天目一箇神は『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場する。土地の女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだが、子に盟酒(うけいざけ)をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一命についだことから天目一命が子の父であるとわかったというもので、この神話は農耕民と製銅者集団の融合を表していると考えられている。天目一箇神を祀る天目一神社(兵庫県西脇市大木町(旧多可郡日野村大木)現在のものは再興)では製鉄の神として信仰されていた』とある(下線やぶちゃん)。

「一目連の社」「一目連」「いちもくれん」と読む。ウィキの「天目一箇神によれば、『一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)は多度大社(三重県桑名市多度町多度)別宮の一目連神社の祭神の天目一箇神と同一視されるが、本来は片目が潰れてしまった龍神であり、習合し同一視されるようになったという』(下線やぶちゃん)。『一目連は天候(風)を司る神とされ、江戸時代には伊勢湾での海難防止の祈願と雨乞いが盛んに行なわれた。柳田國男は伊勢湾を航行する船乗りが多度山の様子から天候の変化を予測したことから生まれた信仰と考察している』『が、養老山地の南端に位置する多度山は伊勢湾北部周辺の山としてはもっとも伊勢湾から近く、山にかかる霧などの様子から天候の変化の予測に適した山だったのであろう』。「和漢三才図会」の『の「颶(うみのおほかせ)」に「按勢州尾州濃州驒州有不時暴風至俗稱之一目連以爲神風其吹也抜樹仆巖壞屋爲不破裂者惟一路而不傷也處焉勢州桑名郡多度山有一目連」との記述がある』『が、伊勢・尾張・美濃・飛騨では一目連が神社を出て暴れると暴風が起きるとの伝承によるものと考えられている。一目連神社の社殿には扉がないが、一目連が神威を発揮するために自由に出入りできるようにとの配慮であるという』。

「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」天照大神と素戔嗚尊の誓約の際に天照の玉から素戔嗚が生ませた男神五柱のうちの一柱。多くの氏族の祖とされるものの、以後の神話には登場しない。

「姓氏錄」「しやうじろく(しょうじろく)」と読み、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」のこと。弘仁六(八一五)年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑。

「首(おびと)の祖天久之比乃命(あめのくしびのみこと)」「首(おびと)」は「大人(おおひと)」の音変化とされ、ここでは古代の姓(かばね)の名の一つ。伴造(とものみやつこ)など地方の小豪族に与えられた。「おうと」とも読む。「天久之比乃命」は先の「新撰姓氏録」には確かに「桑名首天津彦根命男天久之比乃命之後也」と出るので、天津彦根命の御子であって後の天目一箇命と同神であることになる。阜嵐健氏のサイト「延喜式神社の調査」の久須須美くすすみ神社(奈良県磯城郡田原本町蔵堂に鎮座)の祭神天之久之比命の解説に、『太玉命に属隷して天孫降臨の時、金工として從った倭鍛冶等の祖である』とある。

「古語拾遺」官人斎部広成(いんべのひろなり 生没年未詳)が大同二(八〇七)年に平城天皇の朝儀に関する召問に応えて編纂した神道資料。

「伊勢の齋部」忌部氏(いんべうじ:後に斎部氏)は天太玉命(あめのふとだまのみこと:記紀はない。先に出た「古語拾遺」などでは「古事記」冒頭に出て消える高皇産霊尊(たかみむすび)の子とする)を祖とするという祭祀を担った古代氏族。ウィキの「忌部氏には、やはり「古語拾遺」に載るとして、『筑紫・伊勢に天目一箇命(あめのまひとつのみこと:忌部五部神)を祖とする忌部があったと記し、この神に刀・斧・鉄鐸・鏡などを作らせたという記述がある。このことから、鍛冶として刀・斧を貢納した忌部がいたものと推測されている』と出る(下線やぶちゃん)。

「天目一箇命は金工の始祖」「多度神社の攝社」の私の注の引用の下線部を参照のこと。]

 

 話が此迄進んで來ると、どうしても今一度鎌倉權五郞のことを考へて見ねばならぬ。權五郎を神に祀つたと稱する宮は、勿論鎌倉長谷の御靈神社が一番古い。大阪の御靈社などは、近世鎌倉から勸請したことが分つて居るが、九州の南にある諸社の如きは恐らくは同樣で、鎌倉がまだ政權の中心であつた時代にでも、往來の武家が迎へ下つたのであらう、鶴岡八幡と併置せられた御靈社が少く無い。

 權五郞景政が神に齋(いは)はれたと云ふことは、その左の眼を射られたと云ふ話とともに、保元物語の中にちやんと出て居るが、此本には未だ御靈社が其社だとは書いてないのである。ところが鎌倉の御靈社は賴朝公の時から既に相應に重い社であつたこと、吾妻鏡などを見ても明らかであつて、家來筋の景政を尊信するにはあまり年代が近過ぎるやうに思はれる上に、京都に今も立派にある上下の御靈社の如きは、權五郞の生まれるより二百年も前頃から祭つて居た神であり、獨り京都ばかりの御靈で無く、諸國に御靈社を置くやうにと云ふ勅令が、それよりも又六十何年か前に出て居るのである。尤も此社の祭神は夙くから曖昧ではあつたが、それにしても鎌倉ばかりが中頃から土地出身の英傑を推薦して、神の交迭を敢てしたとは考へられぬ。

[やぶちゃん注:「交迭」「かつてつ(こうてつ)」。ある地位に就いている者を他の者に替え改める「更迭」に同じい。]

2016/02/20

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十七)

     十七

 生牲の鯉・鮒の片目と云ふことが、決して單獨に發明せられたる便法では無くして、前代の神祭に一眼を重んじて居た餘習であるらしいと云ふ説の根據として、此次には蛇の片目の話を一くさり述べて見ようと思ふ。

 德島の人河野芳太郎氏の話に、阿波の富岡町の東に當つて福村と云ふ處に、周囘三十町程の池あり、其池の中に周九丈高さ一丈ばかりの岩があるのを、土地では蛇の枕と呼んで居る。此池の魚族は鯉・鮒はもとより小さな雜魚に至る迄、一尾として兩眼を具へて居るるものは無い。傳へ云ふ昔此池に大蛇の住んで居たのを、月輪(つきのわ)兵部と云ふ勇士狙ひ寄つて放つた箭、その左の眼を射貫いて頭の半分を射碎き、をろちは苦痛に堪へずこの岩の上で悶へ死す。其怨み後に殘つて月輪殿の一家を祟り殺し、其でも足らなかつたか、池の魚までを悉く片目にしてしまつたと言ふさうである。

[やぶちゃん注:「河野芳太郎」不詳であるが、『郷土研究』の複数の投稿に名を見出せる。

「阿波の富岡町の東に當つて福村と云ふ處」「富岡町」は阿南駅のある現在の徳島県阿南市富岡町で、「福村」の方は現在の徳島県阿南市福村町。富岡町の東北東二・五キロメートルの位置にある。

「周囘三十町」三・二七キロメートル。

「池」現在の福村町内には現認出来ない。但し、福村、町に隣接する阿南市畭町(はりちょう)には瓢箪を縦に割ったような不思議な形の池があって、弁天が祀られており、「大池(おいけ)」と呼ぶようであることまでは地図で判った。この池は現在は周囲が七百六十メートルほどしかないが、どうも形がおかしい感じがするから、埋めたてられたもののようにも見える。そこで何となく気になるのでさらに検索を掛けたところ、あった! サイト「妖怪探求」の過去ログにタキタの投稿で「一眼の魚(徳島県・阿南市)」とあり、『徳島県阿南市畭町(はり・ちょう)に大池(おいけ)という池があります。ここの魚は一眼ばかりであると伝承では伝わります。実際にここで魚を捕ったことのある近所の人の話では、「一眼の魚もいる」というのが正確な表現です。一説にはこの池にはゲンゴロウも多くいるのでそれに刺されて片目になるのだといいます』(驚くべきことに(!)この池には実際に片目の魚いる(!)という数少ない報告談(!)であることに着目されたい!)。『伝承にはバリエーションがありますが、この池(大池と書いてオイケと読む)は一説には、地下水脈を通じて香川県の満濃池(弘法大師で有名ですよね!)とつながっています。この大池にはメスの大蛇が住んでおり、これが、ときどき遊びに来る満濃池のオスの大蛇と良い仲になって、満濃池に嫁入りしたというものもあります』。『このメスの大蛇は(たとえば)オスが満濃池に帰ってしまうと淋しくなるのか暴れる。これで近隣の住民が困る。すると、この周囲を当時おさめていた富岡城の城主(一説には新開遠江守)は「不届至極の大蛇!
たれかある、早々討ち取って参れ!」と命じる訳です。そこで弓の名手の船越某(または月輪矢部)』(これは「兵部」誤字か誤読のようにも見える)『が出動し、水上に姿を現わした大蛇を弓で射る。その何本かの内の矢が大蛇の左目に刺さり(または射抜き)大蛇は絶命(または、これを機会に満濃池に嫁に行った)。この後、大蛇の呪いにより池の魚が一眼になった(魚としては、とばっちりでたまらん話です)。あるいは、嫁に行く大蛇が超能力で部下である魚達を一眼にして留守を任せた。などなどと諸説あります。いずれにしても、新開氏は長宗我部の四国侵略により滅んでいますので』、四百年ほど『前の話でしょう』。『船越は、近隣の黒津地町の光明寺で、この大蛇退治の一大法要を行い、このときの矢を寺に奉納したと伝わっています』。『残念ながら、この矢の奉納伝承は現在の光明寺には伝わっていません』。昭和二九(一九五四)年『当時の「徳島新聞」記者の調査では、「この矢は同寺に保管してあったが、先々住の時に失くしてしまったと先住が語っていたという」と報告されています。明治から大正の間に紛失したようです』。また、『大蛇の眼を射抜いた矢だったのか?
残った予備の矢であったのかは不明です』。『なお、この大蛇の住む池の脇には「色変わりの松」というのが一本だけあり、大蛇が里帰り中には葉の色が変わるなどというカラータイマーのような役目をしていました』。これは残念なことに昭和四十年代に『松食い虫によって枯れてしまいましたが、江戸時代には徳島城主の蜂須賀が「珍しい!」と徳島城内に植え替えようとしましたが、いわれのあるのを知り植え替えを諦めています』とある。この大池(おいけ)に間違いない! しかも、これは貴重な現在時制の報告である。しかもくどいけれど、実際に隻眼魚の淡水魚がいるという驚天動地の記事なのである!

「周九丈高さ一丈」周囲二十七・二七メートル、高さ三・〇三メートル。航空写真を見ても現在の大池には島はない。

「月輪兵部」専ら、この大蛇伝説でしか検索の網には掛からない。]

 此言傳へを全部誤りの無いものとする爲には、先づ第一に蛇の巨大なものは水の中でも生息し得ると云ふことを認めねばならぬが、其がちよつと困難である。田舍へ出ればきつと聞く古い池沼の主の話は、稀れには牛だ犀だとも言ふが、十中八九まで蛇體と云ふことになつて居る。恐らくは佛教の龍王などから出た想像上の動物で、單に水神の假の形と見て置いてよいであらう。其よりも、爰で問題になるのは、話の中程でもさ程重きを措かれて居らぬ水中の岩である。此類の孤岩は其が水に洗はれて、世の穢から遠ざかつて居るのをめでたものか、殆ど常に祭場に用ゐられて居る。殊に又魚の生牲を供へる場合に斯う云ふ岩の上を使つて居る。備後吉原村の魚ケ石などは多くある例の一つに他ならぬ。さうすると右の月輪兵部の冒險談の如きも、其戲曲的分子を取除けて考察すれば、やはり前に擧げた片目の男女を水に投じた話と共に、魚を一目にしたのは神の意志に基くと言はうか、一目の戸童(よりまし)の託宣に從つたと言はうか、更に今一段の臆測を加味すれば、新たに魚を代用として、人の眼を突く式を罷めたことを暗示して居るとも言はれるのである。

[やぶちゃん注:「犀」柳田の言う、この「犀」とは長野県松本地域や大北地域に伝わる「小泉小太郎」(泉小次郎などとも)伝説に出る角を持った龍、犀龍(さいりゅう)のことであろう(この話は「龍の子太郎」の原話である)。同伝説はウィキの「小泉小太郎伝説」によれば、『かつて湖だった松本盆地を陸地に開拓したというもので』、「信府統記(しんぷとうき)」(信濃国松本藩主の命により編纂された信濃地誌享保九(一七二四)年完成)によれば、景行天皇十二年まで、『松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう』。『放光寺で育った小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った』というものである。]

 蛇の片目の話は又佐渡にもあるが、或は其原因をこの島の歷史中で最も大きな御人、即ち順德天皇の御逸話と結び付けて居る。茅原鐵藏老人が此事を報ぜられた。或時帝金北山へ御參詣の山路に蛇を御覽なされ、此處でも蛇は眼が二つあるかと仰せられた處、其より後此地の蛇は皆片目になつてしまつた。土地の字を御蛇河内(おへびかうち)と謂ふは其爲である云々。即ち亦片目の蛇が徒に片目であるのでは無いことを示し、神に對して極端に從順であつた故に、其蛇にも十分の尊敬を拂ひ來たつたのであることは、地名が之を傳へて居る。

[やぶちゃん注:「茅原鐵藏」(ちはらてつざう(てつぞう) 嘉永二(一八四九)年~昭和六(一九三一)年)は佐渡出身の農事研究家で郷土研究家。個人ブログ「佐渡人名録」のこちら、或いは個人サイト(と思われる)「川上喚涛と歩いた人びと」(川上喚濤(かわかみかんとう 安政三(一八五六)年~昭和九(一九三四)年)は佐渡出身で佐渡に於けるトキ保護の元祖とされるナチュラリストで文人・地方政治家)の「茅原鐵蔵」に詳しい。

「金北山」「きんぽくさん」と読む。現在の新潟県佐渡市にある大佐渡山地のほぼ中央に位置する佐渡島最高峰の山(標高千百七十一・九メートル)。但し、名前に「金」がつくのは金山発見後の江戸初期のことで、順徳天皇配流の当時(承久三(一二二一)年七月から在島二十一年後の仁治三(一二四二)年崩御)は単に「北山(ほくさん)」であった。

「御蛇河内」この字名は現存しない模様で、位置も同定出来ない。]

 近頃刊行せられた岐阜縣益田郡志を見ると、飛驒には今一層神に接近した片目の蛇の話が遺つて居る。此郡萩原町の諏訪神社の社地は、中世暫くの間國主金森家の出城になつて居たことがある。金森氏の家臣佐藤六左衞門なる者命を受けて其工事を指揮し、神靈を上村と云ふ處へ遷さんとするに、神輿が重くなつてどうしても動かぬ。仍て形六左衞門梅の枝を以って神輿を打ち、辛うじて遷座を終ることが出來た。又一説には、此時一匹の靑大將が社地に蟠まつて如何にすれども動かぬのを、六左怒つて梅の枝で蛇の頭を打ち、蛇は左の眼を傷ついて終に其地を去つたとも言ふ。其後六左衞門は大阪陣に赴いて討死をした故、村民之を幾として土木を中止し神社を舊の地へ復したが、今に至るまで境内に梅の木成長せず、又時として片目の蛇を見ることがある。是をば諏訪明神の御使として崇敬して居ると云ふ。

[やぶちゃん注:「岐阜縣益田郡志」郡名は「ましたぐん」と読む。大正五(一九一六)年益田郡役所刊。の同郡の地誌。旧郡郡域は現在の下呂市の大部分と高山市の一部が相当。

「萩原町」現在は下呂市萩原町。

「諏訪神社」「岐阜県:歴史・観光・見所」というサイトの以下の頁より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。諏訪神社諏訪神社の創建は嘉暦二(一三二八)年、『真勝寺の鎮守社として諏訪大社上社(上社本宮・上社前宮:長野県諏訪市)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。以来、府中総社として歴代領主から崇敬され、応永十九年(一四一二)には当時の桜洞城主白井俊国が能面を奉納し、永正十一年(一五一四)は領主三木氏に使えた内記新七郎頼定が諏訪大社下社(下社秋宮・下社春宮:長野県下諏訪町)の分霊を勧請合祀しました。天正十四年(一五八六)に三木氏が滅ぶと、金森氏の支配となり、境内には諏訪城が築かれる事となり、上村の大覚寺南東山麓に遷座します。元禄五年(一六九二)、六代藩主金森頼時の代に上山城(山形県上山市)に移封、宝永六年(一七〇九)に旅館(諏訪城)も取り壊しになり、再度社殿を旧地に遷しています。現在の本殿(上社・下社)は明和七年(一七七〇)に再建されたもので一間社、流造り、銅板葺。又、諏訪城を築城していた際、白蛇が出た為、梅の枝追い返そうとしたところ、誤って片目を潰してしまった事から、城内(境内)で梅の花が咲くことが無くなったと伝えられています。民衆は白蛇が諏訪神の使いと悟り信仰するようになったそうです』と本伝説も記す。

「國主金森家の出城」萩原諏訪城。ウィキの「萩原諏訪城」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『天正十三年(一五八五年)に金森長近は三木氏を滅ぼして飛騨国の領主となり、高山城を本城とした。これに加え、支城として増島城と萩原諏訪城を置いている。萩原諏訪城は諏訪神社の跡地に建てられ、近くの桜洞城を廃し、佐藤秀方が城主となった。元和五年(一六一五年)の一国一城令により廃城となった後も金森氏の旅館が残っていたが、元禄五年(一六九二年)に金森家の転封に伴って破却された。その後、宝永六年(一七〇九年)に諏訪神社が戻ってきて現在に至る』とある。

「佐藤六左衞門」城田ジョウ氏の個人サイト「美濃国城址への案内状」の「萩城」によれば佐藤六左衛門秀方と名が出、彼は実務上の築城者とも考えられおり、以上の奇っ怪な出来事は天正年中(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦では一五九二年))とする。]

 蛇は固より生牲として神に進ずべきもので無いから、鯉鮒と同列に論ずることは能ぬ。しかも加州横山の賀茂樣の鮒の如く、魚の方にも又神を代表して一目になつて居た例はあるのである。故に其片目を以て一概に熨斗(のし)や水引の意味と見ることは能ぬのである。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十六)

     十六

 

 神社によつては必ずしも丸一ケ年と云ふやうな永い期間で無かつたかも知れぬが、大祭が春か秋か、兎に角年に一度であつて、色々の六つかしい儀式は其物忌の間に擧行するのが例であつた故に、生牲の魚の進獻と放養も、やはり一年前にするものが多かつたことゝ自分は思ふ。少なくとも八幡宮に於て此式を放生會などゝ誤り傳へるに至つた原因は、其日が前の年の同じ日であつたこと、かの近江の磯崎大明神などの通りであつたからに相異ない。又放養の期間が此の如く永かつた爲に、片目の魚が住んで居ると云ふ噂ばかりが、獨立して人に記憶せられる結果にもなつたのであらう。

 其ならばどう云ふ理由で捕りたての新しい魚類を即時に調理して差上げなかつたかと云ふと、是は後々の説明では「今まで何を食つて居たか分からぬから」と言うたであらうと思ふ。我々の勝手元でも、鰌や貝類などは一晩泥を吐かせるがいゝと言ふが、人間とは比べ物にならぬ程淸淨潔白なる神樣の御體の一部に成るべき品であれば、其だけの用意の有るは當然である。併し自分の見る所では、右の如き思想も亦一朝にして起つたもので無く、更に一段と悠遠なる所に由來を有つて居るやうである。

 前に擧げた片目の鮒を請けて歸つて瘧のまじなひにしたと云ふ話でも稍察せられるが、或地方では生牲に指定せられた魚を以て、單純なる御食料とのみは見ず、これを神の從屬者乃至は代表者の如く考へて崇敬して居た形跡がある。是などは到底鮒のやうな微々たる動物に付いて、新たに言ひ始めたもので無いことは明かである。即ち生牲は一方に神の御心を取るべき禮物であつたと同時に、地方氏子等に向つては、量り難い靈界の消息を通信する機關でもあつた故に、少しでも永い期間之をかこうて置く必要があつたことと思ふ。

 各府縣の府縣社郷社の古傳を集めた明治神社誌料と云ふ書に、次の如き話が載つて居る。日向國兒湯(こゆ)郡下穗北村大字妻の縣社都萬(つま)神社に於ては、宮の御手洗の花玉川の流れに今も片目の魚を生じ、或は片目の魚を以て神の御眷屬と稱へて居る。それは大昔祭神の木花開耶姫尊が、此川に出て御遊びなされた時、神の御裝ひの玉の紐が水中に落ちて鮒の目を貫いた。片目の魚の居るのは其爲で、又此地に於ては玉紐落の三字を書いて布那(ふな)と訓ませて居る云々。即ち幽かながらも此口碑から窺はれるのは、魚の目一つは神業であつたことゝ、目を傷けたが爲に神靈界に入ることを得たことゝである。

[やぶちゃん注:「明治神社誌料」「府県郷社明治神社誌料」の略称。明治四五・大正元(一九一二)年明治神社誌料編纂所編・刊。全三巻。詳細はウィキの「府県郷社明治神社誌料」に詳しい。

「日向國兒湯(こゆ)郡下穗北村大字妻」現在の宮崎県のほぼ中央に位置する西都(さいと)市大字妻(つま)。児湯郡は現存するが、既に同郡域からは離脱して西都市に編入されているので注意。

「都萬(つま)神社」同所に現存する都萬神社(都万神社)。ウィキの「都萬神社」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『「都万」の社名について、「妻万」とする説が古くからある。またその場合、読みを「つま」のほか「さいまん」とする説がある。現在も地元では、「おせんさま」という「さいまん」の転訛による呼称が残っている』。祭神は本文通り、木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと:後注参照)で、『社名の「都万」は「妻」のことであり、祭神の木花開耶姫命が瓊々杵尊』(ににぎのみこと:天孫降臨の際の降臨神)『の妻であることによるという』。但し、『一説として、祭神は柧津比売命』『という説もある』。『創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる』。『なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある(確証はされていない)』。『国史の初見は、『続日本後紀』の承和四年(八三七年)八月一日条の「日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神社を官社に預かる)」という記事である。その後、神階は天安二年(八五八年)に従四位下まで昇進』した。「延喜式」中の「神名帳」では『日向国児湯郡に「都万神社」と記載され、式内社に列している。日向国府は当社近くに設けられており、また「五社明神」という別称から日向国の有力社を合祀していたと見られることから、当社は日向国の総社の機能を担ったとする説がある。また、都農神社』(つのじんじゃ:宮崎県児湯郡都農町にある)『に次ぐ二宮として崇敬されたとする説もある』と記す。

「花玉川」現在、同神社の東側を流れる桜川「同名の母子再会の謡曲「桜川」の舞台)に流入するまでの同神社境内の御手洗(みたらし)の池からの瀬流れの名称かと思われる。「居酒屋なんじゃろか」のサイト内の都萬神社の『「片目の鮒」の伝承池』の条に、この池については「日本の伝説」によると、と前置きの上、『日向の都万神社のお池、花玉川の流れには、片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫がこの御池の岸に遊んでおいでのとき、姫の玉の紐が水に落ちて、池のフナの目を貫いた。それから後、片目の鮒がいるようになった。玉紐落(たまひもおつ)と書いて、この社ではそれを鮒と読み、鮒を神様の親類というようになった』とある(下線やぶちゃん)。

「木花開耶姫尊」(このはなさくやひめ)は「このはなのさくやびめ」とも読み、一般には「木花咲耶姫」と記されるが、「古事記」には「木花之佐久夜毘売」、「日本書紀」では「木花開耶姫」の表記で出る。通常は富士山を神体山とする富士山本宮(ほんぐう)浅間(せんげん)大社(静岡県富士宮市)及びその配下の日本国内約千三百社に及ぶ浅間神社に祀られている富士の守護神とされる女神である。大山祇神(おおやまつみ)の娘で天照大神の孫瓊瓊杵尊の妻とされる。以下、参照したウィキの「コノハナノサクヤビメによれば、同女神は『木の花(桜の花とされる)が咲くように美しい女性の意味とするのが通説である。ただし類名に、コノハナチルヒメがあり、サクヤビメの「ヤ」を反語の助詞ととると意味に違いが生じる』。『古事記における本名である神阿多都比売(カムアタツヒメ)の「阿多」は、薩摩国阿多郡阿多郷(現在の鹿児島県南さつま市金峰地区周辺)のことであるとされている』。『なお、コノハナノサクヤビメを祭神とする富士山本宮浅間大社には、竹取物語とよく似た話がその縁起として伝わっている』。『神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り』、『「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである』(人の寿命限界の神話的解説)。『コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ(火中出産を参照)。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である』とある。

「玉紐落の三字を書いて布那(ふな)と訓ませて居る」この「布那」という発音には魚の鮒とは全く無関係なある種の呪力があるのではないかと私は考える。何故なら、あを氏のサイト「古事記を学ぶ」の禊ぎ/投げ棄てた物に成る神々(2)に、伊弉諾命の黄泉の国からの呪的逃走のシークエンスで、「日本書紀」第一書(第六)の「ことど渡し」に、『因りて曰く、「此こよりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其の杖を投げたまふ。是れを岐神(ふなとのかみ)と謂(まお)す』とあるが、この「岐神」の訓注には、『岐神、此れを云く、「布那斗能加微(ふなとのかみ)」と』(訓読は私の恣意)とあるからで、この話はもしかすると片目の聖痕の鮒とはやや別系統の呪的な「ふな」の流れがあるのではなかろうか? 同リンク先ではこれを「経勿所(ふなと)」と字解、これは「通ってはいけない場所」という禁止の意味に解釈出来、まさに禁忌の片目の魚と一致するとも言えるのである。]

 同じ書には又斯んな話もある。加賀國河北郡高松村大字横山龜山の縣社賀茂神社は、大同二年に現在の社地に遷座せられたと言つて居るが、其理由は至つて不思議な話である。或日此社の御神鮒に身を現じて御手洗川に遊びたまふ時、遽に風吹き立つて汀の桃水中に落ち、其鮒の目に中つた處が、忽ちにして四面暗黑となり人みな之を恠んで居ると、其夜靈夢の御告があつて、終に社を今の場處に移すことゝなつた云々。是だけでは何だか桃が落ちて御怪我をなされたのに御憤りあつて、前の社地を引き拂へと仰せられたやうにも解せられるが、それは大根に躓いて御轉びなされたと云ふ話と共に、桃の木を忌む風習の説明を誤つた結果であつて、要領は却つて片目の生牲を介して、神意を知り得たと云ふ點にあるのであらう。神が御身を鮒に託せられたと云ふ點は、日向の話よりも更に一段進んで居る。

[やぶちゃん注:「加賀國河北郡高松村大字横山龜山」現在の石川県かほく市横山。

「賀茂神社」祭神は加茂別雷神・貴布禰神・天照大神。「石川県神社庁」公式サイト内の賀茂神社によれば、『当社の史書に見ゆるは、敏達天皇』二年の条に圭田五十七束奉り『云々と見えたるを始めとし』、[やぶちゃん注:中略。]ここに記すように大同二(八〇七)年に神託を蒙って『現今の地に遷座、平城天皇の祈願所として』六千二百歩(ぶ)余を『寄せ給い、醍醐天皇の』延喜五(九〇五)年には三百六十町歩の『田地を賜り、十二坊三神主を附置かれたという。延喜の制、国幣の小社に列した名社』でその後も『藩主前田利家公、羽柴秀吉の命を受け、山城国下加茂社に当庄十ヶ村を寄進』後に兵火を受けたが、江戸時代になって万治元(一六五八)年に『本殿拝殿等を再建』したとある。

「汀」「みぎは(みぎわ)」。]

 入らぬ講釋かも知らぬが、右の二件の傳説に、神が遊びに出られたと云ふのは祭典のことである。祭の日祭場へ御降りなさるのが即ち神遊びであつて、人間のやうに暇があるから遊びに御出でなさると云ふことは、神樣には無いことである。鮒の目の傷の偶然でなかつたことは是からでもわかる。

[やぶちゃん注:「入らぬ講釋」はママ。「要らぬ講釋」が普通であろう(全集は『いらぬ』と平仮名書き)。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 長良と紀の海

 

 長良と紀の海

 

  鵜飼

 

鵜舟並み瑞(みづ)の大嶽雲新た

 

[やぶちゃん注:「瑞の」瑞々(みずみず)しい・清らかな・美しい・目出度いの意を添える接頭辞。「大嶽」とはあるが、金華山(標高三百二十八・八六メートル)よりも対岸の岐阜市内最高峰百々ヶ峰(どどがみね:標高四百十七・九メートル)などが長良川から見える峰は他にもある。但し、後に「瑞山(みづやま)を大瀨繞りて河鹿鳴く」などの景色からは、これは金華山を指しているような感じはする。]

 

南無鵜川盆花ながれかはしけり

 

[やぶちゃん注:八月十五日の景と判る。長良川鵜飼の「岐阜市鵜飼観覧船事務所」公式サイトで確認したが、現行でも納涼鵜飼として、例えば本年二〇一六年度は盆の中日に行われる予定となっている。参考までに現行ではこの納涼鵜飼は日に二度行われており、乗合船の出舟時刻は一回目が十八時十五分・十八時四十五分・十九時十五分の三回、鵜飼は十九時三十分から二十時二十分頃まで行われ、二回目は出舟が二十時四十分一度で、鵜飼は二十一時十分から二十二時零分頃まで行われている。]

 

ぞろぞろと浪花女つれし鵜飼かな

 

[やぶちゃん注:「ぞろぞろ」の後半は底本では踊り字「〱」。関西弁の聴覚印象が句背に響く。]

 

鵜船ゆき翠黛の瀑みえわたる

 

[やぶちゃん注:「翠黛」本来は青みがかった色の黛(まゆずみ)或いは美人の眉、又は、緑にかすんで見える山色を指すが、ここは低い落差を流れ落ちる川水の色を指していよう。「瀑」は蛇笏ならば「ばく」と音読みしているように感ずる。長良川鵜飼の行われる周辺には遠望出来る落差の大きい滝はないように思われので、前の記したように、川の一部が、堰のようになっていて、そこを落ちるさまを「瀑」と呼んだと私は採る。]

 

豆も咲き鵜宿門べの蕃茄生る

 

[やぶちゃん注:「蕃茄」は「ばんか」でトマトの異名。蛇笏なら音読みしていよう。「まめもさき/うしゆくかどべの/ばんかなる」である。]

 

朝露にひたる籠の鵜影ひそむ

 

玉鵜籠朝日さし又夕影す

 

[やぶちゃん注:一日を微速度撮影した印象的な句である。]

 

並みつるゝこれの鵜籠に朝ぐもり

 

あまたある鵜籠の形(なり)のまどかかな

 

河岸沿ひに暑往寒来鵜飼宿

 

   鵜匠頭山下邸に案内され同氏の懇ろなる説明をきく

 

花活くる袂(たもと)くはへて鵜匠の娘

 

[やぶちゃん注:「鵜匠頭山下」「氏」山下幹司(明治二七(一八九四)年~昭和四〇(一九六五)年)大正から昭和の鵜匠。岐阜県出身で岐阜中学卒。大正五(一九一六)年に宮内省式部職鵜匠に任ぜられた。昭和一四(一九三九)年にサンフランシスコ万国博覧会で長良川鵜飼を世界に紹介し、岐阜市の観光の目玉に育てた長良川の名鵜匠として知られる(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

 

鵜をめづる婦ら猗儺(いだ)として暑に耐ふる

 

[やぶちゃん注:「猗儺(いだ)」はなよなよとして弱々しく、しかもそれが美しいさまを指す形容詞。「あだ」とも読む。]

 

鵜の氣魄瞳の潮色にやどりけり

 

[やぶちゃん注:「瞳」は「とう」と音読みしておく。「潮色」は「しほいろ(しおいろ)」で、通常は潮目と同義で海水域で用いる語であるが、ここは水の流れの微妙な色の違いの謂い。]

 

貪婪(どんらん)の鵜が甘ゆるや老鵜匠

 

荒鵜の屎水のごとくに萩穢る

 

[やぶちゃん注:「屎」は「くそ」。糞。]

 

鵜籠出し彦丸猛き瞳の眞如

 

   註=長良第一の鵜、名づけて彦丸といふ

 

[やぶちゃん注:「眞如」「しんによ(しんにょ)」は元来は梵語「タハター」の漢訳で、在るがままに在ることを指し、仏教の存在の本質・存在の究極的な姿としての真理そのものを指す。大乗仏教では「法性」「実相」などとほぼ同義的に用いるが、ここは鵜の眼の黒く真円の中にそうした真如の実態を作者は見ているのである。]

 

のど瀨沿ひ靆く夏靄に鵜籠並む

 

[やぶちゃん注:「のど瀨」は「閑瀨」「和瀨」で、穏やかで静か、のどかな川瀬の謂いか。「靆く」老婆心乍ら「たなびく」と読む。「夏靄」夏場の地水から立ち上るもやであるが、どうも「カアイ」と音読みしているように感ぜられる。]

 

   井の口丸

 

ゆかた着の帶は錦繡鵜飼船

 

[やぶちゃん注:「井の口丸」鵜飼見物の乗合舟の船名であろう。因みに、この時代、女性は鵜舟に載ること自体が出来ず、当然、女性の鵜匠もいなかったはずである。]

 

鵜飼見の酒樽に凭り酌みそめぬ

 

[やぶちゃん注:「凭り」老婆心乍ら、「より」と読む。凭(もた)れるの意。]

 

星雲にこの山水の鵜飼船かな

 

しばらくは船の葭戸に遠花火

 

[やぶちゃん注:「葭戸」「よしど」で「葭簀(よしず)」(葦の茎を編んで作った簾)を張った船中の目隠し。]

 

半玉の帶の鈴鳴る鵜飼船

 

[やぶちゃん注:「半玉」未だ一人前として扱われていない、従って玉代(ぎょくだい:芸妓の揚げ代)も半人前でしかない若い芸者。御酌(おしゃく)。]

 

ほのくらく酒盞を洗ふ鵜川かな

 

[やぶちゃん注:「酒盞」「しゆさん(しゅさん)」と読む。盃。酒杯。]

 

轉寝(うたゝね)に鵜飼の興の夢淡し

 

日月の隱れてさむき鵜飼船

 

鵜飼見の小夜の戀路を敍しにけり

 

[やぶちゃん注:小唄か何からしいが、不学にして語られている「小夜の戀路」の物語が何か判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

はやり鵜に金銀の翳火籠ちる

 

[やぶちゃん注:「はやり鵜」老婆心乍ら、「逸(はや)り鵜」で勇み立つって昂奮している鵜のこと。]

 

水翳を曳くはやり鵜に鮎光る

 

驟雨迅し鵜篝りたかく又低く

 

[やぶちゃん注:「驟雨」老婆心乍ら、「しうう(しゅうう)」と読み、急に降り出して強弱の激しい変化を繰り返しながらも急に降り止む、にわか雨のこと。「夕立」の謂いでもあるが、実景の時間からは遅過ぎる。]

 

はやり鵜の篝りに映ゆる檜繩はや

 

[やぶちゃん注:「檜繩」「ひなは(ひなわ)」と読んでいよう(「火繩」と同素材で同音だがここは用途が異なる)。檜(ひのき)皮の繊維を繩状に縒り合わせて編んだ紐繩で、鵜飼の手繩や釣瓶繩に使う。鵜飼では鵜と鵜匠を結ぶ手繩の鵜匠側の長さ一丈(三・〇三メートル)分に用いる。手繩の鵜の方の端には鯨の髭製の「ツモソ」と呼ばれる長さ一尺二寸(約三十七・九センチメートル弱)の紐を繋げ、その末端を曲げて鵜の咽喉下部に縛るつける。]

 

篝り去る遊船の舳に夜の秋

 

[やぶちゃん注:「舳」は「へさき」ではなく単音「へ」で読んでいよう。]

 

篝火の翳疲れ鵜に瞬(またゝ)けり

 

金華山軽雷北に鵜飼畢ふ

 

[やぶちゃん注:「畢ふ」老婆心乍ら、「をふ(おう)」で終わるの意。]

 

舷に並むあげ鵜うつろひ水豐か

 

鵜は舷に小夜の北風吹く屋形船

 

瑞山(みづやま)を大瀨繞りて河鹿鳴く

 

[やぶちゃん注:前の本章冒頭の「鵜舟並み瑞(みづ)の大嶽雲新た」の句の私の注を参照。]

 

舷の鵜に屋形萬燈遠ざかる

 

鵜飼畢ふ水幽らみつつ翳流る

 

[やぶちゃん注:「幽らみつつ」「くらみつつ」と訓じていよう。]

 

闃として人煙絶ゆる鵜川かな

 

[やぶちゃん注:「闃として」「げきとして」と読み、静まりかえって、ひっそりとして人気(ひとけ)のないさまを言う。]

 

金華山大瀨を闇に夜の秋

 

河鹿鳴く瀨を幽(かす)かにす金華山

 

晝中は舳をふりねむる鵜舟かな

 

   四季の里 三句

 

風騷(ふうざう)の夜を水無月の館かな

 

[やぶちゃん注:「四季の里」不詳。但し、検索すると現在の岐阜県羽島郡笠松町田代藤掛地内に「四季の里広場(パターゴルフ場)」があり、そこには芭蕉の句碑があって、またここは前のロケーションの長良川からは南で近くに位置し、しかも後の句に出る木曽川の右岸でもある。]

 

木曾の瀨も暗らめる㡡に旅疲れ

 

[やぶちゃん注:「㡡」は「かや」と訓じていよう。蚊帳。]

 

寝しづみて燈影煌たる夏館

 

   紀伊路

 

和歌の浦あら南風(はえ)鳶を雲にせり

 

[やぶちゃん注:「和歌の浦」は和歌山県北部、現在の和歌山市南西部に位置する海浜を含む広域の景勝地で古来よりの歌枕でもある。ウィキの「和歌浦」によれば、現行の『住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する』とあり、「万葉集」にも『詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られない』ともある。『和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が』、

 若の浦に 潮滿ち來れば 潟をなみ 葦邊をさして 鶴(たづ)鳴き渡る(「万葉集」巻第六(九一九番歌))

『と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている』。『平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる』とある。]

 

群燕に紀伊路の田居は枇杷熟るる

 

[やぶちゃん注:「田居」は「たゐ(たい)」と読む。田のある所、田圃であるがここは広義の田舎の意。]

 

水無月の雲斂(をさま)りて和歌の浦

 

つばめむれ柑園霽れて仔山羊鳴く

 

柑園のみち鷗翔けバス通る

 

   御坊町中吉旅館

 

夏早き燈影に濡るる蘇鉄苑

 

[やぶちゃん注:「御坊町」(ごぼうちやう)は和歌山県日高郡にあった町。現在は御坊市の中心部で日高川の右岸に相当する。和歌山県の中央部西岸の紀伊水道沿岸。「中吉旅館」は不詳。現存しないか。]

 

蘇鐡かげ聖土曜日の燈がともる

 

[やぶちゃん注:「聖土曜日」はカトリック用語で復活祭(イースター)前日の土曜日を指す。調べてみると、本パートの昭和一四(一九三九)年の一般的なイースターは四月九日(日曜)に相当したので、本句は四月八日の嘱目吟と一応比定することが可能ではあるが、前後は盛夏の句でこの日ではない。不審。識者の御教授を乞う。]

 

旅の風呂熱くて赫つと夕日影

 

尼もゐて卓の苹果に夏灯

 

[やぶちゃん注:「苹果」「ひやうくわ(ひょうか)」でリンゴの実のこと。「夏灯」「なつあかり」と訓じているか。仏前の燈明である。]

 

枇杷を攝る手の艶(なま)めきて尼僧かな

 

上布(じやうふ)きて媼肥(うばご)えしたる尼の膝

 

[やぶちゃん注:上布「じやうふ(じょうふ)」上質の麻糸で織った軽く薄い織物で、ここは夏用の高級和服。それが「媼肥(うばご)え」と響き、映像としてもっこりとした「尼の膝」にクロース・アップしてまことに面白い一句である。]

 

翼張る窓の蘇鐡に蚊遣香

 

尼すずし更闌けてさる蚊帳隱くり

 

   元の脇海岸

 

高潮に遠岬初夏の雲しろむ

 

[やぶちゃん注:「元の脇海岸」紀伊水道を挟んだ対岸である四国は徳島県阿南市中林町にある全長二キロメートルに及ぶ砂浜海岸。]

 

詠人に海女がたつきも初夏の景

 

白靴に岩礁はしる潮耀りぬ

 

濤蒼し智慧をわすれし蜑の夏

 

蜑さむく不漁(しけ)し炎暑の煙上ぐる

 

あら南風の洋白馬跳ね狆(ちん)戲(ざ)るゝ

 

[やぶちゃん注:「あらはえの//なだ/はくば/はね//ちん/ざるる」と訓じておく。]

 

   岩窟を栖とする蜑夫婦あり

 

薊咲き岩戸の暾影夏匂ふ

 

[やぶちゃん注:「暾影」何度も注しているが、「ひかげ」で、「暾」(ひ)は朝日の意。]

 

瀾掠む微雨かがやきて夏薊

 

   鮑取りを見る

 

腰繩の刀いかつくて鮑取

 

[やぶちゃん注:「刀」は「たう(とう)」と読んでいよう。]

 

潮ゆたにもぐりし蜑や油照り

 

[やぶちゃん注:「潮ゆた」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

岩礁の瀨にながれもす鮑取

 

渦潮の底礁匐へる鮑とり

 

[やぶちゃん注:「底礁」「ていせう(ていしょう)」と音読みしておく。]

 

夏潮を出てべんべんと蜑の腹

 

[やぶちゃん注:「べんべんと」は「便便と」でここでは、太って腹の出ているさま。]

 

葦咲いて蜑の通ひ路ながし吹く

 

三伏の旅路に濤の音も愁ふ

 

[やぶちゃん注:「三伏」は「さんぷく」と読み、夏の最も暑い時期のこと。夏至の後の第三の庚(かのえ)の日を「初伏(しょふく)」、第四の庚の日を「中伏(ちゅうふく)」、立秋後の最初の庚の日を「末伏(まっぷく」と称し、この三つを合わせて言う。夏の季語。]

 

   望洋館にて

 

舟蟲に莊の花卉照る墓ほとり

 

[やぶちゃん注:「望洋館」不詳。]

 

黴雨明けの夏爐ほのかなる茶の煙り

 

[やぶちゃん注:「黴雨」「つゆ」と読む。梅雨に同じいが、どうも時系列の齟齬がこれらの句群非常にイラっとくる。]

 

舟蟲に欄の濤翳松落葉

 

[やぶちゃん注:「濤翳」強い高波に射す光に翳がちらつくことか。御で「たうえい(とうえい)」と音読みしたい。]

 

青蘆を一茎活けし夏館

 

   望洋館女將既に亡し

 

靑蘆活け婀娜の死靈を偲びけり

 

[やぶちゃん注:「婀娜」「あだ」で、女性の色っぽく艶めかしいさま、或いは美しく嫋(たお)やかなさまで、ここは前者の謂いをも匂わせた後者の謂いと採る。「死靈」「しれい」と読みたい。]

 

鯒(こち)釣るや濤聲四方に日は滾(たぎ)る

 

[やぶちゃん注:「鯒(こち)」これは魚類学的には甚だ困った呼称で、『上から押し潰されたような扁平な体と比較的大きな鰭を持った、海底に腹這いになっていることが多い(従ってベントス食性であるものが多い)海水魚を総称する』語で、参照したウィキの「コチ」によれば、どれも外見は似ているが、目のレベルでは異なる二つの分類群から構成される、とする。まず大きな「コチ」群は、カサゴ目コチ亜目Platycephaloidei に含まれる。

 カサゴ目コチ亜目

  アカゴチ科 Bembridae

  ウバゴチ科 Parabembridae

  ヒメキチジ科 Plectrogehiidae

  コチ科 Platycephalidae(代表種で真正和名とも言える本邦近海産のマゴチ Platycephalus sp. はここに含まれる)

  ハリゴチ科 Hoplichthyidae

なお、マゴチの学名が“sp.”となっているのは複数存在するからでは、ない。ウィキの「マゴチ」によれば、これは最近まで『奄美大島以南の太平洋、インド洋、地中海に分布する Platycephalus indicus と同一種とされていたが、研究が進み別種とされるようになった。ただし、まだ学名が決まっていないので、学名は"Platycephalus sp. " コチ属の一種)という表現が』なされているためである。属名Platycephalus“Platys”(平たい)+“kephalē”(頭)の意である。

 もう一つの「コチ」群は、スズキ目ネズッポ亜目 Callionymoideiに属するもので、

 ネズッポ科 Callionymidae

 イナカヌメリ科 Draconettidae

釣り人が「メゴチ(女鯒)」と称するのは、圧倒的にこのネズッポ科ネズミゴチ(鼠鯒)Repomucenus richardsonii であるが、天麩羅にして旨い「コチ」はこれであったり、先のカサゴ目コチ科メゴチ Suggrundus meerdervoortiiであったりする(「メゴチ」という標準和名は後者に与えられている)ので、ややこしや、である(但し、生体ならばネズミゴチなどのネズッポ類は体表が粘液に覆われていること、下向きのおちょぼ口で有意に小さいこと、頭部の骨板がないこと、鰓蓋に太い棘があることで全くの別種であることは容易に分かる)。魚の一般人の分類への関心が低い欧米では“gurnard”と呼び、コチ亜目ホウボウ科ホウボウChelidonichthys spinosus と一緒くたになってさえいるのである。]

 

綸(いと)吹かれ潮かゞよひて土用東風

 

[やぶちゃん注:「土用東風」は「どようごち」で、夏の終わりの土用(七月二十日頃から立秋前日まで。一般に一年中で最も暑い時期とされる)の最中に吹く東風。晩夏の季語。「綸(いと)」から前句との組み句であろう。]

 

沖通る帆に黑南風の鷗群る

 

[やぶちゃん注:「黑南風」「くろはえ」と読む。一般には梅雨の始めの強い南風を「黒南風」、梅雨間の強い南風を「荒南風(あらはえ)」、梅雨明けを予兆するように吹くそれを「白南風(しろはえ)」と呼ぶ。「白」「黒」は雲の色に由来する。しかし、ロケーションは晩夏の紀伊半島であることは確かであるから、蛇笏のこれらの海風の語の用法は厳密でない。寧ろ、名の由来の雲の色から詠じたに過ぎないと捕えた方が悩まずに済むように思われる。]

 

大瀾に南風曇りして蜑のみち

 

[やぶちゃん注:「大瀾」は「だいらん」と音読みしているか「おほなみ(おおなみ)」と訓じているか分からぬ。確信犯の佶屈聱牙の蛇笏ならばこそ「だいらん」で読みたい。大波に同じい。]

 

磯山の霖雨小歇みに蟬しぐれ

 

[やぶちゃん注:「霖雨」通常は幾日も降り続く長雨のことであるが、わざわざそれをこのシチュエーションに持ち出して輻輳させるのが好きなのは蛇笏の癖である(それが私はこの句では成功しているとは思われない。梅雨は明けたのであり、いや、今は晩夏ではないのか?!)。「小歇み」「こやみ」。小止みに同じい。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 丈六に陽炎高し石の上 芭蕉

本日  2016年 2月20日

     貞享5年 1月19日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月20日

 

伊賀の國阿波庄(あはのしやう)と云ふ所に、俊乘(しゆんじよう)上人の舊跡あり。護峰山(ごほうざん)新大佛寺とかや云ふ名ばかりは、千歳(ちとせ)の形見(かたみ)となりて、伽藍は破れて礎(いしずゑ)を殘し、坊舍(ばうしや)は絶えて田畑と名の變(かは)り、丈六(ぢやうろく)の尊像は苔の綠に埋もれて、御髮(みぐし)のみ現然と拜まれさせ給ふに、聖人の御影(みえい)は未だ全おはしまし侍るぞ、其代(よ)の名殘(なごり)疑ふ所なく、涙こぼるるばかりなり。石の蓮台(れんだい)、獅子(しし)の座などは蓬(よもぎ)葎むぐら)の上に堆(うづたか)く、雙林(さうりん)の枯れたる跡も目(ま)のあたりにこそ覺えられけれ。

 

     丈六に陽炎(かげろふ)高し石の上

 

「笈の小文」より。日附は例によってサイト「俳諧」の「笈の小文」に従った。真蹟詠草は、

 

   阿波大佛

 

丈六にかげろふ高し石の跡

 

とし、「笈日記」は、

 

丈六のかげろふ高し石の上

 

「三冊子」は、

 

かげろふ俤(おもかげ)つくれ石のうへ

 

推敲形と思しいものが載り、更に「芭蕉翁全伝」にもこの変形である、

 

陽炎の俤つゞれいしのうへ

 

が載るが、命令形は全くいただけない。本句の恥である。

「阿波庄」三重県の旧阿山(あやま)郡大山田村。現在の伊賀市大山田。

「俊乘上人」東大寺大勧進職として焼失した東大寺復興に尽力した浄土宗の名僧重源(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)の坊号。

「護峰山新大佛寺」神龍寺(山本健吉「芭蕉全句」)、一名新大仏寺。後に復興したらしく、現存する(但し住所は伊賀市富永)真言宗 新大仏寺」公式サイトによれば建仁二(一二〇二)年に源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創、開山を重源上人とし、全国にあった七ヶ所の東大寺別所の中の一つとあって、『重源上人像や廬舎那仏をはじめとする数多くの重要文化財や俳聖松尾芭蕉の句碑などがあり、山門・墓所も整備されてい』るとある。新潮古典集成の「芭蕉文集」の富山奏氏の注には、『創建当初は十一宇の大伽藍であったが、後世』、『衰微し、寛永十二年』(一六三五年)『の大雨で山崩れに遭い』、『荒廃していた』とある。芭蕉が訪れた貞享五年は一六八八年であるから、実に五十三年もの間、放置されていたことになる。景、凄絶なること、よく、再現あれかし。

「千歳の形見」創建当時からなら実際には四百八十六年前であるが、「千歳」は長い年月の謂いであるから問題ない。

「丈六」一丈六尺は約四・八メートルで、仏教では一丈六尺の高さを持つ、極めて一般的な立像仏像を指す(これは釈迦の身長が常人の倍の一丈六尺あったという信仰に基づく)。胴体は死体の如く、すっかり地に埋もれてしまい、苔がびっちりと生えているのである。

「御髮(みぐし)」この場合は「御首」で、頭部だけが地面に晒し首のように、突っ立っているばかりなのである。丈六だと、頭部は八十センチメートルほどしかない。それがまた地面に沈んでいるのであるから、我々の視線は頗る低い。

「聖人の御影」開山俊乗坊重源の尊像。富山氏の注には『上人堂に安置していた』とあるから、この堂は当時も現存していたらしい。先の同寺公式サイトによると、現存もするようである(大仏(廬舎那仏)は画像が載るが新造と思われる)。

「雙林の枯れたる跡も目のあたりにこそ覺えられけれ」釈迦入滅の際には沙羅双樹(さらそうじゅ)の林が一斉に枯れたと伝えられるが、いや、その光景もかくや! と思わるるほどにもの凄き荒景を目の当たりにした、そこには真に無常の思いを惹起させる恐るべき棄景があったことだ! と芭蕉は感慨するのである。

 「芭蕉庵小文庫」(史邦編・元禄九(一六九六)年刊)の上巻には(加工底本として個人サイト「旅のあれこれ」の『芭蕉庵小文庫』(史邦編)を使用させて戴き、また山本健吉「芭蕉全句」を参考にしたが、一部原文本文を恣意的に補正した。読みは私が振った)、

 

 伊賀新大佛寺之記

 

伊賀の國阿波の庄に新大佛といふあり。此(この)ところは、ならの都東大寺のひじり俊乘上人の舊跡なり。ことし、舊里(ふるさと)に年をこえて、舊友宗七、宗無ひとりふたり、さそひ物して、かの地に至る。 仁王門、撞樓のあとは、枯(かれ)たる草のそこにかくれて、「松ものいはゞ事とはむ石居(いしずゑ)ばかりにすみれのみして」と云(いひ)けむも、かゝるけしきに似たらむ。なを分(わけ)いりて、蓮華臺(れんげだい)・獅子の座なんどは、いまだ苔のあとをのこせり。御佛は、しりへなる岩窟にたゝまれて、霜に朽(くち)、苔に埋(うづも)れて、わづかに見えさせ玉(たま)ふに、御(み)ぐし斗(ばかり)はいまだつゝがもなく、上人の御影をあがめ置(おき)たる草堂のかたはらに安置したり。誠に、こゝらの人の力をついやし、上人の貴願いたづらになり侍ることもかなしく、涙もおちて談(ことば)もなく、むなしき石臺(せきだい)にぬかづきて、

 

   丈六に陽炎高し石の上

 

と出る。

 本句の眼目は

 

――台座の後には仏なく、時の流れの無常を感じさせ、この世の儚さを指すようにゆらゆらと視界を崩すところの陽炎が、今は亡き仏像のその「丈六」の高さまで、虚しく立ち昇っているではないか――

 

という断腸の懐古の情にこそある。

2016/02/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十五)

     十五

 

 所謂放生會の御式の最も盛んであつたのは、八月十五日の八幡樣の祭であつた。是も男山の社僧たちに言はせると、神が佛教の感化を御受けなされて、慈悲の惠を非類の物に迄及ぼしたまふ也となどゝ説くであらうが、亦明白に中古以來のこぢつけである。まこと其御趣意であつたならば、わざわざ江湖に悠遊して居る物を捉へて來て、窮屈千萬なる小池の中に放せと仰せられる筈が無い。是は疑ひも無く祭に生牲を屠るの行爲のみは僧徒の干渉によつて廢止しても、之に供すべき魚類を一箇年前から用意して置く儀式の方は、害が無いから其儘殘り、後に理由が不明になつて、右の樣に有難がらせようとしたのである。石淸水などでは、此日の祭の行列は喪を送るのによく似た出立ちであつたさうである。ずつと以前に魚よりも一段と重い生牲を捧げた痕跡と見なければ、恐らくは滿足な説明をなし得る者は無いであらう。

[やぶちゃん注:「男山」「をとこやま(おとこやま)」は京都府八幡市にある鳩ヶ峰の別名。標高百四十三メートルで山上にかの石清水八幡宮がある。ここはその八幡社を指す。]

 來年の生牲の片目を拔いて置くと云ふ直接の證據はまだ見出さぬが、之を想像せしむるに十分なる例は有るのである。近江阪田郡入江村大字磯の磯崎大明神では、毎年の例祭卯月八日、網を湖中に下して二尾の鮒を獲て、その一を神饌に供ヘる。他の一尾は片鱗を取つて湖中に放して置くと、翌年の四月七日に網にかゝるものは必然として其鮒であつたと、近江國輿地誌略に載せてある。即ち前年度しるしを附けて置いた分を神に供へると共に、次年度の分をきめて一旦放し飼ひにすると云ふのである。琵琶湖の如き廣い水面に在つても、神德に由つて指定せられた魚は外の用には宛てられなかつたとすれば、僅かばかりの御手洗の池に入れた魚などは、別に一目にして置くにも及ばなかつたらうと思ふ。さうすれば片目も片鱗も、さては又前に擧げた行基弘法の片身の魚なども、要するにみな話であつて、實際其通りであつたか否かを穿鑿する迄の必要は無からう。

[やぶちゃん注:「近江阪田郡入江村大字磯」「阪田郡」は「坂田郡」が正しい(全集版は『』坂田郡)。現在の滋賀県米原市磯。米原駅から東直近の琵琶湖東岸地区。

「磯崎大明神」現在の同地区の湖岸に鎮座する礒崎(いそざき)神社。ここ磯は何と、かの日本武尊が葬られた地或いはここから白鳥となって飛び立ったとも伝える場所である。礒崎大明神とも白鳥明神とも別称する。

「近江國輿地誌略」「近江輿地誌略」(おうみのくによちしりゃく)が正しいと思われる。享保八(一七二三)年に膳所(ぜぜ)藩主本多康敏(ほんだやすとし)の命により同藩士寒川辰清(さむかわとききよ 元禄一〇(一六九七)年〜元文四(一七三九)年)が編纂を始めた近江地誌。享保一九(一七三三)年、全百一巻百冊の大作として完成させた。近江国全域を対象にした初の本格的地誌で圧倒的な情報量を誇る(以上は「滋賀県」公式サイト内の「県指定有形文化財書跡・典籍・古文書の部」の「近江輿地志略」に拠る)。

「御手洗」「みたらひ(みたらい)/みたらし」と読む(全集版は『みたらし』と振る。私も「みたらし」と訓じておく)。狭義には神社社頭にある参拝者が神仏を拝む前に禊として水で手や口を洗い清める所を指すが、ここは神社境内の御手洗(みたらし)の池を指す。]

 魚屬が鱗を剝がれて一年も活きて居られるか否かは先づ大に疑はしい。是は何でも事情のあるべき事で、多分は片身又は片燒の鮒などゝ共に、目では物足らない處からの誇張であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:剝すのは全部である必要はない。識別出来るように特定の箇所を複数剝すだけであるならば、大型の鮒ならば一年生きていたとしても生物学的に何ら疑わしいとは私は思わない。

「目では物足らない」全集版は『片目では物たらない』とある。]

 近江には今一つ似たやうな話がある。東淺井郡上草野村大字高山の安明淵(あんめいぶち)と云ふ處では、昔賴朝が此淵において鯉を捕り、其片身の鱗を拭(ふ)いて再び放した故に、今でも草野川の流には一方に麟の無い鯉が住んで居ると云ふことである。此淵の上には何か文字を彫刻した岩があるが、苔既に滑かにして之を讀むことは出來ぬともある。何の爲に賴朝が此樣な川へ來て鯉を取つたかは想像に及ばぬが、祭の行列に出て來る馬に乘つた兒を、誤つて賴朝と呼んで居る村は、近江にも亦他の國にも少なくなかつたのである。

[やぶちゃん注:「東淺井郡上草野村大字高山」「ひがしあさいぐんかみくさのむら」と読む。現在の滋賀県長浜市高山で、長浜市南東部の草野川上流域に相当する。

「安明淵」kagy592氏の個人ブログ「気の向くままに」の『ノート「平治の乱と草野の荘」草野荘の源氏伝説』に写真と解説が出る。そこではブログ主は現在の聴き取りも行っており、非常に興味深い。それによれば、ここは少年の日の頼朝が平治の乱で負けて落ちのびる途中の父義朝らとはぐれてしまって、一時隠れ住んだ地とする伝承があるらしい。『長浜市高山町は、頼朝が浅井郡の北の老夫婦に匿われた場所と云い伝えられている土地である。東俣谷川(深谷)沿いには剣の試し切りで二つに割れた岩や馬の習練で蹄の跡を付けた岩なども残っている』。『また、安明ケ淵と呼ばれる大きな淵も潜伏していた間の遊興で鯉を採っていたと伝わり、千石谷には、頼朝が粥を炊いたところとして粥煮石が有ると伝わっている』。『安明ケ淵と粥煮石の伝承については東浅井郡誌にも書かれているが、古老の皆さんに聞きに回っても判らなくなっている。東俣谷川(深谷)は上流に草野川ダムが造られ流量が少なくなったことや、伊勢湾台風などで河川改修が行われ川の相がかわってしまい忘れ去られたのかもしれない』とあることから、柳田の言っている石はこの「粥煮石」らしい。]

 遠州横須賀の人渡邊三平君の話に依れば、あの地方では御一新前よく天狗樣が出られて夜分は天狗の殺生に出掛けられる火と云ふのを、屢々見たと老人たちは言うて居る。まるで松明のやうであるが、今田圃の上に在るかと思ふと、すぐに大きな松の木に現れるなど出沒自在であつた。其時分には田や溝に片目の泥鰌(どじよう)がいくらも居たもので、それは皆天狗が殺生に出られて、拔取つて行かれるのだと言うて居たさうだ云々。

[やぶちゃん注:「遠州横須賀」現在の静岡県掛川市横須賀。掛川市の南、遠州灘沿岸に近い一帯。

「渡邊三平」『郷土研究』の投稿記事に複数出るが事蹟は不詳。]

 此等の話を考へ合せると、片目の魚の噂の起りは、捉へて檢めた人の報告に基づいて居らぬことは確かである。當初は境内の池の魚は捕つてはならぬと云ふ戒めと、片目の魚は食ふまじきものだと云ふ教へと二つであつたのが、恐らくは緣が近い爲に合併したので、共に生牲を或期間放し飼ひにした慣習の痕跡と見るべきものである。

[やぶちゃん注:「檢めた」「たしかめた」。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十四)

     十四

 

 片目の魚の由來に付ては、更に一箇の奇拔なる口碑が傳へられて居る。伊豫の松山の七不思議の一つに、山越の片目の鮒と云ふことがある。昔弘法大師諸國遍歷の時に、此地に來て法施を求められた處、里人に貧困にして志深き者あつて、我が食事の爲に支度した一尾の鮒の、片身だけ燒きかけたものを取つて御僧に進らせた。大師其志をめで受けて傍なる井手に放されると、鮒は忽ち蘇生して泳ぎ去り、それよりして此水に棲む鮒は今に至るまでみな片目である云々。

[やぶちゃん注:「いせきこたろう氏のサイト「こたろう博物学研究所」内の「カテゴリ別情報庫 伊予の伝説(愛媛全般)」の「伊予松山の七不思議(愛媛新聞者報道二部撰)」に「片目鮒」とあって『紫井戸の近くにあった池の鮒はすべて片目しかない』と記す。この「紫井戸」で調べると、個人サイトと思われる「こんなことが あったか 松山 松山むかし話」内の「片目鮒(かためぶな)」に以下のようにある(本シチュエーションとは少し異なる)。愛媛県松山市木屋町(きやちょう)四丁目の『個人住宅敷地内にある、「片目鮒=かためぶな=の井戸」にまつわる伝説』で、『お百姓さんの午前中の仕事も一段落した昼時、昼飯のおかずは、近くの井戸にいる鮒でも焼いて食うことにしようと、鮒を焼き始めた。そこへ托鉢姿で修行中の弘法大師が通りかかり、「哀れなことじゃ、焼かれながら鮒が暴れている。鮒を譲ってください。」と頼んだ。お百姓は、「片目はもう焼かれとるぞな。ほじゃけん、もう助けることはないじゃろう。」と返答したが、弘法大師は、哀れに思い片側の焼けた鮒を譲り受け、井戸に投げ込み、念仏を唱えると生き返ったという。以来、この井戸には片目の鮒が、水路でつながっていた紫井戸とともに行き来していたと伝えられている。(今は、両井戸ともに水は涸れているが、昔日の井戸は残っている)』とある(リンク先には井戸の画像もある)。こちらの方が話柄内の理路が通ていて柳田の荒っぽい引用よりよほど自然な話柄となっている。

「法施」「はうせ(ほうせ)」。狭義には神仏に対して経を読んで法文(ほうもん)を唱えることを指すが、ここは財施と同じで、金品食事の布施の僧が在家の者に求めることを指す。「ほっせ」とも発音する。

「井手」は前注の同話のヴァリエーションから早合点して「井戸」の誤字などと思ってはいけない(全集版も「井手」のままである)。「ゐで(いで)」で、田に水を引き入れるために川の流れをせき止めてある所、井堰(いせき)のことをかく呼称する。四国に多く分布する灌漑用貯水池のことである。]

 折角法力で助けられた動物が、目に限つて快復し能はず、しかも累を子孫に及ぼすと云ふのは七不思議以上であるが、是が又とんだ類例の多い出來事であつた。例へば攝陽群談等の書に、昆陽池に片目の金魚あつて古來有名なりとある。行基菩薩曾て此地に來つて病者の魚を欲するを憐れと見たまひ、自ら長洲濱に出でゝ魚を求め、之を料理して其病者に食はしめ、殘つた半分を池の水に投ぜられると、忽ちにして化して目一つの金魚となつた云々。金魚とはあるが實はやはり鮒であつた。濱で買つて來たというからには海魚らしいが、池に放されて繁殖したので、仕方無しに「化して」などゝ傳へたのであらう。是も食ふと癩病になると云ふわけで、土人此池に釣もせず網もせぬと述べて居る。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」大坂の岡田溪志(おかだけいし:事蹟不詳)が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年に完成した、全十七巻から成る摂津国(現在の大阪府北中部の殆んどと兵庫県南東部に相当)に関する詳細を極めた地誌。

「昆陽池」「こやいけ」と読む。兵庫県伊丹市昆陽池に現存。天平三(七三一)年に行基の指導により農業用のため池として作られたとされる。現在は公園化されており、池の中ほどに日本列島を模した人工島があることで知られる。参照したウィキの「昆陽池公園」の画像を見られたい。

「長洲濱」現在の尼崎にあった浜。「尼崎市」公式サイトの『「あまがさき」の由来』に、『長洲浜というのは、当時の猪名(いな)川・神崎川の河口に近い場所で、奈良の東大寺や京の鴨社の荘園があ』り、『大物や尼崎は、その長洲浜のさらに南に形成された砂州が陸地化し、港町となっていった場所で』あると記す。

「食ふと癩病になる」罰として生きながらに地獄の業火に焼かれているとされて差別された「癩病」(らいびょう:ハンセン病)に罹患するなどとというはこれ、行基も悲しむと私は思う。]

 行基はまたその故郷なる和泉國家原寺(えはらじ)の放生池に、殆ど是と同種類の魚の種を殘された。或時此村の若者ども、池の堤に集まつて魚を捕へ、これを肴に酒盛をして居る處へ、ちやうど行基菩薩が還つて御座つたので、戲れに魚の膾を此高僧に強ひた所が、拒みもせずにむしやむしやと食つてしまひ、後で池に向つてこれを吐き出すと、その膾は皆小魚となつて水の上に遊びたり。其よりして今に此池には片目の魚ありと、和泉名所圖會の中に見えて居る。池の名の放生池は生けるを放つであるから、膾を吐いたのでは少々理窟が惡いが、まあざつと是ほど迄に偉い坊樣であつたのである。

最初の一文中の「殆ど」はちくま文庫版全集では大呆けの『ほとんと』になっている(この誤植は複数個所見られる)。これが「全集」を名打つそれの恥ずかしい実態である。「全集」の看板を信ずるなかれ。

「和泉國家原寺の放生池」現在の大阪府堺市西区家原寺町にある高野山真言宗別格本山一乗山清涼院家原寺。ウィキの「家原寺」によれば、『本尊は文殊菩薩。地元では「智恵の文殊さん」として親しまれている』。寺伝によれば、慶雲元(七〇四)年に『行基が生家を寺に改めたのに始まるとされる』。この「放生池」(はうじやういけ(ほうじょういけ))は寺内に現存し、片目の鮒は「行基鮒」と呼ばれているらしい。但し、実際に現在も隻眼の鮒がいるという情報は確認出来なかった。

「膾」「なます」。これには魚貝や獣の生肉をただ細かく切ったものを指し、またそれを調味して酢にひたした料理の謂いである。柳田先生ならずとも、こりゃ、片目じゃなくて、せめて半身の魚として蘇るのでないとおかしいと思う。少なくとも何で「片目」なのかの説明にならんがね。]

 所が又越後の方には斯んな話もある。中蒲原郡曾野木村大字合子(がふし)ケ作(さく)は、舊名は「合子ケ酒」である。その昔親鸞上人此地御通行の折しも、里人其德を慕つて家々より手製の酒を持參し、村の山王神社の境内に於て、之を合せて上人に薦めたによつて此の名がある。其時酒の肴に取添へた燒鮒を、親鸞は少しばかり食べて餘りを社頭の池の中に投ぜられた。その結果として今でも山王樣の古池に住む鮒は、殘らず腹に燒焦げの痕がある。それのみならず池の傍なる上人法衣掛の榎と云ふ古木は、伐つてみると木目に必ず鮒の形が現れると云ふので、此地を親鸞上人燒鮒の舊跡と名づけ、永く信徒に隨喜の涙を揮はしめて居る。

[やぶちゃん注:「中蒲原郡曾野木村大字合子(がふし)ケ作」この地区は行政区分が区レベルで分かれるなど大きく変化しているが、ここは諸データから現在の新潟県新潟市新潟市西区山田であることが判明した(後の引用部も参照のこと)。以下の伝承は「真宗大谷派(東本願寺)越後三条教区ねっと」の「山田の焼鮒 由緒沿革」に詳しい。それによれば、建永二(一二〇七)年二月に後鳥羽上皇の怒りに触れて専修念仏停止(ちょうじ)と浄土宗僧四名死罪、その師法然及び親鸞を含む七名の法然弟子が流罪に処せられ(承元の法難或いは建永の法難と呼ぶ)、親鸞は僧籍を剥奪されて「藤井善信」(ふじいよしざね)の還俗名を与えられた上で越後国国府(現在の新潟県上越市)に配流された(法然は「藤井元彦」の還俗名で土佐国(実際には讃岐国、現在の香川県)配流)。親鸞は国府から移って約三年間、鳥屋野(新潟県新潟市中央区内)に逗留していたが、建暦元(一二一一)年十一月十七日に赦免の沙汰が国府で下るということになり、『村人たちが山王権現の社に集まって別れの宴をした』。『各々が携えた手作りの酒を聖人はひとつの器に移して召し上がられたので、この地はその言い伝えに因んで「合子ケ酒」(ごうしがさけ)とつけられ、後に「合子ケ作」となり、黒崎村と』昭和二三年に『合併して、現在の山田という地名になる』。『そのお別れの宴に、ある村人が持ってきた焼鮒を聖人は御洗水(みたらし)池のほとりの榎に袈裟をかけ、「我が真宗の御法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんば此の鮒、必ず生るべし」と南無阿弥陀仏と言いながら、池に放つとその鮒は生き返ったという言い伝えが残っている』。『聖人はお念仏の尊さが後世の人々にも伝わるように、袈裟を掛けた榎にわが心を残すと言われ、国府に発たれた』。『村人たちは、この榎を「お別れの袈裟かけの榎」と名付け、大切に守ってきたが』、寛政八(一七九六)年に『台風で倒れてしまった』。すると、『その二股に分かれた幹の切り口からお念仏をされる聖人様の姿が現れた』ため、『驚いてもう片方を挽き割わると、お別れに差し上げた鮒が木の芯のどこを切っても中心に現れた』と記す。リンク先では木の年輪に出たという親鸞も御影や焼鮒の刻印の写真も見られる。なお、この「焼鮒」は親鸞の伝説に関わる「越後七不思議」の一つに数えられており、神社近くを走っていた新潟交通電車線(一九九九年全線廃線)には、この伝説に因んだ「焼鮒駅」があった、とウィキの「越後七不思議」にある。]

 片目とは言はない此方の話が、比較的尤もらしいやうに一寸見えるが、考へて見るとちつともさうで無い。元來この種の因緣話は親鸞上人では左程で無いが、戒律の正しかつた如法僧としては、どうしても斯うしても殺生戒を破らせられることが出來なかつたと云ふ結論に導く積りであらう。併し其程の親切があるなら眼はどうしたものか、腹の痣はどうしたものぞ。殊に其鮒の何十代かの後裔にまで難澁を遺傳させるのは、其こそ生殺しでは無いか。其と云ふのが其邊に有合せの口碑を無暗に取込んで、我寺の緣起にしようとするから木に竹の不手際になるので、寧ろ先輩の德を害し、しかも山王樣始め多くの社の傳説を紊して居る。

[やぶちゃん注:「如法僧」「によほふさう(にょほうそう)」は仏の教法にかなった、戒律を厳しく遵守している僧侶。

「紊して」「みだして」と読む。「亂(乱)す」に同じい。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十三)

     十三

 

 我々は沼川を穿鑿して片目の魚の實否を確める前に、先づ土地の人たちがさう云ふ魚に對して、如何なる態度を取つて居たかを見る必要があるやうだ。

 越後では又北魚沼郡堀之内にもこの種の不思議の池があつた。此驛の上手に當つて俗に出入變りの山と呼ぶ山があつた。如何に目標を設けて入つても、どうしても元の路からは出ることが出來ぬと云ふ一種の魔處である。此山の麓に在つて宿の用水の水源を爲して居る古奈和澤の池は、所謂底なし池であつてしかもも此に住む魚類は殘らず片目であつた。捕へて之を殺すときは必ず祟があり、又家へ持つて來て器の中に放して置いても、其晩の中に元の池に還ると云ふことである。さすればめつたに捉へて眼を檢査した者も無いわけである。

[やぶちゃん注:「北魚沼郡堀之内」現在は魚沼市内。旧堀之内町(ほりのうちまち)は広域で下の字名がないと位置を特定出来ない。

「出入變りの山」旧堀之内宿周辺には地図上で見ても幾つものピークがあり、このも同定不能。「古奈和澤の池」は「こなわざは(こなわざわ)」と読んでおく(全集版も同)が、ここから山を逆に特定出来ぬものかと考えたが、この池自体が判らない。実は地図を見ると堀之内周辺には池が驚くほど沢山あって、しかもネット検索でもこの名の「池」を特定出来なかったからである。「宿の用水の水源を爲して居る」というぐらいだから、相応に大きなもので(地図上でそれとなく感じる池はある)、現地ではすぐ判るものとは思うので現地の識者の御教授を乞うものである。ただ、「山」の方は本文が「あつた」と過去形になっているのが気になる。航空写真を見ると、一部の山間部が開拓され有意に平たくなっている箇所が何箇所か見受けられるからである。]

 同國長岡市の神田町民家の北裏手には、もと三盃池と稱する小さな池があつた。サンバイとは多分田の神のことであらう。此池に居た魚鼈もすべて亦片目であつて、食へば毒ありと言ひ傳へて、之を捕へる者が無かつたさうだ。

[やぶちゃん注:「長岡市の神田町」「かんだまち」。現在も同じ。同神田町一丁目に鎮する少彦名(すくなひこな:清音)神社神田囃子保存会公式サイト内の「神田町の紹介」の中に、この近くに永仁年間(一二九三年~一二九八年)『大沼城という城があり、北條仲時の一族の北條丹波左近太夫惟秋』(これあき)『とその子惟明』(これあき)『の二代が居城し、惟明は』元弘三(一三三三)年の鎌倉幕府滅亡の折り、『北條仲時と共に近江国で自害したと言う』とし、この『城の北側(今の安善寺の北側)に大きな池があり大蛇が住んでいて住民に危害を加えた為、山本という槍の名人が退治したと云う伝説(伝説三盃池)がある』とまず記し、後の「神田町にまつわる伝説〔三杯池〕」の項で小山直嗣著「新潟県伝説集成」からの引用として以下の話を載せる(一部にある字空けを総て詰めた)。

   《引用開始》

 昔、神田町は、芦やかつぼが群生する沼地だった。その頃、ここに大きな毒蛇が住んでおり、近くを通る子供達を殺して、生血をすすった。

 人々は恐れて近づかなくなった。するとこんどは夜中に町へ出てきて、人家を襲い家畜などを殺した。困り果てた人々は、「夜もおちおち眠れません。どうぞ毒蛇を退治してください」と長岡藩主に願い出た。

 そこで藩主は、山本某と言う武士に毒蛇退治を命じた。普通の手段では退治出来ないと思った山本は、酒で酔いつぶして退治しようと、毒蛇が通る道に、ふたを開けた三個の酒樽を置き、待機していた。

 すると酒の好きな毒蛇は、そんな企みがあるとは知らず、まず一つ目の酒樽を飲みほし、さらに二つ目も飲乾して、三つ目の酒樽に首を突っ込んだ頃には、酔いが回って動けないようになっていた。

 その機をのがさず山本は、槍をしごいて毒蛇に立ち向かった。数か所に槍傷を受けた毒蛇は、ようやく沼まで逃げ延びたが、ここで毒を吐きながら死んでしまった。

 それからこの沼のそばで、「サンバイ、サンバイ」というと、沼の水が急に波立ち底からぶつぶつと毒気のある泡が湧いてきたという。三杯池とは、これから名づけられたものだが、今では沼の跡形もなく、家並が続いている。

   《引用終了》

なお、文中の「かつぼ」は複数のネット記載から見て、マコモ(被子植物門単子葉植物綱イネ科エールハルタ亜科 Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifolia )の別称と思われる。

「サンバイとは多分田の神のことであらう」柳田國男編「民俗学辞典」の「田の神」の項に西日本では田植えの時期に田の神を「サンバイ」という名を以って祭るとし、島根県の田植え歌ではこの田の神としての「サンバイ」の系統的伝承を語っているとあり、また福井県敦賀市西浦では七夕の日に田の神が天に帰るとして、水神と習合した蛇体の「ユウジン」が「サンバイ上りの日に昇天する」と表現、以下、『德島縣祖谷山(いややま)で田植時に蛇を大切にするのもオサンバイの姿と見たからである。サンバイを田で祭るのは水口祭』(みなくちまつり:苗代祭(なわしろまつり)のこと。苗代を作って籾(もみ)をまく日、一年の豊作を祈って田の水口で行う祭り。水口に花を立てて酒や焼き米を供えて人形(ひとがた)を添えて祀る稲作の予祝行事)『と同じ樣式であつた』とある。しかし「サンバイ」の真の語源は明示されてはいない。

「魚鼈」「ぎよべつ(ぎょべつ)」と読む。「鼈」はスッポンを指すが、ここは広義に魚類と亀の謂い。]

 同じく古志郡上組村大字宮内の一王神社でも、社殿の東の方三國街道を少し隔てゝ田の中 に、十坪ばかりの僅かな沼があつた。明治十七八年の頃に開墾せられ、今は全部田に成つてしまつたが、以前は此池の魚もやはり片目と云ふ評判であつた。最後に片付けた人々はこれを確かめたかどうか知らぬ。此地は元來一王神の春秋の祭に、生牲を供へたと云ふ御加持ケ他の跡であつた。以上の三件は何れも明治二十二三年頃に出た温故之栞と云ふ雜誌の中に見えて居る。

[やぶちゃん注:「古志郡上組村大字宮内」「古志(こし)郡上組(かみぐみ)村」と読む。現在は新潟県長岡市宮内町(まち)。

「一王神社」「いちわう(いちおう)」と読む。現在の同宮内地区内にある高彦根(たかひこね)神社。の旧俗称。個人サイト「玄松子の記憶」の「高彦根神社」の「式内社調査報告」からの引用によれば、『頼朝より神領三千貫文の寄進を得た大社で、別当は真言宗多聞寺・正行寺・西福寺・長福寺。神官は荒木玄蕃、朝日左近、永井左京らが祭祀を掌つた』。天正年中(一五七三年~九二年)に『上杉家家督争ひの御館(おたて)の乱に神領地を没収され、社頭も兵火に焼亡し、別当神官ら四散のやむなきに至つたが、永井家のみとどまつて命脈を保つた。元和二年(一六一八)、領主堀直奇』(ほりなおより)『より村高の内、七〇石の寄進をうけ、後牧野家に引継がれて維新に及んだ。神社の近郊に、寺院跡、観音堂、 天神堂、仁王門などの遺跡名をのこしてゐる。社殿の東に一〇坪程の池があり、これは往古、春秋の祭典に生贄を供 した御加持ヶ池の跡(片目の魚棲息)と伝えるが、今は形跡をとどめてゐない』とある(下線やぶちゃん)。

「三國街道」(みくにかいだう)は中山道の高崎(現在の群馬県高崎市)から分かれて北陸街道の寺泊(現在の新潟県長岡市寺泊地域)へ至る街道。同街道の象徴ともいえる三国峠(みくにとうげ:現在の群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の上越国境の峠)は関東と越後を結ぶ交通路として極めて古い時代から利用されていたらしい。

「明治二十二三年頃」一八八九~一八九〇年。

「温故之栞」「をんこのしほり(おんこのしおり)」という雑誌は正式タイトル『越後志料温故之栞』で発行者は温故之栞刊行會で、初篇が明治二十三年二月の、最終刊と思われる第三十六篇が明治二六(一八九三)年一月の発行である(CiNiiNII学術情報ナビゲータ(サイニィ))のこちらの書誌データに拠った)。]

 此だけの實例を見ても、片目の魚は噂ばかり高くても、常に捕つてはよく無いと云ふ俗信によつて掩護せられ、十分に正體を現したもので無いことは分る。毒が有るなどと云ふのもつまり神樣と緣が絶えて、何故に惡いかゞ不明になつた結果で、恐らくは皆最初は神物なるが爲に平民に手を着けさせなかつたので、右の如き不確かな説を傳へ始めたものであらう。

[やぶちゃん注:「掩護」「えんご」援護に同じい。]

 上州では北甘樂(かんら)郡富岡町大字曾木に片目の鰻の居るところがあつたことが、山吹日記と云ふ紀行に見えて居る。即ち村の鎭守高垣明神社の境内なる淸水の流れで、僅か一町はど下の方で川に注いで居るが、川に入つてからは一匹も片目のものなどは無く、只この間に住む鰻だけがさうだと言ふことで、しかもこの村の氏子どもは、片目と否とに拘らず、一切鰻を口にしなかつたと云ふ話である。

[やぶちゃん注:「北甘樂(かんら)郡富岡町大字曾木」現在の群馬県富岡市曽木(そぎ)。

「山吹日記」幕臣で塙保己一門の国学者奈佐勝皐(なさ かつたか 延享二(一七四五)年~寛政一一(一七九九)年:国学研究の拠点として塙が幕府に建議して作った和学講談所の初代会頭)が天明六(一七八七)年四月十六日に江戸を出発、五月二十三日まで武蔵・上野・下野の三国を旅し、名所旧跡の見学・探訪・調査を記した日記(この旅部分のデータは個人ブログ「城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行」の箕輪初心奈佐勝皐(かつたか)『山吹日記』武蔵・上野・下野旅行の記載に拠った)。彼には他に「古語拾遺攷異」「疑斎」などがある。

「高垣明神社」不詳。一つの可能性として同地区にある曽木神社が候補となる。深草縁夫(ふかくさへりお)氏のサイト「日本すきま漫遊記」の「曽木神社」を見ると、境内に大きな湧水池があり、これが近くの鏑川(かぶらがわ)に流入しているとあって、本文の記載とよく一致するからである。]

 大田淸君の説に依れば、名古屋市正木町の八幡宮は鎭西八郎爲朝の建立などゝ傳へ、以前は大きな森で森の中に池があり、その池に例の片目の鮒が居た。尾張年中行事抄には、此鮒を請受けて瘧を病む者が呪禁(まじなひ)に用ゐたと記してある。御禮には別に二尾の鮒を持參して此池に放つとあるさうだが、其新參の鮒も、程なく片目に成るのかどうかは明瞭で無い。

[やぶちゃん注:「大田淸」不詳。

「名古屋市正木町」「まさきまち」と読む。現在、愛知県名古屋市中区正木町。

「八幡宮」金山駅の西北七百メートル強のところに鎮座する、若宮八幡宮とも称される闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)。ウィキの「闇之森八幡社によれば、『かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになった。名古屋十名所のひとつ』。『創建は長寛年間。源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」がある』。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇。「その他」の項に、『弁財天社のある池のフナはすべて片目で、外から放したフナも片目になるという言い伝えがある』と記す(下線やぶちゃん)。

「尾張年中行事抄」書名に誤りがないとすれば、明和期(一七六四年から一七七一年:第十代将軍は徳川家治、尾張藩は中興の名君と称された第九代藩徳川宗睦(むねちか/むねよし)の治世)の尾張の年中行事の記録を記した「尾張州年中行事鈔」か。

「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]

 之を要するに魚も亦片目のものは常に神物である。伊勢では河藝(かはげ)郡矢橋(やばせ)村の御池、備後では世羅郡吉原の魚ケ池など、單に片目の魚が居ると云ふのみで宗教的關係を傳へぬものも、前者は池の名に由つて、後者はその淵が旱魃に雨を禱る靈場であつて、魚ケ石と稱する大きな石の水に臨んで在ると云ふに由つて、神の祭に此生牲を供へた遺跡であることが察せられる。

[やぶちゃん注:「河藝(かはげ)郡矢橋(やばせ)村の御池」三重県鈴鹿市矢橋。「御池」は「みいけ」であろうか。地図やネット検索では池らしいものは現在の同地区に現認出来ない。

「世羅郡吉原の魚ケ池」次注の神社の位置から見て、現在の広島県東広島市豊栄町(ちょさかちょう)吉原(よしわら)と思われる(旧広島県世羅(せら)郡世羅町(ちょう)吉原があるが、ここは前記の地区の北に接している。この地区にも国土地理院の地図を見ると大小五つの池を確認は出来る)。しかも各種地図や航空写真を拡大して調べるうち、世羅町吉原ではなく豊栄町吉原地区に「魚ヶ筒石神社」という名の神社を発見、しかも豊栄町は曾て世羅郡に所属していたことも判った。柳田國男は「宗教的關係を傳へぬ」とするが、或いは本書刊行の昭和九(一九三四)年六月以降に現在の社殿や神社名が作られたものか? ブログ「東広島ファン倶楽部」の江の川の水源 魚ヶ筒石神社 豊栄町吉原の写真を見るとやや社殿は古く見えはするものの、数少ない外のネット画像を見ると社殿は昭和に入ってからという感じがするショットもある。「片目の魚」の話は現在のネット上では確認出来ず、「魚ケ石」という名も検索に掛からないものの、この「魚ヶ筒石神社」という社名は柳田が指摘しているこの池(沼)と同定して間違いあるまい。神社自身がごく小さな池の中にあり、石を伝って参詣出来る構造になっているらしい(ツイッター画像による)。また西南には道を隔てて三倍強の大きさの池(航空写真で見ると、一見やはり浅く、沼のように濁って見える)も確認出来る。

「前者は池の名由つて」「御池」が固有名で「御」と敬称の接頭語が附されれていることを指す。]

2016/02/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十二)

      十二

 

 就ては此より右の一目の魚と云ふ小恠物の正體も、序にざつと調査して置きたいと思ふ。

 池の中の魚どもが、目の傷を洗つたと云ふ神佛にかぶれて、永遠に片目になつて了つたと云ふのは、いかにも奇恠なる取沙汰には相違無いが、是が亦よく聞く例である。斯う云ふ場合には社家社僧輩の舊記には、普通「其因緣をもつて」とか「此の如き謂れあれば也」とか書くのであるが、考へて見れば其は至つて不精密なる語で、神道佛法何れの教理から推論しても、そんな變妙なる傳染作用が起り得る餘地は無い。強ひて言へば昔の大事件を記憶せしめんが爲に、さう云ふ噂を遺して置いたとでも見られようか。兎に角空な話であるだけに、始めて是を言ひ出した人々の心持が、如何にも面白く且つ意味深く想はれる次第である。

 岡山縣勝田郡吉野村大字美野の白壁の池に、片目の鰻と云ふのが住んで居たことは、東作誌と云ふ地誌に出て居る。昔一人の片目男があつて、馬に茶臼を附けて池の側を通るとて、水中に墜ちて死んだ。その因緣で池の鰻の目は一つとなり、猶雨の降る日などは水の底に茶臼の音が聞えたと云ふ。但し是だけではどうして水に落ちたかと云ふ點が不明になつて居る。

[やぶちゃん注:「岡山縣勝田郡吉野村大字美野」現在の岡山県勝田(かつた)郡勝央町(しょうおうちょう)美野(みの)。

「白壁の池」地図上では同美野地区に複数の池を現認出来るものの、比定は出来なかった。

「東作誌」「とうさくし」。津山藩軍学師正木輝雄(まさきてるお ?~文政六(一八二四)年)が個人的に調査・著述・編集を行った、先行する森家津山藩の公的地誌「作陽誌」が扱わなかった美作国の東部六郡(東南条郡・東北条郡・勝南(しょうなん)郡・勝北(しょうぼく)郡(この二郡は後の明治三三(一九〇〇)年の郡制の施行で勝田郡となった)・英田(あいだ)郡・吉野郡)を対象とした地誌。ウィキの「東作誌」によれば、原型は文化一二(一八一五)年に出来たが、文政六(一八二三)年の死の直前まで編著を行っていたと推定される。正木の死後、『津山藩に献上されたが、複写・活用されることなく死蔵されてしまう』。嘉永四(一八五一)年、『江戸藩邸で儒官昌谷精渓(さかや せいけい)が死蔵されていた『東作誌』を発見。欠本散佚があったため修復して編集し直し、これが現在伝わる『東作誌』の元となっている』。『当時の津山藩は正木の活動に御内用として補助金を支給していたが、あくまで『東作誌』は正木の個人事業であり、費用の多くは自弁で公的許可もなかった。その為、正木は廻村時の他領調査を「潜行」と称している』とある。]

 江州伊香(いか)郡での古い言傳へに、昔郡内の某川に大きな穴が出來て川の水を吸込み、沿岸の農村悉く田の水の缺乏を患ひて居たとき、井上彈正なる者の娘、志願して其潭に飛び込み、蛇體となつて姿を隱すや、忽ち岸崩れて、其穴を埋め、水は豐かに田に流れ入るやうになつた云々。即ち弟橘媛の物語以來久しく行はるゝ、水の神に美しい牲を奉つたと云ふ話の部類ではあるが、猶此地では其娘が片目であつたと言ひ、其故に此川の鯉には今でも一尾だけは必ず一つしか目が無いと言うて居る。一尾だけと言はれては、全部捕り盡してみるまで證據が上らぬから、少しく始末が惡い。

[やぶちゃん注:「伊香郡」「いかぐん」と読む。滋賀県北端にあった旧郡で、現在の長浜市の一部(高月町(たかつきちょう)各町・木之本(きのもと)町各町・余呉(よご)町各町)に相当する。

「潭」全集版は『ふち』と訓じている。

「弟橘媛」老婆心乍ら、「おとたちばなひめ」と読み、記紀に出る日本武尊(やまとたてる)の妃。武尊東征の途中、相模海上(現在の浦賀水道附近)に於いて風波により船が行き悩んだ折り、海神の怒りを鎮めるため、自ら生贄となって入水した。

「牲」全集版は『生牲』となっており、『いけにえ』のルビを振る。こちらは一字であり、私は「にへ(にえ)」(神に供える捧げ物の意)と訓じておく。]

 越後中頸城郡靑柳村の星月宮、俗に萬年堂とも謂ふ社の池にも、片目の魚が居ると云ふ話がある。昔此池の主が艷かなる美女に化けて、月次の市へ買物に出た處を、此國安塚の城主に杢太と稱する武士あつて之を見染め、戀慕止み難くして其跡を追ひ、終に己も此池に入つて了つた。杢太は片目であつた故に、他の群魚今も猶片目であると云ふ。但し此分は誰か實驗して見た人でもあつたものか、越後國式内神社案内と云ふ書に此事を記して後片目では無くして一方の眼に曇りがあるのだと訂正して居るが、さうすると杢太の悲劇はとんと冱えぬものになつてしまふ。

[やぶちゃん注:「越後中頸城郡靑柳村」「靑柳」は「あをやなぎ(あおやなぎ)」と読むようである(後注参照)。現在の中頸城(なかくびき)郡清里(きよさと)村内。

「星月宮、俗に萬年堂とも謂ふ社の池」不詳。取り敢えず「ほしつきぐう」と訓じておく。この一つの候補として現在の上越市清里区青柳にある「坊の池」を池の候補に、現在その湖畔にある、近辺にあった青柳社や辨才天社などを合祀した「青柳(あおやなぎ)神社」をこの宮堂の末裔候補としておく。個人サイト「諸国神社めぐり」の「青柳神社(上越市清里区青柳〈きよさとくあおやなぎ〉)」をリンクしておく。それによれば、この池は古い溜め池であり、龍神伝説も残るとある。リンク先の写真を見ると、柳田が「社の池」と言うにはやや大きい感じはするが、湖畔にある「星のふるさと館」というのはこれ、如何にもこの「星月宮」に相応しい気はするのである。

「月次」「つきなみ」或いは「げつじ」と読む一般名詞(全集版は前者)。毎月。月例。

「安塚」「やすづか」と読む。新潟県南西に位置する旧東頸城郡安塚町(まち)。現在は上越市安塚区(地域自治区)。以下に「城主」とあるが、上杉謙信の生存時には三国街道の軍事的重要地として機能していたと参照したウィキの「安塚町」にある。この城とは恐らく山砦(さんさい)の謂いであろう。

「杢太」「もくた」と訓じておく(全集版も同)。

「越後國式内神社案内」藤原武重著天明二(一七八二)年刊で、「神道大系 神社編三十四」に所収する程度しか調べ得なかった。]

 大蛇が白羽の箭を立てゝ所謂人身御供(ひとみごくう)に美しい女を要求し、或は人の娘の所へ押掛け聟に遣つて來たなどゝ云ふ類の話は、殆ど古い池や沼の數だけく位あるやうだが、自分は必ずしも祭に人を殺した舊慣があつたと云ふ證據に、そんなものを援用せんとするのでは無い。たゞ祭の時神と人との仲に立つて意思の疏通を計つた特殊の神主が、農業に取つては一番利害關係の大なる水の神の祭に、比較的弘く且つ久しく用ゐられて居たらしいことゝ、飮食音樂以外の方法で神の御心を和げ申すと云ふ、今日の人には稍苦々しく感ぜられる思想が特にこの方面に永く殘つて居たらしいことゝは、先づ是で明かになつたやうに思ふので、此目的の爲に指定せられた男女の一目であつたことが只ではあるまいと思ひ、更に其話が魚の片目と若干の關係を有することを、意外な好材料と認めるのである。

[やぶちゃん注:「箭」「や」。

「飮食」「おんじき」と読みたい。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十一)

    十一

 

 議論は別席ですることにして早く話に戻らねばならぬが、其前に尚一つだけ言ひたいのは、何が故に祭の中心人物たる神主の眼を、わざわざ手數を掛けて突き潰す必要があつたかと云ふことである。自分とても是を明確に答へることは能ぬ。昔の人の心持にはまだ如何しても解らぬ點が大分有る上に、當人たちにも根本の理由は呑込めずして、昔から斯うだと言つて續けて居た事も少からぬ筈である。片目にしたからとて別に賢くも淨くも畏ろしくも成つたと考へられるわけは無いと思ふが、或は消極的の側から、さうしなければ神樣がその神主の身に御依りなされぬ、即ち一目で無ければ神の代表者たる資格が無いと云ふ風に、信ぜられて居たのかも知れぬ。

 右の如く推定を下して進むと、更に今一つ以前の時代の信仰狀態をも窺ひ得るやうな氣がする。其を至つて淡泊な言葉で言ひ現はすと、ずつと昔の大昔には、祭の度毎に一人づつの神主を殺す風習があつて、其用に宛てらるべき神主は前年度の祭の時から、籖又は神託に由つて定まつて居り、之を常の人と瓣別せしむる爲に、片目だけ傷けて置いたのでは無いか。この神聖なる役を勤める人には、有る眼りの款待と尊敬を盡し、當人も又心が純一になつて居る爲に、よく神意宣傳の任を果し得た所から、人智が進んで殺伐な祭式を廢して後までも、片目にした人でなければ神の靈智を映出し得ぬものゝ如く、見られて居たのでは無いかと云ふのである。

 此推測には或程度までの根據が有るつもりであるが、猶其當否は一通り證據材料を見た上で決せられたい。實はあまり大膽な説であるから、反證が十分有つて打ち消されて見たいやうにも私は思ふのである。

 話は再び神樣の御眼の怪我と云ふ口碑に復るが、此場合には往々にして神が其傷の眼を洗はれたと云ふ話を伴うて居る。例へば野州鞍掛大明神の神は、自害するに先だつて山崎と云ふ地で目を洗つたと言ひ、信州沙田神社の御神も同じくで、其地を今に御目澤と呼ぶさうである。羽前・羽後には鎌倉權五郎目洗ひの故跡と稱する淸水が、幾つか有つたやうに記憶する。

[やぶちゃん注:「御目澤」現認出来ない。従って読みも不祥。取り敢えず「おんめざわ」と訓じておく。]

 此類の多くの例の中で、一つ自分が珍しいと思つて居るものが東京の近くにある。十方庵の遊歷雜記の中に見えて居る。今の埼玉縣南埼玉郡荻島村の大字野島の淨山寺に、慈覺大師一刀三禮(らい)の御作と傳ふる延命地藏尊があつた。信心の者は請狀を入れて、小兒をこの奉公人にして置くと、丈夫に育つと云ふので有名な本尊である。俗に又片目地藏とも御名を申し、或時茶畑に入つて御目を突かせたまひ、之を洗はんとして門外なる池の水を掬びたまひしより、今に至るまで其他に住む魚はすべて片目であると云ふ不思議が語り傳へられて居る。

[やぶちゃん注:「十方庵の遊歷雜記」小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中見聞録。以下の話は同書の「二編 卷之上」の十五「野島村淨山寺地藏尊」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の当該部分画像を視認して、その「片目の魚」の箇所だけを電子化しておく。読点・中黒点を一部に追加し、読み(底本には読みはない)は私が勝手に歴史的仮名遣で附した。

   *

斯(かく)て淨山寺の表門を立出(たちいで)、門前の池水を見る、大(おほい)さ凡そ拾五六間四方もあるらん、水黃(きば)み、濁り、中央に島あり、大さ二三間、筑山(つきやま)の如し、むかし、地藏尊、茶園にて目を突(つき)、此(この)池水にて目を洗ひ賜ひし因緣にや、此池中に出生する鯉・鮒(ふな)・蛙の類(たぐひ)まで片目となん、竹筒(たけづつ)に入(いれ)て加持して與ふる水は即ち、是(これ)也、

   *

池の広さ「五六間」九・一~一〇・九メートル四方というのはかなり大きい。「二三間」は三・七~五・四五メートルで、「筑山」は築山(つきやま)の謂いであろう。しかも柳田の言と相違して、魚どころか蛙まで片目とある!……しかし……(次注末参照のこと)

「埼玉縣南埼玉郡荻島村の大字野島の淨山寺」現在の埼玉県越谷市野島にある曹洞宗野嶋山浄山寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しい。それによれば貞観二(八六〇)年に求法遍歴の伝説の名僧慈覚大師(円仁(延暦一三(七九四)年)~貞観六(八六四)年:第三代天台座主)が創建、『天正年間まで天台宗慈福寺と号していましたが、僧明山の代に曹洞宗に改宗、德川家康が鷹狩に来た際寺領』三百石の『御朱印状を与えようとしたところ、時の住職が過分であると断ったため、鼻紙に』三石と『記載した朱印状(鼻紙朱印状)を与えられ、浄山寺と改めたといいます』とあり、また『越谷市仏像調査報告書による浄山寺の紹介』の項には『野嶋山浄山寺は「新編武蔵風土記稿」によると』、浄山寺は「『禅宗曹洞派、足立郡里村法性寺末、野嶋山と號す、當寺は貞観二年慈覚大師の建立にて、本尊延命地蔵の立像四尺餘、則大師の作なりと傳へ云、天正年中迄天台宗にて慈福寺と號す、時の住僧を明山と云、此頃里村法性寺四世震龍當寺に勤学せしが、東照宮越ヶ谷邊御放鷹の時、本尊霊験を聞し召され、寺領三石の御朱印を賜はり、此地霊にして山鬱密として浄しと、上意ありて今の寺號を命ぜらるると云、又僧震龍御帰依あるをもて明日の後住となし、曹洞派に改め中興とす、今本尊を片目地蔵と唱ふ、信仰するもの多し。』」『といわれ、三石の朱印状は俗に鼻紙朱印状とよばれるもので、徳川家康の前で住職が「過分なり」として辞したので、家康は袖の中から鼻紙を出し献香料として三石を賜う由を書いて差し出した、と伝えられている』。『本尊の地蔵菩薩は「片目地蔵」とも呼ばれ、伝説によるとこの地蔵は毎朝未明村内を鉄杖を持って起こして歩いたがある朝茶園で切り株につまづき片目を傷つけてしまった。戻って寺の門前の池で目を洗うと、池の魚はみな片目になってしまった』、と伝え、『以後この村では茶の木は作らなくなったといわれている。古くから信仰のあつかった本尊地蔵菩薩は現在秘仏とされている』とある(下線はやぶちゃん)。個人サイト(と思われる)「越谷市のはなし」の同寺の頁には貴重な本地蔵尊像の写真が載るが、片目ではない(洗って治ったということであろう)。また、同頁内の新聞記事画像の中の昭和二七(一九五二)七月十五日附『埼玉新聞』の記事は、これが「片目地蔵」と呼ばれるようになったのは具体的に天文八(一五三九)年頃とし、しかも驚くべきことに、実にこの頃、本地蔵尊は僧に変じて早朝に周辺の村落を回っては村民を起こして働くよう叱咤した、その途次、茶の木に躓いて片目を怪我し、門前の池で洗って癒やしたという記事が載る。しかもその当時の浄山寺の和尚は、地蔵の行脚逍遙を知り、御尊体に『万一のことがあってはと思い、地蔵の背に釘を打ち、鉄の鎖でつない』だところが、『それからというもの』、『地蔵様は出歩くことをやめたが、不思議なことに和尚さんは病気にかかって、ついに死んでしまった』という驚天動地の話が載っている(下線やぶちゃん。しかし! 地蔵が和尚を殺すかッツ?!?)。但し、『片目の魚の住んでいたという池はいまは埋め立てられて田んぼとなっており、昔の面影をしのぶことができないのは残念なことである』と擱筆しており、最早我々は片目の魚も蛙も見ることは永遠に出来なくなってしまったのである。

「一刀三禮」仏像などを彫る態度が敬虔であること。仏像を彫刻する際に一彫りごとに三度礼拝したことに由来する故事成句。]

 魚の片目と云ふことは動物學者の方では必ず認められぬ話で、現に何處の標本室にも陳列せられて居ることを聞かぬにも拘らず、少々の品こそかはれ、そんな魚の住むと云ふ池川は全國に二ケ所や三ケ所では無い。殊に池中の魚が皆其通りと稱し、右の如き因緣を談ずるに至つては、其説の歸納法に由らざりしものなることは最も明白である。

2016/02/17

僕は

僕が老兵のように死なずに隠棲したなんどと思うな――僕はただ自らを呪うことを覚えたに過ぎない――それで、もう――沢山だ――

本日はこれにて閉店

本日は雛飾り作業のため、これにて店仕舞い致します――心朽窩主人敬白

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十)

     十

 

 神樣が何々の植物をお嫌ひなさると云ふ類の言傳へは、多くは忌(いみ)と云ふ語の意味の取違えに基くものと思はれる。神聖な祭の式に與る人々は、一定の期間喪を訪ひ病を問ふ等の不吉な用向は勿論、世間普通の交際にも携はつてはならぬ。或村に於ては此れが爲に一切の外來者を謝絶し、又或社では妻子眷屬までも遠けて所謂別火と云ふをする。是は今日でも物忌と稱へて通用して居る。其と同じ理由で、祭の爲に用いられる靈地は注連を張り或は齋垣(いがき)を繞らして、平日でも人の之を常務に使ふことを禁じ、又祭の供物や用具の類は、特に神物であることを表示して他の品との混同を戒める。其規則をも亦忌と名づけて居たことは、今では忘れて了つた人が多い。

[やぶちゃん注:「訪ひ」「とぶらひ(とぶらい)」で、ここは「弔う」「追善する」の謂い。

「別火」通常は「べつくわ(べっか)」と読む。古代民俗社会に於いては「けがれ」は特に日常に欠かせぬ「火」を介在として「感染するもの」と考えられていたため、神聖な神事を行うための「非日常」たる「はれ」の時空間(祭りの前から後まで)に「けがれ」が侵入感染することを防禦するために、あらゆる場面に於いて「日常」の「けがれた火」を避ける。そのために用いる火は総て新たに「火鑽(ひき)り」によって「清浄なる火」を起こし、「けがれた日常の火」とは「別」の「火」を用いることが厳格に行われる(死穢(しえ)などによって当事者が「けがれている」場合も逆の意味で同様の行為で「けがれた自己」側から外部を守ることは言うまでもない)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)』も是非、参照されたい。]

 忘れる位であるから忌の制裁は甚だしく弛んで居る。併し僅々八十年か百年の前に戻つて考へて見ても、所謂宵宮(よみや)の晩の嚴重さ加減は中々一通りでは無かつた。況や其又昔の世に、由緒有つて神の祭の最も緊要なる部分に用ゐられ來つた草なり木なりが、至つて重い忌の一つに算へられて居たとしても、ちつとも不思議は無いのである。

[やぶちゃん注:「宵宮」「よいみや」とも読む。宵宮祭(よいみやまつり)のことで「夜宮(よみや)」或いは「よど」等とも呼ぶ。一般には祭りの前日に行われる神事祭典或いは普通に公開され人々の参集する前夜祭をかく言うが、現在でも「よみや」と呼称する場合、地方によってはここで柳田が謂うところの、翌日の本祭前夜という特別に神聖な時空間に於ける「忌み籠り」をごく限定的に示すケースも残っている。恐らく古いある時期から神は祭りの前夜に来臨すると信じられるようになったからである。

「緊要」「きんえう(きんよう)」は非常に重要なこと。差し迫って必要なこと。]

 然るに漢字の忌と云ふ語が、日本のイミと云ふ語に、ぴたりと合つて居らぬ爲でもあらうが、忌むと謂へば避ける嫌ふと云ふのと似た意味に取られ、何か緣起の惡い物ででもあるかの如く言ふやうにもなつたが、其は明らかに本の趣意では無い。神樣の方から見れば、忌は即ち獨占である。あまりに有難くあまりに淨いから、只の人の用には使はせぬのである。忌を犯せば犯した人に罰が當るのを、始から有害であるから障らぬものゝやうに考へ出した。其からして神もお嫌ひだと云ふ想像が起り、終に御怪我などと云ふ説明が捻出せらるゝに至つたのである。

[やぶちゃん注:「漢字の忌と云ふ語が、日本のイミと云ふ語に、ぴたりと合つて居らぬ」漢語としての「忌」(解字は「己」が糸筋を整える糸巻きの象形で元は「かしこまる」の意)は動詞としては「憎む」・「妬む」・「恐れる/畏れる」・「憚り嫌う/忌避する」・「避けて行わない/禁ずる」・「畏れ敬う」・「戒める/制限する」・「怨む」で、名詞では「おそれ避けること/行ってはならないこと」・「陰陽道で方位日時などに於いて凶とされて避けるべきこととするもの」・「祖霊の命日」・「戒め/制限/禁制」の意で、以上は大修館書店「廣漢和辭典」を参考にしつつ纏めたものであるが、同辞典には国訓としては『き。親族の死後、一定の期間、心身を慎むこと、また、その期間「忌中」』としかない。即ち、死穢の禁忌による物忌み・忌籠りのみの意を掲げるだけで、正直これは、柳田國男ならずとも「一寸待てぃ?!」と突っ込みたくなる代物である。]

 此類の祭式に或一種の植物のみが限つて用ゐられるのは常の事である。御一物(おひとつもの)と名づけて戸童が手に持ち又は腰に挿すものは、屢々笹薄又は葦であつた。又眼を突くと云ふ風習と何かの關係が有らうと想はれる初春の歩射(ぶしや)の神事に、的を射た矢は梅桃柳桑などの枝を用ゐた社が多く、又葦の莖で作るを例として居たものもあつた。必ず一種の植物と定めてあつた所を見ると、其初に當つては深い理由のあつたことゝ思ふが、遺憾なことには、何れも不明に歸して居るのである。

[やぶちゃん注:「御一物(おひとつもの)」「よりまし」(尸童)の唯一佩く或いは所持する「物」の謂いでるが、実はこれは同時に「よりまし」そのものをも指す語である。現在でも「一物(ひとつもの)」と称し、神社の祭幸の行列の中心に特に粉飾を凝らして美しく装わせ、馬などに乗せた童子を配するが、これは明らかに「よしまし」そのものを指している(この例は東京堂出版の柳田國男監修「民俗学辞典」に拠る)。

「歩射」確かにこうも書くが寧ろここでは当て字である「奉射」(ぶしゃ)の方が分かりが良い。これは言わずもがなであるが、徒歩立ちの弓射なんぞの謂いではなく、魔を祓って豊作を祈るなどの神事祈禱のために、潔斎した射手(本来は神社の神主や神官)が社頭で梓弓で大的を射抜き、その射抜かれた状態を読んでその土地の一年の豊作を占った、正月の予祝行事である御弓(おゆみ)神事を指す。後には武芸奉納へと変化した。御弓始め・御奉射(おびしゃ)・御結(みけつ)・弓祈禱(ゆみぎとう)・蟇目(ひきめ)神事などとも呼ぶ。「騎射」(流鏑馬(やぶさめ)神事)の対語。

「的を射た矢は梅桃柳桑などの枝を用ゐた」老婆心乍ら言い添えておくと、通常の和弓の矢の「箆(の)」(主要本体の棒の部分)は竹製である。]

 但し是等の社に於て、假に氏子が柳なり桑なりを栽ゑぬ風習が有つたとしても、恐らくは神も御嫌ひと云ふ説は起り得ないと思ふ。現に或二三の神社では御神體を刻んである材が桑である爲に、桑樹を栽ゑぬと云ふものがある。此なども固より同じ忌であるが、間違ひの種が無いので單に恐多いからと云ふ風に説明して居る。山城伏見の三栖(みす)神社などは、昔大水で御香宮(ごゝうのみや)の神輿が流れた時、此神之を拾はうとして葦で目を突かれたと傳へて居る。しかも其理由を以て今も十月十二日の御出祭(おいでまつり)の夜は、葦を以て大小二本の大松明を作つて、御出の路を照すのを慣例として居る。神御自身の用には全く忌まなかつた明白なる一證である。

[やぶちゃん注:本文中で三栖神社の御出祭を底本では「十二月十二日」としているがこれは誤りで、全集版でも『十二月十二日』となっており、これ、恐らくは基礎底本以降ずっとの誤記か誤植と思われる。そもそもが本書の後に出る「人丸大明神」の中にここと全く同じ内容を述べている箇所で、三栖神社の『十月十二日の御出祭』と柳田國男自身が正しく記しているからである。現行でもこの祭りは十二月ではなく十月に行われている(後注参照)。特異的に本文を訂した。

「三栖(みす)神社」実は現在はこの神社は二ヶ所ある。個人ブログ「京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内」の『「炬火祭」前の金井戸神社(三栖神社御旅所)』に以下のようにある。『伏見には、三栖神社と呼ばれる神社は』二つあり、『一つは伏見区横大路下城ノ前町にある本社です。もう一つはそこから東、京阪電車の「中書島」近くにある伏見区三栖向町の金井戸神社で、こちらは三栖神社の御旅所になります。三栖神社は、創建等が不明な旧村社ですが、江戸時代の元禄時代から「炬火祭」を行い、三栖一帯の産土社として祀られてきました』。後者の『神社も扁額に三栖神社と記されているように、通称「三栖神社」と呼ばれています。近年、中書島をはじめ周辺の発展により氏子地域が広がったために本社から分離して、南の桃山町金井戸島にちなんで金井戸神社と改名したということです』とある。調べたところ、現在の祭神は天武天皇の他、伊弉諾尊(いさなきのみこと)・応仁天皇である。この「炬火祭」(きょかさい/たいまつまつり)の謂われは、壬申の乱の際に大海人皇子が近江朝廷との決戦に向かう途中でこの三栖の地を通りかかった際、土民らが松明(たいまつ)を灯し、暗夜を照らして歓迎したことに由来するとされている。一時途絶えていたが一九八九年に復活している。現行では例えば昨年二〇一五年の場合は十月十一日(日曜日)に神幸祭(炬火巡行)で始まり十月十八日(日曜日)に還幸祭が行われている。私はここに行ったこともないが、この松明! 恐ろしくでかい! 先に引用させて戴いた方の画像入りの三栖の炬火祭をご覧あれ! それによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更させて戴いた)、『炬火(たいまつ)作りは、祭の一年前に宇治川の河川敷で葦(ヨシ)を六、七千本刈り取って保存することから始まります。これらは点火部分に使うもので、一年の間、寝かして置くことで穂先が開いていくということです。祭の一ヶ月前には、芯の部分となる葦(ヨシ)を刈って炬火(たいまつ)の芯作りが行われます。さらに化粧葦を編み込む等の数回の行程を経て、直径一・二メートル、長さ五メートル、重さ一トンにもなる巨大な大炬火(おおたいまつ)と手炬火(てだいまつ)が完成します』とある。今もちゃんと「葦」が使われているのである。

「御香宮(ごゝうのみや)」現在の京都府京都市伏見区御香宮門前町にある御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ/ごこうぐうじんじゃ)で伏見地区の産土神。主祭神は神功皇后。先の三栖向町の方の三栖(金井戸)神社は西南に一・三七キロメートルである(本社の横大路下城ノ前町の三栖神社は西南西一・九キロメートル)。因みに、ここで柳田が言っているここの神が御香宮の神輿を拾おうとしたのは宇治川と思われる。現在の宇治川は御香宮神社からは南へ八百メートル強、三栖(金井戸)神社は南に四百五十メートル(しかも支流(運河?)が西直近を流れる)、本社三栖神社からは南へ七百五十メートルである。]

2016/02/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(九)

     九

 

 神に祀られた古今の英雄の中でも、殆ど片目を傷ついた爲はかりに祭られるやうになつたかと迄考へられるのは、鎌倉權五郎景政と云ふ武士である。この人の猛勇は自分としてもさらさら疑つては居らぬが、唯その事蹟として生年僅に十六歳の時、鳥海彌三郎なる者に戰場に於て左の目を射貫かれ、其矢も拔かぬうちに答(たう)の矢を射返して相手を殺したことと、之に關聯して友人が顏に足を掛けて目の矢を拔こうとしたのを、怒つたと云ふ話が遺つて居るだけであるのに、九州の南の端から始まつて出羽の奧まで、二所三所づゝこの人を祀つた社の無い國が無い程なのは、全體どうしたわけであらうか。

[やぶちゃん注:「鎌倉權五郎景政」私の大好きな武将である。しかしここはぐっと堪えて取り敢えず、私の――『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社――(鎌倉は坂ノ下にある彼を祀った神社――をリンクさせておこう。

「十六歳」現在鎌倉景政(景正)生没年は不詳であり、これは「奥州後三年記」創作である。

「鳥海彌三郎」以下は「奥州後三年記」の記載に基づくもの。引いて見よう。佐藤弘弥氏の「奥州後三年記」(底本は仙台叢書第一巻奥羽軍記所収の寛文二年印本)に一部に手を加えさせて戴いた。

   *

相模の國の住人、鎌倉權五郎景正といふ者あり、先祖より聞えたかき、つはものなり。年わづかに十六歳にして、大軍の前にありて、命をすゝてたゝかふ間に、征矢(そた)にて右の目を射させつ。首を射つらぬきて。かぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて當(たう)の矢を射て敵を射とりつ。さてのち、しりぞき歸りて、かぶとをぬぎて、景正、「手負たり。」とてのけさまにふしぬ。同國のつはもの、三浦の平太郎爲次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら、景正が顏をふまへて矢をぬかんとす。景正、ふしながら刀をぬきて、爲次がくさずりを、とらへて、あげさまにつかんとす。爲次、おどろきて、「こはいかに。などかくはするぞ。」といふ。景正がいふよう、「弓箭(きうぜん)にあたりて死するは、つはものゝのぞむところなり。いかでか、生ながら足にて、つらをふまるゝ事はあらん。しかじ、汝をかたきとして、われ、爰にて死なん。」といふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかゝめ頭ををさへて矢をぬきつ。おほくの人、是を見聞、景正がかうみやう、いよゝならびなし。

   *

さて、この「鳥海弥三郎」(てうかいやさぶらう(ちょうかいやさぶろう)」という武士、これがまあ、なんと、あの阿部貞任の弟阿部宗任の弟の別名ともされるのである。彼は宮城県亘理郡の鳥海の浦が生地と比定もされ、それに因んで「鳥海弥三郎宗任」と称しもしたからである(但し、めんどくさいことに矢が刺さったのは鳥海の方で、景政を射殺したとする逆伝承も残るので注意が必要)。文中の「つらぬき」とは毛皮で作った乗馬・狩猟用の浅沓(あさぐつ)で、縁に緒を貫き通して足の甲の上で結ぶようにしたもの。即ち、土足のままで景政の顔を踏んで矢を抜こうとしたのである。]

 其は猶後の問題として、自分が先づ疑ふのは片眼の怪我は神の在世中の出來事なりとする斷定である。是は明らかにすべての神は元皆人であつたと云ふ説から出發して居るが、大いに危ないものである。大蛇を祀つた鳥を祀つたと云ふのは假に無學者どもの造説であるとしても、然らば淵を家とし森を住居としたまふ水神山神は如何か。神代卷の大昔からすでに神の名を以て仰がれて御座つた方々に、其樣な慌だしい人間生活が曾て有つたと見られるか。少なくも後世の者に其樣な事を想像させる餘地が有るか。殊に一柱にして數十の村々に祭られたまふ御神が、只一社に於てのみこの事を傳へられたまふは何と説明するか。其説明ができぬものだから、話の全體を併せて總て虛誕だとい言ひたがる。困つたものである。

 自分等の見る所は至つて簡單である。是はもと祭の折に或一人を定めて神主とし、神の名代として祭の禮を享けさせた時、其人間に就て起つた出來事に他ならぬ。生(なま)の魚鳥や野菜などの、我々風情ですら臺所へ廻して半日も待たねば口にし能はぬやうな品物を、高机に載せてお薦め申すごとき新式の祭典ばかりを見た人には分るまいが、昔は御饌と言へば飯も汁も皆調理がしてあつた。今とても昔風を保ち得る田舍の社ではさうして居る。それを潔齋した淸い童男又は童女が、其日ばかり神になつて神として之を食したのである。尸童(よりまし)を神と見る信仰の堅かつた時代には、同時に色々の願いや問を申して、其口から神意を聞いたのである。神樣が片目を潰されたと云ふ事實は、其御代理の身上にあつたことゝ思ふ。

[やぶちゃん注:遂に柳田國男の「一つ目」の、すこぶる印象的な民俗学的象徴的意義の核心に入る部分である。

「高机」「たかつくえ/たかづくえ」と訓じているか。神道で神饌などを捧げるための八足(はっそく)などと称するテーブル状の高い台を指すのであろう。

「尸童(よりまし)」平凡社「世界大百科事典」には、「依坐」とも書く。『神霊が童子によりついた場合をいう。神霊が樹木や石などによりついたときには依代(よりしろ)という。神霊ではなく死霊がついた場合は尸者(ものまさ)と呼ばれる。神の意志は清純な童子の口をかりて託宣(たくせん)として示される』とあり、『尸は「かたしろ(形代)」。祖先を祭るとき、神霊のかわりに立って祭りを受ける者。これには児童をもってあてられたので尸童と書く』と小学館の「日本大百科全書」にはある。即ち、この「尸」は原義の死骸の謂いではなく、「神の身代わり」の謂いの、極めて特異的限定的意味である。

 第二に問題とすべき點は神の御怪我と云ふことである。神又は行末は神と祀られようと云ふ方々に、此の如き粗相の屢々有り得べからざるは勿論、一日一時の間なりとも身に神の憑(かゝ)つて居る人間にして、到底怪我などが有らうとは考へられぬ。是は未來を洞察したまふ神の御力が曇つたものと解せられて、尊信の念を根底より覆へすべき大事件であるが故に、さう推定するばかりでは無く、偶然の出來事にしては餘りに同じ例が國々に數ある所から先づ疑ふのである。

[やぶちゃん注:「神の憑(かゝ)つて居る」「かゝ」の読みはママ。全集版では『憑(よ)つて』と振られてある。]

 甲地から乙地へ移し又は模倣した證跡が無くして、同じ例が滿々に有れば風習と見るより外は無い。風習は中絶して少しく年を經れば動機が不明になる。原因が不明で事柄のみの記憶が殘れば、時代相應智力相應の説明が案出せられるのは當然である。

 そんなら如何なる風習が昔有つて、其が此の如き奇拔にしてしかも普通なる傳説を生ずるに至つたかと云ふと、是も無造作に失する斷定と評せられるか知らぬが、自分などは或時代迄、祭の日に選ばれて神主となる者が、特に其爲に片目を傷け潰される定めであつた爲で、口碑は即ち其痕跡であらうと思つて居る。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(八)

     八

 

 村の人と云ふ者は、思ひ違いはしても虛誕(うそ)はつかぬ者と自分などは思つて居る。殊に轉んだの目を突いたのと、少々はわが神の御威信にも關わることを、皆が口を揃へて言ふのにはわけが無くてはならぬ。今時の人の空想にてんから浮びさうも無い所謂面白くも無い話を、假に誰かが思ひ付いたとしても、受けられる道理が無い。誤解は必ず有るであらうが、何か基づく所の有つたものと見るのが至當である。

[やぶちゃん注:「虛誕」「うそ」は当て読み。本来は「きよたん(きょたん)」で、根拠のないことを大袈裟にいうこと・出鱈目・法螺の謂い。]

 さうなると今少し細かく此話を分析して見る必要が生じて來る。第一に問題になるのは片目を怪我せられたのは果して神樣かと云ふことである。怪我は人間界の事實で神は超人間であるが、二者は如何にして相結合するのであるか。

 或はこの出來事を以て、神がまだ只の人間として此浮世に生きて御座つた時代に起つたものと解するであらう。其にも都合のよい例は無いでは無い。例へば武州妻沼(めぬま)町の有名な聖天樣は、昔松の葉で眼球を突かれたと云ふので、妻沼十三郷の人民は松を忌むこと甚だしく、庭にも山にも此木を栽ゑぬは勿論、門松の代りには榊を立て、什器衣服の模樣にも一切松を用ゐず、屋號にも人名にも此文字をさへ避けると云ふ。是は足利の丸山瓦全君その他の人の話であるが、又一説には眼を突いた人は御本尊では無くして、此聖天樣を護持佛として居た齋藤別當實盛であるとも言ふ由、三村竹淸氏は語られた。實盛は人も知る如く中世の勇士で、死して後其靈が稻の害蟲となつたと傳へらるゝ人である。白髮を染め錦の直垂を着て、加賀の篠原で討死をした時には、首實檢があつたやうだが、別に眇目の沙汰も無かつたのを見ると全快であらう。妻沼では雉子が來てその眼の傷を嘗めた故に、爾來今に至るまで此鳥を大切にすると云ふ口碑もある。

[やぶちゃん注:「武州妻沼(めぬま)町」妻沼町(めぬままち)は埼玉県北部の旧大里郡にあったが、『新しい熊谷市の一部となって消滅した。町名は中世の女沼が近世になって目沼となり、さらに妻沼となった』とウィキの「妻沼町」にある。

「聖天」埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗聖天山歓喜院(かんぎいん)長楽寺。ウィキの「歓喜院(熊谷市)」によれば、『日本三大聖天の一つとされる。一般には「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん )」と称されることが多い。「埼玉の小日光」とも呼ばれ(熊谷市の案内では本殿が国宝に指定された頃より「埼玉日光」としている)、参拝客や地元住民からは「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている』。寺伝では治承三(一一七九)年に、後に出る通り、『長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後』、建久八(一一九七)年には斎藤別当実盛の次男である実長が出家の後なった良応僧都が『聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたと』伝える(或いは「眼を突いた」のはこの開山たる良応という可能性はないか?)。

「齋藤別當實盛」以下は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』の詳細を極めた(つもりである)注を参照されたい。]

 雉子から聯想せられるのは、此地からさほど遠く無い下野安蘇郡戸室の鞍掛大明神は、 足利中宮亮有綱の靈を祀ると傳へられて居る。有綱遺恨の事あつて足利矢田判官と赤見山に戰ひし時、山鳥の羽を矧いだる流失一つ飛び來たつて左の目に中る。有綱は其痛手を忍んで戸室郷まで落延び、山崎と云ふ地でその目の傷を洗ひ、終にそれから二三町西手の處で自害して果てた。然るに此地方でも入彦間(いりひこま)と云ふ村などでは、足利忠綱が山鳥の羽の箭で射られたと稱して、人民が山鳥を食ふことを忌んで居る。この話は安蘇史と云ふ書に出て居る。

[やぶちゃん注:「下野安蘇郡戸室」「しもつけあそぐんとむろ」と読む。栃木県旧安蘇郡田沼町戸室、現在の栃木県佐野市戸室町(ちょう)。

「鞍掛大明神」個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「鞍掛神社」によれば、現在の佐野市戸室町の県道二百一号線沿いにある鞍掛神社である。『一の鳥居には「正一位鞍掛大明神」との額が掛かっている』とある。祭神は神武天皇の父とされる鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)他(リンク先にも出るが、他のサイトでも確認した)。佐野市公式サイト内の「戸室のお宝・自慢」には創建は文治二(一一八六)年とある。他のサイトには同年、ここに出る足利有綱がこの地で没してここに合祀したともある。

「足利中宮亮有綱」「中宮亮」は「ちうぐうのすけ(ちゅうぐうのすけ)」と読む。下野国の住人足利(戸矢子)七郎有綱。藤原姓足利氏で、寿永二(一一八三)年の源頼朝ら幕府軍と頼朝の叔父志田義広らが争った野木宮(のぎみや:現在の栃木県下都賀郡野木町)合戦で志田側についた足利俊綱の異母弟。しかし有綱は子佐野基綱とともに秘かに幕府方小山朝政の陣営に参じている。本文と前の佐野市の公式サイトによるならこの三年後に内輪の私戦によって自死したことになる。この人物、野木宮合戦以降の事蹟がはっきりしないのでこれ以上語れない。

「足利矢田判官」不詳。通称を矢田判官代(やたのはんがんだい)、足利太郎とも呼ばれた源義清(?~寿永二(一一八三)年))がいるが、没年から見て彼ではあり得ない。或いはその子息などの縁者か? 識者の御教授を乞う。どうもこの伝承自体がやや胡散臭い気がなんとなくする。

「赤見山」現在の佐野市西部の赤見町にある東山のことか。

「矧いだる」「はいだる」。鳥の羽根や鏃(やじり)を竹に付けて矢に作る、の意。

「山崎と云ふ地でその目の傷を洗ひ」この目を洗ったとされる井戸が現存する。個人ブログ「BECCAN blog」の御目洗井戸 omedo-ido で画像と地図が見られる。なおこの記載の案内板からという箇所を見ると「足利矢田判官」の本来の姓はやはり「源」らしいように記してある。

「入彦間(いりひこま)と云ふ村」現在の群馬県の桐生川上流域の旧村名か。桐生は群馬県であるが、栃木県足利からは西北直近である。

「足利忠綱」(長寛二(一一六四)年?~?)は前に出した足利俊綱の子。ウィキの「足利忠綱によれば、『鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の嫡流』で、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)を本拠とした。『治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将』。『藤姓足利氏は下野国足利荘を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されていた』。治承四(一一八〇)年の『以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。忠綱は』当時未だ十七歳であったとするが、『一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。宇治川の戦いでは先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた』。『忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出た。しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった』。巳の刻(午前十一時頃)から未の刻(午後一時)までの間の、午の刻の間だけ『上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる(『源平盛衰記』)。藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、一時的に源頼朝に帰順していた形跡が見受けられる』。その後、養和元(一一八一)年になると、『現地で競合する足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、佐位七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど結束が崩れ、藤姓足利氏を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった』。寿永二(一一八三)年二月、『忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野国山上郷龍奥に籠もった』。『その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いた』後は、消息不明となった。同年九月、『頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った』が、『俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害され、藤姓足利氏の宗家は滅亡した』とある。「吾妻鏡」では、『忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。なお、忠綱は平氏方として西海に赴いたとされるが、「頼朝に背いた先非を悔い」平氏方に加わるというのは腑に落ちない行為であり、汚名返上のために平氏追討軍に参加したとも考えられる』。「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年四月十五日の条は『無断任官者を列記した周知の記事であるが、頼朝に「本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼の人かな」と罵倒されている兵衛尉忠綱は境遇が一致しており、足利忠綱の可能性もある』もと記す。

「安蘇史」明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊荒川宗四郎著か。]

 この郡には今一つ驚くやうな類例がある。其は旗川村大字小中の人丸大明神に關するもので、安蘇史の記す所に依れば、昔柿本人丸と云ふ人、手傷を負うてこの里へ落ちて來て、小中の黍畑に遁げ込んで敵を遣り過し難を免れたが、その節黍殼の尖りで片目を潰し、暫く此地に留つて居たことがある。其緣を以土人人丸の靈を社に祀り、柿本人丸大明神と稱し、以來此村では黍を作るのを禁ずることになつたと云ふ。歌の聖の柿本人丸が目一つであつたと云ふことは他の記錄には無いから、事によると此落人は僞名かも分らぬが、それでも將來に向つて永く作物の制限を命令して居るのである。

[やぶちゃん注:「旗川村大字小中」「旗川村」は「はたがわむら」と読む(旗川は現行では栃木県佐野市を流れる渡良瀬川支流の河川名と同地区名)。現在の栃木県佐野市小中町(こなかちょう)。

「人丸大明神」人丸神社として現存する。歌聖乍ら生涯の不明な謎の柿本人麻呂(平安以降は「人丸」表記が多い)には伝説が日本各地に散在し、彼を祀る社や祠は数多い。]

 斯ういふ話ばかりを見て居ると、神が眼を傷つけたと云ふのも在世中の一の逸話で、人間としてならば氣の毒でこそあれ怪我は恠しむに足らず。猶進んでは其樣な壯烈な傷をした爲に、一段敬慕の情を強めたものと見られぬことはない。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(七)

     七

 

 是が米麥の類であつたらそれこそ大事(おほごと)であるが、幸ひにも多くは其以外の農作物で、物堅い氏子の家で今以て栽培を禁じて居るものが各地にある。其理由を聞くと、單に鎭守樣がお嫌ひなさるからと云ふばかりで、どうしてお嫌ひになつたかは忘れてしまつたものも隨分多いが、偶々其わけは斯う斯うと言ふのを聞けば、即ち皆言合せたやうな御眼の怪我である。

 東上總では一帶に小高姓の家で大根を作らなかつたと、房總志料と云ふ書に見えて居り又同續編には夷隅(いすみ)郡小高村の小高明神の氏子、並に同郡東小高村の鎭守大明神の氏子の者悉く大根を作らぬとある。此風習は今日までもずつと繼續して居ると云ふことで、内田醫學士の著はされた南總之俚俗に依れば、其理由と云ふのがやはり略同じであつた。昔小高區の鎭守樣は大根に躓いて轉んで、茶の木で眼を突かれたから、其故に部落中一戸も殘らず、大根は作らぬのみならず、稀に道側に自生して居るものを見付けても大騷ぎで、村中集まつて御祈禱をする位であると書いてある。

[やぶちゃん注:「小高」ここでは後の地名から、取り敢えず「おだか」と訓じておく。

「房總志料」江戸中期の儒者で上総国夷隅郡長者町(旗本領。現在のいすみ市長者町)生まれの中村国香(くにか 宝永六(一七一〇)年~明和六(一七六九)年)が安房・上総の名所・旧跡・伝承を調べ上げた地誌。

「小高村」現在のいすみ市岬町(みさきちょう)東小高(ひがしおだか)。

「小高明神」同地には高市皇子(たけちのみこ)を祭神とする東小高神社現存するが、これが同一のものかどうかは確認出来なかった。識者の御教授を乞う。

「内田醫學士の著はされた南總之俚俗」柳田國男の「日本の昔話」(昭和五(一九三〇)年刊)の上総長生郡の「竃神の起り」について、samatsutei氏のブログ「瑣事加減」の「柳田國男『日本の昔話』の文庫本(09)」に本話の採集元文献として『「南総の俚俗」内田邦彦』とあるのがそれであろう。国立国会図書館の書誌からは、当該書が大正四(一九一五)年桜雪書屋刊であること、内田邦彦なる人物は清楓と号すること、明治一四(一八八一)年生まれで昭和四二(一九六七)年没であること、他に「津軽口碑集」「津軽口碑集」などの民俗資料を著わしていることしか判らなかった。]

 信州の胡麻と胡瓜の類例から推せば、第一にけしからぬのは茶の木で無ければならぬのに、上總では專ら大根の方を責めて居るのはどうしたものであるか。一見して理窟が通らぬやうに思はれるが、そこが又自分等の眼を着ける所で、一眼の恠の同時に一足であつた如く、眼の怪我には又足の失敗を伴なふと云ふ點に、何か共通の理由が潛んで居るのかも知れぬとして考へて見たいのである。

 里内勝治郎氏の通信に依れば、近江栗太郡笠縫村では一村今以て麻を植ゑず、植ゑても生育せぬ。其仔細は大昔この地に二柱の神降臨ありし時、附近に麻があつて神之を以て眼を傷つけたまふ。其よりして此郡の天神宮の御神體も、今に御眼より涙を御出し成されると云ふ。是は甲の神が眼を痛めて乙の神の眼から涙が出た例であるか、はた又神御自身の御怪我が、御靈代たる御像に移つたと云ふのか、今一應尋ねて見なければ精確でない。

[やぶちゃん注:「里内勝治郎」滋賀県南西部の栗太(くりた)郡手原(てはら)村(現在の栗東(りっとう)市手原)で呉服商を営んでいた独学の郷土史家二代目里内勝治郎(明治七(一八七四)年~昭和三一(一九五六)年)。郷土資料の外、江戸の絵図・地球儀・世界図・村地図などの膨大なコレクションを私設の里村文庫として公開していた(明治四一(一九〇八)年開館・昭和二一(一九四六)年閉館)その約二万点に及ぶ資料は現在、栗東歴史民族資料館に収蔵されてある(以上は個人ブログ「ケペル先生のブログ」の「里内勝治郎」を参照した。リンク先には肖像写真や里村文庫の旧写真もあり、必見)。

「笠縫村」「かさぬいむら」と読む。現在の草津市中心部の北西、琵琶湖の沿岸、葉山川の河口域に当たる上笠地区か。

「此郡の天神宮」同定出来ず。識者の御教授を乞う。

「御靈代」「みたましろ」。]

 美濃加茂郡大田町では、五月五日の日に綜(ちまき)を作つてはならぬ風習がある。其由來と云ふのは、今は郷社加茂縣主神社と稱する加茂樣が、大昔騎馬で戰に行かれた時、過つて馬から落ちて、薄の葉で片目を怪我なされた。粽は薄の葉で包む物であるから、それで今に綜をこしらえぬのであると云ふ。怪我をなされた神樣が馬に乘つて居られた一例である。戰といふのは騎馬とあるのから出た話と見るの外は無い。是は林魁一君の報告である。

[やぶちゃん注:「美濃加茂郡大田町」現在の岐阜県美濃加茂市太田町。高山本線美濃太田駅のある木曽川右岸。

「郷社加茂縣主神社」「縣主」(あがたぬし)と読む。旧加茂郡太田町、現在の岐阜県美濃加茂市西町にある神社。彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう:開化天皇の皇子で律令制以前の加茂郡には朝廷の直轄地(県(あがた))が置かれて鴨(かも)県主が治めていたと考えられているが、彦坐王はその祖先に当たり、祈雨に霊験があるとされる。公にはあまり事蹟は伝わっていない)を祭神とする。ここに馬が出るが、参照したウィキ縣主神社美濃加茂市によれば、曾ては九月九日を『例祭日とし、神輿渡御や競馬が行われる盛大なものであった』とある。

「林魁一」(はやし かいち 明治八(一八七五)年~昭和三六(一九六一)年)。岐阜出身の考古学者。岐阜中学卒。坪井正五郎の指導で研究を始め、明治三十年代の初め頃から郷里の美濃東部や飛騨地方を調査して論文を発表、有孔石器・御物石器(ぎょぶつせっき/ごぶつせっき:繩文時代の磨製石器であるが、宮中に献上されたためにこの名を持つ。太い棒状であるが中央よりやや片方寄りに縊れた部分があってそこから細くなっており、全体は鉈のような形状を成す。また、文様も施されている)を発見したことで知られる。著作に「美濃国弥生式土器図集」。]

 遙に懸け離れて伯耆日野郡の印賀(いんが)村では、同じ理由を以て全村竹を栽ゑ無いさうだ。原田翁輔氏の話に、昔此村の樂福(さきふく)神社の祭神、竹で眼を突いて一眼を失われたと云ふ言傳へで、其爲に竹は一切國境を越えて、出雲能義郡の山村から、供給を仰ぐことになつて居ると云ふことである。

[やぶちゃん注:「伯耆日野郡の印賀(いんが)村」現在の鳥取県南西の内陸部にある日野郡日南町(にちなんちょう)印賀。日南町でも最北部にある。曾ては印賀鋼(鉄)の生産地として知られた。

「原田翁輔」不詳。

「樂福(さきふく)神社」少なくとも現行の名称では「樂樂福(さきふく)神社」が正しい。同神社公式サイトの由緒略記によれば、日南町宮内に鎮座(最近まで日野川を隔てて対岸に(西)樂樂福神社が鎮座し、本社と共に二社一対の祭祀が続けられていたが、合祀されて一社となっている)。人皇第七代孝霊天皇を主神とし、皇后・后妃・皇子一族を祀る。創建は千百年以上の昔と伝わる屈指の古社で、古くは鉄生産の守護神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神。孝霊天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞き、一族を従えてその邪鬼を退治したという伝説が伝わる。「中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会」の公式サイト内の「山陰観光ガイド」の樂樂福神社に『日野郡三楽楽福神社のひとつで、別に伯耆町の楽々福神社、日南町西楽楽福神社がある。孝霊天皇が長年住民を苦しめた鬼退治に成功したという縁起は共通するが、この地域には、祭神が竹で目を突き一眼を失ったので「この土地では竹を植えない」、また御神体が朴(ほう)の木で出来ていることから「朴歯の下駄は履いてはならない」との言い伝えが今もなお残されている』とこの「竹」の話が出る。

「出雲能義郡」「のぎぐん」。現在の島根県安来市。鳥取県日野郡の北に接している。]

 この最後の例で注意すべきことは、樂福神社は日野郡では殆ど各村に祀られたまふ社でしかも印賀村のが其本社と云ふのでは無い。加茂でも天神でも同じことかも知れぬが、一の神樣が五箇所も八箇所にも勸請せられてある場合に、其内の一社でのみ眼を怪我せられたと云ふのは、どう云ふ結果になるのであらうか。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(六)

      六

 

 今若し兩眼の一を盲して居るのを名づけて一目(ひとつめ)と謂ふたとすれば、神樣の一目も決して珍しい話では無い。又確とした社も無いやうな山神樣のみには限らぬのである。

 勿論斯んなことは神社の記錄に出て居るわけでも無く、又國學院でも出られた程の神官ならば、必ず之を否認せられるに相異無いが、如何せん氏子がさう言ふのである。氏子の中でも一層神と親しい老人たちが言ふのだから仕方が有るまい。さうして又其を聞書きした書物なども段々殘つてゐる。

 自分の郷里などでも、何村の氏神さんはかんちぢやさうなと云ふ類の話を、幼少の折に屢々聞いて居る。それが多くは最初からさうだとは言はず、不思議なことには隣村の鎭守と喧嘩をして石を打たれた爲と云ふやうに、何れも或時怪我をしてさうなつたと云ふことになつて居る。

[やぶちゃん注:「自分の郷里」既注であるが柳田國男の故郷は飾磨(しかま)県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川)。]

 此點を是から些し考へて見たいと思ふ。お斷りをする迄も無いが、自分は決して此類の言傳へある村々の神を以て、かの一目入道等の徒黨だと論ずるのでは無い。只妖恠だからどんな顏をして居てもよいやうなものゝ、人間の形である以上は、額の眞中に圓が一つと云ふことは有るまじきやうに思はれ、事に依ると以前はこれも山神の眷屬にして、眇目と云ふことを一つの特徴とした神のなれの果てでは無いかと推測し、他の方面にも神の片目と云ふ例は無いか、あるならどう云ふ樣子かと云ふことを、參考の爲に調べて見るだけである。氣樂だけれども是も一つの學問には相異無いのである。

 神樣が一方の眼を怪我なされたと云ふのは、存外に數多い話である。失禮ながら讀者の中には、まだ其を我在所だけの珍話だと思つて居られる人が有るかも知れぬ。

 さて是をどう解釋してよいかは、先づ幾つかの同じやうな例を列べて見た後にした方が便利であらう。自分の得た例は信州のものが最も多かつた。同じく平瀨君の報告によると、松本市宮淵に在る勢伊多賀(せいたか)神社の氏子たちは、此神降臨の時栗の毬で御眼を突かれたと言ひ、それ故に村内には栗樹決して生ぜず、栽ゑて若し生長すれば、其と反比例にその家が衰徴すると信じて今でも之を栽えず、東筑摩郡島立村の三の宮沙田(いさごだ)神社の氏子には、此神樣松で眼を傷つけられたと云ふを理由として、正月に門松を立てぬ家が少なく無いさうである。

[やぶちゃん注:「勢伊多賀(せいたか)神社」長野県松本市宮渕(みやぶち:現表記)にある。

「毬」老婆心乍ら、「まり」ではなく「いが」と読む。

「沙田(いさごだ)神社」現在は編入して長野県松本市島立(しまだち:全集版にルビがないのは不親切である)三ノ宮となっている。ウィキの「沙田神社」によれば、祭神は彦火火見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・沙土煮命(すいじにのみこと:神世七代第三代の神で、本来は男神「うひぢに」と、この女神「すひぢに」の二神一柱。それまでが独神であったのが、この代で初めて男女一対の神が出現する。神名の「う」は泥(古語で「うき」、「す」は「砂」の意味であるから大地が泥や沙によってやや形を成し始めた様子を表現したものであるとウィキの「ウヒヂニ・スヒヂニにはある)。この三神は『穂高系の神(海神系・天津神系)と見られているが、当社は御柱を建てる諏方神社系の祭祀も行なっている』。『なお、祭神を景行天皇皇子の五十狭城入彦命』(いさきいりひこのみこと)と伝える説もあるという。『社伝によると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現・松本市波田鷺沢)に鎮座していたとい』い、大化五(六四九)年に『信濃国司が勅命を奉じ初めて勧請して創祀』、その後、大同年間(八〇六年~八一〇年)に『坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐にあたって、本社の神力が効したとして国司と共に社殿を造営したと伝える』。『以上の伝承から、当社は波田から流れ出る梓川の水霊を祀ることに始まったと見られ』、『鷺沢の旧跡地と伝わる地には当社の奥社が立っている。また、現在の本社は梓川の水を引き入れた古代条里的遺構の上にあり、当地開発当初からの古社であるとも推定されている』とある。]

 神が眼を突かれたと云ふ植物は、他の例では妙に農作物が多い。小林乙作君の話に、同じ信州の小縣郡浦里村大字當郷管社の鎭守樣に合祀せられてある神樣は、昔京都からこの地へ御入りの時に、胡瓜の蔓に引掛つて轉んで、胡麻の莖で御眼を突いた。其からして胡麻を作ることは禁制で、今も百七十戸の部落が一戸も之を栽える者が無い。此附近には猶五六ケ處でも胡麻を氏子に作らせぬ社がある。其神樣は一々違ふが、御眼を突いたと云ふ話だけはみな一樣である云々。

[やぶちゃん注:「小林乙作」不詳。識者の御教授を乞う。読みは「おとさく」か「おつさく」。

「小縣郡浦里村大字當郷管社」「大字」(おほあざ(おおあざ))と「字」(あざ)のポイント落ちは底本の表記(以下、この注は略す)。「小縣(ちいさがた)郡浦里(うらさと)村大字當郷(たうがう(とうごう))」と読む(「管社」の読みは不明。後述)。浦里村は現在の上田市北西部の国道百四十三号沿線及び青木村大字当郷に相当するが、その後者。「管社」はバス停名であるが読みは幾ら調べても判らぬ。しかしごく近くに冠者(かんじゃ)岳という山があるから、これで「かんじや(かんじゃ)」と読ませるのかも知れない。因みに全集版にはやはり不親切にもルビがない。言っておくが、ちくま文庫版は編者が読みを勝手に追加している。追加するなら、ここや先の「しまだち」に打たないのは編者として失格であると私は断言したい。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(五)

    五

 

 一目小僧の目の在り處に就いても、考へて見れば又考へる餘地がある。通例繪に描くのは前額の正面に羽織の紋などのやうに附いて居り、自分も亦さう思つて居るが、それではあまり人間離れがして、物を言つたとか笑つたとか云ふ話と打合わぬのみならず、第一に眼と言へば眼頭(めがしら)と眼尻(めじり)がある筈であるが、左右どちらを向けて良いかも分らぬ。それだから竝外れて眞圓な眼を畫などには描くのであらうが、其にしても長い舌に始まつて鼻筋の眞通りに、一直線に連なつて居ては顏の恰好を爲さぬ。

[やぶちゃん注:この辺りで、読者の中には、私が早く先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)について語らないか語らないかと待っているフリークス嗜好の異常な諸君もいるかも知れぬが、それは最後の最後にしたい。そもそも柳田國男の論考は糞フリーキーな未確認生物実在の証明なんぞではないからである。それから小児科カラーアトラスで実際の単眼症の画像を見たら、それは軽々に語れるものではないことも言い添えておこう。

「眞圓」全集版では『まんまる』とルビする。]

 近世或は此點を苦にした人もあつたと見える。南路志續編稿草の中に抄錄せられた怪談集と云ふものに、又土佐の人の談として次の如き説がある。山爺と云ふ者は土佐の山中では見た人が多い。形は人に似て長(たけ)三四尺、總身に鼠色の短い毛がある。一眼は甚だ大にして光あり、他の一眼は甚だ小さい。ちよつと見れば一眼とも見える故に、人多くは之を知らずして一眼一足などゝ謂ふのである。至つて齒の強い物で猪猿などの首を人が大根類を喰ふ通りにたべるさうだ。狼は此者を甚だ恐れる故に、獵師は此山爺を懷けて獸の骨などを與へ、小屋に掛けて置く獸の皮を狼が夜分に盜みに來るのを防がせる云々。いくら片方が小さくとも、一寸見ては一目に間違ふと云ふ二目は無いと思ふが、此ならば先づ一目と謂ふは、極めて人間の眇者(すがめ)に近似した者だと云ふことになつてかたが付く。

[やぶちゃん注:「南路志續編稿草」先に注した文化一二(一八一五)年の高知地誌大叢書「南路志」を受けて明治以降に高知県史誌編輯係によって編せられた近代のものと思われる(高知県文化財団埋蔵文化センターの公式報告書の注データから推定)。

「懷けて」「なづけて(なずけて)」と読む。手懐(てなづ)けて。うまく扱ってなつくようにする。

「眇者(すがめ)」この場合は、斜視ではなく、片方の目が極端に細いか、或いは潰れていることを指している。]

 さうして此話は、決していゝ加減に笑つて看過すべき話では無いのである。自分は主として一目の恠が、山奧に於て其威力を逞しくして居る事實に着眼して、實は最初に是と昔の山の神の信仰との關係を、探つて見たいと思つて居る所なのであつた。

 斯く申せば何か神を輕しめて、一方には妖恠に對し寛大に失するやうに評する人があるか知らぬが、何れの民族を問はず、古い信仰が新しい信仰に壓迫せられて敗退する節には

其神はみな零落して妖恠となるものである。妖恠は言はゞ公認せられざる神である。

 この推定を後援する材料は幾つかある。高木誠一君の話によれば、磐城の平町(たひらまち)近傍では斯う云ふ事を言ふ。舊曆九月の廿八日には神々樣が出雲の大社へ行かれるので、此日は朝早く小豆飯を上げて戸を明けはらふ。又十月朔日に御立ちになる神もある。出雲で色々の相談をなされて十月廿八日から霜月朔日までの間にお還りになる。唯其中で山神はかんかちで夷樣は骨無しで、共に外聞が惡いといつて出雲へ行かれぬ故に、十月中に行ふのは山神講と夷講とだけである云々。山神を片目と云ふ説は、自分の知つて居るのはまだ是のみである。

[やぶちゃん注:全集版では最後の一文が『此カンカチは火傷(やけど)の瘢痕(はんこん)のことだと今は解せられて居るが、常陸の方へ來るとかんち即ち片目のことだと云ふ者がある。』(一部の表記を本初版に合わせて恣意的変更した。向後、この注は略す)と変更されており、全集版の方が親切且つ腑に落ちる。これは後に提供者その他から誤りと指摘されての補筆である。「一目小僧」の最後に附された「補遺」で柳田自身が追記しているので、必ず参照のこと。

「高木誠一」(明治二〇(一八八七)年~昭和三〇(一九五五)年)は磐城(現在の福島県浜通り及び福島県中通りの白河郡と宮城県南部に当たる地域の旧称)の郷土史研究家。「いわき Biweekly Review 日々の新聞社」公式サイト内の第九十二号の時代ドキュメントによれば、高木氏はここに出る「平町」、現在の福島県いわき市平(たいら)北神谷(きたかべや)の農家の長男として生まれた。『旧制磐城中に入学したが、「農家の長男に学問はいらない」と』二年で『退学させられ、小学校で代用教員を務めたあと、家業の農業に従事しながら、農政学や民俗学と関わることになる』。『その転機となったのは』明治四〇(一九〇七)年の『柳田国男との出会い』で(高木氏二十歳)、以後、『柳田の薫陶を受け続け』、昭和一〇(一九三五)年には『高校教師の岩崎敏夫、山口弥一郎、甥の和田文夫などとともに「磐城民俗研究会」を立ち上げる。その関係で、渋沢敬三、宮本常一などとも交流し』た。なお、「石城北神谷誌」が『高木自身の手で書かれ、脱稿したのが』大正一五(一九二六)年七月、『その後、岩崎と和田が中心となり、編集・校正をし』たものの、『戦時中という異常事態のなか、思うように作業が進まなかった』。『が、岩崎と和田の「何とか本として出したい」という執念が実を結び』、「磐城北神谷の話」として上梓されたのは実に脱稿から二十九年後の昭和三〇(一九五五)年十二月のことであった。しかし『残念なことに、校正の最終段階に来て高木が病のために床に伏し、仮綴じした校正紙を見ただけで、他界してしまった。高木はそのとき、痩せ衰えた両手を布団の上に合掌して「ありがとうございました、渋沢先生によろしく…」と言ったという。本が完成したのは、死後』三ヶ月後のことであった、とある。執念の史家としてここに特に記しておきたい。]

 次に信州の松本平では、山神を跛者だと言うて居ると云ふ事は、平瀨麥雨君が之を報ぜられた。此地方では何でも物の高低あるものを見ると、之を山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行はれて居るのは、稻草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神が出來たなどと言ふさうである。此から推測すると、一本ダタラ其他の足一つと云ふことも、眇者を目が一つと云ふほど自然では無いが、やはり亦元は松本地方で考へて居るやうに、眇め者を意味して居たのではなからうか。さうして此地方でも土佐の片足神などゝ同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけださうである。

[やぶちゃん注:「跛者」全集版は『びつこ』とルビを振る。

「平瀨麥雨」歌人として知られる胡桃沢勘内(くるみざわかんない 明治一八(一八八五)年~昭和一五(一九四〇)年)のことと思われる。長野県東筑摩郡島内村下平瀬(現在の松本市島内)生まれ。十八歳で俳句を、二十歳で短歌を伊藤左千夫に師事、以後、「馬酔木」「アララギ」や活躍した。歌集「胡桃沢勘内集」がある。歌人としては平瀬泣崖を名乗ったが、後にこの平瀬麦雨の号で民俗学研究にも力を注ぎ、柳田國男や折口信夫(歌人としての釈迢空としても)とも盛んに交流、「松本と安曇」「福間三九郎の話」などを著わしている。「松本・安曇野・塩尻・木曽をカバーする地域新聞 市民タイムス」公式サイト内の小松芳郎氏の「脚光 歴史を彩った郷土の人々」の第三十一回胡桃沢勘内に詳しい。それによれば、大正三(一九一四)年に『勘内は、柳田国男の雑誌『郷土研究』への投稿』、それが『きっかけで民俗学に惹(ひ)かれてい』くと同時に『柳田の関心を惹き、以後、没年に至るまでの長期にわたり交流を深め』た。『柳田は「文章は平明にして親切、また珍らしくむだが少なかった。かなり正確に、たくさんの土地の事情を記憶していて、ちょうど我々(われわれ)の学問の 世に出るのを待っていてくれたようにも感じられた」と後に記し』ているとある。他にもリンク先の事蹟データは必見。
 
「此地方では何でも物の高低あるものを見ると、之を山の神と呼び」この箇所には平瀬から修正がもたらされる。「一目小僧」最後に附された「補遺」を必ず参考のこと。

ヒョウタン   梅崎春生

[やぶちゃん注:初出は未詳。昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収された(後述参照)。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。当該全集は発表順配列であるが、その解題を見ると、本作は昭和二六(一九五一)年二月から五月(雑誌号名)発表の「莫邪の一日」と、同年七月(雑誌号名)発表の「指」の間に置かれてあり、実際の執筆は、この昭和昭和二六(一九五一)年五月から七月の閉区間と全集編者は推定しているものらしい。]

 

   ヒョウタン

 

 春のことでした。

「苗や苗」「苗はいりませんか」

 苗売りの小父さんが、次郎の家の庭先にぬっと入って来ました。顔の平たい、背の高い、とても大きな身体の小父さんで、掌ときたら八ツ手の葉ぐらいもありました。次郎を見て、にこにこしながら近づいて来ました。

「ぼっちゃん。苗はいらんかね。ダリヤにパンジイ。バラに鶏頭(けいとう)。スイートピイの苗」

 リヤカーの中には、大きな苗、小さな苗、双葉の苗、球根、そんなのがたくさん、ごちゃごちゃに並んでいます。次郎はそれをのぞきこみながら、言いました。

「ヒョウタンの苗はないかしら。僕、ヒョウタンが欲しいんだけど」

「ヒョウタン」

 小父さんは眼尻をくしゃくしゃさせて、ちょっと困った顔をしました。

「ヒョウタンかい」

「うん。ヒョウタンだよ」

 次郎は小さい時から、あのヒョウタンの形が大好きで、いつかは自分で植えて、その成長ぶりを記録し、出来たら学校にも出したいと、かねてからそう思っていたのでした。次郎は小学校の五年生なのです。

 小父さんはリヤカーの中をあちこち探して、やっと一つの苗を取出しました。

「ああ、一つだけ残っていたよ」

 と小父さんはひとりごとを言いながら、それを大事そうに次郎の掌に渡しました。

「これは立派なヒョウタンだ。尾張ヒョウタンと言ってね。こんなに大きな実がなるよ」

 小父さんはにこにこしながら、手で恰好をして見せました。

 次郎は苗を地面にそっと置き、急いで家に入り、貯金箱から金を出して、急いで戻って参りました。この金は、次郎が鶏を飼い、その卵をお母さんに売って、やっと貯めたその金なのです。苗売りの小父さんは、藤棚の下に立ち、上を見たり地面を見たりしていましたが、次郎が出てくると言いました。

「ヒョウタンを植えるなら、先ずここだね。秋になるとこの棚から、ヒョウタンがたくさんぶら下がって、きっといい眺めだよ」

 小父さんがリヤカーを引っぱって帰ったあと、次郎はシャベルをふるって、藤棚の、藤が生えている反対側の根元を、せっせとたがやし、その小さな苗を植え、水をかけてやりました。つまり藤棚の、藤が這(は)い残す余地に、ヒョウタンを這わせようというわけです。

 ヒョウタンはずんずん伸びました。

 夏になると、蔓(つる)は藤棚に縦横にからみ、たくさんの葉をつけ、藤の蔓とヒョウタンの貰は藤棚の上で、押し合いへし合いからみ合い、まるで大喧嘩しているみたいに見えました。そしてそれらの葉々が、暑い日射しをさえぎり、涼しい葉陰をつくるので、家中のものが大喜びでした。

 ヒョウタンの花が、その葉の間に点々と咲きました。きっとこれが秋になると、ヒョウタンとなってぶら下がるのだろう。楽しみに思って、次郎はノートにその花の写生をしたりしました。

 秋になりました。

 風のためか、虫のためか、折角咲いた花ほほとんどぼとぼとと落ちてしまったのです。次郎はがっかりしました。それでもやっと一つだけ残って、それの根元がだんだんふくらんでくるらしいのです。

 ひとつでもいいや。立派なヒョウタンに仕立ててやろう」

 毎朝起きると、次郎はまっさきに藤棚の下に行って、それを眺めるのです。毎日毎日、それはずんずん大きくなってゆきます。次郎ほあの苗売りの小父さんの手の恰好を思い出したりして、心がむずむずするのでした。

「こいつだけは、うまく行きそうだぞ」

 ところがどうも変なのでした。その実は、ヒョウタンみたいに丸くふくれるのではなく、ひょろひょろと細長く垂れ下がってくるばかりなのです。はてな、と次郎は首をひねりました。こんなヒョウタンがあるかしら。

 ある日、お母さんが藤棚の下に来て、その実の形を、つくづくと眺めていました。そして次郎をふりかえって、すこし笑いながら言いました。

「次郎。これはヒョウタンじゃないよ。ヘチマだよ」

「ヘチマじゃないやい。苗売りの小父さんがたしかにヒョウタンだと言ったんだい」

「こんな長いヒョウタンはないでしょ。ヒョウタンは、真ん中がくびれているはずでしょ」

 次郎は何か言い返そうとして黙ってしまいました。そう言えば、こんなのっぺらぽうのヒョウタンなんか、あるはずがなかったからです。次郎はやっと負け惜しみを言いました。

「ヒョウタンだってヘチマだって、同じようなもんだい」

 しかし次郎の気持は、ちょっと淋しいのでした。きっと苗売りの小父さんが苗を渡し違えたのだろう。そう思ってみても、やっぱり淋しいのでした。

 

[やぶちゃん注:「ヒョウタン」瓢簞。被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ属 Lagenaria siceraria 変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda 。葫蘆(ころ)。瓢(ひさご)。ウィキの「ヒョウタン」によれば、『最古の栽培植物のひとつで、原産地のアフリカから食用や加工材料として全世界に広まったと考えられている。乾燥した種子は耐久性が強く、海水にさらされた場合なども高い発芽率を示す』。『狭義には上下が丸く真ん中がくびれた形の品種を呼ぶが、球状から楕円形、棒状や下端の膨らんだ形など品種によってさまざまな実の形がある』。『ヒョウタンは、苦み成分であり嘔吐・下痢等の食中毒症状を起こすククルビタシン』()『を含有し、果肉の摂取は食中毒の原因となる』。『ヒョウタンには大小さまざまな品種があり、長さが』五センチメートルほどの『極小千成から』、二メートルを『越える大長、また胴回りが』一メートルを『超えるジャンボひょうたんなどがある』。『ヒョウタンと同一種のユウガオ』(ウリ科ユウガオ属変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida )『は、ククルビタシンの少ない品種を選別した変種で、食用となり干瓢の原料として利用される。 また、ヒョウタン型をした品種の中にも、ククルビタシンの少ない食用品種が存在する』(因みに私も極小千成型の食用瓢簞の漬物を食したことがあるが、形状の良さと相俟って歯ごたえがあり、すこぶる美味い)。なお、本邦では早くも「日本書紀」(七二〇年成立)に「瓢(ひさご)」として初めて登場し、それによれば仁徳天皇十一年(三二三年比定)十月に茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ:仁徳天皇が淀川河岸に築かせたとされる堤防)を『築く際、水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子』(まむたのむらじころもこ)『という男が、ヒョウタンを使った頓智で難を逃れたという』とある。この箇所はウィキ茨田堤に現代語訳されてある。アラビア数字を漢数字に代え、一部を改変した形で引く。『どうしても決壊してしまう場所が二か所あり、工事が難渋した。このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人のコロモコ(茨田連衫子)の二人を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に一人ずつ人柱に立てられることとなった。コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。結果として工事が成功した二か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた』。

「尾張ヒョウタン」このような呼称(尾張瓢簞)はネット検索をする限りでは出現しないが、尾張といえば豊臣秀吉、秀吉と言えばその馬印の千成瓢簞が思い浮かぶし、少年次郎も恐らくそれを想起したであろう。さればこれはユウガオ Lagenaria siceraria var. hispidaの変種(私がしばしばお世話になっているサイト「跡見群芳譜」(嶋田英誠先生編)のの記載に拠る)センナリヒョウタンLagenaria siceraria var. microcarpa であろう。

「ヘチマ」糸瓜。天糸瓜。ウリ科ヘチマ属ヘチマ Luffa cylindrica ウィキヘチマ」によれば、『インド原産のウリ科の一年草。また、その果実のこと。日本には江戸時代に渡来したと』され、『本来の名前は果実から繊維が得られることからついた糸瓜(いとうり)で、これが後に「とうり」と訛った。「と」は『いろは歌』で「へ」と「ち」の間にあることから「へち間」の意で「へちま」と呼ばれるようになった。今でも「糸瓜」と書いて「へちま」と訓じる。沖縄ではナーベーラーと呼ばれるが、これは果実の繊維を鍋洗い(なべあらい)に用いたことに由来するという』とある。

「のっぺらぽうのヒョウタンなんか、あるはずがなかった」先に出たヒョウタンと同一種であるウリ科ユウガオ属変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida は実の形によって大きく二つに分けられ(種は同種)、細長い円筒状即ち「のっぺらぼう」の主に食用とするものを「ナガユウガオ」、丸みを帯びた球状の主に干瓢の材料とするものを「マルユウガオ」と呼ぶが、しかし、次郎の描写から花の咲き方がユウガオではない。万一、夕顔であったとして、それで救われるのは「源氏物語」の「夕顔」を偏愛する大人ばかりであって、次郎の淋しさを掬いとって呉れはせぬ。次郎の憂鬱は、恐らくは五十九歳の高中年となった私、次郎の『アンニユイのなかに、外觀上の年齡を遙かにながく生き延び』(梶井基次郎「愛撫」より)ているので、ある……

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 手鼻かむをとさへ梅の盛哉 芭蕉

本日  2016年 2月16日

     貞享5年 1月15日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月16日

 

手鼻かむをとさへ梅の盛(さかり)哉

 

「後の旅」(如行編・元禄八(一六九五)年刊)より。「をと」はママ(「音」であるから「おと」が正しい)。「卯辰集」(楚常編・北枝補・元禄四年奥書)には、

 

手鼻かむ音さへ梅の匂ひ哉

 

と出るが、これは誤読誤伝の類いであろう。「匂ひ」ではあまりに直截で下品である。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 枯芝ややや陽炎の一二寸 芭蕉

本日  2016年 2月16日

     貞享5年 1月15日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月16日

 

枯芝ややや陽炎の一二寸
 
 

「笈の小文」に先に出した、前書「初春」の「春たちてまだ九日の野山哉」と並置する。「曠野」には、

 

かれ芝やまだかげろふの一二寸

 

とするが、孰れが初案かは不明。山本健吉氏は『「まだ」ではあまりにあらわに言い過ぎていて、「やゝ」の方が心もちの繊細さを示している。だが「や」音の重複が少しわずらわしい。土芳の『蕉翁句集』や『全伝』には、「まだかげろふの」の形で録している』とある。また、外のものでは、

 

かれ芝やまだかげろふも一二寸

 

という句形が複数出る。私は圧倒的に「枯芝ややゝ陽炎の一二寸」の句形と思う。重複などというのはただ字面上の問題であって、山本氏の指摘する如く意味は勿論、「かれしばや//やや/かげろふの//いち/にすん」の響きこそが早春の自然の微妙な気配を詠みとっていて素晴らしいの一言に尽きる。「まだ」も「も」も全くの問題の外と私は思う。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 香にゝほへうにほる岡の梅のはな 芭蕉

本日  2016年 2月16日

     貞享5年 1月15日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月16日

 

   伊賀の城下にうにと云(いふ)ものあり、

   わるくさき香(か)なり

 

香にゝほへうにほる岡の梅のはな

 

「有磯海」(浪化扁・元禄八(一六九五)年刊)より。

 土芳「蕉翁全伝」(宝永年間(一七〇四年~一七一一年頃成立か)の前書には、

 

   伊賀山家に、うにといふ物有(あり)。

   土の底より掘出(ひりいで)て薪とす。

   石にもあらず、木にもあらず、黑色に

   してあしき香有。そのかみ、高梨野也

   (のや)、これを考(かんがへ)て

   曰(いはく)、「本草に石炭(いしずみ)

   といふ物あり。いかに申伝(まうしつ

   た)へて、此國にのみ燒きならはしけ

   ん、いとめづらし。」

 

とある。高梨野也は名は揚順、京の医師で貞門七俳仙の一人であった高瀬梅盛(ばいせい)門の俳人。この「うに」は伊賀・伊勢・尾張地方での、亜炭・泥炭等の品質の低い石炭の古称で、伊賀山中では古山(ふるやま)で採掘されていた。ここは実際の採掘時の炭の臭気がしたのではなく、野也の解説を見るに仮想した言い掛けの句であることがわかる。しかも実は恐らくは「うに」が「めづらし」が本体にあって、その粗野なる風雅ならざるくさい臭いに伝統の梅の香をぶつける対立のモンタージュにこそ本句の眼目ある。この句以下三句は同時期に読まれたと推定されており(後掲する「手鼻かむ」の句と句作りの酷似性が認められる)、後の翌三月十一日に訪れた土芳の蓑虫庵で初めて披露されている。

2016/02/15

柳田國男「一目小僧その他」  附やぶちゃん注 一目小僧 (四) 

 

     四

 

 一目が同時に一つ足であつたと云ふ話は又越中國にもある。肯構泉達錄の卷十五に、同國婦負(ねひ)郡蘇夫嶽(そふだけ)の山靈は一眼隻脚の妖恠にして、曾て炭を燒く者二人此に殺され、少し水有る蘆茅の中に投げ棄てゝあり、又麓の桂原と云ふ里の者夫妻、薪を採りに登りて殺さる。腦を吸ふと見えて頂に大いなる穴が明いて居たとある。誰か喰ひ殘されて見屆けた者があつたのでなければ、到底恠物の正體が右の如く世に傳はる道理は無いのである。

[やぶちゃん注:「肯構泉達錄」「こうこうせんたつろく」と読むが、実際には「肯搆泉達錄」が正しい。「富山県立図書館」公式サイト内の「古絵図・貴重書ギャラリー」のこちらに、野崎雅明の著で『越中通史の先駆けともいえる壮大な物語記録』とあり、文化一二(一八一五)年に完成とある。『野崎雅明の祖父伝助は富山藩に御前物書役として仕え「喚起泉達録」を著した。その志を継いで業をなしたことから「肯搆」と名付けた。雅明は学問熱心であり』、享和二(一八〇二)年から『藩校広徳館の学正を勤めた』。全十五巻で、初めの十二巻分は『古代神話から書き起こし前田氏の治世に至り、終わりの』三巻に『紀行・地誌・年表を加える』とある。

「蘇夫嶽」現在の富山県南部、富山市八尾にある祖父岳の別称。

「蘆茅」「あしかや」(全集版ルビに拠る)。]

 更に不思議なのは、江州比叡山にも一眼一足と云ふ化物久しく住み、常は西谷と東谷の間に於て人は之に行き逢ふが、何の害をもせぬ故に知つて居る物は之を怖れないと云ふ話がある。萬世百物語には此事を載せて、更に或法師が一夜月光の隈無き時、圖らず此物を見たと云ふ話を錄し、さうして「前の山を足早に驅け降るを見れば云々」と言つて居る。足早に驅け降るなどゝ云ふことは、足が二本以上ある者にして始めて望み得べきことである。

[やぶちゃん注:「萬世百物語」「ばんせいひやく(ひゃく)ものがたり」と読む。寛延四・宝暦元(一七五一)年刊の東都隠士烏有庵(とうといんしうゆうあん(仮訓))なる人物(事蹟不詳)が百物語をした際の記録という、百物語にありがちな体裁の怪奇小説集。]

 話が岐路に入るが、序に言うて置く。右の叡山の一眼一足に就ては斯う書いてある。曰く「十五六、にも見ゆる喝食(かつしき)の、顏はめでたけれども目一つなるが、厠の口に近寄りてそと彳む。こは如何にと見れば足も又一なり云々」。喝食とはまだ知つて居る人も多からうが、大寺の僧に隨從して給仕慰籍を一つの任務とした一種の宗教的少年である。大入道には事を缺かぬ比叡山に在つて、特に一目をこの種の子供だと言傳へたのは、是も上方一帶に亙つての俗信と關聯する所があるのかも知れぬ。自分としても此化物が老婆だ老翁だと聞いては一寸合點が行かぬ氣がする。但し目が一つであるのに「顏はめでたけれども」は、如何に興味を主とする物語でもあんまりだと思ふ。

[やぶちゃん注:「喝食」「かつじき」の音変化だが「かっしき」の方が一般的。ここはウィキの「喝食」を引くのがよい。『正式には喝食行者(かつじきあんじゃ/かっしきあんじゃ)と呼ばれ、本来は禅寺で斎食を行う際に衆僧に食事の順序などを大声で唱える者。本来は年齢とは無関係である』。『禅宗とともに中国から日本に伝わったが、日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた。室町時代には本来の職掌から離れて稚児の別称となり、中には禅僧や公家・武家の衆道の相手を務めるようになった』とある(下線やぶちゃん)。ここで意味深長に柳田が言っているのも暗にそれをベースに物謂いしているらしいことはお判り戴けるものと思う。以前にも別な所で書いたが、日本の民俗学の二大巨頭柳田國男と折口信夫との間にはどこかで性的な解釈や発言を民俗学上でなるべく露わに書くことを控えようという密約があったものと私は信じて疑わない。それに美事、敢然と嚙みついたのが南方熊楠であったのである。

「彳む」「たたずむ」。]

 それよりも猶一層始末の惡いのは足の方である。苟くも深山に出沒しようと云ふ妖恠が肝腎の足が只一本ではどう成るものか。是が文字通りの變化の物であつて、何なりとも入用な形に身を變へて出る先生であつたとすれは、物嗜好(ものずき)にもそんな不自由な支度をして來る筈が無い。然るに此妖恠ばかりは久しい間、善く民間の言傳へた通りを遵守して居たのである。其には何か相當の理由があつたことゝ考へる。其理由の見付からぬ限りは、折角今の時世に流行らぬ化物の話をしようと云ふ人も、やはり鍔目が合はぬと嘲られるのは厭だから、つい足の所は略してしまふやうなことになる。

[やぶちゃん注:柳田先生、現今、一目も片足も甚だしい差別表現とされて、最早、自由に考察することも困難になっているなどとは、これ、想像だにされておられなかったでしょうね。

「鍔目が合はぬ」刀を鞘に戻した際、その鍔が鞘の鯉口とぴったり合わない、話がかみ合わぬ、の謂いであろう。]

 自分の判斷はいつも無造作であるが、是ほど無理な一本足の話が、彼地でも此地でも語り傳へられて居ると云ふ事實は、既にそれ自身に於てよくよく深い因緣の存することを暗示すると思ふ。土佐では一眼一足を山鬼また山爺などゝ謂ふ外に、又片足神と稱する神樣が處々に祀られてあつた。例へば安藝郡室戸元村船戸の片足神などは、巖窟の中に社があつて、此神は片足なりと信じ、半金剛の片足を寄進するのが古來の風であると南路志に見えて居る。東日本の田舍でも、神に捧げる沓草履がたゞ片一方だけである場合は多い。何故と云ふことは知らぬやうになつたが、或は同じ意味に基づいて居るのかも分らぬ。長山源雄君の話に依れば、南伊豫の吉田地方では正月の十六日には必ず直徑一尺五六寸もある足半草履(あしなかざうり)を只片方だけ造り、此に祈禱札を添へて村はづれ、又は古來妖恠の出ると云ふ場所に置いて來る。わが村には此草履を履く位の人が居るから、何が來てもだめだと云ふ事を示す趣旨であると云ふ。

[やぶちゃん注:「安藝郡室戸元村船戸」現在の、高知県室戸(むろと)市佐喜浜町内。「ふなと」か?

「半金剛」不詳。「はんこうがう(はんこんごう)」で一部を金属で作った義足のことか?

「南路志」文化一二(一八一五)年に高知城下朝倉町に住む武藤到和・平道父子が中心となって編纂した実に百二十巻にも及ぶ高知地誌の大叢書。「高知大学」公式サイトの「総合情報センター 図書館」のに拠った。

「長山源雄」(もとお 明治一九(一八八六)年~昭和二六(一九五一年)。愛媛の郷土史研究家。「愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会」公式サイト内のによれば、北宇和郡吉田町本町生まれで、東京錦城中学校卒業後、松山第二十二連隊で軍曹に進んだ後、『自らの出身地域南予の古代史に関心を示し、ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ、弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟』し、大正五(一九一六)年に『「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿した。その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ、「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した』。『さらに文献学的にも深く研究し、橘氏・日振島・宇和郡棟札などから歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及んだ。古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他』六十余篇を発表、『またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が、県図書館にあったが逸失して見られず、僅かに部分的な『伊予古代文化』、吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本に、その片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる』。『晩年は、大分県に入植した。直入郡柏原村寓居で、同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿した』とある。

「南伊豫の吉田地方」現在の愛媛県南西部、宇和島市内北部。宇和海に突き出した半島と付け根の部分に相当する。

「一尺五六寸」四十五・四五~四十八・四八センチメートル。以下の注も参照されたいが、これを履くというのは巨大な足の持ち主であることが判る。

「足半草履(あしなかざうり)」踵のない短い草履の一種。足の前半分だけの草履で、私は初めて知ったが、個人サイト「中世歩兵研究所」の足半についてを見ると、一見、特殊に見えるものの、『見た目以上に便利な履物で、今ではその名前すら忘れ去られつつある足半であるが、中世の武家にはポピュラーな履物であったし、半世紀前くらいの農村では、立派な現役の履物で』、『現在でも鵜師の足下に見る事が出来る』とあり、『水の抵抗が少なく、川の流れに足を取られる事がない。さらには鼻緒に芯縄を使うので、草履の様に鼻緒が切れる事が無く丈夫である』ものの、独特な歩行法を採る『故に、長距離の歩行には向かなかった』とある。リンク先には実物のカラー画像がある。必見!]

 さうして見れば一つ足で能く奔ると云ふ不思議も、我々の祖先にはそれだから神だ、それだから妖恠だと云ふやうに、寧ろ畏敬を加へる種となつて居たのかも知れぬ。奇恠千萬などゝ云ふ語が、詰責の時に用ゐられるやうでは、最早世の中も化物の天下では無い。

59歳紀念プロジェクト 一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)

一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:本書は昭和九(一九三四)年六月に小山書院より刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクション(現在、リンク先は「近代デジタルライブラリー」と呼称しているが、本年五月末日を以ってこちらに統合予定であるのでかく呼称する。向後、私のブログでは以上の注記を略す)のこちら画像を視認した。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。「〻」は私が生理的に嫌いなので、概ね「々」とした。傍点はブログでは太字とした。

 注は附け出すときりがないので私が決定的に判らないかやや私の理解に不安な部分のある対象、或いは、当該語句の読みが極度に難しいもの又は誤読される可能性が高いものなどに限って(因みに底本はルビが異様なほど少ない)、ごくストイックに段落後に簡潔に注することとした。どの程度に禁欲的かというと、例えば二段落目の「隱れ里の椀貸しの口碑」とは「迷い家(まよいが:民俗学では「マヨイガ」とカタカナ書きするが、私は沖繩方言をカタカナ表記するのに嫌悪を感じるのとは別な意味で、この明治に始まった似非学術用語表記に嘔吐感を覚える)」のことで、特に「遠野物語」で知られるようになった山中の怪異の一つであるが、私はよく判っているし、これに私の注を附すことになると、私の欲求としては、まずは中国に飛んで道家思想やら桃源郷やらまで遡って始めずにはいられないから注さない、というコンセプトではある。悪しからず。……しかしまあ、私は元が馬鹿であるから、結局は注はそれなりに附さざるを得なかった。

 なお、難読語の読み方については一九八九年ちくま文庫版「柳田國男全集6」に載る同作を参考にしたが、それに無批判に従った訳ではないことを断わっておく(最初の「門客人」の注などを参照されたい)。なお、既に自序の中に表現上の有意な異同があることを発見していることから、ちくま文庫版解題には記されていないものの、どうも初版刊行後にかなりの改訂が施されていることが判った(単なる奥付の改版扱いの中で行われたものかと思われる)。] 

 

柳田國男

一目小僧その他

        小山書房刊行 

 

  自  序

この卷に集めて置く諸篇は、何れも筆者にとつて愛着の深いものばかりである。或題目は既に二十何年も前から興味を抱き始めて、今に半月と之を想ひ起さずに、過ぎたことは無いといふのもあり、或はかの諏訪の出湯の背の高い山伏のように、何を聽いてもとかく其方へばかり、話を持つて行きたくなるものもある。全體に書いて何かに公表した當座が、自分の執心も凝り又畏友だちや讀者の親切もあつて、却つて新しい材料の多く集まつて來るのが、年來の私の經驗であつた。どうしてあの樣に急いで文章にしてしまつたらうかと、いつでも後悔をする例になつて居るが、さりとて今日まで此問題をかゝへ込んで居たならば、果して纏まりがついたらうかといふと、それには自分が先づ勿論とは答へることができない。

 材料は今でもまだ集まつて來る。たとへば目一つ五郎考の中に、郷里のうぶすなの社殿の矢大臣が、片目は絲みたやうに細かつたといふことを書いてしまふと、それからは何處の御宮に參拜しても、きまつて門客人の木像に注意をせずにはいられなくなる。その木像には年を取つた赭ら顏の方の左の眼が、潰れて居るのが多く、又はさうで無いのもある。之を見ると私は非常考へ込むのである。隱れ里の椀貸しの口碑などは、最初は稀々に出逢つて驚く位であつたが、去年南部の八戸に往つて聽くと、あの邊は到る處の川筋に二軒三軒の舊家が、大抵は家の昔として此話を傳へ、又時々は其借りたといふ椀や蓋物を藏して居る。さうして其附近には奇妙にダンズといふ類の地名が多いと小井川君などは言ふのだが、是が又自分をして、佐渡の隱れ里の狸の長老の名が團三郎であつたり、薩摩では狸をダンザといふ方言があつたり、或は曾我の物語に出る鬼王團三郎の兄弟が遁れて來て住んだといふ伊豫土佐その他の深山の遺蹟などを、次々に思ひ出さしめるのである。

[やぶちゃん注:「門客人」「かどまらうど(かどまろうど)」と訓じているものと思われるちくま文庫版もそう訓じてはいる。但し、「もんきやくじん(もんきゃくじん)」「かどきやくじん(かどきゃくじん)」と読んでいる可能性を排除は出来ない。事実、これは「門客神」とも書き、「人」でも「神」でもそうも読むからである。これは神社に於いての本社(主祭神)では無論なく、摂社・末社などで祭祀されている併神でもなく、外からやって来た「客人神(まろうどがみ)」として主社の端に随身(ずいじん)の神の如く、或いは何となく目立たないような場所にみすぼらしく祀られてあったり、ただ置かれてある神体や神像で、通常は独立の祀られる祠(ほこら)を持たない、見た目から判る通りの下級神である。しかしこれこそは実は、本来のその地の古代の地主神(じしゅしん)や主祭神であったものが大方であり、古代に侵入してきた大和朝廷にその土地は彼(現在の客人神)から簒奪され、後からでっち上げられた日本神話の神々と立場を強制的に逆転させられて哀れな客人神とさせられたのであると考えるのが正しい。

「小井川潤次郎」(こいかわじゅんじろう 明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は民俗学者。青森県八戸町(現在の八戸市)生まれ。青森県師範学校本科第二部卒。郷里青森県で小学校教員を務めながら民俗学を研究、県下各地の年中行事の事例を収集、大正四(一九一五)年には柳田國男に共鳴して「八戸郷土研究会」を結成、『奥南新報』『民俗展望』『いたどり』などの新聞雑誌を中心に論考を発表した。大正七(一九一八)年に教職を退いて東京に出たが、大正一一(一九二二)年には帰郷、青森県文化財専門委員・八戸市史編纂委員などを歴任した。昭和二(一九二七)年には「日本民俗学会」名誉会員に推された。その研究対象は、青森県の民謡・年中行事・伝統芸能・工芸・えんぶり(初春神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われている予祝芸能(門付)の一種)・絵馬など多岐に渡り、民俗学に密接な関係する植物や歴史にも精通した。著書に「八戸郷土叢書」など(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「佐渡の隱れ里の狸の長老の名が團三郎」私の電子テクスト注「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」を参照されたい。

「曾我の物語に出る鬼王團三郎の兄弟」これは原話を知らぬ場合、誤読する者が多い。「鬼王團三郎」は「おにわうだうざぶらう(おにおうどうざぶろう)」で「團」は「だう(どう)」と読むからである。これは「鬼王」(兄)と「團三郎」(弟)で二人の曾我十郎・五郎の従者とされる兄弟の名前である。平凡社の「世界大百科事典」によれば、この鬼王・団三郎という呼称は能や歌舞伎の曾我物に於ける呼称であって、大元の「曾我物語」にあっては鬼王丸と丹三郎(真名本)、鬼王と道三郎(仮名本)である。同作では幼少の頃より曾我兄弟に仕えて片時も離れず付き従っていたとあるものの、実際に同物語中に登場してくるのは後半になってからで、しかも二人の登場自体に不審な点がある。鬼王・団三郎は富士の狩場へ仇討に向かう曾我兄弟に同行、仇討と兄弟の最期を見届けた上、兄弟の形見を曾我の里へ届ける役目をも担った。一般には実在の人物とされ、後に全国を巡って兄弟の菩提をとむらった足跡が各地でみられるともあるが、平凡社の『不審』というのは、「曽我物語」創作過程にあって新たに新キャラクターとして作り出された可能性があるということを匂わせているように読める。実際、私の持つ十二巻本の王堂本「曽我物語」ではまさに討死の巻第九で登場、次の巻第十では曽我に戻って本懐を遂げたことを語った後、自身らの家にも帰ることなく、高野山に登って出家遁世している。確かに不審。]

 橋姫の話は早く書いてみようとしたものだけに、殆ど際限も無いほどの後日譚を導き出して居る。水の女神の「ねたみ」といふことは、以前は凡庸人の近づき侮るを許さぬ意味であつた。それが嫉妬の義に解せられて、二個の女性の對立を説き、山の高さ競べの傳説などゝ、似通うやうになつたのも新しい變化で無い。赤兒を胸にかゝへて行人に喚びかけるということも、山にあつては磐次磐三郎などの兄弟の狩人の物語となり、水の滸に於ては龍宮の嬰兒の昔話に繋がつて居るが、何れも素朴謹直の信者を恩賞する方が主で、たまたま其寵命を輕視した者だけが罰せられたのである。だから豐後の仁聞菩薩の古傳を始として、さういふ遺跡は崇祀せられて居る。それがいつの程にか信仰を零落せしめて、九州の海ではウブメはすでに船幽靈のことにさへ解せられて居るのである。しかし我々の同胞は谷や岬に立ち別れて、それぞれ自分の傳承をもり育てゝ居た。故に其例の多くを比べてみることによつて、進化のあらゆる段階を究め、從つて端と端との聯絡をも明らかにすることが出來るのである。遠江參河の山間の村には、水の神から送られた小さな子が、幽界の財寶を貸しに來る口碑も多い。隱れ里の膳椀はその一部分が、何かの因縁を以て特段に發達したものであつた。鹿の耳を切る近代の風習は、處々の神の他の片目の魚、もしくは神が眼を突いたといふ植物のタブーと共に、生牲の祭儀の名殘であつたことが判つた樣に、橋姫と椀貸しとも元に於ては一つの根ざしであつた。是を木地屋の信仰の基礎になつた小野一族の傳道と、何か關係のあるものの如く推測した自分の一説だけは、あの頃ちやうど此問題に深入りして居た爲の、考へ過ぎであつたやうに今では思つて居る。

[やぶちゃん注:「磐次磐三郎」一般には磐司磐三郎と書き、「ばんじばんざぶらう(ばんじばんざぶろう)」と読む。これも「磐司」(兄)と「磐三郎」(弟)の兄弟の名である(但し、「磐司磐三郎」で一人の狩人の名とする伝承もある)。古えの日本の狩猟の民の先祖とされている伝説の人物。「万次」或いは「万治」と「万三郎」、「大満・小満」(おおまん・こまん)、「大摩」と「小摩」、「大汝・小汝」(おおなんじ・こなんじ)などの表現もある。二人は対立し相争うが、一方が山の神を助けたこと(助産)によってその加護を受けるのに対し、他方は山の神を助けなかったがために山の幸(さち)を受けられなくなるというモチーフで共通する。山の民の典型である狩猟民たちは曾ては全国の山中を漂泊していたものらしく、「磐司磐三郎伝説」はそれらの民や末裔・接触した人々によって全国に分布している。その代表的事例は北関東から東北地方の伝承で、日光権現を助けて赤城明神を矢で射た猟師磐三郎で、彼はそれによって狩猟の権利を神から得たとされてマタギの開祖となる。以上は「朝日日本歴史人物事典」の宮田登氏の解説に主に拠った。

「滸」「ほとり」と読む。「畔」に同じい。

「仁聞菩薩」「にんもんぼさつ」と読む。奈良時代に大分県国東半島の各地に二十八の寺院を開基したと伝えられる伝説的僧(神仏とする説もある)。「人聞菩薩」とも表記する。以下、ウィキの「仁聞」より引く。『六郷満山と呼ばれる国東半島の密教寺院の多くは』、養老二(七一八)年に『仁聞が開基したとの縁起を伝えている。これらの縁起によれば、仁聞は、最初に千燈寺を開基し、その後、国東半島の各地に』計二十八ヶ寺を『開いた後に、最初に開基した千燈寺の奥の院枕の岩屋で入寂したと伝えられる。また、熊野磨崖仏などの国東半島に多く残る磨崖仏も仁聞の作であると伝えられるものが多く』、六万九千体もの『仏像を造ったとされる』が、『今日では、仁聞は実在の人物ではなかったとする説が有力で』、『六郷満山の寺院は、実際には、古来から国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて天台宗の寺院の形態を取るようになったもので、近隣の宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと考えられている。各寺院を開基した人物としては、仁聞の弟子として共に修行を行い、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の別当などを務めたと伝えられる法蓮、華厳、躰能、覚満といった僧侶を挙げる説もある』。『仁聞については、宇佐神宮の祭神である八幡神自身あるいは八幡神に近しい神の仏教的表現であると考えられている。なお、国東六郷満山に数えられる両子寺奥の院においては、仁聞菩薩と八幡大菩薩を併せて「両所権現」として祀っている。これは両子権現とも呼ばれ、同寺や所在する山の名前の由来と思われる』。『奈良時代、仁聞菩薩が訪れた寺院、佐賀県・長崎県・大分県・熊本県の』三十三箇所の『九州西国三十三箇所観音霊場は』現在でも有名である。

「生牲」「いけにへ(いけにえ)」と読む。「生贄」に同じい。]

 流され王の一文はあの當時色々の都合があつて、既に自分の胸に浮かんだゞけの、事實のすべてを敍説することが許されなかつた。それが次々に珍しい新例を追增して來て、しかも今日は率直にその委曲をつくすことが、一段と困難な世柄になつて居るのである。魚の物を謂ひ飯を食つたといふ話なども、氣をつけて居る爲か、尚ぼつぼつと現れて來る。熊谷彌惣左衞門が稻荷として祭られた話の如きも、いつの間にか津輕の御城下まで遠征しており、是と緣があるらしき飛脚狐の記錄に至つては、全國を通計すれば十餘箇處にも及ぶであらう。是等は説き立てるに何の斟酌もいらぬことだが、其代りそれは唯同類の例が、まだ幾つかあるといふだけの話で、自分は兎も角も他の人には少しくうるさい。全日本の巨人が岩や草原の上監過した足跡は、魚にも植木にも見られぬやうな、大小の差異があり、又成長がある。その中でもダイダラボツチの一群だけに、特に奇拔な形容があり又滑稽な誇張があるのは、中世關東人の趣味と氣風とが、もうそろそろと今日の萌しを見せて居たのかも知れない。しかし其御蔭に此口碑などは、盛りが早く過ぎて辛うじて記憶を守るまでになつて居る。之に反して、所謂一つ目小僧樣の方は、今でも年毎に武相の野の村を訪れて居たのであつた。二月と十二月の八日節供の前の晩に、門に目籠を竿高々と掲げて、目の數を以て是と拮抗して見ようとしたり、もしくは茱萸の木を燃やし、下駄を屋外に出して置くことを戒めて、彼にその一つの眼を以て家の内を覗かれるのを避けんとして居る。さうして必ず樣附けを以て之を呼ぶのを見ても、神と名けて居なかつたといふのみで、只の路傍の叢の狸貉などゝ、同一視しなかつたことは明かである。毎日飛行機の唸つて居る我々の靑空も、今尚彼が去來の大道であつたことを、つい近頃になつて私は學び知つたのである。さういふ無知を以てこの長々とした傳記を書いて見ようとしたことは、少なくとも彼一目小僧樣に對して、恐縮の他は無いのである。

[やぶちゃん注:「あの當時色々の都合があつて、既に自分の胸に浮かんだゞけの、事實のすべてを敍説することが許されなかつた。それが次々に珍しい新例を追增して來て、しかも今日は率直にその委曲をつくすことが、一段と困難な世柄になつて居る」とはこれまた意味深長な物謂いであるが、これについては、木村剛久氏が御自身のサイト「海神歴史文学館」の「一目小僧その他」でこの部分について、『本書の「流され王」が雑誌「史林」に掲載されたのは』大正九(一九二〇)年のことで、『貴族院書記官長の辞表を原敬首相に提出したあと、朝日新聞への入社が決まったころ』とされ、『満州国皇帝に溥儀(ふぎ)が就任し、まもなく衆議院で美濃部達吉の天皇機関説が批判されようという時期である』。まさに『その時節に』異国神渡来伝説たる『「流され王」、つまり王の追放と流亡(るぼう)を扱うのは、いかにも刺激が強すぎる。だが、それを取り下げようとはしなかった。思いのまま書けなかったと付記しながら、民間伝説をそのまま紹介したのである』という評で氷解した。

「二月と十二月の八日節供」事八日(ことようか)。本来は旧暦二月八日と十二月八日の年二回行われた行事で、「事」は「小さな祭り」の意(二月と十二月の一方だけを重視する地方もある)。この日は一つ目の怪物が来るとされ、ここに出るようにそれを回避するため、目籠を竿先に掛けて軒先に立ててたりして防衛線とした外、針供養などの行事も行った(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「茱萸」「ぐみ」と読む。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus 。茎に棘があり、植物体に独特の臭気がある。

「下駄を屋外に出して置くことを戒め」一つ目によってその下駄には印が押されてしまい、翌年にはそれを目印としてその家に流行り病いをもたらすなどと言われた。]

 たゞ幸いなことには自分はまだ、何とも相濟まぬといふ樣な斷定はして居なかつた。この一つ目の一篇には限らず、私の書いたものには悉く結論が缺けて居る。たまには斯うで無いかといふ當て推量を述べて見ても、後ではそれが覆つてしまふほどの、意外な新しい事實の顯はれて來ることを、寧ろ興味を以て待構へて居るのである。しかし實際はさう大した反證といふものが擧らなかつた。曾て私の提出した疑問は、今でもまだ元のまゝに保存せられて居る。二十何年もかゝつてそんな小さな問題が、まだ解け無いとはをかしいといふ人もあらうけれども、小さいといふことゝ問題の難易とは、少しでも關係が有りはしない。それに本當は小さくないのかも知れぬのである。何れにしても私の目的は、是がある人間の半生を費して、尚説明してしまはれない問題だといふことを、報告して置けばそれで達するので、もし尚注文を加ふれば率直に物を訝かる心、今まで講壇の人々に措いて顧みられなかつた社會現象は無數であり、それが悉く何らかの意義を潛めて、來り採る者を待つて居るのだといふ希望、もしくは是を薪とし燈火として、行く行くこの無明世界の片隅を、照らして見ることが出來るといふ樂觀などを、能ふべくは少しでも多くの人に、勸説してみたいと思ふだけである。答も稻妻と雷鳴とのやうに、問との間が遠いものほど、大きからうとさへ考へて居るのである。

[やぶちゃん注:「勸説」「くわんせつ(かんせつ)」で説き勧めること。]

 但し是等の文章を公けにしてから後に、新たに集積した色々の資料だけは、正直のところ如何に始末してよいかに當惑をして居る。何れ索引でも設けて誰にでも利用し得るやうにするの他は無いが、さし當りの方法として、一旦書いてあるものをばらばらに解きほぐし、新舊の材料を併せてもう一度組立ててみてはどうかといふと、それではもう最初の日のやうな樂しみはなくなつてしまふだらう。この始めて旅行をして來た小學生のやうな活潑な話し方を、今頃踏襲して見ることは自分には少し六つかしい。其上にこの各篇の中には、多くの故友のもう逢ふことも出來ぬものが、卓子の向う側に來て元氣よく話をして居る。うちの娘たちも極めて稚ない姿で、眼を圓くして一目小僧の話に聽入つて居る。是に對して居る間は、私などもまだ壯者であり勇者である。それを投棄てて現在の左顧右眄時代に戻つて來ることは、理窟は無しに只惜しいやうな感じがする。だから古い形のまゝでもよいから、纏めて本にして置いたらどうかと勸めてくれる人々は、自分は故郷の隣人のやうになつかしいのである。

  昭和九年五月   柳田國男 識

[やぶちゃん注:先に引いた木村剛久氏の「一目小僧その他」に、『この本は、いまは亡き南方熊楠』(慶応三(一八六七)年~昭和一六(一九四一)年)『や佐々木喜善』(きぜん 明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)、牧師で民俗学者であった『山中共古』(きょうこ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)『などに捧げられたオマージュであり、すでに結婚した娘たちへの思い出の記でもある。そして、左にも右にも気を配りながら、自主規制しながら言論を展開しなければならない時代への頑固な抵抗の書でもあった』とある。柳田國男の長女三穂は明治四二(一九〇九)年、次女千枝は明治四五(一九一二)年で、最初の「一目小僧」の冒頭に「今年九つと六つになる家の娘」とあり、同評論は章末のクレジットから大正六(一九一七)年八月発行の『東京日日新聞』が初出であるから数えでこの三穂と千枝であることが判明した(なお、柳田にはこの他にこの大正六(一九一七)年生まれの三女三千、及び大正八(一九一九)年生まれの四女千津がある)。]

[やぶちゃん注:以下、目次が入る。各標題下のリーダと頁数字、及び最後の「索引」の柱全体を省略する。] 

 

目次

自序

一目小僧

目一つ五郎考

鹿の耳

橋姫

隱れ里

流され王

魚王行乞譚

物言ふ魚

餅白鳥に化する話

ダイダラ坊の足跡

熊谷彌惣左衞門の話

 

 

   一目小僧

    一

 今まで氣が付かずに居たが、子供の國でも近年著しく文化が進んだやうである。

 自分は東京日日の爲に一目小僧(ヒトツメコゾウ)の話を書きたいと思つて、先づ試みに今年九つと六つになる家の娘に、一目小僧てどんな物か知つてるかと聞いて見た。すると大きいほうは笑ひながら、「眼の一つ有るおばけのこと」と、丸で言海にでも出て居りさうなことを言ふ。小さいのに至つてはその二つの目を圓くするばかりで何も知らず、其おばけは家なんかへも來やしないと尋ねて居る。つまり兩人とも、此怪物の山野に據り路人を刧かす屬性を持つて居たことを、もう知つては居らぬのである。

[やぶちゃん注:「(ヒトツメコゾウ)」はルビではなく本文同ポイントである。

「言海にでも出て居りさうなこと」私の所持する明治二二(一八八九)年刊の大槻文彦の「言海」には「ヒトツメコゾウ」の見出しは残念ながら、ない。癪なので、試みにやはり私の所持する小学館「日本国語大辞典」を引くと、『「ひとつめ-こぞう」【一目小僧】〘名〙小僧の姿で、ひたいに目が一つしかないばけもの。目一つ小僧』とある。千穂ちゃん、よくできました

「來やしない」筑摩版全集では「來やしないか」(恣意的に正字化した、向後、この注は略す)となっている。

「刧かす」「おびやかす」と読む。「脅かす」に同じい。]

 到頭一目小僧が此國から、退散すべき時節が來た。按ずるに「おばけ」は化物の子供語である。化物は古くはまた變化(へんぐゑ)とも唱へ、此世に通力ある妖鬼又は魔神があつて、場所乃至は場合に應じて、自在に其形を變ずるといふ思想に基づいて居る。鬼が幽靈に進化して專ら個人關係を穿鑿し、一般公衆に對して千變萬化の技能を逞うせぬやうになると、化けるのは狐狸と云ふ評判が最も盛になつた。狐狸には素より定見が無いから、續々新手を出して人を驚かすことを力める。從つて記錄あつてより以來終始一箇の眼を標榜し、同じやうな處へ出現して居る此恠物の如きは、嚴重なる「おばけ」の新定義にも合せず、少なくとも舊型に拘泥した、時代の好尚に添はぬ代物といふことになる。家の子供らの消極的賢明の如きも、言はゞ社會の力で、之を家庭教育の功に歸することは難いのである。

[やぶちゃん注:「變化(へんぐゑ)」はルビであるが、ちくま文庫版では『へんぐゑ(變化)』としており、戦後に歴史的仮名遣を廃してしまった結果、こうせざるを得ない掻痒感が膿のように滲み出ていると私は感ずる。全集編者よ、せめて「へんぐゑ」と鍵括弧ぐらいつけてやれや! 却って読み難うなっとるやないかい!

「逞う」「たくましう(たくましゅう)」十読む。

「恠物」「くわいぶつ(かいぶつ)」。「怪物」に同じい。]

 しかし昔は化物までが至つて律儀で、凡そ定まつた形式の中に其行動を自ら制限して居たことも亦事實である。尤も相手を恐怖せしめると云ふ單純な目的から言へば、此方が策の得たるものであつた。無暗に新規な形に出て、空想力の乏しい村の人などに、お前さんは何ですかなどゝ問はれて説明に困るよりは、そりやこそ例のだと言はせた方が確に有效である。つまり妖恠には茶氣は禁物で、手堅くして居らぬと田舍では、斯道でもやはり成立ちにくかつたのである。

[やぶちゃん注:この段、実景を想像すると実に愉快である。「茶氣」(ちやき(ちゃき):悪戯っぽい属性。茶目っ気(け))があるのは寧ろ、柳田センセ!

「斯道」「このみち」と訓じておく(全集版もそう表記を改変している)。]

 自分の實父松岡約齋翁(やくさいおう)は、篤學にして同時に子供のやうな心持ちの人であつた、化物の話をして下さると必ず後で其を繪に描いて見せられた。だから自慢では無いが、自分は今時の子供見たやうに、ただ何とも斯とも言はれぬ怖い物などと云ふ、輪郭の不鮮明な妖恠は一つも知つて居らぬ。一目小僧について思ひ出すのは、大抵は雨のしよぼしよぼと降る晩、竹の子笠を被つた小さい子供が、一人で道を歩いて居るので、おう可愛そうに今頃何處の兒かと追付いて振囘つて見ると、顏には眼がたつた一つで、しかも長い舌を出して見せるの出きやつと謂つて逃げてきたと云ふやうなことである。

[やぶちゃん注:「自分の實父松岡約齋翁」柳田國男の実の父松岡操(みさお)。号は「やくさいをう(やくさいおう)」と読む。柳田國男の前半生は複雑している。彼は明治八(一八七五)年七月三十一日に飾磨(しかま)県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川:ここは河童伝承がある)に儒者で医者であった松岡操と妻たけの男ばかりの八人兄弟の六男として出生した(以下、維新変革後の当生家を襲った貧困と困苦は参考にしたウィキの「柳田國男」を参照されたい)。國男は十一歳で地元辻川の旧家三木家に預けられ、十二の時、医者を開業していた長男の松岡鼎に引き取られ、茨城県と千葉県の境である下総の利根川河畔の布川(現在の利根町)に転住、十六歳になると東京に住んでいた三兄の井上通泰(帝国大学医科大学在学中)と同居、この時この兄の紹介で森鷗外の門を敲いている。その後、一高から東京帝国大学法科大学政治科へ進み、明治三三(一九〇〇)年に卒業すると農商務省入りし、主に東北地方の農村の実態を調査研究する傍ら、早稲田大学で農政学の講義もしている。翌明治三四(一九〇一)年に大審院判事であった柳田直平の養嗣子となって入籍、その三年後の明治三七(一九〇四)年四月に直平の四女孝十九歳と結婚して牛込加賀町に転居した。この実父松岡操(天保三(一八三二)年~明治二九(一八九六)年:元は賢次であったが明治初期の改名の自由が許されるたことにより操に改名した)は祖父の代より医師の家系であった。以下、ウィキの「松岡操」より引く。『姫路藩の儒者角田心蔵の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ、田島賢次という名で仁寿山黌や好古堂という学校で修行し、医者となった』。『母小鶴が漢文、フランス語、数学などをよくし、特に漢学の素養が深く文才が豊かであった。小鶴が寺子屋を開いて手習いの子供たちに漢籍を教えていたこともあり、若い頃より学問が好きであった』。柳田國男晩年の回想録である「故郷七十年」によれば、『「父はいつも風呂敷包みをさげて本を借りて来ては読んでゐた」が、それは多分、小さな家を建てるために色んなものを処分したからだろう、と記されている。また、明治維新の大きな変革期にあって種々の悩みからひどい神経衰弱を患い、一時は座敷牢に幽閉されたこともあった。ある夏の夜、座敷牢から出し、蚊帳に寝かせていたところ姿が見えず大騒ぎになるが、裏の竹やぶを隔てた薬師堂の空井戸の中に入っていたのを見つかるという事件もあった』。『一旦は医業を見切り姫路の町学校である熊川(ゆうせん)学舎に招聘され、漢学の師匠となり盛年を過ごすが、その間に本居宣長、平田篤胤に強く惹かれ、國男が生まれた頃には御社の神官をしていた。このことが國男に与えた影響は甚大で、『神道と民俗学』の自序に「私は常に自分の故郷の氏神鈴ヶ森の明神と、山下に年を送った敬虔なる貧しい神道学者、即ち亡き父松岡約斉翁とを念頭に置きつつ、注意深き筆を執ったつもりである」といわしめているように、ことに神道研究の上で大きな影響を落とした。また、國男が戦後の一時期に、神道問題を追究した際に熱心に「新国学」を提唱したのも操の傾倒した本居、平田学派への精神的なつながりを意識してのことだという見方も強い』とある。

「斯とも」「かとも」。

「竹の子笠」竹の皮を裂いて編んだ被り笠。法性寺(ほっしょうじ)笠とも。三度笠に似るが三度笠が頂の部分を尖らしてあるのに対して、画像検索すると竹の子笠は先端が丸い(あるいは少し窪んでいる)ものの方が多いように思われる。]

 此話は多分畿内中國に亙つた廣い地域に行はれて居たものと思ふ。さまで古いころからのことであるまいが、二三の畫工が描き始めた狸の酒買の圖は、之から思ひ付いたものらしい。笠の下から尻尾がちらりと見える形が面白いので持囃され、例へば京の淸水などには、何れの店先にも其燒物を陳べて居る程の流行であるが、流行すればする程、化物としてはちつとも怖くない。是は要するに鳥羽僧正のやうな天才でも、其靈筆を以てして活きたおばけを作り得なかつたのと同じ道理で、如何に變化でも相應の理由が無ければ出ては來ず況んや一人や二人の萬八や見損ひから、此だけ強力なる畏怖をひき起し得るもので無いことを證據立てる。

[やぶちゃん注:「萬八」「万」の中で真実なのは僅か「八」つだけという意で、嘘の多いこと。偽り。大嘘つき。「千三(せんみ)つ」なども同義語。]

 自分が將に亡びんとする一目小僧の傳統を珍重し、出來る限り其由來を辿つて見たいと思ふのも、全く右申すやうな理由からである。 

 

    二

 

 一目小僧の問題に就て、自分が特に意味が深いと思ふ點は、此妖怪が常に若干の地方的相異を以て、殆ど日本全島に行き亙つて居ることである。是は追々と讀者からの注意によつて分布の狀況を明らかにすることゝ信ずるが、自分の知つて居る限りでも、此物の久しく農民の圍爐裏傍と因緣を有つて居たものであつて、例の物知りや旅僧に由つて、無造作に運搬せられたもので無いことだけは判る。

[やぶちゃん注:「圍爐裏傍」「いろりばた」。]

 例へば飛驒國などには、一目小僧は居らぬが一目入道が居る。高山町の住廣造氏の話に、雪の降る夜の明け方に出るもので、目が一つ足が一本の大入道である。仍て之を雪入道と稱して子供が恐がると云ふ。

[やぶちゃん注:「住廣造」「すみ」が姓で「ひろぞう」が名と思われる。単なる民話被採集者ではないと思われる。ご隠居氏のブログ「隠居の『飛騨の山とある日』」によれば、明治四四(一九一一)年に『飛騨山岳会員住廣造が「飛騨山川」(編集岡村利平)を発刊。このなかに乗鞍岳、白山、御嶽の登山コースが紹介されている』。住廣造は明治四二(一九〇九)年に『「飛州志」をはじめとする飛騨叢書を発刊し、飛騨史談会の機関紙「飛騨史壇」の月刊出版も行っていた』とあるので、れっきとした郷土史家である。]

 一目は兼て足も一本だと云ふことは亦隨分弘く言傳へられて居る。高瀨敏彦氏の話に、紀州伊都郡では雪の降積んだ夜、ユキンボ(雪坊?)と云ふ化物が出て來る。小兒のやうな形をして一本脚で飛んであるくものと傳へられ、雪の朝樹木の下などに圓い窪みの處々にあるのを、ユキンボの足跡と言ふさうである。

[やぶちゃん注:「高瀨敏彦」柳田國男の引用によく出る『郷土研究』四巻一号「紀州伊都郡俗信」などを書いており、和歌山の郷土史家かと思われる。

「紀州伊都郡」「いとぐん」と読む。現存する和歌山県北部の郡。旧郡域は和歌山最北端部全域で、現在の同郡を構成する、かつらぎ町(ちょう)(但し、旧郡では一部を除く)・九度山(くどやま)町・高野(こうや)町の他、橋本市及び紀の川市の一部、更に現在の奈良県五條市の一部(真土村だった部分)を加えた地域を指した。]

 この話では小僧の眼が幾つと言はぬから、普通の數と見るの他は無いが、同じ紀伊國でも熊野の山中に昔住んで居た一踏鞴(ひとたゝら)といふ凶賊の如きは、飛驒の雪入道と同じく、亦一眼一足の恠物であつた。一踏鞴大力無双にして、雲取山に旅人を刧かし、或は妙法山の大釣鐘を奪ひ去りなどした爲に、三山の衆徒大いに苦しみ、狩場刑部左衞門と云ふ勇士を賴んで之を退治して貰つた。色川郷三千町歩の立合山は、其功に由つて刑部に給せられたのが根源であつて、後に此勇士を王子權現と祀つたと紀伊國續風土記に出て居るが、土地の人は狩場刑部左衞門は實は平家の遺臣上總五郎忠光のことで、維盛卿を色川の山中に住ませる爲、恩賞の地を村の持にして置いたのだと云ふ由、新宮町の小野芳彦翁は語られた。

[やぶちゃん注:「一踏鞴(ひとたゝら)」全集版では『一踏鞴(ひとつだたら)』とルビを振る。後者の方が私には馴染む。さらに言えば「一本踏鞴(いっぽんだたら)」である。これが、一つ目で一本足であることは、山中の鍛冶精錬の民との関係で、すこぶる納得出来るのである。踏鞴を踏むのには、片足を常に連続的に酷使しし続けるために、その片足が不自由になることが多く、また、爐を極めて高温にせねばならぬが、金属融解の温度は当時、その火の色を見る以外には究められなかったがために、常に爐に開けた小さな穴から、中の火を凝視し続けねばならず、それによって似たように片目が不自由になるものがやはり多かったと思われる。されば、山中の鉱脈を秘かに探し出し、そこで鍛冶に秘かに従事した(或いは従事させられた)民を隻眼隻脚でシンボライズすることは自然であったと私は思っているからである。そうして、それを見てしまった部外者は口封じされることもなかったとは言われないと推測もするのである。

「雲取山」固有の山名ではなく、熊野那智大社と熊野本宮大社とを結ぶ熊野参詣道の難所の一つ「雲取越え」のことであろう。ウィキの「雲取越え」によれば、『熊野那智大社から、その後背にそびえる那智山を越えて赤木川の河谷に至るまでを大雲取越え(おおぐもとりごえ)、赤木川から熊野本宮大社に至るまでを小雲取越え(こぐもとりごえ)と呼ぶ』とある。

「妙法山」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある真言宗妙法山弥陀寺。那智山の一角を成る妙法山中腹にある。

「三山」熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の熊野三山のこと。

「狩場刑部左衞門」現在、那智高原公園から熊野古道大雲取越への入口に「狩場刑部左衞門寄附山林」と刻まれた石碑が建つ。これは昭和一〇(一九三五)年に色川村(いろかわむら:和歌山県東牟婁郡にあった旧村で現在の那智勝浦町の北西部に相当する)外、二ヶ所の組合によって建立されたもので、この地の百九十八町歩(約百九十八ヘクタール)の山林が「狩場刑部左衛門」によって古えの色川の村落に寄附されたものであることを顕彰する目的で建てられたものであると、サイト「紀の国風景讃歌」の「狩場刑部左衛門寄附山林碑」にある。そこにはここに記された通り、『中世に熊野の山中から出没した盗賊「ひとつだたら」を退治したという伝説的英雄の伝説上の英雄』ながら、退治の恩賞として三山の一つである那智山から与えられた約三千ヘクタールにも及ぶ山林を総てこの色川十八ヶ村の『郷民に分け与えたことで、長くその恩恵にあずかった旧郷民から今なお尊敬されている人物で』あるとある。

「立合山」これは一般名詞で「たちはひやま(たちあいやま)」と読み、数ヶ村の入会(いりあい)山林のことを指す。

「王子權現」八王子権現のこと。近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰に天台宗と山王神道が習合したもので、一般には日吉山王権現或いは牛頭天王の眷属八神などを祀る。

「紀伊國續風土記」(「續」は「ぞく」とも「しよく(しょく)」とも読む)幕府の命により紀州藩が文化三(一八〇六)年に藩士で儒学者であった仁井田好古を総裁として編纂させた紀伊国の地誌編纂した紀伊国地誌。途中、仁井田の離任による中断などがあって実に三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。参照したウィキの「紀伊続風土記」によれば、『編纂にあたっては、編纂者たちが国中を余さず調査したと』され、本編九十七巻の他に「高野山之部」八十一巻・附録の古文書編十七巻と、実に全百九十五巻からなる大著で、『村によって精粗の別はあるとはいえ、近世紀州藩の情勢を知る上で欠かせない基礎史料であり、紀州の近世農村史料を採訪すると、今日もなお紀伊続風土記に収載されたものがしばしば発見され』、『近世に編纂された同種の文書は日本全国に多数あるが、それらの中でもとりわけ秀逸なものの一つである』とある。

「上總五郎忠光」。「平家物語」巻十一の「弓流(ゆみながし)」で源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を紙のように素手で引き千切った「錣引き」で知られる、剛腕勇猛の藤原悪七兵衛景清(建久七(一一九六)年)~?)のこと。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一般には鎌倉に連行され、八田知家の屋敷で絶食し果てたと伝えるが、豪壮な英雄なればこそ各地に生存伝説を残している。

「維盛」平維盛(保元三(一一五八)年~寿永三(一一八四)年)。ィキの「平維盛」によれば、平清盛嫡孫で平重盛嫡男であったが、父の早世もあって平家内部では孤立気味であった。寿永二(一一八三)年五月の倶利伽羅峠の戦いで総大将であったが義仲軍に大敗を喫した上、同年七月の平氏都落ちに際しても嫡男六代を都に残した上に妻子との名残を惜しんで遅れるなど、一族から不審を抱かれるようになる。寿永三(一一八四)年二月の一ノ谷の戦いの前後に密かに陣中から逃亡、「玉葉」によれば、三十艘ばかりの船を率いて南海に向かったとされる。後に高野山に登って出家、熊野三山を参詣した後同年三月末には『船で那智の沖の山成島』(勝浦湾の湾口周囲約十七キロメートルに点在する大小百三十余りの「紀(き)の松島(まつしま)」の島や岩礁の内で最大の島)『に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)した』と「平家物語」』は記す(享年二十七)。補陀落寺の墓を私も参ったが、悲劇の貴種流離譚よろしく、こちらも生存説が各地に残り、例えば古道の爺氏のブログ「熊野古道 今日の続きは また明日」の「平維盛 入水の島 山成島」によれば(写真豊富なれば必見。引用に際して空欄を埋めたり句読点を打たせて戴いた)、『維盛は、死んだと見せかけて、太地に上陸し、山伝いに色川に落ちのびた、との説もある。この為、色川郷の色川氏は維盛を匿った嫌疑で鎌倉に呼び出され、三年近く、取り調べを受けている。色川は平家の落ち武者伝説が語り継がれている集落である』と書いておられる。

「小野芳彦」(万延元(一八六〇)年~昭和七(一九三二)年)は和歌山県の教育者で郷土史家。ウィキの「小野芳彦」によれば、『旧制和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)で長きにわたって教壇に立ち、当地での尊敬の念を集めた。郷土史家としては、熊野新宮の本願庵主梅本家に秘伝であった編年体の記録を発掘し『熊野年代記』としてまとめたほか、没後に刊行された遺稿集『小野翁遺稿熊野史』(以下、『熊野史』)は、熊野の歴史と信仰の近代的研究の方向性を示したものとして評価されている』とある。

 續風土記の記事だけでは、一踏鞴は單に或時代に出て來た強い盜賊と云ふ迄である。併し熊野の山中には今でも一本ダヽラと云ふ恠物が居ると云ふのを見れば、之を普通の歷史として取扱ふことは出來ぬ。是は南方熊楠氏に聞いた話であるが、一本ダヽラは誰も其形を見た者は無いが、屢々積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足づゝ、印して行つた跡を見るさうだ。

[やぶちゃん注:「續風土記」先の「紀伊國續風土記」のこと。

「南方熊楠氏に聞いた話」南方熊楠は「十二支考」の「鶏に関する伝説」のなかで、熊野の妖怪「一ツタタラ」を記している(底本は一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集2」に拠る)。

   *

 熊野地方の伝説に、那智の妖怪一ツタタラはいつも寺僧を取り食らう。刑部左衛門これを討つ時、この怪鐘を頭に冒(かぶ)り戦うゆえ矢中(あた)あたらず、わずかに一筋を余す。刑部左衛門もはや矢尽きたりと言うて弓を抛げ出すと、鐘を脱ぎ捨て飛びかかるを、残る一箭で射殪(いたお)した。この妖怪いつも山茶(つばき)の木製の槌と、三足の鶏を使うた、と。

   *

「一尺」三〇・三センチメートル。]

 つまり一本脚と云ふことは、雪の上に足跡を留めたに依つて之を知り、其姿は見た者が無いところから、眼の一つであつたか否かは之を論議する折を得なかつたので、是から自分の列擧せんとする各地の例から類推すれば、何れも一目小僧の系統に屬せしむべき恠物であつたかと考へられる。

 土佐では香美(かゞみ)高岡等の諸郡の山奧に一つ足といふ恠物の居たことが、土佐海と云ふ書の續編に見えて居る。文政の頃藩命に由つて高岡郡大野見郷島ノ川の山中に香茸を養殖して居た者、往々にして雪の上にその一つの足跡を見たと云ふ。或は一二間を隔てゝ左足の跡ばかり長く續いて居ることがあれば、或は右の足ばかりで歩いて居るのもあつたと云ふ。

[やぶちゃん注:「香美(かゞみ)」全集版も「かがみ」とルビを振るが、現行ではこの高知県の旧郡名は「かみ」と読む。旧香美郡の郡域は現在の香南市の全域・香美市の大部分・安芸市と南国市と安芸郡芸西村の一部に相当する。高知県東部中央域に沿岸から徳島県県境まで帯状にあった。

「高岡」高知県に現存する郡。旧郡域は現在の同郡の中土佐町(なかとさちょう)・佐川(さかわ)町・越知(おち)町・檮原(ゆすはら)町・日高村・津野(つの)町・四万十(しまんと)町の他、須崎市・中土佐町・佐川町・檮原町・日高村・津野町の全域、土佐市の大部分、越知町と吾川郡いの町と吾川郡仁淀川町の一部を含み、高知県西部中央を殆んどカバーしていた。

「大野見郷島ノ川」四万十川上流部にある台地の一角にあった旧大見野村周辺。現在は中土佐町内。

「香茸」「かうたけ(こうたけ)」と読む。菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱イボタケ目イボタケ科コウタケ属コウタケ Sarcodon aspratus 。サイト「きのこ図鑑」の「コウタケ」には、『干すと良い香りがするのがコウタケの特徴で、味も良いとされるキノコなので調理法を知っている人達の間では人気のあるキノコ』とあるがしかし、『コウタケは乾燥させてから調理するのが一般的で、生で食べると吐き気をもよおすなどの中毒症状が出る事がある為、食べ方を知らない人には食用としてはすすめられ』ないとあるので、要注意!

「一二間」一・八~三・六メートル。次の項でも柳田は問題にしているが、これが片足の歩幅とするならば、恐ろしい巨体であることが推定される。] 

 

  三 

 

 深山雪中の出て來る恠物の足が一本であつたことを、其足跡だけを見て推測することは實は困難である。彼等は何かの都合上、ちんちんもがもがをして飛んで居たので無いとは斷言が出來ない。併し一方には又現に之を見たと云ふ者が、幾人も有るのだから是非に及ばぬ。

[やぶちゃん注:「ちんちんもがもが」遊邑舎&北條敏彰氏のサイト「遊び学事典」の「【ち】」の「チンチンモグモグ[ちんちんもぐもぐ]」に、『片足跳びあそびの古称。江戸時代に、幼児が「チンチンモグモグ、オヒャリコ、ヒャーリコ」と歌いながらあそんだと言われている。時代や地域の違いにより、チンガラモンガラ、チンチンモガモガなどの、呼び名のバラエティーが生まれた』とある。小学館の「日本国語大辞典」の「ちんちんもがもが」の項には、『片足を少し上げ、一方の片方で軽くはねる動作。片足跳びをいう。けんけん。ちんがらもんがら。ちんちんもんがら。ちんちんもがら。ちんちんもぐら。ちんちんもぐらこ。ちんちんが。ちんちん』とある。老婆心乍ら、男女が性行為をすることを指す隠語の「とんちんかもかも」とは違う(意味上は。語源上の類縁関係は知らない)ので要注意。]

 土佐の山村では山鬼(えき)又は山父(やまちゝ)といふ物、眼一つ足一つであると傳へられて居る。山父は又山爺(やまぢい)とも謂ふ。即ち他の府縣に所謂山男と同じ物である。

 寶曆元年に年四十歳でこの國土佐郡本川郷(ほんかはがう)に在勤して居つた藩の御山方の役人春木次郎八と云ふ人は、其著寺川郷談に次の如く記して居る。曰く山父は獸の類で變化の物では無い形は七十ばかりの老人のやうでよく人に似て居る、身には蓑のやうな物を着し眼一つ足一つである。常は人の目に掛ることは無いが、大雪の時道路の上に其通つた跡を見ることがある。足跡は六七尺に一足づゝあつて、圓い徑四寸ばかりの、恰も杵を以て押したやうな凹みが飛び飛びについて居る、越裏門(えりもん)村の忠右衞門と云ふ者の母は之に行き逢つたと云ふ。晝間のことであつたが向から人のやうにたこりて來た。行き違つて振り回つて見ると早其姿は見えなかつた。あまり膽を潰し家へ立還り行く所へ行かず止めたり。何事も無し。昨日の事と語りしまゝに書付け置く也とある。

[やぶちゃん注:「寶曆元年」西暦一七五一年。第九代将軍徳川家重の治世。

「本川郷」全集版は「ほんかわ」とルビするが、平凡社「世界大百科事典」によれば(以下はそれを参照した)、「ほんがわ」が正しいようである。高知県中央北部にある土佐郡の村。吉野川源流域に位置しており、北部には石鎚山脈の筒上山(つつじょうざん/やま:標高一八五九メートル)・瓶ヶ森(かめがもり:一八九七メートル)・寒風山(かんぷうざん:一七六三メートル)・笹ヶ峰(一八六〇メートル)などの峨々たる高峰が聳えて愛媛県とを境する。曾て当村から東隣りの大川村を含む一帯は「本川郷」と呼ばれ、周囲から隔絶した山間地帯で、中世には「本川五党」と称する五人の土豪が支配していた。現在の高知県吾川(あがわ)郡いの町寺川は石鎚山(いしづちさん:別称「伊予ノ高嶺」と称し、愛媛県中部にある石鎚山脈の主峰にして一九八二メートルの西日本最高峰でもある霊峰)への登山口でもあるが、江戸中期に同地に駐在した土佐藩山廻役春木氏の記した「寺川郷談」は、焼畑や狩猟など当時の生活や習慣をよく物語る、とさても注要らずにしてくれた。ありがたい。

「六七尺」一・八一~二・一二メートル。

「徑四寸ばかり」直径約十二センチメートル。

「越裏門(えりもん)村」四国山脈を形成する石鎚山系の東側に当たる吉野川の最上流部に位置する、 海抜七百メートルほどの旧本川村越裏門、現在の吾川郡いの町越裏門。S. Miyoshi 氏の「越裏門の地蔵堂と鰐口」が位置と歴史を知るに頗るよい。

たこりて」「日本国語大辞典」に「たごる」があり、方言で風邪などをひいて咳をすることとあり、採集地に高知県が挙げられてある。これか?]

 どうして飛んだにしても、一足に六七尺づゝでは相應な大軀(おほがら)でなければならぬが、他の書には又、形人に似て長(たけ)三四尺ともあつて、少し一致せぬ。

[やぶちゃん注:「三四尺」九十一センチメートルから一メートル二十二センチメートル弱。]

 或は又眼は一箇にして足の方は常體であつたやうな記事も往々にしてある。例へば阿波の山奧に於て、柚の居る小屋へ遣つて來て、よく世間に語り傳へて居るやうに、人の心の中を洞察したと云ふ山父の如きも、其眼が一つであつたと阿州奇事雜話に記して居る。

[やぶちゃん注:「阿州奇事雜話」横井希純(事蹟不詳)が寛政年間(一七八九年~一八〇一年)に記した百七条から成る阿波国の奇譚集。ウィキの「山爺」には同書などに、『夜の山小屋に木こりがいたところに山父が現れ、木こりが恐れたり、いっそ殺してしまおうかと考えると、山父がその考えを読んで次々に言い当てたが、焚き火の木が山父に弾け飛んだところ、山父は自分が読み取れなかった出来事が起きたことに驚いて逃げ出したという』とあると記すが、この話、我々のような怪奇談蒐集家には超弩級に知られた奇談の一つなである。]

 豐後の或山村の庄屋、山中に狩する時、山上二三尺の窪たまりの池の端に、七八歳ばかりの小兒總身赤くして一眼なる者五六人居て、庄屋を見て龍(りう)の髭の中に隱る。之を狙ひ擊つに中らず、家に歸れば妻に物憑きて狂死す。我は雷神なり、たまたま遊びに出でたるに何として打ちけるぞと云ひけり。之を本人より聞きたる者話すと云へり。是は落穗餘談と云ふ書の中に錄せられたる記事で、今から約二百年も前頃の話である。

[やぶちゃん注:「二三尺」六〇・六~九〇・九センチメートル。

「龍(りう)の髭」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の別名。ただ、本種の草高は十センチメートル程しかないからそこに「隱れる」というのは、書いてないが、この全身が真っ赤な五、六人小児(これは実は中国で火難を予兆する妖怪に同様の者がいる)というのは実は異様に小さな小人であったと読める。

「狂死」といっても死んだのではなく、失神したのであろう。後の台詞はその直前に憑依した神霊或いは物の怪が語った内容と思われる。

「落穗餘談」不詳。但し、「続国史大系」第九巻の引用書目中に書名は見出せ、国立国会図書館の書誌データにも三巻本とは出る。

「今から約二百年も前頃」単純に初出執筆時大正六(一九一七)年から遡ると、享保二(一七一七)年になる。]

 又國は何處であるか知らぬが、有馬左衞門佐殿領分の山には、セコ子といふ物が住んで居た。三四尺程にて眼は顏の眞中に只一つある。其他は皆人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連れ立ちありく。人之に逢へども害を爲さず。大工の墨壺を事の外欲しがれども、遣れば惡しとて遣らずと杣共は語りけり。言葉は聞えず聲はヒウヒウと高くひびく由なりと、觀惠交話と云ふ書に出て居る。是も同じ時代の事である。

[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」「ありまさゑもんのすけどの」と読む。不詳。

「セコ子」「せここ」と読むようだ。それにしても、ウィキもたいしたもんだ。柳田が「國は何處であるか知らぬ」とうっちゃらかしたものが、ちゃんと判る。ウィキセコから引く。「セコ」とは二、三歳ほどの『子供の妖怪で、河童が山に登ったものとされ』、『鹿児島県以外の九州地方と島根県隠岐郡に伝わっている』。『外観は一般には、頭を芥子坊主にした子供のようだとも、猫のような動物とも、姿が見えないともいう。島根の隠岐諸島では』一歳ほどの『赤ん坊のような姿で、一本足ともいう。古書『観恵交話』では、一つ目で体毛がないが、それ以外は人間そっくりとされる。但し民間伝承上においては、セコが一つ目という伝承は見受けられない』。『妖怪漫画家・水木しげるによる妖怪画では、一つ目と二つ目のものが存在する。夜中に、山を歩いていると、楽しそうな声や音が聞こえるのは、このセコによるものとされる。夜は木の周りで踊っているという』(以下注記号を省略した)。『人に対して様々な悪戯を働くともいう。島根県では石を割る音や岩を転がす音をたてるという。宮崎県では山中で山鳴りや木の倒れる音をさせたり、山小屋を揺すったりするという。大分県では山道を歩く人の手や足をつかんでからかう、牛馬に憑く、人をだまして道に迷わせる、怪我を負わせる、人が山に入るときに懐に焼き餅を入れていると、それを欲しがるなどといわれる』。前述の観恵交話では二十~三十人ほどで『連れ立ち、大工の墨壺を欲しがるという。基本的にこちらから手を出さない限り直接的な害はないが、悪戯を受けた際は鉄砲を鳴らす、経を読む、「今夜は俺が悪かった」などと言い訳をするなどの方法が良いという。セコはイワシが嫌いなため「イワシをやるぞ」と言うのも効果があるという』。『山と川を移動するとき「ヒョウヒョウ」「キチキチ」「ホイホイ」などと鳴くという。この「ホイホイ」は、狩猟で獲物を刈り出す勢子(せこ)の掛け声「ほーい ほーい」を真似ており、セコの名はこの勢子が由来とされる。大分では日和の変わり目に群れをなして「カッカ」と鳴きながら山を登るといい、セコが通る道に家を建てると、家の中には入ってこないがその家が揺すられたり、石を投げつけられたりするという』。『熊本県では、セコは老人のような声から子供のような声まで出し、木こりはその声によってセコの機嫌を知るという』。『島根県隠岐諸島では、セコはカワコ(河童)が秋の彼岸に山に入ったものとされる。「ヨイヨイ」「ホイホイ」「ショイショイ」などと鳴き、イタチのように身が軽いので、こちらで鳴き声が聞こえたかと思えば、すぐに別のほうからも鳴き声が聞こえるという。足跡は』一歳ほどの『赤ん坊のものに似ているという。また、セコは年老いた河童のことで、川や溝を一本足で歩くともいわれる』とある。この一歳児の足跡というのは「座敷童子(ざしきわらし)」との連関性を私は強く感じる。

「墨壺」私は一つ目の顔と墨壺の形は類似しており、これはフレーザーの言う一種の類感呪術のシンボライズであるように思われる。なお、それを手に入れれば不吉なことが起こるというのなら、或いはプラグマティクには片目では真っ直ぐに歩くことが困難であることから、それを欲しがり、それを手に入れると跳梁跋扈するということか? こういうアイテムをこそ立ち止まって考えてみたくなるのが、僕の、悪い癖。

「ヒウヒウ」全集版では『ヒユウフユウ』(元は拗音表記)。

「觀惠交話」詳細不詳。検索を掛けると上巻があることから二巻以上はあることは判る。]

 是だけ詳しく見た人が何とも言はぬのだから、足の方はちやんとして居たことであらう。日東本草圖彙と云ふ書には畫を添へて又斯んな話が出て居る。上州草津の温泉は毎年十月八日になると小屋を片付けて里へ下る習であつた。或年仕舞ひおくれて二三人跡に殘つた者、夜中酒を買ひに里へ下るとて温泉傍を通ると、湯瀧の瀧壺の中に白髮は銀の如き老女が居て、何處へ行くか己も行かうと言ふのをよく見ると、顏の眞中に一つしか眼が無くて、其眼が的然と照り輝いて居たので、小屋へ飛んで還つて氣絶した云々。此婆さんなどは湯に入つて居たのだから、足の報告に及ばなかつたのは尤もである。

[やぶちゃん注:「日東本草圖彙」詳細書誌不詳。識者の御教授を乞う。

「湯瀧」草津温泉の湯畑にある現在では樋で引いてあるものを指すのであろう。]

2016/02/13

E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の石川千代松「序――モース先生」 附東洋文庫版「凡例」(引用) / 全電子化注完遂!

E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の石川千代松「序――モース先生」 附東洋文庫版「凡例」(引用)

 

[やぶちゃん注:底本は今までと同じく平凡社東洋文庫一九七〇年刊のE・S・モース著石川欣一訳「日本その日その日」を用いた。

 考えてみたら、ちゃんと訳者の紹介をしていなかったので、ここで改めて御紹介しておく。ウィキの「石川欣一」より引く。石川欣一(きんいち 明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年)は東京生まれのジャーナリスト・随筆家・翻訳家。主に毎日新聞社に属した。父は動物学者で以下の「序――モース先生」の著者であるモースの直弟子石川千代松で、母の貞は法学者の箕作麟祥(みつくりりんしょう/あきよし 弘化三(一八四六)年~明治三〇(一八九七)年)の娘である(因みに、東京帝国大学理科大学で日本人初の動物学教授となった箕作佳吉(安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)は麟祥の従兄弟である)。明治三九(一九〇六)年に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現在の筑波大学附属小学校)、大正二(一九一三)年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業、大正七(一九一八)年二十三歳の時、東京帝国大学英文科からアメリカのプリンストン大学に転じて一九二〇年に卒業、帰国後は『大阪毎日新聞社の学芸部員となった。留学中、父千代松の恩師、大森貝塚のエドワード・S・モースの知遇を得、その縁が、モースの『日本その日その日』の邦訳・出版』(一九二九年)に繋がった。その後、『大阪毎日新聞社から東京日日新聞社へ移り』、昭和八(一九三三年)から昭和十年まで、『ロンドン支局長を勤め』、昭和十二年に『大阪毎日新聞社文化部長となった。勤務の傍ら、随筆・翻訳の執筆にはげんだ』。昭和一七(一九四二)年(四十七歳)、『日本軍が占領したフィリッピンのマニラ新聞社に出向したが』、二年後の昭和十九年十二月、『アメリカ軍の反攻上陸をルソン島の山中に避け』、敗戦の翌月、新聞報道関係者二十二人を率いて投降、同年末に帰国した。『戦後は、毎日新聞社出版局長、サン写真新聞社長などを歴任した』とある。

 彼の父であり、「序――モース先生」の著者石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)は日本の動物学者で進化論学者。明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ているから(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの青年も旧知の仲であったのである。翌明治十一年、東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、モースが逢った時はまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学』(正式名称は「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)『アウグスト・ヴァイスマン』(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年:フライブルク大学動物学研究所所長で専門は発生学・遺伝学)の下で学び、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』、以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

 さてここに一つ問題がある。

 それは「凡例」の電子化である。これは平凡社東洋文庫編者によって附されたものであるから当然の如く著作権が存続している。しかもこれはまさに編集権に関わる内容注記である。しかし、この「凡例」の内容は私が全電子化注を終えた訳文全体に関わる極めて重要な変更点が注されてあるものであり、これを電子化しないことは、私の電子テクストについての書誌上の重要な変更箇所が明記されず欠落してしまうことになる。別に私が言い換えても構わないのではあるが、寧ろ、そのまま引用する形で示すのが礼儀というものであろうと私は考える。従って以下に《引用》することとする(底本では各条は二行目以降が一字下げであるが再現していない。最初の第一条内の『日本その日その日』の署名の後半の「その日」は底本では踊り字「〱」である)。

   《引用開始》

 

  凡  例

 

一 本書は、Edward Sylvester Morse“Japan day by day”1977 Boston. の全訳であり、故石川欣一訳『日本その日その日』(上下)(昭和四年十一月、科学知識普及会発行)の覆刻である。

一 本文庫におさめるに当たっては、原訳を尊重し、その原文をそこなわないようにつとめているが、読み易くするために、新仮名・新字体をもちい、難読のものにふり仮名を付し、外国語の漢字表記は仮名書きに改めるなど、若干手を加えている。また明らかに誤りと思われる個所は、創元選書『日本その日その日』(昭和十四年十一月、創元社発行)を参照し、訂正した。

一 モース自身のスケッチによる挿図は、すべて原著から改めて採録した。

 

   《引用終了》

 なお、今一つ、原文校合参照にさせて戴いた Internet Archive の同原書の第二巻の冒頭に本書に掲げられていないBunzou Watanabe(第一巻の冒頭にもあった)なる画家の水彩彩色画のカラー画像二枚を見出せたのでここにやはり掲げておく。キャプションは、

Japandaybyday18702morsuoft_0010

JAPANESE EXTERIOR AND INTERIOR

Village Street, Asama Hot Spring, and Room in Inn. Miyanosita

Watercolor by Bunzou Watanabe,1882

 

とある。――日本家屋の外見と室内――浅間温泉の村道と宮ノ下の旅館の部屋――ブンゾウ・ワタナベによる水彩画――で、宮ノ下は箱根のそれであろう。

 私はモースの同書の本文訳の電子化が目的であったのであり、ここで訳版の石川千代松の序の文章に注を附すことになると、管見するだけでも知らない人名・地名が多数出現し、これでは相当な調査と注が必要となり、それにひどく時間がかかることになることが予想された。これは訳の序であって、本文ではない。さればこそ注は地名や人名には原則附さないこととした。但し、私の知的欲求が望んだところの一部の例外が含まれる。悪しからず。]

 

 

     序――モース先生   石川千代松

 

 一八八七年の春英国で科学の学会があった。此時ワイスマン先生も夫れへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウエルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采(かっさい)を博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計(ばか)りでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロ-スターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方(こちら)は自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之(こ)れからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔には方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。

 今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人達が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。

[やぶちゃん注:「偕行社」「かいこうしゃ」と読む。戦前、帝国陸軍将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された組織。]

 斯様(かよう)に先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。

 先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘(しょうへい)したいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。

 其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。

[やぶちゃん注:石川の認識には誤認がある。まず、モースは予め正式なお雇い外国人教師として東京大学で動物学及び生理学を教授することに決している状態で来日している。正式な契約書の取り交わしは明治一〇(一八七七)年七月十六日であったが、モースが江の島を訪れて実験施設する小屋を借り受けたのは、実にその翌日同年七月十七日のことである。また、「江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて」というのも誤りである(詳しくは本文と私の注を参照のこと)。また「松浦佐与彦」はモースのプエル・エテルヌス「松浦佐用彦」の誤りである。彼のこともモースは本文でしみじみと書いていることは何度も注した。]

 先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之れ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遠か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が玆(ここ)に面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の詳義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。

 先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。

[やぶちゃん注:「本統」はママ。]

 処が当時本邦の学校に傭(やと)われて居た教師達には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔(など)云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。

[やぶちゃん注:モースは、大森貝塚人はアイヌ以前に本邦に先住していたプレ・アイであるという説を唱えた。]

 此大森の貝塚に関して一寸(ちょっと)云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。

 斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の噂矢でもある。東京生物学会は共後動植の二学会に分れたが、共最初の会長には先生は欠田部良書先生を推されたと私は覚えて居る。

[やぶちゃん注:「メモアー」英語の memoir (メモワー)でフランス語の mémoire(s)(メモワール)由来の語。研究論文(報告)、複数形で学会論文集・学会誌・紀要の意となる。]

(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処(そこ)に記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)

[やぶちゃん注:これは昭和四(一九二九)年十一月に建てられた品川区側の一つ目の「大森貝塚」碑であろう。御存じかとも思うが、大田区側の大森駅近くの線路側には、電車からもよく見える、その翌昭和五年に建てられたもう一つの「大森貝墟」碑が別にある(現在は考証によって品川区側が正しいことが判明している)。「大毎社長本山君」大阪毎日新聞社社長本山彦一(ひこいち 嘉永六(一八五三)年~昭和七(一九三二)年)。「大山公爵」は大山史前学研究所の創設で知られる陸軍軍人で考古学者であった大山柏(かしわ 明治二二(一八八九)年~昭和四四(一九六九)年)。以上二人は例外的に注する。]

 之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャツパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼(けいがん)で観察せられたものであるから、

 誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓であって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣板や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようほ斯(こ)う云うたものであった。

 又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺(はなし)も時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、舵に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽(あわただ)しく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って釆た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。

 之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい問に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用(はいよう)すべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。

[やぶちゃん注:ウィキエドワード・S・モースによれば、モースは帰米から十五年後の一八九八年(明治三十一年)、東京大学(この授与当時は東京帝国大学)に『おける生物学の教育・研究の基盤整備、日本初の学会設立などの功績により、日本政府から勲三等旭日章を受け』ている。因みに一九〇二年六十歳を越えたモースは二十数年ぶりに『動物学の論文の執筆を再開』、一九〇八年に渡米したこの筆者石川千代松に『対しても「私は陶器も研究しているが、動物学の研究も止めない。」と述べるなど、高齢になっても研究に対する執念は尽きなかった』。一九一三年(大正二年)七十五歳となったモースは、三十年以上も前の日記とスケッチをもとにまさにこの“Japan Day by Day”の執筆を開始したのであった(四年後の一九一七年に擱筆、出版)。一九一四年には『ボストン博物学会会長』に就任、翌年には「ピーボディー博物館」(古巣の「ピーボディー科学アカデミー」が改名組織)の名誉会長にともなっている。そうして実に異例のことにここに記された通り、大正一一(一九二二)年にはさらに『日本政府から勲二等瑞宝章を受け』ている。]

 私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチユートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチエートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、

 “The Wister Institute of Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled……in using for my brain which they will get when I am done with it.”

……の処の文字は不明)。

 此文章の終りのwhen I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。

[やぶちゃん注:概ね以下のような意味か(括弧内は推定)「フィラデルフィア・ウィスター・インスティテュート内解剖学研究所がきちんと(私の名前が)ラベルに記入されたガラス製の容器を送ってきました。……私がその中だけで済むようになると同時に、彼らが手に入れる私の脳のために、使うためのものです。」といった感じか? ウィキエドワード・S・モースによれば、一九二五年(大正十四年)、八十七歳に『なってもなお手術後の静養中に葉巻をふかすなど健康だったが、脳溢血に倒れ』、十二月二十日附の『貝塚に関する論文を絶筆に、セイラムの自宅で没した』。遺言によりしっかりと彼の脳は翌十二月二十一日、『フィラデルフィアのウィスター解剖学生物学研究所に献体され』ているとある。それにしても、「……の処の文字は不明」はモースの悪筆ぶりがハンパないものであることがよく知れる。]

 斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文ほ夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。

 併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレ一博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナティで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。

 先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガツシイの動物学の講義の中で腕足頼に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。

[やぶちゃん注:ウィキエドワード・S・モースに、一八九〇年(五十二歳)の時、『日本の陶器のコレクションをボストン美術館へ譲渡して管理に当たり』、翌一九〇一年には、『その目録(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)を纏めあげ』た、とある。]

 先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。

[やぶちゃん注:「八十六(?)」石川千代松自身が年齢を正確に覚えていなかったものか? モースは八十七で亡くなっているから年令上ではおかしくはない。]

 先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。

 先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御妹さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。

 斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。

 先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチエートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。

 であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。

 私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。

[やぶちゃん注:『遺体はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られている』とある。夫婦墓の写真は海外サイト“Find A Grave”で見られる。]

 × × × × ×

 終りに玆(ここ)に書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢、ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。

[やぶちゃん注:「宮嶋幹之助」(みきのすけ/かんのすけ 明治五(一八七二)年~昭和一九(一九四四)年))は寄生虫学者。山形県生まれ。ウィキ宮島幹之助から引く(正しくは「宮嶋」)。『第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て』、明治三一(一八九八)年東京帝国大学理科大学動物学科卒。大学院に入学。日本産無脊椎動物、とくに腔腸動物を専攻した』。明治三三(一九〇〇)年には『尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。指導教官は動物学』第三代『教授の箕作佳吉。ツツガムシ病原媒介体としての赤虫の研究を行い、理学部出身者として初の医学博士となる。学位論文は「本邦産アノフェレスについて」。同年中にシマダラカによる媒介を証明した』。翌年には『京都帝国大学医科大学講師となり、寄生虫学を担当』。明治三六(一九〇三)年、『内務省所管で北里柴三郎が所長である、国立伝染病研究所入所。宮島は痘苗製造所技師となり、ツツガムシ、マラリア、日本住血吸虫、ワイル病の研究に従事』、翌年には『北里の命で、セントルイス万国博覧会に出席』。目地三八(一九〇五)年、『伝染病研究所の部長に昇任。その後、マレー半島のマラリア調査、ブラジル移民の衛生状態調査、台湾地方病および伝染病調査委員の嘱託など、たびたび海外に派遣された』。大正三(一九一四)年の学閥支配による『伝染病研究所移管時は、北里とともに辞職。北里研究所の初代寄生虫部長とな』っている。後、昭和一三(一九三八)年には『北里研究所副所長とな』った。自動車事故のために急逝。

「モース先生の令嬢、ミセス・ロッブ」モースの娘イーディス(Edith)。結婚してEdith Owen Morse Robb となっていた。一八六四年十二月九日生まれで一九六二年二月十八日に、非常な長命で亡くなっていることが先の海外サイト“Find A Grave”で判る。]

 夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。






淋しいけれど……2013年6月26日に始めた僕とモース先生の旅は……終った……

柳田國男「蝸牛考」昭和一八(一九四三)年創元社版「改訂版の序」 「蝸牛考」電子化注完遂!


柳田國男「蝸牛考」昭和一八(一九四三)年創元社版「改訂版の序」

 

[やぶちゃん注:以下は、一九九〇年ちくま文庫刊「柳田國男全集19」を底本としたので、今までの『初版「蝸牛考」』とは異なり、新字体現代仮名遣となる。底本は全集編者によって一部の漢字に読みが附されてあるが、それのどれが原本のものであり、どれが新たに編者が附したものかは判別がつかない(改訂版原本は私は所持しない)。

 「初版序」と比較されたい。柳田の学会への倦厭感及び時代を反映した陰鬱たる気分が殊更に際立っていることが判る。また、先に電子化した柳田國男「蝸牛考」昭和一八(一九四三)年創元社版「蝸牛異名分布表」の冒頭注で引用した底本巻末の真田伸治氏の解説も是非合わせてお読み戴きたい。

 一つだけ注しておくと、「仏蘭西方言図巻」というのは、スイス生れのフランスの言語地理学の創始者である言語学者ジュール・ルイス・ジリエロン(Jules Louis Gilliéron 一八五四年~一九二六年)が、助手エドモン・エドモン(Edmond Edmont)を調査者として六百三十九地点を調査した結果を纏めた Atlas linguistique de la France(「フランス言語地図」。一九〇二年から一九一〇年にかけて刊行)のことであろう。ウィキジュール・ジリエロンによれば、『ジリエロンの研究は「のこぎり」「ミツバチ」などを意味する語の分布という一見きわめて些細な問題を取り扱っているように見えるが、そこから大きな問題を引き出した。ジリエロンによれば語の多様性は青年文法学派の言う例外のない音変化では説明できず、語形の摩滅による同音異義語を避けようとする話者の意図的な言い換えが原因であるとした。また他の語の混交や民間語源の作用に大きな価値を認めた。「語にはそれぞれ歴史がある」(Chaque mot a son histoire)は、言語地理学の立場を代表する言葉となった』とある。

 

 

 

  改訂版の序

 

『方言覚書』を、一冊の本にした機会に、しばらく絶版になっていた「蝸牛考(かぎゅうこう)」を、今一度世に問うてみようという気になった。説明が拙(つた)なかったと思う個所に少しく手を入れ、また附表の地図をやめて、やや排列(はいれつ)の形式を変えてみた。そのために意外に時日がかかったが、もうこれでよろしいとまでは言うことができない。あるいは幾分か前よりは判(わか)りやすくなっていると思うがどんなものであろうか。本の内容とともに、新たなる読者の腹蔵なき批判を受けてみたい。

 国語の改良は古今ともに、まず文化の中心において起るのが普通である。ゆえにそこではすでに変化し、または次に生れている単語なり物の言い方なりが、遠い村里にはまだ波及せず、久しく元のままでいる場合はいくらでもあり得る。その同じ過程が何回となく繰り返されて行くうちには、自然にその周辺には距離に応じて、段々の輪のようなものができるだろうということは、いたって尋常の推理であり、また眼の前の現実にも合していて、発見などというほどの物々しい法則でも何んでもない。私は単に方言という顕著なる文化現象が、だいたいにこれで説明し得られるということを、注意してみたに過ぎぬのである。この国語変化の傾向は、わが邦(くに)においては最も単純で、これを攪(か)き乱すような力は昔から少なかったように思う。たとえば異民族の影響が特に一隅に強く働くとか、または居住民の系統が別であったために、同化を拒んだり妥協を要求したりするという、『仏蘭西(フランス)方言図巻』の上で説かれているような原因というものは、探し出そうとしてみても、そう多くは見つからないのである。しかるにもかかわらず、ある若干のもの、とりわけても蝸牛の単語のごときは、この附表に載せただけでもすでに三百種、種類を分けてみると六つ七つの異なるものがあり、地方によってはそれがまた入り交って、時としては部落ごとにというほどもちがっている。一方には『古事記』や『万葉集』の編纂(へんさん)よりも前から、今に至るまで一貫して同じ語を用いている例もたくさんあるのに、これはまた何とした錯雑であろうか。考えてみずにはおられぬ問題であった。単語や表出法のある特定のものだけに、他と比(くら)べてことに急激に変化し、かつその流伝と模倣とを促すような性質が具(そな)わっていたものであろうか。ただしはまたそれを迅速ならしめるような外側の事情が、偶然に来たってこれに附随することになったものであろうか。こういう特別の事情に至っては、むしろここにいうところの周圏説(しゅうけんせつ)ばかりでは、解説しあたわざるものであった。方言すなわち一つの国語の地方差が、どうして発生したかを知った上でないと、国語の統一は企てがたいものであるのみならず、かりに一度は無理に統一してみても、やがてまた再び区々(まちまち)になることを、防止する望みも持つことができない。そうして方言の成立ちを明らかにしようというには、こんなやや珍らしきに過ぎた一つの実例でも、これをただ不思議がるばかりで打ち棄(す)てておくというわけには行かぬのである。それゆえに自分は、国語に影響したと思う数多(あまた)の社会事情の中から、まず児童の今までの言葉を変えて行こうとする力と、国語に対する歌謡・唱辞の要求と、この二つだけを抽(ぬ)き出して考えてみようとしたのである。言葉は年数よりも使用度のはげしさによって早く古び、そのまた新らしい方の言葉の好ましさというものは、利用者の昂奮(こうふん)心理とも名づくべきものによって、一段と強く鋭どくなるのではないかということを、問題にしてみようとしたのである。児童と民間文芸と、この二つのものに対する概念が、わが邦ではどうやら少しばかりまちがっていた。それを考え直してもらいたいという気持もあって、ちょうどこういう頃合(ころあ)いの話題が見つかったのを幸いに、私は力を入れてこの蝸牛(かたつむり)の方言を説いてみようとしただけである。いわゆる方言周圏説のためにこの書を出したもののごとくいった人のあることは聴いているが、それは身を入れて『蝸牛考』を読んでくれなかった連中の早合点である。なるほど本文の中には周圏説というものを引合いに出してはいるが、今頃あのようなありふれた法則を、わざわざ証明しなければならぬ必要などがどこにあろうか。

 それよりもさらに心得がたいことは、この周圏説と対立して、別に一つの方言区域説なるものがあるかのごとき想像の、いつまでも続いていることである。方言はその文字の示す通り、元来が使用区域の限られている言葉ということなのである。区域を認めない方言研究者などは、一人だってあろうはずがない。ただその区域が数多くの言葉に共通だということが、一部の人によって主張せられ、他の部分の者が信じていないだけである。今からざっと四十年前、まだ方言の実査の進んでいなかった時代に、中部日本のある川筋を堺(さかい)にして、東と西とでは概括的な方言のちがいがあると、言い出した人たちが大分あった。これがもしその通りなら大きなことで、あるいは方言以上、もとは相似たる二つの言語というような結論にもなりかねぬのであったが、その推定を支持するような資料は、今になっても格別増加しておらぬのみか、むしろ反対の証拠ばかり現われている。動詞打消しのユカヌ・イワヌを、イワナイ等の形容詞風に改めてみたり、命令形に添附するヨをロに変えたり、さては観音・喧嘩等をカンノン・ケンカと発音したりするのは、それぞれに一つの好みまたは癖であって、従ってしばしば一地方に偏してはおろうが、東にも元の形は併存しているばかりか、西にもその変え改めた形のものが、毎度のように拾い出されている。甲乙丙丁幾つかの言葉の、一つが変っておればその他もこれに伴のうて、必然に改まって来るということは、絶無とまではまだ言い切るだけの根拠はないが、そうなる原因もわからず他に類例もない以上は、まず当てにはならぬと見る方が当っている。とにかくにそうなって来てもよい理由が、現在はまだちっとでも説明せられず、しかもまた事実もその通りではないのである。どうしてこのような想像説が、いつまでも消えずにあるのかすらも我々には不審なのである。これと方言周圏論とを相対立するものと見るというような、大雑把(おおざっぱ)な考え方が行われている限りは、方言の知識は「学」になる見込みはない。きっとそうだという事実も立証せられず、またそうなって来た経過も追究せられていないのに、それでも一つの学説かと思うなどということは、おおよそ「学」というものを粗末にした話であった。今や国語の偉大なる変遷期に際会しつつ、果してその変遷には法則があるのか、もしくはただ行き当りばったりに、乱れて崩れてこうなってしまったのか、どちらであるかということさえ、まだ学界の問題になっていない。それが私などの考えているように、個々の小さな表現の生老病死、一つ一つの言葉の運命とも名づくべきものを、尋ね究めて比較し綜合してみることによってのみ、かろうじて近より得る論点であるということを、学者に認めてもらうだけでも、また大分の年月がかかることであろう。争ってみたところでしかたのないことはよく知っているが、さりとてただ茫然(ぼうぜん)と時の来るのを待っているわけにも行かない。旧版の『蝸牛考』が久しく影を隠して、いよいよいい加減な風評ばかりが伝わっている折から、少しでも判りやすく文章のそちこちを書き直して、今度はもう一ぺん専門家以外の人の中から、新らしい読者を得たいと念ずるようになったのも、言わば近年の味気ないいろいろの経験がそうさせたのである。しかも一方において、国語が国民の生活そのものであり、人に頼んで考えてもらってよいような、気楽な問題ではないということが、このごろのように痛切に感じられる時代も稀(まれ)である。今まで我々が考えずに過ぎたのは、一つには刺戟が鈍かったためということもあろう。それには少なくとも『蝸牛考』などは、一つの新らしくまた奇抜なる話題を提供しているのである。最初から単なる物好きの書ではなかったのである。

             柳 田 國 男






これを以って昨年の2月に開始した柳田國男『蝸牛考」初版電子化注の予定していた全作業を終了した。

柳田國男「蝸牛考」昭和一八(一九四三)年創元社版「蝸牛異名分布表」

柳田國男「蝸牛考」昭和一八(一九四三)年創元社版「蝸牛異名分布表」

 

[やぶちゃん注:以下は、一九九〇年ちくま文庫刊「柳田國男全集19」を底本としたので、今までの『初版「蝸牛考」』とは異なり、新字体現代仮名遣となる。底本は全集編者によって一部の漢字に読みが附されてあるが、それのどれが原本のものであり、どれが新たに編者が附したものかは判別がつかない(改訂版原本は私は所持しない)。但し、刀江書院版を考えると、推測として地名のルビは概ね全集編者が附したものではないかという推理は成り立つように思われる。なお、既にここまでの電子化で多くの地名注はさんざん附してきたのと、この電子化は私の初版電子化にとっては「付録」であるので、ここでは地名注は一切附さないこととした。なお、底本の多くの地名の下に用いられている不思議な半角ダッシュは「―」とした。このダッシュは連続性を持つ「その他」或いは「その周辺」の謂いらしいが(後の『説明』に『接近した土地を並べておくことにした』を参照)、こういう厳密に規定され得ない記号の使用は(ダッシュの後に『一部』などとあるのは私は正直言って首をかしげざるを得ない)、筆者の「そこだけではないよ」という親切心に基づくものとは判るものの、それだけで寧ろ、資料価値を減ずるもののように私には感ぜられる。以前に注した通り、私は「縄」の字が生理的嫌いである。特異的に「繩」に代えてあるので、私のテクストを剽窃する際には注意されたい。

 柳田國男「蝸牛考」は初出が大正一六(一九二七)年刊『人類学雑誌』第四十二巻四号から七号の四回に亙って発表されたものであったが、それらを纏めて大きく改訂を加えたものが、私が『初版』と呼称している単行本、既に電子化注を終えた三年後の昭和五(一九三〇)年に刀江書院の「言語誌叢書」の一冊として刊行した「蝸牛考」であった。

 この初出(私は未見)と刀江書院版の決定的な相違は、一九九〇年ちくま文庫刊「柳田國男全集19」巻末の真田伸治氏の解説によれば「方言周圏論」という名が初めてそこで登場することである。しかしこれは私の電子化注でも判るように、その後に再び全面的な改訂が行われて、十三年後の昭和一八(一九四三)年に創元社から改訂新版(真田氏は『決定版ともいうべき』と名ざしておられる)として出版され、現行、我々が目にするものも、概ね、その最終決定版を採用した筑摩書房全集版を親本とするものである。

 ところが、この通行の決定版には刀江書院版(私が電子化し『初版』と呼称しているもの)とは一つ、非常に大きな違いがある。それは既に示した「蝸牛異稱分布圖」(既に注した通り、この呼称は地図本体には表記がない)が完全にカットされてしまい、それに合わせても作られてあったアイウエオ順の「蝸牛異稱分布圖索引」が呼称の類系統別の編成し直された「蝸牛異名分布表」に変わっている点である。

 最終改訂の段階で、折角の『日本人による言語地理学の最初の論文』『「方言周圏論」(または「方言周圏説」)を初めて提唱した記念すべき論文』(前掲真田氏解説より引用)から地図を外した理由は、以下に電子化する柳田自身の『はしがき』に記されており、資料サンプリングの不徹底や恣意及びその手法の統計学的不完全性を考えれば(真田氏によれば「蝸牛考」の考察に用いられたその『資料の多くは、柳田国男が、一九二七年、「東京朝日新聞社」の名において全国各地の小学校に流した通信調査票への回答に基づいたもので』あったとある。恐らくはカタツムリの絵を見せ、就学児童に「それを何と呼んでいますか?」と問うたものででもあったろう)、それはそれで確かに論理的には納得出来るものはあるものの、真田氏は先に示した解説の中で、『この分布図が省かれた点に関しては、言語地図の作成を第一工程とし、その地図に基づいて語の歴史の再構成を目指すという言語地理学の立場からの批判がある』とあり、私もこれには同様の疑義を持つ。さらに実際に見て貰えば判るが、この概ね頭部の音の類同性によって柱立てされた柳田の分類「系」自体に私はある種、非論理的で非科学的な胡散臭い臭いを感じるとも言っておく。

 ただ、確かにこの地図は言わばダモレスクの剣でもあった。真田氏は同解説で「方言周圏論」の以後の不幸な経過を次のように記しておられる。やや長いが引用させて戴く(引用箇所はブログでの不具合を考えて一行字数を減じてある)。

   《引用開始》

「方言周圏論」は、いわば簡単明瞭な原理であるために、一般に与えるインパクトは強烈であった。それゆえに、それを金科玉条のものと理解し、すべての分布事象が周圏論で説明できるとする誤解を一部で生むことにもなった。そして逆に、周圏論が適用できない事例を掲げて、その有効性を全面的に否定する傾向も見られたのである。また、周圏論は方言だけではなく民俗にも適用できるという観点から、民俗学の世界でも、その後「民俗周圏論」あるいは「文化周圏論」の名のもとにアッピールされた時期がある。しかしながら、この分野においては周圏論で説明できない現象が非常に多いこともあって、民俗関係では周圏論はあまり問題にされなくなってきたようである。

 柳田国男は、「方言周圏論」提唱の初期において、「これはさしずめ博士論文に価する」というようなことを東条操あたりにもらしていた由である(柴田武、岩波文庫『蝸牛考』の解説)から、はじめのころは大変な自信をもっていたと推測される。しかし、初版本以後の方言学界、民俗学界での反応を考慮してか、新版(創元社本)においては、

  発見などというほどの物々しい法則でも

  何んでもない。私は単に方言という顕著

  なる文化現象が、だいたいにこれで説明

  し得られるということを、注意してみた

  に過ぎぬのである。

とトークダウンし、また、『蝸牛考』を著した目的も、「児童の今までの言葉を変えて行こうとする力と、国語に対する歌謡・唱辞の要求と、この二つだけを抽(ぬ)き出して考えてみようとしたのである」として、その重点を、ことばの創造の方面に巧みに移行させている。そしてさらには、

  今頃あのようなありふれた法則を、わざ

  わざ証明しなければならぬ必要などがど

  こにあろうか。

とまで述べているのである。

   《引用終了》

正直、この尻を捲ったような柳田自身の物言いは結局は逆に「方言周圏論」を非科学的な思いつきの部類に過ぎぬと大衆の大勢を引っ張って行ってしまった不幸となったのではなかろうかとも私は思うのである(この柳田の「改訂版の序」も後に電子化する)。]

 

 

 

   蝸牛異名分布表

 

(はしがき) 初版には附録として蝸牛異称分布図を添えた。それがまた一つの著述の楽しみでもあつたのだが、よく考えてみると、これには少しばかり無理がある。単に印刷が容易でなく、誤謬(ごびゅう)を発見しがたいからといふ以上に、何とかこれを改訂しなければならぬ理由が、少なくとも二つはあったのである。第一には蝸牛の日本名の最もよく知られて居るもの、デデムシとマイマイツブロとカタツムリと、この三つは古書にもしばしば見え、今でも一人で三つとも知つて居る者も多いだけでなく、この三つのうちのどれか一つが、行われて居る区域はなかなか広く、たいていの方言集には普通として報告せられないから、現在はまだその全部の使用地を突き留めることが出来ない。それをいちいち地図の上に書き込めない以上は、分布の彩色もやや頼りないものとならざるを得ぬ。だいたいに一つの系統は連続して居るものと言えるが、まだその幅と境とは知りがたく、かつ存外中が切れまたは飛び離れて居るものがあるのである。

 第二に分布地図は五通りの色分けを試みたが、まだこのほかに二つまたは三つの類が認められる。その一つはこの虫をツブラの特色をもつて呼び始めた以前から、すでにあったかと思われるニナもしくはミナ系統の語、他の一つはこれと反対の端に、デェデェよりもさらに新たに、発明せられたかと思う幾つかの方言の群で、その中にも由来のほぼはっきりとしているものと、今はまだその来歴を詳(つまびら)かにしがたいものとがある。ニナ・ミナ系のものは数も乏しく、新たに加わる様子もないから痕跡と見てしまってもよいが、後に生れた新語は、無視することのできない一つの傾向である。たとえ蝸牛においてはもう問題にせられないとしても、国の単語の変らねはならぬ原因としては、注意しておく必要があるわけである。

 それから今一つ、私が本篇の中で力説している辺境現象というもの、すなわち二つの別系統の方言が接触する地域に、盛んに生れて来る複合形の新語、これをどちらの色に染めておくかは問題になる。はなはだ機械的にはなるが自分だけは、その複合形の頭部を作るものによって、かりに所属をきめてみようとしている。この列挙がやや完全に近いものになって来たら、いつかは総国の分布図もこの一語についてはできるかと思うが、現在としてはまずだいたいの趨勢(すうせい)とも名づくべきものを、例示することをもって満足するのが、問題提出者の身の程に合うかと考えるようになったのである。それでこの裏ではかりに七つの部類に分ち、各系統に属する名詞を排列(はいれつ)して、同じ例が少なかろうと思うものだけ、その下へ府県郡市島名、または方言集の名を略記する。これでおおよそどの地方に多いかといふことだけは、読者には判ってもらえると思うのである。二三の説明の必要な点は、もう一度この表の末に書き添えるが、だいたいに下に点線のみを附した五つ六つの名だけが、地名を挙げきれぬほどに使用区域の広いもので、しかも多くの場合には形の近い方言と相接して行われ、従って耳だけにはもっと弘く、これで通用しているということを、明言してもよいようである。(昭和十七年十月)

[やぶちゃん注:以下、『(説明)』の前までは底本では全体が二字下げ。]

 

   一 デデムシ・デンデンムシ系

 

デデムシ・デェデェムシ……

デェデェ          三重、松阪市附近

デェデ           福井、大飯(おおい)―

デデェゴ          山口、玖珂(くが)―

デテコナ          広島、因(いん)ノ島(しま)

デノムシ          兵庫、赤穂(あこう)―

デンノムシ         岡山、邑久(おく)―

デブシ           愛媛県一部

デンデコナ         同 伯方(はかた)島

デンデムシ         大阪、滋賀、阪田―

デンデ           和歌山、日高―

デンデコナイ(デンデコナ) 三重、三重―

デコナ           同 一志(いつし)―

デンべノカイ        同 鈴鹿(すずか)―

デンデラムシ        岐阜、大垣市附近

デェラクドン・レェダドン  大分、宇佐(うさ)―速見(はやみ)―

デンボノコ         神奈川、三浦―

デンボウラク        同県一部

デンボロ          山梨、北都留(つる)―。千葉、海上(かいじょう)―

デンデンムシ……

デンデンムシムシ      富山、東礪波(ひがしとなみ)―。栃木、河内(かわち)―

デンデンデムシ       和歌山、有田―

デンデンマムシ       鳥取、東伯(とうはく)―

アカハラデンデンムシ    滋賀、蒲生(がもう)―

デンデンコ         香川、丸亀(まるがめ)市附近

デデンゴウ         岡山、児島(こじま)―

デンデンツブロ       茨城、真壁―

デンデンタツボ       三重、飯南(いいなん)―

デンデンゴウナ       岡山、浅口―。香川県一部

デンデンゴナ        三重、津市

デンデンコボシ       奈良県一部

デンデンケェボン      福岡、築上(ちくじょう)―

デンデンガラムシ      富山、氷見(ひみ)―

デンデンガラボ       石川、鹿島(かしま)―

デンデンガラモ       同郡灘(なだ)地方

デンデンダイロ       群馬、群馬―。埼玉、川越市附近

デンデンべェコ       岩手、上閉伊(かみへい)―

レンレンムシ        長崎、北松浦―大島

ゼンゼンムシ        大分、大分市及び諸郡

ゲンゲンムシ・ベンベンムシ 同県一部

ジュジュムシ        宮崎、児湯(こゆ)―

ジュンゴロ         同 宮崎―

ジシムシ          鹿児島、川辺―

ダイダイムシ・ダエダェムシ 島根、松江市附近

ダイダイマムシ       鳥取、西伯(せいはく)―

 

     〇

 

デェロ・デェロウ……

デェロデェロ        福島、北会津―

デェロン          群馬、利根(とね)―吾妻(あがつま)―

デェロンジ         群馬、山田―一部

デェラボッチャ       長野、諏訪

デェブロ・デェボロ     埼玉、北葛飾(きたかつしか)―

デェブル・ネェブル     千葉、東葛飾―

デェボロ・ダイボロ     栃木県南部

ダイロ・ダイロウ・ダエロ……

ダイロ・デデモ       『但馬方言集』

ダイリョウ         長崎、対馬(つしま)一部

ゲンダェロ・ダイロウ    新潟、西頸城(にしくびき)―

ダエロダエロ        山形、米沢市附近。富山、下新川(しもにいかわ)―

デァイロ          福島、安積(あさか)―安達(あだち)―

ダエロウカン        群馬、多野―

エェボロッボロ       栃木県一部

ネェボロ・ナイボロ     茨城、結城(ゆうき)―猿島(さしま)―

ネェボロッボロ       栃木、芳賀(はが)―

ネャボロ          同 河内―芳賀―

メェボロ・マイボロ     茨城県南部諸郡

メェボロッボロ       同 北相馬―

マエボチツボロ・メェボチツボロ 同 新治(にいはり)―

メェメェツボロ       同 稲敷(いなしき)―

マイマイツボロ       同県南部

メンメンツボロ       神奈川、川崎市一部

 

   二 マイマイツブロ系

 

マイマイ・マエマエ……

マアマイ          愛知、渥美(あつみ)―和地(わじ)―

マアヨ           鳥取、気高(けだか)―

マアメ           同 東伯―北谷

モイモイ・モオイ      島根、邇摩(にま)―大森

モオモリ          同 簸川(ひかわ)―今市附近

モンモロ・モオロモロ    同県出雲一部

モオリモオリ        兵庫、美方(みかた)―

ミャアミャア        岡山、吉備(きび)―小田―

ミャアミャアコ       同 小田―金清(かねのうら)

ミャアミャアキンゴ     同 真庭(まにわ)―富原(とみはら)

ミョウミョウ        石川、加賀一部。佐渡島

ミョウゴ          同 能美(のみ)―

ニョウニョウ        新潟、北蒲原(きたかんばら)

メイメイ          同 佐渡島外海府(そとかいふ)

メャアメャア        広島、蘆品(あしな)―府中

メャメャア         千葉、安房(あわ)だ

メェメェ          愛知、幡豆(はず)

メンメンコ         同郡西尾

メェメ           同 愛知―一部

メェマイゴ         同 知多―半田

メンメンダバゴロ      宮城、遠田―

メンメン          同郡涌谷(わくや)

マイマイドン        静岡、榛原(はいばら)

メメド           愛媛北宇和(きたうわ)―

メメドカタド        同郡高市(たけち)村

メメンジョ・メンメンジョウ 山梨、甲府市附近

マイマイコ         山口、山口市附近

メェメッポ         千葉、市原―長生(ちょうせい)―

メメップ          同 東葛飾―一部

メェメェズ         東京、北多摩―

マイモズ          同 西多摩―氷川(ひかわ)

マイマイズ         埼玉、入間(いるま)―

メェアメェアズ       同郡名栗(なぐり)地方

モモウズ          山梨、北都留―

ヤモウズ          東京、伊豆大島

マメジッコ         栃木、上都賀(かみつが)―

メメンデェロ        長野、下伊那―

マンマンダイロ       同郡竜丘(たつおか)

ママダイロ         同 飯田市附近

ママンジョ         愛知、知多―岡田

ママデ           三重、南牟婁(みなみむろ)

メェダセ          鳥取、西伯―堺港(さかいみなと)

メェメェツノ        愛知、日間賀島(ひまかじま)

ミョメョツノ        石川、能登

[やぶちゃん注:これは初版では本文及び索引で『ミョミョツノ』として採集地を『能登能登島』としている。実際に発音してみると分かるが、「ミョメョ」は発音が異様にし難い(出来ない訳ではないが、児童には非常に難しいと私は思う)。前後を見ても、私はこれは「ミョミョツノ」の誤植ではないかと強く疑っている。

ミョミョツノダセ      同 東礪波―出町(でまち)

メェメェコウジ       神奈川、津久井―

メェメェコンジョ・メェメェクンジョ 愛知、八名(やな)―宝飯(ほい)―

マイマイコンジョ      同 愛知―等

マイマイクジ        同 葉栗(はぐり)―

マイマイクジラ       福岡、糟屋(かすや)―

マイマイグズグズ      三重、渡会―

マイマイカタツボ      同 多気(たき)―

マイマイカタッポ      富山県一部

メェメェカンカ       千葉、夷隅(いすみ)―

メンメンカエブツ      富山、高岡市

メンメンカイポポ      同県一部

メンメンカエボ       同 中新川―大岩

メンメンカエボコ      同 射水(いみず)―海老江(えびえ)

メンメンガラモ       石川、鹿島―鰀目(えのめ)

メェメェタツボ       千葉、山武(さんぶ)―

メメチャブロ        同 東葛飾―。埼玉、南埼玉―

マイマイツブロ……

マイマイツブリ       福井、坂井―金津(かなづ)。宮崎県一部

マイマイツムリ       神奈川、横浜市

メェツムリ         千葉、佐倉市

メェメェツブロ       大分、日田(ひた)―

マイマイツンブリ      静岡、磐田(いわた)―

マイマイツンボ       同郡浦川

マイマイコツブリ      福岡、戸畑(とばた)市

メェメェツングリ・メメンツングリ 同 久留米市附近

マメツングリ        同 三瀦(みずま)―一部

メェメェツングラメ     佐賀、佐賀市附近

 

   三 カタツムリ系

 

カタツムリ……

カタツブリ         『易林木節用集(えきりんぼんせつようしゅう)』

カタツブレ・カタツブリ   広島、佐伯(さえき)―

カタツンブリ        佐渡島。大和、十津川(とつかわ)

カダツブレ・カサツブレ   秋田、秋田市附近

カサツンブレ・カナツブ   同 河辺(かわべ)―

カダツムリ・カサツブレ   秋田、平鹿(ひらか)―

カサツブリ         山形、最上(もがみ)―村山―

カサツムリ         同 山形市

カサツブレ         同 荘内地方

(カサツブリ)       同 飛島

(カサツブレ)       『越佐方言集』

カサツンブリ        佐渡島海府地方

カサツブ          福島、大沼―河沼(かわぬま)―

カタツモリ         栃木、上都賀―。大分、大分市

カタツボ          三重、度会―

カナツンブ・カナツブ    秋田、河辺―

カンツブリ・カンツンブリ  富山、東礪波・五箇山(ごかやま)

カッタナムリ        高知、高知市

 

     ○

 

カァサンメ         神奈川、愛甲(あいこう)―足柄上(あしがらかみ)―

カサッパチ・カサンマエ   静岡、田方(たがた)―

カサッパチマイマイ     同 駿東(すんとう)―

カシャパチ・カサッパチ   同 富士―

カタッパチ         同 志太(しだ)―

カサンマイ         同 静岡市

カサノマイ・カサンマイ   山梨、南都留―南巨摩(みなみこま)―

カサンメェ         同 北巨摩―

カタカタバイ        三重、南牟婁―

カタカタ          和歌山、東牟婁―

カタジ           同 西牟婁―串本(くしもと)

カタッタア・カタカタ    奈良、吉野―十津川

(カタカタ)        高知、幡多(はた)―中村

カタト           愛媛、宇和島市

カタタン・カタタ      同 喜多―伊予―

カァタ           同 大三島(おおみしま)

(カタツブリ・カタツムリ) 同 越智(おち)―周桑(しゅうそう)―

カッタイコンゴ       徳島、海部(かいふ)―北川

カタクジリ         熊本、八代(やつしろ)―金剛村

ガト            京都、加佐(かさ)―

 

   四 ツブラ・ツダラメ系

 

ツダラメ・ツンダラメ……

ツブラメ・ツンブラメ……

ツンツングラメ       佐賀、弛摺柿附近

ツンツンツングラメ     大分、南海部(みなみあまべ)―

ツンツクツングラメ     福岡、三瀦―一部

ツッガメ・ツッガメジョ   長崎、五島

ツルマメ          同 平戸島

ツブロマメ・チュブラメ   鹿児島、揖宿(いぶすき)―

ツンナメ          同 種子島(たねがしま)―宝島

チンニャマァ        同 奄美大島北部

チンダル・チンダリ     同島南部

テンダリキョ・チンニャマ  同島古仁屋(こにや)

ツンミョウ・トゥンニャーウ一 同県喜界島(きかいじま)

チンタイ          同 沖永良部(おきのえらぶ)島

チンナミ・チンナン     沖繩、島尻(しまじり)―

シンナン          同郡糸満

チンナンモウ        同県国頭(くにがみ)―

チンダミ          同 八重山―小浜島(こはまじま)

チダミ・ツダミ       同郡石垣島

チンヅァン         同 西表島(いりおもてじま)

シダミ           同 黒島

シタミ           同 波照間島(はてるまじま)

シダミ           同 与那国島(よなぐにじま)

ヤマシタダミ        東京、伊豆八丈島

 

     ○

 

ツブサン          広島、備後岩子島(いわしじま)・向島(むかいしま)

ヤブツブ          愛媛、弓削島(ゆげしま)

ヤマツブ          岩手、西磐井(にしいわい)―平泉(ひらいずみ)

タツボ・デンボロ      千葉、海上―高神(たかがみ)村

ツンブリ          京都、天田(あまた)―。愛知、愛知―等

ツンツン          岐阜、山県(やまがた)―

ツボロカイボロ       栃木、宇都宮市附近

ツムクリ          福島、石城(いわき)―

ツブカサ          同 会津地方

 

     ○

 

タマグラ・タンマグラ……

タンバクラ         宮城、玉造(たまつくり)

カマグラ          同 牡鹿(おしか)―石巻(いしのまき)市

マタグラ          同 仙台市附近

ヘビタマクラ        岩手県一部

ヘビタマグリ        同 岩手―等

タマグラナメトウ      同下閉伊―船越

ヘビタマ          秋田、鹿角(かづの)―

 

   五 蛞蝓同名系

 

ナメクジ・ナメクジリ……

ナメクジラ         岩手、盛岡市附近

ナメクズリ         青森、弘前(ひろさき)市附近

ナメクグリ         茨城、稲敷(いなしき)―

ナマイクジリ        広島、安佐―北部

マメックジ・マメックジロ  栃木、河内―一部

マメクジ          富山県一部。栃木、塩谷(しおや)―

マメクジラ・マメクジリ   岐阜、高山市

メメクジ          神奈川県一部。愛知、南設楽(みなみしたら)―

(マメクジ)        愛知、南設楽―岡崎市

マメツジ          同 西加茂

(マメクジ)        山口、阿武(あぶ)―

ミナクジ          長崎、南高来(みなみたかき)―。宮崎、東諸県(ひがしもろかた)―

エェショイムシ       長野、下伊那―遠山

イエカツギ         石川、石川―江沼―

イエモチ          滋賀、東浅井―

イエカルイ         大分県各郡市

イエカエル・イエカル    同 直入(なおいり)―

ツウナメクジ        熊本、玉名―

ツウノアルナメクジ     長崎、諫早(いさはや)附近

カェンコノアルナメクジラ  岩手、盛岡市一部

カイカツギ         石川、河北―。富山、婦負(ねい)―

カイカイクジリ       富山県一部

カイナメクジ        福島、石城―部

カイナメラ         伊豆神津島(こうづしま)

 

     ○

 

カイムシ・カイロウ     富山県一部

ガイガイムシ        三重、渡会―一部

キャガラムシ        佐賀、藤津(ふじつ)―

ケェブロ          秋田、仙北(せんぼく)―田沢

カエッグラ・カエボボ    富山、婦負―一部

カエカエツブリ・カエカエツモル 同 上新川―一部

カエツブリ         同 氷見(ひみ)―一部

カエツモリ・カエツブリ   同 下新川―一部

カイツブレ         石川、石川―江沼―一部

カイカイカタツブレ     同 河北―(児語)

カイツブラ         長野、西筑摩(にしちくま)―開田(かいだ)

カエツムリ         岩手、盛岡市一部

カエカエツノダス      富山―氷見―宇波(うなみ)

 

   六 蜷同名系

 

ミナムシ          『鹿児島方言集』

ムナムシケ         同上

ンムゥナ・ヴゥナ      沖繩、宮古島(みやこじま)平良(ひらら)

ユダイクイミナ       『鹿児島県方言集』

チヂミナ・シジミナ     同上

カキミナ          同上

ヤミナ           同上

ヤマミナ          鹿児島、川辺(かわべ)―知覧(ちらん)

ヤマニナ          愛媛、南宇和―西外海(そとうみ)

カッビナ          鹿児島、鹿児島―谷山(たにやま)

 

   七 新命名かと思わるるもの

 

ツノンデェロ        群馬、吾妻―山田―。埼玉県北部

ツノンデイロ        群馬、群馬―

ツンノンデェショ      同郡総社(そうじゃ)

ツノンダェショ       埼玉、大里(おおさと)―

ツノダシデイロ       群馬、山田―

ツノダシダイロ       同郡一部

ツノンデロ         栃木、足利市

ツノダシ          石川、金沢市、松任(まつとう)

ダシミョウミョウ      同 河北―

ツノライモウライ      同 鹿島―一部

ツノダシガイ        富山、東礪波―五箇山

ツノダシミョミョ      同郡井ノ口

ツノツノミョミョ      同上

ツノミャアミャア      岡山、勝田―北和気(きたわけ)

(ツノダシ)        青森、津軽及び八戸(はちのへ)市

ツノダイシ         同 三戸(さんのへ)―五戸(ごのへ)

チノダシ          岩手、九戸(くのへ)―

チノダェアシ        同上

ツンノウカソノウ      広島、佐伯―一部

ツノベコ          福島、石城―一部

べエコ           茨城、久慈(くじ)―多賀―

ベココ           岩手、上閉伊―(児語)

ボウダシ          千葉、東葛飾―一部

ボウリ           同 海上―矢指(やざし)

 

     ○

 

オバオバ          千葉、海上―一部

ジットウバットウ・ジットウ 山梨、北巨摩―逸見(へんみ)

オッシャビョウビョウ    福井、坂井―

キネキネ・ネギロ      愛知、愛知―碧海(あおみ)―

ゼンマイ          福岡、福岡市博多

 

   八 系統明らかならぬもの

 

チンケ           秋田、北秋田―笹館(ささだて)

ツンケマゴシロ       同郡小阿仁(こあに)

チンケマゴシロ       同県山本―藤琴(ふじこと)

ゴンゴ           島根、八束(やつか)―美保関(みほのせき)

ツメツメゴンゴ       石川、能美(のみ)―

ツロロ・ツロウ       富山、下新川―一部

ツドロガエドロ       同郡

チチマタ          石川、能美―一部

ゲゲボ           千葉、君津―

ガマヒメ          富山、五箇山一部

カンニョブ         福島、安達(あだち)―

マシジロ          愛知、知多―

 

(説明)一つ一つの言葉の下に、できるだけ県都市島の名を掲げておくことにしたが、これはその区域以外の土地で、行われておらぬという意味ではなく、むしろ反対に隣接町村などには、聴けばわかるという人がいくらもあることを推測し得るものである。がこれと同時にその区域内でも、すべての住民が知り、誰でもこの語を使うわけではないことも、明記しておかなければならぬ。二つ以上の方言を保存する例も、見らるるごとくなかなか多いのである。ただし一方を用いる者に、他の一方が通用せぬわけでは決してなく、時々は何かの都合で甲乙取り替えても使い、また一家の内でも老若男女、口癖を異にする者もあり得ることは、富山県などに一部落二方言の例のあるのを見ても推察し得られる。

一 排列(はいれつ)は許されるだけ、接近した土地を並べておくことにした。二地の中間の空隙(くうげき)にもおおよそこれに近い言葉のあるらしいことを窺(うかが)わしめるためである。しかしこれと同時に一方には非常に隔たった地方の例を、比較のためにわざと並べてみた場合もある。ここにしかないときめてかかる人の多いのが、現在の方言調査の通弊なので、それを改める必要を感ずるからである。

一 孤立の例のやや心もとないのは、前回に出したものでも若干は留保することにした。方言集の誤記誤植は存外に多いもので、警戒は常に必要である。その代りにはこの十二年間に新たに知ったものが少しばかり加えてある。まだこの表の二分の一くらいは、採集せられぬ言葉が残っているように私は感じている。

一 このついでに、本文と多少の重複はあろうが、心づいた点を二つ三つ挙げてみると、まずデンデンムシは「出よ出よ」の子供歌に始まっているのだから、デェデェの方が前なのにきまっているが、デンデンの方が音が面白かったためか、遠くの土地へはこの形をもって拡まっている。九州の方では鹿児島県の南の端、佐賀県の西南部にも、子供語となって知られており、関東の方では茨城県の稲敷郡にも、ぽつんと一つ採集せられている。古い文献では狂言の「蝸牛」に、このデンデンムシムシがすでに見える。これとデェデェとのはっきりとした区別は、後者の領域においては蝸牛を手に取って、出よ出よと唱えた童言葉(わらわことば)が、つい近い頃までまだ流行していたことであろう。そうしてこの区域はデンデンムシよりずっと狭く、中央部の四五の府県の農村だけに限られている。

[やぶちゃん注:『狂言の「蝸牛」』「文化デジタルライブラリー」の狂言蝸牛ぎゅう)に以下のような梗概が載る(私は未見)。蝸牛を進上すれば祖父(おおじ)の寿命が伸びるというので、主人が家来の太郎冠者に蝸牛を捕ってくるよう命ずる。『蝸牛が何か全く知らない冠者に、主人は「頭は黒く、腰に貝をつけ、折々角を出し、藪にいる」と教え』たところ、『藪の中を探して旅疲れで寝ている山伏を見つけた冠者は、山伏の頭が黒いので起こして蝸牛かと尋ね』る。『勘違いに気づいた山伏は、からかってやろうと蝸牛のふりをし』、『すっかり信じた冠者が、主人の元へ一緒に来るよう頼むと、山伏は囃子物(はやしもの)に乗るならば行こうと言い、冠者に「雨の風も吹かぬに……」と囃させ、自分は「でんでんむしむし」と言いながら舞い』、二人は浮かれ出す。『そこへ帰りが遅いと業を煮やした主人がやってきて冠者を叱』るものの、結局は最後はその雰囲気に釣り込まれてしまい、三人して囃しながら退場となる、とある。]

一 デェデェの唱えごとでは、蝸牛に二本の捧を持って、出て来いと誘う趣旨であったものが、後にはただその二本の角だけを、出せという歌に替ってしまっている。関東の方などはことにその方が弘く流行して、新たにツノダシという類の名称を設けたと同時に、デェロまたはダイロの意味を不明なものにしているが、デェロがやはり「出る」の命令形であったことは、こうして各地の語を並べてみると、もうたいていは断定し得るようである。

一 関東平野におけるデェボロ系統の方言の変化は、特に私の興味を感じている点で、これは一方にマイマイツブロという語があまねく知られていなかったら、そうしてまたそれが毎日の子供歌になっていなかったら、こういう融合は決して現われなかったろうと言ってよい。すなわちちょうどチンガラモンガラが江戸でチンチンモガモガとなったごとく、最初はこのマイマイツブロをもって始まっていた文句に、今まで普及していたデェロが割り込んで来たのである。察するにこの音(おん)配合が小児には特に面白かったので、単なるマイマイといふ名に、古くからのツブロを結び合せたのも、本来は同じ要求によるものと考えて差支えはない。ツブロはおそらくまたカタツブリの複合形の企てられるよりも前から、日本に普及していた蝸牛の日本語であって、起りはツブラ虫あるいはツブラ蜷(にな)であったのであろう。

[やぶちゃん注:「チンガラモンガラ」「チンチンモガモガ」遊邑舎&北條敏彰氏のサイト「遊び学事典」のの「チンチンモグモグ[ちんちんもぐもぐ]」に『片足跳びあそびの古称。江戸時代に、幼児が「チンチンモグモグ、オヒャリコ、ヒャーリコ」と歌いながらあそんだと言われている。時代や地域の違いにより、チンガラモンガラ、チンチンモガモガなどの、呼び名のバラエティーが生まれた』とある。小学館の「日本国語大辞典」の「ちんちんもがもが」の項には、『片足を少し上げ、一方の片方で軽くはねる動作。片足跳びをいう。けんけん。ちんがらもんがら。ちんちんもんがら。ちんちんもがら。ちんちんもぐら。ちんちんもぐらこ。ちんちんが。ちんちん』とある。老婆心乍ら、男女が性行為をすることを指す隠語の「とんちんかもかも」とは違う(意味上は。語源上の類縁関係は知らない)ので要注意。]

一 新潟県は方言採集の夙(はや)くから盛んな地方であるにかかわらず、蝸牛に関する限り、知られている資料の乏しいのは、多分はデェロ・ダイロで元はほぼ統一せられ、それが標準語へ一足飛びに変って来たからであろう。このデュロという一語の領域は、言語文化の一ブロックとして、将来も注意せらるべきものである。どこが中心ということはとてもきめられないが、東北は福島県の大半がそれで、ここに古そうな形が伝わっている。次には東の北半分、これには珍らかな変化のあることはすでに述べた。それから信州は約九割まで、甲州もこれに接した一隅にはデェロが入っている。西の堺(さかい)としては富山県の下新川郡までだが、どういうわけでか飛んで但馬(たじま)と対馬(つしま)には採集せられている。この単語の一つの特色は、一度も大都市を占領したことのない点で、すなわちいわゆる方言の尤(ゆう)なる者であったことであろう。

[やぶちゃん注:「尤」は通常は非常に優れているさまをいうが、ここは方言の中でも甚だ際立った如何にも方言らしい存在であることを指しているようである。]

一 諏訪(すわ)のデェラボッチャは、たった一つの異例だが興味がある。これはこの地方の伝説上の巨人、山に腰かけて湖水で足を洗ったというような話のある怖ろしい者の名である。それを蝸牛の名にしたのは一方が有名であった他に、もはやデェロの意味が埋もれて、ただ語音ばかりの記憶になったことを談(かた)るものであろう。これと似た例は九州各地で、片足飛びのスケケンまたはステテンを、スッケンギョウという者の多いことである。もとは正月七日の火祭をホッケンギョウといっていたのが、何かの拍子にこの童戯の名に移ったので、こういう改造は子供でないとできない。土筆(つくし)のツクツクシとホウシとを二つ合せて、ツクツクボウシという寒蝉(かんぜみ)の名と、一つのものにしてしまったのも彼等のしわざと思われる。

[やぶちゃん注:所謂、「どんど(焼き)」など、「左義長(さぎちょう)」の数多くある地方異名の一つ。]

一 マイマイはもと蝸牛の貝の線条が、いわゆる螺旋(らせん)しているところから出た名で、これをカサと名づけたのも一つの動機らしく、ツブラと結合してマイマイツブロと呼んだ以前、ただマイマイだけで行われた時期が、かなり久しく続いたらしいことは、この語の分布の弘いことからわかるのだが、七音節のマイマイツブロが盛んに流行した結果、今ではその語の下半分を略したもののごとく、解する人ばかり多くなった。この語の発生地は京都か、または少なくともそれから西の方だろうと私は想像している。中国の山地には平野のデェデェムシと対立して、最も多くこのマイマイ単称が残っている。四国などもあるいは同じでないかと思うが、この方はまだ調べてみた所がない。

一 この分類表の中で、最も不明な区域は四国、ことに大洋に面した二県であって、これが細かく調べられたら、またよほど方言の新たに生れて来る順序道筋というものが、明らかになって来ることと思っている。九州の方でも熊本県などは方言の少ない方だが、これはツグラメまたはツブラメの系統の語が、普及している結果と推定して誤りはなかろう。ツグラメの末のメの音がミ、ナまたはニナの名残で、もとはツグラミナなどと、呼んでいたものだろうということは本篇にも説いた。ツブラもこの虫の貝が巻き巻きになっているところから出た名なのだが、それとマイマイもしくはカサと結合すれば、歌に唱えやすいマイマイツブロ、またはカタツブリになるのは自然であって、それが東日本の一部では、さらにデェロやダイロとも一つのものになって、あの珍らしい多くの地方称呼を作るに至ったのである。富山県西部などの、村ごとにちがった長い名の多くは、この過程の中間を示すものとも見られる。それとよく似た辺境現象が、東京から少し北寄りに、やや斜めに引かれた一線の上にも見られるので、すなわち関東方言には山地と海沿いと、南北二通りの文化系統があったろうということを、私はこの方面からも立証し得られると思っている。

一 東北地方の蝸牛名の主流をなすタマグラという語が、やはりツブラと同一系統だということは、私の発見であるが、ちょっとは同意せぬ人が多かろう。しかしこの地方では蛇がトグロを巻くのもタマクラマクであり、頸(くび)に環(わ)のある蚯蚓(みみず)タクマグラミミズであり、なお鎌などの柄にはめる鉄の輪もタマダラと呼んでいる。内容の上からは一つの語であることは明らかである。あるいは小倉博士の言われたように、グラの濁音が必ず鼻音化を伴なうもので、以前タングラに近く発音していたのが始めかも知れぬが、なおタマまたはタマキという重要な古語が、本来は円のツブラと無関係のものでなかったことを、想定せしめる手掛りにはなるのである。

[やぶちゃん注:「小倉博士」言語学者小倉進平(明治一五(一八八二)年~昭和一九(一九四四)年)か?]

一 九州のツグラメ・ツブラメが、ツングラメ・ツンブラメと発音せられ、次第に南の島々に渡ってチンナン・チンナミ系統の語に移って行くのは、私は偶然でないと考えている。この島々には夙(つと)に今日のシタダミに近い蝸牛の名があって、これをも無視すまいとすれば、自然にこのような折合いを見ずにはおられなかったのである。この傍証をなすものは八丈島のヤマシタダミで、この島には土をミザといい、少女をミナラべというなど、為朝以外にも共通のものは多い。しかも海上のこの大きな距離を考えると、これは単なる運搬の問題ではないのである。ミナよりもまた一つ以前に、もしくはミナと対立して、別に蝸牛をシタダミに近い語で、呼んでいた時代または地域があったかも知れぬのである。少なくとも記録に伝わっているカタツブリ、もしくはマイマイツブロなどのツブロをもって、最初の日本名ときめることは許されない。どんなに古くてもやはり言葉は人がこしらえたものなのである。

一 蝸牛と蛞蝓(なめくじ)とを一つの名をもって呼んでいた時代、すなわち蝸牛に特別の名を与えていなかった時代の方が、また一つ古いということも想像し得られる。これには現在もなお各地に思い思いの実例が残っているために、そのように古くからの風ではあるまいと、多くの人は感じているだろうが、大昔の風俗慣習は、ことごとくすでに消えてしまっていると、断定することはむろんできぬことであり、また現に我々はそういう久しく伝わるものを、探し出そうとしているのである。ナメクジ同系の方言の分布には、注意すべき特徴がある。すなわち東北は青森県の端から、遠くは隠岐(おき)とか壱岐(いき)とかの離れ島にも同じ例があり、その他の地方でも島のように、わずかずつ飛び飛びに、多くの土地にこれが見られる。そうして今なお両者一語をもってまかなおうとしている処と、何とかして二つを区別しようとしている処とがあり、その後者の場合にもこの表に示すように、蝸牛に特別の限定をしているものと、別に蛞蝓の方に変った名を示すものとがあって、第二のものは表には顕(あら)われておらぬが、たとえば大分市の附近では蛞蝓をカラナシナメクジ、愛知県北部ではこれをイエナシ、千葉県西北隅ではハダカナイブル、群馬県山田郡や信州の佐久地方ではハダカデェロなどと、これも飛び飛びに遠く離れて、名を付ける心持のみは一致している。長崎県の島原半島のごときは、蝸牛をミナクチと呼ぶ村々と、蛞蝓の方をそういっている村とがある。ミナクチもナメクジの音加工と見られるが、これは巻貝をミナという語と関係があるらしいから、もとは蝸牛のためにできたものであろう。しかし差し当りの目的は、何とか二つの者を区別し得ればそれで達するので、現にナメクジに対する蝸牛のマメクジなども、今はこれを蛞蝓に譲って、別に蝸牛のために新たな名を採用している土地も多い。マメクジのマメは元はマイマイから出たものと見られ、現にマイマイコウジといって、角によって小牛と解している例も見られる。同じ島原半島でも、特に蛞蝓をハダカマメクジという村もあるようである。

一 一方にはまた埼玉県のある農村のごとく、蛞蝓をナメンデェロという例もある。ナメはあのぬるぬるとした粘液のことであるらしく、この特徴は二つの虫に共通している。小さな島々の粘土を産出せぬ処では、土器を焼く土を固めるのにこれが必要であったらしく、現に八重山群島の新城(あらぐすく)の島などでは、これを利用して大きな皿甕(さらかめ)類を製しているが、これなどはツダミすなわち貝のある方の蝸牛であって、そのために土器の表面に貝の破片の焼けたのが附いている。いわゆるナメクジに貝があると否とは、こういう場合に問題とならざるを得なかったのである。離れ島以外の多くの土地で、貝ということに中心を置いた蝸牛の名のできているのは、あるいはこういう生産上の理由からではなかったかも知れぬが、カイナメクジだのカェンコノアルナメクジラだのと、貝を特徴とした蝸牛名の多いのを見て、かりに私はこれを蛞蝓同名系の中に入れておくことにした。九州でいうツウナメクジの、ツウというのもやはり貝のことである。あるいは亀(かめ)や蟹(かに)の甲羅にも、巻貝類の蓋(ふた)にも、また腫物(はれもの)のかさぶたにもツウといっている。カイは本来は蛤(はまぐり)などの殻に限られ、飯匙(いいがい)のカイと同様に器物に用いられてから後の名だったらしいのである。

[やぶちゃん注:「飯匙(いいがい)」歴史的仮名遣は「いひがひ」。飯を盛るための杓文字(しゃもじ)のこと。「いがひ(いがい)」とも読む。]

一 こういったこまごまとした点は、今少し単語の発達ということに、興味を抱く人が多くなって後に、改めて説き立てる方が有効で、現在はまだそういう学者もないのであるが、残念ながら自分はこの一巻以上に、もはや蝸牛を説くような機会をもたない。それでできるだけ順序を立てて、他日問題となるべきものに、あらかじめ口を挟んでおくのである。私たちの利用した方言集には不満足なものが多く、しかも調査地ははなはだ限られている。これ以吉まったく想像しなかった新らしい事実が現われて来ぬとは言われず、また援用の当を得ぬものが若干はありそうである。そういう資料のやや完備した時代に、果して私の仮定はどうなって残るであろうか。いかに訂正せられまたどれだけまで是認せられるか。それを考えてみることがいよいよ未来の文化に対する関心を深くする。

2016/02/11

ブログ780000アクセス突破記念 梅崎春生 赤帯の話

赤帯の話   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年九月号『文学界』に発表され、後に単行本「黒い花」(昭和二十五年十一月月曜書房刊)に再録された。

 本作は、嘗つては小中学校の国語の教科書に載っていたようだ。しかし「猫の話」が載らぬのと同じように、もう、載ることはないだろうと私は少し淋しく思うのである。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。途中に禁欲的に注を挟んだ。

 本テクストは私の2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが780000アクセスを突破した記念として公開する【2016年2月11日 藪野直史】]

 

   赤帯の話

 

 とにかく私たちは皆、一日中腹を減らしてばかりいた。暇さえあれば、食物のことだけを考えたり話し合ったりしていた。その頃夜眠ると、私はよく汽車弁当の夢を見た。木の匂いのする折りに入ったいくぶん堅目の御飯や、おかずの折りに詰め合わせられた魚や肉や野菜の辛い煮付などを。たいていは食べないうちに眼が覚めるのがふつうであった。空腹の夜毎に、いろんな食物のなかから、なぜ汽車弁当だけが夢にあらわれてくるのか、私にはよく判らなかった。しかしそれはたぶん――堅い歯ごたえのある飯への渇望と、それに塩分の不足が、そのような夢にむすびついたのだろう。そのような条件を具備するのが、あの粗末な折りに入った汽車弁当であることを、記憶の底の底で、私は知っていたのだろうと思う。そういう夢を見る自分にも、私は二重の郷愁をかんじていた。

 私たちが朝と夕に食べていたのは、カーシャ(粥(かゆ))であった。米のときもあったが、たいていは高梁(コウリャン)のカーシャである。その中に、乾燥野菜か、たまにはソーセージや鮭がすこし入っていた。量は飯盒(はんごう)に四分の一ほど。箸をたてても、すぐ倒れるほどの濃度であった。その他にうすいスープが一椀ついた。昼には弁当として、一塊の黒麺麭(パン)がでた。これだけの量で、一日をはたらき通すのは、相当に辛(つら)い仕事であった。だから私たちは、一日中腹を減らしてばかりいた。

[やぶちゃん注:「カーシャ」ロシア語。кашаウィキの「カーシャ」には『ロシアでは「シチーとカーシャ、日々の糧」』(「シチー」或いは「シシー」「シー」(Щи)とも表記し、キャベツをベースとする代表的なロシア料理の野菜スープ)『という諺があり、ロシア人にとってのカーシャとシチーが日本人にとってのお粥と味噌汁のような関係にあることを表している』とある。

「高梁(コウリャン)」コーリャン。中国語。中国北部で栽培される単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor。多数の系統があって食料や飼料酒の原料とする。]

「腹が減るだろうが、がまんしてやってくれ」

 そういう意味のことを、私たちのカマンジール(親方)の赤帯が私たちに言ったこともある。イワノフという名前のソ連兵であったが、服の上にいつも赤い帯をしめていたので、私たちは赤帯々々とよんでいた。

[やぶちゃん注:「カマンジール(親方)」ロシア語。Командир。カマンディール。指揮官。司令官。隊長。「イワノフ」ロシア語に多く見られるスラブ系の姓。Иванов(ラテン文字表記:Ivanov)。]

「実際食べるものは、これだけしかないんだぜ。夏になれば、少しは良くなるだろうが」

 赤帯の言葉を、私は信じた。終戦のすぐ翌年の初めであったから、輸送もうまくゆかなかっただろうし、ことに大地もすっかり氷結して、野菜も採(と)れる筈はなかったから、そして監督のソ連兵の食事を見ることもあって、私たちのそれと大差ないことも充分に知っていたから。しかしそうだとしても、現在私たちが腹が減っていることには、すこしも変りはなかったのだが。

[やぶちゃん注:「終戦のすぐ翌年の初め」昭和二一(一九四六)年年初。]

 私たちの収容所は、アムール河の支流のまた支流の、そのまた支流のような流れの畔(ほとり)にあった。ここに収容されている日本兵は、総勢二百余名であった。私たちは満洲の佳木斯(チャイムス)ふきんで終戦をむかえ、そのままソ連軍へ降服、そしてまとめて船に乗せられて松花江をくだり、アムールに入り、トロイツクという街から支流に分け入ったのであった。段々せまくなる水路を何日か航行して、突然私たちは船から降された。そこは荒漠とした樹林のまんなかである。そこに屯(たむろ)するソ連の作業隊みたいな部隊に、私たちの身柄は引渡された。樹木の伐採に使役(しえき)されることが、そこでわかった。何十里とつらなる樅(もみ)や赤松の樹林を見たとき、はからずも異郷に虜囚(りょしゅう)となる感じは深かった。

[やぶちゃん注:「佳木斯」現在の中華人民共和国黒竜江省佳木斯(ジャムス/チャムス)市。中国最東部にあって中国で最も早く日が昇る所として知られ、「東方第一城」の称がある。参照したウィキの「ジャムスによれば、『佳木斯市は黒竜江省東北部、アムール川』(Амур。ラテン文字表記:Amur。ユーラシア大陸の北東部を流れ、中国側では「黒竜江」「黒河」「黒水」などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長四千三百六十八キロメートル、流域面積百八十五万五千五百平方キロメートル。ここはウィキの「アムール川」に拠る)、『ウスリー川、松花江が合流する三江平原に位置』し、西でハルビン市『と接し、さらに東はウスリー川、北はアムール川を隔ててロシア沿海地方やハバロフスク』などと接するとある。

「松花江」(しょうかこう/中国音「ソンホワチアン」)は中国東北部を流れる川で、ウィキの「松花江」によれば、『満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー、sunggari ula)」すなわち「天の川」と呼ばれており、この地に入ったロシア人もスンガリ(Сунгари)と呼んだ。第二次世界大戦前の日本、殊に満州国時代の日本人の間でもスンガリ川の名で知られている』。『アムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変え』、『しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する』。長さは千九百二十七キロメートル、流域面積は二十一万二千平方キロメートルに及ぶ。『冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する』とある。

「トロイツク」綴りは Троицк であると思われるが、ロシアにはこの名を持つ地名は複数あり、アムール川河畔のそれとは思われるが、英語の曖昧回避の同名のウィキを確認したものの特定は出来なかった。]

 上陸早々ソ連作業兵の監督のもとに、山から木を伐(き)り出して、私たちは自分の収容所をうちたてた。丸太を組んだ細長い舎屋である。内部に蚕棚(かいこだな)の寝台とペーチカをこしらえた。舎屋が完成すると、医務所と便所をつくった。それも完成すると、さらに営倉をこしらえた。

[やぶちゃん注:「ペーチカ」ロシア語。печка。ピェーチカ。ストーブ(暖炉)のこと。]

 営倉をつくるときは、万が一のことをも考えて、監視兵の指図の範囲内で、私たちは出来るだけ住みよいようにこしらえ上げた。

 それが済むと今度は、私たちが逃亡しないようにと、身の丈にあまる樅材(もみざい)の柵を、私たちは営々とつくった。柵の四隅に、高い望楼もたてた。これはソ連兵が私たちを監視するためのものである。高さは二十尺ぐらいもあった。

[やぶちゃん注:「二十尺」六・〇六メートル。]

 季節は冬に入って河面はすべて白い鋼(はがね)のように凍結した。私たちはあらゆるものから隔絶した思いにとざされて、逃亡しようなどと言い出す者は誰もいなくなった。逃げ出そうにも、地理がはっきりしないのである。この方向へ行けば沿海州へ出られると、漠然と予想はついたが、海を見るまでに山をいくつ超えねばならぬのか、誰も見当がつかなかった。

[やぶちゃん注:「沿海州」現在のロシア連邦の極東部、東は日本海に臨み、西は中国、北はアムール川に接する地域で、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてロシア帝国がおいていた旧州名。中心都市はウラジオストク。この「沿海州」とはロシア名のПриморье(プリモーリイェ)の訳語。「プリモルスキー」とも。]

 また事態は逃げ出すほどには切迫していなくて、辛くはなかった。作業はおおむね伐採であつたが、虚弱者は楽な仕事に廻された。ノルマはあるにはあったが、完遂できねば叱言(こごと)をいわれる位で、是が非でもやりとげさせられるという程ではなかった。朝の六時から、夕方の六時頃まで、ソ連作業兵のもとで私たちは、樹木伐採をやり、氷上清掃をやつた。夜はペーチカを焚(た)いた舎屋で、泥のように眠った。

 幸福なことには、しごく幸福なことには、与えられる食餌(しょくじ)は私たちの間ではほぼ均等に分配されていた。一部のものが余計たべ、残りが餓(う)えるということはなかった。みんながほぼ同じ仕事をやり、ほぼ同じ量の食事をとった。その点においてはこの収容所はうまく行っていた。

 それにも拘らず、私たちは腹を減らしていた。さして大食でない私ですらも、常住坐臥(ざが)腹が減って減ってたまらなかった。つまりは、絶対量が少かったのである。栄養失調で死ぬという程ではなかったが、その何歩か手前のところで、毎晩汽車弁当の夢を見たりして私は一日々々を過していた。

 

 初めのうち私は伐採班に属していた。樹を伐り出して、河岸に積む仕事である。河は凍結していたから、いずれ春の融氷を待って筏(いかだ)にして、流す予定であった。樹はいろんな種類があった。樹によってノルマが異なった。たとえば赤松五本は樅六本にあたるといった具合に。伐採は体力を必要とした。間もなく私は消耗して、虚弱者として、氷上清掃班に廻された。

[やぶちゃん注:「赤松五本は樅六本にあたる」アカマツ(裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)材は松脂を多く含み、火つきがよく火力も強いため、薪の原料として重視されたことや、また同じマツ科モミ属モミ Abies firma と比べると(モミに激しい個体差があるものの)アカマツの方が密で比重が高いことなどによるものか。]

 氷上清掃のカマンジールは、先に書いたイワノフという赤帯である。年の頃は四十歳ぐらいの、寡黙な男であった。眉毛も眼の色も灰色であった。氷上清掃は五六人の仕事であった。

 凍結した河面のところどころに、黒くかたまって流木などが埋もれている。河が解けると、これらも流れ出すのであるが、その際に筏に組んだ材木の流出を邪魔したり、せき止めたりする憂いがあるから、今のうちに除去する作業なのであった。ツルハシで氷を割って、それらを掘り出し、岸の上にほうり上げる。この作業には、定まったノルマはなかった。それ故に、体力の貧しいものがそれに廻された。

 朝六時に収容所を出発して、赤帯に引率されて、白い氷上をあるき、時々止って作業をする。河幅は二十米ほどであった。私たちの作業場は、しだいしだいに下流へくだるのであった。

 防寒服を着ていたとは言え、氷上の作業は寒くつめたかった。ツルハシを振る腕が利(き)かなくなる時もあった。冷気がひしひしと、革と毛の防寒靴をしみ通ってくる。

 弁当の黒麺麭は、いつも朝の食事と一しょに食べてしまうから、午後になるとものすごく空腹となり、胴ぶるいがしてくる。もちろん黒麺麭は昼に食べる規定になっていたのだが、保ち切れなかった。いつでも朝のカーシャと一しょに平らげた。なまじ、弁当として持っていると、気になって仕事ができないのであった。腹が減ると寒さが身にこたえた。

 赤帯はさすがは寒帯人であるから、さほど寒さをかんじないように見えた。着ているものも、私たちよりはずっと少いのである。綿服の上に赤い帯をしめただけであった。私たちのように防寒外套(がいとう)を着ていない。足には、薄茶色のフェルトのカートンキを穿(は)いていた。背の丈は私とあまり変らなかったと思う。カートンキを大股に踏んで、氷の上をあるいてゆく。流木の埋もったところへくると、手にした棒片(ぼうきれ)で氷面をコツコツたたいて、私たちを振り返る。そして私たちがそれを掘り始めるという順序であった。

[やぶちゃん注:「カートンキ」ロシア語の踝まで隠れる編み上げ靴(登山靴様)の意の ботинки(バチーンキィ)の音写か? よく合致する靴の上から履くフェルト製の限定的なそれは боты は「ボーテ」で発音が合わない。但し、シベリア抑留記録には確かに羊の毛を圧縮して作った防寒用長靴「カートンキ」として多出する。]

 樹林のせまる河岸の狭い通路や、白い氷の上を、列をつくって黙りこくってあるいてゆく時、しんしんとした孤独感が私たちの上に降りてきた。

 赤帯はつめたい感じの男ではなかった。しかしあまり口を利かなかった。長い眉毛の下から、灰色の眼で、作業している私たちをじっと見守っていた。ときには私たちからツルハシを取上げて、自分で氷を掘ったりした。

 昼の休憩は一時間ほどであった。私たちは弁当の黒麺麭は朝食ってしまっているので、支給されたキャベツと少量の岩塩で、火を起してスープを作り、それを啜(すす)る。どんなに薄くても、自然と咽喉(のど)が鳴るほどそれは旨(うま)かった。伐採班にいた時は、作業場が近くであったので、昼のスープは収容所からボーチカ(桶)に入れて、馬車で運んできたものであったが、自分たちでつくるスープの味はまた格別のものであった。

[やぶちゃん注:「ボーチカ(桶)」ロシア語。бочка。樽の意。

「キャベツと少量の岩塩で、火を起してスープを作り」前の注に出したロシアの主飯の一つである「シチー」である。]

 赤帯は私たちから少し離れたところで、自分の弁当をたべた。ひとりで食べている赤帯の姿はすこし淋しそうに見えた。食事が終ると、赤帯も混えた私たちは、ぼんやりしていたり、無駄話をしたりして休憩時間をすごした。

 防寒服のしたで私たちが慄えていると、ときには赤帯が自分も慄える真似をして、からかうような笑いを浮べた。しかし、そんな時、彼の灰色の眼尻は、あたたかそうな皺(しわ)を寄せて私たちを見ているのであった。

 また時には、彼は低い声で歌をうたったりすることもあつた。それはいつも同じ歌であった。幾分かなしそうな節(ふし)廻しであったが、意味はよく判らなかった。故郷の歌だと彼は説明した。私たちはロシア語は知らなかったが、もうその頃は、単語と身ぶりと手振りで、かなり深いところまでお互いの意志を通じ合えるようになっていた。時には私たちも、日本の歌をうたって見せることもあった。すると赤帯は、両掌を上と下から打ち合わせるような優雅なやり方で、拍手した。

 一時になると、私たちはまた立ち上って歩き出す。赤帯を先頭に、列をつくって、氷上を眺めてあるくのである。六時頃作業を止めて、収容所の方に戻るのであった。収容所の前までくると、もう一面に暗くなっていて、赤帯は入口の哨舎のソ連兵に私たちを渡し、ひとりで監視兵舎の方にあるいて行く。監視兵舎は、収容所から百米ほど離れた地点に建っていた。

[やぶちゃん注:「哨舎」「しょうしゃ」と読む。警戒や見張りをする歩哨兵の詰所。]

 それから私たち氷上清掃班はべーチカが燃える舎屋に入り、うすいカーシャを啜って、あとは寝るだけであった。夕食後、私たちは作業のことや食物の話をすることはあったが、故郷の話はお互いに意識して避けていた。何時帰れるかというよりは、帰れるか帰れないかも、その当時の私たちには予測できなかったのだから。

 

 私たちの作業班は、ときどき編成変えになった。私が伐採班から氷上清掃班に変ったのも、それであった。やがて春が近づいて、河の氷の解けるのも間がなかった。氷が解ければ、氷上清掃班は解班される筈であった。雪解を待って、大がかりな道路工事が始まるという噂もあった。

 ソ連側の監視兵や作業兵も、しよつちゅう交代した。ここらあたりの支流には、収容所があちこちに点在するらしく、昨日までいた監視兵がいなくなったと思ったら、今日は別のソ連兵がやってきたりした。

 監視兵だが、現場につきそうソ連の作業兵は、シベリア流刑囚を起用しているのだという噂が、私たちの間にひろまっていた。もしそれが真実だとすれば、あの赤帯のイワノフも作業兵だから、流刑囚のひとりとなる訳であった。

 氷上清掃班員の、ある小学校教員上りが、それを真実であると主張した。

 「だって赤帯の弁当を見てみろ。おれたちのとあまり変りはないじゃないか。やっぱり囚人待遇だよ」

 赤帯の弁当は私たちが見るところでは、黒麺麭(パン)だけのこともあったし、塩味の馬鈴薯と高梁(コウリャン)をつぶして混ぜたものの時もあった。赤帯が昼飯のとき、私たちから離れて食べるのは、それを見られたくないからだと言うのが、その教員上りの説であった。

 しかしその説も、決定的な立証となるには薄弱すぎた。流刑囚であるということも、本質的に私たちの生活とは関係なかったから、そんなことも噂だけで終りそうであった。

 舎監の蚕棚寝台で横になり、眠りに入るまでの短い時間に、私はときどき、イワノフが流刑囚だというのは本当かも知れない、などと考えたりした。もちろん私の想像にも根拠はなかった。カートンキを鳴らして氷上を先にすすむ赤帯の、なにか深く孤独をたたえたような姿が私にそういう考えを起させるのであった。背後からついてくる私たちをほとんど意識しないで、自分だけの考えに没頭してあるいているように見えた。赤帯は白人にはめずらしく、すこし猫背であった。しかし肩幅はひろかった。その肩を振るようにして、赤帯は大股にあるいた。

 昼に、私たちがスープしか飲まないのを見て、弁当はどうしたのかと、赤帯が訊(たず)ねたことがある。朝飯といっしょに食べてしまうのだと私が答えたとき、赤帯は灰色眼をしばしばさせて、何か言おうとしたが、そのまま口をつぐんでしまった。その時の表情の感じからすれば、赤帯は私たちをなじろうとしたのかも知れなかった。しかし、彼は口をつぐんでしまったから、そのことははっきり判らない。

 赤帯は几帳面(きちょうめん)なところがあった。弁当のことで私たちをなじる気配を見せたのも、そういう性格からとも思えた。また氷上清掃にノルマはなかったにしろ、赤帯は作業時間にかけては極めて厳格であった。休憩時間は一分と違えないし、早く切り上げて収容所に戻ることは絶対にしなかった。そういう戒律を私たちに課しているというよりは、赤帯は自分自身にそれを課しているように見えた。

 私たち五人はみんな、赤帯を好きであった。親しめるという訳ではなかった。親しめるという点でなら、他のソ連作業兵のなかには、ごく快活な兵士が何人もいたから。ただ何となく好きなのであった。だからある日赤帯が、近いうちに、自分は他の収容所勤務に転じるのだと、私たちに打ちあけたとき私たちはすこし失望した。赤帯は私たちのひとりひとりをじっと眺めながら、

「俺がいなくなれば、別にまた良いカマンジールが来るだろう。……おれは良いカマンジールではなかった」

という意味のことを言った。そして眼尻に涙を皺をきざんで微笑した。その微笑はなにかあたたかい色にあふれ、印象的な感じを私に残した。

 

 毎朝、起床して大急ぎでカーシャをすすりこむ。それから中庭に整列する。まだその時刻はうす暗くて、寒かった。ぼんやりした昧爽(まいそう)の空を背にして、望楼だけがくろぐろとそびえ、その上に動くソ連監視兵の姿が、さむざむと見えた。
[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「暗い」の意で「爽」は反して「明るい」の意。夜明け方。あかつき。「昧旦」とも言う。]

 出入口のところに建った哨舎から、伐採第何班とか、運搬作業第何班とか、大声で中庭に呼びかけられる度に、整列した部分々々が動き出し、列をつくって出入口の方へあるいてゆく。ザックザックという跫音(あしおと)が、次々つづいて行くのである。そして哨舎のところに待っているそれぞれのカマンジールの手に渡されて、それぞれの方向に跫音は消えて行く。氷上清掃班は、いつでも最後であった。哨舎の方から、

「氷上清掃はーん!」

と呼ばれると、中庭に残った最後の私たち五名は、一列になってザックザックと歩み出すのである。

 その朝もそうであった。

 哨舎の前のうす暗がりに、私たちのカマンジールの赤帯が、袋を肩にかけて待っていた。赤帯はいつも作業に出る時は、その袋をもっていた。キャンバスでつくった丈夫な袋で、中にはいろんなものが入っていた。赤帯だけでなく、ソ連の作業兵はみんなそれを持っていた。

[やぶちゃん注:「キャンバス」英語。Canvas。原義は「帆布」。主に亜麻(キントラノオ目アマ科アマ属アマ Linum usitatissimum)の繊維から作られるが大麻や、亜麻と大麻の混織、或いは綿、現代では合成繊維などからも作られ、canvasの語源は俗ラテン語の cannapaceus(麻に由来するもの)であり、さらにギリシャ語で麻(英語: cannabis)を意味する(以上はウィキのアマ(植物)に拠った)。]

 その朝も私たちは赤帯のあとについて、一列のままツルハシなどをかついで河岸へ出て行った。河岸までは、林のなかの一本道である。雪がかたまって梢から落ちる音をあちこちに聞きながら、いつものように私たちは黙りこくって歩いた。

 しかしその日は、いつものコースと少し違っていた。黙つてカートンキを踏みならす赤帯について、私たちは河にかけられた粗末な木橋を渡った。先発した伐採班がすでに作業を開始したらしく、木に打ちこむ刃物の音々を右手に聞きながら、私たちは対岸の河沿い道を下流へ下流へとくだった。

 やがて太陽が出た。それでも赤帯は歩をゆるめず、猫背の背中に袋をかけて、黙々とあるいた。やがて、私たちが掘り起した氷の穴が果てるところも赤帯はだまって通り過ぎた。私たちも、黙ってそれに続いた。

 道が切れると、赤帯は山の方に方向をとった。そこにも微かな道の跡があるのであった。赤帯はちょっと振り返って、ついて来い、という風な仕草をした。

 それから何時聞か、私たちは赤帯について、黙々と歩いた。私たちにとっては初めての道である。けれども、赤帯はよく知っているらしく、迷うことなく歩いた。道が狭くかすかにつづいているところを見ると、夏の時分に土民のキコリが歩く道ではないかと思った。赤帯が私たちをどこに連れて行こうとするのか、それは判らなかったけれども、私は別段ふしぎには思わなかった。そういうことには私たちは慣らされていたのだから。今日は氷上清掃でなく、別の作業があるんだなどと考えながら、私はあるいた。

 樹林の中を通るときは、雪があちこちの梢から落ちる音が繁かった。春が近づいて、雪解が始まっていることを思わせた。

 そして私たちは長いこと歩いた。何度か河を横切った。同じ河流を何度も何度も横切ったのではなくて、別々の河流のような感じであった。沿岸の様子や林相の具合から、別な流れだということが判った。アムールもこんな上流の果てになると、細流が縦横に錯綜(さくそう)して流れているらしかった。ごく狭い細流は、まだ堅く凍結していたけれども、私たちが渡ったひとつのかなり広い河流は、その中央部の氷がすでに解けて、音を立てて流れていた。私たちは橋の上からそれを見た。幅三尺ほどの氷の割目を、水は生物のようにせせらぎながら、下流へ下流へと流れていた。永い間氷にとざされた身にとってはやはり微かに胸がおどってくるような眺めであった。

 その河を越えて、すこし山に入ったところに、林のなかにぽっかりと空地があって、そこに一軒の小屋が立っていた。それは丸太を組み合わせて作ったような、粗末な小さな小嬉であった。その前で、赤帯の足は止った。そして振りむいた。

[やぶちゃん注:「小嬉」はママ。深く「小屋」の誤字にと判断するが、敢えてママとした。]

「ここで昼休みをする」

 肩に食い入るほど重くなったツルハシなどをおろして、私たちも立ち止った。そして赤帯について、小屋のなかに入った。

 その小屋は無人であった。簡単な棚などをこしらえてあったが、道具類は見当らなかった。夏場に猟師が起臥(きが)するたまりではないか、と私は想像した。そのような小屋は、収容所の近くにもいくつかあって、やはりそのような目的で建てられているらしかったから。

 赤帯も袋をおろしてそこに休んだ。私たちはその土間に木片をあつめて、火を燃す準備をした。スープをつくるためである。四五時間もぶっつづけにあるいたので、私たちはかなり疲れ、眠が廻るほど腹も減っていた。赤帯は床に腰をおろしたまま、だまって私たちの動作をじっと眺めていた。

 火が燃え立つと、私たちは飯盒(はんごう)をかけ、岩塩と凍ったキャベツを入れ、雪の適当な量を入れた。やがて、それがゴトゴト音をたて始める頃、私たちの手足も、だんだん暖かくなってきた。私たちは足を伸ばしてすこしずつ無駄口などを利き始めた。

 腰をおろして黙っていた赤帯が、その時袋を引きよせながら、突然私たちに次のような意味のことを聞いた。

「お前はいま、何が一番食べたいと思うか?」

 もちろん単語をいくつか並べただけで、あとは食べる身ぶりであった。やわらかい好奇心が赤帯の顔つきに浮んでいた。何の連関もなく、いろんな質問をするのが、赤帯の癖であったのだから、私たちも笑いながら、その質問にそれぞれ答えた。私が答えた汽車弁当というのが、赤帯にはすぐ理解できないらしかった。それはどういう食物かなどと、問い返したりした。皆が答えてしまうと、赤帯は自分のキャンバスの袋の口をひらいて、中から平たい形のものを取出した。見るとそれは漱戸引の洗面器であった。彼はそれをいきなり私たちの方に差し出しながら、押しつけるような低い声で言った。

「これを分けて、みんなで食べろ!」

 見るとその洗面器のなかには、大きな黒麺麭(パン)のかたまりと、大きく切った鮭の切身が、ぎっしり積み重なって入っていたのである。それは一目見ただけでも、五人かかっても食い切れないほどの量であることが判った。色よくふくらんだ黒麺麭のそばの、うす赤い鮭の切身の色が、どのような切ない鮮やかさで私たちの眼を射たことだろう。

 私たちは、思わずこくりと唾をのんで、赤帯の顔をみた。赤帯の顔はすこし赤く血の気をふくんで、頰のあたりにふしぎな微笑をうかべていた。それは慈愛者の笑いというより、むしろ含羞(がんしゅう)の幽(かす)かなわらいであった。

[やぶちゃん注:「こくり」はママ。]

 

 どのような山海の珍味もおそらくはその時の鮭の味には、はるかに及ばなかったと断言できる。私たちはほとんど我を忘れて、合間々々に黒麺麭をかみ、その鮭の切身をむさぼり食べた。なまの鮭の身が、こんなに美味であるということを、私はその時まで知らなかった。それはつめたい感触とともに、口の中でやわらかくほぐれ、やがて高貴な甘さとなって咽喉(のど)へ落ちて行くのであった。その味はおいしいというところを通りこして、ほとんど哀しくなるほどであった。私たちは次から次へ手を伸ばして洗面器の中のものを食べて行った。

 赤帯は黒麺鞄を千切って、口に運びながら、れいの灰色の眼で私たちの食べる有様を、幽かに笑みをうかべて眺めていた。それは私たちを見ているというより、どこか遠くを眺めている眼付であった。そして時々食べるのを止めて、低声で、もっと食べろ、もっと食べろ、と手振りで私たちをうながした。焚火の上では飯盒がシュンシュンたぎっていたが、誰もそれには振りむかなかった。いつもなら、咽喉が鳴るほど魅惑的なそのスープも、この鮭の切身を前にしては、物の数ではなかった。朝夕のカーシャの中に、ごくまれに、小さな鮭の身が入っていることもあったが、この鮭の鮮烈な味にはくらべるべくもなかった。私たちは、餓えた獣のように、一心不乱にわき目もふらずに食べた。もっと食べろ、と赤帯がうながすまでもなく。そして何十分かの後、私たちは咽喉の入口まで鮭をつめこんで、したたか満腹したのである。

 私たちは莨(たばこ)をつけ合いながら、自分たちの満腹をしみじみと確かめた。やっと人心地がついたという感じであった。満腹して初めて、今まで腹を減らしつづけていた月日が、実感となって私にきた。そして私たちに食べさせるために、こんな多量な鮭をかついできた赤帯のことが、しみじみと胸に落ちてきた。

 私たちは口々に、赤帯に礼をのべた。そうすると赤帯は急に困惑した表情になってそんなことは止めろという風に、掌をふった。

「お前たちは体力が弱いのだから」赤帯は手を伸ばして、私たちの身体つきの細っこい輪郭をなぞるようにした。――「早く強くなって、伐採でもやれるようになるといい。氷上清掃などは、一人前の仕事じゃない」

 それはしみじみとした声音(こわね)であった。

 しばらく休憩して、その日の作業が始まった。作業というのはその小屋から河岸まで、道路をつける仕事であった。道をつけると言っても、すでに道らしい跡があるのだから、そこに横たわった倒木や、垂れ下った梢をはらうだけでよかった。腹一ぱい食べて元気は出ていたし、仕事も楽だったので作業は非常にはかどった。四時間ほどで、すべては済んだ。

 それから朝来た道を逆に、赤帯に引率されて、収容所にもどりついたのは暗くなった頃であった。いつものように私たちを哨舎の監視兵にわたし、そして赤帯の猫背のうしろ姿は、私たちを離れて夕闇(ゆうやみ)のむこうに消えて行った。背中にかついだキャンバスの袋をぶらぶらさせて。――

 カマンジールとしての赤帯を見たのは、これが最後であった。翌日になって、私たちには別の新しいソ連兵がカマンジールの任についた。赤帯の姿はどこにも見えなかった。いつか言ったように、他の収容所へ転属して行ったにちがいなかった。

 ――その時初めて、赤帯が私たちに御馳走してくれた意味が、私たちに判った。

 

 その後、赤帯には、も一度だけ逢ったことがある。

 その年の夏のことであった。

 私は道路作業をやっていた。体力も相当回復していた。食事の量もすこしずつ増してきたし、雪が解けて以来は、野草や、蛙や蛇などを食べられるようになったから。冬の間にくらべると、胸や腕にずつと肉がついてきた。

[やぶちゃん注:「ずつと」(拗音表記ではない)はママ。]

 その作業場に赤帯がひょっこり姿を見せたのである。

「イワノフ」と私は思わず呼んだ。

 赤帯は私を見て、ひどくなつかしそうな表情をした。そして私の方に近づいてきた。

 赤帯はすこし瘦せたようであった。夏負けをしているのであった。寒さにはあんなに強い赤帯も、夏には脆(もろ)く弱いらしかった。うすい襯衣(シャツ)から、赤い胸毛をつけた胸がのぞいていたが、思ったほど立派な体格ではなかった。冬の間は、私たちよりずっと立派な体に思えていたが、厚い服をつけない季節では、思いの外(ほか)まずしい身体つきであった。私などとあまり変りないように見えた。

――西へ帰るんだ」

と赤帯が私に言った。その表情や声音に、なにか快活なニュアンスがあるのに、私は気をとめた。

 あれから赤帯は、もっと奥地の収容所に転じ、それから今度、ずっと西の方へ帰ってゆくという話なのであった。その途中で、ちょっとここへ寄ったという訳らしい。

 赤帯はその時、しゃれた形の鳥打帽をかむり、れいのキャンバスの袋をぶら下げていた。

 かつての氷上清掃班員の消息などを聞いたあとで、赤帯は手を伸ばして、私の肩や腕をつついた。

「いい身体になったな」

 そう言いながら、赤帯はからかうような微笑を頰にうかべて、私にいどんだ。

「相撲(すもう)をとろうか」

 昼休みの時間だったので、すこし離れた草原の上で、私たちは相撲をとった。草原には蚊柱がワンワン立っていたことを、私は覚えている。相撲は、私が一度勝って一度負けた。赤帯の身には、巴旦杏(はたんきょう)のような体臭があった。

[やぶちゃん注:「巴旦杏」バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina と採っておく。]

 それ以来、私は赤帯にあわない。もう生涯逢うこともないだろう。しかし内地へ戻ってきた今も、私は時々赤帯のことをなつかしく思い出す。ごく短い接近で、どんな境遇の男かつい知らずに終ったけれども、その印象は今でも鮮やかに私によみがえってくる。いくぶん小説的な想像を加えれば、あるいは赤帯はやはり流刑囚(るけいしゅう)で、あの時許されて故郷へ帰る途次(みちすがら)であったかも知れないとも思うのである。

 そして、あの時食べた鮭ほどに美味な鮭を、内地に戻ってからも、私は未だ食べたことがない。あの頃よく汽車弁当の夢をみたように、今ときどき私は鮭の夢を見る。夢の中のその鮭は、うす荒い断面をみせて、白い瀬戸引きの洗面器のなかに、ぎっしりと積めこまれているのだ。しかしたいていは食べないうちに、眼覚めるのがふつうのようである。

ブログ780000アクセス突破

妻のプレの誕生日プレゼントで一緒に湯治に一泊の出かけ、先ほど帰って見たら、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが780000アクセスを突破していた。これより湯当たりした脳で記念テクストにとりかかることとする。

青鷺

 

   昨日の湯河原「石葉」にて

 浴場の見晴臺(テラス)にて見下ろす棟の鳥衾に一抱へもあらうかといふ靑鷺の向かうを向いてとまつて居た。
 汚れ切つた浮世の垢を嫌ふかの如くに時に羽繕ひをするばかりで、夕陽にただ眞向(まつかう)してゐる。

 それは丁度つげ義春の描きたるやうに一種孤高の哲人にも似てゐないことはなかつた。
 素裸の私はそれを見乍ら――俺もあゝありたいものだ――と獨りごちてゐた。

2016/02/10

北條九代記 卷第八 將軍賴嗣御家督

 

鎌倉 北條九代記  卷第八

 

      ○將軍賴嗣御家督

將軍賴嗣公は、賴經の嫡男、母は大納言定能(さだよしの)卿の御孫にて、中納言親能(ちかよしの)卿の御娘、二棟(ふたむねの)御方、又は大宮殿とぞ申しける。延應元年十一月二十一日、鎌倉の施藥院使(せやくいゐんし)良基(よしもとの)朝臣が家にして、御誕生あり。寛元二年四月二十一日、御年六歳にて、御元服ましましけり。御父賴經卿、征夷大將軍の官職を讓り參(まゐら)すべきの由、京都に奏聞(そうもん)あり。勅定に依て、同月二十八日、賴嗣即ち征夷大將軍の宣旨を蒙(かうぶ)り、右近衞少將に任じ、從五位〔の〕上に叙せられたまふ。前武藏守泰時逝去せられしかば、四郎經時を武藏守に補(ふ)せられ、正五位〔の〕下に任じて、鎌倉の執權をぞ致されける。同三年七月に、武藏守經時の妹を、御臺所に定めて、御輿入(おんこしいり)まします。是は泰時の孫にて、修理亮時氏の娘なり。年十六歳とぞ聞えし。容儀美麗の女性にておはしませば、しかるべき御事にて、檜皮姫君(ひはだのひめぎみ)と申しけるが、將軍未だ七歳なり。世の人、似氣(にげ)なくぞ覺えける。如何なる故にや、去ぬる春のころより、鎌倉に、天變地妖多かりければ、將軍賴經、樣々の御祈禱行はれ、この事に倦(うん)じ給ひて、御子息賴嗣に將軍の職を讓りたまふ。然るに賴經卿は二歳の御時、鎌倉に御下向あり。九歳にて征夷大將軍に任ぜられ、在職十八年、御息賴嗣に御讓補(ごじやうふ)あり。是(これ)、天變の御愼(おんつゝしみ)にて、官職(くわんしよく)御辭讓(ごじじやう)ましましけりと、世には傳聞(ちたへきこ)えしかども、實には北條家權威(けんゐ)を縱(ほしいまゝ)にせんとて、御(ご)幼稚の間は崇め奉りけれども、御成長に及びては、政事に付けて、私(わたくし)の計(はからひ)成し難し。是(これ)に依(よつ)て、推(おし)て官職を讓らしめ、幼き賴嗣を將軍に補任(ふにん)して、國政内外の諸事、皆、執權の計(はからひ)なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十五の寛元二(一二四四)年四月二十一日及び五月五日、寛元三年七月二十六日の記事に基づくが、毎回御世話になっている湯浅佳子氏の論文「『鎌倉北条九代記』の背景 :『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり」の当該項によれば、『頼嗣が当時七歳であったことは『吾妻鏡』にはなく『日本王代一覧』『将軍記』にある。『北条九代記』ではここで頼経が天変地異の祈祷に倦じて譲位したと述べるが、さらに、実は北条家が権力を掌握するために幼少の頼嗣に将軍位を譲らせたとも指摘する。これは『日本王代一覧』に拠ったものである』と注しておられる。この「日本王代一覧」とは、「若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めによって林羅山の息子林鵞峯(春斉)によって編纂された、神武天皇から正親町天皇(天正一四(一五八六)年退位)の代までを記す本紀形式の歴史書で慶安五(一六五二)年成立、全七巻。「将軍記」は本「北條九代記」の作者と目される浅井了意の著作とほぼ確定している本邦に於ける鎌倉時代以降から豊臣秀吉までの将軍列伝で、寛永四(一六六四)年版が最も古いものらしい。

 なお、本条は底本では冒頭の「將軍賴嗣公」を「將軍經嗣公」、最終一文中の「官職御辭讓」を「宮職御辭讓」とするが、孰れも誤字で(後者はルビを「くわんしよく」と振る)ので特異的に訂した。

「將軍賴嗣公」鎌倉幕府第五代将軍藤原(九条)頼嗣(延応元(一二三九)年~康元元(一二五六)年)。公式には将軍宣下は寛元二(一二四四)年四月二十九日の征夷大将軍の宣旨(「吾妻鏡」翌五月五日の除目の記載に拠った。この時、未だ満四歳)から宗尊親王を新将軍として迎える建長四(一二五二)年三月まで(了行法師らが起こした謀叛事件に父頼経が関係したとして、連座で将軍を廃された。但し、「吾妻鏡」を見ると幕府による頼嗣の将軍廃任と宗尊下向の奏請は前月二月二十日に進発している。三月のこの時でも、頼嗣は未だ満十二歳であった)。

「大納言定能」(久安四(一一四八)年~承元三(一二〇九)年)は藤原北家道綱流で最終位は正二位・権大納言。「樋口」或いは「二条」と号した。琵琶の名手。

「中納言親能」(嘉応元(一一六九)年~承元元(一二〇七)年)は定能の長男。最終位は従二位・権中納言。

「修理亮時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。泰時長男で嫡子であったが病気のために早世したため、執権とはなっていない。

「似氣なくぞ覺えける」いくらなんでも七歳と十六歳では歳が離れ過ぎて夫婦となるに相応しくない、というのである。]

 

北條九代記 卷第七 將軍賴經公職位を讓る

      ○將軍賴經公職位を讓る

同二年三月、將軍家、鎌倉中の堂舍佛閣、巡禮し給ふ。思召し立つ事のおはしますを以てなり。去年より打續(うちつゞ)き、天變地妖、樣々なり、殊更、極月二十九日には、白虹(びやくこう)ありて、天涯(てんがい)に亙り、日を貫きて、時を移す、彗星(すいしやう)、客星、隙(ひま)なく出でて、風雨、更に時に叶はず。諸寺諸社に仰せて、修法祈禱の絶る間(ま)なし。諸国の訴(うつたへ)、非法の犯科(ぼんくわ)、御心を惱(なやま)し給ふ。なにはに付けて、浮世の中、兎に角にも厭果(あきは)てさせ給ひて、如何にもして遁ればやとぞ、おもひ立ち給ひける。然(しか)のみならず、御病氣、折々、差起(さしおこ)りて、合期(がふご)に堪へ給はず。數輩(すはい)訴訟のことも棄捐(きえん)せられ、庭中に言上する者、決断の遲々(ちゝ)する事を歎き奉る。武藏守經時も、病気、常に絶(たえ)ざるを以て、攝津〔の〕前司、佐渡〔の〕前司、信濃〔の〕民部〔の〕大夫入道等にまかせらる。彼(かれ)といひ、是(これ)といひ、政務に懈怠(けたい)あれば、京都鎌倉、諸人の口も煩(うるさ)く思召しければ、將軍賴經公、御若君、未だ六歳にならせ給ふを、同四月二十一日、御(ご)元服の事ありて、賴嗣(よりつぐ)とぞ號しける。京都に奏聞して、征夷大將軍の職を讓られ、同七月五日、大納言賴經公は、久遠壽量院(くをんじゆりやうゐん)にして、御餝(おんかざり)下(おろ)して、法名行智(ぎやうち)とぞ申しける。年來の御素懷(ごそくわい)なりとて、今は御喜びましましけり。年改(あらたま)りて、春にも成りなば、京都に御上洛ありて、六波羅邊(へん)に御坐あるべしとて、豫(かね)てより御所を造置(つくりお)かせ給ふ。同九月十三日、諸事の奉行等(とう)、悉(ことごと)く定められたり。同二十八日に三條〔の〕局、卒去せらる。この尼は女性(によしやう)ながらも才智深く、御所の内外(うちと)に付けて、故實を存じ、何事にも知ざる道はなかりしに、六十二歳の秋の風に、一葉(えふ)の命落ちければ、諸人、是(これ)を聞傳へ、惜(をし)まぬ者はなかりけり。同十二月二十六日、北條武藏守經時の亭より火出て、舍弟左近將監時賴の第(てい)失火し、餘熖(よえん)飛行(ひぎやう)して、政所(まんどころ)、焼失す。されども、記錄等(とう)は取出しぬ。不日に作立(つくりた)つべしとて、番匠大勢、召し集めて、土木の功をぞ急がれける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十五の寛元元(一二四三)年十二月二十九日、寛元二年三月一日、四月二十一日、九月十三日・二十八日、十二月二十七日、寛元三年七月五日などに基づく。これを以って「北條九代記」巻第七は終わる。

「同二年三月」「吾妻鏡」によれば、寛元二(一二四四)年三月一日。

「極月」前年還元元年十二月。この年の十二月は小の月なので、二十九日は大晦日。

「白虹」太陽や月に薄い雲がかかった際、その周囲に光の輪が現れる大気光学現象のこと。特に太陽の周りに現れたものは「日暈(ひがさ/にちうん)」と呼ぶ。参照したウィキの「白虹」には『中国では古代、白虹が太陽を貫くことは、兵乱の兆しとされた。白虹は干戈を、日は天子を表すという。司馬遷』の「史記」「鄒陽列伝」に、『「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」とあり、燕の太子丹(たん)の臣、荊軻(けいか)が始皇帝暗殺を謀った際、白い虹が日輪を貫き、暗殺成功を確信させたが、それでも丹は計画の失敗を恐れたという故事が見られる。他にも「彗星(妖星)の飛来」』「太陽が二つ現れる」などが『兵乱、大乱の予兆といわれるが』、二つの『太陽とは「幻日」のことであり、それと同時に観測されることが多い「幻日環」がここでいう白虹のことではないかとする説もある』とある。ここではまさに「日を貫きて、時を移す」(太陽を白虹が貫いて、それが二時間にも及んだ)とあるのは、まさしく兵乱の予兆を感じさせたに違いない。

「天涯」空の果て、辺縁。

「御心を惱し給ふ」以下の強い抑鬱的厭世怠業傾向を示したのは将軍頼経である。実務処理は執権以下で成し得ても、型通りとは言えども、最終決裁指示は将軍が下した。

「合期(がふご)」定式の裁決決裁の時間。

「棄捐(きえん)」判断を停止して捨て置いてしまうこと。

「攝津前司」中原師員。

「佐渡前司」藤原基綱。

「信濃民部大夫入道」二階堂行盛。

「彼といひ、是といひ」「彼」は将軍頼経、「是」は執権北条経時を指す。

「懈怠(けたい)」怠惰。積極的ないこと。

「京都鎌倉、諸人の口も煩(うるさ)く思召し」たのは無論、次に続く「將軍賴經」である。

「賴嗣」頼経と藤原親能の娘大宮殿の子で継嗣の九条頼嗣(延応元(一二三九)年~康元(一二五六)年)。

「御餝(おんかざり)下(おろ)して」落飾。出家。

「同九月十三日、諸事の奉行等(とう)、悉(ことごと)く定められたり」これは行智(元将軍頼経)の上洛の際の奉行人の選定である。

「三條局」は幕府女官。熱田大宮司季範(すえのり)の孫で父は法橋(ほっきょう)範智。相模守顕季(あきすえ)と結婚した後、源頼朝の女官となった。古儀に通じ、幕府営中にあって重きをなした。建保七(一二一九)年に鎌倉雪ノ下に屋敷を与えられいた。生年未詳であるが、本書の筆者の言うように、「六十二歳」で亡くなっているとすれば、生年は寿永二(一一八三)年ということになる。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― あこくその心もしらず梅の花 芭蕉

本日  2016年 2月10日

     貞享5年 1月 9日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月10日

 

あこくその心もしらず梅の花

 

 前句と同じく小川風麦亭での同日の一句。「笈の小文」には不載。「三冊子」などに、

 

あこくその心は知らず梅の花

 

とするものがある。

 「あこくそ」は「阿古久曾」でかの歌人紀貫之の童名と伝えられるものである。そこから、知られた貫之の、

 

 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

 

を引き出し、さらに芭蕉の意識は自身の幼年時代まで遡って、変わらぬ「ふるさと」伊賀上野のこの風麦の屋敷内の梅、そして風狂の漂泊者となった私を、貫之の歌とは正反対に(その雰囲気は異型の「心は知らず」の方が私はよく響き出ると思う)、あの頃と変わらずに優しい笑顔で迎え入れて呉れるその旧友の主人の優しさ、そこにこの挨拶の句の誠意と感謝がある。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 春たちてまだ九日の野山哉 芭蕉

本日  2016年 2月10日

     貞享5年 1月 9日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月10日

 

   初春

 

春たちてまだ九日の野山哉

 

 「笈の小文」より。伊賀蕉門の重鎮で藤堂藩藩士の小川風麦(ふうばく ?~元禄一三(一七〇〇)年:本名は小川政任(「まさとう」か))亭に招かれた際の挨拶句。

 「芭蕉翁真蹟拾遺」(大蟲編・成立年次不詳)に、

 

春たちてやゝ九日の野山哉

 

とする。

 山本健吉氏は『この年の立春は四日だから、これは一月十三日と解する人もあるが、「春立て」は立春に限らず、元日でもありうる。するとこの句は一月九日になる。その方が「まだ九日の」表現として自然である。「算用をよく合せたる句」(去来抄)を芭蕉が作るはずがない。土芳の『全伝』には、「二日にも」の句に』「此句正月九日、風麥ニ會シテノ吟也」『と付記しているので、風麦亭の会が九日だったことが分る』とある。私は凡そそんな算盤評者がいるとは思わなかったが、異型の中七の「やゝ」も、これまたますます元旦からとしか思われぬ。

2016/02/09

北條九代記 卷第七 將軍家佐渡前司が亭に入御

 將軍家佐渡前司が亭に入御

同九月五日、將軍家、佐渡前司基綱が大倉の亭に入御したまふ。武蔵守經時、左近將監時賴、遠江守朝直以下の輩、供奉し奉る。和歌の詠、取々(とりどり)秀逸の句を出し、詞は古きを用ひながら、意(こゝろ)は新(あたらし)き歌どもなり。次に管絃を初められ、將軍家は御笛(おんふえ)を遊(あそば)され、能登前司は琵琶を仕り、二條中將、和琴(わごん)を彈き給ひ、壬生侍從(みぶのじじう)、唱歌せらる。笙瑟(しやうひつ)の調(しらべ)、音冴えて、秋風樂(しうふうらく)を奏すれば、折に叶へる秋の風に、木の葉縺(もつ)れて舞ふが如し。萬秋樂(ばんしうらく)の聲(こゑ)の内には、千代を重ぬる壽(ことぶき)を、君が爲(ため)にと歌ふなり。世は治(をさま)る太平樂、四海の外まで靡くなる、納蘇利(なそり)や羅綾王(らりようわう)、廻る盃(さかづき)、數(かず)添(そ)ふは、胡飮酒(こをんじゆ)、酒胡子(しゆこし)、廻盃樂(くわいはいらく)、誠(まこと)に妙(たへ)なる音樂に、陸(くが)には馬も秣(まぐさ)に仰(あふ)ぎ、水には魚の踊(をどる)らん。素(もと)より此所は、閑寂(かんせき)山陰(さんいん)の幽栖(いうせい)なり。古松(こしよう)、枝垂(た)れては、千年の色を見せ、老槐(ろらうかい)、葉、茂くして、萬世の德を表す。端山(はやま)の紅葉(もみぢ)、籬(まがき)の菊、露重(おも)げなる萩が枝(え)も、枯たる後ぞ面白き。岩を疊める中よりも、靜(しづか)に落つる瀧の絲(いと)、來る人毎(ごと)に眺めては、心を繼(つな)ぎて止(とゞ)むらん。既に暮掛(くれかゝ)りければ、白拍子兩三人參りて、今樣、朗詠し、雪の袖を返しけり。猿樂を招きて舞跳(まひをど)らせ、樣々(さまざま)の御遊に、將軍家、興を催され、雞鳴(けいめい)に及びて還御あり。基綱、大に喜びて、樣々の御送物(おんおくりもの)をぞ奉られける。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十五の寛元元(一二四三)年九月五日に基づく。

「佐渡前司基綱」後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)は藤原秀郷の系譜を引く京武者後藤基清の子。ウィキの「後藤基綱」によれば、但し、『その活躍は武士としてよりも、文官に近い実務官僚としてであり、また歌人としても有名で』あり、説話集「十訓抄」の著者とする説さえもある。『承久の乱では軍奉行を務めたと見られ、後鳥羽上皇方に付いた父基清を幕府の命令により斬首し』、嘉禄元(一二二五)年には新設された『評定衆の一員となり、恩賞奉行や地奉行となっている。その後藤基綱が記した記録は、かなりの量が『吾妻鏡』に利用されていると見られる。恩賞奉行として四代将軍藤原頼経の側近でもあった為か』、寛元四(一二四六)年六月七日、『宮騒動によって評定衆を解かれ頼経とともに京に同行。その』六年後に再び引付衆として返り咲くものの、既に七十二という『高齢に達しており、後藤氏の名誉回復に近いものであったとも見られる』とある。『その子後藤基政は引付衆から六波羅評定衆となり、以降後藤氏は六波羅評定衆を世襲』した、とある。

「左近將監時賴」当時、満十六歳。

「能登前司は琵琶を仕り」三浦光村。藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった。

「二條中將」公卿で歌人の飛鳥井教定(あすかいのりさだ)。頼経・頼嗣・宗尊親王と三代の幕府将軍に仕え、蹴鞠や和歌を指導した。

「笙瑟」「笙」は狭義には笙の笛を、瑟は大型の琴を指すが、ここは笛と琴の謂い。

「秋風樂」雅楽の唐楽の一曲。盤渉(ばんしき)調と呼ばれるものの中曲(雅楽の唐楽曲の分類名で「大曲」「小曲」に対する中くらいの規模の曲の意)で舞いは四人舞いであるが、現在は曲・舞ともに廃絶している。

「萬秋樂」増淵勝一氏の割注によれば、「萬歳樂」の誤りとする。舞楽の新楽の一つで、平調(ひょうじょう)の中曲。もと六人による女舞いであるが、現行は四人による男の平舞(ひらま)いとなって伝わる。常装束(つねしょうぞく)に鳥甲(とりかぶと)をつけて舞う。煬帝(ようだい)万歳楽とも。

「太平樂」雅楽の唐楽の一つ。太食 (たいしき) 調と呼ばれる新楽の中曲。朝小子 (ちょうこし) ・武昌楽・合歓塩 (がっかえん) からなる合成曲で、舞いは四人舞い。即位の大礼の後などに演じられる。武昌破陣楽。

「納蘇利(なそり)」納曽利とも書く。雅楽の高麗楽(こまがく)。高麗壱越(こまいちこつ)調と呼ばれる小曲。舞いは二人の走り舞で、一人で舞う際には「落蹲(らくそん)」と呼ぶ。双竜舞(そうりゅうのまい)。

「羅綾王(らりようわう)」「陵王」とも呼ぶ雅楽の唐楽。壱越(いちこつ)調と呼ばれる古楽の中曲。仏哲という僧が伝えたとされる林邑(りんゆう)楽の一つで、舞いは一人舞の走り舞い。中国の北斉の蘭陵王が周軍を破る姿を写したものとされる。番舞(つがいまい:舞楽で左方の舞いと右方の舞いとを組み合わせて一番とするもの)は前掲の「納曽利」という。

「胡飮酒(こをんじゆ)」現行では「こんじゅ」と読む。雅楽の曲名で唐楽 (左方) 壱越 (いちこつ) 調に属する。林邑 楽の一つとする説もあるが、明らかではない。舞い人は頭に長い毛のある茶色の大型の面を附け、太い桴 (ばち) を持って朱色の裲襠 (りょうとう) 装束という衣裳で一人で舞う。

「酒胡子(しゆこし)」雅楽の一つで唐楽。壱越(いちこつ)調と双調(そうじょう)と呼ばれる管絃曲。現在は舞いは廃絶。「酒公子(しゅこうし)」「酔胡子」等とも表記し、「すこし」とも読む。

「廻盃樂(くわいはいらく)」「廻杯楽」「回杯楽」とも書き、「くわいばいらく(かいばいらく」とも読む。唐楽壱越調の中曲の新楽で、現行では舞いはない。

「馬も秣(まぐさ)に仰(あふ)ぎ」馬も馬草を喰うことを忘れて、妙なる音に耳を傾ける如く御殿を仰ぎ。

「素(もと)より此所は、閑寂(かんせき)山陰(さんいん)の幽栖(いうせい)なり」「佐渡前司基綱が大倉の亭」とあり、彼の邸宅は現在の覚園寺に近い薬師堂谷(やくしどうがやつ)にあったから、山蔭に閑寂(かんじゃく)にして幽邃な地であった。

「槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産であるが、古くから本邦にも植栽されていた。かなりの巨木になる。

「靜に落つる瀧の絲、來る人毎に眺めては、心を繼ぎて止むらん」「絲」を「來る」で糸を繰る、その「絲」で「來る人」「來る人」の「心を」皆、「繼」なぎ「止」める、という縁語と掛詞になっている。これは本「北條九代記」の筆者の采配である。]

北條九代記 卷第七 北條泰時逝去 付 左近大夫經時執權

      ○北條泰時逝去  左近大夫經時執權

同六月下旬、右京大夫泰時、不例の氣まします。將軍家を初め奉り、嫡孫左近大夫將監經時以下、一門の輩は云ふに及ばす、勤仕(きんじ)の大名、小名に至る迄、汗を握り、息を呑みて、諸寺の祈禱、諸社の立願、醫師、陰陽師(おんやうじ)は、殿中に伺候して、百計(けい)すれども、效(しるし)を奏せず。遂に限(かぎり)を越え給はず、同十五日に、こと切れさせ給ひけり。惜むべし歎くべし、末世に比(たぐひ)なき、賢者として、國家の棟梁、政務の龜鏡(きけい)、その仁惠(じんけい)は廣く四海に蒙(かうぶ)り、その廉讓(れんじやう)は遍(あまね)く一天にわたりて、德を修め、道を行ひ、靡(なび)かぬ草木もなかりけるに、大年の極(きはま)るところ、六十二歳の春秋、忽に草頭(そうとう)の露とともに落ちて、風前の燈(ともしび)と同じく、消え給ふこそ悲しけれ。去年は、相模守時房卒去あり。今年は又、泰時逝去ありければ、古老の名臣、漸く絶えて、天下の政道、故實を失ふに似たるものか。貴賤多少の歎(なげき)、老若(らうにややく)遠近(ゑんきん)の愁(うれひ)、このとき電光のかけを託(かこ)ち、石火の飛ぶを恨む。山〔の〕内粟舟(あはふね)の御堂の傍に葬り奉り、諸將、挽歌を謠ひ、衆僧、經呪(きやうじゆ)を唱ふ。法名をば歡阿(くわんあ)とぞ號しける。この春、詠み給ひし「花の散りなん」といふ歌は、豫(かね)て是(これ)をや思召しぬらんと、殿中鎌倉近國迄も物の音(ね)をも鳴さず、野も山も、冴返(さえかへ)りたる有樣なり。中陰の御弔(とぶらひ)、結緣参詣(けちえんさんけい)の輩、墓地の邊(あたり)は、晝夜の境もなく、人の立ち止(やむ)時はなし。是(これ)、偏(ひとへ)に御在生の内、邪(よこしま)なく、恩を施したまひける名殘とぞ覺ゆる。仁治四年二月二十六日に、改元ありて、寛元と號せらる。同六月十五日、泰時聖靈(しやうりやう)の一周關(しゆうくわん)の御佛事を粟舟(あはふね)の御堂にしてとり行はる。左近〔の〕大夫將監(しやうげん)經時、舎弟左近將盛時賴以下の一族、のこらず参詣あり。曼荼羅供(まんだらぐ)の法會(ほふゑ)、導師は大阿闍梨信濃法印道禪(だうぜん)、講衆十二口(く)、この供養は、幽儀(いうぎ)御在生(ございしやう)の時、殊に信心を凝(こら)し給ふ。さこそは今も受け悦び給ふらんと、殊勝なる中にも昔を慕(した)ふ涙の雨、何(いづれ)の袖も沾(ぬ)れにけり。左近大夫經時、先に相變らず、執權を勤むべき由、將軍家、殊に仰出(おほせいだ)され、諸事の政務、前右京兆(うけいてう)の式目をぞ守られける。同七月八日、北條左近〔の〕大夫經時を武蔵守に任じ、時房の四男、朝直(あさなほ)を遠江守に任ぜらる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十四の仁治二(一二四一)年六月二十七日、寛元元(一二四三)年六月十五日、七月十八日に基づくが、「吾妻鏡」は北条泰時の逝去(仁治三(一二四二)年六月十五日)を含む、仁治三年のパートがごっそり欠損している。

「同六月下旬」前が誤っているのでこの「同」は意味を成さない(前が誤って「仁治三年」としている結果、たまたま「同」は正しい年号になるというだけに過ぎない)。また、本文にある通り、六月十五日に泰時は逝去しているので「下旬」も誤りで、「上旬」とすべきところであろう。但し、実は前年の仁治二(一二四一)年六月二十七日に、泰時は体調を崩して祈禱その他が行われているが、この時は凡そ一ヶ月後の七月二十日に回復していることが「吾妻鏡」から判る。この「下旬」はここと混同している可能性が窺える。なお、彼の死因についてウィキ北條泰時には、京の公家の日記「経光卿記抄」の同年六月二十日の条によれば、『日頃の過労に加えて赤痢を併発させ』、六月二十六日の条には『高熱に苦しみ、さながら平清盛の最期のようだったと伝え』るとし、『皇位継承問題が大きな心労になったともされている』ともある。

「右京大夫泰時」前と同じく「左京大夫泰時」の誤り。

「龜鏡(きけい)」「ききやう(ききょう)」とも読む。「亀鑑(きかん)」と同義。手本。模範。「龜」は古代の亀占(きぼく:カメの甲を焼いて吉凶を判断したこと)に由来する。

「廉讓」清廉(心が清らかで私欲がないこと)で、よく人に譲ることを言う。

「六十二歳の春秋」泰時は現行では寿永二(一一八三)年生まれとされるから、享年は五十九である。

「去年は、相模守時房卒」一昨年の誤り。延応二(一二四〇)年一月二十四日逝去。

「石火の飛ぶを恨む」火打ち石の飛ぶ火花が一瞬であるように人の命の短いことを恨む。

「粟舟の御堂」神奈川県鎌倉市大船にある臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんざん)常楽寺。創建時は「粟船御堂(あわふねみどう)」と呼ばれ、北条泰時夫人の母追善供養のために建立されたもので、創建当時は密教系(或いは浄土系とも)の寺であったとも言われる。現在の「大船」の地名はもとはここまで相模湾から粟を積んだ大船が遡上出来たことに由来するこの「粟船」に基づく。

『この春、詠み給ひし「花の散りなん」』「この春」は一昨年の春の誤り。前章参照。

「曼荼羅供」は法要の名。「曼陀羅供」とも書く。略称は「曼供(まんく)」。金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の絵図を中心に据えた法要で、真言系・天台系諸宗で勤める密教立ての法要の中では最も華やかな法会。大壇(だいだん)を設けてその前の礼盤(らいはん)に導師が登り、この法要独自の修法を行う。職衆(しきしゅう)はその間に声明(しょうみょう)を唱える他、真言系では声を揃えて呪を誦したり、読経を行ったりする(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「北條左近大夫經時」北条泰時嫡男北条時氏の長男北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)は、この寛元元(一二四三)年当時は未だ満十九歳であった。

「時房の四男、朝直」北条朝直(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)は初代連署北条時房四男で評定衆の一人。大仏(おさらぎ)流北条氏祖。ウィキの「北条朝直」によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したが、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の変で光宗が流罪となり、嘉禄二(一二二六)年には当時の執権『北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められ』たものの、二十一で無位無官の朝直は『愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月には、『朝直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られ』、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。寛元元(一二四三)年当時は満三十七歳。]

北條九代記 卷第七 火柱相論 付 泰時詠歌 竝 境目論批判

      ○火柱相論  泰時詠歌  境目論批判

仁治三年二月四日、戌刻計(ばかり)に赤白(しやくびやく)の氣、三條(みすぢ)、西方の天際(てんさい)に現じ漸(やうや)く消えて、後に赤氣(しやくき)の一道(だう)其(その)長(たけ)七尺許(ばかり)に見えて耀(かゝや)けり。陰陽師泰貞朝臣、御所に參じて、申しけるは、「この天變を彗形(けいぎやう)と氣と名付く、俗説に火柱(ひばしら)と申し習(ならは)す。昔、村上天皇の御宇、康保(かうはう)年中に出現せし事、舊記に載せられ候」と申す。晴賢(はるかた)、廣資(しろすけ)等、參りて、「今夜は、空、陰(くも)り、雲、渦卷きて星の形勢(ありさま)分明ならず、この赤氣に軸星(ぢくせい)なく候」と申すに依て、一決し難き所に、同七日の巳刻に、大地震あり。「去ぬる建曆年中に、これほどの地震あり。和田左衞門尉義盛が叛逆の兆しなりき。御愼みあるべし」古老の輩はまうし合はれけり。同十六日、天文道の輩に仰せて、去ぬる四日の天變(てんぺん)の勘文(かもん)を奉らしめらる。泰貞が書には、陰雲に依つて分明ならず。但し、天變に處せられば、火柱の形勢(いやうせい)なり」と申す。晴賢が狀には「推古天皇二十八年、天慶二年、元永五年の赤氣、今是同じ」と申す。相論、遂に決せず。將軍家の仰(おほせ)に、天變に極りなば、京都より申し來るべし。その時、御沙汰あるべきの由にて、この義は相論をとゞめたまふ。同三十日に、一條殿より御書(しよ)到来して、「去ぬる四日の赤氣の事、彗星(すいしやう)出現の由、風聞あり」と仰せ下さる。泰貞、晴賢が勘文(かもん)を調へて、京都に進ぜられ、御沙汰をぞ經(へ)られける。同三月十六日、右京權大夫泰時、評定所退出の時、庭上の落花を見て、かくぞ詠み給ひける。

 

  こと滋(しげ)き世の習(ならひ)こそ物憂(う)けれ花の散りなん春も知られず

 

人々承りて、感じながら、心にかゝりて存(ぞん)ずとなり。同三月二十五日、海野(うんのの)左衞門尉幸氏(ゆきうぢ)と、武田伊豆〔の〕入道光蓮(くわいれん)を相論のことあり。上野國三原莊(みはらのしやう)、信州長倉保(ながくらのはう)との境目(さかひめ)、爭ふに、海野が申す所、其(その)謂(いはれ)あるに依て、貞永式目の法に任せ、押領分(おふりやうぶん)を差加(さしくは)へてかへし、沙汰すべき由、伊豆前司賴定、布施〔の〕左衞門尉康高に仰含(おほせふく)めらる。光蓮、恨(うらみ)を含みて、一族を催し、友達を語(かたら)ひ、左京權大夫泰時を討ちて、宿意を遂げんと謀る由、風聞す。泰時、聞き給ひ、人々に向ひて、歎じて曰く、「人の恨を顧みて、その理非を分けずは、政道の本意、有るべからず。逆心(ぎやくしん)あらん事を恐れて、子細を申し行はずは、定て又、私(わたくし)を存ずるを招かんものか。去ぬる建暦年中に、和田左衞門尉義盛、謀叛を企てしころ、囚人(めしうど)平太胤長(たねなが)を免(ゆる)し給はるべき由を稱す。一族悉く列參せしむといへども、許容せられず、剩(あまつさ)へ平太を面縛(めんばく)して、彼等が眼前を引渡して、人に預けられしかば、義盛、憤(いきどほり)て、一族、蜂の如くに起るといへども、當座に於いては、敢へて私を存ぜざる先蹤(せんしやう)、既に、かくの如し。是(これ)、政道に私なき事を表す所なり。往昔(そのかみ)、右大將賴朝公の御時、上總介廣常は最初に多くの忠節を盡しけれども、平家追討の爲、西國へ軍兵を差上(さしのぼ)せられし時に、廣常、驕(おごり)を極め、謂(いは)れざる訴(うつたへ)多く、先忠(せんちう)をのみ申立(まうした)てて、恨むまじき事を恨み、内心には隠謀なくして、隱謀あるに似たりければ、當時、追討の障(さはり)となるを以て、廣常を御所に召して、侍に仰せて、刺殺(さしころ)し給ひけり。さしも以前に忠ありし者を、かく罪し給ふこそ無慚(むざん)なれ。此君、賴もしからすと傾(かたぶ)き申せしかども、此事によりて、諸將邪義の訴(うつたへ)、忽(たちまち)に留りぬ。忠は重く賞し、罰は輕(かろ)く行へとは云ひながら、時に從ひて、罰を重く行はざれば、道義、塞(ふさがる)る事あり、主君の御恩を傍(かたはら)になし、我が忠をのみ鼻に當てて、無禮緩怠(くわんたい)の訴(うつたへ)を致さば、是を罰して、一跡(せき)を追捕(ついふ)し、忠義を嗜む人に分遣(わかちつかは)さば、訴(うつたへ)は自然に止(やむ)べししと仰あり。光蓮、この由、傳聞(つたへき)きて、理(り)に服し、後悔を懷(いだ)き、起請文(きしゃうもん)を書き進じ、二心なき由をぞ陳謝しける。

 

[やぶちゃん注:歌の前後を例外的に一行空けた。「吾妻鏡」巻三十四の仁治二(一二四一)年二月四日・七日・十六日・三十日の条に基づく。

「仁治三年二月四日」仁治二年の誤り。

「戌刻」午後八時頃。

「七尺」二・一二メートル。恐ろしく長いことが判る。この天変異常記録については湯浅吉美氏の素晴らしい論文「『吾妻鏡』に見える彗星と客星について─鎌倉天文道の苦闘─に「吾妻鏡」の本文を引いた上で以下のように述べておられる。

   《引用開始》

 これは厳密に言えば彗星や客星[やぶちゃん注:「かくせい」と読む。それまで観測されていなかった場所で突如として出現したものの、一定期間後に再び見えなくなってしまった恒星様の星のことを指す。彗星や新星なども含まれる。]の記事ではない。泰貞が一番に来て報告したが、「彗形」なる曖昧な言葉を使い、「異名、火柱なり」という。むしろ彗星とは見ていないように読まれる。次に晴賢らが来た。晴賢は陰雲を理由として、

  ・彗星の類を観望しうる状態ではない

  ・軸星(コマ)も無い[やぶちゃん注:この場合の「軸星」とは恐らく、彗星の「星」即ち核に当たる部分を指しているように思われる。]

として、晴天のときに判定すべしという。一方、広資は泰貞と同意見であった。晴賢の謂うところは、一応尤ものようだが、実は腑に落ちない。軸星の無いことがわかるなら、十分に見えていたのではないか。この間、16日条に、陰陽師らを召し集めて相論させた記事が見える。そのときは、泰貞も陰雲により詳細不明としつつ、火柱の天変として対応すべきかとの意見を提出した。晴賢は赤気としながらも、野火(の反映)の疑いもあるという。だいぶ心許ない判定である。そのほか、資俊・国継は赤気、広資は火柱とした。ところがそこに道家からの書状が届き、彗星出現の風聞のあることが知らされた。淡々とした記述だが、鎌倉の陰陽師、とくに「最前馳参」の泰貞などは俄に色めき立ったことであろう。ただし、これが真に彗星であったかどうか、他の史料に所見なく、赤気としての記録も見当たらない。詮ずるところ、真相は不明である。

   《引用終了》

「彗形(けいぎやう)と氣」あくまで、彗星(箒星)の形を成している気の謂いであって、実体としての彗星を指しているのでない。

「村上天皇の御宇、康保年中」康保は九六四年から九六八年に相当するが、村上天皇は康保四年五月二十五日(ユリウス暦九六七年七月五日)に死去(後日に冷泉天皇が即位)しているから、泰貞の謂いが正確なら終わりは前にずれる。

「舊記」不詳。識者の御教授を乞う。

「軸星」前注の私の挿入注を参照されたい。

「巳刻」午前十時頃。

『去ぬる建曆年中に、これほどの地震あり。和田左衞門尉義盛が叛逆の兆しなりき。御愼みあるべし」古老の輩はまうし合はれけり』「建曆年中」は西暦一二一一年から一二一三年で、和田合戦は建暦三(一二一三)年五月に発生している。この直近で「吾妻鏡」を調べてみると、同年正月一日の条に『巳尅地震』とあるのを見出せる。元日のことでればこそ人々も何よりよく記憶し、北条義時の和田一族一掃の姦計になると私が踏んでいる泉親平の乱(第二代将軍源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようとした陰謀)の未然発覚はこの翌二月で、まず、この老人の謂うのはこの地震と考えて間違いあるまい。ここは以下に見るように、「吾妻鏡」の記載を概ね引用する形をとっている。『七日乙丑。巳尅大地震。古老云。去建曆年中。有如今之大動。即是和田左衞門尉義盛叛逆兆也。其外於關東。未有如此例云々。其後。午時子尅。兩度小動。』(七日乙丑。巳尅、大地震。古老云はく、「去ぬる建曆年中、今のごときの大動、有り。即ち是れ、和田左衞門尉義盛の叛逆の兆しなり。其の外、關東に於て、未だ此くのごとき例(ためし)、有らずと云々。其の後、午時と子尅、兩度、小動す。)で、その後も正午前後と、深夜の零時前後にも小さな余震(?)があったことが判る。

「推古天皇二十八年」西暦六二〇年。

「天慶二年」九三九年。この年は年末にかの平将門の乱が勃発している。

「元永五年」一一二二年。

「今是同じ」とだけあるが、筆者が「吾妻鏡」では晴賢の部分の末尾にある、『但有野火疑等云々』(「但し、野火の疑ひ等、有り。」と云々。)という箇所をカットしたのはどうも、いただけない。しかしまあ、前にも似たようなことがあってむっとしたが、この陰陽師ども――数打ちゃ当たる式で巧妙に自己保身しているのが最早――見え見えだ!

「一條殿」九条道家鎌(将軍藤原頼経の実父)。

「勘文(かもん)」「かんもん」とも読む。古く平安時代に神祇官・陰陽師等が天皇などの諮問に答えて、先例・吉凶・方角・日時などを調べ上げて上申した意見書。

「右京權大夫泰時」「左京權大夫」の誤り。

「こと滋き世の習こそ物憂けれ花の散りなん春も知られず」「吾妻鏡」仁治二(一二四一)年三月十三日の条から。

○原文

十六日甲辰。此間。將軍家令加御灸五六ケ所御云々。今日有評定。事終。前武州持參事書。被披覽御前之後。人々退散。前武州猶還着評定所。覽庭上落花。有一首御獨吟。

 事しけき世のならひこそ懶けれ花の散らん春もしられす

○やぶちゃんの書き下し文

十六日甲辰。此の間、將軍家、御灸(きう)を五、六ケ所へ加へ令め御(たま)ふと云々。

今日、評定、有り。事終りて、前武州、事書(ことがき)を持參し、御前に披覽せらるるの後、人々、退散す。前武州、猶ほ評定所へ還り着き、庭上の落花を覽て、一首の御獨吟有り。

  事しげき世の習ひこそ懶(ものう)けれ花の散るらん春も知られず

「海野左衞門尉幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。何度も注し得ているが、再掲しておく。当時、既に数え七十。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光(これがこの訴訟の相手)・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。『幸氏の死期については、確かな記録は無』いが、建長二(一二五〇)年三月の『吾妻鏡』に、『幸氏と思われる「海野左衛門入道」の名が登場するのが、記録の最後』であるとする。これが正しく幸氏であったとすれば、この時既に七十八で、当時としては長生きである。

「武田伊豆入道光蓮」武田五郎信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。既注であるが再掲する。甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏(これが訴訟の相手)・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。暦仁二・延応元(一二三九)年に出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲った。この時名を伊豆入道光蓮と改めている。ウィキには、まさにこのシーンについて、境界争論で敗訴、『執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが』(「吾妻鏡」を見ると、実は四月十六日に早くも光蓮は謝罪し、誓詞を泰時に差し出している。それでも同年十二月二十七日には『次男の信忠を義絶する形で服従している』と記すから、これは息子の信忠は対泰時主戦派であったことを明確に意味しているものと思われる)。当時、実に数え八十歳であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。

「上野國三原莊」現在の群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村大字三原(みはら)。

「信州長倉保」長野県北佐久郡軽井沢町(まち)大字長倉(ながくら)で、「保(ほう)」は「ほ」とも読み、平安中期以降のそれは国衙(こくが)領内の行政単位で「荘」「郷」「名」と並ぶものであった(増淵氏勝一氏は『郷の下の小集落の称』と割注する)。以上の二箇所は同じ地方ではあるが、現行では三原は長倉の北北西二十一キロメートルの位置にある。但し、「境目」とあるので、この地域は山間部で、この時代には南北に接していたものであろう。

「押領分を差加(さしくは)へてかへし」増淵氏は『(海野の領分の上に武田が)横領しただけの領地分をも(武田の領地から割譲し)加えて(海野に)返すように処理すべきである』と泰時は採決したと訳しておられる。

「平太胤長」和田胤長(たねなが 寿永二(一一八三)年~建暦三(一二一三)年)。和田義長嫡男で和田義盛の甥に当たる。平太は通称。弓の名手とされる。既に本文でも出た通り、従兄弟の義直・義重(義盛の子)らとともに泉親衡の乱の謀議に加わって捕縛された。この時、義盛の嘆願により義直と義重は赦免されたものの、胤長一人だけ赦されず、陸奥国(後の岩代国。現在の福島県西半部)岩瀬郡に配流となった。この処罰への鬱憤に加え、子の泰時は「敢へて私を存ぜざる先蹤、既に、かくの如し」などと賞揚しているが、没収された胤長の屋敷が慣例に反して義盛には与えられずに北条義時が召し上げてしまったことが和田合戦の直接の引き金になったとされる(これも既に本文で見た)。この実の父親のやった行為を泰時に訊ねたいものだ。それでも「是、政道に私なき事を表す」などとうそぶくなら、泰時の人間性も知れたものだと私は思う。胤長は和田合戦の後に配流地で処刑されている(以上はウィキ和田胤長にした)。

「廣常を御所に召して、侍に仰せて、刺殺し給ひけり」頼朝は梶原景時の讒言で千葉広常暗殺を決し、景時に命じ、景時は十二所の広常邸を訪れて囲碁を打ちながら盤越しに殺害したことになっているので、この叙述はおかしい。しかも頼朝は後に疑心暗鬼であったことを認め、この暗殺を悔いているのである。さればこそ泰時にここで高度な政治的判断のよき一例として挙げさせるには、私は相応しい事例とは到底、思われないのである。]

北條九代記 卷第七 泰時奇物を誡めらる

      ○泰時奇物を誡めらる

 

曆仁二年二月十日、改元有りて、延應元年と號せらる。同月に、後島羽〔の〕院隱岐〔の〕國にして崩じ給ふ。聖算(せいさん)六十歳とぞ聞えし。同三月に北條時房、卒(そつ)せらる。同十月に、三浦義村、逝去あり。延應二年七月十六日改元ありて、仁治元年と號せらる。三月十八日、右京權大夫泰時、仰せ出さるゝやう、「關東の御家人竝に鎌倉伺候の輩(ともがら)、近年、奇物を翫(もてあそ)び、過差(くわさ)を好み給ふ、是(これ)、甚だ然るべからず。儉約を守り給ふべきの由、條々の沙汰あり。若(もし)、違背の輩は、見及ぶに隨ひ、法に任せて行はるべし」と、堅く禁制せられけり。これ泰時は世の費人(ついえ)の勞(いたはり)を、深く悲しみて、理政(りせい)安民のことをのみ、常に思ひ給ふよりほかは又、他事なし。若は諸國参覲(さんきん)の大名小名、或は珍しき雜具(さふぐ)、新渡(しんと)の唐物(からもの)等を參(まゐら)する事あれば、大に氣色(きしよく)を替へて、宣ふには、「この代物は定(さだめ)て莫大にぞ候らん。是等(これら)の具に、差(さし)て德を供へたるにても候まじ。たゞ類(たぐひ)少(すくな)く珍らしき故にぞ泰時には賜りぬらん、御志の程は感じ候へども、是更に撫民國政(ぶみんこくせい)の用には立つまじ、別に詮(せん)なきものに候。かゝる無用の具を買(かひ)求めて、國財を盡されんは、口惜(くちをし)き御計(はからひ)にや。此代物を出し給はんには、領地の百姓らに賦斂(ふれん)を重くして、取集(とりあつ)め給ひぬらん。又御自分も、財盡きて貧匱(ひんき)になり給はば、自然國亂れん時、遠國在陣(ざいぢん)の賄(まかなひ)、郎徒の扶助には、何をか致し給はん、頗る覺束なく候」とてその代物を辨(わきまへ)出されしかば、奇物を奉る事は止みにけり。又、頭人(とうにん)、評定衆も、「諸大名の土産(どさん)を受けては其より倍して返禮せらるべし」と仰出されたり。「遠國より在鎌倉し給はんには、さこそ世財(せざい)も匱(とも)しくおはしますらん、近國に所領を持ちながら、扶助こそなからめ、剩(あまつさ)へ遠國の輩に財物を受け給はん事は、法に背き義に違(たが)ひ候」と恥められしかば、土産(どさん)の事は止みにけり。諸將諸侍、自然に侈(おごり)を省(はぶ)き、過差(くわさ)を止(とゞ)め、風儀(ふうぎ)物毎(ものごと)にしみやかにぞなりにける。

 

 

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十三の延応元(一二三九)年三月十七日(後鳥羽院崩御の件のみを短く記し、葬送は二十五日とある)、十二月五日(三浦義村逝去の件)、及び延応二年一月二十四日(北条時房逝去の件)、三月十八日の記事に基づく。最後の贅沢停止の命を含むもののみ後掲する。

 

「曆仁二年二月十日、改元有りて、延應元年と號せらる」七日の誤り。嘉禎四年十一月二十三日(ユリウス暦一二三八年十二月三十日相当)に天変により暦仁(りゃくにん)に改元するも、この翌暦仁二年二月七日(ユリウス暦一二三九年三月十三日相当)には延応に改元しており、試みに数えてみると七十四日ほどしかなく、ウィキによれば、『日本の元号の中では最も日数が短い』とする。「百錬抄」によれば、『世間では「暦仁=略人」すなわち、この世から人々が略される(=死んで消えてしまう)とする風評が発生したために再び改元を実施したとある(ただし、詔書では「変災」を理由としている)』とある。

 

「同月に、後島羽院隱岐國にして崩じ給ふ」改元から十日後の延応元(一二三九)年二月二十日のことであった。

 

「同三月に北條時房、卒せらる」年月誤り。延応二(一二四〇)年一月二十四日逝去。享年六十六。彼は鎌倉幕府初代連署であったが、彼の死後は七年間、宝治元年(一二四七)年に甥(北条義時三男で泰時の異母弟)の北条重時が就任(三浦氏を滅ぼした宝治合戦後)するまで空席となった。

 

「同十月に、三浦義村、逝去あり」これも月間違い(というか前の時房が後)。延応元(一二三九)年十二月五日死去(生年不詳のため、享年不詳)。

 

「延應二年七月十六日改元ありて、仁治元年と號せらる」改元は彗星・地震・旱魃などによるとされる。

 

「費人(ついえ)の勞(いたはり)」身分の高い連中の要らぬ消費によって民草が疲弊し苦労すること。

 

「理政安民」政治が正しく行なわれて、民衆の暮らしが平和で豊かであること。

 

「参覲(さんきん)」「参勤」と同義。出仕して主君にまみえること。

 

「風儀(ふうぎ)物毎(ものごと)にしみやかにぞなりにける」「風儀」は日常の生活慣習。「物毎(ものごと)に」は「それぞれに・孰れも」、「しみやかに」聴き慣れない語であるが、文脈から贅沢を廃してすこぶる質素清貧な感じになっていったことであるよ、というのは判る。

 

 

 

 以下、「吾妻鏡」延応二(一二四〇)年三月十八日の条。

 

 

 

○原文

 

十八日壬午。關東御家人幷鎌倉祗候人々。萬事停止過差可好儉約條々事。日來有沙汰。今日被造其制符。自來四月一日。固可禁制之云々。又御家人郎等任官事。向後所被停止也。依之。關東家人之由稱申者。糺明主人。□□□□相觸重時可被申任之趣。兼日可被示置官藏人方以下公事奉行人之旨。被仰遣六波羅。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十八日壬午。關東御家人幷びに鎌倉祗候(しこう)の人々、萬事、過差(くわさ)を停止(ちやうじ)し、儉約を好むべき條々の事、日來(ひごろ)沙汰有り。今日、其の制符(せいふ)を造らる。來たる四月一日より、固く、之れを禁制すべしと云々。

 

又、御家人・郎等(らうどう)の任官の事、向後、停止せらるところなり。之れに依つて、關東家人の由、稱し申さば、主人を糺明し□□□□重時に相ひ觸れ、申し任ぜらるべきの趣き、兼日(けんじつ)に官の藏人(くろうど)方以下の公事(くじ)奉行人に示し置かるべきの旨、六波羅へ仰せ遣はさる。

 

 

 

・「祗候」伺候に同じい。

 

・「過差」既に出てきており、意味も判ろうが、一応、ここで注しておく。分に過ぎたこと。分不相応な奢り。贅沢。

 

・「御家人・郎等の任官の事」幕府御家人及びそれに従う郎等らが朝廷へ任官を希望したり、その主人に従って朝廷の下働きで雇われたりすること。

 

・「重時」は当時、六波羅探題北方(最高責任者)であった。

 

・「兼日に」普段から。

 

・「官の藏人方」幕命の朝廷への実務上の取次人(メッセンジャー・ボーイ)。

 

・「公事奉行人」裁判の実務決裁の担当者。]

2016/02/08

北條九代記 卷第七 諸寺の供僧を評せらる 付 僧侶の行狀

 

      ○諸寺の供僧を評せらる  僧侶の行狀

同十二月七日、評議の次(ついで)に定めらるゝ主旨あり。關東諸寺の供僧等病患に臨めば、寺職(じしよく)を非器(ひき)の弟子に附屬し、亦は名代(みやうだい)を立てて役を勤め、或は妻子を貯へて、墮落の身となり、寺門の施入(せにふ)を貪りて、弟子に運上(うんじやう)を取る事あり。向後停止(ちやうじ)すべし。袈裟、掛(か)けながら、隱して魚鳥を喰(くら)ひ、妻子に陷(おちい)りて非分の罪科(ざいくわ)を犯す條、言語道斷の惡行にして、方(まさ)に在家の業因(がふいん)に過ぎたり。重欲強盛(ぢうよくがうせい)、頗る世俗に越え、瞋恚愚癡(しんいぐち)るな事に、庸人に劣れり。國民を誑(たぶらか)し、取て利養(りやう)に飽かず。無行無學にして、祖師の眞教(しんけう)に暗し。王法の外護(げご)となるべき事、一つもなし。信施(しんせ)の報(むくい)、實に恥づべし。世の爲、人の爲、還(かへつ)て政道(せいだう)の妨(さまたげ)となる。甚だ誡(いさ)むべし。昔、佛法、この國に流(つたは)りしよりい、國郡に祈願所を建て、菩提所を造りて、家家、是を崇仰(そうがう)す。禁裡(きんり)の御領所、國司領、郡司領、官位領に補(ふ)せられし一國の府に、一寺を置きて、國分寺と名付く。國司の菩提所として、寺領を付けらる。又一國に總社あり。神護寺と號す。國司の祈願所として、社領を付せららる。寺僧等(ら)は、學行おこたりなく、戒行法門(かいぎやうほふもん)を説きて、人の惡を誡め、善を勸む。僧侶に威なければ、民俗、其(その)説誡(せつかい)を重(おもん)ぜず。この故に國司は頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、敬屈(けいくつ)すといへども、戒行道德(かいぎやうだうとく)の沙門(しやもん)は、是(これ)をも喜(よろこ)びず。不惜身命(ふしやくしんみやう)の行に依て、國司の惡行を諫め、我が神妙を害せられん事をも恐れず。僧に科(とが)あるときんば、國人(くにたみ)、是を正(ただし)くす。沙門の教誡、神職の諫諍(かんさう)に依て、國家に悪事災難なし。上(かみ)は下(しも)を哀み、下は上を敬(やまつ)て、忠義廉恥、盛(さかん)に行はれて、天下泰太平なりき。中比(なかごろ)、釋門(しやくもん)に殘賊(ざんぞく)の者、出來り、佛戒(ぶつかい)を破り、餘法(よはふ)を謗(そし)り、我慢放逸(がまんはういつ)、無道不學なり。夫(それ)、大小權實(ごんじつ)の法門は、化用(けよう)の前に、下愚(かぐ)を教ふる方便なり。實には法に二法なし。只、沙門の行德、智分(ちぶん)に勝劣あり。全く法の科(とが)に非ず。聖德太子より以來(このかた)、佛法を以て外護(げご)は神佛、王道一體不二なりと教へ給ふ。然るを、この比は愈(いよいよ)澆漓(げうり)の世となりて、神佛二道はあるかなきかに衰(おとろへ)て、社司(しやし)僧侶は、物の道理に迷ひ、只、神施を取りて、榮耀(ええう)を事とし、外を飾りて内に實(じつ)なし。向後、件(くだん)の惡行を改め、正法を守るべし。違犯(ゐぼん)の僧は寺院を追却(つゐきやく)し、科(とが)の輕重に依て成敗(せいばい)すべしとぞ觸(ふ)れられけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十二の暦仁元(一二三八)年十二月七日の師資継承(ししそうしょう/ししそうじょう:仏法の師から弟子へと法や道を伝えていくこと)を法的に規定した短い記事に基づくのであるが、極めて具体の内容に膨らまして示してあり、筆者の現在時制(江戸前期)での、当世寺社内実腐敗への鬱憤が読み取れるように私には思われる。

「供僧」供奉僧の略で、本来は祀られた本尊に仕える僧。他に神宮寺の社僧も言うが、ここは前者で、特に幕府の直接の支配下にある諸寺の住持である。

「非器」修学が足らず、法嗣となる器(うつわ)でない修行僧。

「附屬」「付囑」とも書き、師が弟子に教説を伝授し、その自身が行ってきた布教の勤めをを託すこと。

「名代」現代法律用語で言うところの「代理人」のこと。

「妻子を貯へ」教義で認めている浄土真宗以外は女犯は原則的には罰せられた。

「運上」運上金を取ること。弟子から上納金を搾取すること。無論、本来は許されることではない。

「非分」自分の分を越えていること、身分不相応以外に、道理に合わないさま、非理の意があり、ここは後者で、仏道の道義に反すること。

「在家の業因に過ぎたり」一般の民草の在家信者が生計(たつき)のために必要悪として犯してしまう、来世に於いて苦を招くところの悪業(あくごう)以上の悪行悪因縁である。

「重欲強盛」欲深く、勢いが強い即ち偉そうに威張り散らすこと。

「世俗に越え」世俗の信心の足らぬ民草以上にひどく。

「瞋恚愚癡」「瞋恚」は「しんに」とも読み、仏道に於ける三毒一つ。怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪感情。「愚癡」も三毒の一つで、物事を正しく認識判断出来ないこと。愚かであることを指す。もう一つは既に出た「重欲」である「貪欲(とんよく)」。

「庸人」雇い使っている身分の低い下人。

「王法」公的な政(まつりごと)。

「信施の報、實に恥づべし」信者が仏法に帰依し布施するその心に対し何ら報いておらず、まことにあるまじき恥ずべき悪逆非道であること、これ、言を俟たぬ。

「總社」「そうしや(そうしゃ)/そうじや(そうじゃ)」は、その地域の古くからの有力な数社の祭神を一ヶ所に総合して勧請してた神社で、特にこの頃(平安末から鎌倉時代にかけて)、国司が一の宮・二の宮など国内の有力社を、概ね、祭祀参拝の便宜のために国府の近傍に合祀した神社を指す。

「神護寺」神仏習合の神宮寺の別称。

「諫諍」「諍」は「あらそう」の意。争うことをも厭わずに、目上の者の言動を強く諌めることを指す。

「廉恥」心が清らかであって、且つ、恥を知る心が強いことを言う。

「中比」今までの時代を漠然と古えと現在とに分けた謂いの「途中」であるが、こういう場合は正しい直き時制の古えがずっと昔であるのに対して、中頃は現在に近い時制の経過期ととるべきである。従って近頃の意味でとってよい。

「釋門」僧侶。

「殘賊」人や世間に害を与える者ら。

「餘法」「妙法蓮華経」以外の経典。法華経は仏教諸宗派に於いて諸仏典の中の核心経典とする。例えば、「道元禅師法語」には、『法華經は諸佛如來一大事因緣なり。大師釋尊所説の諸經のなかには法華經これ大王なり、大師なり。餘經餘法はみなこれ法華經の臣民なり、眷屬なり。法華經中の所説これまことなり』と記す。

「我慢放逸」高慢ちきで節度を弁えることなく勝手気儘に振る舞うこと。

「大小權實」大乗仏教・小乗仏教・権教(ごんきょう:真実の仏法の教えに導くための方便として示された人々の受けいれ易い分かり易く言い換えた教え)・実教(仮や方便ではない真実をそのままに語った仏道の教え)。

「化用の前に」教育社新書版現代語訳(一九七五年刊)で増淵勝一氏は、『これによって悟りに達することができるというよりも』と訳しておられる。

「下愚(かぐ)を教ふる方便なり」同じく増淵氏はここを、『はなはだ愚かな者を悟りに導くための便宜上の手段であるとされている』と訳しておられる。

「實には法に二法なし」同じく増淵氏は『(しかし)ほんとうは(一方は悟りに達することができ、他方はそれができないというような)仏の教え二つのそれは存在しないのである』と訳しておられる。

「沙門の行德、に勝劣あり」同じく増淵氏は、『僧侶の修業の結果』、『得られた徳と知力の有無によって(経典を有効に使えるか使えないかの)勝ち負けが決まるのである』と訳しておられる。

「法」各種経典。

「澆漓」「澆」「漓」ともに「薄い」の意で、道徳が衰えて人情が希薄化することを指す。

「神施」布施。

「榮耀」現代仮名遣では「えよう」で「えいえう(えいよう)」とも読む。原義は、高い地位に就いて、富み、勢力の強いことであるが、ここは、驕った贅沢な生活をすることを指す。

「正法」老婆心乍ら、「しやうぼふ(しょうぼう)」と読む。正しい仏法の教え。

 

 「吾妻鏡」の暦仁元(一二三八)年十二月七日の当該記事は以下。

 

○原文

七日戊申。晴。今日。評議之次。就諸堂供僧等事。有被定之旨。是臨病患。付囑非器弟子。又立名代之後。落堕世間。猶貪其利潤事。向後可停止之由云々。

○やぶちゃんの書き下し文

七日戊申。晴れ。今日、評議の次(つい)でに、諸堂の供僧等(ら)の事に就きて、定めらるるの旨、有り。是れ、病患に臨みて、非器(ひき)の弟子に付囑し、又、名代(みやうだい)を立てるの後、世間に落堕(らくだ)し、猶ほ其の利潤を貪る事、向後(きやうこう)、停止(ちやうじ)すべきの由と云々。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (42) 最後の一言 / 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 本文全電子化附注完遂!

 

 粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考を持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたのであると考えられていた。一八五七年の『大英百科辞典』には「日本人はかつては東方の国民間にあって、胆力と軍隊的の勇気とで評判が高かった。然し現在ではそうでなく、吾人は彼等が本質的に弱々しく、臆病な国民であると見出されるであろうと思う。ゴロウニンによれば彼等は勇気に欠け、戦争の術にかけてはまったく子供である。これは、二世紀以上にわたって、すべての点で、外的と内的の平和をたのしんだ国民にあっては、事実であろうと思われる。苦痛や受難を、勇気深く、辛抱強く堪えること、更に死を軽侮することまでもが、活動的で侵略的な勇気の欠乏と矛盾しないことがあり得るのを、我々は知っている。」と書いてある。だが、こんな以前のことをいう必要はない。カーソン卿は、一八九四年に出版された『極東の問題』と称する興味深い本の中で、日本人の野望に就て、以下の様にいっている。「現に、これ等の頁が印刷所へ行きつつある時、日本が朝鮮の混乱を利用して朝鮮で行いつつある、そしてそれは、支那との実際上の衝突とまでは行かずとも、重大な論争に日本を導く懼れのある、軍隊的の飾示は、同じ性急な盲目愛国主義の、其後の結果である。」更に進んで彼は、これ等の示威運動は「国家的譫妄状態の最も熱情的弁護者の口辺にさえも、微笑を漂わせる」という。最近の出来ごとは、このアングロ・サクソン人の審判が、如何に表面的であったかを示している。

[やぶちゃん注:「アングロ・サクソン人種」今日のイギリス人の根幹をなす民族。人種的にはコーカソイド大人種(白色人種)の北方系に属し、長身・白色の皮膚・碧眼・金髪などの肉体的特徴を持つ。言語学的にはインド・ヨーロッパ語族の西方系の一派のチュートン語族(ゲルマン民族)に属し、低地ドイツ語を発祥とする英語を喋る。北西ドイツを原住地としたサクソン人、ユトランド半島基部に住んだアングル人、同半島に居住したジュート人などの幾つかの部族の混成体であり、ゲルマン民族大移動の一環として五~六世紀に原住地からブリタニアの島に移動、先住民族ブリトン人を駆逐或いは支配して現在のイングランド(「アングル人の地」の意)の地を占拠した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「ここ五十年程前」本書初版刊行の一九一七年(大正六年相当)から五十年前は一八六七年で慶応三年に相当する。

「一八五七年」本邦では安政三年十二月六日から安政四年十一月十六日に相当する。

「大英百科辞典」原文“Encyclopædia Britannica”。「ブリタニカ百科事典」。最古の英語百科事典で、現在もなお製作され続けている。初版は一七六八年から一七七一年にかけてエディンバラで三巻本百科事典として発行された。ここに示されたのは一八五三年から一八六〇年にかけて発行された第八版かと思われる。

「ゴロウニン」ロシア帝国(ロマノフ朝)海軍軍人(最終階級は中将)で探検家であったヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович ГоловнинVasilii Mikhailovich Golovnin 一七七六年~一八三一年)。ウィキヴァーシリー・ゴローニンによれば、一八〇七年から一八〇九年にかけて軍艦『ディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行なう』。一八一一年(文化八年)、『軍により千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れる。しかし国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉される。ゴローニンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした』。一八一三年(文化十年)、ディアナ号副艦長ピョートル・リコルドの尽力により、『ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えにゴローニンは解放され』、帰国後、一八一六年に『日本での幽閉生活を『日本幽囚記』という本にまとめた、この本は欧州広範囲で読まれ』、文政八(一八二五)年には『日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことが知られる』。一八一七年(文化十四年相当)から一八一九年(文政二年相当)にかけては『カムチャツカ号で再度世界一周航海に出』てもいる。コレラに罹患して死去した。

「カーソン卿」イギリスの政治家で貴族のジョージ・ナサニエル・カーゾン(George Nathaniel Curzon 一八五九年~一九二五年)のこと。保守党に所属し、インド副王兼総督・外務大臣・貴族院院内総務などを歴任した。一般には「カーゾン卿(Lord Curzon)」の呼び名で知られる。参照ウィキジョージ・カーゾン初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵の「初期のキャリア」の項に、一八九一年から一八九二年にかけ『彼はインド省政務次官を務め』、一八九五年から一八九八年までは『外務省政務次官を務めた』。『この時期、カーゾンは世界中を旅行し』日本へも明治二〇(一八八七)年(即ち、モースが永遠に日本を去ってから四年後)と明治二五(一八九二)年の二度、訪れている。その他にも、ロシア・中央アジア・ペルシア・シャム・フランス領インドシナ・朝鮮を訪問、『アフガニスタンとパミールでの大胆な探索活動』(一八九四年)『をも行い、政策的関心と連動している中央アジア、東アジアについて著した数冊の書物を出版した。大胆かつ強迫衝動に悩む旅行者カーゾンは、東洋の生活や地勢に強く魅了されており、アムダリヤ川(オクサス)の水源を探査したことを評価され、王立地理協会から金メダルを贈られている』。『しかし彼の多くの旅行の目的はあくまで政治的な関心のもとになされていた。旅行はイギリス領インドと関連するアジアの諸問題を研究するための包括的な計画の一部をなしていた。同時に、この旅行はまたカーゾン自身の自尊心、大英帝国の帝国としての使命に対する確信を強めることにつながった』とある。

「一八九四年に出版された『極東の問題』カーゾンの書いたProblems of the Far East。黄禍論の代表的な一冊で、「松岡正剛の千夜千冊」のハインツ・ゴルヴィツァー 黄禍論とは何かによれば、この本は、『イギリスこそが世界制覇をめざすというジョンブル魂ムキムキの本で、斯界ではこの手の一級史料になっている』。『カーソンは、イギリスがこれからは世界政策上でロシアと対立するだろうから、その激突の最前線になる極東アジアについての政治的判断を早くするべきだと主張して、それには中国の勢力をなんとかして減じておくことが必要だと説いた。対策は奇怪だが周到なもので、ロシアを抑えるには中国を先に手籠めにしておくべきで、それには日本を東洋のイギリスにして、その日本と中国を戦わせるほうにもっていけば、きっと日本が中国に勝つだろうというものだった。「タイムズ」の編集長のバレンタイン・チロルも『極東問題』を書いて、この路線に乗った』。そうしてまさに『カーソンやチロルの期待と予想は当たった。なんと日清戦争で日本が勝ったのだ』。『しかし、これで問題が広がった。ひょっとしたら中国だけではなく、日本こそが世界の脅威になるのではないか。いや、日本は御しやすい。むしろ中国が戦争に負けたからといって中国の経済力が衰えることはないのではないか』といった『さまざまな憶測が広ま』ることとなった、とある。]

 

 欧洲の恐怖であった二強国、支那とロシアは、両方とも八年以内(一八九四一九〇二年)に、日本によってやっつけられ、艦隊は完全に滅され、償金が支那から現金で、ロシアからは樺太の南半で、取られた。英国は初めて日本を注目の価値ありと認め、同盟を結んだ。まるで鉱夫同志の道徳である!

[やぶちゃん注:「八年以内(一八九四一九〇二年)」明治二十七年から明治三十五年であるが、後がおかしく、ここは「十一年以内」で後は「一九〇五年」でないとおかしい。日清戦争は明治二七(一八九四)年七月(光緒二十年六月)から明治二八(一八九五)年三月(光緒二十一年二月)にかけて行われたから初めはよいものの、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月から明治三八(一九〇五)年の九月五日であるからである。

「償金が支那から現金で」銀で二億両(テール)が賠償金額であった。ネット上のQ&Aサイトの回答に、当時の国際的な銀価格で換算すると、凡そ三億円に相当するとある。

「樺太の南半で、取られた」日露戦争末期に日本軍は和平交渉の進む中で七月に樺太攻略作戦を実施、全島を占領していた。この事実上の占領体制が後のポーツマス講和条約(明治三八(一九〇五)年九月四日(日本時間九月五日十五時四十七分)で南樺太の日本への割譲を齎すこととなり、講和以降の樺太には王子製紙・富士製紙・樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。因みに、十八年後、大正一二(一九二三)年七月三十一日から八月十二日にかけて、サガレン(樺太)の王子製紙に勤務している先輩を訪ね、二十六歳の一人の教師が自分の教え子の就職を依頼するために向かっている。宮沢賢治であった。この時、かの絶唱「オホーツク挽歌」詩群が詠まれている。]

 

 最近日本のことを書いたある筆者は、こういっている――「東郷の人々、即ち日本人は、愛国者の民族で、同時にまた勤労者で武士である。彼等の特質は、いまだに西洋の人々に完全に了解されていない。彼等は多数の表面的な観察者によって、独創的な行為がまるで出来ず、只他の人種の最もよき発明を選び、それ等をぶざまな方法で彼等自身の用に立てることしか出来ない、模倣国民であると伝えられた。これ程真実と違った話はない。この地上に、日本人位正確な知識の探求に熱心な国民はいない。この地上に、日本人より、より強い国家的感情に動かされる国民はいない。この地上に、日本人より、一般的な善のために、個人的な犠牲のより大なるものを払い得る国民はいない。この地上に、論理的思考力の明確と複雑とで、日本人に優る国民はいない。」

[やぶちゃん注:「最近日本のことを書いたある筆者」誰かは不詳。識者の御教授を乞う。「最近」というのは本書初版刊行前であるから、一九一七年(大正六年相当)以前ではある。]

 

 終に臨んで一言する。読者は日本人の行為が、しかも屢々我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。ボストンの警察署長、オーミアラ氏の言葉は、私に深い印象を与えた。彼は我国に対する最大の脅威は、若い男女の無頼漢的の行為であるといった。かるが故に私は対照として、日本人の行為をあげたのである。私の対照は、ひがんだ目で見たものではない。それ等は私が四十年前に見たところのものの、そのままの記述である。我我のこの弱点を感じることは、何も我等を劣等な国民として咎めることにはならず、我々はホール・ケインが『私の物語』に書いたような、米国を真に評価した文章を、誇の感情を以て読み、そして信じるのである。「我々はこの国民を愛する。彼等は世界の他の者が、あたかもひそかにするが如く見える自由を、彼等の権利として要求しているからである。私はこの国民を愛する。彼等がこの世界で、最も勤勉で、熱心で、活動的で、発明の才ある人々であり、そして、何よりも先ず、最も真面目だからである。何故となれば、表面的な観察者の軽薄な審判はともあれ、彼等は国民性に於て最も子供らしく、最も容易に哄笑し、最も容易に涙を流すまで感動し、彼等の衝動に最も絶対的に真実であり、賞讃を与えるに最も大度だからである。私は米国の男性を愛する。彼等の女性に対する挙止は、私がいまだかつて見たものの中で、最も見事に騎士的だからである。私は米国の女性を愛する。彼女等は疑う可くもない純潔さを、あからさまなる、そして不自然ならぬ態度と、性の美事な独立とで保持し得るからである。」

[やぶちゃん注:「ボストンの警察署長、オーミアラ氏」原文“Mr. O'Meara, the Police Commissioner in Boston,”。アメリカ人ネィティヴの発音では「オ・メーラ」、本姓の元(“O’”はゲール語由来で「~の孫」の意の接頭語)とも思われるアイルランドのネィティヴの発音では「オ・マーラ」と聴こえる。

「四十年前」本書初版刊行は一九一七年(大正六年相当)であるから一八七七年で明治十年、モースは最後にちゃんと最初の来日に時間を正確に巻き戻している。それが、モースがこよなく愛した日本の原風景の時空間だからに他ならない。

「ホール・ケインが『私の物語』」原文“Hall Caine, in "My Story,”。トーマス・ヘンリー・ホール・ケイン(Sir Thomas Henry Hall Caine 一八五三年~一九三一年)はイギリスの作家。グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央に位置するマン島の生活を書いた小説家として知られ、また、画家で詩人のダンテ・ガブリエル・ロゼッティとは非常に親しい関係にあり、一八八一年から彼が亡くなる翌年まで同居している。My Storyは一九〇六年刊のケインの自叙伝。

「大度」「たいど」と読み、度量の大きいことを指す。]

 

 

                   

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (41) 江木学校講談会

 

 江木氏その他に、日本に於る最初の公開講演に関して質問したが、信頼すべき情報を得ることは困難であった。有名な福沢氏は私に一八七一年、数名の学者が集り、論文や評論を読んだと話してくれた。この会は非公開であった。一八七三七四年には、明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された。一般人は彼等の議論を聞くことを許された。解放もまた発行された。一八七四七五年には福地氏と沼間氏とが少数の講演をやり、僅かの入場料を取った。一八七五年の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された。福沢、小幡、井上、矢野、江木の諸氏その他の学者が、月に二回集った。講演を聞くのに、少額の入場料を取ったが、最初は、入場料を取ることが、無礼であるのみならず、非常に不適当だというので、会員のある者は大きに反対した。一八七八年には、新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年九月二十二日に最初の会合をひらいた。江木氏は米国風に、公開講演を金の支払われる職業にしようと企てた。が、入場料を取るというので、辞職した会員が又数名あった。講演は日曜日に行われ、毎回四つか五つの講演があり、そのあい間に数分間ずつの休憩時間があった。最初の課程で講演した人々の中には、杉、西、外山、河津、加藤、江木、菊池、沼間、福沢、佐藤、藤田、中村の諸氏、並にメンデンホール、フェノロサ、モースの三米人がいる。講演者は帝国大学の日米教授、政府各部の役人、新聞主筆、仏教僧侶その他の名士であった。講演は大きな会館で行われ、聴衆は平均六百人から八百人で、最後まで数が減じなかった。聴衆が畳を敷いた床の上に、押し合わずに坐り、注意深く、そして見受けるところ熱心に、宗教、天体、動物界等に於る進化に関する講義を了解しようとしている有様は、興味深く見られた。演壇がほんのすこし、畳を敷いた床よりも高い丈である。会場に人工的な暖房装置が無かったことは、いう迄もない。時々、私が厚い冬の長外套を着たままで講演せねばならぬ位、寒かった。私は靴を脱ぐ可く余儀なくされるので、空しく一箇所に立とうと努め、然し講演の終には私の足は非常につめたくなっている。講演が済むと聴衆の多くが、会場の他の場所にいる友人と挨拶を交わす為に、立ち上る。私は太った来聴者の坐っている場所に目をつけ、若し彼が立つと彼が坐っていた跡があたたかいので、そこへ行って次の講演が始る迄、足をあたためたものである。日本に於る私の初期の講演に際して、刀を帯びた巡査が私の横で椅子に坐り、聴衆の方を向いていたことは、奇妙な経験であった。故人になった私の友人江木氏は急進論者として知られており、彼が私の講演を通訳した。彼は、或は私をして、最も騒乱煽動的な文句を吐かしめたかどうか、僅かな日本語と表現としか知らなかった私には、知る由もない。その後講演をしている間に、私は時々通訳者の翻訳の意味をつかみ得る程度の日本語を覚え込んだので、二、三度、私は彼を訂正することを敢てした。私が彼等の言葉を了解し始めたことの実例であるこの事に対して、聴衆が示すうれしそうな、そして同情に富んだ表情は、まことに有難いものであった。

 以下に示すものは、講談会の最初の課程に於る主題の表である。

[やぶちゃん注:ここから以下は本書の最後の言葉の直前までが、以下に注する江木高遠が明治一一(一八七八)年九月二十一日に旗揚げした会費制学術講演会「江木学校講談会」の記録である(時間が二度目の来日時に巻き戻っていることに注意)。

「江木」既注であるが、そのまま再掲しておく。当時東京大学予備門の教諭(教授とは呼ばない)であった江木高遠(えぎたかとお 嘉永二(一八四九)年~明治一三(一八八〇)年)。以下、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及びウィキの「江木高遠」によって記す。備後福山藩儒官で開国論者であった江木鰐水(がくすい)の第四子として福山に生まれ、安政三(一八五六)年七歳で藩校誠之館に入り、明治元(一八六八)年十九歳の秋には長崎でフルベッキに学んで、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じた後、明治二(一八六九)年には慶應義塾に入ったが、明治三年二十一で華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう:伏見宮邦家(くにいえ)親王第十二王子。知恩院門跡から勅命により還俗して華頂宮家を創立。明治三(一八七〇)年に志願して皇族の海外留学第一号となり、アメリカで海軍軍事を学び、帰国後は海軍少将となったが、明治九年二十六歳で夭折した。)の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学)に学んで法学と政治学を修めた(途中、病気の親王と帰国、一八七四年に再渡米して一八七六年に卒業、その間の一八七五年には後の専修大学の母体である日本法律会社の結成にも関わっている)。帰国後、翌明治一〇(一八七七)年に東京英語学校教諭に着任、東大設立後は予備門の英語教諭を勤めたが、外山正一・井上良一両東大教授と並ぶ論客として独自の視点から啓蒙講演会の組織的運営を企画して名声を馳せた。明治一一(一八七八)年六月三十日には「なまいき新聞発刊記念講演」(『なまいき新聞』は、同六月、生意気新聞社が創刊した週刊新聞。同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)と称し、浅草井生村(いぶむら)楼に於いて五百人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するモースの講演会を開いている。この時は井上がモースを紹介江木が通訳した。これが濫觴となって同年九月二十一日に会費制学術講演会「江木学校講談会」を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一・福沢諭吉・西周¥河津祐之(後の東京法学校校長)・藤田茂吉(『生意気新聞』主筆)・モースが名を連ねた。この講談会は明治一二(一八七九)年十月まで三十回近く催され、常任講師のほかにも長谷川泰(日本医科大学の前身「済生学舎」創設者)・沼間守一(自由民権家として知られたジャーナリスト)、トマス・メンデンホール(モースの推薦によって明治十一年に東京帝国大学物理教師となり富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行った本邦の地球物理学の租。本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台の観測主任ともなった)やアーネスト・フェノロサなども登壇した。この間、江木は明治一一(一八七九)年十二月に東大を去り、元老院大書記官となるも、直ぐに外務省一等書記官に転じた。明治十三年三月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントン公使館員として赴任したが、同年六月六日、公使館内に於いてピストル自殺した。享年三十一。自殺の動機については磯野先生によれば、『無関税で工芸品をアメリカに持ち込んだことを、在米日本人業者から糾弾されたためという』とある。

「福沢」福沢諭吉。

「一八七一年」(明治四年)「数名の学者が集り、論文や評論を読んだ」不詳。識者の御教授を乞う。

「一八七三七四年」(明治六~七年)「明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された」明治初期の啓蒙思想団体。森有礼の主唱によって西村茂樹・津田真道・西周・中村正直・加藤弘之・福沢諭吉・箕作秋坪・神田孝平らを社員として明治六年に結成。名前は元号年に由来(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「明六社」によると、会合は毎月一日と十六日に開かれ、会員は旧幕府官僚で開成所『関係者と慶應義塾門下生の「官民調和」で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派や日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が入り乱れる日本の錚々たるメンバーが参加した』。翌明治七年三月より機関誌『明六雑誌』の発行も開始され、『開化期の啓蒙に指導的役割を果たしたが』、明治八(一八七五)年に『太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の発行は』第四十三号で中絶、『廃刊に追い込まれ』た。『その後、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院へと至る流れの始原でもあった』とある。

「一八七四七五年」(明治七~八年)「福地氏と沼間氏とが少数の講演」「福地」は明六社会員で東京日日新聞主筆であった福地源一郎(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)ペン・ネームは桜痴。「沼間」は旧幕臣で元老院大書記官であった、やはり明六社会員沼間守一(ぬま もりかず/しゅいち 天保一四(一八四四)年~明治二三(一八九〇)年)。後の明治一一(一八七八)年には政治結社嚶鳴社(おうめいしゃ)を設立した。

「一八七五年」(明治八年)「の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された」不詳。江木が含まれているから、プレ江木学校講演会のようなものか?

「小幡」「学問のすゝめ」初編を福澤と共著した後に第三代慶應義塾塾長となった小幡篤次郎(おばたとくじろう 天保一三(一八四二)年~明治三八(一九〇五)年)か? 旧中津(現在の大分県中津市)藩士。後に初の東京学士会院会員(明治一二(一八七九)年)・貴族院議員。

「井上」「新体詩抄」の哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)か?

「矢野」後のジャーナリストの矢野龍渓(嘉永三(一八五一)年~昭和六(一九三一)年)か?

「新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年」(明治十一年)「九月二十二日に最初の会合をひらいた」学術講演会である新江木学校講談会。

「杉」前出既注の杉亨二。

「西」言わずもがな、明六社社員であった思想家西周(にしあまね 文政一二(一八二九)年~明治三〇(一八九七)年)。

「外山」何度も出た東京大学教授(社会学)外山正一。

「河津」河津祐之(かわづすけゆき 嘉永二(一八四九)年~明治二七(一八九四)年)。当時は元老院書記官。後の大阪控訴院検事長・名古屋控訴裁判所検事長・司法大書記官・司法省刑事局長・逓信次官等を歴任、東京法学校(現法政大学)校長(刑事局長現任で着任)でもあった。

「加藤」複数回既出既注の東京開成学校綜理・東京大学法文理三学部綜理加藤弘之。

「菊池」既出既注の数学者で東京大学理学部教授菊池大麓。福沢諭吉とは盟友。

「佐藤」ウィキの「江木高遠」の記載から、実業家佐藤百太郎(ももたろう 嘉永六(一八五三)年~明治四三(一九一〇)年)であろう。日米貿易の先駆者で本邦の百貨店創始者でもあり、日本領事をも務めた。

「藤田」ジャーナリスト藤田茂吉(嘉永五(一八五二)年~明治二五(一八九二)年)。福沢諭吉の弟子で郵便報知新聞社に入社、同主筆となった。後に衆議院議員。

「中村」ウィキの「江木高遠」の記載から、啓蒙思想家で文学博士中村正直(天保三(一八三二)年~明治二四(一八九一)年)であろう。彼は『明六雑誌』の執筆者でもあった。

「メンデンホール」既出既注のモースが招聘した当時の東京大学理学部物理学教授トマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 一八四一年~一九二四年)。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 九月二十一日。

  外山氏。 公開演説及び講演に就て。

  河津氏。 代読議会の利害。

  藤田氏。 協同の必要。

  西氏。 祝辞。

  福沢氏。 彼の「国民の権利」に対する批評。

  モース氏。 祝辞。

 十月六日。

  長谷川ドクタア(市病院)。 不潔な水を飲む弊害。

  沼間氏。 内外国法の衝突。

  島地氏。 価値論。

  菊池氏。 太陽系の進化。

  大内氏。 婦人により社会的な権利をゆるす利益。

  メンデンホール氏。 序論。

 十月二十日。

  菊池氏。 太陽系の進化(続)。

  モース氏。 昆虫の生活。

  加藤氏(帝国大学総理)。 本居と平田の説に就て。

[やぶちゃん注: 以下の( )部分は底本では全体が四字下げ。]

(この二人は日本には日本固有の文明があるのだから、支那の文明を棄てねばならぬと信じた、昔の日本の学者である。)

  外山氏。 連想に就て。

  杉氏。 道徳的統計。

 十月二十七、二十八、三十一日及び十一月二日。

  モース氏。 ダーウィニズム四講。動物界の進化。

 十一月十日。

  江木氏。 陸海軍に就て。

  西氏。 練習は完全にする(続)。

  フェノロサ氏。 宗教の進化。

  小野氏。 言論戦(雄弁の説伏力を示す)。

  藤田氏。 四十七浪士に就て。

 十一月十七日。

  福沢氏。 国民の権利(治外法権)。

  菊池氏。 太陽系の将来。

  外山氏。 外国交際に関することは容易に変更し難し。

  フェノロサ氏。 宗教の進化(続)。

 十二月一日。

  河津氏。 社会主義の不条理。

  フェノロサ氏。 宗教の進化(終結)。

  モース氏。 氷河説。

  辻氏。 美術に就て。

 十二月十五日。

  江木氏。 見せかけの美徳に就て。

  菊池氏。 何がよき政府を構成するか。

  藤田氏。 小切手の必要。

  杉氏。 道徳的統計。

 一月五日。

  菊池氏。 広く進化に就て。

  外山氏。 五官の錯覚。

  モース氏。 動物生長の法則。

  中村氏。 社会の善と悪。

  加藤氏。 会員へ数言。

  佐藤氏。 頭脳の涵養。

  江木氏。 密告人に賞を与える弊害に就て。

[やぶちゃん注:「長谷川ドクタア(市病院)」不詳。後段に「市立病院の医師」とあるのみ。

「島地」浄土真宗本願寺派の僧島地黙雷(しまじもくらい 天保九(一八三八)年~明治四四(一九一一)年)。周防国(現在の山口県)和田の生まれ。西本願寺の執行長。ウィキの「島地黙雷」によれば、明治元(一八六八)年に『京都で赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの、西本願寺の改革を建白』、明治三(一八七〇)年には『西本願寺の参政となった』。明治五(一八七二)年、『西本願寺からの依頼によって左院視察団と同行、ヨーロッパ方面への視察旅行を行なった。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊布教にも尽力した』とある。明六社会員。

「大内」仏教学者大内青巒(おおうちせいらん 弘化二(一八四五)年~大正七(一九一八)年)仙台出身。ウィキの「大内青巒」によれば、『常陸国水戸で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)』第二十一世宗主であった『大谷光尊の侍講をつとめた』。明治七(一八七四)年に雑誌『報四叢談』、翌年には新聞『明教新報』を発刊、『仏教における啓蒙思想家として活動した』。後の明治二二(一八八九)年には『島地黙雷・井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成し』ている。後に東洋大学学長。

「小野」法学者で政治運動家であった小野梓(あずさ 嘉永五(一八五二)年~明治一九(一八八六)年)。ウィキの「小野梓」によれば、土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身(男性である)。専門は英米法で、『親友であった大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者となり早稲田大学建学の母とも言われている。ジェレミー・ベンサムの思想を分析した』とある。

「辻」後段の記載とウィキの「江木高遠」の記載から、文部官僚辻新次(つじしんじ 天保一三(一八四二)年~大正四(一九一五)年)である。旧松本藩士。ウィキの「辻新次」によれば、慶応二(一八六六)年に『開成所化学教授手伝並となり、明治に入ってからは大学助教、次いで大学南校校長となった。また』、明治四(一八七一)年の『文部省出仕以降は、学制取調掛、学校課長、地方学務局長、普通学務局長、初代文部次官を歴任。明治前半期のほとんどの教育制度策定にかかわったため、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われ』、『また「教育社会の第一の元老」、「明治教育界の元勲」などと評された。この間、明六社会員となり、大日本教育会(後に帝国教育会)、仏学会、伊学協会の各会長にも就任している』。明治二五(一八九二)年の『文部省退官後は貴族院勅選議員、高等教育会議議員、教育調査会委員に選ばれたほか、仁寿生命保険、諏訪電気、伊那電車軌道の社長を務めた』とある。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 日本人の智的活動に対する内観は、単に日本語に翻訳されて何千と売られる本によってのみならず、これ等の公開講演で取扱われる主題によっても、得ることが出来る。私はボストンに於るローウェル・インスティテュートの無料公開講演【*】のみを恐らくの例外として、それ以外北米合衆国に、これに比較すべき公開講演会のあるのを知らぬ。

 

 

*我国に於る公開講演は、三十年前の高い標準から、幻灯の見世物、音楽の余興等に堕落し、思慮ある、或は科学的な講演は稀にしか無い。

[やぶちゃん注:「ボストンに於るローウェル・インスティテュート」既出既注。]

 

 

 聴衆の智的性格は、彼等が、僅かな休憩時間が間にありはするが、四つか五つの、各一時間かかる講義の間、辛抱強く坐り続けるという事実から判断することが出来る。米国あるいは他の国の、如何なる講演会の聴衆が、かかる試煉に堪え得よう。

 

 この協会の最初の課程で講義した人々のある者の、公人としての位置は以下の如くである。藤田氏は東京の日刊新聞主筆、西氏は以前兵部省の書記官、福沢氏は有名な先生で、新しい地方議会の代議員、長谷川氏は市立病院の医師、沼間氏は元老院書記官、島地氏は仏教の説教師、菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者、大内氏は仏教雑誌の主筆、加藤氏は帝国大学総理で有名な蘭学者、外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生、杉氏は統計局の長官、河津氏は元老院書記官、江木氏は帝大教授、小野氏は元老院書記官、辻氏は文部省書記官。

[やぶちゃん注:「菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者」既注の菊池大麓は『蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び』、慶応三(一八六七)年と明治三(一八七〇)年の二度に渡って『英国に留学』、二度目の留学時に『ケンブリッジ大学で数学と物理学を学び学位を取得』している(ウィキの「菊池大麓」に拠る)。

「外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生」外山正一は『勝海舟の推挙により』、慶応二(一八六六)年に、前注した『中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学』んだが、幕府瓦解によって明治二(一八六九)年に帰国、一時、『東京を離れて静岡で学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ』、翌明治三年に『外務省弁務少記に任ぜられ』て渡米、翌一八七一年(明治四年)、『現地において外務権大録になる。しかし直ちに辞職し』、『ミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学。おりしも南北戦争の復興期であったアメリカの地で、哲学と科学を専攻』、明治九(一八七六)年に帰朝している(ウィキの「外山正一」に拠る)。]

 

 一八八二年秋、文部省が各県の主な先生達を東京に招集し、彼等の仕事に関する打合せをさせた。いろいろな質問が起った中に、学校に於る物理教育に関するものがあった。多くの人によって、この目的に使用する器械を購入することは彼等の力以上であり、そしてこれ等の器械が無くては、進歩が更にはかどらぬということが強調された。そこで東京師範学校の生徒達が、これ等の物理教授に必要な器械が、如何に安価に、容易に出来るかを示す目的で、いくつかの装置をつくることを決心した。会議が終る迄に、生徒達は五十六の器械をつくり、それ等を、それ等の構造に要した材料の一覧表と共に、演壇上に陳列した。材料というのが硝子や針金の小片、瓶、コルク、竹等、どこの唐物店ででも手に入れることが出来るような品である。ここにかかげる器械の表に依て、日本人が物理学を覚え込むに適した学徒であるのみならず、彼等がそれを標示するのに使用する道具をつくる上に、非常な巧さを示したことが知られる。私は学生がこのような原始的な器械の構造を研究し極め、そしてそれをつくることによって、どれ程物理学をはっきり会得するであろうかを考えざるを得なかった。このようなお手本は、我国の学生が、北部米国人特有の水兵小刀に対して持つ器用さと巧妙さとにより、更に住宅附近でもより多く手に入れ得る材料を使用して、真似をしても利益あることである。

[やぶちゃん注:以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 装置の表

  一 天秤

  二 分銅ある天秤

  三 振子

  四 遠心力磯

  五 斜面路

  六 重力の中心、二重円錐

  七 振子つきの降下秤

  八 重力の中心、平衡

  九 槓杆均衡

 一〇 ヘロス噴水

 一一 吸上喞筒(ポンプ)

 一二 凝集文様

 一三 斜面路あるベーカアの輪機

 一四 押揚喞筒

 一五 気圧の標示

 一六 ガイスラーの空気喞筒

 一七 吸引の標示

 一八 徴圧計のある空気受

 一九 空気受のある気圧計

 二〇 風車

 二一 吸引の標示

 二二 空気喞筒の排気と圧搾

 二三 音叉

 二四 鈴の震動

 二五 二種の共鳴器あるサヴェール器

 二六 弦のあるソノメータア

 二七 波動現象

 二八 共鳴器

 二九 高温計

 三〇 固体の膨張

 三一 角度鏡

 三二 ラムフォードの光度計

 三三 気体の流出

 三四 光線の実験

 三五 暗箱

 三六 光線の連続

 三七 光線の拡散

 三八 空胴角壔

 三九 目盛表示器つき気体の膨張

 四〇 液体の膨張

 四一 寒暖計の図解

 四二 磁針

 四三 磁針と台

 四四 電気振子

 四五 万能放電機

 四六 電気毬

 四七 電振子

 四八 放電機

 四九 絶縁台

 五〇 警鈴

 五一 電輪

 五二 ナイルンの電気器

 五三 ライデン瓶

 五四 検流計

 五五 電鍵

 五六 引力電池

[やぶちゃん注:ここは全原文を示す。原本では標題List, of devicesが中央インデント、各項目が半角十七字下げである。言っておくと、私は理科では唯一、物理が苦手であった。

   *

 

List, of devices

 

1. Balance.

2. Balance with weights.

3. Pendulum.

4. Centrifugal machine.

5. Inclined plane.

6. Centre of gravity, double cone.

7. Dropping-machine with pendulum.

8. Centre of gravity. Equilibrist.

9. Lever balance.

10. Heros fountain.

11. Suction pump.

12. Cohesion figures.

13. Barker's mill, with inclined plane.

14. Forcing pump.

15. Illustrating air pressure.

16. Geissler's air pump.

17. Illustrating suction.

18. Air receiver, with manometer.

19. Baroscope, with air receiver.

20. Windmill.

21. Illustrating suction.

22. Air pump exhausting and condensing.

23. Tuning-fork.

24. Vibration of bell.

25. Savert's apparatus, with two kinds of resonator.

26. Sonometer, with bow.

27. Wave phenomena.

28. Resonator.

29. Pyrometer.

30. Expansion of solid.

31. Angle mirrors.

32. Rumford's photometer.

33. Efflux of gas.

34. Light experiment.

35. Camera obscura.

36. Continuation of light.

37. Diffusion of light.

38. Hollow prism.

39. Expansion of gas, with index.

40. Expansion of liquids.

41. Illustration of thermometer.

42. Magnetic needle.

43. Magnetic needle, with stand.

44. Electric pendulum.

45. Universal discharger.

46. Electro ball.

47. Electro pendulum.

48. Discharger.

49. Insulating stool.

50. Alarum bell.

51. Electro wheel.

52. Nairne's electro machine.

53. Ley den jar.

54. Galvanometer.

55. Galvanic keys.

56. Gravitation battery.

 

   *

 以下、私の想起し難いものを注する。よく判らないが多分あんなもん、こんなもんだろうぐらいな推論が私に出来るものは注さなかった。中には、御大層な名称の割には昔の少年雑誌の付録見たようなものも含まれているやにも思われる。

「五 斜面路」斜面上の運動の模式器械。物理演習でしばしば行われる運動方向と運動方向と垂直な方向に分解する際のモデルとなる単一器械。

「六 重力の中心、二重円錐」ローリング・ダブル・コーン或いは円錐斜面と訳されるモデル機器。グーグル画像検索「DOUBLE CONE AND RAMPをリンクさせておく。

「吊り合わせ機構に振り子を用いた秤(はかり)。傾斜梃子(てこ)式秤の一種。基本的には竿に錘(おもり)を固定して振り子を形成させ、梃子の重点に吊るした物体と振り子の復元力とを吊り合わせておき、その梃子の傾きから重さを読み取るもの。

「九 槓杆均衡」「槓杆」は「こうかん」と読み、単純器械の梃子のこと。

「一〇 ヘロス噴水」ヘロンの噴水(Heron's fountain)。一世紀頃のアレクサンドリアのヘロンが発明した水力装置。『ヘロンは気圧や蒸気を研究し、世界初の蒸気機関(アイオロスの球)などを記録に残している。ヘロンの噴水も同様な玩具であり、水を噴き出させる。ヘロンの噴水を様々に変形させたものが、物理学の授業で水圧や空気圧の原理を示す実演に使われている』とウィキの「ヘロンの噴水」にある。リンク先に図と原理が載る。

「一二 凝集文様」物理の凝集力を示すための模式モデルか?

「一三 斜面路あるベーカアの輪機」「反動水車」或いは「ベーカー(氏)の水車」と呼ばれるもの。明治三八(一九〇五)年刊の関盛治「水力機械学」の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(解説と図有り。リンクは図のある頁)を視認されたい。

「一六 ガイスラーの空気喞筒」ドイツの物理学者で真空放電管「ガイスラー管」の発明者として知られるハインリッヒ・ガイスラー(Johann Heinrich Wilhelm Geißler 一八一四年~一八七九年)の水銀を使った真空ポンプのことか。

「一八 微圧計のある空気受」次と並置されているところからは、空気の圧力を知るための、恐らくは実験用のすこぶる簡単な器械であろう。

「一九 空気受のある気圧計」“Baroscope”というのは植村正治氏の論文工部大学校(工学寮)における博物場・器具室と実習用諸器具について(PDF)に「鋭感気圧計」などと訳されているから、本格的な気圧計であろう。

「二五 二種の共鳴器あるサヴェール器」サバー氏応響器と訳されるもの。国外のサイトの写真を見ると、円筒状のものとカップ状のものが並んでいる共鳴実験装置のようである。

「二六 弦のあるソノメータア」ソノメータ。海外サイトの画像を見ると、一弦琴の形状を成し、共鳴箱の上に複数の駒を挟んだが弦があり、弦を錘で調節して音を変化させる装置のようである。

「三一 角度鏡」鏡面の反射実験のための二枚(或いはそれ以上)の鏡を組み合わせたものか。

「三二 ラムフォードの光度計」ランフォード光度計。グーグル画像検索「Rumford's photometerをリンクさせておく。影の濃さで光度を現認する器械らしい。

「三八 空胴角壔」「角壔」は「かくとう」で「角柱」に同じく、二つの合同な多角形が平行し、他の面が総て平行四辺形である多面体を言うが、原文“Hollow prism”で判る通り、光実験などに用いる、透明なガラス板で作られた空洞の三角プリズムのことである。

「四六 電気毬」不詳。摩擦電気を帯びさせる実験用の帯電物質で出来たボールか? 静電発電機として知られるヴァン・デ・グラフ起電機(Van de Graaff generator)の発明はずっと後、四十六年後の一九二九年(昭和四年)であるから、この当時は存在しない。

「四七 電振子」先の「電気振子」が単純な静電気による垂下したものを運動させるものであるのに対し、こちらは本格的な球の振り子を電池によって動かすものであろう。

「五一 電輪」不詳。静電気によって円盤を回転させるものか?

「五二 ナイルンの電気器」イギリスの技師 エドワード・ネアン(Edward Nairne 一七二六年~一八〇六年)が発明した古典的な静電発生装置。ガラス絶縁体に取り付けられたガラス・シリンダーから成る。

「五三 ライデン瓶」静電気を蓄える装置。ウィキの「ライデン瓶」より引く。一七四六年に『オランダのピーテル・ファン・ミュッセンブルーク(ピーター・ヴァン・マッシェンブレーケ)によって発明されたとされるが、このような器具で静電気を溜めることができることは』、その三ヶ月前に遠ポメラニア(ポーランド語:Pomorze Tylne/ドイツ語: Hinterpommern)出身の『牧師エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライスト(Ewald Georg von Kleist)が発見している。オランダのライデン大学で発明されたため、「ライデン瓶」の名がある。電気の実験用に広く使われ、ベンジャミン・フランクリンの凧揚げの実験にも使われた』。『ガラス瓶の内側と外側を金属(鉛など)でコーティングしたもので、内側のコーティングは金属製の鎖を通して終端が金属球となっているロッドに接続される。通常、電極とプレートで構成され、これらが二つの電気伝導体となる。これらが誘電体(=絶縁体。例えばガラス)によって切り離され、そこに電圧をかけると電荷が貯まることになる。原理的にはコンデンサと同じである』。『当初は、ガラス瓶の中に電気が溜まると考えられていたが、実際には』『絶縁された二つの導体の表面に溜まっているのであって、その間の空間には電気エネルギーが溜まっていることになる』。『一般に、静電容量は現在の電子回路に使われているコンデンサと比較すると、それほど大きなものではない。しかし、高い電圧を加えることによって多量の電荷を蓄えることが可能で、使い方によっては感電を生じさせるほどの威力を持っている』。『平賀源内が復元したことで知られるエレキテルにも、摩擦で生じた静電気を貯める機構としてライデン瓶が用いられている』とある。

「五五 電鍵」電気信号を断続して出力するための装置。モールス信号器。モールス符号はアメリカの発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスによって一八三七年に実験され、三年後の一八四〇年に特許取得された。

「五六 引力電池」重力電池(gravity cell)のことであろう。サイト「電気の歴史イラスト館」の重力電池」に詳しい(リンク先に図有り)。一八六〇年代に『フランスのCallaudによってダニエル電池の素焼きの容器を使用しない電池』として発明されたもので、『構造はガラス容器の底に銅製の電極が置かれ、上部に亜鉛電極が吊り下げられて、容器の底部には硫酸銅の結晶片が敷き詰められ、ガラス容器は蒸留水で満たされ』る。『この状態で電流が流れると上部に亜鉛硫酸溶液(透明)の層ができ、下部の硫酸銅溶液(青)とは重力によって分離された状態にな』る『動作原理はダニエル電池と同じで』、『この電池の特徴は2種類の電解液が重力によって分離する(たとえば水の上に油が浮かぶように)ことで二つの電解液の混合を防止したことで』、『これによってイオンの移動を妨げる(内部抵抗)ものが無くなり、大きな電流が得られるようにな』ったが、一方で『振動や過大な電流を流すと電解溶液が混ざり合ってしまい』、『電圧が低下する』欠点はあった。『当時の英国や米国で電信の電源に使用され、保守が簡単であったことから、電池の寿命が近づくと電信員が消耗した部品や溶液を容易に取り替えることができる特徴があり、電信や電話の電源として1950年代まで使用され』たとある。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 以下は構造に使用した物品の表である。銅・真鍮・鉄の針金、いろいろな形式の竹、糸と紐、大錐、ネジ錐、皿、端書、亜鉛板、鉄葉(ブリキ)、鉛の銃弾、古い腰掛、浅い木造の桶、箱の蓋、独楽、薄い板、葡萄酒の瓶、硝子の管、バケツ、洋灯の火屋、紙、厚紙、皮の切れはし、銅貨、貝殻、葡萄酒杯、水のみ、護謨管、水銀、蠟燭、硝子瓶、護謨毬、各種の縫針、麦藁、婦人用鋏、磁器の鉢、コップ、提灯、算盤玉、紙製の茶入、僧侶の鈴、製図板、鉤針、鏡面用硝子並に普通の板硝子、拡大鏡、羽板、封蠟、硫酸、時計の発条、小瓶、漏斗。

2016/02/07

僕は

僕は誰より確かに僕自身の疑問のためにテクストを電子化していることだけは確かなことだ。しかし、誰か若い人が、それを、ふと面白く思ってればよいと思っていることも確かなことだ。それ「以外の人」から、僕のテクスト表記や表示法の在り方を云々されるのであれば――(事実、漢字が多過ぎるとか、ぐだぐだ判り切った注が多いとか(正直、本当に、あんたは判ってるのか? と言いたいのをぐっとこらえてのことだがね)、ウィキの引用が多いとか(僕はウィキを素晴らしい博物学者集団だと思うし、単純な表現修正のウィキの記者でもあるのだが)よく言われるが――それは正直、「糞喰らえ!」だし、そもそもが、だったら、僕のテクストを読まねばよかろう、自分でもっとアカデミックなものを披露すればよかろうが! と言わざるを得ないのである――それほど僕はその程度には非アカデミストであり、似非博愛主義者ではないということである――

2016/02/06

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (40) 当時の東京の殺人事件(過去十年間)はたった十三件だった!

 私は東京に於る統計局の長をしている杉氏〔統計院大書記官杉亨二郎〕と知合になった。彼は日本の青物、茶の湯、及びそれに頼するものに趣味を持つ、非常に智的な人である。彼から私は東京の保健状況に関する、興味のある事実を沢山聞いた。ミシガン州ランシングの、州立保健局長官、ドクタア・ベーカアが、私に彼の一八七九年の報告書を送ってくれた。重要な統計中、その年八十七件の故殺が行われたことを私は発見した。その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多いので、私は杉氏にその一年間、東京で何件の故殺が行われたかを質問した。彼は皆無だといった。事実過去十年間を通じて、東京では故殺が十一件と、政治的の暗殺が二件行われた丈である。

[やぶちゃん注:「杉氏」底本では直下に石川氏の『〔統計院大書記官杉亨二郎〕』という注が入る。しかしこれは亨二郎ではなく、杉亨二(すぎこうじ 文政一一(一八二八)年~大正六(一九一七)年)と思われる。日本の統計学者で官僚にして啓蒙思想家・法学博士。「日本近代統計の祖」と称される人物で、初名は純道。以下、ウィキの「杉亨二より引く。『肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に生まれ、大村藩の藩医村田徹斎の書生を経て』、弘化五・嘉永元(一八四八)年に大坂の緒方洪庵の適塾に『入ったが病のため同年帰国した。翌年には江戸に出て中津藩江戸藩邸の蘭学校(慶應義塾の前身、福澤諭吉が出府するのは』安政五(一八五八)年)だが『その後も慶應義塾に出入りしている)で教えた後』、嘉永六(一八五三)年には『勝海舟と知り合い、その塾の塾長から老中阿部正弘の侍講(顧問)とな』った。万延元(一八六〇)年には『江戸幕府の蕃書調所教授手伝となり』、四年後には『開成所教授となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際にバイエルン(現在の独バイエルン州)における識字率についての記述に触れたのが統計学と関わるきっかけになったと後年回想している』。『明治維新後は静岡藩に仕え』、明治二(一八六九)年『には「駿河国人別調」を実施したが藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった』。明治四年十二月二十四日(一八七二年二月二日)に『太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行』っている。また、明治六(一八七三)年には明六社の結成にも参加している。『一方、現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するため』、明治一二(一八七九)年に『日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。同年の』十二月三十一日午後十二時現在の居住者を対象として行い、調査人二千人、調査費用約五千七百六十円、調査対象となる甲斐国の現在人数は三十九万七千四百十六人という結果を得た。『その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。統計学研究のための組織である表記学社や製表社(後に変遷を経て東京統計協会)を設立して後進育成を図る一方』、まさにこの年、明治一六(一八八三)年九月には『統計院有志とともに共立統計学校を設立し自ら教授長に就任した。しかし、「統計学校」の「統計」という訳語が、スタティスティックスの本来の意味を表現していないとしてよしとせず、自ら漢字を創作して使用した』(ウィキ嫌いの、公権力に追従するアカデミズムの信望者の方のために「総務省統計局」公式サイト内の『日本近代統計の祖「杉   亨二」』をリンクさせておくが、そこでは杉が考案した漢字の画像を見ることが出来る。必見)。その後、明治一八(一八八五)年に、『統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及につとめた』。明治四三(一九一〇)年には『国勢調査準備委員会委員となり、統計学者の呉文聰や衆議院議員の内藤守三らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力したが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして病没した』とある。

「ランシング」(Lansing)はアメリカ合衆国ミシガン州州都。大部分がミシガン州インガム郡に位置する。人口二〇〇九年現在十一万三千八百十人。一八四七年に「デトロイト市」から「ランシング町」に州都が移転、一八五九年には「ランシング町」から「ランシング市」に命名を変更、一八七九(本記載時間より四年前の明治十二年相当)年には新州庁舎が実に百五十一万百三十ドルの費用をかけて建設されている。参照したウィキの「ランシング(ミシガン州)」によれば、『アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積』は九十一・三平方キロメートルとある(因みに、単純に比較することは出来ないが、現在の東京都の面積百九十・九平方キロメートルであるが、当時の東京府のそれは調べ得なかったものの、

この作品時間から三十七年後の大正九(一九二〇)年でも東京特別区二十三句の面積は八十一・二四平方キロメートル

でランシングよりやや狭いこと、遡るこの十年前に当たる

明治六(一八七三)年一月一日の東京府の人口は百八万六千七百十八人

であったというデータもある。この数字と、モースが「その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多い」と言っている点に着目されたい。因みに現在の東京都の人口は二〇一五年現在で千三百五十万六千六百七人で、二〇一一年の資料で東京都の殺人件数はたった一年間で百七十九件で本邦ワースト1である)。現在の状況ではあるが、同市の人口の十六・九%及び家族の十三・二% は貧困線(poverty linepoverty threshold:統計上で生活に必要な物を購入出来る最低限の収入を表す指標。それ以下の収入では一家の生活が支えられないことを意味し、貧困線上にある世帯や個人は娯楽や嗜好品に振り分けられる収入が存在しないとされる)『以下である。全人口のうち』十八歳未満の二十三・二%及び六十五歳以上の九%は『貧困線以下の生活を送っている』。『州都であるため、多くの雇用者は政府職員である。また、市の周辺にゼネラルモーターズが複数の工場を持っており、住民の多くが雇用されている』とある。

「故殺」原文“murders”

「過去十年間を通じて、東京では」「政治的の暗殺が二件行われた丈」明治一六(一八八三)年から十年前であるから明治六(一八七三)年以降であるから、一件はモースの記憶に傷ましいものとして残った大久保利通暗殺事件(「紀尾井坂の変」とも呼ばれる)明治一一(一八七八)年五月十四日に起った、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族六名によって暗殺された事件であろうが、今一件は不明である。識者の御教授を乞う。大物政治家で暗殺された者には民部大輔や参議の要職を勤めた広沢真臣(さねおみ 天保四(一八三四)年~明治四(一八七一)年)がいるが、彼の暗殺は現在では政治的なものとは考えにくいとされていること(当時は木戸や大久保などが暗殺の黒幕であるとする説はあった)、さらにこの事件は十二年前になることが悩ましい。]

ちょっと今朝起きて残念だったこと

本未明の零時過ぎの2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来のアクセス数777777アクセスの数字を見れなかったこと――

柳田國男 蝸牛考 初版(26) 蝸牛異稱分布圖索引 「蝸牛考」初版電子化終了

 

 蝸牛異稱分布圖索引

 

[やぶちゃん注:後掲する地図に合わせた索引である。底本は二段組であるが、一段とした。改訂版では地図は採用されなかったため、全く同一のものはないが、「蝸牛異名分布表」(地域附記)が本索引とよく似てはいる。但し、それはまた、別に電子化する予定であるので敢えて比較はしていない。読み易くするために色(~系)群の間は一行空けた。字配りは再現せず、ひたすら読み易さを考えて配した。]

 

 黑色  デデムシ系

  イ  デンデンムシ、デンデムシ

  ㋑  デンデンデムシ

  ロ  デエデエムシ、デデムシ、デエデ、デエデエ

  ハ  デブシ

  ニ  デームシ、デンノムシ

  ホ  デコナ、デンデコナ

  ㋭  デンデンゴウナ、デンデンゴナ

  ヘ  デンデラムシ

  ト  ダイダイムシ

  チ  レンレンムシ

  リ  ゲゲボ

  ヌ  ダイロ、ダイロウ、ダエロ、デァイロ

  ル  デエロ、デエロウ、デイロ

  ヲ  デエロン

  ワ  ダエロダエロ、デエロデエロ

  カ  ダイリヨウ

  ヨ  デエラクドン

  タ  デエラボッチヤ

  レ  デンボウラク

  ソ  デンデンツブロ

  ツ  デンデンタツボ

  ネ  デンデンコボシ

  ナ  デンデンガラムシ

  ラ  デンデンガラモ

  ム  デンデンケェボン

  ウ  デンダンベエコ

  ヰ  デンデンダイロ

  ノ  アカハラデンデンムシ

  オ  デデカマ

 

 茶色  マイマイ系

  イ  マイマイ、マエマエ

  ロ  アママイ

  ハ  マアメ

  ニ  マアヨ

  ホ  ママデ

  ヘ  ママダイロ、マンマンダイロ、メンメンデエロ

  ト  メエメ、メエメエ

  チ  メンメン

  リ  メェメェポ メメップ

  ヌ  メエメエヅ

  ル  マイモヅ、モモウズ

  ヲ  モオイ、モイモイ

  ワ  モオモリ、モオロモロ、モン

  カ  メメンジヨ

  ヨ  メエダセ

  ㋵  メエメエツノ

  タ  メンメンダバコロ

  レ  メンメンカエブツ、メンメンカエボコ、メンメンカエボ

  ソ  メンミンガラモ

  ツ  ミヤアミヤア、ミヤアミヤアコ

  ネ  ミヤアミヤアキンゴ

  ナ  ツノミヤアミヤア

  ラ  ミヨウミヨウ

  ム  ミヨウゴ

  ウ  ミヨミヨツノ、ミヨミヨツノダシ、ミヨミヨツノダセ、ツノダシミヨウミヨウ

  ヰ  ミニヨウニヨウ

  ノ  オツシヤビヨウビヨウ

  オ  マイマイドン

  ク  メエメエコウジ、マイマイクジ

  ヤ  マイマイコンジヨ、メエメエコンジヨ

  マ  マイマイグヅグヅ

  ケ  メエメエカンカ、メエメエカンカン

  フ  マイマイツブロ、マイマイツボロ、メエメエツブロ

  コ  マイマイツブリ、マイマイツムリ

  エ  メエメエツムリ

  テ  マイマイコツブリ

  ア  メメャブロ

  サ  マイマイツンボ

  キ  メエメエタツボ

  ユ  マイマイカタツボ

  メ  メエボロ、マイボロ、メエボロツボロ

  ミ  マイボチツボロ、メエボチツボロ

  シ  ネエボロ、ナイボロ、ネエボロツボロ、ネヤボロ、

  ヱ  デエボロ、ダイボロ

  ヒ  デンボロ

  モ  エエボロツボロ

  セ  ツーボロカイボロ

 

 赤色  カタツムリ系

  イ  カタツブリ、カタツムリ

  ロ  カタツモリ

  ハ  カタカタ

  ニ  カタカタバイ

  ホ  カタタン

  ヘ  カタト

  ト  カタジ

  チ  カタクジリ

  リ  カッタタナムリ

  ヌ  ガト

  ル  カサツムリ

  ヲ  カサツブリ

  ワ  カサツブレ、カサツンブレ

  カ  カサツブ

  ヨ  カサノマイ、カサンメ

  タ  カサッパチ、カシヤパチ

  レ  カダツブレ

  y  ガダツムリ

  ツ  カナツブ

 

 靑色  ツブリ系

  イ  ツンブリ

  ロ  カエツブリ、カイツブレ

  ハ  カエツムリ

  ニ  カイツグラ

  ホ  カンツブリ

  ヘ  ツグラメ、ツングラメ

  ト  ツブラメ

  チ  ツッガメ、ツッガメジョ

  リ  ツルマメ

  ヌ  ツンツングラメ

  ル  ツンナメ

  ヲ  マメツングリ

  ワ  メエメエツングラメ

  カ  ツムクリ

  ヨ  タマグラ、タンマグラ

  タ  タンバクラ

  レ  ヘビタマグリ

  ソ  ヘビタマ

  ツ  カマグラ

  ネ  マタグラ

 

 綠色  ナメフジ系

  イ  ナメクジ

  ロ  ナメクジラ、ナメクジリ

  ハ  ナメグズリ

  ニ  ナメクグリ

  ホ  ナマイクジリ

  ヘ  マメクジ

  ト  マメクジリ、マメクジラ

  チ  マメツジ

  リ  メメクジ

  ヌ  ツウナメクジ

  ル  ツウノアルナメクジ

  ヲ  カエンコノアルナメクジラ

  ワ  カイナメクジ

  カ  カイナメラ

  ヨ  カイカツギ、カエカツギ

  タ  カイカイクジリ

  レ  イエモチ

  ソ  イエカツギ

  ツ  イエカル

 

 

 

       蝸牛異稱分布圖

 

[やぶちゃん注:以下、初版底本巻末に附された「蝸牛異稱分布圖」(この呼称は地図本体には表記がないので注意されたい)地図なのであるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像(四枚ある)では全体が一枚に収まったものがない。そこで総ての情報をカバー出来るように組み合わせた一枚を独自に加工して作ったのが以下に掲げた図である。凡例は日本海側にある凡例は右下に隠れたもの同じで、切れてしまっている九州南部の大隅諸島の種子島と屋久島(種子島に青色の「ル」がドットされてある)を左上部に示し、その下(地図上の対馬の上部)に左で切れてしまっている五島列島(青色の「チ」が二箇所ドットされてある)をトリミングして挿入してある。これで底本の「蝸牛異稱分布圖」に示されている情報(凡例と異名の分布点)の総てを示し得ているはずである。]

 

Kagyuisyoubunnpuzu

 

 
 
 
[やぶちゃん注:なお、この後に底本では本書を含む『「言語誌叢刊」發刊主旨』という文章が載るが、柳田國男も最後の署名に名を連ねているが、本書の内容に不可欠なものとは私は判断しないので省略する。その後に同叢書第一期の刊行書目広告(本書を含む)があって全体が枠入りの奥付となる。まず右の柱。]

 

昭和五年七月五日印刷

             定價 壹圓八拾錢

昭和五年七月十日發行

 

蝸牛考[やぶちゃん注:中央部の上から。最上部に右から左に横書。]

 

版權所有[やぶちゃん注:中央に縦書。左右に検印。右が「柳田」、左が「刀江」。]

 

第一刷[やぶちゃん注:中央やや上に右から左に横書。その下に以下が縦書。]

 

著者             柳田國男

 

發行者 東京市神田區駿河臺北甲賀町二三番地

               尾高豐作

 

印刷者 東京市神田區錦町三丁目十七番地

              白井赫太郎

 

[やぶちゃん注:以上の下に、右から左に印刷所名。]

 

印刷所精興社

 

[やぶちゃん注:以下、左側の柱。]

 

發賣所[やぶちゃん注:その下に以下二行書。]東京市神田駿河臺北甲賀町二十三番地[やぶちゃん注:その下。]刀江書院[やぶちゃん注:その右に以下電話番号と振替番号が書かれているが省略する。]

柳田國男 蝸牛考 初版(25) 蝸牛異名索引(全)

 

       蝸牛異名索引

 

[やぶちゃん注:底本で冒頭の附言は全体が下部インデント風(以下のリストと比すと、五字下げ)になっており、既本文よりもポイント落ちである。アイウエオ順の各索引の内、本文に現われたものには頁数が最下部に打たれてあるが、ここでは数字を再現しても意味がないので、「●」を最後に附すこととした。総て行を空けずに続くが、五十音各音毎に行空けした。字配は再現していない(寧ろ、読み易さを考えてオリジナルに字詰めや字空けを行っている)。また、後の改訂版では五十音ではない系別異名表に変更されているため、表記比較をしなかった(一部で改訂版の誤りを発見したが、それは改訂版の電子化の際に指摘する)。但し、最後に改訂版のそれらも電子化する予定である。本文と異なり、これはリストであり、しかも本文に出たものにはかなり細かなオリジナル注を附した関係上、私自身が全く分からない場所以外には原則的に注を附さないこととした。]

 

 本篇の細敍を省略し、且つ今後の採集物の參考に供すべく、現在知られて居る二百四十餘の蝸牛の方言を五十音順に列ねて見た。各項下の數字は、本文中その語に言及した個處の頁附であり、數字の無いものは本文に引引用しなかつた異名である。

 地名は其郡又は市町村に、其語が行はれて、居ると報ぜられた土地である。勿論其以外の地にも多く存するでおらうが、多くはまだ確かならず、又一々之を擧げることも出來ない。地名を注記せぬ分は殊に分布の弘く又よく知られて居るものである。

 郡以上の大きな地域に於ては、必図示も全部に亙つて其言葉があるといふのでは無い。たまたま各自の知る限の町村に無くとも、それを以て直ちに此表を疑はぬやうにしてもらひたい。全體に、「存在せず」といふ土地人の言明よりも、「存在す」といふ報告の方が信を置き易い。といふわけは前者には誤謬が有り得、後者には虛僞しか有り得ないからである。

 方言は一つの土地にも同時に幾つか存在する、故にこの一首より他は行はれて居らぬといふのでは勿論無い。たゞさういふ場合にも、人により又家によつて何れかを主として使ふといふことはあらうが、それを究めることは不可能である。結局此表の地名に、「其土地の住民中に此語を使ふ者もある」といふ意味に解してもらふより他は無い。

 同じ一つの語でも、言ふ人によつて些しの差があり、聽き取る人によつても書き方のちがひはある。成るべく同じだらうと思ふものを二度掲げぬやうにはして居るが、まだ若干の重複は免れぬことゝ思ふ。

 將來の採集者は、此表に見えぬ蝸牛の名を耳にするたびに、出來るだけ精密に其話者の育つた土地を注記してそれを以て本篇の補充又は改訂をせられんことを希望する。

 

アカハラデンデンムシ   近江八幡 ●

 

イエカエル、イエカル   豐後竹田

イエカツギ        加賀石川郡 ●

イエモチ         近江東淺井郡

 

エェボロツボロ      下野

 

オッシャビョウビョウ   越前

 

カイカイカタツブレ    加賀河北郡(兒語)

カイカイクジリ      越中

カイカツギ        加賀河北郡

カイツグラ、カエツグラ  越中婦負郡山村

カイツブレ        加賀石川郡

カイナメクジ       磐城石城郡 ●

カイナメラ        伊豆神津島 ●

カイムシ         越中

カイロロ         越中

カエカエツノダス     越中氷見郡宇波村 ●

カエカエツブリ、カエカエツモル 越中上新川郡針原村 ●

カエカツギ        越中婦負郡音川村

カエツブリ        越中氷見郡 ●

カエツムリ        陸中盛岡市

カエツモリ、カエツブリ  越中下新川郡 ●

カエボボ         越中婦負郡寒江村

カエンコノアルナメクジラ 陸中盛岡市 ●

カキミナ         「鹿兒島方言集」 ●

カサツブ         岩代大沼郡、河沼郡 ●

カサツブリ        羽後各郡飛島及越後 ●

カサツブレ        羽後南部及「越佐方言集」 ●

カサツムリ        羽前山形市

カサツンブレ       羽後河邊郡 ●

カサノマイ、カサンマイ  甲斐南巨摩郡、南都留郡 ●

カサッパチ、カサンマエ  伊豆田方郡 ●

カサッパチマイマイ    駿河駿東郡 ●

カサンマイ        駿河靜岡市 ●

カァサンメ        相模足柄上郡、愛甲郡 ●

カシャパチ、カサッパチ  駿河富士郡 ●

カタカタ         紀州熊野下里村、土佐幡多郡中村町 ●

カタカタバイ       紀伊南牟婁郡飛鳥村 ●

カタクジリ        肥後八代郡金剛村 ●

カタジ          紀伊熊野郡串本 ●

カタッタァ、カタカタ   大和十津川 ●

カタタン         伊豫喜多郡 ●

カタツブリ、カタツムリ  …… ●

カタツブレ、カサツブレ  羽後秋田市 ●

カタツンブリ       佐渡外海府、大和十津川 ●

カタツボ         伊勢度會郡 ●

カダツムリ、カサツブレ  羽後平鹿郡 ●

カタツモリ、マメッジコ  下野上都賀郡 ●

カタト          伊豫宇和島 ●

カッタナムリ       土佐高知市 ●

ガト           丹後加佐郡 ●

カナツブ、カナツンブ   羽後河邊郡

カマグラ         陸前牡鹿郡 ●

ガマヒメ         越前五箇山

カンツブリ、カンツンブリ 越中五箇山 ●

カンニョブ        岩代安達郡

 

キネキネ、ネギロ     尾張愛知郡、三河碧海郡 ●

 

ケエブロ         羽後田澤湖邊 ●

ゲゲポ          上總君律郡 ●

 

ゴンゴ          出雲美保關

 

シタミ          八重山郡波照間島 ●

シダミ          同 黑島 ●

ジュンゴロ        日向宮崎郡生目 ●

シンナン         沖繩本島絲滿 ●

 

ゼンマイ         筑前博多

 

ダイダイムシ、ダェダェムシ 出雲松江市 ●

ダイリヨウ        對馬一部 ●

ダイロ、ダイロウ、ダエロ …… ●

ダエロウカン       上野多野郡

[やぶちゃん注:「上野多野郡多野郡」群馬県に現存する郡。当時は、現在の上野村・神流町(かんなまち)以外に現在の高崎市の一部と藤岡市一部が含まれる広域であった。]

ダエロダエロ       羽前米澤、越中愛本

[やぶちゃん注:「越中愛本」現在の富山県黒部市宇奈月町内山の地区内と思われる。]

ダシミョウミョウ     加賀河北郡

タツボ、デンボロ     下總海上郡高神 ●

タマグラ、タンマグラ   …… ●

タンバクラ        陸前玉造郡 ●

 

ヂダミ、ツダミ      八重山郡石垣島 ●

チチマタ         加賀能美郡 ●

チヂミナ、シジミナ    「鹿兒島方言集」 ●

チッヅァン        八重山郡西表島 ●

ヂットウ、ヂットウバットウ 甲斐巨摩郡逸見 ●

チンケ          羽後北秋田郡笹飯 ●

チンタイ         沖永良部島 ●

チンダミ         八重山郡小濱島 ●

チンダリ、チンダル    奄美大島南郡 ●

チンナミ、チンナン    沖繩本島南郡 ●

チンナンモウ       同 上名護 ●

チンニャマア       奄美大島北部 ●

チンニャマ        同 古仁屋 ●

 

ツウナメクジ       肥後玉名郡 ●

ツウノアルナメクジ    肥前諫早 ●

ツグラメ、ツングラメ   …… ●

ツッガメ、ツッガメジヨ  肥前五島 ●

ツダミ、チダミ      八重山郡石垣島 ●

ツドロガエドロ      越中下新川郡經田 ●

ツノダイシ        陸奧五戸 ●

ツノダシ         加賀金澤、陸奥津輕及八戸等 ●

ツノダシミョミョ、ツノツノミョミョ 越中東礪波郡井ノ口 ●

ツノベコ         陸奥、磐城石城郡 ●

ツノミャアミャア     美作勝田郡北和氣 ●

ツノンダエシヨ      武藏大里郡八基 ●

ツノンデエロ       同郡及北埼玉郡 ●

ツノライモウライ     能登鹿島郡 ●

ツブラメ         壹岐 ●

ツーボロカイボロ     下野宇都宮附近 ●

ツングラメ        日向東臼杵郡 ●

ツムクリ、マイマイ    磐城石城郡 ●

ツンケマゴシロ      羽後北秋田郡小阿仁 ●

ツンツン         美濃山縣郡 ●

ツンツングラメ      肥前佐賀市 ●

ツンナメ         種子島、寳島 ●

ツンノデイロ       上野群馬郡 ●

ツンノんデエショ     同郡總社 ●

ツンブリ         美濃洲原、丹波福知山 ●

ツンミャウ        喜界島 ●

ツルマメ         肥前平戸 ●

ツロロ          越中下新川郎

 

デァイロ         岩代安積郡安達郡

[やぶちゃん注:「岩代安積郡安達郡」安積郡(あさかぐん)は、陸奥国・石背国・岩代国にあった郡で、現在の福島県中央部に位置した。当時の郡域は郡山市の一部(熱海町中山・熱海町石筵・熱海町高玉・熱海町玉川を除くおおむね阿武隈川以西)に相当する。「安達郡」は旧安積郡の概ね北に接してあった郡で、現在は大玉村一村を含む郡として残るが、当時は二本松市と本宮市の全域及び郡山市の一部・福島市の一部・伊達郡川俣町の一部を含む広域であった。]

デイブ          若狹大飯郡

デエデエ         伊勢松阪

デエデエムシ       ……

デエボロ、ダイボロ    下野南部 ●

デエラクドン       豐前宇佐郡 ●

デエラボッチャ      信濃諏訪郡北山 ●

デエロ、デエロウ、デイロ ……

デエロデエロ       岩代北會津郡

デエロン         上野利根郡吾妻郡

デコナ          伊勢一志郡雲出 ●

デデムシ         ……

デノムシ         播磨赤穗郡 ●

デブシ          伊豫の一部 ●

テンダリギョ、チンニャマ 奄美大島古仁屋

デンデコナ、デンデコナイ 伊勢三重部 ●

デンデムシ        大阪、近江阪田郡等

デンデラムシ       美濃大垣市 ●

デンデンガラポ      能登鹿島郡瀧尾 ●

デンデンガラムシ     越中氷見町

デンデンガラモ      能登鹿島郡灘地方 ●

デンデンケエボン     豐前築上郡 ●

デンデンゴナ       伊勢津市(兒語)

デンデンゴウナ      備中淺口郡連島 ●

デンデンコボシ      大和の一部

デンデンダイロ、ツンノデエロ 上野群馬郡 ●

デンデンタツボ      伊勢飯南郡 ●

デンデンツブロ      常陸眞壁郡 ●

デンデンデムシ      紀伊有田郡

デンデンベエコ、ヘビタマグリ 陸中釜石 ●

デンデンムシ       …… ●

デンデンムシムシ     越中出町、下野河内郡

デンノムシ        備前邑久郡等 ●

[やぶちゃん注:「邑久郡」は底本では「笹久郡」とあるが、これは誤りなので特定的に訂した。改訂版の「デンノムシ」を検索すると、『邑久郡』と訂してある。邑久郡(おくぐん)は岡山県のほぼ東橋近くの瀬戸内海沿岸にあった旧郡で、当時は現在の瀬戸内市の全域及び岡山市東区の一部と備前市の一部を含んだ。]

デンボウラク       相模の一部 ●

デンボノコ        同 三浦郡

デンボロ         甲斐北都留郡、下總海土郡高神 ●

 

ナマイクジリ       安唇安佐郡北部 ●

ナメクグリ        常陸稻敷郡

ナメクジ、ナメクジリ   …… ●

ナメクジラ        陸中盛岡市 ●

ナメグズリ        陸奥弘前市

 

ニュウニュウ       越後新發田 ●

 

ネエボロ、ナイボロ    下總結城部猿島郡 ●

ネエボロツボロ      下野芳賀郡 ●

ネギロ、キネキネ     三河碧海郡 ●

ネヤボロ         下總河内郡、芳賀郡

 

ベエコ          常陸久慈郡、多賀郡

ベココ          陸中遠野(兒語)

ヘビタマ         同 鹿角郡 ●

ヘビタマグリ       同 上閉伊郡等 ●

ヘビノテマクラ      仙「物類稱呼」

ヘリ           越後「俚言集覽增補」

 

ボウダシ         下總東葛飾郡 ●

 

マアマイ         三河渥美郡和地

マアメ          伯耆東伯郡北谷 ●

マアヨ          因幡氣高郡 ●

マイマイ、マエマエ    …… ●

マイマイカタツボ     伊勢多氣郡 ●

マイマイクジ       尾張葉栗村

[やぶちゃん注:愛知県北西端にあった葉栗郡に属した村名。現在は一宮市内。]

マイマイグヅグヅ     伊勢度會郡 ●

マイマイコツブリ     筑前戸畑市 ●

マイマイコンジヨ     尾張愛知郡等

マイマイツブリ      越前坂井郡金津

[やぶちゃん注:「金津」(かなづ)と読む。古くから北陸街道の宿場町として栄えた。福井県ほぼ北端の地区で、現在は「あわら」市内。]

マイマイツブロ      …… ●

[やぶちゃん注:既出頁表示がないが、「方言出現の遲速」以下で何度も出るので、「●」を打った。]

マイマイツボロ      常陸南部 ●

マイマイツムリ      武藏横濱市周圍

マイマイツンブリ     遠江磐田郡

マイマイツンボ      同郡浦川

マイマイドン       同 榛原郡 ●

マイモヅ         武藏西多摩郡氷川 ●

マエボチツボロ、メエボチツボロ 常陸新治郡 ●

マエマエ         越中氷見郡神代

マシジロ         尾張知多郡 ●

マタグラ、タマグラ    仙臺市 ●

ママダイロ        信濃飯田 ●

ママデ          紀伊南牟婁郡阿多和 ●

マメクジ         三河岡崎市及南設樂郡 ●

マメクジリ、マメクジラ  飛驒高山 ●

マメジッコ、カタツモリ  下野上都賀郡 ●

マメツジ         三河西加茂郡

マメツングリ       筑後三瀦郡 ●

マンマンダイロ      信濃下伊那郡龍丘 ●

 

ミナクジ、ナメクジ    肥前南高來郡深江 ●

ミナムシ         「鹿兒島方言集」 ●

ミャアミャア       備中吉備郡、小田郡 ●

ミャアミャアキンゴ    美作眞庭郡富原 ●

ミャアミャアコ      備中小田郡金浦 ●

ミョウミョウ       加賀の一部 ●

ミョウゴ         同 能美郡

ミョミョツノ       能登能登島 ●

ミョミョツノダシ     越中上市 ●

ミョミョツノダセ     同 出町 ●

 

ムナムシケ        「鹿兒島方言集」 ●

 

メエダセ         伯耆境港 ●

メエツムリ        下總佐倉

メエボロ、マイボロ    常陸南部 ●

メエボツボロ       下總北相馬部 ●

メエメ          尾張愛知耶郡

メエメエ         三河幡豆郡等

[やぶちゃん注:「幡豆郡」「はず」と読む。愛知県にあった旧郡。三河湾中央(知多湾と渥美湾の中央に突出する半島部とその根の部分)で、現在の西尾市の大部分と額田郡幸田町の一部に相当する。]

メエメエカンカ、メエメエカンカン 上總夷隅郡

メエメエコウジ      相模津久井郡 ●

メエメエコンジ、メエメエクンジョ 三河寳飯郡八名郡 ●

[やぶちゃん注:「寶飯郡」「ほい」と読む。愛知県にあった旧郡。渥美湾湾奧部。「八名郡」「やな」で、同じく宝飯郡の西内陸部に接していた愛知県の旧郡。]

メエメエタツボ      上總山武郡 ●

メエメエズ        武藏北多摩郡、入間郡 ●

メヱメエツノ       三河日間賀島 ●

[やぶちゃん注:「日間賀島」は現在、行政上は愛知県知多郡南知多町に属しているが、奈良時代の文献には「三河國幡豆郡比莫島」という文字が見え、平城京にサメやクロダイが調進されていた。江戸時代になってからは現行に近く尾張国知多郡に属する尾張藩領であり、篠島とともに千賀氏が支配した(ウィキの「日間賀島」に拠る)。先に出た本呼称の語幹的な印象の「メエメエ」が三河幡豆郡のものであることを考えると興味深いと私は思う。]

メエメエツブロ      豐後日田郡 ●

メエメエツボ       常陸稻敷郡 ●

メエメエツングラメ    肥前佐賀市 ●

メエメッボ         上總市原部長生郡等 ●

メメクジ          三河長篠、相模の一部 ●

メメチャブロ        下總東葛飾郡 ●

メメップ          同國一部 ●

メメンジョ、メンメンジョウ 甲斐甲府市 ●

メメンデエロ        信濃下伊那郡

メャメャア         安房

メンミンガラモ       能登鹿島郡鰀目等 ●

[やぶちゃん注:「鰀目」「えのめ」と読む。現在の石川県七尾市能登島町鰀目。]

メンメン          陸前遠田郡涌谷 ●

メンメンカエブツ      越中高岡市 ●

メンメンカエボロ      同 中新川郡大岩 ●

メンメンカエボコ      同 射氷郡海老江

メンメンダバゴロ      陸前遠田郡 ●

 

モイモイ、モオイ      石見大森 ●

モオモリ          出雲今市 ●

モオロモロ、モンモロ    「出雲言葉のかきよせ」 ●

モモウズ          甲斐北都留郡 ●

 

ヤブタヌシ         越中の一祁「物類稱呼」

ャマシタダミ        八丈島 ●

ャマツブ          陸中平泉 ●

ヤマミナ          薩摩知覽郡 ●

ヤミナ           「鹿兒島方言集」 ●

 

ユダイクイミナ       同上

 

レンレンムシ        肥前北松浦郡大島

 

ヲバヲバ          下總海上郡 ●

 

ンダミ           與那國島 ●

ンムウナ、ヴウナ      宮古島平良 ●

 

ベトナムの夢

今朝方見た夢――

僕は富山にいるらしく、高校の非常勤の国語教師をしているらしい。

突然、僕はベトナムへ行こうと思う。

パスポートも持たず、飛行機に乗り込み、ベトナムに着くのだが、そこはハノイではなく、山間の都市である。パスポート提出をせずに山のだらだら長い急坂を降りて行く。

道に沿って褪赭色に濁った深い小川が恐ろしいスピードで流れている。

左手の斜面のところに、古い旧家らしいが、つい先頃、新しく建てられた豪華な家があって、そのエントランスを沢山の現地の人々が埋め尽くしている。

下って行く目の前の坂の小川の脇に、クバの葉で美事に編まれた二メートルほどの小舟が置かれている。舟の中央にはやはりクバの葉と木の枝で荒く組まれた小さな小屋が設えてあって、その中には、金襴に包まれた大きな繭のようなものが置かれている。

僕は立ち止まってそれを見ながら、それは今日亡くなった赤ちゃんの葬送なのだと思った。

すると、旧家の主人らしい老人が、僕を見つけ、近寄ってきて、小舟を指さしながら、ベトナム語で何か言った。

僕は無論、老人の言っていることが全く分からないのだが、その仕草を見ると、一緒に小舟を担いで呉れと言っていることが判るのであった。

僕は赤ん坊のことを思うとなんとなく可哀想になって、思わず頷いてしまうのであった。

すると、老人は僕の手を引っ張って、小舟の脇へと導き、老人が舳を、僕が艫を担いだ。舟は大方がクバ製だからごくごく軽い。

しかし僕は迂闊にも何故、舟かを考えていなかったのであった。老人は道の右手へずんずんそれて、その脇で奔流する泥川の中へと入ってゆくのであった。僕もかくなった以上はと胆を据えて小舟を肩に支えながら、小川の中に入ってみると、川は予想外に深く、僕は殆んど頭の天辺まで水没してしまうのであった。それでも川底を軽く蹴りながら、小舟を支えた。空気を吸うたびに、周囲を見ると、集まった人々が、拍手をして皆、笑っているのである。
少し下ると、舳の老人は右手の階梯から新居の玄関へと向かってゆき、そこでやっと儀式は終った。
老人と僕は、美しい絨緞の轢かれた玄関の間に小舟を降ろした。
老人は僕の両手を自分の両手でとって、とてもいい笑顔で、声をたてずに笑いながら、何度も何度も握手するのであった。

――そこで何故かは判らないが――僕は
――この小舟は赤子の葬送の舟なのではなくて――これは
――この新居を建てたことを産土(うぶすな:土地神)に奏上し、またそれを言祝いでもらうための祭祀である――と直感したのであった
――あの繭の形をしたそれは――産土の聖石なのだ――と知れたのであった……

それから僕は冷えた体を暖めるために、その旧家の前にある売店で暖かい飲み物を頼んだのだが……そこで店員が何故かパスポートの提示を求めた……僕が「ない」というポーズをすると……頂上の空港の方から沢山の武装警察官がやって来て僕は空港内の拘置所に拘引されてしまうのであった……

……その後、日本へ連絡が行き……僕の友人(僕の友人には実在しない背広を着た官僚のような男)が来て、
「……これは微妙な問題だ。」
と言い、何年も日本に帰れなくなるかも知れない、旅券法違反で何年もここで投獄されるかも知れない、などと言う。

(この辺りに、まるで映画のように、僕不在の日本の情景がインサートされ、亡くなっている母が生きていて、懸命に僕を帰国させようといろいろと手を尽くしているシーン、僕が勤めている学校の若い女性国語教師が、職員室で、僕がベトナムに不法入国した、という電話を誰彼にしているのを、そばにいた僕の教えている生徒が聴き、学校中に――僕が「ベトナムに亡命した」――という噂が広がるというシエピソードなどが描かれていた。
さらにベトナムでは、かの一緒に小舟を背負った旧家主人の老人が僕が留置されていることを知って、政府関係者に盛んにコンタクトをとっては、やはり懸命に僕の解放を求めようとするシークエンスもある。)

僕はベトナムの拘置所にいる。

鉄格子から射してくる夢のように青い月光を見上げながら、

『僕は……この牢屋の中で死ぬんだな……それもいいな……』
と思いながら、何故か、会心の笑みを浮かべているのであった…………
 
 
 
[やぶちゃん注0:僕は再任用その他の慫慂は一切断っており、四年前の早期退職以来、全くの無職である。中学高校過ごした富山には、もう二十年以上行っていない。]
[やぶちゃん注1:僕は十年前に一度、ベトナムに行っている。ハノイ到着直前から左耳が炎症性の重い航空性中耳炎となり、一週間、左耳が半分聴こえない状態であったが、再訪したい国である。]
[やぶちゃん注2:登場する不思議な小舟は二十六年前の初めての海外旅行で行ったペルーのチチカカ湖で買い求めた一メートルほどのトトラ舟に酷似し、中央の御霊屋のようなものは、かの那智の補陀落(ふだらく)渡海の舟のそれに似ていた。]
[やぶちゃん注3(追加):再読してみたら、赤ん坊の葬送と思って云々はこれ、坂が逆転してみれば、芥川龍之介の「年末の一日」終曲部の無意識のインスパイアだ! と気がついた。
 
 すると墓地裏の八幡坂(はちまんざか)の下に箱車(はこぐるま)を引いた男が一人、楫棒(かぢぼう)に手をかけて休んでゐた。箱車はちよつと眺めた所、肉屋の車に近いものだつた。が、側へ寄つて見ると、横に廣いあと口(くち)に東京胞衣(えな)會社と書いたものだつた。僕は後から聲をかけた後(のち)、ぐんぐんその車を押してやつた。それは多少押してやるのに穢(きたな)い氣もしたのに違ひなかつた。しかし力を出すだけでも助かる氣もしたのに違ひなかつた。
 北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。………]

タイワン・リスの跫音

今朝はタイワン・リスの廂を伝ってゆく跫音と「キュッキュ」という啼き声で醒めた――

2016/02/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (39)

 日本から帰国する時、私は支那へ渡り、短期間滞在した後、海岸に沿うて下って安南に寄り、しばらくマライ半島とジャワとにいた。横浜から上海へ行く時、私はマサチユーセッツ州エセックス郡出身の、コンナー船長と一緒になった。下関海峡を通過すると、コンナー船長は、岩の多い、切り立った島を指さして見せ、十一年前、彼と彼の夫人とが、この島で難破した船にのっていたと語った。海は穏だったが、非常な暗夜だった。遭難火箭を打ち上げると、間もなく漁夫が、何事にでも手伝うつもりで、本土のあちらこちらから漕ぎ寄せて来た。船客の所有物は舷ごしにこれ等の救助者に手渡され、救助者達は闇の中に消えて行った。翌朝日本政府の汽船が横に来て、船客と船員とをのせ、遭難現場から百四十マイル離れた長崎へ行って彼等を上陸させた。船客達は彼等の衣服全部その他を含む荷物を、如何にして取り戻すかに就て、いく分不安の念を抱いたが、船の士官は、政府が海沿いの往還に、これ等の荷物をとどける可き場所を書いた告示を出しさえすれば、それ等はすべてまとめられ、そして送られるに違いないと、丁寧にいった。数日以後、カフス釦からよごれた襟に至るまでの、すべての品が長崎へ送られ、紛失品は只の一つもなかった。コンナー船長は、微苦笑を浮べながら、数年前、彼等夫妻が十一月、ニュー・ジャージーの海岸で難船した話をつけ加えた。その時は非常に寒かった。彼等が受けた苛酷な取扱に関しては、彼等があらゆる物を盗まれたことを書く以外、何もいう必要はない。

[やぶちゃん注:モースは明治一六(一八八三)年二月十四日に離日した。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」より引く(注記号は省略した)。前日『十三日、モースは梅若の家に行き、謡の最後の稽古をした。これで日本でのモースの行動はすべて終わった』。

   《引用開始》

 二月十四日午前十時、モースは新橋から汽車に乗った。おそらく、大森駅の手前では、思い出の深い大森貝塚に目をやったことであろう。横浜についたモースは、その日横浜を出る上海行の「東京丸」(二一一九トン、「シティ・オブ・トーキョー」とは別の船)に乗船してヨーロッパに向った。ビゲローは日本に残り、モースの一人旅であった。

 今度の旅行では、日本から帰国するとき、東洋諸国をめぐり、ヨーロッパに立ち寄ることが最初からの予定であった。モースはその計画にそって、上海から香港をまわり、三月七日に広東に到着、そこで数日滞在して製陶所を訪れている。だが、当地での外国人に対する感情はいたって悪く、モースはどこでも敵意をもって迎えられた。しかしモースはいう、「私は気が変になったが、彼らがキリスト教国からどこでも酷い扱いを受けていることを考えれば、少しでも彼らを非難する気にはなれない。まったくのところ、もし私が中国人だったら、同じことをしただろう、しかももっと手ひどくだ」と。

 ついでモースはサイゴン、シンガポール、ジャワに寄ったが、当初予定したインドはコレラが大流行しているので取りやめてヨーロッパに直行し、四月三十日にマルセイユに上陸した。これがモースにとって初めてのヨーロッパ訪問だった。

 フランスには一週間滞在。パリでは、前にアメリカで会ったことのあるオスカー・ワイルドと再会している。

   《引用終了》

その後、イギリスを経て、ニューヨーク到着は同年六月五日のことであった。]

M777

777[やぶちゃん注:これが本書の最後のモースの挿絵である。]

 

 日本人がすべての固信から解放されていることを示す、何よりの実例は、彼等が外国の医術の健全な原理を知り始めるや、漢法を棄てたことである。素速く医学校を建てたことや、米国人がどこへ行って医科教育を終えるかを質問することは、政府の賢明を示していた。我国の有名な医者や外科医が、ベルリンとノルウェーの医科大学や病院で研究したことが知られた。かるが故に、ドイツ人が医科大学の教師として招れ、学生達は入学する迄に充分ドイツ語の基礎を持っていなくてはならなかった。更に横浜には、輸入される薬品全部を検査して、その純粋であることを確めるのを目的とする、化学試験所が建設された。経験のみに依る支那の、莫迦げた薬学は既に放棄された。もっとも田舎へ行くと、天井から乾かした鹿の胎児(図777)や、ひからびた百足その他、支那の、医療物として使用される、怪異な愚劣物が下っているのを、よく見受ける。

[やぶちゃん注:「漢法」はママ。

「鹿の胎児」「鹿のさご」「しかのはらご」「さご」などと呼ぶ。但し、漢方というより、本邦の民間薬のように思われる。ともいう。ウィキの「鹿のさご」によれば、三~四月頃、鹿の胎児は鼠よりも大きく成長して、『その皮膚には鹿の子(かのこ。皮膚の斑点)があらわれようという時期で』この時期の胎児を採り出して、『黒焼きなどにし、薬用とする。殊に山民のなかでは女性の血の道の妙薬として珍重された』とある。

「百足」漢方サイトを見ると、破傷風・小児性急性熱性痙攣・顔面神経麻痺・皮膚潰瘍及び蛇や毒虫の咬傷・切傷・火傷に外用するとある。]

 

 デモ医者は竹〔薮〕医者とよばれる。多分竹が軽くて空虚だからであろう。

[やぶちゃん注:「デモ医者」原文“a quack”。偽せ医者。他に山師・いかさま師の意もある。しかし「デモ」というのは所謂、「医者にでもなろうか」とか、「デモシカ教師」の「でも」であるからちょっと違う気はする。

「竹医者」底本では「竹」の直下に石川氏の『〔藪〕』という注が入っている。私は小学生の時、医者になろうと本気で思っており(就学直前まで結核性カリエスを患い、医師に親しく接していたためである)、そう公言していたので、私の小学生時代の渾名は「藪医者」であった。この語源説は複数あり、もっともらしいのは「野巫(やぶ)医者」「田舎の巫医(ふい)」、所謂、妖しげな呪術を用いて治療するシャーマンを指すとするものであるが、私はどうも後付の気がする。よく聴く「藪井竹庵」という下手な医者の名に由来するというのもまことしやか乍ら、却って落語噺の登場人物っぽい。「野暮な医者」が訛って「やぶ医者」になったとする説もあり、ともかくも「藪」は「田舎」の「怪しげな」の謂いである感じは強い。]

悼――


柳田國男 蝸牛考 初版(24) 最終章 方言周圏論(全) / 「蝸牛考」~本文終了

 

       方言周圏論

 

 さて結論として改めて言ふべきことは無いが、餘りに複雜した私の論證であつた故に、今一應これまでの假定を要約して、豫め後の批評家の親切に報いて置きたいと思ふ。

 蝸牛はこの日本の島に、多分は日本人が渡つて來るよりも前から、住んで居た動物であつた。其遭遇の最初の時から、既に何かは知らず名があつた。今日知れて居るものゝ中ではミナといふ語が一番古いらしいから、假に我々は前の故郷に於て、斯ういふ動物をミナと呼ぶ慣習を持つて居たと想像して置くが、此想像は事によれば破れるかも知れぬ。さうすると少なくも蝸牛だけに於ては、語音の親を辿つて遠方の同族を探すことが出來ない。何となれば他は悉く此國に上陸してからの發生だからである。

[やぶちゃん注:「親」改訂版では『親近』。このままでも意味は通らぬこともないが、どうも「親近」の方が腑に落ち、初版の誤植ともとれるが、暫くママとする。]

 

 例へばナメクジを以て二種の蟲を併せ呼ばうとする風なども古いかも知れぬ。一旦蝸牛に別の名があつた場合に、それを廢罷して他の物の名を借用するといふことは、想像し難いことだからである。しかも此風は全國に弘く行渡り、又現在も相應に強い根をさして居る。どちらが本の主であつたかは容易に決し難いが、とにかくに其中の一方しか知らなかつた土地から、遣つて來た人があるのかとも考へられる。但しさういふ場合が假にあつたとしても、それはたゞ同時に二通りの名を知る者が、相隣して住んで居たことを意味する迄で、ナメクジ後改めてミナと爲すと、推斷することはどうしても出來ない。海に働き海の渚に住む人々は、現に蝸牛以外の多くのミナを知つて居て、追々に之を差別しようとして居たのである。或は相參酌してミナナメクジ、若しくはナメクジミナといふ名は作り得たかと思ふが、さういふ形はもう何處にも殘つて居らず、僅かにツブラの語が始まつてから後に、一二の是と複合したらしい痕跡を見るだけである。事によると是は異なる職業又は信仰を持つ者が、互ひに他方の用語を避けなければならなかつた結果かも知れぬが、さういふ事實を明らかにしようとするには、勿論尚幾つもの同種の例を見付けてかゝる必要がある。差當つては只この奇異の事實を注意して置くより他は無いのである。

 

 ミナと名けてよい貝は非常に多かつた。或はもと一切の貝類がミナであつた時代さへ想像せられるが、そのうちにカイと呼ばるゝものが先づ分れて、蜷即ち卷貝のみをミナといふ樣になつた。我々の生活交渉が特にその或一種に向つて深く進むと共に、次々に之を他のものと差別する必要が生じた。蝸牛は其中のシタダミといふ蜷の名に統括せられ、さらに他の普通のシタダミと區分する爲に、山シタダミなどの名を付せられたこともあつた。其新名がどれだけの地域に及んだかは、素より現在の分布によつて推察するわけに行かず、又今後の採集が更に資料を附加へるかも知れぬのであるが、一方にミナの單名も猶行はれて居るのであるから、この方言は大體に於て弘く展開せず、結局は多分純然たる地方語として終始したことゝ思はれる。

[やぶちゃん注:以前に「シタダミ」について柳田の仮説の可能性について私は反論を申し立てたが、この箇所の見解は、ほぼ諸手を挙げて私は賛同出来るものである。]

 

 之に反してその次に起つたツブラの方は、一旦は全土を席卷したこともあつたかと思ふ。人がこの物を話題とする場合が意外に多くなつて、先づその形狀について興味を感じた者が、これに付與するにツブラ亦はツグラの名を以てした。この形容は土器の以前の製法に親しむ者に、殊に適切なりと認められ、又その語音の新らしさを愛づる者が多くなつて、程無く國中の大部分に亙つて、シタダミ其他の何蜷を不用にしたのであつた。

[やぶちゃん注:「何蜷を」改訂版では『何蜷といふ名を』。]

 

 このツブラの優勢なる名望が、一朝にして覆へし得べきもので無かつたことは、今日も尚幾多の證跡を指示し得られる。しかも世上には既に日用以上の言語を、貯へて置かうとする氣風が現れて來た。時と目的に應じて少しでも自由に、用語の選擇をしようといふ希望が強くなつて居た。方言といふ言葉がもし同時に二つ以上の單語の併存することを意味するならば、それが明確に國民によつて意識せられたのは、恐らくは此時から後のことであらう。しかも其選擇には殆ど以前と同じ樣に、實際は可なり強烈なる偏頗と模倣とが働いて居た爲に其一つ以外の語は久しからずして忘却せられ、結果に於ては頻々たる地方語の、榮枯盛衰を見ることになつたのである。此意味から言ふと近世の俗語の大部分は、其成立ちが可なり以前のものと違つて居た。即ち最初は必ずしも舊語を改訂しようといふ迄の趣旨では無く、單に一異名として斯うも謂はれるといふ心持で、用ゐ始めたかも知れぬのであつた。しかも結局はその一つのみが大に行はれ、次第に他の多くを死語老語に押しやつた事實は同じである。

 

 世には方言のあまりにも區々なる變化を見て、驚き恠まうとする人が多いけれども、一たび此事實を知れば此方は寧ろさもあるべしとも言へる。それよりもこの各地思ひ思ひの、しかも豫定の計畫でも無かつた言葉遣ひが、永く是だけの端々の一致を保つて居た理由こそ、説明せられなければならなかつたのである。たとへば小兒の物を愛するの情が成長し、天然を觀察する力が精細になつて、假に私などの想像して居るやうに、蝸牛の卷き目を笠縫ひの手業に思ひ寄せ、新たに又一つのあどけない名を付與する者があつたとしても、若し單なる各自の趣向であつたならば、到底斯くまでの偶合は見ることが出來ぬ筈であり、又一旦は之を採用するにしても、それが若干の轉訛を經て後まで、保存せられて居るわけは無かつたのである。だから發生の機緣はどんなつまらぬ事であつたにせよ、必ず或期間それが略全國中の生眞面目なる人たちにも、一度は最も正しい日本語なりとして、公認せられて居た時代があつて、程無く又次に現れたものに、其地位を讓つたと解するの他は無いのである。近代の言語生活に於ては、小兒の發案などは通例は省みられず、殊に漢字が教育の唯一つの手段となつてからは、一種新式の「成年用語」の如きものが出來て、追々に彼等を疎隔することになつたが、此點にかけては前代人はより多くの「子供らしさ」を持つて居た。子供が大人となる境に、改めて採用しなければならぬ語は限られて居て、其他は在り來たりのものを踏襲することを便としたのであつた。始めてツブラがツブリと化し、乃至はカタツブリと呼ばるゝを耳にして、許し難く感じた人々の感覺は、恐らく中一代を隔てて容易に忘れられたことゝ思ふ。正しい正しく無いは要するに時代のものであつた。假に古今を一貫する正語なるものがありとしたら、ミナやツブラは消滅するはずもなく、加太豆布利とても亦今日の零落を見なかつたであらう。

[やぶちゃん注:「時代のものであつた」は改訂版では『一時代限りのものであつた』とある。改訂版の方がよい。]

 

 しかも新語の流傳に關しては、頗る著しい速度の差があつた。同じく日常の物の名の中にも、確かに生活の必要の上から、今一段の修正をしなければならぬもので、元のまゝに打棄てゝあるのもある。たとへば玉蜀黍は奧羽ではキビ、九州ではトウキビと謂ふ者がまだ多いが、それは中央部でいふ黍でもなく又唐黍でも無いのだから、全國交通の爲にはとくにも統一の必要があつたのを、今に雙方が知らずに居る有樣である。是とは反對にカタツムリやマイマイは、其前に既に共通のものがあつたと思はれるから、是は幾分か事を好んだ改訂であつた。然るにも拘らず、再び又國の端々にまで行き巡つたといふことは、全く單語の一つ一つが持つて生れた特別の力、運とも境遇とも名くべきものであつて、言語の一般の法則のみを以て、説明することの出來ぬ現象であつたやうに思ふ。蝸牛に就いては我々は幸ひにデエデエ蟲の如きことに適切なる例を知る故に、比較的容易に此推測を下し得るのであるが、他の多くの變化ある事物の名に於ても、恐らくは亦是と同樣に、今まで氣づかれなかつた個々の原因の、之を促したものがあるのであらう。後日幾會が有つたら考へて見たいと思ふ丁斑魚なども其一つで、是には確かに童歌の關係は無かつた。獨り動植物などの稱呼には限らず、動詞にも形容の詞にも、はた又今少しく込入つた物の言ひ方にも、人が頻りに變へたがり、實際また何度と無く變つて居たものと、一方には出來るだけ改めずに濟まさうとしたかと思はれるものと、二通りの區別が有るやうであつて、それが若し自分だけの空想で無いと決するならば、今後の方言調査は豫めその問題を限ることが出來て、或は思つたよりも簡單な仕事になるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「デエデエ蟲」改訂版は『デェデェ蟲』。

「丁斑魚」「めだか」と読む。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目ダツ目アドリアニクチス亜目アドリアニクチス科メダカ亜科メダカ属スメグマモルフ系トウゴロイワシ亜系ミナミメダカOryzias latipes 及びキタノメダカ Oryzias sakaizumii の二種の総称。「丁斑」の意は不詳であるが、「斑」は背の暗褐色の筋や色素変異体に斑点が見られることに由来するかと思われ、「丁」には魚の頭部の骨の意があり、メダカの頭部が有意に大きいこと、或いは頭部が大きく、尾を長く引くことから「丁」の字に見立てたとも考えられる。以上は私の勝手な妄想であるので、くれぐれもご注意あれ。]

 

 少なくとも一切の地方用語を採錄してしまつた上で無ければ、方言の學問は前進し得ないかの如き心配は、私のこのたつた一つの蝸牛考からでも、取除くことが出來ると信ずる。今ある諸國の蝸牛の歌によつて、我々は先づ童兒の唱へごとが、國語を新たにする一つの力であることを知つた。今まで無視せられて居た大切なる社會的因子であることを發見した。さうして其力が、止む時も無く展開して居たことに心づいたのである。子供がこの小さな蜷蟲を指に持つて、いつ迄も其擧動を熟視して居ようとしたのは古いことであつた。その最も簡單な興味が童詞となり、澤山の思瓣を費すこと無くして、七つの音節をもつメエボロツボロとなり、あるいはヲバヲバとなり、ヂツトーバツトーとさへなつて、しかも周圍に若干の同志を得たことは新らしい例であつた。デエデエやデエロが必ずしも其最初のもので無かつたことは、二語が地域の拘束を受けて居るのを見ても、容易に想像し得られることである。蝸牛を大小の隔絶した笠などの卷き目と比べることは、成人には實は出來ぬことであつた。四つある小さな角を棒とか槍とか見立てることも、やはり子供で無くては六つかしい藝であるが、その二つのたとへを組合せて見ると、そこに面白い誰かのやうな姿が浮んで來る。殊に歌言葉となつて雨降る日毎にくり返されると、その適切なる印象が、靑年壯年から老年の者までをも支配して、自然に前から有る語を疎んぜしむるに足りたであらう。乃ち今日は既に變化してしまつた樣な、たわいも無い歌がもう恐らくは其頃からあつたので古い語なるが故に必ず面白き碩學たちが、衆議を以て決したものとも見るわけには行かぬのであつた。

[やぶちゃん注:「メエボロツボロ」改訂版では『メェボロツボロ』。

「ヂツトーバツトー」改訂版では『ヂットーバットー』。

「デエデエ」改訂版では『デェデェ』。

「デエロ」改訂版では『デェロ』。

「たわいも無い歌がもう恐らくは其頃からあつたので」改訂版では『たわいも無い歌が、もう恐らくはカサツブリ以前からあつたので』となっている。]

 

 歌詞の影響が新語の語形の上に著しいことは、別に幾つかの例を擧げなけれは、まだ一般の賛成を得難からうと思ふが、少なくともカサツブレなどの複合の早く起つたのは、外にこれを促すものがあつたからだらうとまでは言へる。中世は歌の句に五言の今よりも遙かに多く要求せられた時代であつた。それが七言の句の增加につれて、マイマイには殊に無數の複合形を生じたのだとも、考へられぬことは無いのである。マイマイがカサのたとへより後に現れたといふことは、實は記錄に見えないからといふ以上に、確かなる根據もまだ無いやうであるが、私に取つては此事實が一つの見所である上に、それが京都を中に置いて東西に分布し、しかもツブラに接し又カサよりは内側の層であるが故に、其支配の此等より次であつたことを推定するのである。其後更に「出え出え」の歌言葉に、特に心を引かれるやうな事情が起つて、是も亦多くの土地に於ては、過去の一つの形になつて行かうとしたけれども、新たなる都市が偶然に其支柱の役を勤めてくれた爲に、尚東方の一角に在つて、對立の勢ひを保つことが出來た。さうして其代償としてたゞ一個の複合形を以て、正統と認めなければならぬやうになつたらしいのである。興味ある一の問題は、時勢が假に中央文化の優越を承認せず、各地に依然たる小標準語を擁して、割據する者があつたらどうなつたかである。最近の子供唄は、蝸牛に貝を出よなどゝいふ無理な注文をせず、或はあの角を太鼓の撥と換えてやらうと謂つたり、又は二つの貝を向ひ合せて、勝負を爭はせようとしたりするものが多くなつた。その爲に加賀と北武藏と奧州の北端に、ツノダシといふ名稱も既に起り、ベコとか小牛とかいふ類の語も、そちこちに出來かゝつて居た。若しも調子の面白いよい文句が唱へ出されて居たならば、それが又新たに職業を成就したかも知れぬのであつたが、其折しも近頃の所謂匡正運動が漸く盛んになり、一方には又小學校の教科書に、デンデンムシムシカタツムリの歌などが、ほんの何心も無しに採り入れられた爲に、端無く爰に三國鼎立の如き形勢が定まつて、その他の地方語は古きと新しきとを問はず、誠に肩身の狹いものとなつてしまつた。今後の文藝が更にこの用語の窮屈を突き破つて、もう一度自由なる言葉作りの時代を現出する爲には、我々は稍長い間、考へ且つ待たなければならぬことになつた。是が最も要約せられたる日本の蝸牛の文化史である。

[やぶちゃん注:「是も亦多くの土地に於ては、過去の一つの形になつて行かうとしたけれども、新たなる都市が……」の箇所は改訂版では、『そのマイマイも亦多くの土地に於ては、過去の一つの形になつて行かうとしたけれども、新興の都市が……』となっている。

「三國鼎立」中国に於いて漢が滅んだ後、覇権を争った魏(初代皇帝/曹丕)・蜀(蜀漢:初代皇帝/劉備)・呉(初代皇帝/孫権)の三国が一時的に同盟友好関係を結んだことを指す。]

 

 自分がこの方言周圈論を奉じて居る態度は、他の今までの多くの信仰慣習に關する意見と同樣に、見る人によつては定めて心弱く又遠慮に過ぐとも評せられるかも知れぬ。併し今尚斯ういふ法則の存在を認めない人々を強ひて説き伏せようとすることは、日本では誠にえらい事業である。私は若しそんな力が殘つて居るならば、寧ろ之を轉用して今少し弘く材料を集めて置く方がよいと思つて居る。實際あまり久しくこの問題に携はつて居ると、日當りで働いて居た者が家の中に入つたやうに、果してもう此位で證據は十分なのか、又どの點に於て證明が足らぬのかが、自分でははつきりとわからない。だからどうしても一度は稍冷淡な人々の、批評を乞はなけれは濟まぬのである。其上に我邦の方言採集は、今でもまだ國の三分の一以上には及んで居らず、國家又は地方團體が、自ら必要を認めて手を下すのは是からである。故に今までの資料ばかりで十分であらうがはた無からうが、兎に角に今後尚無數の採集と新事實とが、追加せられることだけは疑ひが無い。さうして私はその將來の自然の裁判が必ず蝸牛考の著者に有利なるべきを期待する者である。たゞ最終に一つ、辯護しておく必要のあることは、國の一隅のみに孤立して、尚幾つかの異例の存するものが、至つて古きものゝ破片であるか、又は甚だ新しいものゝ苗にして秀でざるものか、比較が不可能であつてまだ決し得なかつたといふ不幸である。是がこの兩端の想像の何れに屬するかによつて、私の假定も亦若干の變更を加へらるべきであつたが、現在の事情に於ては是を全く無かつたものと同一視して、一旦の意見を述べて置くの他は無かつたのである。弱點は或はこの側面から暴露するかも知れぬ。例へば日向の宮崎市附近のジュンゴロは、果して秋田縣北部のチンケ若くはツンケマゴシロ、或は加賀國の田舍に在るチチマタや、尾張知多郡のマシジロなどと、何等の脈絡が無かつたものかどうか。北陸道各地のカエツブレ、若くはカエカエツモルの類は、羽後田澤湖畔にあるといふケエブロ、又は豐後竹田附近のイエカエルやイエカル(家負ひ)と、單に偶然に併發した新語であつたか。但しは又蝸牛をカヒといふ風が可なり古くからあつた名殘であるか。斯ういふ幾つかの特殊の例に對しては、わざとまだ自分の推測を掲げて置かうとしなかつた。さうして是をも將來の學問の、愉快なる目標の中に算へて居るのである。蝸牛の問題は甚だ小さいけれども、私はまだまだ今日の學問だけでは、完全に解決し得るものでないと思つて居る。

[やぶちゃん注:以下は底本では一行空けで六字下げのポイント落ちである。]

 

ちやうど今から三年前の人類學雜誌に、四ケ月に亙つて連載した論文を、殆ど全部に亙つて書き改めて見た。兩方の意見に差がある點は、即ち後の資料によつて改訂したものである。   昭和五年四月

 

[やぶちゃん注:以上で「蝸牛考」本文は終り、以下、「蝸牛異名索引」となる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (38) モース先生、大いに怒る――附明治の骨董商の詐欺の手口

 

 日本の骨董商人は、世界の他のすべてに於ると同じく、正直なので有名だということは無い。欧洲なり米国なりでつかませられた贋物、古い家具、油絵、特に「昔の巨匠」の絵、エジプトの遺物等を思い出す人は、日本の「古薩摩」(屢々窯から出たばかりでポカポカしている)や古い懸物やその他の商人を、あしまりひどく非難しないであろう。悪いことではあるが、これ等のごまかしのある物が、実に巧妙であるのには、感心せざるを得ぬ。一例として商人が、横浜か東京の郊外に、古風な庭のある古い家を発見したとする。若し彼がその家の住人を数週間、「所持品ぐるみ」引っこしさせることが出来れば、彼は適宜な方法で、その家の中に懸物、青銅の品、屏風、漆塗の箱、その他を一杯入れる。更に彼がその家の主人をして――彼が上品な老紳士であれば――不運な事変のため貧乏になり、今や家宝を売らねばならぬという、落ちぶれた大名の役目を演じさせることが出来れば、それでもう囮つきの係蹄は完全に張られたことになる。上陸したばかりで、日本の芸術の逸品に対して夢中になっている外国人は、ふとしたはずみに商人から、この都会から数マイルしか離れていないところに引退した大名が住んでおり、この大名は今や零落して家財を売らねばならず、非常な値うちのある、且つ非常に古い家宝を手に入れる、このような稀な好機会は、一生に一度位しか起らぬのだということを聞く。人力車が雇われ、長く、気持よく走った上で、彼は、想定的大名のささやかなる住宅ヘ着く。商人は先に行って、彼が来たことを告げる。彼はそこで正式に、尊敬すべき老人に引き合わされ、老人はそこで何ともいえぬ丁重さで彼に茶と菓子と、それから恐らくはすこしの酒とをすすめる。彼は自分がこのように、無遠慮にも押しかけて来たことを恥じ、通弁を通じて前哨戦を行う一方、彼の目は慾深く部屋中を見廻し、自分の所有に帰するにきまっている品を選ぶ。同時に彼は商人によって催眠術にかけられ、愛すべき老人の、上品で、そして家宝を手ばなさずに済めかしと訴えるような態度にだまされる。彼はその品、この品に関して慎み深くいわれる値段を、値切ることが恥しくなる。誇りがましい勝利の感情をいだいて、買物を頼み込んだ人力車でホテルへ帰る彼は、すくなくとも今度こそは稀古の宝物を手に入れたという確信を持っているのだが、品物がすべて贋物であり、彼が途法もなく騙取されたのであることは、すぐ判る。これ等の商人が敢てする面倒と、巧妙さとは他の事柄にも示される。政府の役人か大学の先生で、毎日きまった路を通って勤めさきへ行くとすると、東京の遠方で見て感心し、買いかけたが、あまり高いのでやめた品が、毎日の通路にある商人の手にうつる。値段は前よりも安いので、どうしても買うことが多い。これが、同じ都会の他の場所で、買うことを拒んだ品ではあるまいかと疑って、即座にその遠方の商人のところへ行って見ると、前にほしかった品はすでに売られている。然し、更に買うことを拒み、再び遠くにいる商人を訪れると、その品はまた彼の手もとにあり、値段は安くなっている。私は数度、このような経験をした。

[やぶちゃん注:「係蹄」本来は、繩を使って獣の足(蹄(ひづめ))を引っ掛ける罠のこと。無論、ここは比喩表現。

「数マイル」一マイルは一・六キロメートルであるから、十キロメートル前後。]

M776

図―776

 

 権左と呼ばれる老商人は、私が名古屋へ行った時、あの大きな都会中の骨董屋へ私を案内して大いに働いてくれ、この男こそは大丈夫だろうと思っていたのだが、その後私をだまそうとした。その方法たるや私が日本の陶器をよく知っていなかったら、ひどくだまされたに違いないようなものであった。私は古い手記から、初期の瀬戸の陶器のある物の、ある種の切込み記号を、非常に注意深く写し取った。これ等の写しを権左に送り、それ等の署名のある品をさがし出してくれ、そうすれば最高の値段を払うといってやった。数ヶ月後名古屋から箱が一つ私のところへとどいた。それには権左の、古い陶工の歴史を書いた手紙がついていた。そして私が彼に送った写しと同じような記号のついた、これ等の陶工がつくった茶入、茶碗その他が入っていた。私は一目してそれ等が、三百年昔のものではなく、精々三、四十年位にしかならぬことを知るに充分な位、日本の陶器に関する知識を持っていた。石鹼と水と揚子とを使うと、一度こすった丈で、なすり込んだ塵挨が取れ、切り込んだ記号が奇麗に、はっきりあらわれた。で、普通の虫眼鏡で見ると、この記号が、固く焼かれた品の上にひっ搔いてつけたものであることが知られた。本物だと焼く前に、やわらかい陶土に切り込むのだから、線の両端が持ち上っている。私はすぐさま、これ等の記号はすべて偽物であり、彼をやがて出版する日本の陶器に関する本に、ペテン師としてあげてやるという、激烈な手紙を彼に出した。数週間後に私は権左から手紙と、絹の水彩画を画いたもの(図776)とを受取った。以下はその手紙を竹中氏がざっと訳したものである。

[やぶちゃん注:「権左」「第二十章 陸路京都へ 元箱根から静岡を経て名古屋へ到着」以降に既出する名古屋の桜井権三(この姓名は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)なる骨董屋と思われる。

 以下は、底本では全体が二字下げ。]

 

モース先生

過日は私の経験足らぬ眼のために、私は陶器を批判することについて間違をしました。私は非常に恥入っています。私の欠陥に対して再び先生のお許を乞う可く私は今や私が誤っていた事を書き記してお送りします。この絵で椅子に坐り、陶器を見ておられるのはモース先生で、他は竹中様、他は木村様であります。彼等の前に坐り、お許しを嘆願しているのは権左であります。最後に私は先生が陶器に関する御本を出版なさるに当って、私に親切にして下さらんことを祈ります。先生が御出版なさらんとする御本のことを考えるごとに、私は先生に向って正しからぬことを致したことを、非常にくやみます。

                  敬具

               権  左

 

 絵に書いてある詩は「この世界では殆どすべてがかくの如くである。あなたは外側から、ある柿の内部の渋は見ることが出来ぬ。」という意味である。

[やぶちゃん注:「木村」大森貝塚の土器片の図版の絵を描いた画家木村静山か。この人物については、「東京大学総合研究博物館」公式サイト内の木下直之肖像のある風景/3に『平木政次の『明治初期洋画壇回顧』(日本エツチング研究所出版部、一九三六年)によれば、木村は長崎の出身、外国人の注文に応じて綿密な博物画を描く画家であった。とくに昆虫の写生を得意とした。大学と上野にあった教育博物館(理学部博物館とは別組織)の画工を兼務していたが、一八八〇年に大学の専任となった』とある。

「この世界では殆どすべてがかくの如くである。あなたは外側から、ある柿の内部の渋は見ることが出来ぬ。」図から判読すると、

 

 人の世やそとからみえぬ柿のしふ

 

という俳句である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (37) 日本の海産物とその漁について

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M773

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M774

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775

 

 動物性の食料の大部分は、海から取れる。日本人は海に住む動物の殆ど全部を、食品として使用する。食料の過半をなすものは脊椎のある魚だが、而も然るべき大きさの軟体動物は、烏賊と共に市場で見られ、その他海胆の卵、蠕虫に似たサベラ、腕足類のサミセンガイ、海鞘属のホヤ、その他数種の海藻等もある。脊椎のある魚では、我国に於るよりも、遙かに多くの種類が食われる。我国の沿岸に、同様に、或はそれに近い程多くの種類がいないのではなく、我々の嗜好が僅かな種類に限られているものらしい。私が子供の頃には、誰も比目魚(ひらめ)を食わなかったことを覚えている。以前、メイン州の海岸では、ハドックを食える魚だと思っていなかった。日本人が捕える魚は、殆ど全部市場へ持って来られ、分類されて売られる。小さな舟にのった何千人の漁夫や、岩の上の大人や子供が、あらゆる魚を捕えている。我国では多数取れたり、網にかかったりする魚だけが、市場へ持って行く価値を持つものと思われる結果、食用魚が数種に制限されニューイングランドに於る主なるものは、鮭、ハドック、鮪、ハリバットだけである。我々の軟体動物即ち蛤、クワホッグ、牡蠣、海扇等に対する噂好は極度に制限され、普通の糧食供給を構成するイガイに対しても稀である。輸入される種類のホラ貝は、イタリ一人のために市場で見ることもある。これは英国では一般に食われ、美味で栄養がある。他の多くの事象と同じく、日本の各国に、それぞれ独自な釣針がある。図772は越前、越後、羽後の各国の鱈針である。図773は、長い竿のさきにつける鰻針と、あたり前の魚切庖丁と、魚をよりわける手鉤とを示す。岩代では漁夫が鯖の一種なるボニトを掃えるのに、ある種の釣針を使用する。その柄は鉛のかたまりで、横には細長い鮑貝の一片がはめ込んであり、その末端には釣針の周囲に、固い紙の条片がついている(図774)。引ずり釣には木の魚を用いる。それは金属の竜骨でまっすぐになり、尾には針の列が二重についている。これは炭火の上で茶色にこがし、両側に、より濃い色の点を焼きつける(図775)。

[やぶちゃん注:「嬬虫に似たサベラ」「サベラ」は原文Sabella。「蠕虫」は「ぜんちゅう」と読み、体が細長くて蠕動運動によって歩行或いは運動動作する動物の俗称である。このSabellaは実は既に「第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う! / 第十二章 北方の島 蝦夷」で出てきており、そこではその「蠕虫」をモースはペロリと平らげて美味かったと言っているんである。このモースの言う「サベラ類」とは環形動物門多毛綱ケヤリムシ目 Sabellida のケヤリムシ科 Sabellidae の類を指していると思われるが、現行ではこの綴りに完全に一致する生物群や種は存在しない(少なくとも現在は有効な属名や種名には存在しない)。さても、ここでモースが指示している種は、結論から言ってしまうと、私はこれは、

定在性ゴカイの一種である多毛綱ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata

と同定する。その検証過程は既に私の、

「博物学古記録翻刻訳注 9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」

で示してある。そこでは「第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う! / 第十二章 北方の島 蝦夷」の原文も総て掲げて検証しているので是非とも参照されたい。……う~む……それにしても、モース先生……日本人の常食する海産物にこれを殆んど最初に出しちゃったところが……なんともはや……凄い、の一言に尽きる。……今は勿論……当時でだって――かのグロテスクな(私はあまりグロテスクとは実は思っていないのだが)エラコを知っており――しかもそれを――あろうことか食べたことのある日本人なんてえもんは……これ――ごくごく少数に限られているから――である。……これを読んだ外国人は「ジーザス!……ジャポンでは!……あのフィッシングの、あの餌にするワームを!……ごくごく当たり前に食卓で食ってるのかッツ?!」とおぞけふるえたに違いないのである! モース先生、ちょっと、悪戯に過ぎますゾ!

「腕足類のサミセンガイ」モースの研究の専門である、嘗ては「生きている化石」と称せられた(化石種と比較すると殻形に非常に大きな変化が起こっていることから、つい最近(二〇〇三年)になってこれは否定されている)腕足動物門舌殻亜門舌殻綱舌殻目シャミセンガイ科 Lingulidae の特異な生物群。貝殻様の殻を持つが貝類ではない。詳しくはHP「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動の私の注を参照されたい。

「海鞘属のホヤ」私の偏愛する海産生物。本邦で主に食用とされるのは、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi 及びアカボヤ Halocynthia aurantium である。私のホヤの記載は無数にあるが、「海産生物古記録集2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」及び『カテゴリ 武蔵石寿「目八譜」 始動 / 「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」 ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――(後者は強烈な図あり)をリンクさせておく。

「比目魚(ひらめ)」原文“flounders”。この単語は広義には条鰭綱カレイ目 Pleuronectiformes に属するの魚類の総称で、カレイ亜目カレイ上科 Pleuronectoidea に含まれるものは総てを指していると考えてよい(同上科にはカレイ科 Pleuronectidae・スコプタルムス科 Scophthalmidae・ヒラメ科 Paralichthyidae・ダルマガレイ科 Bothidae の四科を含む)。狭義にはヨーロッパ産カレイ亜科ヌマガレイ属 Platichthys の一種を指すらしいが、これは恐らく一般的な英語圏の一般人の認識ではないと思う。私が何を言いたいかは、お判り戴けるであろう。一般的な英語圏の人間にとっては鰈も鮃も一緒くた、概ね、平べったければ皆“flounder”(フラゥンダー)であるということである。

「ハドック」底本では直下に石川氏の『〔鮭の類〕』という割注が入る。原文“haddock”。条鰭綱タラ目タラ科コダラ属コダラ Melanogrammus aeglefinus 。参照したウィキの「コダラ」には、『北大西洋両岸に生息するタラ科の魚』とあるので、本邦の領海には棲息しない。『ポピュラーな食用魚で、商業流通している』とあり、体長は一・一メートル以上になるからかなり大型で、『白い体に黒い側線が走るのが特徴であり、よく似たポラックという魚は逆に黒い体に白い側線である。また、胸鰭の上に黒い斑があり、"thumbprint"(拇印)、"Devil's thumbprint"(悪魔の拇印)または"St. Peter's mark"(聖ペトロの印)と呼ばれる』とある(英和辞典に「モンツキダラ」とあるのはこの斑点を指す異名のようである)。『引き網漁、トロール漁、延縄などで商業漁獲されている。非常に一般的な食用魚であり、生、燻製、冷凍、干物、缶詰の形で流通する。イギリスでは他のタラ類やカレイに並んでフィッシュ・アンド・チップスの材料となっている』。『新鮮なコダラの身は白みの半透明で、タラと同様に調理できる。古くなると身は青白くなる。コダラなどのタラの幼魚の切り身はマサチューセッツ州ボストンではスクロッド(scrod)と呼ばれて売られる。ノルウェーではフィスケボッレル(fiskeboller)という魚団子の主な材料ともなる』。『近縁のタラ属とは違い、コダラは塩漬けではなく干物や燻製で保存される。コダラの燻製の一種にフィナン・ハディ(Finnan Haddie)と呼ばれるものがあり、この名前はスコットランドの漁村フィンドンに因み、元々泥炭の上で冷燻製したものである。よくフィナン・ハディはミルクで煮て朝食にされる』。『また、コダラの燻製はケジャリーという英印折衷の料理の主材料でもある。スコットランド東海岸のアーブロースの町では熱燻製のアーブロース・スモーキー(Arbroath Smokie)が作られており、これは食べる前に更に調理する必要はない』とする。現行では相当に活用されている流通魚であることが判る。

「ハリバット」底本では直下に石川氏の『〔比目魚の類〕』という割注が入る。原文“halibut”。これは狭義には条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus の仲間を指し、この属は超大型個体がいることで知られる巨大カレイ類の一種である。ウィキの「オヒョウ」には、『世界には複数の種が存在し、日本の北洋からオホーツク海、大西洋、ベーリング海、北極海などの冷たい海の水深』四百~二千メートル『付近の大陸棚に生息する。日本近海では東北地方以北の各地と日本海北部に、タイヘイヨウオヒョウ Hippoglossus stenolepis が生息している』(但し、本邦では大味とされ、人気が低い。私の小学生の時より馴染んだ数々の魚類図鑑では『まずい』と明記されるものが多かった。但し、ウィキにも記されているように現在では回転寿司で「鮃の縁側」の似非代用品として安く提供されているケースをしばしば見受ける)。全長はの成体ならば通常でも一~二メートル以上になり、大きい個体では三メートルを超えて体重も二百キログラムを超加する驚くべき大きさになる。但し、『このサイズになる大物はメスであり、オスは大きくてもメスの』三分の一程度の『大きさにしかならない。目のある側は暗褐色で、反対側は白色』で、大型の長命個体の中には百五十年を超えるて生きているものもいると言われる。『肉食で獰猛なため釣り上げた時に暴れ、漁師が怪我をすることもある』。主な種としては、タイヘイヨウオヒョウの他、タイセイヨウオヒョウ Hippoglossus hippoglossus がいる。但し、このウィキにもあるように、やはり英語圏ではいい加減であって、『英語でオヒョウはhalibut(ハリバット)であるが、halibutには』カレイ科『カラスガレイ属のグリーンランドハリバット Reinhardtius hippoglossoides(標準和名:カラスガレイ)や、ヒラメ科ヒラメ属のカリフォルニアハリバット Paralichthys californicus など、オヒョウ属でない魚も含まれている。halibutはカレイ目の大型魚に幅広く付けられた呼称である』とある(下線やぶちゃん)。

「クワホッグ」底本では直下に石川氏の『〔簾貝の類〕』という割注が入る。原文“quahog”。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科メルケナリア属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria のこと。本邦にも棲息し、現行では正式和名でよくスーパーの店頭にも普通に並ぶようになったが、長く「オオアサリ」と呼ばれてきた(後述参照)。但し、アサリは同じマルスダレガイ科 Veneridae でも、アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum で種としては全く異なり、味も私は格別に下品と心得る。以下、ウィキの「ホンビノスガイ」から引く。『名前を漢字で記すと本美之主貝となる。これは』旧分類で同マルスダレガイ科 Veneridae の代表属であったビーナス属 Venus に属するとされ、その「ヴィーナス」に当て字した当時の和名「美之主貝(びのすがい)」によるのであるが、『現在はメルケナリア属 Mercenaria に分類が変更されて』しまったために、和名そのものが実体を表わさなくなってしまっている。『東京湾最奥部(千葉県湾岸部)では大アサリと呼ばれていた。(なお、中部地方沿岸部でよく食用とされる大アサリは』、マルスダレガイ科マツヤマワスレ亜科ウチムラサキ属『ウチムラサキ Saxidomus purpurata であり、別種である。)また、ハマグリの減少に伴い、流通時に白ハマグリやオオハマグリと呼ばれる事もあるが、和名シロハマグリは、同じマルスダレガイ科で南米に産する』Pitar 属『Pitar albidus に割り当てられているため、本種を指して「シロハマグリ」と呼ぶのは誤用である』。『食材偽装問題との関連で、消費者に誤解を与えるという理由で、これらの別名や通称は使用せずホンビノスガイと表記するのが一般的となりつつある』。『英名はサイズに対応して変化する「出世貝」であり、小さい順に littleneck, topneck, cherrystone と変化し、最も大きいものが quahogs または chowder clam と呼ばれる』(下線やぶちゃん。以下同じ)。『成貝の殻長は最大で』十センチメートル以上になる『比較的大型の貝であり、厚く硬い殻の表面には同心円状の肋が表れる。殻の色は生育環境により白っぽいグレーから黒ずんだ色と変化に富む。ハマグリと比較して丸みが強く、左右非対称で、殻頂がやや曲がった形をしている』。『北米大陸東海岸のほぼ全域』に分布し、『カナダプリンスエドワード島から、アメリカ東海岸を経てユカタン半島にかけて広く分布する』(モースが親しく名を挙げる意味が判る)。現在、『日本では主に東京湾、大阪湾に生息する』が、実は本種は『もともと日本には存在していなかった』。ところが、一九九八年に最初に『千葉県・幕張人工海浜で発見され』、一九九九年には京浜運河で、二〇〇〇年には千葉港、二〇〇三年に船橋付近で相次いで棲息が確認され、二〇〇〇年代に入ってからは、遠く大阪湾でも発見されている。『以後、東京湾内や大阪湾内で繁殖している外来種』と認定された(私はそれより以前にアクアラングを趣味とする知人が横須賀付近で捕ってきたのを食った経験がある)。『原産地である北米大陸から船舶のバラスト水に混ざり運ばれ、東京湾や大阪湾に定着したと考えられている。現時点では在来種への被害報告は無い』。『アメリカでは重要な食用貝であり、広く漁獲対象とされている。特にロードアイランド州では州の貝』『に選ばれている』。『日本では主に、市川市・船橋市地先の三番瀬で漁獲されて』おり、『また、東京湾最奥部の干潟域では潮干狩りでも採取される』。『日本での繁殖が確認されたのが比較的近年で、アサリ漁場に多く生息するため、かつては邪魔者として扱われることが多かった。しかし、食味の良さが注目され』、二〇〇七年頃から『首都圏の鮮魚店やスーパーなど販売チャネルが拡大し、水産物として採貝される機会が増えたため』、二〇一三年には『漁業権が設定されるまでになった』。『アメリカの東海岸で好まれ、クラムチャウダーやバターやワイン蒸しとして供されるほか、小ぶりのホンビノスガイは、ニューヨークやニュージャージーにて西洋わさびを加えたカクテルソースやレモンと共に生食もされる』。『食味は良い。ハマグリと同様、焼き貝や酒蒸しが良い』とあるが、不味くはないが、こう過大評価されては――浅利泣いて蛤は死ぬ――ね。何より、姿が貝形の醜いのが私は、イヤ!

「ホラ貝」原文“periwinkle”。これは石川氏のトンデモ誤訳腹足綱前鰓亜綱中腹足(盤足)目タマキビガイ上科タマキビガイ科タマキビ属Littorina の仲間を指す(本邦で馴染みなのは小型の潮上帯に密生するタマキビ Littorina brevicula )。腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis の英名は普通は“conch”或いは“trumpet shell”である。

「長い竿のさきにつける鰻針」竿を装着した全体像は、Well肉桂氏のブログ「ニヤッとする話」の「迷作リメイクシリーズ27ダイヤモンドより貴重な食べ物(いやしんぼ7)」に示される「熊本式鰻穴釣道具」でよく判る。実際、モースは明治一二(一八七九)年五月から六月にかけての九州採集旅行の際、まさにこの熊本で本具を現認した可能性も頗る高いように私には思われる。

「魚切庖丁」出刃包丁。

「魚をよりわける手鉤」これは最も柄の短い中小型の魚種用の魚手鉤である。魚種によって鉤の形状や柄の長さが様々に異なる。

「鯖の一種なるボニト」底本では直下に石川氏の『〔松魚〕』という割注が入る。原文“bonito, a kind of mackerel”“mackerel”は広く条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科 Scombridae のサバ属 Scomber・グルクマ属 Rastrelliger・ニジョウサバ属 Grammatorcynus 等に分類される鯖(さば)類を総称する英語。“bonito”とは原義はスペイン語で「可愛い」(魚)の意で、石川氏の「松魚」は老婆心乍ら、「かつお」と読み、鰹のことである。しかし、カツオがサバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis であることを理解している方が私は多いとは実は思っていない。されば、特に下線を引いておいた。

「岩代」原文“Iwashiro”。不詳。これはもしや、現在の福島県浜通及び福島県中通の内の白河郡、宮城県南部に当たる旧磐城(いわき)の読み間違いではあるまいか? あそこなら宮城県金華山沖で北上から南下に転じる脂ののった「初鰹」漁があるからである。

「ある種の釣針」以下の叙述と図からお分かり戴けるように、疑似餌(フライ)である。但し、モースは後者(図775)の如何にも小魚のフライフライした方(一般には「餌木(えぎ)」などとも言う)を「引ずり釣り」(糸を流して船を走らせながら釣る漁法)のそれとするが、現行の鰹の「曳き釣り」漁で前の図774も一般的疑似餌である。なお、この図774のそれは一気に複数を引っ掛けるサビキ釣りでも用いられる。これは一見、烏賊のシミュラクラに確信犯で作っているものが殆んどであるが、実際に鰹がこの形状を烏賊と正確に認識して食いつくわけではなく、光りの反射性や動きに対して大括りの生き餌として誤認反応しているものと思われる。図775の「餌木」は、それこそ産卵期以外のアオリイカ漁でも用い、また、疑似餌の手前にビート板のような潜水板と呼ばれるものを附けて流して左右の動きをつけさせたり、無論、生餌(彼らが好むアジ・イワシ類)を用いるものも当然ある。]

2016/02/04

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (36) 明治の江戸近郊の景勝その他

 日本人は睡ている人を起すのに、興味町深い方法を用いる。大声を出したり、荒々しく揺すぶったりする代りに、睡眠中の人の肩を最もやさしく叩き、次第に力を増して行って、ついには力強く引っぱたく。だから睡っていた人は、いささかも衝撃を感じることなしに、一向吃驚しないで目を覚ます。病院の看護婦その他は、この方法を採用すべきである。

 

 日本人の特に著しい性質は、彼等の自然に対する愛情である。彼等は単に自然を、そのすべての形状で楽しむばかりでなく、それを芸術家の眼で楽しむ。この性向は、東京市の案内書が数頁を費して、公園や郊外で、自然が最も見事な有様を示している場所を指示している位強い。以下にあげるものは「東京タイムス」から、これ等の頁を翻訳したものである。

  雪景色――隅田川の岸、小石川、九段、上野、愛宕山。晩冬。

  梅の花――向島、浅草、亀戸。二月下旬。

  桜の花――隅田川の岸、王子、上野、日暮、小金井。四月中旬から。

  桃の花――大沢村。四月中旬から。

  梨の花――生麦村。四月下旬。

  山吹――向島と大森。四月。

  芍薬――染井庭園、寺島、目黒。五月中旬。

  菖蒲――堀切。五月。

  藤――亀戸、目黒、野田。五月下旬。

  朝顔――染井、入谷の庭園。七月中旬から。

  蓮――木母寺、上野、溜池、向島。七月下旬から。

  秋の七草――寺島。八月下旬から。

  萩――寺島の蓮華寺、亀戸。八月下旬から。

  菊――目黒、浅草、染井庭園、巣鴨。十一月。

  紅葉――鴻台、王子、東海寺、海安寺。十一月。

[やぶちゃん注:「東京タイムス」英字新聞Tokio Timesのこと。アメリカ人ジャーナリストであったエドワード・ハウス(Edward H. House 一八三六年~明治三四(一九〇一)年:ボストン生まれ。万延元(一八六〇)年に江戸幕府が通商条約批准のために初めてアメリカに派遣した「遣米使節」の報道を通じて日本に興味を持ち、明治二(一八六九)年の暮れにニューン紙の『ニューヨーク・トリビューン』紙の東京特派員記者として日本に派遣され、長期に渡って日本の教育と外交に貢献、最後は日本で没している)が明治一〇(一八七七)年一月六日から発行を始めた。但し、本シークエンス内時間にあっては既に廃刊されている(廃刊は明治一三(一八八〇)年六月)。彼と同新聞については、中野昌彦氏のサイト「日米交流」の「17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)」から同「(その3)」までに非常に詳しく解説されてある。上記の記載も概ねそちらを参照させて戴いた。

「愛宕山」、東京都港区愛宕にある丘陵。記録上の標高は二十五・七メートルであるが自然の山としては東京二十三区内の最高峰。ウィキの「愛宕山」によれば、『江戸時代から愛宕山は信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所で』。「鉄道唱歌」第一番にも『「愛宕の山」と歌われている』。後のことになるが、『NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き』、大正一四(一九二五)年七月の本放送から昭和一三(一九三八)年にNHK東京放送会館へ移転移行する『まで、この愛宕山から発信された』ことで知られる。以下、私がそれだけでは位置を定かに想起出来ない地名その他についてのみ注する。

「大沢村」不詳。原文“Osawa village”。一つの可能性であるが、これは「大沢村」ではなく、「小沢村」ではないか? 現在の東京都杉並区高円寺について調べてみると、旧高円寺村はそれ以前は、小沢村と呼ばれていたことが判る。例えばウィキの「高円寺」の「歴史」の冒頭に、『かつては高円寺村と呼ばれていたが、それより以前の江戸時代初期まで当地は『小沢村』と呼ばれていた』。『徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りでしばしば村内を訪れ、村内にある宿鳳山高円寺』(現在の東京都杉並区高円寺南四丁目にある曹洞宗の寺院)『を度々休憩に利用した。家光はこの寺院が気に入り、ついには境内に仮御殿が作られるようになった。そのような経緯からやがて寺の名前が有名になり、正保年間の頃には当地の地名が小沢村から寺の名前に因み高円寺村に変更され、これが現在の「高円寺」の地名のルーツになった』とあり、また、『かつて寺の周辺に桃の木が多くあり桃園とも言われ、本尊は「桃園観音」、寺は「桃堂」、門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれていた』とあるのである。さらに検索をしてみると、kuma さんのブログ「桃園住人の大江戸うろうろ歩き」の「高円寺には高円寺がある」を見ると、『江戸時代初期までは、このあたりは小沢村と呼ばれ』ていたが、『徳川家光が鷹狩の途中に休息のためにこの寺にたびたび立ち寄ったことから、この寺が有名となり、小沢村が高円寺村と言われるようになり、さらに現在の地名となっている』と伝えられ、その頃の『高円寺の境内には桃の木が多く、家光が「桃園と称すべし」と言ったとされ』『それゆえか、ここあたりを散歩していると、「桃園〇〇」という名称の施設・公園をよく見かけ』るともある。但し、現在や明治期に高円寺村(旧小沢村)に桃の花が沢山あって、桃の花見の名所であったと記されたものはない。他に「大沢村」があって桃の名所であることを御存じの方は御教授を乞うものである。

「寺島」かつての東京府南葛飾郡にあった寺島町(てらじままち)であろうか。現在の墨田区の西部に位置する。

「堀切」現在の東京都葛飾区堀切であろう。葛飾区西部の荒川東岸の低地一帯である。

「野田」千葉県最北西部の東葛(とうかつ)地域(旧東葛飾郡)に位置する野田市か?

「入谷」現在の東京都台東区入谷は江戸末期から明治時代に朝顔栽培が盛んになり、やがて入谷朝顔市が開かれる場所として有名になった、とウィキの「入谷」にある。

「木母寺」「もくぼじ」と読む。天台宗梅柳山墨田院木母寺。現在は東京都墨田区にある。この当時は廃仏毀釈によって廃寺であった(明治二一(一八八八)年に復興)。但し、諸資料を見ると位置が微妙に移動している模様で、この当時の指す場所と現在の在地とは異なるように思われる。

「溜池」現在の赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」の旧称。

「寺島の蓮華寺」現在の墨田区東向島にある真言宗清瀧山蓮花寺。昭和七(一九三二)年に南葛飾郡全域が東京市に編入した際、寺島町の区域は向島区となっている。

「鴻台」「こうのだい」と読む。下総国の国府が置かれた台地で、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「東海寺」「とうかいじ」と読む。現在の品川区北品川三丁目にある臨済宗万松山東海寺。寛永一六(一六三九)年に第三代将軍徳川家光が但馬国出石(いずし:現在の兵庫県豊岡市出石)の沢庵宗彭(そうほう)を招聘して創建したことで知られる。

「海安寺」これは海晏寺(かいあんじ)の誤訳であろう。現在の東京都品川区南品川五丁目にある曹洞宗補陀落山(ふだらくさん)海晏寺。ウィキの「海晏寺に、江戸時代には「御殿山の桜」と並んで紅葉の名所として知られていた、とある。

 なお、この後には有意に一行空きがあるので二行空けとしておく。]

 

 

 我々はこれに関連して、螢狩には初夏浅草、王子、小石川の水田や、隅田川の岸その他へ行かねばならぬと教えられる。王子と目黒とは同じ季節に、この上なしの、滝で行う釣魚が出来る場所としてある。また「よく鳴く虫」を捕えることが出来る場所も、数個あげられる。

[やぶちゃん注:「滝で行う釣魚が出来る場所」「クリナップ株式会社」公式サイト内の「コラム江戸」の高橋達郎氏の84  「滝浴み」とは、何と風流な納涼だろう。に、江戸時代の滝涼みの場所として『もっともメジャーだったのは、この広重の浮世絵』(リンク先に画像有り)『に描かれた王子界隈の音無川(おとなしがわ)流域である。今では想像もつかないが、地勢的には飛鳥山と王子の台地にはさまれた渓谷で、両岸の断崖からは幾筋もの滝が形成されていたようである。俗に「王子五滝」「王子七滝」と言われたように滝が多く、音無川に滔々と流れ落ち水量も豊富だった』。『なかでも「不動の滝」は有名で、この絵は大げさにも思えるが、広重が残した浮世絵中最大の滝である。滝近くの褌(ふんどし)姿の男、これがまさしく滝浴みをしている光景である。手前には滝を眺めている二人連れの女性、茶屋も出て老婆が客に給仕をしている様子だ。心地よい滝の音や飛沫(しぶき)を感じながら、一時の清涼感につつまれている彼等もまた、滝浴みをしているのである』とあり、また、同じ記事の中に、『江戸の南、目黒不動尊の境内には「独鈷(とっこ)の滝」がある。こちらは、今も滔々と龍の口から勢いよく水が飛び出ている』。千二百年前から『一度も涸れたことがないという湧き水で、以前は不動行者の水垢離(みずこり)の道場として利用されていた滝だという。独鈷とは密教の仏具の一つで、説明板を見ると、開山当初に慈覚大師(じかくだいし)が自分の持っていた独鈷を投げると、そこから滝水が湧き出たという言い伝えが書いてあった。そういえば、目黒不動尊の寺名は泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)だった』とあるのが、ここであろう。それにしても滝行の側で殺生の釣りをする異国人というのは、ちと、戴けない図では、ある。

「よく鳴く虫」鈴虫か?]

 

 この「思いつき」に関連して現れるもの以外に我我は、菊で有名な団子坂の庭園、桃花の田端、櫻、紅葉、霧島の根津の日暮、滝と松の青山と浅草、あらゆる種類の花の四谷津守、美しい草の渋谷新富士、干潮時に釣の出来る須崎弁天、滝と紅葉の滝野川等があることを教えられる。

[やぶちゃん注:「団子坂」東京都文京区の東端、現在の東京地下鉄千代田線千駄木駅から西へ上る坂。江戸時代には菊作りの植木屋が多くあり、秋には菊人形の見物で知られた。

「霧島の根津」ここは前後から見て、「霧島」はビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属

キリシマツツジ Rhododendron × obtusum のことを指していよう。東京都文京区根津の根津神社は今も「つつじまつり」で知られる躑躅の名所である。

「四谷津守」「よつや/つのかみ」と読む。現在の新宿四谷荒木町。明治維新後で払下げられた松平摂津守(まつだいらせっつのかみ)の屋敷跡に出来た景勝地で、「津守」もそれに由来する。明治時代は庶民の憩いの地として大いに賑わった。後、大正から昭和中期にかけては東京有数の花街として賑わったが、第二次世界大戦の空襲で焼けて後は花街としての賑わいは消えてしまった、とaroma 氏のブログ「東京レトロ散歩」の「花街の面影残す階段の町・四谷荒木町」にある。モースの言う「あらゆる種類の花」は無論、本物のフローラであるが、後の歓楽街の絢爛たる花街に遠く感応して、何だかちょっとほのかな哀感の情を起こさせるではないか。

「渋谷新富士」現在の渋谷区恵比寿南三丁目にある新富士坂及びそこにあった人造の富士山のことであろう。サイト「坂学会」の「新富士坂(しんふじざか)」に電子化されているこの坂のに「目黒の新富士と新富士遺跡」という説明板によれば(コンマを読点に代えた)、『この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造、目切坂上の目黒元富士に対し、こちらは新富士の名で呼ばれ, 大勢の見物人で賑わった』とあり、また、『平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺構が発見された。 遺構の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。 今は再び埋め戻されて地中に静かに眠る』とある。

「須崎弁天」これは「洲崎」(すさき)であろう。「洲崎」は現在の東京都江東区東陽一丁目の旧町名で同町近隣あるのが「洲崎弁天」である。ウィキの「洲崎」の「洲崎弁天」によれば、『三つ目通りから洲崎方向への途中、閑静な住宅街に鎮座する社。江戸時代からの名刹で、現在の正式名は「洲崎神社」。洲崎の町名の所以となった。当時この付近は海岸であり、元禄時代には時の将軍徳川綱吉の母の守本尊であり、また水にまつわる神仏でもある弁才天が祀られ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めた。歌川広重の浮世絵にも往事の姿が描かれている。当時は海岸から離れた小島に建てられており、人々から「浮き弁天」の名で呼ばれていたが、その後埋め立てが進み、現在では往事の景観を偲ぶすべはない。東京大空襲で壊滅的な被害を受けるが、戦後に現在の姿に復興した。直近の弁天橋脇には、弁天町の住人のほとんどが犠牲となった東京大空襲の遭難者を供養する碑が建つ』とある。

「滝野川」現在の東京都北区滝野川(たきのがわ)。ウィキの「滝野川 東京都北区には、『石神井川が板橋区加賀付近から川底を深くして渓谷状となり、水流も急であったことから「滝野川」と呼んだことに因む』とある。]

 

 

 日本人が、同じ国の住人に忠実であることは、著しいものである。彼等は郷土から来た人は、それが親類であろうと、友人であろうと、あるいは全然知らぬ人であろうと、出来さえすれば、泊めてやり、食事を与える。私の日本人の友人の一人は、このようにして、まるで見たこともない六人の青年をもてなし、彼等を数日間泊めてやったと話した。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (35) 悪戯っぽい! モース先生!

 丁髷を廃止しつつある人の数によって、日本人が合理的であることがわかる。先ずこれを行ったのは、学生達である。田舎では誰でもが、丁留をくっつけているし、都会でも下層界ではこれを見受ける。古い学者達も、まだこの風習を守っている。蜷川は始終丁髷をつけていたばかりでなく、彼の羽織には、いまだに彼が両刀を帯しているかの如く、裂け目があった。茶の湯の先生で陶器鑑定家である古筆氏は、日本の服装はしているが、数年前に丁髷をやめたのだといった。非常にすこししか頭髪の無い老人は、いまだにその僅かな髪を頭の後方で集め、蠟をつけて、爪楊子位の大きさの丁髷をつくる。ある時、群衆の中で私の前に、真中にこのような丁髷をつけた、禿頭があった。私はその丁髷が黒いのに気がついた。これは染めたか、墨を塗ったかしたに違いない。もっと近づいて調べると、禿げた頭に墨で、丁髷と同じ方向に、黒い線を一本引き、その丁髷を一インチばかり長く見せる工夫がしてある。いたずらな子供は本物の丁髷を、静かに横に押し度い誘惑を感じることであろう。

[やぶちゃん注:モース先生! 先生がほんとうはやりたいんでしょ?!

「一インチ」二・五四センチメートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (34) 日本人の不思議と好古家たちの不思議

 鑑定家の蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)は、ちょいちょい私を訪問した。別の鑑定家古筆氏も、時時やって来た。私が住んでいる小さな家の前面の方は、直接私が書斎、仕事部屋、寝室に使用している部屋にひらく。冬、この人々はやって来ると戸を叩き、私はすぐにそれを彼等のためにひらく。彼等は帽子を脱いで階段に置き、頸にまいた毛布を取って畳んで帽子の上にのせる迄は、決して、私がそこにいることに気がついた様子をしない。そこで初めて、二、三度丁寧にお辞儀をし、私がそれを返すに至って、彼等は家に入って来る。この二人は一度も一緒にやって来なかった。二人の間が面白くないかどうか私は知らぬ。私が日本で会った各種の鑑定家が、お互同志の仕事について、何も知らぬらしいのには驚かされた。蜷川は石版刷の美事な挿絵のある、日本の陶器に関する面白い本を出版したのであるが、而も私が今迄にあった陶器の鑑定家は、その存在をまるで知らぬらしかった。

[やぶちゃん注:「蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)」蜷川式胤はモースの関西行の最中であった前年の明治一五(一八八二)年八月二十一日にコレラ(モース談)によって亡くなっている。その死から三ヶ月後の行われた葬儀をモースは「第二十五章 東京に関する覚書(16) 蜷川式胤の葬儀――谷中にて」で克明に記している。

「古筆」既出の好古家古筆仲。

「私が住んでいる小さな家」既注であるが、東大が今回来日したモースのために無償で提供した、本郷加賀屋敷内の天象台附属官舎のこと(現在の東大工学部七号館附近)。

「蜷川は石版刷の美事な挿絵のある、日本の陶器に関する面白い本」明治九(一八七六)年からこの明治一一(一八七八)年にかけて刊行された蜷川式胤著述になる「観古図説」。ウィキの「蜷川式胤によれば、内務省博物館掛退職前の明治(一八七六)年一月、『屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』を刊行したとある(後に第六冊・第七冊も刊行している)。これはモースの言うように、『石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った』もので、『仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった』とある。この五冊、モノクロームではあるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのここでその総て見ることが出来る。「第十五章 日本の一と冬 蜷川式胤との出逢い 附 目利きの達人モースの語(こと)」も参照されたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (33) 日本人の道の歩き方

 東京で銀座と呼ばれる一区域を除いては、歩道というものが無い。この銀座はある距離にわたって西洋風に出来ていて、煉瓦建の二階家の街衢や、煉瓦の歩道や、辺石がある。それ以外、東京のいたる所では、車道が往来の一側から他の側にまで達し、その中央は僅かに丸味を帯び、かなり固くて平滑である。人々は道路の真中へまで群れて出る。男も女も子供も、歩調をそろえて歩くということを、決してしない。時に二人が手をつないだり、一人が連の者の肩に手をかけたりする。我国では学校児童までが、歩調をそろえるのに、日本人は歩くのに全然律動が無いのは、特に目につく。我々は直ちに日本人が、我国のように一緒に踊ることが無いのに気がつく。その運動に、絶対的な旋律を必要とするワルツ、ポルカその他の旧式な舞踊や、学校からのピアノに合わせて出て来る練習やが、すべて我々の持つ行進の習慣に貢献している。

[やぶちゃん注:「街衢」老婆心乍ら、「がいく」と読む。「衢」は訓は「ちまた」で、「四方に分かれた道」の意、意味は「人家などの立ち並ぶ町、「巷(ちまた)」と同じい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (32) 鍋島公の正餐に招待さる【不審記事】

 鍋島侯爵が私を正餐に招いてくれた。恰もサミュエル・ブライト夫人が我々を訪れていたので、彼女もまたモース夫人と一緒に招れた。食卓には二十人以上の人がいたが、ブライト夫人は、そこに列る紳士達の宗教を知り度いといい出した。これはいささか困った質問だったのである。私は前もって彼女に教養ある日本人は、彼等がかつては持っていたであろう、仏教なり神道なりの信仰から、既に進歩して脱出して了っていることを、説明しておいたのである。この質問は鍋島侯爵によって巧に提出されたが、一人のこらず、ニコニコ笑いながら、宗教的の信仰から自由になっていることを自白した。

[やぶちゃん注:「鍋島侯爵」鍋島直大(なおひろ 弘化三(一八四六)年~大正一〇(一九二一)年)。肥前国佐賀藩最後の第十一代藩主。ウィキの「鍋島直大」によれば、第十代藩主鍋島斉正(直正)の長男で初名は直繩(なおただ)で明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。維新後は新政府に出仕し、『軍制改革と海軍創設の急務を説き、議定職外国事務局輔、横浜裁判所副総督、外国官副知事等、江戸開市取扱総督等を歴任した。父の代にオランダから佐賀藩が購入し明治政府が徴発していた軍艦電流丸で』、明治元(一八六八)年には『大阪の天保山沖で日本初の「観艦式」に旗艦として臨ん』でおり、また明治二年に『議政官が行政官に統合された折、それまで』三十一名いた『議定の公選により、筆頭輔相に三条実美、続く定員』四名の『議定に岩倉具視、徳大寺実則とならび大名家から唯一、直大が選出された。また戊辰戦争の功績で賞典禄』二万石を『賞与された。直大は亡くなった藩士を奉じて佐賀縣護國神社を建てた』。明治四(一八七一)年の『廃藩置県によりに佐賀知藩事となったがこれを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、また』明治六(一八七三)年には二人の弟直虎・直柔とともにイギリスに留学している(この間に起きた江藤新平らが起こした佐賀の乱は父直正が鎮定した)。明治一一(一八七八年)年の帰国後は、翌年に外務省御用掛となり、明治一二(一八七九)年には『渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会設立、徳大寺実則、寺島宗則らと共同競馬会社設立などに動き』、明治一三(一八八〇)年、『駐イタリア王国特命全権公使となる。次女伊都子はこのとき産まれた子で名前はイタリアにちなんでいる』。明治一五(一八八二)年に帰国、『元老院議官、宮中顧問官等を歴任。明治天皇・大正天皇の信頼も厚かった』。翌明治十六年には『鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営に与し、鉄道建設、音楽推進など数少ない洋行帰りの名士として井上馨とともに近代化政策を牽引した』。このシーンの翌明治十七年に侯爵に列し、明治二三(一八九〇)年には貴族院議員となっている(従って、ここでモースが「侯爵」と言っているのは正しくない。但し、原文は“Prince”で、これは「公爵」以外に、所謂、普通に旧藩主などの敬称としての「公」と考えれば、彼の事蹟として全くおかしくないことになる。従って寧ろここは「鍋島侯爵」ではなく、「鍋島公」と訳すべきところだったのではあるまいか?)。明治四四(一九一一)年には皇典講究所第四代所長となり、國學院大學学長に就任している。

「サミュエル・ブライト夫人」原文“Mrs. Samuel Bright”。ネットで種々検索をかけて見たが全く不詳である。宴席であろうことか、ホスト以下の男性諸氏の全部の信仰を平然と問うという、とんでもないことをして、それを当然の問いとしていられるところがヒントであろう(実際、モースが内心では焦っている感じが表現から伝わってくる)。キリスト教布教或いはキリスト教関連団体の関係者か? 識者の御教授を乞う。

「モース夫人」原文は確かに“Mrs. Morse”とあるのであるが、これは甚だ不審。この三回目の来日時、モースは単身で夫人は同伴していないからである。こうはっきりと記しているところを見ると、これはもしや、二回目の来日中の記憶を誤ってここに記してしまったものか? 同行している「サミュエル・ブライト夫人」も不祥なためによく分からない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも鍋島直大もサミュエル・ブライトも登場しない。やはり識者の御教授を乞うものである。]

2016/02/03

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (31) 簪

M769771

図―769[やぶちゃん注:上部。]

図―770[やぶちゃん注:中央。]

図―771[やぶちゃん注:下部。]

 

 外国人の目をひく事象の一つに、婦人、ことに小さな女の子達の髷がある。頭髪は殆ど例外無しに、普通幅の広い結びか、或は他の形で、頭の後に形式的に結髪される。この結びと頭との交叉点に、赤い縮緬が結びつけられ、ここに装飾的な頭髪針がさし込まれる。それ等はカンザシと呼ばれ、この品で人は、布、金紙、こまかい螺旋、藁、ギラギラ物、赤い珊瑚といったような簡単極る材料で、非常に多種なものがつくられる巧な方法を見出す。意匠の半分迄は花である。私は自然の花を頭にさしたり、身につけたりしたのは、見たことが無いと思う。簪の多くはある種の物語か行為かをあらわしている。懸物に絵をかいている子供(図769)、鳥籠(図770)、竹と小鳥(図771)等がそれである。中にはこみ入ったのもあるが、値段は安く一セントか二セント位である。何等かの贈物を持たずに人を訪問することは、殆ど無いといってよいが、これ等の簪は、よくこの目的に使用される。

柳田國男 蝸牛考 初版(22) 物の名と智識(Ⅲ) / 物の名と智識~了

 

 川蜷を又或はカハダニシといふ處がある。海とは緣のない奈良縣などがそれである。タニシは九州の全土に亙つて、田蜷といふ方が通則である。壹岐でも鹿兒島宮崎でも共にタミナ、奄美大島ではタンマとなり、沖繩諸島は概してタァンナになつて居る。さうして日本の東半分がタツブまたはツブであることは前にも言つた。何れも皆田に棲む卷貝といふ趣旨は一樣であつて、特にタニシが他のミナ又はツブよりも精確だといふことは無かつたと思ふのであるが、各地現在の用例に就いて見るとミナの方は幾分かその範圍が廣くなつて居る。例へば奄美大島では法螺貝はハラァナ或はブラミナと呼ばれて居るが[やぶちゃん注:底本は「呼ばはて居るが」。誤植と断じて改訂版で訂した。]、貝は卷貝に限らず全體がすべてニャである。沖繩本島でも絲滿人などは鰒(アワビ)のことをカタゲンナといつて居る。即ち片貝蜷の意である。此人たちは貝殼のことをンナガラと謂ひ、八重山の石垣島では之をンナグルと謂つて居る。大島の古仁屋では貝の柱をさへもミナハアラ(みな柱)と呼んで居るのである。それが果して後代の不當なる擴張であつたか。但しは又最初には何でもかでも、貝類は皆ミナであつたのが、追々に外から狹められて、適用の範圍を「蜷」のみに限ることになつたものか。それを決して置いてからで無いと、語原の攷定などは不可能であるのみならず、マイマイとの關係もまた不明を免れぬのであるが、實際はまだ十分なる證據が雙方共に無い。只幾分か後の解釋に有利なのは、貝の總稱をミナ・ミナンなどといふ風は、北は道の島から南は終端の波照間島まで、今尚廣大な地域を控へて居ることと、この日本語のカヒといふ言葉が、古く器物を意味したケといふ語と通用して行はれて居て、必ずしも貝を利用し始めてから後に、出來たものでは無いらしきことである。それが若し確かめられたならば、ミナの中でもカヒ即ち器物に應用することの出來る形のものだけをカヒと呼び、其殘りを元のままにミナといつて居るものとも解し得られる。但しその貝を意味するキウといふ語は、現に八重山の諸島にもあつて、それを後に入つて來たものとも斷定することが出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「鰒(アワビ)」の「(アワビ)」は本文であってルビではない。

「ミナハアラ」改訂版では『ミナハァラ』。

「攷定」「かうてい(こうてい)」と読む。考え定めること。]

 

 そこで再び前の問題に立戻つて、ツダラメ・シタダミが果してツグラミナ、又シタダリミナなどの、複合形では無いか否かを考へて見る。南方諸島の類例を援用することは、馴れぬ人にはまだ不安の種であらうから之を略し、單に九州一帶のツグラメと、鹿兒島縣内の山蜷垣蜷等とを比べて見ると、前者が後れて發生したことだけは、深く論究する迄も無く明白である。即ち形さまざまなる水陸のミナの中で、特に圓らなる一種を指定したツグラメの語のある以上は、今さらミナムシの名を設けて、是に色々の差別の語を附添するの必要は見ない筈である。しかも目に觸れる物があつて之を呼ぶ言葉が無かつたといふ時代は想像し得られぬから、既に何とかいふ蝸牛の名があつた處へ、新たに次の語は持込まれたのである。それが或年月の間併用せられて居たか、又は稍急劇なる新陳代謝が行はれたかは、場合毎に必ずしも一樣で無かつたらうが、假に著しい人望の差等はあつた迄も、耳で聽いてもわからなくなつてしまふには、少なくとも人の一代はかゝつた筈であつて、是が私の音複合乃至は語形複合の完了したらうと思ふ期間である。曾て存立して次のものに打倒された語が、果して何であつたらうかは誠に定め難い。しかも話主の新語に對する態度は區々であつたものとすれば、新舊の方言領域は往々にして食ひちがつて居たと考へ得られる。即ち最も多くの場合に於て、一つ以前の方言を其周邊の地に見出し得べしとする所以である。奧州のタマグラはより簡單なる隣の語を持たぬに反して、九州のツグラメには其外側にミナがあつた。蝸牛をミナとは謂はぬ土地にも田ミナがある。さうして他の一方には中部以東に、今尚ツブラといふ形が色々と傳へられて居るのを見ると、ツグラメは即ち一種の邊境現象ではなかつたかと思はれるのである。シタダミの方には、まだ十分なる比較の資料が得られぬから、是にも同樣の過程があつたことを推測するに止まるのであるが、少なくともカサツブリとマイマイツブロだけは、事情が全く此通りであつて、たゞ其時期のみ異なつて居たことを見れば、私の推定は必ずしも粗暴でないと思ふ。

[やぶちゃん注:「區々」ばらばらでまとまりのないこと。まちまち。]

 

 是等の事例を綜合して見ると、前からあつた語は古臭いといふだけで無く、又單に意味が把へにくいといふに止まらず、概して其範圍が不精確であつた。物の名は符號だから意味などは構はぬやうなものだが、前代人の智識の修得には、今日の如き教科書も無く、文字も無く又繪も無かつた。現實に其物を手で押へて居る場合を除くの外、名を知ることが唯一つの物を支配する手段であつた。それ故に人は各自の實名を隱し又は諱んだのである。それ故に又甲乙人の交通に際しては、少しでも具體的に又印象の深い名を知つた方が、常に有利な地位を占め得たのである。人に綽名が付くとたちまちにそれが流布したり、土地には誰がきめるとも無く、次々に細かな地名が付くと同じ樣に、人と物との關係が濃厚又密接になる程づゝ、いよいよより適切なる名が求められることになつたのである。蝸牛は内地に於てはいつ迄も單に兒童の造び相手に過ぎなかつた爲に、其名の變化も幾分か氣まぐれな方向を取つたが、同じ法則は更に農作物や農具、乃至は漁獵の目的たる魚鳥獸にも及んで、たとへば鍬ならば唐鍬備中鍬等、鯛ならば小鯛とか黒鯛とかいう風に、だんだんに聽いて直ちに性能を知り得るやうな、複雜なる新名と代つて行かうとしたのであつて、小兒が蝸牛に對する場合も亦、大人は省みないがやはり言語の最も活き活きとしたものを、常に選擇して行く念願はあつたのである。それを後世の長者の立場から、彼是批判することは到底出來ない。故に概括して之を「生活の要求」といふことは少しも差支が無く、過去も將來と同じやうに、世の中の事情が進展する以上は、言語は結局いつも變遷しなければならなかつたわけである。

[やぶちゃん注:「諱んだ」「いんだ」と読む。「諱(い)む」は「忌む」で、身分の高い人の実名を口にすることを敬してひかえる、という意味である。中国では本名は神聖で生存中は呼ぶことを憚り、言葉に出して言えたのは本人と両親及び師ぐらいなものであった。現行では「諱(いみな)」という名詞でのみ専ら用い、それは本名以外に生前の徳行によって死後に贈る称号である「諡(おくりな)」と同義で用いる。

「唐鍬」「とうぐは(とうぐわ)」或いは「とうが」とも読む。頭部全体が鉄で柄は木製の一般的に我々が「鍬」と聴いて想起するタイプの根切りや開墾などに使うところの打ち鍬のこと。平鍬。

「備中鍬」深く耕したる水田の荒起こしに用いる鍬を改良した農具。弥生時代から存在していた股鍬が改良されたもので、歯は平鍬のような板状ではなく、鉤型に抉れてフォークのようになっている。弥生時代のものは全部が木製であったが、古墳時代になると歯の部分を鉄製にしたものが生まれた。刃の先が二本から六本に分かれているものを江戸時代から特にかく呼称した。他にも「万能(まんのう)」「まんが」などとも呼ぶ。参照したウィキの「」によれば、『備中鍬は文化文政時代に普及』し、『平鍬と違い、湿り気のある土壌を掘削しても、金串状になっている歯の関係で歯の先に土がつきづらいのが利点』で、『粘土質の土壌や、棚田を耕すために使われ』、『また、馬や牛を所有することが出来ない小作農にもよく使われた』とある。

「性能」前に「鯛ならば小鯛とか黒鯛とかいう風に」とある以上、ここは――性能種類(種別)――とすべきところである。]

柳田國男 蝸牛考 初版(21) 物の名と智識(Ⅱ)

  或は又伊豫地方のやうに、特に右のミナ即ち河貝子をカハニナと謂ふ例もある。伊勢の度會郡ではこれをコナ、紀州南牟婁郡神川村などはゴニラ、豐後の日田郡でコウヒナといつて居る。ゴウナは肥後の玉名郡で細螺即ち東京のキシヤゴのことであり、遠州濱名郡庄内でも、海に居る一種の蜷貝をゴウナイと謂つて居る。寄居貝即ちヤドカリの住む貝のみを、ゴウナと謂ふのは普通であるが、是とてもいつたん川蜷の名を經てから移つたものかも知れない。現に下總の利根上流では、ゴウナイは小川に棲むキセル貝のことであつた。下野河内郡ではこれをカハジラと謂ひ、嶺を越えて福島縣に入つて行くと、弘くこの同じ蜷をカンニョプ、またはガンニョウボウなどと謂ふのであるが、これも恐らくは亦カワビナの轉靴であらう。山形縣の最上地方では、之をミョウゴツブ亦はミョウゴカエと呼んで居る。前のカンニョプと地域も接近し、外形も「川」の語を除けばよく似て居るが、果して類推が許されるかどうか。兎に角に此語は越後新發田のニョウニョウや、越中各地のミョウミョウを中に置いて、遠く加賀能美郡などの蝸牛の方言、ミョウゴとの連絡が付くのであつて、此關係はちやうど又沖繩縣下の、チダミ・ツンナンのそれと似て居るのである。

[やぶちゃん注:「神川村」「かみかわむら」と読む。三重県南牟婁郡にあった村で現在の熊野市神川町(ちょう)の各町及び育生(いくせい)町の各町に相当する。

「日田郡」「ひた」と読む。現在、大分県日田市。北九州の中央部に位置する。

「玉名郡」有明海の諫早湾の東の対岸、福岡県大牟田市の南の、現在の熊本県玉名市及び玉名郡の旧郡名。

「遠州濱名郡庄内」「濱名郡」は静岡県の旧郡(ほぼ現在の浜名湖西岸の湖西市の西端の一部(白須賀・境宿)に相当する)で、「庄内」は南庄内村及び北庄内村の村域と思われる。具体的には浜名湖に北から貫入する庄内半島の根と中央部一帯に当たる(同半島先端部は同村ではなく、独立した村櫛村(むらくしむら)である)。

「キシヤゴ」改訂版では『キシャゴ』。腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ超科ニシキウズガイ科サラサキサゴ属キサゴ Umbonium costatumやその仲間を指す。前の「ヤマシタダミ」の私の注を参照されたい。

「寄居貝」ルビを振っていないということは柳田はこれで以下と同じ「やどかり」と当て読みさせていると考えるべきであろう。甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea に属し、主として腹足類(巻貝)の貝殻に体を収納し、その貝殻を背負って生活している甲殻類を総称するヤドカリは「宿借」「寄居虫」「寄居蟹」などと漢字表記し、また古語では「かみな」「かむな」「かうな」「がうな」「ごうな」など呼称した。

「ゴウナイは小川に棲むキセル貝」この謂い方は生物学的ではない。「キセル貝」は腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae に限定された和名であって、彼らは有肺類であることから判る通り、全種が陸生貝類で、「小川」の中に「棲む」ことは絶対にないからである。柳田は「キセル貝」を所謂、カワニナのような螺塔の高い、細身のそれの謂いで用いているのであるが、生物としてのカタツムリの名前の呼称の変化変遷を具体例として方言周圏論を主題としする本書に於いて、蝸牛とはずれる生物種であるからと言って、こんないい加減な生物群名をごちゃごちゃにして使う(実際、私は、このところ、電子化をしながら彼が「螺」や「蜷」を安易に混淆して用いているのには生理的嫌悪感さえ感じていることを告白しておく)のは学術論文として救い難い誤謬であると断言するものである。

「カンニョプ」「ガンニョウボウ」を柳田は「カワビナ」が元で、「カン」も「ガン」も「川」の訛りとしているが、本当にそうだろうか? 私はこの呼称を一見直ちに「カン」「ガン」は蟹と置き換えた。実際に例えば有明地方では蟹のことを「ガン」と呼ぶ。これらは「蟹女房」であって「川螺」「カワビナ」の転訛なんどではないと私は感ずるものである。川蟹の代表格であるサワガニやモクズガニの類いはカワニナ類の天敵で大好物なのであるが、彼らがそれら捕食するのを見た者が逆に蟹に寄り添う女房に川螺を譬えたのではあるまいか?

「越後新發田」現在の新潟県下越地方にある新発田(しばた)市。同市は現在、北蒲原郡聖及び東蒲原郡と隣接している(次注下線部参照)。

「加賀能美郡などの蝸牛の方言」「能美」は「のみ」と読む。石川県に現存する郡であるが、当時は現在の川北町(かわきたまち)以外に能美市全域と小松市の大部分及び白山市の一部を含む広域であった。なお、後の改訂版の「蝸牛異名分布異名表」には、まさに石川の一部と佐渡の「ミョウミョウ」と新潟北蒲原の「ニョウニョウ」との間に、この能美のものとして「ミョウゴ」が挙がっている(底本の異名表はアイウエオ順になっていて、この文脈の絶妙の臨場感が逆に読み取れなくなっている)。]

柳田國男 蝸牛考 初版(20) 物の名と智識(Ⅰ)

 

       物の名と智識

 この意見をもう少し詳しく説明する爲に、最後に尚一つの小さな問題を振出して置く必要がある。それは九州のツグラメの末の「メ」と、八重山諸島の語の元の形らしきシタダミの「ミ」と、果して關係があるか否かといふことであるか、私は現在はほゞあるといふ方に傾いて居る。其理由は居たつて簡單で、つまりはこの二つの單語以前に、更により古い一語があつたものと、考へて居る結果である。日本南端の平和無爲の島々に於ても、蝸牛の名は少なくとも一度は改まつて居る。さうしてその痕跡が明瞭に今も殘つて居るのである。所謂三十六島の中に於ては、宮古のウムゥナ又はヴゥナのみが、外形は稍似て居るけれども純然たる別系統のものであつた。尤も此群島だけは、過去に種族の盛衰がことに激しかつた爲に、今尚獨立した幾つかの方言團があるさうで、自分はまだ其片端しか知つて居ないのであるが、少なくとも古來ミヤコの中心と目せられた平良五ケ部落に於ては、蝸牛をンムゥナと謂ひ、之に對して蛞蝓をムナンギムシ、若しくはムナヅイムシと謂つて居る。即ち蜷拔蟲若くは蜷取蟲の義であつた。宮良當壯君の採訪語彙稿に、之を「蝸牛を拔居た蟲」と解説して居るのは、同じ意味であらうが甚だ明確を缺いて居る。即ち同君はムナァが卷貝の殼の總稱であることを、まだはつきりと認めて居ないのである。

[やぶちゃん注:「三十六島」林子平の「三國通覧圖説」(天明五(一七八五)年刊)の付図「琉球三省幷三十六島之圖」などに出る琉球の島の名数。

「此群島だけは、過去に種族の盛衰がことに激しかつた」ウィキの「宮古島」の「歴史」の項の「古琉球時代」を見ると、その雰囲気がよく判る。一三四〇年頃(本邦では南北朝期)に複数の豪族が起こって争闘が凡そ半世紀に及んだと始まり、一五〇〇年には前にも注した石垣島の豪族遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の乱(宮古の最有力豪族仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)によって八重山は支配されて琉球王国に朝貢していたが、その琉球王国に赤蜂が起こした反乱)があり、一五二二年には与那国島で鬼虎が乱を起こしている(孰れも仲宗根豊見親が鎮圧)。以後、十九世紀の琉球処分までの約三百八十年間、『仲宗根豊見親の子孫・忠導氏(ちゅうどううじ)。知利真良豊見親の子孫・宮金氏(ンミャガーニうじ)。与那覇勢頭豊見親の子孫・白川氏(しらかわうじ)の』三氏族が『門閥を作り、宮古島の頭職をはじめ多くの官職をその子孫達が占めるようになった』が、『仲宗根豊見親の死後、宮古島の頭職を仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親が、継承した』ものの、『人々の名声は現在の城辺町字友利の豪族で勇知に優れ、善政を行った金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親に集まった』。一五三二年に『金志川への誹謗中傷を信じた仲屋金盛は、金志川那喜太知をだまし討ちに掛け』て殺害するが、『この変を起因として「豊見親」の称号は、琉球国王の令で廃止される。また、仲屋金盛は自殺を命じられた。このとき琉球より任命された平良大首里大屋子(うぷしゅりうぷやぐ・琉球国王の代官)と下地大首里大屋子の二人が頭職として統治を始める(これをもって、宮古・八重山が実質的な琉球の統治下に入ったともされる)』とある。

「今尚獨立した幾つかの方言團がある」ウィキの「宮古方言」によれば、宮古列島(現在の有人島は宮古島・池間島・大神(おおがみ)島・来間(くりま/くれま)島・伊良部(いらぶ)島・下地島(しもじじま:但し、ウィキではこの下地島を独立した方言としては挙げていない)・多良間(たらま)島・水納(みんな)島の八つ)の方言は島によって異なるが、大きく宮古島方言・伊良部島方言・多良間島方言の三つの方言に分けることが出来るとし、また、『宮古島方言は、細かく見ると集落ごとに異なるが、大きく北部と南部に分けられる。各島間の著しい方言差のために、この地域の標準語である宮古島の平良』(ひらら:現行の読み)『方言でさえ、伊良部島や多良間島ではほとんど通じにくい』ともある。

「平良」前注に示した通り、現在は「ひらら」と読む。ウィキの旧「平良市」によれば(現在は平良は宮古市に合併)前に注した長い八重山の豪族抗争の最大の有力者は皆、この平良及びその支配域に居住していたと読め、一六二八年には『島内が平良、砂川、下地の』三つの間切(まぎり:前にも注したが沖繩に於ける大きな地域集団の単位)『に分けられ、この行政区分は明治末期まで続いた。後の平良市域は、大半が平良間切に属していた』とある。

「宮良當壯」(みやながまさもり 明治二六(一八九三)年~昭和三九(一九六四)年)は国語学者。現在の石垣市字大川の生まれ。八重山島高等小学校を卒業後、明治四二(一九〇九)年に十七歳で出郷して那覇に赴き、人力車の後押しなどで旅費を工面して上阪、「帝国吃後矯正会」に入って生来の吃音矯正に努めるかたわら、音声学を学んだ。その後、上京して新聞配達や納豆売などをして明治四四(一九一一)年に郁文館中学校二年に編入学、大正八(一九一九)年に國學院大學に進学して金田一京助や折口信夫に師事し、方言学や民俗学を学んだ 。卒業後はこの柳田國男の推挙によって「宮内省図書寮」に勤務、芳賀矢一・上田萬年・新村出らの推薦によって大正一四(一九二五)年から帝国学士院より研究費補助を受け、実に第二次世界大戦を挟んで延べ十一年、昭和二一(一九四六)年まで国際音声記号を用いて前人未踏の全国方言調査研究に従事した。その間、昭和一八(一九四三)年には図書寮編修官を辞し、「日本方言研究所」を創設、その所長となって方言調査研究に専念した。その研究業績が認められ、昭和二八(一九五三)年に「琉球諸島言語の国語学的研究」で母校の國學院大學から文学博士の学位を受けている。一方で、『琉球文学』を編集発行、戦後の琉球文学研究にも強い影響を与えた。著作に「八重山語彙」「沖繩の人形芝居」など。柳田より十八年下。以上は主に yaeyama-zephyr 氏のサイト「八重山 島旅への誘い」の「石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)」にある電子化された碑文を参照させて頂いた。ここに御礼申し上げる。

「採訪語彙稿」「採訪南島語彙稿」が正しい。宮良当壮が大正一五(一九二六)年に東京の郷土研究社刊行した労作。] 

 

 蝸牛をミナといふ例は、九州南部には殘つて居る。鹿兒島縣方言集を見ると、何れの土地でとも明示しては無いが、蝸牛には(一)ミナムシ、(二)ムナムシケ、(三)ヤミナ、(四)ユダイクイミナ、(五)カキミナ、(六)チヂミナ等の異名が行はるゝことを示して居る。多分はツグラメと併存して居るか、さうで無ければ同類異種のものに、特に此名を付與して居るのであらう。此中で(一)は僅かにムシの語を添へて海の蜷と區別し、(二)はそれに又貝の字を附加して居る。(三)のヤミナは人家近くに棲む故か、はた又出入りをする殼を家と見たか。何れかは判然しない。(四)のユダイクイミナは蛞蝓のヨダレ蟲と同樣に、涎を垂らすからの名であることは疑ひ無く、(五)は垣蜷であり、(六)のチヂミナは頂蜷であつて、常に樹上に遊ぶことを特徴と認めたものと思ふが、或は尚シジムシといふ土地もあるといふから、別にシタダミ系からの變訛とも考へられぬことは無からう。薩摩川邊郡の知覽郷などでは、現在も蝸牛をヤマミナと謂ふさうである。小野氏の本草啓蒙には同國竹島に於て、尋常の蝸牛の殼厚きものを、ヤマミナと謂ふと誌して居る。山蜷はちやうど陸中平泉のヤマツブなどと對立すべきもので、之に據つて直ちにミナが卷貝の總稱であることを知るのであるが、一方には宮古島の如く、之を以て蝸牛ばかりの名とする例もあるのである。八重山群島の石垣島に於ては、ンナは即ち金字塔貝のことだと宮良君は報じて居る。金字塔貝とは多分高瀨貝であらうが、それならは鹿兒島ではタカシイビナと謂つて居るのである。

[やぶちゃん注:「鹿兒島縣方言集」この書名では昭和五(一九三〇)年以前の著作はヒットしない。識者の御教授を乞う。

「知覧郷」現在の鹿児島県南九州市知覧町(ちらんちょう)。

「竹島」薩摩半島から約五十キロメートル南の海上、大隅半島先端の佐多岬から南西約二十九キロメートルの海上に浮かぶ薩南諸島北部の島。現在は鹿児島県鹿児島郡三島村大字竹島。種子島の北端からは西に約五十九キロメートル、屋久島からは北に凡そ三十九キロメートルほどの位置にある。島名通り、島全体に琉球竹(単子葉植物綱ツユクサ亜綱イネ目イネ科メダケ属リュウキュウチク Pleioblastus linearis)が植生する。

「金字塔貝」「金字塔貝とは多分高瀨貝であろう」タカセガイは腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科サザエ科ギンタカハマ属サラサバテイ Tectus niloticus の異名(食用及び貝ボタン加工用の水産商品名)。殻高約十センチメートル・殻径も十二・五センチメートルにも達する甚だ大きい重厚尖塔型円錐を成し(実際に非常に堅い)、殻表は平滑で紅紫色或いは緑色の放射電光模様を持ち、底面は白く螺脈を備え、紅色の斑点を散らし、全体の形状の優美さと色が美しい貝である(但し、自然状態では多くの付着生物によって汚れている)。奄美諸島・小笠原諸島以南の潮間帯上部十~二十メートルに棲息する。沖繩で食したことがあるが、美味い。グーグル画像検索「Tectus niloticusをリンクさせておく。「金字塔貝」の意味がお分かり戴けるものと思う。私もこの標本を持っていたが、昔、教え子にあげてしまった。]

 

 單なる一種の淡水産の卷貝にミナまたはニナの名を付與した例は他の府縣にも多い。倭名妙には河貝子を美奈とありミナ結びニナ結び孰れが正しきかの論は、すでに徒然草にも見えて居るから、相應に夙くからその習はしはあつたのである。海に遠い飛騨の吉城郡では長螺をニラ、丹波の福知山邊ではニナイ、備前の一部ではニダ、佐渡では一般にビンナと謂ふやうだが、單にその土地土地で著名なる一種に、ミナの總稱を寄託したまでで、果して同種であるか否かは檢査の上で無いと決しかねる。併し大體に食用に供せられる爲に、この通り著名になつたものと思はれるから、それが假に一致して居ても、別に不思議では無いわけで、其爲に此貝だけが固有のミナであつたとは言へない。會津の大沼郡の方言集には、ビナとは宮入貝のことだと謂つて居るが、是も亦同じ川螺である。加賀以東の北國各地に於て、ビンロウジと謂ふのも亦ビンナの訛語であるらしい。後にはさらに一轉して、此貝の形に似た尻の尖つた燗德利までを、ビウロウジと名づけて居るゆえに、元の意味が一層不明になつたのである。

[やぶちゃん注:最後の「ビウロウジ」はママ。改訂版も同じであるが、これは如何にも発音し難い。改訂版なら「ビュウロウジ」としてもよいのに、していない。ネットで(燗)徳利の地方名で「びうろうじ」というのを探しても出てこない(但し、徳利自体を「びんろうじ」と称するのもヒットはしない)。しかしどうであろう? ビンロウ(後注)の実の形は徳利に似ていなくはない(よく似て居るとも言えないが)。さて。カタカナの「ン」と「ウ」は似ていなくはない(よく似て居るとも言えないが、見落としそうにはなる程度には似ていると私は思う)。非常に考え難いことではあるが、これは「ビウロウジ」ではなく、単に「ビンロウジ」の誤植が二度もの細かな改訂を経ながらも最後まで(現在の通行本にまで)残ってしまったものではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。要は燗徳利を「びうろうじ」とけったいな言いにくい発音で呼ぶ地域があれば私の推理は誤りであることが簡単に立証されるのである。

「倭名妙には河貝子を美奈とあり」既出の「和名類聚抄」(平安中期に源順(みなもとのしたごう)によって編せられた辞書)には、

   *

河貝子崔禹錫食經云河貝子〔和名美奈俗用蜷字非也音拳連蜷虫屈貌也〕殼上黑小狹長似人身者也

   *

とある。自分勝手訓読をすると、

   *

河貝子(かばいし) 崔禹錫(さいうしやく)が「食經(しよくけい)」に云ふ、『河貝子〔和名は美奈。俗に「蜷」の字を用ふるは非なり。音は「拳(ケん)/連(れン)」、「蜷(ケン)」は虫の屈する貌なり。〕殼上は黑くして小さく、狹長(さなが)。人身(じんしん)に似る者なり。』と。

   *

「崔禹錫」及び「食經」は唐の崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」で知られる本草学者。「崔禹錫食経」は「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。『音は「拳(ケん)/連(れン)」』は以前に注した反切法により「蜷」の音を示したものと読んだ。さても、代表的な淡水産貝類の「螺」「蜷」に相当する腹足綱吸腔目ニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナSemisulcospira libertina を例にとると、貝殻本体の色は実は白いが、表面に橄欖色や淡褐色の厚い殻皮を被っていて個体によっては色帯を持ち、しかも自然状態では普通、水泥中の鉄分の附着によって黒っぽい。確かに「狹長」(通常は音で「けふちやう(きょうちょう)と読むが私はこの音が嫌いであるので「さなが」と訓じた。意味は細長いこと)ではある。しかし乍ら、私はカワニナの形が人間の姿に似ているとは一度として思ったことはない。

「すでに徒然草にも見えて居る」「徒然草」第百五十九段、

   *

「みなむすびと言ふは、絲を結び重ねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たれば言ふ」と、あるやんごとなき人仰せられき。「にな」といふはあやまりなり。

   *

という紐の結び方の呼称を云々した章段であるが、この兼好の謂い自体が誤りである。角川文庫版今泉忠義氏(以上の原文はこちらを採用)のそれにも勿論、講談社文庫版川瀬一馬氏の校注にははっきりと『NとMの音が通ずる例はいくらもあり、実は誤りとは言えないのである』と脚注にある。

「飛騨の吉城郡」「よしき」と読み、岐阜県の東北端にあった旧郡。現在の飛騨市の全域と高山市の一部を含む広域に当たる。

「會津の大沼郡」現在の福島県内陸西部に現存する郡。

「宮入貝のことだと謂つて居るが、是も亦同じ川螺である」この柳田の断定の仕方には非常に重大な問題がある。まず、「宮入貝」は「みやいりがひ(かい)」と読むが、これは、

腹足綱盤足目リソツボ上科イツマデガイ科オンコメラニア属 Oncomelania hupensis 亜種ミヤイリガイ Oncomelania hupensis nosophora

という一種を限定的に指すということ、しかもこれは柳田が謂うところの「川螺」の代表種は、再掲すると、

腹足綱吸腔目ニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina

であり、見た目は確かによく似ている(私には螺形も色も全然違うと見えるけれども、一般の人にはこんなの同じに見えるというレベルの「似ている」である)が、ご覧の通り、生物学的には目レベルで異なる全然別種の淡水産貝類であることが第一の問題点である。さらに、

ミヤイリガイ Oncomelania hupensis nosophoraは(他に片山貝・七巻貝の異名を持つ)烈しい腹水症状から肝硬変などの重篤な症状を引き起こし、多数感染すると死に至る恐るべき風土病であった日本住血吸虫症の中間宿主であることを柳田は述べていない(一九九六年の山梨県での終息宣言によって本邦でも日本住血吸虫症は撲滅されている。同類種のによる寄生虫感染症を完全に撲滅したのは世界で日本だけである)

点が致命的な第二番目の問題点である。日本住血吸虫の中間宿主が本種ミヤイリガイであることが立証確定されたのは大正二(一九一三)年のことで、柳田が知らなかったでは済まされる問題ではないのである。大正の半ばから官民一体の日本住血吸虫撲滅運動は始まっている。民俗学者だからなどという逃げはここには通用しない。寧ろ、ここで、

――「宮入貝のことだと謂つて居るが(この宮入貝は近年恐るべき日本住血吸虫症の中間宿主であることが分つた)、是も亦同じ川螺の仲間である」――

とすべき義務を私は柳田は負っているとさえ思うのである。ところが、あろうことか、柳田はこの直前で「大體に食用に供せられる爲に、この通り著名になつた」とまで言ってしまっている(但し、本宮入貝は一般的には食用とはされておらず、日本住血吸虫のヒトへの感染経路は飲食物経由ではなく、田圃や河川での水を介した皮膚経由の感染であった。しかし、カワニナは古くから食用にされ、しかもそこに宮入貝も混入していた可能性は極めて高かったと私は思っている)。

 なお、カワニナ Semisulcospira libertina の方も肺吸虫(分類は後述)・横川吸虫(吸虫綱二生(二生吸虫)亜綱後睾吸虫目後睾吸虫亜目後睾吸虫上科異形吸虫科 Metagonimus 属ヨコガワキュウチュウ Metagonimus yokogawai )等の第一中間宿主となることが報告されており、十分に熱を通さずに食すことは危険である(貝からヒトへの直接感染は現行では生じないとされている)。横川吸虫は自覚症状がなくまた重症化のケースは知られていないが、カワニナを中間宿主とする吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウチュウ Paragonimus westermanii(同種の三倍体個体群を生態や感染性の相違から別種のベルツハイキュウチュウ Paragonimus pulmonalis とする説もある)の場合は肺に病巣を作ったり脳への迷走感染をすると、死に至ることもあるので食用にはやはり注意が必要である。そうした既知の食用の危険性を柳田は一切述べていない方言研究と衛生学は別物だなどという弁解はここでは全く通用しない。少なくとも八十六年後の私は、本書の発刊時にタイム・マシンで戻ってでも、柳田を指弾するものである。

「ビンロウジ」柳田はこれを螺=ミナビナビンナビンロウジと変化したものだというのであるが、何故、彼は全く同じ発音の、太平洋・アジアなどで見られる単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ(檳榔) Areca catechu  の樽型をした、嗜好品とする種子ビンロウジ(檳榔子)を問題にしないのか? 少なくとも私には全く以って解せない。これが偶然の一致に過ぎず、全く関係がないというのなら、その関係がない決定的証拠をここに示すべきであると私は普通に思う。]

2016/02/02

ひとがみな海へゆく日に眼藥の壜を透かして陽ざしに病める   寺山修司

ひとがみな海へゆく日に眼藥の壜を透かして陽ざしに病める   寺山修司

柳田國男 蝸牛考 初版(19) 都府生活と言語

 

       都府生活と言語

 

 問題の幾分か複雜になり、從うて又諸種の異説と獨斷とを招き易かつた原因は、個々の昔の方言領域が、外部の競爭者の侵略を受けて、次第に退縮すべき傾向を持つて居たゞけで無く、内にもまた往々にして新らしい異稱が起つて、それに押分けられて相互の脈絡が絶え、各自思ひ思ひの進化の道を、歩まなければならなかつたことである。蝸牛には幸ひにして、カタツブリの如く、曾て京都を占領して今は邊隅に餘喘を保つ例があつたからよいが、若しタマグラとツダラメとの對立だけであつたら、中々斯う容易には比較を進めて見ることも出來なかつたであらう。ましてや新語發生の中心が一方に偏在して、所謂方言圈の他の周邊が、遠く無人の海又は沙漠に消え去るやうな場合には、事によると僅かに片端に殘つた舊語を以て、外から來て附いたものゝ如く、或は又古調が此方面のみに保存せらるゝが如き、裾模樣式浸潤觀を抱かせぬとも限らぬのである。此危險の殊に多かつたのは沖繩の列島であり、しかも最も早くその誤謬に心付かれたのもまた彼地であつた。單に遠近を地圖の上から見れば、勿論誰とても内地の影響が、より多く北境の大島々群に及ぶべかりしことを想像するが、事實海上の交通の主として舵を向けたのは、島尻の一角即ち那覇から牧港がまでの海岸であつた。それ故に今でも言語の敷波は、略此地點を中心として、南北にその波紋を擴げていて、宮古は國頭の山村と相應じ、八重山は所謂道の島々と遙かなる類似の痕を持つて居たことが、追々に發見せられんとして居るのである。是と同種の傾向が、弘く日本全體の上にも現れて居なかつたといふことを、斷言し得る者は決して無い筈である。たゞ今日ほまだ調査が周到で無く、且つ稍大なる島の陸續きに於ては、一段と相互の交渉が込み入つて居た爲に、是を簡明なる法則に導くことが出來ぬのであるが、それには又別に一個の觀察點の、我々の整理を助けんとするものがあるのである。

[やぶちゃん注:「大島々群」「おほしまたうぐん(おおしまとう)」と読んでいるか。現在の南西諸島の本土と最も近い、北部の奄美諸島の島々を指して言っているのであろう。

「牧港」は「まきみなと」或いは「まちなと」と読む(改訂版は「まきみなと」とルビする)。現在の沖縄本島南部西岸の沖繩県浦添市北部の地名。十四世紀には沖繩最古の貿易港としての記録が残る。但し、河川からの土砂が溜まり易い上に海底も浅く、大きな船舶が停泊し難かったために南方の那覇港にその役目を移した(ウィキの「牧港」に拠った)。

「道の島々」柳田が「道の島」と言った場合は奄美諸島を指す。]

 

 是を言語の文藝的進化と名けることは、少しく耳馴れぬ稱呼ではあるが、恐らくは實地に當つて居ると思ふ。古人が好い言葉又面白い言葉として、採つて在來の用語にさしかへるほどのものは、假令我々の鑑賞からは眉を顰めるやうなものであらうとも、必ず其昔なり形容の機警なり又聯想の新奇なりに、當時の人心を動かすの力があつて、一囘の選擇は即ちまた一囘の技巧であつた。中には世情の變遷によつて、輕しめ忘れられた場合も無いと言はれぬが、少なくとも精より粗に複雜より單純に戻るといふことは無かつたわけで、さうすると國の端々に殘り留まるものゝ如何なる過去を談ずるかも、大よそは豫想することが出來るといふ結論になるのである。そこで差當つての一つの問題は、奧州のタマグラ九州のツダラメが、古いといふことはどの位古いのか。それがマイマイやカサと複合して、今の各地の方言を作つた事實は、假に此語が前からあつたことを示すとしても、果してそのもう一つ以前が、單なる無名であつたかどうかゞ、答へられなければならぬのである。それには前章にも試みられた如く、やはりそれぞれの方言領の、邊境現象を見て行くのが一つの手段である。カサ・マイマイ其他の新語が、既に九州の周邊に入つて居ることは之を例示した。ところがツグラメの方はそれと反對に、今尚その中央山嶺の周圍に一團の版圖を有し、それが又南北に進出するにつれて、少しづゝの轉訛を見ようとして居るのである[やぶちゃん字注:底本は最後の「のである」が次の「附標にも」に続いているが、誤植であるので改訂版に従って特異的にかく訂した。]。附表にも載せてあるがもう一度爰に列擧してみると、

   ツグラメ       肥後阿蘇郡

   ツグラメ、ツクラメ  豐後南北海部郡

   ツングラメ      日向東臼杵郡

   ツングラメ      豐前宇佐郡

   マメツングリ     筑後三瀦郡

   ツンツングラメ    同 上

   メエメエツングラメ  肥前佐賀附近

   ツングラメ      同 上

   ツブラメ       壹岐島

   ツルマメ       肥前平戸

   ツッガメ       同五島各地

   ツッガメジョ     同上三井樂

   ツグラメ       肥後葦北郡

   ツグラメ       鹿兒島

   ツグラメ       薩摩甑島

   ツンナメ       大隅種子島

   ツンナメ       七島寶島

[やぶちゃん注:「豐後南北海部郡」大分県にあった旧南海部(みなみあまべ)郡(現在の佐伯市の大部分)と旧北海部郡(現在の津久見市の全域及び大分市の一部・臼杵市の一部)のこと。両郡を合わせると大分県の南と南東部沿岸をカバーされる。

「日向東臼杵郡」東臼杵(ひがしうすき)郡は現存する宮崎県の郡であるが、当時は現在の門川町(かどがわちょう)・諸塚村(もろつかそん)・椎葉村(しいばそん)・美郷町(みさとちょう)以外に、延岡市全域・門川町全域・美郷町全域及び日向市の大部分をカバーし、宮崎県の北端の三分の二を占有し、しかも前の大分県の南海部郡とも接していた。

「豐前宇佐郡」大分県北部にあった旧郡。現在の宇佐市の大部分と豊後高田市の一部。

「筑後三瀦郡」「みずまぐん」或いは「みづまぐん」と読む福岡県に現存する郡。現在は大木町(おおきまち)一町しかないないが、当時は大川市全域及び久留米市の一部・柳川市の一部・筑後市西牟田を含む有明海側の広域県域の一つであった。

「メエメエツングラメ」改訂版では『メェメェツングラメ』。

「三井樂」長崎県南松浦郡(現存)にあった三井楽町(みいらくちょう)。現在は同郡からは合併離脱して五島市内。

「肥後葦北郡」「あしきた」と読む。現存する熊本県の郡。当時は現在の芦北町(あしきたまち)・津奈木町(つなぎまち)以外に、水俣市全域と八代市の一部を含む、熊本県南部八代海沿岸部の広域であった。

「七島寶島」「たからじま」と読む。吐噶喇(とから)列島の有人島では最南端。同列島は「上三島(かみみしま/かみさんとう)」と「下七島(しもしちとう/しもななとう)」に分かれるので(読みはネット検索に拠る)、この「七島」は一応、「しちたう(しちとう)」と読んでおく。]

さうしてこの中間には蝸牛をナメクジといふ地域を包圍し、そこには又ツウナメクジ・ツウノアルナメクジ等の名を生じて居るのだから、只の殼をツウといふ點までは、是も亦同じ配下に立つものと見られる。しかも此地方では、單なるツグラは「懷」のことであり、又は蛇のトグロのことであつた。蝸牛の方には悉くメの音が附添して居る。それを伊豆などのカサンマイと同樣に、後に現れ來たりしマイマイの影響と見るか、但しは又今一つ以前のミナ若しくはニナといふ名稱が、ここにも殘存して「ツブラ蜷」といふ、一種の複合を生じたものと見るか。はた單なる動物呼稱、たとへば栃木縣や八丈島の「蛇め」「牛め」の類と見るべきであるか。この判斷は頗る重要となるので、それには更に我々の觀測を、もう少し外側に向つて伸展する必要があるのである。

 

 薩摩の一隅のツグラメが又一つの海を越えて、種子・寶の島々のツソナメとなつたことは前に見えて居る。それから南の方も系統はよそ一つかと思はれて、

   チンナン        首里那覇及び周圍

   チンナミ、チンナンモォ 沖繩本島名護

   チンニャマァ      奄美大島北部

   チンダリ        同上大和村

   チンダリイ、チンニャマ 同上古仁屋

   チンダル        加計呂麻島各地

   チンタイ        沖永良部島

   ツンミャウ       喜界島

[やぶちゃん注:「奄美大島」「大和村」鹿児島県大島郡大和村大和村(やまとそん)。奄美大島の中北部に当たる。

「同上古仁屋」「こにや」と読む。奄美大島の一番南に位置する瀬戸内町の中心地。

「加計呂麻島」「かけろまじま」と読む。奄美大島の南で大島海峡を挟んで直近にあり、鹿児島県大島郡瀬戸内町に属する。

「沖永良部島」「おきのえらぶじま」と読む。奄美群島南西部にある。鹿児島県大島郡に属し、九州本島からは南へ五百五十二キロメートル、奄美大島からは徳之島を挟んで南へ約百キロメートル、沖縄本島からは北へ約六十キロメートルの位置にある。現在は和泊町(わどまりちょう)と知名(ちな)町の二町から成る。]

などの例がある。ナ行とダ行との通用は、此比較によつても想像せられ、一方ダ行がラ行の代りをすることは、熊本・鹿兒島兩縣下の普通であるから、ツングラメが一旦種子島その他のツンナンと爲り、更にチンナンを經てチンダルにまで、轉訛して行つたものとも想像せられぬことは無い。ところが其比較を尚押進めて、南の方八重山群島の事實を尋ねて見ると、其想像の幾分か困難になることを感ぜざるを得ないのである。現在知られて居るだけの例では、蝸牛の方言は、

   チダミ、ツダミ     石垣島

   チンダミ        小濱島

   チッヅァン       西表島

   シダミ         黑島

   シタミ         波照間島

   シダミ         與那國島

[やぶちゃん注:「小濱島」「こはまじま」と読む。八重山諸島の一島で、現行では沖繩県八重山郡竹富町に属する。竹富島の西方七・七キロメートル、西表島とはヨナラ水道を隔てて凡そ二・三キロメートル離れた東に浮かぶ。

「黑島」竹富島の南南西、小浜島の南南東に、一辺を八~九キロメートルとする正三角形様の位置にある八重山諸島の一島。八重山郡竹富町に属する。私も南西諸島は与那国まで行ったが、この黒島は未踏である。琉球弧好きの友人はこの黒島が一番好きだと言っていた。]

 

 けだし黑島・波照間島のサ行轉音は、顯著なるこの島々の語音の癖であつて、決して此場合ばかりに限られたことでは無い。例へばキヌ(衣)を沖繩本島の南部ではチン、北部國頭の山村でキンまたはキヌといふに對して、南端の二島では之をシヌと發音して居る。だから簡單に是ばかりの事例に據つて別に蝸牛の名にシタダミの一系統があつたことを、推定することは短慮であるかも知れぬが、類型は遠く飛び離れた伊豆の八丈島にもあつて、彼處では現に蝸牛をヤマシタダミと謂つて居るのである。即ち若し曾て我邦の内に此語があつたとすれば、シダミ・チンナミは九州のツグラメよりも、遙かに此方に近いことを認めなければならぬ。それから今一つの可なり注意すべき事實は、この八重山の諸島の中で、たつた一つの新城の島だけが、古來土器を燒いて隣島と交易して居た。その現存して居る實物を見るのに、無數の細かに碎かれた貝の殼が、其土の中に交へ燒かれて居る。是は全島が珊瑚岩であつて、原料の粘土を得る途が無い故に、多くの蝸牛を共に搗き潰して、其粘液を以て赤土をこね上げ、大きな水甕までを作つて居たのである。是が原始工藝史の重要な一つの問題であること、稀に土器の使用を解する太平洋の小さな島々でも、或は同種の方法に由つたものがあるらしいことは、他日改めて之を説くとして、先つ差當つてはシタダミといふ語が、何か此習俗の間にその起原を持つのでは無いかといふ、想像説だけは提出して置く必要がある。即ちナメクジの「ぬめり」を以て認められたと同樣に、シタダミは即ち「したゞり」に基づいて、此名を負ふに至つたとも、考へられぬことは無いので、假にその推察の通りであつたとすれば、土器との因緣は又一段と古くからあつたわけで、從うてツブラ・ツグラの語が其製法の特徴に出でたといふことも、殊に自然であつたと考へられるのである。

[やぶちゃん注:「ヤマシタダミ」これは陸にいる「シタダミ」の意味である。即ち、この「シタダミ」とは、内海の砂底に多く棲息し、現在も食用とされる腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ超科ニシキウズガイ科の小型の巻貝類を総称する語であることに注意されたい。具体的には、

ニシキウズガイ科サラサキサゴ属キサゴ Umbonium costatum

サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum

などがよく食されるのであるが(私も好物である)、彼らは「キシャゴ」「ナガラミ」「ナガラメ」「シタダミ」とも呼ばれ、しかも「扁螺」とも書くのである(この「きさ」という語は「木目(きめ)」のことで、木目状の模様のある巻き貝の意味と一般にはされている)。これらニシキウズガイ科の生貝は腹足類の殆んどがそうであるように軟体部に当然の如くぬめりを多く持つ(これらについては例えば私の毛利梅園「梅園介譜」 ダンベイキサゴを参照されたい)。即ち、少なくとも伊豆にあってはこれらの粘液を持ち、食用に供されるところの海産腹足類としての「シタダミ」の方が本家だということである。それを柳田は指摘していないのである。確かに滴(したた)る粘った涎れのような液体を出すものが「シタダミ」ではあろう。しかし、それはまず、古えより親しく食用に供されてきた海産貝類にこそ先に附けられる名であり、カタツムリを濫觴とするとは私には思えないからである。無論、柳田はカタツムリがそうだと言ってはいない。言ってはいないが、どうもここの文脈を見るに、彼はそういう可能性も「アリ」ではないか? と主張したがっているように思われるのである。海産貝類のフリークの私としては、そうだとすれば、柳田に大いに異議を申し立てたくなるのである。

「新城の島」「新城」は「あらぐすく」と読む。八重山諸島内の島嶼で、現在は八重山郡竹富町に属する新城島(あらぐすくじま)。黒島の西約四キロメートル、西表島南東約六キロ強の位置にある。北東のピーナッツ型の上地島(かみぢじま)及び南東の丸い下地島(しもぢじま)の凡そ四百二十メートル離れた二島から成るが、同島は他の島から当該地方の方言で「離れ」を意味するところの「パナリ」或いは「パナリ島」とも呼ばれる(後述も参照)。上地島と下地島の東側はリーフで繋がっており、干潮時には一部が水面上に表れて徒歩で渡ることも出来るとウィキの「新城島」にはあるが、竹富町公式サイト内の「新城島」には、「サンゴ礁に囲まれた人魚伝説の島」と名打ち、『「パナリ」と呼ばれている2つの島の間は干潮時には、徒歩で渡ることができる。上地島は集落があるが、下地島は集落がなく牧場が広がっている』とあり、これを読む限りではウィキの記載とは異なり、「パナリ」の原義は両島の間の海峡様部分を指す呼称と読める(民俗学的にはこの呼称はすこぶる神聖な呼称であったように推理され、事実、この上地島には外には小浜島・石垣島宮良にしか現在は残らないとされている、旧暦六月に豊年祭として行われるところの、仮面と草で装った来訪神(漂着神由来か)の、民俗学ではかなり知られた秘奇祭アカマタ・クロマタが残っている。なお、現在、これらの祭りは通常の観光者には見たり参加したり記録することは出来ないとされている。これについては語りたいことが一杯あるが脱線になるので堪える)。なお、同公式サイトの方には、『昔は両島で人口700人を数えたときもあり、赤土に貝を混ぜてつくるゴツゴツした風合いのパナリ焼を生産していた。かつて島の周辺にはジュゴン(島ではザヌと呼ばれる)が棲息していて、「人魚の肉」を首里王府に献納するように命じられていた歴史があり、現在もジュゴンを祀る御嶽がある。今でも周辺の海は透明度高く、他の島では見られない美しさがある』とあり、ウィキの「旧跡」の項には、『新城島には古琉球から近世にかけての遺跡が多数あ』るとする中に、『タカニク(上地島):かつてはニシヌブシヌヤー(北の武士の居館)があったとされる。八重山式土器や輸入陶磁器が発掘されている』とし、また、『ポーンヤマ遺跡:パイヌブシヌヤー(南の武士の居館)と呼ばれ、砂浜に突き出た岩の上に石垣が築かれている。一辺』三メートルほどの『方形の石積墓が6基あり、やはり土器や陶磁器が見つかっている』とある。更に、『ナーシキ貝塚:八重山式土器やパナリ焼などが発掘された』とし、『伝・ウィスク村跡遺跡:大量の土器と輸入陶磁器が発掘されている』ともある(下線は総てやぶちゃん)。

「原料の粘土を得る途が無い故に、多くの蝸牛を共に搗き潰して、其粘液を以て赤土をこね上げ、大きな水甕までを作つて居た」カタツムリや海産と思われる貝類が焼き物のツナギとして搗き込まれていたという仮説は現遺物に一応の確認はされているようである。幾つかのネット・データがあるが、中でも石垣市教育委員会文化財課の「八重山諸島の考古学」(PDF)がよい。それによれば、尚寧二〇/慶長一四(一六〇九)年の『薩摩の琉球侵攻以降から琉球処分までの間を、「近世琉球」と称しています。ちょうどこの頃に、考古学的にも変化がみられることから、八重山諸島では、この近世期を代表する土器-パナリ焼の名称をとって、パナリ期と呼んでいます。まずは、このパナリ焼という焼き物について考えてみましょう』とあって、以下のように載る。

   《引用開始》

(1)パナリ焼

1)パナリ焼と伝承

新城島と関係の深い焼物に「パナリ焼」(図29[やぶちゃん注:リンク先参照。])があります。考古学編年上の「パナリ期」もこれに由来し、おおむね琉球の近世に重なり、17世紀初頭から19世紀までと位置づけられています。パナリ焼は、一般的に竹富町新城島で19世紀中頃まで焼かれていた土器と説明されています。あわせて、その製作技法にも独特な解説がなされており、『沖縄大百科事典』から「パナリ焼」(新城1983)の項目を引けば、以下のような記載が見られます。

[やぶちゃん注:以下引用は底本では全体が二字下げ。]

 竹富町新城島で1857年(尚泰10)ごろまで造られていた土器質の焼物。新城島をパナリと呼ぶところからこの名称がある。その起源は明らかでないが、一説によると、昔、中国人が新城島に漂着してその技法を伝えたといわれる。その製法は一種独特で、蔓草やタブノキの粘液を土に混ぜて捏ねあわせ、轆轤を使わずに、手びねりで成形し、さらに蝸牛や貝肉の粘液をすり塗って形を整え、露天でカヤやススキの火で日用品のほとんどが造られており、王府時代は貢物として認められていたようである。(後略)

 この解説が、一般的なパナリ焼の一般的なイメージでしょう。しかし、本当に、この説明だけで、遺物としてのパナリ焼が理解できるのでしょうか。

 パナリ焼の「特徴」であり、「特異」な製法に、カタツムリの使用が挙げられます。しかし、仕上げの段階でカタツムリの肉(粘液)を塗ったとする解説や、土に混ぜたという解説など、その利用方法は引用者によって統一されているものではありません。

   《引用終了》

確かに、多くのネット記載は、柳田よろしく、カタツムリを土のツナギとして搗き込んだとか、或いはカタツムリの粘液を釉薬様に用いたりしたなどということを無批判に断定して解説しているが、これを読むと、どうも科学的な検証は今なお実際には行われていないことが判る。これはどうしても一言、言っておかねばなるまい。海産の粘液を多量に出す貝類が何故に主体足り得なかったかったのか? 何故、カタツムリでないといけなかったのか? 寧ろ、正直私が疑問に思うのはそれは本当に――陸生有肺類のカタツムリ――が主体であったのだろうか? という私の素朴な疑問なのである(そもそも先の引用には『蝸牛や貝肉の粘液をすり塗って形を整え』とある。この『貝肉』とは普通に読むなら、リーフのある沖繩なんである。陸生貝類ではなく海産貝類の肉軟体部と読むのが如何にも自然だと思うが如何?)。しかも多くが隆起珊瑚礁で出来た八重山諸島の島で焼き物を作るとするなら、その使用する土自体に既にして死骸の貝類(この場合は圧倒的に海産貝類となる)の殻が混入するのは、人為的にわざわざ入れ込んだとせずとも、これ、ごく当たり前のことではなかろうか? 私の疑義は不当であろうか? 大方の御叱正を乞うものではある。]

 

 沖繩本島の蝸牛は現在はチンナンであり、絲滿人はこれをジンナンとさへいつて居るが、前には寶島や種子島のごとく、ツンナンといつた者もあるらしく、小野蘭山氏の周到なる蒐集の中には、蝸牛、琉球に於てはツンナンといふ。その形扁螺(シタダミ)の如くにして殼薄く碎け易く黶無し。形扁なるものをヒラツンナンと謂ひ、殼厚なるものをバフツンナンと謂ひ、又殼厚くして尾尖り、斑文あり又圓黶あるものをフクツンナンと謂ふとある。是は傳聞であつて必ずしも精確を信じ難く、殊に同じ條下に、一種尾高くして出毛無きものをユフガホと謂ひ、その特に高きものはマキアゲユフガホと稱すとあるのは、或は沖繩の事實で無いかとも思はれるが、しかも此島に於ては夕顏をツブルと謂ひ、現に伊波普猷君の談に依れば、一種山中に棲息する蝸牛にはツブルと名るものもあるといふことで、少なくとも沖繩人は、ツブルが蝸牛の方言の一つであることだけは知つて居たのである。是から推して考へて行くと、若しツンナンがツグラメの轉訛であり、チンダルが假にシタダミの系統に屬するものとすれば、二つの方言領の境は沖繩本島から逆に北へ戻つて、奄美大島と其屬島との間及び同じ大島々内でも北端から約四分の一ほどの處に、一本の堺線が引かれることになる。之とは反對にツンナンも亦シタダミの方の影響だとすると、今度は又九州主島と種子島との間の海を、堺としなければならぬのであるが、何れにしてもそれは想像のしにくいことである。それで第三の私の意見では、當初全然別ものであつた二つの方言が、爰でも其接觸面に於て一種の複合現象を呈し、兩名相牽制して中間にこの特殊の形態を發生せしめたものと解するのである。他の地方の方言邊境にも、デエボロだのツノンダイシロだのゝ如き、音の複合を生じた例はあるが、多數はカサツブレやマイマイツブロと同じく、語形の一部を保存したものであつた。それが海南の島々に於て、專ら音の調和によつて次々に新たなる語形を生じて居るのは、之を果して訛語のうちに算へてよいかどうか。思ふに其原因の主たるものは、前代の單語が甚だしく簡單であつて、之を後世の童詞に利用せられたものに比べると、遙かに符號化することが容易であつた爲では無いか。或は又新語の出現する機會が乏しくして、いつ迄も意味不明なる古語を守つて居た結果、徐々の音變化に向つて比較的無關心であつたからでは無いか。別の語を以て言ふならば、癖とか誤謬とかいふ個人に屬する理由以外、他に尚必然に訛語を發生せしむべき社會的狀勢があつて、それがちやうど方言の次々に出來る理由と、表裏兩端に相剋するものでは無かつたか。假にさういふ推測が成り立つものとすれば、國語の成長を説かうとする人々は、今少しく細密に是と文藝生活との交渉を、省察して見なければならなかつたのである。

[やぶちゃん注:「絲滿人」現在の沖縄県糸満市糸満(いとまん/琉球語:いちまん)附近を生地とする人々。古くは兼城(かねぐすく)間切(まぎり)糸満村(そん)として同間切の海人(うみんちゅ)の町として漁業が盛んであった。

「小野蘭山」既注。以下の「本草綱目啓蒙」の「蝸牛」の項は、この注のために別に『小野蘭山「本草綱目啓蒙」より「蝸牛」の項』を急遽、電子化しておいたので必ずそちらを先に参照されたい。

「扁螺(シタダミ)」私が拘っているのは問題箇所はこれで、実は次の段落で

「黶」これは原本と異なる。改訂版では「えん」とルビするが、これは「えむ(えん)」で、黒子(ほくろ)のことである。リンク先を見て戴ければ分かるが、原本では「厴」で「フタ」と読みを振っている。これはもう所謂、蔕(へた)、巻き貝の殻口を閉じる板状の蓋(ふた)動物学用語では“operculum”(オペキュラム)のことを指す。陸産貝類中ではガス交換をする有肺類であるカタツムリの仲間(有肺亜綱 Pulmonata の基眼目 Basommatophora 及び柄眼目 Stylommatophora)は蓋を持たない。但し、前鰓類に属する種(例えば腹足綱前鰓亜綱ヤマタニシ上科ヤマタニシ科 Cyclophoridae のヤマタニシ類など)は全て蓋を持つ。従って、ここで蘭山の言っている蝸牛の中には現行の狭義のカタツムリ(有肺類)でない陸生貝類が混入していることは言を俟たない。少なくとも「フタツンナン」は有肺類のそれではなく(現在の生物学上は、であって古典的には「蝸牛」の類いではある)、「ユフガホ」及び「マキアゲユフガホ」というのはその尖塔型の形態から見て、腹足綱有肺目キセルガイ(煙管貝)科 Clausliidae の陸生貝類である。但し、こちらは生物学的にもカタツムリの近縁であるから、古典的な「蝸牛」の類いと見る分には全く科学的にもおかしくはないことにはなる。

「此島に於ては夕顏をツブルと謂ひ、現に伊波普猷君の談に依れば、一種山中に棲息する蝸牛にはツブルと名るものもあるといふ」「夕顏」はスミレ目ウリ科ユウガオ属変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida 或いはその仲間を指す。恐らくは花開く前のユウガオの蕾の形状(尖塔形を成し、一種の腹足類の貝殻によく似る)による相似呼称とも思われる。

「デエボロ」改訂版は『デェボロ』。]

 

 そこで立戻つてもう一度、この九州諸島の弘い地域に、何故に單純古風なるツブラ・ツグラが今も殘り、更に其外側には尚一段と古いシタダミが、どうして又痕跡を留めることになつたかを考へて見る。私の説明は或はまだ概括に失して居るかも知らぬが、これは要するに國民の移動定住の樣式如何が、國語そのものゝ形態の上にも、亦無關係であり得なかつたことを意味するものと思ふ。人が都邑の生活を開始するに及んで、始めて心付かれるのは、安逸の價値とも名くべきものであつた。澤や磯ばたに別れ別れに住む者ならば、主たる休息方法は飽滿か睡眠かの他には無かつたらうが、別にそれ以上の色々なる閑暇の利用法があつたことは、經驗境遇の互ひに異なる人人が集まつて、それを比べて見ることによつて始めて學び得たのである。たとへば眼の樂しみよりは耳の愉快の方が、容易且つ小規模に之を求め得られるといふことなどは、それ迄は殆ど知る機會も無かつた。勢力ある階級の我儘なども、實はこの雜居後の發見によつて、始めて大いにそゝのかされることになつたのである。上代から傳はつた莊嚴なる多くの唱へごと語りごとが、次第に年一度の宗教儀式から引離されて、平時にも之を試みんとする者を生じたのも、つまりは酒杯や歌舞の獨立と同樣に、或は又自ら生産せざるものゝ消費と同樣に、何れも都邑群住の花やかなる影響であつたと言ひ得る。それが恐らくは文學の濫觴であり、又諧謔がその信仰上の意義を失うて、凡人平常の退屈を慰めるに至つた原因かとも思ふ。言語を變化あり精彩ある耳の食物たらしめた事業の如きも、其以前には只少數專門の徒の管理する所であつた故に、勢ひ其效果の大を期し得なかつたのであるが、一旦異郷の者が相往來し、又互ひに自ら紹介しなければならぬことになると、其技藝は是が爲に解放せられ、且つ大に進化するの必要があつたのである。是が現代に持續した都府の魅力、所謂都會熟の隱れたる病原であつて、九州奧羽は即ち稍その中心から遠かつたのである。獨り「京わらんべ」のみが都では輕佻であつたのでは無い。新を喜び古きに倦む氣風、機智と練習とを以て物言ひの變化を促さうとする努力が、一般に繁華の土地にのみ尖鋭であつた爲に、其反面から偏鄙と名のつくやうな地方には、多くの古いものが保存せられたのである。單に上世の民族遷移の道筋であつたが故に、袋から物のこぼれる樣に、ほろほろと落散つて居るものと解するのは誤りであらう。若しそれだけの原因からならば、鎭西に稀に皇祖東征の代の單語が、遺留して居た理由にはならうが、それが數十世紀を持ちこたへて居た説明としては不十分である。ましてや鎌倉室町乃至は江戸初期の新語が、分布して居る不可思議を釋くことは到底出來ない。しかも一方には東北の邊土の如く、まだ一度も我々の中堅が足を踏み入れなかつた地域にも、同じ樣な痕跡は見られるのである。是を解説する方法は恐らくは一つしかあるまい。一言で言ふならば、ツダラメ・タマクラでも差支無しと思ふ者ばかり多く住み、それを古臭いとか分らぬとか言つて、嘲り又は嗾かさうとする者が、滅多に遣つても來ず、來ても新らしい語を採用させる途を知らなかつたのである。小兒は勿論大人よりも遙かに、外部の慫慂には敏感であつたらうが、彼等の活躍は通例模倣の外には出でなかつた。群の力がその周圍を押へて居れば、さまで頻繁なる新語の感化を受けずにも居られたものらしい。だから街道の交錯した中部日本の平地のみが、殊に方言の烈しい混亂を經驗し、千船百船の寄り湊ふ海の港などは、案外に在來の統一を保ち得たのであつた。併し是とても勿論程度の問題で、如何に律義にして氣働きの無い村の人たちでも、新たなる事物には新らしい言葉を求めた如く、それ相應に各自の生活の要不要に從つて、變へてよいものは徐々として變へて來た。たゞ其動機が遙かに他の一方のものよりも著實であつて、單に感覺によつて氣輕なる取捨をすることが出來なかつた。それが中央からの距離と比例して、外へ行くほどづゝ單語の壽命が長かつた理由であつて、さういふ邊土の言葉とても、亦決して單に古いから殘つたわけでは無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「都邑」「といふ(とゆう)」はここでは都会の意。

「鎭西」九州の古称。

「中堅」改訂版では『中央人』とする。この方が分かり易い。

「嗾かさうとする者」改訂版では『改めさせようとする者』とする。この方が分かり易い。

「千船百船」改訂版では『ちふねももふね』とルビする。

「湊ふ」「つどふ」(集ふ)と訓じていることが改訂版で判る。改訂版は漢字が「集」に変更されている。]

小野蘭山「本草綱目啓蒙」より「蝸牛」の項

[やぶちゃん注:小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)は本草学者。二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五)年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。これは本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した。以上はウィキの「小野蘭山」に拠る。

 「本草綱目啓蒙」は厳密に言うと、明の本草学者李時珍の著になる本草学の大著「本草綱目」について蘭山が口授した「本草紀聞」を、孫と門人が整理したものである。引用に自説を加えて方言名なども記されてある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像(リンク先は「蝸牛」の項の第一帖)を視認した。割注は〔 〕で同ポイントで示した。冒頭の地方名と異名(殆んどが漢籍からの引用と思われる)は底本では「蝸牛」以下に不規則な字空けを以って総てだらだらと繋がって記されてあるが、非常に読み難いので、一字下げで頭に総て並べた(複数呼称は一緒にした)。本文同ポイントで〔 〕で記すものは割注と区別して【 】で示した。一部の変体字や約物(「時」の意の「寸」、「シテ」の意の「乄」、「事」の意の「ヿ」など)は正字化したが、漢字はなるべく原本通りとした。また、本文を読み易するために、手前勝手に読んで、句読点と記号を適宜打ってみた。違っている箇所もあろう。安易に引用せずに、くれぐれも上記リンク先の原文に当たられ、御自分で電子化されたい。

 本電子化注は私の柳田國男「蝸牛考」の資料として、急遽行ったものである。本文電子化を最優先したため、頭書などの翻刻は省略し、注も字注のみとした。また後日、注を追加する可能性はある。]

 

蝸牛

 カタツブリ〔古名〕

 マイマイツブリ〔江戸〕

 マヱマヱ〔筑前〕

 マイマイ〔同上遠州越前防州作州備後〕

 カサパチマイマイ〔駿州〕

 デヾムシ〔京〕

 デムシ デブシ〔豫州松山〕

 デツポロ  カタヽ〔共同上吉田〕

[やぶちゃん注:「吉田」現在の愛媛県松山市内の南吉田町附近か。]

 デゴナ〔勢州津〕

 デバノ〔桑名〕

 デイデイ〔同上松阪〕

 デンデンコボシ〔和州〕

 デンデンゴウ〔讚州髙松〕

 デンデンムシ〔同上丸龜阿州備前〕

 デンノムシ〔播州立野〕

 デノムシ〔同上赤穗四國九州〕

 デンボウラク〔相州〕

 ヤマダニシ〔隅田川邊〕

 マイボロ〔常州〕

 オオボロ〔下野〕

 ヘビノテマクラ〔仙

 ヘビノタマクラ ツノダシムシ〔共同上〕

 メンメン〔涌谷〕

[やぶちゃん注:「涌谷」現在の宮城県北部の遠田郡涌谷町(わくやちょう)。]

 タマクラ〔同上〕

 ダイダイムシ〔雲州〕

 モウイ〔石州〕

[やぶちゃん注:「石州」は石見国の別称。]

 デンガラムシ〔能州〕

 クワヘヒヤウ〔隅州〕

 ツンナン〔琉球〕

【一名】

 瓜牛〔事物異名〕

 寄居〔同上〕

 書梁〔事物紺珠〕

 篆壁 附蠃〔共同上〕

 野螺螄〔藥性奇方〕

 麦牛兒〔濟世全書〕

 蝸〔典籍便覧〕

 蝸舍 僕纍〔共同上〕

 草螺子〔訓蒙字會〕

 蝸蟲〔三才圖會〕

 都馬蛇〔郷藥本草〕

 海羊〔願體廣類集〕

 海洋〔醫燈續焰〕

 蜒蚰〔附方〕

 水蜒蚰〔同上〕

 ※1※2

[やぶちゃん字注:「※1」=「嗁」-「口」+(へん)「虫」。「※2」=(へん)「虫」+(つくり)「侯」。]〔正字通〕

 篆愁君〔清異錄〕

 水牛〔盛京通志〕

冬月ハ、石間、或ハ土中ニ蟄シ、寒ヲ避、春雨ヲ得レバ、ハヒ出テ、草樹ニ上ル。天晴ル時ハ、葉下ニ隱レ懸リ、雨フル時ハ、出縁テ、新葉ヲ食フ。殊ニ香草ヲ嗜ミ、嫩芽ヲ害ス。梅雨中、卵化、一・二分ノ大サナル蝸牛、多ク出、最モ嫩苗ヲ害ス。其形、扁螺(シタヾミ)ノ如クニシテ、殻薄ク、碎ケヤスク、厴(フタ)ナシ。行時ハ、形、蛞蝓ノ如クシテ、殻ヲ背上ニ負、頭ニ兩角ヲ出ス。故ニ蝸牛ト名ツク。下ニ兩ノ短角ノ如ナル者アリ。故、保昇『有四黒角一。』ト云。「本草原始」ニ『因頭、有ㇾ角、負ㇾ鍋、而行、故名蝸牛。』ト云。殻色、淡黄白、或ハ金色、或ハ微黒、或ハ微紫、或有黒斑點、或有黒條。其形圓ナル者ハ「ツンナン」〔琉球〕ト云、扁ナル者ハ「ヒラツンナン」〔同上〕ト云、深山ニハ極テ扁クシテ、褐毛アル者アリ。又尾髙ク出毛ナキ者アリ。「ユフガホ」ト云、其殊ニ髙キ者ハ「マキアゲユフガホ」ト云、此厚殻ナルヲ「バフツンナン」〔中山〕ト云。尋常ノ蝸牛ノ厚キ者ヲ「ヤマミナ」〔薩州竹島〕ト云、又殻厚クシテ尾尖リ斑文アリテ圓厴アル者ヲ「フタツンナン」〔琉球〕ト云。又、大木上、或ハ山中ニハ濶サ一寸餘ナルアリ。殻モ硬クシテ黒條横ニアリ、此ヲ「ヤマノクルマ」ト呼。此外數品アリ。凡、蝸牛、夏月、雨濕ニ乘シテ、髙キニ上リ、忽、晴テ乾ク時ハ、縁下ル事、能ハズシテ死ス。「大倉州志」ニ古詩、『升ㇾ髙不ㇾ知ㇾ疲。竟作粘ㇾ壁枯一、即此物也。』ト云。

「笈の小文」の旅シンクロニティ――  二日にもぬかりはせじな花の春 芭蕉

本日  2016年 2月 2日

     貞享5年 1月 1日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月 2日

 

 宵の年、空の名殘惜(をし)まんと、酒飮み夜更かして、元日寢忘れたれば、

 

二日にもぬかりはせじな花の春

 

「笈の小文」より。歳旦句(この年は九月三十日に元禄に改元)。但し、次の「春たちて」の注で示すように土芳「全伝」ではこの句に『此句正月九日、風麥ニ會シテノ吟也』と附記されているとあるので、少なくとも披露自体は一月九日であった可能性が高い。

「篇突(へんつき)」(許六等編・元禄一一(一六九八)年刊)には、

 

   空の名殘おしまむと舊友の來りて酒興

   じけるニ、元日の晝まで伏(ふし)て

   曙(あけぼの)見はづして

 

と前書し(「おしまむ」はママ)、また「泊船集」(風国編・元禄十一年刊)には、

 

   元日ハ晝まで寢てもちくひはづしぬ

 

と前書する。

 土芳の「赤冊子」で、芭蕉はこの句について、『等類の氣遣ひなき趣向を得たり』と述べたことが載る。類型句のありそうな気遣いが全く必要がない句であるということで、しゃっちょこばって言祝ぎすべき歳旦の句を、型破りに前例なく滑稽にいなしたところに面白さがあるのである。というより、前日の句「古里や臍の緒に泣く年のくれ」が、謂わば、能の「シオリ」を孕んだ黙して語り得ぬ深く沈んだ重みを持つものであったのを、うって変わって歳旦の挨拶句として俳文としてリズミカルに繋げるには、春の大道芸の万歳が山家に来たったような、如何にも軽快な面白さ、まさに間(アイ)狂言の如きメーターの大きな振れが必要であったのだと私は思うのである。

2016/02/01

柳田國男 蝸牛考 初版(18) 東北と西南と(Ⅱ) / 東北と西南と~了

ウロコ 是は魚類の鱗のことでは無くて、フケ即ち人間の頭の垢をさういふのである。宮城縣の北部、ことに登米郡などではフケのことをウロコ又はオロコ、靑森縣東側に於てもウロコと謂ふから、この分布は可なり廣からうと思ふ。沖繩の島ではこれをイリキ、「倭名鈔」にも既に俗に伊呂古と云ふとあるから、若し魚鱗のウロコを保存しようとすれば、是だけの音變化は必要であつたらうが、既に魚類のことをイロクヅとも謂つた例があるから、元は差別が無かつたのである。頭垢をウロコと呼ぶ奧南部などでは、鱗の方はコケと謂ひ、關東でも一般にコケを鱗と苔とに兩用して居るが、伊豫の南端や大分縣の一部では、コケといふのが頭の垢のことであつた。察するにかの伊呂古の「俗語」以前、さらに今一層廣汎なるコケといふ語があつて、それを苔又は茸に專用する爲に、一轉してまたフケといふ語も出來たのであらう。以上二つの方言は沖繩の學者が既に注意したもので、伊波君は尚この以外に、ツビ(尻)・ナイ(地震)・シシ(肉)・ホソ(臍)・ヨム(算へる)・マル(糞ひる)・ナス(産む)・コトイ(犢)・サクリ(噦噎)・エツリ(蘆萑)・ユイマハル(協力する)等の語を拾つて居られるが、此等の方言一致は決して奧羽の一地方には限られて居らぬ故に、玆にはもはや其説を敷衍する必要は無い。私は寧ろ此以外、即ち上代の記錄に是といふ痕跡を留めず、雙方が知らずに自分の土地だけの方言と思つて居るものに、尚色々の共通があるべきことを豫想して居るのである。其二三の著しいものをいへば、

[やぶちゃん注:ここで改行しているのでここに注する。

「奥南部」これは青森県の旧南部藩地区を指す語と思われる。

「犢」「こうし」と読む。仔牛のこと。

「噦噎」これで「さくり」「しやつくり(しゃっくり)」と読む。言わずもがなであるが、横隔膜の不随意性痙攣によって息を吸い込んだ際に声門が反射的に開いて特殊な音声が発生する状態を指す。

「蘆萑」上代語。「えつり」と読み、茅葺・藁葺屋根や土蔵の壁の下地材で葦(よし)や細い竹・板を繩で簀(す)の如く編んだもの。「棧」とも書くが、その場合は前記の葺き草を受けるために垂木の上に並べる棧(さん)の意となる。改訂版では「あし」とルビする。

「ユヒマハル」この「ユヒ」は「結(ゆひ)」(古来より行われた、田植え・屋根の葺き替え・味噌搗(つ)きなどの一時に多くの労働力を要する仕事をする際に集落の構成員がほぼ総出で互いに人手を貸し合った制度)に由来すると考えてよかろう。]

クラ 是は今日の雀のことで、沖繩本島が主として此語を用ゐ、普通此小鳥の啼聲から出たものと想像せられて居る。他の府縣の多くでは、ツバクラ・ツバクロの複合形に存するものゝ外、山がら・四十がらなどの所謂「がらの字」にその聯絡を認めるのみであるが、スズメは本來小鳥の總名であつたらしく、特に今日の軒端の雀を謂ふ場合には、まだ色々の附頭語が殘つて居る。その中で利根川下流にあるジャッチタラはクラの一例であり、又今日では「膨れる」と解し或は頰黑とも解せられるフクラスズメなども、他の一例では無いかと思ふ。それから是は奧羽では無いが、大和の十津川から紀州の熊野、阿波の祖谷山といふが如き非常な山奧だけに、雀をイタクラといふ方言が分布して居るのである。このイタクラのイタは、自分の想像では「語りごと」をすることで、他の南方の島々のヨムンドリと同じ意味かと思ふ。それから今一つ八重山の諸島に、バードリといふ雀の方言があるが、是は羽鳥であつてこの鳥が特に羽ばたきをよくするのを、觀察した者の命名かと思はれる。越中などでは雀をバンドリスズメといふ村がある。バンドリは一種の蓑のことで、人が蓑を着た形に似て居るからと説明して居るが、この説明は逆であらうと考へる。蓑をバンドリとしも名づけたる動機は、むしろそれを着て田の邊に飛びまはる姿が、この羽鳥を聯想させるためであつたらうと思ふ。或は「むさゝび」の一名をバンドリといふから、蓑をさういふことになつたかの如く思つて居る人もあるらしいが、似た點からいへば比べものにならず、又獸の方が遙かに物遠い。是は恐らく一方が單稱であり、雀は其バンドリにスズメを附けて呼ぶ故に、普通の習はしに準じて此方を後の語としたゞけで、むさゝびも却つてもとはバンドリキネズミであつたかも知れぬのである。

[やぶちゃん注:「阿波の祖谷山」「祖谷山」は「いややま」と読み、徳島県西部の祖谷川・松尾川流域の山間部地域を指す。旧美馬(みま)郡(後に三好(みよし)郡)東祖谷山村及び西祖谷山村の地域に相当する。現在は三好市の一部。]

ミザ これは地面を意味する古い日本語であつたかと思はれる。文章語の方では大地をもツチと謂つて居るが、別に地表に當るべき一つの言葉があつてよかつたのである。南の果てに位する多良間の島などでは、今も明瞭に地面をミザと謂つて居るが、沖繩本島ではンジャと變化して居る故に、ふと古くからの一致には心付かなくなつたのである。ミザといふ語の今でも遣つて居るのは、八丈の島と佐渡の島とで、其他にもあるとは思ふがまだ發見せられて居らぬ。他の府縣では通例「地」の漢音と複合して、ヂビタ若しくはヂベタといふ語になつて行はれて居るが、是にへタといふ意味の附くわけの無いことは、誰にでも考へられると思ふ。信州の上水内郡には、地面をツチミザといふ村がある。濕地を意味する所の九州のムダ、それと接續して居る日本海側のウダなどは、隨分古くからではあるが、其分化と見てよからう。ニタ又はヌタといふ東國の方言なども、曾て自分はアイヌ語のニタトの繼承であらうと謂つたが、事によるとやはりミザの同系であつたかも知れぬ。但し東北では濕地はヤチであつて、ミザに該當する語はまだ心付いて居ない。この南北二地の一致は、一方が單に沖繩の群島だけである故に、或はまだ之を信じ得ず、何か事を好む穿鑿の如く見る人もあらうが、是から下に掲げる單語の如きは、もう少し範圍が弘くなるのである。

[やぶちゃん注:「多良間の島」宮古島と石垣島の中間にる多良間島(たらまじま)。現在は全島が沖縄県宮古郡多良間村(そん)。

「上水内郡」「かみみのちぐん」と読む現存する長野県の郡。当時の郡域は現在の同郡を構成する信濃町(しなのまち)・小川村(おがわむら)・飯綱町(いいづなまち)の他に、長野市の一部が含まれた広域である。]

ムゾイ、ムゾカ 是は今日の「可愛い」に當る言葉で、沖繩の島では歌にまで使用せられ、島人は現に自分の地方だけの方言だと思つて居る。ところが此語の行はれる區域は、九州は殆ど一圓であり中間に廣々とした不使用地を隔てゝ、奧羽の各縣でも亦まさしく此通りの語があつたのである。但し東北には今一つメゴイといふ語がまだ殘つて居る爲に、主として之を「ふびんな」の方に向けようとして居るが、それでもまだミジョイとかメジョイとか、少し形を變へて愛らしいといふ意味に使ふ者はある。此風は越後にもあり、又武藏でも秩父郡には、ムジッコイといふ「可愛らしい」がある。九州の方には既にメグシを有せぬ故に、明らかに一箇のムゾを、少しの變化を以て二通りに用ゐて居る。たとへば熊本縣でも南北の端だけはムゾカが「かわいゝ」であるが、城下と其周圍の郡に來るとそれが「かわいさう」の意味に用ゐられ、「かわいゝ」の爲には別にムゾラシがある。さうかと思ふと阿蘇郡はムゾケエ、その東隣の豐後日向ではムゾナキイ、またはムドナキイといふのが「かわいさう」の方である。奧羽の方でも是と同樣で、やはり少しでも定まつた形は無く、單にムゾといふ部分が共通して居るのみである。たとへば仙臺ではムゾイ又はムゾコイ、其附近の郡もモゾイ、南部領内ではムゾヤナ若しくはモゾヤダ、羽後の横手あたりはムゾエ、羽前の瀬見温泉はメゾテエ、同じく莊内はミゾケネエが「かわいさう」である。莊内方言考には、ミジヨケナイは「見ずに置けない」の意だと説いて居るが、さうかと思ふ者などは一人も無い。さうして會津の若松では、ムザウサイが又「慘い」の意味に用ゐられて居るのである。要するに此等は皆可愛らしいと可愛さうとの差別の如きもので、言葉そのものにはそれ迄の内容は無く、たゞ使ふ人の心持の方が變つて來たので、歸する所はカナシといふ語の意味の推移と同じく、愛と憐愍とがもと甚だ近い感覺であつたことを明らかにするまでゞあらう。漢字で無慘などゝ書くムザンといふ日本語も、是から起つたことが想像せられるのみならず、更に一歩を進めると、ムゴイといふ語も亦元はメグシであつたかと思はれる。下總香取郡ではムゴイは「可愛い」であり、上總の長生郡では「可愛がる」をムゴガルといふこと、全然奧羽地方のメンコイ・メゴガルと同じである。福福島縣でも相馬郡のムゴイ・ムゴシイは「可愛い」に該當し、石城郡のムゴイは「可愛さうな」の方であり、阿武隈川流域にはメンゴエの「愛らしい」が盛んに用ゐられて、モゴサイといふ語を以て「可愛さうな」の意味に使つて居る。信州などでも上伊那郡の如く、モゴイ・モゴチネエを憐憫の意に用ゐる處と、東筑摩郡の如く慘いといふことを、モゲエだのモオラシイなどゝいふ土地とがある。近畿以西の府縣にはメグシといふ語既に消えて、只ムゴイといふ破片を留め、其代りに今現れて居るのは、漢語とも日本語ともきまりの付かぬやうな可愛いといふ新語だけである。それが大昔からの存在で無いことは、何人の眼にもわかるのであるが、然らば其一つ前は何と謂つたかといふと、ちよつとは答へられぬやうになつてしまつた。それこそ本當にムゲエコツである。

[やぶちゃん注:「ほんなこつ、むげえこつ!」――柳田先生、結構、オチャメ!

「莊内方言考」明治二四(一八九一)年黒川友恭(遠碧軒)の著わした荘内地方(旧出羽国田川郡庄内。現在の山形県鶴岡市)の方言研究書。以下の柳田に一蹴されている「みじよけない」の記載は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該頁の画像によれば、

   *

みじよけないとは見ずに置けないにて憐愍なる有樣の見捨るに忍ばれぬ也

   *

となっている。

「ミジヨケナイ」改訂版では『ミジョケナイ』。

「ムザウサイ」今までも注しておらず、向後もやるつもりはなく、ここだけに留めておくが、改訂版ではこうした方言も現代仮名に消毒されてしまって、『ムゾウサイ』となっている。この変更が正しいとは私は実は微塵も思っていない。

「下總香取郡」香取郡は千葉県北端に現存する郡であるが、当時は遙かに広域。

「上總の長生郡」千葉県中部南岸域に現存するが、当時は茂原(もばら)市全域他を含んだ。

「上伊那郡」長野県南西郡に現存するが、当時は伊那市・駒ヶ根市及び下伊那郡松川町の一部(上片桐)を含んだ遙かに広域で、現在でも「上伊那地域(地区)」と総称される場合には伊那市・駒ヶ根市を含むこともある、とウィキの「上伊那郡にはある。

「東筑摩郡」長野県中央部に飛地化して現存する郡であるが、当時は松本市の一部・塩尻市の一部・安曇野市の一部を含む長野県の中央を占有した広域郡であった。]

タンペ これは唾を意味する古語であつたと思はれて、やはり日本の南北兩端だけに殘つて居る。今日普通に使ふのはツワとツバキで、前者の元の形はツまたはツヅであつた。ツバキは全く是とは別系統で、本來はツバのキ、すなわち唇の液體の意味であつたことは、唇を九州の北部でツバ、南部でスバといふことと、關東以北で唾を別にクタキ即ち口の液と謂ひ、又はシタキす即ち舌の液といふのを見てもわかり、ツバは其ツバキとツワとの一種の混同に過ぎぬといふことは、以前別の論文にこれを説いて居る。ところが東北では秋田市とその近郡でタンペ、盛岡とその下流の各地でタンパ・タンペ・タッペ、米澤とその周圍ではタッペ、福島縣北部でもタンペをシタキと併用して居る。それは痰である又は啖と書くべきだなどゝ、さもさも輸入の物の如く説く者もあるが、實際の話主はまだ唾と同じ意味に、タンペを使ふのだから致し方が無い。或は我々のタンと名づくるものだけにネツペといふ語を用ゐる土地もあり、又は一方をタンペ、他の方をタンパと言はうとする處もあるが、是は全く後世の差別であつて、多分はタンといふ語も斯くの如くして分化したものと思ふ。南の島においては首里・那覇がチンペ、屋良がトンペ、名護と喜界島とがツンペである。九州において筑後三池地方のツルペ、同吉井附近のシンチヤ、ずつと離れた紀州の有田郡にもチヤンペがある。最初は多分唾を吐く音から出た語であつて、ツとは關係がありツバキ・シタキ等とは競爭者であつたのが、後に口から吐くものを二つに言ひ分けるやうになつた爲に、中部日本に於ては割據の狀を呈し、タンはたゞ所謂啖だけに、立て籠るようになつたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「以前別の論文」本「蝸牛考」刊行の丁度一年前の昭和四(一九二九)年七月発行の『岡山文化資料』初出の「唾を」である。後に単行本「方言覚書」(昭和一七(一九四二)年創元社刊)に所収された。

「屋良」沖縄本島中部にある中頭(なかがみ)郡の嘉手納(かでな)町屋良(やら)。現在は、かのおぞましき嘉手納基地の北側フェンス外の、非常に狭い地区しか指さない。

「名護」現在の沖縄本島北部にある名護市。

「喜界島」現在、鹿児島県大島郡喜界町である喜界島(きかいじま/きかいがしま)。奄美群島北東部に位置し、奄美大島北部の東直近にある。

「筑後」「吉井」福岡県の旧浮羽(うきは)郡吉井町(よしいまち)。現在の「うきは市」の旧同町町域地区。三池の約四十七キロメートル東北に当たる。

「シンチヤ」改訂版では『シンチャ』。

「紀州の有田郡」「ありだぐん」と読む。和歌山県の北部中域に東西に長く広がる郡。当時は現在の湯浅町(ゆあさちょう)・広川(ひろがわ)町・有田川(ありだがわ)町の他、有田市の大部分を含んだ。

「チヤンペ」改訂版では『チャンペ』。]

アクト 是は漢字の踵を以て宛てられる語で、東京とその四周の平原ではカカト、西京以西の普通語はキビスであるが、アクトの行はれて居る區域も中々廣い。先づ東北の六縣は全部、それから越後信州を通つて、美濃尾張の平野にまで及んで居るのであるが、其中間に少しばかりの變化がある。即ち甲州にはアコイ、伊豆にはアツクイ、駿遠參にはアクツ・アゴトがあつて、再び美濃尾張のアクイ・アクイト等を生じ、近江ではそれがオゴシとなつて居る。カカトは少なくとも是と關係がある語らしいが、今はまだ明らかに説くことが出來ない。南の島々では殆ど全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある[やぶちゃん注:この「アクト」は底本では「アド」であるが、それでは意味が通らないので、例外的に誤植と断じて改訂版に基づき「アクト」に訂した。]。九州では肥後の阿蘇小國、筑後の久留米邊にもアドがあるから、搜したら尚幾つかの類例が見出さるゝと思ふ。

[やぶちゃん注:「アツクイ」改訂版では『アックイ』。

「駿遠參」「しゆんとほさん(しゅんとうさん)」或いは「しゆんゑんさん(しゅんえんさん)」と読み、駿河・遠江(とおとうみ)・参州(三河)のことを指す。

「南の島々では殆ど全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある」この「アクト」は実は底本では「アド」であるが、それでは意味が通らないので、例外的に誤植と断じ、改訂版に基づいて「アクト」に訂した。

「阿蘇小國」熊本県北東端の大分県に突き出た、九州山地内にある現在の阿蘇郡小国町(おぐにまち)。]

サスガラ 以下は沖繩諸島とは關係が無く、主として九州と奧羽との類似である。虎杖といふ物にはおよそ三通りの古語があつて、それが奇妙に入り交つて居ることは、是も以前に發表したことがあるが、其中でも靑森・秋田の二縣を支配して居るのは、サセドリ又はサシドロなどといふ一語であつた。サセドリは一方に又牛の鼻棒のことをもいふから、覺え易かつたのであらうが、ドリは同時にイタドリの下にも附き、更にサスガラともサシボコとも謂ふ土地があるから、サシといふだけが元の形であつたやうに思はれる。それが九州では阿蘇山脈の兩側、豐後も日向の臼杵郡も、肥後の山村もともに皆サドであり、又はサドガラとも謂つて居るのは、確かに兩端の一致である。但し此語は中央部に於ても伊勢や備中にサジナ・サジッポがある外に、瀨戸内海の島々と沿岸では、或は隣のタヂヒ系と交つて、サイジといふ形が出來たり、又はサイタツマの變化かと思ふサイタナになつたりして居るから、聯絡が全く絶えて居るとも言はれぬ。しかも兩端に於て特に顯著に、この類似が見られるといふのは、少なくとも南北の言語關係が、曾ては今のやうに隔絶したものでなかつたことを、立證するに足ると思ふ。

[やぶちゃん注:「虎杖」「いたどり」と読む。食用とするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica のこと。ここで柳田は述べていないが(恐らく全く歯牙にも掛けないということであろう)、漢方ではイタドリの根を「虎杖根(こじょうこん)」と称し、止血や鎮痛に用いることから、「痛取(イタミドリ)」の意とする説があるようである。

「以前に發表したことがある」昭和三(一九二八)年七月発行の『民族』に発表した「虎杖及び土筆」である。後に単行本「野草雑記」(昭和一五(一九四〇)年甲鳥書林刊)に所収された。そこでは「ドリ」は棒状のものを指すとしている。因みに、イタドリの茎は竹のように中空で、しかも多数の節を持っていて棒状を呈する。

「牛の鼻棒」牛の鼻の両穴を貫く環状の木又は金属製の輪。「鼻輪」「鼻環(はなかん)」「鼻ぐり」(←私はこれが親しい)「鼻がい」等とも呼称する。

「肥後の山村」の「山村」は「さんそん」と読んで一般名詞でとっておく(調べた限りでは熊本県内に現在は「やまむら」という地名は見出し得ない)。]

トゼンナ 是は新語の流通が、存外に足の早いものであつたことを示す例である。トゼンといふ語は徒然の音といふより外に、別の起源を想像し得ないものだが、北九州では稍弘い區域に亙つて、これを單に退屈といふだけで無く、淋しい又は腹がへつたといふ意味に用ゐて、トゼネエなどといふ形容詞が出來て居るが、南秋田の海近くの地に於て、自分は直接にその同じ語の同じ意味に使はれるのを耳にした。但し戸賀や北浦は船着の港だから、或は船人によつて特に運ばれたとも考へられる。實際又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた。

[やぶちゃん注:「戸賀」秋田県南秋田郡にあった戸賀港を有する旧戸賀村。現在の男鹿市の西端の戸賀の各町に相当する。

「北浦」秋田県南秋田郡にあった港町北浦町(きたうらまち)。現在の男鹿市の北端、北浦の各町に相当し、畠漁港を有する。孰れも古く北前船の停泊地であったものと思われる。

『實際又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた』私が馬鹿なのか、何故、殊更に括弧書きまでして船乗りにとって特別に『「使ふによい」言葉でもあつた』のか、よく判らない。識者の御教授を乞う。退屈で淋しい→どうにも切ねえ→女が欲しい、の隠語か?]

バ これは全國に行き渡つた語であるが、中央の弘い區域では又出刄庖丁とも謂つて、專ら魚を料理する一種の刄物に限つて居る。ところが肥前の五島などでは、デバは即ち小刀のことであり、伊豆の伊東でも伊勢の度會郡でも熊野の南輪内村でも、ともに同じ意味に用ゐて居るのである。是も沖乘の船からとも言はれるが、此方が實は古くからの用法であつて、反齒の鍛冶が打ち始めたからなどゝいふ説は、後に其語をただ一種の刄物のみに、限らうとした者の説かと思ふ。デバは恐らくは右片側に刄を付け、外へ向つて使ふやうにした刀のことで、内の方へ削り込む方の刄物、たとへば椀作りの用具などゝ、區別をする爲の出刄であつたらう。さういふ元の意味が飛離れた邊土だけに殘つて居ることは、單なる運搬とは考へることが出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「出刄庖丁」柳田は懐疑的であるが、ウィキ出刃包丁には、『出刃包丁について確認できる最も古い記録は江戸時代の』「堺鑑」(天和四・貞享元(一六八四)年に書かれた大阪堺の地誌)にあり、『「魚肉を料理する庖丁」と紹介されている。その時には既に堺の名品として知られていたらしく、詳細な登場時期や普及過程などは明らかになっていない。『堺鑑』には「その鍛冶、出歯の口もとなる故、人呼んで出歯庖丁と云えり」と記述されているが、これが普及や時間経過とともに「出刃」に変わっていったものと考えられる』とし、俳人文人の菊岡沾凉(せんりょう)が書いた「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年刊)にも『出歯庖丁について類似の記述がある』という語源説が載る。

「伊勢の度會郡」度会郡(わたらいぐん)。現存する三重県の郡で多気郡南の西方に接する。古くは現在の伊勢市も郡域であった。

「熊野の南輪内村」「みなみわうちむら」と読む。三重県の旧南牟婁郡にあった村で、現在の尾鷲市の南端に相当する。]

ネバシ・ナラシ 最後にもう一つだけ、是も新たに作つたかと思ふ例を擧げる。ネバシは眞綿のことで、奧州の突端と秋田縣の一部とに行はれ、それから南に來れば全然別の語になつて居るのだが、それが九州では壹岐五島、平戸伊萬里から佐賀島原まで、及び鹿兒島縣の一部にも行はれ、豐後の日田ではただネバとも謂つて居る。ネバスの動詞は今日では餘まり聽かぬが、引伸ばすといふことであつたらしい。それを其まゝ物の名にしたのである。ナラシも西國の略同じ區域に於て掛竿衣紋竿衣架の類をさう謂つており、紀州の日高郡や阿波の祖谷山でも其通りであるが、是が東國に來れば東上總では稻を乾す竿、關東の他の地方ではヲダカケともいい、北國その他の廣い區域に於て、ハサ木ともハデともいふものゝ名になつて居る。下總常陸の方ではそれがノロシと變化し、衣架や手拭掛けには別にソゾ若しくはミソゾといふ名があるが、この東西兩端のナラシは、本來一つの言葉であつたことは疑ひが無い。ナラスは普通「平らにする」といふ意味で、又次第にその方に改まらうとして居るけれども、元は農村の作業に屢々用ゐられた語であつたことは、ナルが平地を意味し、ナルイが傾斜の緩なることを、形容して居るのを見てもよくわかる。鮓がなれるといふのは低く平らになることであり、それを又ネマルともスヱルとも謂ふ所から考へると、人に「馴れる」といふ語が出來たのも是と關係があり、漢語とは起原が別であつたやうである。兎に角に動詞の此形を以て、其目的であつた物の名とする風は、以前今よりも遙かに盛んであつた一時代があつたかと思はれるが、其名殘が亦國の兩端のみに留まつて居るので、この例はまだ幾つでも見出されるであらう。米を洗つた白水をニゴシといふなども、近畿では全く耳にせぬ語であり、又我々には耳遠くさへ聽えるが、これも九州の北部と關東・信州との田舍には行はれて居る。斯ういふ明白な後の世の言葉までが、尚かけ離れた二地の類似を見るといふことは、假令一半は偶合の奇に驚くべきものだとしても、少なくとも國中の方言が常に獨立して、自由な誤謬に走つて居たものだとする、空想を破るには足るのである。單に一個のタンマダラ及びツグラメの問題ではなかつたのである。

[やぶちゃん注:「兎に角に動詞の此形を以て」ここは改訂版では『兎に角に動詞の所謂連體形を以て』とある。]

柳田國男 蝸牛考 初版(18) 東北と西南と(Ⅱ) / 東北と西南と~了

ウロコ 是は魚類の鱗のことでは無くて、フケ即ち人間の頭の垢をさういふのである。宮城縣の北部、ことに登米郡などではフケのことをウロコ又はオロコ、靑森縣東側に於てもウロコと謂ふから、この分布は可なり廣からうと思ふ。沖繩の島ではこれをイリキ、「倭名鈔」にも既に俗に伊呂古と云ふとあるから、若し魚鱗のウロコを保存しようとすれば、是だけの音變化は必要であつたらうが、既に魚類のことをイロクヅとも謂つた例があるから、元は差別が無かつたのである。頭垢をウロコと呼ぶ奧南部などでは、鱗の方はコケと謂ひ、關東でも一般にコケを鱗と苔とに兩用して居るが、伊豫の南端や大分縣の一部では、コケといふのが頭の垢のことであつた。察するにかの伊呂古の「俗語」以前、さらに今一層廣汎なるコケといふ語があつて、それを苔又は茸に專用する爲に、一轉してまたフケといふ語も出來たのであらう。以上二つの方言は沖繩の學者が既に注意したもので、伊波君は尚この以外に、ツビ(尻)・ナイ(地震)・シシ(肉)・ホソ(臍)・ヨム(算へる)・マル(糞ひる)・ナス(産む)・コトイ(犢)・サクリ(噦噎)・エツリ(蘆萑)・ユイマハル(協力する)等の語を拾つて居られるが、此等の方言一致は決して奧羽の一地方には限られて居らぬ故に、玆にはもはや其説を敷衍する必要は無い。私は寧ろ此以外、即ち上代の記錄に是といふ痕跡を留めず、雙方が知らずに自分の土地だけの方言と思つて居るものに、尚色々の共通があるべきことを豫想して居るのである。其二三の著しいものをいへば、

[やぶちゃん注:ここで改行しているのでここに注する。

「奥南部」これは青森県の旧南部藩地区を指す語と思われる。

「犢」「こうし」と読む。仔牛のこと。

「噦噎」これで「さくり」「しやつくり(しゃっくり)」と読む。言わずもがなであるが、横隔膜の不随意性痙攣によって息を吸い込んだ際に声門が反射的に開いて特殊な音声が発生する状態を指す。

「蘆萑」上代語。「えつり」と読み、茅葺・藁葺屋根や土蔵の壁の下地材で葦(よし)や細い竹・板を繩で簀(す)の如く編んだもの。「棧」とも書くが、その場合は前記の葺き草を受けるために垂木の上に並べる棧(さん)の意となる。改訂版では「あし」とルビする。

「ユヒマハル」この「ユヒ」は「結(ゆひ)」(古来より行われた、田植え・屋根の葺き替え・味噌搗(つ)きなどの一時に多くの労働力を要する仕事をする際に集落の構成員がほぼ総出で互いに人手を貸し合った制度)に由来すると考えてよかろう。]

クラ 是は今日の雀のことで、沖繩本島が主として此語を用ゐ、普通此小鳥の啼聲から出たものと想像せられて居る。他の府縣の多くでは、ツバクラ・ツバクロの複合形に存するものゝ外、山がら・四十がらなどの所謂「がらの字」にその聯絡を認めるのみであるが、スズメは本來小鳥の總名であつたらしく、特に今日の軒端の雀を謂ふ場合には、まだ色々の附頭語が殘つて居る。その中で利根川下流にあるジャッチタラはクラの一例であり、又今日では「膨れる」と解し或は頰黑とも解せられるフクラスズメなども、他の一例では無いかと思ふ。それから是は奧羽では無いが、大和の十津川から紀州の熊野、阿波の祖谷山といふが如き非常な山奧だけに、雀をイタクラといふ方言が分布して居るのである。このイタクラのイタは、自分の想像では「語りごと」をすることで、他の南方の島々のヨムンドリと同じ意味かと思ふ。それから今一つ八重山の諸島に、バードリといふ雀の方言があるが、是は羽鳥であつてこの鳥が特に羽ばたきをよくするのを、觀察した者の命名かと思はれる。越中などでは雀をバンドリスズメといふ村がある。バンドリは一種の蓑のことで、人が蓑を着た形に似て居るからと説明して居るが、この説明は逆であらうと考へる。

蓑をバンドリとしも名づけたる動機は、むしろそれを着て田の邊に飛びまはる姿が、この羽鳥を聯想させるためであつたらうと思ふ。或は「むさゝび」の一名をバンドリといふから、蓑をさういふことになつたかの如く思つて居る人もあるらしいが、似た點からいへば比べものにならず、又獸の方が遙かに物遠い。是は恐らく一方が單稱であり、雀は

其バンドリにスズメを附けて呼ぶ故に、普通の習はしに準じて此方を後の語としたゞけで、むさゝびも却つてもとはバンドリキネズミであつたかも知れぬのである。

[やぶちゃん注:「阿波の祖谷山」「祖谷山」は「いややま」と読み、徳島県西部の祖谷川・松尾川流域の山間部地域を指す。旧美馬(みま)郡(後に三好(みよし)郡)東祖谷山村及び西祖谷山村の地域に相当する。現在は三好市の一部。]

ミザ これは地面を意味する古い日本語であつたかと思はれる。文章語の方では大地をもツチと謂つて居るが、別に地表に當るべき一つの言葉があつてよかつたのである。南の果てに位する多良間の島などでは、今も明瞭に地面をミザと謂つて居るが、沖繩本島ではンジャと變化して居る故に、ふと古くからの一致には心付かなくなつたのである。ミザといふ語の今でも遣つて居るのは、八丈の島と佐渡の島とで、其他にもあるとは思ふがまだ發見せられて居らぬ。他の府縣では通例「地」の漢音と複合して、ヂビタ若しくはヂベタといふ語になつて行はれて居るが、是にへタといふ意味の附くわけの無いことは、誰にでも考へられると思ふ。信州の上水内郡には、地面をツチミザといふ村がある。濕地を意味する所の九州のムダ、それと接續して居る日本海側のウダなどは、隨分古くからではあるが、其分化と見てよからう。ニタ又はヌタといふ東國の方言なども、曾て自分はアイヌ語のニタトの繼承であらうと謂つたが、事によるとやはりミザの同系であつたかも知れぬ。但し東北では濕地はヤチであつて、ミザに該當する語はまだ心付いて居ない。この南北二地の一致は、一方が單に沖繩の群島だけである故に、或はまだ之を信じ得ず、何か事を好む穿鑿の如く見る人もあらうが、是から下に掲げる單語の如きは、もう少し範圍が弘くなるのである。

[やぶちゃん注:「多良間の島」宮古島と石垣島の中間にる多良間島(たらまじま)。現在は全島が沖縄県宮古郡多良間村(そん)。

「上水内郡」「かみみのちぐん」と読む現存する長野県の郡。当時の郡域は現在の同郡を構成する信濃町(しなのまち)・小川村(おがわむら)・飯綱町(いいづなまち)の他に、長野市の一部が含まれた広域である。]

ムゾイ、ムゾカ 是は今日の「可愛い」に當る言葉で、沖繩の島では歌にまで使用せられ、島人は現に自分の地方だけの方言だと思つて居る。ところが此語の行はれる區域は、九州は殆ど一圓であり中間に廣々とした不使用地を隔てゝ、奧羽の各縣でも亦まさしく此通りの語があつたのである。但し東北には今一つメゴイといふ語がまだ殘つて居る爲に、主として之を「ふびんな」の方に向けようとして居るが、それでもまだミジョイとかメジョイとか、少し形を變へて愛らしいといふ意味に使ふ者はある。此風は越後にもあり、又武藏でも秩父郡には、ムジッコイといふ「可愛らしい」がある。九州の方には既にメグシを有せぬ故に、明らかに一箇のムゾを、少しの變化を以て二通りに用ゐて居る。たとへば熊本縣でも南北の端だけはムゾカが「かわいゝ」であるが、城下と其周圍の郡に來るとそれが「かわいさう」の意味に用ゐられ、「かわいゝ」の爲には別にムゾラシがある。さうかと思ふと阿蘇郡はムゾケエ、その東隣の豐後日向ではムゾナキイ、またはムドナキイといふのが「かわいさう」の方である。奧羽の方でも是と同樣で、やはり少しでも定まつた形は無く、單にムゾといふ部分が共通して居るのみである。たとへば仙臺ではムゾイ又はムゾコイ、其附近の郡もモゾイ、南部領内ではムゾヤナ若しくはモゾヤダ、羽後の横手あたりはムゾエ、羽前の瀬見温泉はメゾテエ、同じく莊内はミゾケネエが「かわいさう」である。莊内方言考には、ミジヨケナイは「見ずに置けない」の意だと説いて居るが、さうかと思ふ者などは一人も無い。さうして會津の若松では、ムザウサイが又「慘い」の意味に用ゐられて居るのである。要するに此等は皆可愛らしいと可愛さうとの差別の如きもので、言葉そのものにはそれ迄の内容は無く、たゞ使ふ人の心持の方が變つて來たので、歸する所はカナシといふ語の意味の推移と同じく、愛と憐愍とがもと甚だ近い感覺であつたことを明らかにするまでゞあらう。漢字で無慘などゝ書くムザンといふ日本語も、是から起つたことが想像せられるのみならず、更に一歩を進めると、ムゴイといふ語も亦元はメグシであつたかと思はれる。下總香取郡ではムゴイは「可愛い」であり、上總の長生郡では「可愛がる」をムゴガルといふこと、全然奧羽地方のメンコイ・メゴガルと同じである。福福島縣でも相馬郡のムゴイ・ムゴシイは「可愛い」に該當し、石城郡のムゴイは「可愛さうな」の方であり、阿武隈川流域にはメンゴエの「愛らしい」が盛んに用ゐられて、モゴサイといふ語を以て「可愛さうな」の意味に使つて居る。信州などでも上伊那郡の如く、モゴイ・モゴチネエを憐憫の意に用ゐる處と、東筑摩郡の如く慘いといふことを、モゲエだのモオラシイなどゝいふ土地とがある。近畿以西の府縣にはメグシといふ語既に消えて、只ムゴイといふ破片を留め、其代りに今現れて居るのは、漢語とも日本語ともきまりの付かぬやうな可愛いといふ新語だけである。それが大昔からの存在で無いことは、何人の眼にもわかるのであるが、然らば其一つ前は何と謂つたかといふと、ちよつとは答へられぬやうになつてしまつた。それこそ本當にムゲエコツである。

[やぶちゃん注:「ほんなこつ、むげえこつ!」――柳田先生、結構、オチャメ!

「莊内方言考」明治二四(一八九一)年黒川友恭(遠碧軒)の著わした荘内地方(旧出羽国田川郡庄内。現在の山形県鶴岡市)の方言研究書。以下の柳田に一蹴されている「みじよけない」の記載は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該頁の画像によれば、

   *

みじよけないとは見ずに置けないにて憐愍なる有樣の見捨るに忍ばれぬ也

   *

となっている。

「ミジヨケナイ」改訂版では『ミジョケナイ』。

「ムザウサイ」今までも注しておらず、向後もやるつもりはなく、ここだけに留めておくが、改訂版ではこうした方言も現代仮名に消毒されてしまって、『ムゾウサイ』となっている。この変更が正しいとは私は実は微塵も思っていない。

「下總香取郡」香取郡は千葉県北端に現存する郡であるが、当時は遙かに広域。

「上總の長生郡」千葉県中部南岸域に現存するが、当時は茂原(もばら)市全域他を含んだ。

「上伊那郡」長野県南西郡に現存するが、当時は伊那市・駒ヶ根市及び下伊那郡松川町の一部(上片桐)を含んだ遙かに広域で、現在でも「上伊那地域(地区)」と総称される場合には伊那市・駒ヶ根市を含むこともある、とウィキの「上伊那郡にはある。

「東筑摩郡」長野県中央部に飛地化して現存する郡であるが、当時は松本市の一部・塩尻市の一部・安曇野市の一部を含む長野県の中央を占有した広域郡であった。]

タンペ これは唾を意味する古語であつたと思はれて、やはり日本の南北兩端だけに殘つて居る。今日普通に使ふのはツワとツバキで、前者の元の形はツまたはツヅであつた。ツバキは全く是とは別系統で、本來はツバのキ、すなわち唇の液體の意味であつたことは、唇を九州の北部でツバ、南部でスバといふことと、關東以北で唾を別にクタキ即ち口の液と謂ひ、又はシタキす即ち舌の液といふのを見てもわかり、ツバは其ツバキとツワとの一種の混同に過ぎぬといふことは、以前別の論文にこれを説いて居る。ところが東北では秋田市とその近郡でタンペ、盛岡とその下流の各地でタンパ・タンペ・タッペ、米澤とその周圍ではタッペ、福島縣北部でもタンペをシタキと併用して居る。それは痰である又は啖と書くべきだなどゝ、さもさも輸入の物の如く説く者もあるが、實際の話主はまだ唾と同じ意味に、タンペを使ふのだから致し方が無い。或は我々のタンと名づくるものだけにネツペといふ語を用ゐる土地もあり、又は一方をタンペ、他の方をタンパと言はうとする處もあるが、是は全く後世の差別であつて、多分はタンといふ語も斯くの如くして分化したものと思ふ。南の島においては首里・那覇がチンペ、屋良がトンペ、名護と喜界島とがツンペである。九州において筑後三池地方のツルペ、同吉井附近のシンチヤ、ずつと離れた紀州の有田郡にもチヤンペがある。最初は多分唾を吐く音から出た語であつて、ツとは關係がありツバキ・シタキ等とは競爭者であつたのが、後に口から吐くものを二つに言ひ分けるやうになつた爲に、中部日本に於ては割據の狀を呈し、タンはたゞ所謂啖だけに、立て籠るようになつたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「以前別の論文」本「蝸牛考」刊行の丁度一年前の昭和四(一九二九)年七月発行の『岡山文化資料』初出の「唾を」である。後に単行本「方言覚書」(昭和一七(一九四二)年創元社刊)に所収された。

「屋良」沖縄本島中部にある中頭(なかがみ)郡の嘉手納(かでな)町屋良(やら)。現在は、かのおぞましき嘉手納基地の北側フェンス外の、非常に狭い地区しか指さない。

「名護」現在の沖縄本島北部にある名護市。

「喜界島」現在、鹿児島県大島郡喜界町である喜界島(きかいじま/きかいがしま)。奄美群島北東部に位置し、奄美大島北部の東直近にある。

「筑後」「吉井」福岡県の旧浮羽(うきは)郡吉井町(よしいまち)。現在の「うきは市」の旧同町町域地区。三池の約四十七キロメートル東北に当たる。

「シンチヤ」改訂版では『シンチャ』。

「紀州の有田郡」「ありだぐん」と読む。和歌山県の北部中域に東西に長く広がる郡。当時は現在の湯浅町(ゆあさちょう)・広川(ひろがわ)町・有田川(ありだがわ)町の他、有田市の大部分を含んだ。

「チヤンペ」改訂版では『チャンペ』。]

アクト 是は漢字の踵を以て宛てられる語で、東京とその四周の平原ではカカト、西京以西の普通語はキビスであるが、アクトの行はれて居る區域も中々廣い。先づ東北の六縣は全部、それから越後信州を通つて、美濃尾張の平野にまで及んで居るのであるが、其中間に少しばかりの變化がある。即ち甲州にはアコイ、伊豆にはアツクイ、駿遠參にはアクツ・アゴトがあつて、再び美濃尾張のアクイ・アクイト等を生じ、近江ではそれがオゴシとなつて居る。カカトは少なくとも是と關係がある語らしいが、今はまだ明らかに説くことが出來ない。南の島々では殆ど全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある[やぶちゃん注:この「アクト」は底本では「アド」であるが、それでは意味が通らないので、例外的に誤植と断じて改訂版に基づき「アクト」に訂した。]。九州では肥後の阿蘇小國、筑後の久留米邊にもアドがあるから、搜したら尚幾つかの類例が見出さるゝと思ふ。

[やぶちゃん注:「アツクイ」改訂版では『アックイ』。

「駿遠參」「しゆんとほさん(しゅんとうさん)」或いは「しゆんゑんさん(しゅんえんさん)」と読み、駿河・遠江(とおとうみ)・参州(三河)のことを指す。

「南の島々では殆ど全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある」この「アクト」は実は底本では「アド」であるが、それでは意味が通らないので、例外的に誤植と断じ、改訂版に基づいて「アクト」に訂した。

「阿蘇小國」熊本県北東端の大分県に突き出た、九州山地内にある現在の阿蘇郡小国町(おぐにまち)。]

サスガラ 以下は沖繩諸島とは關係が無く、主として九州と奧羽との類似である。虎杖といふ物にはおよそ三通りの古語があつて、それが奇妙に入り交つて居ることは、是も以前に發表したことがあるが、其中でも靑森・秋田の二縣を支配して居るのは、サセドリ又はサシドロなどといふ一語であつた。サセドリは一方に又牛の鼻棒のことをもいふから、覺え易かつたのであらうが、ドリは同時にイタドリの下にも附き、更にサスガラともサシボコとも謂ふ土地があるから、サシといふだけが元の形であつたやうに思はれる。それが九州では阿蘇山脈の兩側、豐後も日向の臼杵郡も、肥後の山村もともに皆サドであり、又はサドガラとも謂つて居るのは、確かに兩端の一致である。但し此語は中央部に於ても伊勢や備中にサジナ・サジッポがある外に、瀨戸内海の島々と沿岸では、或は隣のタヂヒ系と交つて、サイジといふ形が出來たり、又はサイタツマの變化かと思ふサイタナになつたりして居るから、聯絡が全く絶えて居るとも言はれぬ。しかも兩端に於て特に顯著に、この類似が見られるといふのは、少なくとも南北の言語關係が、曾ては今のやうに隔絶したものでなかつたことを、立證するに足ると思ふ。

[やぶちゃん注:「虎杖」「いたどり」と読む。食用とするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica のこと。ここで柳田は述べていないが(恐らく全く歯牙にも掛けないということであろう)、漢方ではイタドリの根を「虎杖根(こじょうこん)」と称し、止血や鎮痛に用いることから、「痛取(イタミドリ)」の意とする説があるようである。

「以前に發表したことがある」昭和三(一九二八)年七月発行の『民族』に発表した「虎杖及び土筆」である。後に単行本「野草雑記」(昭和一五(一九四〇)年甲鳥書林刊)に所収された。そこでは「ドリ」は棒状のものを指すとしている。因みに、イタドリの茎は竹のように中空で、しかも多数の節を持っていて棒状を呈する。

「牛の鼻棒」牛の鼻の両穴を貫く環状の木又は金属製の輪。「鼻輪」「鼻環(はなかん)」「鼻ぐり」(←私はこれが親しい)「鼻がい」等とも呼称する。

「肥後の山村」の「山村」は「さんそん」と読んで一般名詞でとっておく(調べた限りでは熊本県内に現在は「やまむら」という地名は見出し得ない)。]

トゼンナ 是は新語の流通が、存外に足の早いものであつたことを示す例である。トゼンといふ語は徒然の音といふより外に、別の起源を想像し得ないものだが、北九州では稍弘い區域に亙つて、これを單に退屈といふだけで無く、淋しい又は腹がへつたといふ意味に用ゐて、トゼネエなどといふ形容詞が出來て居るが、南秋田の海近くの地に於て、自分は直接にその同じ語の同じ意味に使はれるのを耳にした。但し戸賀や北浦は船着の港だから、或は船人によつて特に運ばれたとも考へられる。實際又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた。

[やぶちゃん注:「戸賀」秋田県南秋田郡にあった戸賀港を有する旧戸賀村。現在の男鹿市の西端の戸賀の各町に相当する。

「北浦」秋田県南秋田郡にあった港町北浦町(きたうらまち)。現在の男鹿市の北端、北浦の各町に相当し、畠漁港を有する。孰れも古く北前船の停泊地であったものと思われる。

『實際又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた』私が馬鹿なのか、何故、殊更に括弧書きまでして船乗りにとって特別に『「使ふによい」言葉でもあつた』のか、よく判らない。識者の御教授を乞う。退屈で淋しい→どうにも切ねえ→女が欲しい、の隠語か?]

バ これは全國に行き渡つた語であるが、中央の弘い區域では又出刄庖丁とも謂つて、專ら魚を料理する一種の刄物に限つて居る。ところが肥前の五島などでは、デバは即ち小刀のことであり、伊豆の伊東でも伊勢の度會郡でも熊野の南輪内村でも、ともに同じ意味に用ゐて居るのである。是も沖乘の船からとも言はれるが、此方が實は古くからの用法であつて、反齒の鍛冶が打ち始めたからなどゝいふ説は、後に其語をただ一種の刄物のみに、限らうとした者の説かと思ふ。デバは恐らくは右片側に刄を付け、外へ向つて使ふやうにした刀のことで、内の方へ削り込む方の刄物、たとへば椀作りの用具などゝ、區別をする爲の出刄であつたらう。さういふ元の意味が飛離れた邊土だけに殘つて居ることは、單なる運搬とは考へることが出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「出刄庖丁」柳田は懐疑的であるが、ウィキ出刃包丁には、『出刃包丁について確認できる最も古い記録は江戸時代の』「堺鑑」(天和四・貞享元(一六八四)年に書かれた大阪堺の地誌)にあり、『「魚肉を料理する庖丁」と紹介されている。その時には既に堺の名品として知られていたらしく、詳細な登場時期や普及過程などは明らかになっていない。『堺鑑』には「その鍛冶、出歯の口もとなる故、人呼んで出歯庖丁と云えり」と記述されているが、これが普及や時間経過とともに「出刃」に変わっていったものと考えられる』とし、俳人文人の菊岡沾凉(せんりょう)が書いた「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年刊)にも『出歯庖丁について類似の記述がある』という語源説が載る。

「伊勢の度會郡」度会郡(わたらいぐん)。現存する三重県の郡で多気郡南の西方に接する。古くは現在の伊勢市も郡域であった。

「熊野の南輪内村」「みなみわうちむら」と読む。三重県の旧南牟婁郡にあった村で、現在の尾鷲市の南端に相当する。]

ネバシ・ナラシ 最後にもう一つだけ、是も新たに作つたかと思ふ例を擧げる。ネバシは眞綿のことで、奧州の突端と秋田縣の一部とに行はれ、それから南に來れば全然別の語になつて居るのだが、それが九州では壹岐五島、平戸伊萬里から佐賀島原まで、及び鹿兒島縣の一部にも行はれ、豐後の日田ではただネバとも謂つて居る。ネバスの動詞は今日では餘まり聽かぬが、引伸ばすといふことであつたらしい。それを其まゝ物の名にしたのである。ナラシも西國の略同じ區域に於て掛竿衣紋竿衣架の類をさう謂つており、紀州の日高郡や阿波の祖谷山でも其通りであるが、是が東國に來れば東上總では稻を乾す竿、關東の他の地方ではヲダカケともいい、北國その他の廣い區域に於て、ハサ木ともハデともいふものゝ名になつて居る。下總常陸の方ではそれがノロシと變化し、衣架や手拭掛けには別にソゾ若しくはミソゾといふ名があるが、この東西兩端のナラシは、本來一つの言葉であつたことは疑ひが無い。ナラスは普通「平らにする」といふ意味で、又次第にその方に改まらうとして居るけれども、元は農村の作業に屢々用ゐられた語であつたことは、ナルが平地を意味し、ナルイが傾斜の緩なることを、形容して居るのを見てもよくわかる。鮓がなれるといふのは低く平らになることであり、それを又ネマルともスヱルとも謂ふ所から考へると、人に「馴れる」といふ語が出來たのも是と關係があり、漢語とは起原が別であつたやうである。兎に角に動詞の此形を以て、其目的であつた物の名とする風は、以前今よりも遙かに盛んであつた一時代があつたかと思はれるが、其名殘が亦國の兩端のみに留まつて居るので、この例はまだ幾つでも見出されるであらう。米を洗つた白水をニゴシといふなども、近畿では全く耳にせぬ語であり、又我々には耳遠くさへ聽えるが、これも九州の北部と關東・信州との田舍には行はれて居る。斯ういふ明白な後の世の言葉までが、尚かけ離れた二地の類似を見るといふことは、假令一半は偶合の奇に驚くべきものだとしても、少なくとも國中の方言が常に獨立して、自由な誤謬に走つて居たものだとする、空想を破るには足るのである。單に一個のタンマダラ及びツグラメの問題ではなかつたのである。

[やぶちゃん注:

「兎に角に動詞の此形を以て」ここは改訂版では『兎に角に動詞の所謂連體形を以て』とある。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 古里や臍の緒に泣く年のくれ 芭蕉

本日  2016年 2月 1日

     貞享4年12月30日

はグレゴリオ暦で

    1688年 2月 1日

 

古里(ふるさと)や臍(ほぞ)の緒(を)に泣く年のくれ

 

「笈の小文」より。表記は、

 

舊里や臍の緒に泣としの暮

 

などであるが、真蹟遺墨に、

 

旧里やへその緒に泣くとしの暮

 

というのがあるとし(岩波文庫版中村俊定校訂「芭蕉俳句集」)、「若水」(嵐雪編・貞享五年刊(但し、初版本は未発見)の元文六(一七四一)年再版本)には、

 

  歳暮

ふるさとや臍の緒なかむとしの暮

 

とする。

 芭蕉はサイト「俳諧」の「笈の小文こちらの旅程によれば、貞亨四年十二月二十一日には郷里伊賀上野に到着しているが、「年のくれ」を厳密に受けて当時の大晦日を当句の詠に比定することとする。

 生家にて兄松尾半左衛門より亡き母が守り続けた芭蕉の臍の緒を見せられた折りの歳末吟。

 安東次男氏は中公文庫「芭蕉」の中でけんもほろろに批判する。本句を引き、さらに自身の死に先行する数ヶ月前のかの寿貞尼の悼亡の句「數ならぬ身とな思ひそ玉祭り」の句を引いた上で、『西行と比べて何か女々しいもの、釈然とはせぬものを、私は覚える。そこが芭蕉の人間臭さであろう。しかしどこかきれいごとがある。悲しみは深くない』とやらかす。

 そうだろうか?

 私はいつもなら安東節(ぶし)に諸手を挙げるが、ここは組み出来ない。安東氏は所謂――安易に見える――「見える」のであって本当に「安易」かどうかは問わない――ロマンティシズム的同調――それが安東氏には付和雷同に見えたことは疑いがない――が大のお嫌いで、複数の識者や自他ともに認める大家が安易に肯んじ合うように見える(ここも「見える」だけで事実そうかどうかは問わない)対象はわざと嫌いだ、胡散臭い、といって敬遠する気味があるように思う。それが正しい真理に辿りついている場合は、頗る孤高の屈原よろしく、よい。しかし、そうでないこともままあり、そうすると、彼は偏屈原になってそれこそ臍を曲げ、お前らには判らん的なジョーカー出しで煙に巻くことがしばしばある(ように私は感ずる)。実は私自身、かつてそうした傾向を強く持っていたから、よく判る(気がする)。

 そうである。西行は女々しくは確かに――ない。彼の歌は何をとっても論理的に冷たく釈然とするものばかりである――とも言える。およそ妻子を捨てて冷酷にも庭へ娘を突き落しても平然としていられる――人間離れした人非人である。さればこそ遁世も出来たとのであろうが、しかし同時に彼は終世、ある種の徹底した冷徹な対人計量測定と虚無的な笑いを以って現実をせせら笑う人生を送っていたと私は思う。そういう彼だからこそ人生を馬鹿に出来たのだし(そもそも人生を徹底的に馬鹿に出来ないと出家遁世は出来ない)、頼朝が呼び込むのを確信犯で待って鶴岡八幡宮社頭を偶然のようにうろついたりしていたのだ。どうも今となっては私は実は、西行を好きになれなくなりつつあるのである。

 山本健吉氏は「芭蕉全句」で本句を、『何の寓意も比喩もなく、単純直截に、太い線で力強く叙述した句』とされ(そういう句は安東氏は元来が好かない。法医学者の腑分けよろしくテツテ的にバラして、普段は見えない筋を抉り取って、メスの先にぶら下げて見せ、「どうよ!」というのが安東流である)、『まず「旧里や」と置いて、自分で自分を確かめるように、今故郷の土を踏んでいるのだという、言語に絶する感情を反芻する。その形をなさない感慨を、具体的に形に示すと「臍の緒に泣く年の暮」なのである。「泣く」は感傷ではない。能舞台で俯向きに面をくもらせる時のような、流涕の型を思い出した方がよい。単純なようで、この句の感銘は単純ではなく、古拙な力強さがある』と述べておられる。今の私にはこれが腑に落ちる。母との関係は各人の絶対原理の中に、ある。それは句の解釈などという形而下の問題とは異なる、と私は思うとのみ言っておく。

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