ヒョウタン 梅崎春生
[やぶちゃん注:初出は未詳。昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収された(後述参照)。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。当該全集は発表順配列であるが、その解題を見ると、本作は昭和二六(一九五一)年二月から五月(雑誌号名)発表の「莫邪の一日」と、同年七月(雑誌号名)発表の「指」の間に置かれてあり、実際の執筆は、この昭和昭和二六(一九五一)年五月から七月の閉区間と全集編者は推定しているものらしい。]
ヒョウタン
春のことでした。
「苗や苗」「苗はいりませんか」
苗売りの小父さんが、次郎の家の庭先にぬっと入って来ました。顔の平たい、背の高い、とても大きな身体の小父さんで、掌ときたら八ツ手の葉ぐらいもありました。次郎を見て、にこにこしながら近づいて来ました。
「ぼっちゃん。苗はいらんかね。ダリヤにパンジイ。バラに鶏頭(けいとう)。スイートピイの苗」
リヤカーの中には、大きな苗、小さな苗、双葉の苗、球根、そんなのがたくさん、ごちゃごちゃに並んでいます。次郎はそれをのぞきこみながら、言いました。
「ヒョウタンの苗はないかしら。僕、ヒョウタンが欲しいんだけど」
「ヒョウタン」
小父さんは眼尻をくしゃくしゃさせて、ちょっと困った顔をしました。
「ヒョウタンかい」
「うん。ヒョウタンだよ」
次郎は小さい時から、あのヒョウタンの形が大好きで、いつかは自分で植えて、その成長ぶりを記録し、出来たら学校にも出したいと、かねてからそう思っていたのでした。次郎は小学校の五年生なのです。
小父さんはリヤカーの中をあちこち探して、やっと一つの苗を取出しました。
「ああ、一つだけ残っていたよ」
と小父さんはひとりごとを言いながら、それを大事そうに次郎の掌に渡しました。
「これは立派なヒョウタンだ。尾張ヒョウタンと言ってね。こんなに大きな実がなるよ」
小父さんはにこにこしながら、手で恰好をして見せました。
次郎は苗を地面にそっと置き、急いで家に入り、貯金箱から金を出して、急いで戻って参りました。この金は、次郎が鶏を飼い、その卵をお母さんに売って、やっと貯めたその金なのです。苗売りの小父さんは、藤棚の下に立ち、上を見たり地面を見たりしていましたが、次郎が出てくると言いました。
「ヒョウタンを植えるなら、先ずここだね。秋になるとこの棚から、ヒョウタンがたくさんぶら下がって、きっといい眺めだよ」
小父さんがリヤカーを引っぱって帰ったあと、次郎はシャベルをふるって、藤棚の、藤が生えている反対側の根元を、せっせとたがやし、その小さな苗を植え、水をかけてやりました。つまり藤棚の、藤が這(は)い残す余地に、ヒョウタンを這わせようというわけです。
ヒョウタンはずんずん伸びました。
夏になると、蔓(つる)は藤棚に縦横にからみ、たくさんの葉をつけ、藤の蔓とヒョウタンの貰は藤棚の上で、押し合いへし合いからみ合い、まるで大喧嘩しているみたいに見えました。そしてそれらの葉々が、暑い日射しをさえぎり、涼しい葉陰をつくるので、家中のものが大喜びでした。
ヒョウタンの花が、その葉の間に点々と咲きました。きっとこれが秋になると、ヒョウタンとなってぶら下がるのだろう。楽しみに思って、次郎はノートにその花の写生をしたりしました。
秋になりました。
風のためか、虫のためか、折角咲いた花ほほとんどぼとぼとと落ちてしまったのです。次郎はがっかりしました。それでもやっと一つだけ残って、それの根元がだんだんふくらんでくるらしいのです。
ひとつでもいいや。立派なヒョウタンに仕立ててやろう」
毎朝起きると、次郎はまっさきに藤棚の下に行って、それを眺めるのです。毎日毎日、それはずんずん大きくなってゆきます。次郎ほあの苗売りの小父さんの手の恰好を思い出したりして、心がむずむずするのでした。
「こいつだけは、うまく行きそうだぞ」
ところがどうも変なのでした。その実は、ヒョウタンみたいに丸くふくれるのではなく、ひょろひょろと細長く垂れ下がってくるばかりなのです。はてな、と次郎は首をひねりました。こんなヒョウタンがあるかしら。
ある日、お母さんが藤棚の下に来て、その実の形を、つくづくと眺めていました。そして次郎をふりかえって、すこし笑いながら言いました。
「次郎。これはヒョウタンじゃないよ。ヘチマだよ」
「ヘチマじゃないやい。苗売りの小父さんがたしかにヒョウタンだと言ったんだい」
「こんな長いヒョウタンはないでしょ。ヒョウタンは、真ん中がくびれているはずでしょ」
次郎は何か言い返そうとして黙ってしまいました。そう言えば、こんなのっぺらぽうのヒョウタンなんか、あるはずがなかったからです。次郎はやっと負け惜しみを言いました。
「ヒョウタンだってヘチマだって、同じようなもんだい」
しかし次郎の気持は、ちょっと淋しいのでした。きっと苗売りの小父さんが苗を渡し違えたのだろう。そう思ってみても、やっぱり淋しいのでした。
[やぶちゃん注:「ヒョウタン」瓢簞。被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ属 Lagenaria siceraria 変種ヒョウタン Lagenaria
siceraria var. gourda 。葫蘆(ころ)。瓢(ひさご)。ウィキの「ヒョウタン」によれば、『最古の栽培植物のひとつで、原産地のアフリカから食用や加工材料として全世界に広まったと考えられている。乾燥した種子は耐久性が強く、海水にさらされた場合なども高い発芽率を示す』。『狭義には上下が丸く真ん中がくびれた形の品種を呼ぶが、球状から楕円形、棒状や下端の膨らんだ形など品種によってさまざまな実の形がある』。『ヒョウタンは、苦み成分であり嘔吐・下痢等の食中毒症状を起こすククルビタシン』()『を含有し、果肉の摂取は食中毒の原因となる』。『ヒョウタンには大小さまざまな品種があり、長さが』五センチメートルほどの『極小千成から』、二メートルを『越える大長、また胴回りが』一メートルを『超えるジャンボひょうたんなどがある』。『ヒョウタンと同一種のユウガオ』(ウリ科ユウガオ属変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida )『は、ククルビタシンの少ない品種を選別した変種で、食用となり干瓢の原料として利用される。 また、ヒョウタン型をした品種の中にも、ククルビタシンの少ない食用品種が存在する』(因みに私も極小千成型の食用瓢簞の漬物を食したことがあるが、形状の良さと相俟って歯ごたえがあり、すこぶる美味い)。なお、本邦では早くも「日本書紀」(七二〇年成立)に「瓢(ひさご)」として初めて登場し、それによれば仁徳天皇十一年(三二三年比定)十月に茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ:仁徳天皇が淀川河岸に築かせたとされる堤防)を『築く際、水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子』(まむたのむらじころもこ)『という男が、ヒョウタンを使った頓智で難を逃れたという』とある。この箇所はウィキの「茨田堤」に現代語訳されてある。アラビア数字を漢数字に代え、一部を改変した形で引く。『どうしても決壊してしまう場所が二か所あり、工事が難渋した。このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人のコロモコ(茨田連衫子)の二人を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に一人ずつ人柱に立てられることとなった。コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。結果として工事が成功した二か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた』。
「尾張ヒョウタン」このような呼称(尾張瓢簞)はネット検索をする限りでは出現しないが、尾張といえば豊臣秀吉、秀吉と言えばその馬印の千成瓢簞が思い浮かぶし、少年次郎も恐らくそれを想起したであろう。さればこれはユウガオ Lagenaria siceraria var. hispidaの変種(私がしばしばお世話になっているサイト「跡見群芳譜」(嶋田英誠先生編)のこちらの記載に拠る)センナリヒョウタンLagenaria
siceraria var. microcarpa であろう。
「ヘチマ」糸瓜。天糸瓜。ウリ科ヘチマ属ヘチマ Luffa cylindrica 。ウィキの「ヘチマ」によれば、『インド原産のウリ科の一年草。また、その果実のこと。日本には江戸時代に渡来したと』され、『本来の名前は果実から繊維が得られることからついた糸瓜(いとうり)で、これが後に「とうり」と訛った。「と」は『いろは歌』で「へ」と「ち」の間にあることから「へち間」の意で「へちま」と呼ばれるようになった。今でも「糸瓜」と書いて「へちま」と訓じる。沖縄ではナーベーラーと呼ばれるが、これは果実の繊維を鍋洗い(なべあらい)に用いたことに由来するという』とある。
「のっぺらぽうのヒョウタンなんか、あるはずがなかった」先に出たヒョウタンと同一種であるウリ科ユウガオ属変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida は実の形によって大きく二つに分けられ(種は同種)、細長い円筒状即ち「のっぺらぼう」の主に食用とするものを「ナガユウガオ」、丸みを帯びた球状の主に干瓢の材料とするものを「マルユウガオ」と呼ぶが、しかし、次郎の描写から花の咲き方がユウガオではない。万一、夕顔であったとして、それで救われるのは「源氏物語」の「夕顔」を偏愛する大人ばかりであって、次郎の淋しさを掬いとって呉れはせぬ。次郎の憂鬱は、恐らくは五十九歳の高中年となった私、次郎の『アンニユイのなかに、外觀上の年齡を遙かにながく生き延び』(梶井基次郎「愛撫」より)ているので、ある……]
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