北條九代記 卷第七 火柱相論 付 泰時詠歌 竝 境目論批判
○火柱相論 付 泰時詠歌 竝 境目論批判
仁治三年二月四日、戌刻計(ばかり)に赤白(しやくびやく)の氣、三條(みすぢ)、西方の天際(てんさい)に現じ漸(やうや)く消えて、後に赤氣(しやくき)の一道(だう)其(その)長(たけ)七尺許(ばかり)に見えて耀(かゝや)けり。陰陽師泰貞朝臣、御所に參じて、申しけるは、「この天變を彗形(けいぎやう)と氣と名付く、俗説に火柱(ひばしら)と申し習(ならは)す。昔、村上天皇の御宇、康保(かうはう)年中に出現せし事、舊記に載せられ候」と申す。晴賢(はるかた)、廣資(しろすけ)等、參りて、「今夜は、空、陰(くも)り、雲、渦卷きて星の形勢(ありさま)分明ならず、この赤氣に軸星(ぢくせい)なく候」と申すに依て、一決し難き所に、同七日の巳刻に、大地震あり。「去ぬる建曆年中に、これほどの地震あり。和田左衞門尉義盛が叛逆の兆しなりき。御愼みあるべし」古老の輩はまうし合はれけり。同十六日、天文道の輩に仰せて、去ぬる四日の天變(てんぺん)の勘文(かもん)を奉らしめらる。泰貞が書には、陰雲に依つて分明ならず。但し、天變に處せられば、火柱の形勢(いやうせい)なり」と申す。晴賢が狀には「推古天皇二十八年、天慶二年、元永五年の赤氣、今是同じ」と申す。相論、遂に決せず。將軍家の仰(おほせ)に、天變に極りなば、京都より申し來るべし。その時、御沙汰あるべきの由にて、この義は相論をとゞめたまふ。同三十日に、一條殿より御書(しよ)到来して、「去ぬる四日の赤氣の事、彗星(すいしやう)出現の由、風聞あり」と仰せ下さる。泰貞、晴賢が勘文(かもん)を調へて、京都に進ぜられ、御沙汰をぞ經(へ)られける。同三月十六日、右京權大夫泰時、評定所退出の時、庭上の落花を見て、かくぞ詠み給ひける。
こと滋(しげ)き世の習(ならひ)こそ物憂(う)けれ花の散りなん春も知られず
人々承りて、感じながら、心にかゝりて存(ぞん)ずとなり。同三月二十五日、海野(うんのの)左衞門尉幸氏(ゆきうぢ)と、武田伊豆〔の〕入道光蓮(くわいれん)を相論のことあり。上野國三原莊(みはらのしやう)、信州長倉保(ながくらのはう)との境目(さかひめ)、爭ふに、海野が申す所、其(その)謂(いはれ)あるに依て、貞永式目の法に任せ、押領分(おふりやうぶん)を差加(さしくは)へてかへし、沙汰すべき由、伊豆前司賴定、布施〔の〕左衞門尉康高に仰含(おほせふく)めらる。光蓮、恨(うらみ)を含みて、一族を催し、友達を語(かたら)ひ、左京權大夫泰時を討ちて、宿意を遂げんと謀る由、風聞す。泰時、聞き給ひ、人々に向ひて、歎じて曰く、「人の恨を顧みて、その理非を分けずは、政道の本意、有るべからず。逆心(ぎやくしん)あらん事を恐れて、子細を申し行はずは、定て又、私(わたくし)を存ずるを招かんものか。去ぬる建暦年中に、和田左衞門尉義盛、謀叛を企てしころ、囚人(めしうど)平太胤長(たねなが)を免(ゆる)し給はるべき由を稱す。一族悉く列參せしむといへども、許容せられず、剩(あまつさ)へ平太を面縛(めんばく)して、彼等が眼前を引渡して、人に預けられしかば、義盛、憤(いきどほり)て、一族、蜂の如くに起るといへども、當座に於いては、敢へて私を存ぜざる先蹤(せんしやう)、既に、かくの如し。是(これ)、政道に私なき事を表す所なり。往昔(そのかみ)、右大將賴朝公の御時、上總介廣常は最初に多くの忠節を盡しけれども、平家追討の爲、西國へ軍兵を差上(さしのぼ)せられし時に、廣常、驕(おごり)を極め、謂(いは)れざる訴(うつたへ)多く、先忠(せんちう)をのみ申立(まうした)てて、恨むまじき事を恨み、内心には隠謀なくして、隱謀あるに似たりければ、當時、追討の障(さはり)となるを以て、廣常を御所に召して、侍に仰せて、刺殺(さしころ)し給ひけり。さしも以前に忠ありし者を、かく罪し給ふこそ無慚(むざん)なれ。此君、賴もしからすと傾(かたぶ)き申せしかども、此事によりて、諸將邪義の訴(うつたへ)、忽(たちまち)に留りぬ。忠は重く賞し、罰は輕(かろ)く行へとは云ひながら、時に從ひて、罰を重く行はざれば、道義、塞(ふさがる)る事あり、主君の御恩を傍(かたはら)になし、我が忠をのみ鼻に當てて、無禮緩怠(くわんたい)の訴(うつたへ)を致さば、是を罰して、一跡(せき)を追捕(ついふ)し、忠義を嗜む人に分遣(わかちつかは)さば、訴(うつたへ)は自然に止(やむ)べししと仰あり。光蓮、この由、傳聞(つたへき)きて、理(り)に服し、後悔を懷(いだ)き、起請文(きしゃうもん)を書き進じ、二心なき由をぞ陳謝しける。
[やぶちゃん注:歌の前後を例外的に一行空けた。「吾妻鏡」巻三十四の仁治二(一二四一)年二月四日・七日・十六日・三十日の条に基づく。
「仁治三年二月四日」仁治二年の誤り。
「戌刻」午後八時頃。
「七尺」二・一二メートル。恐ろしく長いことが判る。この天変異常記録については湯浅吉美氏の素晴らしい論文「『吾妻鏡』に見える彗星と客星について─鎌倉天文道の苦闘─」に「吾妻鏡」の本文を引いた上で以下のように述べておられる。
《引用開始》
これは厳密に言えば彗星や客星[やぶちゃん注:「かくせい」と読む。それまで観測されていなかった場所で突如として出現したものの、一定期間後に再び見えなくなってしまった恒星様の星のことを指す。彗星や新星なども含まれる。]の記事ではない。泰貞が一番に来て報告したが、「彗形」なる曖昧な言葉を使い、「異名、火柱なり」という。むしろ彗星とは見ていないように読まれる。次に晴賢らが来た。晴賢は陰雲を理由として、
・彗星の類を観望しうる状態ではない
・軸星(コマ)も無い[やぶちゃん注:この場合の「軸星」とは恐らく、彗星の「星」即ち核に当たる部分を指しているように思われる。]
として、晴天のときに判定すべしという。一方、広資は泰貞と同意見であった。晴賢の謂うところは、一応尤ものようだが、実は腑に落ちない。軸星の無いことがわかるなら、十分に見えていたのではないか。この間、16日条に、陰陽師らを召し集めて相論させた記事が見える。そのときは、泰貞も陰雲により詳細不明としつつ、火柱の天変として対応すべきかとの意見を提出した。晴賢は赤気としながらも、野火(の反映)の疑いもあるという。だいぶ心許ない判定である。そのほか、資俊・国継は赤気、広資は火柱とした。ところがそこに道家からの書状が届き、彗星出現の風聞のあることが知らされた。淡々とした記述だが、鎌倉の陰陽師、とくに「最前馳参」の泰貞などは俄に色めき立ったことであろう。ただし、これが真に彗星であったかどうか、他の史料に所見なく、赤気としての記録も見当たらない。詮ずるところ、真相は不明である。
《引用終了》
「彗形(けいぎやう)と氣」あくまで、彗星(箒星)の形を成している気の謂いであって、実体としての彗星を指しているのでない。
「村上天皇の御宇、康保年中」康保は九六四年から九六八年に相当するが、村上天皇は康保四年五月二十五日(ユリウス暦九六七年七月五日)に死去(後日に冷泉天皇が即位)しているから、泰貞の謂いが正確なら終わりは前にずれる。
「舊記」不詳。識者の御教授を乞う。
「軸星」前注の私の挿入注を参照されたい。
「巳刻」午前十時頃。
『去ぬる建曆年中に、これほどの地震あり。和田左衞門尉義盛が叛逆の兆しなりき。御愼みあるべし」古老の輩はまうし合はれけり』「建曆年中」は西暦一二一一年から一二一三年で、和田合戦は建暦三(一二一三)年五月に発生している。この直近で「吾妻鏡」を調べてみると、同年正月一日の条に『巳尅地震』とあるのを見出せる。元日のことでればこそ人々も何よりよく記憶し、北条義時の和田一族一掃の姦計になると私が踏んでいる泉親平の乱(第二代将軍源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようとした陰謀)の未然発覚はこの翌二月で、まず、この老人の謂うのはこの地震と考えて間違いあるまい。ここは以下に見るように、「吾妻鏡」の記載を概ね引用する形をとっている。『七日乙丑。巳尅大地震。古老云。去建曆年中。有如今之大動。即是和田左衞門尉義盛叛逆兆也。其外於關東。未有如此例云々。其後。午時子尅。兩度小動。』(七日乙丑。巳尅、大地震。古老云はく、「去ぬる建曆年中、今のごときの大動、有り。即ち是れ、和田左衞門尉義盛の叛逆の兆しなり。其の外、關東に於て、未だ此くのごとき例(ためし)、有らずと云々。其の後、午時と子尅、兩度、小動す。)で、その後も正午前後と、深夜の零時前後にも小さな余震(?)があったことが判る。
「推古天皇二十八年」西暦六二〇年。
「天慶二年」九三九年。この年は年末にかの平将門の乱が勃発している。
「元永五年」一一二二年。
「今是同じ」とだけあるが、筆者が「吾妻鏡」では晴賢の部分の末尾にある、『但有野火疑等云々』(「但し、野火の疑ひ等、有り。」と云々。)という箇所をカットしたのはどうも、いただけない。しかしまあ、前にも似たようなことがあってむっとしたが、この陰陽師ども――数打ちゃ当たる式で巧妙に自己保身しているのが最早――見え見えだ!
「一條殿」九条道家鎌(将軍藤原頼経の実父)。
「勘文(かもん)」「かんもん」とも読む。古く平安時代に神祇官・陰陽師等が天皇などの諮問に答えて、先例・吉凶・方角・日時などを調べ上げて上申した意見書。
「右京權大夫泰時」「左京權大夫」の誤り。
「こと滋き世の習こそ物憂けれ花の散りなん春も知られず」「吾妻鏡」仁治二(一二四一)年三月十三日の条から。
○原文
十六日甲辰。此間。將軍家令加御灸五六ケ所御云々。今日有評定。事終。前武州持參事書。被披覽御前之後。人々退散。前武州猶還着評定所。覽庭上落花。有一首御獨吟。
事しけき世のならひこそ懶けれ花の散らん春もしられす
○やぶちゃんの書き下し文
十六日甲辰。此の間、將軍家、御灸(きう)を五、六ケ所へ加へ令め御(たま)ふと云々。
今日、評定、有り。事終りて、前武州、事書(ことがき)を持參し、御前に披覽せらるるの後、人々、退散す。前武州、猶ほ評定所へ還り着き、庭上の落花を覽て、一首の御獨吟有り。
事しげき世の習ひこそ懶(ものう)けれ花の散るらん春も知られず
「海野左衞門尉幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。何度も注し得ているが、再掲しておく。当時、既に数え七十。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光(これがこの訴訟の相手)・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。『幸氏の死期については、確かな記録は無』いが、建長二(一二五〇)年三月の『吾妻鏡』に、『幸氏と思われる「海野左衛門入道」の名が登場するのが、記録の最後』であるとする。これが正しく幸氏であったとすれば、この時既に七十八で、当時としては長生きである。
「武田伊豆入道光蓮」武田五郎信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。既注であるが再掲する。甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏(これが訴訟の相手)・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。暦仁二・延応元(一二三九)年に出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲った。この時名を伊豆入道光蓮と改めている。ウィキには、まさにこのシーンについて、境界争論で敗訴、『執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが』(「吾妻鏡」を見ると、実は四月十六日に早くも光蓮は謝罪し、誓詞を泰時に差し出している。それでも同年十二月二十七日には『次男の信忠を義絶する形で服従している』と記すから、これは息子の信忠は対泰時主戦派であったことを明確に意味しているものと思われる)。当時、実に数え八十歳であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。
「上野國三原莊」現在の群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村大字三原(みはら)。
「信州長倉保」長野県北佐久郡軽井沢町(まち)大字長倉(ながくら)で、「保(ほう)」は「ほ」とも読み、平安中期以降のそれは国衙(こくが)領内の行政単位で「荘」「郷」「名」と並ぶものであった(増淵氏勝一氏は『郷の下の小集落の称』と割注する)。以上の二箇所は同じ地方ではあるが、現行では三原は長倉の北北西二十一キロメートルの位置にある。但し、「境目」とあるので、この地域は山間部で、この時代には南北に接していたものであろう。
「押領分を差加(さしくは)へてかへし」増淵氏は『(海野の領分の上に武田が)横領しただけの領地分をも(武田の領地から割譲し)加えて(海野に)返すように処理すべきである』と泰時は採決したと訳しておられる。
「平太胤長」和田胤長(たねなが 寿永二(一一八三)年~建暦三(一二一三)年)。和田義長嫡男で和田義盛の甥に当たる。平太は通称。弓の名手とされる。既に本文でも出た通り、従兄弟の義直・義重(義盛の子)らとともに泉親衡の乱の謀議に加わって捕縛された。この時、義盛の嘆願により義直と義重は赦免されたものの、胤長一人だけ赦されず、陸奥国(後の岩代国。現在の福島県西半部)岩瀬郡に配流となった。この処罰への鬱憤に加え、子の泰時は「敢へて私を存ぜざる先蹤、既に、かくの如し」などと賞揚しているが、没収された胤長の屋敷が慣例に反して義盛には与えられずに北条義時が召し上げてしまったことが和田合戦の直接の引き金になったとされる(これも既に本文で見た)。この実の父親のやった行為を泰時に訊ねたいものだ。それでも「是、政道に私なき事を表す」などとうそぶくなら、泰時の人間性も知れたものだと私は思う。胤長は和田合戦の後に配流地で処刑されている(以上はウィキの「和田胤長」を参考にした)。
「廣常を御所に召して、侍に仰せて、刺殺し給ひけり」頼朝は梶原景時の讒言で千葉広常暗殺を決し、景時に命じ、景時は十二所の広常邸を訪れて囲碁を打ちながら盤越しに殺害したことになっているので、この叙述はおかしい。しかも頼朝は後に疑心暗鬼であったことを認め、この暗殺を悔いているのである。さればこそ泰時にここで高度な政治的判断のよき一例として挙げさせるには、私は相応しい事例とは到底、思われないのである。]
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