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« 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(補遺) / 「一目小僧」~了 | トップページ | 梅崎春生「仮象」PDF縦書版 »

2016/02/22

仮象   梅崎春生

仮象   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年十二月号『群像』に発表され、後の梅崎春生の死の直後に出た単行本に「幻化」とともに収められた(作品集「幻化」には他に「凡人凡語」も所収されている。後述参照)。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第六巻」を用いた。同底本の古林尚氏の解題によれば、『この作品は一部に、先に「群像」の昭和三十二年十月号に発表された短篇「顔序説」が使用された』とある。

 同底本の山本健吉氏の解説には、春生と最後に電話をした際、かの遺作となってしまった「幻化」にこの短篇「仮象」を『添えて単行本を作るということだけを、彼は言った』とあり、また、それは春生が本短篇「仮象」を「幻化」『の衛星的作品と考えていたからである』と断言されておられる。本作には「幻化」にも描写されるチンドン屋に遭遇すると気分が変調する老人が描かれているが、「幻化」では『自分が他の人間になることは、何とすばらしいことだろう』と、主人公五郎に心内語で言わせている。因みに題名の「仮象」とは哲学用語でドイツ語「Schein」(シャイン)の訳語。実際に存在するように感覚に現れながらも、それ自身は客観的な実在性を持たない虚構の形象の意である。

 第一章「顔」の最初の方の主人公の回想に出る「教班長」とは、戦争中の日本帝国海軍の「新兵教育分隊」の「班」を「教班」と称し、その「教班長」はその班の担当下士官である班長を言ったものらしい。

 同じく「顔」の「回転車」は言わずもがな乍ら、ゴンドラで回転する大観覧車のこと。

 第二章「梵語研究会」の最初に出る「受持連絡」というのは、正式には「巡回連絡」と呼ぶようである。その直後に出る「孝治橋」という橋名は不詳である。地区も『Q』なればこそ架空のものであるらしい。

 同パートに蟻の「見張り」の観察のシーンが出るが、これは他の群れ或いは同じように見えながら別種の異個体が侵入したものをそれが攻撃したのを見誤ったものではないかと私は推測する。主人公の言うような監視システムをアリは保持していないように私は思う。寧ろ、近年の研究では怠ける働きアリ(周囲の環境に対して反応閾値が高く設定されてしまっている個体)がいるからこそ、労働が上手く分配され、アリ社会の永続性が逆に保持されているということが解ってきているぐらいである。

 第三章「神経科病室」の「バレーボールのストップ」とはバレーボールのブロックを指しているものと思われる(元バレーボール部顧問の妻の談)。この当時、バレーボールのプレイとしての「ブロック」を「ストップ」と一般に呼んでいたかどうかは判らないが、ここは実際の塀としての「ブロック」の比喩であるため、判り易く区別するために作者がかく表記したようにも思われる。

 ブログ版「梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注」及び同PDF縦書版をリンクさせておく。]

 

 

 仮  象

 

 

 

 

 毎日毎日、どういう形でか、顔と会う。顔というのは、自分の顔でない。他人の顔のことだ。自分の顔に自分では会えない。鏡を使えば会えるようなもんだが、あれは左右が入替っている。本当の顔じゃない。また人間は自分の顔に会う必要がない。自分の顔を見ないでも、ここにいるのは自分であることは、自分で判るからだ。

 他人に会うということは、他人の顔に会うということだ。もし顔がなければ、特別の場合をのぞいて、相手が誰であるか判らない。相手が獣や鳥の場合は、それを識別するのに、顔よりも毛色や形に重点を置くが、相手が人間だとそんなわけには行かない。衣服をつけているから、毛色や形は見えないし、衣服から出ている部分と言えば、顔だけだ。顔をたよりにする以外に方法はない。で、毎日毎日、どういう形でか、いろんな顔と会う。無人島に住んでいるのではないから、それも当然だが、時には私はそれを苦痛に感じることがある。苦痛と言うより苦労、心の重さ、気分の重さと言う方が適切だろう。それにはいろいろ原因があるが、ひとつには私の能力、他人の顔を覚えると言う能力が、たいへん欠乏しているせいである。人の顔を覚えるのは実にむつかしい。分類学というような才能を必要とするものらしい。私にはその才能がほとんど欠如しているのだ。

 見慣れてしまった顔なら、問題はない。それから全然関係のない他人の顔、これもあまり問題でない。一番困るのは、中途半端な顔だ。どこかで見たような、見たことがないような、そんな顔が一番困るのである。そういう顔にぶつかると、はたと私は当惑してしまう。

 そういう場合、相手が私に話しかけて呉れたら、それを手がかりにして、相手が何者であるかを探り出せる。しかしこれもたいへん老練な受け答えが必要で、うっかりすると相手に気を悪くさせたり、またかなり長時間受け答えをしながら、とうとう相手の正体を摑(つか)めない場合だってある。うまく行って、相手の正体が判り、別れたあと「今のが何某さんだ」と心に銘じても、翌朝になると何某さんの名前だけが残って、何某さんの顔は我が記憶からすっぽりと消え去っている。だから、またどこかで顔を合わせれば、同じようないきさつになって、受け答えに私が苦労するということになる。気分が重いというのはこういうことだ。

 このような物忘れの現象は、私の年齢のせいではない。若い時からそうだった。二十九歳で海軍に召集され、海兵団に入れられ、それから教班長を紹介される。

「おれが第一教班長の××一曹」

「おれが第二教班長の××二曹」

 という風な具合に、それぞれの教班長が自己紹介をする。私は自分の欠点を承知しているので、眼を皿のようにして、各教班長をにらみつける。それでも駄目なのだ。

「わかれ」の号令がかかって解散すると、もうどれがどの班長の顔だったか判らない。結局、自分の班の教班長の顔だけ覚えて、あとはどうにかごまかすか、ごまかしそこねてひっぱたかれる、というようなことになるのだ。

 さっき書いた中途半端な場合、どこかで見たような見ないような顔で、こちらに話しかけて来れば来たで苦労するし、来なければ来ないで困る。妙な具合に視線を合わせ、そのまま妙な具合に視線を外らせる。一度だけならいいが、顔を合わせるのが二度三度と重なると、気分の重さ、やり切れなさは、それに応じて倍加する。どこの誰とも判らないながら、いっそ帽子を取ってあいさつをし合った方が気はラクだ。ラクだと言っても、あいさつをするわけには行かない。この度あいさつをするのなら、なぜ前回の時にあいさつをしなかったか、という意識が脱帽の行為をためらわせるのだ。ためらっているうちに、そいつと私はすれ違ってしまう。次回に会った場合には、そのためらいは更に倍加する。前二回知らぬふりをして、今度だけあいさつをする根拠はどこにあるか。どこにもありはしないのだ。

 そういうケースは、向うも私の顔をどこかで見たような顔だが、こちらの正休を摑めないと言うことで起るのらしい。顔覚えの苦手な人間は、世間には私一人ではない。たくさんいる筈だ。そう思う。そうでなければ、私は特殊な人間、あるいは人間並でない人間と言うことになる。それは私は厭(いや)だ。私はどちらかと言うと平凡でありたい。

 私は平凡な顔をしている。鏡をのぞいても、自分ながらそう思う。鏡の中の顔は、左右が取替っているが、も一つ鏡を使って、合わせ鏡にして眺めても、ごく平凡な顔である。別にどこと言って特徴がない。ありふれた型の眼鏡をかけている。鼻は高からず低からず、というような形容があるが、私の顔もみんな……からず……からずで形容出来るようだ。たとえば、顔は長からず短かからず、色は白からず黒からず、唇は厚からず薄からず、全部が全部そうである。平凡でぼんやりした顔なのだ。

 そういう顔だから、私の顔は人目に立たないし、したがって記憶しにくい顔に属するらしい。目立った顔、たいへん長い顔だとか、極端に眠が大きな顔だとか、一目見れば忘れられないという顔がある。そういう顔の持主は、実生活で得をしているか損をしているか、聞いたことがないから知らないけれども、私はそんな顔をあまり持ちたくない。つまり私は、あまり人目に立ちたくない。あまり目立たないところで、こそこそと生きていたいという気持が、いつも胸の奥底にわだかまっている。平凡な顔に生れついてよかったと思う。目立つ顔は損だと思う。適当なたとえでないかも知れないが、たとえば悪事をはたらくような場合でも、平凡な顔の方が得だ。もし目撃者がいて、あれはたいへん大きな鼻の持主だったと証言すると、その大鼻のは人は直ちにつかまる可能性が多い。私のように平凡な顔だと、目撃者がいても証言のしようがなく、モンタージュ写真をつくっても、ありふれた日本人の顔しかつくれないから、捜査は永びくことになる。悪事をはたらく気持は、今の私には毛頭ないけれども、将来のいつなんどき、追われる身にならないとは限らない。悪事と関係なく、追ったり追われたりする世にならないとは、誰も保証出来ない。

 で、その具合の悪い相手は、世の中に無数にいるが、その中の特殊の一人について私は書こうと思う。そいつの名前も住所も、私は全然知らない。住所は私の近くかも知れない。私がよく乗るバスの中で、一度顔を合わせたことがあるからだ。しかしこれもあてにならない。何かの用事で偶然そいつは、そのバスに乗っていたということもあり得る。

 そいつと最初に顔を合わせたのは、私の記憶では、二年ぐらい前のことだったと思う。それ以前も会ったことがあるかも知れないが、記憶にはない。それは国電の駅の階段でだ。たしか秋の末の昼下りで、通勤時間のように混んでいずに、階段はがらんとしていた。そいつは上から降りて来て、私は下から昇っていた。階段の丁度(ちょうど)中ほどのところで、すれ違う時に、ぱっと顔が合った。

「あ!」

 そいつはそんな声を出して、ぎょつとしたように立ち止った。それで私も立ち止った。立ち止らないわけには行かなかった。

 そいつの顔に私は見覚えはなかった。いや、見覚えがないとは、はっきり言い切れない。いつも見慣れた顔をのぞくと、私は日本人の顔なら大体どれもこれも、見覚えがあるようなないような感じを持っている。特にその時は、向うが「あ!」と言って立ち止ったのだから、こちらとしては「おれを見知っているんだな」「つまりどこかで会ったことがあるんだな」という意識を、瞬間的に持たざるを得ない。そういう時、私の態度は常に警戒的になる。慎重に受け答えして、相手の正体を知らねばならぬのだから、どうしても防禦(ぼうぎょ)の立場に立って、相手の出方をうかがう恰好(かっこう)となる。だから私はよく人から言われる。

「どうしてそんなにびくびくしているんですか?」

 びくびくしているのではない。警戒しているのだ。

 しかしその時、一瞬にしてそいつは私から眼を外(そ)らし、(視線を私からムリに引剝ぐと言った感じだった)そのままとことこと、足早に階段を降りて行った。だから私も、足を動かして、そのまま階段を昇った。何故そいつが私の顔を見て「あ!」と叫んだのか。立ち止ったのか。次の瞬間視線を引剝がして、逃げるように階段をかけ降りて行ったのか。私には判らなかった。判らないまま改札口を出た。

 その次顔を合わせたのは、それから半年後で、場所はある遊園地だった。私は一人で回転車(と言うのかな。小さなボックスに乗り込むと、ゆるゆると上って、降りて来るやつ)に乗っていた。下から頂点の中途まで来ると、軸を中心にして反対側のボックスに、じつと私を見ている男の視線を、突然私は感じた。次の瞬間、それがそいつであることに、私は気がついた。ゆるゆると下降しながらそいつは、ゆるゆると上昇しつつある私を、眼を皿のようにして、見つめていた。そいつはボックスに若い女と同乗していたのだが、やがて角度の関係で、そいつのボックスは私の視界からふっと切れた。向うからも私の顔が見えなくなったわけだ。

 私が頂点まで上昇、それからゆっくりと下降して、ボックスから降り立ち、そいつの姿を探し求めたが、もうどこにも見えなくなっていた。三度目が前記のバスの中で、私が乗り込んで、空席を探すべく車内を見廻すと、そいつの顔にばったり出合った。そいつの顔はさっと緊張した。緊張したことだけは判ったが、それがどういう意味を持つ緊張なのか、たとえば恐怖だとか、嫌悪だとか、それは私には判じかねた。彼の顔に緊張をもたらしたのは、私の顔の出現のせいだということだけは、確実であった。

 そいつの年頃は、私と同じくらいか、少し上ぐらいで、顔に別段の特徴はない。ありふれた型の眼鏡をかけている。しごく平凡な顔だ。と言うと、私もありふれた型の眼鏡をかけ、平凡な顔をしているのだから、私に似ているかと言うと、そうでもない。平凡にもいろいろ種類があって、平凡だからとて似ていると言うものではない。顔というものは、そんな単純なものではない。

 顔。顔とは何だろう。後頭部の表側にあたる部分、それでは説明にならない。もしあの部分がのっぺらぼうだったら、それは顔とは言えないだろう。眼や鼻や口や耳、そんなものがあるからこそ、これは顔なのだ。そういうものの配置、ならび具合が顔と称するものである。では、眼や耳や口は、顔をつくるために存在するのか。そうではない。眼は見るために、鼻は呼吸のために、口は食うために、耳は聞くために存在する。それらの機能を果たすべく、人体の中の一番都合のいい部分に、所を求めてあつまったのだ。その一番都合のいい場所というのが、頭からすべり降りた前面の空地で(耳だけは横面)しかるべきところに定着したとたんに、顔というものが出来上った。顔が出来たのは、偶然だと言ってもいい。だからそれら器官の配置の具合が平凡だと言っても、何千何万種類の平凡さがあって、それは言葉では言いつくせない。

 そいつはとにかく、一瞬はげしく緊張した。それは前記器官の配置の微妙な変化で、すぐに判った。しかしそれが、どんな意味の緊張だか判らなかったのは、そいつがすぐに視線を引剝がして、膝の上の週刊誌に顔を向けてしまったからだ。それは私にはむしろ好都合だった。私は遠慮なくそいつを観察出来る立場に立てたのだから。やがてバスが次の停留所にとまると、そいつは私を見ないようにして、ごそごそとバスを降りて行った。その停留所が彼の目的地だったのか、私が乗り込んだから降りて行ったのか、それはよく判らない。

 それから今までに、そいつの顔を二度ばかり見た。一度は日比谷の映画館の便所で、もう一度は新宿駅でだ。新宿駅で電車を待っている時、ふと向うを見ると、松本行鈍行列車の二等車の席に、彼は腰かけていた。どういうつもりか、まだ停車中なのに、彼は汽車弁当を食べていた。(汽車弁当と言うものは、汽車が動いていないと、食べても旨くないものだと私は思うのだが)私の視線をはっと感じたらしい。そいつは箸をとめて、顔をぐいとこちらにねじ向けた。いつものショックがそいつの顔をおそった。あきらかにそいつは驚愕の色を示した。そこへ電車が轟と走り入って、私とそいつの間を隔ててしまったのだ。それはいい後味のものではなかった。とにかく私の顔が、この私の平凡な顔が、ある男にとってショックに値いするということは、私にはたいへん面白くないことだった。最初から面白くないことであったが、度重なるにつれて、それは重苦しい鎧(よろい)のように、私の全身にかぶさって来る。ふりはらおうと努力しても、それはずっしりと、まつわりついて離れない。

 

 梵語研究会

 

 夕方帰宅して風呂に入る。上ってビールを飲む。すると電話がかかって来た。彼は立ち上って受話器をとった。電話は台所と居間の間にある。低い押しつぶしたような声が、彼の名前を確めた。

「そうです」

「あなたが本人ですね」

「そうですが――」

 彼は用心深く言った。

「あんたは一体どなたです?」

「あ。失礼。こちらはQ警察、エトウというものです」

 声はあやまった。しかし彼はあやまられたような気がしない。警察が何でおれに電話をかけてよこすのか。その不安の方が先に立った。

「あなたは梵語(ぼんご)研究会というのを御存知ですか?」

「ボンゴ研究会?」

「ええ。インドの古代の言葉らしいですな。それの研究会です」

 梵語? 梵語研究会とこのおれと、何の関係があるのだろう。だから電話というやつはイヤなんだ、と彼は考えた。見たことも会ったこともない相手と、しかも対面でなく遠く離れて、素(す)で話し合う。顔見知りなら気軽に電話口に出られるが、声だけの初対面というのが彼の気に入らなかった。

「梵語には僕は興味ありませんね」

 彼はそっけなく言った。

「まして梵語研究会なんかに、かかわりあるわけがない。一体その研究会はどこにあるんです? どこかの大学にでも――」

「大学じゃありません」

 相手の声の調子は変らなかった。

「個人が主宰しているのです」

「その個人と僕との間に、何の関係が――」

「それをおうかがいしたいんです。その男が持っていた会員名簿に、あなたの名が出ていました」

「え? 僕の名前が?」

 彼はびっくりして反問した。

「そりやおかしいな。僕が知らないうちに会員になってるなんて。姓も名も同じなんですか?」

「そう」

 うなずく気配がする。そして急にぞんざいな口調になった。

「あんた、Q区に部屋を借りているね」

「借りちゃいけないんですか」

「いや。借りるのはあなたの自由です。受持連絡で最近判ったもんでね」

「受持連絡というのは、何ですか?」

「交番の者が受持地区の各宅を廻って、そこに住んでいる人の数などを調べるでしょう。同居人とか雇い人を含めてね、それを受持連絡というんです」

「しかし僕は同居しているわけじゃない。部屋を借りて、一日の中何時間か仕事をするだけです」

 彼はいらいらした声で答えた。

「それと梵語とどんな関係があるんですか?」

「あなたはQ区の孝治橋という橋を知っていますか?」

 声は問いに答えず、突然話題を変えた。

「あの橋のふもとに、電車の停留所があるでしょう」

「ふもとじゃなく、たもとでしょう」

 彼は相手のタイミングを乱すために、揚足をとった。

「それともその橋は、高くそびえているんですか」

「そう。たもとです」

 声は冷静さをくずして、初めていまいましげな諷子になった。

「そのたもとの電停の安全地帯で――」

「安全地帯も何も、僕はその橋に行ったことはないですよ。Q区って広いんでしょう」

 そして彼はきめつけるように言った。

「もすこし筋道を立てて話したらどうですか?」

 相手は返事をしなかった。彼は受話器をぴたりとあて、聞き耳を立てる。近頃の受話器は性能が良くなって、以前より背後の音が入りやすい。かすかに声がする。二人以上の人間が相談しているらしい。はっきり聞きとれないのは、相手の掌が送話口をふさいでいるからだ。会話のくぐもり具合が、湿った厚ぼったい掌をまざまざと想像させた。やがて掌が引剝がれる音がして、声が大きくなった。「するとあなたは、梵語研究会も知らないし、孝治橋にも行ったことはないというわけですな」

「もちろんそうです」

「そうでしょうな。それならそれでいいです」

 ちょっと待て、という前に電話が切れてしまった。

「もしもし。もしもし」

 切れたから、もちろん応答はない。彼は受話器を置き、ふわふわした足どりで元の席に戻って来た。コップに残ったビールをぐっとあおる。何だか後味が悪い。またコップにビールを注いだ。彼の家のうしろにある工場の機械が、またガシャガシャと昔を立てている。この工場は夜の八時頃か、遅い時は十二時頃まで、音を立てているのだ。その度に螢光燈がびりびりと慄える。

「あの工場じゃ何をつくってんだね?」

 ある夜将棋仲間の浅香が、将棋を指しながらその方に顔をむけて言った。

「ほんとにうるさいな。震動で歩がピョコピョコ動くようだよ」

「うん。看板には紙工所と出ているんだ」

 この工場が出来た時、いや、ふつうのしもた屋が内部を改造して小さな工場になった時は、ほとんど音は発しなかった。看板がかかげられ、大和紙工所、その下に小さく、紙袋包装紙印刷加工、と書いてある。まだ機械は入っていず、手でバタンバタンと何かを打返す昔が、風の具合で彼に聞えて来た。

「それからふくれて来たんだな。つまり注文が多くなったということだろう」

 建物がつぎ足され、ふくれ上り、彼の家の裏庭の生籬(いけがき)のすれすれまでに、工場の壁が迫って来た。そして機械が入れられた。新規に次々買い入れるらしく、だんだん音が大きくなる。ある日彼がその前を通ると、以前は仕事場だったところが、商取引の応対所になっていて、チョビ髭を生やしたそこの主人が、卓の向うの回転椅子に腰をおろして、煙草をふかしていた。創業当時にその髭はなかったと思う。そいつが彼の顔を見て、中腰になり、じろりとにらんだ。にらんだだけでなく、文句はつけさせないぞという感じで、肩をそびやかした。

「やはり音を出していることに、引け目を感じているんだね」

 彼は浅香に説明した。

「髭を立てたのが、その証拠だ」

「髭が何の証拠になるんだい?」

「髭を立てると、鉄面皮、いや、鉄面皮とまでは行かないが、少し横着になる気分になるんだ。一昨年の夏だったかな、おれは信州の友人に誘われて、山ごもりをしたことがある。そこで雨の日に転んでね、顔を白樺の木の根っこにぶっつけた。顔中が傷だらけになり、眼鏡も割れてしまった」

「山の中で眼鏡をこわしたら、困るだろうね」

「そりや困るさ。だから翌日山を降りて、町まで眼鏡を買いに行った」

 素面ではどうにも恰好(かっこう)がつかないので、大きなサングラスをかけた。バスに乗った。するとバスに乗っている連中の態度が、どこかおかしい。おどおどとして、彼の顔を見ないようにする。顔を合わせると、あわてて眼をそむける。

「初めは気の毒がってそうしていると思ってたら、そうじゃないんだね。恐がっているんだ」

 顔には傷があるし、あまり品の良くない黒眼鏡をかけている。しかも太い杖をついている。殺し屋みたいな恰好をして、うっかりすると因縁をつけられそうだ。そういう心境に乗客がなっていることが判ったのは、バスの車掌が切符切りに来た時だ。その若い女車掌は彼の前を通る時、眼を伏せるようにして、切符を売らなかった。

「すると君はただ乗りをしたのか?」

「つまり、そうだ。売って呉れないから、仕方がないやね。バスを降りて眼鏡屋まで歩く時も、通行人は皆おれをよけて通ったよ。そこでおれも面白くなって、わざとすごんだような歩き方で、街を歩いた」

「それと髭と、何の関係があるんだい?」

「だからさ、顔かたちが変ると、人間は若干横着になるということさ。素(す)の顔じゃ責任を感じるが、髭とか黒眼鏡は責任を減少させる楯となる」

「ふん。そんなものかな」

「そうだよ。グレン隊を見なさい。おおむねサングラスをかけている。それで破廉恥なことが出来るんだ」

「他の考え方は出来ないか」

 浅香は憮然とした表情で、角の位置を動かした。

「たとえばだね、君は盲のアンマさんと間違えられたんじゃないか」

「アンマ?」

 彼は驚いて反間した。

「じゃ皆、どうしておれの顔から眼をそむけたんだ?」

「怪我したアンマさんなんて、何か哀れで、見るに忍びないからね。車掌が切符を売らなかったというのも、同情したんだとは考えられないか?」

 彼は返事をしないで、しばらく盤面を見詰めていた。見詰めているふりをしていた。ギャングの親方のような気分になっていたのに、他人には盲人に映っていたかも知れない。その解釈がひどく面白くない。彼は敵角の前に香車を打った。浅香は腕を組みながら言った。

「眼鏡を新調してかけた時、さっぱりしただろう」

「うん。うす暗くてもやもやした世界が、急にはっきりしたね」

「それで街を歩いた時――」

 浅香は角を動かした。

「誰も君をよけなかっただろう」

「うん」

 面白くない気分のまま、彼はあまり考えもせず、しきりに駒を動かした。盤面は間もなく彼の負けになった。勝負はそれで打切り、ビールが出た。気がついてみると、紙工店は作業をやめ、音は止っていた。

「どこかにいい仕事部屋はないかね」

 彼は言った。浅香はコップを手に持ったまま言った。

「どうして紙工店に抗議を申し込まないんだ?」

「うん。それも考えたんだが――」

 彼は視線を宙に浮かした。初めは人の手で打返すだけの音であった。それから小さな機械が入った。機械を入れ替えるのか買い足すのか、だんだん音が大きくなる。夏になると窓をあけ放すので、なおこたえる。では抗議という段になると、彼はついためらってしまう。昨日も今日と同じくらいにやかましかった。今日抗議するくらいなら、なぜ昨日抗議しなかったのか。何か特別に今日抗議する理由があるのか。

「印刷加工と言うが、音が大き過ぎやしないか?」

浅香はにやにやと笑いながら言った。

「爆弾でもこさえているんじゃないか」

「バクダンを?」

 彼も笑った。

「まさかねえ」

「とにかく君は気が弱過ぎるんだ。びくびくし過ぎるんだよ」

 そうじゃないんだ、と訂正しようと思ったが、面倒くさくなって彼は口をつぐむ。

 

 いたずらじゃないか。誰かがいたずらに電話をかけたんじゃないか、と思いついたのは、三本目のビールの栓を抜いた時であった。コップに盛り上る白い泡に、彼はしばらく眼を据(す)えていた。

『しかしいたずらにしては――』

 彼はぼんやりと考えた。

『さっぱりしたところがない。へんに意味ありげだった』

 彼は立ち上り、電話帳を持って戻って来た。Q警察署の番号を探した。また立ち上って電話口に取りつき、ダイヤルを廻す。若々しい元気そうな声が出た。

「はい。こちら、Q警察署です」

「つかぬことをおうかがいしますが――」

 舌がもつれるのを感じながら、彼は言った。

「そちらに江藤さんとか何とか、そういう方が勤務しておられますか?」

「江藤? いませんね」

 やはりいたずらだったのかと、瞬間彼は考えた。

「伊藤の間違いじゃないですか?」

「あ。そうかも知れません」

「伊藤さんはもう帰りました。何か用事でも――」

「ええ。ちょっとした事件で」

「主任がいますから、その方につなぎましょう」

 電話が切り換えられて、別の声が出て来た。彼は言った。

「さっき伊藤さんから電話がありましてね、途中で切れたような具合で――」

「何の用件でした?」

「僕もよく判らないんですが、梵語研究会とか何とか――」

「ああ。あの事件ですか。梵語研究会とあなたとは何の関係もないそうですな」

「もちろんありませんよ!」

 調子が詰問じみた。ビールの酔いがそれをけしかけている。

「一体梵語研究会とは、何の団体ですか。思想的なものなんですか?」

「あなたの職業は?」

 警察というところは、すぐに話題をそらせたがる。平静に、平静に、と念じながら、彼は答えた。

「著述業。ものを書く商売です」

「ああ。なるほど」

 うなずく気配がする。

「ものを書く商売ね。判りました」

「それで僕の家の近くに工場があったり、またその頃アパートが建ちかかったりして、うるさかったもんですから、浅香という友人の紹介で、Q区に仕事部屋を借りたんです」

「浅香?」

 語尾が尻上りになった。

「それはどういう人物ですか。以前からのお知合いですか?」

「いや。四、五年前に知合ったんですがね」

「どこで知合ったんです?」

「どこだったか忘れましたよ」

 彼はいらだって言った。四、五年前新宿のバーで誰かに紹介され、それ以来将棋仲間として往き来している。それを説明するのは面倒だったし、またその義務もない。しかし何か為体(えたい)の知れないものが、彼の身辺にまつわりかかっている。それが第一にやり切れなかった。

「一体その梵語研究会に僕の名が――」

「ああ。あの名簿はあまり当てにならないんですよ」

「当てにならないって、そんなバカな――」

 彼は嘆息した。

「その研究会の正体は、つまるところ何ですか?」

「つまり梵語研究会という名をつけて、いかがわしい本を売りさばいていたんですな。その男が」

「いかがわしい本?」

「そう。猥褻(わいせつ)な書物のことですよ」

「猥褻?」

 彼は絶句した。自分が猥褻文書に関係している。それは意外であったし、またその事実もなかった。しばらくして彼は言った。

「僕にはそんな心当りは全然ありませんよ」

 関係がないことを、どんな方法で証明するか。その心配が彼の口調を弱くさせた。しかしおどおどしていては、かえって疑いを持たれるおそれがある。

「で、その犯人はつかまったんですか」

「ええ。つかまえて家宅捜索をしたら、そんな名簿が出て来ましてね。あなたの名が出ていたというわけです」

 彼は頭をいそがしく働かせながら、主任の声を聞いていた。もやもやした不安感が一応形をとったけれど、また別のもやもやが発生して、彼にかぶさって来る。

「その男を訊問すると、あなたと同じ名の男がある場所を指定して来て、そこで書物と金を引替えたと言うんですがね」

「ある場所? どこです?」

「孝治橋の電停の安全地帯だというんです」

「孝治橋――」

 なるほど孝治橋がそこにつながるんだな、と彼は考えた。

「しかし僕は孝治橋などには、伊藤さんに申し上げた通り、行ったことはありませんよ」

「誰かがあなたの名をかたったのかも知れませんな。おい。灰皿を持って来て呉れ」

 灰皿が受話器の横に置かれる音がした。主任は今までくわえ煙草で応答していたらしい。

「こんな場合、皆さんは自分の本名を使いたがらないもんでね。全然の偽名か、誰かの名を借りることが多い。だからこんな事件はやりにくいんです」

 一体誰が名前をかたったんだろう。その疑問がまず彼に来た。

「孝治橋で受渡しした以上、その偽名者はQ区に住んでいるだろうと見当をつけましてね、もう一度調査したら、あなたが同居しておられたというわけです」

「その偽名者が僕であるかないか、どうしてそちらに判るんですか」

 彼は放って置けないような気持になって言った。

「その男は僕と称する男に、孝治橋で会ったんでしょう。すると僕の顔を見た筈ですね」

「そりやそうでしょう」

「その男は今留置場に入れられているわけですね。僕がその男と会えば――」

「いや。その男は――」

 相手は少し苦しげな口調になった。

「今ここの留置場にいないのです」

「どこかに身柄を移したんですか?」

「いえ。放してあるんです。自宅にね」

 どうも話がよく判らない。売り手の犯人を釈放しているくせに、買い手のおれ(?)に電話をかけて来る。一体どういう意味なのか。相手は続けた。

「まあ逃亡するおそれはないと見て、そんな処置を取ったんです。ですから、孝治橋にあらわれたのは、あなたじゃないと判れば、それでいいんですよ。いや、電話で御迷惑をかけました」

 彼は何か返事をしようとした。しかし言葉が出ない中に、電話は静かに切れた。

「何かがどこかでこんぐらがっている」

 元の座に戻って彼は呟いた。コップのビールの泡はもう消滅して、茶褐色の液体だけになっている。

「とにかく声ばかりだからな」

 初めから終りまで電話だけで、お互いに顔を見せ合わない。第一にそれが不安定であった。しかし誰かが彼の名前を使用したのは、事実であるらしい。Q区の仕事部屋のことを知っているのは、浅香と貸し手の内山一族だけの筈だ。殺人だの傷害などの刑事事件ならいいが、誰かが名をかたって猥褻書を手に入れた。名をかたられたおれは、何の得もしていない。それが彼には忌々しかった。泡の消えたビールを台所に捨て、彼はも一度ダイヤルを廻して、浅香を呼び出した。

「浅香君かね?」

 彼は言った。

「君は梵語研究会というのを、知っているかい?」

「何だね、そりゃあ」

 浅香の声が戻って来た。

「梵語、サンスクリットか何かだ。それを研究する会さ」

「心当りないね、全然。それがどうしたんだね?」

「心当りがなけりゃいいんだよ」

 彼はある快感を感じながら答えた。今やられたことを他人にやるのは、くすぐったいような喜びがある。

「明日の夜でも将棋をさしに来ないか」

「おい。おい。奥歯にもののはさまったような言い方はよせ」

 じれたような浅香の声がした。

「梵語研究会とは何だい?」

「おれにもよく判らないんだよ」

 彼は笑いながら答えた。そして電話を切った。笑いはすぐにおさまって、にがにがしいものが胸につき上げて来る。

 

「それは変だな」

 将棋の一勝負がついて、浅香は煙草に火をつけながら言った。

「判っているのは、それだけかい?」

「声のやり取りだけだからね、くわしいことは判らないのだ」

 彼は立ち上って、東京都の地図を取出し、ごそごそと拡げた。

「孝治橋というのは、ここなんだよ」

 赤鉛筆で印した箇所を、彼は指で押えた。浅香は眼鏡を外して、それに見入った。

「おれの仕事部屋から歩いて、三十分ぐらいのところだ。君は行ったことがあるか?」

「ないね。タクシーで通ったことはあるけれど――」

 浅香は顔を上げ、しかつめらしい表情で顔を見た。

「それ、偽名じゃなく、本名と違うか?」

「本名?」

 彼も地図から顔を上げた。

「同姓同名の別の男がいるというわけか。そんなことはないだろう」

「いや。君自身が孝治橋に行ったということさ」

「なに? このおれが?」

 彼はびっくりして浅香の顔を見た。

「おれが嘘をついていると思うのか。わざわざ君を呼び出して――」

「いや。そうじゃないんだよ」

 浅香は両掌で空気を押えるような恰好をした。

「君は嘘をついてない。でも、無意識裡(り)にそれをやって、それを忘れてしまって――」

「冗談じゃないよ。夢遊病じゃあるまいし」

 彼は笑おうとしたが、笑いはどこかに引っかかった。

「それなら少くとも現物がおれの手に残っている筈じゃないか」

「それもそうだな」

 浅香は視線を地図に戻した。この男と知合って約五年になる。親友というほどではないが、お互いに胸襟を開いているつもりだ、と彼は浅香のうすくなった顱頂(ろちょう)を見ながら考えた。それなのに夢遊病あつかいにするのは、変じゃないか。水くさいじゃないか。

「しかし――」

 思わず声になった。偽名男がもしかすると浅香ではないか。昨日の警察電話以来、胸のどこかにからまっている疑念を、今はっきりと彼は自覚した。相手を疑っていることにおいては、お互いさまではないか。ぎょっとした風に浅香は顔を上げて言った。

「しかし、何だい?」

「いや。何でもない」

 彼は間の抜けたような笑い方をした。

「おれが夢遊病者だという発想は、どこから出たんだね?」

「ああ」

 浅香は困った表情になった。

「内山んとこの爺さんが、そんなことを言ってたんでね」

 内山というのは彼の仕事部屋を借りた家である。浅香の遠縁に当るそうで、浅香の口ききで離れを借りることが出来た。戦災をまぬかれた家なので、相当に古い。そこに爺さんがいる。離れを根城としている。彼はその離れを正午から夕方まで使うという約束で、部屋代を払っている。その間爺さんは母屋でテレビを見たり、雑誌を読んだり、または外出したりする。

「君は仕事をするために部屋を借りたんだろう。それなのに庭をぐるぐる歩き廻ったり、この間などは庭にしやがんで、二時間も蟻が這っているのを眺めていたり――」

 浅香は眼鏡を塵紙でごしごし揉んだ。

「もちろんおれには判っているよ。ところが爺さんには判らないのだ。だから君のことを変な人間だと――」

 それはまだ暑い日のことである。彼は庭に出て見ると、蟻が行列して這っていた。それぞれ米粒の半分くらいの白いものをかついで、移動している。

(蟻の引越しだな)

 と彼は気付いた。そしてその行列の行先をたどった。行列はかなり広い庭を横切り、隣家の垣根をくぐっている。引越し先は判らない。彼は元の巣へ戻り、そこにしゃがみ、出て来る蟻の群を観察していた。

(この白い粒は何だろう。食糧かな?)

 それを運び出す蟻と、運び終って戻って来る蟻とで、巣の出入口は混乱している。その中に面白いものを見た。何も持たないでそこらをうろうろしている蟻がいる。その怠け蟻に、比較的大型の蟻が近づいて、いきなり嚙みついて殺してしまった。音が聞える筈もないが、彼はゴツンという音のようなものを感じた。

「あ!」

 彼は思わず声を立てた。その大型蟻は巣の近くに五、六匹いて、働き蟻の仕事ぶりを監視しているらしい。彼はその仕組みにショックを感じた。

「そうか。あの爺さんがおれのことをそう言ったのか」

 彼は浅香に言った。

「夢遊状態で蟻を眺めていたと、爺さんは思い込んでいるのだね」

「そうらしいよ」

「どうしてそのことを、早くおれに知らせなかったんだ?」

「知りたかったのか?」

 浅香は意外そうに口をとがらせた。

「そんなこと、知らなきゃ知らないで、事は済むもんだと思って、君には話さなかったんだがね」

「そりややはり知りたいさ。自分に関係したことだからね」

「そうかい?」

 浅香は言った。

「君は警察の電話で、君の偽者(にせもの)がいることを知った。知って迷惑を感じている。電話さえなければ、君は何も知らないで、つまり迷惑しなくて済んだんじゃないのか」

 それとこれとは問題が違う。そう言おうとしたが、頭が混乱して、どこが違うのか、彼には判らなかった。

「あれは蟻の引越しを見ていたんだ」

 仕方がないので、彼は話を変えた。

「君は見たことがあるか」

「ないね」

「蟻には憲兵みたいな奴がいるんだよ。驚いたね」

 彼は蟻の生態について、簡単に説明した。浅香は黙って聞いていた。

「そのおれのしゃがんだ後姿を、爺さんはそんな眼で眺めていたんだな」

 彼は内山老人の眼のことを考えながら、そう言った。老人の眼は埴輪(はにわ)の眼に似ている。トーチカの銑眼にも似ている。ある特別の期間を除いて、いつも拒否の風情(ふぜい)をたたえている。

「しかし変なのは爺さんの方だよ。君も知ってるだろ」

「うん。知っている」

 浅香はうなずいた。

「早く病院に入れた方がいいって、内山に会う度に言うんだがね」

 

 背中にジンマシンのようなものが出来たらしく、痒(かゆ)くてたまらない。孫の手をどこかで売っていないかと、ぶらぶら歩いている中に、Q警察署の前に出た。

「あ。警察がここにある」

 彼は思わず呟(つぶや)いた。いきなりぬっとあらわれて、立ちはだかったような感じである。古ぼけた建物なのに、妙に威圧感がある。内部で働いている人たちの表情が、建物にまでしみ出て来るものなのか。

「こんなところにあったのか」

 彼は佇(たたず)んだまま、しばらく考えた。そして中に入って行った。受付に行って訊(たず)ねる。

「こちらに伊藤さんという刑事さん、いらっしやいますか?」

「伊藤?」

「ええ。風俗の取締りなどをやる係りの――」

「ああ。ああ」

 若い受付の男はうなずきながら、受話器を取り上げようとして、またおろした。

「公安課の伊藤さんですね。二階です。あの階段を登って、右に曲ったところです」

 彼はお礼を言って、歩き出した。二階の廊下は小学校の廊下に似て広い。しかしいろんなものが窓際に積み重ねてあるので、実際に歩ける場所は狭いのだ。大掃除の時のような匂いがする。台の上にラーメンの丼が重ねてある。その少し先に『公安課』の札が下っている部屋があった。彼はその扉を押して、あいさつをした。

「こんにちは」

 部屋には卓と椅子が五人分あって、コの字型になっている。しかし人間は一人しかいなかった。その刑事は読んでいた新聞を卓に置き、不審そうな眼で彼を見た。

「伊藤さんはいらっしゃいますか」

「今外に出ています」

 刑事は彼を見詰めたまま言った。

「あなたは?」

 その声でこの刑事は、伊藤刑事や主任でないことが、すぐ彼に判った。彼は帽子を脱いで自分の名をいった。

「実は一週間ほど前、梵語研究会のことで、電話で問合わせがあったんですが――」

「ああ。あの件ね」

 彼の名前を聞いて、刑事は思い出したのだろう。立ち上って椅子をすすめた。中庭を隔てたどこかに剣道場があるらしく、懸声が入り乱れて窓から飛び込んで来る。彼は腰をおろして煙草を取出した。

「あれはもういいんです」

 ライターの火を差出しながら、刑事は静かに言った。刑事というと顎(あご)の張った男を彼は連想するが、この刑事の顎はしゃくれて尖っていた。予定を立てて来たわけでなく、たまたま建物があって入って来たのだから、どうも落着かない。形をつくるために、彼はせきばらいをした。

「そちらでいいとおっしゃっても――」

 彼は言った。

「こちらじゃ割切れない気分が残るんです」

「そうでしょうな」

「この際実情を話していただけませんか。一体その梵語研究会と言うのは――」

「あれは元は真面目な団体だったそうですが、代が替って、今は三代目なんです」

「三代目?」

 彼は煙草をもみ消した。

「三代目と言いますと?」

「初代と二代目は引退したんです。その三代目になって、会員にいかがわしい本を売るようになった。したがって会員のメンバーも変って来た」

「三代目になって堕落したというわけですね」

 彼はよく判らないまま合点合点をした。

「本はよく売れたんですか?」

「それがあまり売れていないらしい。趣味でやっているのか、それで儲(もう)けようとしたのか、それがはっきりしないんです。とにかく残本とメモを押収して、そのメモで買った人を捜して参考人に――」

「その男をつかまえたのは、いつ頃ですか?」

「二箇月ほど前です」

「そのメモを見せて呉れませんか?」

「それもここにはないのです」

 背中が急に痒くなって来た。彼は椅子の背にくっつき、しきりに両肩を動かした。

「すると僕に孝治橋で渡したというのも、その頃なんですね?」

「いや。今年の三月頃だと、当人は言っていましたね。霧の深い、寒い夕方だったと――」

「今年の三月?」

 彼はびっくりして言った。

「僕がQ区に部屋を借りたのは、今年の五月頃ですよ。それまでQ区とは、何も関係もなかった。おかしいですねえ」

「なるほどね」

 彼が痒がっているのを見兼ねて、刑事は机上の物差しを彼に貸した。彼は襟からつっこんで、ごしごしとこすった。

「道理であいつをあげて直ぐ、孝治橋を中心にして、買い手を捜した。その近くに住んでいるだろうという推定でね。しかし捜しても見つからなかった」

「そりゃそうでしょう。僕はその頃いなかったんですから」

 物差しを机に戻しながら彼は言った。

「それで何故、また手数をかけて僕を捜したんですか?」

「書類を検察庁に廻したら、もう少し参考人、つまり本の買い手をですね、余計に捜して呉れとのことで、も一度調査し直したんです。するとあなたが部屋を借りているという受持連絡があった。しかし更にわたしが調べてみると、時間的に食違いがある」

「あなたは内山家に行ったんですか。誰が応対に出ました?」

「お爺さんでしたよ」

「お爺さんは僕のことを何と言っていましたか?」

「いいえ。別に」

 会話は途切れた。彼は撃剣の音を聞きながら、しばらく窓の外に眼を放していた。つじつまが合っていそうで、まだ何かが残っている。ぼんやりしているが、彼の名をかたった人間が、たしかにこの世に存在するのは事実だ。そこを誰も解明して呉れない。

「それの住所を教えて呉れませんか。会いに行きますから」

「それというと?」

「犯人のことですよ、梵語研究会の。会って偽名男の人相などを――」

「そりゃムリです」

 刑事はきっぱりと答えた。

「あれが犯人か犯人でないか、裁判所できめることです。われわれ警察官がそこに立入ることは出来ませんね」

「でも、僕の名をかたった奴がいる。そいつは明らかに氏名詐称でしょう」

 彼は食い下った。

「それはやはり罪になるんでしょうね」

「あなたに金銭その他のことで、重大な実害があった場合にはね」

 刑事はうんざりした声を出した。

「その男がどんな男かは判らないし、またあんな事件では、皆自分の名を出したがらないものです。たとえば連込み宿などで、宿帳には本名を書かない。それと同じです。それをいちいち人名詐称で――」

 その時電話がじりじりと鳴り渡った。刑事はのろのろと立ち上り、受話器を取った。そう言えば実害はないのだから、放って置いてもよろしい。その気持と、一体どんな了見でおれの名をかたったのか、その疑念が入り乱れる。じりじりと時間が経つ。刑事は誰かと世間話をしているらしい。そののんびりした言葉や笑いを聞いている中、刑事の背中が何か壁のように見えて来て、思わずワッと叫びたい気持になる。

 話が済んで刑事が戻って来た。

「孝治橋で本を受取った男は、頭が禿げていた。梵語研究会長がそう言うのです」

 刑事は少し笑った。

「ところがあなたは禿げていない。ふさふさしていますね」

「禿げてるも何も、僕は今日初めてあなたに会ったわけでしょう。どうして――」

「いや。あの電話のあと、すぐわたしが内山さんとこに急行して、あなたの髪の具合を聞いて来たわけですな。そして出先から電話して、あなたの頭は禿げてないとの報告をしました」

 ビールを二、三本飲んでいる間に、おれが禿げているかいないか、調べられたわけだな。なるほど、それで一応話は通る。しかし釈然としない。彼は手で髪をかき上げながらいった。

「その男、眼鏡をかけていませんでしたか」

 バスの中で、遊園地の回転車の中で、松本行列車の中で見た顔を、思い出しながら彼は言った。あいつはいつも帽子を冠っていた。

「年の頃は僕か、僕より少し上のような――」

「何か心当りがあるんですか?」

「いえ。別に――」

 刑事は鉛筆で机をこつこつと叩きながら、彼の顔を見ていた。彼はそろそろと立ち上りながら、あいさつをした。

「どうもお邪魔しました」

「いえ、こちらこそ御苦労さまでした」

 刑事があけて呉れた扉から、彼は廊下に出る。刑事の視線を背に感じながら、まっすぐ歩く。

(つまりおれはこの事件では、利用価値がないというわけだな)

 階段を降りて、建物の外に出る。出るというより、感じとしては追い出されるみたいだ。何だかひどく疲れて、もう孫の手を買う気力がなくなっている。――

 

 神経科病室

 

 内山老人がとうとう入院することになったと、ある日浅香は彼に報告した。彼は訊ねた。

「当人は承諾したのかね?」

「承諾と言っていいのかな」

 浅香は首をひねった。

「とにかく縁側から落ちて、肱(ひじ)を痛めたからね。それの治療のためだと、爺さんには言ってある」

 内山家は母屋が三部屋で、離れの一部屋は渡り廊下でつながっている。老人が落っこちたのは、母屋の縁側からだ。なぜ落ちたかというと、外でチンドン屋の音がして、急いで見に行こうとして、蹴つまずいたのだ。

「どうもチンドン屋と爺さんは、相性が悪いようだね」

 内山老は街でチンドン屋と会ったり、豪の前をチンドン崖が通ったりすると、急に亢奮(こうふん)してそれを見に行く。時にはチンドン屋のあとにくっついて、一時間ぐらい戻って来ないこともある。戻って来た老人は、夢に浮かされたように朗らかになっている。上棟嫌になって、家人や彼にも話しかけて来る。家人とは母屋に住む内山夫妻と中学三年の男の子だ。

 しかしこの御機嫌な状態は、三日と続かない。三日目あたりから、深い欝(うつ)状態におちいる。急に不機嫌な状態になる。いや、不機嫌というのは当らない。不機嫌というと他人に当り散らすようだが、老人は逼塞(ひっそく)して自分の殻に閉じこもってしまうのだ。ほとんど行動しないで、食慾もなくなる。

「不眠も来るらしいんだね。内山君の奥さんもそう言っていた」

 浅香は説明した。

「夜中にぶつぶつと何か呟いていたり、泣いているのを聞いたことがあるそうだ」

 その状態が五日か六日か続き、だんだんと元の状態になる。元の状態と言っても、心身健康というわけでない。むっつりとして笑わない、あまり感動のないような老人に戻るのである。浅香は言った。

「君があの離れを借りた時から、爺さんのその状態はひどくなったとは思わないか?」

「そうだね。その傾向もあるようだな」

 初めあの部屋を借りた時、老人は自分の居室に他人が入って来たという実感がないらしく、時々離れにやって来た。机のまわりに散らかした書きほぐしを拡げて読んだり、また彼の書いている机の上をじっと見詰めていたりする。それでは仕事にならないので、彼は母屋の人に頼んで、彼がいる間は出入りしないようにしてもらった。以後そんなことはなくなったが、その措置を老人がどう受取ったのか、彼には判らない。

「どんなつもりかな。あの爺さんは」

 老人の気持が、彼には理解出来ない。と同時に、老人は彼のことを理解していない。彼のことを変人だとか、夢遊病的だと批評したのでも判る。つまりお互いに判ってはいないのだ。

「チンドン屋を見ると発作(ほっさ)が、いや、何か転換が起きるのは、面白いね」

 彼は言った。

「ある人間をある状態に置くと、喘息やジンマシンが起きる。それと同じことかな」

「そうかも知れない」

「チンドン屋というのは、特別の商売だ。あれは街を歩いているけれど、人間の素顔を出していない。厚化粧をして、服装だって時代離れをしている。つまり人間じゃなくて、仮のものだ。仮象だね。考えて見ると、あれは気味の悪いものだ」

「あれは儲(もう)かる商売かな。どういうシステムになっているのだろう。請負(うけお)いか、それとも日当か」

「ある顔を見ると、突如として反応を起すのは――」

 彼はあの男のことを思い出しながら言った。

「何か底深い関係があるのかも知れない」

「ある顔って、誰の顔だ?」

「チンドン屋の顔さ。あれは皆同じような顔をしている。塗りたくって、同じ型になっている。表情がない」

「表情はあるだろう。笑ったり――」

「あれは表情じゃない。顔の筋肉が動いているだけだ」

 彼は彼等のほんとの表情を、一度見たことがある。二年ほど前彼が散歩していると、道ばたの小公園の入口で、チンドン屋の一組が車座になって、昼の弁当を食べていた。食べながらおしゃべりをしていた。生き生きとした表情や笑いが、厚化粧を通してはっきり判った。今まで禁じられたりしばられたり抑圧されていたものが、いっぺんによみがえっている。その感じがあるショックを彼に与えた。

「おれにもそれに似たことがあるんだよ」

 彼は言った。

「それと逆の立場だけれどね。おれの顔を見ると、その男にある反応が起きるんだ。ギョッとしたような――」

「それ、知合いかね?」

「いや。全然見知らぬ男だよ」

 駅の階段で、バスの中で、遊園地の回転車の中で、会うとギョッとした表情になるあの男のことを、彼は浅香に説明した。浅香は黙って聞いていた。

「へんな話だね」

 浅香が言った。

「すると君そっくりの男が、どこかにいるんだね」

「そうらしいんだ。いるというより、いたという感じだな」

 彼はその男の表情を思い浮べながら言った。

「あいつは死人でも見るような眼付きで、おれを見る。そして青ざめるんだ」

「今度会ったら、つかまえて聞いてみたらどうだい?」

 彼は返事をしなかった。相手が怯(おび)える以上に、近頃彼はその男に怯えを感じていた。しばらくして彼は言った。

「いつ爺さんを入院させるんだね?」

「明日だ」

 浅香は答えた。

「早くしないと、また悪い状態になるからねえ」

「肱をいためたのは、いつだい?」

「今日だ。今日君はあの部屋に行かなかっただろう」

「うん、用事があってね」

 彼は言った。

「するとまだ御機嫌の筈だね。肱をいためたって、骨か?」

「いや。すりむいただけだ」

 彼は老人の上機嫌の状態を思い浮べ、強い哀れさを感じる。いつだったか、やはりチンドン屋を見た直後、老人は朗らかな表情で彼に話しかけた。それは酔っぱらっているような口のきき方であった。日本もアメリカの一州になった方がいいという説である。彼はすこし驚いて反問した。

「何故ですか?」

「その方が日本のために好都合ですぜ」

 老人の主張によると、日本人が皆米国籍に入る。大統領選挙がおこなわれる。その時旧日本人から候補者を一人立てる。旧日本人並びに黒人はその候補者に票を入れる。白人は二派に分かれているから、旧日本人はかならず当選する。

「新大統領の特別命令で、ホワイトハウスを日本州に持って来る。こりや都合がいいですぜ」

 冗談の口調ではない。呂律(ろれつ)は怪しいが、本気の主張と思われた。

(そんなことを考えているのか)

 そんな老人が、周囲からだまされるようにして、入院させられる。入院して泊る方が老人にとって幸福だと判っていても、可哀そうだという気分は打消しがたい。彼は言った。

「気の毒なようなもんだな」

「家族がかい?」

「いや。爺さんがさ」

「爺さんが?」

 浅香は眼を大きくして彼を見た。彼はたじろいで弁解をした。

「いや。気の毒というのは言い過ぎだが、とにかく、おれにとっては、他人事じゃないような気がするよ」

「そうか。そう言えば君にもその傾向があるようだな」

 浅香は笑いながら言った。

「君はいつもびくびくして生きている。一度診察してもらったらどうだね。おれがいい医者を紹介するよ」

「お爺さんがいなくなると、がらんとしているな」

 

 それから三日目の午後、浅香は内山家の離れにやって来て、そう言った。

「何だかはり合いがないね」

「爺さんは元気かい?」

 彼は庭を眺めながら言った。内山家の庭はかなりあれている。花壇らしいものが一応つくられてはいるものの、花は咲かず、雑草ばかりがはびこり、日かげにはぜに苔がいっぱい貼りついている。貧寒な庭だけれども、彼はこの庭が割に気に入っていた。浅香の話では、昨年までは老人と孫の中学生がせっせと草花を植え、水をやったりして手入れしていたそうだが、今年になっては誰もかまわなくなった。老人は変になり、中学生は受験準備で忙しいので、草花どころの騒ぎではなくなった。終戦子なので、競争もはげしいのだろう。今その中学生が庭の隅に生えた柿の熟した実を一箇もいで、母屋に戻って行く。無表情というより、いくらか沈欝(ちんうつ)な顔をしている。この中学生は彼と視緑が合っても、あいさつをしない。

(おれにもあんな時代があったな)

 と、その度に彼は思う。体だけは大人になって、気がまえがそれに伴わない。行く先がどうなるのか、見当がつかない。気持が内に折れ曲る。しかし若いから、その時期を過ぎれば、やがて調子を取り戻すだろう。

「爺さんは眠っているよ。いる筈だよ」

 浅香は答えた。

「薬で持続的に眠らせて、抑圧を取除くんだそうだ」

「そうか。爺さんは今まで抑制されていたのか。なるほど、そう言えばそんな調子だったな」

 すべてのものを拒むような老人の眼窩(がんか)を、彼は思い出していた。

「チンドン屋のこと、医者に話してみたかね?」

「うん。話したよ。でも――」

 浅香は口ごもった。要するに人間には個人差があって、はっきりは判らないけれども、子供の時チンドン屋が大好きで、いつもついて歩いていた。その幼時の経験が今よみがえって来て、強い悲哀の情緒を引き起すのではないか。

「と、医者は言うんだね」

「じゃおれのチンドン屋仮象説は、間違っているのか?」

「うん。それは考え過ぎだろうと、医者は笑っていたな」

「しかしチンドン屋を見ると、爺さんは調子が俄然(がぜん)明朗になるじゃないか。憂欝な状態はその後に来るんだろう」

「それもね、医者は言ってたが――」

 チンドン屋を見た瞬間から、欝状態が始まる。その欝状態に全細胞(?)が反撃して、反対の状態をつくり上げる。一時的な躁(そう)状態が発生するのはよくある例で、内山老人のもそれではないか。

「欝状態の変形だと言うんだがね」

「一々理屈をつけて、おれたち素人(しろうと)の考えを潰そうとするんだな」

 彼は笑いながら言った。

「むきになって言ったのか?」

「いや。わりに控え目だったよ。一度見舞いに、いや、見に行かないか。勉強になるよ」

「そうだね。今度の土曜日にでも行って見るか」

 彼はまだ神経科の病院を見たことがない。興味が彼をそそった。興味というより義務感にそれは似ていた。

 

 約束の日、浅香は彼の家にやって来た。浅香を待たせて、ゆっくりと彼は着換えをする。浅香は言った。

「工場の音、少し静まったようじゃないか。文句でもつけたのか?」

「いや。寒くなったからだよ」

 寒くなると工場も窓をしめる。こちらも窓をしめる。音の通い路が小さくなる。そこで静かになったような気になる。実際は夏の間と同じ響きを、あの機械たちは出しているのである。それを彼は知っていた。その証拠に小春日和(びより)になると、向うが窓をあけ放つので、俄然音が大きくなる。彼は朝十時頃起きるが、起きなくてもその音の大きさで、その日の天気や寒暖の程度を知ることが出来る。

「おれはあそこに塀を立てようと思っているんだがね」

 ネクタイをしめながら、彼はひとりごとのように言った。

「塀を?」

「うん。ブロックで、三メートルぐらいの高さのを」

 それは夏頃から考えていたことである。隣のアパートが完成して、家が見おろせるようになった時、彼は大急ぎで植木屋に頼んで、大きな杉の木を四本植えた。それが今はすっかり根づいて、バレーボールのストップのように、アパートの住人たちの視線をはね返して呉れる。工場からのは視線でなく、音と響きだから、杉では間に合うまい。やはりブロックが適当だろう。

「すると向うは南をさえぎられて、日かげになるわけだね」

「そういうことさ」

「文句をつけて来やしないか」

「そりやお互いさまだ。こちらも迷惑を蒙っているんだから」

 彼は笑った。

「その時はおれもチョビ髭を立てるさ」

 この間工場が忙しかったのか、午後十時か十一時頃まで就業して、音をばらまき、迷惑をしたことがあった。夜になるとあたりが静まるので、なおのこと騒がしく聞えるのだ。そこで彼は昼間境界線に行って、紐(ひも)をつかって測量した。測量の真似ごとをした。すると工場の窓が開いて、工場主があわてて顔を突出した。何か言いたげにチョビ髭がむくむくと動いた。しかし言葉にはならなかった。工場主の紅潮した顔はすぐに引込み、一分間ほどして機械の音はぴたりとやんだ。そして窓に工員たちの顔がずらずらと重なり並んだ。時々工員たちとも顔を合わせるのだが、合わせる度に顔が変っているような気がする。忙しくこき使われるから、次々にやめて新顔が入って来るのか。それともこちらが覚えようという気がないので、記憶がないのか。いや、もともと彼には他人の顔を覚える能力が欠乏しているのだ。

「…………」

 彼は黙って工員たちの顔を、ひとわたり見廻した。そして測量の真似ごとを中止して、家に戻って来た。五分ほど経って、ふたたび機械がガッシャガッシャと動き出した。

「君はびくびくしているくせに、案外強いところがあるんだな」

 彼の用意がととのったので、浅香も立ち上りながら言った。

「そうじゃない。おれはもともと強いんだ」

 彼は答えた。

「ただ為体(えたい)の知れないものに弱いんだ。相手が判ってしまえば、こちらにも打つ手はあるだろう。判らないから、警戒をする」

 いくらか強がりの気持もあった。

「ほんとかね。ほんとにそう思っているのかね」

「そこでそれを逆にして、自分を為体の知れないものに仕立て上げたら、もう恐いものはないだろう。処世術としては最高だね」

「じゃもの書きはやめて、チンドン屋になるんだね」

 そして浅香はしゃがれた声で笑い出した。

 

 病院は木造の二階建てになっていた。ヒマラヤ杉が前庭に生えていて、建物はかなり古びている。浅香が受付を通して、待合室でしばらく待たされた。どうして待たせられるのか、彼には判らない。

「ここは十年ほど前、産婦人科の病院だったそうだ」

 浅香は彼に小さな声で説明した。

「産科じゃはやらなくなったんで、身売りして神経科になったのだ。つまり映画がテレビに押されて斜陽産業になったようなもんだな」

 待合室には大型のテレビが置かれていたし、椅子も柔らかい。日射しもよく、明るかった。彼は椅子に腰をおろし、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。昔のことを考えていた。彼の子供の時の病院は、日当りが悪く、皮張りの長椅子はじめじめしているくせに堅かった。そして空気は薬くさかった。

(ミツ薬と言ってたな。うちの婆さんは)

 彼の祖母が死んで、三十年余り経つ。祖母の故郷では(ヅ)と(ズ)の発音を区別して使う。子供の彼にはその(ヅ)が(ツ)に聞える。蜜薬という風に聞える。蜜だから甘そうに思えるが、飲むとひどくにがかったり、渋かったりする。もう今では(ヅ)と(ズ)の区別はなくなっただろう。

(代診というのもいたな。今でもそれに当るものがいるだろうか)

 病院の待合室は、とかく昔のことを考えさせるのだ、と彼は思う。子供の時の通いつけの医者は、小柄で貧相な男であった。ところが代診の方はでっぷり肥って、貫禄が充分にあった。病気になって医者を呼ぶ。最初の日は医者がやって来る。人力車に乗ってうちに来る。病気が大したものでないと判ると、次の日から代診がてくてく歩いてやって、つまりその医院には、専属の人力車は一台しかないのだろう。診察をしている間、俥夫(しゃふ)は腰をおろして煙管(きせる)で刻み煙草を吸っている。あの俥夫は月給をいくらぐらい貰って、それでどんな生活をしていたのだろうか。そこでよその家の前に人力車が停っていると、ああここには病人がいるんだな、と直ぐに判った。その頃は神経科の病院はなかった。神経衰弱などは、転地や海水浴などでなおしていたようだ。それでもなおらなければ、たいてい彼等は自殺した。

「遅いな」

 彼は浅香にささやいた。

「ここじゃ見舞人を待たせるのか」

「そうだね。どうも変だ。ちょっと聞いて来よう」

 浅香は立ち上って、受付の方に行った。彼は眼を閉じて、うつらうつらしていた。待合室には十人ほどがテレビを見ている。ちゃんとした恰好(かっこう)をしているので、入院患者ではないだろう。皆黙りこくっている。眼をつむると、テレビの音だけが聞えて来る。どこかの舞台中継をしているらしく、気取った声のやりとりが続いている。そのやりとりはへんに空疎な感じがする。浅香が戻って来て、彼の肩をたたいた。

「来診患者と間違えられたんだよ」

 浅香はささやいた。

「なんてそそっかしい看護婦だろう」

「患者って、おれがかい?」

「おれか君か判らないが、二人連れで来たもんだから、患者と付添いだと思い込んだらしいんだ」

 彼はのろのろと立ち上った。

「病室は二階だそうだ」

 廊下を歩いて階段を登る。階段はゆるやかにつくってある。病人は転びやすいから、こんなになだらかにしてあるのだろう。登り切った廊下の両側に病室が並んでいる。病室の入口に、入院患者の名札がかかっている。

「ここだよ」

 名札を確めて、浅香は言った。彼はその扉を押した。病床が六つあって、そのいくつかの視線が、一斉に彼にそそがれた。どこだったか忘れたが、皆どこかで見た顔であった。たしかに見覚えのある顔が、各病床の上にあった。病室の中の空気は、たいへん密度が高かった。

「こんにちは」

 その密度の中に自分を押し込むように、彼は部屋に足を踏み入れようとしたが、足がもつれてしまって、うまく行かなかった。

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