生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(6) 五 死後の命 /第十九章 個體の死~了
五 死後の命
身體は死んでも魂だけは後に殘るとは昔から廣く信ぜられて居ることであるが、これなどもたゞ人間のみに就いて考へるのと、生物を悉く竝べ、人間もその中に加へて考へるのとでは、結論も大に違ふであらうと思はれるから、死の話の序にこゝに一言書き添へて置く。すべての生物種類を竝べた中へ、人間をも加へて全部を見渡すと、人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬するものなることは明であるから、身體を離れた魂なるものが人間にあるとすれば、猿にもあると考へねばならず、猿に魂があるとすれば、犬にもあると見倣さねばならず、かうして先から先へと比べて行くと、何類までは魂が有つて何類以下には魂がないか、到底その境を定めることが出來ぬ。假に下等の動物まで魂が有るとすれば、これらの動物が人間とはまるで違うた方法で子を産んだり死んだりするときに、魂はいつ身體に入り來りいつ身體から出で去るかと考へて見ると隨分面白い。「いそぎんちやく」が分裂して二疋になる場合には魂も分裂して二個となつて兩方へ傳はるか、それとも今まで宇宙に浮んで居む宿なしの魂が新に一方に入り來るか、もしさうならば、もとから居た魂と新に來た魂とは如何にして受持の體を定めるかなどと幾つでも謎が出で來る。また人間だけに就いて考へても、卵細胞の受精から桑實期、胃狀期を經て、身體各部が次第次第に發育し終つて成人になるまでを一目に見渡した積りになつて、いつ初めて魂が現れたかと尋ねると、やはり答に當惑する。身體から離れた個體の魂が永久に不滅であるとすれば、今日までに死んだ者の魂が皆どこかに存するわけで、その數はどの位あるか知れぬがそれらはいつ生じたものであるか。終を不滅と想像するならば、始も無限と想像して宜しからうが、假に始もなく終もなく永久に存在するものとすれば、それが身體に乘り移らぬ前には何をして居たか。世間でいふ魂はいつまでもその一時關係して居た肉體の死んだときの年齡で止まるやうで、五歳で死んだ孩兒の魂はいつまでも五歳の幼い狀態にあり、九十で死んだ老爺の魂はいつまでも九十の老耄した狀態にあるやうに思はれて居るが、これらの魂は肉體に宿る前には如何なる狀態にあつたかなどと尋ねると、まるで雲の如くで摑まへ所がない。かくの如く身體と離れて獨立に存在し得る個體の魂なるものがゐるとの考は、生物界のどこへ持つて行つても辻悽の合はぬことだらけであるから、虚心平氣に考へると所謂魂なるものがあるとは容易に信ぜられぬ。神經系の靈妙な働の一部を魂の働と名づけるならば、これは別であるが、身體が死んでも後に魂が殘るといふ如きは、實驗と觀察とによつて生物界を科學的に研究するに當つては全く問題にも上らぬことである。
[やぶちゃん注:「人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬する」再度、確認しよう。現行ではヒトは
動物界 真正後生動物亜界 新口動物上門 脊索動物門 脊椎動物亜門 四肢動物上綱 哺乳綱 真獣下綱 真主齧上目 真主獣大目 霊長目 真猿亜目 狭鼻下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト亜科 ヒト族 ヒト亜族 ヒト属 ヒト Homo sapiens Linnaeus, 1758
に分類される。「猩々類」(しやうじやうるい(しょうじょうるい)」とはオランウータンのことで、
オランウータンはヒト科オランウータン亜科オランウータン属ボルネオオランウータン(オランウータン)Pongo Pygmaeus 及びスマトラオランウータン Pongo abelii
中国語では本属は「猩猩屬」と現在も書く。ヒト科にはオランウータン亜科 Ponginae・ヒト亜科 Hominidaeの二亜科しかない(オランウータン科 Pongidae を別に立てる学説もある)。因みに、ヒト科には現生のゴリラ族ゴリラ属 Gorilla 及びヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属 Pan 、そして化石人類のアウストラロピテクス属
Australopithecus † やホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis †などが含まれる。この分類から考えると、現在ならヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属ボノボ(ピグミーチンパンジー) Pan paniscus や模式種であるチンパンジー(ナミチンパンジー)Pan
troglodytes とチンパンジー「類と同じ仲間に屬する」とする方がしっくりくる。
「桑實期」「第十四章 身體の始め(1)」の「一 卵の分裂」を参照。
「胃狀期」「第十四章 身體の始め(2) 二 胃狀の時期」を参照。リンク先の文章と挿絵から見て、現行の胞胚期(但し、桑実胚と胞胚期の区別は明確ではない)から原腸胚期及び原腸貫入から神経胚形成の前までを丘先生はかく呼称しているように読める。]
しかるに肉體が死んでも魂だけは生き殘といふ信仰が極めて廣く行はれて居るのはなぜかといふに、これには種々の原因があるが、一部分は確に感情に基づいて居る。その感情とは、自分が死んだ場合に肉體も精神もなくなつて全然消滅してしまふことを、何となく殘り惜しく物足らぬやうに思ふ感じであるが、これも熟考して見るならば魂などが殘つてくれぬ方を有り難く思ふ人も多からう。死んで魂が殘るのは自分と自分の愛する人とだけに限るならば實に結構であるが、嫌ひな人も憎い人も債權者も執達吏も死ねば、やはり魂の仲間入りをして來ることを考へると、寧ろ魂などを殘さずに綺麗に消えてなくなつた方が苦患が短く濟むことに心附かねばならぬ。魂といふ字は學者にいはせれば種々深い理窟もあらうが、通俗にいひ傳へ來つた魂なるものは、單に個人の性質が身體なしに殘つた如きもので、至つて幼稚な想像に過ぎず、男ならば死んでも男、女ならば死んでも女、酒呑みは死んだ後にも酒好きで、吃りは死んだ後にも吃り、實際草葉の蔭か位牌の後に隱れて居て、供へ物の香を嗅ぎ御經の聲を聞き得るものの如くに考へて居るのであるが、かやうな種類の死後の命はこれをあると信ずべき理由は少しもない。生物學上からいへば、子孫を遺すことが即ち死後に命を傳へることであつて、子孫が生き殘る見込みの附いた後に自分が死ねば、自分の命は已に子孫が保證して受け繼いでくれたこと故、自分は全く消え果てても少しも惜しくはない筈である。されば、子孫の生き殘ることを死後の命と考へ、死後も自己の種族の益々發展することを願うて、專ら種族のために有効に働き得るやうな優れた子孫を遺すことを常々心掛けたならば、これが何よりも功德の多いことであらうと思はれる。
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